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2021年4月11日日曜日

現代建築家批評28  磯崎新自身による磯崎新  「世界建築」の羅針盤

 現代建築家批評28 『建築ジャーナル』20104月号

現代建築家批評28 メディアの中の建築家たち


磯崎新自身による磯崎新

「世界建築」の羅針盤

 

「磯崎は、極めて個人的な思考と個人的な空間の展開として、建築を創造してきたのであり、ひとつの思想学派に位置づけられるわけではない[i]。しかし同時に、自らの仕事に個人的様式を刻印しようとすることよりも、特定の施主と敷地をめぐる政治的、社会的、文化的文脈の孕む問題に建築的解答を生み出すことの方を好んできた[ii]。建築がその始源からもつ潜在力をとり出してみせることによって、建築を超えた他領域の知に対しても大きな影響を与え続けている[iii]。また、評論家として、設計競技の審査員として、世界中のラディカルな建築家たちの構想を実現させるために多大な貢献をしてきた[iv]。磯崎によって、個人レヴェルの発言が可能となるグローバルな言説の場が可能になったといってもいい[v]。半世紀を越えるその活動は、思想、美術、デザイン、音楽、映画、演劇、そして、もちろん、建築の枠組みを超えて、あらゆる時代や領域にまたがる問題提起を生み出してきた[vi]。」[vii]

「磯崎新アトリエ」のウェブサイトに、磯崎新のプロファイルが以上のように短くまとめられている。ウェブ上の日本語訳は磯崎自身のものとはとても思えないが、ここには、磯崎新自身による自己評価、自らが規定する自らの立ち位置が的確に表現されていると思う。

磯崎新は徹底して「個」に拘る。「どの思想領域にも与しない」。しかし一方、「自らを刻印(署名)するスタイル」には拘らない。磯崎新は、あらゆる領域、あらゆる既成の枠組を否定し、批判し、それから逃亡し続ける。「建築」あるいは「建築家」という枠組みに対しても、である。「建築の解体」といいながら「大文字の建築」という。「建築の始源のもつ潜在力」を取り出すという。「世界建築家」としての揺るぎなき地位を築きながら『建築家捜し』(岩波書店、1996年)などという。

制度からの逃走、あるいは制度との闘争、それはもちろん、言説の空間に限定されるものではない。磯崎新の生き方そのものにかかわっている。還暦を迎え(1991年)、「名誉」「地位」「財産」を求めまいと誓った[viii]、という。ラディカルな「生」である。

羅針盤としての磯崎新

磯崎新は、常に自ら設定する座標軸あるいは羅針盤によって、その位置と動いていく方向を自ら計測しながら仕事をしてきたように見える。すなわち、時代を読みながら、仕事の場所に応じて、自らのなすべきことを見定めて仕事をしてきた、そういう建築家である。

もちろん、そう見えるだけだ。冒頭に引いたように、特定の施主と特定の場所に対してその都度「建築的解答」を与えてきたのであって、常に予め確固たる理念や概念、イメージがあって作品がつくられてきたのではない。磯崎自身が「あらゆる論理的説明は事後的になる。後からやってくる」[ix]というように、また、設計した建物を当初の意図に還元してグラフィックに定着する[x]ドローイング(版画)のシリーズを続けるように、言葉とイメージの生成、その定着過程は単純ではない。

しかし、それぞれの仕事の位置づけについて常に戦略的であったことは間違いない。作品とそれをめぐる思索、出来事についてはその都度文章を書き、その戦略を公にしてきた。あらゆる作品について、あらゆる仕事について自ら記し、その位置づけ、評価を自ら行い続ける、その一貫性は驚異的ですらある。そして、磯崎自身が、その自らによる評価、位置づけによって、その仕事へのあらゆる言説を誘導し、あらゆる批判的言説をも含みこむ言説空間を組織する、そんなふうに演出を仕掛けてきた。

全てが磯崎自身による磯崎新である。そして、その磯崎新による磯崎新であり、その磯崎新自身による磯崎新である。

その知性が世界中の建築家の中でも群を抜いており、常に最も広い座標軸による時空間を設定し得たが故にそれは可能であった。実際、磯崎新は、この半世紀、建築をめぐる言説を最も広く組織し続けてきた「建築家」であり、その自負が冒頭の自己評価でもある。

磯崎新が、世界を股にかけて活躍する建築家たちのなかでも、国際コンペなどで審査員を務める「インターナショナル・デザイン・マフィア」の一員として、また1990年代に毎年110回にわたって行われた建築と哲学を問うAny会議など、とりわけ「建築」をめぐる言説の場、パラダイムを組織する理論家として、実にユニークな役割を果たしてきたのも、その類い希なる資質と能力によっている。この点においては、磯崎新は、間違いなく近代日本が産んだ最高級の「世界建築家」である。

磯崎新がプロデュースに加わった1996年のヴェネジア・ビエンナーレは「未来を感知する-地震計としての建築家-」をテーマとしたが、地震計あるいは羅針盤としての建築家こそ磯崎に相応しいように思う。僕らは、随分長い間、磯崎の設定する羅針盤に頼ってきたのである。いま僕らはGPS[xi]Google Earthに頼りながら世界中を歩くのであるが、磯崎新という羅針盤はあたかもGPSのようであった。

磯崎新についての最大の関心は、そして僕らにとっての最大の問題は、磯崎の設定してきた座標軸、羅針盤が「未来を感知」してきたかどうか、なお感知し続けつつあるかどうかである。

メディウムとしての磯崎新

もう30年も前に、「磯崎新論:引用と暗喩-ラディカル・エクレクティシズムの位相」と題した僕の最初の建築家論[xii]において、「磯崎新の知の特性は、その知的触手の向けられる領域あるいは対象そのものの特性よりもむしろそれらとの距離や関係、知的情報の内容ないしその生産(創造)よりもその処理、変換のプロセス、メカニズムの特性においてよりよく捉えることができる」[xiii]と書いた。そこで「かれの思考は、対立するものを弁証法的に統合するのではなく、対立したまま共存させるというアンビヴァレンス(両極性)と、空間や存在を一義的に決定されたものとしてではなく捉えるアンビギュイティ(両義性)を特徴としている」という市川浩の磯崎評[xiv]を引いた。アンヴィヴァレントあるいはアンビギュアスな建築家というのは、『建築の解体』で「主題の不在」を大きく主題にして以降、磯崎新につきまとってきたように思われる。そしてさらに、磯崎新の位置を測定しようとして「同時にいくつものゲームが進行していく複雑に重なったチェスの盤」をイメージし、「磯崎は確かに盤上にいるのであるが、今現在どこにいるかは不明である」[xv]、というH.ホラインの磯崎評を引いた。H.ホラインは、そこで、磯崎新の人体解剖図を掲げ、頭-マルセル・デュシャン、首-フィリップ・ジョンソン、耳-ロバート・ヴェンチューリ、心臓-ミケランジェロ、あるいはジュリオ・ロマーノ、・・・・・ちんぽこ-丹下健三、尻-マリリン・モンローなどとしている。

このH.ホラインの「チェス盤」の比喩、「磯崎解剖図」には、磯崎新もいささか参った?ようだ。その後繰り返し引用することになる。実際、「お前には独自の個性がない、と言われたも同然だ」「自我のないイソ。そういえばお前のつくるものはまったくオリジナリティがない。誰かの物真似であって、それ以上でない」と多くの建築家に言われたという。

