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2022年1月11日火曜日

講演:住まいの豊かさとは何か アジアの豊かな暮らし・居住のあり方   第11回 サロン的学集会 のびのび委員会 2001年9月28日

 アジアの豊かな暮らし・居住のあり方   第11回 サロン的学集会  のびのび委員会 2001928

京都大学大学院工学研究科 生活空間学専攻 地域生活空間計画講座 

住まいの豊かさとは何か

●略歴      

1949年 島根県出雲市生まれ/松江南校卒/1972年 東京大学工学部建築学科卒

1976年 東京大学大学院博士課程中退/東京大学工学部建築学科助手

1978  東洋大学工学部建築学科講師/1984年  同   助教授 

1991  京都大学工学部建築系教室助教授

●著書等

         『戦後建築論ノート』(相模書房 1981

                  『スラムとウサギ小屋』(青弓社 1985

                  『住宅戦争』(彰国社 1989

         『カンポンの世界ーージャワ都市の生活宇宙』(パルコ出版 199107

         『見える家と見えない家』(共著 岩波書店 1981

                  『建築作家の時代』(共著 リブロポート 1987

         『見知らぬ町の見知らぬ住まい』(彰国社  199106

         『現代建築』(新曜社 1993

『戦後建築の終焉』(れんが書房新社 1995

         『住まいの夢と夢の住まい アジア住居論』(朝日選書 1997

         『廃墟とバラック』(建築論集Ⅰ 彰国社 1998

         『都市と劇場』(建築論集Ⅱ 彰国社1998

         『国家・様式・テクノロジー』(建築論集Ⅲ 彰国社1998

『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』、建築資料研究社,2000

『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著)

,(監訳)+アジア都市建築研究会,学芸出版社,1997

『植えつけられた都市ー英国植民都市の形成』(ロバート・ホーム著)

 ,(監訳)+アジア都市建築研究会、京都大学学術出版会,2001・・・等々

○主要な活動

 ◇京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ) ◇建築フォーラム(AF)  木匠塾

 ◇サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)

 ◇アジア都市建築研究会/世界住居集落研究会/保存修景計画研究会

 ◇日本建築学会 建築雑誌編集長(2002-2003

はじめに

 ・東南アジア研究の経緯 ・京都大学アジア都市建築研究会 ・世界建築史Ⅱ

 ・アジア都市研究 ・植民都市研究

アジアの都市型住居・・・・東南アジアの居住環境

Ⅰ.東南アジアの都市居住・・・都市カンポンの構成:スラバヤについて

   ○スラバヤの都市形成過程とその構造

   ○カンポンの構成

   ○カンポン住居の類型と変容プロセス

Ⅱ.東南アジアのハウジング・プロジェクト 

 ○東南アジア各国の住宅政策

   ○セルフヘルプによるハウジング   ○インフォーマル・グループの試み

   ○カンポン・ススン

Ⅲ.東南アジアの伝統的住居             

 ○地域の生態系と住居・集落

 ○東南アジアの住居の特質  木造住居    高床式住居    切妻転び破風の屋根形態    双系的親族原理  都市住居の伝統の希薄性    分棟形式

 ○住居とコスモロジー

Ⅳ.スラバヤ・エコハウス

●日本の住宅をめぐる問題点 論理の欠落ーーー豊かさ?のなかの貧困

   ◇集住の論理  住宅=町づくりの視点の欠如 建築と都市の分離

           型の不在 都市型住宅   家族関係の希薄化

   ◇歴史の論理  スクラップ・アンド・ビルドの論理

          スペキュレーションとメタボリズム価格の支配 住テクの論理

          社会資本としての住宅・建築・都市

   ◇多様性と画一性  異質なものの共存原理

           イメージの画一性 入母屋御殿 多様性の中の貧困 ポストモダンのデザイン

  感覚の豊かさと貧困  電脳台所

   ◇地域の論理 大都市圏と地方 エコロジー

   ◇自然と身体の論理:直接性の原理

          人工環境化 土 水 火 木    建てることの意味

   ◇生活の論理「家」の産業化 住機能の外化 住まいのホテル化 家事労働のサービス産業代替

       住宅問題の階層化  社会的弱者の住宅問題

●主要な論文     

  『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』(学位請求論文 1991日本建築学会論文賞)

 [6]:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,433,p85-93,1992.03

 [7]脇田祥尚,,牧紀男,青井哲人:デサ・バヤン(インドネシア・ロンボク島)における住居集落の空間構成,論文集,478,p61-68,1995.12

 [8],田中麻里(京都大学):バンコクにおける建設労働者のための仮設居住地の実態と環境整備のあり方に関する研究,論文集,483,p101-109,1996.05

 [9]脇田祥尚(島根女子短期大学),,牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):ロンボク島(インドネシア)におけるバリ族・ササック族の聖地,住居集落とオリエンテーション,論文集,489,p97-102,199611

[10],脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,論文集,491,p135-139,19971

[11],山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学):ジャイプルの街路体系と街区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その1,論文集,499,p113~119,19979

[12],山本直彦(京都大学),田中麻里(京都大学),脇田祥尚(島根女子短期大学):ルーマー・ススン・ソンボ(スラバヤ,インドネシア)の共用空間利用に関する考察,論文集,502,p87~93,199712

