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2025年7月6日日曜日

パネリスト:日本建築学会特別研究シンポジウム「近代の空間システム・日本の空間システム 都市と建築の21世紀:省察と展望」:司会 宇杉和夫,副司会 木多道宏(大阪大学,都市形成・計画史小委員会幹事)記録 中野茂夫 趣旨説明 鳴海邦碩:パネラー 小林英嗣・藤谷陽悦・山崎寿一・布野修司:コメンテーター 土田 旭(都市環境研究所所長),日本建築学会,2009年1月20日

 パネリスト:日本建築学会特別研究シンポジウム「近代の空間システム・日本の空間システム 都市と建築の21世紀:省察と展望」:司会 宇杉和夫,副司会 木多道宏(大阪大学,都市形成・計画史小委員会幹事)記録 中野茂夫 趣旨説明 鳴海邦碩:パネラー 小林英嗣・藤谷陽悦・山崎寿一・布野修司:コメンテーター 土田 旭(都市環境研究所所長),日本建築学会,2009120

日本建築学会特別研究シンポジウム(都市形成・計画史公開研究会)  

 

近代の空間システム・日本の空間システム 都市と建築の21世紀:省察と展望

 

 

近代の空間システムと計画は、近代以前の空間システムを基底としつつ、歴史意匠、農村計画、建築計画、都市計画の諸分野においてどのように取り組まれてきたか。持続性を基調とする今後にあってどのような枠組が必要か。このようなテーマで特別研究委員会は「近代の空間システム・日本の空間システムの形成と評価」を昨年度の大会研究協議会で実施した。21世紀に入り地球環境問題、少子高齢人口減少社会が急速化する中で、ようやく大量生産消費から持続的形成計画へと、地域継承の空間システムを評価する方向の転換が社会的合意を得つつある日本の現状に対して、追跡するアジア諸国の広域的な近代化はグローバルな新しい様々な問題も発生させている。本特別研究では20世紀の空間システム・計画手法について「地域継承空間システムを尊重した空間形成計画手法の構築」の立場から批評的に振り返り、こうした取り組みが1960年代以降の20世紀の中で始まっていることを重視し、現在に至る経過の文脈を整理・構築しておくことが次の世代の環境・都市・建築・まちづくりに向けて課せられていると位置づけている。ここに本特別研究により多角的な視座と文脈による本旨の議論の場が共有・形成できたことを報告する。

 

主催  都市計画委員会(都市形成・計画史小委員会)

共催 建築計画委員会、建築歴史・意匠委員会、農村計画委員会

日時 平成21年1月20日(火)13:30-17:00(または1月27日、火)

会場 建築会館ホール(東京都港区芝5-26-20

 

*プログラム (案)

司会   宇杉和夫(日本大学、特別研究委員会副委員長、都市形成・計画史小委員会主査)

副司会  木多道宏(大阪大学、都市形成・計画史小委員会幹事)

記録   中野茂夫(京都工芸繊維大学、都市形成・計画史小委員会幹事)

挨拶   西村幸夫(東京大学、まちづくり支援建築会議運営委員長)

趣旨説明 鳴海邦碩(大阪大学名誉教授・特別研究委員会委員長) 

パネラー 小林英嗣(北海道大学、都市計画委員会委員長)  「都市計画と本特別研究の課題」

初田 亨(工学院大学、建築歴史・意匠委員会委員長)「歴史意匠と本特別研究の意義」

三橋伸夫(宇都宮大学、農村計画委員会委員長)  「農村計画と本特別研究の成果」
     布野修司(滋賀県立大学、建築計画委員会委員長) 「建築計画と本特別研究の展開

コメンテーター 土田 旭(都市環境研究所所長)

ディスカッション

 

定 員 100名

参加費  会員1,000会員外1,500、登録メンバー1,200円、学生800

資料代  別途3,000

 

■シンポジウム申込方法

 E-mailまたはFAXで、催し物名称、氏名、所属、連絡先(住所、メールアドレス、電話・FAX番号)を明記のうえ、12月  日(  )までに下記宛にお申し込みください。

・申込先 日本建築学会 研究事業グループ 浜田

 TEL 03-3456-2057  FAX 03-3456-2058  E-mail:hamada@aij.or.jp

 

建築計画委員会「「シンポジウム+パネル展示 西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」報告,,建築雑誌,200804 :住田昌二,広原盛明,内田雄三:五十嵐太郎,中谷礼仁,五十日本建築学会建築計画本委員会,建築会館ホール,2008年1月15日

 建築計画委員会「「シンポジウム+パネル展示 西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」報告 :

 

 建築計画本委員会主催の「シンポジウム+パネル展示 西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」(日時:2008115日(火)17時開演(16時開場)、場所:建築会館ホール)について、以下にその概要を報告したい。

 

 建築計画本委員会では、年に一度は、建築計画学、建築計画研究の全体に関わるその時々のテーマをもとにしたシンポジウムを行うことにしているが、昨年2月の「公共事業と設計者選定のあり方―「邑楽町役場庁舎等設計者選定住民参加型設計提案競技」を中心として」に続く今年のテーマ設定の鍵になったのは、住田昌二+西山文庫編『西山夘三の都市・住宅理論』(日本経済評論社、2007年)である。西山夘三は、吉武泰水とともに建築計画学の祖とされる。その大きな足跡のもとに建築計画学は成立し、発展してきた。建築計画委員会の「隆盛」もその業績の基礎の上にある。

しかし、一方、建築計画学研究の限界も様々に指摘されてきた。施設毎の縦割り研究、専門分化、研究のための研究、・・・・等々の研究と実践との乖離の問題、また建築計画固有の手法、方法などをめぐる諸問題はこの間一貫して議論されてきている。

『西山夘三の都市・住宅理論』の上梓を機会に、建築計画学の原点に立ち戻って検討するのは必然である。建築計画委員会では、『建築計画学史』(仮)をまとめる構想をあたためている。その大きな柱となると考えた。かねてから不思議に思ってきたが、西山スクールによる西山夘三論が無かったことである。吉武研究室出身であり、西山夘三が開いた「地域生活空間計画講座」に招かれたかたちの報告者(布野修司)は、その戦前期の活動のみに焦点を当てるにすぎないが、「西山論」を書いたことがある(「西山夘三論序説」『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998年)。建築計画委員長という立場ではあるが、西山夘三の計画理論を広く検討したいという個人的な思いもあった。実際に、西山文庫との協賛、展覧会との併催など全てを切り盛りしたのは田島喜美恵委員であり、ポスターデザインは滋賀県立大学の学生諸君(高橋渓)、受付など事務作業を担ったのは日本大学生産学部の学生諸君である。また、パネル展示については西山文庫の松本滋(兵庫県立大学)先生に大変ご尽力を頂いた。プログラムは以下であった。

