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2021年4月14日水曜日

現代建築家批評31 「主題の不在」という主題   磯崎新の時代 1968-89

 現代建築家批評31 『建築ジャーナル』20107月号

現代建築家批評31 メディアの中の建築家たち


「主題の不在」という主題 

 磯崎新の時代 1968-89[i]

 

1931年生まれの磯崎新は、1970年代、80年代、90年代は自らの40歳代、50歳代、60歳代にそのまま重なる。磯崎自身、時代の転換は10年単位に意識され、例えば、10年毎に危機に陥り、挫折を繰り返してきたという。

60年代、70年代の始まりの頃には肉体的にダウンした。それは肉体的な危機でもあった。80年代は、90年代の始まりには方法的にダウンした。仕事のやり方が転換した」[ii]

続けて、60年代:システム、70年代:メタフォア、80年代:ナラティブ、90年代:フォルムなどと自らの関心と軌跡を10年毎に説明しようとしたりしている。しかし、上述のように、決定的なのは1968年という閾である。

磯崎は、1968-1970)において、「社会変革のラディカリズムとデザインとの間に、絶対的裂け目を見てしまった」と振り返る。「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは、その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば、そのデザインの行使過程、ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってよい」また「デザインを放棄する、あるいは拒否することだけがラディカルな姿勢をたもつ唯一の方法ではないか」というのが総括であった(『建築の解体』)。

若い建築家たちは、この磯崎の結論を前川國男の「いま最も優れた建築家とは、何もつくらない建築家である」[iii]という発言と共に受け止めた。実際、建築から離脱していった、あるいは離脱せざるを得なかった多くの建築学生たちがいる。

建築の解体

磯崎が選択したのは、「デザイン」であり、「芸術(アート)としての建築」である。「反芸術」もまた「芸術」である、という「芸術消滅不可能性の原理」(宮川淳)が予め想起されていたのかもしれない。しかし、前提として、既成の「建築」、すなわち「芸術としての建築」は一旦は解体されなければならない。磯崎新が目論んだのは、「建築」をあらゆる頸木―時間的序列(歴史)、社会的コンテクスト(場所)、様式、テクノロジー―から切断し、自立した平面に仮構することであった[iv]

『建築の解体』(美術出版社)が上梓されるのは1975年であるが、その基になった原稿は、1960年代末から既に『美術手帖』誌に連載されていたものだ。1968年に大学に入学した僕らは、本の形になる前にコピーして読んだ。H.ホライン、アーキグラム、チャールス・ムーア、セドリック・プライス、C.アレグザンダー、R.ヴェンチューリ、スーパースタジオ、アーキズーム、当時の最先端の建築家の仕事についての情報源、虎の巻であった。

磯崎自身にとっては、「建築の解体」の連載を続けることは、自らの「分裂」状況、「ダブルバインド」状況を回避するための必死の作業であった。そして、実際、60年代における同世代の作家たちの拡散的な作業を、いわゆる<建築>の概念の否定、拡張(他領域言語の導入、建築の概念の全環境への拡張)と<近代建築>の規範(インターナショナル・スタイルと機能主義的方法)の解体の相互に連関する二重の解体作業として位置づけ、それを症候群として整理することで、自らの方向を見定めることになるのである。

この連載の第一回にも書いたけれど、僕の『戦後建築論ノート』(1981)(『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(1995))は、第一章を「建築の解体―建築における一九六〇年代―」と題する。メタボリズムのイデオローグ川添登の『建築の滅亡』(1960)と磯崎新の『建築の解体』の間に「近代建築」批判の方向性を見出そうとした論考[v]である。繰り返し書くように、ターゲットはメタボリズムである。そして、関心は、磯崎新とメタボリズムの関係であり、その間の距離である。

1978年の磯崎論において次のように書いた。

「磯崎とメタボリズムとの関係は、磯崎を捉える上で欠かすことのできない視点である。何よりも、彼は、メタボリズムとの距離を自己確認のための最大の尺度としてきたのであり、メタボリズムへの批判、際の測定を専ら梃子としてきたと言いうるからである。そして、その関係は、われわれにとって、それ以上の意味をもっている。何故なら、その同相性(共有されていたもの)において、建築における60年代の位相を、その異相性(差異)において70年代の建築の位相を捉えることがとりあえずできるからである。」

手法:引用と暗喩

 磯崎新が、最初の突破口としたのは手法である。『手法が』が上梓されるのは1979年であるが、「何故「手法」なのか」[vi]「手法について」[vii]は、早くも1972年に書かれている。

 手法といっても、磯崎がまず依拠したのは、正方形とか円形という純粋な幾何学的形態、三次元に拡張すればプラトン立体を様々に-切断、射影、布石、転写、増幅、梱包、応答-操作する、そういうレヴェルの手法である。

磯崎が切り開いた幾何学的形態の操作を手法とする諸作品は、やがて「○△□」などと称され(レッテルが貼られ)、ポストモダンのフォルマリズムの流れに位置づけられることになる。純粋幾何学形態については、磯崎は後に、プラトン立体とともに、重源の「五輪塔」を持ち出し、宇宙の構成原理(コスモロジー)との関係を強調することになる。

 もちろん、磯崎は振り返って理論武装をはかる。16世紀のマニエリストたちのマニエラ、ロシア・フォルマリズムにおける「異化」、M.フーコーの「レーモン・ルーセル」論における手法などが援用される。磯崎は「そのうち勝手に「手法論」と呼んでいたことの内実が広義のフォルマリズムであることが理解できはじめた」[viii]と振り返るが、当初は、「形式主義的方法」「脱イデオロギー論的な技術主義」といった評価に反撥しながら、「手法が要請する物体や空間の異化作用が明確な違反を指向しているならば、それ自体としてアクチュアルな意味をもちかつ機能する」と自信に満ちて語っていた。拘るのは「違反」であり「アクチュアリティ」である。そして、磯崎の手法論は、引用論、記号論、修辞論[ix]によって補強されることになる。

