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2024年5月11日土曜日

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布野修司 Shuji Funo
チンパンジーとホモ・サピエンスのDNAはわずか1.6% しか違わないが,チンパンジーは一定の住居を造ることはない。樹上に樹木の枝や葉を使って巣を造るが,毎晩場所を変えて造り直す。基本的には自然を棲家としている。建築する能力、空間を創り出す能力はホモ・サピエンスのみが獲得した能力である。

巣をつくる生物は,モグラ,ホリネズミなどの哺乳類の他,両生類,魚類,爬虫類,鳥類をはじめ,昆虫,蜘蛛,ウニ,甲殻類など多数にのぼる。しかし,ホモ・サピエンス以外の生物の巣作りは、遺伝子によってプログラム化されており,その経験をもとに、新たな建築空間形式を創り出すことはない。

建築する能力すなわち人工的に空間を創り出す能力は,ヒト科Hominidaeの進化の過程で,ホモ・サピエンスのみが獲得した能力である。建築する能力とは,予め空間をイメージする能力,二次元の図面(絵,表象)として表現する能力,世界を抽象する能力である。

ユヴァル・ノア・ハラリは、ホモ・サピエンスのみが獲得した能力として,コミュニケーション能力,すなわち言語の発明 ,記憶する能力,学習する能力,とりわけ,虚構すなわち架空の事物について語る能力,単に物事を想像するだけではなく集団で虚構を共有する能力を挙げ、「認知革命」という。

ヒト上科がオナガザルと分岐したのは2800~2400(3800~2500)万年前,ヒト科がテナガザルと分岐したのは2000~1600年前,ヒト亜科がオランウータン と分岐したのは約1600~1400万年前,ヒト族がゴリラと分岐したのが約1000万年前,ヒト亜族とチンパンジーが分岐したのは約700万年前とされている。

何故、ホモ・サピエンスの起源を問うのか?その関心の中心は、芸術や創造、言語、虚構の能力の起源ではなく、それを成立させた集団のあり方である。ホモ・サピエンスの家族と共同体は異なる編制原理をもっている。ゴリラもチンパンジーもホモ・サピエンスのような重層的社会をつくらないのである。



何故、ホモ・サピエンスの起源について改めて考えだしたのか?先日のLocal Knowledgeで山本理顕vs山極壽一対談を聴いたのが大きい。サルは基本的に母系で群れを一生離れることはない。オスが群れを出入りする。対してオラヌータン・ゴリラ・チンパンジーはメスが群れを出て、子育てはオスにまかせる。

30万~20年前に誕生したとされるホモ・サピエンスであるが、「認知革命」が起こったとされるのは7万年前から3万年前にかけてである。何が起こったのか?突然変異説も有力だが、20万年ほどのタイムラグは謎である。そもそも250万年前に分岐したとされるホモ属の脳が急速に拡大していったのも謎という。


山極壽一『家族の起源 父性の登場』『家族進化論』『共感革命 社交する人類の進化と未来』などで一貫して指摘するのは、脳の拡大が先で認知革命(言語の発明)まで30万年近くあること、認知革命の前に非言語コミュニケーション「共感革命」があること、脳の拡大には集団規模の拡大があることである。

山極壽一:群れのサイズが増えると付き合う仲間の数が増える。仲間の行為や自分との関係を記憶しておかないと的確な振る舞いができない。ホモ属の脳はすなわち社会脳ということだ。ゴリラだと10~20、われわれホモ・サピエンス脳容積だと集団規模は150人となる。これは採集狩猟民の村の規模に当たる。

山極壽一:10~15人の集団は共鳴集団であり、言葉はいらない。サッカー、ラグビーの試合では言葉で意思を伝える時間はない。30~50人は学校のクラスだ。誰もが顔を知っていて、担任や級長は全員を把握できる。100~150人は、リストをみなくても顔が思い浮かぶ人数だ。まず家族という共鳴集団があり・・

山極壽一:我々はまず家族という共鳴集団をもっている。家族は見返りを求めない互いに奉仕しあう集団であり、その家族が複数集まって150人ほどの共同体をつくる。共同体はそれぞれのルールに基づいて役割を定め、その行為に応じて見返りを付与する互酬的な関係を保つ。→コミュニティ形成の基本原理。

山極壽一:家族と共同体は編制原理が違う。双方を共存させるのがホモ・サピエンスの高い共感力であり、地域共同体は音楽的コミュニケーションによってつながった集団。祭り、イベント、地域特有の歌を歌い、同じような服を着て、同じ食事を採る、脳ではなく、身体的に衣食住を共にすることで同調する。














2024年5月10日金曜日

2022年上半期読書アンケート,図書新聞, 3553号,2022年7月30日

読書アンケート 2022年上半期

布野修司

 

❶稲村哲也・山極壽一・清水展・阿部健一編『レジリエンス人類史』京都大学学術出版会20223月❷秋吉浩気『メタアーキテクトー次世代のための建築』スペルプラーツ20223月❸アラップ+日経アーキテクチャー『ARUPの仕事論 世界の建築エンジニアリング集団』日経BP2022年1月❹水田恒樹『産業革命の原景 英国の水車集落から米国の水力工業都市へ』法政大学出版局20225月❺小川格『日本の近代建築ベスト50』新潮新書20221

❶は、わが国を代表する知性たちによる人類と地球の歴史とその未来についての論考である。全体は25章からなるが、もとより単なる論集ではない。徹底した議論が基になっており(QRコードでその総合討論・座談会も読むことができる)、人類史を5つのPhaseに分け、主概念レジリエンス(危機を生きぬく知)について3つのキー・コンセプトが立てられている。「人新世」の転換を展望するのはPhaseⅤの5本の論考である。❷は久々に現れた建築理論書である。小冊子であるが、ShopBotという木材加工機を手に入れて以降の各種木工品、家具、そして建築への実践活動の展開をもとに、これまでの建築家の試みを含み込む建築の生産流通消費の壮大な理論が組み立てられようとしている。今後の展開が楽しみである。❸は、世界を股にかける建築エンジニアリング集団ARUP東京事務所の仕事。❷と❸に大きな位相の差異はない。❹は、産業革命の原点を問う。R.オウエンのニューラナークの実態がよくわかる。❺はヴェテラン建築編集者による日本の近代建築ガイド。若い世代には最早知られない建築家も多いか?(建築批評)




