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2022年5月31日火曜日

編集委員会委員長就任・組閣 2001年6月、『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌 2001425日~2003531

            布野修司

 

普段日記などつけない。試みないのだから三日坊主に終わるということもない。日常を省みようともせず、それを恥じない。生来の怠惰はどうしようもない。

そんな僕が、こともあろうに意を決して、『建築雑誌』の編集を続ける間、日誌のようなものを綴ることにした。

というのは嘘。日誌を書いて公開するように、というのは編集部の強~い要望である。編集委員会が何を考え、どのような議論を踏まえて編集作業を行っているのか、できるだけ生の声で伝えて欲しい、ということだ。

全くもって自信がないが、断る権利はなさそうだ。おそらく編集委員の助けを借りることになるに違いないけれど、気楽に編集「裏(嘘)話」など気の赴くままに記してみたい。

日記はつけない僕でも、海外を旅する時だけは、何故かいつも一冊のノートを持参して、見たこと、聞いたことをメモする習慣がある。殴り書きの間に領収書や名刺や電車の切符などべたべた張り付けるから、ノートは三倍ぐらいに膨れあがってしまうのだが、本棚を数えたらそんなノートが31冊になっている。ろくでもない記録なのに、何か貴重な財産のような気がしている。

『建築雑誌』の編集も、二年間のジャーニーjourneyと思えばいいのである。ジャーナルjournalとはそもそも日録, 日誌, 日記という意味である(2001111日)。

 

回想・・・編集委員会発足まで

200161

 正式に編集委員長になる。なったはず。仙田会長に連絡するもつかまらず。

 

200165日 

学会のアジア建築交流委員会に出席。ようやく編集部の小野寺さん、片寄さんと直に打ち合わせができた。太田邦男委員会は真木さんと今井さんが担当。渡辺武信委員会で小野寺さんとは一緒であったが片寄さんとは初めてである。とにかくよろしくお願いしま~す、である。この二人がいなければ何も立ちゆかない、ということは前二回の経験でよ~くわかっている。

しかしそれにしてもいつも思うけれど、37000部を超える雑誌の編集をたった二人で担当するとは大変なことである。会告欄の分担、下請け体制などを聞く。助っ人となる編集事務所について相談を受ける。

そして、初めて編集のフレームを確認する。編集委員会が担当するのは、特集40p(or 24p、2月号学会報告、7月号学会予告、8月号学会賞)+常設欄15pである。

そして、編集委員の人数を聞いて大いに困った。20人強でお願いしたい、と小野寺さんはいう。そして、各支部から可能な限り起用して欲しいとおっしゃる。また、国土交通省、業界からもお願いしたい。わかってはいたつもりであるが人数の読みは甘かった。既に半数近くは打診していたのである。責任転嫁するわけではないけれど、会長は何人でもいい、とおっしゃっていたような・・・気がする。

 問題は旅費である。出席率8割で予算措置をしているという。僕は、京都を拠点にしており関西の委員の比率は高くなる。しかし、旅費代がかかるからといって東京中心というのもおかしい。

まず、その場で若山委員会の論壇投稿は止めることにし、支部通信委員制度を提案する。毎回お呼びするわけにはいかないけれど、地方の声を受け止める場を設定すべきだと思ったからである。また、瞬間的に「地域の眼(まなこ)」という常設コラムも思いついた。一号2p、2年間24号で48p、47都道府県から一人ずつ登場願おう。また、この際各支部から一人は編集委員とするのを原則にしようと思った。これは旅費の問題ではない。ポリシーの問題である。次期委員会にも引き継がれるといい。

それにしても困った。作業部隊として、布野チルドレンに加わってもらうとどうしても人数は増える。メールも使えることであり、旅費の枠は尊重するということで多少の人数増は認めてもらうことにする。特に規定があるわけではないという。

 

200167

 建築学会賞委員会へ出席。仙田会長に途中ではあるけれど組閣名簿を提出、意見をもとめる。全ての支部は埋まっていない。編集委員会は相対的に独立していると言っても、編集委員の選任は理事会マターである。会長からも何人かの推薦を頂く。女性委員が足りない、足りない、といって変な顔をされた。

傑作は伊藤圭子委員。国土交通省からの委員が決まらない。何人も適任の人が思い浮かぶが皆忙しい。全体構成上女性が欲しい。建築技術教育普及センター時代、建築文化景観問題研究会で「アーバン・アーキテクト制」をめぐって一緒に仕事をしたことのある伊藤さんに学会から電話する。「若い世代で、元気な女性を推薦願いたい」というと、「私でよければやりますよ」。即決まりである。

 

200168

 一斉にメール。焦るのは、7月半ばから5週間、海外調査に出掛けることが決まっているからである。一ヶ月で1月号、2月号どころか常設欄の目途をつけて置く必要がある。

 

2001612

 初理事会。学会方針を理解して編集に当たるように理事会には必ず出席せよ、とのこと。斉藤専務理事がしきりに会員数の減少を指摘するのが印象的。建築界のリストラが必要であるとすれば、建築学会もリストラが必要なのは当たり前である。編集委員会の上位に友澤副会長が束ねる情報委員会という親委員会があることを知る。作品選集も一応編集委員会が関係する。

懇親パーティーがあって、その流れで、友澤、小野寺、片寄、布野の四人で簡単な顔合わせ懇親会。会告欄、情報ネットワーク欄も編集委員会の守備範囲だという。毎号55p(39p)編集すればいいと思っていたから、とまどう。会告欄については強烈な思い出がある。特集はなんでもいいんですよ、会告さえあれば、好きにやって下さい、と言われたことが一度ならずあるのである。こうした意見は今でもエンジニア系の会員に強い、というのが僕の思いこみである。正直、そうだとすれば気楽である。期待されていないのだから自由にやればいい。ところが友澤先生は、どちらかというとホームページがあるから会告欄は縮小せよ、という意見である。他の学会もホームページが主流になりつつあるという。

 

2001615

 ようやく組閣完了。編集委員会は32名の構成となった。委員には、会長就任の挨拶原稿、過去の特集一覧、過去の常置欄リストなどとともに次のようなメールを送った。編集委員の決定は、710日の理事会を待たなければならないけれど、日程が合わない。79日に第一回編集会開催で見切り発車である。

