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2021年4月5日月曜日

現代建築家批評22  空間に恋して  象設計集団の軌跡

 現代建築家批評22 『建築ジャーナル』200910月号

現代建築家批評22 メディアの中の建築家たち


空間に恋して 

象設計集団の軌跡

 

 象設計集団が結成されたのは19716月のことである。設立メンバーは,富田玲子(1938東京~ )[i],樋口裕康(1938年静岡~)[ii],大竹康市1938年仙台~ 19831120[iii],半年遅れて有村桂子1942大阪~)[iv],重村力1946年横浜~)[v]が参加する。Tomita(T),Higuchi(H),Ootake(O)THOすなわち象(ZO)である。早稲田大学大学院(吉阪研究室)の同窓生がU研究室経て独立する際に,若い有村,重村が加わるかたちでの出発であった。

つい先頃(2009614日),重村さんの神戸大学退任記念会で久しぶりに樋口裕康さんに会った。久しぶりにといっても,二人とも思い出せないぐらい久しぶりである。かろうじて僕が思い出したのは,「悠々ふるさと会館」(島根県川本町)設計競技(1994年)の公開審査会の時だから,直近でも15年ぶりということになる。左官の久住章さん,象設計集団の現代表の町山一郎さんと一緒で短い時間だったけれど飲んだ。なつかしかった。

1971年に僕は重村さんと出会った。「雛芥子」の催し(「柩欠季」)のビラを早稲田大学に貼りにいって,吉阪研究室でなにやら作業していて応対してくれたのが重村さんであった。退任記念会では,藤森照信を加えて三人での鼎談[vi]ということで,昔話をさせられたけれどとても時間は足りない。「雛芥子」に駒場の学生自治会の会長選挙に獄中立候補した仲間がいて,その仲間が重村さんと繋がっていて,山下洋輔(1942~)[vii]のアルバム(レコード『ダンシング古事記』)を一緒に売り歩いた,などという不思議な縁があった。しかし,出会った当時,象設計集団が発足したばかりだとは知る由もなかった。とにかく, これまで,「雛芥子」に関連して多少触れてきたが,1960年代末から1970年代にかけて,至る所,梁山泊があった。時代を全体として浮かび上がらせる作業については,若い建築史家に期待したいと思う。

設立35周年を記念してまとめられた作品集は,『空間に恋して Love With Locus 象設計集団のいろはカルタ』(工作舎,2004年)と題される。田中泯(1945年~)[viii]のダンスのタイトルから採られたというが,「空間に恋して」というのは,いかにも象らしい。久しぶりに会って,ひたすら少年のように建築について語り続ける樋口さんに正直感動した。建築が心底好きなのである。富田さんも「建築のよろこび」[ix]を語る。建築を愛せない建築家は建築家ではない。当然である。

 「Love with Locus」のlocus,現場,場所,位置,所在地,中心という意味で複数形はloci,ラテン語localが語源でゲニウス・ロキ Genius lociは「土地の精霊」である。これまた象らしい。

象は,設立後まもなく手がけた「今帰仁村中央公民館」(1975年)で芸術選奨文部大臣新人賞(美術部門,1977年),また,沖縄における一連の都市計画で都市計画学会石川賞(1977年)を受賞する。そして,名護市庁舎公開設計競技で最優秀賞(1979年),日本建築学会賞を受賞する(1982年)。華々しいデビューであった。

まずは,象設計集団の軌跡を振り返ろう。

 

 U研究室

 象設計集団の母胎はU研究室(1963-)である。前身は,吉坂研究室(1953-1964[x],1961年以降,早稲田大学から吉阪隆正(1917-1980)の自邸敷地内(新宿百人町)のプレファブ小屋に移され,1963年にU研究室と改称した。富田玲子は,その1963年に入室し,翌年,大竹康市が加わる。樋口裕康は修士のときからアルバイトをしていて,終了と同時にU研究室のメンバーとなる。THOの三人にとって,象設計集団設立までの,20代半ばから30代へかけての時間は,建築家としての全てが遺伝子として組み込まれる建築修行のかけがえのない時間であり,U研究室がその場となるのである。

 東京大学建築学科の最初の女子学生となった富田玲子が丹下研究室を経てU研究室へ入室する経緯は,『小さな建築』(みすず書房,2007年)に詳しい。東京大学の同級生に,61年に結婚することになる林泰義(1936~)[xi],規格構成材方式で知られる夭折した剣持昤[xii],太陽建築<ソラキスSOLARCHIS>で知られる井山武司(1938~)[xiii],近澤可也(1934~)[xiv],そして宮内康[xv]1937-1992)がいる。

今や延藤安弘(1940~)[xvi]とともに「まちづくり伝道師」といっていい林泰義と宮内康は親友であった。建築ジャーナリズム研究所(宮内嘉久)が編纂した『建築年鑑』(1969年)の特集「まず想像力を怨恨でぬりかため凶器とせよ」は,二人で編んだものだ。また,『店舗と建築』誌で雨之路薫(あまのじやく)というペンネーム(共同)で辛口コラムを連載していたこともある。宮内康は,1970年に劇団状況劇場(唐十郎)の稽古場(山中湖)「乞食城」の設計を依頼され,「建築家’70行動委員会」に集った若い仲間たちと自力建設を行う。この若い仲間の中に有村桂子と重村力がいた。僕は,宮内さん,林さん,重村さんを通じて,象のすぐ近くにずっといたことになる。

 

 妖精の選択

宮内康は,「象賛歌 集団設計はいかにして可能か」(『建築文化』19785月)の中で,「「象」には,・・・かつてごく親しくしていた友人がいる。・・・「象」にはまた,私のかつて同級生であったひとりの女性がいる。彼女は,・・・お伽噺の世界からぬけ出てきた妖精のような,そんなすばらしい人なのである」と書いている。

富田玲子は,丹下研究室で代々木国立屋内総合競技場の設計に参加しながら,建築学生の必読書となるK.リンチの『都市のイメージ』を翻訳している。修士論文は『空間の記号論』である。実は,吉武研究室に入ることが決まっていたけれど[xvii],設計がやりたいということで丹下研究室に移ったのだという。当時の丹下研究室には,神谷宏治,磯崎新,黒川紀章など錚々たる面々がいた。