 

2024年5月9日木曜日

ソウェトのブリキの家,建築雑誌,199903

 ソウェトのブリキの家,建築雑誌,199903

 ソウェトのブリキの家   

 南アフリカ ジョハネスバーグ


 布野修司

  もう二〇年近くアジアの大都市を歩いてきたから少々の「スラム」には驚かない。が、ソウェトにはちょっと驚いた。見渡す限り一面がブリキの小屋の海なのである。

 ソウェトは1976年の暴動で知られる南アフリカで最も有名な黒人居住区だ。跡形もなくクリアランスされたケープ・タウンのディストリクト・シックスとともにアパルトヘイト体制の象徴である。ソウェトとはサウス・ウエスト・タウンシップの略だ。ジョハネスバーグの南西に位置するひとつの区である。区といっても総面積は東京の山手線の内側の広さがある。人口は300万人を超える。想像してみて欲しい。その大半が小さなコンテナのようなブリキの家に住んでいるのだ。

 もちろん、いくつかの住居タイプがある。ブリキの箱の次に目立つのはホステルと呼ばれる長屋である。農村からの出稼ぎを吸収する単身用宿舎で女性用、男性用と分かれている。さらに公営住宅がある。平屋の二戸一(セミ・デタッチト)の形態が多い。マンデラ大統領の生家もそうした中にある。今や名所で、前に土産物屋が出来たりしている。

 どこでもこうした「スラム」の家の建設資材は廃棄物、廃材である。中には住宅部品(例えば壁パネル)が「新品」として売られていたりはする。需要を考えればそうした商売は充分成り立つのである。しかし、大半の家族は廃棄物しか調達できないのが現実だ。

 何故、こうした廃棄物の家が僕らをひきつけるのか。単に工業用に大量生産されたものを住宅に使えば安くなる、というだけではない。廃棄物を有効利用するといった観点からのみ注目されるのではないであろう。産業社会において失格し、廃棄された、いわば死亡宣告されたものたちが再生していく、そんな夢の物語をそこに感じるからではないか。

 マンデラ以降猛烈な勢いで南アフリカ都市は変貌しつつある。ソウェトがどう変わるのかは実に興味深いと思う。



 

2024年5月6日月曜日

身近なディテールからータウンアーキテクトの役割と可能性,造景,200101

 身近なディテールから・・・・タウンアーキテクトの役割と可能性

布野修司

 

 「タウンアーキテクト」のあり方をめぐって『裸の建築家---タウンアーキテクト論序説』*1(以下『序説』)を書いた。少しづつだけれど反応を得つつある。まず、授業でテキストにして読んで大量のレポートを頂いた。若い学生諸君の反応は、一理ある、というところであろうか*2。ヨーロッパでは、「建築家」が都市計画を行うのは当然だ、という英国人学生のコメントが特に印象的だった。また、京都市の技術系職員を前に「タウン・プランナー(アーキテクト)としての役割」と題して講演する機会も与えられた*3。自治体の職員も、種々の構造改革の過程で、その存在意義を問われている。さらに、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)*4でも、職人の地域ネットワークの再構築と「タウンアーキテクト」の連携がテーマになりつつある。『序説』の最後に「地区アーキテクト」の具体的イメージとして提出した「京都コミュニティ・デザイン・リーグ」(仮称)の準備も序々に進みいよいよ2001年から始動する予定だ。

 もちろん、全てもっともだ、という反応だけではない。『序説』に描かれた「タウンアーキテクト」の像はあまりにエリート的だ、という批判もある。いくつかのイメージは鏤められているけれど、具体的にはよくわからないという指摘もある。「タウンアーキテクトの役割と可能性」をめぐって、今少し具体的に考えてみたい。

 

 「タウンアーキテクト」とは

 「タウンアーキテクト」とは、直訳すれば「まちの建築家」である。幾分ニュアンスを込めると、「まちづくり」を担う専門家が「タウンアーキテクト」である。とにかく、それぞれのまちの「まちづくり」に様々に関わる「建築家」たちを「タウンアーキテクト」と呼ぼう。

 「まちづくり」は本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体が「まちづくり」の主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。『序説』で考えたように、いくつか問題があるが、地域住民の意向を的確に捉えた「まちづくり」を展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民の「まちづくり」を媒介する役割を果たすことを期待されるのが「タウンアーキテクト」である。

 何も全く新たな職能というわけではない。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、「タウンアーキテクト」は、そのまちに密着した存在と考えたい。必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちの「まちづくり」に継続的に関わるのが原則である。そういう意味では、「コミュニティ・アーキテクト」といってもいいかもしれない。「地域社会の建築家」である。

  「建築家」は、基本的には施主の代弁者である。しかし、同時に施主と施工者(建設業者)の間にあって、第三者として相互の利害調整を行う役割がある。医者、弁護士などとともにプロフェッションとされるのは、命、財産に関わる職能だからである。その根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。また、市民社会の論理である。同様に「タウンアーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」の代弁者であるが、地域べったり(その利益のみを代弁する)ではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体の間の調整を行う役割をももつ。

 「タウンアーキテクト」を一般的に規定すれば以下のようになる。

 ①「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」を推進する仕組みや場の提案者であり、実践者である。「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の仕掛け人(オルガナイザー(組織者))であり、アジテーター(主唱者)であり、コーディネーター(調整者)であり、アドヴォケイター(代弁者))である。

 ②「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の全般に関わる。従って、「建築家」(建築士)である必要は必ずしもない。本来、自治体の首長こそ「タウンアーキテクト」と呼ばれるべきである。

 ③ここで具体的に考えるのは「空間計画」(都市計画)の分野だ。とりあえず、フィジカルな「まちのかたち」に関わるのが「タウンアーキテクト」である。こうした限定にまず問題がある。「まちづくり」のハードとソフトは切り離せない。空間の運営、維持管理の仕組みこそが問題である。しかし、「まちづくり」の質は最終的には「まちのかたち」に表現される。その表現、まちの景観に責任をもつのが「タウンアーキテクト」である。

