このブログを検索
2025年2月21日金曜日
2025年2月20日木曜日
2025年2月19日水曜日
建築プロジェクトにおける発注者の役割特別研究委員会報告書 特別研究42,日本建築学会,2009年3月
建築プロジェクトにおける発注者の役割特別研究委員会報告書 特別研究42,日本建築学会,2009年3月
<第2回 発注者の役割特別研究委員会議事録>
070707
議事録担当 古阪研究室 金祉秀
A. 日時:2007年6月30日 10:00~12:00
B.
場所:建築会館305号室
C.
目的:研究内容の協議、資料に関する情報交換
D. 出席者:小野田泰明(東北大学)
楠山登喜雄(フタバエンジニアリング)
齊藤広子(明海大学)
高田光雄(京都大学)
平野吉信(広島大学)
藤井晴行(東京工業大学)
布野修司(滋賀県立大学)
古阪秀三(京都大学)
南一誠 (芝浦工業大学)
金祉秀 (京都大学)
E. 配布資料:資料1-第1回議事録
資料2-研究計画メモ
資料3-研究スケジュール
資料4-本委員会の委員構成
F.
議事内容
・研究対象の設定に関して
- 公共PFI
:いくつかのプロジェクトを国レベル、自治体レベルなど規模別に分けてみる。
住宅(発注と所有の組み合わせによる類型)、オフィス(規模)
- 投機的な対象とそうでない場合。
・研究の視点に関して
- 問題の構造+現在行われている動き→学会殻の発信
- 公的発注の問題を整理した上でのPFIおよび公共発注のあるべき姿について議論したらどうか。公的なセクター、民間セクター両方扱う。
- 公的な建前が生産システムをどうひずませているのか。
- 建設市場での問題と住宅市場および不動産市場におけるデベロッパーの位置づけについては分けて考える。
- デベロッパー問題がどういうふうに建築生産システムに影響を与えているか。
- PFIの中で、品質ブリフィングと連動したモニータリングのシステムが必要。
- 発注者の二重構造での責任を果たせるシステムはちゃんとできているのか。
- 実際プロジェクトを支配している主体が明確化されれば横軸がちゃんと作られるのでは?
- 建築企画主体の切り口をどこまでにするか。
- 個々のプロジェクトが持っているバリューを分解しながらその中で関係性を求める。
- 不動産デベロッパーの位置づけを明確に。
・追加委員に関して
- ファイナンス、SPC評価のための委員追加(今後検討)
- 野村不動産、国交省営繕のPFI担当を追加予定
・次回までに
- PFIに対しての企画(布野、小野田先生)
- フレームの提示の中での発注プロセスとか発注者の今やっている役割、PMでの位置づけ(高田、齊藤先生)
G.
次回の委員会
日時:2007年8月1日 15:00~17:00
場所:学会会議室
内容:1.話題提供
①
PFIにおける発注者の役割(国土交通省 川元氏他)
②
不動産業の変遷と現状(野村不動産 賀来氏)
2.研究内容の検討
3.その他
2025年2月18日火曜日
2025年2月17日月曜日
2025年2月16日日曜日
フィギュアとグラウンド-コンテナ町屋の射程,驟雨異論❸,雨のみちデザインウェブマガジン「驟雨異論(しゅうういろん)」、2021
フィギュアとグラウンド-コンテナ町屋の射程
布野修司http://amenomichi.com/shuuiron/funo3.html
図①コンテナ町屋ファサード
魚谷繁礼建築研究所の「コンテナ町屋」がJIA(日本建築家協会)新人賞を受賞(2020年)、そして惜しくも受賞を逃したけれどもAIJ(日本建築学会)作品賞(2021年)最終候補8作品に選定されたと聞いて、京都工業繊維大学美術工芸資料館で開催された展覧会「編集者 宮内嘉久-建築ジャーナリズムの戦後と廃墟からの想像力」(2021年3月22日~5月1日)[1]の見学と合わせて、魚谷繁礼・みわ子夫妻に案内してもらう機会を得た(2021年4月18日)。紙媒体の建築メディアが次々と無くなって既に久しい。宮内嘉久展をみて、建築の評価をめぐって真摯な議論が行われるメディアの不在をつくづく思った。戦後建築ジャーナリズムを代表する編集者であった平良敬一さんが亡くなったのは2020年4月29日である。コロナ禍でお別れの会は行われていないが,建築とジャーナリズムをめぐって再考すべく、A-Forum[2]に建築とジャーナリズム(AJ)研究会[3]を立ち上げることになった。近年の建築界における「賞」のあり方についての疑念もその背景にある。そして、実は、この「驟雨異論」という批評の場の創設にも大いに刺激されてのことである。
町家再生というプロブレマティーク
図②裏路地からコンテナ町屋を望む
