戦後建築のゼロ地点1945年8月15日,原爆ドーム 歴史のうずの中で 空白の10年!?建築の1940年代,ひろば,200107
廃墟とバラック
そして、日本の建築家たちは、1945(昭和20)年8月15日を迎えた。
8月6日の広島への、8月9日の長崎への原爆投下が決定的となった。ポツダム宣言受諾を余儀なくされた天皇の「終戦の詔」(人間宣言)は、戦後生まれの世代もその後毎夏繰り返し聞くことになる。1945年8月15日は、少なくとも昭和天皇の崩御(1989年)まで「戦後」の起点であり続ける。
「戦後建築」の出発点において、建築家たちの眼前にあったのは「廃墟」である。多感な青年期に敗戦を迎えた磯崎新(1931-)は建築の原点としての「廃墟」について繰り返し触れている。また、「焼跡闇市」派を自認するもう少し上の世代も、出発点としての「廃墟」にこだわる。建築評論家、宮内嘉久(1926-)も自らの評論集の一冊を「廃墟から」と冠するように「廃墟」からの出発に拘るひとりである。
戦災を目の当たりにして、どんな建築も「廃墟」と化す、という圧倒的出来事は建築家の心中深く刻まれた。また、建築は「廃墟」から立ち上がる、という新生のイメージも共有された。敗戦がそれぞれの人生において他に比すべくもない強烈な体験であったことは疑い得ないことである。
半世紀の後、阪神淡路大震災(1995年)は、この「廃墟」の光景を思い起こさせることになった。戦後世代も、戦後建築のゼロ地点、原点を追体験することになるのである。
「廃墟」は、たちまち「バラック」の海で埋まり始める。当然である。人々にはシェルターは必要であり、日々の暮らしは一刻も休むことはない。誰もが自力で家を建てた。そこに戦後建築の原点があるといってもいい。
廃車に切妻の屋根をかけたバス住宅、材木が足りないので、叉首(さす)に組んでつくった三角ハウス、工場の鉄管をありあわせの新聞紙や木片、布などによって塞いだ鉄管住宅。様々な天幕住宅。車のついた移動住宅もある。実に多様なバラックの群である。廃品利用など実に創意工夫に富んでいる。
建築は建てられていずれ壊される。スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)を繰り返してきたのが戦後建築の歴史である。しかし、果たしてそれでよかったのか、という思いが今ある。
今日、フローからストックへ、既存の建造物を長く大事に使うというのが趨勢である。地球環境問題が意識され、資源の有効利用、リサイクルが声高に叫ばれる。戦後まもなくの自力建設(セルフビルド)、あり合わせのブリコラージュは大いに再評価すべきであろう。
建築の死と(再)生をめぐっては根本的に考えてみるべきだ。「永遠の建築」とは一体何か。果たして可能か。「永遠の建築」を建てるためには予め廃墟と化した建築を建てればいいという、ヒトラーの「廃墟価値の理論」を想起してみよう[1]。一体、建築の寿命は何年であればいいのか、という素朴な問いでもいい。「廃墟」と「バラック」には、建築の原点に触れる何かがある。そこからこそ戦後建築は出発したのである。
原爆ドーム
戦後建築史の第1頁に掲げられるのは、前川國男(1905-86年)の「紀伊国屋書店」であり、谷口吉郎(1904-79年)の「藤村記念館」である。いずれも1947年の作品で、それまでは見るべきものはない。
しかし、戦後建築の出発を象徴する建築作品を振り返って考えて見ると、やはり、原爆ドームをあげるべきではないか。爆心地近くにあった広島県物産陳列館は一瞬のうちに破壊され、そのまま凍結されて、原爆ドームという新たな機能を担い、世界文化遺産として今日までその姿をとどめている。一度破壊され、世界遺産として甦り、永遠に保存される、建築の生と死をそのまま象徴する作品が原爆ドームである。
この数奇なる運命を辿った建築作品の設計者はヤン・レツル(Jan Letzel 1880-1925年)というチェコ人建築家である。レツルは、明治30(1907)年に来日して、横浜のデ・ラランデ(George DeLalande 1872-1914年)事務所に勤めた後、同じチェコ人のヤン・ホラー(Karel Jan Hora 1881-1973年)とレツル・アンド・ホラー合資会社を設立している。デ・ラランデは、ソウルに朝鮮総督府として建てられ、戦後は韓国国立博物館として使用された後、戦後50年を期して植民地の記憶を清算するために解体されるという、これまた数奇な運命を辿った建築の設計者として知られる。レツルは大正末まで東京に滞在し(1907-1919年、1922-23年)、聖心女子学院本館(1909年)、築地静養軒新館(1909年)、双葉高等女学校(1910年)、松島パークホテル(1913年)、上野静養軒(1917年)など少なくない作品を残している。ただ、現在にまで残るのは、わずかに聖心女学院の正門と原爆ドームだけである。
