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2021年3月26日金曜日

現代建築家批評12 「建築」の永久革命   伊東豊雄の建築手法

 現代建築家批評12 『建築ジャーナル』200812月号

現代建築家批評12 メディアの中の建築家たち


 「建築」の永久革命 

 伊東豊雄の建築手法

 

建築論というとやたら哲学用語を弄び、晦渋や韜晦を決め込むむきがあるが、建築にとって言語は極めて重要であり、多ジャンルにおける新たな概念が新たな空間、新たな建築を触発することは大いにある。伊東にとっても、言葉は重要である。ただ、文章は、具体的な作品に即してわかりやすい。自らの作品[i]についても、その都度真摯に考えたことが表明されていて、その建築手法を読み解く大きな手がかりを与えてくれている。「透層」といった造語も含めて、キーワードとされる言葉は、感覚的、詩的、文学的と言えるかもしれない。

伊東豊雄の目指す方向ははっきりしている。「閉じられた空間をどうやって物理的にも精神的にも開いていくか」[ii]が伊東の一貫するテーマである。また、「風の建築」「変様体」「流動体」「曖昧な境界」「形態の溶融」・・・といったキーワードも既に見てきたところである。

伊東豊雄は、実に器用な、繊細な建築家である。竣工したばかりの「中央林間の家」(1979年)を見に行って、全て面(ツラ)で収めるディテールへの拘りに感心したことを思い出す。伊東豊雄には、また、一貫して家具への拘りがあり、自らデザインもする[iii]。論集の中にも、大橋晃朗、倉俣史朗といった家具デザイナー、インテリア・デザイナーについての批評が多く収められている。そして、日の目は見なかったものの日産の手作り的な小型車「バイク・カー」のデザインを頼まれたりしている。

伊東豊雄はミリ単位のデザイン感覚を生まれながら持っている。コンセプチャリズム(概念建築)、フォルマリズム(形態主義)と呼ばれる建築が、図面や写真では「格好いい」ものの、しばしばディテールを欠いて訪れたものをがっかりさせるようなことは伊東の建築にはない。もっとも、「ディテールなんて関係ない」とひたすら新たな空間を追い求める渡辺豊和のような建築家もいるから、建築は面白い。

 

 閉じつつ開く

多くの若い建築家がそうであるように、デビューは住宅であり、「ホテルD」(1974-77)「PMTビル」名古屋(1976-78)福岡(1979)などを挟むが、最初の公共建築「八代市立博物館」(1988-91)までは、伊東豊雄の主要な仕事は住宅であった。しかし、その住宅作品に必ずしも一貫するものはない。「アルミの家」(1970-71)→「中野本町の家」(1975-76)→「シルバーハット」(1982-84)と、その作品は揺れ動いている。

自らのスタイルを探し当てるまでは試行錯誤は多くの建築家にとって当然であるが、安藤忠雄がすぐさまその方向を見出して、以降一貫してコンクリートの幾何学を追求してきたことに比べると、いかにもフラフラしている。アルミという素材にこだわるのでもなく、石井和紘のように次から次へと新規な手法や形を繰り出すわけでもない。既に見たように、初期の伊東豊雄は実にナイーブに「文脈」を求め続けた。そして、変転する都市(東京)のリアリティが自らの依拠する文脈であることをはっきりと意識するに至る。

都市と住宅の関係をどう考えるかは、建築家にとって共通のテーマである。安藤も伊東も、住宅の設計に当たって当然真摯に考えた。伊東はURBOT-002のベッドカプセルを単体として独立させたURBOT-003を銀座の歩行者天国に点々と建ち並ぶモンタージュをつくっている。安藤忠雄も「都市ゲリラ住宅」を夢見ていた。全く同じ時期につくられたふたつの住宅「住吉の長屋」と「中野本町の家」は、最初の現実的な都市への解答であった。古今東西、都市的集住のための住居形式の基本はコートハウス(中庭式住宅)であるという意味では共通していたけれど、空間の質においては対比的であった。「中野本町の家」は、その内部空間の質において、これまでの日本の住宅にない全く新たな可能性を示していたと思う[iv]。問題は「中庭」であり、内部と外部の関係であった。坪庭に自然をそのまま取り込んだ「住吉の長屋」との違いは明らかである。これは、規模の違い、東京と大阪の違い、といった都市の文脈の問題を超えて、伊東のトラウマとなった。

伊東は、次のように書いている。

「それ程にこの空間は私自身にとっての砦であり、破壊すべき攻撃目標であった。この家は安藤忠雄の<住吉の長屋>とほぼ同時期につくられたのだが、彼がこのスターティング・ポイントとしての砦を防御し洗練し続けることに、この十年間粉骨を砕いてきたのを見るにつけ、建築家の生き方の違いをまざまざと感じる」[v]

