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2022年2月18日金曜日

2022年2月17日木曜日

アンベール城の鏡の間 INAX, 1988

 アンベール城の鏡の間 INAX, 1988

布野修司



 インド・ラージャスターンの州都ジャイプルは、別名ピンク・シティという。町中が赤砂岩色をしているからである。18世紀前半に、すぐれたマハラジャ(藩王)であり、数学者であり、天文学者でもあったジャイ・シンⅡ世によって建設された計画都市だ。町の中央に天文台(ジャンタル・マンタル)が置かれているように、独特のコスモロジー(宇宙観)に基づいたグリッド・プランが面白くてしばらく通った。実に活気に満ちた魅力的な町だ。

 そのジャイプルの北に、デリーへの街道が通る険しい峡谷を睨んだ城塞がある。ジャイ・シンⅠ世が建てた華麗な城、アンベール城である。ジャイ・シンⅡ世はここで生まれた。

 六代皇帝アウラングゼーブが没し(1707年)、ムガール帝国が衰退の坂を転げようとするとき、その栄光を引き継ぐかのような華麗な建築をつくりだしたのがジャイ・シン親子であった。

 めくるめくようなタイルの饗宴である。鏡が多用されているからであろうか、切り立つ山岳城塞という立地のせいであろうか、謁見の間の意匠はデリーやアグラの宮殿よりも幻想的に感じられる。ペルシャ風の庭園が設えられており、ペルシャの影響が見られるのはいうまでもないが、ラージプートの建築的伝統、すなわちヒンドゥー芸術の臭いも濃厚である。あるいは、ムガール・イスラーム建築のバロック化というべきか。

 タイルの技術がイランのカーシャン地方から東西にひろまったことはよく知られているが、インドの石造の伝統においては当然表現は異なってくる。赤砂岩、白大理石をベースとするタージマハールを思い起こしてみればいい。細かい装飾で全ての壁面が覆われるようになる傑作はアグラのイティマード・アッダウラ廟であろうか。アンベール城のタイル装飾はその延長にあるようにも見える。 



 インド・ラージャスターンの州都ジャイプルは、別名ピンク・シティという。町中が赤砂岩色をしているからである。18世紀前半に、すぐれたマハラジャ(藩王)であり、数学者であり、天文学者でもあったジャイ・シンⅡ世によって建設された計画都市だ。町の中央に天文台(ジャンタル・マンタル)が置かれているように、独特のコスモロジー(宇宙観)に基づいたグリッド・プランが面白くてしばらく通った。実に活気に満ちた魅力的な町だ。

 そのジャイプルの北に、デリーへの街道が通る険しい峡谷を睨んだ城塞がある。ジャイ・シンⅠ世が建てた華麗な城、アンベール城である。ジャイ・シンⅡ世はここで生まれた。

 六代皇帝アウラングゼーブが没し(1707年)、ムガール帝国が衰退の坂を転げようとするとき、その栄光を引き継ぐかのような華麗な建築をつくりだしたのがジャイ・シン親子であった。

 めくるめくようなタイルの饗宴である。鏡が多用されているからであろうか、切り立つ山岳城塞という立地のせいであろうか、謁見の間の意匠はデリーやアグラの宮殿よりも幻想的に感じられる。ペルシャ風の庭園が設えられており、ペルシャの影響が見られるのはいうまでもないが、ラージプートの建築的伝統、すなわちヒンドゥー芸術の臭いも濃厚である。あるいは、ムガール・イスラーム建築のバロック化というべきか。

 タイルの技術がイランのカーシャン地方から東西にひろまったことはよく知られているが、インドの石造の伝統においては当然表現は異なってくる。赤砂岩、白大理石をベースとするタージマハールを思い起こしてみればいい。細かい装飾で全ての壁面が覆われるようになる傑作はアグラのイティマード・アッダウラ廟であろうか。アンベール城のタイル装飾はその延長にあるようにも見える。 

2022年2月16日水曜日

「待てしばしはない」と「しばし待て」の間 東畑建築事務所70周年 日刊建設工業新聞 2004

 「待てしばしはない」と「しばし待て」の間

                               布野修司

 