[13],脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の祭祀組織と住民組織 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その2,論文集,503,p151-156,19981

[14]山本直彦(京都大学),,脇田祥尚(島根女子短期大学),三井所隆史(京都大学):デサ・サングラ・アグン(インドネシア・マドゥラ島)における住居および集落の空間構成,論文集,504,p103-110,19982

[18]Mohan PANT(京都大学),:Spatial Structure of a Buddist Monastery Quater of the City of Patan, Kathmandu Valley,論文集,513,p183~189,199811

[19]山根周(滋賀県立大学),,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):モハッラ,クーチャ,ガリ,カトラの空間構成ーラホール旧市街の都市構成に関する研究 その1,513,p227~234, 199811

[20]黒川賢一(竹中工務店),,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ,ネパール)の空間構成 聖なる施設の分布と祭祀,論文集,514,155-162p,199812

[22]竹内泰(三菱地所),:「京都の地蔵の配置に関する研究」,論文集,520,263-270p,19996

[23]韓三建(蔚山大学),:「日本植民統治期における韓国蔚山・旧邑城地区の土地利用の変化に関する研究」,520,219-226p,19996

[24]山根周(滋賀県立大学),,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):ラホールにおける伝統的都市住居の構成:ラホール旧市街の都市構成に関する研究 その2,論文集,521,p219226 ,19997

[29]Mohan PANT(京都大学),:Social-Spatial Structure of the Jyapu Community Quarters of the City of Patan, Kathmandu Valley, カトマンドゥ盆地・パタンのジャプ居住地区:ドゥパトートルの社会空間構造 ,論文集,527, p177-184, 20001

[30]根上英志(京都大学),山根周,沼田典久,:マネク・チョウク地区(アーメダバード、グジャラート、インド)における都市住居の空間構成と街区構成,論文集,535, p75-82, 20009

[31]正岡みわ子(京都大学)),丹羽大介,:京都山鉾町における祇園祭と建築生産組織,論文集,535, p209-214, 20009

[32]トウイ(神戸大学),,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,論文集,536,p163-170, 200010

[33]闕銘宗(京都大学),:寺廟、神壇の組織形態と都市コミュニティ:台北市東門地区を事例として,論文集,537, 219-225,200011

[34]韓三建(蔚山大学),:日本植民統治期における韓国慶州・旧邑城地区の土地所有の変化に関する研究, 論文集,538,149-156p,200012

[35]山根周(滋賀県立大学),沼田典久,,根上英志:アーメダバード旧市街(グジャラート、インド)における街区空間の構成,論文集,538, p141-148, 200012

[37]Mohan PANT(京都大学),:Ancestral Shrine and the Structure of Kathmandu Valley Towns-The Case of Thimi, カトマンドゥ盆地の町ーティミの空間構成と霊廟に関する研究 ,論文集,540, p197-204, 2001530日年2

[39]渡辺菊眞(京都大学),:「鳥辺野」(京都阿弥陀ケ峰山麓)の空間的特質に関する考察 A Consideration on Spatial Quality of Toribeno Area (Mountainside of MtAmidagamine) in Kyoto,論文集,543, p187-194, 20015

[39]、脇田祥尚、渡辺菊眞、佐藤圭一、根上英志:チョウリンギー地区(カルカッタ、インド)の形成とその変容 Formation and Transformation of Chowringhee(Calcutta, India) ,論文集,548, p161-168, 200110

 

 

 

 

2022年1月10日月曜日

シティ・アーキテクト制,GAJapan,1994年11月

 

シティ・アーキテクト制GAJapan199411

 

マスター・アーキテクト制について議論す機会があっ 財団法人建築技術教育普及センタ催で請師は磯崎新氏である 建設省の羽生建築指導課長など少人数の会であったが,なぜか僕と芦原太 郎氏加わなぜか ても多少の 理由はある 築技術教育普及センターで、の間.観をめ ぐる研究会を行ってきたのである そこでたびたびマス キテクト制もしくは現行の建築指舜システムに代わる新たな仕組みについて議論してきたのである

ところでマスタ· アーキ テクト制とは何か ある建築あるいは都市計画のプロジェクトを,全体デザインを統括する一人の建築家 マスター・ア キテクト)を指 名し複数の 建築家の 参加のもとに遂行する マスター · アーキテクトは,あらかじめ共通のガイドラインを設定しデザインを方向づけるとともに,各建築家のデザインを指導し調整する 一般的には以上の よう に言えばいいであろうかこうした システム をもう 少し一般的に 個々の建築と町並みの形成,個々のデザインとアーバン・デザインの関係にまで拡大できないか

そこで一つの理念として話題になったのが , シ ティ キテクト であるヨーロッパの楊合各都市に シティ・ アーキテ クトがいて,強力な権限のもとに建築のデザインをコントロールしているそうした シティ· アーキテクトの制度は 日本で 考え られないか建築確認に携 わる建築主事 さんは現在1,700 名におよぶ という。

自治体の数は 千数百であるけれど、どの程度シ テアーキテクトが存在すれいいのか きな 治体では地区ごとにマスター· アーキテ クトがい るのでないか きな 治体では地区ごとにマスター· アーキテ クトがいるのでないか 任期はどの程度でいいのか。議論はどんどん膨らんでい く