主旨説明:布野修司(建築計画本委員会委員長・滋賀県立大学教授)

問題提起:西山夘三の都市住宅理論 住田昌二(大阪市立大学名誉教授・現代ハウジング研究室)/西山夘三の目指したもの 広原盛明(龍谷大学教授、京都府立大学名誉教授)/西山夘三と吉武計画学 内田雄三(東洋大学教授)

ディスカッション:五十嵐太郎(建築雑誌編集長・東北大学准教授)・中谷礼仁(早稲田大学准教授)・司会:布野修司

 

住田昌二の問題提起は、ほぼ『西山夘三の都市・住宅理論』の総論「西山住宅学論考」に沿ったものであった。まず、「1.研究活動の輪郭」を①戦前・戦中期(193344)住宅計画学とマスハウジング・システムの体系化②戦後復興期(194461)住宅問題・住宅政策論から住宅階層論へ③高度成長期(196174)都市論の展開④低成長期(197494)『日本のすまい』(3巻)の完成、まちづくり運動に分けて振り返った上で、西山夘三の研究活動の特徴として、時代の転回、研究上の地位変化、研究テーマのシフトが見事に一致していること、研究を建築論から住宅論、都市論へと発展させた「ジェネラリスト」「啓蒙家」であること、20世紀をほぼ駆け抜けた象徴的な「20世紀人」であること、常に時代の先頭に立ち、≪近代化≫の「大きな物語」を描き続けた「モダニスト」であること、研究スタンスは、体制の外側にあって体制批判したのでなく、批判しつつ体制に参加提案し改革をはかろうとした。Revolutionistでなく“Reformer”であったことを指摘する。そして、西山は、「計画」と「設計」は峻別したが、研究=政策とみていたのでないか、卒論の序文に掲げた「史的唯物論」が生涯通じて研究の倫理的規範であった、という。続いて、「2.西山計画学の成果」として、1)住宅の型計画の展開、2)マスハウジング・システムの構築、3)住様式論の提起、4)住宅階層論による分析、5)構想計画論の提唱を挙げる。西山の研究が目標としたのは、①住まいの封建制を打破し、②低位な庶民住宅の状態の改善向上をはかり、③前近代的な住宅生産方法を改めていく、の3点であった。政治的には民主化、経済的には産業化、社会的には階層平準化の同時進行を近代化と規定するなら、西山の研究は、「近代化論」であった。西山の学問は、徹底して「問題解決学」的性格をもち、計画学としての体系は、空間を機能性・合理性基準によって解析し、社会をシステム論的に構築することで一貫していた、というのが評価である。さらに「3.西山計画学の歴史的考察」として、1)西山計画学の原点――15年戦争との対峙、2)西山計画学の発展の背景――国際的に50年続いた住宅飢餓時代、3)西山計画学のフェード・アウト――1973年の歴史転回をそれぞれ位置づけた上で、「4.「小さな物語」としての西山理論の超克」の方向として、①マスハウジングからマルチハウジングへ②階層から地域へ③計画から文化へ、を強く示唆した。

 実に明快であった。西山理論の歴史性を明確化し、そのフェード・アウト確認したこと、西山夘三を近代的システム論者と規定したことは大きな指摘である。

 広原盛明の問題提起もまた西山夘三を歴史的に位置づけるものであった。ただ、その限界についての評価は異なる。まず、「西山の生涯を通底するキーワード」として①「20世紀の実践的思」「社会主義」(マルクス主義)②「体制型思考」③「反中央権力精神」の源泉となった「大阪の西九条が育てたハビトス(社会的出自や生活体験などに裏打ちされた慣習的な感覚や性向の体系:プルデュー)」を挙げる。そして「1.西山のライフコースとライフスタイル」について、①大きくは第2次世界大戦を挟んでの前期(青壮年期)と後期(壮熟年期)に分け、住宅生産の工業化と大量建設を実現しようとした「革新テクノクラート」の時期と住宅問題・都市問題・国土問題等に関する啓蒙活動に邁進した「社会派研究者・大学知識人」としての時期をわける。また、②西山のライフスタイル(活動スタイル)は、戦前期は基本的に「改良主義」、戦後期とりわけ高度成長期以後は「批判対抗」だとする。さらに、③西山の啓蒙活動の重点は、戦後初期の住宅問題解決や住生活近代化を強調する路線から、高度成長期の「開発批判路線」に急速にシフトしていった、とする。続いて「2.西山にとっての計画学研究の意味」として、①「計画的思考」、「近代工業化システム」、②「戦時統制経済」「戦時社会主義」との密接な関係を指摘した上で、戦後については、③「もし日本が戦後に開発主義国家への道ではなく福祉国家への道を歩んでいたならば、西山は「体制協力型」のテクノクラートとして活躍し、また「計画技術的研究」を推進していたかもしれない」という。全体としては、西山と時代、体制が密接不可分であったという確認である。「3.学会・建築界に対して西山の果たした役割」として、研究領域の細分化と専門化をめぐる学会批判や建築界批判の意義、「外部評価機能」「日本学術会議をはじめ異分野の研究者との学際的研究プロジェクトの重視」「社会運動への参加」の意義を強調する。歴史的限界、その歴史的位置づけの中で、「学」「学会」への批判的機能・役割を大きく評価するという構えである。

