このブログを検索

2023年7月7日金曜日

「丹下健三」の読み方 そしてそれを乗り越える戦略は?,座談,建築ジャーナル,磯崎新・平良敬一・古谷誠章, 建築ジャーナル,199512

「丹下健三」の読み方 そしてそれを乗り越える戦略は?,座談,建築ジャーナル,磯崎新・平良敬一・古谷誠章, 建築ジャーナル,199512

「「丹下健三」の読み方そしてそれを乗り越える戦略は? 」『建築ジャーナル』1995.12pp.43-57

磯崎新 Arata Isozaki 

平良敬一 Keiichi Taira 

布野修司 Shuji Funo 

古谷誠章  Nobuaki Furuya 

 

「浜口「国民様式」論文を 口火として 

●建築ジャーナルでは、戦後50年にあたる今年、いろいろな角度から戦後建築を検証する特集企画を続けてきました。そのしめくくりの12月号では、戦後建築のチャンピオンである丹下健三をとりあげ、その軌跡を批判的にたどることは、戦後建築の総括となり、同時に建築界の自己批判につながると考えています。まずは、発言者兼進行役をお願いしている平良さんから口火を切っていただきたいと思います。

 

平良:今日は、戦後建築の総括と丹下健三というたいへんなテーマなんですが、特にストーリーは考えていませんので、自由に発言いただきたいと思います。

まずは、それぞれの丹下さんとのかかわりというところから始めたいと思いますが、ぼくは、戦後建築というけれど、戦前のことから見ていかないといけないと思う。 

今年の始め、浜口隆一さんが亡くなって、その著作をずっと調べているんだけれど、浜口さんの「日本国民建築様式の問題」(1944)、あれは、戦前の丹下さんを考えるうえで最大の手がかりになると思うんだな。 

丹下さんは変わったように見えるけれど、ぼくには、ずっと一貫して日本国家とともに歩んできたように思える。ぼくもうかつだったんだけど、臨海副都心だって、丹下さんはちゃんともう建てているでしょう。1960年には「東京計画1960」ですね。その次に東京計画を出したのは1986年。東京湾上に交通をはりめぐらせた海上都市の延長で着々と前進して、もう臨海副都心にも築きあげてしまっている。いやあたいへんなんだなあという印象を改めて持っています。 

丹下さんの戦前のコンペの問題と浜口さんの「日本国民建築様式の問題」について、ずばっと言ってのけているのは磯崎さんだけでしょう。とにかく戦後の50年だけを切り離してしまうと、全然位置づけできないですよ。少なくとも昭和全史の中で見ていかないと。特に若い人たちには、丹下さんの戦前のコンペの問題やら何やらをはっきりしたかたちで分析していかないと伝わらないですよ。われわれも、ちゃんとやってこなかった反省がある。布野さんは少し触れているようですが。

 

布野:戦時中の丹下さんの問題、浜口さんの論文もふくめて今日の大きなテーマになると思います。

 

磯崎:あの「日本国民建築様式の問題」は、ぼくは、比較的早い時期に読んでいました。50年代半ばです。

 

平良:ぼくと丹下さんとの関係というか、かかわりはといいますと、ぼくも丹下さんのところで卒論書いたんです。だけど何も指導をうけていませんけどね。住宅の問題ので、ほとんどその当時の共産党の住宅政策をなぞったようなものですけど。 それからのちは、特に新建築の編集部にいたときの接触ですね。例の新建築問題のきっかけの一つでもあったんですが、かなり丹下さんの造形力にぼく自身感心というか、まいっていて。いろんな可能性を丹下さんのなかに感じていたわけですね。 

その当時感じていたものは、今とはまったくかけはなれて、丹下さんの方がずっと突っ走っていってしまったというか。 

 

座談会の席を蹴った「事件」 

磯崎:確か平良さんが「建築」の編集をやっていたとき、丹下さんをよんで座談会をやったら、丹下さんがおこって、この座談会は出さないというんで、全部キャンセルになったという噂話を聞いたことがあるんですけど。あれはどういう話だったんですか。

平良:清水市庁舎がとにかく話題になったときでしたよ。出席者は、ぼくが司会で、浜口さんと林昌二と丹下さんだった。直接のテーマはぼくもちょっと忘れたんだけど、それを議論していくうちに、清水市庁舎の中庭のことで、林昌二がかなり丹下さんの神経を逆なでするような発言をしたんですね。そうしたら丹下さんが突然座談会のなかで真っ青になっておこって。この座談会は発表を禁止しますと。(笑) 

 

磯崎:というのが記録されるのはいいですね。

 

平良:初めてぼくもそういうのに直面して、丹下さんという人の恐い一面を見た。三人ともあっけにとられて、しかたがないといって、途中だったけどそれ以上すすめるのはやめて、ボツにしちゃった。そういう事件でしたよ。

 

磯崎:それはぼくは中身は知らなかったんだけど、そういう事件が一回あったという噂話は聞いていましたから。中身は聞きただす機会がなかったんで今やっとわかったという感じです。

 

平良:話したことも全部忘れたよ。この一言だけ覚えている。

 

布野:記録されるだけでいいんです。(笑)それは戦時中の話がきっかけですか。

 

平良:それは前段で、浜口さんが例によってちくちくはじめたと思うんですよ。林さんはそれとは関係なく、この清水市庁舎のあの中庭はなんですかって言ったもんだから。(笑)

 

磯崎:ところで佐々木宏さんがペンネームで丹下健三論の本を近代建築から出しているでしょう。あの本はどういう評価になっているんですか。

 

平良:あれに対する丹下さんの反応もぼくは聞いていないですけど。

 

磯崎:ぼくも丹下さんからは聞いていないんですが、芦原さんがあんなこと書かれて、丹下さんよく平気でいられるなという感想をぼくに言ったのは覚えている。芦原さんはそういう細かいことを気にする人だから。あれだけ戦争中のことをほじくり返されては、かなわないと思ったんでしょう。

 

平良:そういう出版物で言われても丹下さんは全然平気じゃないですか。もう超越的だから。

 

磯崎:昔はそうではなかったかもしれないけれど、今は平気ですね。今はもっと別のひどいことを言われているからね。それも平気だから。はじめに平良さんがおっしゃった国民建築様式についての浜口論文ですが、ぼくは学生のときに東大の建築の図書館で読んで、非常におもしろかったというか、ある意味でいうと日本の建築論のなかで、革新的な視点を出した論文だというように思ったんです。

つまり、それまでのいわゆる様式主義的な発想そのものを、ウィーン学派の芸術論にもとづいて、組み立て直すところから、はじめているわけですから。 

主題が、全部国家主義的だったということで、戦後は一切ふたをされたような状態になっていた時期があったと思う。浜口さんも触れたくないというところがあったと思うんです。

 

平良:事実、戦後の浜口さんは触れてないんだよ。「日本国民建築様式の問題」の後に、前川国男建築設計事務所で出していた「プラン」で「機能主義とヒューマニズム」というタイトルで書いたのが1947年ですから、その間わずか3年しかたっていないんです。にもかかわらず、それに触れていないんです。 

 

発言の変化と作品の不変性 

磯崎:ぼくは論文を丹下さんのとこに出して1954年に大学を出て、丹下研究室に入ったんですね。それから数年間はべったりくっついていて、そして、「東京計画1960」をやって。しばらくしてぼくは独立した、といういきさつがあるわけです。 

ちょうど入ったときは、広島のビースセンターの展示館ができあがったぐらいの年ですね。まだ両側の建物はなかった。向かって右手の建物の実施図面の一部を、じっくり描かされたというような時期に入ったわけです。香川県庁をやり、それから倉敷市庁舎があり、今治市庁舎があり、それにずっとつき合って、独立するのはオリンピックのコンセプトがまとまったくらいのころです。 

ぼくが丹下さんに感じるのは、戦前の二つの作品と、その後オリンピックまで一貫して作品は何ら変わっていない。ところが伝統論、民衆論、それから、近代建築論、戦後民主主義論まで含めて論じられる主題は、いつも変わっているわけです。 

作品のほうは変わっていない。スタートは戦後にあるわけではなくて、戦前に根がある。その戦前の根の問題を整理して、新しい戦後の、特に50年代の後半に日本でできてきた近代建築と、その伝統というようなものを組み合わせた視点というのは、ちょうど浜口さんの論文が10年から、15年後に形になってあらわれたように思える。 

だから、浜口論文は東京代々木オリンピック競技場を予言した論文であったというように、ぼくは思えます。 

つまり、国民建築様式というのは要するに、言い換えれば日本の新しい形の国家様式を論じたと思われるんですね。浜口さんの国民建築という言い方と国家様式という言い方と、どう違うのかなということがあるんですけど、おそらく、それより前の帝冠様式が日本的な国家様式だとすると、新しい国家の様式は国民にした方がよいということじゃないか。 

たとえば、見え方もあったのかもしれないけど、多かれ少なかれ、戦後の共産党にしてもすべて国家は議論の根底にあるわけですよ。国家の様式を追跡していくという意味では、浜口論文からオリンピックまでというのが、ぼくはひとつの筋書きにのるんじゃないかなと思う。たまたまその間に敗戦というのがあったけど、あの敗戦という大変動はこの関係にはかかわっていないように思ったんです。 

そのこたえていない状態というのは、西山理論もそうだし、吉武理論もそうだし、高山理論もそうだし、このへんの人たちは、全部戦争前の昭和10年代に大学にいて、あるいは助教授になって理論を組み立てていったのが、たまたま戦争でばさっと切れた。しかし、戦後になってからの彼らの発想というのは全部戦争中の研究によるものだと思うんです。そして戦後民主主義に、それが適用されていくんです。

