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2021年4月17日土曜日

現代建築家批評34 建築の持続 それぞれの役割  建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道04

 現代建築家批評34 『建築ジャーナル』201010月号

現代建築家批評34 メディアの中の建築家たち


建築の持続 それぞれの役割 

建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道04

 

3年に亘って連載を続けてきた。「メディアに頻繁に取り上げられる建築家に焦点を絞り、デビューから現在までの代表作を挙げながら、社会に及ぼす建築の役割および建築思想の変遷に重きをおいて、作品に通底(および変化)する建築思想を探るとともに、社会に及ぼす建築の力について」書いて欲しいというのが依頼であった。「一人の建築家を上、中、下の3号に渡って」というのが編集部の指示であったけれど、さすがに磯崎新についてはそれでは収まらなかった。

当初、編集部(中村文美現編集長)から求められたラインナップは、<現代建築界のトップランナー>1安藤忠雄、2伊東豊雄<デザインの新奇追求派>3妹島和世+西沢立衛、4青木淳<空間の型・建築のこだわり派>5山本理顕(難波和彦)<アンチ・モダニズム・エコロジー派>6藤森照信(象設計集団)であった。妹島和世+西沢立衛(SANAA)、青木淳、難波和彦が残されている。

ただ僕なりの組立てもあり、建築家の選定についてはある程度まかせて頂いた経緯がある。結果として、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団、原広司、磯崎新と、とりあげてきたのは全て60歳以上の建築家たちである。まず、僕より年上の建築家、僕が刺激を受けてきた建築家について「片付け」ようと思った。日本の建築のポストモダンの構図を描こうと考えたのである。そうすれば、若手も位置づけることができる。拡がりを考えて、石山修武、渡辺豊和を加えた。そして結果として、原広司、磯崎新にまで遡ることになった。

磯崎新を中心(主題の不在)に張られるアート―歴史軸と原広司の住居・集落・都市・地球・宇宙―空間軸で張られる平面に、建築技術に対するスタンス、自然―テクノロジー軸を垂直軸とする空間にこれまでとりあげてきた建築家たちをプロットすることで、およそポストモダン以後の建築家の位置とヴェクトルはプロットできたと思う。すなわち、近代建築批判の方向は、歴史へ(磯崎新)、集落へ(原広司)、自然へ(藤森照信)、セルフビルドへ(石山修武)、コスモロジーへ(渡辺豊和・毛綱毅曠)、地域へ(象設計集団)、住居へ(山本理顕)、日本へ(安藤忠雄)、形へ(伊東豊雄)といったヴェクトルで目指されてきたという構図である。

オーヴァー60として、さらに気になる建築家として、長谷川逸子、六角鬼丈、鈴木了二、坂本一成、石井和紘、大野勝彦、元倉真琴、高松伸、難波和彦らをあげるべきであろうか。ただ、彼らのメディアへの発信は少なくなりつつある。

 メディアの中の建築家としてとりあげるべきアンダー60は、1950年代生まれのオーヴァー50として、まずは隈研吾、妹島和世‧西澤立衛(SANAA)であろうか。さらに続いて、内藤廣―オーヴァー60の仲間とすべきだろう―、青木淳、竹山聖、宇野求、古谷誠章、小嶋一浩、遠藤秀平らであろうか。しかし、1950年代生まれの現在50歳代の建築家たちは多かれ少なかれ、以上のようなポストモダンの構図の中で仕事をしてきたようにみえる。

 個々の建築家をさらに取り上げるためには紙数は足りない。若い世代の建築家たちについては別のシリーズに委ねることとして、以下の3回で一区切りとしたい。本連載に一貫するテーマは「建築のポストモダン以後―建築家の生き延びる道」であった。

 

建築雑誌の終焉?

 宮内嘉久さんが亡くなったのは昨年1213日のことである。その追悼の会が先だって行われた(626日)。「水脈(みお)の会」[i](入之内瑛、橋本功、藤原千春、永田祐三、小柳津醇、有働伸也、・・・)の呼びかけで、大谷幸夫、内田祥哉などの大先生をはじめとする建築家、平良敬一、田尻裕彦などの編集者、写真家などが集った。

宮内嘉久さんと言えば、一時期顧問を務められていた本誌とも縁が深い。新日本建築家連盟(NAU)の編集部から『新建築』へ、『新建築』問題で退職自立(宮内嘉久編集事務所)、『建築年鑑』、建築ジャーナリズム研究所閉鎖、個人誌『廃墟から』、『風声』『燎火』・・・戦後建築ジャーナリズムをリードしてきた第一人者である。『廃墟から』『少数派建築論』『建築ジャーナリズム無頼』など著書も多い。

宮内嘉久さんとの苦い思い出については、本連載13、山本理顕の節(「制度」と戦う建築家)で触れた。『風声』『燎』を引き継ぐ新たな建築メディア(『地平線』(仮称))を出版する編集委員会で僕とは意見が合わず、決裂した経緯がある。その後、組織されたのが「水脈の会」である。宮内嘉久さんとは、「宮内嘉久著『前川國男 賊軍の将』合評会」(2006729日)[ii]が最後になった。

宮内嘉久さんの建築ジャーナリストとしての軌跡は、「自立メディア」を標榜しながら、同人誌へ、個人誌へ閉じていく過程であった。「開かれたメディア」を目指すべきだ、と「自立メディア幻想の彼方へ」[iii]という文章を書いたのは、宮内嘉久さんと決裂した直後である。宮内嘉久さんは基本的に編集者というより、建築の根源的あり方に拘る批評家の資質を持ち続けた人である。

『群居』を創刊することになった背景にこの決裂があったことも既に書いたが、その『群居』も50号出し続けて、力尽きた(20001231日)[iv]。僕が『同時代建築通信』(同時代建築研究会)『群居』『建築思潮』(1992-97)『Traverse』(2000年創刊―、201011号-)などメディアに拘わり続けてきたのは、おそらく「建築」を断念したこと、批評家あるいは研究者として生きようとしたー生きることを選び取らされたーことと関係があると思う。『建築雑誌』の編集に携われたこと[v]はラッキーであった。

しかし、それにしても「建築雑誌」の時代は確実に終焉へ向けて衰退して、逝きつつあるようにみえる。『都市住宅』の廃刊は198612月である。『SD200012月、『建築文化』200412月、『室内』20063月と廃刊が続いた。19945月に創刊された『10+1(INAX)20083月に廃刊となった[vi]。本誌のような雑誌は実に貴重な稀有の存在である。

戦後、『国際建築』『新建築』を出発点として『建築知識』『SD』『都市住宅』『住宅建築』『店舗と建築』『造景』などを次々に創刊してきた名編集者平良さんの『住宅建築』もついに隔月刊に追い込まれた。「建築ジャーナルが次々に廃刊、建築出版物は「コーヒーテーブル・ブック」あるいは「ヴィジュアルなカタログ」に姿を変えた」(磯崎新)のは日本も海外も同じである。

宮内嘉久さんの追悼の会で最初に挨拶に立ったのは平良敬一さんであった。何人かの大先達のスピーチがあって、こともあろうに最後に予告なく僕にマイクを向けられてうろたえた。その時のことを内藤廣がブログに書いている。

「先週の土曜日、千駄ヶ谷で行われた「宮内嘉久を偲ぶ会」に行って来ました。60年代後半、建築界は全共闘運動に刺激され、又、大阪万博についての是非をめぐって色々な意見が対立し合い、ある意味、活気のある時代でした。・・・今回参加してみて皆さんお元気です。80代~60代までが多かったのですが。最後に若手代表として布野修司さんが指名され、あいさつの中で、このままで終わらないで、紙媒体のメディアで発言していきたいと宣言して、終了しました。」