 磯崎新のフォルマリズムは、同時に現れてきたコンテクスチュアリズム(文脈主義)にはっきりと対立することになる。すなわち、あらゆる関係を切断して建築を自立した平面に仮構するということは、都市を根拠とすることも峻拒されなければならない。「都市からの撤退」である。

磯崎新は、オイルショックで建設活動が縮退するなかで「北九州市立美術館」「北九州市立中央図書館」「群馬県立近代美術館」「富士見カントリークラブハウス」などを次々と実現してみせた。1970年代は圧倒的に「磯崎時代」である。対照的に、丹下健三は日本国内でほとんど仕事がなく、1960年代の方法のままに中東の石油産油国に出かけて行くことになった。また、磯崎の組み立てる言説空間の庇護の下で、多くの若い建築家たちがデビューしていくことになる。

建築の1930年代

「モデルは溶けました。何でもありです。時間も前後に入り乱れることが普通になりますし、東/西、中心/周縁といった空間分割による位置基準も失われてしまいます。「主題の不在」です。」と磯崎は振り返る。しかし、当初から新たな方向は模索されていたように思う。

 『建築の解体』は、多様な方法を追いかけながら埋めることのできない巨大な空洞につきあたった感がある、と結ばれている。そして、巨大な空洞とは、主題の不在という主題であり、異なったヴェクトルをもった様々な活動は中心の空洞に向かい合うことを避けられなくなりつつある、と引き取られていた、のである。

 磯崎の<切断>は、もともとその一瞬のみにおいて意味をもつ、そんな仮説でしかない。1978年の磯崎新論で次のように書いた。

「磯崎新の新たなフォルマリズムは、きわどいバランスの上に構築されていたと言えるであろう。それは、これまで<建築>が語られてきたコンテクストを一瞬、<切断>することにおいてのみ成立し得たからである。それは仮構された平面(別のディスクールの仮説作業)であった。それは例えば<二重底>の論理によって裏打ちされていたものではなかったか(吉本隆明+磯崎新「都市を変えられるかー1971」『美術手帖』19718月)。それは本質的に、「建てることではじめて建築家である」という先入観を放棄した地点からのみ組み立てうる論ではなかったか。観念が物質化されるときに受ける歪み、物質の中に刻印される観念の影、フォルムのリアリティ、おそらく様々な問いが、中心の空洞に向き合う作業の過程で反芻されねばならないはずである」。

そして続けて、磯崎新自身が、建築表現のあり方として、≪生≫の表現としてのS.ロディアの「ワッツ・タワー」、≪論理≫の表現としてのヴィトゲンシュタインの「ストロンボウ邸」、≪技術≫の表現としてのB.フラーのジオデシック(測地線)・ドームに触れている[x]ことを引きながら、磯崎自身は「『建築における1930年代』(鹿島出版会1978年)の中で、モダニズムとリアリズムのコンフリクトの過程を、日本のコンテクストにおいて確認しながら、イデオロギーとしての「日本的なるもの」を主題化しつつあることを示唆している」と書いた。

手法論を展開する一方で、磯崎は、先輩建築家たちの戦時中の活動に焦点を当てたインタビューを行う。そして『建築の1930年代/系譜と脈絡』という一冊をまとめている。

同時代建築研究会(昭和建築研究会、197612月設立)は、当時、全く同じように、15年戦争期に焦点を当てて、多くの先達たち-山口文象、竹村新太郎、前川國男、高山栄華、浜口隆一、土浦亀城、神代雄一郎、鬼頭梓、平良敬一、藤井正一郎、川添登、宮内嘉久、稲垣栄三・・・-にインタビューを続けていた。そして、『建築の1930年代』に導かれるように、『神殿か獄舎か』で磯崎新をばっさり斬っていた長谷川堯と磯崎新が初めて同席するシンポジウムを仕掛け[xi]、その議論を含めて、『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室、1981年)をまとめる。

このころ、「近代の呪縛に放て」のシリーズで『建築文化』の編集部に通っていて、「磯崎新の現在」という特集(『建築文化』19789月)企画のために、磯崎アトリエを初めて訪れた記憶がある。そして、シンポジウムの縁で、お茶の水の自宅でのパーティに宮内康らとともに招かれ、磯崎自ら湯がいたパスタを頂いたことがある。1930年代に全ての主題は孕まれているという認識は共有されていたように思う。

分裂症的折衷主義

 磯崎の軌跡は、1980年代に入って次の段階を迎える。第一に、手法論から引用論へと進化させた方法を結晶化した「つくばセンタービル」(1983)を完成させるのである。振り返って、「つくばセンタービル」は、日本のポストモダン建築の先駆とされ、磯崎新の代表作とされる。実際、「つくばセンタービル」によって、磯崎新は、「何でもあり」のポストモダン状況に首謀者として巻き込まれることになった。磯崎自身も『週刊本 ポストモダン原論』(1985年)を書いて、その潮流に乗ることになる。キャッチフレーズは「分裂症的折衷主義(スキゾフレニック・エクレクティシズム)」である。

「主題の不在」という「主題」を主題化したのであり、「主題の不在」を主唱したのではない。「建築の解体」において問うたのは「建築における近代性(モダニテ)」であって、「ポストモダニズムの建築」を喧伝したのではない。デコンストラクションが問題であってデコンストラクティビズムには責任はない、全て誤解だ、と磯崎は繰り返し弁解することになる。しかし、手法論、引用論で武装し、あらゆるものが等価であるという言説を組立て、「つくばセンタービル」を実現させた影響力は大きかった。