 内田雄三は、西山夘三の住宅計画学と吉武・鈴木研究室の建築計画学を対比する。まず、「1.西山夘三の研究領域とその立場」、その幅広さ、庶民住宅の対象化と住み手の発展プロセスの重視などを確認した上で、「西山夘三の建築計画学」を「システム科学」「方法論としてはシステム分析である」と言い切る。この点、ほぼ住田先生の西山評価に沿っている。そして、吉武・鈴木研究室の建築計画学を西山の「システム分析の方法論を多くの公共建築の分野に適用」したものと位置づけ、より計画よりに展開したとする。すなわち、「新しい生活に向けて建築から働きかけていく志向」が強かったのが吉武・鈴木計画学だとする。そうした規定の上で、建築計画学の限界として、①近代化・合理化こそ資本の要求(利潤の拡大)であり、建築計画学はこの役割を担ってきたこと、②2DKも労働者のより廉価な再生産費を保証したという側面があること、③個々の建築の近代化・合理化にもかかわらず都市スケールで混乱が発生している点などをあげる。そして新しい建築計画学の方向として、生活者との連携、アドボカシー・プランニングを挙げ、C.アレグザンダーに触れ、空間づくり、モノづくりへの展望を述べた。

 きちんとレジュメを用意した3人の問題提起は議論の土俵を見事に用意したのであるが、如何せん、時間が足りない。早速議論に入った。コメンテーターとして期待したのは若手の論客としての中谷、五十嵐の両建築史家・批評家である。

 どちらが先に発言するか壇上でジャンケンするといったノリであったが、ジャンケンに負けて最初に発言した中谷礼仁のコメントは、場を張りつめたものにするに十分であったように思う。まず、自分の名前は、左翼(マルキスト)であった親が、時代がどう転んでもいいように「レーニン」とも「アヤヒト」読めるようにつけたそうだ、と冗談めかしながら、自分はだから「・・・すべし」「・・・すべき」という扇動家、啓蒙家の立場はとらないという。戦後まもなく「これからの時代は民主主義の時代だ」と板書した東京大学教授の例を引いて、そうしたプロパガンディストにならないことを肝に銘じているという。そして続いて、西山理論、その食寝分離論には「性」と「死」がないという。対比的に提起するのは、今和次郎との比較である。

五十嵐は、直接西山理論に切り込むことをせず、大きくは1936年の東京オリンピックを用意した戦前の過程と大阪万博に行き着く戦後の過程には同じサイクルがあるのではないかという。そして、西山の設計をみてみたいという。また、景観論の立場から見直してみたいという。

 西山理論をもっぱら歴史的、社会的なフレームにおいて位置づけて見せた3人に対して、中谷の提起はより内在的に西山理論を評価する契機を含んでいるように思えた。中谷の西山批判は、豊かな世代の時代の実相を知らない批判だ、その時代を踏まえて歴史的評価を行うべきだと、時代の制約、社会の貧困と西山の限界を説明しようとした広原に対して、一定程度それを認めながら、必ずしも、時代の問題だけではない、と中谷は切り返す。

 西山の軌跡における転換をめぐっては、1970年の大阪万博か、1973年のオイルショックか、あるいはそれ以前か、という議論がまず浮かび上がった。また、戦前と戦後の連続非連続の問題が指摘された。そして、西山夘三個人の資質、ハビトゥス(大阪下町気質)の問題が指摘された。西山は「食」にも興味がなかった、コンパクトな空間とその集合システムに興味があった、明治気質で、細かくて、資料マニアであったといった発言も飛び出した。

 建築計画という土俵を設定していたから当然であるが、西山夘三の全体像については留保せざるを得なかった。また、都市論、都市計画論についても同様である。まず、フロアから、『西山夘三の都市・住宅理論』の共著者である中林浩(地域生活空間計画論と景観計画論)、海道清信(大阪万博と西山夘三)の両先生に発言を求めた。西山スクールにおいても西山評価は様々であり、批判的距離のとり方の全体が西山夘三の大きさを物語っている。

延藤安弘先生は全体を延藤流に総括して「西山夘三の計画学」の精髄を「「構想計画」を新しい状況のもとにブラッシュアップする」「「住み方調査」から「フィールドワークショップ」へ」「「小さな物語」づくりの計画学」という三つの方向に結びつけようという。

限られた時間はあっという間に過ぎた。最後に鈴木成文先生に「面白かった」と総括頂いたけれど、手前みそだけれど、司会しながらも面白かった。問題を掘り下げる時間はなかったけれど、掘り下げるべき問題のいくつかは明らかになったと思う。主催者として、いささか驚いたことは、この地味なシンポジウムに百人を超える聴衆の参加があったことである。かなりの数の若い世代も見えた。このシンポジウムをひとつのきっかけとして「建築計画」をめぐる議論がさらに広がることを期待したい。布野修司(建築計画委員会委員長、滋賀県立大学)








2025年7月5日土曜日

広原盛明:西山夘三が目指したもの ~20世紀における計画学研究と社会の相克のなかで~:シンポジウム:主旨説明,司会:「西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」,住田昌二,広原盛明,内田雄三:五十嵐太郎,中谷礼仁,五十日本建築学会建築計画本委員会,建築会館ホール,2008年1月15日

 

西山夘三が目指したもの

~20世紀における計画学研究と社会の相克のなかで~

                2008年1月15日

日本建築学会計画委員会シンポジウム

         広原盛明(龍谷大学)




1. 西山の生涯を通底するキーワード

 

➊ イギリスのマルクス主義歴史学者エリック・ホブズボームは、1914年の第1次世界大戦勃発およびそれに引き続くソ連の誕生から1991年のソ連崩壊に至るまでの期間を『極端の時代、短い20世紀』と名付けた。西山夘三の生涯(191194年)は、奇しくもこの「短い20世紀」とほぼ重なり合っている。西山の生涯を通底するキーワードのひとつは、20世紀の実践的思想であり、かつ社会運動の座標となった「社会主義」(マルクス主義)である。

 

➋ 20世紀はまた「総力戦の時代」ともいわれる。総力戦体制とは第1次大戦に始まり、20世紀末の東西冷戦終焉で終るグローバルな政治体制をさす(小林英夫)。第1次大戦時にヨーロッパに登場し、両大戦間期に日独伊ではファッシズム型、英米ではニューディール型の総力戦体制を生み出し、戦後は東西両陣営の各国を巻き込む形で米ソ対立のグローバルな冷戦型体制を作り上げた。日本における総力戦体制は、第1次大戦後に構想され始め、日中戦争のなかで日本経済の軍事統制化(総力戦化)を生み出した。この時期に作られた経済の総力戦化は戦後の高度成長に大きな影響を与え、ソ連崩壊による東西冷戦の終焉の時期まで継続したとされる。西山の生涯は「総力戦体制」の時代と重なり合うことによって、第2のキーワードである「体制型思考」ともいうべき国家体制のあり方を重視する思考・行動様式を刻印された。

