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2022年11月30日水曜日

智頭杉「日本の家」,雑木林の世界04,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,198912

 智頭杉「日本の家」,雑木林の世界04,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,198912



2001年12月 臨戦態勢突入 瓢箪から駒 オール・カラー化へ:大豆インクの使用:『建築年報』廃止 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 200112

臨戦態勢突入

瓢箪から駒 オール・カラー化へ:大豆インクの使用:『建築年報』廃止

 

2001121

 11月末になって、猛烈な勢いでメールが飛び交いだした。いよいよ動き出すという実感がしてくる。まず第一に、原稿が陸続と入稿しだした。遅い!!!、けれど事務局の手が完全に12月号から離れないのだから催促もままならなかった。それが一気に集中する。それでもまだ、ぎりぎり執筆しない先生が身近にも居る。困ったものだ。こう見えても僕は原稿の締切りは守る方だ。忘れていない限り????

出来るだけ月の初めに届けたいのだけれど、この立ち上がりの号についてはいかんともしがたい。前倒しでどんどん発注しているから2月号、3月号と段々早く刊行できればいい、と思う。

 しかしそれにしても、1月号は全てが変わるから、編集事務局は大変である。決定すべき多くのことがある。メールで次々に決定事項が送られてくる。正直、瞬間的に判断するのみだ。大半は事務局の判断を信頼する。

表紙は変えなければいい、という意見もある。シンプルな白地の表紙がなつかしい、と自分でも思う。1月号は建築史関連特集ということで特集も決まっていたのではなかったか。

一方、二年に一度くらいリフレッシュするのも必要かなとも思う。

世相も世代も徐々に変わっていくのだから。少なくともレイアウトには工夫が欲しい。それに紙やインク、印刷技術が大きく変わるという問題がある。大豆インクを使うことは決定だ。環境にやさしい、というからであるが果たしてどうか。再生紙はどうか。一気に決めなければならない。

 大転換の時代だから建築学会の名称、そして建築雑誌の名称を変えようという意見がある。

議事録にあるように、具体的に、建築雑誌は国際化時代だからこの際JABSにしてはどうか、という提案があった。ジャブス、なんとなく音が悪い。議論したけれど、今更横文字にすればいい、という時代じゃない、という意見が大勢を占めた。無視はしないけれどJABSの扱いは鈴木一誌さんに一任することにした。表紙はまだ誰も見ていない。建築雑誌の名を変えるのは反対が多いのではないか。先輩の先生方に愛着が強い。とにかく建築雑誌のままで1500号を迎えたいと思う。

もちろん、問題は表紙や装丁や呼称ではなくて中身である。中身については執筆者に期待するより他はない。続々入る原稿にざっと眼を通す。担当の岩松さん、遠藤さんはフル回転である。読んで、難しい用語をチェックして、解説を書かないといけない。伊藤さんもよろしく。これは結構大変な作業である。担当編集委員は覚悟して欲しい。入校までかなりの時間がとられる。

 

2001122

学会賞作品賞の審査で上京、さらに北上して日帰り。坂本一成先生と色んなことを話せるのが楽しみ。今年の世界一周からすっかりデジカメ党に。フィルムはもう一生使わないのではないか。普通に写真に焼いても問題ないし、スライドにするのも楽だ。世界建築史という講義をもっていて、スライドをよく使うのであるが、むしろこれまで撮った何万枚ものスライドをスキャニングするのだけが大変である。原稿も写真をメールで送れるようになったから随分と楽である。

 

2001124

 宇治市都市計画審議会。これでも会長なのだ。議案は二件、生産緑地を宅地に転換する。宇治からどんどん茶畑が減っていく。委員の上野勝代先生(京都府立大学)が常々嘆かれるところだ。都市計画審議会が単なる形式的議決機関に堕しているのは実感するところ。一昨年四月の地方分権一括法案が通ってから多少の自由度も生まれたからなんとかしたい。規約を新たにつくって部会を設けることにしたのであるが、未だ動かない。案件は以外に意見が数多く出たけれど30分で終了。その他として部会設置を動議、岡田憲夫先生(京都大学防災研究所)を部会長に発足することを認めて頂く。色々アイデアはあるのだけれど、時間がかかる。

 座談会の原稿が入る。ややがっかり。臨場感が伝わらない。生のテープをチェックする暇がない。座談、対談は生に限ると言うことか。

 

2001129

 学会賞作品賞の審査。京都方面ということでいささか楽。地方委員は僕だけで、前回は気の毒がられたけれど、今日は別。京都の町をバスで走るとどこか違う街のように思えた。目線が高いせいか。

 休みであろうと相変わらずメールは飛び交っている。岩松、遠藤両委員が頼もしい。動いているのは14月号同時である。2月号、3月号はもう走り出して止まらない。2月号も原稿がそろったとか。問題は4月号で前回の編集委員会以後、ふらついている。伊香賀委員ひとりにロードがかかって大変だ。ひとつの大きな問題は、総合論文集で「地球環境」がテーマになることがほぼ前提とされており、テーマの調整が必要なのである。編集委員会以降、ラインナップが変わるのは大問題だけれど、変更事項については編集長が決断せざるを得ない。調整については、地球環境委員会の村上副委員長の時間を煩わすことになった。地球環境委員会には4月号の企画にはご不満もあるらしい。しかし、とにかくテーマはわかりやすく、である。京都議定書とは何か。京都議定書によって何が変わるのか。身近に何をすればいいのか。役所の公式見解だけでは面白くない、というのが編集委員会の空気である。編集委員会には編集権がある。同じスクール、同じ顔ぶれで閉じてもらっては困る。執筆にも緊張感は必要だ。 

 

20011211

 学会情報委員会10:00~ 理事会14:00~。早朝のぞみに乗り遅れ、次のひかりで滑り込み。満席で仕方なくグリーン席をとったけれど、名古屋から立っている人がいてびっくり。東京へ朝早く新幹線を使う人はまだまだいるのか。不景気でホテル代の節約なのか。

 まず情報委員会、理事会で問題となったのは、懸案の総合論文集である。その発行組織についていささか疑問があり質した。その後、若干の議論があったけれど総合論文集の発行そのものは本決まりになった。

来年の9 月号は「建築年報」特集となる。多少の頁数オーバーは、口頭だが、川田部長に認めて頂く。検討してみないと何が問題かわからないけれどなんとかなるだろう、・・・と思いきや、もう一つ難題が加わる。論文集委員会が論文のレビューを論文集に掲載することを断念、ついては建築雑誌で研究レビューを考えてくれ、という。1号だけでは研究レビューまではとても無理だろう、というのが直感である。それにしても建築年報、研究年報の時代があって、建築年報だけにしたのが20年前、作品選集、技術報告集が新たに出来て、ついに建築年報がなくなる。確実に何かが変わりつつある、と思う。

 建築雑誌の比重は確実に増しつつある。一年の建築界を総括し、研究動向も総括するのである。編集長冥利につきるではないか、とやけくそで思う(内心本音でもそう思う)。研究レビューは編集委員会マターで、断ってもいい、ということだけれど、論文のレビューの必要はかねてからの僕の主張でもある。さあ困った。編集委員会の議論に委ねるしかない。

