布野修司:「古代インドの都市理念」The Idea of the City in Ancient India,Bob Hudson (University of Sydney) Bagan, Myanmar 11"' to 14th Century. History and Architecture, Jacques Gaucher ( EFEO)
Urban Historical Problematics About a City Wall, Angkor Thom (Cambodia) 東京文化財研究所主催 東南アジア古代都市・建築研究会「東南アジアの古代都市を考える」東京文化財研究所・セミナー室,20180119(「東京文化財研究所」報告書2019年)。 本日の発表では、まず簡単にアジア都市研究を紹介したいと思います。それから、いささか大風呂敷になりますが、ユーラシア全体に視野を広げて、古代都城、王権の所在地としての首都の在り方について見取り図の話をいたします。次に、少し横道にそれますが、古代インドの都城と比較ができる中国の都城について簡単に紹介します。最後に、「曼荼羅都市」とタイトルをつけましたが、古代インド都市の話をさせていただければと思っています。
私は都市計画を専門としておりまして、初めはインドネシアの都市の専門家でしたが、色々ないきさつの中でアジア全体に足を伸ばすことになりました。例えば現在、エジプトで日本式教育を行う学校を100校建てるという仕事に携わっています。
私は自分の研究を「都市組織研究」と位置付けています。つまり、都市を捉えるときに、人体に例えると遺伝子からひとつの骨がでる、というように、例えばひとつの家具が集まってひとつの住居ができて、それが集まって街区ができる、というプロセスに興味をおいて比較研究をしています。
具体的には、中国の北京がどういう形で成り立ったのかについて分析を行いました(図1.1)。
これから私の仕事を紹介しますが、ひとつは『グリッド都市』という本を書いています。寸法の単位を基にヨーロッパ、インド、アジアも含めて比較を行っています。図1.2はバリの事例です。このように尺度の単位というのは、世界中どこでも人体寸法に基づいて決められているわけです。
寸法については中国の井田制と日本の条里制が関係していることがはっきりわかります(図1.3)。
古代ギリシャ、古代ローマにもグリッド都市の事例があります(図1.4)。
ヨーロッパの世界では、スペインがイベロアメリカでつくった都市について、1573年にフェリペ二世の勅令により「レイエス・デ・インディアス」が定められ、同じモデルで25ほどの都市が作られます(図1.5)。
また、キューバには「アト・コラル」という円形に都市を分割するシステムがあります(図1.6)。これは1リーグ、一時間に歩ける距離でその範囲はあなたのものですよ、という区別をしたものらしいです。もし他にこのようなシステムがあるのなら教えていただきたいです。驚くことに、今キューバにいくと市町村の境界は円形をしているのです。古今東西グリッドは見られますが、グリッドだけではない土地分割もある。
それでは本題に入ります。最初に私の仮説をご紹介いたします。
ユーラシア全体を見渡した時に、コスモロジーと具体的な都城の形態との関係に着目すると、まずそういった都城思想を持つ地域(A)と持たない地域(B)の大きく2つに分かれます。
A地域がインドと中国です。この都城思想を持つ地域は核心地域と周辺地域に分けられます(図1.7)。
中国の場合は韓国・ベトナム・日本が周辺地域です。インドの場合は東南アジアが周辺地域です。2つの地域とも都城思想を表す書物があり、都城の理念が空間的なモデル、図式に表現されます。
アイデアは幾何学的なモデルで表現されますが、それがそのまま実現するとは限りません。立地の条件など様々なことによってそのモデルはいろいろな形に変形されます。
理念形がそのまま表現されるのはむしろコア地域よりも周辺地域です。何故かというと、自分の支配の正当性を表現することがより必要とされるからです。
ですからインドの場合は、理念形はむしろ周辺地域のほうが表現されやすい。もちろんその理念形が実現した場合でも、時間の経過によってそれは変形していきます。