しかし、それに対する解答は次のようだ。

「個性なんて、単に自我の表出チャンネルを一本にしぼった結果に過ぎない。あわれな程に可能性をせばめている。この一覧表の建築家名は、実は無限に代入可能なたんなる例であって、ほとんど任意に選ばれていると思えばどうか。・・・とすると、私はひとつのメディウムであって、そこには多数のチャンネルが錯綜していて、それは、古今東西に分布し、ストックされている貯蔵庫に必要に応じて連結する器官に過ぎない」[xvi]

クロニクラーとしての磯崎新:日付入りのエッセイ

処女論集『空間へ』をまとめるに当たって、それまでに書いたいくつかの文章を柱にして、特定のテーマで書き下ろそうとして諦めた。作家論を別にすると、全て「日付のついたエッセイだった」[xvii]と気づいた。「建築空間を論理化し、方法論的にこれを組み立てたい、と思ったのは建築をはじめてすぐのことだ。55年度の修士論文でそれをテーマに提出しようとして結局まとまらなかった[xviii]」(『空間へ』p497)。「大学院に在籍可能な最後まで居残っていたにもかかわらず、遂に学会に研究論文ひとつ発表することがなかった。・・・一編の論文も書けなかったのは、ぼく自身の思考の構造に起因したといっていい」(『空間へ』p513)。

『空間へ』は、実質的には、磯崎新の学位請求論文といっていい。磯崎が形式をととのえることを断念しなければ、日本の建築アカデミズムは多少変わったかもしれない。

この磯崎が抱え込んだ困難さは、磯崎自身の「思考の構造」に起因するというより、「建築」のプロセスを論理化することの困難さに起因するというべきだろう。ここで差し挟むのも烏滸がましいが、博士課程に在籍中に一本の論文も書けなかったのは僕も同様である。『建築の解体』に導かれて、僕が卒論のテーマに選んだのはC.アレグザンダーの設計方法論である。設計過程を論理化するツールに関心をもって、“Notes of Synthesis of form”(『形の合成に関するノート』[xix])を読んで、実際プログラムHIDECS[xx]を書いた。前にも書いたけれど、これでも磯崎新がデジタル・アーキテクト第一号という称号を謹呈したという月尾嘉男のところでアルバイトしていたことがあるのだ。戸部栄一(椙山女学園大学)との共同設計である卒業設計(Partout et Nulle Part(何処でもあり、何処でもない)「キャンパス計画」)でもこのHIDECSを用いた。マトリックスと数字だらけでよく卒業できたと思う。設計プロセスを可能な限りオープンにし、決定の瞬間(ロンリー・ジャンプ)を明らかにすること、そのことにおいて決定の構造をオープンにしていくことが可能かもしれないというのがかろうじての結論であった。原広司がその限界を直感しながらさっさと博士論文を仕上げたのに比べると磯崎新の場合まじめ?すぎるのである。「アカデミズムにもジャーナリズムにも、それぞれ固有の方言ともいえる論理と文脈がある。学会の論文は多かれ少なかれ、その共有言語を用いて語らねば意味をなさないのだが、突きはなし、実証を加え、あおの客観性という、粉飾を加えねば体をなさないということが分かれば分かるほど、僕には縁遠い領域に感じられてきた。」(『空間へ』p513

「ジョン・レノンの「イマジン」からプロジェクトをつくれという建築の課題をだしたりするのでは私は教師失格である。モノを創造する秘訣は独断的であることだ。建築家は教職につくべきではない、と考えるようになった」(「私の履歴書」⑳)というけれど、プロフェッサー・アーキテクトになるチャンスはあったと思う。実際、武蔵野美術大学に助教授として席を置いた(数日通っただけで挫折)ことがあるのである。

編集者としての磯崎新

実際、磯崎新の全著作は「日付入りのエッセイ」を縦横前後に編んだものである。僕らはそれをテキストとして読んできた。実際、教科書だった。事実を並べるだけの建築史の講義や教科書に比べると遙かに深いレヴェルで建築を学んだのである。『建築の解体』は現代建築の、『造物主義』は西洋建築史の、『始原のもどき』は日本建築史の、それぞれテキストであった。『磯崎新+篠山紀信建築行脚』(『磯崎新の建築談議』)[xxi]は再編集されて『神の似姿』『人体の影』といった教科書に仕立て上げられている。磯崎新は、実に多くの作家論、作品論を書いてくれている。まるで『全建築史』は、ほとんど磯崎の眼を通して取捨選択され、磯崎によって書かれるかのようである。これでは建築史家はたまらないだろう。もちろん、磯崎自身が触れる建築家は磯崎新の興味と好みによるものである。近代建築の「教科書」によく取り上げられても、触れない建築家も少なくない。それに、磯崎新の眼中にほとんど「アジア」はない[xxii]。「建築」あるいは「構築」というのは徹頭徹尾西欧のものだというのがその前提である。すぐれた建築史家だと思うS.コストフなども、『建築(全)史』[xxiii]というけれどアジア=非西欧世界の記述はゼロだ。

前述のH.ホラインの磯崎評には、磯崎は建築のゲームにおいて勝手にルールを変更するからアンフェアだ、という指摘がある。盤そのものをひっくり返してしまうというのではない。盤は共有されているけれど、ルールを勝手に変えるから、どこにいるのか分からなくなるというのがH.ホラインである[xxiv]。建築に関わる言説空間をゲーム盤に例えるその土俵の問題を、時間軸(歴史)を挿入するとどうなるか。ゲーム(建築とそれを成立させた言説空間)の結果(評価)を事後に建築家自身が行い、その言説空間を誘導し、変形させるというのは「自家中毒」ではないか、とバトルを挑んだ?のが土居義岳である[xxv]

磯崎新は反論する。自分で自分の位置を測定することは不可能であり(「不確定性原理」)、位置測定される素材をドグマとして生みつづければいい。歴史家が評価するというのであれば、やってみせてくれ、ということだ。結局は、問題がゲームの土俵をどう設定するかであることははっきりしている。磯崎新が特権的にそれをなし得るわけではないのと同様に、建築史家がその土俵を設定する特権をもつわけではない。

僕などは、70年代末以降、アジアを歩き回り出すことにおいて、この磯崎新の設定するゲーム盤とゲーム・メイクから早々と脱落した気分がある。「主題の不在」「何でもあり」「好きにやろう」。「アジア」と「昭和(あるいは戦後)」という2軸で張られる単純な平面が、僕の「羅針盤(平面)」となった。しかし、それでも、とんでもない時空につれていかれつつあるという感じがある。F.D.K.チャンらが編んだ『地球建築史』[xxvi]は、全地球の各地域に建てられた建築を100年単位で横並びにして選定し、B.フラーのダイマキソン・マップにプロットしてくれているが、自分でやってみたい気になりつつある。磯崎新の土俵は、遙かに広大で複雑かつ柔軟である。自ら設定してきた土俵が実は「日本」と「建築」という2つの主軸でなりたっていることを、「きみの母を犯し、父を刺せ」という磯崎の母は日本であり、父は建築であるという土居の指摘で気づいたという。磯崎は、もちろん、その先の羅針盤を用意しつつあるらしい。

