『建築雑誌』編集長日誌 布野修司
2002年1月
一月号が届いた! なんとなくうれしい?
浅川滋雄先生 奔走す
2002年1月2日
編集長日誌2001年12月分を送ったのは大晦日だった。気分の問題であるが年内に送って新年を迎えたかったのである。
昨日元旦は、東京から大野勝彦・高山和子夫妻と三太君が我が家へ。大野三太君は隈研吾事務所に勤める若き建築家だ。小さい頃から知っているからなつかしいやら年を感じるやら、久々の賑やかな元旦となった。
元旦、今日と意外にメールは少ない。ウイルスが飛び交うと噂されたけどそんなこともない。海外から二通、台湾中央研究院の黄蘭翔と天津・北京の孫躍新。正月からメールを読んでいるようじゃあ駄目だ、と思うけれど便利になったものだ。
編集委員会からの第一メッセージは新居照和さんからであった。暮れの編集委員会で、8月号で「インド亜大陸」を扱うのはどうか、という意見に対して早速動き出してくれたのである。
「インド亜大陸建築小特集の件ですが、サグラさん、ドーシさんに電話し、協力をお願いしました。ヴァサンティに下記の英文を作成してもらい、ドーシさんに一昨日メールでお送りしました。私達のコンタクトの中では一番力のある方なので、まずドーシさんから具体的に助言やコンタクト先を頂こうと思っています。
バブル開発と右傾化が強まってくる近年のインド、特に最近のインドの動きは残念なものですが、(荒い言い方ですが、)アメリカ帝国主義的グローバリズムに追随する西洋的視野とその属国日本が露骨にあらわれることに対し、また増大する貧困格差と地球環境時代において、文化の多様性と多様な生への賛歌が表現されたインド遺産の可能性をテーマにすることは、意味があると思います。仏教、ジャイナ、ヒンドゥー、イスラームなどの時代・文化に代表された建築空間のコスモロジー、自然への眼差し、解釈とその宇宙観、とても興味があります。建築の醍醐味でもある、時空を超えて人類の遺産として対話できる建築空間のエッセイを期待したいものです。現代建築は、やはりコルビュジエとカーン、西洋の知性をインドに移植したと言う一方的な観点ではない、そしてインドでの経験がかれらの作品群に大きな影響を与えたことを伺えるものを期待したいと思います。(ドーシさんからは最新のチャンディガールに関する講演録を頂いています。)高齢になりましたが、ドーシさんやコーレアさんがなお、インドの代表的建築家だと思いますが、現代建築を取り上げるなら、日本の文脈からすると、日本のつまらないハウジングより遥かに面白いインドの多様なハウジングをテーマに取り上げたらどうかと思います。(もっとも、ハウジング、集合住宅は別の特集でもあってもいいですね。)以上、私の考える方向ですが、先生が言われた国際的に通用する特集を、とても賛成です。各々のカテゴリーに代表するような建築のエッセイを今日の一級の歴史家、批評家、建築家に分りやすい文で書いて頂くと言うことで、まずドーシさんから紹介して頂き、建築の選択は先生方の意向を尊重しようと思います。助言等、よろしくお願いします。」
ヴァサンティというのは新居さんの奥さんでインド出身。新居さんがアーメダバードの建築大学で学んでいる時にドーシの事務所で知り合い結婚された。ドーシはコルビュジェの元で学んでチャンディガールの計画にも携わったインドを代表する近代建築家。アーメダバードと言えば、コルビュジェ、カーンの作品で知られるインドの近代建築のメッカであり、建築大学の設立もドーシさんの尽力による。コレアというのはチャールズ・コレアである。すぐ連絡とれるのがすごい。これから紆余曲折があって特集が固まるのであるが楽しみである。
2002年1月8日
朝日新聞朝刊2面「ひと」の欄にどこかで見たハンサムな顔。編集委員のひとり名古屋大学の福和伸夫先生である。「携帯振動装置「ぶるる」で防災を訴える」というのがコピー。「ぶるる」とは重さ10キロの組み立て式振動装置のことで、先生はいつも講演に持ち運ぶのだという。今年度は専攻主任とかでなかなか出席して頂けないのが残念であったが、今年はいくつかやっていただけることになっている。まずはおそらく防災特集をお考え頂くことになる。
本日から授業開始。英語の授業Cities
in 21st Century。どうもこれが終わらないと、何かが喉につかえたようで新年を迎えた気にならない。今年は、まあ、まあ気持ちよくしゃべれた?
メールでは5月号について小事件突発。思うように執筆の了解が得られないのだ。強気の浅川先生が頭を抱えているのが面白い!?
