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2021年3月11日木曜日

型とディテール:建築のアジア

 型とディテール:建築のアジア,特集 デザインの細部,『季刊デザイン』,太田出版,no.6200401

 

型とディテール:建築のアジア

布野修司

 

「アジア建築のディテール」というテーマを頂いて正直困った。『アジア都市建築史』[1]という大それたタイトルの本を上梓したのであるが、そこには「建築のディテール」についての記述がほとんどない、のである。おそらく、細部が欠けている、補足せよ、ということであろう。しかし、「アジア」といっても広い。また、「アジア建築」といった概念があるわけではない。さらに、「ディテール」[2]といっても、単に細部を意味するだけではなく、「建築」の全体に関わる概念としても用いられる[3]。はっきりしているのは、「アジア」も「ディテール」も排除することにおいて成立したのが近代建築だということである。ある特定の建築物の「ディテール」を「詳述」することによって、それを解き明かせればそれにこしたことはないのだが、「建築」の「ディテール」の孕む問題を総体的に論じる力量がない。以下は、「アジア」「建築」の「ディテール」について思い浮かぶ断片である

 

足のついた屋根

南モルッカのタニンバル諸島に関する民族誌の中でオランダの人類学者[4]が次のように書いている。

「家々はおたがいに隣接していて、ある規則性をもって建てられている。それにもかかわらず、全体は死んでいるように思える。」何故、死んだように見えたのか。「足の上に屋根がかぶさる」ように見えたからである。つまり、タニンバルの家には壁がない、そして窓がない、要するに眼が無くて足だけあるから死んだように見えたというのである。


ヨーロッパにも住居を身体に例える見方があることをここで知るが、「足のついた屋根」という「足pooten」は、人間の足ではなく「四つ足」、野兎や狐、犬の「足」である。

アジアというのは、もともとアッシリア語起源で、「始め」あるいは「日の昇る場所(東、朝の始まる方向)」を意味する。「ヨーロッパereb」すなわち「闇」、「日の沈む場所(西)」の対語である。ところが、「歴史の父」ヘロドトスが、ペルシャ戦争の物語を描いたその『歴史(ヒストリアイ:研究)』において、ギリシア(ヨーロッパ)=自由、ペルシャ(アジア)=隷属という構図を立てて以降、アジアは蔑視の対象に転化していくことになる。ギリシアへアジアから多くの奴隷が供給されており、ギリシア人の自由はその奴隷によって成り立っていた。ギリシア語で奴隷をアンドラポダという。「四本足」と対になる言葉で「人の足」という意味だという。奴隷は「四本足」の羊や牛と同様、「人の足」をもった家畜なのである。アレクサンドロス大王のペルシャ遠征に先立って、家庭教師であったアリストテレスは、「アジアの異民族に対しては動植物を扱うように」と勧告したという。

古代のギリシア・ローマ人たちは、自分たちの世界ヨーロッパ(ギリシア・ローマ)には、自由な市民=真の人間、そして、アジア(アフリカ)には異民族(バルバロイ)=一段劣った人間、さらにその外側には様々な怪物、化け物が住んでいると考えていた。世界の東端にあるインドは「驚異の国」で、一本足のスキアポデス(影足人)、キュノケパロイ(犬頭人)、人間の頭と獅子の身体をもつマンティコラ、ユニコーン(一角獣)、水陸自由に活動するエアレなど様々な異形の人間、不思議な動物が住んでいると考えていた。紀元一世紀の大プリニウスの『博物誌』は、まるで「怪物の百科全書」である[5]。紀元二世紀前半の地理学者で、古典古代の地理的知識の集大成者として名高いプトレマイオスの地図、アジアⅦ(東部アジア)図の周囲には、スキアポデス、キュノケパロイ、頭無し人間が描かれている。

バタック・カロの住居の破風にはヤモリのパターンが表彰されている

冒頭のオランダ人の報告がなされたのは1940年である。ヨーロッパ人にとって、巨大な屋根と高床の住居は、全く見慣れない不思議な建物であった。アジアは、20世紀に入っても猶かつ動物たちが蠢く世界のように思えていたようだ。ムカデやサソリが自由に這い回り、アリやゴキブリが走り回る、鶏や豚が床下に住む。アジアの住居は、とても人間の住居とは思えない代物だった。

 もっとも、同じタニンバル島の住居について、先のオランダ人人類学者に半世紀も先駆けて次のように書いたイギリス人博物学者がいる[6]

 「彼らの住居は、床と屋根以外何もないが、とても巧妙な構造をしている………。彼らが使っているほとんどすべてのものが、素晴らしい趣味と驚くべき技術でつくりあげられる彫刻によって、いかに精巧に覆われているかをみたあと、我々は自問しはじめた。第一に、そのように芸術的に発達した人びとが野蛮人でありえるのか。次に、より困難な問いであるが、野蛮とは何か。」

 

水牛と船

 「アジア」の各地には、多様な建築の伝統がそれぞれにある。建築が人々の多様な営みとともにあるのだとすれば、それは当然のことである。様々な地域の、珠玉のような集落や住居の細部について記述すればきりがないけれど、面白いのは、遠く離れた地域の建築様式に類似性や共通性が見えることである。高床式住居はどのように分布するのか、井籠組(校倉式)という木材を横に組む伝統のルーツは何処か、ヴァナキュラー(土着)建築の材料、構法、細部の類似と差異、その相互関係をあれこれ考えるのは実に楽しい。

各地に残る水牛や船のシンボリズム、交叉角の棟飾りの広がりを見ると、ある共通の建築文化が想定される。西スマトラの赤道直下に住むミナンカバウ族の住居は実に特異な形をしている。屋根の形そのものが水牛の角のようだ。ところが、それとそっくりな形が中国南部、石寨山出土の貯貝器の取っ手に見られる。また、東南アジア一帯から出土するドンソン銅鼓に描かれた家屋文もよく似ている。考古学や言語学の知見を合わせると、東はイースター島、西はマダガスカル島に及ぶ広大な領域にはオーストロネシア語族という同一の民族が居住していたのだという。海の世界だけではない。ゲル(蒙古包)がモンゴル高原のみならずはるかトルコにまで及んでいることを知ると、モンゴル帝国こそがユーラシアを制し、「世界史」をつくった[7]ことが実感できる。





