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2021年4月28日水曜日

「転輪聖王」の王都―東南アジア・曼荼羅都市の系譜, 玉井哲雄編:『アジアからみる日本都市史』,山川出版社,2013年3月

玉井哲雄編:『アジアからみる日本都市史』,布野修司:「転輪聖王」の王都ー曼荼羅都市の系譜,山川出版社,20133

「転輪聖王」の王都―東南アジア・曼荼羅都市の系譜

 布野修司


はじめに

 「転輪聖王(転輪王、輪王)」とは、古代インドの理想的帝王のことである。サンスクリット語で、チャクラヴァルティン Cakravartin、あるいはチャクラヴァルティラジャ Cakravartirajaという。

チャクラcakraとは、一般には、インドの神秘的身体論において、脊椎に沿っていくつかある生命エネルギーともいうべきものの集積所[1]をいうが、文字通りには「円」、「輪」、「円輪」を意味する。「輪宝」とも訳されるが、何故、理想的帝王が「チャクラ」によって表現されるかと言えば、ひととつには「円」が完全なかたちとみなされるからである。また、チャクラは、戦車の「車輪」あるいは「円盤」形の投擲武器と考えられ、「武」(強さ、機動性、征服、支配、優越)の象徴と考えられるからである。「転輪」すなわち「輪」を「転」がすことは、全世界を統治することを意味する。

「転輪聖王」は、しかし、実際に武器によって全世界を統治するのではない。武器として表現されるチャクラはあくまで象徴であって、統治の武器となるのは「法(ダルマDharma)」である。ダルマチャクラDharmacakraとは、「法(ダルマ)」を説くことを言い、「法輪」と漢訳される。「転輪」とは、すなわち「輪」を転がすように法を説くことをいう。ダルマすなわち法(法則、原理、規範)はチャクラ(円輪)で象徴されるのである[2]。仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈尊)の「初転法輪」(法輪の初回転)の地サールナート(鹿野園)にアショーカ王が建てた石柱の最上部にその早い例が見られる。

古代インドにおいては、「転輪聖王」が世に現れるときには、天のチャクラ(車輪)が出現し、王はそれを転がすことによって武力を用いずに、すなわち法という武器によって、全世界を平定すると、考えられた。「転輪聖王」は、七宝[3]を有し、三二相を備えているという。三二相と言えば釈尊であるが、その誕生に際し、出家すれば仏となり、俗世にあれば「転輪聖王」になるという予言を受けたという話はよく知られているところである。もっとも、歴史的にはこの転輪聖王は、釈尊より後の、マウリヤ朝以降の、インド統一帝国の帝王のイメージが投影されたものであろうと考えられている[4]

この「転輪聖王」の理念は、「ヒンドゥー(インド)世界」の拡大、ヒンドゥー教・仏教の伝播とともに各地に移植されていく。とりわけ、東南アジアにおいては、「転輪聖王」の概念は、デーヴァラージャdevarājas(神王)思想として受容れられていく。王は、信仰の擁護者でも神の代理者でも天の委託する統治者でもなく、「神聖さ」そのものの具現物であり、ラージャrajas(王)やマハーラージャMahārāja(大王)、ラージャディラージャrājadirāja(王中王)やデーヴァラージャ等々は全て「神聖顕現(ヒエロファニー)」であり、ストゥーパやマンダラのように神聖さを直接示す聖物である、と考えられた。そして「転輪聖王」を自認した数多くの王たちが出現している。

「転輪聖王」たちは、その名に相応しい王都を建設しようとする。本稿で焦点を当てるのは、この「転輪聖王」たちが建設してきた王都であり、その空間構造である。「転輪聖王」たちは、何故、巨大なモニュメントの建ち並ぶ都城を建設しようとしてきたのか、また、実際建設してきたのか。その空間構造は何を基にして建設されたのか、そして何を意味するのか。

都市は、基本的に、権力にとって支配のための空間的装置である。都市は、農業生産物の余剰を集積し、サービスを提供し、政治的管理を行うために、ある集団が他の集団を支配することによって生み出される。そして、権力者の意志と力、その支配の仕組みは都市の空間構造として表現される。権力と宗教をめぐっては、多面的重層的に論ずべきことは多いけれど、本稿では、東南アジアにおける「転輪聖王」の王都の系譜を明らかにし、いくつかの王都をとりあげて、その空間構造について考察することで、特集テーマについてなにがしかの貢献が果たせればと思う。

本稿と平行して『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容―』(京都大学学術出版会、二〇〇六年二月刊行予定)を執筆しつつある。そこでは、マドゥライ、ジャイプル、チャクラヌガラという三都市に焦点を当てて、ヒンドゥー都市の三類型を明らかにする構えを採っているが、本稿では、東南アジアの諸都市、とりわけミャンマーの王都に焦点を当てたい。最終的に焦点とするのはマンダレーである。アウランパヤー以下、コンバウン朝の王たちは「ビルマ世界」の実現を目指し、支配の正統性を主張するために、自ら「転輪聖王」であることを標榜した。マンダレーとは、「曼荼羅」のことである。

ミンドン王によってマンダレーが建設されたのは一九世紀も半ばのことである(一八五七年)。そして彼の死後、チボー王は英国に囚われ、コンバウン王朝は終息することになる(一八八五年)。

 

「転輪聖王」の末裔たち

 

アンコール

インドラプラIndrapura(ドンズオンDong Duong)で王位についたジャヤヴァルマンⅡ世は、やがてアンコール地方へ赴き、腰を落ち着ける。そして、「マヘンドラパルヴァタ」(プノン・クーレン丘陵)の頂で「チャクラヴァルティン(転輪聖王)」すなわちデーヴァラージャ=「神々の王」であることを宣言する。802年のことである。ジャヤヴァルマンⅡ世がアンコール朝を創始したこの年は、東南アジアに新たな王権(「神王」)思想が誕生した年として記憶される。

デーヴァラージャとは、クメール土着の「守護精霊の王の中の王」(カムラテン・ジャガット・タ・ラージャKamraten Jagat ta raja)のことであり[5]、また一方、ヒンドゥーの神々の王のことである。クメールの王たちは、自らの王権を正統化するために、もうひとつの分身を土着の王と一体化させ、さらにヒンドゥー的世界の体系で覆い、神秘の存在デーヴァラージャとなるのである。

ジャヤヴァルマンⅡ世は、即位するとまず大きなバライ(貯水池)の建設に着手し、ついで祖先を祭るプラサート[6]、さらに王自身のための寺院プラサート・ギリ(キーリー)[7]を建てた。とりわけ、プラサート・ギリは、ヒンドゥー教・仏教でいうメール山を象徴する王国の中心として重要視された。プラサート・ギリの中心には神々の王シヴァ神に賜ったリンガが置かれ、そこで王は即位の式を行い、デーヴァラージャとなる。各王のプラサートは王の死去とともに終わる。王の墳墓として用いられたからである。王都が変遷したのは一世一王都という観念があったからである。 これは後のタイの諸王朝にも引き継がれる。

実は、ジャヤヴァルマンⅡ世に先だって、地方に小国、属国が割拠する状況にあったカンボジアを統一したジャヤヴァルマンⅠ世も、「転輪聖王」として自らを権威づけようとしていた。ジャヤヴァルマンⅠ世は、「大地の主たちの主」と碑文に刻まれているのである。

クメールが支配した平原の各地にはプラ(サンスクリット碑文では「ナガラ」)と呼ばれる「城郭都市」があり、王都は三〇以上のプラを従えていたとされる。プラより小さな単位として「スルックsruk」があり、サンスクリット碑文では「グラーマ(村)」とされる。「プラ」「ナガラ」「グラーマ」は、もちろんインド起源の用語である。アンコールとは、サンスクリット語のナガラを語源とするクメール語で、都市(国家)を意味する。アンコール・トムのトムとは大きいという意味である。巨大な寺院やバライ、巨大水利網を建設したアンコール王朝は一大都市文明を築くことになる。

ジャヤヴァルマンⅡ世は、プノム・クレンを拠点としたが、ジャヤヴァルマンⅢ世(在位834877年)の後、インドラヴァルマンⅠ世(在位877889)が登位してロリュオスに首都ハリハラーラヤを建設する。王はタターカ(池)を造らせ、インドラタターカと命名する。続いて、ヤショヴァルマンⅠ世(在位889910年頃)が、アンコールの地に小高い丘プノム・バケンを中心に都城を建設する。王名にちなんで王都はヤショーダラプラと呼ばれた。以降、1432年の廃都まで「転輪聖王」たちの王都はアンコール地域に置かれる。プノム・クロム→ハリハラーラヤ→アンコール(ヤショーダラプラ、プノム・バケン)→コーケル→アンコール(ピミヤナカス)→アンコール(バプーオン)→アンコール・トム(バイヨン)というのが大きな都城と中心寺院の変遷である。アンコール・トムを中心とする都城の空間構造については、居住地空間の構成が必ずしも明らかにされておらず不明の点も少なくない。ここでは他に譲りたい[8]


 

ヌガラ 

東南アジア地域の「インド化」が開始されるのはおよそ紀元前後のこととされる。「インド化」とは、「インド世界」を成り立たせてきた原理、あるいはその文化が生んだ諸要素、具体的には、デーヴァラージャ(神王)思想、ヒンドゥー教・仏教の祭儀、プラーナ神話(ヒンドゥー教の聖典)、ダルマ・シャーストラ(ヒンドゥー教の法典)、サンスクリット語、さらに農業技術、建築技術・・・などが伝播し、受容されることをいうが、最初に「インド化」という概念を提出して東南アジアという地域と、その歴史に枠組みを与えたのはG.セデス(1886-1969)である[9]。「インド化」がはっきり表面化するのは45世紀頃[10]で、さらに7世紀から13世紀にかけて東南アジアは、インド文明とりわけヒンドゥー教によって席巻されることになる[11]。その中核となるのがデーヴァラージャすなわち「転輪聖王」である。

このG.セデスの「インド化」あるいは「インド化された国家」をめぐっては、C.ギアツの「劇場国家論」[12]O.W.ウォルタースの「マンダラ論」[13]、さらにS.J.タンバイヤの「銀河系政体論」[14]、矢野暢らの「小型家産国家論」[15]など、様々な議論がなされてきている[16]C.ギアツは、いくつかの留保をしながらも[17]、バリのヌガラという国家、政治体系の解明、そのモデル化が、①伝統的インドネシアにその名を知られた強大な国家―マタラム、マジャパヒト、シュリーヴィジャヤ、さらには②「東南アジアのインド的国家」全般―ビルマ、タイ、カンボジア、南ベトナム、マレー―の理解につながるという構えをとっている。

ヌガラnegara(ナガラ、ナガリnagari、ヌグリnegeri)はインドネシア語で、もともとの「町town」の他「宮殿palace」「都capital」「国家state」「王国realm」を意味する[18]。最も広くは、ヌガラは「文明」、都市文化と都市に中心を置く上部政治権威体系を意味する。ヌガラの反対がデサdesaである。同じようにサンスクリット語源であるが、「村落部countryside」「領域region」「村village」「場所place」、そして「従属dependency」、「統治地域governed area」を意味する。最も広い意味で、農村世界、「民衆」の世界を意味するのがデサである。インド的宇宙観の大陸からの移植という大きな脈絡において、このヌガラとデサという対比的世界の間に発達してきたのがバリの政治体系であり、それを「劇場国家」とC.ギアツは呼ぶのである。すなわち、支配、公権力、暴力の独占といった統治を目的とするのではなく、地位そして威厳、その秩序を表現する集団(国家)儀礼そのものを目的とするのが「劇場国家」(王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客)である。そこで「王宮=都」は、「超自然的秩序の小宇宙」であると同時に「政治秩序の有形的具現」である。「王宮=都」は、「国家の模範的中心」であり、宮廷の儀礼生活、そしてその生活全般が、単に社会秩序を反映するばかりでなく、その範例となる。宮廷生活が反映するのは超自然的秩序であり、人がそこに定められる地位に厳密に則ってその生を形づくるべき「神々の超時間的インド世界」である。

C.ギアツの場合、インドにおける諸制度の東南アジアへの直接の移植、あるいは伝搬という見方はとらない。東南アジアにおけるインドの影響は政治的経済的社会的であるより、圧倒的に宗教的美学的であったとして、「インド化indianized」という強い概念を避け、「インド的indic」あるいは「インド的となったindicized」という語を用いる。そして、バリ、そして東南アジアの王制をインドは異なるものとして位置づけた。バリ、そして東南アジアにおける王そのものが世界の神霊的中心である王制は、王自身が最高祭司であり、その儀礼活動の呪術的力によって王国が維持される古代官僚制国家(エジプト、中国、シュメール)の王制=王は本来の意味での宗教機能をもたず、王は僧侶、宰相を介して他界、人界(社会)に結びつけられるインドにおける王制とは区別されるのである。C.ギアツの「劇場国家」論においては、国家儀礼そのもの、演劇行為そのものが焦点であり、「王宮=都」のかたち、その空間構造は、あくまでその舞台、劇場の形式にすぎない。

  