魚谷繁礼建築研究所の仕事については、『進撃の建築家たち 新たな建築家像を目指して』(彰国社、2019)に「「京町家」再生というプロブレマティーク」と題して書いた。そのデビュー作は、「京都まちなかこだわり住宅設計コンペ」の一等入選作である(2005~07)。京都型住宅・街区モデル、すなわち、街区中央の「あんこ」の部分を共有地として再生させるモデル提案は、やがて、数々の京町家のリノベーションの仕事に結びついていった。複数の町屋を合わせて改修する方法、大規模の町屋やお茶屋、長屋をシェアハウスや宿泊所にする手法、減築によって通風や日照を確保する手法、その多彩な解答は『住み継ぐ家づくり 住宅リノベーション図集』(オーム社、2016年)にまとめられている。設計を始めて13年で、約40にのぼるプロジェクトを手掛けた。折から京都を襲ったインバウンドによって、町屋建替えが加速度的に進行したとは言え、驚くべき数である。
図と地
図③コンテナ町屋から裏路地、向こう街区の表通りを望む
建築家の役割、タイプとして、また、建築の類型として、「地」と「図」という区分がある。「地」すなわちグラウンドであり、「図」すなわちフィギュアである。ルビンの壺の例が一般に知られるゲシュタルト心理学で用いられる概念である。都市構成論としては、一般的に居住地を構成する建築物が「地」であり、都市のアイデンティティに関わる建築物、公共建築やモニュメントが「図」である。いわゆる一般ジャーナリズムにおける「建築家」は、専ら「図」に関わる「芸術家」として扱われる。マスコミでは、建築・建築家は、美術、文学、映画、演劇などと同様に「文化欄」で扱われるが、「政治」「経済」「社会」「家庭」「教育」欄では、建築家は建築業者であって、その個人名が記されることは(悪いことをしない限り)ない。建築家・建築作品と業者・建造物が暗黙のうちに区別されている。
魚谷のこれまでの仕事は、圧倒的に「地」の建築家としての活動であり、「地」の建築の再生というとてつもない仕事である。事実、彼自身、京都では「地の建築にこだわる」、すなわち、京都では、「地割とリノベーションに徹する」といってきた。それに対して、『進撃の建築家たち』で、僕は、他の都市での解答も観たい、「図」としての建築へのトライも観たい、と書いた。
崩壊する街区組織
図④コンテナを支える鉄骨フレーム
数々の町屋リノベーションの仕事のなかで、突然、現れたのが「コンテナ町屋」である。あばら家と化した京町屋の数々を再生してきたこれまでの作品の系列とは異なって、「図」を意識した「奇を衒った」作品のように、写真を見て思った。しかし、現場を歩き出してすぐに「コンテナ町屋」でやろうとしたことを僕なりに理解した。
1990年代から21世紀初頭にかけて京都に住んでいて、「京町家再生研究会」などで「町屋再生の防火手法」などをいろいろ考えた時には、暗黙の前提にしていた対象は「文化財としての京町家」である。しかし、魚谷らが目指したのは、ストックとしての木造建築の再生、さらに言えば、木造躯体の延命である。手がけてきた多くの京町家はそのまま放置すれば、空家化し、鉄骨造やRC造に建替えられる運命にあった木造住宅である。
しかし、コンテナ町屋の建つ街区を見て欲しい。街区の表通りに並ぶのはいわゆるペンシルビル、ペンシルマンションである。敷地の両側は10階建てを超えるビルの壁である。そして、あんこの部分に町屋や長屋が残っている。ここで、何を継承し、何をリノベーションするのか、「コンテナ町屋」もまた街区再生のひとつの解答なのである。
コンテナ町屋
図⑤町屋の上部の鉄骨フレーム
表通りに並ぶ町屋とあんこの部分につながる長屋(借家)という従来の構成を保存しながら、街区をいかに立体化するかという課題は、京都に限らず、世界中の都市、とりわけ、アジアの諸都市で共通に問われているのであるが、一般的にみられる解答は、狭い間口、深い奥行の敷地のペンシルビルあるいはペンシルマンションである。地主にしてみれば、容積を増やして一定の利益を得たいと考える。しかし、入居者あるいはテナントを考えるとただ容積を増せばいい、ということではない。収支計画を練り上げる中で選び取られたのが、木造町家を鉄骨のお神楽で覆い、小規模テナントのためにコンテナを利用する新たなハイブリッドな形式としての町屋である。日本建築学会賞作品賞の選評[4]は、「歴史的環境をめぐる現実に抗い、歴史的資産を保全しながら、むしろ今日的な経済的・社会的複合を空間化することで、京都の近現代史を再現しつつ未来へ展開するという、批評的かつ積極的な複雑さを蔵することに成功した稀有な作品である。」と絶賛している。
住宅芸術論と非芸術論
問題は、「コンテナ町屋」が都市型住宅としてのプロトタイプになりうるのかどうかである。すなわち、「批評的かつ積極的な複雑さを蔵することに成功した稀有な作品である」にとどまるのか、さらに射程を有するのか、である。「コンテナ町屋」は、「図」なのか「地」なのか。