 

➌ 国際的な歴史認識と体制型思考を行動基準としながらも、「大阪西九条」をキーワードとする西山のハビトス(社会的出自や生活体験などに裏打ちされた慣習的な感覚や性向の体系:プルデュー)は鮮烈である。それは「東京」に対する「関西」、「山の手」に対する「下町」、「お上」に対する「下々」、「臣民」に対する「庶民」等々の対立図式を通して、西山の終生変わらぬ反中央権力精神の源泉となった。西山が日本住宅の分析手法においてクラインの動線分析理論を乗り越え、「住み方調査」というオリジナルな方法論を生み出していく思想的土壌となったのは、まさしく大阪の西九条が育てたこのハビトスであった。

 

2. 西山のライフコースとライフスタイル

 

➊ 西山のライフコースを概観するとき、大きくは第2次世界大戦を挟んでの前期(青壮年期)と後期(壮熟年期)に分けられる。戦前・戦中の「前期」は、ファッシズム体制下にありながら学生時代に国際的な近代建築運動の洗礼を受け、国家機関である住宅営団の研究・技術官僚として、住宅生産の工業化と大量建設を実現しようとした「革新テクノクラート」の時期である。戦後の「後期」は、戦後改革の主舞台である民主化運動とジャーナリズム活動に軸足を移して、住宅問題・都市問題・国土問題等に関する啓蒙活動に邁進した「社会派研究者・大学知識人」としての時期である。

 

➋ 一般的に言って、知識人や研究者が時代や体制と向き合うとき、そのライフスタイルは「体制協力」「逃避傍観」「改良主義」「批判対抗」といった複数のタイプに分岐するように思われる(もっとも、同じ人間でも転向したり変節したりするので分類は容易でないが)。この分類からすれば、西山のライフスタイル(活動スタイル)は、戦前期は基本的に「改良主義」、戦後期とりわけ高度成長期以後は「批判対抗」だといえるだろう。戦前のファッシズム体制が批判分子の社会的存在を許さなかった状況の下では(ごく少数の例外は別として)、体制協力や傍観者的立場に立つことを拒んだ多くの良心的知識人は、程度の差はあれ、必然的に(小さな)改良主義の道を選んだ。また選ばざるを得なかった。これに対して戦後は、ファッシズム国家体制が消滅したことによって選択の幅は著しく拡大した。

 

➌ 戦後日本の国家体制の際立った特徴は、経済成長を目指して長期的視点から系統的な介入を行う「開発主義国家体制」が確立され、90年代のバブル経済の崩壊まで継続したことである。工学系学会や研究者の間では、経済成長に連なる技術開発研究を推進することが当然視され、時代や体制に向き合うことが次第に少なくなった。とりわけ「開発」に直結する建築学・都市計画学の計画系分野においては、地域開発・都市開発・住宅地開発研究が一大ブームとなり、「体制協力」を超える「体制推進」タイプの研究者・建築家がマスメディアに華やかに登場するようになった。「開発」や「計画」をめぐる論争はもはや学会の域を超え、マスメディアやジャーナリズムの世界での「トピックス」あるいは「イベント」として展開されるようになった。このような時代状況のなかでの西山の啓蒙活動の重点は、戦後初期の住宅問題解決や住生活近代化を強調する路線から、高度成長期の「開発批判路線」に急速にシフトしていった。

 

3. 西山にとっての計画学研究の意味

 

➊ 「計画的思考」はもともと人間に固有の思考様式であって(マルクス)、計画的思考の体系である「計画学」の成立と発展は、人類の理性の発展と軌を一にしてきたといってよい。20世紀は建築学のみならず各分野に「計画的概念」や「計画システム」が生まれた時代であって、その背景には産業革命の深化にともなう飛躍的な技術開発の発展があった。テイラーの『科学的経営の原理』の出版(1911年)およびフォードによるT型車組み立てラインの導入(1913年)は、それを象徴する出来事であった。テイラーの科学的経営の原理に基づくフォードシステムの成立は、生産過程における連続的な技術革新(イノベーション:シュンペーター)を可能とし、計画的大量生産を機軸とする近代工業化システムを誕生させた。西山が生を受けた20世紀初頭の時代は、このような計画的大量生産技術の誕生期であり、CIAMなど国際近代建築運動もまた近代工業化イデオロギーを受け継ぐものであった。

 

➋ 「計画システム」は近代工場のなかだけではなく、総力戦体制を通して「戦時統制経済」(戦時計画経済)として社会と国民生活の隅々まで浸透していった。ヨーロッパでは、戦時計画経済によって労働者階級の労働条件・生活条件を向上させる社会改革と帝国主義政策を併せ主張する「社会帝国主義」(ゾンバルト)が主流となり、社会民主党や労働運動の側から「戦時社会主義」として積極的に容認された。日本では遅れて第2次大戦時に「戦時社会政策」(大河内一男)として展開され、近衛内閣の「新体制運動」の理論的支柱となった。西山の住宅営団時代はまさにその渦中にあったといってよい。

 

➌ 総力戦体制下での経済への国家の大規模な介入経験、総力戦の結果としての大規模な市街地破壊と住宅焼失からの戦災復興、そして国民の人心掌握の必要性は、世界各国の戦後体制を強く規定し、戦後再建計画において社会保障と社会改革の拡充が重視された。住宅政策はそのシンボルとなり、第1次大戦を通じて社会国家・福祉国家への道程が開かれ、第2次大戦後に福祉国家体制が成立した。「歴史にイフはない」といわれるが、もし日本が戦後に開発主義国家への道ではなく福祉国家への道を歩んでいたならば、西山は「体制協力型」のテクノクラートとして活躍し、また「計画技術的研究」を推進していたかもしれない。しかし基幹産業の傾斜生産体制を機軸とする日本の戦後復興計画とそれに引き続く産業優先の高度経済成長政策は、『これからのすまい』に込められた西山の期待とは逆コースを辿った。

 

4. 学会・建築界に対して西山の果たした役割

 

➊ 建築学会は工学技術系学会でありながら、歴史やデザイン、住宅問題や都市問題など社会問題までを研究対象に包含する異色の学会である。にもかかわらず、研究の流れは時代潮流によって大きく規定され、時代動向を正確に反映する。また学会内部では研究領域の細分化と専門化が進み、それとともに「体制型思考」が馴染まない空気も広がってくる。それが学会内部の論争によって認識され、研究の偏りや歪みを自発的に是正できている間はよいが、やがては制御装置が利かなくなり、方向感覚も怪しくなってくるときがやってくる。西山の学会や建築界に向けられた批判の多くは、そのような状態に対する危険信号ではなかったか。

