2001年12月
臨戦態勢突入
瓢箪から駒 オール・カラー化へ:大豆インクの使用:『建築年報』廃止
2001年12月1日
11月末になって、猛烈な勢いでメールが飛び交いだした。いよいよ動き出すという実感がしてくる。まず第一に、原稿が陸続と入稿しだした。遅い!!!、けれど事務局の手が完全に12月号から離れないのだから催促もままならなかった。それが一気に集中する。それでもまだ、ぎりぎり執筆しない先生が身近にも居る。困ったものだ。こう見えても僕は原稿の締切りは守る方だ。忘れていない限り????
出来るだけ月の初めに届けたいのだけれど、この立ち上がりの号についてはいかんともしがたい。前倒しでどんどん発注しているから2月号、3月号と段々早く刊行できればいい、と思う。
しかしそれにしても、1月号は全てが変わるから、編集事務局は大変である。決定すべき多くのことがある。メールで次々に決定事項が送られてくる。正直、瞬間的に判断するのみだ。大半は事務局の判断を信頼する。
表紙は変えなければいい、という意見もある。シンプルな白地の表紙がなつかしい、と自分でも思う。1月号は建築史関連特集ということで特集も決まっていたのではなかったか。
一方、二年に一度くらいリフレッシュするのも必要かなとも思う。
世相も世代も徐々に変わっていくのだから。少なくともレイアウトには工夫が欲しい。それに紙やインク、印刷技術が大きく変わるという問題がある。大豆インクを使うことは決定だ。環境にやさしい、というからであるが果たしてどうか。再生紙はどうか。一気に決めなければならない。
大転換の時代だから建築学会の名称、そして建築雑誌の名称を変えようという意見がある。
議事録にあるように、具体的に、建築雑誌は国際化時代だからこの際JABSにしてはどうか、という提案があった。ジャブス、なんとなく音が悪い。議論したけれど、今更横文字にすればいい、という時代じゃない、という意見が大勢を占めた。無視はしないけれどJABSの扱いは鈴木一誌さんに一任することにした。表紙はまだ誰も見ていない。建築雑誌の名を変えるのは反対が多いのではないか。先輩の先生方に愛着が強い。とにかく建築雑誌のままで1500号を迎えたいと思う。
もちろん、問題は表紙や装丁や呼称ではなくて中身である。中身については執筆者に期待するより他はない。続々入る原稿にざっと眼を通す。担当の岩松さん、遠藤さんはフル回転である。読んで、難しい用語をチェックして、解説を書かないといけない。伊藤さんもよろしく。これは結構大変な作業である。担当編集委員は覚悟して欲しい。入校までかなりの時間がとられる。
2001年12月2日
学会賞作品賞の審査で上京、さらに北上して日帰り。坂本一成先生と色んなことを話せるのが楽しみ。今年の世界一周からすっかりデジカメ党に。フィルムはもう一生使わないのではないか。普通に写真に焼いても問題ないし、スライドにするのも楽だ。世界建築史という講義をもっていて、スライドをよく使うのであるが、むしろこれまで撮った何万枚ものスライドをスキャニングするのだけが大変である。原稿も写真をメールで送れるようになったから随分と楽である。
2001年12月4日
宇治市都市計画審議会。これでも会長なのだ。議案は二件、生産緑地を宅地に転換する。宇治からどんどん茶畑が減っていく。委員の上野勝代先生(京都府立大学)が常々嘆かれるところだ。都市計画審議会が単なる形式的議決機関に堕しているのは実感するところ。一昨年四月の地方分権一括法案が通ってから多少の自由度も生まれたからなんとかしたい。規約を新たにつくって部会を設けることにしたのであるが、未だ動かない。案件は以外に意見が数多く出たけれど30分で終了。その他として部会設置を動議、岡田憲夫先生(京都大学防災研究所)を部会長に発足することを認めて頂く。色々アイデアはあるのだけれど、時間がかかる。
座談会の原稿が入る。ややがっかり。臨場感が伝わらない。生のテープをチェックする暇がない。座談、対談は生に限ると言うことか。
2001年12月9日
学会賞作品賞の審査。京都方面ということでいささか楽。地方委員は僕だけで、前回は気の毒がられたけれど、今日は別。京都の町をバスで走るとどこか違う街のように思えた。目線が高いせいか。