魚谷繁礼建築研究所の提案が「地」としての提案であることははっきりしている。空間の配分、空間形式、構法、設備、環境への配慮など建築的解答としてプロトタイプになっている。「コンテナ」利用も、石山修武の先駆的な試みもあるし、応急仮設住宅としての利用も珍しくない。大量生産された空間ユニットの再利用というリサイクルの提案がその射程内にある。そもそも空間ユニットによる工業化住宅の事例として大野勝彦のセキスイハイムM1があり、それが当初意図したのはユニットを立体的に積み上げる可能性である。
従って、問題の核心は、「コンテナ町屋」という「表現」が一般に受け入れられるかどうかである。そして、それ以前に問題にすべきが、建築界における分裂、「地」のなかに「図」をつくろうとする「住宅芸術論」の系譜とそれを否定する「住宅非芸術論」の系譜の対立である。そこに、建築界が一向に一般に開かれない深淵が存在し続けているのである。
図⑥町屋のエントランス 図⑦コンテナ町屋の内部
図⑧コンテナ町屋のテナント
布野修司 建築評論家・工学博士、
略歴
1949年島根県生まれ。東京大学助手,東洋大学助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事,2015年より日本大学特任教授。日本建築学会賞論文賞(1991)、著作賞(2013、2015)、日本都市計画学会論文賞(2006)。『戦後建築論ノート』(1981)『布野修司建築論集ⅠⅡⅢ』(1998)『裸の建築家 タウンアーキテクト論序説』(2000),『曼荼羅都市』(2006)『建築少年たちの夢』(2011)『進撃の建築家たち』(2019)『スラバヤ』(2021)他。
[1] 案内してくれたのは松隈洋館長、三宅拓也助教、そして『編集者宮内嘉久の思想と実践について』(2021年3月)という修士論文を書いた福井駿さんである。この展覧会には,宮内嘉久さんが2009年に亡くなったあと,貴美子夫人が資料一式を,宮内さんと親しかった編集者の藤原千晴さんを通じて松隈洋が館長の「美術工芸資料館」に預けられたという経緯がある。そして,この資料をもとに福井駿さんが三宅拓也助教の指導の下に修論を書いたのであるが,僕は福井さんのインタビューを昨年(2020年)暮れに受けていたのである。その中心は、宮内嘉久さんの,結局は僕が潰してしまったということになっている、『地平線』という雑誌の構想である。その宮内VS布野の対立に関しては,僕は当時『建築文化』1978年10月号に掲載した「自立メディア幻想の彼方に」という表題の文章に書いている。楠田博子さんという若い編集者(青幻社)が,やはり修士論文(東北大学)で『戦後建築雑誌における編集者・平良敬一の研究— 機能主義を超えるもの" の変遷と実践―』という平良敬一論を書いている。建築とジャーナリズムのあり方を再考する機運があるのではないか。
[2] http://a-forum.info/
[3] AF-Forum 建築とジャーナリズム研究会 「建築ジャーナリズムの来し方行く末」Ⅱ 神子久忠インタビュー アジテーターとして編集者 聞き手 布野修司 記録:佐藤敏宏 第1回AJ研 基調報告「建築ジャーナリズムの来し方行く末」日時:2021年7月3日 14:00-16:00コーディネーター:布野修司
コメンテーター:斎藤公男、和田章、神田順、今村創平、安藤正雄、種田智晴
設立趣旨:建築の評価をめぐっては、一般ジャーナリズムと建築ジャーナリズムの間に大きなギャップがある。そして、それぞれが大きな分裂をそのうちに含んでいる。一般ジャーナリズムにおける建築の評価は大きく二分されている。一方で、建築・建築家は、芸術・芸術家として扱われ、美術、文学、映画、演劇、などと同様「文化」として「文化欄」で扱われるが、他方、「政治」「経済」「社会」「家庭」「教育」欄では、建築家は建築業者であって、その個人名が記されることは(悪いことをしない限り)ない。建築家・建築作品と業者・建造物が暗黙のうちに区別されている。
建築ジャーナリズムのあり方の違いは、建築の評価の基準、軸、指標などに関わり、それ故、建築アカデミズム(建築学会)における建築の評価とも密接にかかわる。建築アカデミズムにおける評価の違いは、建築学の専門分化に根をもっている。日本の建築学会が学術・技術・芸術の統合をうたい、斎藤公男先生がArchi-neeringという概念と領域の設定を主唱するのは、その有様を深く認識するからである。(以下略)。
