玉井哲雄編:『アジアからみる日本都市史』,布野修司:「転輪聖王」の王都ー曼荼羅都市の系譜,山川出版社,2013年3月
「転輪聖王」の王都―東南アジア・曼荼羅都市の系譜
布野修司
はじめに
「転輪聖王(転輪王、輪王)」とは、古代インドの理想的帝王のことである。サンスクリット語で、チャクラヴァルティン Cakravartin、あるいはチャクラヴァルティラジャ Cakravartirajaという。
チャクラcakraとは、一般には、インドの神秘的身体論において、脊椎に沿っていくつかある生命エネルギーともいうべきものの集積所[1]をいうが、文字通りには「円」、「輪」、「円輪」を意味する。「輪宝」とも訳されるが、何故、理想的帝王が「チャクラ」によって表現されるかと言えば、ひととつには「円」が完全なかたちとみなされるからである。また、チャクラは、戦車の「車輪」あるいは「円盤」形の投擲武器と考えられ、「武」(強さ、機動性、征服、支配、優越)の象徴と考えられるからである。「転輪」すなわち「輪」を「転」がすことは、全世界を統治することを意味する。
「転輪聖王」は、しかし、実際に武器によって全世界を統治するのではない。武器として表現されるチャクラはあくまで象徴であって、統治の武器となるのは「法(ダルマDharma)」である。ダルマチャクラDharmacakraとは、「法(ダルマ)」を説くことを言い、「法輪」と漢訳される。「転輪」とは、すなわち「輪」を転がすように法を説くことをいう。ダルマすなわち法(法則、原理、規範)はチャクラ(円輪)で象徴されるのである[2]。仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈尊)の「初転法輪」(法輪の初回転)の地サールナート(鹿野園)にアショーカ王が建てた石柱の最上部にその早い例が見られる。
古代インドにおいては、「転輪聖王」が世に現れるときには、天のチャクラ(車輪)が出現し、王はそれを転がすことによって武力を用いずに、すなわち法という武器によって、全世界を平定すると、考えられた。「転輪聖王」は、七宝[3]を有し、三二相を備えているという。三二相と言えば釈尊であるが、その誕生に際し、出家すれば仏となり、俗世にあれば「転輪聖王」になるという予言を受けたという話はよく知られているところである。もっとも、歴史的にはこの転輪聖王は、釈尊より後の、マウリヤ朝以降の、インド統一帝国の帝王のイメージが投影されたものであろうと考えられている[4]。
この「転輪聖王」の理念は、「ヒンドゥー(インド)世界」の拡大、ヒンドゥー教・仏教の伝播とともに各地に移植されていく。とりわけ、東南アジアにおいては、「転輪聖王」の概念は、デーヴァラージャdevarājas(神王)思想として受容れられていく。王は、信仰の擁護者でも神の代理者でも天の委託する統治者でもなく、「神聖さ」そのものの具現物であり、ラージャrajas(王)やマハーラージャMahārāja(大王)、ラージャディラージャrājadirāja(王中王)やデーヴァラージャ等々は全て「神聖顕現(ヒエロファニー)」であり、ストゥーパやマンダラのように神聖さを直接示す聖物である、と考えられた。そして「転輪聖王」を自認した数多くの王たちが出現している。
「転輪聖王」たちは、その名に相応しい王都を建設しようとする。本稿で焦点を当てるのは、この「転輪聖王」たちが建設してきた王都であり、その空間構造である。「転輪聖王」たちは、何故、巨大なモニュメントの建ち並ぶ都城を建設しようとしてきたのか、また、実際建設してきたのか。その空間構造は何を基にして建設されたのか、そして何を意味するのか。
都市は、基本的に、権力にとって支配のための空間的装置である。都市は、農業生産物の余剰を集積し、サービスを提供し、政治的管理を行うために、ある集団が他の集団を支配することによって生み出される。そして、権力者の意志と力、その支配の仕組みは都市の空間構造として表現される。権力と宗教をめぐっては、多面的重層的に論ずべきことは多いけれど、本稿では、東南アジアにおける「転輪聖王」の王都の系譜を明らかにし、いくつかの王都をとりあげて、その空間構造について考察することで、特集テーマについてなにがしかの貢献が果たせればと思う。
本稿と平行して『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容―』(京都大学学術出版会、二〇〇六年二月刊行予定)を執筆しつつある。そこでは、マドゥライ、ジャイプル、チャクラヌガラという三都市に焦点を当てて、ヒンドゥー都市の三類型を明らかにする構えを採っているが、本稿では、東南アジアの諸都市、とりわけミャンマーの王都に焦点を当てたい。最終的に焦点とするのはマンダレーである。アウランパヤー以下、コンバウン朝の王たちは「ビルマ世界」の実現を目指し、支配の正統性を主張するために、自ら「転輪聖王」であることを標榜した。マンダレーとは、「曼荼羅」のことである。
ミンドン王によってマンダレーが建設されたのは一九世紀も半ばのことである(一八五七年)。そして彼の死後、チボー王は英国に囚われ、コンバウン王朝は終息することになる(一八八五年)。
「転輪聖王」の末裔たち
アンコール
インドラプラIndrapura(ドンズオンDong Duong)で王位についたジャヤヴァルマンⅡ世は、やがてアンコール地方へ赴き、腰を落ち着ける。そして、「マヘンドラパルヴァタ」(プノン・クーレン丘陵)の頂で「チャクラヴァルティン(転輪聖王)」すなわちデーヴァラージャ=「神々の王」であることを宣言する。802年のことである。ジャヤヴァルマンⅡ世がアンコール朝を創始したこの年は、東南アジアに新たな王権(「神王」)思想が誕生した年として記憶される。
デーヴァラージャとは、クメール土着の「守護精霊の王の中の王」(カムラテン・ジャガット・タ・ラージャKamraten Jagat ta raja)のことであり[5]、また一方、ヒンドゥーの神々の王のことである。クメールの王たちは、自らの王権を正統化するために、もうひとつの分身を土着の王と一体化させ、さらにヒンドゥー的世界の体系で覆い、神秘の存在デーヴァラージャとなるのである。
ジャヤヴァルマンⅡ世は、即位するとまず大きなバライ(貯水池)の建設に着手し、ついで祖先を祭るプラサート[6]、さらに王自身のための寺院プラサート・ギリ(キーリー)[7]を建てた。とりわけ、プラサート・ギリは、ヒンドゥー教・仏教でいうメール山を象徴する王国の中心として重要視された。プラサート・ギリの中心には神々の王シヴァ神に賜ったリンガが置かれ、そこで王は即位の式を行い、デーヴァラージャとなる。各王のプラサートは王の死去とともに終わる。王の墳墓として用いられたからである。王都が変遷したのは一世一王都という観念があったからである。
これは後のタイの諸王朝にも引き継がれる。
実は、ジャヤヴァルマンⅡ世に先だって、地方に小国、属国が割拠する状況にあったカンボジアを統一したジャヤヴァルマンⅠ世も、「転輪聖王」として自らを権威づけようとしていた。ジャヤヴァルマンⅠ世は、「大地の主たちの主」と碑文に刻まれているのである。
クメールが支配した平原の各地にはプラ(サンスクリット碑文では「ナガラ」)と呼ばれる「城郭都市」があり、王都は三〇以上のプラを従えていたとされる。プラより小さな単位として「スルックsruk」があり、サンスクリット碑文では「グラーマ(村)」とされる。「プラ」「ナガラ」「グラーマ」は、もちろんインド起源の用語である。アンコールとは、サンスクリット語のナガラを語源とするクメール語で、都市(国家)を意味する。アンコール・トムのトムとは大きいという意味である。巨大な寺院やバライ、巨大水利網を建設したアンコール王朝は一大都市文明を築くことになる。
ジャヤヴァルマンⅡ世は、プノム・クレンを拠点としたが、ジャヤヴァルマンⅢ世(在位834~877年)の後、インドラヴァルマンⅠ世(在位877~889)が登位してロリュオスに首都ハリハラーラヤを建設する。王はタターカ(池)を造らせ、インドラタターカと命名する。続いて、ヤショヴァルマンⅠ世(在位889‐910年頃)が、アンコールの地に小高い丘プノム・バケンを中心に都城を建設する。王名にちなんで王都はヤショーダラプラと呼ばれた。以降、1432年の廃都まで「転輪聖王」たちの王都はアンコール地域に置かれる。プノム・クロム→ハリハラーラヤ→アンコール(ヤショーダラプラ、プノム・バケン)→コーケル→アンコール(ピミヤナカス)→アンコール(バプーオン)→アンコール・トム(バイヨン)というのが大きな都城と中心寺院の変遷である。アンコール・トムを中心とする都城の空間構造については、居住地空間の構成が必ずしも明らかにされておらず不明の点も少なくない。ここでは他に譲りたい[8]。
ヌガラ
東南アジア地域の「インド化」が開始されるのはおよそ紀元前後のこととされる。「インド化」とは、「インド世界」を成り立たせてきた原理、あるいはその文化が生んだ諸要素、具体的には、デーヴァラージャ(神王)思想、ヒンドゥー教・仏教の祭儀、プラーナ神話(ヒンドゥー教の聖典)、ダルマ・シャーストラ(ヒンドゥー教の法典)、サンスクリット語、さらに農業技術、建築技術・・・などが伝播し、受容されることをいうが、最初に「インド化」という概念を提出して東南アジアという地域と、その歴史に枠組みを与えたのはG.セデス(1886-1969)である[9]。「インド化」がはっきり表面化するのは4~5世紀頃[10]で、さらに7世紀から13世紀にかけて東南アジアは、インド文明とりわけヒンドゥー教によって席巻されることになる[11]。その中核となるのがデーヴァラージャすなわち「転輪聖王」である。