 それでは何故、「転輪聖王」たちは巨大な王都を建設しようとするのか。専制権力の巨大なシステムが巨大なモニュメントを要求するのではなく、逆に支配のシステムが未成熟であるが故に巨大なモニュメントによって力を誇示し、人々を威圧するカリスマ的王が必要とされた、というのがここでのテーゼである。O.W.ウォルタースが説くのは弱く流動的な王権(マンダラ国家)像である。東南アジア社会について一般的に指摘されるが、双系制社会を基盤とすることによって社会的地位は血筋だけでは決まらず、家系、王の系譜は不安定とならざるを得ない。法制、官僚制、軍隊組織などは未整備であり、王の支配は基本的に一代限りで、その範囲もその力に応じて伸縮を繰り返す。アンコールの諸王の王位継承に血縁は極めて薄いとされる。例えば、ジャヤヴァルマンⅥ世(10801107年)は、ピマーイ地域にあったマヒーダラプラ王家の出身である。また、ヒンドゥー教、仏教の抗争は激しく、度々廃仏が行われた[19]。王都、王城の変遷は、王位継承、簒奪の歴史でもある。



そうした場合、王は自らの行動によってカリスマ性を示すことで支配の根拠を得るしかない。前王たちより優れたモニュメントをつくってみせること、他よりも大規模な寄進を行ない続けること、それが王である条件である。そして、さらに王に要求されるのが「神聖性」である。土着の神々や外来のヒンドゥー教の神格が王のカリスマに結びつけられる。東南アジアの歴史を振り返ると、一人の王を中心とする王権が浮き沈みするのを見ることが出来る。O.W.ウォルタースは、そうした王権のあり方をマンダラと呼ぶのである[20]

 マンダラ

クメールに移植された「転輪聖王」とその王都の系譜は、メコン河流域・カンボジア平原からチャオプラヤー河流域[21]、さらにエーヤーワディ河流域・ビルマ平原に及ぶが、13世紀半ば以降、東南アジアを席巻してきた「インド化」の流れ、「サンスクリット文化」は勢いを失う。代わって、支配的になるのは南方上座部仏教である。これを「シンハラ化」と呼んで「インド化」と区別する主張もある。しかし、上座部仏教も大きくはインド化の一環である。ただ、明らかに担い手の交代があり、一三世紀半ばからの一世紀をG.セデスは「タイ人の世紀」、タイ人の「大沸騰une grande effervescence」の世紀とする。

注目すべきは、この転換と、元(大元ウルス)の東南アジアへの侵攻が連動していることである。ユーラシア全体に及んだこの「モンゴル・インパクト」は、「世界史」を成立させることになるが、東南アジアもモンゴル・システムに巻き込まれることになる。単に、タイ人に主導権が移行したというにとどまらないのである。

まず、パガン王朝に服属してきたシャン族が自立し始め、一二一五年には上ビルマのモウガンに国を建て、一二二三年にはサルウィン上流のモネ(ムアン・ナイ)に建国する。そして、一二三八年にクメール西北辺境にいた首長がスコータイからクメール勢力を追い払い王位に就いたのがタイ人国家の創建とされる。シー・インサラティットと号した創建者の息子で第三代の王がラームカムヘーンで、一三世紀末までにヴィエンチャンからペグー(バゴー)までその支配域を拡げ、首都スコータイとともに北にシー・サッチャナーライ、南にカンペンペットの副都城を築いた。ラームカムヘーンは、スリランカからもたらされた南方上座部仏教を体系化する。スコータイは、タイ南部を支配していたシュリーヴィジャヤ(八~一二世紀)を追いやり、マレー半島全体を支配域とした。


 一方、中央タイでは、一二八〇年頃からロッブリがクメールの支配を逃れて独立する。さらに、北部ではランナータイが建国する。チェン・セン出身のマンラーイがまず一二六二年にチェンライに拠点を築くが、続いて一二九六年にランプーンのハリプンジャヤ王国を倒し、ランプーン近郊にチェンマイを建設した。チェンマイとは「新しい城」という意味である。



こうして一三世紀末のタイは、北部にランナータイ、中部にスコータイ、東部にロッブリがそれぞれ鼎立し、独自の後背地と積出港をもって三つの交易圏を押さえるかたちとなった。

スコータイは、ラームカムヘーンを継いだロ・タイ王の時代にその領土の大半を失う。それとともに建国されたのがアユタヤである。アユタヤは、一四三一年にクメール帝国を滅亡させ、東南アジア随一の都市に成長する。アユタヤ王国では、クメールから継承したデーヴァラージャ思想が王朝の基礎に置かれた。ウートン王(在位一三五〇~六九)からエカタート王(在位一七五八~六七)まで三四代、四〇〇年にわたって繁栄を謳歌したのであった。

C.カセートシリ[22]が明らかにするように、アユタヤ王国を基礎づけていたのは、新たに優勢となった上座部仏教のみではない。ヒンドゥー教、大乗仏教、精霊(ピー)信仰が混じり合い、デーヴァラージャ思想が引き継がれた。具体的に、トライローク王(一四四八~一四八八)は、インド的な統治原理を用いた。その詩的伝記ユアン・パイによれば、彼が多くのヴェーダ文献に通じていたことが明らかである。アユタヤという名称そのものがそもそも『ラーマーヤナ』に由来する「ラーマ王の統治する神の都アヨードヤ」である。アユタヤ王国の歴代の王が、続いて見る『アルタシャーストラ』を参考にしていたことはほぼ間違いないとされる。ただ、アユタヤの空間構造にはアマラプラやマンダレーのように理念型をそのままみることはできない。一世一王都、一プラサートという観念から王宮の位置は北へずれて行き、さらに東西軸が強調されるようになる。これを王権の世俗化と応地は見る[23]



そして、「転輪聖王」の末裔たちは、エーヤーワディ河中流域を最終の地としたように思われる。「ビルマ世界」構想を支えたのは、仏教の宇宙観である。アラウンパヤー(在位一七五二~六〇)、シンビューシン(在位一七六三~七六)、ボードーパヤー(在位一七八二~一八一九)の各王は、支配の正統性を主張するために、自ら「転輪聖王」であることを標榜した[24]

 その首都は「転輪聖王」の支配する宇宙の中心に位置するものでなければならなかった。アマラプラは、ボードーパヤー王によって一七八三年に建設されたが、王は、自らを「西方において傘さす大国の王すべてを支配する・・・日出ずる処の王」と称し、中国の皇帝を「東方において傘さす大国の王すべてを支配する朋友であり、黄金宮の主」と呼んで、ジャンブ・ドヴィーヴァ(贍部州)を二分する存在として位置づけていた。インド都城と中国都城の伝統がボードーパヤー王において交錯している。一八二三年にバジドーによってインワに王都が戻されるが、一八四一年に再び王都となる。そして、ミンドン・ミン王によってマンダレー遷都が決定され、一八六〇年に建設完了する。

 

曼荼羅都市

 

アルタシャーストラ

「転輪聖王」が理想とした都市とは、そもそも、どのようなものか。第一に手掛かりとなるのが、ヒンドゥーの理想都市のあり方を記した書物として、マウリヤ朝を創始したチャンドラグプタ王(紀元前三一七~二九三年頃)を助けた名宰相カウティリヤが書いたとされる『アルタシャーストラ(実利論)』である。

 『アルタシャーストラ』は、古来様々に文献に引用されてきたが、一般にその内容が利用可能となったのは、一九〇四年にヤシの葉に書かれた完全原稿が発見され、R.シャマシャストリによってサンスクリット原文(一九〇九年)と英訳[25](一九一五年)が出版されて以降である。その後、様々な注釈書やヒンディー語訳、ロシア語訳、ドイツ語訳などが出されるが、それらを集大成する形で英訳を行ったのがR.P.カングレー[26]である。日本語訳として上村勝彦訳[27]がある。また、近年、L.N.ランガラージャンによる新訳、新編纂書が出されている[28]

その全容について検討する余裕はここではない。『アルタシャーストラ』をもとに、古代インドの都城について述べた研究者は多数にのぼるが、その多くは単にその理念を解説するだけで、形態については具体的に語ることを避けてきた。そうした中で、まず形態復原の試案を提示したのが、W.カーク[29] であり 、P.V.ベグデ [30]であった。そうした中で、極めて説得力をもった復原案を示すのが応地利明[31]である。その復元の要点は省略せざるを得ないが図(図①)のようである。まず中央の核心に神殿(寺院)群があり、都城の要となる。それをとりまく内囲帯には王宮および最良の住宅地(市街)が所在する。さらにそれらを取囲む中囲帯には、主として長官の管轄下にある諸公的施設や官庫などの官衙群が集中する。そしてもっとも外縁の外囲帯には、性格を異にする二つの機能が集積している。一つは、各種の職人や商人の居住地いいかえればバーザールである。他の一つは、各四姓の棲み分け的な住宅地である。古代インドの都城は神殿(寺院)を核として、それをとりまく内→中→外の各囲帯がおのおの明瞭な機能分化を示しつつ配列する、という実に整然とした構造を示しているのである。


 

マーナサーラ

インドには、古来、二つの知ヴィドヤの体系があり、それは、形而上学パラ・ヴィドヤPara Vidyaと自然学アパラ・ヴィドヤからなる。後者の中に、絵画・彫刻から建築・都市計画までに及ぶ「シルパ(造形芸術)」を主題とする古代サンスクリット語の諸文献があり、それらは、シルパ・シャーストラと総称されている。

シルパ・シャーストラは工学の各分野を網羅するが、建築、都市計画に関わるものは、ヴァーストゥ・シャーストラと呼ばれる。「ヴァーストゥ」とは「居住」、「住宅」、「建築」を意味する。このヴァーストゥ・シャーストラには実に様々なものがある。誤解を恐れずに言えば、日本で言うと、『匠明』[32]に代表される、古来、棟梁が建築のノウハウを伝えてきたマニュアル、「木割書」のようなものである。インドでもスタパティとよばれる棟梁やスートラグラヒと呼ばれる測量士が活躍してきたが、その知識、技能、技術をまとめたものである。紀元後五世紀から六世紀には集大成されたとされるが、成立年代は確定しているわけではない。

R.ラーズ[33]は、『マーナサーラ』『マヤマタ』の他に『カーシャパ』、『ヴァイガーナサ』、『サカラディカーラ』、『ヴィスワカルミヤ』、『サナトクマーラ』、『サーラスワトヤム』、『パーンチャラトラム』を挙げている。『マーナサーラ』を英訳したP.K.アチャルヤ[34]によれば類書は約三〇〇にも及ぶ。他に注釈書があるものとして、『サマランガナストラダーラ[35]』、『アパラジタプルチャ[36]』がある。

数多くのヴァーストゥ・シャーストラの中で最もまとまっているのが『マーナサーラ』である[37]。『マーナサーラ』の全容についてもここで触れる余裕がない。よく知られるのは、8つの村落・都市類型であるが、決定的な解釈は示されていない。特に無視されているのは、都市の規模である。また、類型の相互関係がはっきりしていない。

最も詳細な記述がなされるナンディヤーヴァルタの空間構造は以下のようである。()内はA.K.アチャルヤによる章節番号である。

1. 村の敷地が正方形であれば、チャンディタ(マンドゥーカ)による。長方形であれば、パラマシャーイカかスタンディラによる(Ⅸ-166-169)。

2. チャンディタ(マンドゥーカ)の場合、中央の四区画はブラーフマンの区画で、その外周囲一二の区画はダイヴァカDaivaka、さらにその外周囲二〇の区画はマーヌシャMānusha、さらにその外周囲二八区画はパイーサチャの区域である(Ⅸ-170-174)。パラマシャーイカの場合、中央の九区画がブラーフマン、その外周囲一六区画がダイヴァカ、さらにその外周囲二四区画がマーヌシャ、さらにその外周囲三二区画がパイーサチャとなる(Ⅸ-174-177)。

3. スタンディラの場合、中央の一区画のみブラーフマンの領域で、以後、八区画、一六区画、二四区画が同様に割り当てられる(Ⅸ-178-180)。

以上から村落の空間構造は極めて明快である。すなわち、ブラーフマン(梵)の区画、ダイヴァ(神々)の区画、マーヌシャ(人間)の区画、パイーサチャ(鬼神)の区画という同心方角の構造を採り、各囲帯の区画数も明確に示されている。

また、街路パターンを見ると以下のようである。

4. パイーサチャの区画はナンディヤーヴァルタ(蛙)の形を採る(Ⅸ-181-182)。東の車道は北から南、南の道は東から西、西の道は南から北、北の道は西から東へ走る(Ⅸ-183-186)。二本の東西通りと二本の南北通りは一つの歩道を持ち、残りの二本は二つの歩道を持つ(Ⅸ-188-190)。パイーサチャには、二~七の道路がある(Ⅸ-220-221)。

5. 縦横にラトヤー[38](大通り、車道)が走る。このうち、一あるいは三、五、七のヴィーティー(大通り)は二つの歩道を持ち端部に発する(Ⅸ-192-195)。(ヴィーティーの代わりに)一ないし二、三、四、五のマルガ(小路)がつくられるが、マルガには歩道がない(Ⅸ-196)。マハー・マルガ(大路)は、ヴィーティー同様、石灰岩で舗装される(Ⅸ-197)。大通り、大路の間にはクシュードラ・マルガ(小道)が設けられる(Ⅸ-198)。ヴィーティーの幅は三~一二ダンダとする。マハー・マルガの幅はヴィーティーと同じか3/4とする。マルガの幅は、マハー・マルガの3/41/2とする(Ⅸ-199-208)。