 ④もちろん、誰もが「建築家」であり、「タウンアーキテクト」でありうる。身近な環境の全てに「建築家」は関わっている。どういう住宅を建てるか(選択するか)が「建築家」の仕事であれば、誰でも「建築家」なのである。また、「建築家」こそ「タウンアーキテクト」としての役割を果たすべきである、という思いがある。様々な条件をまとめあげ、それを空間的に表現するトレーニングを受け、その能力に優れているのが「建築家」だからである。

 

  何故、「タウンアーキテクト」か

 「まちづくり」の仕組みとして、「タウンアーキテクト」のような存在が必要とされる一方、「建築家」の方にも「タウンアーキテクト」たるべき理由がある。「建築家」こそ「まちづくり」に積極的に関わるべきなのである。

 第一に、建てては壊す(スクラップ・アンド・ビルド)時代は終わった、ということがある。21世紀は、ストックの時代だ。地球環境全体の限界が、エネルギー問題、資源問題、食糧問題として意識される中で、建築も無闇に壊すわけにはいかなくなる。既存の建築資源、建築遺産を可能な限り有効活用するのが時代の流れである。新たに建てるよりも、再活用したり、維持管理することの重要度が増すのは明らかである。

 具体的にデータを出そう。1997年の日本の建設投資の名目国民総生産(GDP)に占める割合は、14.8%である*5。かつては20%にも及んだことがあるが、建設投資は一貫して減りつつある。農業国家から土建国家に戦後日本は変貌を遂げて来たが、さらなる産業構造の転換は不可避である。公共事業見直し、IT(情報技術)革命へ、というのが時の政府のスローガンである。同じ1997年、米国の建設投資は74.2兆円、日本(74.6兆円)と同じであるが、対GDP比は7.6%にすぎない。ヨーロッパになるとさらに建設投資は少ない。英国が4.3%、フランスが4.5%である。

 木造を主体としてきた日本と石造の欧米とは事情は異にするとは言え、日本がほぼ先進諸国の道を辿っていくのは間違いないであろう。乱暴な議論であるが、日本の建設投資が米国並みになるとすれば、「建築家」の数は半分になってもおかしくない。英、仏並みだと1/3以下になってもいい。日本の「建築家」はその存続を問われているのである。

 少なくとも、日本の「建築家」はその仕事の内容、役割を代えていかざるを得ないであろう。ふたつの方向が考えられる。ひとつは、建物の増改築、改修、維持管理を主体としていく方向である。そして、もうひとつが「まちづくり」である。ふたつの方向はほぼ同じだ。とにかく、「建築家」はただ建てればいい、という時代ではなくなった。どのような建築をつくればいいのか、当初から地域と関わりを持つことを求められ、建てた後もその維持管理に責任を持たねばならない。いずれにせよ、「建築家」はその存在根拠を地域との関係に求められる。だから「タウンアーキテクト」なのである。

 

 日本の「タウンアーキテクト」

 『序説』では、「タウンアーキテクト」の原型となるイメージを思いつくまま列挙した。「建築主事」「デザイン・コーディネーター」「コミッショナー・システム」「マスター・アーキテクト」「インスペクター」などである。いくつかのレヴェルに分けてみたい。

 ①建築士

 日本の「タウンアーキテクト」の具体的存在形態を考える上でベースとするのが建築士である。日本には約30万人の一級建築士、約60万人の二級建築士、約1万3000人の木造建築士が存在する。その組織体としての建築士事務所は合わせて約13万社ある。もちろん、建築士に限定する必要はないけれど、まず念頭に置くのは建築士100万人、15万チーム程度の組織である。各都道府県毎の数字にはかなりのばらつきがあるが、各地域地域をそれぞれが拠点とするのが基本的イメージである。

 単にあるまちで建築の仕事をしているというだけではなく、地域の活動にも積極的に関わる。また、地域環境の維持管理について責任をもつ。かって、大工さんや各種の職人さんは身近にいて、家を直したり、植木の手入れをしたり、という本来の仕事だけではなく、近所の様々な相談を受けるそういう存在であった。その延長というわけにはいかないけれど、その現代的蘇生が「タウンアーキテクト」である。 

 ②地域職人ネットワーク

 地域環境の維持管理については、例えば具体的に、住宅の増改築、補修などを行うために、職人さんとの連携が不可欠となる。①②を合わせたチームが「タウンアーキテクト」の原点である。広原盛明の「ハウスドクター」、大野勝彦の「地域住宅工房」など、いくつかの理念が既に提出されている。「京町家作事組」など活動事例もある。

 ③建築主事

 そもそもの発想において「タウンアーキテクト」の原型となるのは「建築主事」(建築基準法第4条に規定される、都道府県、特定の市町村および特別区の長の任命を受けた者)である。全国の自治体、土木事務所、特定行政庁に、約一七〇〇名の建築主事がいて、建築確認業務に従事している。建築確認行政は基本的にはコントロール行政であり、取り締まり行政である。建築基準法に基づいて、確認申請の書類を法に照らしてチェックするのが建築主事の仕事である。しかし、そうした建築確認行政が豊かな都市景観の創出に寄与してきたのか、というとそうは言えない。「タウンアーキテクト」構想の出発点はここである。

 建築主事が「タウンアーキテクト」になればいいのではないか、これが誰もが考える答えである。全国で二千人程度の、あるいは全市町村三六〇〇人程度のすぐれた「タウンアーキテクト」がいて、デザイン指導すれば、相当町並みは違ってくるのではないか。

 しかし、そうはいかないという。デザイン指導に法的根拠がないということもあるが、そもそも、人材がいないという。建築主事さんは、法律や制度には強いかもしれないけれど、どちらかというとデザインには弱いという。もしそうだとするなら、地域の「建築家」が手伝う形を考えればいいのではないか。第二の答えである。

 ④建築コミッショナー

 建築主事を積極的に「タウンアーキテクト」として考える場合、いくつかの形態が考えられる。欧米の「タウンアーキテクト」制がまず思い浮かぶ。最も権限をもつケースだと「建築市(町村)長」置く例がある。一般的には、何人かの建築家からなる委員会が任に当たる。建築コミッショナー・システムである。