このG.セデスの「インド化」あるいは「インド化された国家」をめぐっては、C.ギアツの「劇場国家論」[12]やO.W.ウォルタースの「マンダラ論」[13]、さらにS.J.タンバイヤの「銀河系政体論」[14]、矢野暢らの「小型家産国家論」[15]など、様々な議論がなされてきている[16]。C.ギアツは、いくつかの留保をしながらも[17]、バリのヌガラという国家、政治体系の解明、そのモデル化が、①伝統的インドネシアにその名を知られた強大な国家―マタラム、マジャパヒト、シュリーヴィジャヤ、さらには②「東南アジアのインド的国家」全般―ビルマ、タイ、カンボジア、南ベトナム、マレー―の理解につながるという構えをとっている。
ヌガラnegara(ナガラ、ナガリnagari、ヌグリnegeri)はインドネシア語で、もともとの「町town」の他「宮殿palace」「都capital」「国家state」「王国realm」を意味する[18]。最も広くは、ヌガラは「文明」、都市文化と都市に中心を置く上部政治権威体系を意味する。ヌガラの反対がデサdesaである。同じようにサンスクリット語源であるが、「村落部countryside」「領域region」「村village」「場所place」、そして「従属dependency」、「統治地域governed area」を意味する。最も広い意味で、農村世界、「民衆」の世界を意味するのがデサである。インド的宇宙観の大陸からの移植という大きな脈絡において、このヌガラとデサという対比的世界の間に発達してきたのがバリの政治体系であり、それを「劇場国家」とC.ギアツは呼ぶのである。すなわち、支配、公権力、暴力の独占といった統治を目的とするのではなく、地位そして威厳、その秩序を表現する集団(国家)儀礼そのものを目的とするのが「劇場国家」(王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客)である。そこで「王宮=都」は、「超自然的秩序の小宇宙」であると同時に「政治秩序の有形的具現」である。「王宮=都」は、「国家の模範的中心」であり、宮廷の儀礼生活、そしてその生活全般が、単に社会秩序を反映するばかりでなく、その範例となる。宮廷生活が反映するのは超自然的秩序であり、人がそこに定められる地位に厳密に則ってその生を形づくるべき「神々の超時間的インド世界」である。
C.ギアツの場合、インドにおける諸制度の東南アジアへの直接の移植、あるいは伝搬という見方はとらない。東南アジアにおけるインドの影響は政治的経済的社会的であるより、圧倒的に宗教的美学的であったとして、「インド化indianized」という強い概念を避け、「インド的indic」あるいは「インド的となったindicized」という語を用いる。そして、バリ、そして東南アジアの王制をインドは異なるものとして位置づけた。バリ、そして東南アジアにおける王そのものが世界の神霊的中心である王制は、王自身が最高祭司であり、その儀礼活動の呪術的力によって王国が維持される古代官僚制国家(エジプト、中国、シュメール)の王制=王は本来の意味での宗教機能をもたず、王は僧侶、宰相を介して他界、人界(社会)に結びつけられるインドにおける王制とは区別されるのである。C.ギアツの「劇場国家」論においては、国家儀礼そのもの、演劇行為そのものが焦点であり、「王宮=都」のかたち、その空間構造は、あくまでその舞台、劇場の形式にすぎない。
それでは何故、「転輪聖王」たちは巨大な王都を建設しようとするのか。専制権力の巨大なシステムが巨大なモニュメントを要求するのではなく、逆に支配のシステムが未成熟であるが故に巨大なモニュメントによって力を誇示し、人々を威圧するカリスマ的王が必要とされた、というのがここでのテーゼである。O.W.ウォルタースが説くのは弱く流動的な王権(マンダラ国家)像である。東南アジア社会について一般的に指摘されるが、双系制社会を基盤とすることによって社会的地位は血筋だけでは決まらず、家系、王の系譜は不安定とならざるを得ない。法制、官僚制、軍隊組織などは未整備であり、王の支配は基本的に一代限りで、その範囲もその力に応じて伸縮を繰り返す。アンコールの諸王の王位継承に血縁は極めて薄いとされる。例えば、ジャヤヴァルマンⅥ世(1080~1107年)は、ピマーイ地域にあったマヒーダラプラ王家の出身である。また、ヒンドゥー教、仏教の抗争は激しく、度々廃仏が行われた[19]。王都、王城の変遷は、王位継承、簒奪の歴史でもある。
そうした場合、王は自らの行動によってカリスマ性を示すことで支配の根拠を得るしかない。前王たちより優れたモニュメントをつくってみせること、他よりも大規模な寄進を行ない続けること、それが王である条件である。そして、さらに王に要求されるのが「神聖性」である。土着の神々や外来のヒンドゥー教の神格が王のカリスマに結びつけられる。東南アジアの歴史を振り返ると、一人の王を中心とする王権が浮き沈みするのを見ることが出来る。O.W.ウォルタースは、そうした王権のあり方をマンダラと呼ぶのである[20]。
マンダラ
クメールに移植された「転輪聖王」とその王都の系譜は、メコン河流域・カンボジア平原からチャオプラヤー河流域[21]、さらにエーヤーワディ河流域・ビルマ平原に及ぶが、13世紀半ば以降、東南アジアを席巻してきた「インド化」の流れ、「サンスクリット文化」は勢いを失う。代わって、支配的になるのは南方上座部仏教である。これを「シンハラ化」と呼んで「インド化」と区別する主張もある。しかし、上座部仏教も大きくはインド化の一環である。ただ、明らかに担い手の交代があり、一三世紀半ばからの一世紀をG.セデスは「タイ人の世紀」、タイ人の「大沸騰une grande effervescence」の世紀とする。
注目すべきは、この転換と、元(大元ウルス)の東南アジアへの侵攻が連動していることである。ユーラシア全体に及んだこの「モンゴル・インパクト」は、「世界史」を成立させることになるが、東南アジアもモンゴル・システムに巻き込まれることになる。単に、タイ人に主導権が移行したというにとどまらないのである。
まず、パガン王朝に服属してきたシャン族が自立し始め、一二一五年には上ビルマのモウガンに国を建て、一二二三年にはサルウィン上流のモネ(ムアン・ナイ)に建国する。そして、一二三八年にクメール西北辺境にいた首長がスコータイからクメール勢力を追い払い王位に就いたのがタイ人国家の創建とされる。シー・インサラティットと号した創建者の息子で第三代の王がラームカムヘーンで、一三世紀末までにヴィエンチャンからペグー(バゴー)までその支配域を拡げ、首都スコータイとともに北にシー・サッチャナーライ、南にカンペンペットの副都城を築いた。ラームカムヘーンは、スリランカからもたらされた南方上座部仏教を体系化する。スコータイは、タイ南部を支配していたシュリーヴィジャヤ(八~一二世紀)を追いやり、マレー半島全体を支配域とした。
一方、中央タイでは、一二八〇年頃からロッブリがクメールの支配を逃れて独立する。さらに、北部ではランナータイが建国する。チェン・セン出身のマンラーイがまず一二六二年にチェンライに拠点を築くが、続いて一二九六年にランプーンのハリプンジャヤ王国を倒し、ランプーン近郊にチェンマイを建設した。チェンマイとは「新しい城」という意味である。
スコータイは、ラームカムヘーンを継いだロ・タイ王の時代にその領土の大半を失う。それとともに建国されたのがアユタヤである。アユタヤは、一四三一年にクメール帝国を滅亡させ、東南アジア随一の都市に成長する。アユタヤ王国では、クメールから継承したデーヴァラージャ思想が王朝の基礎に置かれた。ウートン王(在位一三五〇~六九)からエカタート王(在位一七五八~六七)まで三四代、四〇〇年にわたって繁栄を謳歌したのであった。
C.カセートシリ[22]が明らかにするように、アユタヤ王国を基礎づけていたのは、新たに優勢となった上座部仏教のみではない。ヒンドゥー教、大乗仏教、精霊(ピー)信仰が混じり合い、デーヴァラージャ思想が引き継がれた。具体的に、トライローク王(一四四八~一四八八)は、インド的な統治原理を用いた。その詩的伝記ユアン・パイによれば、彼が多くのヴェーダ文献に通じていたことが明らかである。アユタヤという名称そのものがそもそも『ラーマーヤナ』に由来する「ラーマ王の統治する神の都アヨードヤ」である。アユタヤ王国の歴代の王が、続いて見る『アルタシャーストラ』を参考にしていたことはほぼ間違いないとされる。ただ、アユタヤの空間構造にはアマラプラやマンダレーのように理念型をそのままみることはできない。一世一王都、一プラサートという観念から王宮の位置は北へずれて行き、さらに東西軸が強調されるようになる。これを王権の世俗化と応地は見る[23]。
そして、「転輪聖王」の末裔たちは、エーヤーワディ河中流域を最終の地としたように思われる。「ビルマ世界」構想を支えたのは、仏教の宇宙観である。アラウンパヤー(在位一七五二~六〇)、シンビューシン(在位一七六三~七六)、ボードーパヤー(在位一七八二~一八一九)の各王は、支配の正統性を主張するために、自ら「転輪聖王」であることを標榜した[24]。