オルガナイザーとしての磯崎新

 もちろん、全てが表現活動といっていいのであるが、磯崎新の場合、プロデューサー、コミッショナー、審査員といった役割を得て、様々な場の組織者、運動の仕掛け人としての活動にかなりの時間とウエイトを割いてきた。磯崎は、ここでもメディウムであり、エディター、コーディネーターとしての資質をいかんなく発揮してきたのである。

設計競技の審査員として、無名ではあるけれどすぐれた新人に設計の機会を与える役割を果たしてきたことはよく知られている。例えば、坂本龍馬記念館の公開審査で、ほとんどの審査員がノーマークであった高橋晶子案がするすると最優秀案に選定される過程は唖然とするものであった[xxvii]。設計競技において究極的に問われるのは審査員の能力であり力量である。批評言語をもたない凡庸な審査員が、批評空間を圧倒する磯崎に説得されるのは無理もないのである。

 展覧会もまた磯崎にとって重要な表現のメディアであり、メッセージ発信の場である[xxviii]。そして、1990年代にわたって組織したAny会議のような場の設定は磯崎新の真骨頂である。知の最先端の、またアートの最前線の議論を常に自らのものとして思考する強烈な欲求がある。生来のアヴァンギャルドである。

 そうした中で、注目されるのは「NEXUS」「岐阜県北方県営住宅」「熊本アートポリス」のような仕掛け(設計者選定の仕組み)である。「タウン・アーキテクト」(アーバン・アーキテクト)制を模索していた頃、ビューロクラシーの隙間になんとか楔を打ち込もうという磯崎さんと建設省の委員会で一緒になったことがある[xxix]。阪神淡路大震災が起こらなかったとしたら、R.ロジャースをコミッショナーとする英国のCABE[xxx]のような仕組みが出来たかもしれない。

反芻される自分史:私の履歴書

『空間へ』が既に「年代記的ノート」を含んでいたように、自分史は繰り返し語られてきた。全ての論考が「日付入りのエッセイ」であるとすれば、全著作は自分史といえるのである。還暦を迎えて、1991年以降、ロサンゼルス現代美術館(MOMA)を皮切りに回顧展「磯崎新196090」が開かれた。その展示作品は、再生なった「大分市民プラザ(旧大分県立図書館)」に磯崎新建築展示室に収められている。「磯崎新とは誰か(磯崎新の世界)[xxxi]」といったインタビュー記事も以降少なくない。『建築家捜し』(1996年)『反回想Ⅰ』(2001年)など半生記も既に書かれている。その後次々に上梓される著書においても、自分史が反芻されている。20101月末には、1990年代を通じて組織してきたAny会議を総括する2冊も上梓された[xxxii]

ただ、その自分史は仕事の歴史であって、しかも1960年以降が中心である。その生い立ちについては、必ずしも語られることはなかった。しかし、昨年(2009年)、78歳を迎えて、「私の履歴書」[xxxiii]が書かれた。『日本経済新聞』のこの権威ある「各界を代表する著名人が、出生から今日に至るまでの半生を描く自伝」の連載シリーズに登場した建築家は、谷口吉郎1974年)、丹下健三(1983年)に続く3人目である。

磯崎の軌跡を辿ることはとてつもない作業である。磯崎新の世界を全て理解してー少なくとも膨大な著作の全ての文章に眼を通してー、その言説空間を相対化する作業は、凡庸なる建築家や批評家がとてもなしうるところではない。出来るのは、磯崎自身による磯崎新を適当に引用して繋ぎ合わせることである。その我流の読み(換骨奪胎)に、多少の自分を忍び込ませることぐらいである。




[i] Isozaki has created an architecture so personal in its ideas and spaces that it defies characterization in any single school of thought.

[ii] At the same time he resists the temptation to apply a signature style to his jobs, preferring instead to create architectural solutions specific to the political, social and cultural contexts of the client and site in question.

[iii] By harnessing the latent strength that has existed in architecture since its inception, Isozaki has been able to wield influence on knowledge systems far beyond his own field.

[iv] In addition, through his activity as a critic and a jury-member for major public and private architecture commissions and competitions, he has contributed significantly to making the visions of the world's most radical architects a reality.

[v] Through Isozaki it became possible that a global discourse be held at a level where individual voices can be heard.

[vi] His activities, spanning over a half century, have gone beyond thought, art, design, music, film, theatre and of course architecture, and they have raised questions spanning multiple ages and multiple disciplines.

[vii] 日本語訳は筆者による。

[viii] 私の履歴書30『日本経済新聞』20090502-0531

[ix] 「群馬県立近代美術館現代美術棟が完成したので、あの頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001p.243「やはり言葉はあとからやってくる」『建築の修辞』(美術出版社、1979)。

[x] 「原則的にはひとつだけのイメージをつくる・・・建築の建築的意図を最小限の手段と形態で定着させようとする。附加された要素が印象を濁らせるならば消してしまう。ばらばらにする。見えにくかったらズラす。そして、もうこれ以上減らすわけにいかないところまでもどす。これが実は設計を構想した意図だったといおうというわけだ。」「00後名」『建築家捜し』p.244という。

[xi] Global Positioning System(全地球測位システム)

[xii] 磯崎新については、本連載においてこれまで少なからず触れてきた。今猶、現代日本の建築家を位置づける大きな柱であり続けていると思う。僕の『戦後建築論ノート』(相模書房、1981年)にしてもその増補改訂版である『戦後建築の終焉世紀末建築論ノート』(レンガ書房新社、1995年)にしろ、「建築の解体」に始まって「大文字の建築」に行き着く磯崎新が主軸となっている。処女論集『空間へ』(美術出版社、1971年)、そして『建築の解体』(美術出版社、1975年)以降、その一連の著作は僕らの大切な教科書であり続けてきた。

[xiii] 拙稿、「磯崎新論引用と暗喩ラディカル・エクレクティシズムの位相」『現代思想』、青土社、197812

[xiv] 「磯崎新とデカルト主義」『近代建築』19751

[xv] ハンス・ホライン、「位置と動きー芸術<作品>として見た建築家またはイソザキの<なりたての未亡人>との結婚ー」石井和紘訳、『SD19764

[xvi] 12異名」『建築家捜し』(岩波書店、1996年)。

[xvii] 日付をかえて書きなおせば、なかみも全部かわってしまうのはわかりきっている」のに手を加えるのをやめる決心をするまでに3年かかってしまった(『空間へ』p554

[xviii] もっとまえに、ル・コルビュジェの著作を読みちらしたけど、五カ条のテーゼとか、都市デザインに関する解説はわかっても、たとえばNEW WORLD OF SPACEという、彼の空間イメージを絵画から都市にいたる全領域にわたって展開した、もっともやさしい本がついに理解できなかった。」

[xix] 稲葉武司訳、鹿島出版会、1978

[xx] HIerarchical DEConstruction System

[xxi] 『磯崎新の建築談議』六耀社2001/112004/10〈#01〉 カルナック神殿〈#02〉 アクロポリス〈#03〉 ヴィッラ・アドリアーナ〈#04〉 サン・ヴィターレ聖堂〈#05〉 ル・トロネ修道院〈#06〉 シャルトル大聖堂〈#07〉 サン・ロレンツォ聖堂〈#08〉 パラッツォ・デル・テ〈#09〉 サン・カルロ・アッレ・クァトロ・フォンターネ聖堂〈#10〉 ショーの製塩工場〈#11〉 サー・ジョン・ソーン美術館〈#12〉 クライスラー・ビル』