気候風土を異にしながら、なぜ、同じような建築形式が選び取られるのか。それを説明する手掛かりを与えてくれるのが、G.ドメニクの「構造発達論」[8]である。例えば、木材で建築物を建てようとする場合、無限にやり方があるわけではない。木組みの創意工夫を積み重ねても一定の架構方法に落ち着いていく。G.ドメニクはそのヴァリエーションを網羅するのである。



構造発達論のモデル バタック・カロの納骨堂

「装折」無限

 しかしそれにしても、「アジア」の建築について西欧世界は冷たい。『フレッチャー建築史』[9]は、全701頁のうち87頁しか「アジア」に割いていない。しかも、「第二部 西洋以外の建築 非歴史様式  The Non-Historical Styles 」として、「印度建築」「支那及日本建築」「古代亜米利加建築」「回教建築」が並んでいる。  「古代アメリカ建築」すなわちインディアンの建築と一緒に中国、日本が並べられているのも、「インド」という位置づけだろう。

ヨーロッパを中心として、一段劣ったアジアがあり、さらに周辺に化け物の世界があるという、古代における世界の三重構造観は、キリスト教世界に引き継がれていく[10]。いわゆる「大航海時代」を迎えて、マガリャンイス(マゼラン)の世界周航で「怪物には一度も出会わなかった」という報告がなされたこと、「発見」されたインディオは「真の人間」かという大論争(バリャドリードの論戦、1550年)が行われたこと、等々は単なる歴史のエピソードなどではない。文明と野蛮の二分法は、「文明化の使命」として植民地主義を支えてきたし、アジア・アフリカを停滞社会、遅れた社会としてとらえる西欧中心史観、進歩史観は存続し続けてきた。ED.サイードの告発するオリエンタリズム[11]、西洋の東洋に対する支配の様式は、今日猶支配的である。

確かに、中国建築というとワンパターンである。宮殿でも、仏寺、道観、文廟、・・・全ての建築が左右対称、四合院という形式である。古来、『営造方式』(1103年)、『魯般営造正式』(明初)、『工程做法』(1736年)、

『欽定工部則例』(1815年)といったマニュアルが整備されてきた。

 

西洋人による最初の東洋建築史といっていい、ジェームス・ファーガッソンの『印度及東洋建築史』[12]など、あまりに同じで中国には哲学、芸術、文学がない、「建築は芸術として見るべき価値がない、寧ろ一種の工業であって、極めて低級なる、不合理なる、兒戯に類するものである。」とまでいう。

しかし、中国建築の変化は「装折」にある、「装折」の変化の多いこと世界いずれの地方にも見あたらぬ、同じ屋根がどこまでも連なる繰り返しの「群宇の美」を理解しないのか、とくってかかるのが伊東忠太である[13]。「装折」とはディテールのことである。柱、窓、天井、床、戸、・・・斗拱など無窮の変化がある。装飾文様も興味が尽きない。吉祥思想からきた縁起ものが多いが、動物、植物、自然物 、幾何文、人事文、文字文様がある。動物文様を挙げてみれば、龍、鳳、麟、獅、虎、・・・蝙蝠、爬虫類、鳥、魚、これもつきない。そして、色がある。中国建築は色彩の建築である。赤が愛される 白は忌まれる。紫、樺、鼠、茶など間色を用いない。青、赤、黄、白、黒という五色に、陰陽五行の説に従って、方位と季節、そして様々な意味が割り当てられている。



コプト織とエンタシス

「建築」という概念は、そもそも、ヨーロッパのものである。英語のアーキテクチャーは、ギリシア語の「アルキテクトン」に由来する。根源(アルケー)の技術(テクトン)がアーキテクチャーである。根源的技術を司るのが建築家(アーキテクト)である。明治になって西欧の建築技術がもたらされた時、アーキテクチャーに当てられた日本語は「造家」であった。アーキテクチャーとはもう少し高尚であると、伊東忠太が「「アーキテクチュール」の本義を論じて其の訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」[14]を書いて、「建築」という訳語を推奨し、中国でもその訳語が用いられるようになった。ちなみに、中国語の「歴史」も、日本語の訳語の借用である。日本で学んだ清朝の留学生が日清戦争後に中国に持ち帰ったものだ。

伊東は、「アーキテクチュール」を正しくは「大匠道」あるいは「高等芸術」と訳すべきという。「建築」は「美術(ファイン・アート)」に属すべきであって、「工業技術(インダストリアル・アート)」に属すべきものではない。「造家」はあんまりだというわけである。伊東は、そして、「日本建築」が如何に「建築」であるか、を証明しようとする。まず書いたのが「法隆寺建築論」である。すなわち、日本の誇る世界最古の木造建築、法隆寺が如何にヨーロッパの建築、具体的にはアテネのパルテノンに匹敵するか、を力説するのである。そして、それを裏づけるべく試みたのが、7次に亘る中国・インド、ユーラシア大踏査行であった。

パルテノンも法隆寺もエンタシス(柱中央の膨らみ)がある。だから、建築技術はギリシャからはるばる日本にまで伝わったのだ、というのは俗説である。伊東は、もう少し丁寧に法隆寺の各部の比例関係が、黄金比その他西欧美術の概念や尺度に如何に則っているかどうかに心を砕いたのであった。しかし、細部が似ている、ということが、伊東の想像力をかき立てていたことは間違いない。