 

■建築雑誌(20012003)編集委員会委員の皆様へ 布野修司 2001615

編集委員への就任ご承諾ありがとうございました。

近々、事務局から正式の依頼等がいくと思います。何卒よろしくお願いします。早速で恐縮ですが、以下の点、ご承知おき下さい。

Ⅰ 委員会開催について

 第1回 79日 15:0017:00 建築会館 田町 第2回 830日 15:0017:00 建築会館 田町 第3回 922日 学会大会中 本郷:東大 第2回、第3回はご相談の上決定します。

Ⅱ スケジュール

 学会から別送の予定 9月上旬に1月号の原稿依頼をしなくてはなりません。

Ⅲ 編集フレーム

1 編集委員会が担当するのは、特集40p( or 24p、2月号学会報告、7月号学会予告、8月号学会賞)+常設欄15pです。議論はありますが、このフレームで出発します。特集:大の月9号小の月3号 ×224号 研究年報2

編集にあたって(略)

 常設欄 1p 2p 4p 

 ・地域の目 2p 24×2 47都道府県+1

・海外情報 外国人の眼 1p(例えば、外国雑誌の編集長のメッセージ)

・インターネットの頁 1

 ・巻末(巻頭)インタビュー(特集にからめる あるいは 建築界の重鎮長老) 

 エンジニアリング 技術ノート

 文献抄録

 編集後記

基本(通奏)テーマ 鍵語 

 4つあるいは6つの問題領域を設定し、繰り返し問う。4×3×2or6×2×2

 デザイン

 土地

 建築技術

 世界

 地球環境

新学会長重点項目

防災・健康のための横断的学術研究 発注システム 建築博物館・・・

 

特集テーマ(例えば思いつくままに)

   アジアの都市建築

   エコ・アーキテクチャー・モデル

   日本の建設産業 構造改革の行方

   日本のタウンアーキテクト

   建築教育・技能教育・・建築資格

   ストック改造の技術

   設計者選定問題

   日本の住宅と家族 都市型住宅

   世界遺産/殖民都市

  

   21世紀の建築デザイン

 

当面の作業

   学会の課題の整理

   過去の建築雑誌の総括

   編集フレームの設定

   14号案

 

■建築雑誌(20012003)編集委員会構成案は以下のようである。途中で何度も編集部の二人にチェックして頂いた。専攻分野、出身大学、所属委員会、職場、年齢、居住地・・・、毎に表をつくって頂いた。もちろん、偏りはある。学会の委員会の代表によって構成しても、理事会や学術委員会のようになるだけである。小嶋一浩、古谷誠章、貝島桃代、塚本由晴、鈴木隆之そして新居照和といった建築家の面々に入ってもらった。会員の多くは設計事務所員ということもある。彼らの総合的関心を大きな指針にしたい。

組閣は満足である。当たり前だ、最初から不満ならやっていけないだろう。事務局もまあまあのバランスだという。問題は、多くの先生に推薦いただいたのに断念した委員候補が少なくないことだ。第一、仙田会長の推薦者がほとんど入っていない。結果を見ると、お膝元から塚本由晴君だけである。石田君、土肥君も東工大だけど全く系列を異にする。仙田会長からはいつでも意見をもらえるであろう、というのが勝手な判断である。推薦いただいた各先生には失礼極まりない言い方であるが、推薦名簿は編集に当たって大いに活用させて頂こうと思う。

 

編集委員長

1布野修司   京大 東洋大 東大         建築計画 都市計画            近畿(京都)

編集幹事

2松山 巌  作家 東京芸大           評論                  関東(東京)

3古谷誠章  早稲田               建築家 建築計画            関東(東京)

4石田泰一郎  京大 東工大            視環境 光               近畿(京都)

5大崎 純   京大                構造力学                近畿(京都)

編集委員

6青井哲人  神戸芸工大学 近畿大学 京都造形大学 アジア建築史             近畿(大阪)

7浅川滋男   鳥取環境大学 奈文研-京大      建築史                中国(鳥取)

8伊加賀俊治  日建設計 早大            地球環境               関東(東京)

9伊藤圭子  国土交通省(都市整備公団) 京大   建築行政          関東(東京・千葉)

10岩下 剛  鹿児島大学 早大           室内化学物質汚染          九州(鹿児島)

11岩松 準  佐藤工業 京大            建築生産 PM CM       関東(東京)

12遠藤和義    工学院 芝浦工大 東大        建築経済 建築生産        関東(東京)

13小野田泰明 東北大学               建築計画             東北(宮城)

14貝島桃代  筑波大学 東工大 日本女子大学    建築家           関東(東京・茨城)

15勝山里美  大林組広報室 横浜国大        環境工学設計           関東(東京)

16北沢 猛  東大(都市工)            都市デザイン           関東(東京)

17黒野弘靖  新潟大学               建築計画             北陸(新潟)

18小嶋一浩  東京理科大 東大 京大        建築家              関東(東京)

19鈴木隆之    京都精華大学 アトリエファイ 京大   建築家  小説家     近畿(京都・千葉)

20高島直之  評論家 武蔵野美術大学        美術評論             関東(東京)

21田中麻里  群馬大学 京大-奈良女子大学     住居学              関東(群馬)

22Thomas Daniel  F.O.B. ヴィクトリア大 京大   建築家              近畿(京都)

23塚本由晴  東工大                建築家             関東(東京)

24土肥真人  東工大 京大             造園 まちづくり        関東(東京)

25新居照和  建築家 関西大学           設計              四国(高知)

26野口貴文  東大                 材料              関東(東京)

27羽山弘文  北大                 環境          北海道(北海道)

28福和伸夫  名古屋大 清水和泉研-        構造 防災          東海(愛知)

29藤田香織  東京都立大 東大           構造             関東(東京)

30八坂文子  鹿島建設 東大            構造設計           関東(東京)

31山根 周  滋賀県立大学 京大          都市計画           近畿(滋賀)

32脇田祥尚  島根女子短期大学 京大        まちづくり          中国(島根)

 


 