都市計画と いうのは.実に多様な主体の建築行為によて実践されるその調和を図りながら 個性のある まち をつく てい くのは容易なことではない。日本の町の場合.縦割行政の せいもあって, 施策の一買性がないそこで シ ティ・アーキテクトである一人の 建築家では なデザイン・ コミッティーの よう な委員会制の方がいいのではないか 人数が 多いと思 い切っ たまちの 整備がで きない 恐れがありは しないか 信頼す べき建梨家に まかした方が 面白いまちが できるのでないか しか しとんでもない まちがで きた 場合だれが貢任を取るのか

その後シティ・ア キテク トの 登録制を実際 に始め てみようとい う 話に なっ た(建築技術教育 普及セ ン ター/ T EL : 03-3505 -1831) いずれに せよ スタディを重 ねがら内 容を検討していく必 要があるの だが急いで シスムを考える とになった一瞬浮かんだ シティ キテクトの イメ ジは以下のよう だ

シティ キテクトは デザイン 能力にす ぐれ個々の建造物の設計のみならず,建造物などさまざまな要素が集合して構成される景 観のあ りかたに深い造詣を有する。 デザインのみ なら ずまちづ くりについて広 範な知識と経験 を有する

シティ キテクトは 担当する ちとさ まざ な縁 をもち その まちの 歴史文化気候風土についての 理解にすぐれるとともに まち の将来のあ り方について高 い見識をもつ

シティ ・ア キテクトは あるまち地方自 治体)のまちづくり建築行政・都市計画)に総合的,持統的に関与し,その町固有の景観形成についてアドバイスを行う 具体的には ,次のような仕事を行う

 

A:まちの基本構想基本計画の作成   

B:まちの景観形成指針やマニュアル等の作成

C地区計画の指祁デザ イン・ コードの作成のための調査研究

D:都市計画プロジェクトの指導

E公共事業のプログラム作成

Fコンペ要綱などの作成,コンペ参加者の 選考

G:個別建築設計のデザイン指導等々

アーキテクトは 以上のよう な仕事 を行う ためにちと コンサルタント 契約を結 びその権限と 業務責任が規定される。また、一定の報酬が保証される。その役割を最大限にするためには、首長の直属の機関の中に位置づけられることが望ましい。

⑤シアーキ テク は. 任期制として 固定しない た. 任期中は、公共事業の基本設計、実施設計を受注することはできない。

・アーキテ クトは , 規模によっ て複数制が 老え られる その楊合,地区ごとにマスター・アーキテクトを指名するやり方が考えられる

シティ・ アーキテクトは 当該地域の建築家の職能団体と緊密な関係をもち その活動についてもアドバ イスを行うまた合によっ ては共同して仕事を行う

シティ・アーキテクトの選定は シティ・ア キテクト登録機関の運営委員会による複数の推薦を受けて、自治体が行う。


2022年1月3日月曜日

宮内康『怨恨のユートピア---宮内康の居る場所』紹介

 宮内康『怨恨のユートピア---宮内康の居る場所』、れんが書房新社、2006

君は宮内康を知っているか?

 


布野修司

 

宮内康という建築家=批評家を知る人はもう少ないであろう。前川国男、白井晟一といった大建築家ですらそうだから当然である。木島安史、宮脇壇など同世代の建築家も既に鬼籍に入った。去るもの日々に疎しである。時代は常に若い世代のものだ。

しかし、若い世代が常に先人を超えうるかどうかは別問題である。どんな時代にも時代を見通し深く考え抜いた人はいる。先行世代を超えるためには、少なくとも先人の経験に学ぶことが必要だろう。 宮内康の考え抜いたことは反芻するに値する。そういう思いが本書を編ませた。刊行のことば次のように言う。

 「宮内康という建築家、批評家がいる。一九六〇年代から八〇年代にかけて、時代を根源において見つめ、その根拠を鋭く問いながら生きて、死んだ。

 本書は、宮内康の残した二冊の本を中心とする全集である。

 決して追悼論集でも、記念論集でもない。

 本書は、宮内康の言葉を大きな羅針盤として同時代を生きたものにとって、この半世紀を振り返り、それぞれが立っている場所を確認しようとする試みである。また、若い世代へ向けて、その言葉の射程を問う試みである。

 果たして、宮内康の「怨恨のユートピア」は今日死んでしまったのであろうか。死んだのだとすれば、われわれはそれに代わる何かを手にして入るであろうか。

 本書を契機に、「宮内康の居た場所」をいまここに問う、大きな議論が密かに深く起こされることを願う。」

 

宮内康(本名は、康夫)は、神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。東京大学の建築学科、吉武・鈴木(成文)研究室で建築計画を専攻し、建築家としての道を歩み始める。大学院時代の研究室における設計活動、あるいは、原広司、香山寿夫らと集団を組んだ「RAS」(設計事務所名)での活動がその母胎になっている。

 宮内康のデビューは「建築批評」である。六〇年代初頭に建築界の注目を集める。おそらく、六〇年安保の体験が決定的だった。また、続いて、六八年が、そして自ら引き受けることになった理科大闘争が決定的だった。その建築論の展開は全く新たな建築のあり方を予感させるそんな迫力があった。六〇年代における評論をまとめたのが『怨恨のユートピア』である。