「西のはづれのエヂプトから出ましたコプチックのつゞれ織が其の図案といひ色合いといひ、私の直感は、これは東のはづれの日本の法隆寺の一隅にある中宮寺の天寿国曼陀羅と、そっくりだなということを感じたのであります。・・・東西幾千里かけ離れて居って、しかも同じやうな性質のものが存在するといふことは実に奇蹟であります。・・・」

コプチックとは原始キリスト教の一派とされるエジプトのコプト人である。コプト織は3世紀ころから発達し,7世紀にエジプトがイスラム文化圏に吸収されるまで続いた。カイロで見たことがあるけれど似ていると言えば似ている。たったひとつの類似例で「アジアはひとつ」というのは乱暴だけれど、ヘラクレスのイメージがインドに伝えられて金剛執像となり、はるか日本にももたらされているように、図像は、われわれの想像を超えた時空を飛び回っていると考えた方がいい。

 

神々の乗り物

ヒンドゥー建築の世界は、神々のパンテオンである。様々な図像が鏤められていて、細部はめくるめくほど過剰である。神は細部に宿るというけれど、神々で満ちあふれている。その空間を味わうためには、その神々について思い描く必要がある。手掛かりとなるのは、神像の持ち物、着物、乗り物である。また、神々の関係(家族、化身)である。神像は普通4本の手を持ち、それぞれ固有の持ち物を持っている。また、独特の着衣、髪飾り、首飾りをしている。そして、神々は固有の乗り物(ヴァーハナ)として特定の動物と関連づけられている。


 シヴァは裸体に虎の衣を纏い、首に数珠と蛇を巻きつけた姿で描かれる。額に第三の眼を持つのが特徴である。そして、手に三つ又の槍(三叉戟)と小さな太鼓、小壷を持つ。最大のシンボルは男根の形をしたリンガである。そして、乗り物はナンディ(牛)である。三叉戟、ナンディ、リンガがあればシヴァである。また、シヴァはしばしば妃パールヴァティ、また息子のガネシャ(聖天)、スカンダ(韋駄天)を加えてシヴァ・ファミリーとして描かれることが多い。富と繁栄、知恵と学問の神ガネシャは象顔でわかりやすいし、戦争の神スカンダの乗り物は孔雀である。シヴァは踊りの王ともされ、「踊るシヴァ」像が人気がある。

 ヴィシュヌは5ないし7頭のナーガ(蛇)の傘を頭上にし、アナンタ(永遠という意)竜王の上に通常半跏の形で腰掛ける。四本の腕は、円輪チャクラ、棍棒、法螺貝、蓮華をもつ。乗り物はガルーダ(神鳥)である。上述したように、魚、亀、猪、人獅子はヴィシュヌの化身である。ヴィシュヌの妃ラクシュミー(吉祥天)は富と幸運の女神であるが、水に浮かぶ蓮華の上に立ち手には蓮の花を持つ。富の象徴としてコインや紙幣、宝石類が描かれることが多い。乗り物は象である。



 ブラフマー(梵天)は4ヴェーダを表す4つの顔で描かれる。四本の腕には、数珠、聖典ヴェーダ、小壷、杓をもつ。乗り物はハンサ(鵞鳥、白鳥)である。ブラフマーの妃サラスヴァティ(弁才天)は、学問と技芸の神であり、一対の腕に数珠とヴェーダ(椰子文書)を持ち、一対の腕でヴィーナ(琵琶)を弾く。乗り物は孔雀である。水の神であり背後に川が描かれることが多い。

シヴァの妃パールヴァティは様々な異名を持ち性格を変えるが、武器をとって戦う女神となるのがドゥルガーとカーリーである。ドゥルガー女神は10本の腕に様々な武器を持ち、殺戮を行う場面が図像化される。乗り物は虎もしくは獅子である。カーリー女神は、さらに恐ろしく、生首などを持つ姿として描かれることが多い。

 その他わかりやすいのは孫悟空のモデルになったともされる猿の神ハヌマーンである。神々の乗り物である様々な動物へ着目することが、『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』の世界とともにヒンドゥーの建築世界に至る近道である。

梵天、弁財天・・・ヒンドゥー教の神々は仏教のパンテオンにもしっかり入り込んでいる。

 

スタラクタイトのインヴォリューション

イスラームは偶像を禁止する。モスクというと玉葱形のドームがイメージされるが、キブラの方向を示す壁の窪みミフラーブと説教台ミンバルがあればよく、決まった様式があるわけではない。イスラームは、「建築」に拘るところが全くない。異教徒の建造物、その建築様式を借用して、まるで平気である。デリーにあるクトゥブ・モスクはヒンドゥー教の寺院をもとにしたものだし、インドネシアのクドゥス(ジャワ)のミナレット(尖塔)もチャンディ建築そのものである。


しかし、イスラーム建築はとるに足らないのか、というととんでもない。イスラーム建築は、何よりも空間の構成に明快な原理がある。アンリ・スチールランの『イスラムの建築文化』[15]は、見事にその空間原理を解き明かす名著である。例えば、イスファハンのエマーム・モスク(王のモスク)の精緻な幾何学には誰もが驚くであろう。

正方形の部屋にどのように半球形のドームを載せるのか、イスラーム建築の歴史には、建築の原型に関わる創意工夫の悪戦苦闘がある。ペンデンティブやスキンチ・アーチの発明は西欧建築の基礎になっていく。

一方、イスラーム建築の魅力と言えばモザイクタイルの細部である。空間の基本骨格が定まると、内へ内へと装飾が施されていく。ペンデンティーフやドームの内側を飾り立てるスタラクタイト(鍾乳石紋)は眺めていて飽きない。一端様式が確立された後、新たな様式が生み出されることなく細部へ細部へ向かう運動をインヴォリューションという。進歩(エボリューション)ではなく、内なるものへ向かっての深化である。

