『建築雑誌』編集長日誌 布野修司
2002年10月
みんな忙しい
座談、対談の日程がセットできない!
2002年10月1日
大阪大学の小浦久子先生来室。ムンバイの調査を行うに当たっての相談。修士の重富君を指導するために一度行ってきたいということ。実に熱心で頭が下がる。ムンバイについては、チョール(設備共用賃貸集合住宅)について、千葉大の安藤研究室と一緒に少し調査をしたことがあり(10月28日参照)、棲み分けも考えて、いくつか一緒に以下のようなテーマを議論する。
1)植民都市の街区構造の変容
19Cの図面と現状(現地)の比較(形態変化など)が可能
この場合、市街地の変化や土地利用の変化、歴史的視点などから、
どの地区を選ぶかが課題か
2)地域資源のインベントリー
・建築的価値とは別に、歴史、都市構造、地域社会において
意味のある場所・空間・施設など、地域を読み解くうえで、
地域の記憶のうえでキーになる資源のインベントリー
・ガーデンハウスなど、日本の登録文化財的な建築・空間ストックのインベントリー 事前の文献調査とテーマ設定が課題か
3)都市課題と都市計画史-住宅問題
・improvement trust?
・住宅改善の歴史と現在のスクウォッターを都市計画・都市構造レベルで
情報収集、図面入手の可能性
2002年10月2日
11月号「都市の行方」のための磯崎新インタビュー。北澤先生、中島助手、片寄さんと乃木坂のアトリエへ。久しぶりで懐かしい。アトリエは分社化ということで、すっかり様子が変わっていたけれど、磯崎さん自身は少しも変わった雰囲気がない。前にもまして忙しそうで、なんだかうれしい。かえって、こちらが歳を感じさせられた次第。
インタビューは、北澤先生にお任せだったけれど、相変わらずの説明に、つい口を出した。「日本の都市デザイン」以降の「見えない都市論」「プロセスプランニング論」は基本的には揺らいではいない。しかし、「都市からの撤退」と「海市」計画が結びつかないのである。
伊藤滋vs.磯崎新対談を是非実現させたかったけれど、超多忙の二人のスケジュールを合わせることができなかった。それぞれ、話の端々に様々なヒントを得ることが出来たことで収穫としたい。
キーワードは、「ひ」(霊)であった。
「ひ」:本来、霊力、神霊を表す和語。可視化されない魂、スピリットを意味する。日本の都市空間には、そんな不可視の「ひ」が充満している。私には、都市のなかの人間や、人間の動き、さらにはより大きな意味での都市の生活、そういうレベルの問題を取り出すべきではないかという問題意識がある。それは方法論というよりもイメージに偏っている部分であり、1960年代以降、設計とパラレルに考えてきた問題である。(磯崎新)
磯崎 都市計画の普通の見方では、まずコンセプトとして決定的な未来、理想的なプランが目標としてあって、それに向かっていくのがもともとの発想です。そのとき、本当に目標はあるのか、目標は常に消えてしまうんじゃないか。
都市計画に何かアクションがあると、全体の像が常にゆらめいて消えてしまい、その目標としての像がぼやけてくる。だから、またつくり直さないといけなくなる。たえまない修正がなされていくうちに、像は消えているわけです。しかし、全体を仮定せず、全体を信じず、部分を積み重ねれば都市ができるとも思いません。むしろ、その仮定をこそつかまえるべきであって、仮定自身それが未来でもあり現在でもあるような状態に持ちこむ必要があるのではないか。そうすると、計画とはプロセスになるのではないか、と考えられます。
僕が“都市デザイナー”といった理由の一つは、現実の都市に対して、空想でも、夢でも、実現不可能でもいいけれど、“構想”を絵に描くことが重要だと思ったからです。絵があると、応答が始まり、あらためて問題を生みだしていく。リアルとバーチャルが重なって、バーチャルがリアルに影響する。その影響の仕方を予測してバーチャルを組み立てることが構想だし、デザイナーの役割ではないかと思うのです。
1960年代を通じて、さっき“都市の構想”とおっしゃった部分を、僕は計画批判としてやってきたつもりです。プロセスプランニングとは、計画というフィックスした概念ではなく、それを仮定という概念に置き換えてしまえ。そういういい方でもあったわけで、「見えない都市」は計画批判として見てもらったほうがいい。計画なんてもうない。まったく切り離れた空想的、あるいは構想的といってもいいんですが、それを当時は「虚体」とよんでいました。
しかし当時の社会は、建築家は夢のような絵を描いて、単なるお遊びだ。リアリティがないではないか、と批判されました。同じことを僕は都庁舎のコンペで体験したわけですが、依然としてそうなのです。いま、時代のサイクルがそこに戻りつつあるのではないか。そして、その虚体をもう一度回復しようということを、最近は「ひ」(霊)★とよんでいます。
2002年10月3日
第16回編集委員会。議題は以下の通り。
1.前回議論の確認 ……………………………………………………………(資料1)
2.特集企画について …………………………………………………………(資料2)
○進行状況の確認
・1月号「公共建築の設計者選定」
→会長からの要請(4学会共同編集)について
・2月号「アジアのなかの日本建築」………………(資料3-1)(資料3-2)
・3月号「巨大地震を前にして」
○企画案の審議
・4月号(建築デザインの新展開?)