第二に、1980年代に入って海外の活動が開始された。「ザ・パラディアム」(1985)、そして「ロサンゼルス現代美術館(MOMA)」(1987)の設計がジャンピング・ボードになった。その経緯は建築界ではよく知られているが、「私の履歴書」は一回(21)を割いている。設計を始めたのは19811月から終了する839月までにおよそ30の案を提出し、建設委員会・運営委員会にあやうく提案を拒否される寸前で、一般ジャーナリズムの擁護によって救われるのである。磯崎は、続いてバルセロナ・オリンピックの屋内競技場「パラウ・サン・ジョルディ」(1990)の設計者に選ばれ、押しも押されもせぬ世界的建築家となる。 

国家とポストモダニズム建築:筑波センタービル

つくばセンタービル」をめぐっては、自らありとあらゆる批評(「つくばセンタービル論争」)を組織して『建築のパフォーマンス』[xii]がまとめられている。僕もそこにインヴォルブされているが、当時竣工した大江宏の「国立能楽堂」、黒川紀章の「国立文楽劇場」、芦原義信の「国立歴史民俗博物館」、あるいは「第二国立劇場」のコンペ(1984)、さらに「科学技術博」(1985)も含めて論じた文章(「国家とポストモダニズム建築」[xiii])の中で磯崎新の「都市、国家、そして<様式>を問う」[xiv]をめぐって、次のように書いている。

「磯崎新の「つくばセンタービル」における国家と様式をめぐる自らの設問への解答は、しかしながら、いささか奇妙なものである。なぜなら、問いへの解答をできうる限り回避することによって解答しようというものだからである。」

国家と様式をめぐる問いに対する歴史的な解答をすべて拒否し、しかも現在、明確な像としては存在しない国家のあり方を確認した上で、なおかつ、その国家をシンボライズし、記念する様式とは何かを問おうとしたのが「つくばセンタービル」における磯崎である。結果として選択しようとしたのは、「決して明確な像が結び得ないような、常に横滑りし、覆り、ゆらめきだけが継続する様式」であり、「単一なイメージに全体が支配されつくされないように断片に断片を重ね、相互に軋轢を起こさせ、裏切らせ、縫合させること」であった。

「つくばセンタービル」を「中心が見えない。それでも中心がある。これが日本の天皇制の構造だ」と言ったのが浅田彰である。1990年代の10年、磯崎は浅田彰とともに、建築と哲学を問うAny会議を組織することになる。

宙づりにされた近代建築批判

 1980年代には、さらに「東京都新庁舎」のコンペがある。黒川紀章がマスメディを使って激しく丹下健三批判を繰り返したこともあって、建築界の権力闘争かと大きな関心を集めた。結果として、丹下健三の日本への帰還を祝すことになるコンペの顛末をめぐっては、最近、平松剛が『磯崎新の『都庁』 戦後日本最大のコンペ』(文藝春秋2008年)出した。

 「新都庁舎」について僕は、請われるままに『朝日新聞』に5回ほど短い解説[xv]を載せ、「記念碑かそれとも墓碑か、あるいは転換の予兆か」という評論を書いた[xvi]。今でも不思議だけれど、磯崎の中層案が炙り出した「新都庁舎」の孕む様々な問題について、誰も書かなかった。建築界からの声、批評はほとんどなかった。

 新都庁舎の設計者が丹下健三に決定するとともに前川國男が逝った(1986626日)。享年81歳、その一生は、敗戦を真ん中にして丁度前後40年となる。新都庁舎をめぐって政権交代はなかったけれど、世代交代を印象づけることになった。磯崎新は、1988年に「くまもとアートポリス」をスタートさせる。多くの若い建築家たちがその仕組みの中から育っていくことになる。そして、1980年代半ばから1990年代初頭にかけて[xvii]、日本列島をバブル経済の波が襲う。外人建築家が日本列島を席巻し、ポストモダニズム建築の徒花が咲き乱れることになった。

1989年にベルリンの壁が崩壊する。奇しくも日本でも昭和から平成へ元号が変わる。ベルリンの壁の崩壊はソ連邦の崩壊(1991年)につながっていくことになる。20世紀を通じた革命、社会主義国家の建設という「大きな物語」は終焉することになった。磯崎新は、1968年から89年までを「歴史の落丁」と呼ぶ。

振り返ってみると、「歴史の落丁」の時代こそが磯崎の時代であったような気がしないでもない。以降、磯崎新の相対的地位は低下したように思える。バブル経済によるポストモダニズム建築の跋扈が大きい。また、本連載で取り上げてきた「建築の解体」以後の世代がチャンスを得て刺激的な作品を実現し始めるのである。

個人的にも、「MOMA」、「つくばセンタービル」「東京都新庁舎」以降、「茶の水スクエアカザルスホール)」(1987)「武蔵丘陵カントリークラブ」「東京グローブ座」(1988)あたりから磯崎新が消えていった感じがある。僕は既に「住宅」をベースに都市あるいは建築を思考し始めており、『群居』を石山修武、大野勝彦、渡辺豊和らと開始していたからである。また、アジアのフィールドへのめり込みつつあったからである。

しかし、思い起こすのは全くもって時代が読めていなかったことである。黒川紀章が「東京湾埋立計画」を発表し、丹下健三もまた「東京計画1986」などという「東京計画1960」を中途半端に再現したような計画案を提出するのである。メタボリズムの復活であり、東京改造の狂騒はまるで黄金の1960年代の復活であった。近代建築批判という課題は宙吊りにされ続けてきたのである。

体制を立て直しながら書いたのが「ポストモダン都市・東京」[xviii]である。東京が世界都市として日本列島を離陸したのが1980年代後半である。アジアの発展途上地域の都市も、異様な展開を始めていた[xix]


