現代建築家批評22 『建築ジャーナル』2009年10月号
現代建築家批評22 メディアの中の建築家たち
空間に恋して
象設計集団の軌跡
象設計集団が結成されたのは1971年6月のことである。設立メンバーは,富田玲子(1938年東京~ )[i],樋口裕康(1938年静岡~)[ii],大竹康市(1938年仙台~ 1983年11月20日)[iii],半年遅れて有村桂子(1942年大阪~)[iv],重村力(1946年横浜~)[v]が参加する。Tomita(T),Higuchi(H),Ootake(O)でTHOすなわち象(ZO)である。早稲田大学大学院(吉阪研究室)の同窓生がU研究室経て独立する際に,若い有村,重村が加わるかたちでの出発であった。
つい先頃(2009年6月14日),重村さんの神戸大学退任記念会で久しぶりに樋口裕康さんに会った。久しぶりにといっても,二人とも思い出せないぐらい久しぶりである。かろうじて僕が思い出したのは,「悠々ふるさと会館」(島根県川本町)設計競技(1994年)の公開審査会の時だから,直近でも15年ぶりということになる。左官の久住章さん,象設計集団の現代表の町山一郎さんと一緒で短い時間だったけれど飲んだ。なつかしかった。
1971年に僕は重村さんと出会った。「雛芥子」の催し(「柩欠季」)のビラを早稲田大学に貼りにいって,吉阪研究室でなにやら作業していて応対してくれたのが重村さんであった。退任記念会では,藤森照信を加えて三人での鼎談[vi]ということで,昔話をさせられたけれどとても時間は足りない。「雛芥子」に駒場の学生自治会の会長選挙に獄中立候補した仲間がいて,その仲間が重村さんと繋がっていて,山下洋輔(1942~)[vii]のアルバム(レコード『ダンシング古事記』)を一緒に売り歩いた,などという不思議な縁があった。しかし,出会った当時,象設計集団が発足したばかりだとは知る由もなかった。とにかく, これまで,「雛芥子」に関連して多少触れてきたが,1960年代末から1970年代にかけて,至る所,梁山泊があった。時代を全体として浮かび上がらせる作業については,若い建築史家に期待したいと思う。
設立35周年を記念してまとめられた作品集は,『空間に恋して Love With Locus 象設計集団のいろはカルタ』(工作舎,2004年)と題される。田中泯(1945年~)[viii]のダンスのタイトルから採られたというが,「空間に恋して」というのは,いかにも象らしい。久しぶりに会って,ひたすら少年のように建築について語り続ける樋口さんに正直感動した。建築が心底好きなのである。富田さんも「建築のよろこび」[ix]を語る。建築を愛せない建築家は建築家ではない。当然である。
「Love
with Locus」のlocusは,現場,場所,位置,所在地,中心という意味で複数形はloci,ラテン語localが語源でゲニウス・ロキ Genius lociは「土地の精霊」である。これまた象らしい。
象は,設立後まもなく手がけた「今帰仁村中央公民館」(1975年)で芸術選奨文部大臣新人賞(美術部門,1977年),また,沖縄における一連の都市計画で都市計画学会石川賞(1977年)を受賞する。そして,名護市庁舎公開設計競技で最優秀賞(1979年),日本建築学会賞を受賞する(1982年)。華々しいデビューであった。
まずは,象設計集団の軌跡を振り返ろう。
U研究室
象設計集団の母胎はU研究室(1963-)である。前身は,吉坂研究室(1953-1964)[x]で,1961年以降,早稲田大学から吉阪隆正(1917-1980)の自邸敷地内(新宿百人町)のプレファブ小屋に移され,1963年にU研究室と改称した。富田玲子は,その1963年に入室し,翌年,大竹康市が加わる。樋口裕康は修士のときからアルバイトをしていて,終了と同時にU研究室のメンバーとなる。THOの三人にとって,象設計集団設立までの,20代半ばから30代へかけての時間は,建築家としての全てが遺伝子として組み込まれる建築修行のかけがえのない時間であり,U研究室がその場となるのである。