広島県物産陳列館の設計が依頼されたのは、静養軒主北村重昌の知人であった広島県知事寺田祐之が宮城県知事時代に松島パークホテルを手掛けた縁だという。依頼を受けると(1913年7月)、即設計が行われ、半年後に着工(1914年1月)、1915年4月5日に竣工している。
煉瓦造三階建てで、鉄骨で組まれた楕円ドーム(長軸11m短軸8m)は高さ4mあり、中央部は五層分ある。今日の目から見れば、左右対称の構成はとりたてて意を用いているようには見えない。運命の一瞬がなければ、レツルの他の作品同様、その使命を既に終えていたであろう。
竣工後30年経った1945年8月6日午前8時15分、広島県物産陳列館のほぼ真上で(南東160m高度580m)原爆が爆裂する。館内に居た人は全員即死であった。
戦後しばらくすると原爆ドームの存廃論議が起こる。そして、平和記念公園の構想が具体化する。しかし、原爆ドームの帰趨が最終的に決定するのははるか後のことである。やがて周囲に金網が廻らされ、立入禁止の措置が採られる(1962年)。その後まもなく広島市議会が保存を決定(1964年)、保存募金活動が展開される。第一回保存工事が行われ(1967年)、周辺広場の整備も行われる(1983年)。そして、第二回目の保存工事を経て(1990年)、国が史蹟に指定(1995年)、翌年世界遺産委員会が原爆ドームを世界遺産に登録する、以上が竣工後80年を経て「永遠」の生命を得た広島県物産陳列館の履歴である。
戦前・戦後の連続・非連続
戦後建築は、しかし、ゼロから出発したのではない。また、原爆ドームとともに凍結されたままでもない。一個人を考えても、1945年8月15日を期して、がらりと変わってしまうことはありえないことである。「昨日まで八紘一宇を唱えてゐた者が今日急に平和主義者になり切れるものではない。思想上の一八〇度回転は兵隊の廻れ右程たやすい業ではない。」(小坂秀雄[2])のである。
敗戦によって、確かに教育の場は一転する。教科書に黒い墨が塗られ、教師の言うことが一変してしまったことに、いい加減な大人たちの処世を見てしまったのは国民小学校の生徒たちであった。
建築家が敗戦をそれぞれどのように迎えたかは様々である[3]。世代によって、建築界における地位によって受け止め方が違うのは当然であろう。
敗戦による転換を単に外的な条件の変化と見なす態度がおそらく多数であった。「戦時中、わたしはそれに適応した建築のことを色々と考えてゐた。それは戦争が終わってもそのときの構想はある程度まで実現させねばならないであらうとも思ってもゐたが、完全なる敗戦によって日本は平和的文化国家として立ってゆくより外、途がなく、戦争を永久に考へられなくなり、また考へることを許すべきでなくなった今日、戦争があることを予想してわたしが構想した建築様式は殆ど不要に帰した」が故に、「民主主義に立脚した建築様式を構想し、それによって世界文化に寄与するようにしていい」のである(新井格[4])。
もちろん、先に引いた小坂秀雄のように、転換を「並々ならぬ内面的苦悩を経て始めて得られる」と真摯に受け止めていたものも少なくないであろう。しかし、戦前・戦中を通じて、建築界において指導的立場にあり、発言を続けてきた層には概して屈折するところがない。東京帝国大学教授で建築家であった岸田日出刀は、国粋主義や国家主義の台頭で、戦時中は英語が使えず、講義がしにくかったといいながらも、「日本の建築家がその知能のあらん限りをつくして戦争遂行に協力したことは事実であり、またその効果があまりパッとしたものではなかったことも確かであるが、戦時平時を問わず建築は社会と共に生き共に死ぬといふ厳とした事実は、〈太平洋戦争と日本の建築〉という一事象だけからしてからも、はっきりと実証されたわけである」と言い切っている[5]。
ヒトラーのお抱え建築家であったA.シュペアが戦後公職を追放され、二度と建築家としての仕事をすることができなかったドイツとは異なり、日本の建築家が永久に追放されるということはなかった。日本とドイツのファシズム体制の差異、建築家の社会的地位の違いが指摘できる。また、建築界においては、戦争責任や転向の問題が表立って問われることはなかった。眼前にはバラックの海が拡がっており、住宅問題への対応は建築家にとって喫緊の要事であった。また、都市復興計画は全力をあげてすぐさま取り組むべき課題であった。
ヒロシマ・丹下・村野
広島は戦後日本の出発の象徴である。世界的にもヒロシマ=原爆であり、東西対立が続く戦後の冷戦体制において原水爆禁止、平和運動の象徴でもある。そして、原爆ドームの存在とともに平和記念公園計画が具体化された広島は戦後建築の最初の焦点ともなる。