 多くの若い建築家や学生に読まれた。宮内康の名はこの一書によって広く知られることとなったといっていい。磯崎新の『空間へ』、原広司の『建築に何が可能か』、長谷川尭の『神殿か獄舎か』と並んで若い建築学徒の必読書となったのである。

 何よりも言葉が鮮烈であった。宮内康は、ラディカルな建築家として生き続けたのであるが、文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉が魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など若い世代の想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。庶民の建築、住宅についての言及が大きなウエイトを占めているのも特徴だ。何故「建造物宣言」なのか、是非読んでみて欲しい。磯崎新、松山巌、渡辺武信による鋭い宮内康論も収められている。

 裁判闘争の経緯については『風景を撃て』に詳しい。彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた教官達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康は大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断があった。

 建築家としての活動の場は池袋、そして鴬谷に置かれた。当初、「設計工房」、続いて「AURA設計工房」と称し、死の数年前から「宮内康建築工房」を名乗った。イメージは、梁山泊である。千客万来、談論風発の雰囲気を彼は好んだ。酒を愛し、議論を愛した。そうした宮内康を愛する仲間がいつも集まってきた。

 作品はもちろん数多い。住宅が多いのであるが病院や事務所など妙に味のある作品を残している。宮内康風がどこかに感じられる仕事ばかりである。遺作となった「数理技研 オープンシステム研究所」も宮内康らしい。天井輻射冷暖房を取り入れるなど地球環境時代の建築を遙かに先取りしている。

 振り返って代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」である。寿町、釜ケ崎と「寄せ場」三部作になればいい、というのが本人の希いであった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対しても異議申し立てになっている。宮内康は結局最後まで異議申し立ての建築家だったのである。

 そのプロセスとそれを支えた諸関係は自ずとそのデザインに現れる。ベルギーの建築家、ルシアン・クロールが「山谷労働者福祉会館」を一目見て絶賛したのも、共感する何かを一瞬のうちに感じとったからであろう。建築ジャーナリズムの「山谷労働者福祉会館」に対する反応は鈍かったように思う。バブルで浮かれるポストモダン・デザインの百鬼夜行を追いかけるのに忙しかったのだ。

 

2022年1月2日日曜日

『怨恨のユートピア』刊行委員会編:怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所,れんが書房新社,2000年6月30日

 『怨恨のユートピア』刊行委員会編:怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所,れんが書房新社,2000630


刊行のことば

 宮内康という「建築家」が居た。『怨恨のユートピア』『風景を撃て』『悲喜劇・一九三〇年代の建築と文化』『現代建築---ポストモダニズムを超えて』という、四冊の本を遺して逝った。本書はその全著書の復刻である。宮内康が酔夢の中で考え、活字にしたことをそのまま復元するという実に単純な意図において本書は編まれた。宮内康の文章を繰り返し読みたい。あるいは繰り返し読んで欲しい。ただそれだけが出発点である。

 宮内康とは何者か。高倉健のような人である。嘘ではない。本書に収められた磯崎新の宮内康論にはそう書いてある。磯崎新はまた別のところで次のように発言している。

 

 「一九二〇年代にスタートした日本の近代建築が、終戦を経て現在までに、すでに四分の三世紀を経過している、その歴史を何かを切り口として語ろうとした場合、僕はその前半を堀口捨己さんを一枚の陰画として見ると戦前までの動きがよく分かると考えています。それから戦後の六〇年代の終わりぐらいまでは丹下さんをそれに当てればよく分かります。この場合は陽画でしょうね。そしてもう一人、六〇年代後半にいろいろ発言し、大きなターニングポイントになる一九六八年を象徴的に生きた人として宮内康君がいます。一九九二年に亡くなるまでの宮内君の活動を考える時、彼を堀口さんと同じような陰画として見ると、そこに日本の別な面が見えてくるように思います。」(「戦後建築の陽画と陰画」、『戦後建築の来た道行く道』、東京建築設計厚生年金基金、一九九五年三月)

 

 宮内康という建築家は、少なくとも磯崎新にとって丹下健三、堀口捨己に匹敵する建築家なのだ。

 もちろん、宮内康という具体的な人間像をめぐっては様々な論がありうるだろう。しかし、まずはテキストに集中してみて欲しい。「宮内康の世界」はそのテキストのうちにある。宮内康論を最小にとどめたのは、そのテキストを可能な限り開いておきたいと考えたからである。

 

 宮内康の身近にいたごくわずかなものが集まって刊行委員会が組織された。もちろん、このささやかな刊行は、かって「宮内康の世界」を共有した世代への大きなメッセージが含まれている。しかし、それ以上に、宮内康をもはや知らない世代への贈り物であることがより強く意識されている。そして、さらに遠い未来の読者が想定されている。繰り返し読まれるべき、「怨恨のユートピア」という「聖典」の再結集というべきか。 

 





まえがき

宮内康『怨恨のユートピア』刊行委員会                                          

 宮内康という建築家、批評家がいる。一九六〇年代から八〇年代にかけて、時代を根源において見つめ、その根拠を鋭く問いながら生きて、死んだ。
 本書は、宮内康の残した二冊の本を中心とする全集である。
 決して追悼論集でも、記念論集でもない。
 本書は、宮内康の言葉を大きな羅針盤として同時代を生きたものにとって、この半世紀を振り返り、それぞれが立っている場所を確認しようとする試みである。また、若い世代へ向けて、その言葉の射程を問う試みである。
 果たして、宮内康の「怨恨のユートピア」は今日死んでしまったのであろうか。死んだのだとすれば、われわれはそれに代わる何かを手にして入るであろうか。
 本書を契機に、「宮内康の居た場所」をいまここに問う、大きな議論が密かに深く起こされることを願う。