 理事会で、京都景観特別研究会の中間報告に、岡崎、高田、門内先生出席。議題が盛りだくさんでうんざりのところにいささか長~い報告でやきもき。というのも、僕も研究会のメンバーなのだ。メンバーながら、提言が100項目を超えるのはどうかと思う。作業をサボっているから烏滸(おこ)がましいけれど、提言は、絶対出来る!、すぐやれること!、ここが最大のネックだ!、の3つぐらいがいいところではないか。また京都については最早提言より実践である。京都については京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動もあり、2003年ぐらいに建築雑誌でも採り上げられればいいと思う。長すぎる報告で理事の反発?がなければいいが、というのがヤキモキの理由。各支部ともそれぞれ同じような問題を抱えているのである。幸い好意的な発言が多かったように思う。それにしても、今日は京都大学の建築系教室の忘年会なのに、スタッフが4人も理事会に出席してサボっていいのかいな。

 竹下理事に、では明日、と言われる。

 理事会の後、小野寺さんと片寄せさんと入稿状況、打ち合わせ。

 

20011212

 九州大学大学院で住まいにとって豊かさとは何か・・・アジアの都市と居住モデル」と題して講演。「人間環境コロキウム」といって大学院生の自主運営で今年は「豊かさとは何か」がテーマだという。なかなかすてきな企画である。今のところ単位にはならないが、旅費宿泊費はきちんと出る。僕は二番バッターで、前回は東大の文化(観光)人類学の山下晋司先生。もともとスラウェシのトラジャ族の研究者で昔から知っている。パワーポイントにメニューを一杯持っていったけれど、時間が足りない。足りない分は懇親会でも続けた。学生たちは実にいい雰囲気だ。缶ビールがうまい。講義は相変わらず下手くそであるが、気持ちよくしゃべれた。菊地成朋先生と久しぶりに話す。委員の黒野さんとは兄弟分である。フィールド調査が手堅い。一応これでも僕は両先生の研究室の先輩なのだ。

 驚いたのは助手の池添昌幸さん。なんとこの編集長日誌を読んでいるという。さすがインターネット時代である。大方の眼に触れ出すのは来年からと思っていたから、なんとなくうれしい。しかし、隅々まで読まれていて鋭い質問も受けた。ゼミ室での懇親会を終えると、場所を移した。なんと、青木正夫大先生が待っていらっしゃるというのだ。大感激である。この大先生には昔から可愛がってもらっている。などというと怒られるが、生意気な口を聞いてもにこにこされているのに甘えっぱなしだ。吉武研究室の裏話については今夜も随分聞いた。そろそろ聞き書きを残しておく必要がある。

青木先生の事務所のメイが35周年?とかで、明日は神戸大学の重村力さんが対談に来るという。そういえば二人とも、段々数が少なくなる研究をベースとするプロフェッサー・アーキテクトだ。日刊建設工業新聞の特集だという。編集者は神子久忠さん。僕の処女作『戦後建築論ノート』の編集者でもある。それは残念!というと、もう一晩泊まれ、とおっしゃる。しかし、明日は東京で用事だ。ほんとに残念!であった。

話は盛り上がってどこまでも続いた。するとそこへ竹下先生からTEL。ACB(アシベ)で待っている、ということで、全員移動。奄美大島へ行って来たと言うことで、奄美のお酒を土産にもらう。竹下先生が猛烈に忙しいことは、研究室の積み重なった書類の山を見てよ~くわかった。僕と同い年なのに院長(学部長)でもあるのだ。明日に備えて、と珍しく青木先生が席を立たれても、しばらく宴は続いたのであった。なんと、このACBという店、吉武先生もゆかりの店なのであった。

 

20011213

 博多で眼を覚ますと、そのまま新幹線で東京へ。GA(Glass Architecture)の編集会議。京都に深夜戻る。新幹線で博多→東京→京都である。もちろん、こんなことは初めてだ。実は、飛行機は嫌いなのだ。帰ってメールを見ると特集の最後の原稿が入ったという。誰とは言わないけれど身近な先生だ。原稿はまあまあだからまあいいか。

 

20011216

 学会賞作品賞の審査で上京、日帰り。これで三回連続で日曜がつぶれる。作品賞の審査は楽しいけれど結構大変である。行き帰りの新幹線では、18日の英語の授業City in the 21st Century City Planning and Development The Cities and Housing Problems in Developing Countriesの準備。この一週間、さすがにいささか疲れる。

 実は、この間の最大の問題は、紙面の問題であった。きっかけは11月号だ。土木と建築のコラボレーションの特集は、建築学会、土木学会、全く同じ内容であった。それは画期的な試みなのだが、別な問題が明らかになった。同じ内容なのに、土木学会誌はカラーで読みやすい、という。

 読みやすい、というのは編集委員会でもテーマにし、検討中である。紙面で答えるしかない、というのが最初の反応である。

 しかし、問題は、何故土木学会誌はカラーが可能で、建築雑誌はカラーができないのか、ということになると手に負えない。カラーじゃないほうが学会誌らしくていいじゃないか、などと思う。しかしそうも言っておられないので、知り合いの印刷屋さんに二冊を示して、それぞれ見積もりをつくってもらった。編集長も色々やることがあるものだ。見積もりが出て、事務局に送った。

それからが事務局は大変であった。カラー化への検討メモが小野寺さんから送られてきたのが1129日だ。こちらでは判断のしようがない。週があけて、「首をかけてでもカラー化を断行する」と小野寺さんからメール。紙の質を考えて捻り出すという。えらいことになったと思うけれど後には引けないというのはよくわかる。首にならないことを祈るのみ。

 

20011220

 第6回編集会議、京都で開催。会場は秦家(油小路仏光寺通り下ル太子山町)。年に一度は京都でやりたいと思っていて実現。編集部にとってはかえって大変なのはわかっているけれど、たまには気分を変えたほうがいい。実際、会議も懇親会も話題は微妙に違ったように思う。場所には力がある、と思う。

秦家は京都市の登録文化財にも指定されている一級の京町家である。もともと薬屋さんでファサードのデザインが小気味いい。奇應丸という薬が看板だった奇應丸は、虚弱体質、ひきつけ、吐乳、夜泣き等に効があるとされる丸薬です。ジャコウ・ゴオウ・龍脳・オケラ・ニンジン・沈香の製剤です)。

町家を維持していくのが大変なのは隣に無粋なビルが立っているのでもよくわかる。生活しながら町家を維持するという覚悟の上に、数年前に秦めぐみさんはお母様と京料理のお店を始められた。京町家再生研究会のつてでそのことを知り、無謀を承知で教室(京都大学建築系教室)の忘年会をお願いしたことがあった。今考えても冷や汗が出る思いであるが40人近い参加があった。今回は20人ということだからなんとか、と思うのが厚かましいところ。さらに無理なお願いもしてしまった。出雲生まれの野蛮人は愛想をつかされても居直るあつかましさである。秦さんはやさしく、40人でもやれるという自信になりました、と皆さんの前ではおっしゃってくださったのだけれど、少人数で楽しむのが筋だ。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hata_ke/を見ていただきたい。

●現在の建物は、京焼け(「蛤御門の変」1864)と呼ばれた大火で焼失後明治2年に再建されたもので店舗・住居・土蔵を二つの庭がつなぐ「表屋造り」と呼ばれる典型的な京町家です。伝統的商家の趣をよく残しているとして昭和58年に店舗・玄関棟部分が京都市登録有形文化財に指定されました。