戦後まもなく、戦災復興院は建築家たちに主だった13都市についてその復興計画立案を委嘱する。戦後日本の都市計画をリードすることになる高山栄華が長岡市、武基雄が長崎市と呉市、そして丹下健三が担当したのが広島市であった。1946年の秋から翌年の夏にかけて作業が行われ、その過程で生まれたのが平和記念公園の構想である。そして1949年に「広島市平和記念公園及び記念館」の設計競技が行われ、このコンペでも一等入選したのは丹下健三であった。
提案された大アーチこそ実現されなかったものの、広島平和記念資料館は1951年3月に着工、1955年8月に竣工する。戦後10年を経て、時の『経済白書』は「戦後は終わった」と宣言する。日本が高度経済成長へ向かって離陸する直前であった。この広島のプロジェクトとともに、丹下は戦後建築を主導する地位を占めていくことになる。
丹下健三の軌跡については、既に多くが触れているのであるが[6]、大きなテーマとなるのは、1942年の「大東亜建設記念造営計画」コンペ、1943年の「在盤谷日本文化会館」コンペから「広島市平和記念公園及び記念館」コンペまで、ほんのわずかの時の流れしかないことである。
戦争遂行のための大東亜共栄圏の神域計画を賛美した同じ建築家が一転平和のための祭典広場を計画する。そんなことがありうるのか、無節操な転向ではないか、というわけである。戦前・戦後の連続・非連続の問題は、上で見たように丹下個人のみの問題に帰せられるものではない。日本のファシズム体制、建築界全体の体質に関わる問題がある。しかし、戦前・戦後の体制、イデオロギーを象徴する建造物の設計者に相次いで同じ建築家が一等当選を果たしたことがその体質をよりセンセーショナルに露わにしたのである。
確かに、神明づくりの屋根はない。しかし指摘されるように、100m道路(平和大通り)に直交して(宮島)―平和記念資料館-平和広場-平和アーチ・慰霊碑-原爆ドームを一直線に並べる構成は「大東亜建設記念造営計画」案と変わりはない。丹下健三の戦時中の活動や言動、そのイデオロギー立場は別として(表立って明らかにされているわけではない)、その設計方法については必ずしも断絶はないのである。
「広島平和記念公園計画」に先だって、1948年に被曝焼失したカトリック教会再建のための設計競技が行われる。「世界平和記念聖堂」コンぺである。結果は、1等当選なし、2等丹下健三、3等前川國男、菊竹清訓であった。結局、審査委員長であった村野藤吾が設計に当たり、1954年に竣工する。この不明朗なコンペの顛末については、石丸紀興が詳細に明らかにするところである[7]。
時代は下って1970年代初頭、長谷川堯が、丹下健三vs村野藤吾という対立構図によって、戦後建築の流れを総括する。丹下に代表される近代建築家を「神殿志向」として徹底批判し、建築家本来の仕事を「獄舎づくり」として、その代表である村野藤吾を最大級に評価するのである[8]。
戦後10年の間に、広島を舞台にやがて評価を大きく異にする二つの建築作品が建てられた。広島が戦後建築の出発において記憶さるべき由縁である。
戦後建築運動の展開
戦後まもなく建築家が何を考え、何を目指そうとしたかについてはこれまで繰り返し触れてきた[9]。わかりやすいのは建築運動の展開である。
例えば、戦後まもなく相次いで結成された諸団体を統合するかたちで設立された(1947年)新日本建築家集団(NAU:The New Architect’s Union of Japan)の行動綱領(1948年)に、戦後建築の指針は示されている。NAUは、約800人を集めた建築界の大組織であった。初代委員長が高山栄華、第二代委員長が今和次郎、戦後の建築界を背負って立つ主要メンバーは参加している。スローガンのみからでも、戦後まもなくの意気込みは伝わってくる。
綱領三「建築界全般を覆う封建制と反動性を打破する」は、「一建築生産組織、経営組織の近代化、二建築生産技術の機械工業化、三伝統の正しい批判及び摂取を基礎とする科学的建築理論の確立・・・」などとうたっている。同じ年、丹下健三は「建設をめぐる諸問題」という長大な論文[10]を書いている。丹下は、その論文において、全ての問題が「建設工業機構の封建制」とそれに結びついた「都市の封建的土地支配」にあるといい、極めて冷静な分析を展開している。丹下もまたNAUのメンバーであった。
建築生産組織、経営組織の近代化というスローガンなど今なお問われている問題である。また、工業化の問題については、半世紀の経験を踏まえた総括が現在では必要であろう。産業社会のあり方、建築生産の産業化をめぐっては、近代建築批判の過程で大きな疑問符が投げかけられてきたからである。いずれにせよ、戦後のゼロ地点において、建築を支える全体制が問題にされていたことは留意されるべきであろう。