その首都は「転輪聖王」の支配する宇宙の中心に位置するものでなければならなかった。アマラプラは、ボードーパヤー王によって一七八三年に建設されたが、王は、自らを「西方において傘さす大国の王すべてを支配する・・・日出ずる処の王」と称し、中国の皇帝を「東方において傘さす大国の王すべてを支配する朋友であり、黄金宮の主」と呼んで、ジャンブ・ドヴィーヴァ(贍部州)を二分する存在として位置づけていた。インド都城と中国都城の伝統がボードーパヤー王において交錯している。一八二三年にバジドーによってインワに王都が戻されるが、一八四一年に再び王都となる。そして、ミンドン・ミン王によってマンダレー遷都が決定され、一八六〇年に建設完了する。
曼荼羅都市
アルタシャーストラ
「転輪聖王」が理想とした都市とは、そもそも、どのようなものか。第一に手掛かりとなるのが、ヒンドゥーの理想都市のあり方を記した書物として、マウリヤ朝を創始したチャンドラグプタ王(紀元前三一七~二九三年頃)を助けた名宰相カウティリヤが書いたとされる『アルタシャーストラ(実利論)』である。
『アルタシャーストラ』は、古来様々に文献に引用されてきたが、一般にその内容が利用可能となったのは、一九〇四年にヤシの葉に書かれた完全原稿が発見され、R.シャマシャストリによってサンスクリット原文(一九〇九年)と英訳[25](一九一五年)が出版されて以降である。その後、様々な注釈書やヒンディー語訳、ロシア語訳、ドイツ語訳などが出されるが、それらを集大成する形で英訳を行ったのがR.P.カングレー[26]である。日本語訳として上村勝彦訳[27]がある。また、近年、L.N.ランガラージャンによる新訳、新編纂書が出されている[28]。
その全容について検討する余裕はここではない。『アルタシャーストラ』をもとに、古代インドの都城について述べた研究者は多数にのぼるが、その多くは単にその理念を解説するだけで、形態については具体的に語ることを避けてきた。そうした中で、まず形態復原の試案を提示したのが、W.カーク[29] であり 、P.V.ベグデ [30]であった。そうした中で、極めて説得力をもった復原案を示すのが応地利明[31]である。その復元の要点は省略せざるを得ないが図(図①)のようである。まず中央の核心に神殿(寺院)群があり、都城の要となる。それをとりまく内囲帯には王宮および最良の住宅地(市街)が所在する。さらにそれらを取囲む中囲帯には、主として長官の管轄下にある諸公的施設や官庫などの官衙群が集中する。そしてもっとも外縁の外囲帯には、性格を異にする二つの機能が集積している。一つは、各種の職人や商人の居住地いいかえればバーザールである。他の一つは、各四姓の棲み分け的な住宅地である。古代インドの都城は神殿(寺院)を核として、それをとりまく内→中→外の各囲帯がおのおの明瞭な機能分化を示しつつ配列する、という実に整然とした構造を示しているのである。
マーナサーラ
インドには、古来、二つの知ヴィドヤの体系があり、それは、形而上学パラ・ヴィドヤPara Vidyaと自然学アパラ・ヴィドヤからなる。後者の中に、絵画・彫刻から建築・都市計画までに及ぶ「シルパ(造形芸術)」を主題とする古代サンスクリット語の諸文献があり、それらは、シルパ・シャーストラと総称されている。
シルパ・シャーストラは工学の各分野を網羅するが、建築、都市計画に関わるものは、ヴァーストゥ・シャーストラと呼ばれる。「ヴァーストゥ」とは「居住」、「住宅」、「建築」を意味する。このヴァーストゥ・シャーストラには実に様々なものがある。誤解を恐れずに言えば、日本で言うと、『匠明』[32]に代表される、古来、棟梁が建築のノウハウを伝えてきたマニュアル、「木割書」のようなものである。インドでもスタパティとよばれる棟梁やスートラグラヒと呼ばれる測量士が活躍してきたが、その知識、技能、技術をまとめたものである。紀元後五世紀から六世紀には集大成されたとされるが、成立年代は確定しているわけではない。
R.ラーズ[33]は、『マーナサーラ』『マヤマタ』の他に『カーシャパ』、『ヴァイガーナサ』、『サカラディカーラ』、『ヴィスワカルミヤ』、『サナトクマーラ』、『サーラスワトヤム』、『パーンチャラトラム』を挙げている。『マーナサーラ』を英訳したP.K.アチャルヤ[34]によれば類書は約三〇〇にも及ぶ。他に注釈書があるものとして、『サマランガナストラダーラ[35]』、『アパラジタプルチャ[36]』がある。
数多くのヴァーストゥ・シャーストラの中で最もまとまっているのが『マーナサーラ』である[37]。『マーナサーラ』の全容についてもここで触れる余裕がない。よく知られるのは、8つの村落・都市類型であるが、決定的な解釈は示されていない。特に無視されているのは、都市の規模である。また、類型の相互関係がはっきりしていない。
最も詳細な記述がなされるナンディヤーヴァルタの空間構造は以下のようである。()内はA.K.アチャルヤによる章節番号である。
1. 村の敷地が正方形であれば、チャンディタ(マンドゥーカ)による。長方形であれば、パラマシャーイカかスタンディラによる(Ⅸ-166-169)。
2. チャンディタ(マンドゥーカ)の場合、中央の四区画はブラーフマンの区画で、その外周囲一二の区画はダイヴァカDaivaka、さらにその外周囲二〇の区画はマーヌシャMānusha、さらにその外周囲二八区画はパイーサチャの区域である(Ⅸ-170-174)。パラマシャーイカの場合、中央の九区画がブラーフマン、その外周囲一六区画がダイヴァカ、さらにその外周囲二四区画がマーヌシャ、さらにその外周囲三二区画がパイーサチャとなる(Ⅸ-174-177)。
3. スタンディラの場合、中央の一区画のみブラーフマンの領域で、以後、八区画、一六区画、二四区画が同様に割り当てられる(Ⅸ-178-180)。
以上から村落の空間構造は極めて明快である。すなわち、ブラーフマン(梵)の区画、ダイヴァ(神々)の区画、マーヌシャ(人間)の区画、パイーサチャ(鬼神)の区画という同心方角の構造を採り、各囲帯の区画数も明確に示されている。
また、街路パターンを見ると以下のようである。
4. パイーサチャの区画はナンディヤーヴァルタ(蛙)の形を採る(Ⅸ-181-182)。東の車道は北から南、南の道は東から西、西の道は南から北、北の道は西から東へ走る(Ⅸ-183-186)。二本の東西通りと二本の南北通りは一つの歩道を持ち、残りの二本は二つの歩道を持つ(Ⅸ-188-190)。パイーサチャには、二~七の道路がある(Ⅸ-220-221)。
5. 縦横にラトヤー[38](大通り、車道)が走る。このうち、一あるいは三、五、七のヴィーティー(大通り)は二つの歩道を持ち端部に発する(Ⅸ-192-195)。(ヴィーティーの代わりに)一ないし二、三、四、五のマルガ(小路)がつくられるが、マルガには歩道がない(Ⅸ-196)。マハー・マルガ(大路)は、ヴィーティー同様、石灰岩で舗装される(Ⅸ-197)。大通り、大路の間にはクシュードラ・マルガ(小道)が設けられる(Ⅸ-198)。ヴィーティーの幅は三~一二ダンダとする。マハー・マルガの幅はヴィーティーと同じか3/4とする。マルガの幅は、マハー・マルガの3/4か1/2とする(Ⅸ-199-208)。
街路パターンについて、パイーサチャ区画はナンディヤーヴァルタの形を採るというが、上述のように、具体的な形ははっきりしない。グリッド・パターンの街区で通常考えられるのは、大通りから路地が分岐するフィッシュボーン(魚の骨)の形であるが、果たしてどうか。もうひとつは街路パターンに関係しているとも考えられる。車道の方向の記述が特異であるが、R.ラーズ、P.V.ベグデらの図を参照しながら図示すると図のようである(図②)。
マドゥライ
インドにおいて、「転輪聖王」が具体的に設計し建設した都市というと、実は、実際にはほとんどない。挙げるとすれば、南インドの寺院都市シュリーランガム、そしてマドゥライが数少ない都市である。理想の理念がそのまま実現されることはむしろ稀である。また、都市は生き物であって、時代の経過とともに大きく変容を遂げる。中国的都城の例ではあるが、長安にしても、平安京にしても、建設後まもなく、右京は廃れている。マドゥライにしても、実際には、大きな変容を遂げている。
現在のマドゥライは、プラーカーラに囲われた長方形のミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院を中心として、方位軸にほぼ沿った矩形の街路(内から順にチッタレイ通り、アヴァニムーラ通り、マシ通り、ヴェリ通り)が四重に囲っており、寺院内に取り込まれた街路(アディ通り)を合わせると五重の同心方形の入れ子構造を形成している(図③)。一六八八年の地図は、なんらかの理念型の存在を暗示している。しかし、これらは完全な正方形ではなく、かなり歪んだ矩形である。
