現代建築家批評34 『建築ジャーナル』2010年10月号
現代建築家批評34 メディアの中の建築家たち
建築の持続 それぞれの役割
建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道04
3年に亘って連載を続けてきた。「メディアに頻繁に取り上げられる建築家に焦点を絞り、デビューから現在までの代表作を挙げながら、社会に及ぼす建築の役割および建築思想の変遷に重きをおいて、作品に通底(および変化)する建築思想を探るとともに、社会に及ぼす建築の力について」書いて欲しいというのが依頼であった。「一人の建築家を上、中、下の3号に渡って」というのが編集部の指示であったけれど、さすがに磯崎新についてはそれでは収まらなかった。
当初、編集部(中村文美現編集長)から求められたラインナップは、<現代建築界のトップランナー>1安藤忠雄、2伊東豊雄<デザインの新奇追求派>3妹島和世+西沢立衛、4青木淳<空間の型・建築のこだわり派>5山本理顕(難波和彦)<アンチ・モダニズム・エコロジー派>6藤森照信(象設計集団)であった。妹島和世+西沢立衛(SANAA)、青木淳、難波和彦が残されている。
ただ僕なりの組立てもあり、建築家の選定についてはある程度まかせて頂いた経緯がある。結果として、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団、原広司、磯崎新と、とりあげてきたのは全て60歳以上の建築家たちである。まず、僕より年上の建築家、僕が刺激を受けてきた建築家について「片付け」ようと思った。日本の建築のポストモダンの構図を描こうと考えたのである。そうすれば、若手も位置づけることができる。拡がりを考えて、石山修武、渡辺豊和を加えた。そして結果として、原広司、磯崎新にまで遡ることになった。
磯崎新を中心(主題の不在)に張られるアート―歴史軸と原広司の住居・集落・都市・地球・宇宙―空間軸で張られる平面に、建築技術に対するスタンス、自然―テクノロジー軸を垂直軸とする空間にこれまでとりあげてきた建築家たちをプロットすることで、およそポストモダン以後の建築家の位置とヴェクトルはプロットできたと思う。すなわち、近代建築批判の方向は、歴史へ(磯崎新)、集落へ(原広司)、自然へ(藤森照信)、セルフビルドへ(石山修武)、コスモロジーへ(渡辺豊和・毛綱毅曠)、地域へ(象設計集団)、住居へ(山本理顕)、日本へ(安藤忠雄)、形へ(伊東豊雄)といったヴェクトルで目指されてきたという構図である。
オーヴァー60として、さらに気になる建築家として、長谷川逸子、六角鬼丈、鈴木了二、坂本一成、石井和紘、大野勝彦、元倉真琴、高松伸、難波和彦らをあげるべきであろうか。ただ、彼らのメディアへの発信は少なくなりつつある。
メディアの中の建築家としてとりあげるべきアンダー60は、1950年代生まれのオーヴァー50として、まずは隈研吾、妹島和世‧西澤立衛(SANAA)であろうか。さらに続いて、内藤廣―オーヴァー60の仲間とすべきだろう―、青木淳、竹山聖、宇野求、古谷誠章、小嶋一浩、遠藤秀平らであろうか。しかし、1950年代生まれの現在50歳代の建築家たちは多かれ少なかれ、以上のようなポストモダンの構図の中で仕事をしてきたようにみえる。
個々の建築家をさらに取り上げるためには紙数は足りない。若い世代の建築家たちについては別のシリーズに委ねることとして、以下の3回で一区切りとしたい。本連載に一貫するテーマは「建築のポストモダン以後―建築家の生き延びる道」であった。
建築雑誌の終焉?