僕が若手代表というのだからそれ自体何事かを物語っているが、後日、平良さんと「最後の建築雑誌」の創刊をめぐって会った。声をかけたのは、松山巌、宇野求、中谷礼仁、青井哲人である。今のところどうなるか僕自身もわからない。

 

リーディング・アーキテクト

 内藤廣は、早稲田大学出身であるが、現在東京大学の教授を務める。ただ、建築学科ではなく、社会基盤学科(元土木工学科)に属する。早稲田大学吉阪隆正に師事した後、フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所に勤務、さらに菊竹清訓建築設計事務所を経て独立(1981年)しているが、建築界では変り種と言えるだろう。招いたのは篠原修(1945 - [vii]である。橋梁のデザインなどシヴィック・デザインを切り開いたと評価されるが、内藤廣にはその分野の強化を期待したのだと思う。「GS(グラウンドスケープ)デザイン会議」をともに組織している。内藤のデビュー作といっていい「海の博物館」(1992年)は傑作である。自らも「普通の建築」をつくるというように大向こうをうならせる建築はないけれど、堅実な作品で知られる。著作も増え、いまやリーディング・アーキテクトのひとりと言えるだろう。東京大学教授という肩書きがそれを後押ししている。

 ただ安藤忠雄のような大物と比較すると線が細いと言わざるを得ない。そういう意味では、安藤忠雄の後任として東京大学の建築学科教授になった難波和彦も同様である。難波和彦は、戦後建築を工業化という路線でリードした池辺陽に師事したが、もともとは吉武研究室の出身である。一年先輩の石井和紘とランディウムを組織していた頃、僕が図面や模型の手伝いをしたことは前に触れた(本連載25)。「箱の家」シリーズが代表作ということになるが、池辺陽を正統に受け継いだ住宅作家というべきだろう。線が細いというのは、インターナショナルな活動と評価が少し弱いということである。

 そうした意味で、東大のプロフェッサー・アーキテクトとして期待されるのは、2009年に着任した隈研吾である。若いときから著作も多く発言を続けて来ているし、海外からの評価も高い。2008年にはフランス・パリにKuma & Associates Europeを設立している。隈研吾については、竹山聖、宇野求らとともに、東京大学生産技術研究所の原広司研究室に所属している頃から知っている。饒舌で才気に走った黒川紀章の後継者のような感じを抱いてきた。ドーリックやM2によってヒストリシズム・ポストモダンの旗手としてデビューした時にはびっくりしたが―その後、葬儀場(東京メモリードホール)に転用された。義父の自宅が近くにあって、その葬式を行った。隈の設計かどうかは不明であるが、あまりに見事に転用されていたことにも驚いた―、その後の展開も、時代の流れの中で表現を組み立てるその資質を示している。いささか嫌味っぽく書けば、いまや自然派、素材派の大家である。一般には変わり身が早い建築家と思われている。しかし、処女作である『10宅論』がそもそも大衆社会における住宅のスタイルを見事に切ってみせたものである。そして、20073月に提出した学位請求論文は「建築設計・生産の実践に基づく20世紀建築デザインと大衆社会の関係性についての考察」(慶應義塾大学博士(学術))というのである。隈研吾は、現在では「メディアの中の建築家」というに最も相応しい建築家といえるであろう。

プロフェッサー・アーキテクト

 何もリーディング・アーキテクトは東京大学にいなくてもいいのだけれど、この間のセルカン・アリニール問題などを聞くにつけ、本誌○○号が問題にしたように、しっかりしてもらいたい、と思う。東京大学に限らず、現在、メディアに注目される建築たちの多くはプロフェッサー・アーキテクトである。これには建築家の側にも大学の建築学科の側にももちつもたれつの関係がある。建築学はなによりも実践の学であり、一線で活躍する建築家の名前と実績が欲しいし、建築家も何らかの肩書きは仕事のプラスになる。

京都大学を見ると高松伸、竹山聖がいる。高松伸については、数年前のスキャンダルが聞いたのかこの間精彩がない。竹山聖は、隈研吾に匹敵する才能の持ち主だけに、もう少し仕事にめぐまれて欲しい。平田晃久など多くの若い建築家たちを育ててきたことは特筆されていい。この四月から、岸和郎が京都工業繊維大学から移ったが、京都大学については何ともよくわからない。

早稲田大学には石山修武、古谷誠章がいて、東京工業大学には坂本一成退官のあと塚本由春が、東京藝術大学には元倉真琴、北河原温、ヨコミゾマコトがいる。・・・こうして挙げていけば、全国の大学の建築学科に優秀な建築家が属していることになるだろう。非常勤講師も含めれば、ほぼ全てが含まれるといっていい。

いまや、プロフェッサー・アーキテクトの時代である。

山本理顕、飯田善彦、北山恒、西沢立衛という最強の布陣を敷くのは横浜国立大学だろう。退任する山本理顕に変わって、小嶋一浩が東京理科大学から移るという。

そして、この間台風の目になってきたのは、仙台メディアテークで2003年から開催されてきた「せんだいデザインリーグ 卒業設計日本一決定戦」[viii]である。「日本一決定戦」は、建築ジャーナリズムが衰退する中で、確実に学生たちに共通に議論する場所を与えてきた。仕掛けたのは、阿部寛史、小野田泰明らである。というより、主催は、仙台建築都市学生会議[ix]+せんだいメディアテークである。現在のアドバイザーは阿部仁史(UCLA)小野田泰明(東北大学)槻橋修(神戸大学)竹内昌義(東北芸術工科大学、みかんぐみ)本江正茂(東北大学)五十嵐太郎(東北大学)堀口徹(東北大学)中田千彦(宮城大学)であるが、彼らが果たしている役割は大きい。合同卒業設計展を直接の動機にした動きであるが、建築界に議論がなくなりつつあることの裏返しの動きと見ることが出来るからである。昨年から京都で「建築新人戦」も開催され始めた。第二回の今年は、記念講演者として原広司が招かれている[x]

 プロフェッサー・アーキテクトのこうした動きとネットワークの組織化はかつて建築ジャーナリズムが果たしていたものである。

サイト・スペシャリスト

 「大文」、大工の文さんこと田中文雄さんの訃報が届いたのは、いまこの原稿を書きつつある中国旅行中のことであった。89日。海外に出かけていて訃報に接することがよくある。大江宏先生の時もそうだったし、立松久昌さんの時もそうだった。

「大文」さんについては、この連載で二度触れた。安藤忠雄の第一回(連載04 ボクサーから東大教授へ、20084月)と磯崎新の第二回(連載29 廃墟、20105月)である。二人の大建築家とつながっていた、この現代の大棟梁については、知る人ぞ知る、であるけれど、実に残念である。

「大文」さんとは、内田祥哉先生に頼まれて「職人大学」(現・ものつくり大学)設立を手伝うために呼ばれ、1990年代を通じてとことんつきあった。藤沢好一、安藤正雄の両先生にも加わって頂いて、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)という現場の職人さんたちが集うフォーラムをつくった。

職人を大学なんかでつくれるか、といいながら、建築史学を中心に大学に期待していたのが田中文雄さんである。「職人大学」を東大、早稲田に匹敵する大学に、というのがスローガンであった。

 SSFでは、実に多くの職人さんたちに出会った。すごいのは、とにかく現場監督である。いかに机上の小手先の技術が発達しようと、それを実現する現場の技能者、サイト・スペシャリストがいなければ建築の未来はない。