 『待てしばしはない―――東畑謙三の光跡』(日韓建設通信新聞社、1999年)をまとめさせて頂いてもう5年の月日が流れた。この間、設計事務所を取り巻く環境は実に厳しい。2001年から2003年にかけて、日本建築学会の『建築雑誌』の編集長を務めた(20021月号~200312月号)のであるが、明るい展望は見えてこなかった。建設業界の構造改革は、未だ進行中のように見える。

 極めて奇妙に思われたのは、建設不況にもかかわらず、未曾有の建設ラッシュが続いたことである。東京のウォーターフロントの再開発、京都都心のマンション林立がその象徴である。「2003年問題」とも呼ばれたけれど、供給過剰であることは誰の目にも明らかであるのに、止められない。仕事を維持するのが第一だから、とにかくこなすしかない、という状況が続いてきた。

 「待てしばしはない」というのは、設計は瞬間瞬間の的確な決断が必要だということであるが、これからはどんどん建てる時代ではないとすれば、じっくり時間をかけて考えることも要請されるだろう。いずれにせよ、設計事務所としての新たな戦略が必要なのではないか。『東畑建築事務所ビジョン』には、そうした新たな方向が模索されていることが窺える。

 公共建築の設計施工者の選定において、PFIが大きな流れとなる中で、組織事務所の役割が大きく問われつつある。場合によると、そのシステムに埋没し、変質を余儀なくされる可能性もある。「安くていいものを」というのは当然であるけれど、とにかく「安ければいい」という流れが既に見え始めている。設計事務所は、その存在基盤を再確認することを求められているといっていい。

 東畑建築事務所の新たなスタートにあたっては、新たな組織事務所のあり方を示す役割を大いに期待したいと思う。

2022年2月14日月曜日

コンペもいや審査もいや,百家争鳴,室内,199702

 コンペもいや審査もいや百家争鳴,室内,199702

コンペもいや審査もいや,百家争鳴,室内,199702

 

コンペの審査なんかやるもんじゃない

布野修司

 

 コンペ(設計競技)の審査委員なんかやるもんじゃない。ひとりの当選者には喜ばれるかもしれないけれど、落選した建築家には必ずうらまれる。あることないことをいいふらされるのは全くもって頭にくる。

 建築家というのは実に自惚れが強い。自分の案が一番いいと思い込んでいる。また、そうでなくては建築家なんかになっていないのであろう。それはそれでいいけれど、自分が落とされたのは何か不正があったに違いない、と思い込むのはいいかげんにしてほしい。少なくとも僕が審査委員として参加する場合は、審査経過を公表することが原則である。さらに可能な限り、密室で質疑するのではなく、市民にも判断の情報を提供する公開ヒヤリング方式をとるようにつとめている。それでも怪文書の嫌がらせの類が横行するのである。

 ひとつには、日本のコンペの風土の問題がある。公共建築の設計者選定の制度としては、未だに設計入札が横行しており、首長などの特命入札の形が多い。特定のコネクションが巾を効かしているから、スター建築家も水面下では暗躍することになる。また、コンペといっても、結果の決まっている疑似コンペが少なくない。全てのコンペが勘ぐられる、そういう土壌があるのである。

 また、建築家が審査委員となるのも、常に勘ぐられる要因である。建築家がある時は審査員になり、ある時は応募者になる。建築家の間に貸し借りの感覚が生まれるのは当然だろう。仕事のやりとりをしているように見える。審査委員の資格と審査委員会の構成についてルールが全く確立していないのである。

 以上のような風土の中で、なんで審査員をやるかというと(求められるからにすぎないのであるが)、偉そうに言えば、なんらかのルールづくりに寄与したいと思うからである。ヴォランティアである。それなのに文句ばかりでは割に合わない。

 いきなり審査の依頼が来る。聞いてみると、当日出かけていって札入れをするだけである。全てが決められており、応募要項や審査方式、当該建築のプログラムについて意見をいう余地がない。こういう場合は断ることにしている。実は一度、全く以上のような、総工費百億円を越える公共建築の審査員になったことがある。指名料にしろ、審査のやり方にしろ、プログラムにしろ、唖然とすることばかりであった。事前に固辞したけれど、それなら欠席してくれと言われ、癪だから出かけて言いたいことだけは言ったけれど、収まらない。