竹中大工道具館 村松研究会,講演「アジアの建築技術」 アジア都市建築研究の課題」,竹中大工道具館,2005年07月08日

 竹中大工道具館 村松研究会,講演「アジアの建築技術」 アジア都市建築研究の課題」,竹中大工道具館,20050708


竹中大工道具館 村松研究会                   200578

アジアの建築技術 アジア都市建築研究の課題

布野修司(滋賀県立大学)

 

 Ⅰ 「アジア都市建築史」のフレーム

 

Ⅱ 「アジア都市建築史」の課題

 

近代以前のアジアと日本建築・都城

1 ヴァナキュラー建築の世界・・・民家研究のグローバルな展開

2 仏教建築の世界史

3 中国・朝鮮半島・日本

4 アジアの都城とコスモロジー

 

 近世/近代・・・・近代世界システムの形成と都市・建築

1 西欧との接触

   2 オランダ植民都市ネットワーク

3 コロニアル建築としての明治建築

4 世界近代建築史再考

Ⅲ アジアのヴァナキュラー建築をめぐって

  01 アジアの伝統的住居

   森、砂漠、草原、野、海  「世界単位」

  『世界ヴァナキュラー建築百科事典(EVAW)』全3

02 オーストロネシア世界  日本建築の原像

1 北方系と南方系    土間式:地床式 高床式

2 ドンソン銅鼓   石寨山 家屋紋鏡

3 オーストロネシア語族

03 原始入母屋造・・・構造発達論 

1 家屋文鏡

2 原始入母屋造  G.ドメニク 

04 移動住居・・・パオ テント 円錐形住居

1 ゲル 蒙古包 ユルト  

    2 テント

    3 円錐形住居

05  井篭組・・・校倉造

    1 北方の井籠組  

    2 南方の井籠組

06  石造・煉瓦造・・ドーム、ヴォールト、ペンデンティーフの起源   

1 版築、日干煉瓦、磚

2 円形建築

3 隅三角状持送式

07  高床式住居

    1 地床式の分布

    2 抹樓

      稲作と高床式

    4 穀倉型住居

08 中庭式住居・・・コートハウス

   1 古代ギリシャと古代ローマ  

   2 四大都市文明

   3 コートハウスの類型  

09 家族と住居形式

1 ロングハウス

2 ミナンカバウの住居

3 バタックの住居

4 サダン・トラジャの住居

10 コスモスとしての家

   1 三界観念    バヌア

   2 オリエンテーション

   3 身体としての住居



2022年5月30日月曜日

「世界建築家」丹下健三の死 丹下の生きた時代,丹下のいない時代,建築ジャーナル, 2005

 「世界建築家」丹下健三の死 丹下の生きた時代,丹下のいない時代,建築ジャーナル, 2005

 「世界建築家」丹下健三の死

  丹下の生きた時代、丹下のいない時代

布野修司

 

 丹下健三が逝った。92才の大往生である。近代日本の生んだ偉大な建築家であった。しかし、巨人の死に際して、例えば、今年生誕百年を迎える前川国男の死の時(1986年)のように、ひとつの時代が終わった、という沸き上がってくる独特の感慨はない。既に、藤森照信によって、その全生涯、全仕事が集大成[i]されていることもあるだろう。丹下の時代は既に過ぎ去っていた、という感が強い。

丹下健三については、これまで、何度か書いてきた[ii]。日本の近代建築とりわけ戦後建築を代表する建築家であるから、繰り返し触れることになるのは当然であろう。本誌『建築ジャーナル』でも、平良敬一、磯崎新、古谷誠章の諸氏と丹下健三と丹下健三をどう乗り越えるかをめぐって議論したことがある[iii]10年前に、丹下は既に乗り越えるべき対象であったのである。否、10年前においても、丹下は乗り越えるべき存在であったというべきである。追悼に当たって反芻すべきなのもその問いであろう。すなわち、建築における「丹下的なるもの」とは何か、という問いである。

 

丹下における連続・非連続

丹下健三をめぐっては、デビュー作品である、戦時中の「大東亜建設忠霊神域計画」(1942年)、「在盤谷日本文化会館」(1942年)という、いずれも一等入選を果たしたふたつのコンペ応募作品と戦後日本建築の出発を記念する「広島ピースセンター」(1949年コンペ、1955年竣工)の間の連続・不連続をめぐって、すなわち、丹下における転向・非転向をめぐって、議論が行なわれてきた。そして、その帰結は現在ではおよそはっきりしている。

当初、強調されたのは、国粋主義者から近代主義者へ、という丹下のイデオロギーの転換、すなわち転向である。戦後日本浪漫派に心酔していた丹下が、一転、平和の旗手として広島ピースセンターの設計に関わることへの素朴な違和感は、丹下の輝かしい戦後の歩みにも関わらず存在し続けた。丹下自身が、「戦没学徒記念館」(1966年)の発表を秘してきたことがその事情を示している。日本の近代建築草創の歴史は、ファシズムに対する果敢な闘いとその挫折の歴史として描かれる。「日本趣味」「東洋趣味」を旨とすべし、という規定がなされていた一連の設計競技に、敢然と近代建築のスタイルを提出し続け、ついには「日本的なるもの」=「ナショナルなもの」を象徴する勾配屋根を受け入れるに至った前川国男の軌跡がその象徴とされる[iv]。丹下健三の場合、問題とされてきたのは逆向きの転向である。

しかし、確認されるのはむしろ連続性である。その作品、その設計手法を見る限り、戦前戦後に大きな変化はない。寝殿造り風の屋根を除けば、「大東亜建設忠霊神域計画」と「広島平和記念館総合計画」(1950年)は、その構成手法に差異はないのである[v]。戦後の伝統論争においてもその方向は変わらないが、日本的なるものに近代的なるものを見いだす、例えば、日本建築の木割を近代技術によって実現するといった解答が多くの建築家によって選択されてきた。丹下の場合、作品系列上の大きな転換は、むしろ、60年代に入ってからの構造表現主義の作品にみることができる。藤森照信の整理によれば、「柱梁の系譜」から「彫刻的表現」への転換である。そして、さらに問題にすべき転換は、「東京都新庁舎」におけるポストモダンへの傾斜である。しかし、いずれにしろ、丹下健三が一貫して近代技術の展開を基礎にしながら質の高い作品を表現し続けたことは衆目の一致するところである。

