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2021年4月21日水曜日

古代インドの都市理念 The Idea of the City in Ancient India 東南アジア古代都市・建築研究会、20180119

 布野修司:「古代インドの都市理念」The Idea of the City in Ancient IndiaBob Hudson (University of Sydney) Bagan, Myanmar 11"' to 14th Century. History and  Architecture, Jacques Gaucher ( EFEO) 

Urban Historical Problematics About a City Wall, Angkor Thom (Cambodia) 東京文化財研究所主催 東南アジア古代都市・建築研究会「東南アジアの古代都市を考える」東京文化財研究所・セミナー室,20180119(「東京文化財研究所」報告書2019年)。

 本日の発表では、まず簡単にアジア都市研究を紹介したいと思います。それから、いささか大風呂敷になりますが、ユーラシア全体に視野を広げて、古代都城、王権の所在地としての首都の在り方について見取り図の話をいたします。次に、少し横道にそれますが、古代インドの都城と比較ができる中国の都城について簡単に紹介します。最後に、「曼荼羅都市」とタイトルをつけましたが、古代インド都市の話をさせていただければと思っています。

 私は都市計画を専門としておりまして、初めはインドネシアの都市の専門家でしたが、色々ないきさつの中でアジア全体に足を伸ばすことになりました。例えば現在、エジプトで日本式教育を行う学校を100校建てるという仕事に携わっています。

 私は自分の研究を「都市組織研究」と位置付けています。つまり、都市を捉えるときに、人体に例えると遺伝子からひとつの骨がでる、というように、例えばひとつの家具が集まってひとつの住居ができて、それが集まって街区ができる、というプロセスに興味をおいて比較研究をしています。













































 

 具体的には、中国の北京がどういう形で成り立ったのかについて分析を行いました(1.1)

 これから私の仕事を紹介しますが、ひとつは『グリッド都市』という本を書いています。寸法の単位を基にヨーロッパ、インド、アジアも含めて比較を行っています。図1.2はバリの事例です。このように尺度の単位というのは、世界中どこでも人体寸法に基づいて決められているわけです。

 寸法については中国の井田制と日本の条里制が関係していることがはっきりわかります(図1.3)。

 古代ギリシャ、古代ローマにもグリッド都市の事例があります(図1.4)。

 ヨーロッパの世界では、スペインがイベロアメリカでつくった都市について、1573年にフェリペ二世の勅令により「レイエス・デ・インディアス」が定められ、同じモデルで25ほどの都市が作られます(1.5)

 また、キューバには「アト・コラル」という円形に都市を分割するシステムがあります(1.6)。これは1リーグ、一時間に歩ける距離でその範囲はあなたのものですよ、という区別をしたものらしいです。もし他にこのようなシステムがあるのなら教えていただきたいです。驚くことに、今キューバにいくと市町村の境界は円形をしているのです。古今東西グリッドは見られますが、グリッドだけではない土地分割もある。

 それでは本題に入ります。最初に私の仮説をご紹介いたします。

 ユーラシア全体を見渡した時に、コスモロジーと具体的な都城の形態との関係に着目すると、まずそういった都城思想を持つ地域(A)と持たない地域(B)の大きく2つに分かれます。


 A地域がインドと中国です。この都城思想を持つ地域は核心地域と周辺地域に分けられます(1.7)

 中国の場合は韓国・ベトナム・日本が周辺地域です。インドの場合は東南アジアが周辺地域です。2つの地域とも都城思想を表す書物があり、都城の理念が空間的なモデル、図式に表現されます。

 アイデアは幾何学的なモデルで表現されますが、それがそのまま実現するとは限りません。立地の条件など様々なことによってそのモデルはいろいろな形に変形されます。

 理念形がそのまま表現されるのはむしろコア地域よりも周辺地域です。何故かというと、自分の支配の正当性を表現することがより必要とされるからです。

 ですからインドの場合は、理念形はむしろ周辺地域のほうが表現されやすい。もちろんその理念形が実現した場合でも、時間の経過によってそれは変形していきます。

 以上が私の仮説となります。

 もう一つのB地域は、主に現在イスラム圏域です。ではイスラム圏域にコスモロジーがないかというと、そういうことではなく、ひとつの都市でひとつのコスモスを表現するという考え方がないということです。

 イスラムの場合は、メッカ、メディナ、エルサレムも入れて都市のネットワーク全体がひとつのコスモスであるという思想です。

 また、イスラムには、イスラム研究の先生方といろいろ議論したり調べたりしたのですが、都城理念を示す書物はありません。

 




古代中国の都城の課題に入ります。A地域のひとつのコアである中国都城について、昨年11月に日本学士院の学会誌に論文を発表しました(Shuji Funo, 2017, "Ancient Chinese capital modelsMeasurement system in urban planning", Proceedings of the Japan Academy Series B, Vol. 93 N.9, 724-745)。世界で7番目くらいの引用率の学会誌で、建築分野の論文が載るのが恐らく初めてです。

 図1.8は中国の古い書物、『周礼考工記』に書かれたモデルを図にしたものです。マンダレーのプランがそれに従って図面を描いたのではないかというのは、私の論文のひとつの主張です(図1.9)。これは提起ですので、是非議論していただきたいことです。恐らく今日一日では決着がつかないと思いますが。

 今まで中国の都城は『周礼』に基づいてつくられたということでしたが、そのモデルに従った都城は実は一個もなく、考古学的には発見されていません。強いて言えば、明の時代、清の時代の北京が一番近いと言われています。

 中国の都市には3つのモデルがあるのではないかというのが、私の論文の主張です(図1.10)。すなわち、『周礼』のモデル、宮殿が北側にある長安のモデル、そしてモンゴルが作った大都のモデルです。それを寸法体系で説いたというのが、論文の主な内容です。

 論文より以前に『大元都市』という本を書きましたが、そこに具体的な都市組織、街区の図面まで復元しました(図1.11)。アンコールについても私はこのレベルで復元したいと思っていますので、今日のシンポジウムを大変期待しております。

 


 本題に入りますが、『曼荼羅都市』という本を書いていますが、そこにインド世界の都市のモデルと、3つの都市を取り上げています。

 まずはモデルですが、一般には、ヒンドゥー教や仏教の経典などに書かれているものから世界をどのように考えていたかについて復元がされています(1.12)