『磯崎新+篠山紀信建築行脚』六耀社1980/101992/02〈1〉 ナイルの祝祭〈2〉 透明な秩序〈3〉 逸楽と憂愁のローマ〈4〉 きらめく東方〈5〉 中世の光と石〈6〉 凍れる音楽〈7〉 メディチ家の華〈8〉 マニエリスムの館〈9〉 バロックの真珠〈10〉 幻視の理想都市〈11〉 貴紳の邸宅〈12〉 ゆらめくアール・デコ

[xxii] 『空間へ』には「インドのモスレム建築」としてファテプール・シークリ、またモスクに触れる文章がある。そして、21世紀に入ってイスラーム圏で仕事をすることになる。

[xxiii] Spiro Kostof, “A History of Architecture: Settings and Rituals”, Oxford University Press, 1985:鈴木博之訳『建築全史』住まいの図書館出版局、1990

[xxiv] 正確に言えば、磯崎が前提とするのは、同時にいくつものゲームが進行していく複雑に重なったチェスの盤であり、しかも水平な盤が重層するのではなく垂直軸ももつ立体格子(三次元空間)だとH.ホラインは言っている。

[xxv] 磯崎新・土居義岳『対論 建築と時間』(岩波書店、2001年)

[xxvi] Francis D.K. Ching, Mark M. Jarzombek, Vikramaditya Prakash, “A Global History of Architecture”, John Wiley & Sons, Inc。、 2007

[xxvii] 「かなり荒っぽい形態だったので審査委員の意見も割れたが、「龍馬なんだから、これくらいでちょうどいい」と委員長の私が一等に決めた」(私の履歴書24)。

[xxviii] 学生たちに占拠された第14回ミラノ・トリエンナーレ「電気的迷宮」(1968年)、「日本の時空間―間―」展(パリ、1978-1979年)、「磯崎新1960/1990建築展」(1991-1998年)、阪神淡路大震災をテーマにした第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展日本館展示「亀裂」(1996年)、1996年度アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー「カメラ・オブスキュラあるいは革命の建築博物」(1996年)、「海市」-もうひとつのユートピア1997年)、「アンビルト/反建築史」展2002年)、「磯崎新版画展―百二十の見えない都市」(2002年)、「磯崎新:7つの自選展」2008年)など。

[xxix] 「都市はどこへ行くか」(磯崎新・平良敬一対談『造景』19964月号)に建設省の「美しい街づくり懇談会」が触れられているが、僕が出会ったのはその後の「アーバン・アーキテクト」制に関わるヒヤリングの場であった。

[xxx] Committee of Architecture and Built Environment

[xxxi] 『朝日新聞』1994.4.2528。『磯崎新の仕事術』(王国社、1996年)所収。

[xxxii] 磯崎新+浅田彰『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』、磯崎新+浅田彰編『Any:建築と哲学をめぐるセッション1991-2008』鹿島出版会2010

[xxxiii] 『日本経済新聞』200952日~31日(全30回)。

2021年4月10日土曜日

現代建築家批評27  言葉の力  原広司の建築手法

 現代建築家批評27 『建築ジャーナル』20103月号

現代建築家批評27 メディアの中の建築家たち


言葉の力 

原広司の建築手法

 

「均質空間」批判という世界大の問いの設定と論理的にそれを解きたい、説明したいという人並外れた意欲と執念が原広司を一貫して駆り立ててきたように見える。しかし、その一貫する追求は完結することはない。事実、各論の冒頭あるいは末尾には「論」が未完であることが必ず表明されるし、その課題設定の大きさを思えばそれも当然であろう。

原広司にとって最大の問題は、その理論的営為をどう設計につなげるか、自らの建築表現を社会の中でどう成立させるかである。そして、その意識も当初から一貫してきたように思える。「実験住宅モンテビデオ」の展覧会に即して書かれた「離散性について-連結可能性と分離可能性をめぐる小論-」(2004年)は、その建築的思索のエッセンスを繰り返しているが、「位相空間」(の概念)を説明(借用)しながら語っているのは、個人と集団の関係、コミュニティや社会のあり方である。末尾に、「都市や建築は、<共有される近傍>において、純粋に建築的に社会からは縁を切ることはできない」という。そして、直前には、自動的に高度に、惰性的につくられる都市に反撃しなければならない、と、まるで「平均化の状況における建築家の立場」を書いた頃の主張を繰り返しているかのようである。

所詮、設計は、言葉と空間の鬼ごっこなのだ、と原広司はいう[i]

一般の建築家にとって、思索の源泉は現場である。流行の哲学用語を塗(まぶ)したような建築論は敬遠される。建築界以外の一般人にも「わけがわからない」と嫌われる。建築の現場には、それなりに豊かな世界があり、下手な「理論」は不要であり、言葉さえ必要とされない。理論家肌の建築家でも、「理論」は「理論」として現実の建築へ向かう。しかし、原広司が徹底して拘るのは言葉である。

しかし、言葉のみでは完結しない世界がある。また、理論的に説明しきれない世界が建築の世界である。原広司は、この間一貫してその最前線を自らのものとして引き受けてきたように思われる。

 

 集落の教え

原広司の場合、住居集合の配列を数学的モデルによって説明することに専ら関心があり、一方で、最低限、集落調査における発見を様々なレヴェルで表現あるいは設計手法に直結(直接還元)する構えがある、と既に書いた。住居集合論を空間の集合形式に直結させる山本理顕に対して、原広司の場合、理論的営為と設計の間にはギャップあるいは飛躍があるように見える。それを埋めようとするのが「空間図式論」であり、「様相論」なのである。そして、最後まで鍵になるのが言葉である。

設計手法あるいは設計方針は、しばしば、断片的なアフォリズムのかたちで示される。

『集落の教え 100』は、見事なアフォリズム集成である。

「あらゆる部分を計画せよ、あらゆる部分をデザインせよ」(1)「同じものをつくるな。同じものなろうとするものは全て変形せよ」(2)「場所に力がある」(3)から、「地下室は、記憶の箱である」(98)「平面上のゆがみを中庭で吸収せよ」(99)「部屋の数だけ世界がある」(100)まで、それぞれに薀蓄がある。また、それぞれから原広司の設計に対する考え方、設計手法の一端を窺うことが出来る。

『集落の教え 100』は、東京大学定年退任(1997年)を画してまとめられるのであるが、『空間<機能から様相へ>』が古今東西の言説、思索をテキストとして組み立てられた建築論集であるとすれば、これは集落をテキストとしてまとめられた、そしてアフォリズム集成のかたちをとった建築論集である。補注では、1自然、2空間、3時間、4部分と全体、5様相、6情景図式、7世界風景、8場所、9記号、10空間概念、11均質空間、・・・18仕掛け/考案、19解釈、20際立った集落というフレームで、「原」理論を読み解くキーワードがまとめられてもいる。

 

 言葉と現実

 作品集は、『現代日本建築家全集〈21〉』 (三一書房、1975)で磯崎新,黒川紀章,原広司の三人の一人として扱われて以降、『GAアーキテクト世界の建築家 (13) 原広司』(A.D.A. EDITA Tokyo,1993)、『(現代の建築家) 原広司』(鹿島出版会、1995)、『Hiroshi Hara』(Wiley-Academy2001年)などがある。「伊藤邸」(1967)「慶松幼稚園」(1968)から「梅田スカイビル」(1993)「新京都駅ビル」(1997)まで、その軌跡を追う中で、作品の流れ、その画期については既に見た。