6月号の方は、藤田香織委員を中心に黒野、山根、大崎委員の間で順調に議論が続いている。次回には決定できそうだ。
夕方、ひょっこり、山本理顕さんが研究室に。山本理顕さんとは大学院の学生時代からの、従ってデビュー以前からの、長~いつき合いだ。東洋大学では一緒に設計製図をみた。太田邦夫委員会では同じ編集委員であった。最終の新幹線で横浜に帰れればいい、という。当然のように、ちょっとだけ新年会、ということになった。そう話している間にも、伊東豊雄さんから理顕さんの携帯に通話が二度三度入る。明日の都市基盤整備公団との仕事の打ち合わせという。と不況なのに、さすがに売れっ子は忙しくててんてこ舞いの様子だ。「東雲(しののめ)」で2000戸のかなり思い切ったプロジェクトが着工間近なのだ。ほぼ解体が決定しつつある都市基盤整備公団、明日の日本の住宅をめぐっては議論すべきことは多い。竹山研究室、高松研究室の学生たちもぞろぞろと参加。10人ぐらいのちょっとしたパーティーになった。
2002年1月9日
田中琢先生インタビュー。浅川先生、勝山委員と近鉄西大寺駅で待ち合わせて、奈文研の西山さんの運転で先生のお宅に伺う。西山さんは録音と撮影の役をかって出て下さった。
田中先生とは初対面であるが、こちとらよ~く知っている。こうみえても考古学マニアなのだ。出雲主義者である。先生の本には大体眼を通しているし、浅川先生からも尊敬する大先生であることを度々聞かされていたから初対面のような気がしない。たまたま自宅の本棚にあった岩波新書を一冊ポケットに入れて、京都から奈良までの間にざっと眼を通した。奈良文化財研究所の所長の時にまとめられた、浅川先生も一節書いている『古都発掘』(1995)だ。佐原真さんとの編著『考古学の散歩道』『発掘を科学する』ももちろん読んでいる。藤原京と平城京の発掘状況をざっと思い起こした。それにしても考古学は日進月歩である。富本銭は、この本の段階ではまだ厭勝(えんしょう)銭(魔除け招福用)という位置づけだったが、先頃の大量発掘で通貨として使われていたことは間違いなさそうだ。
田中琢先生は定年退官されると、全ての文献を寄贈されて引退を宣言、悠々自適の生活に入られた。年寄りがしゃしゃり出て後進の道をふさいではあかん、という。浅川先生によると、同じ趣旨を掲げて60歳で自殺した考古学者ゴードン・チャイルドに倣う、のだという。その先生を引っ張り出そうというのだから、浅川先生も相当なものだが、インタビューを受けて頂いた先生には感謝の言葉もない。よほどの師弟関係が推察されたが、事実、肝胆相照らす師弟のように思えた。
インタビューのテーマはズバリこうだ。
●縄文都市、弥生都市というのはありうるのか。都市とは何か。日本の都市の始まりをどう考えるのか。
●当然話題は考古学と建築史の関係に及ぶであろう。そして遺跡整備のあり方にも及ぶであろう。
浅川先生は昨年11月末に出たばかりの小泉龍人著『都市誕生の考古学』(同成社)を持参、やる気満々である。小泉先生にも特集には参加願う予定だ。その著書の冒頭にもチャイルドの『都市革命』(The Urban Revolution)が引かれている。チャイルドは、1規模、2居住者層、3租税、4記念建造物、5支配階級、6文字、7科学技術、8芸術、9長距離交易、10」専門工人を都市の定義として挙げている。余剰説、神殿説、防御説、そして権力説、都市の起源をめぐって諸説はあるが、西アジアの都市モデルは果たしてアジア全域において通用するのか、大きなテーマである。
昨晩作ったという浅川先生の質問メモは多岐にわたるというより、この大家かから大きな志と初心のようなものをストレートに引き出したい、という意欲に溢れたものであった。
あっという間に時間は過ぎた。僕も勝山さんも楽しく口を挟んだ。ご迷惑を考えてお暇しようとすると、雑談していけ!、でしばしまた話が弾んだ。
先生の家を辞した後、浅川先生、折角東京から足を運んでくださったからと勝山さんを東院庭園と朱雀門へ案内。もちろん、便乗。名解説を楽しむ。掃除をしていたおじちゃん、おばちゃんから浅川先生は親しげに声をかけられる。その後、ちょっと時間は早いけど、と三人で編集会議兼新年会。
2002年1月15日
京都の「環境市民」の公開講座に呼ばれて「本当に豊かな住まいとは-共に生きる・自由に生きる-」と題して話す。「環境市民」は、滋賀、東海にも拠点をもつNPOである。「持続可能なコミュニティへの提案・・・各地の取組から考える」の第4回、会場は旧有隣小学校で京のアジェンダ21フォーラム会議室。京都は小学校の統廃合の後、再利用計画を待っている小学校がいくつかあるがそのひとつで、今はいくつかの団体が使用している。環境市民エコシティー研究会に風岡宗人さんという若き実践家がいて頼もしい。京都CDLとも連携しましょう、ということになった。