現場で全てを管理し、差配する能力、それを育てるのはやはり現場でしかない。問題は、その現場そのものが少なくなりつつあることである。




[i] 水脈の会『時代を切り拓く―20世紀の証言 』れんが書房新社、2002年がある。

[ii] 「『前川國男 賊軍の将』をどう読むか」,松隈洋・鈴木了二・辻垣正彦・山口廣・布野修司,『住宅建築』,20072

[iii] 螺旋工房クロニクル,建築文化,彰国社,19789月号

[iv] 0号(創刊準備号) 座談会:箱・家・群居-戦後家体験と建築1982128日:1号 商品としての住居1983425日:2号 セルフビルドの世界1983727日:3号 『職人考』-住宅生産社会の変貌19831029日:4号 住宅と「建築家」1984218日:5号 アジアのスラム1984520日:6号 日本の住宅建設1984825日:7号 住イメージの生産と消費19841225日:8号 ポストモダンの都市計画1985411日:9号 戦後家族と住居1985729日:10号 群居の原像19851125日:11号 住政策批判1986331日:12号 不法占拠1986718日:13号 ウサギ小屋外伝19861130日:14号 東京異常現象1987424日:15号 大野勝彦とハウジング戦略1987921

16号 本と住まいPART1                  19871227

17号 ショートケーキハウスの女たち              1988529

18号 列島縦断・住まいの技術                 1988825

19号 ハウジング計画の表現者                 19881222

20号 住居の空間人類学                    1989426

21号 町場-小規模生産の可能性                1989825

22号 都市型住宅再考                     19891215

23号 それぞれの住宅戦争                   1990520

24号 日本アジア村-外国人労働者の住まい           1990830

25号 増殖する住宅部品                    19901225

26号 「密室」-子供の空間                  1991429

27号 居住地再開発のオルタナティブ              1991825

28号 建設労働                        19911225

29号 X年目の住まい                     1992423

30号 住まいをめぐる本の冒険                 1992912

31号 日本の棟梁                       19921225

32号 崩壊後のユートピア                   1993427

33号 ローコスト住宅                      199385

34号 在日的雑居論                      19931115

35号 中高層ハウジング                    1994327

36号 世界のハウジング                    1994824

37号 木造住宅論攷19941231日:38号 J・シラスとその仲間たち1995616日:39号 震災考19951124日:40号 ハウジング戦略の透視図-51年目のハウジング計画199658日:41号 イギリス-成熟社会のハウジングの行方19961115日:42号 地域ハウジング・ネットワーク1997421日:43号 庭園曼荼羅都市-神戸2100計画1997825日:44号 タウン・アーキテクトの可能性1981122日:45号 建築家のライフスタイルと表現1998521日:46号 DIY-住まいづくりのオールタナティブ1999724日:49号 群居的世紀末2000327日:50 21世紀への遺言20001028日:51号(終刊特別号) 群居の原点20001231

[v] 編集委員会幹事として19871月号~198912月号。編集委員として19931月号~199512月号。編集長として20021月号~200312月号。

[vi] 『国際建築』(美術出版社)1928年創刊。1967年廃刊。: 『室内』(工作社)1961年『木工界』を改名し発刊。20063月廃刊。:『建築文化』(彰国社)1946年創刊 2004年で休刊。以降特集号として隔年で刊行。(ex建築文化シナジー):SD』(鹿島出版)1965年創刊。200012月をもって休刊となり、以降若手の設計者の作品発表の場となっているコンペ「SDレビュー展」は継続し,年1回特集号を発行する。:『都市住宅』(鹿島出版)19675月創刊。198612月をもって廃刊:『群居』1982年―2000年:『10+1(INAX)19945月創刊。20083月廃刊。『X-Knowledge HOME』(エクスナレッジ)200112月創刊。200312月廃刊。以降特別号として隔年発刊。

[vii] 土木設計家政策研究大学院大学教授東京大学大学院修了後、(株)アーバンインダストリー、東京大学農学部助手、旧建設省土木研究所主任研究員などを経て1989東京大学工学部助教授、1991工学系研究科社会基盤学専攻教授。2006に東京大学を退官。専門は、景観デザイン、設計・計画思想史。

[viii] 20023月に『せんだい建築アワード2002』を開催。翌年の第2回せんだいデザインリーグ2003より名称変更し、第1回目の『卒業設計日本一決定戦』としている。

[ix] 仙台建築都市学生会議とは仙台メディアテークが開館した2001年(平成13年)1月、東北大学・東北工業大学・宮城大学の3校の建築を学ぶ学生有志が、アドバイザーとして阿部仁史、小野田泰明、仲隆介、本江正茂を迎え結成。翌2002年(平成14年)より、加盟校の学生ボランティアが主体になって「せんだいデザインリーグ」を開催している。以下は、現在の参加校は、東北大学(宮城県仙台市、東北芸術工科大学(山形県山形市)、東北工業大学(宮城県仙台市、宮城大学(宮城県黒川郡大和町)、宮城学院女子大学(宮城県仙台市)(2008年度より参加)である。

[x] 審査委員長:竹山 聖(京都大学):審査委員:大西 麻貴(東京大学博士課程)中村 勇大(京都造形芸術大学)藤本 壮介(藤本壮介建築設計事務所)宮本 佳明(大阪市立大学)李 暎一(宝塚大学)

2021年4月16日金曜日

現代建築家批評33  建築不全症候群 永遠の磯崎新

 現代建築家批評33 『建築ジャーナル』20109月号

現代建築家批評33 メディアの中の建築家たち


建築不全症候群

永遠の磯崎新[i]

 

 磯崎新の建築作品(「建築(物)」)をGoogle Earth上にプロットしてみると何かみえて来るであろうか。磯崎新アトリエのウェブサイトには世界地図が掲げられ、主要作品がプロットされている。また、Built/Unbuiltの公式作品リストが掲げられている。

そのデビューを大分という故郷のネットワークが支えたことには触れた。生まれ故郷の久留米・九州から山陰を、日本神話を辿るように駆け上っていく菊竹清訓については前に書いたが、少なくとも日本的な建築風土においては、地縁、血縁、学閥といったネットワークが仕事の機会に結びつき、建築家がそれを飛躍の梃子にしてきたことは、これまで取り上げてきた建築家たちの場合でも同じである。磯崎の日本での作品は、何故か南北の広がりはなく、西が福岡、東は水戸、北緯34度から36度の間にほぼ直線上に並んでいる。

「サウジアラビア外務省庁舎国際設計競技」(1979)以降、国際コンペには応募し続けている。海外作品の実施設計は、1980年代初めから開始され、「ザ・パラディアム」(1985)、「MOMA」(1987)、「パラウ・サン・ジョルディ」(1990)と実現することになる。海外での仕事という意味では丹下健三チームの一員としてスコピエ市センター地区再建計画に参加しており、丹下健三の国際ネットワークも寄与しているかもしれない。しかし、1970年代の作品群が国際的に評価される中で、国際的な展覧会やシンポジウムに招待されるようになったことが大きいと思う。1970年代に入って、オイルショックが世界(とりわけ日本)を襲い、「宇宙船地球号」が意識される中で、建築、デザインの分野でも、展覧会、シンポジウム、コンペに招待される常連を中心に、CIAM以降といってもいい、国際的な建築家グループが形成される。UIA(国際建築家連盟)などとは違う次元の、特に事務局や規約を持つわけではないグループであり、「インターナショナル・デザイン・マフィア」と呼ばれるようになる。その中心には、アメリカの近代建築を支えてきたP.ジョンソンがいて、彼は「AT&Tビル」(1984、現ソニービル)によってセンセーショナルにポストモダンに舵をきってみせた。翌年「つくばセンタービル」を完成させた磯崎は、このマフィアの一員となる。その延長がAny会議であり、2000年の最後の会議のエクスカーションでは、主要メンバーはP.ジョンソン邸(「ガラスの家」)を訪問している。

 細かな分析は後の建築史家に任せるとして、2000年以降、岐阜県北方町生涯学習センター(2001-2005)、福岡オリンピック計画(2006)を除く全てのプロジェクトは海外である。1995年以降を見ても、日本での作品は「秋吉台国際芸術村」(1995-1998)「セラミックパークMINO」(1996-2002)「山口情報芸術センター」(1997-2003)だけである。