 

布野:ちょっと整理させていただいていいですか。丹下さんの場合には、それこそ宮内嘉久さん流の言い方がありますね。転向した、その変わり身の早さがいかがわしい。大東亜を記念し、英霊をまつる神殿をやった建築家が、10年もたたずに次の平和のシンボルをつくっている。ヨーロッパでは考えられない。そういう言い方が触れてはならない戦後のある種のタブーとして存在していたと思うんですよ。 

それに対して、今礒崎さんがおっしゃったように、丹下さんは全然変わっていないということがある。要するに戦時中にすでに、たとえば建築の構成の方法としては、モダニズムの方法論を身につけていた。作品を見る限り、あきらかに連続しているわけです。こういう見方は、たとえば、稲垣栄三先生はかなり早い段階で、もう書かれているわけです。

 

戦前の出発点の謎 

磯崎:そう。稲垣さんはそう言っているんだけど、なぜか「日本の近代建築」(1960)を終戦で止めている。 つまり稲垣さんは、そこまで見通していながら、見通してないがごとくに受けとめられてしまったんです。

 

布野:丹下さんは戦前戦後で変わらなかったとすると、その丹下さんの戦前の出発点はどういうことだったかということが問題になるわけです。 

堀口捨己さんにしろ、丹下さんにしろ、あるレベルの建築家は、帝冠様式というのは、あれは論外という意識があって、ほとんどぼくは問題にしていなかったと思うんです。 

ただぼくは、どうして丹下先生が、つまり、どこから確信に満ちて近代建築から出発したのかということについて、ちょっとよくわからないんです。 

たとえば、前川先生の場合はやっぱりサボア邸を見たというインパクトはある。いずれ日本の建築の行く末はこうなるというのは、一瞬見えたと思うんですね。 

ですけれど、丹下さんの出発点というのは、まだ解けていないところがあるんですね。

 

磯崎:ぼくは生田勉さんに、親友だった立原道造の話を聞いたことがあるんですよ。立原道造は生田勉さんによると、あの人ほどあの時代にドイツ的な血と土の形、つまり、アルバート・シュペアーがヒトラーのイメージを具体化したというような形で出現した、あの建築的なイメージを正確に理解できる人はいなかったというんです。 

その立原道造が、丹下さんに非常に気張った手紙を書いているんです。丹下さんは、立原より1級下ですが、非常に強面でとおっていたらしい。大連のコンペに浜口隆一さんが応募して、間に合わないから大連まで持っていった。立原は浜口さんのこの行為を、戦勝祝賀のための二重橋参拝の行為に結びつけて、それをなぜか丹下健三あてに書いています。詩人で病弱だった立原が、ロマン派的なものを通じて、新しい国家社会的なものへ傾倒していくのもわかるような気がします。

 

布野:うーん。たとえば西山さんが、ナチ的な国家社会主義的なところへ行くというのはわかります。血とか、民族、土というものから、民衆の方へ吸いよせられていくというのは一つの転向の形です。 

立原道造についてはよくわかりませんが、卒業設計なんか見てみると壁のある美術館で、もしかしたらそういうナチ的な気分を持っていたのかもしれない。 

だけど丹下さんの卒業設計の日比谷公園に建つ美術館は、完全にコルビュジェの丸コピー。ついでに浜口隆一さんの卒業設計の工場もコルビュジェのコピーですから。サイロみたいなのがドカンと建っていて、コルビュジェのセントロソーユースを3つ並べたようなのでしたね。

 

磯崎:大連の市庁舎のコンペは前川さんが一等になったのでしょう。浜口さんが落ちて、10日か20日くらい魂が抜けたようになっていたって話を聞いたことがある。

 

古谷:ぼくも戦前から戦後を通じて丹下さんが本質的には変わってなくて、きれいに連続していたんじゃないかと、そう思うんですね。 

丹下さんは時代が求めそうなものを、うまく題材にするという感覚、あるいは嗅覚というか、そういうものをお持ちだったという気がします。 

それは最近の新都庁舎まであてはまるかもしれないんですけど、それは時代の本当に求めるものとは少し違っていて、でももうすぐ求めそうだというものをうまくつかまえて、自分の考えをなかに盛りこんでいく。 

そういう点でみると大東亜建設記念営造計画は戦後の50年代後半に、ほとばしるように出てくる実作にも共通した性格を持っているように思います。そういう意味で変わらなかったのかなと思います。 

 

モダニズムを国家様式にする戦略

平良:やっぱり、日本ファシズムの運動は、もう昭和の初年というか大正の末期からはじまっているんですよ。それがいろんな戦争をしながら、どんどん拡大して、そういうイデオロギー的な大きなインパクトというか、圧力のなかで起こった日本主義建築、あるいは日本主義というのがありますね。それと丹下さんの考え方というのは、すごく共鳴するところがあって、日本国民建築様式の浜口さんが評価するような線まで、のぼりつめたんですよね。 

同じようにあの論文の中で浜口さんは、前川、丹下というようにならべて応援しているんです。そこに微妙な差があって、前川については丹下さんほど、あそこにのぼりつめたというよりは、何かへんなところに来たという感じもあるんです。

 

磯崎:そんなこと言うと、宮内さんに叱られそうですが。

 

平良:しかし、前川さんが在盤谷日本文化会館コンペで入選しているのは、歴史的事実なんだから、はっきりとそういう事実は認めなきゃいけない。 

 

●浜口さんの論文は、丹下案より、前川案の方を評価しているように読めませんか。丹下案は厳粛な儀式が行なわれるのにふさわしく、前川案は人々が集う祭りにふさわしいと。

 

磯崎:いやむしろ、あの2つ以外の何物か、残りの95%への抵抗と考えたほうがよいでしょう。

 

平良:しかし、やはり丹下さんの日本文化会館は、日本ロマン派とおおいに関係があるといわざるをえないですよ。あれはやはり古代へのあこがれと、自分が持つモダニズムの思想というものがストレートに結びついたというのかな、接続した。 

この中には大きな飛躍があったと思うんだ。前川さんの案には、その飛躍がないんですよ。

 

磯崎:今言ったように帝冠様式の日本調、あるいは東洋風のようなものを、誰もほとんど疑っていなかったような時代があったんですね。コンペの歴史で必ず語られる帝国博物館に前川さんがモダニズムで出したという話。これも、もうひとつの読み方としては、それに対してコルビュジェ的なものが国家様式になる、つまり近代建築を国家様式にたりうるものにさせなければならないという、そういう義務感で前川さんは応募したんだとも言える。

 

布野:それを言うと嘉久さん、怒るでしょうね。(笑)

 

磯崎:つまりあれは反国家ではなく、国家様式としてこれを採用してもらおうという形で応募したとも考えられるんです。

 

布野:するとイタリアファシズム路線みたいな形になるわけですね。

 

磯崎:その前川さんの路線を丹下さんは実に疑いもなく受け取っていて、これを国家様式にするんだ。しかもそれが、近代建築の持っている部分と、日本的な空間構成概念の統合というのがどこかでありうるという戦略を、そこで丹下さんは考えたんじゃないかと。 

 

屋根のない柱離宮の秘密 

布野:丹下さんについての一貫性はそれで理解できますね。でも、前川さんについてはちょっと違います。 

コルビュジェのところに行った世代は、これが近代建築だというのがあるんです。日本との落差がつねに意識されていて、相当たいへんなことだという冷めた意識がある。一生かかっても日本にそういうものが根づくというのは、ありえないかもしれないという出発点があって、だけど俺はやるぞというのが断固としてある。前川さんの場合、すべてのコンペに応募しつづけるという覚悟をして帰ってくるわけです。 

常に欠如感がずっとあるし、そういうなかで、もまれながら自分は行くぞということである。前川さんの場合、ちょっとまちがえて屋根のっけたというわけじゃなくて、覚悟しながらという感じがしているんです。

 

磯崎:丹下さんと前川さんの、たとえば在盤谷日本文化会館をくらべると、前川さんのは屋根をすっとばしても雁行型のレイアウトで、これは成立するんです。ところが丹下さんのは屋根なくしたら、ありえないんですよ。建築にならないんですよ。大東亜記念営造物でも、シンメトリーで完璧にそうなっていますし、一方、前川さんの在盤谷のはアシメトリーです。 

ぼくは、丹下さんの屋根のつけ方というのは、いわゆるもともと全体の空間構成概念のなかに最初からあって、前川さんは無理してつくったような気がします。 

 

●在盤谷日本文化会館の雁行したアシメトリーなプランは、前川さんでは、戦後の神奈川県立図書館・音楽堂につながっていきますし、丹下さんのシンメトリーなプランは、広島ピースセンターになっていきますね。

 

磯崎:ところが、在盤谷の丹下さんのプランは、前川さんの大連市庁舎のプランとそっくりなんです。 

 

布野:在盤谷のコンペは、ちゃんと誰も指摘していないけれど、コンペ条件が木造なんですよ。木造だから合理的に考えれば、勾配屋根がでてくるということで、大東亜の場合と違うんです。前川さんも屋根が問題じゃないとずっと書かれているんですよ。 

弁護しようと思えば、最後に前川さんが屈して屋根をのっけたというのもちょっと不正確です。

 

磯崎:だけどその頃、前川さんの事務所で丹下さんが担当した岸記念体育館というのは、木造でいかにも屋根がないごとくに見せている。ぼくは非常にあれはよいデザインだと思うのですけれど。 

