アジアへ――もうひとつの集住の形式をもとめて
布野 修司
僕が最初に東南アジアに行ったのは、振り返って見ると、先ほどお話ししたような私が住まわされてきた日本のある種のステレオタイプ化した住宅形式とは全く違うものをみたいという意識があったんだと思います。
東南アジアに通いだしたのは一九七九年からですから、丁度三〇歳からですね。東洋大に移ってすぐ、磯村英一学長から「東洋における居住問題の理論的、実証的研究」というのをやりなさい、と言われて研究費をつけてもらったんです。東大では、吉武研究室の最後の博士課程の学生なんですが、先生が定年前に筑波大学に出られて、指導教官はいないんです。鈴木成文先生のところに移って、何をしていいのかわからなかったんですが、公共住宅の違反増築を調べたり、建売住宅のファサード・デザインの記号論的分析なんてことをやりました。助手になるまで一本も論文らしい論文なんか書いていません。前田尚美先生、内田雄造先生に呼ばれて東洋大に移ったのが一九七八年です。吉武-鈴木スクールの住宅研究の流れと東洋大での東南アジアプロジェクトが決定的な出発点になりました。前田先生が住総研に太いパイプをお持ちで助成金を頂いて随分励みになりました。最初に太田邦夫先生と出掛けたのですが、太田先生の建築家としての眼には随分教わりました。
東南アジアの各地の伝統的民家に随分感動したのですが、私の担当は都市の「スラム」、不良住宅地でした。戦後日本の五〇年間の過程を一種追体験するという気がしてました。東南アジアの大都市は非常に貧しい状況にあった。今でもそう変わりません。そこらじゅうにバラックが建っている。それに対して、設計計画論として何をどう組み立てるか、をテーマとしたわけです。
戦後の貧しさの中で、西山先生、吉武先生が提案をされたのが51Cという形式だったわけですが、そこには集合の論理が抜けていたと思う。これははっきりしていると思います。そうではない住宅のあり方、もうひとつ別の「集住形式」に対する期待があった。それは間違っていなかった。二つあります。まず、「スラム」はスラムではない、ということです。私が集中的に調査したのはインドネシアのカンポンですが、それは居住地のモデルとして実に興味深かった。もうひとつ、貧しい中で創意工夫によって行われているハウジング(住宅供給)の手法が面白かった。全部仕上げずにスケルトンだけ供給するコア・ハウス・プロジェクトなど、むしろ、日本が学ぶことが多いと思ったんです。日本の戦後の住居のあり方には何かが欠落しているのではないかというのが直感です。
何故、こういう研究テーマに拘ってきたのかと問われれば、貧しい住まい体験と、住まいのことを研究する研究室に入ったことと、アジアの居住問題に触れたこと、全部重なっていますが、振り返るとそういうことかなと思っています。
まず、東南アジアを回りまして、大都市と農村を見たんですが、その過程で、きちんとしたインテンシブな調査研究を国際共同研究のかたちで展開すべきだと選んだのがインドネシアのスラバヤのカンポンです。これは、ジョハン・シラスというひとりの建築家、研究者に出会ったことが大きいですね。多くのことを教えられ、ほぼ二〇年、一緒に仕事をしてきております。数えたら二〇年間に十六回通ってました。三週間平均とすると一年間住んだことになります。シラスは京都大学に客員教授として一年いましたし、今年は偶然ライデン大学で会いました。
インドネシアをやっているということで「イスラームの都市性」という文部省の重点領域研究というメンバーに加えてもらいました。陣内さんも一緒でしたが、何故か、関西チームに入れられ、京都大学の西川幸治先生、応地利明先生と出会います。結局何もしませんでしたが、実に楽しい会でした。イスラーム世界へ眼を開かれたのはこの研究会のおかげです。また、京都大学に移ることになるのもこの研究会の縁です。イスラームのまちづくりの原理に触れたのは大きな転機になりました。マスタープランよりも身近なディテールによって制御する手法、ワクフ制度という基金制度など近代都市計画の手法とは異なった手法が新鮮でした。また、都市型住宅の基本形としてのコートハウスのあり方を再確認もしました。
京都大学へ移ってまずやったのはロンボク島の調査です。都市計画におけるヒンドゥー原理とイスラーム原理の比較に興味をもったんです。それ以来、現在は滋賀県立大学に移られましたが、応地利明先生とご一緒させて頂いております。ロンボクのチャクラヌガラという都市は実に面白い都市でした。一種の発見だと思います。近々、ライデン大学から英文論文集がでます。チャクラヌガラというヒンドゥー都市がきっかけになって、インドに眼が向きます。まず手掛けたのはジャイプルでその後カトマンズ盆地にも手を広げることになりました。イスラーム都市としては、ラホール、アーメダバード、デリーの三都を研究対象としました。
その後、この五年間ぐらいはむちゃなことをやっていまして、植民都市研究ということで、五年望外の研究費を頂きました。去年、今年と世界一周をしたのですが、オランダ植民都市がターゲットです。インドネシアの宗主国がオランダだったという縁です。出島からゼーランジャ城(台湾)、バタビア(ジャカルタ)、マラッカ、コロンボ・ゴール、コチンと追いかけてケープタウンまで行ったら、西インド会社の都市が気になりだしたという次第です。世界中の都市を追いかけるという無謀というか、手を広げすぎましたけれども、そのなかでもいちばんの興味は、都市型住宅なんです。アジアでどういう都市型の集住形式をつくってきたか。これはたぶん陣内さんとも共有しているテーマだと思います。都市組織(アーバン・ティッシュ)がテーマです。いくつか図を持ってきていますが、これはヴァラナシ(ベナレス)です。基本的にはコートハウスになるわけですが、イスラーム支配が長かった。ヒンズーの聖地ですけれども、こういう形式をもっている(図・バラナシ)。
植民都市コチン。都市型の住宅を発展させた国オランダはいまでも人口密度が大変高いわけですが、そのオランダがアジアにきてつくった都市型住宅はオランダ本国とは違うんですね。むしろ中国系といいますか、コートハウス、中国の街屋に近い(図・コチン)。
同じインドでもジャイプルという町はなかなか面白くて、イスラームの住む地区と、ヒンズーが住む地区で、住まい方が違う(図・ジャイプル)。
台湾もなかなか面白いところで、間口が狭いなかで、透天といって、階段室を直行でバーッと通して、各階プランが違う。(図・台湾)。
かと思うと、ネパールの集落はすごく古くから集合住宅というか、都市型住宅を発達させてきています。ネパールの家はいちばん上がキッチンになっています。ちょっと信じられない。
アジアはそもそも都市型住宅の形式の伝統が薄いところですけれども、アジアだけみても地域でいろいろ都市型住宅の形式を発達させている。それに対して、わが貧しい住宅遍歴を振り返ってみて、ちょっと専門家として情けない。日本でどうして住む形式、記憶とか原風景になるようなものを生み出してこなかったのかということをいつも考えています。
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