 磯崎新に期待されるのは、もしかすると、P.ジョンソンの後継者としての役割なのであろうか。

アルゴリズミック・アーキテクチュア

Any会議を総括する「<建築>/建築(物)/アーキテクチュア、または、あらためて「造物主義」(デモウルゴモルフィスム)」という奇妙なタイトルの文章[ii]の中で、磯崎新は、次のようにいう。いささか絶望的に響く。

 「この10年程、芸術や建築についてもはや誰も語らなくなった。それでも語る必要ができてくると、芸術をアート、建築をアーキテクチュアとカタカナに読み替えて語るようになった。・・・建築不全症候群、とでも名づけておこう。建築を信じようが信じまいが、それは各人勝手である。だが、建築をその時代に通用する職業的しがらみのなかで、言い換えると社会性をもった実用物として設計し施工してみると、そこでは建築を論ずる手掛かりが消えているという恐るべき状況が到来していたのだ。建築家というタイトルを持ちながら、建築を生産しているという実感が希薄になった。そこで、デザイナー、とアーティストと自称する。この国だけでなく、全世界的に起こっていた。」

 「<建築の解体>症候群」から「建築不全症候群」へ、状況はより深刻化したというか、ますますはっきりしたということである。「1968年」の時には「否定神学に到るような否あるいは反を打ちだすことで延命がはかられた」。「芸術を批判(拒否)する芸術、建築を批評(解体)する建築」という「自己言及的な批評そのものを制作の方法」にすることによってである。しかし、その方法は、最早通用しない。「建築の解体」は最終局面に入ったのではないか。 IT革命によって実現したインターネット・インフラによれば、「自己言及的な批評」などという知的操作など必要なく、マウスをクリックするだけであらゆる「デザイン」を手にすることができる。「建築ジャーナル」は次々に廃刊、建築批評の場も失われていった。建築出版物は「コーヒーテーブル・ブック」あるいは「ヴィジュアルなカタログ」に姿を変えた。

 磯崎新は、コンピューター・アルゴリズムによる建築デザイン(「アルゴリズミック・アーキテクチュア」)が流行することになるという。既にそうなっているといってもいい。しかし、いくら流行ろうとも「その方法の背後に身体的な圧倒的体験の保証がない限り、建築は出現しない」ということを確認しておきたい、と磯崎は力みかえる。

そして、<建築>、建築(物)、アーキテクチュア、いずれの領域をも継ぐ鍵を握るのは、やはり、「造物主義(デミウルゴモルフィスム)」なのだ。

「建造物宣言」

 Any会議の総括として「ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり」というけれど、ピンとこない。<建築>の再生については希望をつなぐにしても「ビルディングの終わり」というのは根拠がないのではないか。「ビルディング」は蔓延し、世界を覆い尽くしているのである。

 「建築/建築(物)/アーキテクチュア」というタイトルを見て、否応なく想起するのは、この連載の最初(03タウンアーキテクトの可能性 ポストモダン以後       ・・・建築家の生き延びる道03)で触れた宮内康の『怨恨のユートピア』の「序にかえて」である。「「建築」から「建造物」へ」と題した短い文章だ。

 「「建築」は、少なくとも近代以降の建築は、人間生活の、終わりのない技術的対象化の上に成り立っており、人がひとたびその固有の論理に身をゆだねるや、彼は、論理の自己運動の中で、「現実」あるいは「生活」から、果てしなく遠ざかり続けるという構造をもっている。」と書き出される。以下全文書き写したいが、論旨はこうだ。

近代の問題は、あらゆる分業化された領域すべてに共通するが、建築という領域は、総体としての人間生活を対象としているが故に、ある奇妙な虚構の世界をつくりあげている。それは、「技術の論理に基づいているが故に、芸術と呼ばれる諸領域のつくり出す、想像力を発条とした日常生活の否定としての、それ故にまた時にはそれが現実の総体としての反映にもなりうる、ひとつの自立した虚構の世界ではなく」、固有の内的論理を備え、一定の有効性をもった諸工学の世界とも異なる「基盤の薄弱で不確かな、形式論理の弁証法のごたまぜの領域としてあり、日常性とべったり癒着しながら、しかし日常性の真実とは奇妙に位相のずれた、独自の世界をつくりあげている」。

ここでいう「建築」とは、いわゆる「近代建築―作家としての建築家(・・・・・・・・・)が己の幻想にまかせて作りあげる建築」であるが、明白な二元的構造をもっている。「圧倒的多数の建築は、日常性それ自体を示すかに見えるアノニマスな、むしろ「建物」と呼ぶのがふさわしい建築で占められ、「建築家」のつくるいわゆる「建築」は、その数たるやほんの一握りのものでしかない」。「建物」は、「日常性というよりむしろ経済の論理が貫徹したところで出来上がっており、それ以上でもそれ以下でもない」。「建築」は、「「経済性+α」(!)ともいえなくもなく、俗な表現を使えば、このαをいくらかでも増すべく「建築家」は、渾身の力をふりしぼるのである」。「建築」は「殆どの場合、使いにくく(・・・・・)生活を攪乱する!」。「建築」が「建物」を啓蒙し、その全体としてのレベルを向上させるというのが、近代建築の主要な理念であった。

しかし、「建物」は一向に「建築」にならず独自の論理のもとに成長しつづけ、両者の二極分解は進行する一方である。「建築」の領域は、二重の意味で日常性の真実(・・)ずれた(・・・)構造をもっている。

「「建物」としてそれは、日常性とずれ(「建物」は日常性の真実(・・)に一見みえるが、しかしそれは経済性の真実(・・・・・・)なのだから)、「建物」から「建築」へと変わろうとすることによって、それは都市の現実から微妙にしかしはっきりとずれ(・・)始めることになるのだ」。

「「建築」の領域は、従っていとも不思議な領域である。それは素人目(・・・)にもその全貌が明らかに見えながら、しかし一向に素人(・・)にはわからない」。

そして、宮内康は、近代建築において、「建築」が「建物」でなくなることに成功したものとしてはファシズムのモニュメンタルな建築を超えるものはないという。そして、次のように断言する。

「権力の意志の表現としての「建築」ではなく、民衆の意志の表現としての建築(・・・・・・・・)があるとしたら、まずこの括弧つきの「建築」を粉砕しなければならぬ。「建築」のもつ、二重の意味での日常性との離反のメカニズムを、そのあいまいさ(・・・・・)と生活への裏切りを解体し、日常性と建築との新たな、より直接的(・・・)な関係を見出す作業を執拗に続けねばならぬ。手がかりは、おそらく、あのT・モア以来のユートピアにあるかも知れない。ユートピアのもつ、あのあらたなるものと蒼古の世界との短絡と交接の構造は、われわれに、ある直接的ではあるが幻想的な、暴力的ではあるが至福に満ちた、そのような都市と建築を暗示する。その時、「建築」は、初めて括弧がとり払われ、「建物」でも「建築」でもない、あるアノニマスな建造物として出現する」。

最後のマニフェスト

 1992年に癌で逝った宮内康の全著作をまとめる『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年)を刊行するにあたって磯崎新に巻頭の一文を求めた。裁判闘争にエネルギーを割かざるを得ず、建築についての発言の機会を失いつつあった宮内康を『へるめす』に招いて対談(「建築と国家」1985年、No.3)したことがあり、磯崎新の一貫する宮内康へのシンパシーを知っていたからである。そして、「『建造物宣言』の宮内康」という宮内康への決定的なオマージュを得たのであるが、それは『建築家のおくりもの』(王国社、2000年)に「宮内康 ラディカリズムの志をもった者」とタイトルを変えて収められている。

