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2026年2月9日月曜日

51Cは呪縛かー集合住宅の戦後から現代をさぐる 鈴木成文 上野千鶴子 布野修司  2003年3月20日

51Cは呪縛か 鈴木成文 上野千鶴子 布野修司 2003/03/20





 

布野 —— 「51Cは呪縛か。」という呪文みたいなタイトルですが、サブタイトルの方には、わかりやすく「集合住宅の戦後から現代をさぐる」とあります。基本的には日本の集合住宅がこれからどうなっていくのか、あるいは日本の家族がどうなっていくのか、というのが大きなテーマとなります。議論の鍵として「51C」という記号があるわけですが、「51C」に象徴される標準住居モデルが日本の戦後住居の在り方を規定してきたとすれば、それは問題ではないか。また、なぜそうなったのか、という問いかけがテーマとしてあります。一方、今日いらして下さった上野千鶴子先生は「近代家族の終焉」ということをおっしゃいますが、近代家族の行き着く先はどこなのか、ということもテーマとなります。

今日のオーディエンスの中には建築関係の方が多いと思います。空間の型には関心が高いと思います。近代家族の終焉が提示され、前提とされるとき、どのような住宅のモデルがあり得るのか。お手元のパンフレットには少し過激に、「nLDKをいかにして潰すか」と書いてあります。上野先生は「空間帝国主義」と決めつけられるわけですが、果たして、空間は生活や家族を規定できるのか、という問題は建築家も考えてきたわけです。「空間帝国主義者」という言い方には、鈴木先生が打ち立てられた建築計画学そのものに対する批判が込められていると思いますが、では何が可能なのか、そういったことが隠されたラディカルなテーマとして挙げられると思います。今日も山本理顕さんがいらしていますが、このシンポジウムは2回で行なわれます。今日は、51Cとはなにか、またその時代背景を考えるということですが、おそらくそれ以降、また今後の集合住宅がどうなるかといった話にまで広がっていくだろうと思います。最初に51Cの提案者として鈴木先生の方からレクチュアを頂きまして、続いて上野先生から51C批判を頂こうと思います。それらを聞いた上で議論に移りましょう。今日は大先生がたくさんおいでですので、壇上の議論の後、是非フロアからも発言を頂きたいと思います。

では、先生方を紹介します。鈴木成文先生は1927年生まれ、東京大学を卒業され、神戸芸術工科大学学長を務められ、現在、東京大学、神戸芸術工科大学名誉教授でいらっしゃいます。今年76歳です。51C、公営住宅標準設計51年C型案計画当時は24歳でした。吉武先生のもとで、郭茂林さんと一緒になって設計されたんですね。上野先生に言わせると24歳の大学の頃の提案がどうして半世紀も日本の住宅を縛っているのだということになります。本日は51Cの当事者として半世紀以上たった現在、当時を振り返り、51Cとは何だったのか、そして、現在、51Cを生んだ計画理念、手法をどのように考えればいいのか、お考えをお聞かせ頂きたいと思います。鈴木先生、よろしくお願いします。

 

鈴木 —— 御紹介頂きました鈴木です。今日は高名な上野千鶴子さん、布野修司さんと一緒にお話ができることを楽しみにしております。また、前方に学生さんが床に座っているのがとてもいい雰囲気ですね。設計演習の作品講評会のように気楽にお話できればと思います。最初にお断りをしておきますが、以前、舌癌で舌の一部を切り取りましたので聞き取りにくい箇所があるかも知れません。また、即座に言葉が出て来ないことがまどろっこしいと思われるかもしれませんが、ご了承ください。

 本日のシンポジウムは、51Cは呪縛かというテーマを掲げているわけですが、私は俎上の鯉のような気持ちでおります。ここにお集り下さった方のほとんどは51Cが何かご存知かと思いますが、若い学生さんもおられますので、まず始めにその解説をしたいと思います。

「51C」とは1951年度の公営住宅の標準設計の一つの型の名称です。公営住宅とは県営住宅とか、市営住宅といった公的な賃貸住宅です。当時はA、B、Cと三つの型がありまして、住戸面積は、共用階段部分を含んで、それぞれ16坪、14坪、12坪です。その最も小さいものが51Cです。これは全国的にたくさん建てられ、その後の公団住宅にも引き継がれ、いわば公共住宅の原形となったわけです。但し、60年代以降は建設されておりません。その設計の原案を東京大学の吉武研究室が作ったのですが、私は当時、大学院生としてその設計に参加しました。吉武先生は当時30代半ばでしたが、昨年86歳で亡くなられました。

 今や50年以上前のものですから、歴史上の意味しかないと思っていたのですが、昨今、しばしば話題にされています。例えばこの2、3年の間にも、角川出版、平凡社、INAX出版の単行本で取り上げられています。『新建築』、『住宅建築』、『Casa Brutus』といった雑誌にも扱われました。また、大阪市立大学や神戸芸術工科大学などの卒業論文や修士論文のテーマともなり、わざわざ私のところまで質問に来られた学生さんもおられます。来週このシンポジウムにいらっしゃる山本理顕さんによる現在進行中のプロジェクト、東雲の集合住宅では明らかに51Cを設計の標的にしておられるようにも感じられ、「51Cを壊す設計をします」と言われたのです。これでは「51Cは呪縛か」と言われても致し方ないかなとも思います。

 51Cの作成の経緯とその考え方をざっと説明しましょう。若い方も多いので、当時の社会背景から説明をする必要がありますね。

 大平洋戦争の末期、アメリカの空襲によって日本の大都市の多くが焼け野原になりました。当時、住宅はほとんどが木造でした。写真は焼けた私の家の側で私自身が撮ったものです。4月13日の大空襲によって焼けてしまったのですが、この写真を撮ったのは11月でした。半年もこんな状態だった。爆撃を避けるために穴を掘った防空壕に焼けトタンをかぶせて、半年間住んでいる人たちも大勢いたわけです。

 若い方々にはとても考えられないかも知れませんが、お米などの食料もなく、衣服も古いものを繕って着ていた。迫ってくるその年の冬をどう乗り切るかが社会的に大問題になっていて、政府は応急越冬住宅というものを約2万戸建てました。屋根にもルーフィングという防水紙を葺いていて、ほとんどバラックのような状態でしたが、これが、国がお金を出して建てる公営住宅の前身になったんです。

 このとき、後に建設省になる戦災復興院という役所ができました。その第二代総裁が、阿部美樹志さんという偉い方で、この方は若い頃にアメリカで勉強して学位をとった鉄筋コンクリート構造の専門家であるのですが、前述のような貧弱で粗雑な住宅では、またすぐに不良住宅になってしまうだろう、戦災の復興には将来の都市の姿も考え、是非、不燃の鉄筋コンクリートの集合住宅、アパートが作られるべきだと考えたわけです。資材も資金も人手もない中、町には家のない人が溢れているわけだから、周囲の人たちは今は木造住宅を少しでも多く建てるべきではないかと、阿部総裁を引き止めたのですが、彼は断固としてその計画を進め、試験的に鉄筋コンクリート4階建てのアパートを三棟建てました。それが戦後初の「東京都営高輪アパート」です。

 これによってその後の不燃構造の公営住宅への道が開かれたわけだからその功績は大きいと思います。しかし、とにかく安く建てるということが大命題であったため、公営住宅は飾りもなにもない安建築であるという観念をも定着させてしまったわけです。

 この写真は40年後、今から10年前にヒヤリングをしたときの様子です。当時若かった方が80歳代です。

 次に、1949年には公営住宅を全国に展開させるために建設省によって標準設計がつくられました。49A、49B、49C、それぞれ16坪、14坪、12坪です。当時、地方には鉄筋コンクリートの建物などほとんどありませんでしたから、技術指導という意味があり、また国の事業として水準を統一する必要もあったため、標準化は避けられなかったわけです。これは学校建築や病院建築でも同様です。

 新宿区戸山ヶ原の練兵場の跡地に建てられた団地です。ご覧のように貧弱な砂場しかありませんが、当時としては全く新鮮な風景でした。学生だった富安さんなどもそう語っておられます。

 標準設計は建設省によって建築設計監理協会 —今でいう日本建築家協会— に依託され、個々の設計は各設計事務所に割り振られて行なわれました。

 51年度の標準設計の作成にあたっては、やや大きな委員会が作られて、今後の日本の公営住宅が如何にあるべきか議論された上で設計が行なわれました。委員会は建築家、学者、行政官ら20数名によって構成されていたのですが、その中に東京大学の吉武泰水助教授がおられたのでうが、その委員の一人として提案した案が、たまたま委員会の合意を得て原案通りに採択されたものが「51C」であるのです。実施設計は久米設計事務所が行ないました。吉武研に設計が依託されたというわけではないのです。

 委員会は当事銀座数寄屋橋の近くにあった建築学会会館の2階の会議室で行なわれたのですが、私は時々吉武先生の後ろについて行ったり、時には代理で出席したこともありました。松田軍平さんが委員長で、委員には市浦健さん、久米権九郎さん、やや若手の方としては伊藤喜三郎さんなどがおられました。学者では勝田高司先生などがおられましたね。

 設計過程を紹介しましょう。その3、4年前から我々は、一般の零細住宅や労働者住宅など木造住宅の調査研究を始めていました。住み方調査とは、戦時中に京都大学の西山夘三さんが始められたもので、その「食寝分離論」は有名です。当事の建築界では、日本建築の特色は部屋の融通性・転用性にあるという考え方が一般的でした。つまり、畳の部屋は就寝にも、食事にも、接客にも、勉強にも使える。それに対し西山さんは「それは違う」と主張されました。庶民の零細な住宅では二畳の間という小さな部屋を設けてでも食事の場を独立に確保していると。豊富な調査事例を元に、食と寝、つまり食事の場と寝る場所の分離は小住宅における基本的な要求であると主張したわけです。

 吉武研究室でも西山論文をよく読み、議論しました。西山さんの主張はもっともでありました。しかし我々は調査を通じて、間取りの影響も強いということも次第に明らかにしていったのです。間取りの影響とは、人の生活実態における法則性の発見のようなものだと思います。当時は9坪や10坪に5人も6人も住んでいたわけですから、食事と就寝が部屋の使い方の大要を決めてしまいます。家族が若いうちは一部屋で寝ていますが、子供が段々成長してきたり、あるいは家族の人数が多くなってくると、いつかの時期に二部屋に分かれるようになります。我々はこれを「寝室の分解」と呼びました。どういう間取りであれば、寝る部屋が二部屋に分かれやすいか。まずはそれを主要な研究テーマとしたのです。

 調査対象の中での典型的な例ですが、同じ9坪でも台所の位置がAとBでは違います。これによって双方の生活が大きく違うということを我々は発見しました。台所に近い部屋で食事が行なわれるわけですが、小さい部屋、4畳半で食事が行なわれる住宅では6畳に集中就寝してしまい、寝室が分解しにくい。一方、大きい方の部屋、6畳で食事が行なわれる住宅では寝室の分解が早い。こういう間取りの性格を、これ以外のたくさんのプランの住み方調査を通じて立証したのです。

 しかし、2室住宅では、寝室の分解が即、食寝の非分離になります。これを解決することが51年度の我々の設計での一番の目標だったのです。

 設計の際のエスキスが保存してあったのでご紹介しましょう。最初の図は1950年2月2日、委員会が始まる大分前のものですね。住宅調査をしながら今後の日本の住宅はどうあったらいいか自由に考えていました。当時、助手をされていた郭茂林さんという方が描いた図面です。寝るための小さな二部屋は、押し入れで区切られています。

 次の図は8月10日付け、私が描いたものです。実は私の同級生の矢吹茂郎くんという方が都庁に就職して都営住宅の係になっていました。ある時彼から電話がかかってきて、都営住宅の新しい型を設計してみないか、俺が上に提案するからと言われたんです。私は暑いさなかに設計して彼に届けたのですが、そんな新人の提案が取り上げられるわけもなく、彼の机の引き出しに眠ってしまうことになったのです。これは二部屋の間を強引に壁で仕切っています。台所を拡げ、そこで食事ができるようにと考えました。寝室の分解と食寝分離の両立を図ったわけです。

 秋になり、公営住宅設計の委員会が始まりました。この図は吉武さん自身が描かれたものです。日常生活を大事にするために、物置や、荒っぽい仕事ができるし、床に水を流し子供が行水をすることができるようなバルコニーを設けたものです。