そして、連続性は「国家」との関係においても強調される。磯崎新は、前述の座談会などでも繰り返し指摘しているが、丹下の死に際しての追悼文においても[vi]、丹下の発想の内奥には、徹頭徹尾、国家への想いがあり、「超越的な何ものかにむかって引かれた一本の軸線がひそんでいる」という。丹下健三は、基本的に国家主義者であり、「国家の建築家」であったことになる。確かに、「大東亜建設忠霊神域計画」→「広島平和記念資料館」→「代々木国立屋内総合競技場」(1964年)→「大阪万国博お祭り広場」(1970年)と、丹下健三は日本の国家的プロジェクトに一貫して関わってきたのである。

 

世界資本主義の誘い

国家の肖像を描き続けるのが丹下の本質であったという磯崎の見方に立てば、1970年以降の作品はとるにたらない、ということになる。果たしてそうか。確かに、70年代に入って、オイルショック以降、丹下は転身したように見える。その後の歴史は、1974年に東京大学を定年退官し、設立した丹下健三・都市・建築設計研究所の歴史である。東京大学理学部本館(1973-79)、草月会館(1974-79年)やわずかの住宅作品を除いて、1970年代にほとんど丹下は日本で仕事をしていない。仕事の場はほとんどが海外である。そして、作品の質もかつての輝きはない。当時を振り返って、丹下健三は消えた、という印象がある。国内では、丹下健三批判の書と言っていい、長谷川堯の『神殿か獄舎か』が貪るように読まれた。また、磯崎新の『建築の解体』がポストモダンの方向性を示していた。丹下が日本に帰ってくるのは、「ポストモダンには明日はない」という発言、そして「東京都新庁舎」コンペとともにである。

丹下が海外へ向かったのは、単純には国内に仕事がなくなったからである。一方、オイルダラーで潤う中東の国々には多くの仕事があった。丹下健三には一度だけ会ったことがある。大学院生の時、「松江都市圏総合開発計画」(1974-75年)のアルバイトをしていて月尾嘉男に自邸に連れていかれたのである。専ら、中東情勢が語られていたのを思い出す。また、それ以前に二度ほど[vii]「アーバンデザイン」という科目の講義を聞いた。大阪万博を直前にして、その総合プロデューサーである丹下健三は大スターであり大御所であったが、講義の内容は、建築を学び始めた学生にはいささかショックなものであった。「君たちは不幸です。1980年代後半には、建築は衰退します」というのである。ロストウの経済発展の四段階説を下敷きにした歴史予測であった。振り返れば、そうした歴史的予測に基づいて丹下は日本を「離陸」し、海外に向かったのである。磯崎流には、国家が丹下という建築家を必要としなくなった、といってもいい。日本という国家が変質したのである。一方、国家の肖像を必要とする新興国が丹下を招いたのである。丹下と丹下の作品は、近代国家のシンボルとして「売れた」のである。そして、バブルとともに丹下は日本に帰還する。挑んだのは、世界都市・東京の貌をどうデザインするかという課題であった。

 

土地に固有な表現へ

こうして、丹下の一貫性は明らかではないか。磯崎のように、丹下を最後の「国家の建築家」として歴史的に封じ込めてしまうだけでは不充分であろう。さらに一貫するものを確認するには、丹下の都市へのアプローチを見る必要がある。丹下健三の学位論文は『都市の地域構造と建築形態』(1959年)である。また、戦後まもなくより多くの復興都市計画に関わってきた。その頂点にあるのが「東京計画1960(1960)である。この「東京計画」は、それ以前の大ロンドン計画を下敷きとする首都圏計画、すなわち同心円状に副都心、衛星都市を配する構造を根底的に転換するものであったこと、また、それにも関わらず、ハイアラーキカルなツリー構造(C.アレクサンダー)を免れていないことなど、多くの議論を生んだが、第一に問題とすべきは、丹下の都市へのスタンス、その立っている位置であった。

アーバンデザインという一つの平面を仮構し、都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、基本的に近代建築英雄時代の巨匠のスタイルである。そこでの建築家は、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」のイメージである。丹下健三は、日本という国家が、戦後復興→講和、国連加盟→高度成長→東京オリンピック→大阪万国博という国際的地位を獲得していく過程で、「世界建築家」のイメージを体現し得たのである。

この「世界建築家」という幻想は、建築という行為の根源に関わるが故におそらく消滅することはない。しかし、それが大きく何かを動かす時代はもうないであろう。世界的建築家といっても、世界資本主義の運動に翻弄されながら建設市場を渡り歩く存在でしかない。多くの建築家たちは、対極的に、もう少し地域の現実に拘束され、土地に固有な表現を再構築するそんな存在に回帰しつつある。われわれはしばらく前からそんな時代を生き始めている。

 

 



[i] 丹下健三・藤森照信、『丹下健三 KENZO TANGE』、新建築社、2002年9月

[ii] 拙稿、「丹下健三と戦後建築」(「Ⅲ章 四人の建築家」)『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』布野修司建築論集Ⅲ、彰国社、1998

[iii] 磯崎新、平良敬一、布野修司、古谷誠章、「「丹下健三」の読み方 そしてそれを乗り越える戦略は?」、『建築ジャーナル』、No.874、1995年12月

[iv] 拙稿、「Mr.建築家―前川国男というラディカリズム―」(「Ⅲ章 四人の建築家」)『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』布野修司建築論集Ⅲ、彰国社、1998

[v] 稲垣栄三がつとにそのことを指摘している。稲垣栄三、『日本の近代建築』、丸善、1959年。SD選書、

[vi] 磯崎新、「建築家丹下健三氏を悼む 描き続けた国家の肖像」、朝日新聞、2005323

[vii] 丹下本人は二度ほどしか出校していない。残りの授業は渡辺定夫の代講であった。





2022年5月29日日曜日

2022年5月28日土曜日

景観形成とタウン・アーキテクト制,島根県建築士会報,1997

 景観形成とタウン・アーキテクト制,島根県建築士会報,1997

景観形成とタウン・アーキテクト制

布野修司

 