・5月号「環境で格付けされる建築主と設計」
○新企画の審議
・「建築計画学のリ・ストラクチャリング」
・ 「建築コストと市場-バブル崩壊後の展開と将来」
3.連載について………………………………………………………………(資料4)
・3月号までの執筆者確定
・「建築博物館が欲しい」について
・「地域の眼」について
4.検討事項
・刊行スケジュールについて …………………………………………(資料5)
・投稿について ……………………………………………(資料6-1)(6-2)
1)古市徹雄氏(古市徹雄都市建築研究所代表)より「公開提案書」
2)川端俊一郎氏からの投稿(北海学園大学教授、62歳、会員)
「中国の木造建築を訪ねて」
古谷幹事が欠席で4月号の議論が出来ないのが痛かった。古市氏の「公開提案書」は、学会賞審査をもっと公開せよ、建築雑誌はもっと作品の評価を扱え、という内容。学会賞作品賞委員会については基本的に公開のルールが設定されている。編集長として答えたいことは多いが、表彰委員会、学会賞委員会の対応を待たないと公表できない。その回答をまって、いずれ、ここでもコメントしたい。
2002年10月4日
後期授業「世界建築史Ⅱ」開始。教科書として書いた『アジア都市建築史』(昭和堂)間に合わず。もう少し作業が残っている。プログラムは以下の通り。予定通りに行ったためしはないのであるが。今期の終わりまでに出版できればいいのだが。
世界建築史Ⅱ2002年度 SCHEDULE布野修司
金曜日8:45~10:15 建3
0. オリエンテーション 10月 4日
Ⅰ. 東洋建築史学史
●レポート課題I出題
Ⅱ. 伊東忠太と東洋建築
10月11日
Ⅲ. 村田治郎と東洋建築 10月18日
Ⅳ. 「支那建築史」・・・中国建築史001
10月25日
Ⅴ. 中国都城の起源と発展・・・中国建築史002
11月 1日
中国仏教建築の系譜・・・中国建築史003
Ⅵ. 韓国建築史 11月 8日
Ⅶ. インド建築史Ⅰ 11月15日
●レポート課題Ⅰ提出
●レポート課題Ⅱ出題
Ⅷ. インド建築史Ⅱ 11月22日
Ⅸ. イスラーム建築史Ⅰ 11月29日
Ⅹ. イスラーム建築史Ⅱ 12月 6日
ⅩⅠ 東南アジア建築史Ⅰ 12月13日
ⅩⅡ 東南アジア建築史Ⅱ 12月20日
ⅩⅢ 植民地建築 1月10日
●レポート課題Ⅱ提出
XⅣ 試験 1月17日
2002年10月6日
SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)「谷中五重塔シンポジウム=職人技と都市文化の再生=」(14:00~17:00(13:00開場)場所:東京藝術大学美術学部 中央棟第一講義室)のために上京。久しぶりの東京芸術大学であった。 主旨に「かつて「谷中五重塔」は、上野-谷中の歴史とものづくりの伝統が、脈々と受け継がれている地域の風景的なシンボルとして存在しておりました。今回の企画は、「谷中五重塔」復元の第一段階として、「谷中五重塔」の図面を元に建築技術、職人技や都市文化の再生などについて幅広い意見交換をしたいと考えております。今回、「谷中五重塔」を再考することで、江戸-東京の360年もの遍歴を辿り、戦後、急激な都市化の荒波の中で様々な職人技、木造建設技術、伝統文化、まちの風景も加速度的に失われつつある、この現実に対し、21世紀の新たな価値観の方向を探りたいと考えました。」と唱う。パネリストは以下の通り。
司会:安藤 正雄(SSF理事長)
手嶋 尚人(谷中学校)「五重塔の再建の構想」
野池 幸三(谷中さん崎坂商店街振興組合理事長)「谷中商店街・町会と五重塔の再建」
菊池 芳明(大工棟梁)「五重塔と建築技能」
藤澤 彰(芝浦工業大学)「五重塔の建築史的評価」
椎原 晶子(東京藝術大学)「谷中の町並みの保存と再生」
布野 修司「職人と町造り」
谷中の五重塔は、幸田露伴の『五重塔』のモデルになった塔である。彼は谷中に住んでいた。江戸では一番高い塔であった。その塔は、1957年、心中事件によって失われた。それ以来、なんとか再建できないかという思いが谷中に暮らす人々にある。菊池棟梁など、自らの手によって再建するのが悲願である。ロビーには、谷中五重塔の図面及び写真、谷中五重塔の大斗及び宝塔(実物)が展示され、谷中五重塔の炎上時のビデオも放映された。
SSFの企画は、五重塔再建をテーマに地域と職人のつながりを再度考えてみようということであるが、京都でも似たようなことができないか、ということで研究室出身の森田一弥君も誘った。森田君は左官修行した後、事務所を開いた。彼が個展を開いたことは、6月24日に触れた。
実は、昨年来、京都造形大学の大学院で、『匠明』を読んで「三重塔」を図面化する作業をやってきた。この際、皆さんにお見せしようと、CG作品をCDにして持ってきた。僕の発表の時皆さんに披露して、みんなでやれば以外に簡単に再建できるのでは?としゃべった。加納勝彦君が試作品として15枚ほど焼いてくれたのを置いておいたら8枚売れた。興味ある人にはお分けしたい。
ところで、六角鬼丈さんが駆けつけてくれて挨拶してくれたのには感激した。久しぶりであった。懇親会では、谷中のこと、東京芸大のことのみならず、北京のこと、毛綱さんのこと、随分話した。例によって時の経つのを忘れ、安藤先生の新宅に泊めて頂くことになった。
2002年10月8日
12月号特集「光環境-科学と設計の接点を探る」の巻頭鼎談(乾正雄、池田光雄、石井幹子)に臨席。まさに、臨席ということで、石田泰一郎幹事に全てお任せというつもりであった。池田先生とは久し振り、乾先生、石井先生とは初対面であった。
鼎談の前に、第4回アジアの建築交流シンポジウムのツアーの件で旅行代理店の責任者と合う。全面的に非を認めて謝罪するということなので、一件落着ということにする。
事前に用意された石田メモは以下のようであった。
■ 回顧: 光を専門にした経緯など、これまでの仕事を振り返って
■ 光環境の現状:現状認識,評価、問題点
■ 光の文化比較、日本の照明,ヨーロッパの照明、光源の話、光と人間の心理生理
■ 光の科学と設計:照明設計という仕事、基礎研究は設計に生かされているか?、 接点,融合...