 磯崎新は、そこで、上の「「建築」から「建造物」へ」の末尾を決定的なマニフェストとして引いている。そして、さらに、もっと決定的なマニフェストというのが以下である。

 「つくられるべきアジテーションとしての建築、抑圧された大衆による建造物は、極くありふれたかたちをとり、しかしそのスケールは可能なかぎり大きくなければならぬ。それは、かたちの特権的なあり様をもって空間の私有化を容認するのではなく、姿かたちの馬鹿馬鹿しさをもって空間の共有化を宣言せねばならぬ。それは、全体の了解可能性と部分の不可解さにかえて、部分の限りなき透明さと全体の還元不可能性をもって答えねばならぬ。」(「アジテーションとしての建築」)

 磯崎新は、宮内康のこのマニフェストを熟知しながら、大文字の建築、すなわち「建築」をあらためて語るべきであろうと考えはじめていた。そのロジック、その思考の過程は磯崎が繰り返すとおりである。「建築」を解体せよ!と言ったときには、解体の対象は「芸術としての建築」であり、19世紀的概念に縛られていたのであるが、その「」をはずすと、その超越的な概念が建造物の細部に浸透し、ロジックを不明瞭にする。建築における芸術性をはびこらせた元凶はアントロポモルフィスムと呼びうる人間主義と主体性論に収斂する近代の思考である。建築を構築と読みかえて「」をつける方策を模索し、さらには、デミウルゴスを召還するのだと、その文章でも書いている。

 問題の構図は以上のようにはっきりしている。

だから、磯崎新は、宮内康の『建造物宣言』をユートピアが死んだ68年の日付をもって書かれた最後のマニフェストであったが、20年の宙吊り期間を経過して、新たな状況が組み立てられようとする新しい時代に対しての最初のマニフェストになっている、と書いたのである。

Unbuilt

 しかし、最早帰趨ははっきりしている。宮内康のマニフェストはやはり最後のマニフェストのままであった。磯崎新が選びとった「大文字の建築」という仮構の平面における孤軍奮闘も先が見えてきた。世界資本主義の自己運動は<建築>も<建築家>も飲み込み、その思想的営為など全て無化しつつあるように見える。

 日本建築学会の『建築雑誌』の編集長を20021月から200312月まで務めた。紙面でできることは限られている。委員会の組閣から企画に関わる全ての過程を「編集長日誌」としてウェブ上に公開した。委員会を20017月に組織して、いきなり9.11に遭遇することになった。

磯崎新、原広司は是非企画に巻き込みたいと思っていて、200211月号の特集「都市の行方―都市空間のスケッチ」[iii]でようやく磯崎新vs伊藤滋という巻頭対談を仕掛けた。二人とも超多忙で個別インタビューとならざるを得ず、振り返ってみても、当時の磯崎新の思考の核を記録できていない。

聞くべきだったのはもっとストレートに「都市構想」というのは「大文字の建築」とどう関わるか、依然として有効なのか、ということであった。伊藤滋の方法について磯崎新は「都市計画ポピュリズム」だといいながら、そのポジションにいるのであれば「都市計画法を全面的に組み替えるとか、日本の都市政策そのものを上から揺するような仕掛けをつくってほしい」としたのが印象的であった。

磯崎新は、もともとアーバン・デザイナーとして出発したといっていい。高山・丹下研は、そのまま都市工学科(1962年創設)の主幹になっていくのである[iv]。「都市デザインの方法」「日本の都市空間」など『空間へ』には数多くのアーバン・デザインに関わる論考が収められている。「現代都市における建築の概念」(『建築文化』19609月)という最初のエッセイにおいて、アーバン・デザインの手法を今日われわれのいう「都市組織Urban Tissue(Fabric)」の問題として、すなわち一定の建築形式とその連結システムの問題として的確に見通している。もっとも「都市破壊業KK」(『新建築』19629月号)のように、Urbanics試論(大谷幸夫)のような正統的アプローチの限界も見通していた。だから、空中都市に廃墟を重ねる「孵化過程」をである。

都市の未来像を構想し、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問う構えは磯崎には当初からない[v]。そして、『建築の解体』以降、「都市からの撤退」を宣言してしまうのである。だとすれば、Unbuiltの都市構想[vi]はどのような意味をもつのか。「空想でも、夢でも、実現不可能でもいいけれど、“構想”を絵に描くことが重要だ」、しかし、「大きな計画・構想を一人の建築がつくっても、その作品は建築に過ぎない。都市にはならない」というのが先のインタビューの答えである。では、都市にはどうアプローチすればいいのか。

きみの母を犯し父を刺せ

 磯崎新は、住宅は「建築」ではない、という。「小住宅設計ばんざい」(『建築文化』19584月)以来、磯崎新は「住宅設計」あるいは「住宅作家」を揶揄してきた。というか、本気で住宅は建築ではないと思っている。「住宅は建築か」[vii]と最近も挑発的である。「建築家とは何をすることによって建築家と呼ばれるのか。住宅設計だけで歴史的に建築家として名前の残った建築家はいない」と、「住宅設計は婦女子のやること」とまでは言わないにしても、そんなニュアンスがある。ミースにしても、ライトにしても、コルにしても住宅を多く設計したけれど、住宅から離れて大きい仕事をすることができたから建築家になれたのだ、ともいう。

 その中心にあるのはnLDK批判であり、西山・吉武計画学批判である。より丁寧には「「造反有理」の頃を想い出してみた」[viii]というエッセイがある。吉武研究室の最後の大学院生である僕には他人事ではないが、nLDK批判に依存はない。施設=制度(Institution)批判と共に、むしろ僕の出発点である。「きみの母を犯し父を刺せ」というアジテーションをストレートに受け入れて出発したのである。

 ただ、磯崎が<建築>を特権的に振りかざすことによって何者かを排除するのであれば、その排除される何者かの方へ赴かざるを得ない。「建物」でも「建築」でもなく、「建造物」の方へ、である。