前川さんはコルビュジェ風に平面で考えて、平面から出てくる空間を考えたけれど、ぼくが丹下さんのところで図面を引いていて思ったのは、最初から屋根を含めた立体構成というのを考えた。それが日本的な構成のなかにつながっているという気がするんですね。 

石元泰博さんと丹下さんがつくった「桂離宮」という写真集がありますね。あれを見るとわかるんですよ。丹下さんがトリミングをして、屋根を全部飛ばしてないんですよ。屋根があってもなるたけ写らないようにという感じで撮った写真ばっかりが選んである。 

広島の平和会館の右側にある陳列館要するにあの木割をコンクリートにしたようなものは、屋根がないと本当はプロポーションでいうと不思議に見えるんです。 

というのは、日本の木割というのは屋根の重さを支えているときにテンションが出てくるんです。ところがそれをすっとばした木割なんですよ。 

戦争中にやった屋根を近代建築に合わせるにはなんとかして消さないといけない、そういう思いがかなりあったと思いますね。 

もともと前川さんのようなレベルでスタートしていたら、屋根なんかとっちゃえばデザインできるんですけど、そうじゃなかった。 

丹下さんのところに行って図面を引いているときに、柱とかのプロポーションばかり考えていたわけですよ。ところが、あのファサードのデザインのこれが、決める基準がはっきりしない。なぜこの屋根の重さなしで、プロポーションが成立するのかという疑問があったんです。それで結局あの屋根のない桂離宮の写真集に行きついたのです。 

 

「国家」の内にあるか、外にあるか 

布野:われわれには、なかなか理解できないんですが、屋根をかけるか、かけないかで、すごいプレッシャーがあったんですね。 

 

磯崎:50年代には、それがあったと思いますよ。そして、そのときに吉田五十八さんとか、谷口吉郎さんが、藤村記念館などで瓦屋根に転向するわけです。 

そういうような屋根というのが、50年代にぱーっと出てきた時に浜口隆一さんが「三味線も悪くない」と言っちゃった。あの人素直だからね。それで浜口隆一さん、ますます苦況に立ったんじゃないかと思うんだな。 

丹下さんはそのへんやっぱり老獪ですよ。自邸なんて完全に屋根が乗っているんですから。

 

平良:さっき磯崎さんが言ったことで、前川さんを弁護したいんですけど、前川さんは上野の帝国博物館のコンペで、コルビュジェ流のモダニズムで向かっていった。しかし、あれを国家様式にすべくというのは、前川さんの意識のなかではなかったと思います。

 

磯崎:もちろん、前川さん自身には、そういう考えはないと思います。だけどあれは、枠組みとしたら、国家様式を組み立てるためのコンペであって、それに応募するというのは、モダニズムが国家の様式になっていくということになるんじゃないかな。

 

平良:前川さんには、国家様式として、という意識はなかったかもしれないけど、少なくともそれが日本でも普遍化できると、日本の建築として、そういうつもりでいたことは間違いないよね。

 

磯崎:それはだって戦後に共産党が反政府、反体制的な仕組みを組み立てたとしても、共産党がもし天下とったら、やっぱり国家をつくったと思うんですね。人民が権力をとったときに何をするかといえば、国家をつくるんです。 

だからあらゆる意味で、国家という概念のなかでしか発想ができてない。要するに、その関係を切り抜けた人というのは、国家に対して鈍感な人だけですよ。建築界でも90%ぐらいがそうで、そういう人たちは国家もへったくれもない。金さえあればいいというような形で動いていると、意外に長谷川堯が評価するような仕事をする人も生まれてくるわけです。

 

平良:こんなこと言うとあとで怒られるな。(笑)現在の国家体制に何も疑問を持たない、鈍感というか無意識なんです。

 

布野:国家様式をつくろうとも思わない。そういう意識をもった建築家はいないし、考えたこともない。

平良:流行としての帝冠様式とか日本趣味とか東洋趣味とか、いろいろ言われると、さっとつくるわけ。

磯崎:だから渡辺仁なんて人は、原美術館のアールデコであろうが、第一生命であろうが、帝国博物館であろうが、一人の建築家がつくったとは思えないほど、右から左まで、ぜんぶやっているわけですね。それで、それぞれレベルが高い。

 

布野:それを長谷川堯さんはこういう言い方をします。様式が自分の外にある建築家と内にある建築家がいる。 

要するに様式が外にある建築家はなんでもできちゃうし、もらってこられるわけです。それをどう評価するかは今でも大テーマだと思うんですけど。

 

平良:だから、ナショナリズムは、戦後も消えてないよ。

 

磯崎:伝統論争のあった50年代の終わりなんて、最高にナショナリズムでしたよ。安保闘争というのも、左翼の視点のナショナリズムだったと思うし。

 

平良:ぼくらは、「新建築」で川添登を中心に伝統論争をやったでしょう。それはアメリカ的モダニズムに対する抵抗としてのナショナリズムだという自覚がぼくにはありました。モダニズムを推進しなければならないと思いつつ、民族の問題は無視できないと考えていた。ただ、丹下さんを主役に持ってきたけれど、それでいいとは必ずしも思っていなかったんです。磯崎さんは、伝統論争をどう見ていたのかな。 

 

コンクリートの造形性に傾く 

磯崎:ぼくは、50年代の終わりは、丹下さんのところでじっとしていたんだ 

けど、60年代になって、建築界から抜けたほうがいいんじゃないかと思って、美術関係に近づいていったり。 

それから、伊藤ていじさんとつきあって、デザインサーベイの始まりみたいな「日本の都市空間」の調査にも参加した。それは、日本的なものというよりも、都市論であって、「見えない都市」につながっていくわけです。 

日本について発言することはしなかったし、戦略的に丹下さん流の空間構成でなくて、空間概念であり、その違いなんだと言いかえていくようにしていました。 

ぼくは、一度独立したんだけど、手が足りないから戻ってこいといわれて、スコピエのコンペをやったんですよ。それが一等に当選してしまったけれど、向こうに行ってもあまりうまくいかない。帰ってきたら今度は万博ですよ。丹下さんのところのグループにぼくが入り、西山さんのところには、上田篤、川崎清、指宿真智雄がいた。反万博運動がその頃あって、ぼくは、それはもっともだと思っていたし、表でお国の仕事、夜は反万博派と裏で付き合いをしていて、上と下、表と裏、昼と夜じゃ、話が違う。もうメチャクチャなわけですよ。それでくたびれ果てたっていうのがいきさつですね。 

丹下研究室の場合、普通は建築家が自分でスケッチして形にするんですけれど、そうじゃなくて、大学の課題と同じにスタッフが案を出して、丹下さんが選んでいく。ですからスタッフによってまったく違うものが入りこむ可能性があるわけ。ぼくは香川県庁舎や今治市庁舎を担当していたけれど、その時代時代で、誰が担当していたかによって、丹下さんの仕事が違って見えてくるというのはあると思います。

 

平良:丹下さんの戦後の変化を見るとね、広島からはじまって、香川までは何となく同じような感じで持っていっているでしょ。ところが倉敷市庁舎とか、日南市文化会館の辺りから極端にコンクリートを使ったトーチカみたいなのが出てきたりしますね。それから高松の香川県立体育館。あれが変形して、オリンピックの代々木に集約されていくんじゃないかと。

 

磯崎:おっしゃるとおり、ぼくの感じでは、たとえば1950年から1965年の15年間くらいというものは、おそらく二期に分かれると思う。たしかに倉敷市庁舎あたりで変わったといわれてますけど、どっちにしても主題は日本的なものであることに違いはないと思いますね。 

 

●屋根をかけずに日本的なものを表わす。広島ピースセンターも香川県庁舎も同じ流れにあると。

 

磯崎:もちろんそうです。だから香川県庁舎も本来ならば五重の塔になるはずが、屋根を平らにしたわけですね。 

 

●伝統論争にかかわりなくですか。

 

磯崎:ええ。二期のほうは平良さんがおっしゃるように非常にコンクリートっばい。その原因というのはおそらく、インドのチャンディガルのコルビュジェ派の影響があったのではないかと思いますね。前川さんの東京文化会館みたいに、日本の全体のムードがコンクリートの造形性に非常に魅力があるものと見えていた。

 

布野:ロンシャンがやっぱりきっかけになったんじゃないですか。

 

磯崎:ロンシャンじゃない。むしろチャンディガル、やっぱりロンシャンのときはかってにとらえただけ。あれは無理だと。

 

平良:「国際建築」で旅行して帰った丹下さんと前川さんの対談があるんですよ。そのときに丹下さんはアメリカに傾倒していた。

 

磯崎:ぼくの記憶では52年にロンドンでCIAMの大会があったときですね。

 

平良:あ、それそれ。

 

磯崎:その帰りにね、マルセイユへ行ってピロティまでできていた建設中のユニテを見ている。それが広島の本館になり、アメリカ体験が旧東京都庁舎になる。

 

平良:そのあとで丹下さんは、「機能主義から構造主義へ」というのを書くんですよ。代々木の国立競技場の前ですね。

 

チャンディガルとサーリネンの影響 

磯崎:61年ですね。その構造主義ってのは文化人類学でいってる構造主義ではなくて、フィジカルな、要するに彫刻的な表現に変わっていくことを正当化する意味の構造主義です。

古谷:そのとき多少メタボリズムに対して釘をさすようなことをいっている。都市には、絶え間なきメタボリズムと、局所的なメタモルフォーゼがあるんだ。断絶して変化するのがあるんだということを言っている。

 