未完の『建築ゆうとぴあ』






宮内康『怨恨のユートピア』あとがき
                                             布野修司

 宮内康さんが亡くなったのは、一九九二年一〇月三日、午後八時のことだ。享年五五才。
バブルの崩壊も、阪神淡路大震災も、オウムの引き起こした様々な事件も、二〇〇〇年問題も、・・・・康さんは知らない。しかし、康さんならこういうのではないか、ということをいつも思う。時代を深いところで見続けた康さんの言葉とともに常に時代を透視していたい、それが本書を編んだ最大の思いである。 

 宮内康(本名は、康夫)は言うなればペンネームである。何故か、本人自ら「康(こう)」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。康さんは、神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。東京大学の建築学科、吉武・鈴木(成文)研究室で建築計画を専攻し、建築家としての道を歩み始める。大学院時代の研究室における設計活動、あるいは、原広司、香山寿夫らと集団を組んだ「RAS」(設計事務所名)での活動がその母胎になっている。しかし、みるところ、康さんがオーソドックスな建築家になることを志した形跡はない。
 何故、建築を選んだのか、本人に聞いたことが無い。康さんは、建築を狭い限定した枠組みで語るのを極度に嫌った。一九七六年の暮れに、「同時代建築研究会」(通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)を始めるのであるが、「建築」じゃないんだ、「時代」を語りたいんだ、というのが口癖であった。建築を空間的にも時間的にもより広大な視野から捉え直す意味をことあるごとに康さんは語っていた。
 康さんの建築界におけるデビューは「建築批評」であった。その批評あるいは建築論の展開は、六〇年代初頭に建築界の注目を集める。おそらく、六〇年安保の体験が決定的だった。また、続いて、六八年が、そして自ら引き受けることになった理科大闘争が決定的だった。その建築論の展開は全く新たな建築のあり方を予感させるそんな迫力があった。六〇年代における評論をまとめたのが『怨恨のユートピア』である。
 『怨恨のユートピア』は、多くの若い建築家や学生に読まれた。もちろん、建築の分野に限らない。宮内康の名はこの一書によって広く知られることとなったといっていい。磯崎新の『空間へ』、原広司の『建築に何が可能か』、長谷川尭の『神殿か獄舎か』と並んで若い建築学徒の必読書となったのである。
 何よりも言葉が鮮烈であった。宮内康は、ラディカルな建築家として生き続けたのであるが、必ずしもアジテーターであったわけではない。文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉がその魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など若い世代の想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。
 六八年において、社会変革へのラディカリズムと建築との絶対的裂け目を確認したのだ、と、「アートとしての建築」へと赴いたのが、あるいは「建築」を自律した平面に仮構することによって「建築」の表現に拘り続けたのが磯崎新である。磯崎新は、宮内康の偉大な位置を本書のために書いてくれた。
 それに対して、裂け目を認めようとせず、全く新たな建築のあり方を深いところで考え続けてきたのが宮内康である。もっと書いて欲しい、という期待は常に宮内康に注がれ続けたのであるが、もとよりその作業は容易なことではなかったように思う。
 極めて、大きかったのは裁判闘争である。その経緯については、『風景を撃て』に詳しい。知られるように、彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた友人達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康は大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断があった。彼は、その後のかなりの時間を救援連絡会議の事務局を引き受けることにおいて割くことになるのである。
 建築家としての活動の場は池袋、そして鴬谷に置かれた。当初、「設計工房」、続いて「AURA設計工房」と称し、数年前から「宮内康建築工房」を名乗った。イメージは、梁山泊である。千客万来、談論風発の雰囲気を彼は好んだ。酒を愛し、議論を愛した。議論を肴に酒を飲むのが何よりも好きであった。また、そうした宮内康を愛する仲間がいつも集まってきた。
 作品はもちろん数多い。住宅が多いのであるが病院や事務所など妙に味のある作品を残している。この「作品」という言い方を康さんは嫌ったが宮内康風がどこかに感じられる仕事ばかりである。遺作となった「数理技研 オープンシステム研究所」も康さんらしい。近年の代表作といっていい出来映えを示している。天井輻射冷暖房を取り入れるなど他に先駆けた工夫もある。地球環境時代の建築を遙かに先取りしている。しかし、それは先取りなどではなく、彼の建築観に根ざした建築への極く自然なアプローチであった。
 振り返って代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」ではないか。寿町、釜ケ崎と「寄せ場」三部作になればいい、というのが希望であった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対しても異議申し立てになっている。康さんは結局最後まで異議申し立ての建築家だったのである。
 そのプロセスとそれを支えた諸関係は自ずとそのデザインに現れる。ベルギーの建築家、ルシアン・クロールが「山谷労働者福祉会館」を一目見て絶賛したのも、共感する臭いを一瞬のうちに感じとったからであろう。建築ジャーナリズムの「山谷労働者福祉会館」に対する反応は鈍かったように思う。バブルで浮かれるポストモダン・デザインの百鬼夜行を追いかけるのに忙しかったのだ。しかし、遅ればせながら、「建築フォーラム(AF)賞」という賞が宮内康を代表とする「山谷労働者福祉会館」の建設に対して送られることになった。
 康さんが亡くなって『ワードマップ現代建築』がまとめられた。一方、『怨恨のユートピア』は読み継がれ、書き継がれる必要がある、という思いが生前康さんと親しくつきあったものたちにあった。何はともあれ、その著書を復刻し、より若い世代も含めてその思いを共有したい、というのが本書の企画であった。
 企画から今日に至るまで多くの年月が流れた。第一にこうした企画を引き受けてくれる出版社がなかった。そうした中で本書の出版に興味を示され、最終的に引き受けて頂いたのが、れんが書房新社の鈴木誠さんである。鈴木さんは生前に康さんに会ったことがあり、『怨恨のユートピア』の読者でもあった。それが決め手になったと思う。出版環境の悪い昨今、ここまで漕ぎ着けて頂いたことを心より感謝したい。
 企画を立案して以降、最後まで本書の刊行をリードしたのは立松久昌さんである。理科大闘争以降、康さんの最大の理解者であった。その康さんへの強烈な思いが本書を成立させたといっても過言ではない。
 諸般の事情から、出版は遅れに遅れた。しかし、全ての責任は布野にある。原稿を執筆して頂いた皆様にはお詫びの言葉もない。本書の刊行を背後で支えたひとたちは数知れない。とくに康さんの東洋大学時代の教え子を中心とした「鯨の会」の存在は大きい。彼らの世代が、本書とともに、それぞれの現場で「宮内康の居る場所」をさらに若い世代とともに確認してくれることを大いに期待したい。