 日本にもいくつか事例がある。「熊本アートポリス」「クリエイティブ・タウン・岡山(CTO)」「富山町の顔づくりプロジェクト」などにおけるコミッショナー・システムである。ただ、いずれも限られた公共建築の設計者選定の仕組みにすぎない。むしろ近いのは「都市計画審議会」「建築審議会」「景観審議会」といった審議会である。それらには、本来、「タウンアーキテクト」としての役割がある。地方分権一括法案以降、市町村の権限を認める「都市計画審議会」には大いに期待すべきかもしれない。しかし、審議会システムが単に形式的な手続き機関に堕しているのであれば、別の仕組みを考える必要がある。

 ⑤地区アーキテクト

 しかしいずれにしろ、一人のコミショナー、ひとつのコミッティーが自治体全体に責任を負うには限界がある。「タウンアーキテクト」はコミュニティ単位、地区単位で考える必要がある。あるいは、プロジェクト単位で「タウンアーキテクト」の派遣を考える必要がある。この場合、自治体とコミュニティの双方から依頼を受ける形が考えられる。

 具体的には、各種アドヴァイザー制度、「まちづくり協議会」方式、「コンサルタント派遣」制度として展開されているところである。

 

  「タウンアーキテクト」の仕事

 「タウンアーキテクト」は具体的に何を仕事とするのか。『序説』では、「タウンウォッチング」「百年計画」「公開ヒヤリング」・・・等々各地域で試みられたら面白いであろう手法を思いつくまま列挙している。しかし、そこでの議論は、建築コミッショナー(④)としての「タウンアーキテクト」の役割に集中しすぎている。やはりベースとすべきは、身近な仕事において、また具体的な地区で何ができるかであろう。

 「タウンアーキテクト」制をひとつの制度として構想してみることはできる。建築コミッショナー制を導入するのであれば、権限と報酬の設定、任期と任期中の自治体内での業務禁止は前提とされなければならない。

 地区アーキテクト制を実施するためには自治体の支援が不可欠である。地区アーキテクトは、個々の建築設計のアドヴァイザーを行う。住宅相談から設計者を紹介する、そうした試みは様々になされている。また、景観アドヴァイザー、あるいは景観モニターといった制度も考えられる。具体的な計画の実施となると、様々な権利関係の調整が必要となる。そうした意味では、「タウンアーキテクト」は、単にデザインする能力だけでなく、法律や収支計画にも通じていなければならない。また、住民、権利者の調整役を務めなければならない。一番近いイメージは再開発コーディネーターである。

 しかし、制度のみを議論しても始まらない。地域毎に固有の「まちづくり」を期待するのであれば一律の制度はむしろ有害かもしれない。どんな小さなプロジェクトであれ、具体的な事例に学ぶことが先行さるべきである。

 まずは、①身近なディテールから、というのが指針である。また、②持続、が必要である。単発のイヴェントでは弱い。そして持続のためには、③地域社会のコンセンサス、が必要である。合意形成のためには、④参加、が必要であり、⑤情報公開が不可欠である。

 「まちにコモンスペースを設計しよう」というスローガンは、そうした意味で「タウンアーキテクト」の大きな指針である。一戸の住宅を設計する場合にも相隣関係は常に問われる。一戸が二戸になる共有化されたルールが「まちづくり」の原点である。また、公と私の中間領域、共領域を創出するのが「まちづくり」の出発点である。

 

 京都コミュニティ・デザイン・リーグ(仮称)

 地区アーキテクト制のシミュレーションとしてのひとつの試みが京都コミュニティ・デザイン・リーグ構想である。

 京都に拠点を置く大学・専門学校などの建築、都市計画、デザイン系の研究室が母胎となる。研究室を主体とするのは、持続性が期待できるからである。研究室は、それぞれ京都のある地区を担当する。地区は、地区割会議によって可能な限り京都全域がカヴァーできることが望ましい。各研究室は、年に一日(春)、担当地区を歩き一定のフォーマット(写真、地図、ヴィデオ等々による地区カルテの作成)で記録する。そして、各研究室は、一日(秋)集い、各地区について様々な問題(変化)を報告する。以上、年に最低二日、京都について共通の作業をする、というのが、提案だ。

 各研究室は担当地区について様々なプロジェクト提案を行ってもいい。地区の人たちと様々な関係ができれば実際の設計の仕事も来るかもしれない。それぞれに年一回の報告会で、提案内容を競えばいい。ただ、持続的に地区を記録するのはノルマだ。できたら、記録をストックしておくセンターが欲しい。

 煮詰まりつつある運営イメージは以下のようだ。

 ①参加チーム 基本的には大学の研究室もしくはそれに準ずるグループを一チームとする。個人、あるいは設計事務所、コンサルタント事務所などあらゆるグループに門戸は開かれるが、継続的参加が条件となる。 ②参加チームの構成 参加チームは代表(監督)と幹事(コーチ)およびCD(コミュニティ・デザイナー選手)からなる。CDについては必ずしも大学(組織)にとらわれることなく自由に編成していい。

 ③参加チームの仕事(タウン・ウォッチング 地区カルテの作製):参加チームは原則として2地区担当する。

  A 地区カルテの作製:担当地区について年に一回調査を行い記録する。共通のフォーマットを用いる。例えば、1/2500の白地図に建物の種類、構造、階数、その他を記入し、写真撮影を行う。また、地区の問題点などを1枚にまとめる。GISなどの利用によって、各チームが共有して比較できるようにしたい。また、将来的には公的機関に記録が蓄積されていく仕組みを考える。

  B 地区診断および提案:Aをもとに各チームは地区についての診断あるいは提案をまとめる。

  C 報告会・シンポジウムの開催:年に一度集まり議論する。

  D 「まちづくり」の実践:それぞれの関係性のなかで具体的な活動を展開する。  

 ④運営委員会:京都CDLは各チームの代表および幹事からなる運営委員会によって運営される。必要に応じて運営委員長等コアグループを設定する。運営委員会は大学院生、学生中心で考える。