[4] 街区外周に浅い町家と、その隙間に入る路地に沿った長屋との組み合わせは、幕末の「禁門の変」後の近代京都中心部の典型的な組成である。これが近年の大規模マンション開発に蚕食されている。コンテナ町家と名付けられたこのプロジェクトは、こうした街区に残された三軒長屋の一部を取り込む鉄骨フレームのインフラと、コンテナを利用した小規模テナントの立体的で奥深い構成によって、新たな町家−長屋の組成を生み出している。歴史的環境をめぐる現実に抗い、歴史的資産を保全しながら、むしろ今日的な経済的・社会的複合を空間化することで、京都の近現代史を再現しつつ未来へ展開するという、批評的かつ積極的な複雑さを蔵することに成功した稀有な作品である。
2025年2月15日土曜日
死者の家:トバ・バタックの家,at,デルファイ研究所,199311
死者の家:トバ・バタックの家,at,デルファイ研究所,199311A
死者の家 トバ・バタックの墓 スマトラ
布野修司
東南アジアを歩いていて、興味深いのが墓である。実に様々な形態の墓がみられるのである。
インドネシア、マレーシアはムスリムが多いから、イスラームの墓を頻繁に眼にするのだが、これが実にそっけない。土葬なのであるが、極端な場合、土を盛って木を一本立てただけのものがある。普通、四角く囲って、頭に低い石柱もしくは木杭が立てられる。足の所にも立てられ一対となるケースも多い。もちろん、立派なものになると墓石がつくられ、墓の上にシェルターがつくられたりするのであるが、一般的に単純なものが多い。東南アジアの場合、頭をメッカの方に向けるのが多い印象だけれど、てんでバラバラの場合もある。
イスラームの死生観は、ヒンドゥー教や仏教とは随分異なっているようだ。イスラーム各派で埋葬の形は異なるのだが、サウジアラビアなどでは、特別な葬儀や墓参を全く行わず、埋葬のあとにも墓標を立てないのだという。
ムスリムにとって、現世の死はそのまま全ての終わりを意味しない。それは束の間の眠りの期間にすぎず、ほどなく審判をうけた後、天国なり地獄で永遠の来世を送る一ステップに過ぎない。人によっては、死は一〇日、あるいは一日か半日の出来事にしか感じられないものだという。墓はあんまり意味がないのである。
スラバヤのカンポン(都市内集落)を歩いていて、そこが墓地だと気づいてぞっとしたことがあるのであるが、ムスリムにとっては墓地に住むことはそう違和感がないのである。
それに対して、イスラーム化以前の墓や墓地には様々なものがある。東南アジアには入念な葬送儀礼を行なう地域が多かったのである。死者の記念として、石を工作したり、巨石を建てたりすることは、ニアス、トバ、トラジャ、中央スラウェシ、フローレス島、スンバを含む島嶼部の他の多くの地域社会の特徴である。
墓は「死者の家」である。家の形をした墓もよく見かける。サラワク、低地バラム地方のブラワン族は、死者の骨を洗い、サロンと呼ばれる見事な彫刻が施された共同霊廟にそれを安置する。バロック的な棟飾りを持った同様の霊廟は、サラワクのケンヤ族、カヤン族、カジャン族、プナン・バ族などでも一つの特徴となっている。また、イバン族は、優雅に彫刻されたスンカップと呼ばれる小さな「埋葬小屋」を作る。
北スマトラのトバ・バタック族は、住居を模した霊廟を建てた。ほとんどがキリスト教に改宗したのであるが、今日でもその伝統が残っている。その霊廟はかつては石造であったが、今日では、一般的にペンキを塗ったコンクリートで作られており、伝統的な住居の形を模した精巧な複製となっている。住居型の墓は、トバのいたるところに点在しており、巨大なトバ湖の中央にあるサモシル島には、特に多くみられる。また、同じバタックでも、カロ高原のカロ・バタックは、特異な形態をした納骨堂をもつ。
土着宗教において、先祖との実り多い関係を維持することは極めて重要であった。そのための施設である、墓や廟や納骨堂は、先祖のための家であり、生きている者と先祖との交流のための空間なのである。
2025年2月14日金曜日
石窟寺院トゥガリンガ,at,デルファイ研究所,199304
石窟寺院トゥガリンガ,at,デルファイ研究所,199304
石窟寺院 トゥガリンガ バリーギャニャール 布野修司
アジャンタ、エローラ、エレファンタ、カーリなどインドの石窟寺院には及ぶべくもないのだが、ジャワやバリでも石窟のチャンディー(ヒンドゥー寺院)がつくられている。
バリ島の石窟寺院というとゴア・ガジャ である。バリを訪れる人であればこの「象の洞窟」は誰でも知っているのではないか。洞窟そのものはTの字形の平面をした小さなものだが、何よりも、異形の怪物が口をあんぐりと開けたそのエントランスが強烈だ。バリの芝居に出てくる魔女ランダの顔を思わせる。あるいは、バロック的石窟寺院といってもいいかもしれない。
全体としてこじんまりと谷になった境内は実にいい雰囲気である。豊かな水が流れ落ちる沐浴場もいい。その沐浴場が発見されたのは戦後のことだというから、ちょっと驚く。