 

➋ 研究は学会の独占物ではない。学会の外でも、プロの研究者でなくとも(広義の)研究活動はできる。学会が「裸の王様」にならないためには、社会との関連で研究をチエックする「外部評価機能」を必要とする。また「学会研究を研究する」ことも自らの足元を確認する上での重要な研究テーマであろう。しかしその場合、自らの専門研究を相対的に評価できるだけの広い視野と深い蓄積がなければならず、それは一朝一夕に獲得できるものではない。西山が日本学術会議をはじめ異分野の研究者との学際的研究プロジェクトをとりわけ重視したのはこのためである。また社会運動への参加によって研究と社会の接点を確保しようとしたのもそのためである。研究者が個人的努力によってこのような関係をトータルに把握することは難しいが、それを集団の力で獲得することが不可能でないことを実証しようとしたのが西山ではなかったか。

 

➌ 戦後の西山の研究活動への評価は、学会内外の両面からのものでなければならないだろう。しかしそれを妨げるのが建築学会の巨大化であり、建築界のギルド的体質である。巨大学会や業界組織の内部にいれば安泰であり、評価視点も内部化する。研究と社会の関係が定常的に保たれておる場合はそれでもよいが、社会が変動期に突入したときにそんな研究は壁に突き当たる。戦後期の西山のライフスタイルが「学会の外」における「批判対抗」型の活動に重点が置かれたのは、本人がそれを自覚していたかどうかは別にして、圧倒的多数の研究者が「内部化」するなかでのバランス行動であったかもしれない。20世紀末において、開発主義国家体制が新自由主義国家体制に劇的に移行した日本の現実は、いま西山に対する歴史的評価の時代かもしれないのである。


2025年7月4日金曜日

「安土城・摠見寺」再建・学生競技設計公開審査会,審査委員長:加藤耕文,審査員:渡辺豊和,浅川滋雄,中谷礼仁,近藤治,山本泰宏,安土城城郭研究所,2008年11月22日

 「安土城・摠見寺」再建・学生競技設計公開審査会,審査委員長:加藤耕文,審査員:渡辺豊和,浅川滋雄,中谷礼仁,近藤治,山本泰宏,安土城城郭研究所,20081122

 

安土城・總見寺」再建・学生競技設計(コンペティション)

募集要項

 

希代の革命家・織田信長が創建し、江戸時代にそのほとんどが焼失してしまった總見寺。150余年の時を経て、あなたの構想によって、同寺、本堂を蘇らせてみませんか?「總見寺再建計画委員会(仮)」では、あなたの豊かな発想が折り込まれた總見寺本堂再建案を募集いたします。

 

主  催 總見寺再建計画委員会(仮)

協  力 滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科

滋賀県立大学大学院近江環人地域再生学座

■協  賛 安土町、○○○○、○○○○

 

 

背景

 總見寺は滋賀県蒲生郡安土町安土山にある臨済宗妙心寺派の寺院です。天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって建立されました。開山は、織田一族の犬山城主織田信安の三男で禅僧の剛可正仲とされています。同寺院は織田信長が近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したと伝えられています。

江戸時代の寺領は2275斗余りで、18世紀末には本堂、三重塔、仁王門、書院、方丈など22棟の建物があったことが確認されています。しかしながら、安政元年(1854年)主要な建物のほとんどを焼失してしまい、焼失を免れた三重塔と仁王門を除き、本堂も礎石を残すのみとなってしまいました。その後、伝徳川家康邸跡を仮本堂とし、現在に至っています。

 總見寺・現住職・加藤弘文師は、150余年前に焼失してしまったこの總見寺を再建したいという思いを暖めておられます。実現に向けては、文化庁の指導、財源など多くの問題がありますが、まず、案が必要になります。「信長公ならこんな空間を構想・実現したに違いない、という発見的・魅力的な再建案はできないか」、「若い学生たちの自由な発想に期待したい」というのがこの競技設計(コンペティション)の出発点にあります。

 

總見寺本堂再建計画の条件

A.復元を基本とします。

B.すなわち、總見寺本堂は旧位置(現在本堂礎石が残る場所)に再建するものとします。

また、

C.總見寺本堂は木造にて再建します。

D.外観に関しては絵図等を参照し、蓋然性のあるものとします。

しかし、

E.内部のディテールなどについては厳密な考証を必ずしも問いません。

 

 

共通参考資料

・特別史跡安土城跡発掘調査報告6-旧總見寺境内地及び周辺地の調査-(滋賀県教育委員会 平成83月)

・安土町の社寺建築、安土町教育委員会、20043

 

*その他関連資料「信長公記」など)の収集、読解は各自が行うこととします。

 

1 応募資格

   a.原則として、建築を学ぶ学生を主体とするチームを応募主体とします。

   b.応募チームは、大学の指導教官、建築家、大工棟梁など専門家の指導を得ることを可とします。その場合、応募登録の際に協力・指導者あるいは顧問として、その名前を登録してください。

 

2 スケジュール

2008 2 1  コンペティション告示:作品募集:登録受け付け開始:

 

◆参加登録受付:事務局

 

2008331日 14:00~ 現地説明会:於:總見寺本堂跡地(雨天決行)

 

◆現地調査(總見寺境内、安土城跡、ヒアリングなど):受付でコンペ参加チームであることを申し出ることによって敷地への出入りは無料として頂きます(但し、その場合は応募することが条件となります)。

 

    ◆質疑応答:随時:事務局

 

2008630日 登録締切

 

  20081030日 応募締切 (必着)

 

  200811月中旬 公開審査会:

◆日時、場所は登録者数決定後速やかに検定します。

 

3 提出物

A 總見寺再建全体計画

總見寺境内全体平面図 縮尺1/300

B 本堂再建案

本堂平面図 縮尺1/100

本堂天井伏図 縮尺1/100

本堂断面図(2面以上)縮尺1/100

本堂立面図(2面以上)縮尺1/100

架構概念図(縮尺適宜)