しかし,富田が修士課程修了後に選択したのは吉阪隆正[xviii]であった。そして,U研究室では,実質的リーダー(番頭)であった大竹十一19212005[xix]に手ほどきを受けることになる。『小さな建築』には,丹下研究室と吉阪研究室の対極的な違いが明快に振り返られている。丹下研究室の設計は,最後まで丹下健三の作品である。それに対して,吉阪研究室では,どんな些細なプロジェクトでも「これは私がやりました」と言える作品となる。そして「構造は空間に従う,外も内と同じ密度で考える,エレべーションのスケッチが少ない,粘土模型が多い,原寸をたくさん描く,触覚を大切にする,写真より実物の方がいい,製図板が小さい,作品の連続性がうすい」のが吉阪研究室である。

 

 沖縄

 象設計集団の出発点は沖縄である。「沖縄子供の国マスタープラン」(1971)の後,「波照間の碑」「沖縄子供の国こども博物館」「恩納村基本構想」(1972,「沖縄子供の国じゃぶじゃぶ池」「名護市総合計画基本構想」(1973,・名護市工芸村基本計画」「多野岳「山の冠」計画」「今帰仁村総合計画基本構想」(1974,「今帰仁村中央公民館」「名護市総合公園(21世紀の森)基本計画」「今帰仁村第一次産業振興計画」(1975,今帰仁村第一次産業基本計画」「石川市総合計画基本構想および土地利用計画」「那覇新天地市場計画」(1976,今帰仁村暮らしの基本計画」(1977,ガジュマル住宅の家」「名護市買物公園計画」(1978)と,初期の設計,計画は沖縄に集中する。

 沖縄が本土に復帰したのが1972,そして,オイルショックが1973年である。高度成長から省エネルギー社会へ,量から質へ,相次ぐ受賞にはそうした社会的背景があったと思う。東京オリンピック(1964)から大阪万国博Expo’701970)へ昂揚した日本の建築界が暗転する状況において,象の沖縄デビューは実に象徴的だったのである。

 名護市庁舎のコンペの時,その取材のために沖縄を初めて訪れた時のことを思い出す[xx]。「京都国際会議場」,そして「箱根国際会議場」以来久しぶりの公開コンペであった。象と沖縄との濃厚な関係から出来レースが噂されたりしたが,文句ない勝利であった。沖縄の風土をどの案よりも読み込んだ案であった。

 地域空間の歴史的骨格,そしてそれを支える建築言語を掘り起こし,地域住民と一緒に建築空間をつくりあげる手法は,いち早く,日本建築の新たな行方を示すように思えたし,,さらにそう思う。

 

 サッカー

 象設計集団の基礎にあるのは集団的想像力である。富田玲子は「協働設計」というが,それはもちろん,戦後様々な設計集団が追求し,行き着いた集団設計―共同設計(組織設計)の位相とは異なる。独立した個人が前提であり,作業を協働し,議論の末に「一本の線を共有する」ことが目指される。そもそもの設立にしても,もともとは別々に独立を考えていたのであって,組織としての集団設計が前提ではなかった。今風に言えば,コラボレーションである。アトリエ・モビルの丸山欣也[xxi]らとのコラボレーションは当初から行われ,ネットワークは広がっていく。そして,やがてチーム・ズー(動物園組)と称して,「いるか設計集団」,「アトリエ・熊」,「アトリエ・鰐」など協力チームを増やしていく。こうした鮮やかな集団戦略,ネットワーク戦略を構想し,展開し得た設計集団は他にはない。そうした意味で,象設計集団は,戦後最もユニークな設計集団といっていい。大きな声で口に出すのはいささかおこがましいが,住宅に拘って同様な方向を目指したのがHPU(ハウジング計画ユニオン)の構想,地域住宅工房のネットワーク構想(大野勝彦)であった。

大竹十一と区別するために大竹ジュニアと呼ばれた康市は,東北学院高校時代に陸上競技サッカーインターハイに出場したというスポーツマンであり,サッカー・チームとしての象も率いた[xxii]。大竹ジュニアは,1983年にサッカーの試合中に心臓発作を起こして急逝する。象設計集団は,いまでも「十勝サーカス」というチームを組織してサッカーを続けている。

象の組織論,集団論にはサッカーがある。すなわち,建築もサッカーも個々の想像力・創造力を集団的にまとめあげるという共通点がある。2002年にA=Cup(エー・カップ)という建築サッカーリーグが設立されて毎年大会が開催されつつあるが,前夜祭で戦わされるサッカー論だか建築論だかわからない議論を聞いているとつくづくそう思う[xxiii]

 

 ドーモ・セラカント

沖縄の仕事に富田玲子は大きくは関わっていない。二人の子どもの子育てで東京を長期間離れられなかったのである。「むむ」(アームカバー)と「ぞぞ」(マント)という衣服デザインを手掛けた後,「ドーモ・バレーラ」(調布1972)「脇田邸」(文京区弥生町1973)「ドーモ・アラベスカ」(杉並区成田東1973)「ドーモ・セラカント」(鎌倉市旭ヶ丘1974)「ドーモ・スクヴァーマ」(目黒区五本木1975)「船曳・岸田邸」(世田谷区経堂1977)といった東京近辺の住宅作品に専ら関わっている。大竹康市は,興味深いことに、「僕は特定の個人に奉仕するために建築するのはいやだ!」と住宅の設計には参加しなかったという。

 初期の住宅作品を代表するのは「ドーモ・セラカント」である。魔術の研究家とお琴の師匠が施主で,浄化槽と温水床暖房を担当した山越邦彦(1900 - 1980[xxiv]の命名だという。極めて特異な形態で,「象のイメージ」をつくりあげることになるが,個々の住宅作品はそれぞれ傾向を異にする。「作品に継続性がない」のが象の特徴というが,住宅作品の場合,個と個は直接ぶつかり合う,それがそのまま表現されるとみることもできる。しかし,「シーラカンス(魚)」の形を平面にした「ドーモ・セラカント」には,学生時代の設計製図で「ピアノの先生の家」としてグランドピアノの形をそのまま案にしたという[xxv],あるいは「古代ローマのパン屋のお墓」を見て発想したという「起爆空間」[xxvi]を設計した富田玲子の臭いがする。「お伽噺の世界からぬけ出てきた妖精」には「おちゃめ」なところがある。象の住宅作品群をどう位置づけるかはひとつのテーマとなるだろう。