 全て決定済みの場合は仕方がないのであるが、少しでもルールづくりにつながるものは引き受けるようにしてきた。ヴォランティアだけれど意地でもある。それでも建築家には不満だらけで意地の張り甲斐がない。

 公平、公正、公開という基本原則を主張するだけである。審査経過の透明性を高めていけば自然に悪徳審査員?も淘汰され、ルールもできるだろう。ある審査員がどういう判断をするのかが公開される必要があるのである。文学賞の場合を見ていればいい。水面下で色々あっても(全ての賞はコネクションである)、作家が作家生命を賭けた判断をすればそれでいい。審査員は、審査員生命を賭けて判断すればいいのである。問題があれば、次から審査員失格である。ところが、建築界には不思議なことが多い。

 ある県の公共建築の二段階の公開コンペだけれど、いわゆる大手の組織事務所の参加がほとんどなかったのである。五〇〇〇㎡以上の実績が応募条件にされていたから、組織事務所に有利である。忙しすぎて人員を割けないというのであろうか。審査委員の顔ぶれによって当選可能性を読むというのは当然のことである。しかし、組織事務所が敬遠する審査委員会の構成とは一体なんだろう。建築界に奇妙な棲み分けがあるのだろうか。もしそうだとすると、ほんとに審査員なんかやっていられないのである。

 





2022年2月13日日曜日

僕たちの内なるアジア建築,建築ジャーナル,199608(布野修司建築論集Ⅰ収録)

  僕らの内なるアジア建築,建築ジャーナル,199608(布野修司建築論集Ⅰ収録)


僕たちの内なるアジア建築

布野修司

 

 ジャカルタのホテルでこの原稿を書き始めた。インドネシアの社会科学院(LIPI)主催の「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」*1と題された国際会議(ワークショップ)に出席するためジャカルタに一週間滞在することになった。その機会を捉えて、ジャカルタからの視点で、「日本の建築家にとってアジアとは?」という与えられたテーマを考えようというのである。何も忙しがって格好をつけてみようというわけではない。僕らに必要なのはそういう視線なのだ、と思うからである。

 まず言いたいのは、東アジアや東南アジアの国々は既に身近であるということだ。そして、その諸問題に無知であることは許されないということだ。

 このシンポジア●ママムに、先進諸国の都市計画の経験を導入しようなどという構えは最早ない。建築や都市の問題について、同時代の共通の課題を同じ次元で考えようとしている。そうした場所から見ると、ずいぶん日本での議論は閉じている。そして、日本の建築家や建設会社が東南アジアに出かけて実施するプロジェクトがひどく危なっかしいものに見えてくる。

 

 デザインの輸出!?

 まず、一、二、例をだそう。前から不思議に思っているのであるが、ジャカルタの中心街に建つビル(FOA)のファサード・デザインは東京の新橋駅前のあるビルのデザインと同じである。どうしてこんなことが起こるのか。時代は下って、最近ほぼ同じ時期に建った、設計者も同じ、シンガポールのある超高層ビルと東京新都庁舎の外装材は同じであるように見える。そこにはどんな関連性があるのか。何も同じファサード・デザインや同じ外装材を使うのが悪いといおうというわけではない。ある企業がコーポレート・アイデンティティのために店舗やオフィスビルのデザインを統一することはあり得ることである。僕にとっては不愉快であるが、ジャカルタとスラバヤに全く同じようなある銀行のオフィスビルがある。これは同じアメリカ人の建築家による例だが先の日本人建築家の例と少し次元が異なる。気候風土、文化歴史を全く異にする場所で、何故、デザインや素材が同じなのか。

 それこそモダニズムの論理だというのであれば、そこら中同じデザインが繰り返されなければならないはずだ。しかし、理論以前に、東南アジアの建築家たちがこの事実を知ったら、どう考えるのか、という想像力は働かないのだろうか。さらにひどいのは、こうしたことが全く日本の建築界で議論されないことである。日本の超高層ビルが、皆アメリカのどこかでみたことがあるように、日本のデザインをそのまま輸出すればいいとどこかで考えられているのであろうか。

 