中心に位置するミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院は[39]は二五七×二四〇mの長方形のプラーカーラ(外周壁)に囲まれ、東西南北には一面に彫刻が施されたゴープラ(楼門)が聳える。最大の南ゴープラの高さは四八mに達する。内部にはスンダレーシュワラ(シヴァの異名)とミーナクシー(シヴァの神妃)の聖室、それらを囲む内回廊、人造の金蓮池(ゴールデン・ロータス・タンク)、千本柱ホールなどがあり、それらは列柱の建ち並ぶ回廊によって結ばれる。プラーカーラにはそれぞれの門があり、スンダレーシュワラの門の東側にはプドゥー・マンダパ[40]が位置する。
マドゥライの町を造営したヴィシュヴァナサ・ナーヤカ(一五二九~一五六四)は、シルパ・シャーストラに基づいて都市計画を行ったと、J.S. スミス[41]もV. バラスブラマニアン[42]もいう。プラーナも繰り返し記述するように、古来伝えられてきたシルパ・シャーストラを基にしたことは間違いないであろう。しかし、具体的に何を基にしたのかは明らかにされてはいない。V.バラスブラマニアンは、『マーナサーラ』に記される理想都市パターン「ラージャダーニ」を基にしてマドゥライは計画されたとするが、根拠を示しているわけではない。
マドゥライの空間構造を象徴的に示すのが都市祭礼における巡行路である。
巡行路は基本的に四つの同心方形状街路(アディ、チッタレイ、アヴァニムーラ、マシ)のどれかであり、祭礼によって異なる。寺院外の三つの同心方形状の街路に沿って右回りに巡行が行われる。その際、神々の御輿や山車は寺院の東正面の門からではなく、その南に位置する門から寺院の外へ出る。この門は寺院内にあるミーナクシーの聖室の正面に位置している。
チッタレイ祭りは、タミル暦の最初の月であるチッタレイ月(四、五月)に行われる最も盛大な祭礼である[43]。都市周辺から二五万人を越える巡礼者がマドゥライに殺到する。一二日間にわたって祭礼が行われるが、まず、毎日朝晩、御輿がマシ通りに沿って巡行する。一一日目にとり行われる山車の巡行は、一年の巡行の中で最も壮大で、ミーナクシーとスンダレーシュワラの像は巨大な山車に乗せられ、マシ通りを巡行する。
アディ月の祭礼ではアディ通り、アヴァニ月の祭礼ではアヴァニムーラ通りで巡行が行われるが、チッタレイ祭りの巡行ルートはマシ通りである。逆にマシ祭りはチッタレイ通りで行われる。チッタレイ祭りは、ティルマライ・ナーヤカ統治時代以前はマシ月(二-三月)に行われていたが、ティルマライによってチッタレイ月(四-五月)に変更されたので、名前に矛盾が生じたとされる。チッタレイ月にはもともと、マドゥライの北東約二〇kmに位置する大規模なヴィシュヌ派の寺院アラガー・コイルにおいて、アラガー祭りが行われていた。シヴァ派の寺院であるミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院の最大の祭礼をヴィシュヌ派の祭礼と合体させることで、ティルマライは支配領域の統治の安定をはかったというのである。
マンダレー:最後の曼荼羅都市
エーヤーワディ河中流域を中心に栄えたピュー以降、ビルマ(ミャンマー)史は、統一王朝として、アノーヤターAnawrahta王によるパガン王朝(一〇四四~一二八七年)、バインナウンBayinnaung王によるハンサワディ=ペグー王朝(一二八七~一五三九年)、アラウンパヤーAlaungpaya王によるコンバウン王朝(一七五二~一八八五年)[44]の創始が大きな区切りとされている。加えて、インワ王朝(一三六四~一五二六年)、タウングー王朝(第1次一四八六~一五九九、第2次一五九七~一七五二年)が主だった王朝である。ビルマでは、パガン、タウングー、コンバウン朝をそれぞれ第1、第2、第3帝国と呼ぶことが多い。
しかし、こうした時代区分にも関わらず、そして非ビルマ系王朝も含めて、王権思想、それを支える制度的枠組みなどについて強調されるのは連続性である。R.H.テイラー[45]にしても、J.F.キャディ[46]にしても、英国統治以前は、「オールド・ビルマ」であり、「プレ・コロニアル・ビルマ」として一括するのみである。M.アウン・スウィン[47]は、ビルマの王権を支える古典的概念として三つの要素を挙げている。すなわち、人間としての王―ダルマラージャ、チャクラヴァルティン、神としての王―デーヴァラージャ、菩薩、釈迦、守護神(ナッNats)の要素を併せ持ち、それを統合するのがカリスマ=超人としての王-カルマラージャである。19世紀半ばのミンドン王のマハナンダ湖碑文に、「太陽王、臣民に憐憫の情を持ち、あらゆる王の義務を果たし、その王国はメール山のナガラに似ている。外国に宗教を広め、兄弟王の尊敬を集め、あらゆる犯罪と内戦を征圧する。まるでブッダのようである。」とある。「転輪聖王」の伝統は一貫するのである。そして、その王都の伝統も一貫しているように思える。
「オールド・ビルマ」において社会の基本的単位となっていたのはサンガ(仏教信徒集団)である。僧侶は人々の生活のあらゆる局面に関わり大きな影響力を持っていた。パゴダが村々に建設され、近接してキャウンkyaungと呼ばれる僧院が設置された。王都に居住した僧は一九世紀始めに二万人を超え、都市人口の約五分の一を占めた。ラングーンのシュエーダゴン寺院などは千人から千五百人が居住していたと伝えられる。このサンガの体制を維持することは、ビルマの諸王朝の存在理由であり続ける。それ故、パーリー語の文献、仏像、聖なる遺物をインドやシャムから獲得することは、戦争や外交の大きな目的となった。仏教(南方上座仏教)とサンガの体制は王権の基礎であり、王は仏教寺院とサンガの守護者であり続けるのである。
英国は、仏教の守護者として振る舞うのには結局失敗したといっていい。一九世紀初頭に英国支配地アラカン、テナッセリムで一八三〇年代に度重なる反乱が起こったのはそれ故にである。一八五二年の低地ビルマの併合、一八八六年のコンバウン朝の終焉に至る過程でも反乱が続発するが、その間に建設されたのがマンダレーである。
ここでの関心は王都のかたちである。得られる確実な資料はそう多くはないが、「オールド・ビルマ」の伝統の最後を王都として形象化させたのがアマラプラ、そしてマンダレーなのである。
プレ・コロニアル・ビルマ:円形都市と方形都市
中国の史書に依れば、二世紀頃のエーヤーワディ(イラワジ)河流域には北にピュー(驃)、南にタン(撣)という国が存在した。ピューは一世紀頃から存在が確認されるが、七世紀以降はエーヤーワディ河流域一体を勢力圏においたと考えられている。ピューとフナンは五世紀以前から交易関係を持っていたことが知られている。また、ドヴァーラヴァティーは七世紀初めエーヤーワディ流域南部に勢力を伸ばしている。
ピューの遺跡として、シュリークシェートラ(タイェーキッタヤー、室利差咀羅、現プローム市)をはじめ、中央平原地帯のマインモー(マイミョー)、ベイタノ、ハリンジーなどが知られる。いずれも、円形もしくは楕円形の煉瓦造の城壁で囲われ、中心に王宮が置かれている。こうした遺跡からは共通にピュー文字碑文、ビーズ、銀貨、石製もしくはテラコッタ製の壺が出土している。また、主要な遺跡からは菩薩像、ヒンドゥー神像なども出土し、ヒンドゥー教、仏教が信仰されていたことが知られる。ピューの城郭都市の経済を支えたのは、塩田と低湿地群周辺での稲作であったと推定されている[48]。
シュリークシェートラは東西経四km、南北経五km程で、ピューの都市遺構としては最大規模を誇る。ビルマの年代誌は、シュリークシェートラにはインドラ神などの神々によって須弥山の上に三二の門をもつ都市が建設されたと伝えており、遺構は、その宇宙観を象るかのように円形をしており、多くの門が確認されている。三二の門は三二の属領に対応するもので、三二人の封臣に囲まれて、その中心に王が住んでいたことを示唆する、という説がある。その他、ベイタノ(一~五世紀)、ハリンジー(三~九世紀)、マインモー(二世紀後半~六世紀末)などには、インドとの関係を窺わせるストゥーパなど建築遺構が残されている、例えば、ベイタノ遺跡には南インドのアーンドラ朝(c.紀元前.一世紀~紀元三世紀)の影響があるとされる。また、シュリークシェートラ遺跡にはアマラヴァティー地方、あるいはベンガル、オリッサ地方の影響がうかがえるパゴダが残されている。
ビルマ西北部、ベンガル湾沿岸に古くからのインド化国家ダニヤヴァティー(~六世紀)が知られる。ラカイン(アラカン)族の支配域で、ヴェサリ(四~九世紀)を拠点としていたと考えられている。ダニヤヴァティー、ヴェサリの遺構は王宮を中心に市街を丸く囲む形態をしている[49]。こうした初期の円形都市の系譜は、何故か、方形の都市の系譜へ転じていく。
九世紀から一〇世紀にかけて、ビルマ人がエーヤーワディ川流域に南下してくる。ビルマ語の南北を指す言葉が、南=山、北=川下を意味することから、ビルマ族の原郷は現在のミャンマーではないと考えられている[50]。山とはヒマラヤであり、北に揚子江あるいは黄河が流れている地域が母地と考えられる。中国史料が蕃夷という氏羌(ていきょう)族はチベット・ビルマ族系の諸民族とされる。黄土高原に居住していた氏羌族は、漢民族との抗争に敗れ、南下して七三〇年に統一国家「南詔」を建てる。この南詔がビルマ族の祖先に関係すると考えられている。
南詔の圧政を逃れてきたビルマ族の最初の入植地はチャウセー、第二の入植地はミンブーとされる。彼らはカヤインと呼ばれる「四角い村」[51]を建設する。カヤインとは、単一首長のもとの地域、国を意味し、その中心には城壁都市を置いた。そして、ビルマ族がうちたてたのがパガン王朝(一一~一三世紀)である。ビルマの最初の統一王朝とされる。クメール、ジャワと並んで、パガンは、東南アジアにおけるヒンドゥー・仏教の三大中心となる。