 また、マウリア朝のチャンドラグプタの宰相だったカウティリヤが、王国を治めるための書物、『アルタシャーストラ』を書いています。それのあるチャプターに都市建設について書かれていて、古代インドの都市を考える際にはそれが参照されます(上村勝彦翻訳、『実利論 ―古代インドの帝王学』岩波文庫、1984)。図1.13に、『アルタシャーストラ』の内容を図化したいくつかの例を表しています。

 古来研究者は『アルタシャーストラ』に基づいた古代インド都市モデルの復元図を作っています(図1.14)。不思議なことに坊三門といった各辺3つの門によるつくりで、中国都城のモデルと同じなのです。さらに天上のエルサレムとうユダヤ教のアイデアルシティも坊三門です。私は、これは天文学に関係があると考えていますが、なぜ共通かということについて後ほどご意見をいただきたいと思います。

 図1.15は『アルタシャーストラ』に基づいた復元図のうち一番いいのではないかと思っているモデルです。中心の黒く塗られている1番が神殿領域、2番が宮殿、15番がブラフマン領域、東側がクシャトリア、南側がバイシャ、西がスートラになります。

 

もうひとつ我々が建築や都市計画を研究する際に参照するのが「ヴァーストゥ・シャーストラ」です。「シャーストラ」というのは恐らく「論」という意味で、「ヴァーストゥ」は建造物を意味します。30種類ほどの、日本の木割のようなものです。

 その中に一番完璧に残っているのが『マーナサーラ』と言われています。「マーナサーラ」は「尺度」という意味で、最初の章に寸法の話が書いてあります。小さな粒子の単位から人体寸法から歩測のような寸法の話があります。

 その次には空間の分割の話が書いてあります(図1.16)。2×2の分割、3×3の分割、8×8の分割や9×9の分割がありますが、それら全部に名前がつけられています。

 基本的に分割した中に、ヒンドゥーの神々を配置していきます。要するに、曼荼羅図の形に、位置を与えていきます。

 『マーナサーラ』には都市と村のパターンが8つあります(図1.17)。カールムカという弓型のもの、スワスティカという卍形のものなど、いくつかパターンが示されています。

 『マーナサーラ』から復元したものの中に、都市の規模が示された図があります(1.18)。都市の規模によって名前がついています。1.8 mくらいの単位で割れば、分割できるということがわかりました。

 では、インドではこのようなモデルを実現した実例があるのでしょうか。先程周辺部の方が理念形が実現しやすいという仮説をお話ししましたが、インドではすでに11世紀にイスラムが入り、考古学的な調査が遅れていることもあり、そういった事例が見つかってありません。

 南インドにある、スリランガムという寺院都市が理念形に近いものです(1.19)。真ん中に神殿があり、プラカーラという何重の境界があるというような形です。

 



また、マドゥライという都市も調査しました(1.20)

 形を見ると、ぐちゃぐちゃに見えます。歴史を経てモデルは崩れています。ただし、月ごとに行われる都市祭礼があって、それの後を追っていくと、やはりある理念形によってつくられた都市だということが分かりました。

 都市に流れる川によって変形したり、途中で宮殿が建って道路が変形したりしています。歴史的な変形をしていますが、モデルを基に計画された都市だと思っています。中心にミーナークシー寺院という神殿があります。

 都市型の住宅としては、コートハウスという、古今東西共通の都市的な住形状があります(1.21)。カーストごとの居住地といった住みわけも今でも見られます。

 次に、ジャイプルという、18世紀にジャイ・シン2世がつくった都市です(1.22)

 これはまた別のタイプに見えますが、『マーナサーラ』に書いてあるひとつの型をモデルに設計したのではないかという説があります。

 基本的には三分割されて、中心に宮殿とジャンタルマンタルという天文観測装置があります。地形の制約がありますが、このような形の設計だったと思われます。グリッド自体が十数度か傾いていて、正南北ではないという、モデルからの逸脱があります。

 次は都市組織、街区についてお話しします(1.23)。その寸法も明らかに計画的に設計されていまして、中に埋まってくる住居はハヴェリというコートハウスが基本です。元々は2階建てくらいでしたが、今は4~5階建ての高層階になっており、100人くらいの合同家族が住んでいます。

 


18世紀のヒンドゥー世界では、西の端にジャイプルがあり、東の端にインドネシア・ロンボク島にチャクラヌガラという計画的につくられた都市があります(図1.24)。サンスクリットで、「チャクラ」は「円輪」という意味もありますし、体の急所の意味もあります。「ヌガラ」は「国」とか「都市」という意味です。バリのカランガスム王国の植民都市としてつくられました。

 非常に変わった形をしていて、南北にはモデルにはない、飛び出たところが見られます。実はバリ島の集落は大きく3つの部分からできています。カヤンガン・ティガという起源の寺が北にあって、死の寺と墓地は南にあって、真ん中はみんなが住むところです。

 それからグリッドでできていますが、不思議なことにグリッドは平安京にそっくりなのです。インドネシアはインド側でもありますが、中国にも属します。1290年代にクビライが攻めていますし、当然中国の商人も出入りしていますので、中国的な理念が入っていてもおかしくないです。

 今日私が短い時間で大まかな風呂敷を説明させていただきました。最初にお話ししたのが、大きくユーラシア全体で都城の考え方が中国・インドに二分割されていて、2つの圏域でコアがあって、そこから考え方が周辺に広がっていきました。モデルがそのまま実現した例は両方ともどうもなさそうですが、それを実現しようとしたかに見える、いくつかの事例があります。

 ですから、バガンあるいはアンコール・トムは、どういった設計思想で都市を形成できたのかということについて、議論できればと思っています。




2021年4月20日火曜日

 『中東オリエント事典』 2020

【コラム】現代建築家、ザハ・ハディード


  ザハ・ハディド Zaha Hadid19501031日~2016331日)イラク・バグダード生まれの建築家。

 その名は、実現されることなく終わった東京オリンピック2020の主会場「新国立競技場」の建築設計競技の最優秀案の設計者として知られる。その斬新なイメージは、東京へのオリンピック誘致に少なからぬ貢献をしたと思われるが、予定建設価格の超過、プログラムそのものの曖昧さ、実施主体と決定過程の不明朗さ等々の理由で、監修者として決まっていた実施過程からもザハ・ハディドは排除される不幸な結果となった。その死去は、「新国立競技場」をめぐるトラブルで心労が重なったためともされる。悲劇のヒロインとなったザハ・ハディドであるが、特に若いころは実現しない設計案がほとんどで「アンビルドの女王」と呼ばれてきた。