 「メゾン宍道湖」の新築工事について、県の景観審議会は、全国ではじめて、景観条例に基づく「勧告」を行い、その旨を「公表」する決定をするに至った。委員の一人としても、「勧告」「公表」はやむをえない、との判断である。

 景観条例の景観形成基準等の規定は、承知のように、法的拘束力がない。建築確認申請の届け出については、建築基準法に基づく違反事項がない限り、定められた期間に許可するのがルールである。今回も「法的には問題はない」。

 それにも関わらず、「勧告」「公表」するのは、計画の敷地が宍道湖景観形成地域のなかでも最も重要な地点であり、届出の行為が当該地域の景観形成に及ぼす影響が大きいからである。極論すれば、景観条例の存在意義を問われかねない事例なのである。何のための景観条例か、ということが審議会で大きな問題となった。階数を減らせばいいということではないのである。景観形成基準の厳格な適用は避けられない、という判断である。

 全国でも初の事例となったのは不幸なことである。しかし、考えようによっては、独自のまちづくりのやり方を産み出すいいチャンスでもある。そのためには、少なくとも、市民の間で「景観問題」をめぐる議論が必要である。その議論のなかから、景観形成の新しい方式が定着していくことを期待したい。

 景観審議会としても、「勧告」「公表」で一件落着というわけにはいかない。その存在意義が問われたわけであるから、より実質的な仕組みの構築が早急の課題である。今回のように、公共性の高い土地については、公的に取得することが考えられる必要がある。そのためには、景観基金などの創設が不可欠だ。

 また、基準とは別に、景観についての基本的な合意形成をはかる必要がある。大景観については、千鳥城の天守閣から宍道湖の湖岸が見える、市内の主要な視点場から、千鳥城や大山が見える、といった県民であればだれもが大事にしたいと考える景観を広く共有する必要がある。身近な景観については、クーラーの室外機や貯水タンクの位置、看板や植栽のあり方などを日常的に議論する必要がある。基準やマニュアルではなく、景観はそれぞれの場所の佇まいが大事なのである。

 地域の建築家の役割は、地域の景観形成にとって大きい。日々景観形成に寄与しているのは建築家である。地区毎の佇まいを判断できるのが建築家である。県には景観アドヴァイザー制度が既にある。景観アドヴァイザーとして、まず、自分の住む町、関わりをもつ町をどうすればいいか、考えてみる必要がある。そして、機会ある毎に実際にアドヴァイスをすることが大切である。景観問題は一朝一夕ではいかないのである。

 タウン・アーキテクト制あるいは地区アーキテクト制の具体的形を士会でも是非検討してみて欲しい。



2022年5月27日金曜日

植民都市遺産とアジア都市の伝統,大阪市立大学文学研究科編(2009)[文化遺産と都市文化政策]大阪市立大学文学研究科叢書第6巻,清文堂出版,2009年12月20日

植民都市遺産とアジア都市の伝統,大阪市立大学文学研究科編(2009[文化遺産と都市文化政策]大阪市立大学文学研究科叢書第6巻,清文堂出版,20091220

 

植民都市遺産とアジア都市の伝統

Colonial Urban Heritage and Asian Urban Traditions

布野修司

現代アジアの都市と建築を広く見渡すと、まず、1,000万人にも及ぶ人口規模をもつ大都市が思い浮かぶ。ムンバイ、ニューデリー、チェンナイ、コルカタ、バンコク、ジャカルタ、マニラ、北京、上海、ソウル、東京・・・。いずれも中心部には超高層ビルが林立する。そして、その周囲に住宅地が形成され、延々と郊外へ向かって広がっている。俯瞰すれば、アジアの大都市は極めてよく似ている。

一方、大都市から離れた田舎の光景も思い浮かぶ。はるか昔から同じように家をつくり続けて来たヴァナキュラー建築の世界がある。しかし、その世界にも亜鉛塗鉄板(トタン)のような近代的な工業材料が浸透し、家の形態は変容しつつある。各地域の中核都市には、ショッピング・センターのような現代的な新しい建築が増えつつある。

アジア各地を旅すると、各地域が次第に似かよってくるという印象を受ける。建築生産の工業化を基礎にする近代建築の理念は大きな力を持ち続けているということであろう。工場でつくられた同じような建築材料が世界中に流通するから、住宅地の景観が似てくるのは当然である。

現代アジアの都市と建築について、いくつか共通の問題をあげると、まず三つが思い浮かぶ。

第一にあげるべき問題は住宅の問題である。今日猶、大多数の人々はヴァナキュラーな建築の世界、すなわち「建築家なしの世界」で暮らしている。上述のように工業化の進展とともに、その秩序が崩れつつあることは大問題であるが、それ以前に危機的なのは、住宅そのものの数が足りないこと、あるいは、時として生存のためにぎりぎりとも言える劣悪な条件にあることである。そうした大都市の住宅問題にどのような建築的解答を与えるかは共通の課題であり、各地でユニークな試みがなされている。

第二は、歴史的な都市遺産、建築遺産をどう継承、発展させるかという問題である。開発、あるいは再開発圧力の中で、歴史的な建築遺産をストックとしてどう活用するかは発展途上国、先進諸国を問わない共通の課題である。とりわけ、アジアの諸都市においては、宗主国の建設した植民建築をどう評価するかが大きなテーマとなっている。

第三は、「地球環境問題」という大きな枠組みが意識される中で、どのような建築形式が相応しいか、という問題である。エコ・シティ、エコ・アーキテクチャー、あるいは「環境共生」ということがスローガンとされるが、真に「地域の生態系に基づく建築システム」を生み出すことができるかどうかは、これからの課題であると言っていい。

 

1 カンポンの世界

まず、大きな問題は大都市の居住環境である。アジアの大都市には世界の人口の過半を占める人々が住む。そして、その環境は多くの場合劣悪である。生存のためにぎりぎりの条件にある地区もある。人口問題、住宅問題、都市問題は21世紀のアジアの大都市にとって深刻である。

しかし、アジアの大都市の居住地は必ずしもスラムなのではない。フィリピンはバリオbarrio、インドネシア、マレーシアではカンポンkampung、インドではバスティーbustee、トルコではゲジュ・コンドゥgeju conduなどとそれぞれ独自の名前で呼ばれるように、物理的には貧しくても、社会的な組織はしっかりしているのが一般的である。