当時、若い建築家を先導(扇動)していたのは、原広司の「最後の砦としての住宅設計」[vi]「住居に都市を埋蔵する」[vii]というアジテーションであり、方法意識である。60年代末以降から70年代初頭にかけての過程は、60年代初頭に一斉に都市づいていった建築家たちが次第に都市からの撤退を迫られていく過程であった。都市への幻想が打ち砕かれることによって、建築家は「建築」へ回帰し始める。そして、「最後の砦」と考えられたのが住宅という小宇宙であった。しかし、問題は、閉鎖的な小宇宙に閉じこもることでは明らかになかった。伊東豊雄は、はっきりそれを意識している。如何に「閉じつつ開く」[viii]か、こそが問題であった。

 

 ドミノとチューブ

一方に、一斉に都市づいていった建築家たちを尻目に「住宅は芸術である」と言い切っていた篠原一男とそのスクールの存在があった。伊東が篠原とそのスクールに大きく惹かれていったことは上述の通りである。しかし、伊東は結局「住宅」を「開いていく」方向を選び取る。

振り返って見ると、「中野本町の家」を脱却して「シルバーハット」へ向かう伊東の方向性は明らかであるが、当時、「小金井の家」(1979)「中央林間の家」(1979)「笠間の家」(1980-81)と「中野本町の家」を超えていく試行錯誤が続いていると見えていた。そして、住宅を開いていく手がかりとして、最初に提示されるのが、ドミノ「Dom-ino」住宅(1981年)であった。

コルビュジェが提起した、床スラブを柱で支え、四周の壁を自由にする構法システム「ドミノ」は、石造、煉瓦造を基本としてきたヨーロッパにおいて、画期的な建築システムとして評価されてきたが、何故、伊東豊雄が日本において「ドミノ」なのか、必ずしもわからない。伊東豊雄によると、1980年代初頭、事務所では「毎週一回<住む>ことの意味をめぐってディスカッションが持たれていた」。「小金井の家」をベースにして標準的な都市住宅のモデルをつくってみたかったから」だという。

「中野本町の家」と「ドミノ住宅」は、対極的に見える。プロトタイプとその解体という伊東豊雄にとっての根幹に触れるテーマを、住宅について、ここに既に見ることが出来る。

「世に流通している商品化住宅や建売り住宅のプランにもあらためて目を向けざるを得なかったし、キッチン廻りの作り方、収納のあり方、冷房の考え方についても根底から再検討を迫られた」[ix]

当時、僕は、大野勝彦、石山修武、渡辺豊和と一緒にHPU(ハウジング計画ユニオン)というささやかな組織を立ち上げ、「住宅設計という小宇宙」を打破すべく動き出していた。そのためのメディアとして『群居』創刊準備号を出したのが19822月である。ほとんど伊東と『群居』同人は問題意識を共有していたと思う。中心にいたのは、石山修武である。『群居』とは別に、「アデルの会」というのがあって、「モダン・デザインが最もアクティブな展開を示した二〇年代のパリを舞台に、デザイナー志望の架空の少女アデルを設定し、彼女の遺した日記とそれに添えられたスケッチが発見される。それを現代に生きる五人の建築家が新しい解釈を加えながらデザインを起こして、できるならインテリアや家具として実現してしまおう」と企てていた。五人とは、伊東、石山の他、六角鬼丈、長谷川逸子、山本理顕である。

全体システムの構築か、オープン部品システムをベースとした個の表現か、『群居』の一貫するテーマであった。「セキスイハイム」というユニット住宅の設計者、大野勝彦は地域住宅工房に向かい、石山修武は、コルゲート・パイプの一連の住宅(幻庵、開拓者の家)から一種の産直住宅DD(ダイレクト・ディーリング)システムを展開しながらまちづくりに向かった。それぞれの帰趨は興味深い。

伊東豊雄が「せんだいメディアテーク」で採用したのは、「新しいドミノ・システム」[x]なのである。もちろん、ただのドミノではない。垂直方向を支えるのは捩れたチューブである。

考えてみると「中野本町の家」の空間はチューブである。そして「台中メトロポリタン・オペラハウス」では全面的にチューブがテーマとなっているようにみえる。チューブという空間は伊東の空間意識の深層にある。それを示すのが、「子どもたちに伝えたい家」つぉいて描かれた『みちの家』[xi]である。

 

 パンチングメタル:ライトストラクチュアを目指して

 「ドミノ」というわかりやすいシステムを別にすると、伊東豊雄は、新たな構造システムや建築生産施工の新たなシステムを提案するタイプの建築家ではない。ましてや、アクロバティックな構造を弄ぶタイプでもない。「大館樹海ドーム」(1993-97)のように、構造システムが全体を大きく支配する建築もなくはないが、あくまでもプログラムの中から形が産み出される。「空間」の有り様が先であって、建築はその次である。

「状態だけあって形態を持たない」建築の始原、建築が立ち上がる瞬間を原点とする限りにおいて、常に「新しさ」は伊東のもとにある。自在な発想とそれをフィジカルな建築として成立させる道具としてコンピューターが使えること、これは伊東の世代の前後で決定的である。伊東の最初の事務所は「アーバンロボットURBOT」であり、月尾嘉男とともに、コンピューターの可能性は出発点における前提である。