  「ポスモ」の森

 ジャカルタは、今、急速に変わりつつある。シンガポール、バンコクに続いて、びっくりするような現代都市に生まれ変わりつつある。目抜き通りには、ポストモダン風(ポスモ)の高層ビルが林立する。その建築家はほとんどがアメリカ、イタリアの外国人である。彼らは「ポスモ」を発展途上国の首都で実現しているのである。日本の設計事務所、ゼネコンもその新たな都市景観の創出に関わっている。ポール・ルドルフの名前もその中にある。どうしてポール・ルドルフがジャカルタなのかと思っていたのであるが、90年代になって林立しだした「ポスモ」の森の中ではかえってそれらしく好ましく見えてくる。最近の超高層ビルがすべてミラーグラスのカーテンウオールで頂部だけ(帝冠様式!あるいはニューヨーク・アールデコ!)デザインされるのに対して、彼のは庇が出たり構造が露出したり、かっての面影を引き摺っているし、熱帯の気候もそれなりに考慮したのかもしれない。

 たった今テレビのニュースでインドネシア建築家協会が「理想の家96」というコンペとシンポジウムを行ったと伝えている。様々なモデル住宅が紹介されている。住宅を購買する層が確実に育ってきたことを示している。

 一方、窓の外を見れば、僕にとっては見慣れたカンポンの風景が拡がる*2。都心に聳える超高層の森と地面に張り付くカンポンの家々は実に対比的である。それぞれの地域で、どのように風景がつくられていくのかを説明するのは簡単ではないけれど、その構造を抜きにして、外の論理を持ち込むことの問題(少なくとも、様々な軋轢を産むであろうということは)は明かなことではないか。

 

 「スラム」クリアランスと日本の援助

 会議の二日目、第Ⅲセッション「東南アジアの都市計画」において、「地域の生態バランスに基づく自律的都市コミュニティ」と題して、たどたどしくしゃべった。阪神大震災の経験と日本のニュータウンの歴史と問題点を指摘した上で、カンポン型コミュニティモデルの重要性を力説したのである。手前味噌であるが、反応はかなりのものであった。少なくとも、インドネシア、タイ、フィリピン、シンガポールおよびオーストラリア、フランス、オランダからの社会科学者やプランナーたちが僕の関心をそのまま受けとめて議論してくれたのである。しかし、問題はこのように簡単ではない。というより、日本の問題なのだ。

 矢のように次々と質問が飛んできた。地震で日本はどう変わったのか、東京についてはどう考えているのか。最もシビアなのが日本が援助する都市開発のケースだ。ジャカルタの都心にあったクマヨラン空港の跡地にいまニュータウン計画が進行中である。そのプロジェクトは、「都市の中の都市(タウン・イン・タウン)」計画として、また、既存のカンポンをクリアランスしないで、様々な社会政策と合わせて住宅供給を行う点で興味深いものである。J.シラスがスラバヤで実験してきたルスンの理念も生かされている。ルスンとはルーマー・ススン(積層住宅)の略であるが、共有空間を最大化する共同住宅である。カンポンの構造を替えない新たな都市型住宅モデルでカスン(カンポン・ススンの略)と呼ばれ始めている*3。そのプロジェクトについて、「何故、日本の専門家チーム(建設省、住宅都市整備公団などから派遣される)のレポートはカンポンをクリアランスしろと書いたのか」というのである。また、「同じく日本の専門家の関わったクボン・カチャンの団地開発のケースをどう思うか」というのである。

 クボン・カチャンというのは、ジャカルタの中心地区、日本大使館のすぐ裏にあるカンポンで、クリアランスが行われ、倉庫のような団地が建った件である。これについては、当事者であった横堀肇氏の真摯な総括がある*4。ジャカルタで大きな議論になり、日本でも僕らが議論したのであるが、どれだけ知られているであろうか*5

 同じ日、クマヨランの現場に参加者全員で見に行った。二度目である。最初の時はまだ建設当初でデザインの拙さだけが目についたのであるが、印象は一変した。実に生き生きと空間が使われている。詳しい紹介は省くけれど、一方で高級住宅がならび、日本の企業がそれを買い占めている一方で、カンポンのためのユニークな実験が行われていることは記憶されていい。

 

 日本のサテライトタウン

  次の日、郊外型のニュータウンを見に行った。民間開発のニュータウンで、そう目新しいところがあるわけではない。眼から火の出るような思いをさせられた。日本と韓国の投資によるニュータウンで、名の通った日本の大企業の工場が並んでいたからである。参加者のなかからすかさず野次が飛ぶ。「FUNO、これは日本のサテライト・タウンなのかい」。「ワールドカップより一足先に、日韓のジョイント・ベンチャーかい」。