■ 将来展望と課題、光環境の研究に望まれること、日本の照明の行方、国際貢献(アジア,CIE ...)
しかし、鼎談、座談は思うように進まないのが常だ。
いきなり、この部屋の照明はなっていない、との石井発言。一部抜粋(文責布野)。なるほど、われわれが光環境に鈍感であることに気がつかされる。『建築雑誌』で光環境を取り上げるのは1976年以来である。
石井 光の光害のことを話す前に、もっと身近なところから、ぜひこの建築学会誌の読者の方には考えていただきたいと思うことがいっぱいあるんですが、まず今日、私はこの部屋に入ってきて、非常にショックを受けたんです。なぜ建築会館がこういうひどい照明なのか。いまこうやって座っていても、非常に私はまぶしくて、先生方のお顔が逆行気味に見えて、大変恐縮ですが、先生のおでこのこのへんのあたりが光っていて、これはまずい照明です。
私どものような黒い目にとっても、この裸の蛍光灯のグレアは非常に不愉快だと思っています。たとえばここの空間だって、もっと気持ちのいい間接光が真ん中にあって、テーブルの上を明るくして、そして壁には若干の間接光があって、先生のお顔がもっときちんと見えて、なおかつ空間としてはいい明るさがあるということになるべきだろうと思うんです。
最近特に思うんですが、建築家の方たちが極めて具合の悪い照明の勉強をしてきたのではないかと思えてならないんです。それは何かというと、建築空間をルクスで覚えてしますんですか。私はそのへんのところは定かではないんですが、この建物のこの場所は何ルクスぐらいあればいいとか、事務空間だったらいくつぐらい、ロビーは何ルクスぐらい、どこは何ルクスぐらいと、すべてルクスでやっている。それはたぶん建築でいう設備設計かもしれませんが、ルクスでだいたいの明るさを決めていって、設備設計は極めて簡単に計算をして、ダダダッと蛍光灯がコンピュータで配置されて、はい終わりということになってきている。
でも照度というのは極めて相対的なものでもあったり、個人的なものでもあったり、いったい照度というのは何かということが、仕事をしていけばいくほど、実はわからなくなってきまして、私の事務所の付属設備として、照度を実際に体験できる場所をつくってみたわけです。それで満月の明るさというのは0.1ルクスだということは書いてもあるし、皆さんそうおっしゃる。それでは0.1ルクスの明るさ、それから0.5ルクスの明るさ、1ルクスの明るさ、2ルクスの明るさと、一つずつ目盛りを上げていって、10ルクスの明るさというのはどのくらいなのか、どんな明るさなのかということを、実際に実体験している建築家がどれだけいるんだろうか。
20ルクス、30ルクス、40ルクスと、照度計を置いて、刻々と上げていって、10万ルクスまで上げられる部屋をつくったわけです。それで座ってみますと、0.1ルクスと1ルクスというのはすごく違いますよね。それから1ルクスと5ルクス、これも違う。そして10ルクスぐらいになると、暗いところからどんどん上がっていきますから、10ルクスというのはとても明るく感じるんです。
実際に皆さんは家の中でどれぐらいの明るさのところに住んでいるかというと、けっこう日本の家の中というのは明るいから、100ルクスとか、200ルクスぐらいのところに、みんな住んでいるわけです。それではオフィスはどうかというと、1000とか、1500とかです。
ところがどんどん上げていきますと、100ルクスと200ルクスの差というのは、実は目ではあまりわからなくなるし、1000ルクスと2000ルクスの差もわからなくなるし、それからもっと上がっていって、1万と2万の差はわからないですよね。そのようにどんどん人間の目は鈍感になっていってしまう。10万ルクスなんて、わあ明るいというだけで、何の感動もないし、感興もないわけです。
何が言いたいかというと、本当にどれぐらいの明るさが適切なのかということに対して、数値だけが一人歩きをしていて、感覚との呼応関係がないんじゃないかと思うんですよ。私は建築の空間の中が、いま明るすぎると思っていて、それは光害とか、天体観測で星が見えないということの前に、極めて非人間的な明るさが建築空間の中に充満しているんじゃないかと思えてならないんです。ですから私たちが美しいと思う明るさとは何なのかということがもっと考えられていいんじゃないか。
これは工業生産時代の名残だと思いますが、何の仕事をするから何ルクスということばかりやって、それを教わってきたと思うんです。ところがいまは仕事の概念も変わってきて、モニターを見るときには何ルクスで、どう考えたらいいのか。画面に映り込まないなんてことを言いますが、逆にああいう仕事のときはむしろ少し暗いほうが心地よいんじゃないかと思えてならないんです。
ことに日本においては、建築の空間の照明の質というのが、極めてひどい状態に置かれているのではないかと思えてならないんです。そして建築空間がそうだから、いま日本の住宅というのは最悪だと思うんですが、住宅の照明もひどいと思うんですよ。そしてその延長線上に屋外がありまして、屋外、都市空間の照明も、結局、建築の照明がそうだから、屋外の照明も明るくなってしまっている。
乾先生の『夜は暗くてはいけないか』(朝日選書)もユニークな問題提起の本である。池田先生がさかんに、計画系の先生方と一緒に研究したいとおっしゃったのも印象的であった。
鼎談終了後、乾、石田、布野の三人で少しビールとワインを頂いた。同じ朝日選書を書いたということで、僕の『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』の話を持ち出されて恐縮してしまった。
2002年10月9日