「中野本町の家」の後、鉄筋コンクリート(RC)造は安藤忠雄に委せたというばかりに、伊東は、「ライトストラクチュア」=「いかに軽快なフレームをスチールを用いて用意し、そのあいだに薄く透明感のある素材のスクリーンを取り付けて空間を区切っていくか」という方向をはっきり目指すことになる。

「住宅スケールではRC造の場合、ほとんど壁構造となる。ストラクチュアのデザインが同時に外部を覆ってしまうことになる。一方スチール・ストラクチュアの場合にはフレームがヴォリュームを規定するから、そのあいだを別の素材で埋めることになる。当然ディテールは複雑で多様になる。」しかし、伊東は「スチールに取り組み始めた途端に、その難しさとおもしろさに取り憑かれてしまった」のである。

風や光を通すアルミ・パンチングメタル、エキスパンドメタル、テント幕、ガラス、・・・透明、半透明、メタリックな平面材が伊東が集中して用いる素材である。

スチール構造かRC造か、物質の存在感か抽象性か、自然材料か工業材料か、建築家はここで大きく二分される。既に書いたが(連載09)、藤森照信は、伊東の建築を「ヒラヒラスカスカ」の建築と揶揄してきた。また、日本の建築界を、ル・コルビュジェを祖とし物の実在性を求める「赤」派とミースを祖とし、抽象性を求める「白」派に分け、伊東をその旗手と見なしてきた。しかし、伊東豊雄は「せんだいメディアテーク」以降、21世紀に入って、さらに自在な展開を見せ始めつつある。

 

 エマージング・グリッド

 藤森ならずとも驚かされたのが「ぐりんぐりん(アイランドシティ中央公園中核施設)」(2005年)である。伊東豊雄は、光と風について語っても、「環境建築」やエコロジーを主題にすることはなかった。まして、これまで「町に緑を!」などとは言わなかった。屋上や壁に緑を這わすのも「らしく」ない。しかし、柱が一本もない建築、地面と屋上が連なった建築、要するにやってみたかったのだ。「未だ見たことのない建築」は藤森もまた目指すところである。

そして、「トッズ表参道展」(2004年)「MIKIMOTO Ginza2」(2006年)にしても「さすが!」と思う一方、こういうコマーシャルなエンターテイメントは伊東には似合わないのではと思ってしまう。もっとも表面性に執着したPMTビルへの先祖返りなのか、とも思う。

かと思うと、「松本市民芸術館」(2004年)「コニャックジェイ」(2006年)のような大家然としたオースドックスな建築を当然のようにこなす。少なくとも、何かを突き詰めようとする張りつめたようなものが消えた。「なんでもあり」という雰囲気である。

今のところ伊東豊雄の勢いは留まるところを知らないかのようだ。舞台は台湾である。そして、「エマージング・グリッド[生成するグリッド]」という概念が武器である。「均質空間」の根底的批判こそがついにターゲットとされるのである。そして構造デザインの世界が伊東を支えつつある。

この6月(2008年)、日本建築学会建築計画委員会の行事[xii]で台湾を訪れた。今、台湾では3つのプロジェクトが進行中である。その内のひとつは台湾大学社会学院で、台湾建築界の重鎮、理論家の夏鑄九台湾大学教授(建築與城郷研究所)は「ついに台湾大学の構内にまで外国人建築家に進入された」などと言っていた。他の二つは「高雄スタジアム」と「台中メトロポリタン・オペラハウス」である。いずれも油が乗りきった感があるが、中でも注目を集めるのが「台中メトロポリタン・オペラハウス」である。東大建築学科出身の楊さんが現地パートナーを務め、京大布野研出身の張瑞娟さんがその下で協働している縁でじっくり話を聞いたが、竣工までなかなか大変そうである。

しかし、新しい空間をリアライズすることこそ伊東豊雄が目指そうとしていることである。10年ほど前、「いつか外側のない建築をつくることができたら、と思う」[xiii]などと書いていたが、「台中メトロポリタン・オペラハウス」で実現しつつあるのは、内と外がゆるやかに一体化したようなかつてみたことのない空間である。

 

 新しい空間のリアル

「そうそう新しいものはでてこないよ。ずっと考えに考えて来たから疲れるよ。」

 京都大学の竹山聖研究室の展覧会(2005年)で久々に会って飲んだ時、ぽつりともらした伊東の言葉が耳に残っている。「もうつくりたいものをつくるよ」「まだまだ若い者には負けないよ」というようにも聞こえた。

 建築家が歳を重ねると色気が出てくると言われる。理論的な拘りや積み重ねてきた作品の系譜を離れて、実はやりたかったことが本能的に表現されるようになるのである。既に伊東はその境地に達しているのかもしれない。