2002年1月17日
第7回編集委員会。5月号特集に絡んで大室幹雄『劇場都市』を新幹線の中で読み直し始めた。この際、全部読もうと『滑稽』『正名と狂言』『パノラマの帝国』『干潟幻想』『園林都市』など発注。昨秋は宮崎市定全集24巻を斜めに読んだ。今年は中国の歴史にはまり込みそうである。
編集委員会は軌道に乗りだした。しかし、時間は足りない。というより時間の配分が難しい。重要な点のみ確認して、後は懇親会とメール会議というスタイルだけれど、今回も常設欄と建築年報(9月号)の議論が突っ込んでできなかった。司会する僕のせいだ。
今回の議論のメインは6月号「木質構造デザインの可能性」(仮)である。6月号の議論の前に5月号が「都市と都市以前----アジア古代の集住構造」(仮)となったことを報告、了承を求めた。建築遺産の復元をめぐっては掘り下げるべき問題が少なくない。しかし、今回はいささか準備不足、力不足ということである。その分特集テーマはすっきりしたと思う。
6月号は、小特集24頁の月であり、メール会議でほぼ煮詰まっていたのでそう問題はなかったが、かなり時間をつかった。実は、企画の議論において新しく知ることも多い。それが会議や懇親会の意義であり、メールのみでは埋めようのない場の経験である。木造建築の動きにはそれなりに通じているつもりであったが、免震木造など知らなかった。
続いて7月号「室内空気汚染問題の今」(仮)を議論、まとめに向かって先は見えた。8月号「インド亜大陸建築」(仮)は新居さんの想いが果てしなくとても頁数に収まりそうにない。
1月号が間に合うかどうか、実は、気になっていた。しかし、小野寺さん、片寄さんに「どうですか」と連絡するのもプレッシャーをかけるようで躊躇われていたのである。驚いたことに、まだ印刷屋には・・・と言われて真っ青になる。しかし、二人はどこか超然としている。まあ、なるようになる、と思うしかない。
懇親会は浅川先生と伊藤圭子さんが超元気。
2002年1月20日
日曜日。京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動の一環として『京都げのむ』の企画で京都の歴史的、現代的問題物件を視て歩くという。京都タワー、京都駅ビル、和風迎賓館、京都ホテル、御池葬祭場、中京マンションなど、議論されつつある、また、議論の末出来た建築が実際どうなのか、この眼で確かめようという企画だ。思惑があって便乗参加した。
京都タワーに登って京都のまちを俯瞰するのは何度目かだけれど、ますます町家の家並みは少なくなりつつあった。そして暗然とするのは展示の陳腐化であり、タワービルの荒廃(と見えた)であった。
京都駅ビルの調査はスキップして、単独で歩き出した。京都の市街を描いた最古の地図と言われる『都記』に従って、そこに描かれた京都の範囲(境界)を歩いて確認しようというのが思惑である。最近、本居宣長の「在京日記」などを集めた『史料・京都見聞記』全5巻を読んでいて無性に追体験したい気分なのである。
七条通りから歩き始めて渉成園(枳殻邸)の前を通る。間之町通りが『都記』の東の境界である。『都記』には渉成園(1653年)は描かれていないのである。また、二条城に本丸がないから、そしてまだ六条に「けいせい(傾城)町」が書かれているから、『都記』は17世紀中葉以前の制作とされる。
北野天満宮の前身とも言われる文子天満宮前を通った後、東洞院通りを北上すると仏光寺に至る。仏光寺を確認して、『都記』の東境界を歩いた。何のこともない。秀吉が諸寺を集めて防御の楯とした寺町通りを北上することになる。ご存じだろうか。寺町通りの四条以南は今、東京で言えば秋葉原、最先端の電気屋街、コンピューター用品というと出掛けるところである。IT関連の店の間に寺があるのがなんとも面白い。残っている寺を確認しながら、ひたすら歩く。
さすがに京都である。坂本龍馬遭難の場所、新島襄の旧宅、紫式部が源氏物語を書いた寺、・・・猥雑な現代都市の表層を一皮めくれば至る所に歴史の痕跡がある。途中に京都市立歴史博物館があって、なんとまあ京都の地図展を開催中。じっくり見て回る。
問題物件見学をいつのまにか忘れてしまって、気がつけば下鴨神社であった。中村昌生先生による方丈庵の復元など見る。その後、勢いにまかせて家まで歩いてしまった。京都は歩ける町である、というのが実感。
2002年1月22日