カンポンとは、マレー(インドネシア)語でムラのことである。インドネシアでは、行政村はデサDesaという。カンポンというともう少し一般的で、カタカナで書くムラの語感に近い。カンポンガンkampunganと言えば、イナカモン(田舎者)、というニュアンスである。このそれぞれの居住地のあり方が第一にそれぞれの都市遺産である。

インドネシアで、ジャカルタ、スラバヤといった大都市の住宅地をカンポンというのは、都市の居住地でありながら、ムラ的要素を残しているからである。この特性は発展途上地域の大都市の居住地に共通である。英語ではアーバン・ヴィレッジ(都市村落)と言う。

まず、第一に、カンポンでは、隣組(RTRukung Tetanga,町内会(RWRukung Warga)といったコミュニティ組織は極めて体系的である。すなわち、様々な相互扶助組織はしっかりしている。アリサンarisanと呼ばれる講(頼母子講、無尽)、ゴトン・ロヨンGotong Royongと呼ばれる共同活動が居住区での活動を支えているのである。

第二に、カンポンの居住者構成を見ると極めて多様である。カンポンには多様な民族が居住する。植民都市としての歴史が大きいけれど、インドネシアはそもそも多くの民族からなる。多民族が共住するのがインドネシアの大都市である。また、カンポンは様々な所得階層からなる。どんなカンポンでも低所得者と高所得者が共に住んでいて、土地や住宅の価格によって、階層が似通、先進諸国の住宅地とは異なっている。

第三に、カンポンは単なる住宅地ではなく、家内工業によって様々なものを造り出す機能をもっている。また、様々な商業活動がカンポンの生活を支えている。住工混合、住商混合がカンポンの特徴である。

第四に、カンポンの生活は極めて自律的である。経済的には都心に寄生する形ではあるが、生活自体は一定の範囲で簡潔している。

第五に、カンポンは、その立地によって、地域性をもつ。多様な構成は、地区によって異なり、それぞれの特性を形成している。

カンポンは、独自の特性をもった居住地といえるだろう。

英語のコンパウンドcompoundの語源は、実はカンポンである。オクスフォード英語辞典(OED)にそう説明されている。コンパウンドというと、インドなどにおける欧米人の邸宅・商館・公館などの、囲いをめぐらした敷地内, 構内、南アフリカの現地人労働者を収容する囲い地、鉱山労働者などの居住区域、捕虜や家畜などを収容する囲い地を指す。しかし、もともとはバタヴィアやマラッカの居住地がそう呼ばれていたのを、英国人がインド、アフリカでも用いだすのである。カンポン=コンパウンドが一般的に用いられ出すのは19世紀初頭であるが、カンポンが西欧世界と土着社会との接触がもとになって形成されたという事実は極めて興味深いことである。アジアは全般的に都市的集住の伝統は希薄なのである。

カンポンのような都市の居住地に対して、この間、各国で行われてきたのは、スラム・クリアランスによる西欧モデルの集合住宅の供給である。しかし、住宅供給は量的に足りず、価格が高くて低所得者向けのモデルとはならなかった。それぞれの生活様式と住宅形式が合わないのも決定的であった。それに対して大きな成果を上げたのは、上下水道、歩道など最小限のインフラストラクチャーを整備する居住環境整備である。イスラーム圏のすぐれた建築活動を表象するアガ・カーン賞が与えられたインドネシアのカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)がその代表である。また、コア・ハウス・プロジェクトなど、スケルトンだけを供給して、居住者自ら住居を完成させる、興味深い手法も試みられてきた。

しかし、アジアの大都市はさらなる人口増に悩みつつある。そこで各都市共通の課題となるのが、新しい都市型住居のプロトタイプである。カンポンのような都市村落の形態とは異なった、高密度の居住形態がそれぞれに求められているのである。カンポンに対しては、カンポン・ススンという、廊下(居間)、厨房、トイレなどを共用するコレクティブ・ハウス型集合住宅の提案がある。

イスラーム圏にはそれぞれに都市組織をつくる伝統がある。インドにはハヴェリ、中国には四合院という都市型住宅の伝統がある。また、ショップハウスの伝統は東南アジアに広がっている。そうした伝統をどう新しく引き継ぐかがテーマである。

 

  都市遺産の継承と活用

 植民都市としての起源をもつアジアの諸都市にとって、もうひとつ共通の課題となるのは、植民地期に形成された都市核の保存あるいは再開発の問題である。もともと都市の中心的機能を担っていた地区であるが、その機能をはるかに超える都市の膨張によって、再開発を余儀なくされる。また、新都心への移転が測られるのが一般的である。

 そこで、都市核に残された植民地建築をどう評価するかがそれぞれに問われる。第二次世界大戦後に次々と独立、新たに形成された国民国家にとって、植民地時代は否定すべきものである。ボンベイ、マドラス、カルカッタといった世界史に名を残すインドの大都市が次々に改称され、各都市においても英領時代の通り名が混乱を厭わず改称されているのはナショナリズムの現れである。また実際にも変化は激しい。例えば、ガーデン・ハウスが建ち並んだかつてのカルカッタの中心地区、チョウリンギーは、超高層ビルやアパートが建ち並ぶ現代的な中心業務地区に転換しつつある。英国がつくったシンガポールや香港も、歴史的な街区への配慮はあるにしても、超高層の林立するアジアを代表する現代都市へと変貌している。オランダを宗主国としたインドネシアでも同じような事情がある。ジャカルタのコタ地区はかつてのバタヴィアの栄光を記憶する場所であり、オランダは保存復元を提案する。1619年から1949年(正確には1942年の日本占領)まで、330年、数多くのオランダ人が居住してきたのである。しかし、ジャカルタにとってコタ地区は今では必ずしも重要な地区ではない。日本植民地期に建てられたかつての朝鮮総督府である国立博物館を、戦後50周年を期に解体した韓国のような例もある。