東京大学建築学科の最初の女子学生となった富田玲子が丹下研究室を経てU研究室へ入室する経緯は,『小さな建築』(みすず書房,2007年)に詳しい。東京大学の同級生に,61年に結婚することになる林泰義(1936~)[xi],規格構成材方式で知られる夭折した剣持昤[xii],太陽建築<ソラキスSOLARCHIS>で知られる井山武司(1938~)[xiii],近澤可也(1934~)[xiv],そして宮内康[xv](1937-1992)がいる。
今や延藤安弘(1940~)[xvi]とともに「まちづくり伝道師」といっていい林泰義と宮内康は親友であった。建築ジャーナリズム研究所(宮内嘉久)が編纂した『建築年鑑』(1969年)の特集「まず想像力を怨恨でぬりかため凶器とせよ」は,二人で編んだものだ。また,『店舗と建築』誌で雨之路薫(あまのじやく)というペンネーム(共同)で辛口コラムを連載していたこともある。宮内康は,1970年に劇団状況劇場(唐十郎)の稽古場(山中湖)「乞食城」の設計を依頼され,「建築家’70行動委員会」に集った若い仲間たちと自力建設を行う。この若い仲間の中に有村桂子と重村力がいた。僕は,宮内さん,林さん,重村さんを通じて,象のすぐ近くにずっといたことになる。
妖精の選択
宮内康は,「象賛歌 集団設計はいかにして可能か」(『建築文化』1978年5月)の中で,「「象」には,・・・かつてごく親しくしていた友人がいる。・・・「象」にはまた,私のかつて同級生であったひとりの女性がいる。彼女は,・・・お伽噺の世界からぬけ出てきた妖精のような,そんなすばらしい人なのである」と書いている。
富田玲子は,丹下研究室で代々木国立屋内総合競技場の設計に参加しながら,建築学生の必読書となるK.リンチの『都市のイメージ』を翻訳している。修士論文は『空間の記号論』である。実は,吉武研究室に入ることが決まっていたけれど[xvii],設計がやりたいということで丹下研究室に移ったのだという。当時の丹下研究室には,神谷宏治,磯崎新,黒川紀章など錚々たる面々がいた。
しかし,富田が修士課程修了後に選択したのは吉阪隆正[xviii]であった。そして,U研究室では,実質的リーダー(番頭)であった大竹十一(1921~2005)[xix]に手ほどきを受けることになる。『小さな建築』には,丹下研究室と吉阪研究室の対極的な違いが明快に振り返られている。丹下研究室の設計は,最後まで丹下健三の作品である。それに対して,吉阪研究室では,どんな些細なプロジェクトでも「これは私がやりました」と言える作品となる。そして「構造は空間に従う,外も内と同じ密度で考える,エレべーションのスケッチが少ない,粘土模型が多い,原寸をたくさん描く,触覚を大切にする,写真より実物の方がいい,製図板が小さい,作品の連続性がうすい」のが吉阪研究室である。
沖縄
象設計集団の出発点は沖縄である。「沖縄子供の国マスタープラン」(1971)の後,「波照間の碑」「沖縄子供の国こども博物館」「恩納村基本構想」(1972),「沖縄子供の国じゃぶじゃぶ池」「名護市総合計画基本構想」(1973),「・名護市工芸村基本計画」「多野岳「山の冠」計画」「今帰仁村総合計画基本構想」(1974),「今帰仁村中央公民館」「名護市総合公園(21世紀の森)基本計画」「今帰仁村第一次産業振興計画」(1975),「今帰仁村第一次産業基本計画」「石川市総合計画基本構想および土地利用計画」「那覇新天地市場計画」(1976),「今帰仁村暮らしの基本計画」(1977),「ガジュマル住宅の家」「名護市買物公園計画」(1978)と,初期の設計,計画は沖縄に集中する。
沖縄が本土に復帰したのが1972年,そして,オイルショックが1973年である。高度成長から省エネルギー社会へ,量から質へ,相次ぐ受賞にはそうした社会的背景があったと思う。東京オリンピック(1964)から大阪万国博Expo’70(1970)へ昂揚した日本の建築界が暗転する状況において,象の沖縄デビューは実に象徴的だったのである。
名護市庁舎のコンペの時,その取材のために沖縄を初めて訪れた時のことを思い出す[xx]。「京都国際会議場」,そして「箱根国際会議場」以来久しぶりの公開コンペであった。象と沖縄との濃厚な関係から出来レースが噂されたりしたが,文句ない勝利であった。沖縄の風土をどの案よりも読み込んだ案であった。