●「町家」と呼ばれる建物は商いの場として、またこれをとりまく人々の生活の場として永年の歳月を経て現代に姿をとどめています。ここで積み重ねられた暮らしは独自の生活文化を形づくってきました。ここでの暮らしぶりとは贅を尽くした雅やかなものではなく、むしろどこまでも簡素な日常です。正月・節分・節句・祇園祭・盆・彼岸と毎年季節と共にめぐってくる年中行事を変わることなく、変えることなく忠実に繰り返すことの意味の深さは歳月と共に住まうの者の心に積もっていきます。家を、物を、人を、慈しむことをこの家は教えてくれているようです。

四季折々の日誌も綴られている。

128日:十二月の始めになると八百屋はんに顔を出す山田大根。普通のオダイ(大根のこと)と違うて、太短こうて寸胴な形をしてるこのオダイを塩で漬けてオクモジを作る。お正月の祝い膳、お雑煮のあとの口元をすっきりとさせてくれる爽やかなお漬けもんや。4分の1の扇のかたち、厚みは1センチほどに切ってお鉢に盛るのやけど、辞書の解説にも「くもじ」茎から漬けた菜。と書かれてるように、茎も必ず刻んで添える。さっそく、塩で漬けて重石をかけた。「うまいこと漬かるとええな」て願うて、裏の一番寒いとこに樽を置く。ほんのりと淡い黄色に色づいて、口の中ではじけるみたいな歯切れの良さと、シンと舌を刺すような酸味に出来たら上々。我が家の季節の味覚のなかでもこれほどシンプルで、まるで生きてるみたいに刻一刻味の変化する繊細な食べもんはないように思う。なんて言うても樽から出したてが美味しい。寒いのも困り者やけど、オクモジのためにはキンと冷たい空気が大事。オクモジが上手いこと漬かって、新年が気持ちよう迎えられるとええなあ。

122日:おぶったん(仏壇); 座敷にある仏壇は、お光をあげるときにだけその扉を開ける。毎日は炊けたご飯をお供えする時、初物や珍しい頂き物も「そやそや、おぶったんにもあげとかな。」そう言うて扉を開ける。お坊さんの月参りの日は、朝からひとまわり大きなおざぶを置いて扉を開けてお参りを待つけど、終わるとささっと閉めてしまう。なんにも用のないのに、開けっぱなしにしとくことはない。子供の頃は、成績表、卒業証書、お誕生日のプレゼントまで、「ほれ、おぶったんへ持って行っといない」と、言われたもんやった。秋のお彼岸にはいると、我が家のおぶったんの真ん中に居ゃはる日蓮上人のおつむ(頭)に真綿帽子をかぶせるのやけど、あの頃はとにかくその姿が怖おうてしょうがなかった。「まんまんさんへお供えして、おがんでおいで。」と言われて薄暗い座敷へ一人で行く。おぶったんのなかから、ふわーと何が出てきそうに思うた。半分目をつむりながら扉を開けて、頂き物を供えるとチンチンと急いで鐘をたたいて手を合わせ、チョンとお辞儀をしたら、すっとんで居間へ戻った。戻る言うても、真横の部屋には家族の姿も声も聞こえてるのに、「なんや、そのおがみかたは!」て、よう言われた。祖父の好物やった「アチャラ漬け」がうまいこと漬かった。「そやそや、おぶったんにもあげてこう。」懐かしい人の顔が浮かぶようになったこの頃、おぶったんの前での振る舞いもいつのまにか板についてきたみたい。

 

この編集長日誌とえらい“品”の違いである。

 

ところで編集委員会は、5月号「古代世界」(仮)が主テーマである。そして6月号(「木質構造のデザイン」(仮))が議論の焦点となる筈であったが、担当委員の藤田さんが来られなかった。いささか困った。構造系ということで大崎幹事にまとめ役をお願いするが、やや畑違いという。思案のしどころだとおもったけれど、案ずるより生むが易し。黒野委員、山根委員から手が挙がった。意見を出し合って、藤田委員に伝えて頂くことにする。

5月号は淺川委員の独壇場だ。しかし、少しオムニバス過ぎはしないか、などとイチャモンつける。起源を問うことが今最先端であるようなそんなタイトルが欲しいと思う。しかし、早速動き出すということで淺川委員は大張り切りである。青井委員、勝山委員が名乗りをあげる。黒野委員にも続いて担当していただくことになった。田中琢先生のインタビューには是非僕も出席したい。インタビューは生に限る。

そして、問題となったのは建築年報特集である。

また、研究レビューである。

9月号で、20pオーバーぐらいで果たして何ができるのか?

結論は当然持ち越しとなった。

折角の京町家での会食を楽しもうと、そこそこに議論を切り上げたのが真相である。湯豆腐はわざわざ北野のお豆腐を買ってきていただいていた。何故か浅川先生だけは上機嫌で盛り上がっている。浅川先生も秦家は初めてなのだという。宴もたけなわの途中に小野田さんが駆けつけた。コンペの審査、ヒヤリングに山本理顕さんと一緒に出席したのだという。

 

懇親会の後は二次会である。松山さん、高島さん、新居さん、小野寺さんが泊まりだ。急遽北京出張が決まって帰らざるを得なくなった古谷先生もぎりぎりまで参加された。秦家→ピテカ→千萬樹→半分屋という暗号がこの日のスペシャル・コースであった。

 

20011227

文化庁の会議で上京。上京の友は、関黄野さんの『民族とは何か』(講談社新書)。関さんはなつかしい。尊敬する理論家だ。『プラトンと資本主義』『ハムレットの方へ』を興奮して読んだのを思い出す。豊橋に引っ越されたことを知る。

編集委員会終了直後から再びメール飛び交う。翌日大失態を演じたけれどそれは書かない。飛び交うメールは主として6月号をめぐっている。メール様々である。面白くなりそうだ。

前にも書いたけれどメールを使わないのは松山さんのみ。数日して松山さんから葉書を頂いた。京都での接待?の御礼であるが、その実1月号のゲラを見ての反応である。簡単に言うと、短い文章に、「はじめに」も「おわりに」も要らない、という指摘だ。確かにそう思う。限られた紙数だから、ストレートに書いて欲しい気がする。2頁だといささか物足りない気がしないでもない。

 

20011228

京都CDL忘年会。広原、高田、古阪、中林、松岡、岩崎、井上、山根の各先生(成安造形大学の磯野英生先生飛び入り参加)プラス運営委員会の出席で今年度総括。話題は大いに盛り上がる。京都をめぐって建築雑誌の特集いけるかもしれない。メールを覗くと、5月号のインタビュー、座談会のセットで大変だ。浅川先生、メールを飛ばしまくっている。

坂内徳明『女帝と道化のロシア もう一つの近代の道』

 坂内徳明(ばんない とくあき、1949年1月 - )、ロシア文学・文化研究者、一橋大学名誉教授。一橋大学社会学博士。

  • 著書
  • 『ロシア文化の基層』 日本エディタースクール出版部 1991.4
  • 『ルボーク  ロシアの民衆版画』 東洋書店 2006.2 (ユーラシア選書)
  • 翻訳
  • 神話学入門 ステブリン=カーメンスキイ 菅原邦城共訳 東海大学出版会 1980.12 (東海選書)
  • ロシアの木造建築 民家・付属小屋・橋・風車 A.B.オポローヴニコフ 井上書院 1986.3
  • ロシアの縁日 ペトルーシカがやってきた A.F.ネクルィローヴァ 平凡社 1986.7 (叢書演劇と見世物の文化史)
  • マザー・ロシア ロシア文化と女性神話 ジョアンナ・ハッブズ 青土社 2000.4