 これがほぼ原形のようなものです。翌年の2月末まであと何枚もエスキスはありましたが、そのうちの4、5枚を紹介しましょう。これは最初の案の発展型です。

 A、B、C、即ち16坪、14坪、12坪のプランです。実は吉武研究室としてはAとCがあればよいと主張したのです。つまり、3室型か2室型か。B型は中途半端だからなくてもよいという提案をしました。しかし、建設省は、3つの型を作るための予算をとっているので、3つでなくてはならない、と言うんですね。

 日本の昔からの慣習に従って南に畳の部屋を並べる案も考えました。

 階段室が南、つまり南入りの型もスタディをしました。

 これが最終的に吉武研究室として委員会に提案したものです。C型の南入りと北入りと、A型です。いずれも台所は食事ができるように広めに確保してあります。部屋と部屋の間は、襖ではなく壁で仕切っています。しかし、全ての部屋を壁で仕切ってしまうと狭苦しくなってしまうので、台所と南のひと部屋とは襖でつなぎ、広い空間が得られるようにと考えています。

 このC型のプランが委員会でそのまま採用され、51C-N、51C-Sとなったわけです。実施設計は久米権九郎さんの久米設計が、原案を尊重しほとんどそのまま設計して下さいました。

 食事のできる台所は後にダイニングキッチンと呼ばれ、5年後に設立された住宅公団にも引き継がれました。また、民間の住宅や農村の住宅にまで普及しました。

 台所で食事をするという生活は、我々が勝手に考え出したことではありません。当時の木造住宅の調査では、台所で食事をしているという世帯が1割ほどありました。10%という数は統計的には無視されてしまいがちな量ですが、我々はそこにこれからの姿を見たと思ったのです。生活を積極的に考えている世帯にそういった住み方が多かったんです。これは調査して歩いた実感です。この住み方が今後の姿を先取りしている例ではないかと考えたわけです。

 一方、寝る方に関しては、木造住宅では、夏には家中の襖を取り払い、一つの空間にして寝ている例もありました。しかし、健全な家庭生活のためには、二部屋に分かれるプランがいい。これは設計の際の理念といってもいいでしょう。

 隔離された部屋は基本寝室として、夫婦が寝るという想定はしました。しかし、二部屋の分かれ方に関しては、必ずしも親と子が分かれる必というわけではありません。木造住宅での住み方では、父親と男の子、母親と女の子といった例もありましたし、朝早く起きる母親だけ、あるいは夜勤のある父親だけが別室といった例もありました。夫婦が分かれて寝る例は日本では昔からかなり一般的で、我々のどの時期の調査にも夫婦別室就寝は2割から3割はあったのです。

 51Cのプランの空間構成では、仕切ることは必要ですが、たかだか35平米の住宅で、生活を全て機能別に分けるといったことは考えられません。生活をいかに重ね合わせるか、重合させるかが重要な問題となります。炊事と食事を重ねました。台所と南の部屋は襖で開放的につなげています。空間の重ね合わせを考えた中、北側の一部屋だけははっきりと仕切ったわけです。分離と重合、これが51Cの設計における一番の眼目でした。

 この設計の基本的な考え方は、設計の直後、51年5月に、建築学会関東支部研究発表会で発表した論文があります。その論文は『住まいの計画、住まいの文化』という本にそのまま収録してあります。

 最後にその後の展開について説明しましょう。5年後には日本住宅公団が設立され、51Cのプランの考え方がほぼ踏襲されました。ちょうど高度経済成長の始まりの時期に重なり、都市に集中する若い人口の受け手として公団が設立されたわけです。そして、大団地やニュータウンを作りました。様々な世帯に対応するために1DK、2K、2DK、3K、3DKといった型の系列を生み出したのです。私はしかし、この3DKのプランには非常に批判的でした。つまり、35平米の中で合理的な生活を、とぎりぎりに考えたものに、ただ一部屋付け加えただけというのではあまりに安易だ。3室、50平米になったなら、それに対応した生活の組立を考えるべきです。

 その後も、公営住宅、公団住宅などアパートの住み方調査も続けていったわけですが、2DKでは我々が想定した住み方がほぼ実現されているのが見られました。

 この頃から、家庭経済も豊かになり家具が増えてきます。洋風化の波にのり、ソファ、ピアノ、ステレオなどが家庭の中に侵入してきます。それらが置かれた畳の部屋は、次第にリビングルームの様相を呈してきます。公団はDKを拡大し、LDKというプランも作り出します。

 この頃から、公共だけではなく民間も住宅供給に参入してきます。民間は賃貸住宅ではなく、建て売り住宅とか分譲マンションを作るわけですが、民間はとにかく売れればよいとして、需要者に媚び、部屋数が多ければ好まれると思い込まれ、部屋の使い方や生活を考えずに部屋数ばかり多いプランが氾濫してきました。これは戸建て住宅でも同様で、二階に個室がたくさんあります。建築界ではこれを揶揄して「nLDK」と呼んだのです。nLDKを非難したのですが、住宅メーカーの力は強く、なかなかそこから抜けだせないでいるんですね。

 むしろ私たちは部屋割りを固定するのではなく、住み手の独自の生活要求や、生活の変化に順応するプランであるべきだと考えて「順応型住宅」という提案をしました。それが1974年です。住み手自身が生活空間を自分で作れる住宅です。

 住居の計画の考え方は時代、社会の変化に応じて変わっていくものです。51Cは過去のものだと思っていたのですが、近年再び呼び出されているという感じを受けている次第です。

布野 —— 上野先生の51C批判を充分に意識された上で、nLDKというワンパターンが蔓延したのは自分のせいではなく、住宅メーカーのせいなんだとおっしゃるわけですね。もうひとつ、近代家族の容れ物として51Cを作ったわけではなく、当時から実態として夫婦別室就寝もあったわけで、箱は自由に使っていいんだという伏線も張られていたように思います。

次に上野先生にお願いしたいと思います。上野先生は1948年生まれ、社会学者として幅広くご活躍のことは皆さんご承知の通りです。先生のお名前からはフェミニスト、ジェンダーという言葉が連想されますが、住宅メーカーなどの調査研究等もされております。一貫して都市コミュニティの住宅と家族についてご関心をお持ちのように思います。京都大学を卒業され、現在は東京大学大学院人文社会系研究科の教授をされています。

本日のテーマに直接関係する著書としては、『近代家族の形成と終焉』、そして、一昨年、山本理顕さんや隈研吾さんと『家族を入れる箱 家族を越える箱』という本を出されています。この中ではほとんどのページで51C批判が展開されているわけです。

上野 —— 本日は異業種交流に参りました。鈴木さんのお話をお聞きして、51CとnLDKとは別物だとわかりました。2DKにただ一つ二つ部屋を加えただけではあまりに安易だというお話ですね。本日は51C批判にまいったわけではありません。撲滅すべき敵が鈴木さんと同じであることがわかりましたので、共闘させていただければと思います。

 鈴木さんも寝方調査や住み方調査をなさったとのことですが、私のもともとの関心も、寝方調査から始まりました。住宅にはゾーニングがあって、寝るところ、食べるところと、設計によって指定された機能があります。ところが実際には、住み手は指定された通りには空間を使っていないということがわかります。記号論の言葉を使いますと、空間の規則を住宅のシンタックスといい、実際の使われ方を住宅のプラグマティクスといいます。調べてみるとそのあいだにずれがある。昔からそうだったと鈴木さんはおっしゃるかもしれませんが、戦後の特徴的な変化をいえば、住宅に占める性の位置が大きく変わってきたということがいえます。これまでの住宅では、舅・姑がいるから夫婦生活も出来ないという悩みがあったりしました。戦後、核家族の容れものとして都市勤労者住宅が大量生産され、嫁姑の間の世帯分離がおきていきます。夫婦の性が家族の絆として浮上してくるのが1960年代のことです。都市型集合住宅は、日本型近代家族の容れものとなりました。

 近代家族では「家族する」ための条件は、夫婦がいることです。では、夫婦しているとはどういうことでしょうか。現実にそうしているかどうかはよくわからないけれど、タテマエのうえではセックスをしていること、少なくともそのふりをしていることです。セックスレスのカップルを「未完成婚」と呼ぶのは、たいへん象徴的です。しかし、社会学者は非常に疑り深い生き物ですから、タテマエを額面通りは信じません。わたしが夫婦の寝方に関心を持ち始めたのは1980年代のことでした。日本における寝方調査の最も古いものは1960年代に、こーディルというアメリカの人類学者によって行なわれています。「人生の3分の1は寝て過ごす。だれと寝るかはどうでもいい問題ではない」と考えた彼は、ゼロ歳児のいる家庭の寝方を調査して、日本では場合によっては夫婦別室を含む母子同室が圧倒的に多いことを発見しました。これは夫婦同室が原則で、たとえゼロ歳児であっても母子別室にするアメリカとは顕著な対照を示しました。これから彼は、日本における母子の未分化と甘えの構造を導き出していくのですが、こういう文化本質主義は眉につばをつけて聞きましょう。というのは部屋数が少なければ、そもそも選択肢がないからです。

 50年代には、規模の大小を問わず似たような集合住宅がどんどん作られていきます。平家でも同様なものが作られていきますが、間取りはあまり変わりません。鈴木さんは都市型住居についてお話されましたが、戦前の農家をごらんいただきましょう。いわゆる田の字型の間取りですが、家族員がどのように寝ているかというと、ちょうだという納戸で家族全員が雑魚寝をしていました。プランで言えば、入り口、土間、座敷、納戸がある。座敷で家長夫婦が寝て、のこりの家族員は納戸で雑魚寝をします。私はセクシュアリティ研究もしていますから、日本の夜這いについても研究しています。農家の世帯はどこも似たようなつくりで、鼻をつままれても分からないような暗闇の中でも、行き着くところまで行き着けます。家長夫婦の枕元を通ってめざす娘のいる納戸まで行くわけですが、雑魚寝していますから、時々、姉と妹を間違えたなどということもあったようです。プライバシーはありませんから、どんな暗闇でもだれがだれとできているかは誰でも知っています。家長夫婦も知っていて、見ぬふりをするわけです。

 農家では囲炉裏を囲んで、家長の座る横座は決まっていますが、それが後のちゃぶ台文化では、家長の座がなくなる食卓の民主化が起きます。やがてテレビが家族の中に入ってくると、テレビを一番よく見ることのできる位置が横座、おやじの座になります。その座はやがて子どもに奪われ、テレビが家族の中心になり、そしてパパがいなくなった(笑)。

 わたしは空間のシンタックスと空間のプラグマティクスのずれを研究するために、1988年に始めて調査を行ないました。松下電工A&I研究所のモニター調査に便乗して、ここで当時まだ珍しかったファックス機をモニターの人たちの家に入れて、寝方を図で描いて説明してもらうようお願いしたものです。その結果、夫婦別室就寝率は、該当者の14%と答がかえってきました。そのなかから、ファックス調査の一次資料の一部をお見せしましょう。多いのは典型的な川の字型の、夫婦と子どもが1室に就寝する雑魚寝です。夫と妻はセックスをするためには、子どもを跨いでいかなくてはいけません。調査データからわかったことは、日本の住宅において洋風化がもっとも遅れている部屋は寝室であるということです。しかも洋風化が進んでもダブルベッドの普及率は非常に低く、狭さの制約があるにもかかわらずツインが圧倒的でした比較的高経済階層の人たちでしたから、寝室の洋風化率は高かったのですが、ほとんど同室異床というツイン型でした。寝室とはなにをするところでしょうか。一方では眠るところであり、一方ではセックスをするところですが、同じ部屋で別々に眠り、お互いに夫婦をしているふりをする、ある種のタテマエが見られるが、同じベッドでは眠らないという日本型解決なのでしょう。

 こういった寝方調査を行なうことは、夫婦しているふりをしているというタテマエを暴くという、タブーに触れることになりますので、公然と人に聞くということができにくい。鈴木さんの調査では夫婦別室はひろく行われていたということですが、鈴木さんが調査なさった40年代までは夫婦の寝方をあからさまにたずねたり答えたりしてもよかったのかもしれません。が、60年代にはいり、近代家族の大衆化を経て、性の絆が家族の中心になって以降は、夫婦別室であることを公言することがはばかられる雰囲気が出てきたように思います。寝方調査が公然と行なわれた最初のデータが、92年のものです。旭化成DEWKS(ダブル・エンプロイド・ウィズ・キッズの略語で、DINKSの向こうをはったものです)研究所による夫婦の寝室ライフの調査です。この調査結果は予測通りで、わたしにはまったく驚きがありませんでしたが、むしろ、こういった調査が公然と行なわれる時勢の変化に驚きました。この調査によると、別室派が15%、年齢層が上がるごとにその比率が高くなっていきます。50代では4分の1が別室派です。さらに98年に、オーネットという高砂産業から、公然と夫婦の就寝調査のデータが出てきました。この調査では、配偶者との就寝形態が別々の部屋であるものが2割台に達しています。こういう調査を公然と行うことのできる時代が到来したわけです。

