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2024年10月1日火曜日

「軽く」なっていく建築に未来はあるか,居酒屋ジャーナル3,建築ジャーナル,200609

 「軽く」なっていく建築に未来はあるか

 

21世紀の建築は、薄く軽くなっていく。かつてポストモダニズムが強調した個性の表出ではなく、実体感のない建築を打ち出す建築家がもてはやされいる。そんな時代に、建築家が本当につくるべきものは何かを、関西在住の建築家と識者4人が、批評精神旺盛に語る。

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――今、建築家の仕事は減少しています。そんな中でも、建築家が手がけていくべき建築はあるのでしょうか。

 

「バラック」に糧がある

 

布野 1970年代のオイルショック後も不景気は大変でで、若い建築家には現在のように住宅設計の仕事ぐらいしかなかった。私が編集長ということになった『群居』では、住宅が中心だった。今でも建築家はもっと本気で住宅に取り組むべきだと思う。

永田 布野さんの場合は、建築家が実際に設計して分かるところを、設計前に、その建築の位置付けなり評価が読めてしまう。だからつくらず、批評活動しているのとちがうかな。

布野 住宅5棟ぐらい手がけたし、やる気はなくはなかったけど、俺よりあいつの方がうまい、というのが分かっちゃうんだよね。

永田 布野さんの若い頃の著作の中で、「家はウサギ小屋でいいじゃないか」と批評していた。ウサギ小屋の中に、未来の建築の可能性を打ち出すものがあるんやと。そして誰よりも先駆けてアジア建築に興味を持ってきちんと論じたことに、私は惹かれるわけ。

布野 何故か、廃墟とバラックに惹かれる。

永田 私も昔からそうです。大阪・

西成のドヤ街を電車で通りかかるとき、すごくいいのよ。バラックのような建物に屋根が1枚しゅっと降り、その下に花がきれいに植えてある。そういう混沌とした世界の中に、私たち建築家がイメージしてものをつくっていく上での糧がある。こういう方向で建築家が考えないから、東京の汐溜から品川に建つような、きれいなだけでつまらないビル群が出来ていく。いくらカーテンウォールのプロポーションを上手く収めても、力のある建築にならない。

 私らは、布野さんが論じる言葉の中のものを、日々、一生懸命図面に描いて形にしようとしている。

――布野さんは、理想とする住まいなり、都市のイメージがあるわけですか。

布野 はっきりあったら、建築家になってますよ。建築をつくるというのは、基本的に暴力ですよ。下手すると、地球を傷つけて、粗大ゴミをつくるのと同じですよ。

 建築の道に進んだ当初から、そのプレッシャーを感じていました。私は東大の吉武泰水先生の研究室に入りましが、入ったときの問題が東大闘争の発火点になった東大医学部の北病棟問題です。吉武先生がツー・フロア一看護単位というシステムを提案したんです。一階にひとつづナースステーションを設けるのが普通だったけど、二回にひとつでいい、という提案。そのとき看護婦さんたちが「労働強化だ」って怒った。合理的な設計として提案したんだけど、・・・吉武先生は、それを真剣に悩んで、自分のプランを全部説明して、一回生の私に「何か提案はあるか」と訊ねられた。先入観のない意見を求めたのでしょう。えらい先生だと思いました。

松隈 布野さんや永田さんの世代は、歴史の証人ですから。1970年安保のときに原広司がどうしたとか、個々の建築家の考えや動きを、若い人に向けてしゃべってほしいですよ。

 

社会性から外れたポストモダン

 

――建築家の力は弱くなってきて、今後どう生きるべきかを問いなおすべき、というのは前回、横内さんが問題提起されました。建築を志したときは、やはり希望を持っていたわけでしょう。