休みであろうと相変わらずメールは飛び交っている。岩松、遠藤両委員が頼もしい。動いているのは1~4月号同時である。2月号、3月号はもう走り出して止まらない。2月号も原稿がそろったとか。問題は4月号で前回の編集委員会以後、ふらついている。伊香賀委員ひとりにロードがかかって大変だ。ひとつの大きな問題は、総合論文集で「地球環境」がテーマになることがほぼ前提とされており、テーマの調整が必要なのである。編集委員会以降、ラインナップが変わるのは大問題だけれど、変更事項については編集長が決断せざるを得ない。調整については、地球環境委員会の村上副委員長の時間を煩わすことになった。地球環境委員会には4月号の企画にはご不満もあるらしい。しかし、とにかくテーマはわかりやすく、である。京都議定書とは何か。京都議定書によって何が変わるのか。身近に何をすればいいのか。役所の公式見解だけでは面白くない、というのが編集委員会の空気である。編集委員会には編集権がある。同じスクール、同じ顔ぶれで閉じてもらっては困る。執筆にも緊張感は必要だ。
2001年12月11日
学会情報委員会10:00~ 理事会14:00~。早朝のぞみに乗り遅れ、次のひかりで滑り込み。満席で仕方なくグリーン席をとったけれど、名古屋から立っている人がいてびっくり。東京へ朝早く新幹線を使う人はまだまだいるのか。不景気でホテル代の節約なのか。
まず情報委員会、理事会で問題となったのは、懸案の総合論文集である。その発行組織についていささか疑問があり質した。その後、若干の議論があったけれど総合論文集の発行そのものは本決まりになった。
来年の9 月号は「建築年報」特集となる。多少の頁数オーバーは、口頭だが、川田部長に認めて頂く。検討してみないと何が問題かわからないけれどなんとかなるだろう、・・・と思いきや、もう一つ難題が加わる。論文集委員会が論文のレビューを論文集に掲載することを断念、ついては建築雑誌で研究レビューを考えてくれ、という。1号だけでは研究レビューまではとても無理だろう、というのが直感である。それにしても建築年報、研究年報の時代があって、建築年報だけにしたのが20年前、作品選集、技術報告集が新たに出来て、ついに建築年報がなくなる。確実に何かが変わりつつある、と思う。
建築雑誌の比重は確実に増しつつある。一年の建築界を総括し、研究動向も総括するのである。編集長冥利につきるではないか、とやけくそで思う(内心本音でもそう思う)。研究レビューは編集委員会マターで、断ってもいい、ということだけれど、論文のレビューの必要はかねてからの僕の主張でもある。さあ困った。編集委員会の議論に委ねるしかない。
理事会で、京都景観特別研究会の中間報告に、岡崎、高田、門内先生出席。議題が盛りだくさんでうんざりのところにいささか長~い報告でやきもき。というのも、僕も研究会のメンバーなのだ。メンバーながら、提言が100項目を超えるのはどうかと思う。作業をサボっているから烏滸(おこ)がましいけれど、提言は、絶対出来る!、すぐやれること!、ここが最大のネックだ!、の3つぐらいがいいところではないか。また京都については最早提言より実践である。京都については京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動もあり、2003年ぐらいに建築雑誌でも採り上げられればいいと思う。長すぎる報告で理事の反発?がなければいいが、というのがヤキモキの理由。各支部ともそれぞれ同じような問題を抱えているのである。幸い好意的な発言が多かったように思う。それにしても、今日は京都大学の建築系教室の忘年会なのに、スタッフが4人も理事会に出席してサボっていいのかいな。
竹下理事に、では明日、と言われる。
理事会の後、小野寺さんと片寄せさんと入稿状況、打ち合わせ。
2001年12月12日