建築運動の具体的展開については他に譲りたいが[11]、運動自体が大きな成果を上げたとは必ずしもいいがたい。NAUにしても、1951年には活動を停止してしまうのである。その崩壊の直接的な原因になったのはGHQの圧力によるレッド・パージであるとされる。また、朝鮮戦争勃発とその特需によるビル・ブームがその背景にあるとされる。戦後復興が軌道に乗り、建築家たちは具体的な仕事に忙殺されだすのである。
1920年の分離派建築会、1923年の創宇社の結成に始まる日本の近代建築運動は、1930年の新興建築家連盟の結成即崩壊によって一旦終息し、一五年戦争期には翼賛体制といってもいい建築新体制のもとで小会派のほそぼそとした活動に封じ込められてきた。敗戦によって、いくつかの地下水脈が息を吹き返し、NAUによる大同団結が行われるのであるが、その崩壊までそう時間はかからない。NAUは、その後、関西を中心に運動を持続することになるが、建築界の関心は拡散していくことになる。研究者を主体とする建築研究団体連絡会(1954年)、スター建築家の後継を目指す五期会(1956年)などがその後の主だった組織である。
戦後建築の初心
その帰趨を振り返って批判するのは容易い。批判する若い世代が最低確認すべきは、戦後建築の初心である。廃墟を前にして、ありうべき建築として構想されていたものは何かを明らかにすることである。
例えば、浜口隆一の『ヒューマニズムの建築 日本近代建築の反省と展望』[12]がある。『戦後建築論ノート』でかなりの頁を割いてそれなりの読解を試みた。その後、『ヒューマニズムの建築・再論-地域主義の時代に-』[13]が書かれ、その読解への応答がなされている。1943年に「日本国民建築様式の問題」を書き、『ヒューマニズムの建築』によって戦後建築の指針を示した浜口隆一の軌跡は貴重である。その評論活動の粋は『市民社会のデザイン』[14]にまとめられている。
また、戦後住宅のあり方についての大きな指針となった西山夘三の『これからのすまい』[15]がある。さらに、住宅については浜口ミホの『日本住宅の封建制』[16]、池辺陽の『すまい』[17]がある。西山夘三の軌跡もまた、丹下健三とともに戦後建築の帰趨を見極める上で貴重である[18]。
戦後建築のゼロ地点において、既にその可能性も限界も見えるのではないか。例えば、日本の住宅のあり方をめぐって、戦後建築家たちは何を提起し、何をなし得たのか。
若い世代の新たな読解とその深化に期待したい。
[1] 拙稿、「廃墟とバラック-建築の死と再生」、布野修司建築論集Ⅰ『廃墟とバラック-建築のアジア』、彰国社、1998年
[2] 小坂秀雄、「敗戦から都市再建へ」、『建築文化』創刊号、1946年4月号
[3] 拙稿、「第二章 呪縛の構図 廃墟の光芒」、『戦後建築の終焉-世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995年
[4] 新井格、「民主主義と建築文化」、『建築文化』二号、1946年5月号
[5] 岸田日出刀、「建築時感」、『建築文化』四・五号、1946年8月号
[6] 拙稿、「丹下健三と戦後建築」、布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジーテクノロジー』、彰国社、1998年
[7] 石丸紀興、『世界平和記念聖堂 広島に見る村野藤吾の建築』、相模書店、1988年
[8] 長谷川堯、『神殿か獄舎か』、相模書房、1972年
[9] 拙著、『戦後建築論ノート』、相模書房、1981年。『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995年
[10] 丹下健三、「建設をめぐる諸問題」、『建築雑誌』、1948年11月号
[11] 拙稿、「戦後建築運動の展開 第三章 Ⅱ近代化という記号」、『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995年
[12] 浜口隆一、『ヒューマニズムの建築 日本近代建築の反省と展望』、雄鶏社、1947年
[13] 浜口隆一、『ヒューマニズムの建築・再論-地域主義の時代に-』、建築家会館叢書、1994年
[14] 浜口隆一、『市民社会のデザイン』、而立書房、1998年
[15] 西山夘三、『これからのすまい』、相模書房、1948年
[16] 浜口ミホ、『日本住宅の封建制』、相模書房、1950年
[17] 池辺陽、『すまい』、岩波書店、1954年
[18] 拙稿、「西山夘三論序説」、布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジーテクノロジー』、彰国社、1998年