地域空間の歴史的骨格,そしてそれを支える建築言語を掘り起こし,地域住民と一緒に建築空間をつくりあげる手法は,いち早く,日本建築の新たな行方を示すように思えたし,今,さらにそう思う。
サッカー
象設計集団の基礎にあるのは集団的想像力である。富田玲子は「協働設計」というが,それはもちろん,戦後様々な設計集団が追求し,行き着いた集団設計―共同設計(組織設計)の位相とは異なる。独立した個人が前提であり,作業を協働し,議論の末に「一本の線を共有する」ことが目指される。そもそもの設立にしても,もともとは別々に独立を考えていたのであって,組織としての集団設計が前提ではなかった。今風に言えば,コラボレーションである。アトリエ・モビルの丸山欣也[xxi]らとのコラボレーションは当初から行われ,ネットワークは広がっていく。そして,やがてチーム・ズー(動物園組)と称して,「いるか設計集団」,「アトリエ・熊」,「アトリエ・鰐」など協力チームを増やしていく。こうした鮮やかな集団戦略,ネットワーク戦略を構想し,展開し得た設計集団は他にはない。そうした意味で,象設計集団は,戦後最もユニークな設計集団といっていい。大きな声で口に出すのはいささかおこがましいが,住宅に拘って同様な方向を目指したのがHPU(ハウジング計画ユニオン)の構想,地域住宅工房のネットワーク構想(大野勝彦)であった。
大竹十一と区別するために大竹ジュニアと呼ばれた康市は,東北学院高校時代に陸上競技とサッカーでインターハイに出場したというスポーツマンであり,サッカー・チームとしての象も率いた[xxii]。大竹ジュニアは,1983年にサッカーの試合中に心臓発作を起こして急逝する。象設計集団は,いまでも「十勝サーカス」というチームを組織してサッカーを続けている。
象の組織論,集団論にはサッカーがある。すなわち,建築もサッカーも個々の想像力・創造力を集団的にまとめあげるという共通点がある。2002年にA=Cup(エー・カップ)という建築サッカーリーグが設立されて毎年大会が開催されつつあるが,前夜祭で戦わされるサッカー論だか建築論だかわからない議論を聞いているとつくづくそう思う[xxiii]。
ドーモ・セラカント
沖縄の仕事に富田玲子は大きくは関わっていない。二人の子どもの子育てで東京を長期間離れられなかったのである。「むむ」(アームカバー)と「ぞぞ」(マント)という衣服デザインを手掛けた後,「ドーモ・バレーラ」(調布1972)「脇田邸」(文京区弥生町1973)「ドーモ・アラベスカ」(杉並区成田東1973)「ドーモ・セラカント」(鎌倉市旭ヶ丘1974)「ドーモ・スクヴァーマ」(目黒区五本木1975)「船曳・岸田邸」(世田谷区経堂1977)といった東京近辺の住宅作品に専ら関わっている。大竹康市は,興味深いことに、「僕は特定の個人に奉仕するために建築するのはいやだ!」と住宅の設計には参加しなかったという。
初期の住宅作品を代表するのは「ドーモ・セラカント」である。魔術の研究家とお琴の師匠が施主で,浄化槽と温水床暖房を担当した山越邦彦(1900 - 1980)[xxiv]の命名だという。極めて特異な形態で,「象のイメージ」をつくりあげることになるが,個々の住宅作品はそれぞれ傾向を異にする。「作品に継続性がない」のが象の特徴というが,住宅作品の場合,個と個は直接ぶつかり合う,それがそのまま表現されるとみることもできる。しかし,「シーラカンス(魚)」の形を平面にした「ドーモ・セラカント」には,学生時代の設計製図で「ピアノの先生の家」としてグランドピアノの形をそのまま案にしたという[xxv],あるいは「古代ローマのパン屋のお墓」を見て発想したという「起爆空間」[xxvi]を設計した富田玲子の臭いがする。「お伽噺の世界からぬけ出てきた妖精」には「おちゃめ」なところがある。象の住宅作品群をどう位置づけるかはひとつのテーマとなるだろう。
引越し魔
麹町のマンション(1971-1972)を事務所として設立された象設計集団は,その後,早稲田の2階建てプレファブ小屋(1972-1977),歌舞伎町元予備校校舎(1977-1979),中落合の2階建て民家(1979-1982),高円寺の雑居ビル(1982-1983),東中野の一戸建て(1983-1990)と事務所を点々と移す。