[i] 磯崎新プロジェクト

19701972 大分県医師会館新館 大分県 Built

19711974 群馬県立近代美術館 群馬県 Built

1972    コンピューター・エイディッド・シティー計画 千葉県 Unbuilt

19721974 北九州市立美術館 福岡県 Built

19731974 北九州市立中央図書館 福岡県 Built

19731974 富士見カントリークラブ クラブハウス 大分県 Built

19741975 秀巧社ビル 福岡県 Built

1975    川原湯計画案 群馬県 Unbuilt

19751977 西日本総合展示場 福岡県 Built

19761978 神岡町役場 岐阜県 Built

19781980 NEG大津工場福利厚生施設 滋賀県 Built

19781983 福岡相互銀行本店増築 福岡県 Built

19791983 つくばセンタービル 茨城県 Built

1979    サウジアラビア外務省庁舎国際設計競技 リヤド、サウジアラビア Unbuilt

19801982 利賀山房 富山県 Built

1980    テーゲル港区計画国際設計競技 ベルリン、ドイツ Unbuilt

19811986 ロス・アンジェルス現代美術館 カリフォルニア、アメリカ Built

19811986 ビョルンソン・ハウス/スタジオ カリフォルニア、アメリカ Built

1982    利賀村野外劇場 富山県 Built

19821984 西脇市岡之山美術館 兵庫県 Built

19821986 ベルリン集合住宅 ベルリン、ドイツ Built

19831990 サンジョルディ・スポーツ・パレス 1992年バルセロナ・オリンピック屋内競技場 バルセロナ、スペイン Built

19831985 パラディアム ニューヨーク、アメリカ Built

19841987 お茶の水スクエアA館カザルスホール 東京都 Built

1985    フェニックス市行政センター国際設計競技 アリゾナ、アメリカ Unbuilt

1985    サフォーク郡裁判所総合庁舎設計競技 ニューヨーク、アメリカ Unbuilt

19851986 東京都新都庁舎計画設計競技 東京都 Unbuilt

19861987 武蔵丘陵カントリー倶楽部 クラブハウス 埼玉県 Built

1986    ダニエル・タンプロン財団美術館 バルボンヌ、フランス Unbuilt

1986    フランクフルト民族学博物館増築設計競技 フランクフルト、ドイツ Unbuilt

19861992 東京造形大学 東京都 Built

19861992 ブルックリン美術館・増改築計画、ジェームズ・スチュアート・ポルシェックと共同設計 ニューヨーク、アメリカ Built

19861990 水戸芸術館 茨城県 Built

19871989 レイク相模カントリークラブ クラブハウス 山梨県 Built

19871990 北九州国際会議場 福岡県 Built

19871988 ハラ・ミュージアム・アーク 群馬県 Built

1987    パタノスター地区再開発計画国際設計競技 ロンドン、イギリス Unbuilt

19871989 ボンド大学図書館、管理棟、人文科学棟 クイーンズランド、オーストラリア Built

19871991 ティーム・ディズニー・ビルディング フロリダ、アメリカ Built

19881989 東京キリスト教学園チャペル 千葉県 Built

19881996 パラフォルス・レクリエーション施設 パラフォルス、スペイン Built

19881989  EXPO’90国際花と緑の博覧会 水の館 大阪府 Built

19881995 JR上野駅再開発計画案 東京都 Unbuilt

1988    ストラスブール旧屠殺場開発計画国際競技 ストラスブール、フランス Unbuilt

19881990  EXPO’90国際花と緑の博覧会 国際陳列棟 大阪府 Built

19891991 富山県立山博物館/遥望館・展示館 富山県 Built

1989    ネクサスワールド・ツインタワー計画案 福岡県 Unbuilt

19891990 JR九州由布院駅舎 大分県 Built

1989    東京新美術館プロポーザル 東京都 Unbuilt

19891990 サンセバスチャンK地区再開発計画設計競技 サンセバスチャン、スペイン Unbuilt

[ii] 「システムが自走した」<日本の夏196064こうなったらやけくそだ!>展カタログ、水戸芸術館現代美術センター、1997年。『反回想Ⅰ』所収。

[iii] 『建築家』、1971年春号、日本建築家協会

[iv] 磯崎新「デザインの刻印」特集「日本近代建築史再考/虚構の崩壊」『新建築』臨時増刊197410

[v] 60年代への喪歌」『建築文化』197710

[vi] a+u19721月号

[vii] 『新建築』19724月号

[viii] 「『手法が』の頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001p264

[ix] 『建築の修辞』美術出版社1979『建築の地層』彰国社 1979

[x] 岩波講座『文学』1「文学表現とはどのような行為か」所収

[xi] 1930年代の建築と文化」(磯崎新+長谷川堯+植田実+宮内康)赤坂公会堂、1979年。

[xii] 磯崎新編『建築のパフォーマンス <つくばセンタービル>論争 PARCO picture backs』(パルコ出版) 1985

[xiii] 『建築文化』19844月号

[xiv] 『新建築』198311

[xv] 私の新都庁舎論1~5  解説,朝日新聞,198612

[xvi] 『建築文化』彰国社,198605

[xvii] 景気循環の観点からは、198612月から19912月までの43か月(51ヶ月)間を指すのが通説。

[xviii] 『早稲田文学』19987月『イメージとしての帝国主義』青弓社1990

[xix] 「メガ・アーバニゼーション」『アジア新世紀8 構想』,岩波書店,青木保編,2003年。Shuji Funo: Tokyo: Paradise of Speculators and Builders, in Peter J.M. Nas(ed.), Directors of Urban Change in Asia, Routledge Advances in Asia-Pacific Studies, Routledge, 2005