 一方、都市遺産の保存継承、活用を主張する動きもある。提案されるのは、相互遺産mutual heritage、あるいは両親(二つの血統)double parentageという理念である。300年もの植民地支配の過程は、それぞれの国の建築文化や都市の伝統に深く染み込んでいる。それはかけがえのないものとして評価すべきだという主張である。マニラのイントラムロスは見事に復元されている。インドでも、ムンバイのフォート地区などでは保存建物が指定されている。必ずしも大きな流れにはなっていないけれど、各都市に保存トラスト(INTACH)が組織され、チェンマイでも、歴史的遺産のリストアップは進められつつある。スリランカのゴール、北ルソンのヴィガンなど、世界文化遺産に登録された都市もある。続いてマレーシアのマラッカ、ペナンも世界遺産登録を準備しつつある。

 植民地遺産の評価は、朝鮮総督府の例が示すように、政治的な問題に直結しうる。しかし、かつての日本植民地でも台湾のように総督府を大統領府として使い続けているケースもある。ニューデリーは、結果としてインド独立への最大の贈り物になった。遺産をどう活用していくかはケース・バイ・ケースである。いずれにせよ、都市核の保存継承か再開発かをめぐって問われているのは、それぞれの都市の今後の大きな方向である。

 

3.アジア都市の伝統

 都市の歴史を大きく振り返る時,それ以前の都市のあり方を根底的に変えた「産業化」のインパクトはとてつもなく大きい。都市と農村の分裂が決定的となり,急激な都市化,都市膨張によって,「都市問題」が広範に引き起こされることになった。この「都市問題」にどう対処するのか,都市化の速度と都市の規模をどうコントロールするかが近代都市計画成立の背景であり,起源である。

「都市化」は,しかし,「産業化」の度合に応じる一定のかたちで引き起こされてきたのではない。「工業化なき都市化」,「過大都市化」と呼ばれる現象が,工業化の進展が遅れた「発展途上地域」において一般的に見られるのである。結果として,世界中に出現したのは数多くの人口一千万人を超える巨大都市(メガロポリス)である。

「発展途上地域」におけるそうした巨大都市は,ほとんど全て,西欧列強の植民都市としての起源,過去を持つ。「植民地化」の歴史が,巨大都市化の構造的要因となったことは明らかであろう。植民都市が支配―被支配の関係を媒介にすることにおいて,先進諸国とは異なった,「奇形的」な発展過程を導いたと考えられるのである。すなわち,「植民地化」もまた都市の歴史における極めて大きなインパクトである。

『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会,20052月刊)で追及したのは,現代都市の構造,その孕む諸問題の遡源である。近代世界システムの成立と近代植民都市の建設は不可分である。

近代植民都市を可能にしたものは何か。造船技術であり,航海術であり,天文観測術であり,世界についての様々な知識である。要するに,通俗的な理解であるが,近代的科学技術である。

その一つが火器であり,それを用いた攻城法,また,それに対応する築城術である。都市の歴史において,遡って大きな画期となるのが,新しい火器,大砲の出現である。それ以前は,攻撃よりもむしろ防御の方が都市や城塞の形態を決定づけていた。

火薬そのものの発明は中国で行われ,イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたが,火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである。最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦である。もっとも,戦争で火器が中心的な役割を果たすのは15世紀から16世紀にかけてことで,決定的なのは,15世紀中頃からの攻城砲の出現である。

ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は,戦車,装甲車が考案され機動戦が展開された,ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱フス戦争(14191434)で,グラナダ王国攻略戦(1492)において大砲が絶大な威力を発揮する。レコンキスタが完了した1492年は,クリストバル・コロン(コロンブス)がサン・サルバドル島に到達した年であり,コンキスタ(征服)が開始された年である。こうして火器による攻城戦の登場と西欧列強の海外進出は並行する。近代植民都市建設の直接的な道具となったのは火器なのである。

火器の誕生による新たな攻城法に対応する築城術とそれを背景とするルネサンスの理想都市計画は,西欧列強の海外進出とともに,「新大陸」やアジア,アフリカの輸出されていくことになるのである。

それでは,「西欧世界」が「火器」によって,「発見」「征服」していった「世界」における都市の伝統とはどのようなものであったのか。具体的に,アジアに固有の都市の伝統とは何か。西欧中心主義者は,ギリシャ・ローマの都市計画の伝統をルネサンスの理想都市計画に直属させ,さらに植民都市計画理論と近代都市計画理論を一直線につないで,「アジア(非西欧)」を顧慮するところがない。

今日の「世界」が「世界」として成立したのは,すなわち,「世界史」が誕生するのは,「西欧世界」によるいわゆる「地理上の発見」以降ではない。ユーラシア世界の全体をひとつのネットワークで繋いだのはモンゴル帝国である。火薬にしても,上記のように,もともと中国で「発明」され,イスラーム経由でヨーロッパにもたらされたのである。本書で触れたように,モンゴル帝国が広大なネットワークをユーラシアに張り巡らせる13世紀末になると,東南アジアでは,サンスクリット語を基礎とするインド起源の文化は衰え,上座部仏教を信奉するタイ族が有力となる。サンスクリット文明の衰退に決定的であったのはクビライ・カーン率いる大元ウルスの侵攻である。東南アジアにおける「タイの世紀」の表は「モンゴルの世紀」である。

こうして,本書が焦点を当てたヒンドゥー都市(インド都城)の系譜が浮かび上がるだろう。それを,チャクラヌガラ(あるいはマンダレー)という実在の都市に因んで「曼荼羅都市」と名づけたのである。

それでは,他の伝統はどうか。インド都城と対比しうる伝統として中国都城の伝統がある。本書でも,東南アジアの諸都市をめぐって二つを問題にしてきた。大元ウルスが,『周礼』孝工記をもとにして中国古来の都城理念に則って計画設計したのが大都(→北京)である。中国都城の理念が,朝鮮半島,日本,ベトナムなど周辺地域に大きな影響を及ぼしたことはいうまでもない。日本の都城は,その輸入によって成立したのである。

この中国都城の系譜を,ほとんど唯一,理念をそのまま実現したかに思われる大都に因んで,「大元都市」の系譜と仮に呼ぼう。「大元」とは,『易経』の「大いなる哉,乾元」からとったと言われる。「乾元」とは,天や宇宙,もしくはその原理を指す。