2月号「アジアの中の日本建築」(仮)の座談会の設定がなかなかできない。これだけはちょっと焦る。座談会はイージーだから極力避けたいけれど、是非、寄稿して欲しいひとは、えてして忙しい。忙しいのでインタビューということになるけれど、座談会となるとスケジュール調整が難しい。堂々巡りというか、矛盾というか・・・。編集委員の先生方も超忙しい。ただ、座談の議論に参加できる特権がある。座談は生に限る、である。それを可能な限り伝えたいけれど、紙数の制約がある。編集作業は、実に難しい。しかし、そこが面白いところでもある。
数本あるからトータル相当の人数と連絡をしつつあるのであるが、皆さん忙しい。不況、不況というけれど、建築界の中の動きがよくわかる。
2002年10月10日
1500号記念特集「アジアの中の日本建築」(仮)の日韓対談(鈴木成文:名誉会員、前神戸芸術工科大学学長、東京大学名誉教授vs 李光魯 元大韓建築学会長 ソウル国立大学名誉教授 大韓民国芸術院会員 工学博士 建築家 司会 布野修司)のテープ起こしがあがってくる。山田協太君の、彼にしては珍しく、特急の仕事であった。早速手を入れて鈴木先生に送る。以下、さわりである。
戦後日本とアジア
布野(司会):重慶でこんな場を設けることができてうれしく思います。ありがとうございます。日本の建築界は明治以降ヨーロッパをモデルとして出発しました。一方で、東洋建築史学などのようにアジアへの意識もない訳ではなかったのですが、戦後まもなくでも建築を考える時にはアジアということはあまり意識されなかったんじゃないでしょうか。ところが現在は、アジアから多数の留学生が来るなど相当状況が違ってきています。戦中の話もありますが、ここではまず戦後日本がいつアジアに目を向けるようになったのか、というところから出発して話を広げていきたいと思います。まず鈴木先生に、戦後の日本の建築界の動きを述べていただきたいと思います。先生はある段階から韓国や中国、台湾のことを調査研究されますよね。振り返って、研究を始められた理由を教えていただけないでしょうか。
鈴木:僕は伊東忠太みたいに本当にアジアのこと考えて始めたわけではありません。何となく戦後は欧米に学ぼうという感じがあった。はじめは戦後の日本の住宅のモデルをどうつくるかというようなことを研究していました。しかしその後、もっと文化的なことに興味が移ってきて、非常に近い文化と日本を比べてみようと考えたわけです。近隣文化との比較を通して日本を考えてみようということです。
布野:それはだいたいいつ頃のことですか。
鈴木:たまたま韓国からは東大の鈴木研に何人かの留学生があって、帰国して大学の先生になっているので、その人たちと連絡をとって一緒に住宅研究をやろうということを企てました。とくに住居の問題は生活の文化に関わることだから、ただ外国からポッと行って調査しても深いところは解らない。その国の人が研究すべきだというのが私たちの考えでした。だから韓国では韓国の方と共同調査をしたのです。ただ、日本では研究の考え方や調査の方法などについては大分蓄積がありますから、そういう面では互いに交流して研究する意義は大きいと思ったのです。その後、韓国でもずいぶん実態調査・生活調査が盛んになりましたね。日本でも多くの大学でこの20年ほどの間にたいへん活発になりました。
布野:鈴木先生が韓国や台湾の調査をやられ出した頃、李先生は東大にいらっしゃったと思うんですが。
李:ええ、そうですね。私が東大に来たのが84年です。
布野:ソウル大が出来てそこに建築学科が出来たのはいつですか。
李:ソウル大が出来たのと建築学科が出来たのは同時です。ソウル大学がどうして出来たかって言うとね、あの時はアメリカが軍政なんですよ。工業大学、農業大学みんな国立なんですが、しかし、アメリカがこれはダメだといいました。ソウル大学にすべて集めてユニヴァーシティにすると言ったんですよ。農業大学は農学部にしてソウル大学をつくって皆その中に入れたんですよ。それが終戦後間も無くの1947年くらいです。これが大変な問題になった。北とつながった学生達がね、大学統合は私達の個性を抹殺するものだと言って大反対。暴動するわけですね。あれはすごかった。しかし政府が強行してソウル大学に統合する。それが46年かな。まあ、ソウル大学は47年くらいに出発したんですよ。アンソニーというアメリカ人が総長でした。そして韓国人に移ったんです。ソウル大学に移行した時は軍政だったからね。
布野:今日、平壌宣言ということで、日本と北朝鮮の関係も改善の兆しがあるのですが。
李:終戦後はほんとに大変だった。6人のうち3人は北へ行ったんです。私も相当オルグされて、一度はモスクワまで行くことを覚悟して平壌まで行ったんです。
日本かアメリカか
布野:李先生の後の世代はどうなんでしょう。例えば亡くなった金壽根先生なんかは日本に留学していますよね。
李:彼は密航したんです。金壽根は私の三年後輩なんですよ。私四年の時に韓国戦争が起こるでしょ、6月25日。金壽根は一年に入ったんですよ。それから戦争になって、私はまあ釜山の方で卒業したんですが、金壽根は日本に渡ったんですよ。
布野:少し下の世代にあたる方々、例えば今の大韓建築学会の会長金震均先生はどうですか。
李:あれも私がソウル大学教授に連れて来たんですけどね。デザインをやるんですよ。それでMITで設計で修士をとって帰って来ました。
布野:僕と同じ世代でソウル大学の金光鉉(大韓建築学会、会誌編集長)が東大で学位をとってるはずですが。