磯崎:そのときに丹下さんのいちばんのライバルはサーリネンだったんです。要するに世界でいちばんのモダニズムのはやりは何かっていうと、どうやって新しい構造形式で彫刻的なものができるかっていうことがあったんです。 

おもしろかったのは、丹下研究室に本屋さんが外国の雑誌を持ってくるんだけど、丹下さんの代々木の競技場が出てますよと言って持ってきたのが、サーリネンのホッケーリンクだった。(笑) ぼくらの意識は、サーリネンがやったらこちらもやり返せって。(一同笑) 

つねに負けてたわけじゃないですよ。丹下さんの方がサーリネンより早いのもあったし、サーリネンのほうが先のもあった。ちょうど競り合ってるって感じでした。サーリネンのディア・ファンデーションのコールテン鋼の建物なんかは、サーリネンが香川県庁舎を見て、帰ってきて全部案を変えてあれにしたっていう話もありますから。逆に影響も与えてることは確かですね。 

それとコルビュジェのチャンディガルとが、どうもからんでるようにぼくは思いますけど。残念ながらサーリネンが死んじゃったから、つまり競争相手が消えちゃったんですね。だから最後になってI.M.ペイとどっちが高いのをつくるか競争してるというのが、今の状態だと思いますけどね。 

それとね、平良さんがおっしゃった、丹下さんの伝統論から民衆論へっていう変化があったと思うんです。伝統論っていわれてるものは、50年代初期のジャポニカをもうちょっときちんとした定義づけをして、おそらく香川県庁舎に至る、日本的な近代建築というものに持っていく。 

それに対して、民衆論というのは平良さんの世代から丹下さんの貴族趣味が批判されたわけですよ。それで丹下さんはそれならばって、当時岡本太郎なんかとつきあってて、これまでは弥生で、今度は縄文の民衆エネルギーというか、縄文的なるものでいこうと。

 

 

布野:白井さんは縄文的で、丹下が弥生的だというのが、『新建築』のセットでした。

 

磯崎:だけど丹下さんは倉敷市庁舎以降は縄文論を民衆論にしちゃうんですよ。

 

平良:ぼくの解釈でいうと倉敷では、大空間が出てくるんだね。それは丹下流の民衆論ですよ。民衆の圧倒的なエネルギーを包み込むような空間。やっばりヒューマンスケールなんか超えていくようになると、ああいうマスですよ。だから、その後の大衆社会論でいう大衆を包み込むような、あるいは大衆と対応するような空間というものをイメージしてつくっている。

 

布野:その段階で広場論も出てくる。ぼくは68年入学ですから、東大闘争以後なんですが、アーバンデザインという講義で丹下さんから広場論を聞いたことがあります。しかし、内容は、ロストウの経済発展4段階論なんです。そのときに印象に残っているのが、その段階説によると、もうじき建設はだめになるという話なんです。80年代はだめだというんです。実際オイルショックでそうなったわけだけれど、80年代にはバブルが来た。 

 

ロストウ経済理論から中東へ 

磯崎:つまり、東海道メガロポリス論っていうのもロストウのテイクオフという4段階説で順に変化していくわけですね。要するに後進国から先進国になっていく近代過程っていうのが4段階。この理論ですよね。 

そのときにアメリカでゴッドマンのアメリカの東部がつながったっていうメガロポリス論があり、これを日本に合わせて輸入したわけです。ですから、いわば一種のはやりの経済理論と都市論、両方合わせてもってきて、日本の国土軸にすると。 国土軸っていう言葉がはやって、結局それが田中角栄の新全総にぴったりつながっているって気がする。

 

布野:要するに、丹下さんは最後までそういうフロンティア主義、成長主義ですね。離陸してしまって、バブル期に帰ってきたわけです。新都庁があって、東京フロンティアがあって完結する予定だった。だけどそうはいかなかったんじゃないですか。

 

磯崎:それについては、まったく疑いを持っていなかったと思います。

 

平良:ということは何はともあれ、田中角栄と、その部分ではメンタリティはぴったり合ってるのではないかと思いますね。

 

布野:ぼくは戦後50年のちょうど真中の1970年で、建築が変わったと思っている。丹下さんはそこで消えてるわけです。というか、あとの25年は丹下さんは、もちろんそれは圧倒的にグローバルには根づいていってますよ。しかし、少なくとも70年代は丹下さんは日本では仕事がほとんどなかった。ところが第三世界ではびっくりするくらいやっている。 

おもしろいのは、ちょうどこの頃、長谷川堯さんが出てきて、丹下、磯崎をたたいて、村野さんを持ち上げたことですね。近代建築の保存という時代が始まった。われわれ学生からすると、丹下さんはもう引っ込んじゃって、むしろそれをどう乗り越えるかが出発点だったんです。 

ぼくはさっき「SD」の丹下特集を全部見てきたんだけれど、70年代以降の外国での開発プロジェクトはひどいというか、全然おもしろくない。みんな同じ。丹下のバナキュラー化というか、要するにどっかの巨大な組織がやっててもいい作品ばかり。 

とにかく、シンガポールでもサウジアラビアでもアルジェリアでも、みんな同じなんですから。やっぱり70年以降、丹下っていうのは消えて、おもしろいのは万博までだったという気がしますね。

 

磯崎:丹下さんの仕事の具体的な建築の評価は、ぼくもまったく同じなんですけれども、要するになぜ万博まで丹下さんがよかったかというとね、日本国家というものがまだ、そのときまではけっこうよかったんです。経済発展の誇示っていう意味での万博は、国家的な祭典だったし、広島、オリンピック、万博ときたら、日本の戦後最大の国家イベントですよね。丹下さんはこれを全部おさえて、それを形にしてきた人だったというように思います。 

ところが、おそらく万博のあと、70年代の始まりのときに日本国家の影が、だんだん薄くなってきたんですね。その原因というのは、ぼくの勝手な解釈ですが、田中角栄が出てきますね。日本っていうのは、要するに無限に経済開発が可能であるということを、政治家が言った。それに官僚がなびいた。ということは、日本を国家としてまとめるのではなく、日本株式会社として国をまとめたというのが、田中角栄の功績というか、事件です。そうすると、日本国家が役に立たなくなって、要するに経済の方が重視されて、財界の方が強くなってしまった。 

その関係に長谷川堯がねらいをつけて、東大的な国家に対して早稲田的な商業というか商人の建築、国家の建築に対して商人の建築、東大対早稲田というのを出したと考えられる。70年代は国家の権威が没落して、丹下さんという人は国家の建築家としてやることがないわけだから、国家の建築を必要とするオイルカントリーに呼ばれていく。だからちょうど70年代で丹下さんの日本国家の建築家の役割は完全に終わったといえますね。それは確実にいえると思います。 

問題は、商人建築家の代表で村野藤吾が浮かんだというところから、ある意味で日本の建築界にいろんな無理がまた発生して、だけどそれは、そのままずっと流れてバブルにいく。バブルというのは完全に経済優先の時代ですから。 

ぼくは商人建築家にはなれないし、そうかといって日本国家というものをセレブレートする建築家というものを否定するという立場になってきたときに、さてどうするかっていうことで、その戦略を70年代以降組み立てようとしたわけですけれど。 

 

商業建築家としての帰還 

布野:ぼくにとってすでに丹下は軸にならなかったわけです。左右に磯崎と原広司をおいて出発したんですよ。

 

磯崎:だから70年以降、早稲田が強くなったはずです。(笑)

 

布野:丹下さんには意識していなくても、世界建築家みたいな概念があったと思うんです。つねに高みに立って、神のごとく白紙の上にビジョンを描いて、実現可能性あるいは技術的な可能性を問うという建築家像ですね。世界をデザインするということが基本的にある。 

日本の国の中ではオリンピックやって万博やって、要するに戦後復興っていうか、国際政治の舞台に上がるまでのプロセスは終わった。次は、世界建築家としては世界一へ向かう。そういうスタイルで、今日に至るまで一貫性を持ってやってきたという見方ができると思うんです。

 

平良:丹下さんも戦後、新しい近代の民主主義というものの緊張感がある間は、緊張感が続くんです。それから日本の国家が変質するわけだよね。天皇制を、大衆国家に合ったものにして。民族国家っていうのは戦後はまだあったわけですよ。その後、ほんとうに経済的な国家になって民族主義的なものが希薄になるんです。と同時に丹下さんの中から緊張感がなくなっていったんじゃないかな。

 

磯崎:オイルカントリーから、今度は商業建築家として日本に帰還したんです。つまり、今まで国家と組んでいたのを切ったわけですね。 

 

●プリンスホテルですね。

 

布野:そう。それ以来、そうなっちゃった。最後に東京都庁舎でしょ。それはやっぱり世界都市になっていく東京都なんだということでしょう。つじつまが合ってるかもしれない。

 

磯崎:そこで問題があるわけです。つまり、70年代につづいて80年代、日本国家というものは空洞化していった。いくらがんばっても国家をセレブレートするものが出てこない。だから、ぼくはつくばセンタービルでは、セレブレートするのではなくて、意図的に裏返しをやったんです。そういうものに日本はなっていく。 

それにもかかわらず、丹下さんは商業建築家をやってみたんだけど、都庁はやり方を変えたんですね。 

国家は形をもたなくなっても、国家を形にするのは首都なんです。首都の形は国家の反映であり、国家の顔である。その顔のシティーホールというのは国家的建築家として、宿命的に丹下さんはやらざるを得ないわけで、都庁舎というのは、ある意味で丹下さんと日本国家との関係において、丹下さんの中では大東距記念営造物から都庁まで、一直線にあると思うんです。 