 

 引越し魔

 麹町のマンション(1971-1972)を事務所として設立された象設計集団は,その後,早稲田の2階建てプレファブ小屋(1972-1977,歌舞伎町元予備校校舎(1977-1979,中落合の2階建て民家(1979-1982,高円寺の雑居ビル(1982-1983,東中野の一戸建て(1983-1990)と事務所を点々と移す。

 沖縄の後,象の地位を確固たるものにしたのは,中落合時代の埼玉県宮代町の「進修館」(1980)と「笠間小学校」(1982)である。「世界のどこにもないもの」をという齋藤甲馬町長(1900-1982)との出会いがあり,庁舎と小学校の建設とともに「新しい村」づくりが開始された。

 地域の伝統を色濃く空間に残す沖縄に比べると,宮代は江戸時代中期に新田開発が行われた地域にすぎない。しかも,首都圏にあって都市化の波に飲み込まれつつある場所にある。そこで,象は沖縄と同じように地域再生が可能であることを示すのである。

 僕が富田さん,樋口さんに初めてあったのは中落合時代である。石山修武の仲介で『群居』の,渡辺豊和,大野勝彦も一緒であった。林泰義・玲子夫妻が大野勝彦のセキスイハイムM121ユニットも購入したという強力な縁もあった。楽しく飲んだが,後味の悪さが残っている。おそらくは象グループの仲の良さに嫉妬したであろう渡辺豊和が突然「象は擬似民主主義だ。俺はどうせワンマン・ファシストだよ」とかなんとか叫んで,テーブルをひっくり返したのである。富田さんのスエードのスカートにお酒がこぼれ,後日,林さんに僕はしこたま怒られたのであった。

 

 台湾

 そして,次の大きな展開が始まるのは1986年である。吉阪研究室で学んだ郭中端を通じて,台湾宜蘭での仕事が舞い込むのである。全長12キロにわたる「冬山河親水公園」計画(1987-1994)である。この壮大なランドスケープ計画とともに台湾事務所が設けられることになる(1988)。そして,台湾,とりわけ宜蘭との関わりを深める中で,宜蘭縣縣庁舎(1997,宜蘭縣政中心・中央公園(1999,宜蘭縣議場(2001,宜蘭縣史館(2001)が次々に竣工することになった。

 象設計集団が台湾との関わりを開始する直前にまとめられた作品集『象設計集団』(鹿島出版会,1987)は,「象の宇宙―スケールをめぐる15の旅」と題され,冒頭に「宇宙」(109m)「地球」(108m)から50センチの「シーサー」,10センチの「マザーチェア」まで「沖縄」を中心としてズームダウンしてみせてくれている。101万キロメートル)で見えてくるのは「東南アジア」である。そこに,黒潮世界の発見,あるいは照葉樹林地帯の発見が近代日本を相対化させるという地井昭夫の「発見的方法」という小文が引かれているが,沖縄を出発点として台湾へ向かうのは大きな戦略であったと思う。東南アジアを歩き始めていた僕は大いに意を強くしたものである。

 

 十勝の廃校

 台湾での仕事を本格させる,まさにその瞬間に象設計集団は北海道へ拠点を移す(1990年)。正直面食らった。何故?という思いは今でも強い。

 バブル全盛で広い作業スペースを確保するためには,そして野外パーティーを開ける庭付きの空間となると,天文学的保証金が必要となる。都内の小さなビルに入ることを躊躇しているところに,十勝には廃校がたくさんあって,極安で借りられるという情報がもたらされた。聞けば理由は簡単である。しかし,廃校といえば,それこそ北海道でなくても,と思うけれど,選択は選択である。鎮錬(ちんねる)小学校そして然別小学校を拠点に地域に住み込んでの建築まちづくりが始まるのは1990年のことである。

 象は,こうして沖縄から北海道まで,日本列島については,どこでも攻めうる布陣を敷いたことになる。



[i] 日本の女性建築家象設計集団の創始者の一人。現在象設計集団東京事務所主宰。母は日本で女性初の大使でデンマー大使を務めた高橋康子。東京に生まれ,高田馬場で育つ。戦時中埼玉県に疎開しその後東京阿佐ヶ谷で育つ。代表作のドーモ・アラベスカはそのときの家を改修したもの。ピアノを音楽評論家藤田晴子に師事。東京教育大学付属高校から東京大学科2に進学。1961,東京大学工学部建築学科を卒業し,大学院に進学。同年林泰義と結婚。当初吉武研究室に所属するがしばらくして丹下研究室に移籍。丹下健三とともにケヴィン・リンチの著書の翻訳を手がける。1963年に大学院を修了し,しばらくして吉阪隆正が主宰する建築設計事務所U研究室に所属する。1965年に休職し子育てと夫の親戚の家の設計に携わった後復職。1971年から,象設計集団設立に参加。設立してしばらくは衣装の仕事をする。設計活動のかたわらマサチューセッツ工科大学,ペンシルベニア大学,東京大学,早稲田大学等で客員講師を務める。

[ii] 1939年静岡生まれ。早稲田大学大学院修了後,故吉阪隆正氏主宰のU研究室を経て,1971年象設計集団設立。代表取締役に就任。

[iii] 日本の建築家都市計画家象設計集団創設者の一人で中心的存在。宮城県仙台市生まれ。東北学院中学校・高等学校に進学し,高校では陸上競技サッカーインターハイに出場する。1962,東北大学工学部建築学科卒業。卒業設計は全国優秀賞を受賞する。その後早稲田大学大学院進学し同大学院修士課程修了。1964,吉阪隆正が主宰する建築設計事務所U研究室に入所し,大学セミナーハウス,大島元町復興計画(計画書,大島中学校体育館,吉谷公園,大島参道など)生駒山宇宙科学館,相模湖総合復興計画などを担当する。1971,象設計集団設立。同時に早稲田大学産業技術専修学校の講師を務める。1977,今帰仁村中央公民館で,芸術選奨文部大臣新人賞受賞。沖縄の一連の都市計画業績に対し日本都市計画学会石川賞受賞。1982,名護市庁舎で日本建築学会学会賞。1983,サッカーの試合中に心臓の発作で倒れて急逝。