 昨年暮れ、坂内徳明先生に『女帝と道化のロシア もう一つの近代の道』(2021.10.17、私家本)を頂いた。同じ1949年生まれで、東洋大時代からの近所付き合い、一緒に研究会をしていたこともある。2015年に東京に戻ってきたら、いい時に戻ってきた、と、放送大学の面接授業を頼まれたのも坂内先生が放送大学東京多摩学習センター所長だったから。これまでも『ロシアの木造建築 民家・付属小屋・橋・風車』( A.B.オポローヴニコフ 井上書院 1986.3)も頂いたし、論文もそのつど頂いてきた。
 『女帝と道化のロシア もう一つの近代の道』は、年明けに一気に読んで、実に面白かった。主役となる女帝とは、ピョートル大帝(在位:1678 - 1725)亡き後、4代目に帝位を継いだアンナ・イオアンノブナ女帝(在位:1730~1740)である。読解の素材とされるのがルボークと呼ばれる風俗版画である。ルボークには道化が描かれるが、ロシア帝国の宮廷に、これほど道化たちが入り込んでいるとは知らなかった。道化の伝統と言えば、コメディア・デラルテを想いうかべるが、実際、イタリアからアンナの宮廷に入ったファルノスことペドリーロがいる。
 『女帝と道化のロシア もう一つの近代の道』を読んでつくづく思うのは、ロシアの建築史、都市史についてあまりに知らないことである。とりわけ、帝都ペテルブルグの建築群を設計したトレジーニ、ミケティ、キヤヴェリ、ラストレリ父子、リナルディ、そして、パラディオ他、イタリア建築との関係、『世界都市史事典』では、同級生でドイツ建築史の杉本俊多にサンクトペテルブルグについて書いてもらったのだけれど、シモン・ステヴィンらオランダ都市計画の影響があるという。オランダの建築家がイタリアの建築家に影響を受けたことははっきりしており、オランダの建築家たちは、黄金の世紀(17世紀)が過ぎると北欧に向かう。
 アジアのウエスタン・インパクトについては関心をもってきたけれど、ヨーロッパにおける中心と周縁についてあまりに無知なのである。とりあえず、ヨーロッパ建築史でロシア建築がどう書かれてきたのかを知りたいのである。そのために、本書はもっと読まれる必要がある。




 『女帝と道化のロシア もう一つの近代の道』は、一枚の木版画を読み解くことから語りだされる(序  一枚の木版画)。この木版画がルボークである。17世紀半ば以降にロシアに誕生した風俗版画の一種という。最後の「余禄 道化と鬼とー近代に向き合う-」で、江戸時代に広くした庶民画である大津絵と比較されるが、江戸時代の瓦版、役者絵、浮世絵と比較するのは乱暴に過ぎるだろうか。 20世紀初頭まで、銅版画、リトグラフと印刷技術の発達とともに技法は変化しながら持続したルボークは、ロシア社会の重要なメディアであった。新聞であり、風俗画であり、法令伝達、啓蒙、プロパガンダの手段であり、ロシア文化を担う重要なメディアであった(①)文化史、民族誌の分野では膨大な収集、編纂作業が行われている、らしい。坂内が焦点を当てるのは、木版画に描かれた「道化」である。
 全体は、序と余滴の間の七つの論考から成るが、「一 ≪怒涛≫の後ーピョートル大帝なきロシアとアンナ女帝-」で、帝政ロシア(1721~1917)第4代の女帝アンナの治世(1730~40)に焦点を当てる背景と狙いが明らかにされる。
 そして、「二 赤鼻道化、参上ー《戯け》の時代」において、序の一枚のルボークに描かれた《赤鼻のファルノス》こと、イタリア人宮廷道化ペデリーロと思しきが登場する。大道芸人(スコモローフ)、放浪芸人と言えば、コメディア・デラルテが思い浮かぶ。16世紀中頃にイタリア北部で生まれ、その後18世紀にかけてヨーロッパ各地で流行したというが、帝政ロシアの宮廷にもイタリアの道化師は及んでいたのである。ピョートルの西欧諸国へのグレート・ジャーニー(1697~98)が関係するかと思ったけれど、ピョートルはイタリアには行っていないという。しかし、サンクトペテルブルクの建設、その都市計画にイタリア人建築家が参加していたことを考えると、ロシアとイタリアの関係が気になる。ピョートル以前にモスクワ公国時代に既にイタリアとの関係はあり、クレムリン内の建築にイタリア人建築家が招かれているという。坂内は、ここで、ロシアにおける大道芸人(スコモローフ)の起源を遡るが、ピョートルの時代にその歴史は形成され、あんなに引き継がれたらしい。そして、イタリア喜劇を代表するアルレキーノはロシアでも早くから道化師の代名詞として広く知られていたらしい。
 そして、「三 芸は身を助くー或るイタリア人楽師のメタモルフォーゼ」において、ペドリーロの素性が詮索される。当時、ロシアには常設の劇場がなかったから、そと都度、移動舞台が設営されたという。その昔、黒テントの安田講堂前のテント興行に関わったころ、劇場史に夢中になったことを思い出す。そのころ読んだのが山口昌男の『道化の民族学』(1975)であり、F.イエイツの『世界劇場』(1978)である。請われるままに「実験劇場と観客への回路,イタリア式の閉ざされた箱とエンプティスペース」(芸術倶楽部,フィルムアート社,197309(布野修司建築論集収録))「劇場あるいは劇的場なるものをめぐって」(建築文化,彰国社,197810)「地球座の謎,F.A. イエーツ世界劇場に関するノート」(現代思想,青土社,197811(布野修司建築論集収録)といった原稿を書いた。
 パラディオ(1508~80)のテアトロオリンピコが1580年、シェイクピア(1564~1616)のグローブ座が1614年である。ロシアではこれらに1世紀以上遅れるわけであるが、イタリアからの芸人たちの宿舎として「冬の館」が建てられたのは1733年らしいが、宮廷の舞台はどのような空間で、最初の劇場はいつ建てられたのか?実に興味深いのが、アンナ女帝の末年に、ネヴァ川氷上に氷で建てられた《氷の館》《氷の宮殿》《氷の家》と呼ばれる「劇場」で新婚カップルの一夜の光景をマスカラード(仮装行列)の一行が見学するという奇妙な祭りである。マスカラードの伝統もピョートル大帝時代に遡るという。この氷の「に劇場」における出来事は、「六 《氷の館》ーロシア式結婚協奏曲」で詳述される。《氷の館》の立面図と平面図も示されるが。通常の建築の図面で、とても氷の建築には見えない。三つの部屋が並ぶが、これはいったいどういう空間なのか謎と興味は深まる。
 ペドリーロのロシア滞在は10年足らずであったが、その記憶は様々に後世に伝わる。「四 宮廷道化、都市伝説となるー笑噺のコスモス-」は、フォークロアの中に、そしてルボークに中に、道化の世界が渉猟される。そして、「五 道化の妻たちー仲人婆と「悪妻」-」では、道化をとりまく男女、夫婦関係、女性に焦点を当てて、道化の世界が掘り下げられる。
そして、最後の「七 皇帝とフォークロア-語り部の女たちに囲まれて」で、アンナ女帝に焦点を当ててテーマが締めくくられる。
 タイトルに直截に示されるテーマについて、安直に反芻することは控えるが、帝政ロシア初期のサンクトぺテルスブルグの空間、建築群について、ロシアの近代化について考えてみたい。とりわけ《氷の館》について知りたい。近代的な諸施設のロシアにおける原初の形態とはどのようなものであったのか。
 