街路パターンについて、パイーサチャ区画はナンディヤーヴァルタの形を採るというが、上述のように、具体的な形ははっきりしない。グリッド・パターンの街区で通常考えられるのは、大通りから路地が分岐するフィッシュボーン(魚の骨)の形であるが、果たしてどうか。もうひとつは街路パターンに関係しているとも考えられる。車道の方向の記述が特異であるが、R.ラーズ、P.V.ベグデらの図を参照しながら図示すると図のようである(図②)。

 



マドゥライ

 インドにおいて、「転輪聖王」が具体的に設計し建設した都市というと、実は、実際にはほとんどない。挙げるとすれば、南インドの寺院都市シュリーランガム、そしてマドゥライが数少ない都市である。理想の理念がそのまま実現されることはむしろ稀である。また、都市は生き物であって、時代の経過とともに大きく変容を遂げる。中国的都城の例ではあるが、長安にしても、平安京にしても、建設後まもなく、右京は廃れている。マドゥライにしても、実際には、大きな変容を遂げている。

 現在のマドゥライは、プラーカーラに囲われた長方形のミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院を中心として、方位軸にほぼ沿った矩形の街路(内から順にチッタレイ通り、アヴァニムーラ通り、マシ通り、ヴェリ通り)が四重に囲っており、寺院内に取り込まれた街路(アディ通り)を合わせると五重の同心方形の入れ子構造を形成している(図③)。一六八八年の地図は、なんらかの理念型の存在を暗示している。しかし、これらは完全な正方形ではなく、かなり歪んだ矩形である。

 中心に位置するミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院は[39]は二五七×二四〇mの長方形のプラーカーラ(外周壁)に囲まれ、東西南北には一面に彫刻が施されたゴープラ(楼門)が聳える。最大の南ゴープラの高さは四八mに達する。内部にはスンダレーシュワラ(シヴァの異名)とミーナクシー(シヴァの神妃)の聖室、それらを囲む内回廊、人造の金蓮池(ゴールデン・ロータス・タンク)、千本柱ホールなどがあり、それらは列柱の建ち並ぶ回廊によって結ばれる。プラーカーラにはそれぞれの門があり、スンダレーシュワラの門の東側にはプドゥー・マンダパ[40]が位置する。

マドゥライの町を造営したヴィシュヴァナサ・ナーヤカ(一五二九~一五六四)は、シルパ・シャーストラに基づいて都市計画を行ったと、J.S. スミス[41]V. バラスブラマニアン[42]もいう。プラーナも繰り返し記述するように、古来伝えられてきたシルパ・シャーストラを基にしたことは間違いないであろう。しかし、具体的に何を基にしたのかは明らかにされてはいない。V.バラスブラマニアンは、『マーナサーラ』に記される理想都市パターン「ラージャダーニ」を基にしてマドゥライは計画されたとするが、根拠を示しているわけではない。

マドゥライの空間構造を象徴的に示すのが都市祭礼における巡行路である。

巡行路は基本的に四つの同心方形状街路(アディ、チッタレイ、アヴァニムーラ、マシ)のどれかであり、祭礼によって異なる。寺院外の三つの同心方形状の街路に沿って右回りに巡行が行われる。その際、神々の御輿や山車は寺院の東正面の門からではなく、その南に位置する門から寺院の外へ出る。この門は寺院内にあるミーナクシーの聖室の正面に位置している。


チッタレイ祭りは、タミル暦の最初の月であるチッタレイ月(四、五月)に行われる最も盛大な祭礼である[43]。都市周辺から二五万人を越える巡礼者がマドゥライに殺到する。一二日間にわたって祭礼が行われるが、まず、毎日朝晩、御輿がマシ通りに沿って巡行する。一一日目にとり行われる山車の巡行は、一年の巡行の中で最も壮大で、ミーナクシーとスンダレーシュワラの像は巨大な山車に乗せられ、マシ通りを巡行する。

 アディ月の祭礼ではアディ通り、アヴァニ月の祭礼ではアヴァニムーラ通りで巡行が行われるが、チッタレイ祭りの巡行ルートはマシ通りである。逆にマシ祭りはチッタレイ通りで行われる。チッタレイ祭りは、ティルマライ・ナーヤカ統治時代以前はマシ月(二-三月)に行われていたが、ティルマライによってチッタレイ月(四-五月)に変更されたので、名前に矛盾が生じたとされる。チッタレイ月にはもともと、マドゥライの北東約二〇kmに位置する大規模なヴィシュヌ派の寺院アラガー・コイルにおいて、アラガー祭りが行われていた。シヴァ派の寺院であるミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院の最大の祭礼をヴィシュヌ派の祭礼と合体させることで、ティルマライは支配領域の統治の安定をはかったというのである。

 

マンダレー:最後の曼荼羅都市

エーヤーワディ河中流域を中心に栄えたピュー以降、ビルマ(ミャンマー)史は、統一王朝として、アノーヤターAnawrahta王によるパガン王朝(一〇四四~一二八七年)、バインナウンBayinnaung王によるハンサワディ=ペグー王朝(一二八七~一五三九年)、アラウンパヤーAlaungpaya王によるコンバウン王朝(一七五二~一八八五年)[44]の創始が大きな区切りとされている。加えて、インワ王朝(一三六四~一五二六年)、タウングー王朝(第1次一四八六~一五九九、第2次一五九七~一七五二年)が主だった王朝である。ビルマでは、パガン、タウングー、コンバウン朝をそれぞれ第1、第2、第3帝国と呼ぶことが多い。

しかし、こうした時代区分にも関わらず、そして非ビルマ系王朝も含めて、王権思想、それを支える制度的枠組みなどについて強調されるのは連続性である。R.H.テイラー[45]にしても、J.F.キャディ[46]にしても、英国統治以前は、「オールド・ビルマ」であり、「プレ・コロニアル・ビルマ」として一括するのみである。M.アウン・スウィン[47]は、ビルマの王権を支える古典的概念として三つの要素を挙げている。すなわち、人間としての王―ダルマラージャ、チャクラヴァルティン、神としての王―デーヴァラージャ、菩薩、釈迦、守護神(ナッNats)の要素を併せ持ち、それを統合するのがカリスマ=超人としての王-カルマラージャである。19世紀半ばのミンドン王のマハナンダ湖碑文に、「太陽王、臣民に憐憫の情を持ち、あらゆる王の義務を果たし、その王国はメール山のナガラに似ている。外国に宗教を広め、兄弟王の尊敬を集め、あらゆる犯罪と内戦を征圧する。まるでブッダのようである。」とある。「転輪聖王」の伝統は一貫するのである。そして、その王都の伝統も一貫しているように思える。

「オールド・ビルマ」において社会の基本的単位となっていたのはサンガ(仏教信徒集団)である。僧侶は人々の生活のあらゆる局面に関わり大きな影響力を持っていた。パゴダが村々に建設され、近接してキャウンkyaungと呼ばれる僧院が設置された。王都に居住した僧は一九世紀始めに二万人を超え、都市人口の約五分の一を占めた。ラングーンのシュエーダゴン寺院などは千人から千五百人が居住していたと伝えられる。このサンガの体制を維持することは、ビルマの諸王朝の存在理由であり続ける。それ故、パーリー語の文献、仏像、聖なる遺物をインドやシャムから獲得することは、戦争や外交の大きな目的となった。仏教(南方上座仏教)とサンガの体制は王権の基礎であり、王は仏教寺院とサンガの守護者であり続けるのである。

英国は、仏教の守護者として振る舞うのには結局失敗したといっていい。一九世紀初頭に英国支配地アラカン、テナッセリムで一八三〇年代に度重なる反乱が起こったのはそれ故にである。一八五二年の低地ビルマの併合、一八八六年のコンバウン朝の終焉に至る過程でも反乱が続発するが、その間に建設されたのがマンダレーである。

ここでの関心は王都のかたちである。得られる確実な資料はそう多くはないが、「オールド・ビルマ」の伝統の最後を王都として形象化させたのがアマラプラ、そしてマンダレーなのである。

 

 プレ・コロニアル・ビルマ:円形都市と方形都市

中国の史書に依れば、二世紀頃のエーヤーワディ(イラワジ)河流域には北にピュー(驃)、南にタン(撣)という国が存在した。ピューは一世紀頃から存在が確認されるが、七世紀以降はエーヤーワディ河流域一体を勢力圏においたと考えられている。ピューとフナンは五世紀以前から交易関係を持っていたことが知られている。また、ドヴァーラヴァティーは七世紀初めエーヤーワディ流域南部に勢力を伸ばしている。

ピューの遺跡として、シュリークシェートラ(タイェーキッタヤー、室利差咀羅、現プローム市)をはじめ、中央平原地帯のマインモー(マイミョー)、ベイタノ、ハリンジーなどが知られる。いずれも、円形もしくは楕円形の煉瓦造の城壁で囲われ、中心に王宮が置かれている。こうした遺跡からは共通にピュー文字碑文、ビーズ、銀貨、石製もしくはテラコッタ製の壺が出土している。また、主要な遺跡からは菩薩像、ヒンドゥー神像なども出土し、ヒンドゥー教、仏教が信仰されていたことが知られる。ピューの城郭都市の経済を支えたのは、塩田と低湿地群周辺での稲作であったと推定されている[48]

シュリークシェートラは東西経四km、南北経五km程で、ピューの都市遺構としては最大規模を誇る。ビルマの年代誌は、シュリークシェートラにはインドラ神などの神々によって須弥山の上に三二の門をもつ都市が建設されたと伝えており、遺構は、その宇宙観を象るかのように円形をしており、多くの門が確認されている。三二の門は三二の属領に対応するもので、三二人の封臣に囲まれて、その中心に王が住んでいたことを示唆する、という説がある。その他、ベイタノ(一~五世紀)、ハリンジー(三~九世紀)、マインモー(二世紀後半~六世紀末)などには、インドとの関係を窺わせるストゥーパなど建築遺構が残されている、例えば、ベイタノ遺跡には南インドのアーンドラ朝(c.紀元前.一世紀~紀元三世紀)の影響があるとされる。また、シュリークシェートラ遺跡にはアマラヴァティー地方、あるいはベンガル、オリッサ地方の影響がうかがえるパゴダが残されている。



ビルマ西北部、ベンガル湾沿岸に古くからのインド化国家ダニヤヴァティー(~六世紀)が知られる。ラカイン(アラカン)族の支配域で、ヴェサリ(四~九世紀)を拠点としていたと考えられている。ダニヤヴァティー、ヴェサリの遺構は王宮を中心に市街を丸く囲む形態をしている[49]。こうした初期の円形都市の系譜は、何故か、方形の都市の系譜へ転じていく。


九世紀から一〇世紀にかけて、ビルマ人がエーヤーワディ川流域に南下してくる。ビルマ語の南北を指す言葉が、南=山、北=川下を意味することから、ビルマ族の原郷は現在のミャンマーではないと考えられている[50]。山とはヒマラヤであり、北に揚子江あるいは黄河が流れている地域が母地と考えられる。中国史料が蕃夷という氏羌(ていきょう)族はチベット・ビルマ族系の諸民族とされる。黄土高原に居住していた氏羌族は、漢民族との抗争に敗れ、南下して七三〇年に統一国家「南詔」を建てる。この南詔がビルマ族の祖先に関係すると考えられている。

 南詔の圧政を逃れてきたビルマ族の最初の入植地はチャウセー、第二の入植地はミンブーとされる。彼らはカヤインと呼ばれる「四角い村」[51]を建設する。カヤインとは、単一首長のもとの地域、国を意味し、その中心には城壁都市を置いた。そして、ビルマ族がうちたてたのがパガン王朝(一一~一三世紀)である。ビルマの最初の統一王朝とされる。クメール、ジャワと並んで、パガンは、東南アジアにおけるヒンドゥー・仏教の三大中心となる。

現在のバガンに林立するパゴダ(ゼディ)からかつての繁栄を偲ぶことができるがその都城の形態は明らかでない。現在も王宮跡地の発掘が続けられている。残されている東の正門サラバル門は一〇九〇年頃の建造だという。城壁は、北が五〇〇m、東が一km、南が1一.一kmほど残っている。高さ二.四m、厚さ三.五mの城壁の外側には幅五〇mの濠が廻らされている。大きく湾曲しており、計画性はあまり感じられない。というより、歴史的に破壊、修復、補強を繰り返したと見るべきであろう。エーヤーワディ川に接する西側は流れの変化に応じて変化を被ったことが考えられる。

興味深いのは、東と南に三つの門、北に二門が残っていることである。西門はエーヤーワディ川に面し、しかも現状では西側城内は大きく欠損しているが、推定できるのは各辺三つづつ一二の門をもつ構成であったことである。王宮跡地もがほぼ中央に位置している。その理念を窺うためには、発掘成果を待たねばならないが、アマラプラ、マンダレーと同様の構成であった可能性が高い。



タウングー朝の王都

パガン朝がクビライ・カーンの大元ウルス軍に敗れて滅亡すると、中央平原地帯の各所にミョウと呼ばれる城市が成立し始める。このミョウの構造と機能は、同時代のメナム盆地のムアンに似ているという[52]。カヤインあるいはチャオプラヤー河流域・中央タイ段丘・コーラート高原に見られるウィエンとの関連も興味深い。ウィエンは、モン族の伝統とされるのである。ピュー族とともに、下ビルマにインド化以前から先住していたのがモン族(タライン族)である。タトーン(七~一〇世紀)、ペグー、ダゴン(ラングーン)などを拠点とするラーマンニャ・デーサなどモン人国家が成立していたことが中国史料やパーリー語年代記によって確認されている。