    A 報告会の開催    B 地区選定調整    C 相互連絡

 ⑤コミッショナーおよび事務局:京都CDLはコミッショナーおよび運営委員会を中心に運営される。

    A 参加チーム登録    B 地区割り調整    C 報告会の開催

    D 地区カルテの保管と活用    E アクション・プラン

    F 他組織との連携

 この構想であれば、どんな地域でも実現可能ではないか。そう思うのであれば、是非、各地で立ち上げてみて欲しい。また、京都コミュニティデザインリーグ(仮称)への参加であれば大歓迎である。

 

*1 建築資料研究社、20003

*2 拙稿、「タウンアーキテクトの組織実践へ向けて」、『群居』50号、200010

*3 20001113日。京都市技術職員研修「京都市の公共建築に期待すること」。

*4 19901127日結成。『裸の建築家---タウンアーキテクト論序説』、p108-114

*5 日建連ハンドブック,1999

 










2024年5月3日金曜日

京都というプロブレマティーク,建築文化,199402

建都1200年の京都,布野修司+アジア都市建築研究会編,建築文化,彰国社,1994年2月号

 

京都というプロブレマティーク

布野修司

 

 京都:歩く、見る、聞く

 京都に移り住んで2年が経過した。移り住んだといっても、バタバタしているだけでその実感は薄い。2年など、建都1200年を迎えた古都の歴史にとって、瞬きの間にもならないだろう。それに、取りあえず居を構えたところが洛外も洛外、宇治の黄檗だから、京都に住んだとはとても言えない。京都のことはわからない、というのが全くもって正直のところだ。

 しかし、京都に住み続ければ京都のことが果たしてわかるようになるのであろうか。「京都は奥深い。京都を理解しようとするのならば、徹底的に京都を研究する必要がある。中途半端に理解しようとするのであれば、観光客でいる方がまだましだ。」と京都の友人はいう。そうであるとすれば、まあ観光客でいるしかなさそうではないか。ただ、観光客にとっての京都も、京都の半面とはいえなくても1割ぐらいの(観光収入がGNPの1割というから)京都ではありうるのではないか、そんな気分である。

 観光客といっても、清水、金閣、銀閣、二条城、三三間堂といった有名観光社寺をめぐるのとは違う視点の可能性はある。「路上観察学会」の面々が京都を襲って一冊の本をものしている。『京都面白ウオッチング』(  )である。「大人の修学旅行」、「路上観察の旅」ということで、京都の珍建築や珍木・名木、小鳥居、犬矢来、石亭、縁石、角石、狛犬、猛獣のレリーフ、壷庭、鬼門、ステンドグラス、金物、消火栓、銭湯、西洋館、マンホールの蓋、張り紙等々、ありとあらゆるディテールが発見され、観察されている。京都人にとっては全く理解できない「宇宙人」の視点かもしれない。しかし、京都人でも、「ええっ」と思うような発見があるのではないか。路上観察学会は、「純粋観察」を標榜する。「純粋」観察がいかに成立するかは不明であるが、「路上」の観察は、あるいは「路上」からの観察は、大きな京都への接近方法である。路上からの接近といってもいろいろある。ディテールはディテールでも、『仕組まれた意匠ーーー京都空間の研究』(  )の方が「京の意匠」についてのはるかにオーソドックスなアプローチとなっている。要は視点であり、視角なのである。 

 「見知らぬ町を見慣れた町のように見る。見慣れた町を見知らぬ町のように見る。」といったのはW.ベンヤミンであるが、この眼の往復運動は基本的なアプローチとしてどこでも通ずる筈だ。と格好をつけて、とにかく、京都の町を歩きだした。今までに5回ほどになろうか。

 まずは、新町通り、西洞院通りを南北に歩いた。京都の都心、山鉾町の中心である。町家の落ち着いた佇まいよりも、駐車場やマンションでがたがたの町並みに驚いた(  )。続いて、二度目は伏見へ飛び出してみた。伏見の大手筋は買い物などで日常的にも親しくなりつつあるのであるが、秀吉の城下町の骨格を感じることができる。近世の洛中と洛外、南と北の断層が見えた。松ノ木町40番地の印象は強烈であった。高瀬川の姿も木屋町あたりとは同じ川かと思う程違う(  )。三度目は、上七軒、下之森、四・五番町、島原、六条柳町、五条橋下、祇園とかっての花街をめぐった。洛中の周縁をぐるりとめぐったことになる。角屋の見学が主目的であったのだが、洛中のスケールを身体で実感できた(  )。四度目は、太秦から三条通りを河原町まで歩いた。京都横断である。都心の三条通りには近代京都の厚みが残る(  )。五度目は、鴨川を出町柳から七条まで歩いた。鴨川からの眺望は無惨。東山は見えかくれもしないほど。橋の下のスコッターたちの住まいが印象的であった(  )。

 歩きながらの学習である。もちろん、ただ歩いても仕方がない。しかし、歩きながら京都の歴史をひもとけばよく頭に入る。京都はそうした意味では日本史の書物のような都市だ。一般的な歴史の学習ばかりではない。研究室には、特に、歴史的環境、地域文化財に関する膨大な調査研究の蓄積があった。また、「保存修景計画研究会」といったオープンな研究会が続けられている。おかげで、わずかな時間にしては、随分と勉強できたような気がしないでもない。

 京都に移って、すぐさま調べたのは祇園である。バブル経済に翻弄される実態を所有関係の変化から探ろうとしたのである。また、いきなり「町家再生研究会」(望月秀祐会長)に加えて頂いた。相続税についての具体的検討などを通じて町家をめぐる厳しい状況が理解される。研究会は、例えば橋弁慶町の町会所の改築問題など実践的課題を眼の前につきつけられている。さらに、横尾義貫先生の御下命でより一般的に「町家再生のための手法」について考える作業もある。

 以下は、以上のようなささやかな京都体験に基づく京都論のためのノートである。

 

 世界の中心としての京都

 「京のいけず」とか「京のぶぶづけ」とかステレオタイプ化された一連の京都論、京都人論があるのであるが、そうした中に「東京は日本の中心かもしれないけれど、京都は世界の中心であると、京都人は思っている」というのがある。京都府建設業協会の出している雑誌「建設きょうと オープン・フォーラム」で読んだ。京都府建設業協会は、全国に先駆けて「現場作業服のファッション・ショー」(SAYプロジェクト)を開いたり、今また「年収1000万円プロジェクト」などを展開するなど極めて活動的である。京都は他に先駆けて新しいことをやるべきだという意気込みがその先進的プロジェクトの数々に現れているように見える。なるほどと思う。