「グローバル・スタンダード等という言葉が横行しているけれども、土地に根付いた言語や慣習、あるいは文化的営みは一世紀やそこらで容易に変わるものではないだろう」[xiv]と伊東は書くけれど、伊東の建築には土地の臭いがしない。それは、伊東が依拠する都市・東京が土地の臭いを失ってしまった、それをそのまま反映しているのだと言える。「頼るべき田舎も自然もないことも知ってしまった建築家」が伊東豊雄である。

伊東豊雄が地域や自然に依拠することはおそらくないであろう。新しい空間を追い続けることが自らに課した宿命である。

しかし、建築を自然のシステムに近づけるエマージング・グリッドとは一体何なのか。テクノロジーが実現する複雑で豊かな秩序もまた伊東にとって超えるべきものであることも明らかではないか。「疲れた」という気分もわからないではない。

「建築は残らないけど、人は残る」というのも気になる。「僕にとって建築はつくるプロセスに大きな意味があるのです。どれだけの人が関わり、どのような議論をしたかということがとても重要です。人間が育っていくのと同じように、建築をつくること自体が建築を育てるということかもしれませんね。さらに、建築は完成した後も、使う人によって育てられ、つくられていく。そういうプロセスを大事にしたいのです。」。これも本音だろうけれど伊東らしくない。最後まで「新しい空間のリアル」を求めて一線を走り続けて欲しい。

しかし、ここで思い出すのが伊東の演歌である。伊東は、もしかすると帰るべき場所を求め続けているのではないか、という疑念も沸いてくるのである。



[i] 伊東豊雄主要作品

1976 - 中野本町の家東京都)… 現存せず

1978 - PMTビル愛知県

1979 - PMTビル2福岡県

1984 - シルバーハット(東京都)

1986 - 風の塔神奈川県

1989 - 浅草橋Iビル(東京都)

1990 - アントワープ市再開発計画(ベルギー・アントワープ)中目黒Tビル(東京都)

1991 - 八代市立博物館「未来の森ミュージアム」(熊本県くまもとアートポリス参加施設) 南青山Fビル(東京都)ギャラリー8(熊本県)

1992 - 上海市再開発計画(中華人民共和国HOTEL P北海道

1993 - 下諏訪町立諏訪湖博物館長野県松山ITM本社ビル愛媛県

1994 - 長岡リリックホール新潟県養護老人ホーム八代市立保寿寮(熊本県くまもとアートポリス参加施設)

1995 - 八代広域行政事務組合消防本部庁舎(熊本県くまもとアートポリス参加施設)

1997 - 大館樹海パークドーム秋田県横浜市立東永谷地区センター・地域ケアプラザ(神奈川県)

1998 - 大田区休養村とうぶ(長野県)野津原町役場大分県

1999 - 大社文化プレイス島根県

2000 - せんだいメディアテーク仙台市ハノーバー万博テーマパークヘルスフューチュア館ドイツハノーバー

2001 - 大分アグリカルチャーパーク(大分県)

2002 - ブルージュパビリオン(ベルギー・ブルージュサーペンタイン・ギャラリー・パビリオンイギリスロンドン

2004 - まつもと市民芸術館(長野県) トッズ表参道(東京都)

2005 - ミキモト銀座2(東京都)

2006 - 瞑想の森 各務原市営斎場(岐阜県 Vivo Cityシンガポール

2007 - 多摩美術大学図書館(東京都)

[ii] 『風の変様体』p.90

[iii] 「東京遊牧少女の家具」(1986)。家具シリーズ:「フーフー・カタイ・キョロ」(1986-1988

[iv] 実は、この連載の伊東豊雄論の3回を書き上げた後、白井晟一の虚白庵で開かれた小さな会(「原爆堂と日本の戦後」「虚白庵にてー白井晟一を語るー」虚白庵、815日)で伊東豊雄に会った。突然の出席でびっくりしたが、「虚白庵」の暗闇を実際見てみたかったのだという。そして、「中野本町の家」の時に虚白庵を参照しながら何度もスケッチを描いたのだという。

[v] 『風の変様体』p.90

[ix] 『風の変様体』p.271

[x] 「新しいドミノシステムとしての「」せんだいメディアテーク」『公共建築』19997月号

[xi] インデックス・コミュニケーションズ、2005

[xii] 春季学術研究会「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」(668日)。台湾大学・建築與城郷研究所+芸術史研究所主催国際シンポジウム「日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)」(台湾大学総合図書館B1国際会議庁、65日)。

[xiii] 「私空間」『朝日新聞』199791-4

[xiv] 『透層する建築』p.45

2021年3月25日木曜日

現代建築家批評11  風の変様体・透層する建築  伊東豊雄の建築論

 現代建築家批評11 『建築ジャーナル』200811月号

現代建築家批評11 メディアの中の建築家たち


風の変様体・透層する建築

伊東豊雄の建築論

 

伊東豊雄は実に多才である。安藤忠雄と違って、自らかなりの文章を書く[i]。多くは求められるままにであろうが、名コラムニストとして知られる山本夏彦が主宰していた『室内』に時評を何度か依頼されていることをみても、その批評家としてのセンス、エッセイストとしてのセンスは相当のものである。そして、実に幅が広い。