 ①これを知るにはまず『ルボーク  ロシアの民衆版画』を読む必要がある。その上で、印刷術の歴史(グーテンベルグ革命(1545))を整理したい。木版印刷の起源は、紀元前の中国に遡るというが、ルボークの起源は?その製造、工房、販売など生産流通過程についてはわかっている、筈。
 ②ロシアにおける最初の常設劇場とは?
 ③氷の宮殿について、さらに詳細がしりたい。
 
 

 

2022年11月29日火曜日

涸沼合宿SSF,雑木林の世界26,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199110

 涸沼合宿SSF,雑木林の世界26,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199110

雑木林の世界26

涸沼合宿SSF 

                        布野修司

 

 八月二三日から二四日にかけて、茨城県の涸沼(ひぬま)へSSF(サイトスペシャルズ・フォーラム)の合宿のために出かけた。涸沼といっても知らない人も多いのかもしれないが、水戸から大洗鹿島線で四つめの駅が涸沼だ。電車で二〇分程、車で三〇分程であろうか。茨城町、旭村、大洗町にまたがる小さな湖である。大洗海岸へ通じでて太平洋へ至る。真水と塩水が混じり合い、蜆(しじみ)が採れる。川の幸と海の幸を嗜める絶好の地だ。

 涸沼へは二度目であった。最初訪れた時から親近感がある。同じように真水と海水が混じり合う、宍道湖と中海をつなぐ大橋川のほとりで育ったからである。大橋川というのは、時に右から左に流れ、時に左から右に流れる世にも不思議な川なのだが、大橋川は知らなくても宍道湖はご存じであろう。七珍味、中でも蜆は有名な筈だ。宍道湖の淡水化反対の理由のひとつは蜆が採れなくなるというものであった。関東へ送られる幼蜆というか種蜆の大半は宍道湖のものである。涸沼は宍道湖よりもちろん小規模なのだが、なんとなく雰囲気が似てもいるのだ。

 さて、SSFの涸沼合宿の目的とは何か。「職人大学」、「SSA(サイト・スペシャルズ・アカデミー)」の構想を煮つめようというのである。内田祥哉理事長以下、総参加人数二八名*1の大合宿となった。大合宿というのは人数だけではない。現地視察の後、夕食をはさんで前後四時間に及ぶ大議論は、真に合宿の名に値するものであった。

 藤澤好一SSFアカデミーセンター長によって用意された、当面の検討内容は以下のようであった。

 

 ①名称と形態 サイト・スペシャルズ・アカデミー(仮)

  当面は制約のない業界自前の機関として、自由で新しい育成方針を確立する。将来展望のある魅力的でユニークなものとする。「職人大学」という「大学」名に拘る必要はないのではないか。近い将来大学そのものの機能が危ぶまれる。

 ②設立運営主体

  設立運営の主体となる組織、SSA教育振興財団(仮)の検討。設立のための調査、交渉、調整、手続きなどを担当する設立準備委員会を早急に設立する。

 ③用地の確保

  適切な設置場所の選定。用地の確保。最低二万平方㍍は必要か。用地確保の時期、資金、財団への委譲手順の検討。

 ④施設配置計画

  教育研修施設、SSネットワークセンター、実習施設、研究開発施設、宿泊施設、リクリエーション施設等の検討

 ⑤研修課程と年限 入学定員と募集方法

  例えば、以下のような構成案についての検討。

  初期課程(高卒 二年課程)   一〇〇名

  専攻課程(実務五年 一年課程)  五〇名

  特別課程(実務十年 一年課程)  二五名

 ⑥学科

  例えば、以下のような二学科で開校してはどうか。

  a専門技術学科・伝統技能学科

  bサイトマネジメント学科

 ⑦修了者の処遇、資格

  公的な資格取得より、業界内で資格を設定し、価値あるものとしていく方向を検討する。

 ⑧ネットワークの構築

  国内外の関連施設(例えば、筑波研究学園都市)との提携、大学、研究機関との交流、教育スタッフ、学生の交換、既往の養成機関との連携などの検討。

 

 多岐にわたる検討内容を大まかに整理すれば、「職人大学」の内容をどうするか、用地をどう考えるか、財源をどうするか、という三つのテーマとなる。いずれも大きな課題である。前半部の司会を務めさせられたのであるが、いきなり問題となったのは、財源の問題であった。

 財源の問題がはっきりしないと全ては絵に描いた餅である。いきなり、財源の問題に議論が集中したのは参加者の真剣さを示していよう。職人の養成、結構、職人の社会的地位の向上、大賛成、しかし、お金は出せない、出したくない、というのがこの業界の常なのである。

 一体幾らかかるのか。内容とも関係するのであるが、みんなプロである。およそ検討はつく。プロが自力建設でやれば、相当安くつく筈だ。建設の過程を実習にすればいい、集まった資金でやれる範囲で施設をつくっていけばいいのではないか、等々色々なアイディアも出て来る。

 資金について議論の焦点となるのは、本当に自前で資金を用意できるかどうかということである。また一方で、サブコンだけでなく、ゼネコンにも協力を求めるべきではないか、結局ゼネコンにとっても重要な課題なのだから、という意見もでる。SSFは、主旨に賛同するあらゆる人や組織に開かれたフォーラムであるから、もちろんゼネコン(に限らずあらゆる機関)を排除しようということはもとよりないのであるが、やはりゼネコンの手を借りなきゃ、という意見と、どうせなら自前でやろうという意見が交差するのである。

 また、広く賛助金を募るためには、建設省など、公的機関のお墨付きが欲しいという意見がある。建設省が支援すれば、ゼネコンもお金が出しやすいし、沢山基金も集まるのではないか、という意見である。それに対しては、お墨付けをもらうといろんな制約が出て来るのではないか、という意見もある。

 内容についても、一方で、初期養成を中心にすべきだという意見と、もっと高度な機関にしたい、という意見がある。これについては、初期養成も無視しないけれど、全国の養成教育機関の拠点になるような高度な内容としたいということでまとまりつつあるところだ。問題は、そうした実力をSSFがもてるかどうかである。

 用地については、様々な意見がでた。さすがプロ集団である。引続き調査検討することになった。懇親会で深夜まで続いた議論で、最初期のイメージが出てきたように思う。早速、計画書の作成にかからなければならない。一一月初旬には、SSFのメンバーで、ドイツのマイスター制度を視察にいく。その旅行において、設立趣意書がまとめられることになっている。

 

 

*1 主要な参加理事は次の通り。小野辰雄(日綜産業、副理事長)、田中文男(真木 運営委員長)、斉藤充(皆栄建設)、入月一好(入月建設)、藤田利憲(藤田工務店)、曽根原徹三(ソネコー)、青木利光(金子架設工業)、黒沼等(越智建材)、上田隆(山崎建設)、富田重勝(内田工務店)、今井義雄(鈴木工務店)、深沢秀義(西和工務店)、伊藤弘(椿井組)、辰巳裕史(日刊建設工業新聞社)、田尻裕彦(彰国社)、安藤正雄、藤澤好一、布野修司