ところが相手の国家が空洞化している。にもかかわらず、顔をつくるときに都庁舎で何が起こったかというと、バブルで抜け殻になったというか、空洞を空洞としてしかつくらないから、バブルタワーになってしまったというのが、ぼくの意見なんです。 

新都庁のコンペは、誰でも橋をかけたんですけど、ぼくのはものすごく大きい橋だから、道路交通法違反だって落とされた。ぼくはカウンタープロポーザルのつもりだったし、落とされるべくして落とされたというか。 

 

世界の丹下が世界都市東京へ 

古谷:さっきの早稲田の話に戻りますが、70年代に早稲田が元気がなきゃいけなかったんですけどね。そのとき、たしかに村野先生の見直しがありました。しかし、早稲田でいうと、60年代の終わりから70年代にかけて、よかったのは吉阪隆正ですよ。八王子のセミナーハウスも営々と、つくり続けていましたし、その迫力は象設計集団に受け渡されていくんですが。吉阪先生は早く亡くなってしまったので、もうひとつ先が花開かなかった気がします。その長谷川堯さん流にいう「獄舎」や「雌の視覚」は別の意味で、たとえば安藤さん的なものに置き換えられていってしまったと思うんです。たしか長谷川さんは、丹下さんと安藤さんを鳥の目、虫の目と言って比較されたと思うんですけど、本当はもうちょっとアカデミックなところで獄舎づくりが花咲くはずだったのに、どっかから虫の目の論議に入っていって、安藤的なものが礼賛されていったような気がします。

 

磯崎:彼もある意味でいうと、大阪商人的な感覚でいってるから、それはそれで町屋のレベルでは、いい視点が出てきたんだと思います。ところが、安藤さんは最近は鳥の目みたいなのをやってるから、いろいろ破綻が起こってるって感じがするんですよ。

 

布野:なかなか丹下さんを乗り越えるという話にならないんですが、あえて言わなくても消えたっていうのが実感なんですけど。

 

古谷:以前、礒崎さんは本の中で、フィリップ・ジョンソンの話をしていましたね。ジョンソンというのは、どこかで視点をどんどん変えながら、若い先端的な人と付き合っていった建築家だと。それが、あるとき以降の、丹下さんにはなかったんじゃないかと。

 

磯崎:えらくなりすぎちゃったのかね。ジョンソンという人は、そういう意味じゃかなりしたたかな人で、自分で、出てこいとかなんとか電話かけてくるくらいの人ですね。本当にやぶれかぶれに先のことをやっちゃおうと言ってて、それがやりすぎてるんで、個性がないというふうに言われてるところもありますけど。 

彼の場合は一歩二歩遅れて、必ずはやりのところをねらってるという、その鑑識眼は、もう来年90歳だけど、いまだに持ってますね。ポストモダニズムに出口はないって言って、自らの出口をふさいだ丹下さんと、次から次へと先行って、デコンのまた先を今やろうとしてるというジョンソンの、そこらへんに違いがありますね。

 

古谷:丹下さんは常に実践者なんですね。ご自身がなさってるっていうか、だからイメージがさびついてきたときに、ずっと加速し続ける状態ができなかったのかなという気がしますけど。

 

布野:どうなんでしょうかね。丹下さんの場合、国家とか権力あるいは社会の配置とかいうのは、使命的にずっとかかえているわけですね。

 

磯崎:それはある意味でいうと、その時代の権力のトップとは何か、中枢は何かということを直観的に見て、その点では一貫してるんじゃないですか。ジョンソンには国家的な仕事はあんまりこない。むしろ彼はデベロッパーの仕事をもっぱらやってるから、仕事の領域からいったら村野さんに近いような感じですよ。平良:丹下さんは何といっても日本国家のナショナリズムから生まれた人ですからね。それが抜きがたく身体化されていると思うんですよ。

 

布野:戦後の日本の成長過程で、丹下さんのような人は一人いればよかったわけですよ。「建築ジャーナル」の5月号で川添登さんが、大衆運動をするにはカリスマが必要だったと言っています。意図的に丹下を持ち上げたという言い方をしてたけど、実際川添さんがそうしなくても社会がそういうものを要求したということはありますね。 

 

磯崎:それは丹下さんがいちばん意識化したわけですよね。主体的に選びとったし、方法化したり、理論化したし。そういう意味では戦前から戦後にかけての国家の命運というのは丹下さんを見てたら、およそ解るというくらいの、そういう感じがするんですよね。 

 

ポスト丹下とポストモダニズムの後は 

古谷:どうなんですか。ポスト丹下というのは、たぶん磯崎さんしか引き受けないんじゃないでしょうか、という予感があって聞いているんですけど。

 

磯崎:ぼくには、それには答えられないけれど、この次、何をどうやらなきゃいけないかというようなことは、つねに考えてはいるんです。だけど、今ぼくは若干の反省をしている。丹下さんが国家を考えるなら、ぼくは反国家を考えてきたつもりだったけれど、国家と反国家というのは実は裏表で同じじゃないかという見方もある。そうすると、単純に反国家なのか、それをすり抜ける別な概念にいるのかどうなのか、まだ正確な見とおしはできていません。 

しかし、少なくとも商人的といわれている領域というのは、ほとんど仕事をしていないし、国家の仕事もないんですよ。でも公共建築で、かつ中心でない地方のそういうのが多いんですね。 

外国での仕事も似た感じですね。

 

平良:反国家的ローカリズムとはならないわけですか。

 

磯崎:地方の権力である地方自治体が中央と対抗するために、あるいは隣と対抗するためによばれる関係に、どうもあるみたいな気がする。

 

古谷:地方都市が脱国家的なものをめざしているのと、うまくリンクしているわけですよね。それが地方自治体も丹下さんではなく、磯崎さんのスタイルに何か近いんだと。

 

磯崎:そうであってくれれば、ありがたいんだけれども。 

ぼくにとって、丹下研究室にいたことは、避けがたくある。その上でこれをどう見直すかということと、その裏をどう組み立てるかということを、ひたすらやろうと思っているんです。少なくとも丹下さんと違ってぼくは、バブルにあまり付き合わなかったんですね。 

つまりみんながいちばんポストモダンをやった時期ですね。ぼくは最初につくばセンタービルで国家批判みたいなものとして、デザインをやったというつもりだったんだけれど、いまだに外国でも日本でもポストモダンの責任を問われている状態にありますね。丹下さんのオリンピックと同じように、ぼくも筑波のプラスマイナス両方を問われているのが実情だと思います。だ 

けどぼくにとってみれば、あれはあれで終わって、別なことをやらないといけないと思ってやりはじめているんですが。その過程にバブルがあったけれど、バブルをどうやって避けるかというのが、ぼくにとって課題だった。 

バブルでぼくが何をやったかというと、自分でやるよりは人にやってもらった方がいいんじゃないかと思って、ネクサスワールド香椎とかアートポリスとかでプロデュース的な仕事をしていた。そうじゃないとバブルは大変だと思っていた。

 

布野:ぼくは丹下さんを世界建築家と言ったんですけど、それが気になってましてね。実はぼくは、あるところで丹下さんと出会ってるんです。 

イスラム圏の建築賞にアガ・カーン賞というのがあるんですね。彼はその審査員をやってたんですよ。ぼくが、たまたまこの15年付き合ってるインドネシアのスラバヤの不良住宅の改善事業が、その賞をとったんですよ。あとで聞いたら、スラム改善のような文化性の低いものだからという理由で、丹下さんが反対したということがありましてね。最終的には全会一致で、それを選んだらしいんですけど、そういうやり方をしている、世界で働く丹下さんというのが終わってるのか、生き残るのか、そういうことが気になっているんです。丹下さんの総括というのをもう少しやっておかないといけないんじゃないかな、という気だけはするんです。 

 

大東亜共栄圏の再来 

平良:ぼくは戦前のナショナリズムが彼を生んだと思っている。 

日本文化におけるナショナリズムというのは、日本独特の価値を世界に広げていくという大東亜共栄圏の発想がある。その名残じゃないかと。

 

布野:名残じゃなくて70年代以降に反復したということじゃないですか。

 

平良:反復といったほうが正確だな。70年代には、今度はどこへでも後進国にいけるわけだからね。

 

布野:なんか確信に満ちているんですね。イタリアだろうが東南アジアだろうが、同じ物を建てちゃうという、この確信が、ぼくには気になるんです。この間見つけた文章がちょっとおもしろかったんですけど、戦時中の大東亜建築様式をめぐるアンケートがありましてね。丹下さんはそこに何を書いているかというと、アンコールワットに感嘆するのは好事家の仕事だとはっきり書いている。ほかのみんなは戦地に行って風土とか民俗に触れながら、じゃあどうしようかという問題のたてかたをしてるのに、丹下さんはスパッと抜けてるんです。それは70年代に中東やアジアに行ったときと全然違わないんじゃないかという気がしたんです。

 

磯崎:やっぱりそれはロストゥが言ってる徹底した経済発展段階説ですよ。

 

布野:そういう意味では戦前の問題は全然解けていない。

 

平良:戦争に学んでいるわけでも、海外へ出て行ってその体験から学んでいるわけでもない。 

 

磯崎:オイルカントリーで仕事した10年ほど前には、結局ああいうところはロストウのテイクオフの段階で、丹下さんの持っている一種の近代主義みたいなものとが、ピッタリ合ってたということが言えると思う。古谷:オイルダラーの国へ出ていったときも、丹下さんはここで都市ができるって思ったに違いない。日本ではできないけど、ここなら都市が一つはできるかもしれないと思って、それが丹下さんを突き動かしていたと思うんです。ところが手足がついていけなかったという問題があった。