しかし、シチュエーションの妙といったらグヌン・カウィ だろう。ゴア・ガジャよりはるかにダイナミックなスケールがある。すり鉢状に棚田が囲む谷を降りていくと、谷底を流れる川を挟んで石窟のチャンディー(ヒンドゥー寺院)が建ち並ぶのであるが、そこへ至るアプローチがすばらしいのである。
王と女王の墓地にはそれぞれ数基のチャンディーが掘り出されようとして中断したままになっている。プロポーションをみると、縦に細長い東部ジャワのチャンディーに近い。一一世紀後半とみられるから、東部ジャワのヒンドゥー王国の影響が既に及んでいたということだろうか
2025年2月13日木曜日
スクオッターのいる風景,at,デルファイ研究所,199206
スクオッターのいる風景
布野修司
東南アジアの大都市を特徴づけるのが河沿いのこうした風景である。スクオッター(不法占拠者)たちの織りなす風景だ。
農村から流入してきた人々は、空いている土地をみつけて住みついた。大抵は居住に適さないために放置されていた土地である。湿地帯が多い。あるいは未利用の公共用地が選定される。中でも目立つのが、鉄道沿線沿いの空間である。そして、スクオッターたちの居住地を最も象徴する風景がこうした河沿いの風景なのである。
スクオッターたちのこうした居住区は、しばしば、マージナル・セツルメント(境界的(周縁的)居住地)と呼ばれる。考えてみれば、古来、河川敷は河原者たちの空間であった。境界線(所有関係)が曖昧だということもあろう、異人、他所者、乞食(ほがい)人、流れ者、流浪の民が集まってくるのが河原だったのである。
写真はインドネシアのスラバヤのあるカリ(川)である。物理的な居住環境の条件として、もっと劣悪な場所ももちろん多いのであるが、ここだけは印象深い場所である。十年見続けてきたからである。幾たびに訪れる場所である。
このカリの近くに大きな市場があって、ここの住人たちは、パサール(市場)に関わる仕事に携わっていた。パサールには人が集まる。人が集まれば、色々なサービスが必要になる。例えば、人々が食事をとるから、各種の屋台が集まってくる。ラーメンや雑炊、焼き鳥に野菜サラダ(ガドガド)、実に種類は多い。仕事を分けあって、みんなで稼ぐのである。
このカリに住んでいたのは、東ジャワの農村から出てきた人々であった。同じ村から来たというグループも住んでいた。意外かもしれないけれど、こうした不法占拠地区にも、きちんとした住民組織がある。インドネシアの場合、隣組(ルクン・タタンガ)、町内会(ルクン・ワルガ)というコミュニティー組織の秩序は徹底しているのである。
住居の一方の壁は、表通りの邸宅の裏壁である。ちゃっかり借用している。河の両側とも、奥へ至る通路が真ん中を通っている。河に迫り出した部分が洗濯したりする作業スペースである。驚いた事に中程には井戸が掘られてあった。
彼らは、税金を納めているのだと主張していた。何がしかのお金を支払って、居住を認めてもらっていたのである。行政当局も追い立てても、すぐ舞い戻って来るのだから目をつぶらざるを得なかったのである。
ところが、二年ぶりに訪れてみて驚いた。住居が跡形もなく撤去され、鉄格子がはめられているのである。ついに命運つきたか、と感慨に浸りながらよくみると、なにやら、小屋掛けのようなものが見える。再び不法占拠が始まっているのだ。
また来るときには、果たしてもとのように雑然とした風景が蘇っているのであろうか。
2025年2月12日水曜日
ランシット・ハウジング・プロジェクト,at,デルファイ研究所,199309
ランシット・ハウジング・プロジェクト,at,デルファイ研究所,199309
ランシット・ハウジング・プロジェクト バンコク
布野修司
バンコクの近郊、ランシットのコア・ハウス・プロジェクトである。このプロジェクトは、C.アレグザンダーがリマのコンペで提案したものによく似ている。それもそのはず、このプロジェクトのアイディアは、C.アレグザンダーの共同者であり、『パターン・ランゲージ』の共著者でもあるS.エンジェル(当時アジア工科大学教授)によって提案されたものなのである。
模型で分かるように、敷地が細長く短冊状に分けられている。そして、コア・ハウスが長屋建てで一列に建てられる。リマの場合、コア・ハウスは二階建てであるが、ここでは平屋だ。各入居者は、それぞれの資力と要求に応じて、自分の敷地に増築していくわけである。模型は居住者用につくられたもので、八つの増築パターンが示されていた。
ここも何年か時間を置いて二度ほど訪れてみた。二度目にいってみると様々な増築がなされていた。すぐにペンキを塗る。絵を描く。日本にはないセンスである。一室増築したものがある。緑がすぐ育つから一年もあれば町らしくなる。敷地一杯に増築した例さえ見られたのであった。
バンコクでも、他にいくつかのコア・ハウス・プロジェクトがある。PCパネルによるプレファブのコア・ハウスも試みられた。トゥン・ソン・ホンのハウジング・プロジェクトがそうである。