 





2022年1月1日土曜日

君は宮内康を知っているか? ―怨恨のユートピア---宮内康の居る場所―

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君は宮内康を知っているか?

―怨恨のユートピア---宮内康の居る場所―

布野修司

 

建築界の若い世代で、宮内康(19371992)という「建築家」を知る人は少ないであろう。戦後建築の両輪であった前川国男(19051986)、白井晟一(190519)といった大建築家ですら、知らない人が多いのだから当然である。木島安史(1937-95)、宮脇壇(1936-98)など同世代の建築家も既に鬼籍に入った。去るもの日々に疎しである。時代は常に若い世代のものだ。

そうした時の流れの中で、一昨年から昨年にかけて(20052006年)、「前川國男展」が、生誕百年、没後20周年を記念して、東京ステーションギャラリーを皮切りに、青森、新潟、熊本、京都と全国で開催された。数万の来場者があったという。それに先駆けて東京芸術大学美術館で行われた吉村順三(1908-1977)展も勝るとも劣らない多くの観客を集めた。日本の近代建築の歴史をこうして改めて振り返るのも時の流れである。

宮内康は、青森と深い縁がある。青森での前川國男展が、青森と縁の深かった宮内康という「建築家」に光りを当てることになったようである。

前川國男、吉村順三といったル・コルビュジェに学んだ建築家たちほど派手ではないが、日本の戦後建築の流れの中で、学校、病院、公共住宅など公共建築の分野で大きな影響力をもったひとりの建築家として、吉武泰水(1916-2003)がいる。東京大学にあって、多くの研究者、建築家を育て、「建築計画学」を確立したと評価される。宮内康は、その研究室の出身であり、僕も実はその末席に名を連ねる。そして、その縁で、「同時代建築研究会」(1976年結成、通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)をともに設立し、晩年の15年の間身近に接してきた。その生き様をよく知るひとりとして、もとめられるままに、宮内康について記してみたい。

 

「宮内康という建築家、批評家がいる。一九六〇年代から八〇年代にかけて、時代を根源において見つめ、その根拠を鋭く問いながら生きて、死んだ。

 本書は、宮内康の残した二冊の本を中心とする全集である。

 決して追悼論集でも、記念論集でもない。

 本書は、宮内康の言葉を大きな羅針盤として同時代を生きたものにとって、この半世紀を振り返り、それぞれが立っている場所を確認しようとする試みである。また、若い世代へ向けて、その言葉の射程を問う試みである。

 果たして、宮内康の「怨恨のユートピア」は今日死んでしまったのであろうか。死んだのだとすれば、われわれはそれに代わる何かを手にして入るであろうか。

 本書を契機に、「宮内康の居た場所」をいまここに問う、大きな議論が密かに深く起こされることを願う。」

 

これは、『怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー』(「怨恨のユートピア」刊行委員会、れんが書房新社、2000年)の僕が書いた「刊行のことば」である。僕は、この書の刊行に深く関わった。二冊とは、『怨恨のユートピア』(井上書院、1971)と『風景を撃てー大学一九七〇-七五ー』(相模書房、1976年)である。この二冊をそのまま収め、宮内康のほとんど全ての原稿が収められているのが『怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー』である。宮内康の詳細については、是非、この大部の書物を手にとって欲しい。

若い世代が常に先人を超えうるかどうかは別問題である。どんな時代にも時代を見通し深く考え抜いた人はいる。先行世代を超えるためには、少なくとも先人の経験に学ぶことが必要だろう。宮内康の考え抜いたことは反芻するに値する。そういう思いがこの書物を編ませたのである。