九州大学大学院で「住まいにとって豊かさとは何か・・・アジアの都市と居住モデル」と題して講演。「人間環境コロキウム」といって大学院生の自主運営で今年は「豊かさとは何か」がテーマだという。なかなかすてきな企画である。今のところ単位にはならないが、旅費宿泊費はきちんと出る。僕は二番バッターで、前回は東大の文化(観光)人類学の山下晋司先生。もともとスラウェシのトラジャ族の研究者で昔から知っている。パワーポイントにメニューを一杯持っていったけれど、時間が足りない。足りない分は懇親会でも続けた。学生たちは実にいい雰囲気だ。缶ビールがうまい。講義は相変わらず下手くそであるが、気持ちよくしゃべれた。菊地成朋先生と久しぶりに話す。委員の黒野さんとは兄弟分である。フィールド調査が手堅い。一応これでも僕は両先生の研究室の先輩なのだ。
驚いたのは助手の池添昌幸さん。なんとこの編集長日誌を読んでいるという。さすがインターネット時代である。大方の眼に触れ出すのは来年からと思っていたから、なんとなくうれしい。しかし、隅々まで読まれていて鋭い質問も受けた。ゼミ室での懇親会を終えると、場所を移した。なんと、青木正夫大先生が待っていらっしゃるというのだ。大感激である。この大先生には昔から可愛がってもらっている。などというと怒られるが、生意気な口を聞いてもにこにこされているのに甘えっぱなしだ。吉武研究室の裏話については今夜も随分聞いた。そろそろ聞き書きを残しておく必要がある。
青木先生の事務所のメイが35周年?とかで、明日は神戸大学の重村力さんが対談に来るという。そういえば二人とも、段々数が少なくなる研究をベースとするプロフェッサー・アーキテクトだ。日刊建設工業新聞の特集だという。編集者は神子久忠さん。僕の処女作『戦後建築論ノート』の編集者でもある。それは残念!というと、もう一晩泊まれ、とおっしゃる。しかし、明日は東京で用事だ。ほんとに残念!であった。
話は盛り上がってどこまでも続いた。するとそこへ竹下先生からTEL。ACB(アシベ)で待っている、ということで、全員移動。奄美大島へ行って来たと言うことで、奄美のお酒を土産にもらう。竹下先生が猛烈に忙しいことは、研究室の積み重なった書類の山を見てよ~くわかった。僕と同い年なのに院長(学部長)でもあるのだ。明日に備えて、と珍しく青木先生が席を立たれても、しばらく宴は続いたのであった。なんと、このACBという店、吉武先生もゆかりの店なのであった。
2001年12月13日
博多で眼を覚ますと、そのまま新幹線で東京へ。GA(Glass Architecture)の編集会議。京都に深夜戻る。新幹線で博多→東京→京都である。もちろん、こんなことは初めてだ。実は、飛行機は嫌いなのだ。帰ってメールを見ると特集の最後の原稿が入ったという。誰とは言わないけれど身近な先生だ。原稿はまあまあだからまあいいか。
2001年12月16日
学会賞作品賞の審査で上京、日帰り。これで三回連続で日曜がつぶれる。作品賞の審査は楽しいけれど結構大変である。行き帰りの新幹線では、18日の英語の授業City in the 21st Century :City Planning and Development :The Cities
and Housing Problems in Developing Countriesの準備。この一週間、さすがにいささか疲れる。
実は、この間の最大の問題は、紙面の問題であった。きっかけは11月号だ。土木と建築のコラボレーションの特集は、建築学会、土木学会、全く同じ内容であった。それは画期的な試みなのだが、別な問題が明らかになった。同じ内容なのに、土木学会誌はカラーで読みやすい、という。
読みやすい、というのは編集委員会でもテーマにし、検討中である。紙面で答えるしかない、というのが最初の反応である。
しかし、問題は、何故土木学会誌はカラーが可能で、建築雑誌はカラーができないのか、ということになると手に負えない。カラーじゃないほうが学会誌らしくていいじゃないか、などと思う。しかしそうも言っておられないので、知り合いの印刷屋さんに二冊を示して、それぞれ見積もりをつくってもらった。編集長も色々やることがあるものだ。見積もりが出て、事務局に送った。
それからが事務局は大変であった。カラー化への検討メモが小野寺さんから送られてきたのが11月29日だ。こちらでは判断のしようがない。週があけて、「首をかけてでもカラー化を断行する」と小野寺さんからメール。紙の質を考えて捻り出すという。えらいことになったと思うけれど後には引けないというのはよくわかる。首にならないことを祈るのみ。