コア・ハウス・プロジェクトには色々のタイプがある。インドネシアの例では、敷地を田の字型に分割し、その中央に四軒分のコア・ハウスを建てるものがある。材料も乾燥地域に行けば、当然、日干し煉瓦によるコア・ハウスがつくられている。
ところが、こうして様々な建築的アイディアにみちたプロジェクトも、必ずしも成功したとはいえない限界があった。第一の理由は、コア・ハウス・プロジェクトが、リセツルメント(再定住)・プロジェクトの一環として行われてきたことである。リセツルメントとは、「スラム」居住者を都市近郊に移住させるプロジェクトのことである。インドネシアやフィリピンの場合、他の島へ移住させる場合もある。その場合、トランスマイグレーションとかイミグレーションと言われる。
とにかくそうした場合、移住したのはいいが、生計をたてる手段が用意されていないのである。工場などが設置され、雇用を吸収する、そうした計画はなされても現実には困難が多かった。農業をやるにも条件の悪いことが多かったのである。
いくら居住条件が多少よくなっても、生計を立てれないのであれば都心に戻るしかない。都心に住む事によって様々な収入が得られる。商売のネットワークも都心だから存在する。「スラム・クリアランス」が問題なのは、そうしたネットワークや経済基盤をずたずたにするからである。かくして、コア・ハウスの居住者も、それを放棄して都心へユーターンする、そんな現象が広範に見られたのである。
2025年2月11日火曜日
書斎の私 東京-京都の移動する書斎,建築文化,199203
書斎の私 布野修司
この半年は東京と京都を往復する生活が続いたから、随分と本を読んだ。といっても、新書が中心である。東京・京都間はざっと目を通すのに丁度いい時間なのである。新刊の新書はほとんど全部読んだ。『デパートを発明した夫婦』、『芭蕉の門人』、『現代アフリカ入門』、『産業廃棄物』、『竹の民俗誌』、『東京の都市計画』、『キャッチフレーズの戦後史』、『客家』、『漫画の歴史』、『国境を越える労働者』・・・、要するに乱読である。鞄の中に3、4冊の本が入ってないとなんとなく暇を持て余しそうで、つい軽くて重ばらないものを買い占めて乗車することになる。従って、この間の私の書斎は専ら新幹線の車中ということだ。
本来の書斎たるべき研究室は、着任早々インドネシアに出かけたこともあって、未だそれらしい相貌をしていない。そこで、かなり意識的に読んでいるのは京都に関する本である。不案内な土地についての情報が欲しいという直接的な動機がある。もともと古代史には興味があるので、具体的な土地の雰囲気を肌で感じながら、京都や奈良の歴史の本を読むのは楽しい。春からは京都の町を歩こうと思う。いつの日か我流(がりゅう)の京都論が書ければと思う。
専門的に読むのは、アジア、それもインドネシア関係の本が多いのだけれど、最近病みつきになりそうなのが、風水、マナサラ(インドの建築書)、プリンボン(ジャワの風水書)に関する本である。『風水思想とアジア』(渡邊欣雄 人文書院 一九九〇年)、 デ・フロート、『中国の風水思想ーー古代地相術のバラードーー』(牧尾良海訳 第一書房 一九八六年)、『朝鮮の風水』(村山智順 朝鮮総督府 一九三一年 国書刊行会・覆刻 一九七二年)、『龍のすむランドスケープ』(中野美代子 福武書店 一九九一年)、『中国人のトポス』(三浦國雄 平凡社)・・・、随分と風水に関する本がある。秘かなブームになっているのかもしれない。マナサラ、プリンボンとの比較が楽しみなのである。
2025年2月10日月曜日
美和絵里奈、 2008年度建築計画委員会春季学術研究会報告、建築計画委員会、建築雑誌、2008
2008年度建築計画委員会春季学術研究会報告
建築計画委員会
台湾において「台湾版まちづくり」ともいうべき「社区総体営造」が開始されて14年になる。その帰趨を問い、まちづくりが抱える問題を突き合わせる研究集会「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」を6月6~8日台北―台中で開催した。また、この開催に先駆けて台湾大学・建築與城郷研究所+芸術史研究所主催による国際シンポジウム「日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)」(台湾大学総合図書館B1国際会議庁、6月5日)が開催された。合わせて以下に報告したい。2つのプログラムを企画・組織頂いたのは、黄蘭翔先生(台湾大学芸術史研究所)と研究室の若い学生、院生のみなさんである。
日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town
Architects)