 

布野:それもあるんでしょうけど、構えとか方法の問題があると思う。都市計画とかアーバンデザインとかについても、丹下さんの考え方は全然ゆらいでいないんじゃないかと思うんです。 

 

——都市を創造できるという考え方自体がおかしいというわけですか。

 

布野:おかしいとぼくは思うんです。 

だけど丹下さんのスタイルは変わらない。東京計画の限界は、いろんな言い方をされているじゃないですか。実際の都市はそれで絶対に動かないわけですよ。でも、そのスタイルは全然変わっていない。その可能性を最後まで信じてるし、東京都市博なりフロンティアも同じなんです。磯崎:あれはね、バブルの頃、通産省とか建設省とかに運輸省も含めて、自分のところの政策をもういっぺん組み立てて、バブルにのせようという動きがあったんですよ。それと都庁の鈴木都政とからませて、港湾局もまきこんで、ガバッと案をつくった。黒川紀章もまた同じようにつくるわけですよ。それをやっておくと、まるでゼネコンが唾つけるみたいに、一種の利権が発生するんですよ。とにかくビックプロジェクトのありそうなところには、構想の絵を描いておくみたいです。 

「東京計画1960」のときは、実現するなんて思わなかったけれど、30年たってできるかもしれないということになったわけです。 

 

ユートピアなき都市創造 

布野:中間を抜いて、上からバーッとやればできるという幻想がある。国家的な権力によって上から押さえこめば 

計画できるんじゃないかというふうに、丹下さんは思ってたと思うんです。

 

平良:全体主義的計画法なんだよ。

 

磯崎:安藤忠雄も何かの座談会で、上からのファシズムみたいなものじゃないと、計画なんかできませんとか言っていましたが。

 

布野:丹下さんにしてみれば、日本はめんどうくさい、産油国の方が王様にまかされて、自由にできるっていうくらいの、そういう意識があるのかもしれません。

 

磯崎:それでできたわけですよ。だから宮廷建築家なんですね。

 

布野:ただ、普通近代建築家には、ある種のユートピア思想とか理想主義があるじゃないですか。丹下さんの場合、ほとんどそれを感じませんね。その辺が不思議だと思う。あれだけえらくなれば理想都市が出てきてもいいと思ってるんですが、そんなの最初からまったくないみたいですね。

 

磯崎:たしかに学生のときに聞いた講義でも、ギリシャのアゴラとかローマのフォーラムは出てくるけど、ユートピアには関心なかったんじゃないかな。コルビュジェの「輝ける都市」みたいなイメージは常に持っていたとしても。 

――すると、臨海副都心までいってしまったのは、当然の帰結だと。布野:フロンティア主義であれば当然でしょうね。輝ける都市をあそこに見ていたんじゃないですか。一つ気になっているんですが、旧都庁舎を壊しても平気だということは、いったいどういうことなんでしょう。丹下先生というのは、自分でつくったものに愛着がないんでしょうか。

 

古谷:つくるまでの計画と竣工でピークを迎えるんでしょうか。布野:つくったその瞬間に興味がなくなるタイプの建築家なのかもしれない。

 

磯崎:ぼくは旧都庁舎は、ひとつの時代を表わす建築として残しておいてほしかったと思います。しかし丹下さんは竣工写真を撮ると興味がなくなるということを、誰かが書いてましたね。平良:模型がいちばんよくて、鉄骨が建ち上がるところまではいいんだが、できあがってしまうとつまらなくなる。ぼくは、すでに旧都庁舎のころから、そういう感じがしていたんです。 

 

●今日は、戦時中の丹下健三の壮大な計画から、臨海副都心に至るまでの軌跡に筋道をつけることができたと思います。丹下健三を乗り越える戦略についても触れていただきましたが、この問題は、建築をつくる者一人ひとりにつきつけられているのではないでしょうか。また別の機会でも問いかけていきたいと思います。 

(10月24日「日本都市センター」にて収録) 


















 

2023年7月6日木曜日

大腸癌診断、治療方針決定 6月13日、6月16日、CTスキャン、6月19日

東京都多摩総合医療センター初診から治療方針決定

 ①6月13日 がん検診センターで依光先生の紹介状を受け取って、総合医療センターへ。外来、患者・・などを呼び出し器で一体的に管理するディジタル・システムに感心した。実に進んでるではないか。

 消化器外科 大塚英男先生 ネットによると以下のプロファイル。 

大塚 英男

役職
医長
専門分野
消化器外科、下部消化管、腹部救急
資格
日本外科学会外科専門医
日本消化器外科学会消化器外科専門医
日本消化器外科学会消化器がん外科治療認定医
日本内視鏡外科学会技術認定医(大腸)
手術支援ロボット「ダヴィンチ」術者資格
その他
【出身校】
日本大学 平成17年卒
【出身医局】
東京都立府中病院後期臨床研修医
【主な経歴】
相模原協同病院
東京都立府中病院

 大腸内視鏡検査、X線検査の映像を見ながら、図を描いて、S字結腸と直腸の2箇所に3cm大の癌があることの説明。16日のCTスキャンの結果次第であるが、リンパ節を通じての転移が問題。直腸癌は肛門に近く人工肛門の可能性もある。

② 6月16日 がん検診センターでCTスキャン 依光先生 一年遅かったらもっと進行していた!
 全ての映像データはCD-Romでもらえる。ここにUPするのは控えたい!

③ 6月19日 大塚先生 肺、肝臓に転移はない。リンパ節と癌の関係がやや不明。治療方針決定。XEROX療法。7月3日開始。





前立腺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前立腺

前立腺(ぜんりつせん、英: prostate)は、器官の一つで、男性のみに存在する生殖器。膀胱の真下にあり、尿道を取り囲むかたちで存在、精嚢が隣接。クルミほどの大きさで、正常の重さは20ml(20g)以下[1][2]。女性器におけるスキーン腺に相同である。また、前立腺小室(男性子宮)は子宮(ミュラー管の名残)と発生学上分岐した存在がある[3]。


役割[編集]

前立腺の役割については、まだ解明されていない部分が多く、主な働きとしては前立腺液の分泌。精嚢から分泌された精嚢液を精巣で作られた精子と混合し精液を作り、射精における収縮や尿の排泄なども担っている。同時に、膀胱側の尿道を狭くして、精液が膀胱側にいかないように調整を行っている。

構造[編集]

内側の「内腺」と外側の「外腺」がある。最近は移行ゾーン(内腺)・中心ゾーン(内腺)・辺縁ゾーン(外腺)と分類されることもある。







東京←→京都の移動する書斎、建築文化、199203




 

2023年7月5日水曜日

大腸癌発見、2023年6月8日

 大腸がん発見までの経緯は以下の通り。

 ① 2023年4月14日 午前 いきつけの(歩いて5分)高橋内科クリニック(国分寺市恋ヶ窪)に薬をもらいにいく。日大生産工学部に特任教授として着任する時の健康診断で高血圧ということで、かかりつけの医者に定期的にみてもらうように指示を受けて以来だからもう9年になる。高橋寿保先生は岡山大学医学部出身の医学博士である。全て酒が原因です、控えなさい、というだけで、いつのまにか薬の種類が増えるので、薬漬けにしていいのか!、などとやり取りをしてきた。その高橋先生が、データをみながら、貧血の傾向にある、一度検査した方がいい、胃がんかもしれないと脅す。東京都立がん検診センターを予約するという。

 高知いく予定があるので連休明けでいいか?ということで5月17日を予約。


 ② 2023年5月17日 午前 歩いて西国分寺駅さらに歩いてがん検診センターへ。計40分。この道は、東洋大時代に時々歩いた道だ。武蔵野線で西国分寺から北へ、北朝霞で東上線で乗り換えて鶴ヶ島へというのがルートである。

 消化器科 依光展和先生 簡単な問診の後、胃内視鏡検査。胃カメラは滋賀県立大学以来2回目。あんまりいい気分ではないが、耐えられないというほどではない。モニターを見ながら、奇麗なもんだなあ、と前回の時のことを思い出した。終了後、すぐさま結果を聞く。食道、胃腸、十二指腸まで異常なし。いくつかポリープがあるけど、これは「飼ってていい」ものという。

 ほっとしたけれど、原因究明になっていない。予め、大腸内視鏡検査が予定されており準備のヴィデオを見せられ、、6月8日の予約をさせられる。

 大腸内視鏡検査をしたことがある人はご存じのことだけど、検査前に大腸をからにする必要がある。前日の昼食、夕食のインスタント食品持ち帰る。


③ 2023日6月8日 午前中モピプレップを飲んで、大腸を空にする。15:00 東京都多摩がん検診センター。着替えて即検査。
 モニターを見ていると、胃に比べて随分汚い。
 すると、すぐさま、依光先生の、これは手術が必要ですねえ、という声。見つかったか!という反応。二ヶ所ありますね。ポリープは切除します、という声。全部で20分くらいか?
 検査後、また日を改めるよりすぐやった方がいいと、X線検査を指示される。大腸のヴァリューム検査はもちろん初めて。説明、同意のまもなく。撮影。

 内視鏡検査、X線検査の写真をみながら、総合医療センターへ紹介状を書くから受診するように指示を受ける。6月13日。また、6月16日のCTスキャンを指示。







 

 