2022年11月28日月曜日

第一回インタ-ユニヴァ-シティ-・サマ-スク-ル,雑木林の世界25,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199109

 第一回インタ-ユニヴァ-シティ-・サマ-スク-ル,雑木林の世界25,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199109

雑木林の世界25

 飛騨高山木匠塾

 第一回インターユニヴァーシティー・サマースクール

                         布野修司

 

 飛騨高山木匠塾の第一回「インターユニヴァーシティー・サマースクール」(芝浦工業大学藤沢研究室、千葉大学安藤研究室、東洋大学太田・布野・浦江研究室を主体とする)を無事終えた(七月二三日~二九日)。参加人数は約六〇名。心地よい疲れが残っている。次のプログラムへ向けて、様々な思いが頭の中を駆け巡る。とりあえず、思いつくまま振り返ってみよう。およそのプログラムは以下のようであった。

 

●視察・見学

 ○植生論(中川護久々野営林署次長、上河同所長)

 名古屋営林支局管内の自然条件、飛騨の森林と林業、木の使い方などについて説明を受けながら、金山谷で桧の切り出しの現場をみる。リモコン・チェインソーとチェインソーによる伐採比較。ゆうに全日プログラムであるが、今回は半日。

  ○家具製作工程(於、飛騨産業)

  飛騨家具の特徴などの説明の後、曲げ木の製作工程見学。約一時間のプログラム。

 ○高山市内見学。

  屋台会館見学。吉島邸、日下部邸見学。伝統的建造物地区見学。二時間プログラム。これまた今回は時間不足であった。最低一日欲しい。

 

●演習・実習(安藤、藤澤、布野)

  ○木匠塾(岐阜県大野郡高根村阿多野郷久々野営林署野麦峠製品事業所)の整備(掃除に、布団干し)

  ○足場組立演習

  開校式の舞台設営を兼ねる。日総産業のスリー・エス・システム。SSF協賛のプログラムである。木匠塾に鋼管足場は似合わないのだが、早い。二時間で組立て終わる。来年は、足場丸太の演習か。足場解体演習も。

 ○高山祭り屋台 模型製作(10分の1)

  昼ごろ開始、深夜完成。

 ○ブリッジ・プロジェクト

  木匠塾の二棟をつなぐ、丸木橋の建設。番線緊結実習となる。

 ○ウオーターフォール・プロジェクト

  水道およびクーリング・プール(冷蔵池)の建設。

 

●講義

 ○木造建築技術者養成プログラム

  安藤正雄

  藤澤好一

  布野修司

 ○合同ゼミ(安藤、藤澤、布野)。ロシアン・ルーレット・ゼミ。木匠塾の改造計画についてフリーディスカッション。

 ○特別講義

 上河 潔(久々野営林署署長)「日本の森林と林業」

 足立秀夫(飛騨産業副社長)  「飛騨産業と飛騨高山」

 川尻又秀(高山屋台保存会) 「高山祭りと屋台」

 垣内忠佳(飛騨高山匠の家) 「産直住宅・飛騨高山匠の家」

 桜野功一郎(高山市文化課) 「高山の民家と町並み」

  小野辰雄(日綜産業)        「建築家とは」

 

 かなりのハードスケジュールであった。第二回からは、もう少しのんびりしていいと思う。午前中、一講義、午後、実習あるいはフリータイム、夜、一講義、ぐらいでいいのではないか。ファックス、コピー、ビデオ(テレビは、NHKしか入らない)があれば、自由時間にそれぞれ好きな仕事をする、そんな余裕が欲しかった。一回目ということで、少し入れ込み過ぎたきらいがある。フィールドでの植生論や高山の町並み視察は、ゆうに一日プログラムである。涼しい中で一夏過ごす、だんだん、そんなプログラムになっていくのかもしれない。そうなると、一年分ぐらいの大学のカリキュラムもこなせる筈だ。サマースクールも連合自由大学の色彩を帯びて来る。

 カリキュラムの内容については、今年数本のビデオのストックができたし、年々豊富化していくことは間違い無い。世界中の木造文化についてのビデオライブラリーが遠からずできるに違いない。

 実習については、教材は無限である。生活環境の整備でも沢山のプログラムができる。裏の山の木を間伐し、切り開きながら、必要な施設を造っていけばいい。トイレ用のバイオ・タンクとか、ソーラーバスとか、来年すぐ必要な施設もある。作業場とか、教場もつくる必要がある。宿舎棟の改造、建て替えも、日程にのぼる筈である。

 屋台の建設が時を刻む。今年は十分の一の模型だけど、来年は五分の一の模型である。それと原寸で部分をつくる。新しいメカニックを考案して、新たにデザインする。十年後にできれば立派なものだ。屋台保存会の川尻さんによれば、高山の屋台は二百年の年月をかけてつくられたのであり、一朝一夕にできるわけはないのである。屋台は生きている。番外で、高山祭りで曵かしてもらえる事態が起こるかもしれない。

 生活環境についての学生の反応が興味深かった。最初の日、布団を干したのであるが、シーツを持参しなかったこともあって、いやいやの態度がみえみえであった。それに汲み取り式便所が駄目である。さらに、蛾とか大きな蟻とか、虫が駄目である。生理的についていけない。日程の終わりには、慣れるのであるが、大自然の中で暮らすことだけでも意味があるのである。

 一週間寝泊まりして、費用はアルコール抜きでひとり一万五千円程度である。かなりの安上がりではないか。自炊をすれば、費用はもっと安くなる。困るのは、風呂である。近くの民宿の風呂と露天風呂を使わせてもらったのであるが、それでも車で二十分かかる。木匠塾に風呂はあるのであるが、いかにも狭い。来年はなんとかする必要がある。食事も工夫する必要があるかもしれない。

 第一回のインターユニヴァーシティー・サマースクールは、無事に終わった。しかし、これからが大変である。冬場の雪下ろしなど、維持管理の問題がある。端的に言って、費用がかかる。今回、木匠塾を使えるようにするのに百万円程度の費用がかかったのであるが、なんとか捻りださなければならない。

 まあなるようになるだろうと、楽天的なのであるが、いずれ、しっかりした基金を用意する必要がある。この場を勝手に借りて、読者の皆様の絶大なる支援をお願いしたい。また、来年以降、インターユニヴァーシティー・サマースクールには、さらに多くの大学の参加をお願いしたい。来年からは、八月の第一土曜日を最終日とする一週間程度の開校予定である。八月の第一土曜日には、毎年、木匠塾のある高根村で、「日本一かがり火祭り」が開かれるのである。

(第一回インターユニヴァーシティー・サマースクールの報告書、ヴィデオ(総集編 45分)は、布野もしくは藤澤までお問い合わせ下さい。)  

 

 七月二三日 一時半 現地飛騨高山木匠塾(岐阜県大野郡高根村阿多野郷久々野営林署野麦峠製品事業所)集合。午後いっぱい、木匠塾の整備(掃除に、布団干し)。夜、野麦峠の「お助け小屋」にて、前夜祭。