パガン朝の終末と平行して、エーヤーワディ下流域のモッタマ・ミョウに、スコータイ王の後ろ盾によってワーレルー王(一二八七~九六年)が政権を樹立する。王朝はチェンマイ、スコータイ、アヨードヤの脅威を受け続け、一三六九年に都をペグー(バゴー)に移す。伝説に依れば、ペグーの起源はハンサワティ(ハンターワディ)という町である[53]。白鳥が浅瀬の小さな土地に飛来したことに由来する。現在その地には、ヒンサゴン・パヤが建てられている。モン族が居住し始めた当初の町にはインドからの移住者が多く含まれており、この土地をウッサと呼んだという。彼らはオリッサと関係があったと考えられる[54]

後期モン王朝とも呼ばれるハンサワディ=ペグー王朝(一二八七~一五三九年)の間、ペグーは南ビルマを束ねたモン族の王都として栄えた。ラーザーディリ(一三八五~一四二三)、シンソープ (一四五三~七二)、ダンマゼーディー(一四七二~九二)などの諸王のもとで上座部仏教体制が確立されるのである。この時代の市壁がシュエモードー・パヤの東に残されている。

ペグーは、一五三九年にタビンシュエーディ王によってタウングー王国に服属させられ、再びビルマ族の支配下に置かれる。上ビルマをシャン人が支配する中で、スィッタン川上流域に勃興したのがタウングーで、ミンチーニョウ(在位一四八六~一五三一年)が王朝を建て、ダビンシュエーディがそれを継いだ。次の第三代バインナウン王が一五六六年に新都を建設し、ハンサワディと名づけた。この新都が極めて理念的に設計された王都として知られるペグーである。


ただ、このハンサワティの遺構は、古い濠を廻らした城壁の跡以外に現存しない。シュエモードー・パヤは古い伝承をもつが、歴代の統治者がシヴァシヴァ増拡を繰り返してきた。現在のものは一九五四年のものである。また、九九四年の創建という横臥仏(寝仏)シュウェタリャウング・ブッダが著名であるが、現存するのは一九〇六年建設である。しかし、近年発掘が行われつつあり、バインナウン王が建設した王宮の復元も行われた。下ビルマの歴史都市の中でも、明快な理念を確認できるのがバインナウン王によるハンサワディである(図④)。

一五世紀半ば以降、ペグーの地を多くの外国人が訪れ、記録を残しているが、一六世紀中葉(一五六七年)にペグーを訪れたヴェニスの商人カエサル・フレデリックは、バインナウン王の下で新しく建設された都市について次のように書いている[55]

「新しい都市には王宮と直臣、貴族などの居住地がある。私の滞在中に、彼らは新都市の建設を終えた。巨大な、極めて平らかな、正方形の都市である。城壁で囲われ、その回りに濠が廻らされていて、鰐が放たれている。橋はないが、各辺五つずつ計二〇の門がある。・・・街路は私の知る限り最も美しく、門と門の間を真っ直ぐに繋いでいる。一方の門の前に立てば他方が見渡せ、一〇人から一二人が並んで騎乗できるほど広い。・・・王宮は都市の中心にあって城壁で囲われ、さらに濠が廻らされている。」


以上から、新しく建設されたペグーは六×六の分割パターン、『マーナサーラ』にいうウグラピータを基礎にしていたことが明らかである[56]。また、もうひとつ考えられるのは、タウングーがモデルになっていたことである。タウングーは極めて整然とした矩形(正方形)をしている。分割のパターンは明確ではないが、東西南北に門を持つ形式(ダンダカ)である。タウングーの都市理念について、まず考えられるのは、「四角い村」カヤインの伝統である。そして、インド的な都城理念の影響である。

36区画から中央の王宮の四区画を引くと三二となる。この三二という数字、中央の1を足して三三という数字は、偶然ではない。上座部系仏教において、メール山(須弥山)の頂上に住むとされる神々が三三である[57](図⑤)。三三は、家臣や高官の定員数として、あるいは王国を構成する地方省の数としてしばしば登場する数である。ペグーがその宇宙観に基づいて首都を建設したのは明らかである。

バインナウン王の死後、王朝は衰退し、第四代ナレースエン(在位一五八一~九九年)の代で崩壊する。第一次タウングー朝は一世紀の命であった。新都は半世紀もたなかったことになる。一七四〇年にモン族が蜂起し、ペグーを再び首都とするが、一七五七年にアラウンパヤー王によって完全に破壊されてしまう。アラウンパヤー王は上ビルマの王となり、一八五二年の英国への服属までアヴァの支配下に置かれる。ボードーパヤー王(一七八二~一八一九年)によってある程度再建されるが、バゴー川の流れが変わり、港の機能を失うとともにペグーはかつての栄光を失うことになった。

タウングー朝の再興は、ニャウンヤン(在位一六〇四~〇六年)によってなされる。彼は古都インワに新たにミョウを建設し(一五九七年)、新都とする[58]。インワ(アヴァ)[59]は、もともとサガインを拠点としたシャン族によって築かれた都市であるが、一三六四年にビルマ族の王都となり、以降四〇〇年にわたって王都であり続けた。ただ、ここでも多くの攻防があり、棄都、遷都が繰り返されている。インワが最終的に放棄される大きなきっかけになったのは一八三八年の地震である。王都は大きく破壊され、一八四一年に遷都が決定されたのである。

インワは、北はエーヤーワディ河、東はミットゥゲ川によって区切られている。ミットゥゲ川はもともと人工の運河で、インワは運河に囲われた水都である。インワとはシャン語でインレイ「湖への入口」という意味である。物資の集散する要衝の地に位置し、雨期には船でしか行き来できない独立性の高い島となる。アユタヤに似ている(図⑥)。

かつてのインワは、現在では大半が耕地と化している。残された遺構もマハー・アウンミェー・ボンザン僧院と珠玉の木造僧院バガヤ・チャウンぐらいである。ただ、濠と城壁の跡は確認できる。興味深いのは、まず、各辺二門をもつグリッド・パターンをしていることである。東西が長い長方形をしているけれど、インワがバガン、トゥングー、ペグーの都市理念を引き継いでいることは明らかである。


また、城郭二重の構造が明確に窺えることも興味深い。北東の角に城塞が置かれ、その中央に王宮がある。そして、市街はジグザグの市壁と濠でさらに囲まれている。このジグザグの形態は、ビルマの他の都市には見られない。南北は対称になっており幾何学的である。市街といっても、水田ないし池、あるいは運河網である。基本的にインワは水利都市、水生都市であり、郭壁は水の制御のために設けられたものである。

第二次タウングー朝は、タールン王(在位一六二九~四八年)の死後衰退を始め、最終的にはペグーを拠点とするモン人勢力によって一七五二年に滅亡する。その年、モーソーボー(シュエボー)の首長であったアウンゼーヤがペグー軍を退け、自ら王であることを宣言、アラウンパヤーを名乗った。コンバウン朝(一七五二~一八八五年)の成立である[60]

 

アマラプラとマンダレー

 アウランパヤー以下、コンバウン朝の王たちは「ビルマ世界」の実現を目指した。「ビルマ世界」とは、地理的には、東はベトナム、西はインド、北はアッサム、南はスリランカに至る世界である。歴代の王はその世界の征服を目指して征服行動を繰り返した。

 「ビルマ世界」構想を支えたのは、仏教の宇宙観である。アラウンパヤー(在位一七五二~六〇)、シンビューシン(在位一七六三~七六)、ボードーパヤー(在位一七八二~一八一九)の各王は、支配の正統性を主張するために、自ら「転輪聖王」であることを標榜した[61]

 その首都は「転輪聖王」の支配する宇宙の中心に位置するものでなければならなかった。アマラプラは、ボードーパヤー王によって一七八三年に建設された。ボードーパヤーは、自らを「西方において傘さす大国の王すべてを支配する・・・日出ずる処の王」と称し、中国の皇帝を「東方において傘さす大国の王すべてを支配する朋友であり、黄金宮の主」と呼んで、ジャンブ・ドヴィーヴァ(贍部州)を二分する存在として位置づけていた[62]。序で述べたように、インド都城と中国都城の伝統がボードーパヤー王において交錯していると見ることができるだろう。

一八二三年にバジドーBagyidawによってインワに王都が戻されるが、一八四一年に再び王都となる。そして、ミンドン・ミン王によってマンダレー遷都が決定され、一八六〇年に建設が完了する。アマラプラの王宮の木造建造物はマンダレーに移築され、残っていない。アマラプラは「不死の都」という名にも関わらず短命であった。



 その都市形態は、残された地図に依れば、理念をそのまま具現するように、極めて整然としている(図⑦)。そして、そのことは王宮の北にあった寺院マ・パ・チェ・パヤMa Pa Khet Payaに残された地図(図⑧)からも確認される。各辺三門、大きくは四×四=一六のブロックに分割され、さらに各ブロックは三×三=九のナイン・スクエアに分割されている。従って、全体は一二×一二=一四四の区画からなる。これは、『マーナサーラ』にいうデシャと呼ばれる分割パターンである。中央の王宮は、そのうち、東西四×南北五=二〇区画を占めている。北東、南東、北西、南西の四隅にはそれぞれパゴダ(ツェディ)が置かれている。

 現在復元中のマ・パ・チェ・パヤに残された地図に依れば、王城内の居住の様子をある程度窺うことができる(図⑨)。

 四×四=一六ブロックを、東を上、北を左にして北東角を(11)、南東角を(14)、北西角を(41)、南西角を(44)のように示すと、パゴダは以上の4隅の他、(12)に一、(14)に二、(34)に一、計八つある。ミンドン王の邸宅は(24)、チボー王(王子)の邸宅は(43)にあった。女王の邸宅はは第一(43)、第二(41)、第三(34)の他、(32)(41)(43)合わせて七ある。西北に集中するのに対して、王子宅は(23)(24)(34)に集中している。

 王宮周辺には、高官が居住するが、外国からの賓客を応対する外務大臣は(31)、隣接して接待所が設けられていた。通訳はかなり多く、(13)に六人、(34)に四人など一三人確認できる。アマラプラは国際都市であった。タイの大使は(21)に居住していた。国王の行動を知らせる官房長官は(23)、他に法律家、休廷料理人、刑務所などが王宮周辺にあった。その他、占星術師・占い師(12)(13)、音楽師(14)、大工(12)なども城内に居住していた。

 上述のように、一四世紀にモン人の建てたハンサワディは三つの地方のそれぞれが三二のミョウに分けられていたが、コンバウン朝の王は政治的伝統として三二のミョウを意識していたという。現在、四隅のパゴダは残されているが、他の敷地の大半は軍隊が利用している。

 ミンドン・ミン王は、一八五三年に王位を継承すると、前首都アマラプラを棄て、一八五七年に新首都マンダレーの建設に着手する。五人の監督官が指名され、新都建設に伴って一五万人が移住したという(図⑩)。

 下ビルマへ英国の侵入を許した事態を前にして、新首都は新たな仏教世界のヴィジョンを表すものでなければならなかった。新たな世界は若い仏教徒である王によって築かれなければならなかった。マンダレーという名前は、上述のように「曼荼羅」に由来する。宇宙の中心に位置すべきなのがマンダレーである。

  しかし、マンダレーは束の間の「曼荼羅都市」であった。英国はマンダレーを占領(一八八六年)すると、宇宙の中心としての都市をダフェリン要塞に改造してしまう。要塞は、英軍司令部をはじめ、植民地政府関係の機関で占められ、住民は市の南部に移住させられた。英国は、その後、王宮、城塞、城門などを復元するが、第二次世界大戦の際、全ては破壊されたのであった。


 マンダレーの王宮博物館(図⑪)、またマンダレー博物館に残された地図は極めて明快である。城郭とも綺麗なグリッドによって構成されている。全体は大きく四×四=一六ブロックに分割され、さらに各ブロックが三×三=9(ナイン・スクエア)区画に分けられて一二×一二=一四四区画からなる(図⑫)のはアマラプラと同じである。しかし、最外周の中央に城壁が設けられているから、最外周の区画は半分の区画となり、中央は一〇×一〇=一〇〇区画となる。その内、中央の王宮が四×四=一六区画を占める。


形状、規模について、オコノールは、「完全な正方形で六,六六六フィート四方。城壁の高さは一八キュービット、五五五フィート毎に金色の尖塔をもつ監視塔が設置された。一二の門をもち、四つの主門は王宮の東西南北に置かれる。」と書いている[63]。また、アウン・ソーは、「城塞は正方形で各辺一〇ファロン[64]。城壁の高さは二五フィート。一二門が等間隔に配され、ピャタットと呼ばれる木造の塔が中間の小塔三二と合わせて四八ある。濠の幅は二二五フィート、深さは一一フィートである。五つの木造橋のうち、四つは東西南北の王道に繋がっている。」という[65]。さらに、ディダ・サラヤは[66]、「城壁は各辺二,二二五ヤード、それぞれ三つのポルティコを持ち、中央は正確に東西南北を向いている。市壁に沿って、八九ワwa(一七八m)毎に胸壁が設けられピャタットが建てられている。市壁は高さ二七フィート、厚さ一〇フィートである。銃丸は七フィートの高さに設けられている。濠は城壁から一三五フィート外側に、幅二五〇フィート、深さ一一フィートである。」という。