ここで何故か前川國男の言葉を想い出す。

「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」

磯崎にしてみれば、それら全てをつなぐものこそ「造物主義(デミウルゴモルフィスム)」である。



[i] 磯崎新プロジェクト

2001    北京金融街設計競技 北京、中国 Unbuilt

2001    北京首都博物館コンペティション 北京、中国 Unbuilt

20012006 北方町生涯学習センター 岐阜県 Built

2002-   カタール国立図書館 ドーハ、カタール Built

2002    リンカーン・センター・アヴェリーフィッシャーホール設計競技 ニューヨーク、アメリカ Unbuilt

2002    マリインスキー劇場Ⅱ国際設計競技 サンプトペテルブルグ、ロシア Unbuilt

2003    フィレンツェ新駅設計競技 フィレンツェ、イタリア Unbuilt

20032008 中央美術学院、現代美術館 北京、中国 Built

2003    国際汽車博覧中心及び汽車博物館設計競技 北京、中国 Unbuilt

2003-   中国国際建築芸術実践展、会議場 南京、中国 Built

2003-   ヒマラヤセンター 上海、中国 Built

2003    北京図書大厦設計競技 北京、中国 Unbuilt

20032004 上海文化公園「海上芸園」 上海、中国 Unbuilt

2003-   ミラノ・フィエラ地区再開発計画 ミラノ、イタリア Built

2003-   メガロン・コンサート・ホール テサロニキ、ギリシャ Built

2004-   成都美術館コンプレックス、日本軍美術館 成都、中国 Built

2004    天津都市彫刻 天津、中国 Built

2004    清華大学講堂設計競技 北京、中国 Unbuilt

2004-   ベイルート・ガーデンズ ベイルート、レバノン Built

2004-   カタール国立コンベンションセンター ドーハ、カタール Built

20042005 ホテル・プエルタ・アメリカ マドリッド、スペイン Built

2004-   中央アジア大学コログキャンパス基本計画 コログ、タジキスタン Built

2004-   中央アジア大学ナリンキャンパス基本計画 ナリン、キルギス Built

2004-   中央アジア大学テケリキャンパス基本計画 テケリ、カザフスタン Built

20052006 北京油絵美術館 北京、中国 Unbuilt

2006    福岡オリンピック 福岡県 Unbuilt

2006-   ホーチミン・ダイアモンドアイランド ホーチミン、ベトナム Built

2006    深圳南山区文体中心核心区建築設計競技 深圳、中国 Unbuilt

2006-   中国湿地博物館 杭州、中国 Built

2006-   林家舗エコロジーセンター 林家舗、中国 Built

2007    ハノイ市行政センター建築設計競技 ハノイ、ベトナム Unbuilt

2007    フィレンツェオペラハウス設計競技 フィレンツェ、イタリア Unbuilt

2007-   ベイルート・ミカティ・コンプレックス ベイルート、レバノン Built

2007-   クラコフコングレスセンター クラコフ、ポーランド Built

2007-   杭州西渓別荘 杭州、中国 Built

2008-   ボローニャ新駅 ボローニャ、イタリア Built

2008    ケルンオペラハウス設計競技 ケルン、ドイツ Unbuilt

2008-   キエフ文化複合施設計画設計競技 キエフ、ウクライナ Built

2008-   上海シンフォニーホール 上海、中国 Built

2008-   ベルガモ・オフィスビルディング ベルガモ、イタリア Built

2008    グラナダ劇場設計競技 グラナダ、スペイン Unbuilt

2008-   和政自然歴史博物館 和政、中国 Built

[ii] 磯崎新+浅田彰『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』所収

[iii] 「「ひ(霊)」としての都市を考える」『建築雑誌』200211

[iv] 実際は、林泰義、土田旭らの世代が都市プランナーの先駆となり、都市工学科の第一期生以降がその職域をひろげていくことになる。

[v] 尤も「海市」のようにあやうく実現しそうな?プロジェクトもなくはない。カタールで空中都市のような図書館が実現している。

[vi] UNBUILT/反建築史』TOTO出版2001

[vii] 『住宅の射程』TOTO出版2006

[viii] 『反回想Ⅰ』GA2001年所収

2021年4月15日木曜日

現代建築家批評32 デミウルゴスの召還  磯崎新の<建築>宣言

 現代建築家批評32 『建築ジャーナル』20108月号

現代建築家批評32 メディアの中の建築家たち


デミウルゴスの召還 

磯崎新の<建築>宣言[i]

 

磯崎新は、1991年に還暦を迎え、ロサンゼルスルス現代美術館MOCAを皮切りに回顧展「磯崎新19601990建築展」を開始する。と同時に、ロサンゼルスでAny会議をスタートさせる。一方でひとつの時代(「歴史の落丁」)の終わりを確認し、それと共に新たな始まりを仕掛けようとするのである。

1990年代を通じて、60年代-70年代の出来事を振り返る「・・・の頃を想いだしてみた」という文章が書かれ、2001年に『反回想Ⅰ』としてまとめられる。1996年に上梓された『建築家捜し』も60年代、70年代回顧である。そして、1990年代末には『空間へ』『建築の解体』『手法が』が復刻される。鈴木一誌の装丁による箱入りのこの復刻版は、1990年に出された『見立ての手法』『イメージゲーム』以降の『造物主議論』『始源のもどき』(1996)を含み、また『人体の影』(2000)『神の似姿』(2001)を加えて、磯崎全集9冊が刊行される。一応の集大成である。磯崎は「建造物と本という形式が好きだ」という。「<建築>を、建造物と本の両側から浮かび上がらせたい」という磯崎がそれだけの重みをこめたのがこの9冊である。

「この箱のシリーズはモニュメントにみえてしかたない」と磯崎はいうのであるが、その念頭には「モニュメンタルな「本」を拒絶して、書くこと、すなわちみずからが介入することの痕跡だけを残すことを選んで」[ii]死んだ(2004年)ジャック・デリダ[iii]がある。磯崎にとって、<建築>とはデリダのいう「本」と同義であり、解体とは書くこと(エクリチュール)である。

1990年の一年、磯崎新は『建築という形式Ⅰ』(1991)にまとめられる論考を書き続ける。ポストモダニズム建築の首謀者であるという汚名と誤解をはらすことに懸命であった。そして依拠することになるのが「大文字の建築」である。<建築>することの根拠を哲学的に追い求めることになる。その場がAny会議である。

大文字の建築

バブル経済の波に乗ってポストモダニズム建築が跋扈し始めると、とりわけ「ポストモダン・ヒストリシズム」と呼ばれる歴史主義的建築が次から次へと実現していく(消費される)状況が現出すると、磯崎新は当惑する。「そこで私は歴史的様式に設計者として手出しすることはやめた。・・・ポストモダニズムとして歴史的文書庫を荒らすヒストリシズムには加担しないことにする」[iv]けれども、そんなの関係ない。「差異の無差異化」、あらゆる差異が消費される過程で磯崎新が特権的である根拠は失われてしまう。最早、磯崎新も「ワン・オブ・ゼム」でしかない。

そこで、磯崎新が行き着くのが「大文字の建築architecture with capital A」である。「建築の解体」を目指して出発しながら、「大文字の概念」(メタ概念)としての<建築>に行き着いてしまう。

『戦後建築の終焉』(1995年)では次のように書いた。

「何故、「大文字の建築」という概念に行き着かざるを得なかったか。皮相に解説すればこうである。「建築の解体」というマニフェスト以降、近代建築のくびきから解放されることによって、デザインのアナーキー状況が現れた。極めて素朴なリアクションは、装飾や様式のイージーな復活であり、歴史主義建築の跋扈であった。いわゆるポストモダン・デザインの百花繚乱である。記号の差異の戯れの中で、差異のみが競われる。若い世代の建築家が陸続と現れ、過激なデザインを弄ぶ。その結果、デザインの過飽和状況が訪れる。差異化の果てのホワイト・ノイズ状況である。/日本のポストモダン・デザインの先導者と目された磯崎新も、やがて、その渦に巻き込まれるようになる。磯崎もワン・オブ・ゼムの状況がくる。差異の差異化がテーマとなり、そのスピードがひたすら加速される状況下においては、だれしも中心ではありえないのである。/そこで、そうした状況を全体的に特権的に差異化するにはどうすればいいか。そこで選びとられたのが「大文字の建築」なのである。」

正直、磯崎新が「大文字の建築」に行き着いた瞬間、磯崎時代は終わったのだ、と思った。もちろん、僕にとっての磯崎時代と言うべきである。僕らが「建築の解体」という時、近代建築の規範、その理念や手法の解体のみならず、あらゆる特権的な建築のあり方そのものの解体という二重の解体を目指していたのであり、あくまでも出発点は解体の果ての「廃墟」か「全ては建築である」という地平の筈であった。

メタファーとしての建築

磯崎自身も、<建築>という大時代的なメタ概念を持ち出すことは「大きな物語」の回復であり、反動的な逆行と疑われかねないことは充分意識していた。また、「「大きい物語」の消失を語ること、そのことがグランド・セオリーを組み立てていることであり、西欧の形而上学の解体=構築(ディコンストラクション)を実践することがすなわち新しいタイプの解釈学であって、形而上学を再建していることになる、という悪循環に陥ってしまう逆説」も意識されていた。しかし、磯崎にしてみれば、「引用の領域をモダニズムが閉鎖していた歴史的文書庫にまでひろげたことによって」、「引用が意識化された方法ではなく、アナーキーな混乱を正当化するいいわけのようにみなされた」が故に、「歴史、歴史的なるもの、歴史的様式、歴史性、歴史的断片、事実など、あらためて整序しなければならない領域へとたちむかわされてしまった」のである[v]