宮内嘉久さんが亡くなったのは昨年12月13日のことである。その追悼の会が先だって行われた(6月26日)。「水脈(みお)の会」[i](入之内瑛、橋本功、藤原千春、永田祐三、小柳津醇、有働伸也、・・・)の呼びかけで、大谷幸夫、内田祥哉などの大先生をはじめとする建築家、平良敬一、田尻裕彦などの編集者、写真家などが集った。
宮内嘉久さんと言えば、一時期顧問を務められていた本誌とも縁が深い。新日本建築家連盟(NAU)の編集部から『新建築』へ、『新建築』問題で退職自立(宮内嘉久編集事務所)、『建築年鑑』、建築ジャーナリズム研究所閉鎖、個人誌『廃墟から』、『風声』『燎火』・・・戦後建築ジャーナリズムをリードしてきた第一人者である。『廃墟から』『少数派建築論』『建築ジャーナリズム無頼』など著書も多い。
宮内嘉久さんとの苦い思い出については、本連載13、山本理顕の節(「制度」と戦う建築家)で触れた。『風声』『燎』を引き継ぐ新たな建築メディア(『地平線』(仮称))を出版する編集委員会で僕とは意見が合わず、決裂した経緯がある。その後、組織されたのが「水脈の会」である。宮内嘉久さんとは、「宮内嘉久著『前川國男 賊軍の将』合評会」(2006年7月29日)[ii]が最後になった。
宮内嘉久さんの建築ジャーナリストとしての軌跡は、「自立メディア」を標榜しながら、同人誌へ、個人誌へ閉じていく過程であった。「開かれたメディア」を目指すべきだ、と「自立メディア幻想の彼方へ」[iii]という文章を書いたのは、宮内嘉久さんと決裂した直後である。宮内嘉久さんは基本的に編集者というより、建築の根源的あり方に拘る批評家の資質を持ち続けた人である。
『群居』を創刊することになった背景にこの決裂があったことも既に書いたが、その『群居』も50号出し続けて、力尽きた(2000年12月31日)[iv]。僕が『同時代建築通信』(同時代建築研究会)『群居』『建築思潮』(1992-97)『Traverse』(2000年創刊―、2010年11号-)などメディアに拘わり続けてきたのは、おそらく「建築」を断念したこと、批評家あるいは研究者として生きようとしたー生きることを選び取らされたーことと関係があると思う。『建築雑誌』の編集に携われたこと[v]はラッキーであった。
しかし、それにしても「建築雑誌」の時代は確実に終焉へ向けて衰退して、逝きつつあるようにみえる。『都市住宅』の廃刊は1986年12月である。『SD』2000年12月、『建築文化』2004年12月、『室内』2006年3月と廃刊が続いた。1994年5月に創刊された『10+1』(INAX)も2008年3月に廃刊となった[vi]。本誌のような雑誌は実に貴重な稀有の存在である。
戦後、『国際建築』『新建築』を出発点として『建築知識』『SD』『都市住宅』『住宅建築』『店舗と建築』『造景』などを次々に創刊してきた名編集者平良さんの『住宅建築』もついに隔月刊に追い込まれた。「建築ジャーナルが次々に廃刊、建築出版物は「コーヒーテーブル・ブック」あるいは「ヴィジュアルなカタログ」に姿を変えた」(磯崎新)のは日本も海外も同じである。
宮内嘉久さんの追悼の会で最初に挨拶に立ったのは平良敬一さんであった。何人かの大先達のスピーチがあって、こともあろうに最後に予告なく僕にマイクを向けられてうろたえた。その時のことを内藤廣がブログに書いている。
「先週の土曜日、千駄ヶ谷で行われた「宮内嘉久を偲ぶ会」に行って来ました。60年代後半、建築界は全共闘運動に刺激され、又、大阪万博についての是非をめぐって色々な意見が対立し合い、ある意味、活気のある時代でした。・・・今回参加してみて皆さんお元気です。80代~60代までが多かったのですが。最後に若手代表として布野修司さんが指名され、あいさつの中で、このままで終わらないで、紙媒体のメディアで発言していきたいと宣言して、終了しました。」
僕が若手代表というのだからそれ自体何事かを物語っているが、後日、平良さんと「最後の建築雑誌」の創刊をめぐって会った。声をかけたのは、松山巌、宇野求、中谷礼仁、青井哲人である。今のところどうなるか僕自身もわからない。
リーディング・アーキテクト
