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2024年5月25日土曜日

X twitter 5月24日 家族システムの起源をめぐって E.トッド

 

E.トッドの結論を急ぎたくなるが、もう少し確認しておこう。現在、周縁部に残存する非農耕民族が核家族であるからといって、採集狩猟生活の時代にそうであったといえるかどうかは?である。実際、人類学においてかつては、原初の家族形態は父方居住の移動集団であったという説が有力であったのである。

E.トッドが、イングランドを周縁的というのは、農業(紀元前4000年頃)そして文字(紀元前後)の到達という点においてである。先走れば、核家族の出現→「父系革新」による非核家族的家族形態の出現というのがトッドの説であるが、イングランドにはこの「父系革新」は伝播しなかったというのである。


E.トッドは予め、自説は革命的でも何でもなく、戦間期のアメリカ人類学、特にアメリカ・インディアンを研究したロバート・ローウィ『原始社会論』を踏襲しているにすぎないと言う。夫婦とその子どものみの核家族が原初的かつ普遍的であるという説はJ.P.マードック『社会構造論』も認めるところである。


多数の採集狩猟民集団が核家族を基本的社会単位としているからといって、現実の形態が、男女の出会いが子供を生産し、その子供が成人に達すると親の後見から解放されるというアトム的なものと考えてはならないとE.トッドはいう。各核家族は常により広大な親族集団に包含されているというのがポイント。

複数の核家族から構成される社会単位(バンド、ホルド)の核家族の数は様々に変動し、各核家族が長期にわたって食糧を求めて離脱することを許容する。状況によって不可欠な相互扶助機能がこの上位集団の存在理由である。これがE.トッドの家族ー共同体の基本モデルである。フレキシブルなのがポイント。

採集狩猟社会をベースとして成立した核家族は、近代都市社会の核家族とは同じではない!ことを確認すべきであろう。問題は家族システムと共同体との関係である。家族ー共同体システムは、「文明」(農耕、都市、技術、文字)によって変容していく。近代は、国家・市場が共同体にとって代わるのである。

何をまどろっこしいことを呟き続けているかというなかれ。直接的には、山本理顕の言うコミュニティ権のコミュニティとはなにかを見極めるためであるが、それは我々が依って立つ基盤を見極めるためでもある。『希望のコミューン 新・都市の論理』(近刊)に書くスペースがなかったのだ!

E.トッド結論①家族の起源は核家族②この核家族は国家と労働による社会的文化が出現するまで複数の核家族的単位からなる親族集団に包含されていた③この親族集団は双方(男系、女系)的であった④女性のステイタスは高かったが、男女が同じ職務を持つわけではない⑤直系などの家族形態は後に出現した。

社会の基礎的単位をめぐる議論は、かくして、農耕革命、都市革命以降に移行する。その前に、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』は「古代コミューン」派vs「永遠の一夫一婦制」派との論争は薄弱な証拠に基づいているという。確かにそうである。では、ハラリはどう考えるのか?読んでみて欲しい。




君は宮内康を知っているか?怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー,『Ahaus』05,200703

君は宮内康を知っているか?

―怨恨のユートピア---宮内康の居る場所―

布野修司

 

建築界の若い世代で、宮内康(19371992)という「建築家」を知る人は少ないであろう。戦後建築の両輪であった前川国男(19051986)、白井晟一(190519)といった大建築家ですら、知らない人が多いのだから当然である。木島安史(1937-95)、宮脇壇(1936-98)など同世代の建築家も既に鬼籍に入った。去るもの日々に疎しである。時代は常に若い世代のものだ。

そうした時の流れの中で、一昨年から昨年にかけて(20052006年)、「前川國男展」が、生誕百年、没後20周年を記念して、東京ステーションギャラリーを皮切りに、青森、新潟、熊本、京都と全国で開催された。数万の来場者があったという。それに先駆けて東京芸術大学美術館で行われた吉村順三(1908-1977)展も勝るとも劣らない多くの観客を集めた。日本の近代建築の歴史をこうして改めて振り返るのも時の流れである。