沖縄の後,象の地位を確固たるものにしたのは,中落合時代の埼玉県宮代町の「進修館」(1980)と「笠間小学校」(1982)である。「世界のどこにもないもの」をという齋藤甲馬町長(1900-1982)との出会いがあり,庁舎と小学校の建設とともに「新しい村」づくりが開始された。
地域の伝統を色濃く空間に残す沖縄に比べると,宮代は江戸時代中期に新田開発が行われた地域にすぎない。しかも,首都圏にあって都市化の波に飲み込まれつつある場所にある。そこで,象は沖縄と同じように地域再生が可能であることを示すのである。
僕が富田さん,樋口さんに初めてあったのは中落合時代である。石山修武の仲介で『群居』の,渡辺豊和,大野勝彦も一緒であった。林泰義・玲子夫妻が大野勝彦のセキスイハイムM1を21ユニットも購入したという強力な縁もあった。楽しく飲んだが,後味の悪さが残っている。おそらくは象グループの仲の良さに嫉妬したであろう渡辺豊和が突然「象は擬似民主主義だ。俺はどうせワンマン・ファシストだよ」とかなんとか叫んで,テーブルをひっくり返したのである。富田さんのスエードのスカートにお酒がこぼれ,後日,林さんに僕はしこたま怒られたのであった。
台湾
そして,次の大きな展開が始まるのは1986年である。吉阪研究室で学んだ郭中端を通じて,台湾宜蘭での仕事が舞い込むのである。全長12キロにわたる「冬山河親水公園」計画(1987-1994)である。この壮大なランドスケープ計画とともに台湾事務所が設けられることになる(1988)。そして,台湾,とりわけ宜蘭との関わりを深める中で,宜蘭縣縣庁舎(1997),宜蘭縣政中心・中央公園(1999),宜蘭縣議場(2001),宜蘭縣史館(2001)が次々に竣工することになった。
象設計集団が台湾との関わりを開始する直前にまとめられた作品集『象設計集団』(鹿島出版会,1987)は,「象の宇宙―スケールをめぐる15の旅」と題され,冒頭に「宇宙」(109m)「地球」(108m)から50センチの「シーサー」,10センチの「マザーチェア」まで「沖縄」を中心としてズームダウンしてみせてくれている。107(1万キロメートル)で見えてくるのは「東南アジア」である。そこに,黒潮世界の発見,あるいは照葉樹林地帯の発見が近代日本を相対化させるという地井昭夫の「発見的方法」という小文が引かれているが,沖縄を出発点として台湾へ向かうのは大きな戦略であったと思う。東南アジアを歩き始めていた僕は大いに意を強くしたものである。
十勝の廃校
台湾での仕事を本格させる,まさにその瞬間に象設計集団は北海道へ拠点を移す(1990年)。正直面食らった。何故?という思いは今でも強い。
バブル全盛で広い作業スペースを確保するためには,そして野外パーティーを開ける庭付きの空間となると,天文学的保証金が必要となる。都内の小さなビルに入ることを躊躇しているところに,十勝には廃校がたくさんあって,極安で借りられるという情報がもたらされた。聞けば理由は簡単である。しかし,廃校といえば,それこそ北海道でなくても,と思うけれど,選択は選択である。鎮錬(ちんねる)小学校そして然別小学校を拠点に地域に住み込んでの建築まちづくりが始まるのは1990年のことである。
象は,こうして沖縄から北海道まで,日本列島については,どこでも攻めうる布陣を敷いたことになる。
[i] 日本の女性建築家。象設計集団の創始者の一人。現在象設計集団東京事務所主宰。母は日本で女性初の大使でデンマーク大使を務めた高橋康子。東京に生まれ,高田馬場で育つ。戦時中埼玉県に疎開しその後東京阿佐ヶ谷で育つ。代表作のドーモ・アラベスカはそのときの家を改修したもの。ピアノを音楽評論家藤田晴子に師事。東京教育大学付属高校から東京大学理科2類に進学。1961年,東京大学工学部建築学科を卒業し,大学院に進学。同年林泰義と結婚。当初吉武研究室に所属するがしばらくして丹下研究室に移籍。丹下健三とともにケヴィン・リンチの著書の翻訳を手がける。1963年に大学院を修了し,しばらくして吉阪隆正が主宰する建築設計事務所U研究室に所属する。1965年に休職し子育てと夫の親戚の家の設計に携わった後復職。1971年から,象設計集団設立に参加。設立してしばらくは衣装の仕事をする。設計活動のかたわらマサチューセッツ工科大学,ペンシルベニア大学,東京大学,早稲田大学等で客員講師を務める。