李:金光鉉も私のところで修士を取って、ソウル大学の助手にしようとしたんですよ。しかし、まだ修士取りたてなので助手の発令がなかなか出ない。ソウル大学で発令しないから市立大学に行って、そこで助手になった。助手として入ると外国留学の試験の資格が出来るんですよ。そして東京の香山寿夫(放送大学)さんの方に行ったんです。
布野:日本に勉強しに行く派と、それからアメリカやヨーロッパに勉強しに行く派がありますけど、その辺の事情はどうなんですか。
李:それはとても面白いですよ。ソウル大学出身はですね、日本に行かないんですよ。みんなアメリカとかヨーロッパの方に行く。なぜかというとソウル大学をつくった後、アメリカの方でミネソタプロジェクトというものをやってるんですよ。1950年代後半からかな。ソウル大学つくったけれど、教授が資格が無くてしょうがなかった。それでソウル大学の専任講師以上の者と非常勤講師でも学科の方で推薦を受けた者をあわせて、500人位がミネソタ大学に行ったんですよ。
鈴木:それはアメリカのプロジェクトですよね。ドクターとらせて帰しますよという約束でやった。
李:そうです。農業、工業、医学とかいろんな分野で5、6年継続的に教育したですよ。先生があっちから帰ってくるから留学生も自然とアメリカの方に推薦書を書くようになる。それと、ソウル大学出身でアメリカに行く学生は学位取りに行くんじゃないんですよ。マスターの後は設計をする。建築の設計のために行く。東大行くのは学位取るためでしょ。ソウル大学出身は早く3年あげて、設計事務所行って経験つんで帰ってくる、そういうパターンが多いです。だから、日本に行くのは漢陽大学とかの私立大学が多いですね。日本に行った留学生は、金光文、朴勇換あるいは金光鉉が、私の記憶では初めてですね。あの世代で日本に行った。
この作業は実は大変なのであるが、建築雑誌におけるほとんど全ての作業はは小野寺さんに依っている。その力量は大変なものである。若い頃、テープ起こしを随分やったからその苦労はよくわかる。また、テープ起こしは実に勉強になる。何をどう話せばいいのか、自らの反省にもなる。だから、若い諸君には、テープ起こしは喜んでやれ!と本気で言う。しかし、編集こそが醍醐味である。それを編集する能力は一朝一夕では身につかない。
この間のやりとりを見ている中で、小野寺さんの次の言葉が印象に残る。
先日のお話しのとおり、記事は私がつくります。
が、この作業にはどうしても個人的な癖が出ます。また、私個人の教養・知識・関心など、大げさに言えば全人格が反映されます。特集主旨を踏まえた記事にすべく努力するのはもちろんですが、結果的に発言者全体のイメージと異なることも考えられます。
2002年10月15日
宇治市景観審議会。今年から設置された委員会に、3回目にして初めて出席。広原盛明会長の方針で、できるだけオープンに議論するということで、傍聴人もお見えになっている。コンサルがお膳立てするのではなく、その場で議論できるのもいい。しかし、事務局はいささか大変である。今日は、重点地区を議論するというのであるが、重点地区とは何か、ということがはっきりしない。様々な意見が出てまとまらない。市民に開かれたシンポジウムを行うことを決めて、大半の議論は持ち越しとなった。宇治市は平等院と宇治上神社の世界文化遺産をもつ。源氏物語ゆかりの様々な史跡も多い。茶畑など独特の自然景観もある。一方で、戦後建ち並んだ新興住宅街もある。地区毎の肌理細かい指針が必要である。
夕方、Traverse(新建築学研究)編集委員会。第03号の刊行が遅れたけれど、刊行の目処が立ち、来年度の04号の企画会議。編集委員全員、布野、古阪、山岸、竹山、大崎、伊勢、石田の7人がそろう。途中から3号の編集作業に大活躍した竹山研究室の小池さんも加わる。少しずつ執筆者の輪も広げようと、様々な候補者の名前が挙がる。
2002年10月17日
京都の龍池小学校で、京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)2002年度秋季リーグ開幕。今年は、3日間、展覧会が開かれる。各チーム競って賞を出す。リーグ戦の趣旨を強めるという。初日に早速覗いてみた。まず各チームが発表し、選手同士でMVPを決めるシンポジウムが開かれていた。題して「荒武者乱戦? ウリでゴリおし?」各チームの売り物をピーアールしあおうという趣旨だ。
参加チームとテーマは以下の通り。
池坊短期大学岩崎研究室 「京都の茶室の再発見」
京都大学高田研究室 「「境界線の相対化」による都市空間の再生」
京都大学竹山研究室 「生祥地区」
京都大学布野研究室A 「YAMASHINA PROJECT」
京都大学布野研究室B 「京都市南区」
京都大学生産+歴史研究室 「西京区・桂」
F-OB 「円環都市:山科」
京都市立芸術大学 「カツラ展」
京都工芸繊維大学船越研究室 「Linear Sequence」
京都嵯峨芸術大学大森研究室 「嵯峨野嵐山商店街まち並みイメージアップ計画」
京都女子大学 「猪熊通り」京都文教短大小林研 「京都市伏見区伏見・向島・淀」
滋賀県立大学松岡研究室/山根研究室 「都市空間における近代化と祠による「ずれ」に関する調査」
龍谷大学広原研究室 「伏見稲荷商店街調査報告」
立命館大学平尾研究室 「SPACE BANK」
立命館大学リム・ボン研究室 「西陣デザインスクール(NDS)構想」
そして、今年から開始された「重点調査地区」のパネルが特別参加である。いわゆる「田の字」地区のマンション建設の状況を土地所有の変化を含めて明らかにしている。
投票結果は知らずに帰宅。すると以下のメールが入っていた。意外な結果だったらしい。さらに議論するという。
CDL 選手各位19日(土)<最終日>10:00~12:00
荒武者乱戦-「ゴリ」おしが「ウリ」!