僕の二冊目の本で処女評論集『スラムとウサギ小屋』(青弓社、1985年)についての書評「突き抜ける明るさ」[ii]を『風の変様体』(青土社、1989年)に収録してくれている。そして、「アジアのスラム」に惹かれていった僕の関心をものの見事に見抜いている。興味深いことに、もし「日本以外の土地で暮らすとしたら、一にバンコク、二にバルセロナ、三、四にメキシコシティかブエノスアイレス、もしアメリカでと訊ねられればサンフランシスコ」と書いている[iii]。欧米に囚われないこのグローバルなスタンスも伊東豊雄の感性のしなやかさを示している。

建築論としての本格的な論文は少なく、建築家論や作品批評に自らの建築論を忍び込ませるスタイルを採る。そして、常に建築的、社会的状況の流れを見定めながら、自らと自らの作品の位置を見定め測定する構えが特徴的と言える。そして、建築家として当たり前のことだけれど、設計という行為そのものを問い続けることから問題を立てるのが一貫する姿勢である。

伊東は、処女作「アルミの家」を発表するに際して、「設計行為とは歪められてゆく自己の思考過程を追跡する作業にほかならない」[iv]という長いタイトルの文章を書いている。そこで、「設計という行為にひとつの論理を立てようと努力することを信じていられようか」といいながら、「なお設計という行為に踏みとどまろうとすれば、それはいま自分の周辺で行われている不条理を不条理のままに露呈することでしかありえないはずである」という。そして、「何にもまして、私は具体的なものをつくりあげたいというもっともプライマリィな感覚を全ての基盤に据えたいし、この論理以前の感覚のみを通じてコミュニケーションの足がかりをつくりたいと考えている」という。

建築の最先端を走り続ける伊東豊雄をリードし続けているのは、この「論理以前の感覚」である。

  

 ポストモダンへ:菊竹・篠原・磯崎を超えて

伊東豊雄は、その処女論考「無用の論理」[v]において、「URBOT」に即して、その思想に大きな影響を及ぼした二つの相反する系譜、W.ムーアに代表されるカリフォルニア・ヴァナキュラー建築の流れとアーキグラムからスーパースタジオへとつらなっていくファンタスティックなユートピアの流れを挙げている。

当時、グローバルな建築状況を見事に整理してくれていたのが磯崎新の『美術手帖』の連載であり、それはやがて『建築の解体』にまとめられるが、伊東の世代から僕らの世代までは、この一書によって建築状況についての共通認識を持っていたと言っていい。「主題の不在」という磯崎流の総括によって、磯崎は自らのポストモダンの方向性(手法論、引用論、折衷論)を定めて行くのであるが、われわれは何を選択するのかそれが問題であった。そして、先行世代を如何に超えるかがいつの世代でも問題となる。「近代の呪縛」シリーズで夜な夜な議論していたのはそういうことだ。

伊東の場合、前述のように、その具体的対象は、まず菊竹であり、磯崎であり、篠原であった。

「菊竹清訓氏に問う、われらの狂気を生きのびる道を教えよと」[vi]、伊東豊雄は、新作「萩市庁舎」を批判しながら、まるで菊竹清訓を総括するかのように書いている。「菊竹清訓という一人の建築家がこの十年間、状況とどのように対してきたかを考えてみたい。それはまた、私の状況に対する視点を氏に問うことに他ならない」[vii]

作品の質においても、社会との対応においても、「狂気」と呼べるような迫力を菊竹が欠いてきていることを指摘しながら、状況との苦闘こそを目指すべきだとするが、その行方が見出せていないもどかしさがそのタイトルに表現されている。一方で状況は変化したという認識がある。60年代における建築家と社会あるいは都市との関わりを大きく「生活派」もしくは「社会派」と「空間派」に分けた上で、この段階では、はっきり後者を代表する篠原一男の立場をとると書いている。実際、丹念に篠原の住宅作品を分析しながら、「いまほど篠原一男氏の建築に関心を寄せるときはない」と書いた。磯崎新については、新作「北九州美術館」をめぐって、その作品を振り返りながら、「磯崎新という建築家の空間に興味を抱くのは、彼が自己の身体性を引きずっている限りにおいて、またその身体性へと向かうレトリックやマニエラである限りにおいてである」。身体性抜きに建築が成立するのか、という批判が磯崎に対してもあった。

 

都市から都市へ

こうして、社会あるいは都市との関係を、また状況との関わりを伊東豊雄は一貫して、自らの思考の基礎においてきた。初期の伊東豊雄は、自らの建築をどのような文脈において位置づけるかを考え続ける。近代建築の様々な潮流、自ら建築家修行を開始した1960年代の建築動向、超えるべき先行世代とその方向を競い合う同世代の建築家たちの動向、そうした中で自分の依拠する文脈を探ろうとしている。「文脈を求めて」[viii]において、結局は、自分の依拠する文脈は現実の都市だと書く。さらに、現実の都市と自らの建築を結びつけるキーワードとして、①コラージュ、②均質性、③表面性、④レトリック、⑤リズム、⑥断層を挙げている。さらに「コラージュ的建築」と「表面的建築」に関心を持つという[ix]。初期の建築論をまとめる文章に「<俗>なる世界に投影される<聖>」があるが、そこでも、「都市から」「ふたたび都市へ」という構えがとられている。