宮内康は、青森と深い縁がある。青森での前川國男展が、青森と縁の深かった宮内康という「建築家」に光りを当てることになったようである。

前川國男、吉村順三といったル・コルビュジェに学んだ建築家たちほど派手ではないが、日本の戦後建築の流れの中で、学校、病院、公共住宅など公共建築の分野で大きな影響力をもったひとりの建築家として、吉武泰水(1916-2003)がいる。東京大学にあって、多くの研究者、建築家を育て、「建築計画学」を確立したと評価される。宮内康は、その研究室の出身であり、僕も実はその末席に名を連ねる。そして、その縁で、「同時代建築研究会」(1976年結成、通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)をともに設立し、晩年の15年の間身近に接してきた。その生き様をよく知るひとりとして、もとめられるままに、宮内康について記してみたい。

 

「宮内康という建築家、批評家がいる。一九六〇年代から八〇年代にかけて、時代を根源において見つめ、その根拠を鋭く問いながら生きて、死んだ。

 本書は、宮内康の残した二冊の本を中心とする全集である。

 決して追悼論集でも、記念論集でもない。

 本書は、宮内康の言葉を大きな羅針盤として同時代を生きたものにとって、この半世紀を振り返り、それぞれが立っている場所を確認しようとする試みである。また、若い世代へ向けて、その言葉の射程を問う試みである。

 果たして、宮内康の「怨恨のユートピア」は今日死んでしまったのであろうか。死んだのだとすれば、われわれはそれに代わる何かを手にして入るであろうか。

 本書を契機に、「宮内康の居た場所」をいまここに問う、大きな議論が密かに深く起こされることを願う。」

 

これは、『怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー』(「怨恨のユートピア」刊行委員会、れんが書房新社、2000年)の僕が書いた「刊行のことば」である。僕は、この書の刊行に深く関わった。二冊とは、『怨恨のユートピア』(井上書院、1971)と『風景を撃てー大学一九七〇-七五ー』(相模書房、1976年)である。この二冊をそのまま収め、宮内康のほとんど全ての原稿が収められているのが『怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー』である。宮内康の詳細については、是非、この大部の書物を手にとって欲しい。

若い世代が常に先人を超えうるかどうかは別問題である。どんな時代にも時代を見通し深く考え抜いた人はいる。先行世代を超えるためには、少なくとも先人の経験に学ぶことが必要だろう。宮内康の考え抜いたことは反芻するに値する。そういう思いがこの書物を編ませたのである。

 

宮内康は、1937年に神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。本名は宮内康夫、宮内康は言うなればペンネームである。何故か、本人自ら「康(こう)」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。

高校の一年先輩に、建築家、原広司(1936-、建築家、東京大学名誉教授)がいる。原広司は、新梅田スカイビル、新京都駅、札幌ドームなどで知られる日本を代表する建築家である。宮内康は、この原広司を尊敬し、RASという設計集団を結成して共に建築を学んだが、別の道を選択することになる。

高校を卒業して東京大学の建築学科に入学し、60年安保の激動の時代に多感な学生時代を過ごした。自称アマチュア六段という囲碁も駒場キャンパス内にあった駒場寮で覚えた。晩年も、「天元組」という囲碁仲間を組織して、組長を名乗っていた。麻雀も好きで、教え魔であった。文章から受ける印象と違って、日常生活や仕事の場面では、硬派のイメージはなかった。

大学院に入って、吉武・鈴木(成文)研究室で建築計画を専攻し、建築家としての道を歩み始める。大学院時代の研究室における設計活動、そして続いて、同世代の原広司、香山寿夫(1937-、建築家、東京大学名誉教授)らと集団を組んだ「RAS」(設計事務所名)での活動が建築家としての母胎になっている。

1960年に青森県七戸町の教育長であった青山浄晃氏が、文部省の建築指導課を通じて、吉武研究室に七戸中学校の設計を依頼する。それを受けて、吉武研究室は、太田利彦(元清水建設)、船越徹(建築家、ARCOM主宰、東京電気大学名誉教授)、下山真司(建築家、筑波大学名誉教授)などで設計チームを発足させる。1962年に大学院に進学し吉武研究室に入室した宮内康はこのチームに加わることになった。この設計チームは、七戸町立城南小学校(1964年)、七戸町立幼稚園(1966年)、七戸町教職員宿舎(1966年)とたて続けに設計を依頼されている。この間、宮内康は、香山寿夫のもとで相模女子大学一号館学生寮(1964)の設計にも関わる。宮内康が後年語るところによると、どちらかというと、設計の作法については、原広司、香山寿夫に影響を受けることが多かったらしい。RASへの参加は、そのことを示している。