 七月二四日 午前 フィールド視察。植生論(中川護久々野営林署次長、上河同所長)、名古屋営林支局管内の自然条件、飛騨の森林と林業、木の使い方などについて説明を受けながら、金山谷で桧の切り出しの現場をみる。午後、開校式の舞台設営を兼ねて、足場組立演習。日総産業のスリー・エス・システム。SSF協賛のプログラムである。木匠塾に鋼管足場は似合わないのだが、早い。二時間で組立て終わる。来年は、足場丸太の演習か。午後三時より、開塾式並びに開校式、高根村、久々野営林署、ひだ高山・匠の家共同組合、高山屋台保存会、森林たくみ魁塾など、沢山の来賓の祝辞をうける。懇親会は、学生主体のパーフォーマンンス大会。大人が割り込んで大いに盛り上がる。

 七月二五日 午前、足場解体、後片付け。午後、大学対抗親睦野球大会。第一回は東洋大学の優勝。夕飯後、合同ゼミ。ロシアン・ルーレット・ゼミと呼ばれる。その後、木匠塾の改造計画についてフリーディスカッション。

 七月二六日 午前、飛騨産業にて家具製作工程視察。屋台会館見学。吉島邸、日下部邸見学。午後、レクチャー、夕食を夾んで四時限、各一時間半。

 上河 潔(久々野営林署署長)「日本の森林と林業」

 足立秀夫(飛騨産業副社長)  「飛騨産業と飛騨高山」

 川尻又秀(高山屋台保存会) 「高山祭りと屋台」

 垣内忠佳(飛騨高山匠の家) 「産直住宅・飛騨高山匠の家」

 七月二七日 午前 スライド・レクチャー。

 桜野功一郎(高山市文化課) 「高山の民家と町並み」

 午後、実習。

  a 高山祭り屋台 模型製作(10分の1) 深夜完成

  b ブリッジ・プロジェクト 木匠塾の二棟をつなぐ、丸木    橋の建設。番線緊結実習

    c ウオーターフォール・プロジェクト 水道およびクーリ    ング・プール(冷蔵池)の建設。

  夕刻より、AF(建築フォーラム)主宰パーテイー

 七月二八日 自由研修(高山見学 ます釣り等)。夕刻、フェアウエル・パーティー

 七月二九日 清掃、後片付け。十時すぎ解散。

 

 


2022年11月27日日曜日

「木の文化研究センタ-」構想,雑木林の世界24,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199108

 「木の文化研究センタ-」構想,雑木林の世界24,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199108

雑木林の世界24 「木の文化研究センター」構想

                                  布野修司

 

 「地域職人学校」(雑木林の世界12 本誌 一九九〇年八月号)で紹介した地域における建設技能者養成のプログラムが徐々に動きだしている。来年四月にはとりあえず私塾としてスペシャリストの募集を始めることになった。仮称ではあるが「茨城ハウジングアカデミー」という。スタッフ、カリキュラム、施設などをめぐって組織固めが急ピッチで進められていく。

 飛騨高山木匠塾(仮称)の第一回「インターユニヴァーシティー・サマースクール」も近づいてきた。七月二三日から三〇日まで一週間の予定である。カリキュラムは、前半は学生向け、後半は実務者むけに組んだ。なにせ、初めてである。水道、ガス、トイレなど施設整備が大変だ。ハプニング続出の予感がある。乞うご期待である。

 SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)は、創刊号を出した(六月一日付)。まだ、字が多い。どうも頭でっかちである。現場で回し読みされるのが夢である。SSFは、いま、一一月二七日の一周年記念事業をめぐって楽しい議論が続いている。「職人大学」の用地も検討がつきつつある。一周年記念事業のひとつとして「職人賛歌」のポスターを募集中である(一〇月末締切)。奮って応募して欲しい。問い合わせはSSF事務局(電話 〇四七二ー九六ー二七〇一)である。

 SSFでは現場をまわることが多くなった。取材で職人さんたちサイトスペシャリストの声を聞いて回っている。現場で学んだことはSSFニュースや『施工』誌上で紹介して行きたいと思うのであるが、まずは「大文」さんこと田中文雄棟梁(SSF運営委員長)を軸に一冊の本をまとめれればと思いはじめたところである。

 AF(建築フォーラム)も体制固めが進む。先々月号で予告した「深化する建築」シリーズのフォーラムの他、『建築思潮』の発行体制もできた。一一月には「出雲建築展」を開催する。自分でも信じられないぐらいの忙しさである。自分で自分を忙しくする。悪い癖である。

 

 忙しさに忙殺される中、もうひとつの構想の相談をもちかけられつつある。京都大学の西川幸治先生の「木の文化研究センター」構想である。当「日本住宅木材技術センター」あるいは「木造建築研究フォーラム」などと連携して考えたいとのこと。以下に紹介しよう。検討いただければと思う。その構想は「新・京都策」(中央公論 一九九一年五月号)の一環として提案されたものでもある。

 

 「木造建築の技術がおかれている現況を自覚し、積極的な対策を構じなければならない時に来ているようだ。

 木の文化の伝統は、大工技術にとどまらない。その体系的保存を心がけなければならない。

 木の文化の再生をめざし、その伝統技術の再評価と、継承・発展をはかるための木の文化研究センター構想を提言したい。

 この研究センターは研究部門・研修部門・伝統建材バンクの三部門からなる。研究部門では、比較住居論を通じて、風土に根ざした住居への確固とした基礎をつくり、アジア各地の技術者との交流をはかる。同時に、現代的観点から、閉鎖的になりがちな木造の伝統技術の体系化をはかり、現代の建築技術との交流、風土環境にふさわしい建築の創造をめざす。

 研修部門では、木の技術に関心をもつ人びとのために、その技術の研修をはかる。建築科の学生には、日本の伝統である木造建築をもって体験せしめ、各大学での学習と連繋させて新しい建築学の創造に寄与する。市民の研修は重大である。余暇時間の増大とともに木の文化、木の技術への関心はたかまっている。そこで「日曜大工から数寄屋大工まで」をモットーに、多様な木造技術の研修の場を用意する。また、現在活躍中の大工や建築家にも、再研修の機会を用意し、技術の深化をはかる。昨年の木造文化財保存国際研究集会に於ても、また現在日本の技術者が協力してすすめているモンゴルのラマ寺院、アマルバヤスガランの修復計画でも、日本の木造技術への関心、研修の希望がつよかった。アジアの木造建築技術者の研修と交流の場ともしたい。

 最後に、伝統建材バンクは、現在数多くの木造建造物が新しい建築に更新されている。建材は廃材として処理され、その処理法がむずかしい問題をひきおこしているが、かつて建材はくり返し再利用され、新しい建造物のなかに再生されてきた。このことは、伝統的建築の解体修理のさいの調査であきらかにされている。そこで、貴重な伝統建材(瓦・柱・梁・壁土・建具など)を登録し、保存して、適宜再活用をはかることにしたい。」(西川幸治 「木の文化を見直す」より)

 

 研究部門は、比較住居論、アジア木造技術者の交流、伝統的木造技術の体系化、伝統的技術と現代技術の交流などをその内容とする。研修部門は、建築学科学生、市民、大工・建築家など様々な層の研修をカヴァーする。飛騨高山木匠塾の構想とその研修部門の構想はオーヴァーラップしそうである。また、茨城ハウジングアカデミーで考えてきたことの応用もできそうである。

 「木の文化研究センター」は、石の文化と石造技術の研修をめざすローマ・センターにたいして、アジア地域の木の文化と木造技術の研修センターをめざすというグローバルな視点がある。ユネスコの関連施設する案、京都に拠点を置く案など、具体化へむけて模索が開始されたところである。

 