この都市への関心、とりわけ東京への関心は当初から、また以後も一貫している。安藤忠雄が近代建築の巨匠とりわけコルビジュエの作品をテキストとしたのとも、藤森照信が原初的な「自然素材による建築」を目指したのとも異なり、はるかに錯綜し、混沌とした現実の都市を伊東は文脈とするのである。伊東の建築意欲にパワーを与え続けているのは、現実の都市のヴァイタリティといえるであろう。

伊東豊雄の建築論は、従って、同時に都市論でもある。事実数多くの文章で都市について触れている[x]。『シュミレイテド・シティの建築』[xi]は、ロンドンで開かれたジャパン・フェスティバルの催し「ヴィジョンズ・オブ・ジャパン」展のために、それまでの作品を都市論として位置づけたもの(リーフレット)である。

 

 消費の海

「消費の海に浸らずして新しい建築はない」[xii]1989年)は、バブル期最中に書かれたものであるが、状況に対する伊東の対処のスタンスを見事に示している。「凄まじい勢いで建築が建てられ、消費されている」状況の中で、「このような状況が建築家にとって危機的であるとしたら、それは建築家が消費社会を否定して生きられるかという問題ではなく、建築だけが消費の外にあり得るという想いを、建築家がどれほど徹底的に捨てきれるか、という認識にこそまずあるべきではないだろうか」。「このような時代には形態の良し悪しとか、オリジナリティの有無を議論してみてもはじまらない」。

この認識の位相は、安藤忠雄のナイーブな建築観とは決定的に異なる。また、同じように消費の海を意識しながら藤森が戦略的に目指そうとするところとも異なる。二人が暗黙のうちに、あるいはアプリオリに「建築」という概念を設定しているのに対して、伊東はそれを疑っている。「意識ある建築家ならば皆、建築という概念に想いをはせてきた。しかしほとんどの試みがどうも消費最前線に対して無自覚でありすぎる、つまり自らの建築を信頼しすぎているように見える」。「建築の自律性、芸術性への試みが有効であったのは70年代までであったのではないだろうか」。

伊東豊雄は、しかし、「建築」という概念を否定するわけではない。むしろ逆である。建築が社会的な存在であるという事情を断ち切れない以上、建築が消費される状況を嘆こうが嘆くまいが関係ない。社会は、「建築家」が想像しているよりもはるかにドライにそしてラディカルに動いている。「私の関心はただひとつ、このような時代にも建築は建築として成り立つであろうか、という問いである」。

そして、「建築の概念を問おうとするときにフォルマリスティックな操作ではなく、まず新しい都市生活のリアリティを発見することから始めたいと考えている」という。

 

 偽装工作

デビューして10年、伊東は、菊竹のメタボリズム、篠原の象徴論、磯崎の手法論を超える方向性をはっきり自覚するに至っている。「設計行為とは意識的操作に基づく形態の偽装工作である」[xiii]1981年)という文章は、処女作「アルミの家」の発表に際して書いた「設計行為とは歪められていく自己の思考過程を追跡する作業に他ならない」を総括する形で書かれたものだ。そして以前の文章を「自己のイメージの内にあった形態や空間への執着と信頼の大きさに我ながら驚き、羨望に駆られるほどである」という。実は「歪められていく」のではなく、「仮説的にせよ、設計初期の段階で設定された建築モデルの形式を解体し、ほとんど形式が消滅する地点にまでその作業を続行する過程で、形態にしろ、空間にしろ、当初の明快さは消えて次第に不透明な澱みに沈んでいく」のである。「美しくありたいとは願ってもその美しさが突出するような空間ではなく、明晰なることを願ってもその明晰さが半透明の澱みの奥にのぞかれる類の空間を求める時、作業はファインダーの焦点を次第にずらしていく行為となり、夕闇に包まれていく風景を見送る行為となる」のである。すなわち、「現実に存在しながら全く存在の重みを感じさせず、希薄でもはや形態を喪いかけている形態、そこにはものの実態感ももはやない、そのような形態は意識的な偽装工作によってしか生じないはずである」という結論に至るのである。

外的条件によって歪められても純粋に保持されるイメージの空間、それに耐える形態の強さ、空間の透徹さへの拘りは、伊東の中で消えていく。以降、建築論としては、捉えどころがなくなっていく。むしろ、「建築」を確固たるものとして捉えない、常に変わっていくものとして捉えようとするというのが、その建築論の基礎にある。自ら言うところのキーワードは二冊の評論集のタイトル「風の変様体」と「透層する建築」である。

 