1970年代の仕事はほとんどが住居の設計であった。原広司にとって、住居の設計は、「最後の砦」としての出発点であり、また「実験住宅ラテンアメリカ」が示すように還っていく場所である、ように思える。本人は、最初からミースやコルビュジェを超えることを目指していたのだ!というかもしれないけれども、超高層や大駅ビル、大ドームを設計する大建築家になるよりも、住居集落に拘り続けた建築家であるというのが相応しいように思う。

 しかし、建築家が住居の設計のみで生きていくのは難しいし、住居を規定する現実の諸条件は極めて厳しい。これは今も1970年代も変わらない。しかし、あくまで問うのは「建築に何が可能か」である。

 「住居は規模の大きな建物に比して、きわめて現実的な設計課題として現れてきた。現実の条件の厳しさは、設計者の努力ではもはや乗り越え不可能とさえいえる場合も少なくない。しかし、問われているのは、設計者の構想力だけである。」いかなる条件の下でも、砂漠の中のテントのような住居をつくる可能性はあるのだ、実は、有り余る可能性は、このうえなく厳しい現実なのだ、というのである。

  そして、正直に次のようにも書いている。

 「告白すれば、私は「ことば」に、構法上の自由度である逃げをとった。ことばの逃げによって、「もの」としての住居を納めてきた。ことばは、事実というより希望と幻想であり、いまもなお、次にはすばらしい住居ができるかもしれないと思い続けてきた持続力である」[ii]

 

 反射性住居

 言葉にはものを展開していく力がある。原広司が選択したのは、沈黙ではなく言葉による「呼びかける力」である。「有孔体の理論」で提示されたような、建築を組み立てる方法、手法は、その後単純には展開されない。「機能から様相へ」が大きな方向である。それより、言葉の探索と言葉が喚起するイメージに大きなウエイトが置かれていく。

 「インダクション(誘導)」という概念に拘るのは、電磁気学的イメージだからだとか、「浮力」といったイメージがはっきりしてきたが、この建築的表現は未だ試みてはいないといった言い方が随所でなされるが、一般には理解されないにしても、コンセプトやアイディア、ストーリーやプログラムの説明を求めながら学生たちに設計演習を課すプロセスを考えるとよく分かる。

「粟津邸」(1972)「伊豆の釣り小屋」(1973)「原自邸」(1974)以降「住居に都市を埋蔵する」というスローガンとともに設計された、一連の「反射性住居」と命名される住居がある。この一連の住宅は、「対称性」「谷」「埋蔵」「セカンドルーフ」「混成系」といった言葉で説明されるが、一方で、住居形式のひとつの型としても提出されている[iii]。また、線対称形プランニングの手法としても検討されている[iv]

線対象形、すなわちシンメトリーの形式について、「幾何学的なものへの憧れ」「表現者の内なるファシズムへの憧れ」があるといい、「住居に適応するがゆえに意味があるのであって、公共的建築あるいは組織に対応する建築にこれを適応することは全く無意味である」と言ったりするのは実に興味深いが、その形式、手法を問い詰める思考の筋道はわかりやすい。

「対称性の強い住居は、最も安定している」、と原広司はいうけれど、「反射性住居」と命名する住居形式の基本は、「対称性」よりも、<内核>あるいは<中心>、屋根が架けられた<中庭>をもつ形式であり、古今東西、都市的集住状況における普遍的な解であることは無数の事例が示している。だから、一般的にもわかりやすい。山本理顕は、この方向を一貫して追及してきたように思えるし、都市組織研究、都市型住宅研究は、この「反射性住居」を出発点にしてきたところである。「住吉の長屋」「中野本町の家」「反住器」「幻庵」、すべて、住居形式のあり方に関わっていたのである。

 

 多層構造論

 「反射性住居」で、現代日本の住居形式について解答を得た後、原広司が展開し始めたのが「多層構造論」である。「多層構造」を意識し始めたのは「秋田邸」(1979)の頃からだと言うが、「多層構造」の基本原理は、「住居で言えば住居内の各地点を<街角>に変質させるところにある」。

 「はじめに閉じた空間があった」という公理(「有孔体の理論」)から出発し、「住居に都市を埋蔵する」(「反射性住居」)、そして、住居を都市に開いていく、そういう展開が予想され期待されるが、鏡面に虚像を<うつりこむ>とか、<光のミキサー><空気の設計><ハレーション>といった視覚に関わる手法が強調されることにおいて、また、<様相論>への移行が並行することにおいて、わかりにくくなる。

 「多層構造論のためのノート」[v]の冒頭では、「はっきりした定義はできない」などとはぐらかされるが、大雑把に理解するところ、現象を断面々々で切断して理解したり、場面々々を情景図式として把握したりする、すなわち、平面形式や空間の機能的連結ではない現象を把握する概念として採用されるのが「多層図式」であり、その「多層構造」である。

 多層図式は、時間の空間化において採用される一般的図式である、すなわち、それはわれわれの意識や記憶に関わる。一方、多層構造は、「重ね合わせる(オーバーレイ)」といった空間の操作手法として発想され、提示されたものである。すなわち、「多層構造論」は、「ラ・ヴィレット公園」の設計競技応募案(1982)に続くグラーツ・プロジェクト(1984)から構想されたものである。

 

 空中庭園―「連結超高層」

 1980年代までの以上のような原広司の思索の軌跡と「新梅田シティ・梅田スカイビル」との間には、ギャップあるいは飛躍がある。「連結超高層建築」あるいは「空中庭園」、さらに「地球外建築」へというその構想力の展開は鮮やかであったが、「反射性住居」から「多層構造論」へ突き詰めてきた理論的思索が「超高層ビル」へどう繋がっていったのかは必ずしも明かではないのである。ただ、<浮遊>の思想とともに<浮力>のイメージについて語っていたし、「閉じた空間」「反射性住居」を開いていくことが都市モデル(「未来都市500m×500m×500m1992、「地球外都市」1995)へつながっていくのは不思議ではない。理論的思索においてスケールは捨象できる。少なくとも、原広司自身には齟齬はないのであろう。

 しかし、「連結超高層」というモデルがいかなるモデルか、ということである。

 「柱は、世界軸(axis mundi)であり、言語とものが和解する装置である。直立するものは美しい。」

 集落の教え90である。

 大江健三郎と原広司の交友はよく知られるが、言葉を媒介として小説を書く行為と建築をつくる行為にお互い共鳴し、共振するものがあるからなのだと思う。大江健三郎は、「梅田スカイビル」のためにつくられたパンフレット[vi]の中で、「人間は、モデルを作る動物だ、あるいは、モデルを発見する動物だ」という。そして「小説を書くことは、言葉によって、世界―そこに宇宙へのひろがりもふくめて―、社会、そして人間のモデルを作ること」であり、「梅田スカイビル」は、「世界の塔」とともに、世界のあるいは宇宙のモデルである建築を、ものの、あるいはもののイメージのモデルによって示しているという。すなわち、モデルをつくるということにおいて、建築家の営為と小説家としての自らの営為を重ねているのである。