2001年12月20日
第6回編集会議、京都で開催。会場は秦家(油小路仏光寺通り下ル太子山町)。年に一度は京都でやりたいと思っていて実現。編集部にとってはかえって大変なのはわかっているけれど、たまには気分を変えたほうがいい。実際、会議も懇親会も話題は微妙に違ったように思う。場所には力がある、と思う。
秦家は京都市の登録文化財にも指定されている一級の京町家である。もともと薬屋さんでファサードのデザインが小気味いい。奇應丸という薬が看板だった(奇應丸は、虚弱体質、ひきつけ、吐乳、夜泣き等に効があるとされる丸薬です。ジャコウ・ゴオウ・龍脳・オケラ・ニンジン・沈香の製剤です)。
町家を維持していくのが大変なのは隣に無粋なビルが立っているのでもよくわかる。生活しながら町家を維持するという覚悟の上に、数年前に秦めぐみさんはお母様と京料理のお店を始められた。京町家再生研究会のつてでそのことを知り、無謀を承知で教室(京都大学建築系教室)の忘年会をお願いしたことがあった。今考えても冷や汗が出る思いであるが40人近い参加があった。今回は20人ということだからなんとか、と思うのが厚かましいところ。さらに無理なお願いもしてしまった。出雲生まれの野蛮人は愛想をつかされても居直るあつかましさである。秦さんはやさしく、40人でもやれるという自信になりました、と皆さんの前ではおっしゃってくださったのだけれど、少人数で楽しむのが筋だ。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hata_ke/を見ていただきたい。
●現在の建物は、京焼け(「蛤御門の変」1864)と呼ばれた大火で焼失後明治2年に再建されたもので店舗・住居・土蔵を二つの庭がつなぐ「表屋造り」と呼ばれる典型的な京町家です。伝統的商家の趣をよく残しているとして昭和58年に店舗・玄関棟部分が京都市登録有形文化財に指定されました。
●「町家」と呼ばれる建物は商いの場として、またこれをとりまく人々の生活の場として永年の歳月を経て現代に姿をとどめています。ここで積み重ねられた暮らしは独自の生活文化を形づくってきました。ここでの暮らしぶりとは贅を尽くした雅やかなものではなく、むしろどこまでも簡素な日常です。正月・節分・節句・祇園祭・盆・彼岸と毎年季節と共にめぐってくる年中行事を変わることなく、変えることなく忠実に繰り返すことの意味の深さは歳月と共に住まうの者の心に積もっていきます。家を、物を、人を、慈しむことをこの家は教えてくれているようです。
四季折々の日誌も綴られている。
●12月8日:十二月の始めになると八百屋はんに顔を出す山田大根。普通のオダイ(大根のこと)と違うて、太短こうて寸胴な形をしてるこのオダイを塩で漬けてオクモジを作る。お正月の祝い膳、お雑煮のあとの口元をすっきりとさせてくれる爽やかなお漬けもんや。4分の1の扇のかたち、厚みは1センチほどに切ってお鉢に盛るのやけど、辞書の解説にも「くもじ」茎から漬けた菜。と書かれてるように、茎も必ず刻んで添える。さっそく、塩で漬けて重石をかけた。「うまいこと漬かるとええな」て願うて、裏の一番寒いとこに樽を置く。ほんのりと淡い黄色に色づいて、口の中ではじけるみたいな歯切れの良さと、シンと舌を刺すような酸味に出来たら上々。我が家の季節の味覚のなかでもこれほどシンプルで、まるで生きてるみたいに刻一刻味の変化する繊細な食べもんはないように思う。なんて言うても樽から出したてが美味しい。寒いのも困り者やけど、オクモジのためにはキンと冷たい空気が大事。オクモジが上手いこと漬かって、新年が気持ちよう迎えられるとええなあ。