こうした繊細な装飾を可能にしたのは釉薬タイルによる陶片モザイクである。ペルシャ・カーシャンの青色タイル、カーシー・タイルが知られる。煉瓦をまるごと用いる段階から、碑銘の文字を書いたりする必要から次第に小さな断片が用いられるようになる。純粋な幾何学紋は次第に捨てられ、好んで曲線の花模様が用いられるようになる。花飾り、葉模様、枝模様、蔦飾りなど植物文様が現れるのはモンゴル時代で、その技法が絶頂に達するのは1415世紀のティームール朝である。

そして、このモザイクタイルの手法だと手間がかかりすぎだと、タイル板、「七彩」と呼ばれる彩色陶器があみだされたのが、シャー・アッバース(15871629)によるイスファハン造営の時である。

 

インド・サラセン様式のイデオロギー

磯崎新の、簡潔にして要を得た「西洋建築」史、すなわち、全「建築」史である「《建築》―――あるいはデミウルゴスの構築」[16]を読むと、「建築」という概念が西欧世界のものであることがよく分かる。「建築として、《》をつけていない、その区別など不必要であった時代が、少なくとも15世紀初頭にブルネッレスキが透視画法の研究に着手して以来、3世紀は継続した。この間、ウィトルウィウスの『建築十書』が規範(カノン)であった。・・・この規範はローマの建築物を基準にした古典主義言語であった。」。

しかし、18世紀にいたって、この「古典主義建築」の規範は揺らぐ。ウィーンにバロック建築の傑作を残したフィッシャー・フォン・エルラッハの『建築図集』(1721年)には、古代アッシリアやインド、中国など異文化の生んだ「建物」が載せられている。聖書の年代記を遥かに超える歴史をもつ「中国」の発見が西欧の歴史観を揺さぶったように、「古典主義建築」を中心に据えた西欧建築の世界は揺さぶられる。磯崎は、15世紀以降の「建築」の歴史を《建築》の解体過程として捉えながら、「建築家」たちがこの「建築」の危機を如何に克服しようとしてきたのか、そして、自ら《建築》に拘り、造物主としてのデミウルゴスを召喚することが如何に必要なのかを磯崎は書く[17]

この《建築》という規範を携えて、「インド」「新世界」へ向かった建築家たちが何を考えてどのような建築をデザインしたのかは、世界中の植民地建築が示している。日本のいわゆる「明治建築」ももちろん「植民地建築」とみなしていい。

サラセンという言葉は、ユーフラテス川西部の民族を指したが、やがてイスラーム世界全体を意味するようになり、サラセン建築と言えばイスラーム建築の総称となる。インディアン・サラセン建築というとインドのイスラーム建築ということである。ところが、インド・サラセン建築というと、インド建築とイスラーム建築、そして西欧建築の折衷様式、英国建築家たちが工夫の末に生み出した様式をいう。チェンナイ(マドラス)のチャポーク・パレス(1768)が先駆けとされるが、1870年代に流行り出す。インド、イスラーム(ムガール)、英国を融合する、インド帝国のシンボルを創出することが、英国建築家が引き受けた課題であった。J.ファーガソンの著作『印度及東洋建築史』は、実は、そのためのカタログであった。スイントン・ジェイコブスの『建築ディテールのジャイプール図集』全6卷(1890)は、必携参考文献となった[18]

土着の建築要素を巧みに組み合わせて、西洋建築の骨格の上に統合する、その折衷の手法は植民地建築に共通である。西欧建築に神社仏閣の屋根を載せた日本の帝冠併合様式はその拙い安易な例である。日本に「西欧建築」を伝えたJ.コンドルの設計した鹿鳴館の様式には、明らかにインド・サラセン様式の影響がある。何故J.コンドルは、日本にインド・サラセン様式を持ち込もうとしたのであろうか。

[1] 布野修司編、アジア都市建築研究会著、昭和堂、20038月。

[1] 建築のディテールというのは、単に建築の部分、細部を意味しない。ディテールとは、「収まり」のことであり、具体的には「詳細図」のことである。建築の「収まり」という概念は、一言では要約しにくいが、建築の部分がある秩序に従って配置されているかどうかに関わる。例えば、床や壁にタイルを貼る場合、タイルが半端にならないように部屋の大きさなどを決定すること、あるいは部屋の大きさに合わせてタイルの大きさや貼り方を考えるのが「収まり」である。建築が「巧い」「下手」という場合、この「収まり」の「巧い」「下手」が問題にされる。この秩序規範は、近代建築のものといっていいけれど、「建築」そのものの規範でもある。

[1] 全体か部分か、部分か全体か、という問いは「建築」に常に問われている。全体の骨格、システム、型を前提として部分を決定していくのか、部分を積み重ねて全体を構成するのか、建築の設計方法は大きく二分される。もう少し、具体的に、形を先に与えて空間をつくり細部に至るのか(フォルマリズム)、空間を繋ぎ合わせて形をつくるのか(ファンクショナリズム)の違いは大きい。ディテールを以上の全体と部分の関係と無縁と考えるかどうかも、建築観に関わる。

[1] Drabbe,P., “Het Leven van den Tanenbares Ethnografische Studie over het Tanembareesche Volk(The Life of the Tanimbarese: Ethnographic Study of the Tanimbarese People)”, 1940. 『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司監訳+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,19973)より。

[1] 伊藤進、『怪物のルネッサンス』、河出書房新社、1998

[1] Forbes, H.O., “A Naturalist’s Wanderings in the Eastern Archipelago”, Harper, New York, 1985. in Waterson, R., “The Architecture of South-East Asia through Travellers’ Eyes”, Oxford University Press, 1988..