そして、明らかに形而上学であり、かつ「大きい物語」であった<建築>をあらためて救出し、それを議論の核心に据えることを決断する。ジャック・デリダのディコンストラクションの誤解(デコンストラクティヴィズム)は解かねばならない。「デコンの行き着く果てを挙げよ、といえば前世紀末に世界の注目を浴びた「ビルバオのグッゲンハイム美術館」(フランク・O/ゲーリー)をみるといい。私は、デリダはこれをみて嘆いたことだろうと推測する。」[vi]

「作業が完了すれば、<建築>の死滅か回復か存続かを断言できるだろう」、「本体は解体されたのか、消失したのか、単に解体=構築(ディコンストラクト)されるだけなのか、それを見定めることが要請されている」というのが出発点である。「とはいっても見込みは薄いが」という留保も付けていた。

磯崎新は、まず、<建築>というメタ概念の成立を問うことになる。そして、その成立を近代という時代に見ることにおいて、近代を成立させた知の全領域を問うことになる。<建築>は、可視化された形式にかかわる言説としてあらわれるからである。<建築>を問うことは、それ故、それを成立させた西欧的知そのものを問うことになる。すなわち、西欧形而上学、その形式主義そのものがターゲットとなる。

とてつもない主題が設定されたことになる。これこそ「すべてが建築である」という地平というべきか。磯崎は、そこで建築論的「転倒」[vii]を目論むのである。「ひとつの思想を組み立てる(・・・・・)に際して、枠組み(・・・・)をつくり、細部(・・・)序列(・・)秩序(・・)に基づいて適切に付置(・・)させる、と仮に記述するとすれば・・・をふった用語はすべて<建築>にかかわるものになってしまう。・・・いまや哲学・思想はほとんど<建築>というメタフォアによって初めて語りえているといえるのではないか。」

建築と哲学をめぐる問いは、1990年代を通じてAny会議の場で討議され続けることになる。

造物主義論

<建築>は問うつもりがなければあらわれない、忘れていればそれですむ もしプロジェクトを構成し、これに建築的言説を組み込んだなら、それは自動的に<建築>にかかわってしまう。<建築>はたちあらわれてくるのだ。

<建築>というメタ概念が成立するのは、18世紀半ばのことだ、と磯崎はいう。そして、その成立を記述する中で、デミウルゴスを召還することになる。デミウルゴスとは、プラトンが宇宙の創生を語るに当たって『ティマイオス』に登場させる造形する神である。

「<建築>―あるいはデミウルゴスの“構築”―」[viii]は、磯崎の書く「エッセイ」のなかでも最もすぐれた論考を含むもののひとつである。

僕は、1987年に学位論文なるものを書いて、1991年に京都大学に移った。『群居』をベースに活動を続けていたけれど、バブル経済の「恩恵」というべきか、松下電器産業(原パナソニック)の建築戦略の一環に巻き込まれる形で、関西をベースとして「建築フォーラムAF」を立ち上げることになった。C.アレグザンダー、M.ハッチンソン、R.クロールを招いての「地球環境時代の建築の行方/ポストモダン以後」と題した国際フォーラムを皮切りに、磯崎新vs原広司を軸とするシンポジウムを5年にわたって仕掛けた。その全記録は『建築思潮』0105にまとめられている[ix]。そうした縁もあって磯崎さんから次々に署名入りの本を頂いていた。正直言って、じっくり読む余裕がなかったけれど、これだけは興奮しながら読んだ。<建築>の始源の力をいきいきと描き出している。磯崎流の「近代建築史」否「全建築史」になっている。しかも、自らの作品群をビルディング・タイプ別に挟み込んである。

磯崎は、デミウルゴスを召還することで、体制を立て直すのである。その冒頭には次のようにある。

『ティマイオス』では、「宇宙は三つの究極原理によって生成することになっている。造形する神としてのデミウルゴス、眼に見えぬ永遠のモデルとしてのイデア、そして、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアとしての世界を、イデアをモデルとして場(コーラ)のふるいにかけたうえで生成する役割を担わされている。」

「だが、デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指しているので、必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない」。そこで、職人としての建築家、工作者、テクノクラートもその範疇に含まれ、ブリコラージュのような応用的仕事や盲目的な機械仕事も行うのもデミウルゴスとも考えられるが、プラトンがデミウルゴスを登場させたのは目的論的自然論を根拠づけるためであり、「デミウルゴスは、無闇に物を生成するのではなく、職人仕事のように、目的に向かって生成する作業をする」のである。

日本的なもの

 もうひとつ、磯崎が一貫して考えてきたのが、建築における「日本的なもの」である。「「日本的なもの」という主題は、私が建築家として思考を開始した1950年代の後期においては、建築界におけるメイントピックであった」[x]のである。『空間へ』に「闇の空間」という「エッセイ」がある。19645月の日付である。「「プロセス・プランニング論」と「闇の空間」の二つは、建築家として、私なりの方法をはじめて記述した文章だ」とそこで振り返っている。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を手本にしながら、ヨーロッパの建築空間においては光と闇が対立的であるのに対して、日本の建築空間は闇を光がよぎるだけだ(「闇一元論」)という。また「日本の都市空間」がその少し前に書かれている。

 建築における「日本的なもの」という主題についての僕の総括は『戦後建築論ノート』に譲りたい。1960年代の磯崎にとっては、1950年代の伝統論争は既に決着のついたものであったし、「1968年の思想」は、「国家」「建築」「芸術」「歴史」などのあらゆる大文字のメタ概念とともに「日本」という概念にも死を宣告していた。しかし、1970年代に再々度「日本的なもの」が問われる。磯崎新が『建築における1930年代』によってそれを確認したことは上述の通りである。

 そして、1978年のパリ秋芸術祭で日本を紹介する展覧会を組織する機会を得て、「間―日本の時空間」展を企画する。いかにステレオタイプ化された日本理解(ジャポニスム、ジャポネズリ、ジャポニカ、ジャパネスク、・・・)を脱するかがテーマとなる[xi]

 その後、主として1990年代に書かれた「日本的なもの」に関わる論考は、『建築における「日本的なもの」』[xii]にまとめられる。また、福田和也との対談集『空間の行間』[xiii]がある。後者では日本建築の対象は拡げられるが、磯崎の関心が集中するのは、伊勢、桂離宮、そして重源である。英訳された[xiv]「建築における「日本的なもの」」(『批評空間』第Ⅱ期2125号、1999-2000)は、「日本的なもの」という問題構成を軸にした日本近代建築史であり、それを桂離宮(17世紀末)、重源(12世紀末)、伊勢神宮(7世紀末)へ遡行させた磯崎流日本建築史が前者である。

Any会議

 Any会議は、P.アイゼンマンと磯崎新によって発想され、スペインのイグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーを加えた3人によって開始される。事務局経費は清水建設が負担した。

 Anyとは「決定不能性」を象徴するという。①Anyone(建築をめぐる思考と討議の場、1991、ロサンゼルス)Anywhere(空間の諸問題、1992、湯布院)③Anyway(方法の諸問題、1993、バルセロナ)④Anyplace(場所の諸問題、1994、モントリオール)⑤Anywise(知の諸問題、1995、ソウル)⑥Anybody(建築的身体の諸問題、1996、ブエノス・アイレス)⑦Anyhow(実践の諸問題、1997、ロッテルダム)⑧Anytime(時間の諸問題、1998、アンカラ)⑨Anymore(グローバル化の諸問題、1999、パリ)⑩Anything(物質/ものをめぐる諸問題、2000、ニューヨーク)と続けられた。

 このAny会議の討議の内容は、磯崎新+浅田彰の監修によって翻訳され、鈴木一誌の装丁になる本のシリーズによって日本には紹介されてきた。いささかタイムラグはあり、最終回(2000年)のAnythingが日本語で刊行されたのは2007年である。