2021年4月13日火曜日

現代建築家批評30 1968  磯崎新:ラディカリズムの原点

 現代建築家批評30 『建築ジャーナル』20106月号

現代建築家批評30 メディアの中の建築家たち


1968 

磯崎新:ラディカリズムの原点[i]

 

 磯崎新が繰り返し語るエピソード、事件がある。それは1960年代に集中する。「私の履歴書」は全30回の内、19回が1970年の大阪万博までの回顧である[ii]。処女論集『空間へ』がそもそも1960年代の回顧である。2年毎に文章の書かれた背景についてのクロニクルがつけられ、最後に詳細な「年代記的ノート」が付されている。

 「1960年という日付けは私に決定的な影を落としたこの年まで私は東大の大学院に籍を置いて、丹下健三研究室の設計スタッフとして図面をひいていた。博士コースの期間を延長してもらったが、その最後の年であった。丹下健三研究室では「東京計画一九六〇」として知られる、東京湾上に東京の都市軸を延長するという未来都市の計画を担当していた。交通システム、オフィスや住居の新しいビルディング・タイプの開発など、やるべき仕事は無限にあった。一方で、私の処女作になった大分県医師会館(1960年)が工事中だった。」[iii]

 そして、繰り返し振り返ることになるのが1968年である。

「私は年齢的には1960年世代だけど、建築家としての思考のしかたは1968年に属している」[iv]という[v]。『反回想Ⅰ』のほとんどは196870年に集中している。確かに、磯崎新の思考の根底には、一貫して、「既成のもの」「旧体制」「旧制度」「エスタブリッシュメント」に対する「反」がある。「反建築史」「反回想」「反建築的ノート」・・・著書やエッセイのタイトルにも「反」が用いられる。「違反」「異議申し立て」「解体」「革命」「前衛」といった言葉が好んで使われる。1968年に大学に入った僕らの世代にとって最も親しい言葉は、「異議申し立て」であり、「反」「叛」であり、「造反有理」であり、「自己否定」であった。磯崎新の書くものに「全共闘世代」が共感し、共鳴したのは、その思考の根底において通底するものがあったからである。 

60年安保

 「建築家としての私の出発点」[vi]として、磯崎新は「戦争の焼跡と六〇年安保の喪失感」について語る。

「当時の私は東大の丹下研の仕事を終えると永田町の国会議事堂へ向かい、安保反対のシュプレヒコールを上げるデモに加わった。行進や集会が夜になって流れ解散すると、本郷菊坂の木賃アパートに戻る明け方まで新宿で時間をつぶす。ホワイトハウスの床に座りながら、私は夢想した。吉村が近所の酒屋から付けで買った安いウイスキーに酔いながら。これまでの概念をひっくり返すほど過激に、革新的に建築を変えることができないだろうか―。」(私の履歴書⑪)

 丹下研究室での仕事、なおかつアルバイトでデビュー作となる「大分県医師会館」の仕事をしながら、磯崎新は、日米安全保障条約の日本国会での批准が成立した日のあけがた、抗議のデモ隊の一員として、首相官邸の前にいた。

 「その横の細い坂道に一台の装甲車が横向きに放棄され、右翼ともおもわれる一団がこれを占拠していた。もし国会の周辺をうずめた市民や学生が、警官隊と衝突したとすれば、この小道は格好の袋小路となり、ここになだれこんだ群集は、袋だたきにあうことが予想された。私は、この装甲車を孤立させるためのバリケードのなかにいて、彼らとむき合っていたのだが、もはや深夜がすぎると、互いに疲れ気味となり、全体に無秩序となり、いり乱れ、敵味方の区別もつかず、冗談をいい合ったりした。」実にリアルな場面描写である。

 「その日までに約一週間、私は連日、国会の周辺をまわった。だから、そのあけがたには、疲れきっていた。・・・・戦争の時の記憶からすれば、あの瞬間に議事堂は炎上する筈なのである。しかし、何事も起こらず、議事堂に突入しようとしたひとりの女子学生の死だけが、結果となった。・・・はりつめていた内部が崩れようとした。その瞬間、私は装甲車の上に仁王立ちになり、その一群を指揮しながら、ほとんど一晩中身動きもせずに、どこからかの合図をまっている男の眼に気づいた。」。この時、敵であった「男の眼」があざやかな記憶となって残ったという。

磯崎は、1961年に東京大学数物系大学院建築学博士課程を修了(満期退学)し、丹下健三研究室(都市建築設計研究所URTEC)に所属する。ところが、その春、突然吐き気とめまいに襲われる。これも繰り返し語られるのであるが、脳に腫瘍ができているかもしれないと疑ったというが、過労を原因とする「メニエル症候群」に罹り、数ヶ月の入院を余儀なくされるのである。岸田日出刀教授からは、ノイローゼと思われ、気分転換のためにゴルフや芸事を勧められたり、外国留学を促されたりしたという。

新宿ホワイトハウス

 磯崎新が繰り返し書くエピソードの筆頭は、「ホワイトハウス」と「ハプニング」である。これは、戦後美術史の一大事件としても記憶されることになる。

 磯崎新の建築家としてのデビュー作は、「大分県医師会館」(1960年)である。ところが、それ以前に吉村益信の住宅兼アトリエ「新宿ホワイトハウス」(1957年)がある。磯崎によれば、簡単なスケッチを描いただけで、吉村が大工さんに相談しながら自力で建てたもので、デビュー作という意識はない(「私の履歴書」⑪)。しかし、この「新宿ホワイトハウス」は、上述のように、「安保反対」のデモ帰りに毎夜のように入り浸る磯崎新の根城であった。