横内 私たちの世代は、松隈さんも同じですが、学園紛争も収まった1970年前半に大学に入学しました。だから先輩より、素直に建築を学ぺた気がします。ポストモダニズムがブームの頃で、刺激的な小住宅、都市住宅がつくり始められた。特にアメリカの建築が華々しくて、学生の私はそれに憧れました。卒業後、アメリカに留学しましたが、その地の先端的なポストモダニズムの建築を見てがっかりしたんです。ロバート・ベンチュリーやチャールズ・ムーアにしても、張りぼてみたいで、これは建築ではないと実感しました。帰国して日本のポストモダニズム建築を見ても、同様に表層的でした。モダニズムが持っていた普遍性や客観性が、ポストモダンの時代になって急に個人的な言語になり、社会から外れていったように思えたのです。そこで信用できる建築家は前川國男しかいないと事務所の門を叩き、5年間勤務しました。

 その後、たまたま妻の実家がある京都の京都芸術短期大学に講師として赴任したとき、あろうことかポストモダニストの権化のような渡辺豊和が上司になった。関西はすごいところだと思いました。安藤忠雄もそうですが、彼らの作家意識は強く、尋常じゃない。そのスピリットは永田さんにもありますよ。

永田 そうかな。

――上司と部下の目指すものが違ったわけですよね。

横内 教育の場でしたから、問題ありませんでした。それより社会の流れが組織的なところに向かう中で、渡辺さんの自分を貫く生き方には学ぶことが多かったですよ。「作家」の覚悟をひしひしと感じました。

永田 関西には作家がわずかしかいないからね。

横内 わずかしかいない人がすごい。

布野 その点、東京は東京芸術大学にしても人材を出していますよ。関西ももっとがんばらないと。横内さんも大学で自分の2世を育ててほしい。松隈さんにも言いたい。前川國男の展覧会が全国巡回し、巨匠の仕事を世の中に再認識させた功績は素晴らしい。しかし、これからは松隈自身のオリジナリティを出した仕事に期待したい。

 

「軽く」に向かう建築に疑問

 

――建築家として、つくりたいもの、つくるべきだと思うものはありますか。

横内 それは分かりませんが、言葉で表現できないからつくっています。私たちの世代は、ポストモダンに対する嫌悪感があります。そこでモダニズムを見直したのはいいが、、ネオモダンのようなものがスタイルだけで出てきている。一方で作家性を否定する。例えば隈研吾の「負ける建築」とか、作家性を否定することで逆に作家性を打ち出すところがある。だから、建築がどんどんと薄く軽く、実体あるものから単なる情報になっていくところに収斂しているような気がします。

布野 アンチポストモダンがネオモダニズムという流れになっている。私に言わせると「バラック」ですよ。山本理顕の仕事は、評価していますが、きれいな「バラック」ですね。伊東豊雄さんは、もう少し、先端を走りたい。

横内 伊東豊雄の建築はそれでも実体感があります。せんだいメディアテークだってやはりごつい。

布野 彼は、身について、ごついのは嫌いですよ。。しかし、建築と成立させるために、ごつさも許容する歳になった。。妹島和世、西沢立衛になると、ピュアにピュアに軽く軽くしようとしてきた。

横内 あの世代はつくる規模が小さいというのもある。

布野 昨年、伊東豊雄とは一緒に飲みました。若き日の彼と、あまり印象は変わらなかった。彼は今65歳で、自在に仕事をしている。安藤忠雄はもとより分かりやすく、「緑が大事」「水が大事」と一般受けが巧みだが、その路線は飽きられるか、スタンダードになるしかない。その点、伊東豊雄はがんばってると思う。コンピューター技術を駆使し、表現の最先端を追求している。制度的に勝負しているのは山本理顕だと思う。私の立場と近いところにいる。そういうことと一切関係なくエコロジー派で仕事をしているのは藤森照信。今、私が日本の建築家で一目置くのは、伊東豊雄、山本理顕、藤森照信の3人ぐらいです(次号に続く)。

 

<顔写真>

布野修司

永田祐三

松隈洋

横内敏人

 

<プロフィール>

ふの・しゅうじ|滋賀県立大学環境学科教授。1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など

 

ながた・ゆうぞう|永田北野建築研究所代表。1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)

 

まつくま・ひろし|京都工芸繊維大学助教授。1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など

 

よこうち・としひと|横内敏人建築設計事務所代表。1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。前川國男建築事務所勤務後、1991年横内敏人建築設計事務所設立。三方町縄文博物館設計競技1

 

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