 浅田彰の総括によれば、「Any会議を通して新しい理論的な展望を示すことができたかというと、懐疑的にならざるをえない」けれど、旧来の理論的な枠組みが瓦解していくプロセスを体現しており、20世紀の総括という意味で意義深かったという[xv]

 具体的には、P.アイゼンマン+J.デリダ(そして、磯崎新)の脱構築の理論が支配的であったが、次第にドゥルーズ流の生気論が隆盛になっていく、という。また、「理論よりも先に、コンピューターを駆使して奔放な形態の戯れを展開するようになる」。そして、「批判理論なんかもう古い、もはやグローバル化していく資本主義の波に乗ってサーフィンしていくのみだ、というレム・コールハウス的シニシズムが支配的になる」。コールハウスは、「建築ではなく都市、さらにその背後にあるグローバル資本主義が重要なので、建築固有の理論などもはやどうでもいい」と開き直ったのだという。

1989年の後、磯崎が歴史の閾として挙げるのは1995年(阪神淡路大震災1.17)と2001年(同時多発テロ9.11)である。「私の履歴書」が1990年以降とりあげるのも、「阪神大震災」(25)と「水俣メモリアル:グラウンド・ゼロ」(26)のみである。

動き出したはずの歴史は、アメリカの一人勝ちの世界、パックス・アメリカーナへ向かった。世界システムは、アメリカ帝国が握った。日本はバブル経済が弾けて「空白の10年」に陥ることになる。そして阪神淡路大震災は、日本の都市建築に関わるパラダイムを根底的に変えることになった。

というより世界資本主義の全面展開の時代へ突入したようにみえた。アラビア半島へ、そして中国へ、システムの境界へ世界建築家たちは引き寄せられていくことになる。Any会議における議論もそうした時代の雰囲気が反映してきたのであろう。

そして、9.11が世界を震撼させた。

世界資本主義の象徴「ワールド・トレード・センター」を標的にしたこの同時多発テロは、イスラーム原理主義の側からすれば「見事な一撃」であった。「文明の衝突」を喧伝し、イスラーム世界を腕ずく押さえにかかったアメリカ帝国はイラク、アフガニスタンで泥沼に引き込まれていく。そして「グラウンド・ゼロ」コンペは、建築家たちに大きな問いを突きつけることになった。一方で、ドバイが「世界建築家」を次々に招聘し出した。

そして、2008年リーマン・ショックが全世界を襲った。そして、日米で政権交代が起こった。1990年代を通じて続けられたAny会議を総括する2冊『Any:建築と哲学をめぐるセッション1991-2008』『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』が出たのは、世界同時不況最中の2010年である。

 磯崎新はどこへいくのか。




[i] 磯崎新プロジェクト

1990    フレジェス市現代美術館設計競技 フレジェス、フランス Unbuilt

19901992 有時庵 東京都 Built

1990    シュツトガルト現代美術館 シュツトガルト、ドイツ Unbuilt

19901994 クラコフ日本美術技術センター クラコフ、ポーランド Built

1991    ディズニー・エンプロイー・センター計画案 カリフォルニア、アメリカ Unbuilt

19911995 ビーコンプラザ 大分県 Built

19911995 豊の国情報ライブラリー 大分県 Built

19911995 京都コンサートホール 京都府 Built

19911994 奈義町現代美術館 岡山県 Built

1992    ミュンヘン近代美術館設計競技 ミュンヘン、ドイツ Unbuilt

19921998 なら100年会館 奈良県 Built

19921993 ダイムラー・ベンツ・ポツダム広場開発計画国際設計競技 ベルリン、ドイツ Unbuilt

19921998 ダイムラー・ベンツ・ポツダム広場計画ブロックC2+C3 ベルリン、ドイツ Built

19921994 中谷宇吉郎雪の科学館 石川県 Built

1993    ドナウ・シティ・ツインタワー設計競技 ウィーン、オーストリア Unbuilt

19931998 静岡県コンベンション・アーツセンター“グランシップ” 静岡県 Built

19931995 ラ・コルーニャ人間科学館 ラ・コルーニャ、スペイン Built

19932000 バス・ミュージアム拡張計画 フロリダ、アメリカ Built

19931996 岡山西警察署 岡山県 Built

19931994 ルイジ・ノーノの墓 ベネチア、イタリア Built

19931997 静岡県舞台芸術センター 静岡県 Built

1994    ボルチモア・パフォーミング・アーツ・センター設計競技 メリーランド、アメリカ Unbuilt

19941999 オハイオ21世紀科学産業センター オハイオ、アメリカ Built

19941995 海市計画 珠海、中国 Unbuilt

1995    さいたまアリーナ設計・施工提案競技 埼玉県 Unbuilt

19951999 県立ぐんま天文台 群馬県 Built

19951998 秋吉台国際芸術村 山口県 Built

1995    深圳国際交易広場設計競技 深圳、中国 Unbuilt

1995    プラド美術館拡張及び再計画設計競技 マドリッド、スペイン Unbuilt

1996    『フィレンツェ・ファッション・ビエンナーレ‘96-タイム・アンド・ファッション』展 フィレンツェ、イタリア Built

1996    ヴィクトリア・ナショナル・ギャラリー拡張計画設計競技 メルボルン、オーストラリア Unbuilt

19962002 セラミックパークMINO 岐阜県 Built

19972003 山口情報芸術センター 山口県 Built

1997    フォートワース近代美術館設計競技 テキサス、アメリカ Unbuilt

1998    中国≪国家大劇院≫建築設計競技 深圳、中国 Unbuilt

1998    ウフィッツィ美術館新玄関設計競技 フィレンツェ、イタリア Unbuilt

1998-   深圳文化センター 深圳、中国 Built

1999    深圳会議展覧中心建築設計競技 深圳、中国 Unbuilt

1999-   ザ・ミレニアム・ハウス ドーハ、カタール Built

19992002 ラ・カイシャ財団文化展示センター新ゲート バルセロナ、スペイン Built

1999-   イソザキ・アテア ウルビタリテ・プロジェクト ビルバオ、スペイン Built

2000    北京国際展覧体育中心計画設計競技 北京、中国 Unbuilt

20002006 トリノ2006冬季オリンピックゲーム、アイスホッケースタジアム トリノ、イタリア Built

[ii] 「アルジェからの旅立ち」『磯崎新の思考力』王国社2005

[iii] ジャック・デリダ(Jacques Derrida,19307月15 - 200410月8)は、アルジェリア出身のフランスユダヤ哲学者。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種差延等の概念などで知られる。フッサール研究から出発し、ニーチェハイデッガーを批判的に発展させた。哲学のみではなく、文学建築演劇など多方面に影響を与えた。またヨーロッパだけでなくアメリカ日本など広範囲に影響を与えた。代表的な著作に『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』などがある。

[iv] 「ポモ/デコン」『磯崎新の思考力』王国社2005p157

[v] 「非都市的なるもの」『建築という形式Ⅰ』新建築社1991

[vi] 「ポモ/デコン」『磯崎新の思考力』王国社2005p159

[vii] 『建築という形式Ⅰ』p192-209

[viii] 『造物主義論』鹿島出版会1996

[ix] 「建築思潮」という名前の使用については、「建築思潮研究所」を主催する平良敬一さんに許可を頂いた。

[x] 『始源のもどき』あとがき

[xi] 磯崎新と「間」展をめぐっては、求められるままにではあるが「建築のポストモダンと「間」」を書いた(KAWASHIMA19855月。布野修司建築論集Ⅰ『廃墟とバラックー建築のアジアー』彰国社1998年所収)。かなりの時間をかけて「間」についてありとあらゆる文献を読んだ記憶がある。僕にとっての最初の空間論である。

[xii] 新潮社、2003

[xiii] 筑摩書房、2004年がある。

[xiv] Arata Isozaki, “The Japan-ness in Architecture”, MIT Press, USA, 2006

[xv] Any会議が切り開いた地平」『Anything』。