もちろん、最初に建築と出会った青森との縁は深く、とりわけ青山浄晃氏との縁は後々まで続く。青山氏が教育長を退官後に設立した明照保育園(1966)の設計は宮内康が主任建築家として引き受けている。1967年に東京理科大学の助手となる宮内康にとって、建築家としての最初の仕事が明照幼稚園である。青山氏のご令嬢は、その後しばらく宮内康のAURA設計工房で仕事をともにされていた時期がある。「青山邸」(1972)、「青岩寺本堂」の改修と庫裏(1974)、「観音堂」(1975)、「青岩寺庫裏」改修(19818485)なども青山氏との縁である。

 

 一方、宮内康のデビューは「建築批評」である。六〇年代初頭に建築界の注目を集める。おそらく、六〇年安保の体験が決定的だった。宮内康は、60年安保のデモに参加、逮捕されるという経験をもっている。また、続く、六八年以降の全共闘運動へのコミットが、そして自ら引き受けることになった理科大闘争が決定的だった。

60年代から70年代にかけての激動の時代に書かれた、その建築論の展開は全く新たな建築のあり方を予感させるそんな迫力があった。60年代における評論をまとめたのが『怨恨のユートピア』である。

 この『怨恨のユートピア』は、多くの若い建築家や学生に読まれた。宮内康の名はこの一書によって広く知られることとなったといっていい。磯崎新(1931~)の『空間へ』()、原広司の『建築に何が可能か』(1969)、長谷川尭(1937~)の『神殿か獄舎か』(1975)と並んで若い建築学徒の必読書となったのである。

 何よりも言葉が鮮烈であった。宮内康は、ラディカルな建築家として生き続けたのであるが、文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉が魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など若い世代の想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。庶民の建築、住宅についての言及が大きなウエイトを占めているのも特徴だ。何故「建造物宣言」なのか、是非読んでみて欲しい。磯崎新、松山巌、渡辺武信による鋭い宮内康論も収められている。詩人、映画評論家としても知られる建築家、渡辺武信は宮内康の同級生でもある。在学中に詩人として脚光を浴びていた渡辺武信は宮内康にとってある種のライバルであった。

 

 東京理科大学に勤務して、全共闘運動を支持したという理由で解雇され、その不当性を争った裁判闘争の経緯については『風景を撃て』に詳しい。彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた教官達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康は大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断があった。この経緯も、紙数の関係で『風景を撃て』に譲らざるをえない。

 建築家としての活動の場は池袋、そして鴬谷に置かれた。当初、「設計工房」、続いて「AURA設計工房」と称し、死の数年前から「宮内康建築工房」を名乗った。その「場」のイメージは、「梁山泊」である。千客万来、談論風発の雰囲気を彼は好んだ。酒を愛し、議論を愛した。そうした宮内康を愛する仲間がいつも集まってきた。東京理科大学を解雇された後、東洋大学で長い間、非常勤講師を務めた。僕は、東洋大に勤務(19781991)しており、京都大学に移る(1991)まで、ともに学生たちと学んだ。布野宮内研究室の卒業生たちは、「鯨の会」を名乗り、現在も活動を続けている。

 

 作品は決して数多いとはいえないが、少なからぬものがある。住宅が多いが、病院や事務所など妙に味のある作品を残している。宮内康風がどこかに感じられる仕事ばかりである。遺作となった「数理技研 オープンシステム研究所」も宮内康らしい。天井輻射冷暖房を取り入れるなど地球環境時代の建築を遙かに先取りしている。

 唐十郎率いる「状況劇場」の稽古場の自力建設(1970)も実にユニークである。セルフビルド(自律建設)あるいは設計―施行一貫体制については、宮内康は興味を持ち続けており、東南アジアの「セルフヘルプ・ハウジング」にも関心が深かった。また、秋田杉を産地直送する直営工事も試みている。

 振り返って代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」である。寿町、釜ケ崎と「寄せ場」三部作になればいい、というのが本人の希いであった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対しても異議申し立てになっている。宮内康は結局最後まで異議申し立ての建築家だったのである。