 「直接、僕は関わっているわけではないのだよ」というのは簡単である。それぞれ同じような構造の中で生きているのである。しかし、そんなことは分かった上で、お前は何をしているんだという、そういう問いが共有されている。日本産業の空洞化の最先端がジャカルタのニュータウンにある。そして、それは様々な軋轢を生んでいる。どう考えるのか。

 インドネシアのニュータウン開発にあたっては「1:3:6」規則がある。住宅供給を高所得者層1:中所得者層3:低所得者層6にするというルールである。低所得者層向けの住宅はRSS(ルーマー・サガット・スデルハナ 簡易住宅)という。18㎡~36㎡のワンルームと60㎡の敷地の最小限住居である。ところがRSSはどこにも建設されていない。日本の工場で働く労働者はどこに住むのか。周辺のカンポンである。カンポンの人たちはRSSにも入ることはできないのである。

 ワークショップ参加者の視線を痛く感じるのは、余程の鈍感でなければ当然ではないか。安価な労働力を求めて生産拠点を移し、社会各層の格差を拡大する資本の論理の体現者が日本人なのである。雇用機会を与えるというのは全くの口実である。日本の企業などなくてもきちんと自律的に生活してきた地域が破壊されてしまう。ワークショップの議論は、もちろん、インドネシアのニュータウン開発をめぐる問題が中心であるが、集中砲火を浴びているのは専ら日本なのである。言葉の不如意を理由に場を繕うのは実につらいことである。

 

  歴史との遭遇

 1979年に初めてジャカルタを訪れて以降、東南アジアを歩き回ってきた。レヴェルは異にするけれど、必ず以上のような場面に遭遇する。

 インドネシアでベチャ(輪タク)ーベチャは大都市の都心からは追放されたーーに乗る。日本人と解ると、突然、ベチャの運転手さんが「海ゆかば」を謡い出す。一緒に唱うべきか。

  カンポンの調査をしている。突然、「ハンチョウサン」「キンロウホウシ」「ケンペイタイ」と話しかけられる。どういう顔をして何を答えればいいのか。ジャワの山奥の村を尋ねる。いきなり、「ラジオ体操第一!」である。一緒に体操をはじめるのかどうか。インドネシアは、僕の経験だけに基づけば、まだいい。もっとクリティカルな国々はある。従軍慰安婦の問題を見ても明らかなように、戦後半世紀を経て、未だに日本は第二次世界大戦の重い歴史を引きずっている。にも関わらず、僕らはあまりにも無神経である。

 スラバヤの知事公舎に招かれる。広間の壁一杯に油絵が飾られている。日本兵が竹槍で突き刺される場面がある。その前で、僕らは何を話せるのか。オランダの研究者が同じ場にいる。その絵を見て、僕を笑う。日本軍がやられる絵より、オランダ人がやられる絵の方が圧倒的に多いにも関わらずである。どう答えればいいのか。

  スラバヤのチャイナタウンの南にはクンバン・ジェプン(日本の花)通りと名づけられた通りもある。どういう意味か。繁華街トゥンジュンガンにあるマジャパイト・ホテルは元ヤマトホテルである。デュドック(分離派)風の綺麗な建物だ。そのヤマトホテルにはかって、日本の憲兵隊本部が置かれていた。ヤマトホテルは、オランダ軍に対するインドネシア独立戦争の発端となり、その象徴となった場所でもある。そのロビーにはその時の写真が三葉掲げられていた。焼けて赤茶けた白黒写真である。その写真の一枚は屋上のポールに掲げられたオランダの三色旗を一人の男が引き裂いている瞬間の写真だ。その時の模様を描いたのがイドルスの『スラバヤ』(1947年)である。オランダの三色旗を引き裂くと赤と白のインドネシア国旗になる。

 東南アジアを歩けば至る所、日本の侵略の歴史に出会う。こういう歴史に無知であることは、許されないのではないか。

 