◆以上A.B.の内容をまとめたものをA1一枚(横使い)にレイアウトしてください。

C 總見寺本堂の再建主旨等

◆どういう主旨で再建計画を構想したか、また、どのような方法で、その構想を具体化したかを記してください。必要なら図やイラストも添えて、A2一枚(縦使い)にまとめてください。

D 總見寺本堂の模型(縮尺1/50

◆外観だけでなく、内観もわかるものとしてください。

E 總見寺境内の模型(縮尺1/100

 

4 審査

 

審査は以下の審査委員会によって、公開で行う。

 

審査委員長 加藤弘文(總見寺住職)

審査委員  渡辺豊和(建築家)

      山本泰宏(總見寺執事・建築家)

布野修司(滋賀県立大学)

浅川滋男(鳥取環境大学)

中谷礼仁(早稲田大学)

             (安土町長)

            (安土城郭研究所)

 

 

◆原則として、最優秀賞1点、優秀賞1点を選出する。

◆作品応募者には審査時に本堂再建案の概要等をその場にてプレゼンしていただきます。

 

5 賞金

最優秀賞 60万円

優秀賞 20万円

佳作:若干点 総額20万円

 

6 事務局・問い合せ先

 

總見寺再建計画委員会(仮)事務局 事務局長

布野修司

滋賀県立大学大学院環境科学研究科・環境計画学専攻・教授

環境科学部・環境計画学科・環境建築デザイン学科

滋賀県彦根市八坂町2500 〒522-8533
tel= +81-(0)749-28-8200
(代表)0749-28-8272(研究室)

funo@ses.usp.ac.jp

 


「安土城・總見寺再建計画 学生競技設計(コンペティション)」への参加のお願い

 

 

 経緯と趣旨

 總見寺は滋賀県蒲生郡安土町安土山にある臨済宗妙心寺派の寺院です。天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって建立されました。開山は、織田一族の犬山城主織田信安の三男で禅僧の剛可正仲とされています。

 同寺院は織田信長が近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したと伝えられています。

江戸時代の寺領は2275斗余りで、18世紀末には本堂、三重塔、仁王門、書院、方丈など22棟の建物があったことが確認されています。しかしながら、安政元年(1854年)主要な建物のほとんどを焼失してしまい、焼失を免れた三重塔と仁王門を除き、本堂も礎石を残すのみとなってしまいました。その後、伝徳川家康邸跡を仮本堂とし、現在に至っています。

 總見寺・現住職・加藤弘文師は、150余年前に焼失してしまったこの總見寺を再建したいという思いを暖めておられます。実現に向けては、文化庁の指導、財源など多くの問題がありますが、まず、案が必要になります。「信長公ならこんな空間を構想・実現したに違いない、という発見的・魅力的な再建案はできないか」、「若い学生たちの自由な発想に期待したい、協力願えないか」、という相談が布野にありました。近くに居てたまたま出会い、同郷である、といった不思議な偶然の縁です。若干の賞金も用意して頂けるということです。

 復元を考えると、慎重な調査が必要になりますが、まずは構想をまとめあげるためのコンペを企画したいと思います。是非、参加願えればと思います。

 

布野修司

滋賀県立大学大学院環境科学研究科・環境計画学専攻

環境科学部・環境計画学科・環境建築デザイン専攻

滋賀県彦根市八坂町2500 〒522-8533
tel= +81-(0)749-28-8200
(代表)0749-28-8272(研究室)

 

 

 参加要請大学

 滋賀県立大学環境建築デザイン学科(松岡・陶器・高柳・高田・冨島)

 滋賀県立大学生活デザイン学科(山根周)

 京都造形大学(横内敏人)

 京都工業繊維大学(松隈洋・日向進)

 鳥取環境大学(浅川滋雄)

 早稲田大学(中谷礼仁) 他


 

2025年7月3日木曜日

第八章 コラム:文化的景観 traverse編:建築学のすすめ,昭和堂,2015年5月

 


第八章 コラム:文化的景観

 ユネスコ世界遺産委員会が「世界遺産条約履行のための作業指針」の中に「文化的景観」の概念を盛り込んだのは1992年である。ユネスコの文化的景観には,庭園のように人間が自然の中につくり出した景色,あるいは田園や牧場のように産業と深く結びついた景観,さらには自然それ自体にほとんど手を加えていなくとも,人間がそこに文化的な意義を付与したもの(宗教上の聖地とされた山など)が含まれる。文化的景観として登録された世界遺産の第1号は,トンガリロ国立公園ニュージーランド)である[1]。日本もこの流れを受け,「文化的景観」を有形文化財,無形文化財,民俗文化財,記念物,伝統的建造物群に続く6つ目のカテゴリーとして文化財保護法に取り入れることになるが(2004年)、新たに保護の対象とした「文化的景観」は,「地域における人々の生活又は生業及び当該風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のために欠くことのできないもの」と定義される[2]

アラビア半島のオアシス都市に住む人々は,沙漠に遠足に行くのを楽しみにしているのだという。日本人の感覚からするととても理解できない。しかし,世界には様々な土地そして景観がある。ここでは「文化的景観」について考えてみよう。景観とは「土地の姿」であり,日本も北から南まで,様々な景観がある。「日本の景観」ということで一括できるかどうかは日本文化の問題となる。「日本」を,どこか別の地域「○○」(例えばアラビア半島,例えばブラジル)に置き換えても,基本的に同じことが問題になる。土地を越えて伝播するものが「文明」であるとすれば,土地に拘束されるのが「文化」である。景観を考えることは,日本のみならず世界の「土地の姿」を考えることである。

風水

中国には古来、風水説がある。土地をどうとらえるか,どうかたちづくるかについて,極めて実践的な知,あるいは術の体系とされるのが風水説である。中国で生まれ,朝鮮半島,日本,台湾,フィリピン,ヴェトナムなど,その影響圏は中国世界周縁にも拡がる。「風水」は,中国で「地理」「地学」ともいう。また,「(かん)輿()」「(せい)()」「陰陽」「山」ともいう。「地理」は「天文」に対応する。すなわち,「地」すなわち山や川など大地の「理」を見極めることをいう。「堪輿」は,もともと吉日選びの占法のことで,堪は天道,輿は地道を意味する。「陰陽」は,風水の基礎となる「陰陽論」からきており,「青烏」は,『青烏経』という,伝説上の風水師・青烏子に仮託された風水書に由来する。「山」は,「山師」の「山」である。山を歩いて(「遊山」「踏山」),鉱脈,水脈などを見つけるのが「山師」である。