[1] 岡田英弘、『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』、筑摩書房、19921999年。

[1] G.ドメニク 「構造発達論よりみた転び破風屋根---入母屋造の伏屋と高倉を中心に」、杉本尚次編『日本の住まいの源流』、文化出版局、1984年。

[1] 古宇田実・斉藤重三郎共訳、岩波書店、1919年。1896年初版 19055版改訂。

[1] 岡崎勝世、『世界史とヨーロッパ』、講談社現代新書、2003

[1] エドワード・W・サイード、『オリエンタリズム』、板垣雄三他監修、今沢紀子訳、平凡社、1986

[1] James Fergusson, "History of Indian and Eastern Architecture", John Murray, London,1876

[1] 伊東忠太、「支那建築史」、伊東忠太建築文献第三巻『東洋建築の研究』上、龍吟社、1936年。

[1] 伊東忠太、伊東忠太建築文献第六巻『論叢・随想・漫筆』、龍吟社、1937

[1] 神谷武夫訳、原書房、1990年。

[1] 磯崎新、『造物主議論 デミウルゴモルフィスム』、鹿島出版会、1996年、所収。

[1] ただ、デミウルゴスは、もともと公共デモス(国家,市民)のために働く者を意味する古代ギリシア語である。農業以外の部門の活動で生活の糧を得る者を指し、金属工,陶工,石工などから,占者,医者,楽人など専門家、職業人を含んでいた。プラトンは、原素材(ヒュレ)から世界を創る建築(構築)者としての神をデミウルゴスとするが、手工業者は、身体は職業的技術によって痛めつけられ、魂も下賤な仕事のためにいじけていて、「哲学者」にはなる資質がないと言う。プラトンが生きた世界において、職人技は外国(アジア)人と奴隷の仕事であった。磯崎がデミウルゴスの名において問題にするのは、《建築》が「構成(コンポジション)」ではなく、「構築(コンストラクション)」に関わっているということである。「構成」は、装飾や芸術性といった美的な領域に関わり、「構築」は構法、構造、素材といった技術的領域に関わる。そして、歴史的建築の様式、装飾的要素を排除し、「構築」を中心に据えたのが近代建築であった

[1] Don Lang, Madhavi Desai, and Miki Desai: “Architecture & Independence The Search for Identity-India 1880-1980”, Oxford University Press, 1997

 



[1] 布野修司編、アジア都市建築研究会著、昭和堂、20038月。

[2] 建築のディテールというのは、単に建築の部分、細部を意味しない。ディテールとは、「収まり」のことであり、具体的には「詳細図」のことである。建築の「収まり」という概念は、一言では要約しにくいが、建築の部分がある秩序に従って配置されているかどうかに関わる。例えば、床や壁にタイルを貼る場合、タイルが半端にならないように部屋の大きさなどを決定すること、あるいは部屋の大きさに合わせてタイルの大きさや貼り方を考えるのが「収まり」である。建築が「巧い」「下手」という場合、この「収まり」の「巧い」「下手」が問題にされる。この秩序規範は、近代建築のものといっていいけれど、「建築」そのものの規範でもある。

[3] 全体か部分か、部分か全体か、という問いは「建築」に常に問われている。全体の骨格、システム、型を前提として部分を決定していくのか、部分を積み重ねて全体を構成するのか、建築の設計方法は大きく二分される。もう少し、具体的に、形を先に与えて空間をつくり細部に至るのか(フォルマリズム)、空間を繋ぎ合わせて形をつくるのか(ファンクショナリズム)の違いは大きい。ディテールを以上の全体と部分の関係と無縁と考えるかどうかも、建築観に関わる。

[4] Drabbe,P., “Het Leven van den Tanenbares Ethnografische Studie over het Tanembareesche Volk(The Life of the Tanimbarese: Ethnographic Study of the Tanimbarese People)”, 1940. 『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司監訳+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,19973)より。

[5] 伊藤進、『怪物のルネッサンス』、河出書房新社、1998

[6] Forbes, H.O., “A Naturalist’s Wanderings in the Eastern Archipelago”, Harper, New York, 1985. in Waterson, R., “The Architecture of South-East Asia through Travellers’ Eyes”, Oxford University Press, 1988..

[7] 岡田英弘、『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』、筑摩書房、19921999年。

[8] G.ドメニク 「構造発達論よりみた転び破風屋根---入母屋造の伏屋と高倉を中心に」、杉本尚次編『日本の住まいの源流』、文化出版局、1984年。

[9] 古宇田実・斉藤重三郎共訳、岩波書店、1919年。1896年初版 19055版改訂。

[10] 岡崎勝世、『世界史とヨーロッパ』、講談社現代新書、2003

[11] エドワード・W・サイード、『オリエンタリズム』、板垣雄三他監修、今沢紀子訳、平凡社、1986

[12] James Fergusson, "History of Indian and Eastern Architecture", John Murray, London,1876

[13] 伊東忠太、「支那建築史」、伊東忠太建築文献第三巻『東洋建築の研究』上、龍吟社、1936年。

[14] 伊東忠太、伊東忠太建築文献第六巻『論叢・随想・漫筆』、龍吟社、1937

[15] 神谷武夫訳、原書房、1990年。

[16] 磯崎新、『造物主議論 デミウルゴモルフィスム』、鹿島出版会、1996年、所収。

[17] ただ、デミウルゴスは、もともと公共デモス(国家,市民)のために働く者を意味する古代ギリシア語である。農業以外の部門の活動で生活の糧を得る者を指し、金属工,陶工,石工などから,占者,医者,楽人など専門家、職業人を含んでいた。プラトンは、原素材(ヒュレ)から世界を創る建築(構築)者としての神をデミウルゴスとするが、手工業者は、身体は職業的技術によって痛めつけられ、魂も下賤な仕事のためにいじけていて、「哲学者」にはなる資質がないと言う。プラトンが生きた世界において、職人技は外国(アジア)人と奴隷の仕事であった。磯崎がデミウルゴスの名において問題にするのは、《建築》が「構成(コンポジション)」ではなく、「構築(コンストラクション)」に関わっているということである。「構成」は、装飾や芸術性といった美的な領域に関わり、「構築」は構法、構造、素材といった技術的領域に関わる。そして、歴史的建築の様式、装飾的要素を排除し、「構築」を中心に据えたのが近代建築であった

[18] Don Lang, Madhavi Desai, and Miki Desai: “Architecture & Independence The Search for Identity-India 1880-1980”, Oxford University Press, 1997

2021年3月9日火曜日

 traverese20 2019 新建築学研究20

 「アジア」の欠落:世界建築史をいかに書くか?