パネラー:菊池浩輔(京芸)/金剛正典(立命平尾研)/米津孝祐(京大生産歴史研)/渡辺菊眞(F-OB)/井関武彦(京大竹山研)/上林功(工繊)/魚谷繁礼(重点調査)
司会:長野良亮
※急遽企画されたイベントです。ふるってご参加下さい。なお、当日、パネラーは9時45分に会場に集合してください。本日は 荒武者乱戦-「ウリ」で「ゴリ」おしお疲れさまでした。イベントの最後にも話しましたが、まだまだ、「ウリ-ゴリ」が足りないのではないか、十分に説明できなかったというところがあったのではないでしょうか。もしくは、なぜあのチームに破れたのだろう、などなど不意をついた斬られ方や無念の散り方にいまだ怨念を残されている方もおられるかと思います。つきましては、テーマを絞って議論を繰り広げ、学生主体による討論から、今後の各自の活動の方向性を探るべく、リベンジ的な意味も含めてこのゲリラ企画を行う次第です。パネラーの飛び入り参加も歓迎です。皆さんふるってご参加下さい。また、前日の金曜日の展示終了後、最終日に備えて、イス並べをしますので、都合のつく方は出来るだけ参加していただけるようご協力よろしくお願いいたします。げのむ3号編集委員長 長野良亮
2002年10月19日
京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)発表会の前に、2002年秋季理事会。総会議題は以下の通り。
議題
1 会員規約について
・
改正点
・
正会員資格、会費について
・
会費納入者(年3000円)をもって正会員とする。
・
正会員によって総会を構成する
2 本拠地設立と運営について
・
京都CDLセンター(仮)
上羽(うえば)様貸家
〒600-8475 京都市下京区風早町569-32 (阪急大宮駅7分四条烏丸10分)
3 カリフォルニア大学バークレイ校UCBerkeley との近隣景観デザイン共同研究について
11月16日~30日滞在
11月18日 第一回ミーティング 河原町二条ビル
11月19日 フィールド・ヴィジット
11月20日 共同研究計画ディスカッション
続いて、審査会。短い時間でえいやと決定。
京都CDLキング:池坊短期大学
京都CDLコミュニティ賞:京都女子大学
京都CDLデザイン賞:京都大学高田研究室
京都CDLリーグ賞:滋賀県立大学
2002年10月23日
久しぶりの研究室ゼミ。このところ、研究室は大忙しであった。最近はメールでもやりとりできるけれど、やはり集まって議論する必要はある。
最近は専ら「近代世界システムと植民都市・・・オランダ植民都市研究」(仮)を書き続けている。どうもフランスが弱い、ということで、フランス植民地帝国に関する本をこのところ随分読んだ。
藤井真理、『フランス・インド会社と黒人奴隷貿易』、九州大学出版会、2001年
服部春彦、『フランス近代貿易の生成と展開』、ミネルヴァ書房、1992年
平野千果子、『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の廃止まで』、人文書院、2002年
竹沢尚一郎、『表象の植民地帝国 近代フランスと人文諸科学』、世界思想社、2001年
グザヴィエ・ヤコノ、『フランス植民地帝国の歴史』、平野千果子訳、文庫クセジュ、白水社、1998年。Yacono, Xavier: “Historie de la
colonisation Francaise”, Collection Que Sais-Je? No. 452,
『カルチェ、テヴェ フランスとアメリカ大陸 一』大航海時代叢書第Ⅱ期19、岩波書店、1982年
『レリー、ロードニエール、ル・シャルー フランスとアメリカ大陸 二』大航海時代叢書第Ⅱ期20、岩波書店、1987年
などである。
2002年10月25日
10月号が届いた。すばらしい。かなりリカバリーできた。
1~2月号が遅々としているのが気にかかる。田中麻里さんから2月号関連の依頼文が届いた。忙しい先生方のスケジュールを合わせるのは至難の業である。
諸先生方にはご清祥のこととお慶び申し上げます。
このたび日本建築学会「建築雑誌」は2003年2月に創刊1500号を迎えます。編集委員会ではそれを記念して「アジアの中の日本建築」という特集を企画しました。特集では幾つかのテーマについて座談会を開き、アジアの中での日本の建築界の役割や将来を議論して頂くことになりました。
建築計画系の座談会は「アジアの住居集落研究の課題-アジアの居住空間と住環境整備-」と題して、アジアの住居・集落・都市研究を行っておられる先生方を中心に、先生方が関わっておられますアジアの研究対象地域での居住空間の特徴とそれらを踏まえた住環境整備のあり方、日本が取り組むべき研究や実践面での課題、また、日本がアジアから学ぶべきことなどについて議論して頂きたいと考えました。
ご多忙のところ誠に恐れ入ります、どうぞ趣旨をご理解いただき、座談会への出席をご了承いただきますようお願い申し上げます。
お手数ですが、ご出席の承否を田中までご連絡下さい。座談会は11月もしくは12月中に建築会館での実施を予定しています。日時の詳細は改めて調整させていただきますが、候補日設定のため、当該期間中ですでに確定している参加不可の日もしくは希望されます日がありましたら、合わせてお知らせいただけますと幸いです。よろしくお願い申し上げます。
2002年10月26日
10:00から京都の駅前のキャンパスプラザ京都でI.ウォーラーステインの講演会。京都大学東南アジア研究センター主催の国際会議Region in Globalizationの基調講演である。本棚には、I.ウォーラーステインの著作がずらっと並んでいる。邦訳されたものはほとんど持っているのではないか。最近、「近代世界システムと植民都市---オランダ植民都市研究」(仮)のために、原稿を書いていて、I.ウォーラーステインを読み直していたタイミングでもあり、いささかミーハー心も手伝って、覗いてみた。