 1960年、吉村益信、赤瀬川源平に加えて、荒川修作、篠原有司男、風倉省作(匠)ら、無審査公募展読売アンデパンダン展」に出展していた若い作家たちが「ネオ・ダダ[vii](ネオ・ダダイズム・オルガナイザー)」を結成する。この「ネオ・ダダ」に蝟集した連中は、夜な夜な「ホワイトハウス」に出入りした。3度の展覧会を実施したのみで、わずか1年たらずで解体する。そしてメンバーの大半は渡米することになる。

「ハプニング」は、磯崎新の住んでいた本駒込の一軒家で行われた吉村益信の壮行会で起こった(1962年)。ネオ・ダダの面々のみならず、岡本太郎、丹下健三、瀧口修造、一柳慧らも集う宴の最中、土方巽、篠原有司男が素っ裸で屋根の上で踊り出し、スポットライトで照らし出すと、近所が警察に通報、パトカーが駆けつける騒ぎになるのである。翌日、「Something happens」という招待状を送った磯崎新は警察に出頭、公然猥褻罪にあたると諭されて、始末書をとられた。

実は、磯崎自身、岸田日出刀教授の意を受けた丹下健三の紹介するフォード財団のフェローシップの最終選考に残っており、壮行を祝われる側にいたのであるが、結果的に採用されない。再び対人恐怖症になるかもしれぬ不安な日々を送ったという。もし、渡米が実現していたら、建築家磯崎の人生は全く違ったものになったであろうか。

 「ネオ・ダダ」の終焉と「ハプニング」のはしりとして記憶される事件である。「反芸術」もまた「芸術」であると磯崎は警察署で主張するのであるが、このロジックをのちに「建築の解体」について繰り返すことになる。

10年後、「雛芥子」の面々と、製図室に製図台を並べた舞台をつくって、麿赤児率いる大駱駝館の旗揚げ公演をしたことを思い出す。金粉ショーの後、異形の集団は、東大の本郷キャンパスをそのままの姿で走り回って、正門前の銭湯に飛び込んだ。安田講堂前で黒テント芝居を打ったときには総長室からの度重なる出頭要請に雲隠れを続け、公演そのものは成立させたこともある。A.ジュフロアの「芸術の廃棄」というスローガンがぴったりくる時代の雰囲気があった[viii]。ただ、その頃、ハプニングは、既に日常茶飯事になってしまっていた。

 「ハプニング」で知遇を得た瀧口修造にすすめられて、磯崎新が発表したのが、「孵化過程」(1962年)[ix]である。磯崎新自身がデビュー作品とするこの「孵化過程」は、「都市デザインの方法」[x]を含み、実作としてのデビュー作品となる「大分県立大分図書館」における設計方法を一般化する「プロセス・プランニング論」とともに、繰り返し振り返られることになる。

デビュー

 「私の履歴書」には、「新宿ホワイトハウス」とは、別に、「大分県医師会館」より先にデビュー作になったかもしれない一件が明かされている。大学院生だった時に万寿院別院の本堂の再建を依頼されているのである(「高崎山万寿院別院計画pan-ness in ArchitectureUSA, 20061959-60)。依頼したのは、父の古い友人で、大分市長であった上田保である。この市長、高崎山の猿の餌付けに成功して大分を観光名所にした名物市長となる。火野葦平の『只今零匹』の主人公として描かれ、映画化もされたという。「岸田日出刀教授に話をつけてあるから、先生の設計ということにして助手をやれ」(「私の履歴書」⑧)というのである。

 岸田日出刀、丹下健三(さらに加えて、高山栄華、吉武泰水同じ大分出身であるがほとんど語られない)、磯崎新の関係はかなり興味深い。上田市長を介した岸田、磯崎の特別な関係、体調不良の時に親身にされた話は上で触れたが、岸田日出刀教授に「わが師丹下健三がひとことも口答えできずにどなられている光景を私は何度か目撃している」[xi]雰囲気のなかで、磯崎はこの大教授と「私的におつきあいさせていただく」ことになるのである[xii]。例えば、東京都庁舎の後に超高層の別館を建てる計画があり、1963年に欧米の市庁舎を視察に行く東京都高官のお供を磯崎新に命じたのは岸田日出刀である[xiii]

もし万寿寺別院本堂が磯崎新のデビュー作となっていたら、磯崎の軌跡は一体どうなっていたのであろう。仏教建築の現代化にいくらかでも寄与したのであろうか。あるいは磯崎新の世界デビューにいささかの足枷になったであろうか。

 上田保市長は、上述の「新世紀群」のグループ展にも現れたのだという。東大生といえば郷里の星であったということであろうか。「大分でもう一人、父の代わりのように頼ったのが、私立学校「岩田学園」を経営していた岩田正氏である」(「私の履歴書」⑧)。この岩田氏が大分県医師会副会長中山宏男氏を紹介することで実現したのが、デビュー作「大分県医師会館」である。この中山氏の自邸が「N氏邸」(1964)であり、「辛島邸」「岩田学園」(1964)「大分県立大分図書館」(現アートプラザ1966)、さらに「福岡銀行大分支店」(1966)まで、大分ネットワークが磯崎のデビューを支えることになった。磯崎は「一人のパトロンが一つの町の建物を一人の建築家に継続的に任せるという、かつては普通だったパトロネージュの仕組みは近代化の過程で失われていくが、私はその最後の恩恵にあずかることができたのであろう」という。

1963年にURTECを退職し、磯崎新アトリエを設立する。「大分県立大分図書館」の設計を受けるための会社設立であった。もともとはURTECが契約した仕事であったが、その構想を磯崎新の名前で発表したことで、会社を設立せざるをえなくなるのである(私の履歴書⑬)。