現在のバガンに林立するパゴダ(ゼディ)からかつての繁栄を偲ぶことができるがその都城の形態は明らかでない。現在も王宮跡地の発掘が続けられている。残されている東の正門サラバル門は一〇九〇年頃の建造だという。城壁は、北が五〇〇m、東が一km、南が1一.一kmほど残っている。高さ二.四m、厚さ三.五mの城壁の外側には幅五〇mの濠が廻らされている。大きく湾曲しており、計画性はあまり感じられない。というより、歴史的に破壊、修復、補強を繰り返したと見るべきであろう。エーヤーワディ川に接する西側は流れの変化に応じて変化を被ったことが考えられる。
興味深いのは、東と南に三つの門、北に二門が残っていることである。西門はエーヤーワディ川に面し、しかも現状では西側城内は大きく欠損しているが、推定できるのは各辺三つづつ一二の門をもつ構成であったことである。王宮跡地もがほぼ中央に位置している。その理念を窺うためには、発掘成果を待たねばならないが、アマラプラ、マンダレーと同様の構成であった可能性が高い。
タウングー朝の王都
パガン朝がクビライ・カーンの大元ウルス軍に敗れて滅亡すると、中央平原地帯の各所にミョウと呼ばれる城市が成立し始める。このミョウの構造と機能は、同時代のメナム盆地のムアンに似ているという[52]。カヤインあるいはチャオプラヤー河流域・中央タイ段丘・コーラート高原に見られるウィエンとの関連も興味深い。ウィエンは、モン族の伝統とされるのである。ピュー族とともに、下ビルマにインド化以前から先住していたのがモン族(タライン族)である。タトーン(七~一〇世紀)、ペグー、ダゴン(ラングーン)などを拠点とするラーマンニャ・デーサなどモン人国家が成立していたことが中国史料やパーリー語年代記によって確認されている。
パガン朝の終末と平行して、エーヤーワディ下流域のモッタマ・ミョウに、スコータイ王の後ろ盾によってワーレルー王(一二八七~九六年)が政権を樹立する。王朝はチェンマイ、スコータイ、アヨードヤの脅威を受け続け、一三六九年に都をペグー(バゴー)に移す。伝説に依れば、ペグーの起源はハンサワティ(ハンターワディ)という町である[53]。白鳥が浅瀬の小さな土地に飛来したことに由来する。現在その地には、ヒンサゴン・パヤが建てられている。モン族が居住し始めた当初の町にはインドからの移住者が多く含まれており、この土地をウッサと呼んだという。彼らはオリッサと関係があったと考えられる[54]。
後期モン王朝とも呼ばれるハンサワディ=ペグー王朝(一二八七~一五三九年)の間、ペグーは南ビルマを束ねたモン族の王都として栄えた。ラーザーディリ(一三八五~一四二三)、シンソープ (一四五三~七二)、ダンマゼーディー(一四七二~九二)などの諸王のもとで上座部仏教体制が確立されるのである。この時代の市壁がシュエモードー・パヤの東に残されている。
ペグーは、一五三九年にタビンシュエーディ王によってタウングー王国に服属させられ、再びビルマ族の支配下に置かれる。上ビルマをシャン人が支配する中で、スィッタン川上流域に勃興したのがタウングーで、ミンチーニョウ(在位一四八六~一五三一年)が王朝を建て、ダビンシュエーディがそれを継いだ。次の第三代バインナウン王が一五六六年に新都を建設し、ハンサワディと名づけた。この新都が極めて理念的に設計された王都として知られるペグーである。
ただ、このハンサワティの遺構は、古い濠を廻らした城壁の跡以外に現存しない。シュエモードー・パヤは古い伝承をもつが、歴代の統治者がシヴァシヴァ増拡を繰り返してきた。現在のものは一九五四年のものである。また、九九四年の創建という横臥仏(寝仏)シュウェタリャウング・ブッダが著名であるが、現存するのは一九〇六年建設である。しかし、近年発掘が行われつつあり、バインナウン王が建設した王宮の復元も行われた。下ビルマの歴史都市の中でも、明快な理念を確認できるのがバインナウン王によるハンサワディである(図④)。
一五世紀半ば以降、ペグーの地を多くの外国人が訪れ、記録を残しているが、一六世紀中葉(一五六七年)にペグーを訪れたヴェニスの商人カエサル・フレデリックは、バインナウン王の下で新しく建設された都市について次のように書いている[55]。
「新しい都市には王宮と直臣、貴族などの居住地がある。私の滞在中に、彼らは新都市の建設を終えた。巨大な、極めて平らかな、正方形の都市である。城壁で囲われ、その回りに濠が廻らされていて、鰐が放たれている。橋はないが、各辺五つずつ計二〇の門がある。・・・街路は私の知る限り最も美しく、門と門の間を真っ直ぐに繋いでいる。一方の門の前に立てば他方が見渡せ、一〇人から一二人が並んで騎乗できるほど広い。・・・王宮は都市の中心にあって城壁で囲われ、さらに濠が廻らされている。」
以上から、新しく建設されたペグーは六×六の分割パターン、『マーナサーラ』にいうウグラピータを基礎にしていたことが明らかである[56]。また、もうひとつ考えられるのは、タウングーがモデルになっていたことである。タウングーは極めて整然とした矩形(正方形)をしている。分割のパターンは明確ではないが、東西南北に門を持つ形式(ダンダカ)である。タウングーの都市理念について、まず考えられるのは、「四角い村」カヤインの伝統である。そして、インド的な都城理念の影響である。
全36区画から中央の王宮の四区画を引くと三二となる。この三二という数字、中央の1を足して三三という数字は、偶然ではない。上座部系仏教において、メール山(須弥山)の頂上に住むとされる神々が三三である[57](図⑤)。三三は、家臣や高官の定員数として、あるいは王国を構成する地方省の数としてしばしば登場する数である。ペグーがその宇宙観に基づいて首都を建設したのは明らかである。
バインナウン王の死後、王朝は衰退し、第四代ナレースエン(在位一五八一~九九年)の代で崩壊する。第一次タウングー朝は一世紀の命であった。新都は半世紀もたなかったことになる。一七四〇年にモン族が蜂起し、ペグーを再び首都とするが、一七五七年にアラウンパヤー王によって完全に破壊されてしまう。アラウンパヤー王は上ビルマの王となり、一八五二年の英国への服属までアヴァの支配下に置かれる。ボードーパヤー王(一七八二~一八一九年)によってある程度再建されるが、バゴー川の流れが変わり、港の機能を失うとともにペグーはかつての栄光を失うことになった。
タウングー朝の再興は、ニャウンヤン(在位一六〇四~〇六年)によってなされる。彼は古都インワに新たにミョウを建設し(一五九七年)、新都とする[58]。インワ(アヴァ)[59]は、もともとサガインを拠点としたシャン族によって築かれた都市であるが、一三六四年にビルマ族の王都となり、以降四〇〇年にわたって王都であり続けた。ただ、ここでも多くの攻防があり、棄都、遷都が繰り返されている。インワが最終的に放棄される大きなきっかけになったのは一八三八年の地震である。王都は大きく破壊され、一八四一年に遷都が決定されたのである。
インワは、北はエーヤーワディ河、東はミットゥゲ川によって区切られている。ミットゥゲ川はもともと人工の運河で、インワは運河に囲われた水都である。インワとはシャン語でインレイ「湖への入口」という意味である。物資の集散する要衝の地に位置し、雨期には船でしか行き来できない独立性の高い島となる。アユタヤに似ている(図⑥)。
かつてのインワは、現在では大半が耕地と化している。残された遺構もマハー・アウンミェー・ボンザン僧院と珠玉の木造僧院バガヤ・チャウンぐらいである。ただ、濠と城壁の跡は確認できる。興味深いのは、まず、各辺二門をもつグリッド・パターンをしていることである。東西が長い長方形をしているけれど、インワがバガン、トゥングー、ペグーの都市理念を引き継いでいることは明らかである。
また、城郭二重の構造が明確に窺えることも興味深い。北東の角に城塞が置かれ、その中央に王宮がある。そして、市街はジグザグの市壁と濠でさらに囲まれている。このジグザグの形態は、ビルマの他の都市には見られない。南北は対称になっており幾何学的である。市街といっても、水田ないし池、あるいは運河網である。基本的にインワは水利都市、水生都市であり、郭壁は水の制御のために設けられたものである。
第二次タウングー朝は、タールン王(在位一六二九~四八年)の死後衰退を始め、最終的にはペグーを拠点とするモン人勢力によって一七五二年に滅亡する。その年、モーソーボー(シュエボー)の首長であったアウンゼーヤがペグー軍を退け、自ら王であることを宣言、アラウンパヤーを名乗った。コンバウン朝(一七五二~一八八五年)の成立である[60]。
アマラプラとマンダレー
アウランパヤー以下、コンバウン朝の王たちは「ビルマ世界」の実現を目指した。「ビルマ世界」とは、地理的には、東はベトナム、西はインド、北はアッサム、南はスリランカに至る世界である。歴代の王はその世界の征服を目指して征服行動を繰り返した。
「ビルマ世界」構想を支えたのは、仏教の宇宙観である。アラウンパヤー(在位一七五二~六〇)、シンビューシン(在位一七六三~七六)、ボードーパヤー(在位一七八二~一八一九)の各王は、支配の正統性を主張するために、自ら「転輪聖王」であることを標榜した[61]。