そんなに大きな会場ではなかったけれど、さすがに世界を代表する「知の巨人」の講演会である。数多くの聴衆を集めて熱気むんむんであった。会場には、中部大学に移られた立本成文先生をはじめ顔見知りの先生方も大勢参加されており、実になつかしかった。「イスラームの都市性」以来、「地域研究」をめぐるシンポジウムには随分参加させて頂いたのであるが、最近、知的な議論の場に顔を出す機会がなかったことを痛感した次第。
"Regions in Globalization in the 21st Century"というのが予告であったけれど、タイトルは、‘Geopolitical Cleavages
of the 21st Century: What Future for the World?’であった。21世紀の地政学的分裂?について、3つの局面に分けての分析が繰り広げられた。一つは、西ヨーロッパ、日本、合衆国の三角構造、二つは南北の分裂、三つは南北の分裂を含む、各地におけるより一般的な衝突、分裂である。
1970年代は西欧、1980年代は日本、そして1990年代は再びアメリカ、世界経済のヘゲモニーの推移について分析した上で、21世紀を展望する内容であった。 近代世界システムの最初のヘゲモニーを握ったのはオランダであった。イギリス、そしてアメリカ合衆国が中枢となった。冷戦構造の崩壊以降、再び世界経済のヘゲモニーはアメリカの掌中のものとなった。Pax Americana Part 2の実現である。それを支えているのは圧倒的な軍事力である。
イラクの問題、北朝鮮の問題、モスクワの劇場占拠の問題も織り込んだホットな講演であった。それだけ、世界システムの運動の速度が速くなっているということであろう。最後に将来に向けての8つのポイントが提示された。ショッキングだったのは、イラクが核を使う可能性があるという点である。アメリカにおけるイラク問題の温度は相当高いことがわかる。ユーロ、中国とロシア、南北朝鮮半島の統一、サウジアラビア・パキスタン・・・・・国際政治予測の趣もあった。 もっともその程度の理解の英語力しかなかったということだろうけれど、質疑応答も面白かった。アフリカについて触れられなかったこと、地球環境問題について触れられなかったことは僕にもちょっと意外であった。
様々な問題はわかるけれど、解決は?という質問には、思わずにやりとしたけれど、世界を読み通す巨人だからといってやはり無いものねだりであろう。I do not control agenda(of the world)! という返答が笑いを誘った。
しかし、いずれにしても快い知的刺激を受けた。重慶の会議の中心テーマもグローバリゼーションと地域であった。様々な局面でグローバルな問題を考えるヒントを得たように思う。
午後のセッションはスキップして新大阪へ。『日韓建設工業新聞』の企画で、類設計室の土山さんとの対談である。前にも書いたけれど、僕の最初の著作『戦後建築論ノート』の編集者神子久忠さんからの依頼だから断るわけには行かない。また、神子さんの企画はいつも刺激的である。類設計室30周年特集号ということで、予めテーマ~設計事務所の役割とその存在核~が送られてきていた。聞くところによると、類設計室は最近好調で、コンペなどもかなりの確率で獲るという。その元気の秘密を探って欲しいということであった。
以下が事前に頂いたメモであったが、案の定、その通りには進まなかった。冒頭の建築家批判(ゼネラリスト幻想)にひっかかってしまった。僕の言う「裸の建築家」というのは建築家批判であるけれど、「建築家」であって欲しいという批判でもある。自己主張の強い建築家は要らない、というのはそれなりにわかるのであるが、「建築家」にはしっかりして欲しいのである。
組織に対しては、個人の顔が見たいというのが僕のかねてからの言い種である。微妙に力点がずれていて、本題になかなか入れなかったのである。
しかし、なかなかユニークな組織である。新入社員も徹底したオープンな会議に参加するのが基本だという。塾、農園など他事業展開も面白い。NPO的に地域活動に取り組む、都市より農村の需要を考えるというのもかなり変わっている。イントラネットで一般社会と結びつくというのは今日的であるが、自給自足的な地域モデルを一方で本気で考えるというのだから相当の信念とパワーである。
とても組織の全貌を把握するには至らなかったのであるが、もしかすると新しい設計事務所のあり方を差し示しているのかもしれないと思った。
Ⅰ.建築家を取り巻く状況=建築に限定されない、人々が求めているもの
●
建築家批判(ゼネラリスト幻想)元々の集団統合から建築のみが切り離された→建築家の登場
●
●建築家に求められているもの否応でも組織課題・経営課題に応える必要/状況を読む力=企画力・統合力⇒建築家に限らず、コンサル・意識生産業では必須課題
Ⅱ.組織としてのゼネラリストを目指す→専任分化
① その全てをそろえる為には組織しかない
・ 組織事務所の役割→建築に限定されない組織づくり…技術と企画(人材)のシンクタンク/新事業展開(建築以外の領域含む)/コンサル
② 類の設計体制の説明
(バラバラの専門家の集まりではダメ→組織化の重要性→専門分化体制)
・ディレクター
・プロデューサ-
・
デザイナー…インテリア・造園・土木を含む
・
エンジニア…商品開発力(部位別分化)・素材や工法、ディテールの生き字引
・
③人材育成フロー(※会社案内P.15参照)
ローテーション/デザイナー登用試験 etc.