 各辺の長さ、六,六六六フィート、一〇ファロン、二,二二五ヤード[67]は微妙に異なる。一〇ファロンは二二〇〇ヤードだから五ヤード=四.五七二m違うが、二,二二五ヤードは六,六七五フィートであり、1フィートを三〇.四八cmとすると、ほぼ二km(二〇三一.八m~二〇三四.五)である。現在のマンダレー旧城内は軍が使用し、王宮以外は侵入地域となっていて実測ができない[68]。しかし、現行地図、航空写真から各辺がおよそ二kmであることは裏づけられる。問題は、計画の際にどういう単位を用いたかである。一〇ファロンというのは区切りがいいが、六,六六六フィートというのは少し不自然である。

現在ミャンマーで使われる寸法は、英国支配の歴史を受けて、ヤードである。伝統的にラマrama、ペイpei、ガイgaiが用いられてきたが、一二ラマ=一ペイ、三ペイ=一ガイで、市販されている物差しは一ガイ=九一五mmであるから、ヤード=三フィートとほぼ同じである。別に、タールtarという単位が用いられ、三〇〇タール=約一kmという。すなわち一タール=四ガイである[69]

以上を基に計画寸法を推定すると、以下のようになる。重要視したのは王宮博物館に残された模式図である。すなわち、最外周は1/2区画となっていることから、城壁内部の規模は一一×一一=一二一区画と考える。四×四=一六のブロックは六〇〇ガイ(一五〇タール)四方、各区画は二〇〇ガイ(五〇タール)四方とすると、各辺は二二〇〇(100gai200gai×10100gai2200gai)ガイとなる。街路幅は、航空写真および城外の実測から六〇ガイと推定できる。

 実に整然と区画されたマンダレーは、同じ分割システムを用いるアマラプラとは王宮の大きさが異なり、城壁の位置が異なる。計画図(図⑬)によると王宮は四×四=一六区画であり、王宮の規模の拡大(図⑭)を後のものとすれば、アマラプラの方がすっきりしているが、マンダレーも分割パターンとして不自然ということはない。一〇×一〇=一〇〇という街区数を優先したとも考えられる。また、中心のブラーフマン(梵)区画を、順に、ダイヴァ(神々)区画、マーヌシャ(人間)区画、パイーサチャ(鬼神)区画が取囲む、極めて明快な同心方格状の構成をとるヒンドゥー都城の構成は、王宮を三重の帯で取囲むマンダレーの方にみることができる。アマラプラとマンダレーの大きな違いは、マンダレーが王城を取囲む住区をさらに取囲む城郭をもつこと、すなわち城郭二重の構造を採ることであろう。


この最後の「転輪聖王」の王都は、わずか四半世紀住まわれただけである。英国軍は、自らへの贈り物のように、軍事拠点とするのである。居住者の分布を示す、マンダレーの王宮博物館とマンダレー博物館に残された二葉の地図はかなり異なっている。その居住実態を明らかにするのは、ミャンマー語に不案内なものには手に余る。歴史家の手が必要である。

 

おわりに

アンソニー・リードは、彼の言う、一五世紀末から一七世紀にかけての「交易の時代」に先立って東南アジア各地に存在した都市を諸文献を渉猟して列挙している[70]。一六世紀における主だった都市として挙げられるのは、アユタヤ、ペグー、マラッカ、パサイ、ブルネイ、デマ(ドゥマッ)、グレシクである。また、一八世紀について、以上に加えて挙げられるのが、タンロン、キムロン、フエ、プノンペン、パガン、パタニ、ジョホール、アチェ、バントゥン、マタラム、スマラン、ジュパラ、トゥバン、スラバヤ、マカッサルなどである。都市の規模については信頼性の薄い出典も多いが、一六世紀にはタンロン、ペグー、そしてアユタヤが一〇万人規模の都市であったとされる。そして、マタラムも含めて一八世紀中葉にはそれぞれ一五万から二〇万人に達したと考えられている。

内陸の都市であれ港市都市であれ、こうした東南アジアの都市の構造は基本的に同じであり、宇宙の構造を映すべく建設されたものだとA.リードはいう。アマラプラ、マンダレーは、こうした「宇宙の構造を映すべく建設された都市」の末裔である。

 「交易の時代」以降、全く新たに都市が生まれてくる。「西欧列強」による植民都市である[71]。交易の拠点となったアジアの港市がその核となるが、都市構成の原理は以前とは大きく異なる。世界都市史という大きな視点で見ると、攻城法の変化、すなわち大砲など火器の誕生によって、一五世紀から一七世紀にかけて都市計画のあり方は大きく転換するが、アジア各地に建設された植民都市はまさにその新たな都市計画技術(築城術)に基づいて建設されるのである。

一八世紀末以降の産業革命は、さらに都市のあり方をさらに決定的に変える。具体的に蒸気船は大規模な港湾を必要とし、蒸気機関車による鉄道の敷設は都市の規模を飛躍的に拡大させると同時にその構造を大きく転換させた。一九世紀末には、世界各地で「近代都市」が誕生しつつあった。マンダレーが建設されたのはその頃のことである。

マンダレーを生んだビルマ(ミャンマー)のその後については、J.F.キャディやR.H.テイラーに譲りたい。都市計画史についての情報は現在のところほとんどない。今日の東南アジアにマハティールの新首都プトラ・ジャヤ計画、スハルトのジャカルタ計画など開発独裁あるいは突出したカリスマ的指導者による都市計画を見ることができるが、全世界を支配するのは「近代都市計画」の論理であり、実際に都市を動かしているのはスペキュレーションの論理である[72]



[1] タントラtantra文献によれば、普通チャクラは身体に六つある。下から、ムーラーダーラ・チャクラ mūlādhāracakra(会陰、四弁蓮華の形)、スバーディシュターナ・チャクラ svādhişţhānacakra(臍、六弁の蓮華の形)、マニプール・チャクラ maņipūrcakra(臍上、十弁蓮華の形)、アナーハタ・チャクラanāhatacakra(心臓、十二弁蓮華の形)、ビシュッダ・チャクラ viśuddhacakra(喉、十六弁蓮華の形)、アージュニャー・チャクラ ajńācakra (眉間、二弁蓮華の形)である。また、一般にさらに2つのチャクラが加えられる。ひとつは、サハスラーラ・チャクラsahasr´racakra(頭頂、千弁蓮華の形)で、シヴァŚiva神の居処であるとされる。もうひとつは、ムーラーダーラ・チャクラの直下にあり、三角形をしたアグニ・チャクラ agnicakraで、ここには、シヴァ神妃と同一視されるシャクティśakti(性力)が三重半のとぐろを巻いたクンダリニー kuņďalinīという名の蛇の形をして住まっているという。人がヨーガを行い、息を止めると、体内に生命エネルギーが充満し、これがクンダリニー(性力)を目覚めさせ、脊椎を貫通している管の中を、チャクラを中継点としながら上昇させることができる。クンダリニーがついにサハスラーラ・チャクラに至ると、これは宇宙の根本原理であるシヴァ神と合一したことになる。このとき人は、宇宙を主宰する力をそなえ、解脱を達成するという。

[2] ヒンドゥー教では、チャクラはヴィシュヌの持ち物とされる。

[3] 七宝は、仏教では文字通り七つの宝をいう。『法華経』では、金、銀、瑠璃、勝小、瑪瑙、真珠、侍瑰、『大無量寿経』では、金、銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、勝小、瑪瑙、『阿弥陀経』では、金、銀、瑠璃、玻惹、勝小、赤珠、瑪瑙をあげる。転輪聖王がもつとされる七宝は、別の伝承であり、金輪(こんりん)宝、白象(びやくぞう)宝、紺馬(こんめ)宝、神珠宝、玉女(ぎよくによ)宝、居士(こじ)(大蔵大臣)、主兵(しゆびよう)(元帥)の七つをいう。

[3] 石澤良昭、「アンコール=クメール時代(九-十三世紀)」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(1015世紀)」、岩波書店、2001年)

[4] 『平凡社大百科事典』「転輪聖王」(岩松浅夫)

[5] 石澤良昭、「アンコール=クメール時代(九-十三世紀)」、岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(1015世紀)」、岩波書店、2001

[6] タイ語では塔状の屋根をもつ壮麗な宮殿や神殿をいう。サンスクリットのプラサーダ(寺院)が語源。

[7] ギリは、サンスクリットで山の意。キーリーはタイ語。

[8] 応地利明、「アジアの都城とコスモロジー」、『アジア都市建築史』、布野修司編、昭和堂、2003年。応地利明、「南アジアの都城思想-理念と形態」、板垣雄三・後藤明編、『イスラームの都市性』、日本学術振興会、1993年。

[9] George Coedés“Les états hindouisés d’Indochine et Indonésie” Paris 19481964 1968.“The Indianized States of Southeast Asia” East-West Center Press Honolulu 1968

[10]  G.セデスは「第二次インド化」という。

[11] 「インド化」以前の東南アジアには、水田稲作、牛・水牛の飼育、ドンソンDong-son青銅器文化、鉄の使用、精霊崇拝、祖先信仰・・・など、ある共通の基層文化が存在していた。G.セデスは、それを「先アーリヤ文化」と呼ぶ。

[12] C.ギアツ、『ヌガラ 19世紀バリの劇場国家』、小泉潤二訳、みすず書房、1989年。Clifford Geertz“NEGARA The Theatre State in Nineteenth-Century Bali” Prinston University Press New Jersey 1980

[13] Wolters O.W.“History Culture and Region in Southeast Asian Perspectives” Singapore Institute of Southeast Asian Studies 1982 Revised ed. Cornell University Southeast Asia Program Ithaca 1999.

[14] Tambiah S.J.“World Conqueror and World Renouncer” Cambridge University Press 1976

[15] 矢野暢、『東南アジア世界の論理』、中央公論社、1980

[16] 桃木至朗、『歴史世界としての東南アジア』、山川出版社、1996

[17] バリは「博物館」であり、先植民地時代の内インドネシアの文化が無疵で保存されているというのは誤りであり、バリで見いだされるものが存在していたことはジャワや東南アジアの他の地域でそれぞれ証明されるべきであること、またさらに、バリとジャワ東部とでは生態学的に異なっており、地域差を考慮すべきこと、すなわち、バリのヌガラ・モデルは、当然、時間的、空間的修正が施されるべきであることを「序章」で述べている。

[18]  Gonda J.“Sanskrit in Indonesia”Nagar (India) 1952 2nd ed. New Delhi 1973. Juynboll H.H.“Oudjavaansch-Nederlandsche Woordenlijst” Leiden 1923.

[19] 2001年に石澤良昭ら上智大グループはバンテアイ・クデイ遺跡から大量の廃仏像を発掘した。

[20] 20世紀後半の東南アジア史研究を集大成する形で日本で編まれた『岩波講座 東南アジア史』には、このO.M.ウォルタースの「マンダラ論」の大きな影響を見ることが出来る。

[21] ヤショヴァルマンⅠ世(在位889910年頃)当時のクメール族の居住地域は、北は現タイのコーラート高原のムーン川流域から、南はメコン河デルタ地帯までの範囲であった。さらに、11世紀にはチャオプラヤー河流域のロッブリまで伸張し、12世紀には同流域をさらに北漸してスコータイまでを属領とするに至っている。

[22] Charnvit Kasetsiri、 “The Rise of Ayudhaya A History of Siam in the Fourteenth and aafifteenth Centuries”、Oxford University Press 1976

[23] 応地利明前掲論文。

[24] 渡辺佳成、「ボードーパヤー王の対外政策nituite―ビルマ・コンバウン朝の王権をめぐる一考察―」、『東洋史研究』第463号、1987年。

[25] Shamasastry R.“Arthasastra of Kautilya” University of Mysore Oriental Library Publications 1915.

[26] Kangle R.P.“The Kautilia Artaśāstra”Part 1 Sanskrit Text with a Glossary Part 2 An English Translation with Critical and Explanatory Notes Part3 A Study Bombay University 1965. Reprint Delhi Motilal Banarsidass Publisher 1986 1988 1992.

[27] カウティリヤ、『実利論』上下、上村勝彦訳、岩波文庫、1984年。上村訳は、適宜、R.P.カングレー訳を参照している。

[28] . Rangarajan L.N.“Kautilya The Arthashastra” Edited Rearranged Translated and Introduced Penguin Books India 1992.

[29] Kirk K.‘Town and country planning in ancient India according to Kautilya's Arthasastra’ Scottish Geographical Magazine 94 1978

[30] BegdeP. V.“ Ancient and Medieval Town Planning in India”Sagar Publications New Delhi 1978

[31] 応地利明、前掲論文。

[32] 江戸幕府作事方大棟梁の平内(へいのうち)家に伝来した木割書。1608(慶長13)秋の平内政信の署名、10年初春の政信の父吉政の署名があり、成立は江戸初期とされる。現存するのは写本で、東京大学(元禄頃)、東京都立中央図書館(1898)、小林家(1846)などが所有する。門記集()、社記集(鳥居、神社本殿、玉垣、拝殿等)、塔記集(塔と九輪)、堂記集(寺院の本堂、鐘楼、方丈等)、殿屋集(主殿、塀重門、能舞台等)5巻からなる。

[33] Rāz Rām”Essay on the Architecture of the Hindūs”、 John William Parker London 1834.