台湾大学芸術史研究所所長・謝明良先生の開会の辞(通訳:宗田昌人)で始まったシンポジウムは、9:30から18:00までたっぷり行われた。プログラムは以下の通り。9:30-11:30 「淡路震災とその後の街づくり」―台湾921大震災との比較― 講演:小林郁雄。コメント:喩肇青(中原大学)/12:20-14:20:「日本の街づくりのこれからの課題」講演:宇野求。コメント:曾旭正(台南芸術大学)/14:30-16:30 「日本におけるタウンアーキテクトの可能性」講演:布野修司。コメント:黄聲遠(建築家)/16:30-18:00:総合討論、夏鑄九(城郷與建築研究所)、布野修司。
地域をベースにした日本のまちづくりが本格的に始まるのは1995年の阪神淡路大震災以降である。ヴォランティアの出現、NPOの法制化がその方向を示している。一方、台湾で社区総体営造が開始されるのは1994年のことである。そして、921集集大地震(1998年)を経験している。震災復興については、相互に経験を交流してきた。折しも、中国四川大地震が起こった直後である。議論は熱の籠もったものとなった。小林郁雄先生の復興まちづくり、宇野求先生の日本橋でのまちづくりは、台湾の聴衆を大いに刺激した。台湾の自治体や建築家の取り組みにも同じような流れがあり、共感するところが多かった。とりわけ、若手建築家、黄聲遠さんの宜欄での活動はまさにタウンアーキテクトの仕事と呼びうるものであった。現地に住み込み、現場で考え、自らの手作りでまちづくりを続ける黄聲遠とその仲間たちの活動は台湾で大きな関心を集めている。建築、都市計画分野における台湾屈指の理論家、夏鑄九の総括も含めて相互に多くを学ぶことが出来たように思う。黄蘭翔先生、伊東豊雄の台中オペラハウスの設計を協働する、京都大学布野研究室出身の張瑞娟さん、夏鑄九研究室の博士後期課程に在籍する宗田昌人さんのすばらしい通訳に感謝したい。
「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」
第一日(6月6日)、春季学術研究会のプログラムは以下の通りであった。司会を山根周先生(滋賀県立大学)が勤め、台湾大学城郷與建築研究所の博士課程に留学中の五十嵐祐紀子さんに通訳をお願いした。
「社区総体営造の現状と課題」講師:社区営造学会、陳其南(国立台北芸術大学教授・元文化建設委員会主任)、「台湾現代建築の動向---李祖源、姚仁喜、謝英俊三人建築家を例として---」 講師:阮慶岳(実践大学副教授・建築評論家)、「店屋の保存と再生」講師:徐裕健(華梵大学教授・建築家)
陳其南先生は社区総体営造の仕掛人である。阮慶岳先生は小説家でもあり(邦訳もある)、若手の建築評論家である。徐裕健先生は、老街の再生に取組む。黄蘭翔先生のすばらしい人選であった。短い時間であったが、台湾における新たな動きとその背景を実によく理解することが出来た。
続いて、懇親会を開いたが、今年も国士舘からの18名を含めて多くの学生の参加があった。全く意図しなかったことであるが、若い学生たちの眼をアジアに開くいい機会になっている。参加者は58名、日本を離れて、議論をするのはいつも新鮮である。(布野修司、建築計画委員会委員長)
台北視察
2日目(6月7日)は台北の現代建築や歴史的建築、下町の視察見学ツアーを行った。大陸工程ビル→台北101→中山公会堂(昼食)
→板橋林家邸宅と庭園→台北廸化街→台北保安宮の順にバス2台で巡回した。
大陸工程ビルの設計は姚仁喜(大元建築及設計事務所主宰)。Exoskelton(外骨格)という構造設計手法による外観と、それによって可能となる内部の26m×26mの無柱空間が特徴的である。台北101は台北市信義計画區の南部、台北世界貿易センターに隣接する李祖原設計の101階建ての超高層ビルである。現在、世界一の高さの「使用中」ビルである(現在ドバイに建設中のビルがこの高さを凌いでいる)。世界最大の揺動式チューンド・マス・ダンパーがとてつもなく大きかった。構造体の大部分を内部に納め、ガラス壁に7度の傾斜をもたせることで得られる鳥瞰的な視界は圧巻。 台北市中心の延平南路に位置する中山公会堂は、辰野金吾に師事し台湾建築学会を創設した井出薫によって日本統治時代に建てられた。建築的には折衷主義であり、平面の対称性や正面の破風のような表現に見られる様式建築的なものと、水平線や垂直線の多用などの現代的な影響も見られる。林本源園邸は林本源一家により1893年に造園された歴史的名園で、台湾に現存する最も完全な園林建築である。中国庭園の伝統を受け継いだものであるが、三角形、平行四辺形の建物などやりたい放題の印象である。廸化街は1850年代に建設され店屋街である。連棟式店屋(ショップハウス)の建築形式は、閩南式・洋楼式・バロック式・モダニズム式の4種類に分類される。保安宮は淡水河と基隆河の合流点に位置し、龍山寺、清水巌祖師廟と並び台北の三大廟と称せられる。建築形式としては、前殿、正殿、後殿という清朝末期の典型である三殿式である。精微で色彩豊かな装飾や彫刻からは台湾の文化が伝わってきた。