 近年になって、ついに建築学の専門家が、夫婦の就寝調査を行うようになりました。日本女子大卒の山崎さゆりさんという方が『住戸内における中高年夫婦の就寝形態について』論じておられます。彼女はこのテーマで博士号を取られたそうですが、この研究を始めた当初は周囲から何の役に立つのかと、理解を得られなかったそうです。彼女のデータによると年齢とともに別室が増え、夫婦の親密度とクロスさせると相関傾向があることがわかります。就寝形態が別々だから親密度が低くなるのか、親密度が低いから別々に寝るのか。どちらが原因でどちらが結果かは、わかりません。親密度が低いのに同室にしていれば、夫婦の破綻が早まったかもしれません。『家庭内離婚』の著者、林郁さんによると、セックスなしだから離婚せずにすむ、ということもあります。山崎さんのデータによりますと、就寝形態の希望と実態にジェンダーという変数を入れると男性と女性の差が出てきます。別室を希望しているのに実態は同室で困っているのが女性に多いこともわかりました。

 1970年に山本理顕さんが修士論文の中で次のような概念図を提示します。それについてご説明しましょう。nLDKの個室にそれぞれ家族がいて、そのなかでママだけがはみ出しているます。「ママの居場所はどこ?」という問いに対しては、お家のなか全部よ、という答が返ってきます。事実、ママは家族の個室にノックもせずに入る権利を持っていました。その後、家族が個族化していくと、個室のドアは閉じられてしまいます。今から思い起こせば、1970年は女性にとって画期的な年でした。なぜならウーマンリブが誕生した年だったからです。リブの要求はたった一つ、「私の居場所はどこにあるの」という問いでした。家族の中にはない、というのがその答だったのです。

 近代家族のハコである住宅は、私が「大草原の小さな家」モデルと呼んでいるコードでできています。個室を背後にリビングが玄関につながったnLDKモデルは、パパが家族をしっかり背負って社会に立ち向かう姿を示しています。実際には個室は決してデッドエンドではなく、外部へと脱けています。社会学者は早い時期から、個室が情報端末につながっており、家族のメンバーそれぞれが個別のルートで社会につながっていることを指摘してきました。それをそっくり模式化したものが、山本モデルです。私たち社会学者は絵にも描けないコンセプトを言語化しますが、コンセプト通りに空間を作ってしまうのが建築家ですね。わたしは愛と尊敬をこめて、山本理顕さんに「空間帝国主義者」という名称を奉りました。山本さんの命題は、「住宅とは、空間化された家族の規範である」というものです。つまり、家族の住むところが住宅なのではなく、住宅に住んでいる集団を家族と呼ぶ、と。空間帝国主義者にふさわしい、建築家としてのプライドのこもった命題ですね。

 それを実際の建築にしたのが、岡山の家です。これをユニットとして、積み上げて集合住宅にしてしまったのが保田窪団地ですね。岡山の家の中庭にあたる空間を、保多窪ではコモンスペースとインディヴィジュアルスペースをブリッジによって引き離すという仕掛けでつくりだしています。このユニットをつないで積み上げた合計で144戸の集合住宅、さらにコモンスペースとインディヴィジュアルスペースを二重構造にして中庭を集合的なコモン空間にしたてたものが保田窪団地です。細川知事の時代に熊本県がアートポリス構想をうちだしました。コミッショナーに磯崎新さんを指名して、気鋭の建築家に指名設計をさせるという政策でした。県営団地である保多窪団地は、その一貫としてできた作品です。わたしは入居後8年目に、東京大学社会学研究室の学生53人を連れて、保多窪団地の住民調査に出掛けました。その調査の結果、おもしろいことがいろいろわかりました。住民の入居理由のベスト3は早い、安い、近い。転居したいと思っていた時に募集があった、県営住宅だから家賃が安い、ロケーションがよくて通勤に便利。この3つです。実際に入居してみるまで、特異な設計など気にしていないことがすぐにわかりました。入居者は以下のように二極分解していました。古い県営住宅の建替えだったので、一つは住み替え定住型です。単身高齢者、母子家庭など、標準世帯からはずれた非定型的な世帯です。もう一つは低家賃通過型です。比較的年齢層の若い、低年齢の子どものいる夫婦世帯で、いずれ出ていくための通過点として公営住宅を選んでいる人々です。両者を比較すると、対比がくっきりと浮き上がってきました。定住型の住民の満足度が著しく低く、通過型の住民の満足度が相対的に高い。住み替え型公営住宅の限界が皮肉なかたちであらわれました。つまり選べない人たちは不満が多く、選べる人たちのほうの満足度が高かったのです。もしこれが、任意で選べるような民間の住宅や分譲であれば違う結果が出たかもしれません。しかし他方で、民間のデベロッパーはリスクの多い冒険をいやがります。空前絶後のユニークな山本プランは、公共住宅だからこそ可能になったという歴史のアイロニーがあります。

 2004年に入ってから、任意の住宅のチラシ広告から引っ張ってきたプランをいくつかお見せしましょう。サイズが大きくとも小さくとも、仕様がゴージャスであろうが質素だろうが、基本的なnLDKのプランはほとんど変わりません。nLDKというモデルは、誕生してから半世紀たった今も、いまだ耐用年数が尽きていない、驚くべき長命なモデルです。このモデルが再生産されていて、これに変わるモデルが登場していないという事実こそ、建築家の怠慢のあらわれでないか、とわたしは言いつづけてきました。ですから、先ほど、鈴木さんがnLDKは安易なプランだとおっしゃったことには、まったく同感です。

 ところで、90年代以降、日本の家族は急速に変化を遂げます。いわゆる夫婦と子供からなる世帯は、今や少数派、3分の1に転落して、3分の2はもはや非標準世帯に変わってしまっています。わたしは岡山県立大学大学院デザイン学科の集中講議を担当したことがありますが、その時、受講生に次のような課題を出しました。「家族をこえるハコを構想せよ。」ご存じのように岡山は地価が安く、学生に「わたしの家」を描いてもらうと、家族の数より部屋数のほうが多いような豪邸がいくつも出てきます。広さではなく、空間のコンセプトで、家族を超える空間を構想してもらおうと思ったのです。答には次のようなものが出てきました。住宅はかばんのようなものである。はみ出したり、むりやり詰めこんだりという操作が行なわれている。どうやって詰めこむかといった時、ファミリースペースを半透明、半開放的な空間にするというアイディアがありました。山本モデルに相当影響を受けていますが、このアイディアは、東雲の集合住宅に生かされる結果になりました。

 若い学生に課題を題しても、目の醒めるような提案は出て来ません。やはりnLDKの呪縛は強いと感じました。では住み手の側には、どういった住宅へのニーズがあるでしょうか。わたしたちが関西で実施したクリエイティブミズの「住みたい家は」という調査研究は、住むことをまじめに考えている先進的な人たちから学んだと鈴木さんご自身がおっしゃったように、京阪神のきわめてアクティビティレベルの高いミセスを対象に、住宅ニーズを探ったものでした。たとえば、運転免許を持っているとか、自分の名刺を持っているとか、自分のパソコンを持っていると答える比率の高い女性たちです。その結果、出てきたニーズを実際の空間に落として住宅モデルを作るという企画を、松下の研究所の田原晋さんが思いつきました。伊東豊雄さんや隈研吾さんたち、気鋭の建築家を指名して、実際に設計をしてもらうという夢の競演です。近代住宅のモデルではハコの中に家族が詰めこまれているとするなら、脱近代モデルでは、家族は半分はみ出し、流動的につながっています。山本理顕さんは、コモンスペースがチェーンのようにつながっているモデルをつくりました。妹島和世さんはゲートモデルをつくりました。伊東豊雄さんはその逆、インディビデュアルスペースが直接外部に対して開口部を持つモデルをつくりました。これは伊東モデルの展開例ですが、トポロジカルには全く同じモデルが一階と二階にわたって、立体的に展開していくものです。飯村さんがワンルームモデルをつくりました。コモンスペースを中心に、コーナーにインディビディアルスペースが分散しているワンルームモデルです。隈研吾さんはコモンスペースの選択を提案しました。個室がエレベーターを介して機能の異なるコモンスペースにつながります。選択肢が複数あり、自分の好きなコモンスペースが選べます。それをレベルを変えてタテにつないだのが、この住宅です。隈さんのアイディアは最近のユニットケアにも通じるおもしろいアイディアですが、これを見たとき、わたしはなぜ個室にベッドを入れるのか疑問に思いました。なぜ個室はすなわち寝る場所なのでしょうか。日本にはごろ寝や雑魚寝という文化があります。個室は寝る場所であるよりも、個人のアクティビティが行なわれる場所と考えたほうがいいのではないか。そう考えると、住宅は食う、寝る、セックスするというプライベートな活動に決して還元されないということです。

 わたしたちは、クリエイティブミズ調査から浮かびあがったニーズを、セミパブリックなインターフェイスのできる空間と考え、この空間をラボ(ラボラトリーすなわち工房)と名づけました。ラボ機能のあるスペースを住宅空間のなかに実現してくれたのは、三村さんのモデルです。ライフワークギャラリーというスペースがあり、ここには家族のコモンスペースを通らず、玄関から直接行けるようになっています。クリエイティブミズという先進的な女性たちは、この空間の中で、パソコン通信をしたり、自己研修をしたり、フラワー教室を主宰したり、工芸のための工房にしたいと考えています。

 ここで、住宅とは何だったのかという根本的な問いに戻りましょう。結論から言えば、住むためだけ、寝るために帰るためだけの空間はもういらないということです。活動したり、仕事をするための空間に対して、住むための空間が住宅としてつくられたわけですが、この背景には近代社会における職住分離があります。別の言葉でいうと、生産と消費の分離です。この生産と消費の分離そのものがゆらいできています。個室はもはや寝るための部屋、住宅のデッドエンドではなく、外界とのインターフェイスがあり、次世代型アクティビティのシーズとなるべきクリエイティブな活動を行なう場所になっています。住宅はもはや、消費空間に特化されてはいません。SOHOのようなオフィス・ユースがますます増えてくれば、住宅を商業目的に使用することを制限する現在の規制も、緩和される必要があるでしょう。

 そうなるとプライバシーの核にあったセックスはどこへ、という問いが出てきます。日本にはセックスのアウトソーシングという伝統があります(笑い)。仕事とセックスは家庭の中に持ちこまない、という人さえいるくらいです。セックスの問題は、大半が住宅問題ですが、日本にはラブホテルという世界に冠たる都市インフラが整備されているおかげで、セックスのアウトソーシングが比較的容易にできるのです。

 では、最後に家族にはなにが残るのでしょうか。家族が家族でなければならない理由はどこにあるのでしょう。もはやセックスがその理由にはならないとすれば、残るのは育児、介護、介助、総じてケアと呼ばれるものです。近代家族の核心にあったものは、ケアの私事化でした。うらがえして言えば、育児・介護の脱私事化こそ、近代家族の終焉と言えるでしょう。わたしは1994年に、『近代家族の成立と終焉』という本を書きました。まだじゅうぶん成立してもいないのに、終焉とは気が早いのではないかと言われましたが、わたしの見解では、近代家族はもうとっくに終わっています。耐用年数が尽きているのに、息も絶え絶えにまだ続いていることが問題なのです。むしろ家族がケアの機能をもはや果たせないという現実を認めて、その対策を考えるときが来ているというべきでしょう。介護保険は、介護の社会化すなわちケアのアウトソーシングへ向けての大きな一歩でした。もし家族に残された最後の機能であるケアをアウトソーシングするのなら、ケアを必要とする人々を抱えた住宅というハコは、外に対して開かれる必要があります。たとえばヘルパーさんや訪問看護師などの人たちが、外から入ってくることを前提に、空間が設計される必要があるでしょう。そのためには、個性的な住宅などいらない、とわたしは思っています。キーさえ借りたらどんな車種でも乗りまわせるレンタカーと同様に、水回りやトイレなど、初めてなかに入っても誰でも使い回せる定型的なモデルがあればじゅうぶん、と思います。装置系としての住宅インフラの汎用的なモデルのうえに、家族の生活形態にあわせた複数の空間モデルの提示ができればよい、それが、建築家の方たちにぜひやっていただきたい課題です。