[iv] 建築家大阪府生まれ。神戸大学大学院修士課程修了1971,象設計集団設立メンバー。1981年から吉村雅夫らと建築設計事務所いるか設計集団を主宰。神戸市文化財保護審議会委員などを歴任。 その他大阪樟蔭女子大学学芸学部インテリアデザイン学科などの非常勤講師もつとめる。

[v] 建築家。都市研究家。神奈川大学工学部教授,神戸大学名誉教授,九州大学客員教授。アメリカ建築家協会特別名誉会員。1946神奈川県生まれ。1969,早稲田大学理工学部建築学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位修得。1971,大竹康市らと象設計集団設立に参加。1978年神戸にアトリエ系建築設計事務所TeamZooいるか設計集団」を設立。現在同事務所顧問。

[vi] 「地域と建築」(重村力・藤森照信・布野修司:コーディネーター中江研)

[vii] 日本のジャズピアニスト,作曲家,エッセイスト,作家東京都生まれ。麻布高校,国立音楽大学作曲科卒業。ひじで鍵盤を鳴らすなど,ピアノを壊しかねない奏法が有名。

[viii] 舞踏家モダンダンスを学んだ後,土方巽に私淑。俳優としても活躍,映画『たそがれ清兵衛』で第26日本アカデミー賞最優秀助演男優賞・新人俳優賞を受賞。

[ix] 『小さな建築』の最終章(第八章)は「建築のよろこび」と題される。

[x] 吉阪はフランスから帰国後の1953,大学内に吉阪研究室を設立,建築設計活動を開始する。1954,武基雄の研究室に所属していた大竹十一を誘い,滝沢健児と岡村昇が参加し,1955年に渡邊洋治(~58年),山口堅三(~61年),城内哲彦(~64年),松崎義徳(1931-2002,1959,鈴木恂(~61年)沖田裕生(同)戸沼幸市(~72年。吉坂の大学研究室を継承)が加入する。1961,大学構内から離れ,吉阪の自宅敷地内に移る。1963,名称をU研究室に改称する。

[xi] 東京大学工学部建築学科・同大学大学院数物系研究科博士課程修了。1969,計画技術研究所を設立。現在,NPO法人「玉川まちづくりハウス」運営委員。1990年以降はNPO法とNPO法人の実現に参画,NPOセクターの確立に取り組む。また市民参加のワークショップにより住民の活気を引き出すまちづくりを提唱し全国に広めることに尽力する。NPOとまちづくりの一連の研究及び活動により,1997年日本都市計画学会石川賞を受賞。

[xii] インテリアデザイナー剣持勇(1912-1971)の息子。交通事故で亡くなる。

[xiii] 1938年 山形県生まれ。1961東京大学建築学科卒業,1963東京大学大学院修士課程建築学専修,1966東京大学大学院博士課程都市工学専修。 井山武司アトリエ開設。大学及び大学院で丹下研究室において,東京計画1960 東京オリンピック室内競技場 スコピエ市都市計画などに参加 。1976年の酒田市大火復興に尽力する。1979,太陽建築研究と計画を開始。1993年太陽建築研究所-SOLARCHIS- 〈ソラキス〉建設。1999年建築フォーラム賞受賞。2002年環境やまがた大賞受賞。井山さんはなぜか渡辺豊和さんの友人で親しく,太陽建築研究所で渡辺菊真が修業していたことがある。バリ島にエコハウスを設計建設,布野は見学に行ったことがある。また,スラバヤ・エコハウスでは,お世話になった。

[xiv] 1934年石川県金沢市白銀町生まれ。金沢大学付属高校卒業。1953年石川県庁総務部総務課勤務。 受験のため退職上京。東京大学理科一類入学。 東京大学工学部建築学科卒業(1961)。 東京大学数物 系大学院建築学・丹下健三研究室終了(1964)。1965年株式会社パンデコン設立代表取締役 現在に至る。

[xv] 宮内康については,刊行委員会編『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(れんが書房新社,2000年)参照。

[xvi] 地域プランナー,地域活動家。まち育ての研究と実践,人材育成のほかに各地で影絵を駆使した「幻燈会」を開いて啓蒙につとめる自称「まち育ての語り部」。NPO法人「まちの縁側育くみ隊」代表理事(2003年~)愛知産業大学大学院造形研究科教授(2005年)。大阪府大阪市生まれ。北海道大学工学部建築学科卒業(1964年),京都大学大学院に進学,西山夘三に師事。工学博士(1976年)1980,熊本大学工学部,以降,名城大学,千葉大学工学部都市環境システム学科教授を歴任  1983,「絵本にみる住宅と都市のつながりに関する研究・啓蒙」で都市計画学会石川奨励賞1990,日本建築学会賞論文賞受賞 1995年。

[xvii] 「研究調査ばかりで」,また,「学校や病院の規模をどうやって決めていくか数字や数式ばかり出てきて」「無理だなあ」と思って移籍させてもらったのだという(『小さな建築』p170)。吉武研究室で空間論が議論されるのは少し後のことである。そして,鈴木成文研究室ではK.リンチに触発されて「領域論」が展開される。『都市のイメージ』のあとがきに紹介されるように,中心となったのは,東大建築学科二番目の女子学生となった松川淳子さんである。僕は吉武研究室の助手であった松川さんに設計も調査研究も手ほどきを受けた。不肖の弟子である。