 形態の溶融

 突然閃いたのかのようにー上述のように設計プロセスについての真摯な思考に裏付けられていたのであるがー伊東豊雄は、「風の建築」を目指すことを宣言する。「風の建築」とは、風を視覚化する建築でも風を取り入れる建築でもない。

「風のように軽やかで、状態だけがあって形態をもたない建築が存在したら、どんなに素晴らしいかと思う」。

 「状態だけあって形態を持たない」のは一般的には建築ではない。それを目指すということは、すなわち、建築の始原、プリミティブな状態、建築が立ち上がる瞬間を目指すということである。伊東は、後に「境界の曖昧な状態」(Blur)という概念に行きつく。そして、「風の建築」は、固定した形をもたない、絶え間なく変転していく「変様体としての建築[xiv]」でもある。そして、それは「柔らかく身体を覆う建築[xv]」、「半透明の皮膜に覆われた空間[xvi]」として具体的に提示された。「流動体」あるいは「流動性」もキーワードとなる。さらに「形態の溶融」[xvii]ともいう。自ら90年代の建築の方向を明確にすることになったという論文が「二一世紀の幔幕―流動体的建築―」[xviii]である。 

「風の建築を目指して」[xix]、これは、同世代の建築家たち、ポストモダンの旗手たちへの先行スパート宣言であった。そこで伊東は「ファルマリスティックな操作の停止」を表明する。そして、コスモロジーとの決別をうたう。

「私たちの周辺に、内面の宇宙に囚われるあまり閉ざされてしまっている建築のいかに多いことか。歴史的なヴォキャブラリーに頼ろうが、土着のヴォキャブラリーに頼ろうが、建築家がこの内面の宇宙に囚われている限り、建築は決して生きられることはあるまい。」

伊東は、ここでポストモダンの主流となりつつあった「ヒストリシズム(歴史主義)」も、「コンセプチャリズム」も、「フォルマリズム」も、「ヴァナキュラリズム」も、自信に充ちて批判している。

槙文彦が「平和な時代の野武士たち」と呼んだ一群の建築家たちは次第に色分けされるようになる。そして「ポストモダニズムに出口はない」という「天の声」(丹下健三)とともに、バブルが弾け、近代建築批判の深度が真に問われ始める。コスモロジー派あるいはコンセプチャリズムと呼ばれた、渡辺豊和、六角鬼丈、毛綱毅曠らが沈黙を余儀なくされるようになる。奇観異観の類は都会的なメディアにはなじまない。工業ヴァナキュラーで突破を図った石山修武にしてもファッションとは成り得ない。時代を制したのは、伊東豊雄を先頭とする流れであった。 

 

 プロトタイプの解体

伊東豊雄は、拙著『スラムとウサギ小屋』について次のように書いている。

「突き抜ける明るさ、布野修司がアジアのスラムに惹かれていったのも、アナーキーとしか言いようのない明るさであったのではないだろうか」

「奇妙なニュータウン」[xx]と題したエッセイをとりあげて、「悲惨な貧しさのなかでも彼らが心底笑っていられるのは、彼らの住まいが徹底的に開かれているからである。彼らの住まいはどんな現代建築よりも多くのことをわれわれに教えてくれる。布野の指摘するように、彼らにとっては住むことそのものがつくることである。彼らは住みつつつくり、つくりつつ住んでいる。こんな単純で当然至極の事実が彼らを開いている」と書く。

変様、流動、仮設、伊東豊雄は、徹底してステレオタイプを嫌う。そして、プロトタイプそのものも疑う。「八代市立博物館」以降、公共建築の設計に携わるようになってはっきりする。これは山本理顕も共有するところだが、山本が新たな制度=施設を提案するのに対して、伊東は、制度から逃げようとする。だから、逃走(透層)する建築である。

「物事を合理的に運ぼうとする」秩序からまず疑ってかからなくてはならない。」[xxi]

こうした意識を持ちながら公共建築の設計を行うことは容易なことではない。公共=制度というステレオタイプの壁に設計の最初から最後までぶち当たるからである。1990年代に入って、「公共建築に何が可能か」[xxii]「通過点としての公共建築」[xxiii]といった公共建築に関わる発言が増えていく。伊東豊雄と「公共建築」あるいは「公」との衝突、軋轢が頂点に達したのが「仙台メディアテーク」である。「地元誌」との対応を含めて、新たな公共建築のあり方が模索され、議論され続けた。そして、竣工間近になっても伊東自ら完成像が見えてこない建築としてそれは実現する。

「つまり永久にアンダー・コンストラクション」であることこそが、この建築の最大の意味ではないか」と「せんだいメディアテーク」についていう。伊東にとって、「<アーキタイプ>のない建築、それは私にとって「理想の建築」なのである」[xxiv]

 