台北はとても湿度が高く、ゴキブリが大きく、南国気候だった。歴史的街並みと建造物、そしてそのすぐ背後にある都市化した市街地との対比が印象的だった。日本統治期の建物や古い街並みが保存されながら、活気に満ち溢れていた。(鮫島拓、滋賀県立大学大学院)
南投県視察
3日目(6月8日)は自由参加のバスツアーによる南投県(台湾唯一の内陸県)視察。今回の焦点となった1999年の集集地震の復興まちづくりの事例を見学した。参加者は先生・学生35名。このツアーのコーディネートをして頂いたのは台湾大学の学生である。
南投県へは、まず2007年1月に開通した台湾高速鉄道(新幹線)にて台中へ向かう。台北と高雄を最速96分でつなぐというから驚きだ。建築家・伊東豊雄による話題の「台中メトロポリタンオペラハウス」や「高雄スタジアム」が進行プロジェクトとして挙げられるが、南へのアクセスは大分楽になった。
台中県霧峰郷林家屋敷(地震後の再建)(文化財)は、18世紀中ごろ大陸より渡り一代を築いた台湾屈指の旧家である。19世紀後半に建てられた邸宅群は、1945年日本敗戦後、国民党によって破壊され、1990年からようやく母屋を中心とした最も古い建物群を対象にした復元工事が行われ、99年にほぼ完成、その矢先、大地震に見舞われ、建物群は全壊した。「三落大宅院式」という建築形態をとるが、結婚式や劇などに使われ、舞台を囲む三方が観覧席となる。住宅内の欄間や戸には木の彫刻細工が施されていたが、元のまま残っている部分と新たに継ぎ足した部分が木の色合いらみてとれた。伝統的な職人技術の継承が困難になっている中で、当時の繊細な彫刻を残していく意味は大きい。邵族は、10数余の台湾原住民のうちのひとつであり、山間部の台湾最大の淡水湖、日月潭沿いに居住している。邵族はかつて半農半漁で生計を立てていたが、日拠時代や国民党時代を経て居住地移転や漢化政策による生活困窮など、徐々に離散していった。震源地から10kmほどの日月潭は壊滅的な被害を受けた。邵族の住居も80%が全半壊した。建築家・謝英俊は「部族コミュニティ再生」を基本方針に、震災復興住宅を計画した(邵(サオ)族(台湾原住民)の復興村)。邵族にとって重要な伝統的に行われている祭事のために、広場を計画している。また、軒を深めに出すことで、半屋外の軒下空間が隣近所との相互交流を生むきっかけとなっている。構造は軽量鉄骨のフレームをベースとし、セルフビルドで行われた。南投県信義郷潭南小学校は女性建築家・姜楽静の設計である。伝統的な家屋が設計の発想であり、学校を「家」のように捉えていた。敷地が45m×70mと普通の1/3程度しかないため、建物を敷地に対して真ん中に据え、建物の周りがトラックとなっている。
台湾は、もともと地形や土壌、気候上、お茶の栽培が適していて、小葉のウーロンや大葉のアッサムまで数多くの茶葉が生産できる。日月老茶場では店舗や飲食店を併せ持つ茶葉の工場を見学した。倉庫のような外観とは対照的に現代的な店舗空間、2階に上がると食事ができるスペースになっている。
1995年1月阪神淡路大震災直後、神戸市長田区に建てられた坂茂設計による仮設の教会が、2005年、台湾南投県埔里鎮桃米村に多くのボランティアの協力の下移設された。はるばる日本からやってきたペイパードーム(南投県埔里鎮新故郷文教基金会)がまちづくりの拠点となって、” 食之坊”や” 工之坊”などと共にまちを活気づけていければと思う。
この日は農暦5月5日で、「端午の節句」子供の日であった。台湾では都会に出た者も田舎へ帰り、家族でお祝いし、粽(チマキ)を食べることが習慣である。今回、視察のラストは粽を中心としたおもてなしをして頂いた。20種類近く存在するという”蛙”を観光資源としているこの地域ということで、蛙の様々なトーンの鳴声がわたしたちを迎えてくれた。(美和絵里奈、滋賀県立大学大学院)
布野修司 履歴 2025年1月1日
布野修司 20241101 履歴 住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14 1949 年 8 月 10 日 島根県出雲市知井宮生まれ 学歴 196...
-
traverse11 2010 新建築学研究11 Ondor, Mal & Nisshiki Jutaku(Japanese Style House):Transformation of Korean Traditional House オンドルとマル,そして日式住宅...