 「大東亜建築」

 近代日本の建築にとってアジアとはどのようなものであったのか、日本の建築家にとって「アジア」はどのような意味をもつのかについてはそれなりに振り返ってみたことがある*6。伊東忠太の軌跡を軸としながら、戦前の東洋史学の展開、あるいは「大東亜建築様式」をめぐる議論などが、どう今日の問題につながっているかを問うた。基本的には、戦前戦中期における建築のアジアをめぐる議論の構図が繰り返されつつあること、否、旧朝鮮総督府(韓国中央国立博物館)の解体撤去問題のように今日まで問題は引き継がれていること、などを指摘した上で、「アジアはひとつ」といったイデオロギーや「西欧VSアジア」といった対立構図が最早無効であることを確認したにとどまる。しかし、それは前提ではないのか。

 

 「超級 アジア・モダン」

 アジアの現代建築について、僕らが何を知っているのか、あるいは、どう向き合おうとしているのか。村松伸の『超級 アジア・モダン 同時代としてのアジア建築』*7がそのひとつの地平を示している。アジアへの「通勤」と称する建築行脚の報告という形をとったアジアの現代建築紹介なのであるが、アジア各国の建築界の一端は垣間みることができる。そこでの村松の視線と戦前期に「東洋建築」あるいは「大東亜建築」に向かった建築家たちの視線と比較してみることは興味深いことである。また、そのアジア建築情報の水準は、穂坂光彦の『アジアの街 わたしの住まい』*8と比べればはっきりしよう。読み比べて欲しい。

 僕は、村松のセンスを愛するけれど、彼の視線が届かない地平にいらいらする。僕らは一体どこにいて何のために仕事をしているのか。村松の本が、日本人の仕事に触れないのはアンフェアである。黒川紀章のアユタヤの美術館はともかく、日タイ交流センターについては触れるべきではないのか。在盤谷日本文化会館をめぐる議論は解かれずに、半世紀続いているのである。ナショナリズムとそのシンボリズムについて、僕らはもう半世紀以上考え続けているのである。

 

 誰のための慰霊碑

 痛い話をもうひとつ思い出す。僕ら(アジア都市建築研究会)は、中国でひとつの本を企画し、編集し、出版しようとしている。この7月には出る筈だ。下らないと笑うなかれ。「当代日本建築家百選」ということで百人の日本の建築家に協力頂いた。紆余曲折があったけれど、最大の問題は、戦没者記念の施設であった。僕らは、余りにも鈍感である。シーラカンスの「大阪ピースセンター」にしても、各地にピースセンターが建つ。僕らは何を記録し、展示しようとしているのか。中国から当然の如くチェックが入った。掲載しようとしていた、靖国神社前の作品は差し替えである。差し替えない限り、出版そのものを取りやめるという。作品の選定は各建築家に委ねたとはいえ、編集者としての僕らは、一体、何を考えていたのか。

 東南アジア各地に慰霊碑が建ちつつあるという。デザイン以前の問題である。どういう思いでデザインができるのか。建築家に聞いてみたいものである。

 旧朝鮮総督府の解体問題については、既に触れた。その保存を訴えるナイーブな建築家を僕は愛するけれど、どんなにすぐれた建築作品でも解体さるべきケースはある。それがPC問題(ポリティカル・コレクトネス)である。救いは、その建設に疑問を投げかけた今和次郎であり、柳宗悦である。「やっちゃあいけない」建築はあるのである。

 僕の尊敬するオランダ人建築家T.カールステン*9は、インドネシア日本の捕虜収容所で死んだ。彼の功績は、今日のインドネシアの建築界にとって掛け替えのない宝である。彼が生きていれば、オランダとインドネシアの建築界は確実に変わったであろう。『建築文化』が一冊特集を編み、『錯乱のニューヨーク』の日本語訳も出た、今をときめくコールハウスだって、バタビア生まれだ。僕らは、こうした歴史のコンテクストにもう少し敏感であるべきではないのか。

 

 僕らの内なるアジア

 インドネシア、ジャワ、スラバヤとの往復運動をベースに、しかも、ハウジングあるいは都市計画の問題を中心に東南アジアと関わってきた僕にとって、その経験は限定されている。しかし、もう問題がグローバルであることは明かなことだ。しかし、ボーダレスというのは嘘である。資本の論理が国境を越えるけれど、一方が一方的に差異を利用して、ボーダーを越えるのであって、それは新たなボーダー(階層差)を生み出すのである。そうしたコンテクストに日本の建築家たちは余りにも無防備である。少なくとも、無防備であることを意識して欲しい。