[i] 伊東豊雄の主要著作:「伊東豊雄-風の変様体(現代の建築家)」SD編集部(鹿島出版会) 1988/05 「八代市立博物館・未来の森ミュージアム(建築リフル)」伊東豊雄(TOTO出版) 1992/11/「フランクフルト - キクカワ プロフェッショナル ガイド Vol.5/1996」伊東豊雄(建築・都市ワークショップ) 1996/3/「ドミニク・ペロー:DES NATURES-都市という自然(TN Probe 7)」伊東豊雄(TNプローブ/大林組) 1998/11/「10+1No.16)」伊東豊雄(INAX出版) 1999/03/「風の変様体-建築クロニクル」伊東豊雄(青土社) 1999/12 「透層する建築」伊東豊雄(青土社) 2000/09/「せんだいメディアテーク コンセプトブック」伊東豊雄(NTT出版) 2001/03 UNDER CONSTRUCTION -せんだいメディアテーク写真集」伊東豊雄(建築資料研究社) 2001/09 「伊東豊雄19702001GA Architect)」伊東豊雄(A.D.A.Edita TOKYO 2001/09 /「伊東豊雄/ライト・ストラクチュアのディテール」伊東豊雄建築設計事務所(彰国社) 2001/10/「シミュレイテド・シティの建築(INAX ALBUM 1)」伊東豊雄(INAX 2001/12 「リアリテ ル・コルビュジエ-建築の枠組と身体の枠組」伊東豊雄(TOTO出版) 2002/01 Serpentine Gallery Pavilion 2002:Toyo Ito With Arup」伊東豊雄(建築都市ワークショップ) 2002/01/「大社建築事始(大社町二十一世紀文庫)」伊東豊雄(大社文化プレイス) 2002/03/「建築:非線型の出来事-smtからユーロへ」伊東豊雄(彰国社) 2003/01 「みちの家 くうねるところにすむところ―子どもたちに伝えたい家の本」伊東豊雄(インデックスコミュニケーションズ) 2005/07

[ii] 『住宅建築』。19876月号

[iii] 『透層する建築』、p384

[iv] 『新建築』、197110月号。この文章の冒頭で、伊東は、宮内康の「アジテーションとしての建築」(『美術手帳』19718月号)を引いている。

[v] 『都市住宅』、197111月号

[vi] 『建築文化』、197510月号

[vii] 「菊竹清訓氏に問う、われらの狂気を生きのびる道を教えよと」『建築文化』197510月号

[viii] 「文脈を求めて」、『新建築』19766月号「中野本町の家」は文脈をもたないという指摘(多木浩二)への回答として書かれた。

[ix] 「建築におけるコラージュと表面性」と題され、『風の変様体』の1978年のクロニクルにあるが、何故か初出である。少なくと、「ホテルD」「PMTビル」(1978年)の頃は、「コラージュ」と「表面性」をキーワードとしていたことを示している。

[x] 「未来的都市における建築のリアリティとは何か」(『別冊新建築12198812月号)、「虚構都市にみる「家」の解体と再生」(1988、『透層する建築』所収)、「記憶の中の九つの都市」(1988年)、「シュミレイテド・シティの建築」(『建築文化』199112月号)、「都市のノイズが新しい建築をつくる」(『P&T19917月号)

[xi] INAX出版、1992

[xii] 『新建築』、198911月号

[xiii] 『都市住宅』、1981年4月号

[xiv] 『住宅建築』19857月号

[xv] 『建築都市ワークショップファイル1』19866

[xvi] SD19869月号

[xvii] 『新建築』19824月号

[xviii] 『新建築』、199010月号

[xix] 『建築文化』19851月号

[xx] 「奇妙なニュータウン」(『スラムとウサギ小屋』)という文章の中で伊東が引いているのは以下である。「異様な住居である。新築だというのにまるで廃屋である。建ったばかりだというのに、もう何年も修理を重ねて今にも朽ち果てようとしているかに見える。しかし、紛れもなく、それは彼らの新しい住居である。今、まさに、彼らはここに住もうとしている。(中略)やがて、客が来ておしゃべりが始まる。勿論、旧知の間柄ではないのであるがすぐさまうちとけて話が弾んだ。彼らの新たな生活はこののどかな新天地へトラックの荷台から降りたった瞬間から既に始まっていたのである。

しかし、果たして、これは新たな生活の始まりなのであろうか。始まりも終わりもない彼らの生活のスタイルそのものではないか。」そして、伊東は次のようにいう。「われわれは自らをモルタルで白く塗り込めたウサギ小屋のなかで、ホームドラマの役者のように上辺だけの笑いを送り続けているのである。悲惨な貧しさのなかでも彼らが心底笑っていられるのは、彼らの住まいが徹底的に開かれているからである。彼らの住まいはどんな現代建築よりも多くのことをわれわれに教えてくれる。布野の指摘するように、彼らにとっては住むことそのものがつくることである。彼らは住みつつつくり、つくりつつ住んでいる。こんな単純で当然至極の事実が彼らの住まいを開いている。」

[xxi] 「アンドロイド的身体が求める建築」『季刊思潮』第1号、19886月号

[xxii] 初出不詳(1994年)として『透層する建築』に収められている(pp.308-312)。

[xxiii] 『新建築』19957月号

[xxiv] 『透層する建築』p.538