「風水」は,「風」と「水」であり、端的には気候を意味する。風水の古典とされる郭璞(かくはく)276324)の『葬経』に「風水的首要原則是得水,次為蔵風」という有名な典拠があるが、風水の基本原理を一言で言い表すのが「蔵風得水」(風をたくわえて水を得る)である。また,風水の中心概念である「気」は、「夫陰陽之気噫為風,弁為動,斗為雷,降為雨,行乎地中而為生気」、陰陽の「気」が風を起こし,動きを起こし,雷を鳴らし,雨を降らし地中に入って「生気」となる,と説明される。

風水説は,この「気」論を核に,陰陽・五行説,易の八卦説を取り込む形で成立する。管輅(かんろ)208256)ならびに上述の郭璞が風水説を体系化したとされるが,とくに江西と福建に風水家が多く輩出し流派をなした。地勢判断を重視したのが形(勢学)派(江西学派)で,羅経(羅盤)判断を重視したのが(原)理(学)派(福建学派)である。

風水説は,近代においては「迷信」あるいは「疑似科学」すなわち科学的根拠に欠けるものとして位置づけられてきたが,この間,その見直しが進められ,建築,都市計画に関連しては,風水説を環境工学的に読み直す多くの書物が著されつつある。風水説の理論的諸問題についてはそうした少なからぬ書物に譲ろう。

風土記

「風水」とともに「風土」という言葉がある。すぐさま思い起こされるのは「風土記」であろう。唯一の完本である『出雲風土記』を見ると,まず出雲国の地域区分がなされ,それぞれの「郡」「郷」について,その地名のいわれ,地形,産物などが列挙されている。まさに「土地の姿」である。「風」は,空気の流れであるが,季節によって異なり,様々な気象現象を引き起こす。風土は,単なる土地の状態というより,土地の生命力を意味する。土地は,天地の交合によって天から与えられた光や熱,雨水などに恵まれているが,生命を培うこれらの力が地上を吹く風に宿ると考えられてきたのである。

風土すなわち土地の生命力が土地毎に異なるのは当然である。『後漢書』にはそうした用法が見え,二世紀末には『冀州(きしゅう)風土記』など,風土記という言葉を用いる地誌が現われる。風土という言葉は,英語にはクライメイトclimate(気候)と訳される。クライメイトの語源であるクリマKlimaは,古代ギリシアで傾きや傾斜を意味した。それが気候や気候帯を意味することになったのは,太陽光線と水平面とのなす角度が場所ごとに変わることからである。風土をどうとらえるか,どう捉えてきたのか,については,あらゆる学問分野が関与する。景観あるいは風景,自然あるいは風土という言葉をめぐる著作に数限りがないのは,土地のあり方ひいては社会の根底,基盤に関わるものがそこにあるからである。

八景

 江戸時代の半ば,享保年間に,「五機内」の「国」について,それぞれ,その沿革,範囲,道路,形勝,風俗を,また,郡ごとに,郷名,村里,山川,物産,神社,陵墓,寺院,古蹟,氏族などを記述した「五畿内」に関する最初の総合的地誌となる『日本輿地通志畿内部』(『五機内志』)全61巻(1734)がまとめられている。風土,風水によって,土地あるいは地域を把握する伝統は,江戸時代にも継承されていることを知ることができる。

そして,近世末にかけて,日本の景観享受のひとつの作法ができあがってくる。まず,「近江八景」を先駆として,景勝地を数え上げることが行われ出す。それとともに葛飾北斎(17601849)の『富嶽三十六景』のような風景画が登場する。そして、景勝地を比較観察して,それぞれの価値や品格を論評する,古川古松軒(17261807)の『西遊雑記』(1783頃),『東遊雑記』(1788頃)といった著作が現れ始める。

「近江八景」は、中国の「瀟湘(しょうしょう)八景」[3]あるいは「西湖十景」などにならったものである。「瀟湘八景」とは,洞庭湖(湖南省)に流入する瀟,湘二水を中心とする江南の景観が,宋代に,画題として,詩的な名称とともに8つにまとめられものをいう。

『日本風景論』

 日本の景観あるいは風景に関する古典的著作として決まって言及されるのが,志賀重昴(18631927)の『日本風景論』(1894)である。

 『日本風景論』は,日本風景の特性を大きく「日本には気候,海流の多変多様なる事」(2章)「日本には水蒸気の多量なる事」(3章)「日本には火山岩の多々なる事」(4章)「日本には流水の浸食激烈なる事」(5章)と4項目に分けて記述するが、ひたすら日本の風景を美しい,と唱える。志賀は,平均気温や降水量の分布図を示したこの著書によって,日本の近代地理学の祖とも目される。『地理学講義』(1919)の他,『河及湖沢』(1901),『外国地理参考書』(1902),『世界山水図説』(1912),『知られざる国々』(1926)などを著わしている。志賀重昴は,1886年に,海軍兵学校の練習鑑「筑波」に従軍記者として乗り込み,10ヶ月にわたって,カロリン諸島,オーストラリア,ニュージーランド,フィジー,サモア,ハワイ諸島を巡っている。その後も,志賀は,台湾,福建,江南(1899),南樺太(1905)などへの踏査を続けるが,1910年には,アフリカ,南アメリカ,ヨーロッパなど世界周遊の旅を行っている。また,1912年には,アメリカ,カナダにも渡り,1922年には,世界周遊の旅を再び行っている。志賀の一連の著作は,当時の日本人としては類のない広範な世界見聞に基づくものであった。

世界の風土を大きく「モンスーン的風土」「沙漠的風土」「牧場的風土」の3つに分けて論じたのが,風土論の古典とされる和辻哲郎の『風土』(1935)である。この3類型は,土地の姿をもう少し細かく見ようとするものにとっては,いささか大まかであるが,沙漠型という一項を介在させることにおいて,西欧vs日本という単純な二項対立は逃れており、戦後の,梅棹忠夫の「文明の生態史観」,中尾佐助,上山春平らの「照葉樹林文化論」などにつながっていく。高谷好一の「世界単位論」などを含めて,キーワードとなるのが,風土であり,生態圏である。