 

宮内康は、1937年に神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。本名は宮内康夫、宮内康は言うなればペンネームである。何故か、本人自ら「康(こう)」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。

高校の一年先輩に、建築家、原広司(1936-、建築家、東京大学名誉教授)がいる。原広司は、新梅田スカイビル、新京都駅、札幌ドームなどで知られる日本を代表する建築家である。宮内康は、この原広司を尊敬し、RASという設計集団を結成して共に建築を学んだが、別の道を選択することになる。

高校を卒業して東京大学の建築学科に入学し、60年安保の激動の時代に多感な学生時代を過ごした。自称アマチュア六段という囲碁も駒場キャンパス内にあった駒場寮で覚えた。晩年も、「天元組」という囲碁仲間を組織して、組長を名乗っていた。麻雀も好きで、教え魔であった。文章から受ける印象と違って、日常生活や仕事の場面では、硬派のイメージはなかった。

大学院に入って、吉武・鈴木(成文)研究室で建築計画を専攻し、建築家としての道を歩み始める。大学院時代の研究室における設計活動、そして続いて、同世代の原広司、香山寿夫(1937-、建築家、東京大学名誉教授)らと集団を組んだ「RAS」(設計事務所名)での活動が建築家としての母胎になっている。

1960年に青森県七戸町の教育長であった青山浄晃氏が、文部省の建築指導課を通じて、吉武研究室に七戸中学校の設計を依頼する。それを受けて、吉武研究室は、太田利彦(元清水建設)、船越徹(建築家、ARCOM主宰、東京電気大学名誉教授)、下山真司(建築家、筑波大学名誉教授)などで設計チームを発足させる。1962年に大学院に進学し吉武研究室に入室した宮内康はこのチームに加わることになった。この設計チームは、七戸町立城南小学校(1964年)、七戸町立幼稚園(1966年)、七戸町教職員宿舎(1966年)とたて続けに設計を依頼されている。この間、宮内康は、香山寿夫のもとで相模女子大学一号館学生寮(1964)の設計にも関わる。宮内康が後年語るところによると、どちらかというと、設計の作法については、原広司、香山寿夫に影響を受けることが多かったらしい。RASへの参加は、そのことを示している。

もちろん、最初に建築と出会った青森との縁は深く、とりわけ青山浄晃氏との縁は後々まで続く。青山氏が教育長を退官後に設立した明照保育園(1966)の設計は宮内康が主任建築家として引き受けている。1967年に東京理科大学の助手となる宮内康にとって、建築家としての最初の仕事が明照幼稚園である。青山氏のご令嬢は、その後しばらく宮内康のAURA設計工房で仕事をともにされていた時期がある。「青山邸」(1972)、「青岩寺本堂」の改修と庫裏(1974)、「観音堂」(1975)、「青岩寺庫裏」改修(19818485)なども青山氏との縁である。

 

 一方、宮内康のデビューは「建築批評」である。六〇年代初頭に建築界の注目を集める。おそらく、六〇年安保の体験が決定的だった。宮内康は、60年安保のデモに参加、逮捕されるという経験をもっている。また、続く、六八年以降の全共闘運動へのコミットが、そして自ら引き受けることになった理科大闘争が決定的だった。

60年代から70年代にかけての激動の時代に書かれた、その建築論の展開は全く新たな建築のあり方を予感させるそんな迫力があった。60年代における評論をまとめたのが『怨恨のユートピア』である。

 この『怨恨のユートピア』は、多くの若い建築家や学生に読まれた。宮内康の名はこの一書によって広く知られることとなったといっていい。磯崎新(1931~)の『空間へ』()、原広司の『建築に何が可能か』(1969)、長谷川尭(1937~)の『神殿か獄舎か』(1975)と並んで若い建築学徒の必読書となったのである。

 何よりも言葉が鮮烈であった。宮内康は、ラディカルな建築家として生き続けたのであるが、文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉が魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など若い世代の想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。庶民の建築、住宅についての言及が大きなウエイトを占めているのも特徴だ。何故「建造物宣言」なのか、是非読んでみて欲しい。磯崎新、松山巌、渡辺武信による鋭い宮内康論も収められている。詩人、映画評論家としても知られる建築家、渡辺武信は宮内康の同級生でもある。在学中に詩人として脚光を浴びていた渡辺武信は宮内康にとってある種のライバルであった。

 

 東京理科大学に勤務して、全共闘運動を支持したという理由で解雇され、その不当性を争った裁判闘争の経緯については『風景を撃て』に詳しい。彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた教官達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康は大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断があった。この経緯も、紙数の関係で『風景を撃て』に譲らざるをえない。

 建築家としての活動の場は池袋、そして鴬谷に置かれた。当初、「設計工房」、続いて「AURA設計工房」と称し、死の数年前から「宮内康建築工房」を名乗った。その「場」のイメージは、「梁山泊」である。千客万来、談論風発の雰囲気を彼は好んだ。酒を愛し、議論を愛した。そうした宮内康を愛する仲間がいつも集まってきた。東京理科大学を解雇された後、東洋大学で長い間、非常勤講師を務めた。僕は、東洋大に勤務(19781991)しており、京都大学に移る(1991)まで、ともに学生たちと学んだ。布野宮内研究室の卒業生たちは、「鯨の会」を名乗り、現在も活動を続けている。