その首都は「転輪聖王」の支配する宇宙の中心に位置するものでなければならなかった。アマラプラは、ボードーパヤー王によって一七八三年に建設された。ボードーパヤーは、自らを「西方において傘さす大国の王すべてを支配する・・・日出ずる処の王」と称し、中国の皇帝を「東方において傘さす大国の王すべてを支配する朋友であり、黄金宮の主」と呼んで、ジャンブ・ドヴィーヴァ(贍部州)を二分する存在として位置づけていた[62]。序で述べたように、インド都城と中国都城の伝統がボードーパヤー王において交錯していると見ることができるだろう。
一八二三年にバジドーBagyidawによってインワに王都が戻されるが、一八四一年に再び王都となる。そして、ミンドン・ミン王によってマンダレー遷都が決定され、一八六〇年に建設が完了する。アマラプラの王宮の木造建造物はマンダレーに移築され、残っていない。アマラプラは「不死の都」という名にも関わらず短命であった。
その都市形態は、残された地図に依れば、理念をそのまま具現するように、極めて整然としている(図⑦)。そして、そのことは王宮の北にあった寺院マ・パ・チェ・パヤMa Pa Khet Payaに残された地図(図⑧)からも確認される。各辺三門、大きくは四×四=一六のブロックに分割され、さらに各ブロックは三×三=九のナイン・スクエアに分割されている。従って、全体は一二×一二=一四四の区画からなる。これは、『マーナサーラ』にいうデシャと呼ばれる分割パターンである。中央の王宮は、そのうち、東西四×南北五=二〇区画を占めている。北東、南東、北西、南西の四隅にはそれぞれパゴダ(ツェディ)が置かれている。
現在復元中のマ・パ・チェ・パヤに残された地図に依れば、王城内の居住の様子をある程度窺うことができる(図⑨)。
四×四=一六ブロックを、東を上、北を左にして北東角を(1、1)、南東角を(1、4)、北西角を(4、1)、南西角を(4、4)のように示すと、パゴダは以上の4隅の他、(1、2)に一、(1、4)に二、(3、4)に一、計八つある。ミンドン王の邸宅は(2、4)、チボー王(王子)の邸宅は(4、3)にあった。女王の邸宅はは第一(4、3)、第二(4、1)、第三(3、4)の他、(3、2)(4、1)(4、3)合わせて七ある。西北に集中するのに対して、王子宅は(2、3)(2、4)(3、4)に集中している。
王宮周辺には、高官が居住するが、外国からの賓客を応対する外務大臣は(3、1)、隣接して接待所が設けられていた。通訳はかなり多く、(1、3)に六人、(3、4)に四人など一三人確認できる。アマラプラは国際都市であった。タイの大使は(2、1)に居住していた。国王の行動を知らせる官房長官は(2、3)、他に法律家、休廷料理人、刑務所などが王宮周辺にあった。その他、占星術師・占い師(1、2)(1、3)、音楽師(1、4)、大工(1、2)なども城内に居住していた。
上述のように、一四世紀にモン人の建てたハンサワディは三つの地方のそれぞれが三二のミョウに分けられていたが、コンバウン朝の王は政治的伝統として三二のミョウを意識していたという。現在、四隅のパゴダは残されているが、他の敷地の大半は軍隊が利用している。
ミンドン・ミン王は、一八五三年に王位を継承すると、前首都アマラプラを棄て、一八五七年に新首都マンダレーの建設に着手する。五人の監督官が指名され、新都建設に伴って一五万人が移住したという(図⑩)。
下ビルマへ英国の侵入を許した事態を前にして、新首都は新たな仏教世界のヴィジョンを表すものでなければならなかった。新たな世界は若い仏教徒である王によって築かれなければならなかった。マンダレーという名前は、上述のように「曼荼羅」に由来する。宇宙の中心に位置すべきなのがマンダレーである。
しかし、マンダレーは束の間の「曼荼羅都市」であった。英国はマンダレーを占領(一八八六年)すると、宇宙の中心としての都市をダフェリン要塞に改造してしまう。要塞は、英軍司令部をはじめ、植民地政府関係の機関で占められ、住民は市の南部に移住させられた。英国は、その後、王宮、城塞、城門などを復元するが、第二次世界大戦の際、全ては破壊されたのであった。
マンダレーの王宮博物館(図⑪)、またマンダレー博物館に残された地図は極めて明快である。城郭とも綺麗なグリッドによって構成されている。全体は大きく四×四=一六ブロックに分割され、さらに各ブロックが三×三=9(ナイン・スクエア)区画に分けられて一二×一二=一四四区画からなる(図⑫)のはアマラプラと同じである。しかし、最外周の中央に城壁が設けられているから、最外周の区画は半分の区画となり、中央は一〇×一〇=一〇〇区画となる。その内、中央の王宮が四×四=一六区画を占める。
形状、規模について、オコノールは、「完全な正方形で六,六六六フィート四方。城壁の高さは一八キュービット、五五五フィート毎に金色の尖塔をもつ監視塔が設置された。一二の門をもち、四つの主門は王宮の東西南北に置かれる。」と書いている[63]。また、アウン・ソーは、「城塞は正方形で各辺一〇ファロン[64]。城壁の高さは二五フィート。一二門が等間隔に配され、ピャタットと呼ばれる木造の塔が中間の小塔三二と合わせて四八ある。濠の幅は二二五フィート、深さは一一フィートである。五つの木造橋のうち、四つは東西南北の王道に繋がっている。」という[65]。さらに、ディダ・サラヤは[66]、「城壁は各辺二,二二五ヤード、それぞれ三つのポルティコを持ち、中央は正確に東西南北を向いている。市壁に沿って、八九ワwa(一七八m)毎に胸壁が設けられピャタットが建てられている。市壁は高さ二七フィート、厚さ一〇フィートである。銃丸は七フィートの高さに設けられている。濠は城壁から一三五フィート外側に、幅二五〇フィート、深さ一一フィートである。」という。
各辺の長さ、六,六六六フィート、一〇ファロン、二,二二五ヤード[67]は微妙に異なる。一〇ファロンは二二〇〇ヤードだから五ヤード=四.五七二m違うが、二,二二五ヤードは六,六七五フィートであり、1フィートを三〇.四八cmとすると、ほぼ二km(二〇三一.八m~二〇三四.五)である。現在のマンダレー旧城内は軍が使用し、王宮以外は侵入地域となっていて実測ができない[68]。しかし、現行地図、航空写真から各辺がおよそ二kmであることは裏づけられる。問題は、計画の際にどういう単位を用いたかである。一〇ファロンというのは区切りがいいが、六,六六六フィートというのは少し不自然である。
現在ミャンマーで使われる寸法は、英国支配の歴史を受けて、ヤードである。伝統的にラマrama、ペイpei、ガイgaiが用いられてきたが、一二ラマ=一ペイ、三ペイ=一ガイで、市販されている物差しは一ガイ=九一五mmであるから、ヤード=三フィートとほぼ同じである。別に、タールtarという単位が用いられ、三〇〇タール=約一kmという。すなわち一タール=四ガイである[69]。
以上を基に計画寸法を推定すると、以下のようになる。重要視したのは王宮博物館に残された模式図である。すなわち、最外周は1/2区画となっていることから、城壁内部の規模は一一×一一=一二一区画と考える。四×四=一六のブロックは六〇〇ガイ(一五〇タール)四方、各区画は二〇〇ガイ(五〇タール)四方とすると、各辺は二二〇〇(100gai+200gai×10+100gai=2200gai)ガイとなる。街路幅は、航空写真および城外の実測から六〇ガイと推定できる。
実に整然と区画されたマンダレーは、同じ分割システムを用いるアマラプラとは王宮の大きさが異なり、城壁の位置が異なる。計画図(図⑬)によると王宮は四×四=一六区画であり、王宮の規模の拡大(図⑭)を後のものとすれば、アマラプラの方がすっきりしているが、マンダレーも分割パターンとして不自然ということはない。一〇×一〇=一〇〇という街区数を優先したとも考えられる。また、中心のブラーフマン(梵)区画を、順に、ダイヴァ(神々)区画、マーヌシャ(人間)区画、パイーサチャ(鬼神)区画が取囲む、極めて明快な同心方格状の構成をとるヒンドゥー都城の構成は、王宮を三重の帯で取囲むマンダレーの方にみることができる。アマラプラとマンダレーの大きな違いは、マンダレーが王城を取囲む住区をさらに取囲む城郭をもつこと、すなわち城郭二重の構造を採ることであろう。
この最後の「転輪聖王」の王都は、わずか四半世紀住まわれただけである。英国軍は、自らへの贈り物のように、軍事拠点とするのである。居住者の分布を示す、マンダレーの王宮博物館とマンダレー博物館に残された二葉の地図はかなり異なっている。その居住実態を明らかにするのは、ミャンマー語に不案内なものには手に余る。歴史家の手が必要である。
おわりに
アンソニー・リードは、彼の言う、一五世紀末から一七世紀にかけての「交易の時代」に先立って東南アジア各地に存在した都市を諸文献を渉猟して列挙している[70]。一六世紀における主だった都市として挙げられるのは、アユタヤ、ペグー、マラッカ、パサイ、ブルネイ、デマ(ドゥマッ)、グレシクである。また、一八世紀について、以上に加えて挙げられるのが、タンロン、キムロン、フエ、プノンペン、パガン、パタニ、ジョホール、アチェ、バントゥン、マタラム、スマラン、ジュパラ、トゥバン、スラバヤ、マカッサルなどである。都市の規模については信頼性の薄い出典も多いが、一六世紀にはタンロン、ペグー、そしてアユタヤが一〇万人規模の都市であったとされる。そして、マタラムも含めて一八世紀中葉にはそれぞれ一五万から二〇万人に達したと考えられている。