ユーラシア大陸を大きく見渡すと,こうして,都城の空間構造を宇宙の構造に見立てる二つの都市の伝統に対して,都市形態にコスモロジーカルな秩序を見いだせない地域がある。西アジアを中心とするいわゆるイスラーム圏である。少なくとも,もうひとつの都市の伝統,イスラーム都市の伝統を取り出しておく必要がある。具体的に焦点とすべきは,「ムガル(インド・イスラーム)都市」である。イスラーム都市の原理とヒンドゥー都市の原理はどのようにぶつかりあったのかが大きな手掛かりとなるからである。ムガルとはモンゴルの転訛である。ここでもモンゴルが絡む。モンゴル帝国は,その版図拡大の過程で,どのような都市の伝統に出会ったのか,13世紀の都市がテーマとなる。

 

4 地域の生態系に基づく都市建築システム

 アジアに限らず世界中で問われるのは地球環境全体の問題である。エネルギー問題、資源問題、環境問題は、これからの都市と建築の方向を大きく規定することになる。

 かつて、アジアの都市や建築は、それぞれの地域の生態系に基づいて固有のあり方をしていた。メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の大きな影響が地域にインパクトを与え、仏教建築、イスラーム建築、ヒンドゥー建築といった地域を超えた建築文化の系譜が地域を相互に結びつけてきたが、地域の生態系の枠組みは維持されてきたように見える。インダスの古代諸都市が滅亡したのは、森林伐採による生態系の大きな変化が原因であるという説がある。地球環境全体を考える時、かつての都市や建築のあり方に戻ることはありえないにしても、それに学ぶことはできる。世界中を同じような建築が覆うのではなく、一定の地域的まとまりを考える必要がある。国民国家の国境にとらわれず、地域の文化、生態、環境を踏まえてまとまりを考える世界単位論の展開がひとつのヒントである。建築や都市の物理的形態の問題としては、どの範囲でエネルギーや資源の循環系を考えるかがテーマとなる。

 ひとつには地域計画レヴェルの問題がある。各国でニュータウン建設が進められているが、可能な限り、自立的な循環システムが求められる。20世紀において最も影響力をもった都市計画理念は田園都市である。アジアでも、田園都市計画はいくつか試みられてきた。しかし、田園都市も西欧諸国と同様、田園郊外を実現するにとどまった。というより、田園郊外を飲み込むほどの都市の爆発的膨張があった。大都市をどう再編するかはここでも大問題である。どの程度の規模において自立循環的なシステムが可能かは今後の問題であるけれど、ひとつの指針は、一個一個の建築においても循環的システムが必要ということである。

 アジアにおいて大きな焦点になるのは中国、インドという超人口大国である。また、熱帯地域に都市人口が爆発的に増えることである。極めてわかりやすいのは、熱帯地域で冷房が一般的になったら、地球環境全体はどうなるか、ということがある。基本的に冷房の必要のないヨーロッパの国々では、暖房の効率化を考えればいいのであるが、熱帯では大問題である。米国や日本のような先進諸国では、自由に空調を使い、熱帯地域はこれまで通りでいい、というわけにはいかない。事実、アイスリンクをもつショッピング・センターなどが東南アジアの大都市ではつくられている。

しかし地球環境問題の重要性から、熱帯地域でも様々な建築システムの提案がなされつつある。いわゆるエコ・アーキテクチャーである。スラバヤ・エコ・ハウスもその試みのひとつである。自然光の利用、通風の工夫、緑化など当然の配慮に加えて、二重屋根の採用、椰子の繊維を断熱材に使うなどの地域産財利用、太陽電池、風力発電、井水利用の輻射冷房、雨水利用などがそこで考えられている。マレーシアのケン・ヤンなどは、冷房を使わない超高層ビルを設計している。現代の建築技術を如何に自然と調和させるかは、アジアに限らず、全世界共通の課題である。

 

2022年5月24日火曜日

2022年5月23日月曜日

ポサランの教会,at,デルファイ研究所,199205

ポサランの教会,at,デルファイ研究所,199205 


H.M.ポントのポサランの教会

                布野修司

 

 

 東南アジアの近代建築については日本ではほとんど知られていないのだが、興味深いものが多い。宗主国の近代建築運動に呼応しながら植民地で活躍した建築家が少なくないのである。オランダの建築家、H.M.ポントはそうした建築家のひとりだ。

 H.M.ポントがインドネシアを訪れるのは一九一一年、二七才の時のことである。もともと彼が生まれたのはジャカルタである(一八八四年)。本国で教育を受け、デルフト工科大で建築を学んだのち、いわば帰ってくるのである。

 H.M.ポントは、インドネシアに着いて以来、時間をみつけてはインドネシア中を旅行し、土着の建築について調べている。余程魅せられたのであろう、その探求は徹底していた。やがて、ジャワ建築の研究に仕事のウエイトを移したほどである。H.M.ポントは、ジャワ建築の起源を探り、その本質を明かにしようとする。その架構の原理を解明し、それを現代建築に生かそうとする。伝統的建築の空間構成の方法を読み取り、それを自らの作品に用いようとしたのであった。

 インドネシアでの彼の作品はそうした試みの積み重ねである。代表作は、バンドン工科大学(一九二〇年)であろうか。ミナンカバウ族、バタック族の民家をイメージさせるその屋根の連なりには、いささか度肝を抜かれる。とにかく迫力がある。

 さらに、それを上回る珠玉のような傑作が、東ジャワのクディリ      の近郊、ポサラン         の教会(一九三七年)である。小さな作品だけれど、実に見応えがある。様々な、独特の形態の屋根がリズムをつくって楽しい。石積みのベルタワーやフェンスには丹念に積み上げられた味がある。架構は、伝統的形態をとるかのようで、極めて意欲的に大胆なテンション構造が採用されている。うねるような内部空間は、トップライトからの光で、さらにダイナミックに見える。H.M.ポント自身は、インドネシアン・ゴシックと呼んだのだというが、確かに、伝統の形態と近代的架構方法が緊張関係の中に釣り合っている。

 インドネシアの建築家たちは、H.M.ポントをインドネシアのA.ガウディーという。この作品をみて、なるほどそうかなとも思う。丁寧に手作りで心を込めてつくった気配が濃厚にある。構造と形態の関係についての真摯な追求がそこにある。