 モスル出身の政治家ムハンマド・アル・ハジ・フサイン・ハディドと美術家ワジハ・アル・サブジを父母としてバクダードに生まれた。。父は、左翼リベラル集団アル・アハリ(1932年)の設立者のひとりであり、イラク共和国(第一共和政)で財務大臣を務めた。ベイルートのアメリカン大学で数学を学んだ後、1972年にロンドンのAAスクールに入学、国際的に名の知られる建築家レム・コールハウスらに建築を学んだ。1980年に英国籍を得て、ロンドンにザハ・ハディド・アーキテクツ事務所を設立する。

 ザハの名が知られるようになったのは、香港の「ピーク・レジャー・クラブ」のコンペである(1983)。しかし、この作品も事業者が倒産したために実現せず、その後10年余りも「アンビルド」が続いたが、ニューヨーク近代美術館のP.ジョンソンらがキュレーターを務めた『脱構築主義者建築展』(1988年)で注目を集め、フランク・ゲーリーなどとともに、ポスト・モダンの建築の一派をなす「デコンストラクテイヴィズム」の旗手と見なされるようになる。

 21世紀に入ると、ザハの作品は、次々に実現されていくことになる。アジアにも「広州大劇院」(2010)などがある。その作品が実現可能となった背景には、その「新奇な」デザインを要望するグローバル企業がクライアントとして出現したことがある。そして何よりも、三次元3D CADからBIMへ展開してきたコンピューター技術の進歩がある。すなわち、単に多様な形を生み出す段階から実際に部材、部品まで一貫して製造、組立、施工するシステムが完成したことがある。ザハ・ハディド・アーキテクツは、建築エンジニアリングでも世界最先進の設計事務所となるのである。[布野修司]



2021年4月19日月曜日

現代建築家批評36 建築の根源 建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道06

現代建築家批評36 『建築ジャーナル』201012月号

現代建築家批評36 メディアの中の建築家たち


建築の根源

建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道06

 

白井晟一という希有な建築家が亡くなって(1983年)、30年近い月日が流れた。日本の近代建築を代表する建築家であった前川國男が亡くなったのはその少し後である(1986年)。二人は同い年の1905年生まれで、晩年仲がよかった。前川國男は、一足先に逝った白井晟一の葬儀で「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだ。

前川國男が亡くなって20年、2005年の暮れから2006年にかけて、前川國男の生誕百年を記念して「前川國男展」が全国各地で開かれた。同じ年の3月、前川國男の弟子であり、ともに戦後日本の建築をリードしてきた丹下健三が亡くなった。丹下健三と言えば近代日本が生んだ最大の「国際建築家」である。

その死によって否応なく時代の終焉を感じていた頃、白井晟一の次男である昱麿さんから電話があって30年振りに会った。何故か偶然、丹下健三の設計したビルの中のしゃれた居酒屋であった。積もる話に時を忘れるようであった。

取り立てて用事はないということであったけれど、白井晟一展の話があまりうまくいっていないこと、「虚白庵」を手放さざるを得ないこと、などが後になって気になった。気にしてもどうなることでもない。ただ、「虚白庵」はどうにかすべきではないかと、前川展を中心的に切り盛りした松隈洋や日本建築学会で頻繁に顔を合わせていた宇野求、早稲田で白井展を手伝ってもいいといっていた中谷礼仁には、相談を持ちかけてはみた。しかし、そのまま時が流れて年が明け、再び昱麿さんから電話があった。最後の梅見になるから虚白庵に来ないか、という誘いであった。松山巖さんに声をかけて、二人でお邪魔して楽しい時を過ごした。暗闇の中で楽しい時間を過ごした。そして、建築を志した頃のことを震えるように思い起こした。

その後の経緯は省こう。小さな声が少しずつ集まって、実行委員会とはとても呼べない集まりが出来て、ひとつの流れになった。そして、白井晟一展が実際に開催されたのである(「白井晟一 精神と空間」群馬近代県立美術館 2010年 9月11日~11月3日)。また、来年には東京のパナソニック汐留美術館でも開かれる(2011年 1月8日~3月27日)。

原点としての白井晟一

白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた(マッ)()―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,19751月号)と題した文章がそれである。『建築文化』誌(彰国社)の田尻裕彦編集長が、一体何故、大学院生で「建築」のケの字も知らない、海のものとも山のものともわからない僕を白井晟一という大建築家の作品の批評家として指名したのか、未だに謎である。

 「サンタ・キアラ館」を一日見て、「<求めよ>とささやかに彫り込まれた石の脇を抜けてキャンパスに導き入れられた私は確かに、何か別のある事件の出現を息をつめながら求めて(・・・)いた。・・・(マッ)()の周囲を徘徊する。二つの(マッ)()の交接と見えたものは、そのものズバリの官能的エロスを擽る。楕円の量塊の何ともいえない曲線と(くび)れ込んだ凹部はやけに艶かしい。そういえば私の立っているここは、うら若き乙女たちの園であった。二つの量塊のディアレクテーク。ここでは、アーティキュレートされずに、閉ざされた楕円の赤い塊りに、白い壁面と、大きく開かれた窓をもつ不定形の、鋭角の楔がしっかりと噛み合っている。二つの鮮やかな対照が淡い光の中で、対話(ディアローグ)し、交歓(コレスポンド)しているように見える」などと書いている。読み返して、「建築」に触れたという思いがありありと蘇ってくる。

 以上のみであれば、悠木一也の個人的な体験で終わったであろう。しかし、いま読み返しても恥ずかしさに顔が火照ってしまうような拙い文章が掲載されてまもなく思いもかけないことが起こった。「虚白庵」に来なさい、と声をかけて頂いたのである。出迎えてくれたのは次男の白井昱麿さんであった。本人は不在でいささか肩すかしであったが、かえって「虚白庵」を隈なく見ることができた。なんといっても「もの好きで見たがる人があっても、住居の中の公開は遠慮する」(「無窓無塵」)という「虚白庵」なのである。机の上に、道元の『正法源蔵』が毅然と置かれており、凛とした「暗闇」の身に引き締まる感覚を今でも覚えている。何よりも仰天し感激したのは、どこの馬の骨とも分からない怪しげなペンネームの筆者に、5万数千円もする、上梓されたばかりの限定番号入りの『白井晟一の建築』(中央公論社、1974年)を贈呈して頂いたことである。