 京都は日本の都市のなかで唯一特権的な都市である。「京都はただの地方都市になってしまった」という言い方がよくなされるのであるが、それも京都を特権的なものと考える裏返しの表現だろう。

 第一、千年を超える歴史をもった都市は世界にもそうはない。ローマ、北京、イスタンブール、・・・ぐらいであろうか。新たな都市が生まれてやがて衰退する。都市にも栄枯盛衰があり、生死があるのはむしろ自然である。17世紀の初頭、東国の寒村であった江戸、東京を考えてもいい。今、その東京はほぼ平面的広がりの限界に近づき、このまま行けば「死」を迎えるしかないであろう。過飽和状態に至って、新たなフロンティア(ウオーターフロント、ジオフロント・・・)を求める動きが顕在化したのがこの間の様々な東京改造の動きであった。少なくともさらに数百年の首都であり続けるかどうかは大いに疑問である。千年の都であり続けた京都は希有の存在なのである。

 第二、京都には千年の都としての世界的な遺産がある。千年の都といっても、建設された都市がそのまま生き延びるということではない。江戸は火事で頻繁に焼けたし、東京にしても、震災、戦災で、繰り返し白紙に還元されてきた。京都だってそうである。むしろ、ドラスティックな変転を経験してきたのが京都である。大火も何度も起こっている。今、世界遺産条約に登録申請を行なうほどの遺産が残されたのはある意味では偶然かも知れない。京都は有力な原爆投下目標地として、通常爆撃禁止という措置により温存されており、小規模な空襲しか受けなかったのである。また、陸軍長官スティムソンの反対で、たまたま原爆投下の候補地から外れただけだからである(  )。しかし、残された歴史遺産、文化遺産の厚みはその特権性の大きな根拠である。

 第三、京都は日本的なるものの源泉である。そうした意味で「日本」の中心である。日本文化の原型、日本的美意識といったものは全て京都で生み出されてきたものである。京都は宿命的に「日本」を背負った都市である。「日本」というアイデンティティーが問われ続ける限り、「京都」も問われ続ける可能性がある。

 東京遷都により、京都は千年に及ぶ首都としての地位を失った。京都の最終的「危機」はこの時に始まったとみていい。首都機能という意味では、既に江戸にその役割を譲ってきた。そして、天皇の居住地という天皇制のシンボルとしての京都はそのアイデンティティを失ったのである。「天皇は遷都宣言をされていない」、「天皇は京都にお戻り下さい」といった主張は今でも京都で根強い。京都が京都である第一の根拠だからである。

 京都が京都である根拠を失い、衰微していくが故に、京都「府」は京都を活性化するために積極的な近代化策をとる。学区制に基づく小学校の創設、病院や各種文化施設など全国に先駆けてつくられたものは数多い。職制や戸籍の導入なども同様である。近代技術の導入も実に積極的であった。琵琶湖疎水しかり、蹴上の発電所しかり、市電しかりである。明治28年(1895年)の平安遷都1100年記念の年の京都は大いに元気であった。具体的な記念事業は平安京を模した大極殿(平安神宮)の建設、『平安通志』の編纂、第4回内国勧業博覧会である。博覧会には、京都市の人口の3.3倍の113万人が入場したのだという。この年、時代祭がつくられ、疎水の発電所の電気で市電が走った。街厠(公衆便所)がつくられたのもこの年だ(  )。

 それから100年、建都1200年を迎えた京都はどうか。いささか盛り上がりに欠ける。建都1200年記念事業の規模といい、意欲といい、建都1100年の時には及ぶべくもない。何故か。少なくとも、首都機能の喪失は決定的な形で明らかになりつつある。政治的、経済的、社会的中心ははっきりと東京へと移動したのである。それに対して、首都(あるいはその機能)の復権は果たして如何に可能なのか。

 文化や学問に特化する方向がある。「京都学派」や「アカデミー賞」が強調される。文化的中心、首都としての京都の地位の保持である。一方、徹底して「アンチ東京」、革新の政治的立場を貫く主張がある。いずれも中心(反中心を含めた)志向の発想である。首都機能が一方的衰退していく中で、国賓のための「和風」迎賓館が今テーマとなるのはよく理解できる筈だ。また、大学の洛外移転による都心の衰退が大問題とされるのも、単に経済的理由からだけではないのである。

 第二、第三の京都の存在根拠はどうか。世界的遺産としての京都が危機に瀕していることを示すのがこの間の景観問題である。また、「日本」=「京都」というのも果たして絶対的であり続けるかどうか。「京都」を特権的な都市であらしめてきた根拠が失われるとすれば、「京都」は滅びるしかないであろう。坂口安吾の「京都」滅亡論(   )は、京都再生論の対極に位置し続けているように見える。 

 

 日本の都市の鏡としての京都

 京都もまた生活者の都市である。生活している人々によって生きられてこそ生きた都市でありうる。実際どんな都市であれ、それを支えてきたのは生活者の論理である。「京都の博物館化」、「京都のテーマパーク化」   )が一方で極論されるのであるが、京都の場合、むしろ特に、生活者の論理を強調してきたように見える。「町衆」の論理である。京都「市民」への道を「京戸→京童→町衆→町人」とたどった林屋理論がそのベースである(   )。

 東京から京都へ移り住んで色々気づくことがあるのであるが、否応無く感じるのは地域共同体、隣保組織の根強さである。例えば、祇園祭がある。祇園祭に山鉾を出す山鉾町のコミュニティー組織の結束は根強いのである。例えば、地蔵盆がある。これまた大きく変容しつつあるのであるが、今猶、随分盛んなように見える。少なくとも、町を歩くと、ここそこに地蔵堂がある。余所者には実に印象的である(   )。

 いま、山鉾町のコミュニティー組織や屋台保存会は大きな変容を迫られている。都心のブライト化によって、人口がどんどん減りつつあるのである(   )。地価高騰、相続税等の問題で再開発圧力が強まり、町家の町並みも変わる。山鉾町を歩いてみると、ところどころに虫食いのように空き地や駐車場がある。セットバックして建てられるビルと町家の町並みはガタガタである。象徴的なのは町会所である。四条通りなどの大きな通りに面した町会所は、間口の狭いビルに建て替えられつつあるのである。