内藤廣は、早稲田大学出身であるが、現在東京大学の教授を務める。ただ、建築学科ではなく、社会基盤学科(元土木工学科)に属する。早稲田大学で吉阪隆正に師事した後、フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所に勤務、さらに菊竹清訓建築設計事務所を経て独立(1981年)しているが、建築界では変り種と言えるだろう。招いたのは篠原修(1945年 - )[vii]である。橋梁のデザインなどシヴィック・デザインを切り開いたと評価されるが、内藤廣にはその分野の強化を期待したのだと思う。「GS(グラウンドスケープ)デザイン会議」をともに組織している。内藤のデビュー作といっていい「海の博物館」(1992年)は傑作である。自らも「普通の建築」をつくるというように大向こうをうならせる建築はないけれど、堅実な作品で知られる。著作も増え、いまやリーディング・アーキテクトのひとりと言えるだろう。東京大学教授という肩書きがそれを後押ししている。
ただ安藤忠雄のような大物と比較すると線が細いと言わざるを得ない。そういう意味では、安藤忠雄の後任として東京大学の建築学科教授になった難波和彦も同様である。難波和彦は、戦後建築を工業化という路線でリードした池辺陽に師事したが、もともとは吉武研究室の出身である。一年先輩の石井和紘とランディウムを組織していた頃、僕が図面や模型の手伝いをしたことは前に触れた(本連載25)。「箱の家」シリーズが代表作ということになるが、池辺陽を正統に受け継いだ住宅作家というべきだろう。線が細いというのは、インターナショナルな活動と評価が少し弱いということである。
そうした意味で、東大のプロフェッサー・アーキテクトとして期待されるのは、2009年に着任した隈研吾である。若いときから著作も多く発言を続けて来ているし、海外からの評価も高い。2008年にはフランス・パリにKuma & Associates Europeを設立している。隈研吾については、竹山聖、宇野求らとともに、東京大学生産技術研究所の原広司研究室に所属している頃から知っている。饒舌で才気に走った黒川紀章の後継者のような感じを抱いてきた。ドーリックやM2によってヒストリシズム・ポストモダンの旗手としてデビューした時にはびっくりしたが―その後、葬儀場(東京メモリードホール)に転用された。義父の自宅が近くにあって、その葬式を行った。隈の設計かどうかは不明であるが、あまりに見事に転用されていたことにも驚いた―、その後の展開も、時代の流れの中で表現を組み立てるその資質を示している。いささか嫌味っぽく書けば、いまや自然派、素材派の大家である。一般には変わり身が早い建築家と思われている。しかし、処女作である『10宅論』がそもそも大衆社会における住宅のスタイルを見事に切ってみせたものである。そして、2007年3月に提出した学位請求論文は「建築設計・生産の実践に基づく20世紀建築デザインと大衆社会の関係性についての考察」(慶應義塾大学博士(学術))というのである。隈研吾は、現在では「メディアの中の建築家」というに最も相応しい建築家といえるであろう。
プロフェッサー・アーキテクト
何もリーディング・アーキテクトは東京大学にいなくてもいいのだけれど、この間のセルカン・アリニール問題などを聞くにつけ、本誌○○号が問題にしたように、しっかりしてもらいたい、と思う。東京大学に限らず、現在、メディアに注目される建築たちの多くはプロフェッサー・アーキテクトである。これには建築家の側にも大学の建築学科の側にももちつもたれつの関係がある。建築学はなによりも実践の学であり、一線で活躍する建築家の名前と実績が欲しいし、建築家も何らかの肩書きは仕事のプラスになる。
京都大学を見ると高松伸、竹山聖がいる。高松伸については、数年前のスキャンダルが聞いたのかこの間精彩がない。竹山聖は、隈研吾に匹敵する才能の持ち主だけに、もう少し仕事にめぐまれて欲しい。平田晃久など多くの若い建築家たちを育ててきたことは特筆されていい。この四月から、岸和郎が京都工業繊維大学から移ったが、京都大学については何ともよくわからない。
早稲田大学には石山修武、古谷誠章がいて、東京工業大学には坂本一成退官のあと塚本由春が、東京藝術大学には元倉真琴、北河原温、ヨコミゾマコトがいる。・・・こうして挙げていけば、全国の大学の建築学科に優秀な建築家が属していることになるだろう。非常勤講師も含めれば、ほぼ全てが含まれるといっていい。
いまや、プロフェッサー・アーキテクトの時代である。