 SSFで「職人大学」構想を打ち上げた直後、すぐさま、二つの反応があった。ひとつは、陸前高田、気仙沼から、「職人大学」を誘致したいというもの、ひとつは出雲市から、「国際技能者研修センター」の構想があるというインフォーメーションである。いま、各地で様々な技能者養成のプログラムが進行中である。飛騨高山にしても、もともと「木の大学」構想があったし、秋田でも短大をつくろうという動きがあると聞く。

 各地で多様な試みがなされていいと思う。既成の枠組みのなかではそうそううまくいかないこともはっきりし始めている。また、他力本願でも駄目である。しかし、一方、ネットワークの要になるような拠点が必要とされつつあるのかもしれない。SSFの「職人大学」は、野丁場のスペシャリストの拠点を目指しているといっていい。一方、町場の拠点、「木造文化」の要もあってもいいかもしれない。「木の文化研究センター」構想は、そのスケールにおいて魅力的な構想である。

 





 


2022年11月25日金曜日

「飛騨高山木匠塾」構想,雑木林の世界23,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199107

 「飛騨高山木匠塾」構想,雑木林の世界23,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199107

雑木林の世界23

 飛騨高山木匠塾(仮)構想

                        布野修司

 

 今年の一月末、ある秘かで微かな夢を抱いて、飛騨の高山へ向かった。藤澤好一、安藤正雄の両先生と僕の三人だ。新幹線で名古屋へ、高山線に乗り換えて、高山のひとつ手前の久々野で降りた。道中、例によって賑やかである。ささやかな夢をめぐって期待と懐疑が相半ばする議論が続いた。

 久々野駅で出迎えてくれたのは、上河(久々野営林署)、桜野(高山市)の両氏。飛騨は厳しい寒さの真只中にあった。暖冬の東京からでいささか虚をつかれたのであるが、高山は今年は例年にない大雪だった。久々野の営林署でその概要を聞く。久々野営林署は八〇周年を迎えたばかりであった。上河さんに頂いた、久々野営林署八〇周年記念誌『くぐの 地域と共にあゆんで』(編集 久々野営林署 高山市西之一色町三ー七四七ー三)を読むとその八〇年の歴史をうかがうことができる。また、未来へむけての課題をうかがうことができる。「飛騨の匠はよみがえるか」、「森林の正しい取り扱い方の確立を」、「木を上手に使って緑の再生を」、「久々野営林署の未来を語る」といった記事がそうだ。

 木の文化、森の文化を如何に維持再生するのか。一月の高山行は、大きくはそうした課題に結びつく筈の、ひとつのプログラムを検討するためであった。もったいぶる必要はない。ストレートにはこうだ。上河さんから、使わなくなった製品事業所を払い下げるから、セミナーハウスとして買わないか、どうせなら「木」のことを学ぶ場所になるといいんだけど、という話が藤澤先生にあった。昨年来、しばらく、その情報は、生産組織研究会(今年から10大学に膨れあがった)の酒の肴となった。金額は、七〇〇万円、一五〇坪。いくつかの大学か集まれば、無理な数字ではない。とにかく行ってみてこよう、というのが一月末の高山行だったのである。

 雪の道は遠かった。寒かった。長靴にはきかえて、登山のような雪中行軍であった。中途で道路が工事中だったのである。野麦峠に近い、抜群のロケーションにその山小屋はあった。印象はそう悪くない。当りを真っ白な雪が覆い隠している中でひときわ輝いているように見えた。

 それから、三ケ月、どう具体化するか、折りにふれて議論してきた。しかし、素人の悲しさ、議論してもなかなか具体的な方策が浮かばない。そのうちに、とにかく、わが「日本住宅木材技術センター」の下川理事長に話しをしてみろ、ということになった。頼みの藤澤、安藤の両先生は、ユーゴでの国際会議で出張中。塾長をお願いすることになっている東洋大学の太田邦夫先生と以下の趣旨文を携えて下川理事長にお会いすることになった。

 「主旨はわかります。しかし、どうして大学で「木」のことを教えることができないんですか」

 いきなりのメガトン級の質問に、太田先生と二人でしどろもどろに答える。

 「五億円集めて下さい。維持費が問題なんです。」

 絶句である。七〇〇万円のつもりが五億円である。言われてみれば当然のことである。どうも、いいかげんなのが玉に傷である。あとのことは、払い下げてもらってから考えればいい、なんて気楽に考えていたのだ。プログラムは、立派なつもりなのだけど、どうにもお金のことには弱いし縁もない。

 その後、建設省と農水省にも太田先生と行くことになった。生まれて初めての陳情である。しかし、陳情だろうと思いながら何を頼んでいいのかわからないのだから随分頼りない。

 しかし、乗りかかった船というか、言い出してしまったプログラムである。とにかく、賛同者を募ろう、というので、五月の連休あけに山小屋をまた見に行こうということになった。新緑の状況もみてみたかったのである。

 メンバーは、当初、太田邦夫、古川修(工学院大学)、大野勝彦(大野建築アトリエ)の各先生と藤澤、布野の五人の予定であったのだが、望外に、下川理事長が忙しいスケジュールを開けて下さった。全建連の吉沢建さんがエスコート役である。総勢七人+上河、桜野の九人。大いに構想は盛り上がることとなった。冬には行けなかったのであるが、新緑の野麦峠はさわやかであった。 さて、(仮称)飛騨高山木匠塾のプログラムはどう進んで行くのか。その都度報告することになろう。以下に、その構想の藤澤メモを記す。ご意見をお寄せ頂ければと思う。

 

飛騨高山木匠塾構想

設立の趣旨:わが国の山林と樹木の維持保全と利用のあり方を学ぶ塾を設立する。生産と消費のシステムがバランス良くつりあい、更新のサイクルが持続されることによって山林の環境をはじめ、地域の生活・経済・文化に豊かさをもたらすシステムの再構築を目指す。

設立の場所:岐阜県久々野営林署内・旧野麦製品事業所ならびに同従業員寄宿舎(この建物は、昭和四六年に新築された木造二棟で床面積約四八三㎡。林野合理化事業のため平成元年末に閉鎖され、再利用計画が検討されている。利用目的が適切であれば、借地権つき建物価格七〇〇万円程度で払い下げられる可能性がある)

設立よびかけ人: メンバーが建物購入基金を集めるとともに運営に参加する。また、塾は、しかるべき公的団体(日本住宅・木材技術センターなど)へ移管し、管理を委譲する。

学習の方法: 設立に参加した研究者・ゼミ学生と飛騨地域の工業高校生が棟梁をはじめ実務家から木に関するざまざまな知識と技能を学ぶ。基本的には参加希望者に対してオープンであり、海外との交流も深める。

 ここでの学習成果は、象徴的な建造物の設計・政策活動に反映させ、長期間にわたり継続させる。例えば、営林署管内の樹木の提供を受け、それの極限の用美として「高山祭り」の屋台を参考に、新しい時代の屋台の設計・製作活動を行うことも考えられる。製作に参加した塾生たちが集い、製作中の屋台曳行を行うなど毎年の定例的な行事とすることも考えられる。また、地元・高根村との協力関係による「施設管理業務委託」やさまざまな「地域おこし」も可能である。

開校予定:

 平成3年7月23日から芝浦工業大学藤澤研究室/東洋大学布野・浦江・太田研究室/千葉大学安藤研究室のゼミ合宿をもって開始する。