おわりに、住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,1997年10月25日

 あとがき、住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,1997年10月25日



おわりに

  夢に現れる場所や空間に興味を持ち、克明に夢の記録をとり続けた建築家の話を聞いたことがある。その建築家によれば、採集した夢のほとんどが住宅を舞台とするのだという。しかも、その大半が生まれ育った住まいだという。

 夢の記録はいかにして可能なのか、記録者が分析者であることによって、夢の内容はどう影響されるのかは、夢解釈や夢の現存在分析の問題であり、僕にはよくわからない。だから、その建築家の分析結果が一般化できるかどうか確信がない。しかし、僕には思い当たることがある。

 建築を学び始めた学生に住宅設計の課題を出すと、その設計案にはどこかしら生まれ育った住まいの面影が表れるのである。例えば、間取りが似ていることがよくある。「夢の住まい」「理想の住まい」を設計しなさいといっても同じである。何となく現実の住まいに似てしまう。だから、もっと自由な発想で、というのが僕らの口癖である。しかし、空間体験がなければなかなか発想も豊かにはならない。未知の空間はそう簡単には設計できないのである。様々な空間を経験すること、実際に行って見ること、見るだけでなく触って、そして全身で感じること、それが夢の住まいを自由につくる第一歩である。

 「夢の住まい」も現実の「ウサギ小屋」を超えることはないという認識は、一方で僕らをうんざりさせるかもしれない。しかし、夢の舞台として住まいが繰り返し現れているのだとすれば、僕らの存在にとってそれだけ現実の住まいが重要であるということである。

 住まいの夢は、従って、単に住宅の夢ではないであろう。まして、お金さえ有れば買えるというものでははないだろう。住まいの夢と住まいの夢は自由で多様な生き方に関わっている。

 本書では、現実の住まいを規定し、縛っている様々な制度について順に考えてみた。土地、家族、空間、環境、技術、世界観などによって、住まいは様々に規定されている。とても一元的に理解することはできない。住まいのあり方は極めて複合的な諸要素からなる文化の表現である。僕らの住む都市の風景が貧しいのだとすれば、それは単純な制度や原理によって容易に理解可能だからである。

 所有形式(所有ー無所有、定住ー移住、恒久ー仮設)、集合形式(独居ー群居、男性ー女性、複数家族ー核家族)、空間形式(有限ー無限、限定ー無限定、自由ー不自由)、環境形式(場所ー無場所、自然ー人工、地下ー空中)、技術形式(画一性ー多様性、自己同一性ー大衆性、地域性ー普遍性)、象徴形式(生ー死、コスモスーカオス、永遠ー瞬間)がそれぞれの章に割り当てたテーマであり対となる鍵語群である。もちろん、各章は独立するわけではなく、相互に関連している。二分法によって、どちらかはっきりさせようというわけではない。僕らの「住まいの夢と夢の住まい」は両極の間をさまようのみである。

 住まいの夢は、もちろん、個人によって様々であろう。無所有の夢、ノマドの夢、独居の夢・・・といっても、誰もが実現できるとは限らない。所有より住むことそのものへ、多様な関係を許容する住まいのあり方へ、規模よりも共有された秩序へ、場所の固有性へ、自己表現へ、そして生きている住まいへ、・・・「住まいの夢と夢の住まい」を考える素材が提供できたとすれば望外の幸せである。

 本書のもとになったのは、『群居』という同人雑誌に「アジア住居論」と題して連載していた文章である。思いつくままテーマを選んで気楽に連載していたのであるが、一冊の本にまとめるにあたって全く新たに構成し直した。ほとんど書き下ろしと言っていい。連載のみならず、これまでの著書で考えてきたことも必要に応じて取り込んでいる。

 本書はもちろんぼくひとりの力によって書かれたのではない。共に調査をしてきた研究室の若い友人たちとの共同作業がもとになっている。また、インドネシアのスラバヤ工科大学のJ.シラスとその仲間たちとの交流も同様である。『群居』の仲間たちとの議論も貴重である。本書の執筆と平行して、R.ウオータソンの『生きている住まい』を翻訳する作業を若い仲間と行ったのであるが、東南アジアの住まいについての実に豊富な事例の多くをR.ウオータソンの著書に負っている。『生きている住まい』がなければ、本書をまとめる踏ん切りがつかなかったかもしれない。また、東南アジア学の手ほどきを受けた京都大学東南アジア研究センターの諸先生方、特に立本成文、高谷好一の両先生、さらに「イスラームの都市性」に関する研究をご一緒して以来、最近の「植民都市の比較研究」まで、ロンボク島調査などフィールドを指導していただいている応地利明先生には常に大きな知的刺激を受けてきた。特に記して感謝したい。

 「アジア住居論」の迷路に踏み込んで右往左往している僕に本書をまとめるよう薦めて下さったのは赤岩なほみさんである。すぐにとりかかったけれどなかなかまとまらない。フィールドが面白くて新しい興味がどんどん沸いてくるせいである。一応まとめてからも冗長さを削ぎ落とすのにさらに三年はかかったであろうか。赤岩さんとの共同作業は貴重な経験であった。本書が多少とでも読みやすくなっているとすれば彼女のおかげである。 

2023年7月4日火曜日

抗癌治療開始 2023年7月3日

本格的にBLOGを開始することにした。

きっかけは、大腸癌がみつかったこと。母親の三回忌を終え(6月25日)、実家の処分を開始したこと。死に向かって生きることがはっきり意識されたこと。


 大腸がん発見の経緯は改めて振り返るが、7月3日の抗癌治療開始について 7月5日 広田先生、安藤先生へのメール採録。

 

 広田先生、安藤先生 

 一作日、7月3日、東京都多摩総合医療センター(東京西部で定評のある大きな病院です。西国分寺駅からバス5分。自宅から歩こうと思えば歩いて行けます)に一泊、治療(XELOX療法(あるいはCAPOX療法))を開始しました。世界中で行われている治療法だそうです。6月16日のCTスキャンの結果、幸い、肺、肝臓などに転移はなく、以下のスケジュールで手術(S字結腸癌と直腸癌2箇所)することになるようです。担当医師は大塚英男、日大医学部(2005年卒)出身のようです。まだ、何も個人的なことはやりとりしていませんが、ネットには、日本消化器外科学会消化器外科専門医、日本消化器外科学会消化器がん外科治療認定医、日本内視鏡外科学会技術認定医(大腸)、手術支援ロボット「ダヴィンチ」術者資格とあります。論文も2014年ぐらいまで書いていらっしゃるようでしたが、腕には自身ありそうな感じです。

 副作用次第ですが、たぶん問題ありません。

 ・AB研については、次回、8月、9月の予定までは参加できると思います。

 ・日大の講義は2Qは予定通り。最終日8月2日にはコンピューター・アプリ・インストールチェックで出校の予定です。

 ・問題は、3Qの建築史特講ですが、手術後の入院期間によって1,2回休講することになります。ただ、古田さんが付いてくれれば「世界建築史連続セミナー」のヴィデオが10回分ぐらいありますのでなんとかなるとは思います。相談させてください。

 ・4Qについては、篠崎先生がおられますので、布野がどうなろうと問題ないと思っています。
 
 初回ということで一泊しましたが、以降、3週間に一度点滴(オキサリプラチンDNA増殖抑制)+2週間の服薬(ゼローダ(カベシタピン)細胞増殖抑制)(1週間休み)、3ヶ月4クールの治療の後、手術(10月頃?)、さらに3ヶ月の抗癌治療ということです。
 点滴は3時間半。全く問題なし。針を刺した部分が多少痛むぐらいでした。
 医者におそるおそる酒はダメなんでしょうね?と聞いたら、ぐびぐび飲まなきゃ問題ないよ!とのこと。
 ところが、・・・昨日帰って早速飲もうとしたら、冷えた缶、ビン、コップ・・・を持つとビリビリと感電したような痛さ?が走ります。それと飲むと口の中がぴりぴりします。びっくりしたのですが、末梢神経症状といってほぼ全員に起こる副作用で2日から数日で収まると書いてありました。夕方には氷結飲むのは問題なくなりました。冷えた缶を持つのにはハンカチが必要でしたが・・・
 今朝、冷蔵庫のものを取り出すときにはまだ指先がびりびりしました。

 以上ご報告。


★布野先生
CC.安藤先生

おはようございます。
今朝は三鷹付近の日大未利用地・建物の視察に回っています。

免疫治療を行うのですね。
精神的安定が大切のようです。
授業のことは何もご心配要りません。
ご指示だけお願いします。
15日はA-forumに参加予定です。

/広田直行

★布野先生

転移がなかったようで斎藤先生と共に安心しました。

ところで末梢神経障害ですが…

https://www.ncc.go.jp/jp/ncce/division/pharmacy/houshasen/houshasen_Specifics/peripheralneuropathy.html
冷たい水や熱いお湯にはできるだけ触れないようにする

ということですので、お飲みになるのでしたら常温か、レモンサワーの素や焼酎をぬるま湯で割ってお飲みになることをおすすめします。

快適な治療ライフをお送りくださいませ。

●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●

Archi-Neering Design Forum (A-Forum)
麓 絵理子(フモト エリコ)

〒101-0062 東京都神田駿河台1-5-5レモンパートIIビル・5F
TEL:03-5281-7880 FAX:03-5281-7881
URL:http://www.a-forum.info
Mail:fumoto.eriko@a-forum.info

●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●━●

★布野先生

 

転移もなく部位が特定されたとのこと、私の気持ちも前向きになりました。

この後はただただ順調に治療が進むことを祈っています。 

15日はお二人分の謝金1万円を用意していきます。

外出等、今のところ支障ないということですが、無理はしないでください。 

今朝冷蔵庫から取り出そうとしたのは氷結ではないでしょうね。

完快までは控えめにしましょう。 

お大事に。

 

安藤



★氷結は入ってますよ!