 わたしは昨年『家族、積み過ぎた方舟』という訳書を出しました。マーサ・ファインマンというフェミニスト法学者の理論書を翻訳したものですが、帯には本文中からとった「法的制度としての婚姻を廃止せよ」というフレーズが書かれています。セックスしたからといって、いちいちお上に届けを出すなということですね。セックスするなら趣味でしろ、性的絆があるかどうかで家族を定義するなという提案です。では、家族の絆になにが残るのか。帯の文句では、「性の絆からケアの絆へ、新しい家族の定義が、今生まれる。」ポスト近代家族の流れはこの方向にいくだろうというのが、わたしの予測です。翻訳のタイトルに「積みすぎた方舟」とつけたのはわたしですが、ココロは、近代家族はそれが出航したときから、重荷を積みすぎていて、座礁は運命づけられていた、というものです。その「重荷」とは育児・介護の負担であり、もともと「ケアの私事化」は、近代家族には重すぎる負担でした。

 家族を超えたケアを可能にする空間はどんなものでしょうか。もう一つのわが家、という言葉がありますが、千葉県にある風の村という、ユニットケアではモデル施設と言われているものが、一つの例でしょう。ユニットケアは、個室+リビングの集合から成っていますが、トポロジカルには端末は必ずしも個室である必要はなく、離れたところにある各住戸でもかまいません。コモンスペースも必ずしも、一定の空間が指定されている必要はなく、ここがイヤならあちらがあるさ、と選択してもかまわない。家族が選べる共同性になっていく、というコンセプトを空間化するとこうなるだろうというモデルです。これがすべてだとは思いませんが、こういった試行が増えていけばいいのではないだろうかというのが、建築家へのわたしの期待です。

布野 —— 51Cどころか住宅も終わってしまっていて、議論が始めづらいですね(笑)。51Cにこだわって、その評価に対して議論をしたいのですが、鈴木先生は今の上野さんのパワフルな議論をどう評されますか。

鈴木 —— 難しくてよく分かりませんでした(笑)。「空間帝国主義」と言われましたが、建築をやっている者は、建築を作ることで人々の生活をどの方向に引っ張っていくかを考えているわけです。集合住宅では、特定の家族ではなく不特定な集団を相手にして、社会において、それがどのような方向に進んでいけばよいかに対して援助をする、刺激を与えるといったことを、公共住宅の計画・設計をする方々は考えているわけです。もちろん、民間のハウスメーカーの方もそう考えておられるのかも知れませんが。

 今の上野さんの話は、あんまりすっ飛びすぎていて、住宅でそこまで考えることがあるのかという感じを受けました。

上野 —— 今の鈴木さんのご発言をお聞きして、山本理顕さんだけではなく、建築家はそもそも帝国主義者なのだという印象を受けました。あるべき生活に引っぱっていくための空間づくりを考えておられるんですね。鈴木さんはご著書の中で、住宅には順応型の他に理念型というものがあるとおっしゃっていますが、本日は理念型のお話がありませんでしたね。実際の生活とは若干のずれがあったとしても、理念型の住宅で生活のほうを引っぱっていくという規範意識がおありなのでしょう。それにくらべると、社会学者はミもフタもないリアリストです。規範と実践は、やさしい言葉でいいかえると、タテマエとホンネと言ってもよいでしょうが、タテマエとホンネはずれるのがあたりまえ。そのふたつがずれていたら、タテマエにホンネを合わせるのではなく、ホンネにタテマエを合わるほうがよい、とわたしなどは思いますが、建築家は逆に、タテマエにホンネを合わせるという提案をしてこられたわけですね。

鈴木 —— そうですね。建築は大体そうでしょうね。

布野 —— 空間帝国主義者と言ったとき、おそらくここにいらっしゃる建築関係者の大半が当てはまるでしょう。また、空間のあり方を決定するんですから、これは帝国主義的暴力です。僕は鈴木先生の弟子ですから、もちろん、空間帝国主義者ですが、別の解説をさせて下さい。戦後、51Cを提示する背景には、ある種の啓蒙主義があったと思うんですね。要するに、戦後近代住宅のモデルを提示したいと多くの建築家は思っていたんです。そして、51CがnLDKにつながっていく論理展開はあったと思っているんですが。

上野 —— では、質問をさせていただいてよろしいでしょうか。51CがnLDKの原形であるというのは上野の誤解であるとおっしゃいましたが、そういった誤解は、わたしひとりの誤解ではなく、建築業界では流通しているようです。なぜ、こういった誤解が広まったのでしょうか。

鈴木 —— 上野さんだけではなく、そういった誤解は割合多いですね。以前、塚本由晴さんが、空間を機能に分けてそれをつなげる考え方の典型がnLDKでその元が51Cだと書かれていて驚きました。おそらく若い方は、ここに壁があるのを見て、機能別に部屋を分けたと思い込まれるのでしょう。和室の住宅として不自然な壁ではあります。でも一方で台所とひと部屋は開放性につないでいる。それを見ないで壁で仕切る、機能分化、だから近代主義という思い込みになるのでしょう。そういったことが雑誌などにもよく出てくるけれど、これを作ったときは、なにを重ね合わせ、なにを分けるかを考えていたのです。機能別に生活を分けてそこをつなげ合わせるといったことは35平米でできるわけがない。そういった若い人たちの誤解が社会学の方にも流れていったのかも知れません。

上野 —— 35平米を区割りするという最小限住宅モデルですね。35平米ならこうなるけれど、60、70平米でもう少し空間に余裕があれば別のモデルを考えただろうとおっしゃったことに感動しました。平米数が増えていっても、結局、最小限住宅の2DKモデルに個室を一つ二つと足していくだけに終わった、それではあまりに安易だとおっしゃいましたね。

布野 —— 今日、僕が司会の役割を仰せつかったのは、鈴木先生一人では上野先生には太刀打ちできないだろうから、加勢しろということなんだとは思います。僕が変なことを言って、不利にしてしまってはまずいのでしょうけれど、少し確認しておいた方がいいと思います。食寝分離と隔離就寝という非常に単純なルールを35平米でやると、51Cがベストに近い解答となります。誰が解いてもそう大きく変わらないと思います。問題は、その次の展開です。当時、どうして規模を確保するかが問題だった。鈴木先生はおっしゃいませんでしたが、戦後の過程で面積を確保していく論理立てとして、食寝分離と隔離就寝に続いて出されたのは、公私室分離ということではなかったでしょうか。それが居間(L)の確保に繋がった。LDKの誕生です。それからはさらに個室(n)の確保へという論理展開ではなかったのでしょうか。3DKとか3LDKができたのは1960年頃だったと思いますが、一定程度の面積が確保されるようになった鈴木先生は順応型とおっしゃられるようになった。1970年代初頭ですが、僕はその頃研究室にいたんです。そういった流れではなかったでしょうか。

鈴木 —— 「リビング」というものは自然に出たわけです。畳の部屋に家具が入り込んできた。ピアノ、ソファ、ステレオが入り込んできて、自然にリビングができてきた。公団や公営住宅がそう作ろうとしたわけではなく、日本の都会に住む若い公団層のような人たちがそういった方向に流れていった。言わば、リビングはそれを追認したのでしょう。

上野 —— 建築史に無知なものだから、今日は発見に次ぐ発見です。公私室分離という言葉を聞いておもしろいと思いました。都市型住宅のnLDKのLDKが同時に公室としての機能を果すことが期待されたとのことですが、結果として都市住宅のリビングは、主婦の気のおけない友人以外は、誰も来ない(遠すぎて)、誰も呼べない(乱雑すぎて)、そんな私的な空間の牙城になってしまいましたね。結局、近代家族の住空間の中からは、公にあたるスペースはすっかり姿を消してしまったように思います。

鈴木 —— そうですね、私もそう思います。昔は公私室分離という言葉を使っていましたが、今はもう使わなくなりました。ここで言う公は、家庭の中での公を表わしていたわけです。しかし、公はより社会に対して使うべき言葉ですね。建築界では、公室という言葉が定着してしまっているところがありますが、私は使わないようにしています。リビングと個室と分かれるタイプが日本の都市住宅を支配したような感じですが、それがおかしいと思い、順応型を出したわけです。上野さんから理念型という言葉を使わなかったことに対してご指摘を頂きましたが、私は順応型も一つの理念型だと思っています。私は「順応型」に対しては「迎合型」という言葉を使います。

上野 —— 順応型、理念型の他に迎合型というものがあるんですか。

鈴木 —— 順応型とは住宅の型について言っているわけですが、迎合型は計画の態度のことを言っています。市場調査によって多くの人々にこういった傾向があると知って、だからこれを作ろう、とするのが「迎合型」の態度です。それに対して、ただ人々の要求に従うだけではなく、社会はこういった方向に進むべきだ、と。将来の姿を描きながら作ろうとするのが「理念型」です。そういった大雑把なわけ方ができます。迎合型とは言葉を変えれば「民主主義型」とも言えるし、理念型とは「独裁者型」と言えるかも知れない。ただ自分がこう思うからというだけの独裁者ではいけなくて、どういった流れにのって社会に刺激を与えていくのかを考えるのが住宅の計画だと思うわけです。社会の流れがおかしな方向へ行くのにまともにそれに逆らっても、それ程上手くいくわけがない。それに乗りながら、少しづつそれを変えていこうとしているのが住宅計画の人たちでしょう。

上野 —— 確かめたいのですが。順応型はどこに入るのでしょうか。

鈴木 —— 順応型とは住宅の型を言っているわけで、計画の態度を言っているわけではない。これは計画の態度として、迎合型ないし民主主義型と、理念型ないし独裁者型とがあると言っているんです。順応型は計画の態度ではなく、住宅の型を言っている。

上野 —— 51Cを作られたときには経験的な現実にもとづいて作られたというお話でしたし、そういったリアリティがおありだったんだと思います。わたしは「51C憎し」ではなく、「近代家族憎し」のほうの立場ですね。日本における近代家族は、あっという間にできて、あっという間に滅びへの路をたどっていると思います。家族が変わってしまったんだから、変化した家族の現実に、空間も合わせたらいいじゃないか、というホンネにタテマエを合わせるべきだという考え方です。半世紀もたてば、住宅にはいるべき家族も大きく変わりました。そういう意味では、鈴木さんも現実の変化に合わせて柔軟に空間設計をするべきだというお考えのようなので、わたしと大変近いように感じます(笑)。鈴木さんがnLDK批判をされるときのポイントはどこでしょうか。本日は歴史的なレクチュアになるでしょう。nLDKの生みの親だと思われている鈴木さんが、nLDK批判をなさるのですから。

鈴木 —— nLDKという言葉がいつ発生したのか調べようと思ったのですが、調べようがないんですね。

布野 —— nLDK家族と言い出したのは社会学者ではないでしょうか。

鈴木 —— いや私は、直感的には、建築でこの言葉を使いだしたように思うんです。nは数を表わすわけです。1や2をnとは言わない。4や5が出てきたからnLDKという語が出てきたんでしょう。今日は長谷工の方もおられますが(笑)、マンションでも3LDKよりも4LDK、4LDKよりも5LDKが売れる。そういった状況に対する皮肉を混ぜて出てきた言葉のように思うんです。ある時期は、なんとかこれを潰すことが出来ないかと考えもしたんですが、そうではないんだと思うんですね。「型」を提示するという行為自体が、多様化し変化の大きい家族に対して間違いなのかも知れない。それで順応型の方へ進んでいったのです。集合住宅の初期から、生活調査、住み方調査をしてそこから研究が出発したものだから、住み方調査をやればプランが出てくるという思い込みが公団などにもあったのです。結構なことだとは思うのですが、住宅公団は生活調査をずいぶんとなされた。さらに、ライフスタイル対応住宅という言葉が出てくるわけです。色々なライフスタイルがあるとそれを分けて、それぞれに対応するプランを作る。公団ではそういった考え方も出てきたようですが、私はそれが上手くいくとは思わない。一つの家族が一つの型にはまるなんてことはあり得ないですから。むしろ中に入る家族、いや、住み手が空間を作っていくように仕向けるべきだというのが今のところの私の考えです。

上野 —— 「家族」が住む、と言いかけて、「住む人」とすぐに言い換えられたところから、鈴木先生の柔軟さが分かりますね。今や、住宅に暮らすのは家族だけとは限らないですから。もうモデルを供給する時代ではないとおっしゃるのでしょうか。