[34] AcharyaP.K. “Architecture of Manasara” Oxford University Press 1934.

[35] Agrawala V.S. (ed.)“Samaranganasutradhara of Maharajadhiraja Bhoja” Baroda 1966

[36] Mankad P.A.“Aparajitaprccha of Bhuvandeva” Baroda 1950

[37] 「マナ mana」は「寸法 Measurement」また「サラ sara」は「基準 essence」を意味し「マーナサーラ 」とは「寸法の基準 Essence of Measurement」を意味するという。また、建築家の名前だという説もある。成立年代は諸説あるが、P.K.アチャルヤ 6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものだとする。

[38] ラタratha(山車)の走る道という意味である。

[39] ミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院の物理的構成に関しては、以下の文献をもとにしている。神谷武夫、『インド建築案内』、TOTO出版、1996。佐藤正彦、『南インドの建築入門 ラーメーシュワーラムからエレファンタまで』、彰国社、1996。ジョージ・ミッチェル著、神谷武夫訳、『ヒンドゥー教の建築 ヒンドゥー寺院の意味と形態』、鹿島出版会、1993Das R.K. “Temples of Tamilnad” Bhavan’s Book University 2001Jeyechandrun A.V. “The Madurai Temple Complex” Madurai Kamaraj University 1985Michell G. (ed.) “Temple Towns of Tamil Nadu” Marg Publications 1993

[40] ヒンドゥー寺院の聖室の前にある拝堂、ホール。

[41] Smith J. S. “Madurai India: The Architecture of a City” Massachusetts Institute of Technology 1976 p.50

[42] Balasubramanian V. “Transformation of Residential Areas in Core City-Madurai” School of Planning & Architecture New Delhi 1997 p.17

[43] チッタレイ祭りの内容については、Michell G. (ed.) “Temple Towns of Tamil Nadu” Marg Publications 1993に詳しい。

[44] 歴代の王は以下のようである。Alaungpaya1752-1760Naungdawgyi 1760-1763Hsinbyushin 1763-1776Singu Min 1776-1782Bodawpaya 1782-1819 (マラプラ遷都建設1783)、Bagyidaw 1819-1837(インワ復都1823)、Tharawadddy Min 1837-1846Pagan Min 1846-1853Mindon Min 1853-1878 マンダレー遷都建設1857Thibaw Min 1878-1885

[44] Gutman Pamela“Burma’s Lost Kingdoms Splendours of Arakan” Orchid Press 2001

[45] Taylor Robert H.“The State in Burma” University of Hawaii Press 1987

[46] Cady John F.“A History of Modern Burma” Cornell University Press 1958

[47] Aung-Thwin Michael‘Divinity Spirit and Human: Conceptions of Classical Burmese Kingship’ in Gesick Lorraine(ed.)“Centers Symbols and Hierarchies: Essays on the Classical States of Southeast Asia” Yale University South-East Asian Studies Monograph No.26 1988

[48] 伊東利勝、「綿布と旭日銀貨ピュー、ドゥヴァーラヴァティー、扶南」『岩波講座 東南アジア史』1「原史東南アジア世界」、岩波書店、2001

[49] Gutman Pamela“Burma’s Lost Kingdoms Splendours of Arakan” Orchid Press 2001

[50] 大野徹、「パガンの歴史」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(1015世紀)」、岩波書店、2001年)。以下のパガンの歴史についての記述は、この大野論文に多くを負っている

[51] もちろん、「四角い村」のみではないが、極めて整然と計画されるのが特徴である。

[52] 伊東利勝、「エーヤーワディ流域における南伝上座部仏教体制の確立」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(1015世紀)」、岩波書店、2001年)。

[53] 以下の歴史的叙述は、主として、Aung Thaw “Historical Site in Burma”、 The Ministry of Union Culture Government of the Union of Burma Sarpay Beikman Press1972 による。

[54] オリッサと東南アジア、西アジアを含めた海外交渉については以下が詳しい。Patnalk Ashtosh Prasad “The Early Voyagers of the East The Rise in Maritime Trade of the Kalingas in Ancient India”Vol I II Pratibha Prakashan Delhi 2033

[55]  V.C. Scott O’Connor “Mandalay and Other Cities of the Past in Burma” 1987.原著は1907年に出版されたものである。

[56] Kanbawzathadi王宮博物館の復元図によると各辺5門が均等に配置されていない。また、王宮の規模が極めて巨大である。具体的な都市設計については、さらなる発掘の成果を待つ必要がある。

[57] 定方晟、『インド宇宙誌』、春秋社、1985年。定方晟、『須弥山と極楽』、講談社新書、1992年。

[58]  ニャウンヤン朝とも呼ばれる第2次タウングー朝(復興タウングー朝)の歴史は、奥平龍二、「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」(岩波講座『東南アジア史』3「東南アジア近世の成立(1517世紀)」、岩波書店、2001年)がもとめている。

[59] 外部に対してはアヴァとして知られていた。パーリ語ではラトナプラRatnapuraと呼ばれ、ヤダナボンYadanabonと発音される。「宝石の町」という意味である。

[60] 岩城高広、「コンバウン朝の成立「ビルマ国家」の外延と内実」(岩波講座『東南アジア史』3「東南アジア近世の成立(1517世紀)」、岩波書店、2001年)。

[61] 渡辺佳成、「ボードーパヤー王の対外政策についてビルマ・コンバウン朝の王権をめぐる一考察」、『東洋史研究』第463号、1987年。

[62] 渡辺佳成、「コンバウン朝ビルマと「近代」世界」『岩波講座 東南アジア史』5「東南アジア世界の再編」、岩波書店、2001年~2003

[63] OCorner1986ibid.

[64] furlong1ファロン(ハロン)=220ヤードyards1/8マイル=201.17m

[65] Historical Sites in Burma

[66] Saraya, Dhida, “Mandalay The Capital City, The Center of the Universe”, Viriyah Business Co. Ltd., 1995

[67] 1ヤードyard3 ft. 0.9144 m;

[68] マンダレー旧王城の濠の外側については実測が可能である

[69] ディダ・サラヤの記述に見られるワという単位は、タイでも用いられるが、1wa2mとされている。

[70] Anthony Reid “Southeast Asia in the Age of Commerce 1450-1680 Volume Two: Expansion and Crisis” Yale University Press 1993. アンソニー・リード、『大航海時代の東南アジアⅡ 拡張と危機』、平野秀秋・田中優子訳、法政大学出版会、2002年。

[71] 布野修司編、『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会,20052月刊

[72] Shuji Funo: Tokyo: Paradise of Speculators and Builders Peter J.M. Nas(ed.), “Directors of Urban Change in Asia ”, Routledge Advances in Asia-Pacific Studies, Routledge, 2005

2021年4月27日火曜日

一期一会 カンポンの世界ージョハン・シラスと仲間たちー,都市計画,日本都市計画学会,201101 

 『都市計画』 201104 まちづくり一期一会

 カンポンの世界―ジョハン・シラスと仲間たち―


 布野修司

 アジアを歩き始めて30年になる。19791月,初めてジャカルタの地を踏み、すぐさまコタのグロドック地区を歩き回って「カンポンの世界」と出会った。カンポンkampungとはインドネシア(マレーシア)語で「ムラ」を意味する。「カンポンガン」とは「イナカモン」のことである。都市なのにカンポン(ムラ)という。このカンポンについて学位論文(『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学),1987  日本建築学会賞受賞(1991))を書き、『カンポンの世界』(パルコ出版,1991年)を上梓することになる。

最初のアジアへの旅で、資料を求めてバンドンの建築研究所のD.スミンタルジャを尋ね、偶然研究室に来ていたスラバヤ工科大学(ITS)のジョハン・シラスに会った。痩せてガリガリで、眼はするどく、ビビッと来るものがあった。運命の出会いになった。後年、同じような体形であった僕はまるで兄弟のようだ言われるようになる。

 東洋大学の研究プロジェクト「東南アジアの居住問題に関する理論的実証的研究」の初年度のことであったが、1982年、シラスのホーム・グラウンドであるスラバヤを一人で訪ねた。カンポンを自ら運転する車で案内してもらったが、発展途上国の住宅問題の深刻さ、それに対して自分がどう戦っているかを熱く語るのに心底感動を覚えたことを今でも鮮明に覚えている。以降、スラバヤには毎年のように通うことになった。スラバヤは僕にとって第二の故郷である。

 京都大学に異動して、まず赴いたのもスラバヤである。シラスの若い仲間たちの交流は常に刺激的である。スラバヤでの調査活動は、カンポン・ススン(積層カンポン)と呼ばれる集合住宅モデル(インドネシア版コレクティブハウス)の建設につながり、実験住宅「スラバヤ・エコハウス」の建設(1998年)に結びついた。京都大学に客員教授として1年招いたり、ライデン大学の国際会議で会ったり、尊敬する先輩との交流は今日まで途切れることなく続いている。

 この間、シラスはインドネシアの人間居住(ヒューマン・セトゥルメント)、ハウジングの分野の第一人者として活躍してきた。インド洋大津波の際には復興住宅供給の陣頭指揮をとった。スラバヤ工科大学は定年退職ということであるが、まだまだ第一線で活躍中である。

 






布野修司(Shuji Funo

1949年島根県生まれ。東京大学助手,東洋大学助教授,京都大学助教授を経て,2005年より滋賀県立大学環境科学部教授。日本建築学会賞論文賞(1991)、日本都市計画学会論文賞(2006年)。『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』(共著、京都大学学術出版会、2010)他。

 


 

2021年4月26日月曜日

2021年4月24日土曜日

小さな家ー「12坪の家」と「バラック」と「51C」,『吉田謙吉と12坪の家 劇的空間の秘密』

小さな家ー「12坪の家」と「バラック」と「51C」,『吉田謙吉と12坪の家 劇的空間の秘密』



小さな家-「12坪の家」と「51C

                                 布野修司

 

 内蒙古張家口で敗戦を迎えた平野謙吉が引き揚げて住んだのは江ノ電の廃車(鎌倉七里ヶ浜)である(19463月末)。3年ほど過ごした後、港区飯倉町に建てた新居が「12坪の家」である。『婦人公論』(19486月号)に「小ステージのある12坪のぼくの家」として発表し、『生活ノート』(生活科学化協会、19512月)には「新しい住まいの夢」として紹介される。今和次郎が「愉快な家」と評した家は、実に楽しそうだ。そもそも住宅にステージがあるのがユニークである。山羊のアリスとも暮らすことになる家でもある。

 

 幾間かと聞かれても答えられない、壁が二重線で描かれた間取りは何処に窓や扉があるかさっぱりわからないのである。しかし、ホールや台所、仕事場兼ステージ、寝室兼家事室の透視図は実に活き活きと空間をイメージさせる。築地小劇場の第1回講演「海戦」の舞台装置以降、舞台美術家として活躍してきたプロだ。模型で考え、ひとつの空間を表現するのは舞台美術家本来の仕事である。「12坪の家」は生活の舞台装置である。台所と書斎の上に2部屋つくるのは今和次郎のアドヴァイスというが、随所に創意工夫がある。台所とホールの間に高いスツールと半円形のスタンド、風呂場に谷崎潤一郎作歌劇「白狐の湯」の舞台模型を設置する、大道具式にやればわけはない。

 平野謙吉は、引揚げてすぐ鎌倉アカデミア[1]の講師をつとめた。そして「吉田謙吉演劇美術研究会」を立ち上げた。「12坪の家」を毎週稽古場に使ったのは、鎌倉アカデミアの演劇科の卒業生が組織した「水曜会」である。

 

 平野謙吉邸が「新しい住まいの夢」として紹介された同じ1951年、もうひとつの「12坪の家」が設計される。「「D51(デゴイチ)」ならぬ「51C(ゴジュウイチシー)」。戦後日本の住宅モデルとして大量に建設されることになる公営住宅標準設計案「1951C型」である。

 

 バラックの海

 東京は焼け野原であった。戦後まもなく撮られた写真を見ると[2]、銀座、京橋、日本橋にコンクリートの建物が残っているけれど、「焼けビル」である。露店が新宿に出現し、すぐさま銀座、浅草、上野、渋谷、池袋へ拡がった。そして無数のバラックが焼け野原を埋め尽くした。

 東京都が194511月から建設をはじめた応急簡易住宅の窓ガラスはセロファン、屋根は防水加工の紙葺き、なお材料難のため工期に3ヶ月を要した。吉田謙吉が江ノ電の廃車に住んだように、豪舎をはじめ人々はあらゆるところに住みついた。建築許可の抽選を待つ余裕はなく、皆が自力で、無断でバラックを建て始めた。廃車に切妻屋根のバス住宅、三角住宅、鉄管や釜をあり合わせの新聞紙や木切れで塞いだ鉄管住宅、襤褸切れの天幕住宅、空き缶を潰して屋根を葺いた住宅、賃貸移動家屋トロッコ住宅も現れた。実に多様な住居が出現したのであった。

 バラックの海と化した都市の光景、それは吉田謙吉にとっての原風景である。

 関東大震災後まもなく、今和次郎とともにバラックの建ち並ぶ東京の街をスケッチして回った。そして、バラック群の殺風景に華やかさと潤いを与えようと「バラック装飾社」を設立した。そしてそうした活動が「考現学」の提唱に結びついた。