 確かに、「梅田スカイビル」のような連結超高層ビルはこれまでにない超高層ビルである。「新京都駅ビル」にしても、これまでにない駅ビルである。また、サッカー場と野球場を兼ねた「札幌ドーム」にしても、これまでにないドーム建築である。いずれも、モデルとなりうる建築である。

 しかし、原広司にとって問題はそれらのモデルが「均質空間」を超えているかどうか、その方向を指し示しているかどうかである。

 

 <非ず非ず>の論理

 モデルは一般化することにおいてその役割を終える。そして、集団によって、歴史によって生きられていく。原広司の作品を並べてみると、ある一定の拘りのようなものに気がつく。例えば、ガラスの使用であり、多面体の屋根である。すなわち、原作品には原らしい様相がある。原広司にとって原広司という個の表現はどのように考えられているのであろうか。

「世界の集落を調べていて知ったのであるが、伝統なる概念は、ナショナリズムに帰属するのではなく、インターナショナリズムに帰属する概念である」と、原広司はさりげなく断定的に書いている。

ヴァナキュラーな住居や集落の地域性や伝統についての関心は広く共有されているのであるが、原広司の視点はこの点でユニークである。イラク北部の住居における茶の儀式と日本のそれを比べるなどといった例が挙げられるのであるが、文化の差異を土地や地域に固有なものとするのではなく、むしろ同一性や類似性に着目することによって、世界各地の伝統はあるネットワークのもとに見えてくるというのである。

茶の文化と言えば、茶の世界史を抑えた議論を展開すべきであろうが、伝統を偏狭なナショナリズムに結び付けない眼がそこにある。また、インターナショナリズムといっても、全ての個を無差異化し、平均化するグローバリゼーションとは違う。

そうした原が日本の空間的伝統について論及するのが「<非ず非ず>と日本の空間的伝統」である。論は、インド哲学、仏教哲学、「般若心経」「中論」に入り込んで難解である。大半は、<非ず非ず>の論を全体化の論理として理解するところに費やされるのであるが、それこそが日本中世の美学が目指したものであり、日本の空間的伝統なのだという。

作品は、Aであるという回答である。しかし、論理的にそれは完結しない。ふたつの道があって、様々なヴァリエーションを生み出してその累積によって全体化を表出するか、同時にいくつもの像を重ね、事象の境界を曖昧にすることによって全体へ向かうか、原の場合、後者を選択するのであるが、それこそ日本の空間的伝統なのだ、というのである。そして、論理的には、「あると同時にないところの境界によって生成される空間」、<非ず非ず>の空間(的解釈)はヨーロッパにも当然あってしかるべきなのだ、という。

こうして、原広司は日本の空間的伝統に論理的思考の果てに行き着いてしまったようにみえる。あるいはさらなる展開はありうるのであろうか。

建築に何が可能か。

 原広司が自ら身を置いてきたのは、建築の永久革命のような場所である。

 




[i] 『空間<機能から様相へ>』(1987年)序

[ii] 「呼びかける力」『住居に都市を埋蔵する』(住まいの図書館出版局、1990年)pp.11-12

[iii] 「形式へのチチェレーネ―新しい住居形式を求めて」『別冊都市住宅 一九七五秋 住宅特集11修』鹿島出版会、1975年(『住居に都市を埋蔵する』所収)

[iv] 「線対称プランニングの成立条件と手法」『別冊都市住宅 一九七五秋 住宅特集11修』鹿島出版会、1975年(『住居に都市を埋蔵する』所収)

[v] 『建築文化』198412月号(『住居に都市を埋蔵する』所収)

[vi] 『空中庭園幻想の行方 世界の塔と地球外建築』積水ハウス梅田オペレーション株式会社1993

2021年4月9日金曜日

現代建築家批評26  機能から様相へ 原広司の建築理論

 現代建築家批評26 『建築ジャーナル』20102月号

現代建築家批評26 メディアの中の建築家たち


機能から様相へ 

原広司の建築理論

 

原広司の建築理論は一般的に言えば難解である。抽象度が高く、その理論は、必ずしも直接建築の手法に結びつかないように見える。決して多くはない著作は、理論書と作品集に分けられるが、理論と作品の間に距離がある。具体的には、やたらに数式、数理的言語が出てくる。一方、作品の解説に用いられる言葉はしばしば詩的である。数理的な概念が頻繁に用いられる一方でメタフォリカルな言い回しも好んで用いられる。

一貫するのは、<部分と全体>をめぐる考察である。「BE(ビルディング・エレメント)論」「有孔体の理論」「住居集合論」「ディスクリート・シティ論」は、部分と全体をめぐる論理を一貫して追及するものである。この点は、共に「住居集合論」を展開してきた山本理顕の住居論(「領域論」「閾論」「ルーフ論」)が、建築論、都市論へとそのまま接続される同相の構造を持っているのと同様である。ただ、山本理顕の方が、家族のかたちと住居のかたち、あるいは社会的な制度と空間をめぐって、具体的な作品を直接呈示することにおいてわかりやすい。既に指摘したが、原広司の場合、住居集合の配列をより原理的に理解すること、例えば数学的モデルや数理的言語によって解釈することに、より関心があるように見える。そして、発見した言葉を直接作品に結びつける閉じた思考回路をもっているように思われる。

原広司には、しかし、もうひとつの柱として「空間(空間概念)」論がある。もちろん、それも<部分と全体>をめぐる思考に根底的に関わるけれど、「均質空間論」が中心に置かれ、「均質空間」をどう超えるかが論考の主軸になる。空間論は、<機能から様相へ>と、「様相論」に導かれていくことになる。

「有孔体の理論」は、ある意味で単純でわかりやすい。「世界集落調査」(集落への旅)を基にした「住居集合論」になると、理論はより深化される。そして、<全体と部分>をめぐる考察は、次第に複雑になり、豊富化していくように見える。思考は、曖昧なもの、多義的なもの、不定型なるものへ向かう。

一枚のスケッチを予告する「均質空間」に対する根源的批判の理論は未完である。

 

 BE論の限界

最初の理論は、学位請求論文である「ビルディング・エレメント(BE)論」である。僕が東洋大学に赴任したとき、研究室にオレンジの表紙のガリ版刷りの論文が沢山置かれていたことを思い出す。『建築に何が可能か』にそのエッセンスとともに総括がなされているから、一般にその内容を知ることができる。

ビルディング・エレメントの構成を建築の方法に据えた内田祥哉のBE論の展開は、平面計画、すなわち平面の型、を思考の中心に置いてきた建築計画に対して、構法計画と呼ばれる分野を切り拓き、その基礎を築くことになるのであるが、その初期の理論構築に寄与したのが原広司である。

建築は、作用因子(光・音・熱等)を遮断、透過させる性質をもつ、空間を仕切る物質としてのBEと空間を仕切る働きはもたず専ら物質やエネルギーを伝達するパイピングとから構成されるとするのがBE論であるが、原広司が取り組んだのは、その構成の合理的分析と総合の方法である。そして、「すぐさま座礁した」と原広司はいう。「障害のひとつは、計量化であり、もうひとつは「ずれ」であった。このふたつの障害は、近代合理主義が体験する一般的な障害である。」そして「研究においては、秩序化されるのは数学的な表現であって、物質そのものと人間の意図とはうまく融合しない」[i]のである。学位論文はある意味では数学的なモデルにとどまった。そして、研究なるものの限界が、決定的に意識されたようにみえる。