●12月2日:おぶったん(仏壇); 座敷にある仏壇は、お光をあげるときにだけその扉を開ける。毎日は炊けたご飯をお供えする時、初物や珍しい頂き物も「そやそや、おぶったんにもあげとかな。」そう言うて扉を開ける。お坊さんの月参りの日は、朝からひとまわり大きなおざぶを置いて扉を開けてお参りを待つけど、終わるとささっと閉めてしまう。なんにも用のないのに、開けっぱなしにしとくことはない。子供の頃は、成績表、卒業証書、お誕生日のプレゼントまで、「ほれ、おぶったんへ持って行っといない」と、言われたもんやった。秋のお彼岸にはいると、我が家のおぶったんの真ん中に居ゃはる日蓮上人のおつむ(頭)に真綿帽子をかぶせるのやけど、あの頃はとにかくその姿が怖おうてしょうがなかった。「まんまんさんへお供えして、おがんでおいで。」と言われて薄暗い座敷へ一人で行く。おぶったんのなかから、ふわーと何が出てきそうに思うた。半分目をつむりながら扉を開けて、頂き物を供えるとチンチンと急いで鐘をたたいて手を合わせ、チョンとお辞儀をしたら、すっとんで居間へ戻った。戻る言うても、真横の部屋には家族の姿も声も聞こえてるのに、「なんや、そのおがみかたは!」て、よう言われた。祖父の好物やった「アチャラ漬け」がうまいこと漬かった。「そやそや、おぶったんにもあげてこう。」懐かしい人の顔が浮かぶようになったこの頃、おぶったんの前での振る舞いもいつのまにか板についてきたみたい。
この編集長日誌とえらい“品”の違いである。
ところで編集委員会は、5月号「古代世界」(仮)が主テーマである。そして6月号(「木質構造のデザイン」(仮))が議論の焦点となる筈であったが、担当委員の藤田さんが来られなかった。いささか困った。構造系ということで大崎幹事にまとめ役をお願いするが、やや畑違いという。思案のしどころだとおもったけれど、案ずるより生むが易し。黒野委員、山根委員から手が挙がった。意見を出し合って、藤田委員に伝えて頂くことにする。
5月号は淺川委員の独壇場だ。しかし、少しオムニバス過ぎはしないか、などとイチャモンつける。起源を問うことが今最先端であるようなそんなタイトルが欲しいと思う。しかし、早速動き出すということで淺川委員は大張り切りである。青井委員、勝山委員が名乗りをあげる。黒野委員にも続いて担当していただくことになった。田中琢先生のインタビューには是非僕も出席したい。インタビューは生に限る。
そして、問題となったのは建築年報特集である。
また、研究レビューである。
9月号で、20pオーバーぐらいで果たして何ができるのか?
結論は当然持ち越しとなった。
折角の京町家での会食を楽しもうと、そこそこに議論を切り上げたのが真相である。湯豆腐はわざわざ北野のお豆腐を買ってきていただいていた。何故か浅川先生だけは上機嫌で盛り上がっている。浅川先生も秦家は初めてなのだという。宴もたけなわの途中に小野田さんが駆けつけた。コンペの審査、ヒヤリングに山本理顕さんと一緒に出席したのだという。
懇親会の後は二次会である。松山さん、高島さん、新居さん、小野寺さんが泊まりだ。急遽北京出張が決まって帰らざるを得なくなった古谷先生もぎりぎりまで参加された。秦家→ピテカ→千萬樹→半分屋という暗号がこの日のスペシャル・コースであった。
2001年12月27日
文化庁の会議で上京。上京の友は、関黄野さんの『民族とは何か』(講談社新書)。関さんはなつかしい。尊敬する理論家だ。『プラトンと資本主義』『ハムレットの方へ』を興奮して読んだのを思い出す。豊橋に引っ越されたことを知る。
編集委員会終了直後から再びメール飛び交う。翌日大失態を演じたけれどそれは書かない。飛び交うメールは主として6月号をめぐっている。メール様々である。面白くなりそうだ。
前にも書いたけれどメールを使わないのは松山さんのみ。数日して松山さんから葉書を頂いた。京都での接待?の御礼であるが、その実1月号のゲラを見ての反応である。簡単に言うと、短い文章に、「はじめに」も「おわりに」も要らない、という指摘だ。確かにそう思う。限られた紙数だから、ストレートに書いて欲しい気がする。2頁だといささか物足りない気がしないでもない。
2001年12月28日
京都CDL忘年会。広原、高田、古阪、中林、松岡、岩崎、井上、山根の各先生(成安造形大学の磯野英生先生飛び入り参加)プラス運営委員会の出席で今年度総括。話題は大いに盛り上がる。京都をめぐって建築雑誌の特集いけるかもしれない。メールを覗くと、5月号のインタビュー、座談会のセットで大変だ。浅川先生、メールを飛ばしまくっている。