[xviii] 文京区小石川生まれ。小学校6年生の終わりに父の転勤でジュネーヴに移住。中学3年のとき2度目のスイス滞在から単身帰国。早稲田大学高等学院に進み,1941早稲田大学理工学部建築学科を卒業。早稲田大学大学院修了後,同助手。1950戦後第1フランス政府給付留学生として渡仏。1952までル・コルビュジエのアトリエに勤務。帰国後の1953,大学構内に吉阪研究室を設立。1959早稲田大学教授。1969早稲田大学理工学部長。1973には日本建築学会の会長に就任。登山家探検家としても有名で,日本山岳会理事や1960の早大アラスカ・マッキンリー遠征隊長を務めた。

[xix] 宮城県生まれ。早稲田大学理工学部卒業。早稲田大学で会津八一に師事。卒業後,佐藤武夫建築設計事務所を経て,梓建築事務所を共同で設立。その後早稲田大学へ戻り,1954,吉阪隆正に請われて建築設計事務所の吉阪研究室(のちのU研究室)創設に参加。同研究室の番頭となる。吉阪亡き後もU研究室で設計活動を続けた。

[xx] 『建築文化』1979年?

[xxii] 全日本設計事務所サッカーリーグに加盟(1980,リーグ優勝を果たしている。

[xxiii] ワールドカップ出場など夢のまた夢と思われていた時代のサッカー少年であった僕も2007年から「フノーゲルズ」を率いてA=Cupに参加している。2008,2009年と2年連続BOPBest Old Player)賞を受賞した。

[xxiv] 東京帝国大学工学部建築学科卒業。バウハウスに学ぶ。雑誌『建築時潮』を編集。芸術家としての建築家像を否定し,自ら「構築家」と称して科学性と社会性のある建築を提唱した。自邸・ドモディナミカ(動力学の家)(1933)では,乾式工法と床暖房を採用。DOMO MALTANGLA,太陽熱利用のほか生ゴミと糞尿をメタンガスに変えて台所の燃料にするなど,リサイクルやエコロジーに基づいた住宅設計を提案。

[xxv] 『小さな建築』p167

[xxvi] 4面のファサ―ドに25個(5×5)ずつ丸窓がついている立方体の住宅で,テレビ番組「ウルトラマン」で悪の巣窟として使われたりした。

建築コスモロジーの最終局面:渡辺豊和   2002 ---無限連鎖の入れ子空間 ---建築の全く新たな手法へ

  建築コスモロジーの最終局面:渡辺豊和   2002

---無限連鎖の入れ子空間

---建築の全く新たな手法へ

布野修司

 

 これまでに見たことのない建築をつくりたい-というのは不正確だ-、これまでに-人類が、というべきだ-体験したことのない空間を創り出したい、という欲望は、どうやら渡辺豊和を捉えて死ぬまで放さないようである。

 そして、彼はその方法を見つけたという。僕の理解するところによると、それは、部分が全体であり、全体が部分であるような、また、平面が断面で、断面が平面であるような、まるで無限の入れ子のような空間構築の方法である。

 宇宙と身体、マクロコスモスとミクロコスモスを架橋する建築のコスモロジーを追い求めてきたコスモロジー派の建築家として知られる渡辺豊和であるが、さらに確実に建築の立ち上がる根源へと深化する道を見いだしたようなのである。

 最大のヒントは宇治の平等院である。その形態分析は、それが稀有の建築であり、来るべき建築空間のあり方を胎蔵していることを明らかにしたのである。

 そのディテールや部分を拡大したり、縮小したり、回転したりする操作の意味が突然閃(ひらめ)いたのだという。側で見ていた僕はあっけにとられるばかりであった。

 今のところ平等院だけだ、と彼は言う。そして、だから平等院こそ京都の遺伝子であり、その方法に学ぶことが京都から世界への発信に繋がるのだという。僕の尊敬する東洋史学の泰斗宮崎市定先生が平等院についてまさに日本的であると書いていたことを思い出す。平等院の感性は西アジア、イスラームの感性に繋がっているのである。

 渡辺豊和の、この新たな手法は、もしかするととんでもない建築ネットワークを探り当てているのではないかと窃かに思う。

2021年4月4日日曜日

現代建築家批評21  建築コスモロジーの遺伝子  渡辺豊和の建築理論

 現代建築家批評21 『建築ジャーナル』20099月号

現代建築家批評21 メディアの中の建築家たち


建築コスモロジーの遺伝子 

渡辺豊和の建築理論

 

「平和な時代の野武士たち」と呼ばれた日本のポストモダンの潮流は、これまでメディアの中の建築家たちの歴史を振り返ってみてきたように、あくまで「ポスト」モダンの模索の潮流であって、「アンチモダン」ではなかった。そして、皮相な「アンチモダン」、すなわち、装飾や歴史的様式の表層的あるいは部分的復活を主張するだけの「ポストモダン・ヒストリシズム」は、すぐさま、ファッションとして回収され、勢いを失うことになった。

冒頭に述べたように、日本でポストモダニズムの建築理論を最も真摯につきつめようとしたのが渡辺豊和である。引用論、手法論、修辞論を基礎にした磯崎新のスマートなポストモダン建築論と比べると、いささか粗いかもしれない。しかし、説得力も迫力もある。磯崎の場合、ポストモダニズム建築批判の逆風が吹き荒れ出すと、結局の所「大文字の建築」を持ち出さざるを得なくなる。しかし、渡辺の場合、もとより依拠したのは「建築」の本来的ありかたであり、その始源であった。

 

『建築を侮蔑せよ、さらば滅びん』

「ポストモダニズム15年史」という副題のこの一書は唯一建築評論の書であるが、その根源の思いがそのタイトルに示されている。渡辺豊和にとって、建築のポストモダンとは、建築の根源を取り戻すことなのである。

丹下健三への5つの質問を含む「ポストモダニズムに出口はある」[i]は、ポストモダニズムのテーマとして、「ポップカルチャーへの復帰参入」「構造から形態への移行」「都市現象の形象化」「容器から象徴へ」「テクノロジーよりエコロジー」「エコロジーよりコスモロジー」を挙げている。4半世紀を経て読み返して、猶、説得力がある。