※人材募集が最重要課題→建築以外の採用が5割~シンクタンクとの関連
④日常業務の進め方の特性
コラボレーション
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ex.)イントラネット
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ディレクターを中心としたミーティング
設計室全体の会議 重視
Ⅲ.設計の高度化への実践的取り組み~コンセプトの土台固め~(具体例)
①NPO・地域サークルへの参画 …市民圧力を発注者に伝える …市民と発注者を一緒に⇒「当事者」としての集合体をつくる ②建築様式の考察 …前史(有史以前)…自前のデザイン論=コンセプト・立案のための構造認識 ③市場論・都市論 ④サーベイの重視 ex.)震災調査/調査部門の充実 ⑤データ重視 ex.)コストデータ/金融市場データ/マクロ 経済データ |
※創立時からの計数管理の蓄積(経営管理システム/実績システム)がその母体
Ⅳ.(設計事務所の)現在的課題と今後の点領域
① 情報システム・SE
②財務コンサル・経営コンサル
⇒調査・企画業務の拡大
プロポ・コンペ対策
→徹底したニーズ分析・情報戦
② =自己主張から応望(相手の期待に応える)へ
=時代の潮流(大衆の意識)を読む
Ⅴ.その他(何にでもチャレンジできる自由な企業風土)
●
類の組織体制(共同体、ホロン経営)⇒建築界よりも先に経済界で名が知られるなが
ら
2002年10月27日
京都には、ゼロ・コーポレーションというユニークなディベロッパーがある。その一端は、3月号で紹介されている(金城一守「地域ディベロッパーのインターネット活用」、特集『建築の情報技術革命』、2002年3月号)。都市居住研究会などを組織するなど京都のまちづくりについても積極的な提言を行ってきた。そのゼロ・コーポレーションが、8人の建築家に建売住宅の設計を委託するという。何回かの打ち合わせを経て、作品発表会をするというので、出かけた(「北大路まちなか住宅コラボレーション’02」作品説明会(午後1:00~4:00頃 会場:京都ホテルオークラ))。コーディネーターを務めるのが広原盛明先生で、松岡拓公男(滋賀県立大学)、葉山勉(京都精華大学)の両先生が京都CDL(コミテ
ィ・デザイン・リーグ)を代表してアドヴァイザーとして参加したという経緯があるのである。会場には、購入予定者の家族の参加もあり、僕のようなオブザーバーの参加もあり、面白いセッティングであった。
指
指名されたのは、天宅毅、矢代恵、林史朗、満野久・大谷孝彦、石本幸良、西巻優、吉村篤一、若林広幸の八氏。
コンペをして、ひとりの建築家に設計を委ねる手ももちろんある。しかし、それだとディベロッパーとしてはリスクもある。町並みを統一しながら、デザイナーの個性を売りたい、というところが本音らしい。参加する建築家は、やりにくそうにも思えた。一戸一戸建てる時の作法が問われているからである。買い手もつく必要がある。実験台にまず乗っているのは建築家の方なのである。
中央のテーブルに8戸の模型が並べられていた。屋根の形を見る限り、バラバラのように見える。無難にファミリータイプを用意するもの、意欲的に新たな空間を提起しようとするもの、がある。が、総じてある枠に収まっている。敷地割りがそれ以前に決定されているからである。折角の実験なのに、残念な気がしないでもない。しかし、敷地の境界を自由に調整する建売住宅というのはありえないのであろう。
コーディネーターによって、まとめられた設計条件は、配置、建築、色調・素材、外構、その他について19項目になる。形態規制、ビルディング・コードのあり方を考えさせる。さらに、高さ関係、部品、ハードウエアなども共有できるのではないか、というのが直感である。
どこまでルールを共有できるか、どこまで住み手の個性に答えるのか、それでも、実験は興味深いテーマを充分に含んでいる。
2002年10月28日
第55回アジア都市建築研究会。今回は「ムンバイ、ブラックタウンの空間構成とチョール」と題して、千葉大学の池尻隆史君が発表した。植民都市研究仲間で、チェンナイ(マドラス)、ムンバイ(ボンベイ)の調査を一緒に行った。今回は、ムンバイのチョールについて発表するということだ。チョールとは、設備共用の賃貸住宅のことであり、ボンベイが爆発的に膨張するとともに供給された都市型住宅の一類型である。
膨大な作業をこなし、パワーポイントを用いた見事な発表であった。質疑応答は、その作業に見合うように盛り上がった。特に、京都大学のアジアアフリカ地域研究研究科の田辺昭生先生らのグループから鋭い質問が飛んだ。インタージャンルの討議はいつも刺激に富んでいる。は、これに先立ち地区の街区・街路およびチョール
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