Lack of Asian Architecture: How We Write a Global History of Architecture?

 

Shuji Funo

布野修司

 

 先ごろ『世界建築史15講』(彰国社、2019410日)という一冊の本(共著)を上梓した(図①)。タイトルが示すように、15回の講義(Lecture0115)を想定した教科書のスタイルである。それぞれにコラム(Column0115)を付し、計30本(章節)の原稿(4頁~12頁)からなる。編集委員会編というかたちをとったが、実質、布野修司、青井哲人、中谷礼仁の三人(幹事)で、全体構成、執筆者を考えた。建築史の専門家は一般的に筆が遅い。一行を書くのにも裏付けが必要で、時間がかかるのである[1]。案の定、思うように原稿が集まらず、僕は、責任をとるかたちで、30本中9本の原稿を書く羽目となった。だけど、僕にはこの一冊に拘る理由があった。

 京都大学時代(19912005)に遡る。アジアを随分歩いているのだから「世界建築史Ⅱ」を担当するようにと西川幸治先生に命じられたのである。「Ⅰ」が「西欧」、「Ⅱ」が「非西欧」である[2]。当時、『東洋建築図集』(1995年)の東南アジアの章の幾頁かを執筆したばかりであった。この際「アジア」の建築を勉強するか!と、講義を続けながら、『東洋建築図集』に取り上げられた建築を機会ある度に見て回った。現在までに『図集』に掲載された建築の90%以上実見したのではないか?そして、アジア都市建築研究会の仲間たちと『アジア都市建築史』(布野修司編、昭和堂、2003年)をまとめるにも至った。しかし、何故、「アジア」に限定されるのか?、何故「世界建築史」の「Ⅱ」なのか?、しっくりしてこなかったのである。 

 

 蘭領東インドのH.P.ベルラーヘ


 洋の東西を区別しない「世界建築史」の必要性を最初に意識したのは、スラバヤ(拙稿「ある都市の肖像―スラバヤの起源」『traverse19』参照)を訪れて、「オランダ近代建築の父」と言われるH.P.ベルラーヘの作品(生命保険年金協会AMLLビルKantoor van de ‘Algemeene Maatschappij voor Levensverzkering en Lijfrente’1900)(図②abcd)に出会った1982年である。その建設は、代表作「アムステルダム証券取引所」(1910)(図③abc)に10年先立っている。ベルラーヘとアムステルダム・スクールの建築家たちに惹かれて、堀口捨巳の『現代オランダ建築』(1930年)を片手に見て回ったのは1976年であるが、ベルラーヘの作品がインドネシアにあることなど全く知らなかった[3]。考えて見れば、オランダがインドネシアを植民地としたのは17世紀初頭であり、300年以上、自らの「世界」であったのだから、オランダの建築家がインドネシアで仕事をするのは不思議でも何でもない。調べてみると、インドネシアで活躍したすぐれた建築家は少なくない。その代表がデルフト工科大学(T.H.Delft)卒業の同級生H.M.ポントHenri Maclaine Pont1884-1971)とH.Th.カールステン(1884-1945)である。少なくとも、この二人は、同世代のG.T.リートフェルト(1888-1964)やJ.J.P.アウトOud(1890-1963)と同等に評価すべき建築家である。H.M.ポントは、「バンドン工科大学」(1918年、図④abcd)の設計で知られるが、「ポサランの教会」(1936年、図⑤abcd)が特にすばらしい。
                     

 H.P.ベルラーへは,1923年に初めてオランダ領東インドを訪れ,後年『私の印度旅行―文化と芸術に関する考察―』(Berlage, H.P.(1931))を出版する。5ヶ月にわたる旅行の目的は,オランダ本国政府のアドヴァイザーとして,プランバナン遺跡群の修復について報告書を作成することであった[4]H.P.ベルラーへは、そこで、プランバナンのロロ・ジョングランなどヒンドゥー建築の遺構を「死んだ伝統」として評価していない。そこには、当時のヨーロッパ人建築家のアジアの伝統建築に対する一般的見方をうかがうことができる。ベルラーヘが高く評価したのは、H.M.ポントやH.Th.カールステンの作品である。東インドにおける伝統的建築の「生きた」伝統とヨーロッパの新しい建築すなわち近代建築をいかに統合するかが,H.M.ポント,H.Th.カールステン,そしてH.P.ベルラーヘの共有するテーマであった。

       

 
 その後、東南アジアから南アジアへ、さらにアフリカやラテンアメリカにも足を伸ばし、「世界」を股にかけて活躍した建築家たちとその作品群を知ると、「世界建築史」の必要性をますます強く意識するようになったのである。






 



 

 「世界史」の世界史

人類最古の歴史書とされるヘロドトス(紀元前485420)の『歴史』にしても,司馬遷(紀元前145/135?~紀元前87/86の『史記』にしても,ローカルな「世界」の歴史に過ぎない。ユーラシアの東西の歴史を合わせて初めて叙述したのは,フレグ・ウルス(イル・カン朝)の第7代君主ガザン・カンの宰相ラシードゥッディーン(12491318)が編纂した『集史』(1314[5]であり,「世界史」が誕生するのは「大モンゴル・ウルス」においてである。しかしそれにしても,サブサハラのアフリカ,そして南北アメリカは視野外である。

日本で「世界史」が書かれるのは1900年代に入ってからである(坂本健一(190103)『世界史』、高桑駒吉(1910)『最新世界歴史』など)。明治期の「万国史」(西村茂樹(1869)『万国史略』、(1875)『校正万国史略』、文部省(1874)『万国史略』など)は、日本史以外のアジア史と欧米史をまとめ、世界各国史を並列するかたちであった。西欧諸国にしても、国民国家の歴史が中心であることは同じである。そうした意味では、「世界史」の世界史(秋田滋/永原陽子/羽田正/南塚信吾/三宅明正/桃木至朗編(2016)『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房)を問う必要がある[6]。 