しかも、BE論そのものの限界も意識された。全体を決定するのは別の要因であり、BE論は部分を処理するデザインの手法に過ぎない。BEが明快に置かれたとしても空間は必ずしも豊かにならないのである[ii]

 

 有孔体の理論

 そこで考えられたのが「有孔体の理論」[iii]である。これは、原広司の「原」理論であり、1960年代に展開された都市構成理論の中で大谷幸夫のUrbanics試論とともにもっとも徹底した理論のひとつである。

 理論は、個としての「閉じた空間単位」から組み立てられる。有孔体とは、その空間単位であり、「作用因子の制御装置」である。有孔体の外形(被覆)は内部空間の反映であり(a)、物質、エネルギーの運動を視覚的に表現する(b)。また、内部空間に方向性を与え制御する(c)。有孔体は内と外、また他の有孔体と結合する孔を持っている(e)。有孔体の孔(開口部分)は作用因子の運動の制御意図に最も適したかたちあるいはメカニズムをもたねばならない(d)。有孔体は生産単位となりうる、また、孔だけでも生産単位となりうる(f)。

 空間単位(Σ1,Σ2、・・・Σn)があって、ΣiとΣjの間に人の行き来の頻度aijが記述されれば、マトリックス(aij)から適当な制約条件のもとに最適配置計画がなされる、というのは、極めて機能主義的である。しかし、原広司のこの定式化は建築を科学的に思考することの可能性を示すのが目的ではなく、合理的思考の限界を示すものであった。要素(個)としてBEではなく空間単位を採ることが必要であり、空間単位を決定すれば、それ以下のスケールではBEの概念によってかなり合理的に追求できる、と考えるのである。

 そして、空間単位としての有孔体は以上のa fのように形態を予告するかたちで設定される。すなわち、有孔体の建築理論は形態生成理論として、いちじるしく建築的イメージのもとに組み立てられている。その前提は、被覆を制御体として、作用因子の、すなわち物質、エネルギーの授受関係を視覚的に表現すべきだ、という美学である[iv]

 

 集団の理論

 そしてさらに、個から集団への展開、有孔体の集団の理論が展開される。有孔体は、孔の数によって一孔体、二孔体、多孔体などに分けられるが、それが集合化する際には、結合の要因が問題となる。機能的、構造的、生産的、空間―領域的、象徴的、形態的、発見的・意図的、時間的諸要因が検討されるが、第一に引き出されているのは、「有孔体の集団はそれ自体有孔体を構成する」というテーゼ、命題である。すなわち、有孔体の集団もまた「作用因子の制御装置」としての「閉じた空間単位」と見なすことで有孔体化するのである。入れ子の構造である。「住居に都市を埋蔵する」という方法意識には有孔体理論の集団理論があったのである。

 都市的スケールの有孔体は、有孔体間を結ぶパイピング類によって必然的に集団化されるし(a 機能的結合因)、集団化するときに生じる余った空間(あき)を有孔体化することによって(b 空間―領域的結合因)生じる。そして、有孔体の集団は、形態的な統一の美学を排除する(c 形態的結合院)。有孔体は生産単位であるから時間的変化に備えて取り替えられるが、取り替えのための一般理論はもたない(d 時間的変化に基づく結合因)。

 以上に見るように、有孔体の理論は、諸装置のビルトインしたカプセルとカプセルによって構成される都市メタポリスを構想したメタボリズムの理論に極めて近いといっていい。ただ、このc、dにおいて原広司は一線を画す。さらに、構造的あるいは生産的要請は有孔体の不連続的結合を危うくするのであって、生産的要請を優先する態度は排除されねばならない(e)という。結合因の一元化、すなわち生産要因の重視について極めて警戒的である。また、有孔体は発見的に探求されるといいながら発見の原動力は調整(コントロール)の概念であるとし、調整は最適値問題によって計量的に解析する方法が存在する(f)という。

 建築の集団、都市の計画にあたっては、<運動するもの>を把握し、それらの調整をはかるという手続きが最大の決め手である、といいながら、このプログラミングが全体性の決定力をもつかどうかは疑わしい、という。アンヴィヴァレントである。理論の内部に「自由な領域」、「計画者の主観的な判断」の介入がなければならない、という思いがある。有孔体の理論を補完するのが「浮遊の思想」であった。

 

 住居集合論

 有孔体の集団理論がそのまま住居集合論に結びつくことは容易に理解できる。しかし、有孔体の理論はあくまで抽象化された理論であるが、住居集合論の対象となるのは実際に存在してきた住居集合としての集落である。そして、集落のほうがはるかに多様であり、事物の属性は多様に現れてくる

 「世界集落調査」(集落への旅)によって、部分と全体をめぐる理論的考察は深化され、豊富化されていく。その考察は、「<部分と全体の論理>についてのブリコラージュ」[v]といった論文にまとめられるが、並行して書かれた「紀行文」[vi]は『集落への旅』としてまとめられる。

 何故、集落なのか。

 地域に根ざした僻地の多様な生活を明らかにすること、文化そのものを見ること、自然と建築の和合をみること、今日の町づくりや都市計画の示唆をうること、とわかりやすい。近代化された都市生活、あるいは歴史を支配してきた古典や様式ではなく、集落にこそ学ぶべきものがある。

ただ、専ら焦点を当てるのは、住居とその他の共同施設からなる集落の形態であり、その形式である。また、住居形式であり、そのヴァリエーションである。ほんの一瞬「通り過ぎる者」の眼でかいまみるだけの、その調査の方法をめぐっては限界があると自らいう。また議論がある[vii]。また、設計者の眼でみるのだ、という。一方で、専ら数学的モデル、集合論、位相空間論によって、また、それを組み立てる概念によってその集合の論理を解き明かそうとする。

 はっきりしているのは、集落をあれこれ調べ上げ、結局は多様な集落があるのだという語り口を避けることである。関心は原理にあり、空間的な仕組みの構図を描くことである。

 原広司の集落論が他のそれと鮮明に異なるのは、集落の地域性や伝統をその場所の固有性に結びつけて捉えないことである。最後に見よう。

 

 均質空間論

全体と部分に関わる思考と理論展開の大きな背景となるのが「空間概念論」であり、「均質空間論」[viii]である。「空間概念論」については、大学院の授業で直接聞いたのであるが、空間に関わる本を片端から読んでつくったカードをめくりながら、毎回、古今東西さまざまな思想家、哲学者の「空間論」「空間」概念が紹介されたのを覚えている。M.ヤンマーの『空間の概念』[ix]は今でも印象に残っている。

「容器として空間」概念は「均質空間」(三次元ユークリッド空間)にいきつく。近代建築が目指すのは、均質空間であり、それをヴィジュアルな表現として完成したのがミースである。わかりやすいテーゼである。

原広司が問題にしたのは単に建築のかたちの問題ではない。また単なる建築の形式でもない。近代建築とは「ガラスの箱の中のロンシャン」[x]であって、問題はガラスの箱であり座標の方なのである。

そして、数学や物理学でいう空間にとどまるものでもない。建築を成立させる社会や思考を含めた枠組み全てを空間と呼ぶことにおいて、「均質空間論」はラディカルであった。「文化としての空間」が問題なのであり、インタージャンルにもわかりやすい提起がそこにある。日本における最もシャープなポストモダン建築論であったといっていい。