 東京の下町でもいい、あるいは、地方都市でもいい、都市化の進展とともに地域の共同体は一様に解体のプロセスを辿ってきた。京都もまた同じである。都心の小学校の統廃合問題がその象徴だろう。町衆の伝統をベースに全国に先駆けて住民の発意で小学校をつくったのが京都の各町である。祇園祭を支える山鉾町に代表される京都の地域共同体がどうなっていくかは京都の行方に大きく関わっているといっていいだろう。

 京都のそうした地域共同体のあり方に決定的なインパクトを与えてきたのは経済の論理である。あるいは産業化の論理である。その趨勢の及ぶところ、如何に特権的な都市「京都」といえども免れることはできない。否、特権的であるが故に、開発のターゲットが京都に向けられるそんな構造があるのである。

 例えば、祇園がいい例だ。四条大橋から八坂神社へ向かう四条通りの両側には駐車場が目立つ。また、空き家も少なくない。いわゆる「東京の地上げ屋」の仕業だという。一極集中の核としての首都東京にまず顕在化し、やがて、地方に波及して行ったバブル経済の猛威は、日本の諸都市をすっかり翻弄してしまったのであるが京都も例外ではないのである。というより、最も翻弄されたのが京都であり、祇園のような町であった。京都を代表する「町」のひとつである祇園。京都の「応接間」といわれるように、接待文化の中心である。芸やマナーの伝統を支えてきた。そうした町で、路線価格がわずか三年で十倍以上に跳ね上がった。例えば、四〇坪の借地の評価額が十億円で相続税は約一億円になる。住民は住めなくなる。それだけではない。舞子さんや芸妓さんのなり手がいなくなる。仕出し屋さんの後継者の問題もある。町家を修理したり、改築したりする大工さんだって危うい。「町」を支える構造が大きく揺らいでいるのである。西陣のような伝統産業の町の衰退は産業構造の転換そのものに関わり、そこでも町の構造そのものが問われているのは同じである。

 1991年秋、「祇園地域の歴史的まちづくりを考える」シンポジウムが開かれたのであるが、大袈裟に言うと、その会場には「東京資本」に対する怨嗟の声が満ちていた。しかし、祇園で起こりつつあることを「東京の地上げ屋」のみのせいにすることは誤りである。また、相続税や地価税など税制のみのせいにするのも誤りである。売るものがいるから買われるのであって、問題の根は地域の中に存在している。言うまでもなく、その根底にあるのは日本の各都市に共通の問題だ。地上げ屋の論理、経済の一元的論理が支配するとすれば、京都は確かにただの「地方都市」になりつつあるといっていいのである。

 何故、京都がターゲットとなるのか。いうまでもなく、それだけの環境資源、歴史資源、地域資源を持っているからである。全国の各都市の問題を象徴するからこそ京都の問題が象徴的に取りあげられるのである。モヒカン刈りの一条山、大文字の裏山などスキャンダラスな問題が頻発するのも、裏返して見れば京都のもつポテンシャルを示すものであろう。

 「京都ホテル」、「JR京都駅」の問題にしてもそうである。高さが象徴的に問題とされるであるが、そこで問われているのは単に高さではない。その根底において問われているのは町づくりの論理であって、経済性という一元的な尺度によって、自然や文化や歴史や景観が切り捨てられていくその論理が激しく問われているのである。

 京都について大谷幸夫は次のようにいう(   )。

 「ごく一般論として言えば、日本の中でまあ一応、最も古い都市でしょ、歴史を持った。だから歴史的文脈とか論理とか、歴史的成果を蓄積されて、あるわけでしょ?・・・都市は事実に基づいて考えろっていう主張から言って最も根拠を持ってる、事実が意味と根拠を持ってるわけよね。その京都でまともな都市計画ができなかったら、日本の都市でどこでできるんだって言いたいわけね。」

 確かにその通りである。

 

 京都オールタナティブ

 具体的な都市、京都について今何が問題なのか。

 京都ホテル、JR京都駅、京都市コンサートホール、京都市勧業会館、和風迎賓館、市庁舎建替、・・・いくつか具体的な建築物の建設をめぐる問題がある。また、高速道路、地下鉄、幹線道路などインフラストラクチャー整備の問題は都市計画の基本問題としてある。また、関西文化学術研究都市の建設、梅小路公園の建設、二条城駅周辺整備事業、京都リサーチパークの建設など開発、再開発の地区整備の課題がある。より構造的な問題としては、経済活性化の問題があり、産業構造のリストラクチャリングの問題がある。「新京都市基本計画」には様々な課題が網羅的に、また、地区毎の課題とともに挙げられているところである(   )。

 こうした様々な都市計画的課題は日本のどの都市においてもそれぞれに問われることではある。しかし、京都には京都故に特権的に課題とし得るテーマがあり、議論がある。新京都市基本計画は、「平成の京づくりー文化首都の中核をめざして」とうたうのであるが、「世界性」、「中心性」のテーマをどう展開するかがまずキーとなる。京都への遷都論、和風迎賓館など首都機能の建設、国際日本文化研究センターの建設、「国際歴史都市研究センター」構想、「国際木の文化研究センター」構想などがそれに関わる。日本の文化の固有性に関わるセンター機能の特権をどう展開するかである。このレヴェルの主張は、京都の新しい経済センターを建設するとか、洛南に新たな都心を造るといった主張とははるかに次元を異にする。京都をめぐる議論がすぐさま錯綜し始めるのは理念としての京都と現実の京都が同一レヴェルで語られるのが常だからである。

 とはいえ、現実の京都をどうするのか、というのは大きな問題である。景観問題がこの間大きくクローズアップされたことが示すように、一方で、大変な危機感があるように見える。しかし、一方で、意外にクールな眼もある。「何も困っていない。何があっても、1200年の京都はびくともしない。」という層も少なくないのである。「京都はこれまでも新しいものを取り入れながら、古いものとの調和を計りながら生きてきた。これからもそうであろう。」という底抜けの京都肯定論である。京都の景観が破壊されることに、より危機感があるのは観光客であったり、観光客に依存する層である。あるいは傍観者としての京都以外の居住者なような気がしないでもない。