   


 建築の世界史へ

 世界建築史もまた、古代,中世,近世,近代、現代のように西欧による「世界建築史」の時代区分によって書かれてきた。そして,非西欧世界については,完全に無視されるか,補足的に触れられてきたに過ぎない。建築は,人類の歴史の時代区分や経済的発展段階に合わせて変化するわけではない。すなわち,王朝や国家の盛衰と一致するわけではない。

 日本で書かれてきた建築史は、「西洋建築史」を前提として、それに対する「日本建築史」(「東洋建築史」)という構図を前提としてきた。「近代建築史」が書かれるが、ここでも西洋の近代建築の歴史の日本への伝播という構図が前提となっている。そして、近代建築の日本以外の地域、アジア、アフリカ、ラテンアメリカへの展開はほとんど触れられることはない。『日本建築史図集』『西洋建築史図集』『近代建築史図集』『東洋建築史図集』というのが別個に編まれてきたことが、これまでの建築史叙述のフレームを示している。

 世界建築史のフレームとしては,細かな地域区分や時代区分は必要ない。世界史の舞台としての空間,すなわち,人類が居住してきた地球全体の空間の形成と変容の画期が建築の世界史の大きな区分となる。建築史の場合、建築技術のあり方(技術史)を歴史叙述の主軸と考えれば、共通の時間軸を設定できるであろう。しかし、建築技術のあり方は、地域の生態系によって大きく拘束されている。すなわち、建築のあり方を規定するのは、科学技術のみならず、地域における人類の活動、その生活のあり方そのものであり,ひいては、それを支える社会,国家の仕組みである。

 世界各地の建築が共通の尺度で比較可能となるのは産業革命以降であり、世界各国、世界各地域が相互依存のネットワークによって結びつくのは,情報通信技術ICT革命が進行し,ソ連邦が解体し,世界資本主義のグローバリゼーションの波が地球の隅々に及び始める1990年代以降である。各国史や地域史を繋ぎ合わせるのではなく,グローバル・ヒストリーを叙述する試みとして、『世界建築史15講』は、日本におけるグローバルな建築史の叙述へ向けての第一歩である。

 

 神話としての歴史―「世界建築史」はいかに可能か?

 建築の世界史あるいは世界の建築史をどう叙述するかについては,そもそも「世界」をどう設定するかが問題となる。人類の居住域(エクメーネ)を「世界」と考えるのであれば,ホモ・サピエンスの地球全体への拡散以降の地球全体を視野においた「世界史」が必要である。しかし,これまでの「世界史」は,必ずしも人類の居住域全体を「世界」として叙述してきたわけではない。書かれてきたのは,「国家」の正当性を根拠づける各国の歴史である。一般に書かれる歴史はそれぞれが依拠している「世界」に拘束されている。すなわち、これまでの「世界」は、数多くの「欠落」を含んだものである。世界建築史のフレームとしては,細かな地域区分や時代区分は必要ない。世界史の舞台としての空間,すなわち,人類が居住してきた地球全体の空間の形成と変容の画期が建築の世界史の大きな区分となるのではないか。

 いずれにせよ、叙述のための取捨選択が無数の「欠落」を含むことは明らかである。西欧における「世界建築史」嚆矢といっていい[7]B.フレッチャーの『比較の方法による建築史』[8]は、現在に至るまでD.クリュックシャンクによって改訂[9]が続けられているけれど、フレームを固定したままで「欠落」を埋めるだけで、「世界建築史」というわけにはいかない。問題は、フレームであり、視点であり、切り口である。近代建築批判が顕在化する中で、「W.モリスからW.グロピウスまで」を軸とするN.ペブスナーの『モダン・デザインの展開』やR.バンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』などを「神話としての歴史」としてその見直しを迫る動きがあったようにーN.ペブスナーは自ら『反合理主義者たち 建築とデザインにおけるアール・ヌーヴォー』を書いたー、建築の多様な側面に視点を当てる「世界建築史」が必要である。

 インドネシアを代表する建築史家であるJ.プリヨトモ(スラバヤ工科大学名誉教授)は、9世紀のヨーロッパに「ボロブドゥールに匹敵する建築はない、西欧による「建築史」はアンフェアだ」というのが口癖である。少なくとも、アジアに軸足を置いた「世界建築史」が必要だともいう。「西欧建築史」「日本建築史」「東洋建築史」「近代建築史」の並立は論外である。「世界建築史Ⅱ」の「Ⅱ」も不要である。

 

『世界建築史15講』の構成

『世界建築史15講』は、大きく「第Ⅰ部 世界史の中の建築」「第Ⅱ部 建築の起源・系譜・変容」「第Ⅲ部 建築の世界」の3部からなる。

第Ⅰ部では、建築のの全歴史をグローバルに捉える視点からの論考をまとめた。建築は、基本的には地球の大地に拘束され、地域の生態系に基づいて建設されてきた。建築という概念は「古代地中海世界」において成立するが、それ以前に、建築の起源はあり、「古代建築の世界」がある。そして、ローマ帝国において、その基礎を整えた建築は、ローマ帝国の分裂によって、キリスト教を核とするギリシャ・ローマ帝国の伝統とゲルマンの伝統を接合・統合することによって誕生するヨーロッパに伝えられていく。ヨーロッパ世界で培われた建築の世界は、西欧列強の海岸進出とともにその植民地世界に輸出されていく。そして、建築のあり方を大きく転換させることになるのが産業革命である。産業化の進行とともに成立する「近代建築」は、まさにグローバル建築となる。