「かつて建築は宇宙の写し鏡であったように、ポストモダニストの建築も宇宙の写し鏡とならなければならない」

自然そのものを天与のものとし、そのみだらな改変を警告する理論としてエコロジーを評価しながらも、「地球も生物も人間もすべての存在が宇宙の摂理の中に統一されていると見なすコスモロジー」が必要であり、「ポストモダニズムの目指すものは理性が一方的に優越したモダニズムを超え、感性を解放する本来的生命の躍動建築空間の創出にあるのだ」という。出発点において、はるかに遠くを見通していたのである。

 

 建築と言語

「語って語って語り抜き、なおかつ語り得ない針の穴のほどの「ある何か」に私達は本来賭けるべきなのだ」[ii]と渡辺豊和はいう。渡辺豊和の建築理論の出発点は、建築の意味を問うこと、建築と言語の関係を問うことであった。

処女論集である私家版『現代建築様式論』[iii]1971)は、いかにも初々しくたどたどしい。しかし、その初心は鮮明である。出発点は、建築批評が単なる印象批評にとどまりつづけており、建築創作の力になっていないということである。

建築を批評するためには、建築の意味を解明する必要があり、言葉とそれが対象とする建築空間の相関性を明らかにする必要がある。一方、近代機能主義運動の構成理論は、空間の意味を欠いてきた。建築空間が意味として捉えられる様式と形式の問題をとりあげるのは、独立したばかりの渡辺豊和にとって切実な課題であった。

依拠したのは、言語論であり、意味論、記号論である。70年代初頭、建築記号学への関心は一般的に高まりつつあったように思う[iv]。もちろん、渡辺豊和には記号論をそのまま借用するといった構えはないが、言語への関心、意味論、記号論に基づく方法論はその後も一貫し、後に学位請求論文(『記号としての建築』(昭堂)/『空間の深層』(芸出版社)1998)としてまとめられることになる。

冒頭取り上げられるのが原広司の「有孔体」の理論と「浮遊の思想」である。そして、最後も原広司そして磯崎新をめぐって締めくくられている。何度か触れてきたけれど、当時、原広司の『建築に何が可能か』の影響力は圧倒的であった。原広司は2歳年上、磯崎は7歳年上、同世代の建築家をル・コルビュジェ、アルヴアアルト、ジェームズ・スターリングが全く同等に扱われているのが印象的である。ライバルと目していたのである。

印象的なのは、具体的に取り上げられる建築作品が全て西洋建築史から選ばれていることである。そして、シナン[v]の4つのモスクが3頁にわたって取り上げられていることである。さらに、現代建築を除くと日本建築には一切触れられないことである。

 

 空間変容術

『和風胚胎』を読むと、「もし私が研究者であるのなら日本語の構造と伝統的な日本建築の構造との比較によって、日本建築のいまだ探り得ない深い意味を発掘することに一生を賭けるでありましょう」[vi]と書いていたのを思い出す。しかし、「しかし私は実作者です」と続けていたのが渡辺豊和である。

その最初の作品は、「コルビュジェ+アアルト」(サヴォア邸とセイナッツァロ役場の合体、ショーダン邸とクルトゥーリ・タロの合体)であった。『SD』に文章を持ち込んだら編集長の平良敬一に「建築家なら何かプロジェクトを持ってきなさい」と言われたというエピソードが残っている。やはり文章が先であったのである。称するに「空間変容術」、「オリジナリティ信仰に対する痛烈な皮肉」「模倣と剽窃のすすめ」である。

建築の意味を読み解くことが、なぜ、「空間変容術」に結びつくのか。

「コルビュジェ+アアルト」のルール[vii]をみると、誰にでもできるというものでもないことはすぐわかる。設計演習の課題としては一級である。

空間を合体させることによって新たな空間を生み出す方法は実にわかりやすい。その方法は、磯崎の引用論、手法論、修辞論、折衷論(ラディカル・エクレクティシズム)とは位相が違う。渡辺豊和によれば、『現代建築様式論』でもくろんだのは、この空間変容術をつくりあげるための建築様式の基礎的な段階での模索であった[viii]

 「超一流建築家の作品を合体するのであるから、凡策ができるわけがない。しかも、もとの建築ともまったく様相の異なるものが立ち現れるはずである。それでいて、もとの建築のままでもある。」

 比喩が面白い。典型的モンゴリアンの日本人とコーカソイドの白人が混血して生まれる子が、母とも似、父とも似るのに、父母はまったく違った人種である、というのである。これは、歴史の読み方とも共通しているのである。

 「コルビュジェ+アアルト」の後に実現するのが「1・1/2」である。パンテオンの「本歌取り」「換骨奪胎」である。

 

 学位請求論文

 初期の傑作「神殿住居地球庵」(1987)、日本建築学会賞受賞の「神村民体育館」(1987)で建築家としての地位を確立した後、1990年代になると、代表作となる「秋田体育館」「加茂町文化ホール」などを設計する一方で、また、古代史に関わる著作も旺盛に続ける中で、渡辺豊和は、建築理論をまとめることになる。1991年、秋田市体育館の指命コンペで当選し、設計を開始したのと時を同じくして書き出し、5年の月日がかかった。

秋田市体育館のコンペをめぐっては当選が無視されかねない事態が発生し、広く建築界の支援をもとめる手伝いをしたことを思い出すが、竣工する頃には、「この(秋田市体育館の)建築形態は最先端のデザイン傾向からは大きく乖離しているに違いないという妙な自信というか確信があった」のだという。何故か。「私の方法は明らかに正統なるポストモダニズムであるからである」。

「ポストモダニズムは終わっていないばかりか、21世紀前半こそ、その真価が問われる時代である、マイケル・グレイブスのような表層ポストモダニズムが終わっただけで、思想としてのポストモダニズムはこれからだ、私はポストモダニズムの建築理論書を書くべきであったが、その努力をおろそかにしてしまった」という思いが、渡辺豊和を駆り立てたのである。

400字詰め原稿用紙で1000枚を超える論文「記号としての建築」は、学位請求論文として東京大学に提出され、博士(工学)の学位が授与される(1998)。主査は藤森照信。授与した方も提出した方も快挙と言っていい。