鈴木 —— モデルを作ること自体はいいと思うんです。建築家がモデルを提示することは大事だと思うんです。しかし、幾つかのタイプによって住宅を供給することはおかしいと思っています。

上野 —— それでは建築家は、何をしたらよいのでしょう。

鈴木 —— 人々をどこへ引っ張っていくのかが建築家の仕事でしょう。

上野 —— モデルは提示なさるわけですか。

鈴木 —— モデルを提示することはその内の一つの操作だと思いますが、3つ、とか12のモデルによって住宅を供給する、といったことはおかしいでしょう。モデルは一つの目標像のようなものですから、そういったものがあってもいいと思います。

上野 —— 例えば、多様化した家族に合わせて、それぞれユニークで個性的な住まいを作るということになるのか、ならないのか。わたしは注文住宅のような住宅のカスタムメイドには反対です。日本では住宅の資産価値が高過ぎて、家は一生ものでしたが、ファミリーサイクルが長くなり、一生が80年以上になってくると、家族は拡張期よりも縮小期の方が長期化します。家族の規模の最大時に合わせて作った注文住宅なんて、その後持てあますに決まっているので、今後、住宅は住み替えを前提に、中古市場に投入される商品にならざるを得ないでしょう。そこにはある種の基本ユニットを装備した汎用性のあるモデルがあればよい。住み手が変わっても、誰でも使いまわせるという基本的なインフラを備えたうえで、有限個の複数のモデルが提示されたらよかろうと考えるのですが。

鈴木 —— 供給の制度は非常に難しい問題を持っていますね。例えば幾つかモデルがあるとしても、そのモデルにあった家族が入ってくるとは思われない。先程、上野さんが言われたように、近い、安い、早いといったことで選んでしまうわけです。プランタイプにあった住み手が入るとは限らない。だから、むしろ住み手自身が作っていくように仕向けていくべきでしょう。1950年代には35平米、40平米の中に、4人、5人、6人がどのように住むかを考えたわけですが、今や、公営住宅ですらその面積は80平米、100平米にもなり、家族の数は2人、3人ほどになっている。一人当りの面積は数倍になっているわけです。だから、今、住宅のプランニングは楽勝の時代です。ライフスタイル対応なんて考えなくても、自由に住まえる。それよりも、外との関係を考えた方がよいと考えるわけです。この話は来週の理顕さんとの話のテーマになるでしょう。型を提示して供給することはどうでもよいのでしょうね。

上野 —— ここにきていらっしゃる若い人たちは、鈴木さんの今のお話を聞くと、将来はどうなるのだろう、建築家は廃業した方がよいのではないかと考えてしまうのではないでしょうか。

鈴木 —— いや、やることはたくさんありますよ。今、都市、町との関係がおかしくなっている。だからライフスタイルに対応したプランニングよりももっと、もっと大事な町との関係について勢力を注いだ方がよいでしょう。

布野 —— 51Cの問題はもうよいのでしょうか。呪縛は放免ということですか(笑)。

上野 —— 布野先生のリクエストにお応えして、51Cに戻りましょう。今のお話ですと、51Cを作ったときにはその当時の実態にあっていた。その後、住居空間が広がっていくにつれて、安易に室数を増やしていった画一主義的なプロバイダ−がいた。あとから見ると51CがあたかもnLDKの原形のように見えるけれど、そこには断絶がある、ということでしたね。本日、戦後建築史は塗り替えられました(笑)。

布野 —— 凄く明解ですが、そういきますでしょうか。

鈴木 —— 51Cはこの時代だったからということで焼け跡の写真を出したわけです。若い方たちは分からないでしょうけれど、この時代にはお米もなかったんです。電車に乗って農村へ買いに行っても売ってくれない。お金では買えないから、着物などで物々交換で手に入れるわけですが、うっかり持って帰ると警察に取り上げられる。そういった時代に35平米の中で考えたんです。今から考えると、法律にしろ、ものにしろ、住宅にしろ、これから新しいものを作るという気分が横溢していた時代だったと思います。その中で、日本の住宅、人々をどの方向に引っ張っていくのかを考えたわけです。

上野 —— 派生的に謎が生じます。一つはnLDKが批判の対象であるという点は共闘できるとして、誰が悪かったのかということです。こんな安易なモデルを作り続けてきたゼネコンとデベロッパーが悪いのでしょうか。わたしは建築家の怠慢ではないかと言い続けてきたのですが、仮想敵を見誤っていたのでしょうか。それとも、こんなに安直なモデルを供給されるのに従って、黙って買い続けた消費者がバカだったのでしょうか。先ほど、2004年になってからわが家に入ってきた新聞のチラシから任意のものを持ってきてお見せしたのですが、本当にワンパターンですよね。それが半世紀以上も再生産されてきた謎は、どのように解けばよいのでしょうか。

布野 —— それを先程、上野さんに伺おうと思ったんです。鈴木先生が住戸の平面計画に限定されてお話されるというのも分かります。一方で、供給システムの問題もあります。戦後の過程の中で、住宅の生産システムは大きくその姿を変えてきている。51Cは、住宅公団の供給システムの中で一つの機能を担っていくわけですが、60年代初頭から10年ちょっとで日本には住宅産業が成立することになるわけです。ずっとワンパターンであるのは建築家のせいだとおっしゃるけれど、nLDKを商品として買う消費者もいるわけです。日本の戦後家族のあり方が全体としてワンパターンであったというこがあります。nLDKを蔓延させる全体的な仕組みがあったわけですね。例えば近代家族という理想的家族のモデル、イメージも作用したでしょう。

鈴木 —— 「商品化住宅」といって、住宅が商品になったことが大きいと思います。戦前は都市に住む場合、借家に住むのが当たり前だったんですね。東京では70数%、大阪では80数%が借家に住まっていた。借家は別に長屋だけでなく、部長級、課長級の借家もあった。戦後になり、持ち家政策がなされ、家は借りるものではなく、買うものになってしまった。特に民間のメーカーは、売れる住宅はなにかということを考えた。買った人はまた次に買い替えるということを考え、その住宅は特殊なものであっては困る。売るときに売り易い住宅というものに、消費者が自然に流されている、と見ていました。

上野 —— わたしは、商品化住宅でなにが悪いのだろうと思います。商品化住宅にしてもモデルが画一的すぎるのが問題だ、と思います。布野さんの問いに答えるとすれば、結局この状況に誰も文句を言わず、一生を抵当に入れるくらいの高額商品を、延々と買い続けてきた消費者がバカである、したがって画一的な住宅が市場淘汰されなかったとも言えるのかもしれません。しかし、そう考えるなら、小泉政権をいくら批判しても、しょせん国民は自分の身の丈にあった政権しか持てない、愚民が選んだ政権をいくら批判してもしかたがないという議論と同じになってしまいます。岡山で出会った例をひとつ、ご紹介しましょう。岡山は土地が安いので、家が簡単に建てられる。そのなかで、父子家庭の父が、娘との団欒を夢見て立派なLDKを作ったが、実際にはふたりともLDKを使わず、台所で作った食事をそれぞれの自室に運びこんで個食をしているという例がありました。LDKにはシステムキッチンが不可欠ですが、わたしはシステムキッチンを、お仏壇と呼んでいます。実用の役に立たなくとも、過剰装備で家族するシンボルとしてタテマエ上なくてはならないからです。この人たちには、「家族する」ことへの幻想がはたらいています。つまり「家族している」ふりを、他人に対してだけでなく、自分自身に対してもパフォーマンスしたい、ということが見えてくるわけです。リアリストの社会学者としては、そんなに無理に家族するふりはもうしなくてもいいじゃないか、と思うのですが。家族するふり、セックスしているふりはもういい。家族が家族をしている理由はそれぞれにあるのだから、自分たちの現実をありのままに認め、それに合う空間を考えていったらいいのではないかということです。

布野 —— 戦後の日本の高度成長を支えるため、世帯分離を進行させるために2DKのような箱が必要だったという解説は正しいでしょうか。

鈴木 —— ために、ということはないのではないかな。

上野 —— 人口都市化が急速に進んだのが60年代の始めで、それが日本型近代家族の大衆化をひきおこしました。60年代に、累積結婚率が男で97%、女で98%、ほぼ100%に達します。それから低下に転じるので、私はこれを瞬間最大風速と呼んでいます。つまり全員結婚社会、みんなが結婚する時代は、60年代に成立して、もはや終わったということですね。60年代に人口の都市化と世帯分離がともに進んだと思うのですが、当時の都市型集合住宅にはじいさん、ばあさんのための空間はありませんでした。世帯数の増加にともなって、住宅供給戸数も否応なく増えていったわけですが、最近ではどうも供給過剰になってきているようです。そうなればようやく住宅の市場淘汰が行なわれる時代になるでしょうか。

布野 —— 例えばヨーロッパ、アジアと、グローバルに見たとき日本はどうなんでしょうか。たまたまインドネシアでモデル住宅を設計するといった、似たようなことをやってきたので気になるんですがどうでしょう。例えば日本と同じような過程をとっていくのでしょうか、あるいは他と比べたとき、日本の特殊性のようなものが指摘できるのでしょうか。

上野 —— グローバルと言っても、どこと比べるかによると思うのですが、社会主義圏の労働者住宅は、日本の公団住宅と同じようで、世界でもっともアグリーな住宅だと思いました。労働者が寝るためだけに帰る規格化されたハコ、日本のニュータウンとそっくり同じですよね。今、アジアで急速な都市化を遂げている地域は、ほとんどそのモデルを踏襲しています。おそらく都市インフラとして最悪なものを作っているだろうから、どこかで歯止めをかけてもらいたいものです。いずれにしても、そういった成長期はあっという間にピークに達し、あっという間に終わります。特に後発近代化諸国ほど、このスピードが早い。韓国などは、圧縮近代化と言って日本で30年かかっていたものが10年で達成されていますから、ピークに登り詰めて、下り坂になったときに対応できない。そのときに、不良資産を残さない方がいいと思います。

布野 —— 鈴木先生、先程の僕の質問に応えて頂けますか。

鈴木 —— 社会学についてはよく知りませんが、現実を見て素直に合わせていく。しかし、それではいいものになっていかないということもある。近代家族について言えば、60年代始め、公団ができた時期は、まさに日本に職業を持たない専業主婦の大量に発生した時代だと思うんです。確かに昔からありましたが、戦前は女中さんを使うなどしていた。団地やニュータウンで、男が勤めに出て、女性と子供だけが残る。日本でも大変珍しいこと。その人たちの興味がどこへいくかといったら、子供の教育と、家庭の中をどう作るか、リビングをどう作るかになるわけです。それで、nLDK文化のようなものができたのではないか。

 社会学者の方は、こういった徴候がある、ああいった徴候があるとして、その崩れた姿ばかりをお出しになるけれど、全部が全部そうではないでしょう。確かに徴候を見るということは大切なことだろうけれど、そんなに徴候ばかり追い掛けていいのだろうかと思います。

布野 —— 争点が出かかったところですが、山本理顕さんが会場を9時に出られるということで、来週へのメッセージを兼ねて。鈴木先生がかなり柔軟に応答されていたので、来週が心配ではありますが。なにかご発言頂けますか。

山本 —— 鈴木先生は建築家だなぁと思いました。私も建築の設計をしていて供給者側にいますから、どうしても与条件の中で思考する。私たちは35平米ではどうするかという訓練をさんざん積んできているわけです。そういった訓練をさんざん学校でさせられていて、それが大変な弊害になっていると思いました。例えば、こういったビルディングタイプで、こういった平米数で考える、そういった訓練をず−っと積んできているわけです。ただ、上野さんがおっしゃっているのは、そのように考えること自体がもはや破綻していないか、ということだと思うんです。だから、上野さんが新しいモデルをと言ったとき、あるビルディングタイプがあって、その中で住宅なりを考えるということではない。モデルができれば都市全体が変わる。■■■■も変わる。そういったモデルがあり得るのではないか、ということだと思います。それに対して鈴木先生は住宅だと思うんです。新しいモデルはもういらない、その通りだと思います。しかし、僕はモデルがいると思うんです。私たちが持っている、標準家族が3分の1以下だった。2020年には4分の1以上が65歳以上、高齢者になってしまう。そのとき、我々がどのような住み方のモデルを提案できるか。それはかなり重要な問題だと思います。鈴木先生がやられた51Cは非常に強力なモデルだったと思うんです。一つの住宅の中に一つの家族が住むということを教育したと思うんです。美しいことであるということも教育したと思うんです。それが壊れてきていると思うんです。僕も建築家なので、そういったモデルを作った鈴木先生に最大の評価を送りたいと思うし、もし違うモデルを提案できるとしたら嬉しいと思います。