 京都肯定論の裏には、かなりニヒリスティックな京都論、京都滅亡論もある。もう手遅れだ、なるようになるしかない、という。しかし、通常、京都の経済的地盤沈下を問題として活性化を訴える京都開発論がそれに対して対置される。というより、現実の京都をつき動かしているのは、開発の波であり、再開発への蠢きである。それに対して、古都の自然や町並みの景観を守ろうという京都保存論がある。もちろん、論議の順序は逆である。京都を開発の波が襲うことによって、京都の景観が失われる。そこで京都の景観を守れ!と声が上がり、それに対して、「景観で飯が食えるか」という活性化論が切り返すというのが構図である。

 そこで問題なのは議論が極めて単純化されることである。京都開発論に対して、京都凍結論が出される。木造都市復元再生論が出される。地下都市論が出される。京都博物館化が訴えられる。いずれも極論である。京都の完全な木造都市としての復興、完全地中化の主張など「保存」という名の大変な開発論である。一方、京都を更地にしてしまおうという活性化論などないのである。保存と開発という二分法が決して有効ではないことは明白であるにも関わらず、極論の提示によって議論が閉鎖される。思考の怠慢である。

 南部開発、北部保存という緩やかな了解も同じ様な単純化がある。南北一体化が一方で大声で主張される(   )のは京都がそれ自身、南北問題、洛中ー洛外問題を抱えているからである。北部は保存、南部は開発と決めつけるにはいかないし、また、単純な一体化もそう簡単ではないのである。

 建築物の高さだけが問題とされるのであるが、これまた議論の単純化である。何がどこからどのように見えないといけないのか、そんな議論が少しも深まらない。京都ホテルやJR京都駅以前に既に問題は顕在化していた筈であるにも関わらず、何故、より一般的な問題として突き詰められないのか。例えば、町家再生の問題がある。町家を何故再生しなければならないのか。再生すべき町家とは何か。基本的な議論が一般化されていない。また、それ以前に、町家の町並みがガタガタに崩れていくメカニズム(経済原理、税制、消防法など法・制度)は誰もが指摘するけど一向にメスが入らない。単純化した主張は確かにわかりやすくセンセーショナルではあるけれど、一方で、現実の様々な矛盾を覆い隠してしまうのである。

 そこで何が必要とされるのか。ひとつには強力なリーダーシップである。歴史的にみても、あるいは近い例としてミッテランのグラン・プロジェをみても、思い切った都市計画の実現には巨大な権力が必要とされる(   )。しかし、おそらく、それは京都には、あるいは日本には馴染まないだろう。可能性があるとすれば、京都のこれからの壮大なヴィジョンとして、可能な限り英知を集めたコミッティーによって立案されたプログラムをしかるべきプロセスにおいてオーソライズし、建都1300年に向けて着実に実行していくというシナリオである。 

 しかし、何よりも必要なのは個別の具体的な実践である。日本の都市計画が最悪なのは決定のプロセスが不透明で曖昧なことである(   )。オープンな議論の上でしかるべき機関とプロセスにおいて決定し、実践する、そうした回路が不可欠である。個々のモニュメンタルな建築物の建設についても開かれた場における徹底した議論が必要である。議論が曖昧なまま中途半端な形で残されたまま事態が進行していくのは実に不健康なことである。

 数々の提案は以上にみたように既にある。また、様々なまちづくりのグループも多い。そうだとすれば何が必要か。都市計画のためのユニークな仕組みを創り出しうるかどうかこそが京都に今問われていると言えはしないか。同じ制度同じ手法を前提にする限り、これまでの遺産という特権が残されるだけである。遺産を食いつぶしていくのもいい。ただ、新たな遺産を創り出していく仕組みの再構築がなされないとすれば建都1300年にはもしかすると京都は京都でなくなっているかもしれない。わずか2年の観光客の眼にはそんな根拠の無い不安も沸きつつある。

 

 

註1 赤瀬川原平 藤森照信他 新潮社    

註2 川崎清 小林正美 大森正夫 鹿島出版会    

註3 脇田祥尚 「祇園山鉾町周辺の伝統と変容」(「京都 歩く・見る・聞く①」 『群居』30号     月)

註4 青井哲人 「伏見へ出る?」(「京都 歩く・見る・聞く②」 『群居』31号       月)

註5 堀 喜幸 「遊里めぐり」(「京都 歩く・見る・聞く③」 『群居』32号     月)

註6 荒 仁 「「京の横断面」ー三条通りを歩く」(「京都 歩く・見る・聞く④」 『群居』33号     月)

註7 鎌田啓介 「鴨川を行く」(「京都 歩く・見る・聞く⑤」 『群居』34号       月)

註8 吉田守男 「奈良・京都はどうして空襲をまぬかれたか」『世界』   号、   

註9  井ケ田良治、原田久美子編 『京都府の百年』、山川出版社、   

註10 坂口安吾 「日本文化史観」、坂口安吾著作集、ちくま文庫 

註11 堀 貞一郎 「完全なテーマ・パーク=京都を」、『京都2001年ー私の京都論』所収、かもがわ出版、   

註12 林屋辰三郎 『町衆』、中公新書、   

註13  地蔵盆とコミュニティー組織についてはいくつか研究があるが、地蔵信仰と地蔵の配置をめぐっては、竹内泰君が「聖祠論」として研究中である。

*14 中村淳 「歴史的都市における地域コミュニティーに関する研究」(    年度 京都大学修士論文)

*15 大谷幸夫 「時日に基づかない都市計画」、『建築思潮』02号、学芸出版社、   

*16 京都市企画調整局、    月。本特集の内田俊一京都市助役(前企画調整局長)論文参照。

*17 京都南北一体化研究会、『京都が蘇るー南北一体化への提言』、学芸出版社、   

*18 磯崎新・原広司、「消滅する都市」、『建築思潮』02、    年。および本特集巻頭対談参照。

*19 拙稿 「都市計画という妖怪」、『建築思潮』02、