 ワークショップは、僕にとって最高であった。しかし、この経験を共有してくれる建築家がいないのは実に寂しいことである。

            ジャカルタ 1996年6月29日 













 

2022年2月12日土曜日

歴博国際シンポジウム 日韓比較建築文化史の構築 ─宮殿・寺院・民家─ 2006年12月12日~13日

         日韓比較建築文化史の構築 ─宮殿・寺院・民家─ 

        Creating the framework for a comparative history of  Japanese and Korean architecture          ──palaces, religious structures, dwellings 

 

スケジュール

 

■第1日目 20061212()

 

10:0010:30

  開会挨拶                                   平川 南(国立歴史民俗博物館長)

  主旨説明「東アジアにおける日韓建築文化」  玉井哲雄 (国立歴史民俗博物館)

10:3012:20

   基調講演「韓国からみた日韓比較建築史」   金 東旭  (韓国京畿大学校)

12:2015:00

    昼食休憩               博物館展示見学 (解説 玉井哲雄)

 

15:0017:00

  セッション1 宮殿建築            川本重雄 (京都女子大学)

                                          李 康根 (慶州大学校)

17:3020:00

    懇親会                    

 

■第2日目 2006 1213()

 

09:3011:30  

  セッション2 寺院・宗教建築        藤井恵介 (東京大学)

                          金 奉烈 (韓国芸術綜合学校)

11:3013:00

    昼食休憩

13:0015:00

  セッション3 住宅・民家            田 鳳煕 (ソウル大学校)

                        玉井哲雄  (国立歴史民俗博物館)

15:0015:30

    休憩

15:3017:00

  総括討論               コメント1 李 相海  (成均館大学校)                                         コメント2 仁藤敦史  (国立歴史民俗博物館)

                                     コメント3  岩淵令治 (国立歴史民俗博物館)

 

   閉会挨拶                     久留島 浩(国立歴史民俗博物館)

 

                       司会  玉井哲雄 小島道裕 小野正敏

2022年2月11日金曜日

歴博国際シンポジウム 2007 日中比較建築文化史の構築 ─宮殿・寺廟・住宅─2007年12月8日~9日

               歴博国際シンポジウム 2007

日中比較建築文化史の構築 ─宮殿・寺廟・住宅─

                         International Symposium 2007

Creating the framework for a comparative history of Japanese and Chinese architecture

palaces, religious structures, dwellings

 

  第1日 2007128日(土)

10:0010:45 

開会挨拶   平川 南(国立歴史民俗博物館館長)

趣旨説明   玉井哲雄「日中比較建築文化史の意義と展望」(国立歴史民俗博物館)

10:4512:00

基調講演    田中 淡「日本における中国建築史研究()(京大人文科学研究所)

12:0015:00 昼食休憩と博物館見学(解説 玉井哲雄)

15:0017:30

セッション1 東アジアにおける寺廟建築の系譜

エリカ A.フォルテ(ウイーン大学)

光井 渉 (東京芸術大学)

コメント    何 培斌 (香港中文大学・建築学系)

 

18:0020:00 懇親会

 

  第2日 2007129日(日)

09:3012:00

セッション2 日本と中国の宮殿建築

蕭 紅顔(南京大学建築研究所)

              溝口正人(名古屋市立大学)

コメント   川本重雄(京都女子大)

12:0013:00 昼食休憩

13:0015:00

セッション3 日本と中国の住宅建築の比較

              程 建軍(華南理工大学)

       藤川昌樹(筑波大学)

コメント   黄 蘭翔(台湾大学) 

15:0015:30 休憩

15:3017:30

総合討論

コメント   佐藤浩司(国立民族学博物館)

       布野修司(滋賀県立大学)

     大田省一(東京大学生産技術研究所)

総括     金 東旭(京畿大学校)



2022年2月10日木曜日

J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

  14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

J.シラスのこと

布野修司

 