 幸か不幸か、その後も白井晟一の肉声に直接接することはなかったが、白井昱麿さんが父・白井晟一を徹底的に客観視するために創刊した『白井晟一研究』(Ⅱ、1979年)に「虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」と題した文章を書く機会を与えてもった。白井晟一とその建築そのものを問うというよりも、白井を通じて、日本の「戦後建築」を問う構えをとった論考である。この白井晟一論を核にして、僕は、処女論集『戦後建築論ノート』(相模書房、1981年)を書いたのである。

 

白井神話の誕生

僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今、稀有な「建築家」であったという思いはますますつのる。

白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっての評言は「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。

 同じ1905年生まれの前川國男が、「日本相互銀行本社」(1952年)「神奈川県立図書館並びに音楽堂」(1954年)「国際文化会館」(坂倉準三,前川国男,吉村順三連名、1955年)「京都会館」(1960年)「東京文化会館」(1961年)「蛇の目ビル」(1965年)と立て続けに建築学会賞を受賞してきたのに比較して、白井晟一の評価は、それまで薄く、冷たかったといっていい。前川國男は、同じ年、「近代建築の発展への貢献」というタイトルで、1ランク上の日本建築学会大賞を受賞しているのである。

 「日本の近代建築を主導してきた前川國男」VS「近代建築の主流から外れた「異端の建築家」白井晟一」という評価がここにある。こうした構図からはいささか意外に思われるが、ふたりは交流があり晩年も『風声』同人として親しかった。同い年で、同じように戦前に渡欧した経験のある二人の建築家の対比、そして二人が共有していたものは興味深い。

受賞以降、白井晟一は一躍脚光を浴びることになる。「親和銀行」(Ⅰ期Ⅱ期)に続いて「虚白庵」「NOΛビル」「サンタ・キアラ」「懐霄館」と立て続けに傑作が発表されるのである。結果として、白井晟一を「大いに問題のある作家」といった「問題」の内容が問題であり、「疑問なしとしない」といった内容が「疑問」であったことになる。

振り返って1960年代の日本建築をリードしたのは丹下健三であった。建築ジャーナリズムを賑わした1950年代半ばの「伝統論争」において丹下健三と白井晟一は対局的と見なされた。そして、時代を制したのは丹下健三である。「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(1964)「国立屋内総合競技場」(1964)「山梨文化会館」(1966)と傑作が次々に話題を呼び、1970年の日本万国博覧会(大阪万国Expo70)のマスターデザインが時代を華々しく表現することになった。1960年代を通じて丹下健三は世界を代表する国際建築家となったのである。

しかし、1960年代末に日本の建築シーンはがらりと変わる。丹下健三の仕事は海外が主となり、日本から消えてしまう。この鮮やかな反転を象徴するのが白井晟一である。この過程を僕らははっきり証言できる。

1968

僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった[i]

磯崎について書いたけれど、「私は年齢的には1960年世代だけど、建築家としての思考のしかたは1968年に属している」[ii]と、1968年に拘り続ける建築家が磯崎新である[iii]。磯崎新は、「1968年世代」の「異議申し立て」、「反」「叛」、「造反有理」、「自己否定」に共感し、共鳴し続けるのである。その磯崎新が1968年の初頭に「凍結した時間のさなかに裸形の観念とむかい合いながら一瞬の選択に全存在を賭けることによって組み立てられた≪晟一好み≫の成立と現代建築のなかでのマニエリスト的発想の意味」[iv]という長たらしいタイトルの白井晟一論を「親和銀行本店」をめぐって書いた。この白井論の影響は圧倒的であった。

既に触れたように、丹下健三の事務所URTECを退職して磯崎新アトリエを設立する契機になった「大分県立中央図書館」によって日本建築学会賞を37歳で受賞する。白井の受賞の前年である。翌年には、これまた白井晟一に1年先んじて「建築年鑑賞」を受賞、続いて「福岡銀行大分支店」で文部大臣選奨新人賞を受賞する(1969年)。僕らは、颯爽とデビューした磯崎の白井論を読んで白井晟一を知ったのである。原広司もまた逸早く白井晟一にインタビュー[v]を試みていた。磯崎新の白井論に、宮内康[vi]、長谷川堯[vii]が続いた。原広司の『建築に何が可能か』(1967年)、宮内康の『怨恨のユートピア』(1969年)、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(1972年)、そして磯崎新の『空間へ』(1970年)『建築の解体』(1975年)は、僕らの必読書であった。新進気鋭の建築家・批評家がこぞって白井晟一へのオマージュを捧げるのである。これは、明らかに建築ジャーナリズムにおける歴史的事件であった。

聖地巡礼

僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。

「白井晟一について語ることは必ずしも容易ではない。白井晟一とその作品をめぐる言説を支える一つの出来上がった構造(いわゆる白井神話)があり、あらゆる言説がそうした前提を免れ得ないでいるからである。白井晟一の特異性を支える構造がすでに語ろうとするものの内部に存在しているのである。極端に言えば、白井晟一については、ひたすらオマージュを捧げ完全なる帰依を表白するか、ひたすら無関心を装いつつ完全なる無視を決め込むか、そのどちらかが許されているだけのように思えるほどである。しかし、当然のごとく、後者の吐露が言説として定着されないとすれば、あらゆる言説が白井神話を増幅し、彼を神格化するヴェクトルのみをもってしまうのである。その結果、白井晟一とその作品を相対化し、それなりのコンテクストへ位置づけようとする試みの方がその説得力を欠いているようにみられてしまう。神話に拮抗するだけの言説を産み出し得ないのである。」[viii]

何故、白井神話なのか。不可解だからである。白井晟一とその作品群がわからないのである。第一に、白井晟一の作品が多義的でわかりやすい位置づけを許さない。すなわち、日本の建築が語られてきたこれまでの文脈では理解できないのである。第二に、白井晟一の履歴が不明で、謎に満ちている、ということがある。謎は謎を呼ぶ。結果として、白井晟一とその作品群は多義的なテクストとして読まれ、場合によっては、矛盾を含んだ両義的な位置づけを許してしまう。

あるものはそのコスモポリタニズムを指摘し、またあるものはその日本的なるものの一貫性を指摘する。あるものはその「精神主義」を賞揚し、またあるものは「物質の肉化」をうたう。あるものは、ラディカルな「変革者」を見、またあるものは「反動的な保守主義者」をみる。あるものはその「フォルマリズム」を指摘し、またあるものはその「ラショナリズム」評価する。あるものがその「マニエリズム」を指摘すれば、あるものは「マニエリスト」とは程遠いという。