 「山谷労働者福祉会館」の建設プロセスについては、『寄せ場に開かれた空間を』(社会評論社、1992年)にまとめられている。亡くなった年であるが、生の声が収録されている。

 そのプロセスとそれを支えた諸関係は自ずとそのデザインに現れる。ベルギーの建築家、ルシアン・クロールが「山谷労働者福祉会館」を一目見て絶賛したのも、共感する何かを一瞬のうちに感じとったからであろう。遅ればせながら、「山谷労働者福祉会館」にAF(建築フォーラム)賞が贈られたのは1993年のことである。建築ジャーナリズムの「山谷労働者福祉会館」に対する反応は鈍かったように思う。バブルで浮かれるポストモダン・デザインの百鬼夜行を追いかけるのに忙しかったのだ。

 

 宮内康が亡くなったのは、一九九二年一〇月三日、午後八時のことだ。享年五五才。バブルの崩壊も、阪神淡路大震災も、オウムの引き起こした様々な事件も、二〇〇〇年問題も、・・・・宮内康は知らない。

以上のように、宮内康がオーソドックスな建築家になることを志した形跡はない。何故、建築という職業を選んだのか、本人に聞いたことはないが、宮内康は、建築を狭い限定した枠組みで語るのを極度に嫌った。

1976年の暮れに、「同時代建築研究会」を始めるのであるが、「建築」じゃないんだ、「時代」を語りたいんだ、というのが口癖であった。建築を空間的にも時間的にもより広大な視野から捉え直す意味をことあるごとに宮内康は語っていた。

 

 1986年において、社会変革へのラディカリズムと建築との絶対的「裂け目」を確認したのだ、と、「アートとしての建築」へと赴いたのが、あるいは「建築」を自律した平面に仮構することによって「建築」の表現に拘り続けたのが磯崎新である。磯崎新は、宮内康の偉大な位置を『怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー』のために書いてくれたが、磯崎新に対して、その「裂け目」を認めようとせず、全く新たな建築のあり方を深いところで考え続けてきたのが宮内康である。もっと書いて欲しい、という期待は常に宮内康に注がれ続けたのであるが、もとよりその作業は容易なことではなかった。

 極めて、大きかったのは裁判闘争である。宮内康は、そのかなりの時間を「造反教師」救援連絡会議の事務局を引き受けることにおいて割くことになるのである。

同時代建築研究会の最初の仕事が『悲喜劇・一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室、1981年)である。「こんぺいとう」の松山巌、井出健、「雛芥子」の布野、千葉正継、さらに弘実和昭など東京理科大時代の教え子も加わったこの会は、とにかく、シンポジウムを続けた。そうした活動を一冊の本に導いてくれたのが、「アートフロント」という芸術家集団を率い、現代企画室を主宰していた北川フラム氏である。また、『朝日ジャーナル』をやめたばかりの中西昭雄氏である。この北川フラム氏は、原広司の義弟であり、不思議な縁であったが、さらに、宮内康を青森へと繫げることになる。詳しい経緯は知らないのであるが、様々なアートイヴェントのオルガナイザー、プロデューサーとなった北川フラム氏は、七戸のまちづくりの顧問格となるのである。ここでもカウンターパートとなったのは青山氏である。奇遇かもしれない。そこで、「七戸文化村」構想が生まれ、「ガウディ展」を組織、スペインとの関わりを深めた北川フラム氏が、スペインで収集した陶器類を七戸町に寄付することで「スペイン村」という構想が生まれた。そして、その設計者として予定されたのは宮内康なのである。1990年に「七戸町文化村」コンペが行われ、翌年スペイン広場の設計を行っているけれど、その仕事を完成させることはできなかったのである。

 宮内康が亡くなって『ワードマップ現代建築』がまとめられた。同時代建築研究会による二冊目の仕事である。これも宮内康は眼にしていない。

宮内康の東洋大学時代の教え子を中心とした「鯨の会」の存在は大きい。彼らの世代が、それぞれの現場で「宮内康の居る場所」をさらに若い世代とともに確認してくれることを大いに期待したい。また、宮内康を知らない君たちが、『怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー』を通じて、宮内康の考え抜いたことをそれぞれの現場で考え抜いてくれることを願う。