以上が私の仮説となります。
もう一つのB地域は、主に現在イスラム圏域です。ではイスラム圏域にコスモロジーがないかというと、そういうことではなく、ひとつの都市でひとつのコスモスを表現するという考え方がないということです。
イスラムの場合は、メッカ、メディナ、エルサレムも入れて都市のネットワーク全体がひとつのコスモスであるという思想です。
また、イスラムには、イスラム研究の先生方といろいろ議論したり調べたりしたのですが、都城理念を示す書物はありません。
古代中国の都城の課題に入ります。A地域のひとつのコアである中国都城について、昨年11月に日本学士院の学会誌に論文を発表しました(Shuji Funo, 2017, "Ancient Chinese capital models—Measurement system in urban planning", Proceedings of the Japan Academy Series B, Vol. 93 N.9, 724-745)。世界で7番目くらいの引用率の学会誌で、建築分野の論文が載るのが恐らく初めてです。
図1.8は中国の古い書物、『周礼考工記』に書かれたモデルを図にしたものです。マンダレーのプランがそれに従って図面を描いたのではないかというのは、私の論文のひとつの主張です(図1.9)。これは提起ですので、是非議論していただきたいことです。恐らく今日一日では決着がつかないと思いますが。
今まで中国の都城は『周礼』に基づいてつくられたということでしたが、そのモデルに従った都城は実は一個もなく、考古学的には発見されていません。強いて言えば、明の時代、清の時代の北京が一番近いと言われています。
中国の都市には3つのモデルがあるのではないかというのが、私の論文の主張です(図1.10)。すなわち、『周礼』のモデル、宮殿が北側にある長安のモデル、そしてモンゴルが作った大都のモデルです。それを寸法体系で説いたというのが、論文の主な内容です。
論文より以前に『大元都市』という本を書きましたが、そこに具体的な都市組織、街区の図面まで復元しました(図1.11)。アンコールについても私はこのレベルで復元したいと思っていますので、今日のシンポジウムを大変期待しております。
本題に入りますが、『曼荼羅都市』という本を書いていますが、そこにインド世界の都市のモデルと、3つの都市を取り上げています。
まずはモデルですが、一般には、ヒンドゥー教や仏教の経典などに書かれているものから世界をどのように考えていたかについて復元がされています(図1.12)。
また、マウリア朝のチャンドラグプタの宰相だったカウティリヤが、王国を治めるための書物、『アルタシャーストラ』を書いています。それのあるチャプターに都市建設について書かれていて、古代インドの都市を考える際にはそれが参照されます(上村勝彦翻訳、『実利論 ―古代インドの帝王学』岩波文庫、1984)。図1.13に、『アルタシャーストラ』の内容を図化したいくつかの例を表しています。
古来研究者は『アルタシャーストラ』に基づいた古代インド都市モデルの復元図を作っています(図1.14)。不思議なことに坊三門といった各辺3つの門によるつくりで、中国都城のモデルと同じなのです。さらに天上のエルサレムとうユダヤ教のアイデアルシティも坊三門です。私は、これは天文学に関係があると考えていますが、なぜ共通かということについて後ほどご意見をいただきたいと思います。
図1.15は『アルタシャーストラ』に基づいた復元図のうち一番いいのではないかと思っているモデルです。中心の黒く塗られている1番が神殿領域、2番が宮殿、15番がブラフマン領域、東側がクシャトリア、南側がバイシャ、西がスートラになります。
もうひとつ我々が建築や都市計画を研究する際に参照するのが「ヴァーストゥ・シャーストラ」です。「シャーストラ」というのは恐らく「論」という意味で、「ヴァーストゥ」は建造物を意味します。30種類ほどの、日本の木割のようなものです。
その中に一番完璧に残っているのが『マーナサーラ』と言われています。「マーナサーラ」は「尺度」という意味で、最初の章に寸法の話が書いてあります。小さな粒子の単位から人体寸法から歩測のような寸法の話があります。