 「空間概念論」は、当然のように、世界地図の歴史と系譜を問う。世界了解としてのコスモロジーの表現であった中世のTO図などと「大航海時代」のポルトラーノ図、そしてメルカトールの地図などとの間には断絶がある[xi]。近代に成立した世界地図は、測定によって成り立つ容器、すなわち、等方等質の座標軸なかに描かれる。この前提としての究極の容器が均質空間をどう超えるのか、どう逃れるのか、原広司が提起し、自ら引き受けようとするのがこの世界大の問いである。

 これに対して、均質空間が成立する過程で排除してきたアリストテレスの場所の概念(「場所に力がある」)などが掘り起こされ、相対論に基づく非ユークリッド空間や多様な位相空間の在り方が展望される。

 しかし、例え、新たな空間のイメージが提出されるとしても、原が自らいうように、それらが「日常生活的なレヴェルで計画の理論に転化され、物象化されることとは別問題である」。

 

 様相論

 1968年を頂点とする文化運動を背景とした現状認識であるという「均質空間論」によって、現代を支配する均質空間の概念とそれを成立させる強力な「道具だて」の確認した上で、それを批判し、乗り越えるために、さらに様々な理論的展開が試みられる。そして、「多層構造論」「境界論」「空間図式論」・・・など数多くの「論」が書かれている。それぞれを要約し、批評することはとてもよくするところではない。少なくとも限られた紙数では不可能である。ただ、原広司自ら諸論考をまとめてみせてくれている。キーワードは<様相>である。

『建築に何が可能か』(1967)を出して以来、その言葉を探してきた。それが<様相>であると気づくのにほぼ20年かかってしまったのである、と原広司はいう。『空間<機能から様相へ>』(1987)は、すなわち、第二の建築理論書であり、20年にわたる思索のまとめでもある。

6つの論文からなるが、ごく端的に現代建築の方向づけを行うのが「機能から様相へ」[xii]であり、その具体的展開となるのが「<非ず非ず>と日本の空間的伝統」[xiii]である。<様相>という概念が提出される背景には、具体的なプロジェクトとしてグラーツ・モデルなどがあり、密接に関連する建築モデルとして「多層構造」がある。後に具体的に見るが、多層構造モデルあるいは装置とは、「境界をあいまいにする」ために、図像を複雑に重ね合わせる装置である。

 「機能から様相へ」は、まず、機能論的世界観の系譜、そして非機能論者としてのロシア・フォルマリストやシュールリアリストの異化、非日常化の概念を総括しながら、ポスト・モダニズムの建築の評価をもとに<様相modality>という概念に至っている。原広司がポスト・モダニズム建築の基盤と考えるのは、ごく単純に、古典的、様式的建築とヴァナキュラー建築、集落のふたつであるが、このふたつを見直すなかで抽出される、例えば、前者における、様式、装飾の意味、範例、手法の伝達可能性、後者における場所性、地域性、制度の可視化など、事物や空間の状態の見えがかり、外見、あらわれ、表情、記号、雰囲気、たたずまいなどと表現される空間の現象を<様相>と呼ぶのである。

 建築の「表層」、あるいは「街並み」「景観」に関する関心など、<様相>が現代的関心を包括する概念であることを確認した上で、その論理的基礎が考察される。<様相>は、「経験」によって捕らえられるものであり、その要素は「感覚」の要素(マッハ)である。すなわち、それは「意識」の空間に現れるものであり、意識現象のひとつの形態である。 

様相論のひとつの基礎に置かれているのは記号学である。そして、記号のひとつのあり方として、様相論と並行して提出されるのが「空間図式論」である。経験あるいは意識現象としての空間の<様相>を説明するために必要とされる概念装置が「空間図式」であり、「情景図式」である。

 「容器としての空間」「概念としての空間」から「生きられた空間」「経験として空間」へ、空間概念論から空間現象学へ、その思考は移行していく。

こうした乱暴な要約はその粘り強い思考の厚みを蔑ろにするのであるが、「有孔体の理論」から「様相論」へ、その大きな流れははっきりしている。そして、<様相>の多様性をめぐってその思考と理論は反芻を繰り返し続けているようにみえる。




[i] 「歴史も喚問する」(『建築家に何が可能か』)

[ii] ひとつの閉じた空間Σは有限個のBEの集合(be1,be2・・・ben)からなる。BEに作用して空間の性質を決定する因子は(θ1,θ2・・・θk)である。各BEは作用因子に対する性質(a,a2・・・ak)をもつ。空間を計量する性質が作用因子に対応して記述されるならば(Σα,Σβ・・・Σω)となる。空間の質はBEの質によって記述される。すなわち、空間の性質は、BEの性質の集合であるマトリックス(a11, ・・・a1k/a21, ・・・a2k/・・・・・・・・・・・・/ an1, ・・・ank)で表現される。しかし、このマトリックスは、一定のかたちと一定の大きさをあらかじめ与えた空間を想定しない限り実際に活用できない。

[iii] この「有孔体の理論」は、もともと『国際建築』(19666月号)に「有孔体の理論とデザイン」として発表されたものであるが、「浮遊の思想」とともに『住居に都市を埋蔵する ことばの発見』に採録され、若干手が加えられている。

[iv] 有孔体の理論においては予め空間構成と表現論が一体化しているといっていい。伊藤邸、そして慶松幼稚園という実作に結び付けられ、模型や図面によってヴィジュアルに発表されることにおいてインパクトがあった。

[v] 『空間<機能から様相へ>』(1987年)所収

[vi] 「集落への旅」(『展望』19745月号)「翳りの中の集落」(『展望』19748月号)「周縁がみえる集落」(『展望』19773月号)「形象をこばむ集落」(『展望』19784月号)「集落のある<世界風景>」(『世界』197911月号)。

[vii] 住居集落研究の方法と課題 異文化の理解をめぐって(主査 布野修司),協議会資料, 建築計画委員会,1988住居集落研究の方法と課題 異文化研究のプロブレマティーク(主査 布野修司),協議会記録,建築計画委員会, 1989

[viii] 「空間概念論のための草稿」(『SD』19719月号)で構想され、「文化としての空間 均質空間論」(『思想』19768、9月号)が書かれた。『空間<機能から様相へ>』岩波書店、1987年の巻頭に収められている。

[ix] M.Jammer,””, Harvard University Press, 1954.『空間の概念』高橋毅・大槻義彦訳、講談社、1980。講義の段階では、邦訳はなかった。

[x] 近代建築が行ったことの総体は、ミースが座標を描き、コルビュジェがその様々な関数のグラフ描いたという図式で説明される、という。

[xi]「日本」という空間を歴史的に問うた『絵地図の世界像』(岩波新書)で知られる応地利明の近著に『「世界地図」の誕生』(日本経済新聞出版社、2007年)があるが、中世世界図である法隆寺蔵五天竺図、ヘレフォード図、イドリースィー図などを確認した上で、カンティーノ図の画期性を詳述している。

[xii] <様相>という概念が初めて用いられるのは、「様相の建築」(『二〇〇一年の様式』新建築社、1985年)である。

[xiii] 「ふたつの涌点」(『建築文化』19782月号)をもとにしている。