 

 作品は決して数多いとはいえないが、少なからぬものがある。住宅が多いが、病院や事務所など妙に味のある作品を残している。宮内康風がどこかに感じられる仕事ばかりである。遺作となった「数理技研 オープンシステム研究所」も宮内康らしい。天井輻射冷暖房を取り入れるなど地球環境時代の建築を遙かに先取りしている。

 唐十郎率いる「状況劇場」の稽古場の自力建設(1970)も実にユニークである。セルフビルド(自律建設)あるいは設計―施行一貫体制については、宮内康は興味を持ち続けており、東南アジアの「セルフヘルプ・ハウジング」にも関心が深かった。また、秋田杉を産地直送する直営工事も試みている。

 振り返って代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」である。寿町、釜ケ崎と「寄せ場」三部作になればいい、というのが本人の希いであった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対しても異議申し立てになっている。宮内康は結局最後まで異議申し立ての建築家だったのである。

 「山谷労働者福祉会館」の建設プロセスについては、『寄せ場に開かれた空間を』(社会評論社、1992年)にまとめられている。亡くなった年であるが、生の声が収録されている。

 そのプロセスとそれを支えた諸関係は自ずとそのデザインに現れる。ベルギーの建築家、ルシアン・クロールが「山谷労働者福祉会館」を一目見て絶賛したのも、共感する何かを一瞬のうちに感じとったからであろう。遅ればせながら、「山谷労働者福祉会館」にAF(建築フォーラム)賞が贈られたのは1993年のことである。建築ジャーナリズムの「山谷労働者福祉会館」に対する反応は鈍かったように思う。バブルで浮かれるポストモダン・デザインの百鬼夜行を追いかけるのに忙しかったのだ。

 

 宮内康が亡くなったのは、一九九二年一〇月三日、午後八時のことだ。享年五五才。バブルの崩壊も、阪神淡路大震災も、オウムの引き起こした様々な事件も、二〇〇〇年問題も、・・・・宮内康は知らない。

以上のように、宮内康がオーソドックスな建築家になることを志した形跡はない。何故、建築という職業を選んだのか、本人に聞いたことはないが、宮内康は、建築を狭い限定した枠組みで語るのを極度に嫌った。

1976年の暮れに、「同時代建築研究会」を始めるのであるが、「建築」じゃないんだ、「時代」を語りたいんだ、というのが口癖であった。建築を空間的にも時間的にもより広大な視野から捉え直す意味をことあるごとに宮内康は語っていた。

 

 1986年において、社会変革へのラディカリズムと建築との絶対的「裂け目」を確認したのだ、と、「アートとしての建築」へと赴いたのが、あるいは「建築」を自律した平面に仮構することによって「建築」の表現に拘り続けたのが磯崎新である。磯崎新は、宮内康の偉大な位置を『怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー』のために書いてくれたが、磯崎新に対して、その「裂け目」を認めようとせず、全く新たな建築のあり方を深いところで考え続けてきたのが宮内康である。もっと書いて欲しい、という期待は常に宮内康に注がれ続けたのであるが、もとよりその作業は容易なことではなかった。

 極めて、大きかったのは裁判闘争である。宮内康は、そのかなりの時間を「造反教師」救援連絡会議の事務局を引き受けることにおいて割くことになるのである。

同時代建築研究会の最初の仕事が『悲喜劇・一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室、1981年)である。「こんぺいとう」の松山巌、井出健、「雛芥子」の布野、千葉正継、さらに弘実和昭など東京理科大時代の教え子も加わったこの会は、とにかく、シンポジウムを続けた。そうした活動を一冊の本に導いてくれたのが、「アートフロント」という芸術家集団を率い、現代企画室を主宰していた北川フラム氏である。また、『朝日ジャーナル』をやめたばかりの中西昭雄氏である。この北川フラム氏は、原広司の義弟であり、不思議な縁であったが、さらに、宮内康を青森へと繫げることになる。詳しい経緯は知らないのであるが、様々なアートイヴェントのオルガナイザー、プロデューサーとなった北川フラム氏は、七戸のまちづくりの顧問格となるのである。ここでもカウンターパートとなったのは青山氏である。奇遇かもしれない。そこで、「七戸文化村」構想が生まれ、「ガウディ展」を組織、スペインとの関わりを深めた北川フラム氏が、スペインで収集した陶器類を七戸町に寄付することで「スペイン村」という構想が生まれた。そして、その設計者として予定されたのは宮内康なのである。1990年に「七戸町文化村」コンペが行われ、翌年スペイン広場の設計を行っているけれど、その仕事を完成させることはできなかったのである。

 宮内康が亡くなって『ワードマップ現代建築』がまとめられた。同時代建築研究会による二冊目の仕事である。これも宮内康は眼にしていない。

宮内康の東洋大学時代の教え子を中心とした「鯨の会」の存在は大きい。彼らの世代が、それぞれの現場で「宮内康の居る場所」をさらに若い世代とともに確認してくれることを大いに期待したい。また、宮内康を知らない君たちが、『怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー』を通じて、宮内康の考え抜いたことをそれぞれの現場で考え抜いてくれることを願う。