山本理顕、飯田善彦、北山恒、西沢立衛という最強の布陣を敷くのは横浜国立大学だろう。退任する山本理顕に変わって、小嶋一浩が東京理科大学から移るという。
そして、この間台風の目になってきたのは、仙台メディアテークで2003年から開催されてきた「せんだいデザインリーグ 卒業設計日本一決定戦」[viii]である。「日本一決定戦」は、建築ジャーナリズムが衰退する中で、確実に学生たちに共通に議論する場所を与えてきた。仕掛けたのは、阿部寛史、小野田泰明らである。というより、主催は、仙台建築都市学生会議[ix]+せんだいメディアテークである。現在のアドバイザーは阿部仁史(UCLA)小野田泰明(東北大学)槻橋修(神戸大学)竹内昌義(東北芸術工科大学、みかんぐみ)本江正茂(東北大学)五十嵐太郎(東北大学)堀口徹(東北大学)中田千彦(宮城大学)であるが、彼らが果たしている役割は大きい。合同卒業設計展を直接の動機にした動きであるが、建築界に議論がなくなりつつあることの裏返しの動きと見ることが出来るからである。昨年から京都で「建築新人戦」も開催され始めた。第二回の今年は、記念講演者として原広司が招かれている[x]。
プロフェッサー・アーキテクトのこうした動きとネットワークの組織化はかつて建築ジャーナリズムが果たしていたものである。
サイト・スペシャリスト
「大文」、大工の文さんこと田中文雄さんの訃報が届いたのは、いまこの原稿を書きつつある中国旅行中のことであった。8月9日。海外に出かけていて訃報に接することがよくある。大江宏先生の時もそうだったし、立松久昌さんの時もそうだった。
「大文」さんについては、この連載で二度触れた。安藤忠雄の第一回(連載04 ボクサーから東大教授へ、2008年4月)と磯崎新の第二回(連載29 廃墟、2010年5月)である。二人の大建築家とつながっていた、この現代の大棟梁については、知る人ぞ知る、であるけれど、実に残念である。
「大文」さんとは、内田祥哉先生に頼まれて「職人大学」(現・ものつくり大学)設立を手伝うために呼ばれ、1990年代を通じてとことんつきあった。藤沢好一、安藤正雄の両先生にも加わって頂いて、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)という現場の職人さんたちが集うフォーラムをつくった。
職人を大学なんかでつくれるか、といいながら、建築史学を中心に大学に期待していたのが田中文雄さんである。「職人大学」を東大、早稲田に匹敵する大学に、というのがスローガンであった。
SSFでは、実に多くの職人さんたちに出会った。すごいのは、とにかく現場監督である。いかに机上の小手先の技術が発達しようと、それを実現する現場の技能者、サイト・スペシャリストがいなければ建築の未来はない。
現場で全てを管理し、差配する能力、それを育てるのはやはり現場でしかない。問題は、その現場そのものが少なくなりつつあることである。
[i] 水脈の会『時代を切り拓く―20世紀の証言 』れんが書房新社、2002年がある。
[ii] 「『前川國男 賊軍の将』をどう読むか」,松隈洋・鈴木了二・辻垣正彦・山口廣・布野修司,『住宅建築』,2007年2月
[iii] 螺旋工房クロニクル,建築文化,彰国社,1978年9月号
[iv] 0号(創刊準備号) 座談会:箱・家・群居-戦後家体験と建築1982年12月8日:1号 商品としての住居1983年4月25日:2号 セルフビルドの世界1983年7月27日:3号 『職人考』-住宅生産社会の変貌1983年10月29日:4号 住宅と「建築家」1984年2月18日:5号 アジアのスラム1984年5月20日:6号 日本の住宅建設1984年8月25日:7号 住イメージの生産と消費1984年12月25日:8号 ポストモダンの都市計画1985年4月11日:9号 戦後家族と住居1985年7月29日:10号 群居の原像1985年11月25日:11号 住政策批判1986年3月31日:12号 不法占拠1986年7月18日:13号 ウサギ小屋外伝1986年11月30日:14号 東京異常現象1987年4月24日:15号 大野勝彦とハウジング戦略1987年9月21日
16号 本と住まいPART1 1987年12月27日
17号 ショートケーキハウスの女たち 1988年5月29日
18号 列島縦断・住まいの技術 1988年8月25日