 何故、バラックなのか?建築家石山修武[3]は、ドラム缶のような「幻庵」を建てて『バラック浄土』(相模書房、1982年)を書いた。かくいう筆者も、東南アジアのバラックの世界を歩き続けて厭きない(『カンポンの世界』パルコ出版、1991年)。あり合わせの材料に依る創意工夫(ブリコラージュ)、自らの身体による建設(セルフビルド)の醍醐味・・・、詰まるところ、住まいとは生きられるものであること、生きること、住むこと、そして建てることが同一の位相にあることをバラックの世界は教えてくれるのである。

 

 白い家

 大正デモクラシー期から15年戦争期に至る1920年代は激動の時代である。「新興美術」「新興演劇」「新興建築」など「新興芸術」を標榜する様々な運動体が現れたのはこの大転換期である。吉田謙吉は、「尖塔社」(1920年)「舞台美術会」(1921年)の結成に関わり、「アクション」(1922年)に参加、そして築地小劇場(1924年)に宣伝・美術部員として加わる。まさに「新興芸術」運動の渦中にいた。「新興建築」運動との関わりも当然あった。そもそも「尖塔社」の結成は分離派建築会」[4]1920年結成)を意識したものであったし、「分離派」に続いた「創宇社建築会」[5]192311月設立)には、東京美術学校から海老原一郎、山口栄一が加わっている[6]

 しかし、「新興建築」と「バラック装飾社」との間には基本的な対立があった。今和次郎は、「バラック装飾社」について「一部の建築家からは極端に罵倒された。建築美とは装飾を取り去ってしまった、造形そのものを基本としてのみ成立するものである、という近代的アカデミックといえる立場でやりこまれたのである。」と書いている(「ユニホーム考現学」)。一部の建築家とは「分離派建築会」(滝沢真弓)である。近代建築の理念は、様式や装飾は否定すべきものであり(A.ロース『装飾と罪悪』)、ファサード・デザインと建築構造の乖離は「虚偽構造」として退ける。「しかし、そのときの私たちの行動は、そういう建築論に奉仕するためにやったのではない。震災をうけた人びと、つまり社会にたいしての行動」だったのである」と、今は続ける。

 「新興建築」運動は、逓信省営繕部の下級職人を主体とする「創宇社」が「階級(社会)意識」に目覚め、「分離派」の「芸術至上主義」を批判、労働者のための施設や建築生産方式の提案など社会主義的なテーマへ傾斜していく(「創宇社」の「左旋回」[7]。一方、日本に近代建築の理念とともにその基盤が用意されるのが1920年代である。鉄筋コンクリート造、鉄骨造の基準がつくられるのはいずれも1930年である。その象徴が「マッチ箱を並べたような」とか「豆腐を切ったような」と形容された陸屋根(フラットルーフ)の一群の「白い家」[8]である。

 

 51C

 関東大震災の後、各国からの義援金で設立された「同潤会」(19245月)は、最初の公的住宅供給機関である。その大きな柱となり鉄筋コンクリートRC造の共同住宅が根づいていく基礎となったのが同潤会アパートである。この「同潤会」の引き継いだ「住宅営団」(1941年)で、大量の住宅調査を行ったのが西山夘三[9]である(『超絶記録 西山夘三のすまい採集帖』LIXIL,2017年)。興味深いのは、「51C」の基本原理となったのが西山の「食寝分離論」(1942年)であることである。

 敗戦直後、住宅不足数は日本全体で420万戸と推計される。応急復興住宅の建設したのは、戦争協力機関としてGHQが閉鎖する「住宅営団」であるが、10万戸供給できたかどうか、それも翌年8坪に拡大するが、当初は6畳と3畳、6.25坪の住宅である。

 吉田謙吉が「12坪の家」を建てた頃、指針とされたのは不燃の積層公営住宅である[10]。東京都営高輪アパート(前川國男設計1947年)を嚆矢として、RC国庫補助住宅1949年度標準設計A142坪)B125坪)C103坪)がつくられる。続いて設計されたのが「51C12坪)」である[11]。東京大学の吉武泰水研究室による設計過程[12]については鈴木成文が詳細に明らかにしている(『五一C白書』住まいの図書館2006年)。食べる所と寝る所は分離する、主寝室と一定年齢に達した子どもの寝室を分離することを原則[13]とすれば、ヴァリエーションはそうない。6畳と45畳の2寝室、トイレ、洗面、物置のスペースをとると、残りのスペースを広めの台所すなわち食堂兼台所(DK)とするしかない。夕食は、DKに隣接する部屋を利用することがあってもいいけれど、朝食はDKで採れるようにする、というわけである。


 1955年に設立された日本住宅公団は、この「51C」を2DK型として採用することになる。そして、この2DK型住宅は、日本全体で、日本住宅公団の団地のみならず、農村の戸建住宅の基本型ともなる。「51C」は、戦後日本を象徴する住宅形式となるのである。

 全く同時期に建設された同じ「12坪の家」、51Cと吉田謙吉邸を比較すれば、どちらが愉快か、どちらに夢があるかははっきりしている。

  

 ちいさいおうちー最小限住宅

 戦後まもなく新興建築家連盟をひきつぐかたちで新日本建築家連盟NAUが結成される(1947年)。創宇社メンバーを中心に西山夘三など戦後建築を担う主立った建築はほとんど全てが参加するなか、今和次郎は第二代委員長を務める。建築家にとっての最大の課題は住宅建設であり、多くの建築家が小住宅の設計に取り組んだ。その代表が増沢旬の「最小限住宅」(1951年)である。吉田謙吉の「12坪の家」はそれらにひけをとらない、というより、優るとも劣らない。「最小限住居」は建坪3間×3間=9坪というが、2階建てで3坪の吹き抜けがあり、延坪は15坪である。吉田謙吉邸は12坪だけれど、2階に1坪の2部屋と渡り廊下を設けてほぼ15坪である。立体的構成も似ているといえば似ている。建築家の場合、建築を建てるためのシステムを優先するけれど、吉田謙吉の場合、「ステージ」に拘った。誰もが建築家なのである。かつての吉田謙吉邸のすぐ裏手には東京タワーが建ち、かつての宅地割りを偲ばせる2階建ての仕舞屋がいくつか残っているが、全体はすっかりビル街に変わっている。飯倉交差点には異端の建築家白井晟一の「ノアビル」(1974年)が建つ。白井晟一もまた「試作小住宅」(1953年)という15坪のローコスト住宅に取り組んでいる。


 問題は「51C」の方である。ダイニング・キッチン(DK)という苦肉の策として生み出された空間は、団地という住戸を積み重ね、並列させるかたちで一般化し、日本列島の北から南まで蔓延することになった。それだけ、日本人の生活様式が画一化されてきたということである。

 

 実は、筆者は、「51C」を設計した吉武泰水研究室出身である。鈴木成文研究室で助手を務めた後、西山夘三が開設した京都大学建築学教室の「地域生活空間計画」講座に助教授として招かれ(1991年)、アジアの大都市を歩いて12坪どころか3m×6m=18㎡、6坪に満たない住宅の世界を見続けてきた。「51C」をいかに超えるかを考え続けて『住まいの夢と夢の住まい-アジア住居論』(朝日選書、1997年)を書いた。小さな家にも宇宙は宿る(「Ⅲ ちいさいおうちー限られた空間」)。「12坪の家」の竹の表札には「み空の星の小さな瞬きに 寄り添ふごとく我らここに」と彫られていたという。

 「ぼくの家が、些かでも世間なみより変わっているとすれば、世間なみの暮らし方にこだわらないという考え方そのものより他にぼく自身思い当たる事とてない。むしろ、とくに変わった家を建ててやろうなどという、それこそ世間なみの考え方と変わっているだけだと詭弁を弄したいくらいだ。」と謙吉はいう。決して詭弁ではない。



[1] 19464月に、哲学者三枝博音を学長として開校し、卒業生には山口瞳、いずみたく、鈴木清順などがいる。1950年に閉校した。

[2] 木村伊兵衛らによる『東京・一九四五年秋』(文化社、19464月)など。

[3] 今の孫弟子の世代であり、早稲田大学の教授をつとめた。

[4] 設立メンバーは、東京帝国大学工学部建築学科の卒業生、石本喜久治、滝沢真弓、堀口捨己、森田慶一、山田守、矢田茂の6人である。後に蔵田周忠、山口文象、が加わる。

[5] 設立メンバーは、二十歳前後の逓信省営繕課の技手、製図工、山口文象、専徒栄記、小川光三、梅田穣、広木亀吉の5人、その宣言文も「頽廃と陳腐とにたゞれたる/現建築界の覚醒を期す。我等は古代人の純情なる/創造の心を熱愛し、模倣てふ/不純なる風潮になき/永遠の母への憧れをもて/頽廃と陳腐とにたゞれたる/現建築界の覚醒を期す/我等は生の交響楽全宇宙に/我等の生命、美しき「マッス」を/現出すべく専心努力する。」と勇ましい。

[6] 今和次郎が委員長を務めた「帝都復興創案展」(国民美術協会主催(会長中條精一郎)[6]19244月)には、「創宇社」の他、村山知義を中心とする「マヴォMAVO」、今井兼次、佐藤武夫、猪野勇一ら早稲田の「メテオール」、岸田日出刀、長谷川輝男、蒲原重雄ら東大の「ラトー(裸闘)」、水谷武彦、前田健二郎らの東京美術学校の「揚風会」などが参加しているのである。

[7] そして、「創宇社」メンバーを中心として「分離派」以降の様々な小会派が大同団結するかたちで結成された「新興建築家連盟」の結成即解体(193012月)、そして日本工作文化連盟の結成(1937年)、建築新体制の確立(1942年)という建築運動の展開には、日本ファシズムの形成、翼賛体制の確立の過程が色濃く投影されていく。

[8] 、土浦亀城の自邸(1935年)など。

[9] 西山夘三については布野修司(1998)「西山夘三論序説」(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー -建築の昭和―』彰国社所収)参照。

[10] 一般の住宅復興については、自力更生に委ねられた。住宅資金を融資する住宅金融公庫が設立されるのは1950年であった。政府は19465月に「臨時建築制限令」を公布し15坪以上の住宅店舗の新増築を禁止し、翌年2月の「臨時建築等制限規則」によって12坪以下に制限を強化した。吉田謙吉邸が「12坪の家」となったのはそれ故にである。制限が解除されるのは、すなわち、1950年である。

[11] 51A,51B,51C,51MB4つのプランで、A16坪、B14坪、C12坪、そしてMBは異なる規模の住戸をミックスしたタイプである。

[12] 建設省から委託を受けたのは建築設計管理協会(後の日本建築家協会)で、具体的に担当したのは、Aは松田・平田設計事務所、Bは山下壽郎設計事務所、Cは久米建築事務所、MBは石本建築事務所である。各事務所からの提案を「国庫補助住宅設計構造審議会」(1950年秋)が審議の上決定するというかたちであったが、その基本設計部会(委員は、平山嵩、木村幸一郎、佐藤鑑、高山英華、武基雄、丹下健三、吉武泰水。)の委員であった吉武泰水が各案について提案、各事務所が実施設計を行うというのが実際のプロセスであった。

[13] 1,普通の家族構成では(居住期間を考え合わせると)少なくとも2寝室必要で、C型でも2寝室とるべきであろう。2つの寝室のうち1つは「基本寝室」(夫婦寝室)として初めから設計することが望ましく、両者の隔離に注意したい。

 2.これまでの住宅は結局1室的で、間仕切りも不完全である。家族人数や家族構成によって居住部分をどう区切るかの要求は異なるが、子どものある家庭では、少なくとも家族全員がくつろげるほどの広さをもつ部分と、勉強、読書、仕事(家事を含む)などが出来る部分をもつことが必要であろう。後者はさほど広くなくてもよいが基本寝室としての条件を備え、前者とは壁で仕切ってもよいのではあるまいか。前者には家族構成や生活の仕方に応じた住み方のできるゆとりが欲しい。この部分は南面させ、台所と直結するかあるいは調理部分を含み、住戸の出入り口や便所につながるように配置したい。

 3.「食寝分離」は小住宅では「就寝分離」を犠牲にすることになりやすい。少なくとも朝食の分離が出来るよう台所を広めにとることがよいと思われる。」(日本建築学会研究報告13号、19518月)





2021年4月23日金曜日

生きられる景観、『都市の営みの地層ー宇治・金沢』文化的景観スタディーズ04,国立文化財機構・奈良文化財研究所,2017年11月30日

 布野修司:生きられる空間,『都市の営みの地層ー宇治・金沢』文化的景観スタディーズ04,国立文化財機構・奈良文化財研究所,20171130

生きられる景観

布野修司

 

宇治は,人生の少なからぬ年月を過ごした街(黄檗・五ヶ庄)である(19912001)。世界文化遺産に登録された平等院と宇治上神社があり,黄檗山萬福寺があり,なによりも宇治川がある。市民であり,建築・都市計画の専門家ということで,都市計画審議会会長を10年(19982008)務めた。また,その間に立ち上げた宇治市都市景観審議会(広原盛明会長)の委員を兼務した(20022005年)。さらに,役職として淀川河川事務所塔の島地区河川整備に関する検討委員会委員(20052007年)および淀川水系宇治川河川利用委員会委員2005年~2015年)を務めた。この宇治での経験を含めて,これまで住んできた街(生まれ育った松江そして東京,京都)で否応なく巻き込まれてきた景観問題をめぐって考えてきたことは『景観の作法―殺風景の日本』(京都大学学術出版会,2015年)に書いた。以下は、宇治の景観に関わる要点である。