第Ⅱ部では、まず、世界中のヴァナキュラー建築を総覧する。人類の歴史は,地球全体をエクメーネ(居住域)化していく歴史である。アフリカの大地溝帯で進化,誕生したホモ・サピエンス・サピエンスは,およそ125000年前にアフリカを出立し(「出アフリカ」),いくつかのルートでユーラシア各地に広がっていった。まず,西アジアへ向かい(128万年前),そしてアジア東部へ(6万年前),またヨーロッパ南東部(4万年前)へ移動していったと考えられる。中央アジアで寒冷地気候に適応したのがモンゴロイドであり,ユーラシア東北部へ移動し,さらにベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ向かった。そして、西欧列強が非西欧世界を植民地化していく16世紀までは、人類は、それぞれの地域で多様な建築世界を培っていた。建築が大きく展開する震源地となったのは、4大都市文明の発生地である。そして、やがて成立する世界宗教(キリスト教、イスラーム教、仏教・ヒンドゥー教)が、モニュメンタルな建築を建設する大きな原動力となる。宗教建築の系譜というより、ユーラシア大陸に、ヨーロッパ以外に、西アジア、インド、そして中国に建築発生の大きな震源地があることを確認する。

 第Ⅲ部では、建築を構成する要素、建築様式、建築を基本的に成り立たせる技術、建築類型、都市と建築の関係、建築書など、建築の歴史を理解するための論考をまとめた。さらに多くの視点による論考が必要とされるのはいうまでもない。



[1] 本書のもとになったのは、『世界建築史図集』あるいは『グローバル建築史事典』といった世界中の建築を網羅する資料集あるいは事典の構想である。しかし、そうした建築史集成や体系的な建築史叙述は未だ蓄積不足で、時間もかかることから、まず、グローバルに建築の歴史を見通す多様な視点を示すことを優先したのであった

[2] 京都大学には、建築学科一期生村田治郎の学位論文『東洋建築系統史論』に始まる「東洋建築史」という科目があった。しかし、戦後、「東洋建築史」という科目は日本の建築学科から―京都大学を除いて―なくなる。日本の建築界は欧米一辺倒となるのである。戦後、建築ジャーナリズムにおいてアジアの建築に触れたのは、「天壇」「宗廟」について書いた白井晟一ぐらいである。僕は、東京大学で太田博太郎、稲垣栄三先生から建築史を教わったけれど、「東洋建築史」については聴いた記憶がない。京大隊の一員としてガンダーラで発掘作業に携わってきた西川先生には、「東洋建築史」を「世界建築史Ⅱ」として存続させたい、という強い思いがあった。

[3] AMLLビルは、オランダ領東インドで活動していたM.J.フルスィットHulswit18621921)に依頼された設計案について意見を求められ,「ヨーロッパの建築をそのまま適用したもので拒絶せざるを得ない」と批判したことから,結果的にベルラーヘの案が採用されたのが経緯である。ベルラーへは,さらに,本国で多くの支社事務所を設計していたネーダーランデン保険会社De Algemeene Nederlanden van 1845のバタヴィア本部の設計(1913)にも関わっている。いずれも設計のみへの関与で現地での施工監理を行ったわけではないが,現地の事情には通じており,東インドの若い建築家たちへの影響力は大きかったと考えられる。

[4] 37葉のスケッチが掲載されているが,スラバヤについては,カリマス沿い,中国廟,アラブ街の三葉のスケッチが掲載されている(図abcd)。

[5] ジャーミ・アッタヴァーリーフJāmi` al-TavārīkhJāmi` al-Tawārīkh。この『集史』による「世界史の誕生」をベースに,ユーラシア全体を視野に収めながら,遊牧民の視点から世界史の叙述を試みてきたのが杉山正明の『遊牧民から見た世界史』(1997)『逆説のユーラシア史』(2002)など一連の著作である。

[6] 今日のいわゆるグローバル・ヒストリーが成立する起源となるのは西欧による「地球」の発見である。西欧列強は,世界各地に数々の植民都市を建設し,それとともに「西欧世界」の価値観と仕組みを植えつけていった。すなわち、これまでの「世界史」は,基本的に西欧本位の価値観,西欧中心史観によって書かれてきた。西欧世界は、その世界支配を正統としてきたのである。そして、西欧世界では、世界は一定の方向に向かって発展していくという進歩史観いわゆる社会経済(マルクス主義)史観あるいは近代化史観が支配的となってきた。リン・ハント(2016[6]は,第二次世界大戦後に歴史叙述のパラダイムとなってきたマルクス主義,近代化論,「アナール学派」,「アイデンティティの政治」(1960年代,70年代のアメリカ合衆国で盛んに試みられるようになった,排除され周縁化されている集団の歴史に着目する一連の歴史叙述)と、そのパラダイムを批判してきた文化理論(ポスト構造主義,ポスト・コロニアリズム,カルチュラル・スタディーズ等々)の展開をともに総括しながら,1990年代以降のグローバリゼーションの進行を見据えた新たなパラダイムの必要性を展望する。秋田茂・永原陽子・羽田正・南塚信吾・三宅明正・桃木至朗編(2016)もまた、21世紀を見通せる「世界史の見取り図」の必要性を強調するところである

[7] フレッチャーに先だって、Fergusson, James (1855), “The Illustrated Handbook of Architecture : Being a Concise and Popular Account of the Different Styles of Architecture Prevailing in All Ages & Countrie, Vol.and Vol.”, John Murray、、Fergusson, James (1867), “A History of Architecture in All Countries, Vol. and Vol., John Murrayがある。

[8] Fletcher, Banister (1896), “A History of Architecture on the Comparative Method“, Athlone Press, University of London (バニスター・フレッチャー(1919)『フレッチャア建築史』古宇田実・斉藤茂三郎訳, 岩波書店)

[9] Cruickshank, Dan (1996), “Sir Banister Fletcher's a History of Architecture”, Architectural Press (ダン・クリュックシャンク (2012)フレッチャー図説・世界建築の歴史大事典 : 建築・美術・デザインの変遷』飯田喜四郎監訳, 西村書店)