19号 ハウジング計画の表現者 1988年12月22日
20号 住居の空間人類学 1989年4月26日
21号 町場-小規模生産の可能性 1989年8月25日
22号 都市型住宅再考 1989年12月15日
23号 それぞれの住宅戦争 1990年5月20日
24号 日本アジア村-外国人労働者の住まい 1990年8月30日
25号 増殖する住宅部品 1990年12月25日
26号 「密室」-子供の空間 1991年4月29日
27号 居住地再開発のオルタナティブ 1991年8月25日
28号 建設労働 1991年12月25日
29号 X年目の住まい 1992年4月23日
30号 住まいをめぐる本の冒険 1992年9月12日
31号 日本の棟梁 1992年12月25日
32号 崩壊後のユートピア 1993年4月27日
33号 ローコスト住宅
1993年8月5日
34号 在日的雑居論 1993年11月15日
35号 中高層ハウジング 1994年3月27日
36号 世界のハウジング 1994年8月24日
37号 木造住宅論攷1994年12月31日:38号 J・シラスとその仲間たち1995年6月16日:39号 震災考1995年11月24日:40号 ハウジング戦略の透視図-51年目のハウジング計画1996年5月8日:41号 イギリス-成熟社会のハウジングの行方1996年11月15日:42号 地域ハウジング・ネットワーク1997年4月21日:43号 庭園曼荼羅都市-神戸2100計画1997年8月25日:44号 タウン・アーキテクトの可能性1981年1月22日:45号 建築家のライフスタイルと表現1998年5月21日:46号 DIY-住まいづくりのオールタナティブ1999年7月24日:49号 群居的世紀末2000年3月27日:50号 21世紀への遺言2000年10月28日:51号(終刊特別号) 群居の原点2000年12月31日
[v] 編集委員会幹事として1987年1月号~1989年12月号。編集委員として1993年1月号~1995年12月号。編集長として2002年1月号~2003年12月号。
[vi] 『国際建築』(美術出版社)1928年創刊。1967年廃刊。: 『室内』(工作社)1961年『木工界』を改名し発刊。2006年3月廃刊。:『建築文化』(彰国社)1946年創刊 2004年で休刊。以降特集号として隔年で刊行。(ex建築文化シナジー):『SD』(鹿島出版)1965年創刊。2000年12月をもって休刊となり、以降若手の設計者の作品発表の場となっているコンペ「SDレビュー展」は継続し,年1回特集号を発行する。:『都市住宅』(鹿島出版)1967年5月創刊。1986年12月をもって廃刊:『群居』1982年―2000年:『10+1』(INAX)1994年5月創刊。2008年3月廃刊。『X-Knowledge HOME』(エクスナレッジ)2001年12月創刊。2003年12月廃刊。以降特別号として隔年発刊。
[vii] 土木設計家、政策研究大学院大学教授。東京大学大学院修了後、(株)アーバンインダストリー、東京大学農学部助手、旧建設省土木研究所主任研究員などを経て1989年東京大学工学部助教授、1991年工学系研究科社会基盤学専攻教授。2006年に東京大学を退官。専門は、景観デザイン、設計・計画思想史。
[viii] 2002年3月に『せんだい建築アワード2002』を開催。翌年の第2回せんだいデザインリーグ2003より名称変更し、第1回目の『卒業設計日本一決定戦』としている。
[ix] 仙台建築都市学生会議とは仙台メディアテークが開館した2001年(平成13年)1月、東北大学・東北工業大学・宮城大学の3校の建築を学ぶ学生有志が、アドバイザーとして阿部仁史、小野田泰明、仲隆介、本江正茂を迎え結成。翌2002年(平成14年)より、加盟校の学生ボランティアが主体になって「せんだいデザインリーグ」を開催している。以下は、現在の参加校は、東北大学(宮城県仙台市、東北芸術工科大学(山形県山形市)、東北工業大学(宮城県仙台市、宮城大学(宮城県黒川郡大和町)、宮城学院女子大学(宮城県仙台市)(2008年度より参加)である。
[x] 審査委員長:竹山 聖(京都大学):審査委員:大西 麻貴(東京大学博士課程)中村 勇大(京都造形芸術大学)藤本 壮介(藤本壮介建築設計事務所)宮本 佳明(大阪市立大学)李 暎一(宝塚大学)