 「大分県立中央図書館」は日本建築学会賞を受賞する(1967年)。また、「建築年鑑賞」(1968年)を受賞する。そして続いて「福岡銀行大分支店」で文部大臣選奨新人賞を受賞する(1969年)。30代半ば過ぎての連続受賞であったが、若い受賞といっていい。

プロセス・プランニング論

 1960年に東京で「世界デザイン会議」(511日~16日)が開催され、それを契機にメタボリズム・グループ(菊竹清訓、槇文彦、大高正人、黒川記章、川添登)が結成される。このメタボリズム・グループは、展覧会を開催し、マニフェストを含む機関誌一冊『Metabolism/1960』を出しただけであるが、世界の建築界に大きなインパクトを与えることになる。

磯崎によれば、50年代の丹下研究室がいったん分解して、その一部がメタボリズム・グループを形成し、残りは個別の活動をはじめた、ということである。磯崎新は、メタボリズム・グループに誘われるが、「安保がらみのこと」また「大分県医師会館」で忙しかったこともあり、また「何となく気が進まず」加わらない[xiv]。当時は、自分のやっていることとメタボリズムの違いはわからなかったというが、やがてメタボリズムとの距離、それへの批判を繰り返し書くことになる[xv]

 「海上都市」「塔状都市」「垂直壁都市」「農村都市」・・・といったメタボリズム・グループの建築家たちの未来都市の諸提案と「空中都市」の「孵化過程」というかたちでの表現の差異にその距離は示されていた。世界観であり、認識論であり、設計方法でもあるメタボリズム[xvi]は、計量可能かつ予測可能な時間にのみ基づいており、その歴史観、すなわち、その伝統論や未来論も、基本的に均質な時間の連続的な流れを前提としていた。また、メタボリズムには、アーバニゼーションとテクノロジーに対する素朴な信頼があり、成長と変化に対応しうる建築構造やシステムの提案、すなわち時間の技術化の提案によって「近代建築」の正統なる継承を目指そうとしたにすぎない。磯崎は、その未来主義、技術主義、支配の論理、計画主義を批判することによって、1970年代の建築をリードすることになるのである。

1968年の思想」

「大分県立中央図書館」によって将来を期待される建築家として本格デビューするけれど、丹下研究室との関係は継続される。大分での仕事の一方で、「スコピエ計画」[xvii]そして「大阪万博EXPO’70」会場計画に関わることになる。並行して、福岡相互銀行長住支店・六本松支店(1971)、福岡相互銀行本店(1972)の設計を進めることになる。

そして、「建築家として自立して最初の10年間に記録されるべき日付」1968年がやってくる。あらゆるエスタブリッシュメント(既成権力)とそれを支える制度そのものへの「異議申し立て」を行う、世界中で巻き起こった若者たちの叛乱の中で、磯崎新は、「保持不能とみえるほどの捻れた姿勢」をとらされ、「職業としてEXPO’70に加担し、同時にこれに反対する勢力に同調するというアクロバット」を強いられることになった[xviii]

第一に、「ミラノ・トリエンナーレ」が学生や若いアーティストによって占拠される事件に遭遇したということがある。パリの「五月革命」の波はミラノに及んでいた。磯崎は、「占拠賛成」の署名を行う。「体制のノーを叫ぶ彼らに共感していたし、自分の展示の内容[xix]を考えれば当然だ、と考えた」のである。しかし、ディレクターにしかられる。「私は自分が攻撃する側にいると思いながら、実は学生たちの攻撃の対象だったことに気が付いた。どんな異議申し立てをしようとも、イベントにかかわる以上、制度への加担者なのである」(私の履歴書⑲)

そして、1968年から1970年にかけて、EXPO’70の仕事をしていた東京のアトリエがあったお茶の水は、しばしば街頭闘争を繰り広げる争乱の場となったということがある。「この争乱の敵役、既成権力による国家的祝祭の仕掛けとしての万博と、この闘争へのシンパシーとは相容れることがない」[xx]。「身動きならぬダブルバインド」の只中におかれ、分裂症状を呈し、身体が不調となるほど精神的、肉体的にきつかった。

しかし、それにも関わらず、磯崎新は「1968年の思想」に拘り続ける。「1968年の思想」は、挫折したと考えるにも関わらず、である。

「いっさいの、大文字になった、すなわち形而上学と化した概念(<人間>、<芸術>、<建築>、<中心>、<西欧>、<男根>、<美術館>、<構造>、<左右対立>・・・)の死を宣告する思想」に磯崎は拘り続ける。そして、「この年にまきこまれた事件や、直感的に感知していた方向性や、共感を示した思想や作品にたいして、やっぱり私はいまも引きずられているだけでなく、積極的に責任をとろうと考えている」とまでいう。

EXPO70

磯崎新は、66年以降、まる5年の間、コア・スタッフ(プロジェクト・アーキテクト)のひとりとして、「大阪万博」の会場計画へ深く関り、様々な政治力学が鬩ぎ合う「渦中」に置かれ、翻弄された。『空間へ』において、既に「日本万国博に関していえば、ほんとにしんどかったという他ない。・・・いま、戦争遂行者に加担したような、膨大な量の疲労感と、割り切れない、かみきることのできないにがさを味わっている。・・・おそらくそれは当初から加担し、途中で心情的に脱落しながら、脱出の論理を捜しえずに、遂におもてむきの義理をはたすため、最後まで関係を保ちつづけたという事実によることはあきらかだ。脱落の端初は、万国博がテクノクラート支配で貫徹される見込みがついたときだ。・・」と書いている。ダブルバインドによって自己心身が引き裂かれるという次元とは別の次元でもテクノクラシー支配の現実とのすさまじい葛藤とその結末が磯崎に与えた亀裂も大きい。