学位請求論文の前半の原論部分をまとめたのが『記号としての建築』であり、後半の応用編をまとめたのが『空間の深層』である。

 

 物語としての建築

 論文はー冒頭にブルーモスクそしてハギア・ソフィアが取り上げられる!ー、建築と言語をめぐって説き起こされる。すなわち、基本的には『現代建築様式論』と同じである。能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)、ラングとパロールといった言語学の概念が的確に導入され、より精緻に、また豊富な事例に即して展開されるのである。

例えば、ロマネスクそしてゴシックの様式をラング・パロールの対概念によって実にわかりやすく説かれている。また、建築における所記と能記をめぐって、機能、平面、構造、材料など建築技術、形態、そして設計図の関係がこれまたわかりやすく説明される。注目すべきなのは、言語から設計図への置換である。「対馬豊玉町立文化の郷」について、具体的に設計プロセスが明らかにされている。

さらに様式形成のメカニズムとして、建築における意味伝達のメカニズムが整理され、ゴシックからバロックへの様式変遷が図式化される。そしてここでもシナンにおける様式完成過程が扱われている。

以上の原論に続いて、本論(応用編)が展開されるが、まず問題にされるのが「世界の切り分け」である。人は、言語によって世界を認識(切り分ける(言分け))し、建築することによって世界を切り分ける。その空間の差異化の諸相がまず考察される。

建築は建立される場所とそれをとりまく環境、すなわち(外部)世界を截然と区画し、かつ世界に対して立地場所を異化する。その立地の意味を、地形の切り分け、地理の切り分け、風景の切り分けの3節に分けて図式化するのである。渡辺豊和の建築作品は往々にして、自立的完結的と思われるが、扱われるのは、投入堂、法隆寺、厳島神社、日光東照宮、タージ・マハル、アルハンブラ、・・・いずれもモニュメンタルな建築である。

続いて、本論の中核として、統合の単位と体系が論じられる。記号論で言えば、統辞論のレヴェルである。「様式とコード」を問題にする中で、再び、ロマネスクとゴシックが扱われる。建築が様々な諸要素を組み建てることによって成り立つが故に、要素間の関係によって成り立つ様式についてはスムースである。ユニークなのは、R.バルトの『物語の構造分析』を下敷きにしながら、建築を物語として捉えるところにある。しかし、僕も考えたことがあるけれど、文字によるリニアな世界の構造を三次元の空間に当てはめるのは容易ではない。 

 

 空間の深層

 そこで渡辺豊和が映画そして演劇の手法である(「場面展開の構造と技法」)。論文の展開としては慧眼だと思う。空間において出現する場面(シーン)を建築家は期待するのである。映画は2次元平面+時間の表現である。しかも音も光も大きな要素である。オーバーラップやモンタージュといった手法は、建築の手法の一環でもある。

 しかし、以上のように渡辺豊和の建築理論をなぞってきて、しっくりしないのも正直なところである。失礼ながら、緻密すぎるとは言わないまでも整然としすぎているのである。

 そこで用意されているのが最終章「記号深化のメカニズム」である。空間の経験は、容易に言語化できない、あるいは、言語の構造に還元できないのである。サルトリアンを自称する渡辺豊和は、ここで記号の身体化を論じ、すなわち記号の現象学を振り返っている。そして、「様式の解体」を主張したりしている。

しかし一方、最大の関心を向けるのは、元型の空間である。人類の脳の無意識の層、あるいは記憶の中に埋め込まれた、C.G.ユングのいう元型、あるいはG.バシュラールのいう原風景のような元型の空間を、渡辺豊和は、毛綱毅曠とともに、所与のものと考える。

「空間の元型がもしあるとするならば森や海のような触知的具象空間か白雪を頂く高山鋭鋒の純視覚的超越(抽象)空間に大別される」というのであるが、渡辺豊和がより関心をもつのは、おそらく、C.G.ユングのいうマンダラの幾何学的形態、さらにプラトン立体のような抽象空間の方である。具体的に建築の典型としての4つの型を挙げている、

パンテオン、パルテノン、ピラミッド、そしてミースの諸作品(レイクショア・ドライブ・アパート、イリノイ工科大学クラウンホール、・・・)である。こうした乱暴な要約だと、実に単純であり、なんだ、ということになりかねないが、元型、典型、様式の関係を追求すべきだというのがその建築理論の中核なのである。

渡辺作品の鍵を握るのは以下のような視点である。

意味の高次化のためには空間は入れ子構造をとる。空間の意味は高次化とともに複雑になる。入れ子構造を逆に解体することによって建築の元型が明らかになる。

渡辺豊和がどうしても実現したいと思っている作品が、平面、立面2面が全く同じ形をした3重の入れ子構造をした建築である。毛綱毅曠の「反住器」を超えたいのだという。

 

 建築のマギ

 「1・1/2」以降の具体的な作品[ix]をめぐっては、『建築のマギ(魔術)―批判から技法へ―』(2000年)がわかりやすい。大判で、渡辺豊和作品集の趣もある。ただ、以上のような建築理論に基づいて、整然と解説されているのではない。同時代の建築家の諸作品との距離などが素直に語られていて興味深い。また、建築を学ぶ学生のためのテキストとして書かれているから、設計演習の学生作品なども収録されていて楽しめる。実現しなかったプロジェクトも含めて、創作意欲溢れる力強い作品ばかりである。

 作品の流れを追うと、もう10年以上実作がない。リタイアの歳になったと言えばいえるけれど、建築家は生きている限り建築家である。建築家仲間でよく口にされるのは、「F.L.ライトを見よ!」である。落水荘にしても60歳を超えての作品なのである。

 渡辺豊和に実作の機会が少なくなったのは、大きな時代の流れである。曰く「真のポストモダニスト」だからである。ポスト「ポストモダニズム」の時代に主流となったのは、ネオ・モダニズムの潮流である。