 インドネシアに最初に行ったのは一九七九年一月のことだ。そして、その後毎年のように通うきっかけとなったひとりの男に運命的に出会った。

 ある建築家を訪ねてバンドンの研究所へ出かけた時、たまたま居合わせたのが彼だった。ひょろっとして目が鋭いのが印象的だった。彼はカリマンタン(ボルネオ)出身の陸ダヤク族である。ガリガリなところは僕と似ている。まるで兄弟のようだと松山巌さんは評した。とにかく妙に気があって親しくつき合ってきた。というより師事してきたと言った方がいい。一回りも年は違うのだ。スラバヤの彼の下で実に多くのことを学んだ二〇年間である。

 彼はこの二〇年の間に随分有名になった。スラバヤのカンポン改善事業でイスラーム圏のすぐれた建築を顕彰するアガ・カーン賞を受賞するなど数々の賞を手にしている。インドネシアだけでなくアジアの住宅問題、都市問題に関するエキスパートとしてひっぱりだこだ。

 昨年、そうした彼を京都大学の東南アジア研究センターが、半年間、客員教授として招いた。僕が恩返しをする番である。毎週のように研究室に招いた。びっくりしたのは、中国の留学生と和気合々と中国語をしゃべることだ。オランダ語、フランス語もペラペラで語学の天才なのだ。来日するや日本語の学習を始めた。研究室の学生たちが家庭教師だ。六〇歳を超えて猶真摯に学ぶ姿勢に撃たれた。

 半年の滞在期間にインドネシアの都市の未来について英語の本を一冊書いた。朝から夕刻まで規則正しく仕事をしていた。呼ばれたシンポジウムにもきちんとペーパーを書いた。超真面目である。怠惰な我が身を恥じるばかりだった。

 インドネシアはこの一年大変であった。経済危機に政変が続き、後ろ髪を引かれる思いの来日である。研究室の山本直彦がスラバヤに留学していることもあって日々刻々と情報は入ってきていた。随分議論した。離れてかえって冷静に情勢が分析できたのかも知れない。インドネシアで建築・都市計画分野のプロフェッサーは四人しかいない。彼の同僚はハビビ政権の閣僚を勤める。彼は帰国に際して何かを決断したようであった。



『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年2月9日水曜日

ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

ダム成金の家

布野修 

 出身だからという縁で、島根県の出雲でいくつかの仕事をさせて頂いている。なかでも「出雲市まちづくり景観賞」「しまね景観賞」の審査は毎年楽しみだ。前者は今年で九回目、後者は六回目になる。毎年出かけていって、故郷各地を見て回る。役得というべきか。

 年々新しい建物ができる。また、年々土木工事が進む。地域の景観を変えるのが公共事業であることがよくわかる。多くの自治体が、この間景観条例をつくり、景観賞という名の顕彰制度を設けたのはバブル経済による「景観破壊」に対する危機感であった。しかし、その主犯は多くの場合公共事業なのである。

 評判が悪いのが、崖面や法面をコンクリートで固める工法である。三面貼りと言われるコンクリートで河岸と河床を固める河川の改修、高速道路や高架鉄道の足桁もそうだ。でも、確実に変化は起こりつつあることもわかる。親自然型、多自然型と呼ばれる河川改修が大流行である。お金をかけて自然を壊して、お金をかけて見かけだけもとに戻す。何をやっているかわからない。

 農村の景観にとっては、耕作放棄が決定的である。人の営みがなければ景観が荒れるのは当然だ。気になるのが山間に突如現れる御殿群である。ダム建設のための移転補償による住宅群だ。あからさまな欲望を表現していて見る方が恥ずかしい。自分の中にもそうした欲望が蠢いているせいか。固定資産税が払えなくて手放したという悲喜劇もある。

 景観賞の応募作にダム成金の家が多いのはうんざりだけれど、今年の一件はひと味違った。自分の住んでいた家をそのまま移したのである。二倍の費用がかかったという。

 正直言って、写真のみの一次審査では何の興味も沸かなかった。たまたま、視察に行く担当になって、百年以上は経ったずいぶん立派な民家だと知った。使われている柱や梁の太さはすごい。今建てようと思っても無理だ。家主の拘りも「一瞬にして了解」である。

 審査会では「古い民家をただ移築した、それだけです」と報告しただけだ。しかし、なんと大賞をとってしまった。僕ももちろん一票投じたけど一寸驚いた。



『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912