時を経て、より具体的にその「渦中」が明らかにされている[xxi]

東大・丹下健三チームvs京大・西山夘三チームの主導権争いに巻き込まれ、磯崎新が西山夘三の降板について京都大学の重鎮に相談したエピソード、丹下チーム案を西山夘三教授に了承をとりに旅先まで追っかけたエピソード、その案が『朝日新聞』の一面にすっぱ抜かれたエピソードなど様々な裏話には事欠かない。この丹下vs西山の葛藤については、僕が京大に移った直後に、「東大チームの参謀である磯崎新と丁々発止でやりあった」という上田篤先生から何度か話を聞く機会があった。また、『建築思潮』02号(学芸出版社、1993年)が記録しているが、磯崎・原対談でEXPO’70のについて語るのを直に聞いたこともある。京大側からは、海藤清信がEXPO’70の会場計画の顛末に迫っている[xxii]

しかし、磯崎新が翻弄されたのは学閥次元の争いにとどまらない。政官学産の巨大な構造に飲み込まれるのである。そこで、心底学んだのは、「計画するとは、虚構でしかない」「ビッグ・プロジェクトは政治力学によって進行する。民主的決定なんかのぞめず、政治的な決定しかない」・・・である。




[i] 磯崎新プロジェクト

19591960 高崎山万寿寺別院計画 大分県 Unbuilt

19591960 大分県立医師会館 大分県 Built

19601961 東京計画〔丹下健三研究室〕 東京都 Unbuilt

19601962 空中都市 東京都 Unbuilt

1961    プジョービル計画案 ブエノスアイレス、アルゼンチン Unbuilt

19621966 大分県立中央図書館 大分県 Built

1963    丸の内計画 東京都 Unbuilt

19631964 岩田学園 大分県 Built

1965    スコピエ市センター地区再建計画〔丹下健三チーム〕 スコピエ、ユーゴスラビア Built

19681969 A邸計画案 福岡県 Unbuilt

19661970 EXPO’70お祭り広場基本構想と諸装置設計 大阪府 Built

[ii] 「大分県医師会館」「都市計画」「ホワイトハウス」「ハプニング」「孵化過程」「渡欧」「アートセンター」「西山構想」「お祭り広場」「開幕前夜」「トリエンナール」、

[iii] 「一九六〇年の刻印」『<ネオ・ダダJAPAN1958-1998>展』カタログ、大分市教育委員会、1998年。『反回想』(GA,2001年)所収。

[iv] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので、その頃を想い出してみた」『反回想』(GA,2001p.20

[v] 「何だか性懲りもなく、1968年にもどってしまう」「第六章 「歴史の落丁」がはじまった1968年の頃を想い出してみた」p.153

[vi] 『磯崎新の仕事術』(王国社、1996年)

[vii] ロバート・ラウシェンバーグジャスパー・ジョーンズといった画家、ハプニングなどのパフォーマンスアート活動を行っていたアラン・カプロークレス・オルデンバーグジム・ダインなどの作家たちを一括りにして、美術評論家ハロルド・ローゼンバーグがネオ・ダダNeo-Dadaと名づけたことにはじまる。1950年代後半から1960年代アメリカ合衆国の芸術運動をいう。

[viii] 「芸術とコンテスタシオン」 ,螺旋工房クロニクル,『建築文化』,彰国社,197804

[ix] 『美術手帖』増刊号、19624月。最初の都市構想プロジェクト「新宿計画(淀橋浄水場跡地開発計画)」(1961年)が基になっている。

[x] 『日本の都市デザイン』『建築文化』196312月号

[xi] 岸田日出刀と丹下健三の関係を「自然」と「作為」という概念をもとに読み解く磯崎の岸田日出刀論は実に興味深い。

[xii] 最初の離婚のトラブルにまで岸田日出刀夫妻を巻き込んでしまったという。『建物が残った』p.54

[xiii] 「戦後モダニズム建築の軌跡・丹下健三とその時代」『磯崎新の思考力』pp.82-85

[xiv] 「当初はおそらく乗りおくれただけである」『空間へ』p496。しかし、メタボリズム・グループが企画した展覧会に、一旦は出展を拒否されている。

[xv] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので、その頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001

[xvi] 「近代建築」批判(乗り越え)を標榜して、成長、変化、代謝、過程、流動性といった時間の諸概念を建築に導入したメタボリズム・グループが究極的に行き着いたのは、カプセルという建築概念であり、そのカプセルによって構成されるメタポリスという都市後の都市の概念である。諸装置のビルトインされた異動空間単位としてのカプセルという概念は、空間そのものが交換(移動)可能であること、場所から切り離された普遍性、均質性を保持すること、従って、空間そのものが工業生産される商品となりうること、さらに成長、変化に対応することにおいて、時間をも空間化しうること、すなわち無差異化しうることをその前提としている。

[xvii] 1963年の地震で破壊されたスコピエの再建のための国際コンペで丹下研究室案が一等となり、制作担当者として、渡辺定夫、谷口吉生の3人で現地に駐在した。

[xviii] 1960年の刻印」『反回想Ⅰ』(GA,2001

[xix] 破壊(死)と再生(生)を繰り返す都市の姿を具体的に提示する「ふたたび廃墟になったヒロシマ」という未来の廃墟のモンタージュなど。

[xx] 「第十章 『手法が』の頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001p250-264

[xxi] 「また万博が噂されているので、EXPO’70の頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001p.182-197.「戦後モダニズム建築の軌跡・丹下健三とその時代」『磯崎新の思考力』p.111-115など。

[xxii] 「第5章 大阪万博と西山夘三」『西山夘三の住宅・都市論 その現代的検証』住田昌二+西山夘三記念すまい・まちづくり文庫、日本経済評論社2007