とにかく「白井晟一神話」によって、1970年代を通じて、白井晟一の作品を巡る「建築行脚」は「聖地巡礼」とも呼ばれ、建築学生あるいは若い建築家たちの必修科目となった。白井晟一の「呉羽の舎」の図面集『木造の詳細3住宅設計編(呉羽の舎)』(彰国社、1969年)は、実際設計製図の教科書だった。高崎在住で、「煥乎堂」「松井田町役場」の仕事に絡んで濃密な付き合いがあった建築家水原徳言のもとには、白井晟一を卒業論文のテーマとする建築学科の学生が度々訪れることになった[ix]

 

建築の根源

以上を枕に、展覧会の図録に、求められるままに白井晟一論を書いた。白井晟一の戦前期についても僕なりに納得できた。白井論を書き上げて、たまたま平戸に行く用事があり、佐世保で親和銀行本店・懐霄館を35年振りに見た。アーケードにファサードを塞がれ、猥雑な景観に取り囲まれながら、少なくとも外見上はびくともしないで建っていた。虚白庵も含めて、戦後建築の名作と言われた作品が次々に建て替えられていく中で、その姿は頼もしかった。建築は、やはり、容易に壊されないという表現の力が必要なのだと思う。

白井晟一について、改めて考えたのは、建築するという精神である。そうした意味で、1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らした後、建築家として生きることを決断、懸命に建築修行に没頭した時期と、書を始め、虚白庵に篭もった時期にとりわけ興味を引かれる。白井晟一がジャーナリズムを意識してきたことは間違いない。しかし、最終的には建築の根源のほうへ向かっていったように思える。

建築の根源のほうというのは、建築の生み出される現場である。建築の要素となる素材である。さらに、建築を組立てる素材である。

白井晟一の石や煉瓦への拘りは際立っている。「松井田町役場」では、上州で敷石に使われていた多胡石を使っている。「親和銀行東京支店」では四国高松郊外庵治村の花崗岩を使った。流正之の紹介だという。「大波止支店」では、九州産の粘板岩、懐霄館では諫早石が用いられた。地域産材に限らない、韓国や北欧の石も求める。直接仕事のない時には、各地の石材倉庫や石工作業を見て回った。現場の諸職には、常に「きみたちがやっている仕事、つまり建築そのものが施主なんだ。・・いつでも建築はきみたちをまん前からみている。石が、硝子が、壁が・・・みられていない瞬時もないんだよ」(「聴書 歴史へのオマージュ」)といい、竣工式の祝宴などには出なかった、という。

結局、僕が白井晟一に学んだ最大のことは、経験すること、考えること、そうした上で建てることではないか、と思い至った。

「思索と経験なんていうけれど、それは別々のものではないと思うんだ。・・・不断のエキスペリメントの中で自分をたたいていく以外ないよ。手っ取り早くはいかない。」

 



[i] 今年(2010年)417日、東京に雪が舞ったが、41年前の全く同じ日にも、東京に雪が積もったことを思い出す。「東大闘争」は、1969119日の「安田講堂」陥落の後、急速に収縮し始め、4月には授業が再開されていて、大講義室の外に季節外れの雪が積もっていくのを呆然と眺めた記憶が鮮やかである。

[ii] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので、その頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001p.20

[iii] 拙稿「磯崎新1968 ラディカリズムの原点」『建築ジャーナル』20106月号、pp.48-51

[iv] 『新建築』19682

[v] 「人間・物質・建築」『デザイン批評』676

[vi] 「近代の告発」『建築文化』19697月号

[vii] 「呼び立てる<父>の城砦」『近代建築』19721月号。

[viii] 虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」『白井晟一研究Ⅱ』1978

[ix] 水原徳言「」

2021年4月18日日曜日

現代建築家批評35  建築の継承  世代交代 建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道05

 現代建築家批評35 『建築ジャーナル』201011月号

現代建築家批評35 メディアの中の建築家たち


建築の継承  世代交代

建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道05

 

昨年、還暦を迎え、今年、この原稿を書いている中国行脚の間に61歳になった。昨年秋、東洋大学、京都大学、滋賀県立大学の教え子たちが、京都と東京で、2度にわたって還暦を祝う会を開いてくれた(本誌200911月号に紹介記事)。これまでの業績リストもつくられ、否応なく、自らの軌跡を振り返る年となった。もっとも、ひとつの区切りは、2005年に京都から彦根へ拠点を移してきたときから意識していて、これまでの仕事をまとめる作業はこの間既に続けてきた。『近代世界システムと植民都市』(編著、京都大学学術出版会,2005年)『世界住居誌』(編著、昭和堂,2005年)『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』(京都大学学術出版会,2006年)“Stupa & Swastika”( Shuji Funo & M.M.Pant,  Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007)『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』(布野修司+山根周,京都大学学術出版会,2008年)に続いて、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』(布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、京都大学学術出版会、2010年)を上梓できた。今年『アジア都市建築史』(昭和堂,2003年)の中国語訳『亜州城市建築史』(胡恵琴・沈瑶訳、中国建築工業出版社、20103月)が出版されたが、今回、上海、天津、南京、杭州、主だった書店には全て並んでいて、なんとなくうれしくなった。『世界住居誌』の中国語訳も既に出ていると書店で聞いた。われながら、集中して仕事してきたと思う。

実は、この連載もその一環として考えてきたところがある。「現代建築家批評」そして「メディアの中の建築家たち」をうたいながら、いささか回顧的なトーンが漂ってきたのはそのせいである。しかし一方、若い建築家の動向にも注目してきた。滋賀県立大学には「談話室」という学生の自主組織があり、年に何回か、建築家を招いて講演会をしている。その内容は『雑口罵乱』(2007年創刊、年刊、現在3号まで刊行)にまとめられている。山田脩二、山本理顕、松山巌といった大御所も含まれるが、学生たちが関心をもつ若い建築家たちを招いて直接話を聞いてきた[i]。例えば、藤本壮介、ヨコミゾマコト、馬場正尊、佐藤淳、西沢立衛、芦澤竜一、森田一弥、坂口恭平、岡部友彦、藤村龍至、山崎亮といった、いずれも30歳台半ばから40歳代にかけての面々である。多くは、最早僕の教え子たちの世代と言っていい。還暦を祝ってくれた研究室出身の建築家としては、森田一弥の他、渡辺菊真、山本麻子、丹羽哲也、丹羽大介、吉村理、黒川賢一、松岡聡、柳沢究、魚谷繁礼、正岡みわ子、水谷俊博、北岡伸一などがいる。