昨日、色刷り校正が届く。思ったより上品な仕上がりだと思う。経緯は以前書いた通りである。果たして諸先輩の反応は如何。
サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)の2002年第一回フォーラム「ファサード・エンジニアリングを支えるガラス工事のスペシャリスト」(於:日刊建設通信新聞社)のために上京。講師は、内木弘一(株式会社内木硝子商会・社長)、 大崎一郎(同社 工事部)、横田暉生(横田外装研究室・主宰)、古阪秀(京都大学 CM協会会長)の4人、司会は理事長安藤正雄(千葉大学)という布陣。超高層がその重要な部分をガラス工事業のスペシャリストの創意工夫に負っていることを知る。驚いたのは、ガラスが割れるということが想定されていないことである。
2002年1月27日
日曜日であるにも関わらず、というより日曜日にしか予定が合わず、国立民族学博物館にて佐藤浩司先生オルガナイズによる「マイホームのパースペクティブ:空間のあらたな共有性へ向けて」研究会。
佐藤君とも長~い東南アジア研究のつき合い。10年前には一緒にロンボク島(インドネシア)を調査したことがある。東南アジアの民家研究にどっぷりつかっていると思いきや、最近は韓国の現代住居の問題に集中、韓日共同開催「2002年ソウルスタイル」(3月21日~7月16日、国立民族学博物館)を組織した。なんと、ソウルの李さん一家の所有するもの全てを買い上げて展示する仰天プロジェクトである。
そして、その問題意識の延長がこの研究会である。日本の住まいは、そして日本の家族はどうなっていくのか、がテーマだ。研究会メンバーは、鷲田清一(哲学)西川祐子、落合恵美子(家族論)、宮台真司(社会学)、香山リカ(精神医学)等々そうそうたるメンバーだ。建築畑からは佐藤、布野の他、山本理顕、隈研吾、井上章一が参加する。また、若い栗原、清水の両君がいる。この日は、隈君とゲストとして三浦展さんがしゃべった。三浦さんとも旧知の仲だ。シンポジウムで同席したことがある。新著『マイホームレス・チャイルド』をひっさげて紹介する若者風俗の最先端が新鮮だった。いわゆるコギャルが誕生したのが1993年、ジベタリアンの出現は1995年だという。
こうしたインタージャンルの研究は頭のリフレッシュには実にいい。刺激的である。そして、建築の世界が閉じている、分かられていない、ということを痛感させられる。日本の家族はどうなるのか、日本の住宅はどうなるのか、は、建築家にとっては大きな問題である。住宅研究の根拠を問うためにも『建築雑誌』の特集テーマとしてもいい、と考え始めている。
2002年1月28日
『建築雑誌』1月号が届いた。なんとなく、うれしい。
2002年1月30日
浅川さんから27日の座談会の報告。うまくいったらしい。問題は頁数におさまるかどうかである。まあ、編集委員がまず楽しい、興奮する、のが第一である。
「昨日の討論会は、わたしはとても楽しかった。小野寺さんは時間が長くて、はらはらされたことでしょうね・・・ナトーフ文化(旧石器終末)からマケドニアまでいきましたからね・・・・・ 2月7日もおもしろくなるだろう、とわくわくしています。中国に関しては、岡村くんと小生がいるので、なんら問題なし。応地先生には南アジアに集中していただき、その上で中国と比較するようにしたいと思います。」
浅川先生は、この間、鳥取での茅葺き民家の保存でも悪戦苦闘、八面六臂の大活躍である。
口が滑らかになった勢いで誌面構成についても注文。
誌面については編集委員の中にも意見はいろいろあるあるだろう。何しろ全員初めてみたのである。
早速、全員にメールを打った。
編集委員各位
1. 1月号はお手元に届いたと思います。如何でしょうか。感想をお寄せ下さい。
特にアートディレクション、装幀については既に次号以降が進行中です。
鈴木一誌さんも忌憚のない意見を聞きたいと言うことです。
多数決で決める性質のものではありませんのでどしどしご意見を編集部宛お送り下さい。
次回にもご意見をお伺いしますが、早いほうがいいと思います。
2. 編集委員会は軌道に乗ったと思いますが、まだ議論の時間は若干不足気味です。
刊行を早めるためにはさらにペースを挙げる必要があります。
新しい形式が必要とされている、 建築年報9月号について意見下さい。 また、
2001年度の建築界について取り上げるべき出来事、作品、活動、・・・・・を挙げて下さい。
各分野についてキーワードをリストアップ下さい。
3. 特集テーマについて
2.の作業の上、各委員、再度、提案下さい。
以上、年度末へ向けて忙しいとは思いますが、よろしくお願いいたします。