例えば、冷えた野菜掴んでもビリビリしました。
何故か、飲むのは問題ありません。最初の一杯は、ビリビリしてこれはなんだ、なかなかいけるなあ!という感じでした。

★安藤先生

謝金は前回の懇親会で準備できております。
布野先生にもお立て替えいただいております1万円の返金があります。
/広田直行


★布野先生

驚きました。お身体がそんな大変なことになっていらしたとは,全く存じ上げず,1Qの授業にはいつも通りにご指導をいただいてしまい,大変に失礼をしました。すでに治療を開始されたとのことで,第一歩の安心というと少し違いますが,快方に向けての進撃開始だと思います。色々な戦いがあると思いますので,体調を維持されるのが大変なこともあるかと想像しますが,ぜひ乗り切られて全快されてください。

去年の夏,自分がコロナに罹患して入院した時に,抗ウィルスの点滴を二日くらい投与されました。とてもだるく何もする気にならなかったり,四肢に湿疹ができたりと,身体が戦うとはこういうことかと実感したものですが,おそらくその何倍もの負荷があるのでしょう。それでも,お酒も大丈夫とは,いいことを言ってくださる先生ですね。ストレスがないのが一番でしょうからよいですね。氷結なくして先生はあられませんから。

1Qの授業は,先生のご指導のおかげで,最後は皆,頑張ってくれてよい案ができたと思います。ぜひスラバヤに送りたいと思いました。布野先生とは,スラバヤにまたご一緒するのをいつも楽しみにしていたので,少し時間が必要にしても,一日も早い復調を心からお待ちしています。
その間,何かできることがあれば,何でもいたします!

ちょうど頼んでいたPREVIの本が来たので,お送りしようと思っていたところです。
近々にご自宅にお送りします。

篠崎健一


★篠崎先生


 心配かけて申し訳ない。
 肉体的に今のところ、手先のビリビリぐらいで、全く、問題ありません。
 抗癌治療で癌が縮小する場合があるので、それをまず試してということらしいです。手術しても一週間ぐらいの入院のようです。
 今日も、建築デザイン特論の授業をしました。
 今まで通り、気楽に応答、お付き合いください。本人はいたって楽天的です。

★布野先生

逆にお気遣いいただき申し訳ありません。
医療は随分進歩しているようで,いい治療が期待できるようですね。
小さくなったり,無くなったりに近い話を周囲でも聞きます。
夏バテしないように,氷結もそこそこほどほどにしてください。
変わらず,そのようにさせていただきます!

篠崎健一









 

建築年報(大会・論文編)建築計画、建築雑誌、1982

建築年報(大会・論文編)建築計画、建築雑誌、1982









 

2023年7月3日月曜日

木のパッチワーク,周縁から53,産経新聞文化欄,産経新聞,19900910

 木のパッチワーク,周縁から53,産経新聞文化欄,産経新聞,19900910



のどもと過ぎれば,周縁から52,産経新聞文化欄,産経新聞,19900903

 のどもと過ぎれば,周縁から52,産経新聞文化欄,産経新聞,19900903

 52 天水と中水(ちゅうすい)            布野修司

 

 心配された首都圏の水不足も、台風による大雨で一息ついた。というより、もうすっかり忘れ去られたかのようだ。大雨による洪水や崖崩れを心配しながら、一方で雨を歓迎する。奇妙である。つくづく僕らの生活が自然に依拠していることを感じさせられるのであるが、のどもと過ぎればなんとやらで、呑気なものである。

 僕らは水はあたりまえのもの、蛇口をひねればでてくるもの、無限にあるもの、とつい思っている。水は従順で、完全にコントロールされたものとして、日常生活において意識されることは少ない。

 かって水はこわいものだったし、大切なものであった。治水、利水は全ての基本あった。水を制するものが世界を制す、という言葉もある。水は万物の根源なり、といったのは古代ギリシャ、ミレトスのタレスである。しかし、僕らにとって、水は単なるH2Oでしかない。

 水が足りない、地球規模の問題がある、兆候もでている、にもかかわらず、水の大切さが日常的に意識されない。もう少し水を原初的に、根源的に、命や自然との関わりにおいて考えてみる必要がある。そして、流しで洗う、トイレで水をながす、蛇口をひねることがどういう問題につながっているか考えてみることが重要だ。               

 水に恵まれない地域は世界に多い。毎日、少しづつ水を買って生活している多くの人々が発展途上国の大都市にはいる。僕らはあまりにも贅沢に、無駄に水を使っていはしないか。まだ実現していないのであるが、飲料水以外は、家庭用排水を再利用しようという中水利用のプログラムがある。上水、下水でなく、中水である。そうした身近な工夫をすぐにでも実行すべきではないか。

 天水利用も個々の家庭で考えられていい。所詮、僕らの生活は天水依存である。そのことを嫌というほど意識させられるのが毎年恒例の水不足なのだ。

 



2023年7月1日土曜日

エコ・サイクル・アーキテクチャー,日刊建設工業新聞,19970331

エコ・サイクル・アーキテクチャー,日刊建設工業新聞,19970331


 エコ・サイクル・アーキテクチャー

 PLEA(パッシブ・アンド・ロウ・エナジー・アーキテクチャー)釧路国際会議(一月八日~一〇日)に出席する機会があった。出席するといっても、最終日の最後のシンポジウム「エコロジカルな建築」(司会:小玉祐一郎 問題提起者:ビヨン・ベルグ ヴァリス・ボカルダース 討論者:A.de ヘルデ、J.クック、A.トンバジス、岩村和夫、大野勝彦、野沢正光、布野修司)にコメンテーターとして出席しただけだから、全貌はとても把握するところではない。しかし、登録者数が一二〇〇名にもおよぶ大変な国際会議であり、今更ながらであるが、環境問題への関心の高さを思い知った。幸い天気には恵まれたのであるが、厳冬の釧路に集った多くの参加者の熱気に圧倒された。また、数多くの論文発表に大きな刺激を受けた。

 ベルグ氏はノルウエイの建築家で、生物学者も参加するガイア・グループを組織し、エコ・サイクル・ハウスの実現を目指す。総体的な生態原理に基づいて、住居を自然のサイクルと相互交渉するひとつの過程としてとらえようとしているのであるが、建築材料について絞った提起があった。興味深かったのは、モノマテリアルという概念である。モノマテリアルにも一次、二次が区別され、一次のものは木、藁、土など、要するに生物材料、自然材料である。二次モノマテリアルは、工業材料であるが単一素材からなるもの、鉄、ガラス、コンクリートなどである。厳密な定義については議論が必要であるが、基本はリサイクルが容易かどうかで材料を区分するのである。

 自然の生の材料であること、製造にエネルギーがかからないこと、公害を発生しないこと、フェイス・トゥー・フェイスの関係を基礎としてつくられること、という基本を踏まえて提案された木造住宅のモデルが興味深かった。全て木材を主体とするモノマテリアルでつくられ、手工具だけで組み立てられるのである。

 ヴォカルダー氏は、スウェーデンの建築家、研究者で、エコロジー学校の運動に取り組んでいる。学校施設をエコロジカルに設計計画することにおいて、環境教育をまさに実践しようというのである。いずれも、刺激的な報告であった。

 釧路が会場に選ばれたことが示すように、今回は、寒い地域の「エコロジカルな建築」について考えようということであった。そうした意味では、長年、東南アジアの居住問題を考えている筆者にはシンポジウムの席は、座り心地が悪かった。しかし、環境問題には、国際的な連帯が不可欠であり、南北問題を避けては通れない、というベルグ氏の発言もあって、「湿潤熱帯」では「エコロジカルな建築」の考え方も違うのではないか、といった発言をさせていただいた。高緯度では、ミニマルな建築がいい、というけれど、湿潤熱帯では、気積を大きくして断熱効果を上げるのが一般的である。実際、湿潤熱帯には伝統的民家には巨大な住宅が少なくないのである。小さい建築が少資源につながるというけれど、大きくつくって長く使う手もある。地域によって、エコ・サイクル・ハウスのモデルが違うのはその理念に照らして当然なのである。

 完全木造住宅のモデルはわかりやすいけれど、建材の地域循環はどのような規模において成立するのかも大テーマである。木材資源は日本でも豊富といっていいが、山を手入れする労働力がない。輸入材の方が安い、という現実をどう考えるか。建材をめぐる南北問題をどう考えるか。熱帯降雨林の破壊はどうすればいいのか。シンポジウムの席でいろいろ刺激を受けたのであるが、つい考えるのは東南アジアのことであった。実をいうと、J.シラス(スラバヤ工科大学)をはじめとするインドネシアの仲間たちと湿潤熱帯用のエコ・サイクル・ハウスのモデルを考えようとしているせいでもある。

 二一世紀をむかえて、爆発的な人口問題を抱え、食糧問題、エネルギー問題、資源問題に直面するのは、熱帯を中心とする発展途上地域である。経済発展とともにアセアン・テン地域にも急速にクーラーが普及しつつある。一体地球はどうなるのか、というわけであるが、クーラーを目一杯使う日本人の僕らがエコ・サイクル・ハウスを東南アジ諸国に押しつけるなど不遜の極みである。まず、隗よりはじめよとJ.シラス先生に怒られながら、暑い国のエコ原理を学ぼうと少しづつ勉強をはじめたところである。


 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...