内陸の都市であれ港市都市であれ、こうした東南アジアの都市の構造は基本的に同じであり、宇宙の構造を映すべく建設されたものだとA.リードはいう。アマラプラ、マンダレーは、こうした「宇宙の構造を映すべく建設された都市」の末裔である。
「交易の時代」以降、全く新たに都市が生まれてくる。「西欧列強」による植民都市である[71]。交易の拠点となったアジアの港市がその核となるが、都市構成の原理は以前とは大きく異なる。世界都市史という大きな視点で見ると、攻城法の変化、すなわち大砲など火器の誕生によって、一五世紀から一七世紀にかけて都市計画のあり方は大きく転換するが、アジア各地に建設された植民都市はまさにその新たな都市計画技術(築城術)に基づいて建設されるのである。
一八世紀末以降の産業革命は、さらに都市のあり方をさらに決定的に変える。具体的に蒸気船は大規模な港湾を必要とし、蒸気機関車による鉄道の敷設は都市の規模を飛躍的に拡大させると同時にその構造を大きく転換させた。一九世紀末には、世界各地で「近代都市」が誕生しつつあった。マンダレーが建設されたのはその頃のことである。
マンダレーを生んだビルマ(ミャンマー)のその後については、J.F.キャディやR.H.テイラーに譲りたい。都市計画史についての情報は現在のところほとんどない。今日の東南アジアにマハティールの新首都プトラ・ジャヤ計画、スハルトのジャカルタ計画など開発独裁あるいは突出したカリスマ的指導者による都市計画を見ることができるが、全世界を支配するのは「近代都市計画」の論理であり、実際に都市を動かしているのはスペキュレーションの論理である[72]。
[1] タントラtantra文献によれば、普通チャクラは身体に六つある。下から、ムーラーダーラ・チャクラ mūlādhāra‐cakra(会陰、四弁蓮華の形)、スバーディシュターナ・チャクラ svādhişţhāna‐cakra(臍、六弁の蓮華の形)、マニプール・チャクラ maņipūr‐cakra(臍上、十弁蓮華の形)、アナーハタ・チャクラanāhata‐cakra(心臓、十二弁蓮華の形)、ビシュッダ・チャクラ viśuddha‐cakra(喉、十六弁蓮華の形)、アージュニャー・チャクラ ajńā‐cakra (眉間、二弁蓮華の形)である。また、一般にさらに2つのチャクラが加えられる。ひとつは、サハスラーラ・チャクラsahasr´ra‐cakra(頭頂、千弁蓮華の形)で、シヴァŚiva神の居処であるとされる。もうひとつは、ムーラーダーラ・チャクラの直下にあり、三角形をしたアグニ・チャクラ agni‐cakraで、ここには、シヴァ神妃と同一視されるシャクティśakti(性力)が三重半のとぐろを巻いたクンダリニー kuņďalinīという名の蛇の形をして住まっているという。人がヨーガを行い、息を止めると、体内に生命エネルギーが充満し、これがクンダリニー(性力)を目覚めさせ、脊椎を貫通している管の中を、チャクラを中継点としながら上昇させることができる。クンダリニーがついにサハスラーラ・チャクラに至ると、これは宇宙の根本原理であるシヴァ神と合一したことになる。このとき人は、宇宙を主宰する力をそなえ、解脱を達成するという。
[2] ヒンドゥー教では、チャクラはヴィシュヌの持ち物とされる。
[3] 七宝は、仏教では文字通り七つの宝をいう。『法華経』では、金、銀、瑠璃、勝小、瑪瑙、真珠、侍瑰、『大無量寿経』では、金、銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、勝小、瑪瑙、『阿弥陀経』では、金、銀、瑠璃、玻惹、勝小、赤珠、瑪瑙をあげる。転輪聖王がもつとされる七宝は、別の伝承であり、金輪(こんりん)宝、白象(びやくぞう)宝、紺馬(こんめ)宝、神珠宝、玉女(ぎよくによ)宝、居士(こじ)宝(大蔵大臣)、主兵(しゆびよう)宝(元帥)の七つをいう。
[3] 石澤良昭、「アンコール=クメール時代(九-十三世紀)」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(10-15世紀)」、岩波書店、2001年)
[4] 『平凡社大百科事典』「転輪聖王」(岩松浅夫)
[5] 石澤良昭、「アンコール=クメール時代(九-十三世紀)」、岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(10-15世紀)」、岩波書店、2001年
[6] タイ語では塔状の屋根をもつ壮麗な宮殿や神殿をいう。サンスクリットのプラサーダ(寺院)が語源。
[7] ギリは、サンスクリットで山の意。キーリーはタイ語。
[8]
応地利明、「アジアの都城とコスモロジー」、『アジア都市建築史』、布野修司編、昭和堂、2003年。応地利明、「南アジアの都城思想-理念と形態」、板垣雄三・後藤明編、『イスラームの都市性』、日本学術振興会、1993年。
[9] George Coedés、
“Les états hindouisés d’Indochine et Indonésie”、
Paris、 1948、1964、
1968.“The Indianized States of Southeast Asia”、
East-West Center Press、 Honolulu、
1968
[10] G.セデスは「第二次インド化」という。
[11] 「インド化」以前の東南アジアには、水田稲作、牛・水牛の飼育、ドンソンDong-son青銅器文化、鉄の使用、精霊崇拝、祖先信仰・・・など、ある共通の基層文化が存在していた。G.セデスは、それを「先アーリヤ文化」と呼ぶ。
[12] C.ギアツ、『ヌガラ 19世紀バリの劇場国家』、小泉潤二訳、みすず書房、1989年。Clifford
Geertz、 “NEGARA The Theatre State in Nineteenth-Century Bali”、
Prinston University Press、 New Jersey、
1980
[13] Wolters、
O.W.、 “History、
Culture、 and Region in Southeast Asian
Perspectives”、 Singapore、
Institute of Southeast Asian Studies、
1982、 Revised ed.、
Cornell University Southeast Asia Program、
Ithaca、 1999.
[14] Tambiah、
S.J.、 “World Conqueror and World Renouncer”、
Cambridge University Press、 1976
[15] 矢野暢、『東南アジア世界の論理』、中央公論社、1980年
[16] 桃木至朗、『歴史世界としての東南アジア』、山川出版社、1996年
[17] バリは「博物館」であり、先植民地時代の内インドネシアの文化が無疵で保存されているというのは誤りであり、バリで見いだされるものが存在していたことはジャワや東南アジアの他の地域でそれぞれ証明されるべきであること、またさらに、バリとジャワ東部とでは生態学的に異なっており、地域差を考慮すべきこと、すなわち、バリのヌガラ・モデルは、当然、時間的、空間的修正が施されるべきであることを「序章」で述べている。
[18] Gonda、 J.、
“Sanskrit in Indonesia”、 Nagar (India)、 1952、
2nd ed. New Delhi、 1973. Juynboll、 H.H.、 “Oudjavaansch-Nederlandsche
Woordenlijst”、 Leiden、 1923.
[19] 2001年に石澤良昭ら上智大グループはバンテアイ・クデイ遺跡から大量の廃仏像を発掘した。
[20] 20世紀後半の東南アジア史研究を集大成する形で日本で編まれた『岩波講座 東南アジア史』には、このO.M.ウォルタースの「マンダラ論」の大きな影響を見ることが出来る。
[21] ヤショヴァルマンⅠ世(在位889‐910年頃)当時のクメール族の居住地域は、北は現タイのコーラート高原のムーン川流域から、南はメコン河デルタ地帯までの範囲であった。さらに、11世紀にはチャオプラヤー河流域のロッブリまで伸張し、12世紀には同流域をさらに北漸してスコータイまでを属領とするに至っている。
[22] Charnvit Kasetsiri、
“The Rise of Ayudhaya A History of
Siam in the Fourteenth and aafifteenth Centuries”、Oxford
University Press、 1976
[23]
応地利明、前掲論文。
[24] 渡辺佳成、「ボードーパヤー王の対外政策nituite―ビルマ・コンバウン朝の王権をめぐる一考察―」、『東洋史研究』第46巻3号、1987年。
[25] Shamasastry、
R.、 “Arthasastra of Kautilya”、
University of Mysore、 Oriental Library
Publications、 1915.