渡辺は、「1920年代のロシア・アヴァンギャルドの挫折を悼むとも言うべきデコンストラクティビズムはまだしも、明らかに1950年代の焼き直し洗練化にすぎないネオ・モダニズムの世界的盛行は唾棄すべき流行現象としか私の眼には映じない。要するにこれは停滞を美化する集団自己欺瞞にすぎないのではないか。しかも地球を覆う恐るべき退廃と無気力である。」という。

 「歴史の叙述を続けているのは隠されて目に見えなかったもの、闇のそこに潜むものに照明をあて明るみにひきだす作業が真実面白いからである。私は建築家としてもまったく同じ心境で建物を設計し実現させてきた。世界に類型のないものをつくりだしたくてやってきたし実行した。」

 渡辺豊和のこの意欲は衰えることはないと思う。また、その遺伝子は、若い世代に引き継がれていくのだと思う。

 



[i] 『新建築』、198312月号

[ii] 『地底建築論』序。

[iii] 1有意味化への契機、2建築(形態)の記号性、3形式化への過程、4現代建築の意味論の4章からなる。

[iv] いささかおこがましいが、僕が少し遅れて書いた修士論文『建築計画の諸問題』(1974年)に「環境読解の方法」という章を設けている。同じように依拠したのは記号論(記号学)である。

[v] シナン

[vi] 『地底建築論』序

[vii] ルールは、コルビュジェの建築をアアルトの建築に内包すること(①)、コルビュジェのプラン(②)と外壁(③)は原則として変えないこと、アアルトの外壁は出来るだけ残す(④)など7つ挙げられる。

[viii] 「『現代建築様式論』でもくろんだのは、この空間変容術をつくりあげるための建築様式の基礎的な段階での模索であった」『建築のマギ(魔術)』p10

[ix] 1974 6月    吉岡112
1977
9月    テラスロマネスク桃山台
1980
1月    サンツモリビル
1980
3月    杉山

1982
3月    西脇市立古窯陶芸館 (兵庫県西脇市
1982
4月    アメリカ村三角公 (大阪中央区)
1987
3月    藤田<神殿住居地球庵>
1987
3月    神村民体育館 (歌山県神村)
1989
10月    立八条小校体育館および八条公民館 (兵庫県
1990
9月    ウッディパル余呉森文化交流センター (滋県余呉町)
1990
12月    対馬玉町文化の郷 (長崎県玉町)
1992
6月    角館町立西長校 (秋田県角館町)
1994
4月    秋田体育館 (秋田
1994
12月    加茂町文化ホール (島根県加茂町)
1995
3月    黒滝村森のこもれびホール (奈
県黒滝村)
1996
5月    上湧別町郷土資館 (海道上湧別町)
1996
9月    黒滝外ステージ (奈県黒滝村)
1997
2月    神戸2100「庭羅都」 (自主研究及び製作)
1997
2月    西成ユートピア化地区計画 (共同製作)
1998
2月    再生平安京(京都グランドヴィジョン国際設計競
) (京都
1999
12月   メッカ巡者用合施設計画(国際コンペ)(サウジアラビア)
2001
6月~  インド、グジャラート州ジャムナガール震災復興住宅設計 (JJSKS<NGO>、天理大おやさと研究所)

追悼 宮内康、建設通信新聞、1992 1027

 追悼 宮内康、建設通信新聞、1992 1027

追悼・宮内康                                                布野修司


 一九九二年一〇月三日の深夜、『住宅建築』の立松久昌さんから電話があった。「宮内死んだ」。「残念でした」。口をついて出た言葉は意外にクールであった。五月一二日の入院以来、経過を知らされ、遠からずこの日が来ることを予感し、覚悟していたからかもしれない。しかし、日毎に無念さが増してくる。享年五五才。早すぎる。若すぎる。残念である。

 宮内康さんとは、一九七六年の暮れに、「同時代建築研究会」(通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)を始めて以来のつきあいである。研究室の先輩なのであるが、歳が一回り下ということもあって、それ以前に、研究や設計活動に関したつき合いはなかった。当時コアスタッフのひとりとして関わっていた『建築文化』のシリーズ「近代の呪縛に放て」で、原稿依頼をしたのが最初の出合である。

 その後、十数年にわたって、康さんの側に居て実に多くを学んだ。建築へのラディカルな視点を、議論のスタイルを、文章の書き方を、そして、酒の飲み方を。碁だけはついに落第だったのだけれど、・・・。

 「設計工房」、「AURA設計工房」そして「宮内康建築工房」、康さんのいる場所は、いつも学校であり塾であった。梁山泊のイメージが常に康さんにあったように思う。康さんは、その資質において生まれながらにして教師であり、先生だったのだと僕は思う。

 康さんの人生にとって、最も大きかったのは、理科大闘争であった。知られるように、彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた友人達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康さんは大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断であった。実に不幸であった。

 いずれしっかりした宮内康論を用意しなければならない。宮内康さんに直接教えを受けた者のそれは義務でもある。『怨恨のユートピア』(井上書院)を繰り返し読もう。何よりも言葉が鮮烈である。宮内康さんは、最後までラディカルな建築家として生き続けたのであるが、文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉がその魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など僕らの想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。『風景を撃て』(相模書房)もまた座右の書にしよう。時代との鮮烈な闘いがそこにある。

 同時代建築研究会による『現代建築』(新曜社 近刊)が生前上梓できなかったのはいかにも残念であった。いずれにせよ、誰かが『怨恨のユートピア』を書き続ける必要があろう。宮内康さんは居て貰わないと困るのである。

 建築家として代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」ではないかと僕は思う。寿町、釜ケ崎と続けて、「寄せ場」三部作になればいい、というのが康さんの希望であった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対する異議申し立てになっている。康さんは最後まで異議申し立ての建築家だった。

 遅ればせながら、「建築フォーラム(AF)賞」という賞が宮内康を代表とする「山谷労働者福祉会館」の建設に対して送られることになった。しかし、間に合わなかった(一一月一九日受賞式)。つくづく、不運である。

 遺作になったのが、七戸町立美術館(青森県)である。無念ながら、その完成を待たずに逝くことになった。ただ、少なくともその完成までは、その遺志を継ぎながら、宮内康建築工房は運営されつづける予定である。                                                               合掌