メディア革命・・・1995以後 

藤村龍至(1976-)の「グーグル的建築家像を目指して-批判的工学主義の可能性」という講演は、若い世代の時代認識を伺う上で実に面白かった。『1995年以後次世代建築家の語る現代の都市と建築』(エクスナレッジ2009年)を編んで、同世代の建築家、研究者をオルガナイズする仕掛け人であり、批評家の資質をもった建築家だと思う。この4月から東洋大学講師ということで、32年前、同じように東洋大学に職を得て、育ててもらった僕としては、全く私的なシンパシーを抱いた。

藤村に拠れば、決定的なのは1995年である。携帯電話が一般化し出した年である。携帯電話の前身は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用したモトローラ製のウォーキー・ターキーWalkie Talkie、すなわちランシーバーである。大阪万博(1970年)にワイアレスホンが出展されていた記憶があるが、実用化されるのは1980年代である。そして、本体に液晶ディスプレイが搭載され、通信方式がアナログからデジタルに移行するのが1990年代半ばである。1995年以後の世代とは携帯で育った世代ということになる。

「グーグル的建築家像」というけれど、グーグルの原型となるバックリンクを分析する検索エンジンが開発されたのが19961月であり、普及は21世紀に入ってからのことである。まさに問題はこれからということだろう。紙を媒体とする建築メディアが力を失ってしまってきたことはこれまで繰り返し触れてきた通りである。今では即時に情報が飛び交う。ツィッターで、この講演、授業、講評会はつまらない、などとやられるのである。140字程度のつぶやきには思考の密度はない。大きな問題を孕んでいると思うけれど、マーケティングの分野、ネットワーキングの分野では武器になる。

ネットワーキング                  

何故、携帯の普及、グーグル検索の普及と建築が絡むのか。コミュニケーション手段の拡大によってコミュニティのあり方は決定的に変わる、ということである。山本理顕の提出した課題に藤村龍至が答えた「地域社会圏モデル-国家と個人のあいだを構想せよ」(INAX出版 2010年)は、その現時点の答えである。

山崎亮(1973-[ii]は、その武器を充分活用しつつあるように見えた。ランドスケープ・アーキテクトとして、「デザインからマネジメントへ」をうたうが、その仕事は様々な分野に広がる可能性がある。地方都市のデパートを再生したり、離島の村おこしを仕掛けたり、まったく正統なまちづくりのアプローチである。加えて、世界中に情報発信し、プロジェクトを起こすスケールをもっている。地域が、小さな企業や自治体が、機動力のあるコーディネーターを欲している。大手のコンサルタント会社や広告代理店、中央の天下り財団が幅を利かせる中で、穴がいくつも開いているのである。

藤村龍至もまた勇ましい。近い将来1000人の事務所にするという。思わず、その昔、石山修武が「ゼネコンをひとつぶっつぶす」といっていたことを思い出したが、その意気やよしである。若い世代も捨てたもんじゃない、のである。藤村の場合、もうひとつ「批判的工学主義」なる、いささか難解そうなキーワードを提示するのであるが、その設計プロセス論の展開に、C.アレグザンダーを思い出して、さらにシンパシーを覚えた。方法に立ち入る余裕はここではないが、着実に設計をまとめる手法の提示がある。CAD時代に、徹底して模型をつくるのもいい。ボトムアップには確実に繋がる手法である。

都市へ

石山修武と言えば、馬場正尊(1968-)[iii]、坂口恭平(1978-)は石山研究室の出身だという。馬場正尊は「都市を使う世代の建築家」、坂口恭平は「都市狩猟採集民の暮らし」をうたう。都市へアプローチするというのは、いずれも共通している。問題はどうアプローチするかである。

馬場正尊の場合、大手の広告代理店(博報堂)に就職した後、研究室に戻った経緯があり、編集者としての顔も持っていて、さらに、建築界のサッカー大会であるA-Cupの仕掛け人、マネージャーでもある。馬場正尊に会って、その昔サッカー少年であったころが刺激され、毎年、ACupに参加するのが楽しみとなった。宮本佳明、中村雄大、小泉雅生、五十嵐太郎、塚本由春、貝島桃代らに会えるのも楽しみであるが、何よりも身体を動かすのがいい。滋賀県立大学(フノーゲルズ)は2008年準優勝である。僕は2008年に続いて2009年もBOPBest Old Player)賞をもらった。参加するだけでいいらしい。

馬場正尊の多彩な活動のなかで、時代を確実に射抜いているのが「東京R不動産」である。不動産業といえばそれまでであるが、コンヴァージョン、リニューアルの時代に中古市場を新たな視点で掘り起こした意味は大きい。ここでもインターネット世界がその発想と事業を支えている。「都市を使う」という発想と個別の設計作業をどう統合していくかが課題となるであろう。ACupや「東京コレクション」がきっかけとなって研究室の石野啓太がオープン・エーに飛び込んだ(入れてもらった)。トップランナーということで朝日新聞の土曜日版に馬場正尊が取り上げられた写真の片隅に入社したばかりの石野君の姿を見出して研究室は大盛り上がりであった。時代は確実に動いていくのである。

坂口恭平は、まるで今和次郎のように、東京を歩く。そして、ホームレスやセルフ・ビルダーの不可思議な物件を発見して回って採集してきた。『バラック浄土』で著作デビューした師匠(石山)譲りである。自らの身体で自らの棲家を建てること、この「建てること、住まうこと、生きること」が同一である位相は、「世界内存在」としての原点であり、建築家の遺伝子として引き継がれていくのだと思う。坂口恭平の場合、採集狩猟したものを「アート」として表現するほうへ向かいつつあるように見える。その行き着く先をみたい。

 

「寄せ場」から

岡部友彦(1977-)の場合、都市の「寄せ場」、具体的には横浜・寿町に直接関わってきた。「コトづくりから始めるまちづくり」をうたうが、馬場はそうではないかもしれないけれど、坂口にしても、都市に建築家として関わるという構えは薄い。それはそれで真っ当である。この間、日本建築学会でも「コミュニティ・アーキテクト」の職能としての可能性を議論してきているが、岡部友彦の場合、既にそれを突破してしまっている。

大阪西成の「あいりん地区」でもそうだが、かつての「ドヤ街」は大きく様変わりしている。ビジネスホテル化してきたのはかなり以前からであるが、「サポーティブ・ハウス」など行政の施策展開とも関連しながら、新たな居住形態とサービスのかたちが、貧困ビジネスも含めて出現しつつあるのである。岡部友彦は、「ドヤ」を改装して、外人バックパッカーや一般の観光客にも部屋をホテルとして提供する事業が地区にのめり込むきっかけとなった。ここでもインターネットによる予約システムが大きな武器になっている。