[ii] 1939年静岡生まれ。早稲田大学大学院修了後,故吉阪隆正氏主宰のU研究室を経て,1971年⑭象設計集団設立。代表取締役に就任。
[iii] 日本の建築家。都市計画家。象設計集団創設者の一人で中心的存在。宮城県仙台市生まれ。東北学院中学校・高等学校に進学し,高校では陸上競技とサッカーでインターハイに出場する。1962年,東北大学工学部建築学科卒業。卒業設計は全国優秀賞を受賞する。その後早稲田大学大学院に進学し同大学院修士課程修了。1964年,吉阪隆正が主宰する建築設計事務所U研究室に入所し,大学セミナーハウス,大島元町復興計画(計画書,大島中学校体育館,吉谷公園,大島参道など)生駒山宇宙科学館,相模湖総合復興計画などを担当する。1971年,象設計集団設立。同時に早稲田大学産業技術専修学校の講師を務める。1977年,今帰仁村中央公民館で,芸術選奨文部大臣新人賞受賞。沖縄の一連の都市計画業績に対し日本都市計画学会石川賞受賞。1982年,名護市庁舎で日本建築学会学会賞。1983年,サッカーの試合中に心臓の発作で倒れて急逝。
[iv] 建築家。大阪府生まれ。神戸大学大学院修士課程修了。1971年,象設計集団設立メンバー。1981年から吉村雅夫らと建築設計事務所いるか設計集団を主宰。神戸市文化財保護審議会委員などを歴任。
その他大阪樟蔭女子大学学芸学部インテリアデザイン学科などの非常勤講師もつとめる。
[v] 建築家。都市研究家。神奈川大学工学部教授,神戸大学名誉教授,九州大学客員教授。アメリカ建築家協会特別名誉会員。1946年神奈川県生まれ。1969年,早稲田大学理工学部建築学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位修得。1971年,大竹康市らと象設計集団設立に参加。1978年神戸にアトリエ系建築設計事務所「TeamZooいるか設計集団」を設立。現在同事務所顧問。
[vi] 「地域と建築」(重村力・藤森照信・布野修司:コーディネーター中江研)
[ix] 『小さな建築』の最終章(第八章)は「建築のよろこび」と題される。
[x] 吉阪はフランスから帰国後の1953年,大学内に吉阪研究室を設立,建築設計活動を開始する。1954年,武基雄の研究室に所属していた大竹十一を誘い,滝沢健児と岡村昇が参加し,1955年に渡邊洋治(~58年),山口堅三(~61年),城内哲彦(~64年),松崎義徳(1931年-2002年),1959年,鈴木恂(~61年)沖田裕生(同)戸沼幸市(~72年。吉坂の大学研究室を継承)が加入する。1961年,大学構内から離れ,吉阪の自宅敷地内に移る。1963年,名称をU研究室に改称する。
[xi] 東京大学工学部建築学科・同大学大学院数物系研究科博士課程修了。1969年,計画技術研究所を設立。現在,NPO法人「玉川まちづくりハウス」運営委員。1990年以降はNPO法とNPO法人の実現に参画,NPOセクターの確立に取り組む。また市民参加のワークショップにより住民の活気を引き出すまちづくりを提唱し全国に広めることに尽力する。NPOとまちづくりの一連の研究及び活動により,1997年日本都市計画学会石川賞を受賞。
[xii] インテリアデザイナー剣持勇(1912-1971)の息子。交通事故で亡くなる。
[xiii] 1938年 山形県生まれ。1961東京大学建築学科卒業,1963東京大学大学院修士課程建築学専修,1966東京大学大学院博士課程都市工学専修。 井山武司アトリエ開設。大学及び大学院で丹下研究室において,東京計画1960 東京オリンピック室内競技場 スコピエ市都市計画などに参加
。1976年の酒田市大火復興に尽力する。1979年,太陽建築研究と計画を開始。1993年太陽建築研究所-SOLARCHIS- 〈ソラキス〉建設。1999年建築フォーラム賞受賞。2002年環境やまがた大賞受賞。井山さんはなぜか渡辺豊和さんの友人で親しく,太陽建築研究所で渡辺菊真が修業していたことがある。バリ島にエコハウスを設計建設,布野は見学に行ったことがある。また,スラバヤ・エコハウスでは,お世話になった。