[26] Kangle、
R.P.、 “The Kautilia Artaśāstra”Part 1
Sanskrit Text with a Glossary、
Part 2 An English Translation with Critical and Explanatory Notes、
Part3 A Study、 Bombay University、
1965. Reprint、 Delhi、
Motilal Banarsidass Publisher、 1986、
1988、 1992.
[27] カウティリヤ、『実利論』上下、上村勝彦訳、岩波文庫、1984年。上村訳は、適宜、R.P.カングレー訳を参照している。
[28] . Rangarajan、
L.N.、 “Kautilya The Arthashastra”、
Edited、 Rearranged、
Translated and Introduced、 Penguin Books India、
1992.
[29] Kirk、
K.、 ‘Town and country planning in
ancient India according to Kautilya's Arthasastra’、
Scottish Geographical Magazine 94、
1978
[30] Begde、
P. V.、 “ Ancient and
Medieval Town Planning in India”、 Sagar Publications、
New Delhi、 1978
[31] 応地利明、前掲論文。
[32] 江戸幕府作事方大棟梁の平内(へいのうち)家に伝来した木割書。1608年(慶長13)秋の平内政信の署名、10年初春の政信の父吉政の署名があり、成立は江戸初期とされる。現存するのは写本で、東京大学(元禄頃)、東京都立中央図書館(1898)、小林家(1846)などが所有する。門記集(門)、社記集(鳥居、神社本殿、玉垣、拝殿等)、塔記集(塔と九輪)、堂記集(寺院の本堂、鐘楼、方丈等)、殿屋集(主殿、塀重門、能舞台等)の5巻からなる。
[33] Rāz、 Rām、”Essay on the
Architecture of the Hindūs”、 John William Parker、 London、 1834.
[34] Acharya、P.K. “Architecture of
Manasara”、 Oxford University Press、 1934.
[35] Agrawala、 V.S. (ed.)、 “Samaranganasutradhara
of Maharajadhiraja Bhoja”、 Baroda、 1966
[36] Mankad、
P.A.、 “Aparajitaprccha of Bhuvandeva”、
Baroda、 1950
[37]
「マナ
mana」は「寸法 Measurement」また「サラ
sara」は「基準 essence」を意味し、「マーナサーラ 」とは「寸法の基準
Essence of Measurement」を意味するという。また、建築家の名前だという説もある。成立年代は諸説あるが、P.K.アチャルヤ
は6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものだとする。
[38] ラタratha(山車)の走る道という意味である。
[39] ミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院の物理的構成に関しては、以下の文献をもとにしている。神谷武夫、『インド建築案内』、TOTO出版、1996。佐藤正彦、『南インドの建築入門 –ラーメーシュワーラムからエレファンタまで』、彰国社、1996。ジョージ・ミッチェル著、神谷武夫訳、『ヒンドゥー教の建築 –ヒンドゥー寺院の意味と形態』、鹿島出版会、1993。Das、
R.K.、 “Temples of Tamilnad”、
Bhavan’s Book University、 2001。Jeyechandrun、
A.V.、 “The Madurai Temple Complex”、
Madurai Kamaraj University、 1985。Michell、
G. (ed.)、 “Temple Towns of Tamil Nadu”、
Marg Publications、 1993
[40] ヒンドゥー寺院の聖室の前にある拝堂、ホール。
[41] Smith、
J. S. “Madurai、 India: The Architecture
of a City”、 Massachusetts Institute
of Technology、 1976、
p.50
[42] Balasubramanian、
V. “Transformation of Residential Areas in Core City-Madurai”、
School of Planning & Architecture、
New Delhi、 1997、
p.17
[43]
チッタレイ祭りの内容については、Michell、
G. (ed.)、 “Temple Towns of Tamil Nadu”、
Marg Publications、 1993に詳しい。
[44] 歴代の王は以下のようである。Alaungpaya1752-1760、Naungdawgyi 1760-1763、Hsinbyushin 1763-1776、Singu Min 1776-1782、Bodawpaya 1782-1819 (マラプラ遷都建設1783)、Bagyidaw 1819-1837(インワ復都1823)、Tharawadddy Min
1837-1846、Pagan Min 1846-1853、Mindon Min 1853-1878 マンダレー遷都建設1857、Thibaw Min 1878-1885。
[44] Gutman、
Pamela、“Burma’s Lost Kingdoms Splendours
of Arakan”、 Orchid Press、
2001
[45] Taylor、 Robert H.、 “The State in
Burma”、 University of Hawaii Press、 1987
[46] Cady、 John F.、 “A History of
Modern Burma”、 Cornell University Press、 1958
[47] Aung-Thwin、 Michael、 ‘Divinity、 Spirit、 and Human: Conceptions
of Classical Burmese Kingship’、 in Gesick、 Lorraine(ed.)、 “Centers、 Symbols、 and Hierarchies: Essays
on the Classical States of Southeast Asia”、 Yale University、 South-East Asian
Studies Monograph No.26、 1988
[48] 伊東利勝、「綿布と旭日銀貨―ピュー、ドゥヴァーラヴァティー、扶南」『岩波講座 東南アジア史』1「原史東南アジア世界」、岩波書店、2001年
[49] Gutman、
Pamela、“Burma’s Lost Kingdoms Splendours
of Arakan”、 Orchid Press、
2001
[50] 大野徹、「パガンの歴史」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(10-15世紀)」、岩波書店、2001年)。以下のパガンの歴史についての記述は、この大野論文に多くを負っている
[51] もちろん、「四角い村」のみではないが、極めて整然と計画されるのが特徴である。
[52] 伊東利勝、「エーヤーワディ流域における南伝上座部仏教体制の確立」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(10-15世紀)」、岩波書店、2001年)。
[53] 以下の歴史的叙述は、主として、Aung Thaw、 “Historical Site in
Burma”、 The
Ministry of Union Culture、 Government of the Union of Burma、 Sarpay Beikman
Press1972 による。
[54] オリッサと東南アジア、西アジアを含めた海外交渉については以下が詳しい。Patnalk、
Ashtosh Prasad、 “The Early Voyagers of
the East The Rise in Maritime Trade of the Kalingas in Ancient India”Vol I、
II、 Pratibha Prakashan、
Delhi、 2033
[55] V.C. Scott O’Connor、 “Mandalay and Other
Cities of the Past in Burma”、 1987.原著は1907年に出版されたものである。
[56] Kanbawzathadi王宮博物館の復元図によると各辺5門が均等に配置されていない。また、王宮の規模が極めて巨大である。具体的な都市設計については、さらなる発掘の成果を待つ必要がある。
[57] 定方晟、『インド宇宙誌』、春秋社、1985年。定方晟、『須弥山と極楽』、講談社新書、1992年。
[58] ニャウンヤン朝とも呼ばれる第2次タウングー朝(復興タウングー朝)の歴史は、奥平龍二、「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」(岩波講座『東南アジア史』3「東南アジア近世の成立(15-17世紀)」、岩波書店、2001年)がもとめている。
[59] 外部に対してはアヴァとして知られていた。パーリ語ではラトナプラRatnapuraと呼ばれ、ヤダナボンYadanabonと発音される。「宝石の町」という意味である。
[60] 岩城高広、「コンバウン朝の成立―「ビルマ国家」の外延と内実―」(岩波講座『東南アジア史』3「東南アジア近世の成立(15-17世紀)」、岩波書店、2001年)。
[61] 渡辺佳成、「ボードーパヤー王の対外政策について―ビルマ・コンバウン朝の王権をめぐる一考察―」、『東洋史研究』第46巻3号、1987年。
[62]
渡辺佳成、「コンバウン朝ビルマと「近代」世界」『岩波講座 東南アジア史』5「東南アジア世界の再編」、岩波書店、2001年~2003年
[63]
O’Corner(1986)ibid.
[64]
furlong。1ファロン(ハロン)=220ヤードyards、1/8マイル=201.17m。
[65]
Historical Sites in Burma
[66]
Saraya, Dhida, “Mandalay The Capital City, The Center of the Universe”, Viriyah
Business Co. Ltd., 1995
[67]
1ヤードyard=3
ft.、 0.9144 m;
[68]
マンダレー旧王城の濠の外側については実測が可能である
[69]
ディダ・サラヤの記述に見られるワという単位は、タイでも用いられるが、1wa=2mとされている。
[70]
Anthony Reid、 “Southeast Asia
in the Age of Commerce 1450-1680 Volume Two: Expansion and Crisis”、
Yale University Press、
1993. アンソニー・リード、『大航海時代の東南アジアⅡ 拡張と危機』、平野秀秋・田中優子訳、法政大学出版会、2002年。
[71]
布野修司編、『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会,2005年2月刊
[72]
Shuji
Funo: Tokyo: Paradise of Speculators and Builders 、Peter J.M. Nas(ed.), “Directors of Urban
Change in Asia ”, Routledge Advances in Asia-Pacific Studies, Routledge, 2005