岡部のプロジェクトは、コンビニで余る弁当などを入手する仕組みを構築、低価格で定食を提供する食堂を経営したり、選挙への投票呼びかけをイヴェント絡みで展開するなど、多彩である。

東洋大学時代の教え子たちが組織する「鯨の会」では、八巻秀房が中心になって、林泰代さんを顧問に「CA(コミュニティ・アーキテクト)研究会」を展開してきているが、多くの若い芽が育っていると思う。京都府宇治市の「ウトロ」地区の居住環境改善に取り組む寺川政司などもそうである。

「ウトロ」には、今年の5月これからのまちづくりを考えるシンポジウム[iv]に呼ばれて話す機会があった。そこで『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』を紹介しながら、「韓国の中の日本」について話した。するとまもなく、韓国から、この本で取り上げた日式住宅が建ち並ぶかつての日本人移住漁村・九龍浦の保存修景、街並み整備計画をめぐるシンポジウム[v]に招かれた。「日本の街並み整備とその諸問題」と題した基調講演の中で「ウトロ」(日本の中の韓国)に触れた。相互に共同作業が出来ないか、と両方で訴えた。アジアを股にかけた仕事がこれからは増えていくに違いない。

迫慶一郎(1970-)、松原弘典(1970-)は既に中国で大活躍である。この9月に滋賀県立大学の布野研究室で学位を取得した川井操(1980-)は迫さんを頼って中国デビューを目指しているところである。

 

マイノリティ・インターナショナル

 森田一弥(1971-)は、修士課程を終えて左官修行に入った。「大文」さんのところに弟子入りした竹村雅行(富嶽学園日本建築専門学校)など変り種が多い布野研究室でも筋金入りである。京都の「しっくい浅原」で、金閣寺, 妙心寺などの文化財建築物の修復工事にたずさわった後、設計を開始した。もちろん当初から建築家を志していたのであり、左官の年季明けには個展を開いている。この学年には、竹山聖研究室出身の平田晃久(1971-)や先に名を挙げた渡辺菊真、山本麻子など逸材が多い。伊東豊雄事務所を経て独立したことで、平田の方が名前が売れているのかもしれないけれど、森田も既に数々の賞[vi]を受賞して、海外からオープンデスクに来る学生がいるほどである。特に、大阪建築コンクールの渡辺節賞 (Shelf-Pod )を若くしての受賞したのは、その才能を多くが認めている証左である。

左官職人としての経験が大きく作用しているといえるだろう。「バードハウス」や「コンクリート・ポッド」などにそれがうかがえる。スペイン留学もあって、カタラン・ヴォールトに今興味があるという。

その森田は、「マイノリティ・インターナショナル」をうたう。いささか分かりにくいが、地域に蓄積された建築の知恵や技能の体系は、インターナショナルに確認し、共有できるのではないか、ということであろうか。工業化構法などによる、あるいは新技術による新奇な形態のみ追いかけるインターナショナリズムではなく、すなわち、グローバルな資本主義の展開に寄り沿うのではない、地域に根ざした、地(じ)の手法をマイノリティといいながら、積極的に押し出そうとするのである。

おそらく、そうした問題意識を共有するのが同級生である渡辺菊真である。その土嚢建築は世界を股にかけ始め、アフガニスタンからウガンダに及び始めている[vii]。ヨルダンでは石造建築を手掛けた。国内では「角館の町屋」があるが、どんな僻地であろうと飛んでいきそうな菊真であるが、高知を拠点に活動を開始し始めてもいる。これからの展開が楽しみである。

建築の自由

「談話室」が招いたアンダー50の中で、ヨコミゾマコト、西沢立衛は別格である。西沢立衛の場合、SANAAで妹島和世とともに建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞[viii]を受けたばかりである。プリツカー賞といえば、日本人としては、丹下健三、槇文彦、安藤忠雄につぐ4(5)人目である。第1回のフィリップ・ジョンソン(1979年)を筆頭にそうそうたるメンバーが並ぶ。大家の道を歩み始めたといえるだろう。「談話室」でのやりとりで、実に感性豊かで理論家肌じゃあないですね、と評したら、「建築設計資料集成」について修士論文を書いたんです、とむきになって反論したのが面白かった。吉武研究室の流れを汲む建築計画研究室の出身だという。まことに勝手にシンパシーを抱いた。確かに、「森山邸」はある型破りの「型」の提案である。この路線には期待したい。

ヨコミゾマコト(横溝真)には初めてだと思ったけれど、「いやあ、むかし一緒に飲みましたよ」といわれて驚いた。伊東豊雄事務所時代、伊東豊雄につれられて新宿の飲み屋でカラオケやっているときにたびたび居合わせたという。1988年から2000年まで伊東事務所にいて、2001年に独立、新富広美術館の国際コンペで勝って本格デビューということになるが、独立以降すぐに手掛けて、HEMFUN2002)、HAB2003年) 、TEMMEMMSH2004年)といった住宅、集合住宅の一連の作品を見せてもらった。ローコストの悪戦苦闘にスマートに答えを出すのがいい。1970年代初頭、安藤忠雄、伊東豊雄、山本理顕・・この連載でとりあげてきた建築家が全て、住宅から出発した頃を改めて思い出した。予算的にも敷地環境にも決して恵まれた条件にはないコンテクストにおいて創意工夫の回答を試みる、その姿勢に共感を覚えた。特に、鉄板を主架構に用いる一連の作品は一つの今日的チャレンジである。「単純な複雑さ」をねらうのだというが、単純でいいと思う。2009年、母校である東京藝術大学の准教授となった。大いなる飛躍を期待したいと思う。

「新しい座標系」を提示する藤本壮介は、最もオーソドックスな建築少年に思えた。とにかく建築が楽しくて仕方がない、といった雰囲気を全身かもし出すのがいい。アイディアを力づくでものにするんだという気迫がある。この連載でとりあげてきた建築家たちはみんな建築少年であった。どこまで建築少年でありうるかが勝負である。

安藤忠雄事務所の出身である芦澤竜一(1971-)は、さらに大胆に「建築の可能性」を追求しようとしている。東京の早稲田大学出身にも関わらず、関西の水があうのだろう。かつての「関西三奇人」を髣髴させるところがある。構造デザイナーとして期待される佐藤淳(1970-)は、任期付きというが東京大学に特任準教授となった。「構造は自由を失わない」と建築士法の改悪に敢然と異を唱える。実に頼もしい社会派でもある。