[xiv] 1934年石川県金沢市白銀町生まれ。金沢大学付属高校卒業。1953年石川県庁総務部総務課勤務。 受験のため退職上京。東京大学理科一類入学。 東京大学工学部建築学科卒業(1961)。 東京大学数物 系大学院建築学・丹下健三研究室終了(1964)。1965年株式会社パンデコン設立代表取締役 現在に至る。
[xv] 宮内康については,刊行委員会編『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(れんが書房新社,2000年)参照。
[xvi] 地域プランナー,地域活動家。まち育ての研究と実践,人材育成のほかに各地で影絵を駆使した「幻燈会」を開いて啓蒙につとめる自称「まち育ての語り部」。NPO法人「まちの縁側育くみ隊」代表理事(2003年~)愛知産業大学大学院造形研究科教授(2005年)。大阪府大阪市生まれ。北海道大学工学部建築学科卒業(1964年),京都大学大学院に進学,西山夘三に師事。工学博士(1976年)1980年,熊本大学工学部,以降,名城大学,千葉大学工学部都市環境システム学科教授を歴任 1983年,「絵本にみる住宅と都市のつながりに関する研究・啓蒙」で都市計画学会石川奨励賞1990年,日本建築学会賞論文賞受賞 1995年。
[xvii] 「研究調査ばかりで」,また,「学校や病院の規模をどうやって決めていくか数字や数式ばかり出てきて」「無理だなあ」と思って移籍させてもらったのだという(『小さな建築』p170)。吉武研究室で空間論が議論されるのは少し後のことである。そして,鈴木成文研究室ではK.リンチに触発されて「領域論」が展開される。『都市のイメージ』のあとがきに紹介されるように,中心となったのは,東大建築学科二番目の女子学生となった松川淳子さんである。僕は吉武研究室の助手であった松川さんに設計も調査研究も手ほどきを受けた。不肖の弟子である。
[xviii] 文京区小石川生まれ。小学校6年生の終わりに父の転勤でジュネーヴに移住。中学3年のとき2度目のスイス滞在から単身帰国。早稲田大学高等学院に進み,1941年早稲田大学理工学部建築学科を卒業。早稲田大学大学院修了後,同助手。1950年戦後第1回フランス政府給付留学生として渡仏。1952年までル・コルビュジエのアトリエに勤務。帰国後の1953年,大学構内に吉阪研究室を設立。1959年早稲田大学教授。1969年早稲田大学理工学部長。1973年には日本建築学会の会長に就任。登山家・探検家としても有名で,日本山岳会理事や1960年の早大アラスカ・マッキンリー遠征隊長を務めた。
[xix] 宮城県生まれ。早稲田大学理工学部卒業。早稲田大学で会津八一に師事。卒業後,佐藤武夫の建築設計事務所を経て,梓建築事務所を共同で設立。その後早稲田大学へ戻り,1954年,吉阪隆正に請われて建築設計事務所の吉阪研究室(のちのU研究室)創設に参加。同研究室の番頭となる。吉阪亡き後もU研究室で設計活動を続けた。
[xx] 『建築文化』1979年?
[xxii] 全日本設計事務所サッカーリーグに加盟(1980),リーグ優勝を果たしている。
[xxiii] ワールドカップ出場など夢のまた夢と思われていた時代のサッカー少年であった僕も2007年から「フノーゲルズ」を率いてA=Cupに参加している。2008年,2009年と2年連続BOP(Best Old Player)賞を受賞した。
[xxiv] 東京帝国大学工学部建築学科卒業。バウハウスに学ぶ。雑誌『建築時潮』を編集。芸術家としての建築家像を否定し,自ら「構築家」と称して科学性と社会性のある建築を提唱した。自邸・ドモディナミカ(動力学の家)(1933)では,乾式工法と床暖房を採用。DOMO
MALTANGLAで,太陽熱利用のほか生ゴミと糞尿をメタンガスに変えて台所の燃料にするなど,リサイクルやエコロジーに基づいた住宅設計を提案。
[xxv] 『小さな建築』p167
[xxvi] 4面のファサ―ドに25個(5×5)ずつ丸窓がついている立方体の住宅で,テレビ番組「ウルトラマン」で悪の巣窟として使われたりした。