 

1 都市計画行政と景観行政

宇治市は,都市計画マスタープランの策定に併せて都市景観条例を制定し(20022月),都市景観形成基本計画の作成にとりかかった。世界文化遺産を抱える自治体としてはいささか遅れていたと思う。しかし,「景観緑三法」(2004年)の施行には先立つ。都市景観形成基本計画の内容は,当然,都市計画マスタープランにも反映されることになった。一般的にはそうはならない。管轄の部署が異なるからである。僕が都市計画審議会会長(19982008)兼任で都市景観審議会の委員(20022005)になったのは密接な連携を図るためである。時は小泉内閣の時代20014月~20069)で,「景観法」施行の一方で,景気対策のための大都市(東京)中心の都市再生施策の一環として規制緩和策(総合設計制度)が全ての地方自治体に自動的に適用されるといった乱暴な方針が出されて慌てて都市計画審議会を開催し,それを拒否する決定した記憶がある。

案の定,景観条例に基づいて景観形成指針を決めた直後の20046月,宇治橋通りに巨大なマンション建設が持ち上がり,大騒動となった。いわゆる「駆け込み」の確認申請である。マンション建設の予定地は歴史的街並みが残るが,鉄筋コンクリートの建物も建ち,また,空家,駐車場も目立ち始めている目抜き通りである。宇治橋の東の袂から平等院へ向かう表参道に比べると街並みは乱れて活気がない。この通りをどう再生,活性化させるかは,宇治市にとって大きなテーマである。「伝統・歴史・観光とくらしが結びつく商店街をめざします」「安心して歩いて買い物ができる商店まちづくりをめざします」「地域一丸となってアイディアを出す商店まちづくりを推進します」という方針が確認された矢先のマンション計画であった。

当初は9階建ての計画であった。しかし,都市景観条例で,高さ20mを超える大型建造物には届出義務が課せられるというので,ぎりぎりの7階建てに変更した計画が提出された。このマンションは,高さもさることながら,奥行きが深く,全体が100m近くにもなるのが大問題であった。第1に,新住民が増えることによって,駐車場問題,騒音問題などが危惧された。そして,第2に,世界文化遺産に登録された平等院からの眺望が大問題であった。住宅地に巨大な壁ができ,街並みの秩序として明らかに異質である。実は,平等院が世界文化遺産に登録される際(1996年)に,宇治市は苦い経験をしている。平等院の背景となる宇治橋通り周辺に巨大な高層マンション2棟が駆け込みで建てられたのである。

そこで,周辺各所からその高さをチェックするために,マンション業者に,建設用地に高さ20メートルのアドバルーンを上げることを求めた(2004727日)。すばやい対応であった。アドバルーンが上がると,その巨大さは一目瞭然となった(図1)。平等院の境内からも見え,眺めを阻害することも明らかであり,この結果をもとに都市景観審議会を中心に議論が積み重ねられた。



法的に許された容積を目一杯使って,できるだけ多くの住戸を建設して分譲したい業者の論理と景観の論理、あるいは,地域の論理,生活の論理,環境の論理との対立である。議論の過程で,工事のために敷地調査によって,平等院が建設された当時の地割りが明らかになった。また,韓式土器も出土した。第3の問題は,こうした土地の歴史をどう評価するかであった。

都市景観審議会は,この遺構を活かすことを市にも業者にも求めた。さらに,開発業者のもとで設計を担当する設計者に,そのデザインの再考を求めた。巨大なヴォリュームも,それを感じさせないデザインの工夫があるのではないか。それが,第4の問題であった。

宇治市の都市計画審議会は,全国でも初めて,ダウンゾーニングすなわち高さ制限を低くする変更を行っていた。また,これも全国でも珍しい,建物の長さについての(50メートルを超える建物)届出義務を加えた。

しかし、宇治橋通りのマンション問題の決着は,階数を減らしたものの予定通りに建ったマンションが示している。景観法の施行以前における景観をめぐる係争(「風景戦争」)は,開発建設行為が建築基準法,都市計画法等関連法令を遵守している限り,反対運動による異議申し立ては裁判になれば敗訴するというのが一般的であった。景観法に基づく地区指定がなければ,おそらく現在でもそうである。開発業者(ディベロッパー)は,反対運動を想定して,高さや容積を減らして一件落着とする計画案を予め用意するのが常套手法である。「景観で飯が食えるか!」と言いながら,「景観」を最大限に利用して飯を食うおかしな構図がそこにある。

 

2 景観規制の基準―法的拘束力と合意形成

景観法の制定によって,法的拘束力を持った地区指定や景観協議会や景観整備機構などの仕組みがオーソライズされることになった。宇治市は,景観法の規定する景観形成団体となり,景観計画を立案するとともに宇治の歴史的地区を核として景観計画区域として保護することとする。景観法が用意した様々な法的道具立ては大いに活用すべきだと思う。しかし,問題はなくはない。景観の規制は,私権や財産権を制限するが故に,地区指定や保存樹木や保存建造物の指定は必ずしも容易ではないからである。問われるのは規制の根拠と基準である。そして,必要なのは基準の共有である。問題は,全国の景観条例や景観マニュアルの驚くべきステレオタイプ化である。基本的な枠組みを規定する景観条例の条文が同じような雛型をもとにして似るのはまだしも,景観マニュアルも全国似たりよったりなのである。そもそも,高さ,ヴォリュームといった規模や形態,色といった基準が限られているのも問題であるが,それぞれの基準についても一概に規定できるものではない。例えば,国立公園や国定公園では曲線は駄目,原色は駄目という。しかし,自然は曲線に満ちているし,お稲荷さんの朱色は緑に映える。勾配屋根にしろというけれど,高層マンションの屋根を勾配屋根にすることがどういう意味があるのか。「周辺の景観と調和すること」とは規定できるけれど,こうしろと全国一律に規定できるわけはないのである。景観がそれぞれの土地の姿に関わる概念であるとすれば,それぞれに基準は異なってしかるべきである。景観法が機能するためには,以下のような原則が前提となると思う。

①景観行政団体(自治体)は,まず,都市形成過程,景観資源の評価などをもとに,市域をいくつかの地区に分ける必要がある。同じ都市でも,地区によって景観特性は異なる。

②全ての地区が「美しく」あるべきである。景観の問題は,景観地区景観計画区域,景観形成地区といった地区に限定されるものではない。景観法などが規定する地区指定に当たって,住民やNPO法人の発意を尊重するのは当然であるが,それ以前に,自治体(景観行政団体)が,景観計画を明らかにし,全市域について地区区分を明確にすべきである。

もちろん,住民参加による景観計画の策定,地区区分の設定も試みられていい。景観整備機構の役割がこの段階に求められることも考えられるが,権限が完全に委譲されることはないのではないか。本来は自治体(景観行政団体)の責任である。

③全ての地区について,望ましい,ありうべき景観が想定されるべきで,全ての建築行為がそうした視点から議論される必要がある。全ての地区が望ましい景観創出のために何らかの規制を受けるという前提でないと,景観地区とそれ以外の地区,指定以前と指定後の権利関係をめぐっての調整が困難を極めることは容易に想定できる。

④景観創出,景観整備は都市(自治体)の全体計画(総合計画,都市計画マスタープラン)の中に位置づけられる必要がある。景観行政と建築行政,都市計画行政との緊密な連携が不可欠である。

⑤それぞれの地区について,その将来イメージとともに景観イメージがまず設定される必要がある。この設定にあたっては,徹底した住民参加によるワークショップの積み重ねが不可欠である。地区の景観についての一定のイメージが共有されることが全ての出発点である。

⑥それぞれの地区の景観イメージの設定以降,地区の景観創出のためのオルガナイザーであり,コーディネーターであり,プロモーターともなりうるのがタウンアーキテクトである。地区毎に景観協議会を自治体(景観行政団体)が直接組織するのは機動性に欠ける。また,行政手間を考えてもきめ細かい対応は難しいだろう。景観整備機構が,各タウンアーキテクトの共同体として機能することが考えられるだろう。

 

3 文化的景観と生きられている景観 

宇治市は,都市区域としては初めて国による重要文化的景観の指定を受ける(2009)。文化的景観といった概念がもう少し共有されていたら,マンションの敷地から出土した平安古道の扱いなども変わっただろうと思う。

都市計画審議会の役割は,首長の諮問によって都市計画法の定める事項を審議して答申するにとどまる。審議事項は,予め事務局で検討されており,法定の情報公開(縦覧)の手続きもあって,審議は短時間で終わる形式的なものとなる場合が多い。宇治市の都市計画審議会に毎年決まって答申されるのが生産緑地の変更であった。生産緑地とは,生産緑地法(1974年)によって規定される市街化区域内の土地(農地,森林)をいう。大都市圏の自治体は,市街化区域内で農業を続けたい地主のために緑地の確保の意義も認めて,宅地並みの課税をしない措置をとる。宇治市の場合,生産緑地はほとんどが茶畑である。

鎌倉末期に始まる宇治茶は,多少の盛衰はあれど,今日も猶,宇治のブランドである。茶畑の景観は宇治にとってかけがえのない景観である。しかし,宇治のアイデンティティになってきたその茶畑が年々減り続けている。事由は,従事者の死亡,もしくは故障(農業を続けることができない身体的傷害)である。高齢化の進行で,従事者は減る一方である。かくして,生産緑地の宅地への転用を承認するというのが都市計画審議会の重要な仕事になっているのである。

全国で農地(例えば棚田)や山林の景観保全が問題となっているけれど,そもそも農業や林業が衰退すればその景観を維持できなくなるのは当たり前である。土地は,維持管理する主体があって,その姿も維持される。宇治の茶畑については,市が買い取るとか,ドイツのクライン・ガルテン(小庭園)あるいは市民農園のような形で緑地を残したらどうか,という意見を毎回出したけれど,有効な手だては必ずしも講じられなかったように思う。

文化的景観という概念の導入は,生活そして生業に焦点を当てることにおいて大きな意義がある。「文化財」の保護(法)という枠にとどまるのだすれば限界がある。景観が生きられていることこそが文化である。地域の生業のかたちが大きく景観を規定するのであって,地域が元気でなければ本末転倒である。

 

4 治水と景観

宇治の歴史的景観の中核,世界文化遺産に登録された宇治の平等院と宇治上神社が向き合う宇治川の中州は塔の島と呼ばれる。その塔の島周辺の景観をめぐって現在も議論が続いている。大きな背景として,淀川水系における治水・利水の問題がある。宇治川は治水対策を行う必要があるが,市街地の迫る塔の島付近は拡幅が難しく,壁のような堤防をつくることもできない。そうであれば河床を掘り下げるしかない。問題となるのは,塔の島がこれまでより浮き上がって見えるようになることである。そこで,塔の島を削って,切り下げたらどうかという提案がなされた。切り下げると塔の島からの景観は随分変化する。また,橋の高さの調整が必要になる。そして,それより問題なのが,右岸,方広寺の坂を下りて来るところにある亀石(図2)である。万葉集にも詠われる亀石であるが,水面が下がると亀に見えなくなるのである。


実際には,塔の島は,年に何度かは冠水し,入場禁止となる。また,亀石も亀に見えない日が少なくない。さらに,塔の島も江戸末期の絵図から現代までの地図を調べてみると,様々に形を変えてきている。むしろ,直線的に整備した現在の形のほうが不自然である。

一方,河床を掘り下げると水生生物に多大な影響が出る。大きな問題は,宇治橋周辺がナカセコカワニナ(図3)の生息域であることである。ナカセコカワニナは琵琶湖の固有種であったが,琵琶湖疎水や天ヶ瀬ダムの建設によってその生息域が大きく変わった。今や絶滅危惧種であるが,宇治橋周辺が数少ない生息域だとすると,その産卵環境を守る必要がある。ナカセコカワニナの生息のためには,2030cmの浅瀬が不可欠という。宇治橋周辺にもかつては砂地があったのだが,現在では宇治川ダムの放流で,砂はすぐさま流されてしまう。


宇治川といえば鵜飼である。1995年,そして1997年と続いた洪水への対応として塔の島の本線側が深く掘り下げた河川改修が行なわれたが,その際鵜鵜飼のための浅場をつくるために本線と支線を分けたところ,夏場に下水が流れ込んで異臭がするという問題が発生していた。

また,かつて宇治川で泳いだ頃のようにもっと水辺を楽しみたい,という声も大きい。景観といっても,実に様々な問題が絡むのである。

その後,僕は宇治を離れることになったが,洪水対策と景観をめぐる議論は淀川河川事務所において続けられてきた。そして,2012813日から14日にかけて大阪,京都,滋賀などを局地的豪雨が襲った。近畿各地で土砂災害,河川の氾濫が発生,建物が流されるなど被害が続出したが,宇治川流域も多大な被害を受けた。この洪水の特徴は大河川である宇治川そのものの氾濫がなかったにもかかわらず一次支流,二次支流の戦川,志津川,弥陀次郎川など中小河川が市街地で多数氾濫したことである。僕がかつて住んでいた地区も多大な被害にあい,犠牲者も出た。

治水と景観,自然環境をめぐる問題は宇治に限らない。景観問題の基底において,人間と自然との関わり方が問われていることを思い知らされる。