こうして景観論,風景論は,「日本」という枠組みを超えていく。その方向で要請されるのは,モンスーン地帯,稲作文化圏,照葉樹林文化圏といった大きなフレームである。そして一方,日本の中でもそれぞれの地域の差異,土地の微地形,微気候を見極めるミクロなフレームが必要となる。

景観の構造

 風景の基礎となる土地の物理的形状の視覚的構造,すなわち景観の構造を明らかにするのが、樋口忠彦の『景観の構造』(1979)であり、『日本の景観』(1981)である。

 『景観の構造』は,第1に「ランドスケープの視覚的構造」を問題にしている。すなわち,景観の視覚的見え方を,①可視・不可視,②距離,③視線入射角,④不可視深度,⑤俯角,⑥仰角,⑦奥行,⑧日照による陰陽度,の8つの指標において捉える。

 視覚の対象としての景観は,まず,見えるか見えないかが問題である(①)。景観は,視点からの距離によって異なり(②),近景,中景,遠景といった区別が一般的に行われる。この距離による見え方は,空気が乾燥し澄みきった日には遠くの山々が近くに見えるなど,天候など大気の汚濁度によって異なる。この原理を活かした「空気遠近法」という絵画の手法は古くから用いられてきた。視線入射角とは,面的要素と視線とのなす角度をいう(③)。視線に対して平行な面は見にくく,垂直な面は見やすい。不可視深度あるいは不可視領域というのは,視点の前にある対象物によって,視点からある地点(領域)がどの程度見えないかを示す指標である(④)。俯角(⑤),仰角(⑥)は,俯瞰景,仰観景に関わる。奥行き(⑦)は,連続的平面の前後の見え方に関わる。日照による陰影(⑧)も遠近に関わる。

 『景観の構造』は,続いて,「日本において見られる地形の類型を7つに分類する。すなわち,①水分(みくまり)神社型,②秋津洲やまと型,③八葉蓮華型,④蔵風得水型,⑤隠国(隠処)型,⑥神奈備山型,⑦国見山型の7つである。①は山々や丘陵の間を川が抜け,山地から山麓の緩傾斜地に移って平地に開ける景観,②は四周を山々に取囲まれた平野部の景観,③は同じように四周を山々に取囲まれるが,平野部からは隔絶した山中の聖地,④は風水にいう「蔵風得水」のかたち,三方を山々に囲まれ南に拓いた景観,⑤は峡谷の上流に奥まった空間,⑥は神奈備山として仰ぎ見られる景観,⑦は山・丘陵から見下ろす景観である。

地形は,あらゆる人工構築物が「図」として立ちあらわれてくる「地」であり,土地の景観を考える上では,まず,地形のあり方,地形の空間的構成を問題にする必要がある。自然の地形は,必ずしも,単なる「地」ではなく,「図」としての意味を付与され,人工構築物(神社,仏閣,集落,都市)の建設にあたっては,地形のあり方を前提として選地がなされ,設計されるのが一般的であった。『景観の構造』で示された日本の地形の7つの空間的型は,歴史的・伝統的に大きな意味を持ち,日本の心象風景となってきた。

都市景観

 さて以上のように,日本の風景,景観をめぐる諸説,議論は,基本的には,自然景観を対象とするものであった。

日本の景観の歴史的層を大きく振り返ると,第1の景観層は,日本列島の太古に遡る自然景観の基層である。『風土記』が記載した世界の景観は縄文時代に遡るが、それ以前の日本列島の景観は,「日本」という枠組みが形成される以前の景観の古層である。

そして,水田耕作が開始され,日本の農耕文化がほぼひとつの文明の完成に達した時点で現れた景観が第2の景観層である。18世紀末から19世紀初頭の日本には,わずかばかりの畜力のほかは,すべて人力でつくりあげた景観ができあがっていた。今日,日本の景観の原点として振り返られるのはこの景観層である。

 明治に入って,日本の景観に新たな要素として,西欧風の建造物が持ち込まれる。開港場と呼ばれた港町(築地,横浜,神戸,長崎,新潟など)に諸外国との外交,交易のために建てられた諸施設がその先駆である。大工棟梁の清水嘉吉が木造で西洋風の建物として建てた「築地ホテル」は「擬洋風」と呼ばれる。やがて,銀座煉瓦街の建設や日比谷官庁集中計画など,洋風の都市計画が始められた。また,産業基盤を支える道路整備や鉄道の敷設,ダムの建設などが日本の国土を大きく変えていく端緒となった。この新たな都市景観の誕生が日本の景観の第3の景観層を形成することになる。

江戸時代までの都市の景観は,江戸,大阪,京都といった大都市も含めて,第2の景観層に溶け込んでいたとみていい。人口百万人を擁した江戸にしても「世界最大の村落」と言われるように,農村的景観に包まれていたし,街並み景観をかたちづくる建物も,木,土,石,紙など基本的に自然材料によってつくられていたから,その色彩にしても一定の調和が保たれていた。そして,この都市景観は,少なくとも昭和戦前期まで緩やかに維持されていた。

 西欧においても,ランドスケープを基にしてシティスケープという言葉が初めて用いられたのは1856年,タウンスケープにいたっては1880年という。市区改正という言葉に関連して前章(Ⅰ-1)で触れたが,都市計画Town PlanningCity Planning, Urban Planningという用語は,さらに新しく,都市のレイアウトThe Laying Out of Townという言葉が始めて使われたのは1890年のことだった。都市景観が問題になるのは20世紀以降のことである。

 明治に入って,全く新たな建築様式が持ち込まれ,定着していくことになるが,鉄とガラスとコンクリートによる建築が一般化していくのは1930年代以降である。日本の近代建築は,明治期をその揺籃の過程とし,昭和の初めにはほぼその基礎を確立することになる。そして,日本の近代建築は,15年戦争期によってその歩みを中断され,戦後になって全面開花することになる。

 



[1] 日本の世界文化遺産,紀伊山地の霊場と参詣道2004年)そして石見銀山遺跡(2007年),さらに富士山2013年)も文化的景観として登録されたものである。

[2] 2006年に,滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」が重要文化的景観第1号。以後,20143月現在で合計43件が選定されている。

[3] 瀟湘とは,洞庭湖から瀟水と湘水が合流する辺りまでの湖南省長沙一帯をいう。風光明媚で知られるが,様々な伝説や神話にも彩られる。桃源郷の伝説もこの一帯から生れた。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...