こうして見ると若い学生たちが話を聞きたいと思う建築家が、それぞれに魅力ある仕事をしていることは言わずもがなのことである。

ゲラをチェックする校正の段階で、編集担当の山崎泰寛さんが「石上純也氏に触れていらっしゃらなかったのですが、何か理由がおありでしたでしょうか。ご存知のとおり、妹島事務所出身の石上さんは、神奈川工科大学の工房をはじめ、展覧会で次々と問題作を発表しています。繊細で感覚的な作風だと言われがちですが、なかなか揺るぎない信念のもとに建築をつくっている方のようにも思います。また、9月にベネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞したのも、記憶に新しいところです。」とメールをくれた。以上にあげた建築家たちは、「談話室」という学生たちの集団が招いた僕が直接あった建築家たちだけである。それでも多士済々なのである。石上純也はもとより、世界の各地ですぐれた若い建築家たちが数多く魅力ある仕事を試みつつあるに違いないのである。

問題は、その仕事を厳しく育てていく批評であり、そのネットワークであり、そのメディアである。グローバルな視野と鋭い批評眼をもった若い世代の批評家、編集者も出現してもらわねば困る。


[i] 2005年以降のラインナップは以下のようである。

19回   鈴木 喜一 氏 (建築家):第20回   宮城 俊作 氏 (ランドスケープアーキテクト)『庭と風景のあいだ』:第21回   藤本 壮介 氏 (建築家)『新しい座標系』:第22回   山田 脩二 氏 (写真家)『この国の津々浦々、その景観の品格』風化する素材()の品格:第23回   ヨコミゾ マコト 氏 (建築家)『単純な複雑さ』:第24回   山本 理顕 氏 (建築家)『建築をつくることは未来をつくること』:第25回   馬場 正尊 氏 (編集者・建築家)『都市を使う世代の建築家』:第26回   佐藤 淳 氏 (構造家)『構造は自由を失わない』:第27回   中村 好文 氏 (建築家)『Architect at home』:第28回   西沢 立衛 氏 (建築家)『近作について』:第29回   芦澤 竜一 氏 (建築家)『建築の可能性』:第30回   飯田 善彦 氏 (建築家)『assemblage』:第31回   松山 巌 氏 (作家・評論家)『歩き、触れ、考えること』:第32回   森田 一弥 氏 (建築家・左官職人)『マイノリティー・インターナショナルな建築』:第33回   坂口 恭平 氏 (建築探検家・アーティスト)『都市狩猟採集民の暮らし』:第34    岡部 友彦 氏 (建築家)『コトづくりから始めるまちづくり』:第35    藤村 龍至 氏 (建築家)『グーグル的建築家像を目指して-批判的工学主義の可能性』:36    山崎 亮 氏 (ランドスケープアーキテクト)『デザインからマネジメントへ』

[ii] 1992 4 月 大阪府立大学農学部入学/1995 7 月 メルボルン工科大学環境デザイン学部留学(ランドスケープアーキテクチュア学科)/1997 3 月 大阪府立大学農学部卒業(緑地計画工学専攻)/1999 3 月 大阪府立大学大学院農学生命科学研究科修士課程修了(地域生態工学専攻):2006 4 月 東京大学大学院工学系研究科博士課程入学(都市工学専攻):1999 4 ()エス・イー・エヌ環境計画室入社:2005 4 studio-L 設立: 2006 8 ()studio-L 設立:株式会社studio-L 代表取締役、(財)ひょうご震災記念21 世紀研究機構主任研究員、京都造形芸術大学(2005 年-)・大阪工業技術専門学校:(2006 年-)・近畿大学(2007 年-)・京都市立芸術大学(2008 年-)・大阪工業大学(2009 年-)・武庫川女子大学(2009 年-)非常勤講師。技術士(建設部門:都市および地方計画)。一級造園施工管理技士。

[iii] 1968年佐賀県伊万里市に生まれる1994年早稲田大学大学院卒業()博報堂に入社(2001)1998年 「A」を光琳社出版より創刊2001年 早稲田大学大学院建築学部建築学科博士過程に復学同学科満期退学「R-project」を()スタート2002 BABA ATELIER Ltd.を設立(2003Open Aに改称)2002年 家具のデザイン工房(有)ワークショップウェアを沖縄市に設立著書1998年「A」(雑誌[A]編集部)2000R THE TRANSFORMERS R-book制作委員会

[iv]  2010523日、「新しい住環境整備へ!ウトロ調査事業の報告集会」早川和男、布野修司、中村尚司、寺川政司、厳明夫の5人のパネル、司会、斎藤正樹。

[v] 201079日、浦項市。「九龍浦学術セミナー」。

[vi] 2001タキロン国際デザインコンペ 2等(「SHELL-TER」)、JCDデザイン賞2001 新人賞(繭):2002日本建築士会連合会賞 奨励賞(繭):2003 JCDデザイン賞2003 入選(ラトナカフェ):2004日本建築士会連合会賞 奨励賞(ラトナカフェ):20052回コンクリートアートミュージアム 佳作(Concrete-Pod ):2006 JCDデザイン賞2006 銀賞(Concrete-Pod ):2006 AR AWARD 2006 (イギリス) 優秀賞(Concrete-Pod ):2008 INAXデザインコンテスト 入賞 (Shelf-Pod )2009大阪建築コンクール 渡辺節賞 (Shelf-Pod )

[vii] 2002年天理エコモデルセンタ-(奈良県天理市):2002年神戸アフガン交流公園施設 (兵庫県神戸市)2004年双極螺旋計画 (アフガニスタン)2005年角館の町家 (秋田県仙北市)2006年琵琶湖モデルファーム-転生の泥舟(滋賀県大津市)2007年~東アフリカエコビレッジ(ウガンダ共和国)2008年竹の子学園「ハッピーハウス」(広島県広島市)2009年イセゲロ村土嚢モデルドーム(ウガンダ共和国):2009年南シューナ研修施設(ヨルダン・ハシュミット王)2009年~ AFRIKANエコビレッジ(ウガンダ共和国)

[viii] プリツカー賞(The Pritzker Architecture Prize)とは、アメリカホテルチェーンハイアットホテルアンドリゾーツのオーナーであるプリツカー一族が運営するハイアット財団The Hyatt Foundation)から建築家に対して授与される賞である。