鈴木 —— 確かに51Cで住み方を強制したところはあるわけです。同じことかも知れませんが、しかし、教育という言い方はどうなのだろう。人々の生活をどちらかの方向に誘導していくことが建築家の仕事なのだろうと思い、51Cで壁を作ったり、食事のできる台所を作ったり、そういうことでしょうね。

上野 —— 今、理顕さんの発言に感動してしまいました。建築と社会学の違う点が実に鮮明に分かりましたね。与条件があって、その中で考える訓練をしている。なるほど、建築はクライアントがあって始めて成立つ商売ですね。社会学者は与件を疑うという訓練を徹底的に受けているんですね。社会学者にはクライアントはいません。誰からも頼まれずに勝手にやっているわけです。

布野 —— 内田先生どうぞ。

内田 —— 東洋大学教授の内田です。私は1970年まで、先生の研究室におりました。最初に申し上げたいのは、51C型の呪縛といったとき、51C型がプランとして論じられているのではないか。私は、むしろ方法論の呪縛だと思うんですね。当時の研究室では、西山さん以来、ものの持つ生活規定性をいかに活用するか、住宅の持つ生活規定性によって、食寝分離、性別就寝、さらに公私室分離。公私室分離まで含めれば、nLDKの問題を引き受けるべきだと思っています。もう一つ、順応型の問題です。私たちは闘争の世代だったわけですが、ものの持つ生活規定性は操作主義だと批判しました。上野さんは建築を帝国主義だと批判されたわけですが。布野さんが言われていたように、結果的に、2DKはよくできていましたが、結局、再生産コストをいかに安くすることで日本の高度成長を支えたことは拭い得ないだろう。順応型は操作主義批判には対応されましたが、やはり新しい生活像を出し得なかったのではないか。そういった面では迎合型とは違って、住宅の型だとおっしゃいますが、■■真性■■の問題としては、住宅の問題と相共通するところがあったのではないか。3番目の現代に関わる問題ですが、建築計画学の問題というのは、モデルを作りえたかということだと思うんです。51C型は明快なモデルであって、あれでみんなを引っ張った。それは凄いことだと思う。今、建築計画学の研究がどれだけのモデルを作り得ているのか。選べる■■共同性■■とおっしゃいましたが、■■家族■■の問題が大きいと思います。新しいタイプが作れたら。これに関しては、上野さんの意見と近いです。これは上野さんもおっしゃっていませんが、住生活の外部化です。学生の生活なんて、コンビニなくしてあり得ないわけです。そういった生活の変化があります。最近強く感じるのですが、他人が介入する住生活にならざるを得ない。住総研の研究で、面白いと思ったのですが、介護の問題が家庭内に入ってきたとき、次の間の間がいかに有効に機能しているのかという研究があったのです。新しく、他人が入ってくるという住生活がある。そういった問題を建築計画学がいかに作り得たか。少数だっていい訳です。理顕さんを始め、様々な建築家の方々が作ったのは建築計画学の成果だというのなら、そういった面も確かにあるだろうけれど、もう少し狭い意味での建築計画学はその辺を触り得なかったのではないかということを感じました。

布野 —— お答えは必要無いですね。時間もないですしね。

鈴木 —— 明解ですね。

上野 —— 随分シビアなご批判が出るんですね。いよいよ内ゲバが始まるかと、高みの見物を楽しもうと思ったのに。

林 —— 51Cは当時としては実によくできた設計だと感心しておりました。それがnLDKに発展というか、引き継がれ商業化されたことも、当然のことのように感じております。それが50年続いたこと、その間建築家はなにをしていたのかというご批判があったことに対しては、一見そのように思えるのですが、まぁ、よくもったと。もつのが当然であったのではなかろうかと思うんです。その原因は商業化ということにあるんだろうと思うんです。つまり、売り買いするものになって、住むために作るものではなくなったんですね。そうすると、今売られている自動車のようなもので、自分の用途とは関係なく、動いてくれればいいというものをどこも作るようになる。自動車の世界も、ここ40、50年全く変わっていないわけです。そういう過程に入ってしまうと、抜け出すのには100年くらいかかるのかも知れないと感じました。

鈴木 —— 明快ですね。

観客 —— 都市公団の加藤と申します。nLDKを壊すという試みは、さんざんパラnLDKを作ってきた公団も行なっているんですが、その中で一つのやり方として、キッチン、バス、トイレといった水回り以外の空間は一つ大きく作って、幾つかに仕切れるという方法があります。そういった試みは、公団以外にも幾つか提案されてきています。住宅を商品として捉えたとき、必ず「2LDK、60平米、いくら」ということが並びますけれど、そういった住宅を作ったときは「80平米、3a、いくら」何平米、■■■■提案をして供給するということを公団の幾つかのプロジェクトで行なったことがあります。そのとき、応募してきた方々を見ていたとき、なかなか、大きな空間を仕切って下さいと言ったとき、こう仕切ってこのような住まい方をしようとポジティブに捉えて住宅を志向することが結構少ないんです。51Cの最初の頃のお話で、キッチンで食事している方が1割ということでしたが、1割にも満たないのではないかと思うくらいです。そこが、日本人における51Cの呪縛なのではないかと感じました。

上野 —— 今のご発言は、つまりマーケットが悪いということですか。

布野 —— 時間がないので仕方がないですね。最後に一言づつ頂けますか。ちょっと中途半端ですが、来週に期待ということにしましょう。

上野 —— 私は来週の鈴木対山本の前座を勤めるつもりで参りました。来週も参りますね。場外飛び入りをするかも知れませんので、お楽しみにしていて下さい。

鈴木 —— 上野先生と対談することになったので、少し本を読まなくてはならないと思って、本屋にいったらあんまりたくさんあるので、これはとても読めないと思いました。相当喋る凄い人かと思っていたら、意外に可愛いので安心しましたけれど(笑)。山本さんとは、以前保田窪団地に関して非社会的だと悪口を言って以来、評価を停止していたんですが、最近あの方もいいことを考えているようなので、来週も楽しみになってきました。今日は半分おそるおそる来たら、少し負けましたね(笑)。

布野 —— 正直でいらっしゃいますね。


司会メモ


51Cは呪縛か? 集合住宅の戦後~現代を探る

基本テーマ

これからの日本の(集合)住宅がどうなっていくのか(あるべきか)

日本の家族がどうなっていくのか(あるべきか)

・   51Cという(標準)住居モデルが戦後日本の住居のあり方を規定してきた→それは問題ではないか?→それは何故か?

・   近代家族の終焉→その行き着く先は

・   型の提示を前提として、どのような住宅モデルがありうるのか。

→nLDKをいかにして潰すか

基層テーマ 

・   空間は生活を規定できるのか? 生活と空間の対応 空間の型 空間帝国主義 計画学批判  家族を容れるハコ 家族を超えるハコ→ハコを超える家族?

住宅は空間化された家族の規範である。

連続シンポジウム二回の位置づけ

20日/51Cとは何か。(時代背景、建築、家族‥)
27
日/51C以降の集合住宅、これからの集合住宅

パネリスト(討論者)

 鈴木成文:51Cの提案者 神戸芸術工科大学学長 日本建築学会大賞

 上野千鶴子:『近代家族の成立と終焉』『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』       『上野千鶴子が文学を社会学する』『ラディカルに語れば・・・』 女性学、ジェンダー論・・・     都市コミュニティと家族と住宅に関する一貫する関心

進行

19:00 挨拶、パネラー紹介(10分)
19:10
 鈴木(20分)
19:30
 上野(20分)
19:50
 布野(10分)
20:00
 ディスカッション(60分)21:00 閉会

 

D51 51C どの土俵で考えるか 国 自治体 地域社会 住宅メーカー 個

 

 鈴木:51Cとは何か? どういう過程で生み出されたのか?

  ・戦後の焼野原の悲惨
  ・応急越冬住宅
  ・高輪アパートによるRC集合住宅の発足
  ・公営住宅の標準化、49A, B, C
  ・51C設計の経緯
  ・51Cの計画の理念、付-住宅調査(これは当時のトレペーのエスキスを10枚ほど示します)
 ・その後、高度成長期の計画主題の変化 (nLDK 批判を含む)

 

  ○布野 発言の確認

上野:51C批判

nLDK家族の崩壊・・・近代家族の成立と崩壊・・・家族像 家族形態の変遷?

近代家族はいつ成立したのか? その崩壊とは? 

 家族とは、 家族と世帯 家業・家名・家屋・家産・家計の共同 居住の共同(同火) 血縁の共同 →家族の多様化 近代家族のゆらぎ 女性(層)の変貌、一般化が成立しない

「家」の発明・日本型近代家族 近代家父長制 社会的構築物 :

核家族ではなく直系家族の形をとった 家内工業がベース 母系も末子相続もあった

家と国家 近代国民国家に適合的に形成された 忠孝一本イデオロギー 家族の民主化は達成された? 疑問 シャドウワーク

近代家族(落合恵美子)1家内領域と公領域の分離2成員相互の情緒的関係3子ども中心主義4性別分業5集団性の強化6社交の衰退7非親族排除8核家族 西川祐子9家族を統括するのは夫10この家族は近代国家の基礎単位をなす

戦前・戦後の連続性 父権支配→夫権支配 家父長制の連続性←世帯分離

ロマンス革命 母子の情緒的絆 世帯の自律性

 

○布野 発言の確認と最初の議論の設定

  Ⅰ 51Cの評価 歴史的位置づけ 戦後住宅史をめぐって

戦後家族の行方

  

  Ⅱ 住宅と家族の現在:何が問題か

非婚化・晩婚化 少子化  高齢化

SOHO 障害者 介護 年金 寄生

○フロア

 

Ⅲ これからの日本の住宅

  

シングルが基本? ひとりで生きる 家族をする

   非婚化・晩婚化 少子化  高齢化

 

  交流の場 四畳半 コモン・パブリック

 nをめぐって (n+1)LDK n=家族人数 部屋の数

 ハコと家族 nLDKは崩壊したのか? 呪縛

  個室郡住居と岡山の家

  クリエイティブ・ミズ SOHO

  二世帯住宅 DEWKS DINKS

 建築家論 町のカウンセラー

戦後日本の住宅の評価

 戦後住宅計画批判

 近代家族批判

  現在の諸問題

  非婚化・晩婚化

少子化

  高齢化

  障害者

  年金・介護

 これからの家族と住居

①      モデルの多様化

②      モデルに個性はいらない

③      職住分離はいらない

④      育児介護の社会化

コレクティブ・ハウス

 コーポラティブ

 グループホーム

 カンガルーハウス

 

 

 

 

 


●
シンポジウムのタイムスケジュール
17:00
 スタッフ会場準備入り

17:50
 パネラー集合・打合せ(60分)
18:30
 開場
19:00
 開演

19:00
 挨拶、パネラー紹介(布野先生)(10分)
19:10
 鈴木先生(20分)
19:30
 上野先生(20分)
19:50
 布野先生(10分)
20:00
 ディスカッション(60分)
21:00
 閉会
移動~
お食事

 

 喜美恵の案では、布野氏の司会の下、初めに鈴木と上野が 15~20 分づつ、51Cに
関連して喋り、布野さんが解説して問題を整理し、あとの1時間+α を討論という
ことでした。

 今回の聴衆は、51Cが何かを知っている人が多いとは思いますが、若い学生も半数
は居るし、誤った理解の人も多いと思うので、私が初めの 20 分で 51Cを解説する必
要があるでしょう。

解説するとなると、
 ・戦後の焼野原の悲惨
 ・応急越冬住宅
 ・高輪アパートによるRC集合住宅の発足
 ・公営住宅の標準化、49A, B, C
 ・51C設計の経緯
 ・51Cの計画の理念、付-住宅調査
   (これは当時のトレペーのエスキスを10枚ほど示します)
 ・その後、高度成長期の計画主題の変化
   (nLDK 批判を含む)
ざっとこんなことになるでしょうが、20 分では超 駆け足です。

上野氏は多分、
 ・家族形態の変容
 ・近代家族の崩壊
 ・51Cで考えたであろういわゆる標準世帯・核家族は今や幻
 ・標準世帯に対応するであろう nLDK の元は 51C
こんなことかなと思いますが、どうでしょうか。