その次には空間の分割の話が書いてあります(図1.16)。2×2の分割、3×3の分割、8×8の分割や9×9の分割がありますが、それら全部に名前がつけられています。
基本的に分割した中に、ヒンドゥーの神々を配置していきます。要するに、曼荼羅図の形に、位置を与えていきます。
『マーナサーラ』には都市と村のパターンが8つあります(図1.17)。カールムカという弓型のもの、スワスティカという卍形のものなど、いくつかパターンが示されています。
『マーナサーラ』から復元したものの中に、都市の規模が示された図があります(図1.18)。都市の規模によって名前がついています。1.8 mくらいの単位で割れば、分割できるということがわかりました。
では、インドではこのようなモデルを実現した実例があるのでしょうか。先程周辺部の方が理念形が実現しやすいという仮説をお話ししましたが、インドではすでに11世紀にイスラムが入り、考古学的な調査が遅れていることもあり、そういった事例が見つかってありません。
南インドにある、スリランガムという寺院都市が理念形に近いものです(図1.19)。真ん中に神殿があり、プラカーラという何重の境界があるというような形です。
また、マドゥライという都市も調査しました(図1.20)。
形を見ると、ぐちゃぐちゃに見えます。歴史を経てモデルは崩れています。ただし、月ごとに行われる都市祭礼があって、それの後を追っていくと、やはりある理念形によってつくられた都市だということが分かりました。
都市に流れる川によって変形したり、途中で宮殿が建って道路が変形したりしています。歴史的な変形をしていますが、モデルを基に計画された都市だと思っています。中心にミーナークシー寺院という神殿があります。
都市型の住宅としては、コートハウスという、古今東西共通の都市的な住形状があります(図1.21)。カーストごとの居住地といった住みわけも今でも見られます。
次に、ジャイプルという、18世紀にジャイ・シン2世がつくった都市です(図1.22)。
これはまた別のタイプに見えますが、『マーナサーラ』に書いてあるひとつの型をモデルに設計したのではないかという説があります。
基本的には三分割されて、中心に宮殿とジャンタルマンタルという天文観測装置があります。地形の制約がありますが、このような形の設計だったと思われます。グリッド自体が十数度か傾いていて、正南北ではないという、モデルからの逸脱があります。
次は都市組織、街区についてお話しします(図1.23)。その寸法も明らかに計画的に設計されていまして、中に埋まってくる住居はハヴェリというコートハウスが基本です。元々は2階建てくらいでしたが、今は4~5階建ての高層階になっており、100人くらいの合同家族が住んでいます。
18世紀のヒンドゥー世界では、西の端にジャイプルがあり、東の端にインドネシア・ロンボク島にチャクラヌガラという計画的につくられた都市があります(図1.24)。サンスクリットで、「チャクラ」は「円輪」という意味もありますし、体の急所の意味もあります。「ヌガラ」は「国」とか「都市」という意味です。バリのカランガスム王国の植民都市としてつくられました。
非常に変わった形をしていて、南北にはモデルにはない、飛び出たところが見られます。実はバリ島の集落は大きく3つの部分からできています。カヤンガン・ティガという起源の寺が北にあって、死の寺と墓地は南にあって、真ん中はみんなが住むところです。
それからグリッドでできていますが、不思議なことにグリッドは平安京にそっくりなのです。インドネシアはインド側でもありますが、中国にも属します。1290年代にクビライが攻めていますし、当然中国の商人も出入りしていますので、中国的な理念が入っていてもおかしくないです。
今日私が短い時間で大まかな風呂敷を説明させていただきました。最初にお話ししたのが、大きくユーラシア全体で都城の考え方が中国・インドに二分割されていて、2つの圏域でコアがあって、そこから考え方が周辺に広がっていきました。モデルがそのまま実現した例は両方ともどうもなさそうですが、それを実現しようとしたかに見える、いくつかの事例があります。
ですから、バガンあるいはアンコール・トムは、どういった設計思想で都市を形成できたのかということについて、議論できればと思っています。