 上野氏と山本理顕との対談の本を見ると、彼女は nLDK が今日の住居の規範になっ
ており、その元が51C だと信じ込んでいるように思われます。私どもは nLDK は住宅
産業、とくに部屋数ばかり多くする不動産業が生んだ歪んだ住居と思っているのです
が。

 なお、nLDK の「 n 」は「家族人数-1」だという奇妙な見解も、上野氏の本に出
ていました。これは私は初耳です。 これもきっと話題に出ると思います。

 喜美恵が昨日、上野氏を東大の研究室に訪ね、打合わせてきました。この結果は、
喜美恵からそちらに報告がある(あった?)かと思いますが、1時間ほど話し込んで
来たそうです。その中で、私を道彦の兄だと伝えたら、すぐ、分かったと言ったそう
です。何が分かったのか分かりませんが…。
 上野氏は以前道彦に会いに行ったことがあるそうです。金キロウ のことかアルジ
ェリアのことか知りませんが、いずれにせよ道彦が以前に書いたものを講義の中でも
使ったそうで、人権問題に関することでしょう。
 
 なお、上野氏は図の提示などはこれまでは OHP などだそうで、鈴木が Power
Point
を使うだろうと伝えたら、自分も、ということで、その為の図のスキャニング
を喜美恵が引き受けて来たそうです。理顕の個室群住居の図など、20 枚ほどだそう
です。私はまだ見ていません。


 次週の山本理顕とのシンポジウムは五十嵐太郎の司会ですが、テーマとしては51C
そのものよりも、その後の展開の話になりそうです。とくに東雲の計画では 51C を
当面の標的として、見学会の時もそういう説明でした。ただし彼の見解も 
  51C = 公営住宅一般 = 鉄の扉 = 閉鎖性
と捉えていたようで、東雲の SOHO の、公共通路に対する開放性を見てくれとのこと
でした。
 住居の開放性は、理顕との間の一つの話題になるだろうと思います。

 以上、とりあえず私が今考えていることをお伝えしました。
必要に応じ、ご連絡下さい。

  

2026年2月8日日曜日

2026年2月7日土曜日

traverse09 はじめに, traverse, 2008

Traverse09 はじめに

 

「耐震偽装問題」に端を発した建築界の構造的問題に対する対応策として国土交通省が打ち出した「建築確認」の厳正化、そして「建築士法」の改正が大きな波紋を拡げつつある。

「厳正化」は、当然であるとして、確認に時間がかかりすぎ、住宅着工数が激減、景気そのものへの影響が懸念されてきたが、実際、それだけが原因ではないにせよ、景気は後退局面に入った。建築需要が減っていく中で、建築界が構造改革せざるを得ないことは明らかである。しかし、「厳正化」がかならずしも建築の安全や安心につながらない、すなわち、責任をとれないシステムのまま推し進められつつあることこそが大問題である。設計料も安く、責任だけ重い、というので廃業する建築構造事務所が相次いでいる。国土交通省に言わせると「淘汰」だという。

そして、何よりも問題なのは、「すぐれた」「いい」建築がつくられない仕組みと制度になりつつあることである。大学の建築学科も建築士の受験資格の問題、大学院の実務経験の問題で翻弄されつつある。「実務」「現場教育」が強調されるのは当然であるとして、大学には大学の役割がある。「耐震偽装問題」の問題もどちらかと言えば、コンプライアンス無視の現場での近視眼にある。受験資格の認定を煩瑣にして審査機関が焼け太りする。大学は大学でCOEやら外部評価やらで競争させられる。末期症状である。

つい筆が滑ったが、楽しいこともある。今年もA―Cupに参加した。2001年に第一回が開催された建築界のサッカー大会で、建築学会に次ぐ集まりに成長している。前夜祭から建築とサッカーをめぐって議論する。著名建築家たちと親しく交流できる。若者たちにとっては最高だろう。

わがチームは宮本佳明率いるチームに優勝は譲ったけれど、なんと準優勝である。チームキャプテンに義務づけられているPK戦で4発蹴って2発決めた。それで、ベスト・オールド・プレーヤー賞も獲得したのである。準優勝杯は、「コルビュジェ」杯と称するコンクリートのテストピースであった。

チベット暴動、四川大地震など開催が危ぶまれた北京オリンピックもどうやら大きな問題なく終わったようだ。今、パラリンピックの最中だ。

しかしそれにしても、二代続けて政権を投げ出したこの国のリーダーたちのだらしなさはどうだ。地球環境問題、地域再生、問題山積のなかで、日本は行方を見失ってしまっている。

若者たちに期待しよう。建築は楽しい、そのことを噛みしめながら、力を蓄えよう。 

2026年2月6日金曜日

traverse08 前記, traverse, 2007

 Traverse08 前記

 

 

 今年に入って、3度、中国に行く機会があった。6月(北京)、7月(上海)は、日本建築学会の短期の仕事であったが、中国の勢いに気圧(けお)されそうであった。とにかく、北京オリンピックを目前にした中国は元気である。中国建築学会では、200を超える新しい作品をスライド・ショウの形で見せてもらったが、その斬新性と多様性には驚くばかりであった。中国は実に広い。しかし一方、中国は大丈夫か、とも思う。北京は大気汚染がひどい。渋滞はバンコクなみである。上海の繁華街はずいぶん「柄」が悪くなった。著作権侵害の問題、食品安全の問題、異常気象・・・中国社会の闇の問題が次々に明るみに出つつある。8月中旬には、西安から洛陽、鄭州、開封、東西500キロを往復した。夏王朝の遺址と考えられる二里頭遺蹟や鄭州商城などを訪れる東アジアの都城に関する研究プロジェクトの一環であったが、いわゆる「中原」の風景に初めて触れた。黄河も初めて見た。中国は奥深いと思う。

 この中国行に先立って、ウズベキスタン(タシュケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)を訪れた。シルクロードに触れるのは初めてであったが、『ムガル都市』の仕上げを現地で書きながら、改めてユーラシアの歴史を思った。また、砂漠を走りながら、地球温暖化問題を肌で感じることが出来た。パミール高原の氷河の水をアラル海に運ぶアム河とシル河に囲まれた地域は古来マー・ワラー・アンナフル(川向こうの地)と呼ばれて、ユーラシアの歴史の興亡の舞台であったが、今も世界の注視を集める。知られるようにアラル海が消滅しつつあるのである。灌漑農地の拡大によって、水不足が慢性化している。そして、マー・ワラー・アンナフルは、インド、パキスタン、アフガニスタン、イランに接する。イスラーム世界の激震地帯でもある。

 中国の次に焦点となるのはインドである。わが国の首相も遅ればせながらインドを訪れた。中国とインド、この二つの大国で25億人である。インド市場がどんどん開けば、建築家も引き寄せられるであろう。意欲ある若者は「インドへの道」を目指すべきだ。

しかし、グローバルな経済に翻弄されない道を目指すべきこともまた一貫して問われてきたのであり、模索されるべきだ、といいたいのだけれど。

 

 

布野修司/編集委員会

 

2026年2月5日木曜日

traverse07 前記, traverse, 2006

 Traverse07 前記

 

 

 9.11(同時多発テロ)以降の激動する世界において、5年の長きにわたって続いた日本の政権が変わった。日本の社会がどういう方向に向かうかは不明であるが、再び、転換の時を迎えつつあるように思える。traverseを創刊して7年、短い期間ではあるけれど、とにかく世界はめまぐるしい。

この間の政治改革、規制緩和路線は、IT企業関連のヴェンチャー・ビジネスの跳梁跋扈を招来し、新たな潮流を作り出したかに見えたが、ヒーローたち(ヒルズ族)の相次ぐ逮捕で、勢いを失ったように見える。そして、前政権が残した「負の遺産」(格差社会の拡大)の方がより強く指摘されつつある。

 建築界にとって、この間の「耐震偽装問題」(姉歯事件)は致命的であった。確認審査の民間への開放、「第三者検査機関」の導入は、民営化の一環と考えられ、日本社会全体に通底する問題がそこにはある。既に、多くの議論がなされ、問題点が洗い出されつつあるが、はっきりしているのは、この問題が、個人のモラルや能力の問題にとどまるものではなく、建築界全体のシステムの問題であることである。そして、この日本の建築界全体の構造的問題は、既に「阪神淡路大震災」によって決定的に明らかになっていたことである。建築界の構造転換は遅々として進んで来なかったのである。資格制度の強化、保険制度の導入など、これを機に制度的な枠組み設計に向かうチャンスともみるが、前途多難のように思える。

 昨年は前川國男生誕百周年、今年が没後二十回忌ということで、展覧会が各地で行われ、大変な観客を集めているという。昨年の「吉村順三展」も万単位の観客を集めた。来年には「白井晟一」展が開かれるというから、ちょっとした建築家回顧ブームである。これも時代が大きく変わっていく感覚を強めているのであろう。『建築の解体』『神殿か獄舎か』をどう読んだかの特集もあり、70年代回顧の様相もある。

 来年は『2007年問題』の年である。団塊の世代が大量退職する。この世代が、どうするのか、こそが問題である。若い諸君は、この巨大なマーケットを大いに活用すべきだと思うけれど、如何。

 

布野修司/編集委員会

 

2026年2月4日水曜日

traverse06 はじめに, traverse, 2005

 Traverse06 はじめに

 

インド洋大津波の当日(2004年12月26日)、スリランカのゴールに居て命拾いした。その時のことは求められるままに書いたが、世界史的事件だったといっていい。スリランカなど、地震など全くなく、7世紀に編まれたという『マハーヴァムサ』という古文書に依れば、紀元前2世紀頃、王女が波にさらわれたという伝承が記されているだけだという。それが津波だったとすれば、実に2200年ぶりだったことになる。

ゴールで400人、周辺で2000人、スリランカ全体で33000人が亡くなった。何かできることはないかということもあって、7ヶ月にインド・スリランカの津波被災地を訪れてきたのであるが、特に、スリランカの場合、未だに津波の爪痕が生々しい。海岸線から100m以内に建築禁止令が出されたせいである。しかし、それにしても津波の力は相当のものである。

コロンボ周辺は死亡者こそ少なかったものの、海岸部に居住していた不法占拠者たちが大きな被害を受けた。各国のNGOがまるで援助を競うようにプロジェクトを打ち上げつつあるが、応急仮設住宅建設の段階は終わり、復興住宅建設が今後の大きな課題である。仮設住宅地は、共同施設もそれなりに用意され、コミュニティもしっかりしていて、独居老人が人知れず亡くなるといった状況には全くない。

坂茂、セシル・バルモンドといった有名どころが、復興住宅を手がけるというが具体的なプロジェクトについては不明であった。今のところ日本の影は薄いように思われた。何かうまいプロジェクトが組めないものか。

振り返って日本で、信じられないような電車事故が起こった。電車というのがかくもひ弱なボディをしていたとは。経済的合理性のみ求める管理運営体制がしきりに問題にされたが、早さを求めて軽量化を追求してきたその方向に同じような問題はないのか。

改革、改革のスローガンが叫び続けられてついに総選挙である。改革の実は果たして上がっているのか、正直わからない。確かなことは世代交代が確実に進行しつつあることである。(布野修司)

 

 

2026年2月3日火曜日

談話室という場所と『雑口罵乱』というメディアの意味 2018年3月, 『雑口罵乱』⑨(談話室,滋賀県立大学), 2018

 談話室という場所と『雑口罵乱』というメディアの意味 2018年3月, 『雑口罵乱』⑨(談話室,滋賀県立大学), 2018 

談話室という場所と『雑口罵乱』というメディアの意味

-滋賀県立大学の10年-

布野修司

 

「滋賀県立大学の10年」について書いてくれ!というのが編集部の依頼である。

滋賀県立大学には、2005年4月から2015年3月まで、丁度10年お世話になった。個人としての10年は、最終講義(2015年3月14日)に合わせて、川井操先生を中心に研究室の卒業生たちが編んでくれた『布野修司の世界―滋賀県立大学の10年―』に委ねたい。また、教師としての10年は、『環境科学部報』(2015年)に「最後のホットスポット―滋賀県立大学の10年」と題して書かせて頂いた。眼にできない諸君もいることだろうから、また、『雑口罵乱』への記録の意味もあると考え、重複を恐れず、滋賀県立大学の10年を振り返ってみたい。

 

フィールドに学べ―歩く、見る、聞く

とにかく歩いた。コルカタ、チェンナイ、マドゥライ、ナガパットナム、コロンボ、ゴール、スラバヤ、デリー、ラホール、ハバナ、サント・ドミンゴ・・・論文を書いた都市だけでも相当の数にのぼる。近年は、北京、西安、洛陽、開封、南京、杭州など中国の古都、そしてシナ海域の港市都市、福州、泉州、漳州、広州を歩いた。

「見知らぬ街を見慣れた街のように、見慣れた街を見知らぬ街のように」(W.ベンヤミン)街歩きのスローガンである。

 歩く、見る、聞く、そして考え、議論する。

 どういう家を、どういう空間を、どういう街を、つくればいいのか。

 実測する。記録する。それだけで意味がある。

 フィールドは楽しい。常に新たな発見がある。

 五感が研ぎ澄まされる、身体が鍛えられる。

 それにしても、怒鳴った、らしい。

学生諸君の回顧によると、怒鳴られた話のオンパレードだ。これほど印象深く記憶に刻み込まれているとは、苦笑するしかない。「ばぁーか!」というのが口癖で、関西ではかなり強烈に響くらしい。本人はアジッてるつもりなのだけれど、今日ではパワハラと言われてもしかたがないかも。眼の前で涙を零されたことも一度や二度ではない。これでも随分丸くなったと思うけれど、褒める方が難しい。教師としては未熟ということである。理不尽なことには怒る、我儘には怒る、やるべきことをやらないのは怒る、隠し事には怒る・・・ストレスを貯めないために、とにかく怒鳴った。

 

 書くことと、考えること

10年間、とにかく書いた。朝早く起きて書いた。書きながら考えた。書くことが、考えることが、楽しかった。『近代世界システムと植民都市』(布野修司(2005):日本都市計画学会賞受賞)以降、アジア都市三部作『曼荼羅都市・・・ヒンドゥ-都市の空間理念とその変容』『ムガル都市--イスラ-ム都市の空間変容』『大元都市-中国都城の理念と空間構造-』(京都大学学術出版会,2015年2月)の他にも『Stupa & Swastika』(Shuji Funo & M.M.Pant, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007)『韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-』(布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民(2010):日本建築学会著作賞受賞)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』(布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013):日本建築学会著作賞受賞)をまとめることができたし、半生記といっていい『建築少年たちの夢』『景観の作法-殺風景の日本-』も出版することができた。密かに、我ながら、すごい、と思う。とりわけ、調査をしながらの執筆は最高であった。現場で原稿を書くのである。この醍醐味は、何物にも代えがたい。

 

「論文」と「設計」

ただ、歩いて、聞いて、見ればいいというものではない。現場で発見したものをどう言葉にして、伝えるのかが問われる。そのためには、まとめる作業が不可欠だし、その作業を繰り返すことによって、眼も耳も鍛えられる。論文を書くのはそのためである。論文を書くことと設計をまとめることの間にはそんなに違いはない、というより同じだと言い続けてきた。ただ、論文のための論文は書くな、自己目的化するな、ということも言ってきた。「左手で論文を書きなさい」ということの真意である。

指導した学位請求論文は、以下の5本である。

 趙聖民『日本植民地期における韓国・鉄道町の形成とその変容に関する研究』2008年

高橋俊也『京都における墓地空間の変容と都市周縁空間の環境整備手法に関する研究』2008年

岡村智明(山根周研究室)『インドにおける歴史的港市の形成と変容に関する研究-カッチ地方のマンドヴィ、バドレシュワル、ムンドラを事例として-』2008年

川井操『西安旧城・回族居住地区の空間構成とその変容に関する研究』2010年

Chantanee Chiranthanut『メコン中流域におけるタイ・ラオ族の住居集落形態とその変容に関する研究』2010年

趙冲『福建港市における住居類型の形成、変容に関する研究』2013年

 

 基盤としての地域

着任したのは滋賀県立大学が独立法人化1年前であり、前年2004年12月26日、スリランカのゴールでインド洋大津波に遭遇、危うく命拾いしたこと、4月25日の福知山線の脱線事故が未だ記憶に生々しい。翌年、「もったいない」をスローガンに嘉田知事が誕生、2期8年の県政が布野修司の滋賀県立大学の10年間とほぼ重なっている。

着任すると、まずお手伝いしたのが、近江環人地域再生学座の立ち上げである(平成18年度文部科学省が新たに創設した「地域再生人材創出拠点の形成プログラム」へ応募))。奥貫隆先生を中心に進められてきた、いわゆる現代GP「スチューデントファーム「近江楽座」-まち・むら・くらしふれあい工舎-」の後継プログラムが必要とされ、手伝うようにということであった。

文部科学省のねらいは明らかに地域産業を担う人材育成にあり、どういう人材育成にターゲットを絞るかという議論から始めたのであるがまとまらない。結局、ご承知のように「地域診断からまちづくりへの展開をオルガナイズできるコミュニティ・アーキテクト(近江環人)」の育成ということになったのだけれど、2000年から京都で続けてきた「京都コミュニティ・デザインリーグCDL」の活動(『京都げのむ』1号~6号)が多少のヒントになったのではないか、と思う。この京都CDLの活動には、中川君、川井君など滋賀県立大学の学生諸君も参加してきた。そういう縁もあった。

この「地域再生人材創出拠点の形成プログラム」の流れはCOC(センター・オブ・コミュニティ)プログラムにつながっていく。苦い思い出は、後継の『地域学副専攻化による学士力向上プログラム』が事業仕分けにあって打ち切りになったことである。

滋賀県立大学の特別研究は、「琵琶湖自然共生流域圏の構築 ―宇曽川流域圏モデル」(2007-2008年)と「東アジアにおける歴史的城郭都市の起源・形成・変容・再生に関する総合的比較研究-近江近世城下町の東アジアにおける歴史的意義と位置づけの解明-」(2007年)に参加した。小さな大学ではあるけれど、あるいは小さな大学であるからこそ、分野を超えた研究交流は貴重な経験であった。ただ、全てが大満足であったということではない。「アジア・エコハウス・モデルの研究開発(設計計画)(JST「地域に根ざした脱温暖化・環境共生社会」)」といったプロジェクトには何度か応募したけれど力不足であった。

滋賀県および各自治体の仕事についても微力ながらお手伝いをさせて頂いてきた。特に、最近では、守山市の守山中学校、浮気保育園、市立図書館そして県の新生美術館の設計者選定について公開ヒヤリング方式を導入、一定の評価を頂いたと考えている。

 

大学の変貌

後半の5年間は、環境科学部長(2010~2011年)、副学長・理事(研究・評価担当)(2012~2014年)として管理職を務めた。振り返って、大学の変貌は著しい。26歳で東京大学の助手に採用されて以降、東京大学、東洋大学、京都大学、そして滋賀県立大学と39年間の大学生活を振り返って、大学が大学らしくなくなっていく過程を、身をもって体験してきたような気がしないでもない。大学に入学した年、二ケ月もたたないうちに学生はストライキ、大学はロックアウトされた。以降、一年以上授業はなかった。大学とは自ら学ぶところである、という思いは学生の頃から一貫する。

大学の知の退廃を告発したのが1960年代末の全共闘運動であったと思うが、その告発に共感したものが、その後どれだけのことがなしえたのか忸怩たる思いが残る。愚痴を零してもはじまらないけれど、大学に籍を置いてきたものの責任は大きいと思う。教え子たちが既に方々の大学で教授になり、後進を育てつつある。特任教授としてもう少し大学に関わることになるが、新たな職場を拠点に、しばらくは、学生たちの後方支援ができればと思う。

 

談話室と『雑口罵乱』

談話室には、第19回(2005年)の鈴木喜一(故人)さんから第57回の市川紘司さんまでほぼ出席した。出席できなかったのは、第29回の芦澤竜一さんと第39回の堀部安嗣さんの時だけである。それだけ大事にしたし、楽しんできた。

創刊号に「DANWASHITSUへの期待」と題して書いたことはいまも変わらない。その意義を直感し、『雑口罵乱』を出すことを条件に、講師を呼ぶ旅費補助の措置をとったのである。

『雑口罵乱』には創刊号から求められるままに何事か綴ってきた。

01「DANWASHITSUへの期待」

02「未来を創る、夢をつくる」

03「初心に還る」

04「「建築少年」たちについてのモメモランダム」

05「すべては建築である 建築を学ぶ全てのひとたちへBig Game Architecting」

06「最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生」

07「建築家の生き延びる道!?」

08「あらゆる賞はコネクションである」

毎回与えられたテーマ(というよりキーワード)について、議論することの大事さを綴ってきたつもりである。

談話室は、単なる「ゼミ屋」でも「呼び屋」でもない。今、建築をめぐって、都市をめぐって何が問題でどうすればいいのかを考え、議論する場である。誰を呼ぶのかを含めて企画をして、あらゆる手配をし、議論した中身を記録し、それを出版し、売る・・・この全てのプロセスに参加することが基本である。講義に出席して単位をもらうことでは全く得られない貴重な体験の場がそこにある。

談話室と『雑口罵乱』のユニークな活動については日本全国の建築系大学に良く知られており、その評価も高い。そのますます活発な活動を期待したい。

スケジュールが合えば、時々は参加したいと思う。

 

2026年2月2日月曜日

建築家の生き延びる道!?, 『雑口罵乱』⑦(談話室,滋賀県立大学), 2012

建築家の生き延びる道!?, 『雑口罵乱』⑦(談話室,滋賀県立大学), 2012 

初心に還る

布野修司

 

 

 昨年(2008年)の1月号から『建築ジャーナル』誌に「メディアの中の建築家たち」と題して日本の現代建築家を取り上げて連載している。1月~3月号は前書きの総論のような形で、4月号から3ヶ月、安藤忠雄、続く7月~9月号を藤森照信、以降、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団と続けて、原広司論(2010年1月~3月号)を入稿したところである。

2008年の4月号は「ボクサーから東大教授へ 安藤忠雄の軌跡」というタイトルであったが、連休の前だったか後だったか、いきなり安藤さんが電話してきた。どうも気に入らなかったらしい。

聞くと、3箇所誤りがあるという。さしさわりがあるので書かないが、ひとつはボクサー時代の戦績が違うという。「ボクサー時のリングネームは「グレート安藤」、フェザー級、戦歴はプロ戦績通算8勝3敗1分―23戦13勝3敗7分け、という説もある。」と書いたのであるが、そんな試合数できるわけがないじゃないか!という。しかし、Wikipediaに書いてあるじゃないか、と言い返すと、あれが間違っているのだ!とのこと。単行本にするとき訂正します、で一件落着、と思いきや、「それはそうと、今度お前の大学に話しに行ってやるよ。この間、東大の入学式で1万人の前でしゃべったけど、評判よかったよ。建築といわず、新入生にしゃべるよ」とおっしゃる。

「ええ!」と絶句。

あとは省略するけれど、学長を引っ張り出すやらなんやら800人ぐらいは集まった。その様子を石野君が書いている。DVDにとってあるけれど、そのまま使うことはまかりならん、とのこと。安藤節は生の毒舌がいい。

西沢立衛さんとは初めてであったが、スライド・レクチャーを聞いて、そのセンスに感心。いきなり、「西沢さんは理論家肌じゃないのがいいね」と言って怒らせてしまった。「僕ほど理論家はいない」のだとか。なんでも修士論文は「設計資料集成」についてなんだそうで、建築計画学の野村東太先生とか小滝一正先生に習ったとか。吉武研究室出身の僕とは義兄弟ということになる。

いつか西沢論をという気になったけれど、先の連載は、僕の年齢以上と決めていて、隈研吾、妹島和世以下の世代は、第二ラウンドに書けたらいいと思う。

芦澤さんの会は、海外で出席できなかったけれど、一昨年卒業設計の講評会に来てもらって知っている。とにかく元気がいい。昨年来てもらった、ヨコミゾマコト、藤本荘介、佐藤淳も含めて、連載でとりあげる候補である。

飯田さんとは、学会賞作品賞の審査委員会で一緒だったけれど、ほぼ同い年で、初めて全体の仕事を見せてもらった。手堅い。横浜国大はこれであと北村恒さん呼ばなくちゃ。

重村さんとは学生時代からの付き合い。その全仕事をあらためてみせてもらった。生命循環都市の方向性は真に共鳴できる。

談話室は、学生たちのためだけではない。教師にとっても、自分の仕事、自分の歴史を振り返る機会でもある。いつも刺激をもらえる。建築を志した頃の初心を思い出さしてくれる。

今年、ついにというか、なんというか、還暦を迎えた。来年からは赤ん坊に還ったつもりで頑張ろうかな。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...