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2023年7月21日金曜日

都市デザイン賞の問題点,周縁から59,産経新聞文化欄,産経新聞,19901126

 都市デザイン賞の問題点,周縁から59,産経新聞文化欄,産経新聞,19901126

59 都市デザイン賞 布野修司

 

 多くの都市で、毎年建てられる建築を対象として、都市デザイン賞、まちづくり景観賞、建築文化賞、街角スポット賞等々、様々に呼ばれる表彰制度が設けられ始めている。

 日本建築学会賞のような作品賞と違って、そうした賞の場合、常に街全体との関係が問題となる。作品そのものを自立したものとして評価するのではなく、各都市の街づくりの方針に照らして評価が行われる。あるいは、作品の評価をめぐって街づくりの方向を見出していくというのが共通のテーマとなる。

 継続的に、毎年、あるいは二年に一度、賞を出していく。そうした意味でも、評価の指針が共有されている必要がある。審査員の構成が変わるとよくあるのであるが、前の年と次の年の評価基準がまるっきり異なってしまうといささか問題なのである。しかし、一方、評価基準が固定的になると、街づくりのダイナミズムが失われてしまう恐れもある。よくあるのは、伝統的な建築様式や建築の地域性に拘りすぎる場合である。ある特定の傾向のみに偏った評価がなされると、応募も減るし、せっかくの賞なのに該当作品なし、ということになりかねない。そのあたりが難しい。

 ほとんどの場合、賞といっても、多額の賞金や建築の維持費が出るわけではない。賞を与えられたのだけれど、もう壊されて跡形もないという例が実際にある。そうなるとなんのための賞か問われかねない。

 建築の評価というのは、本来多様であるべきである。しかし、その多様性は、それぞれの都市の、それぞれの地区において、ゆるやかに統合される必要がある。そして、全体として、都市毎に独自の表現としての街並みが生み出されていくことが期待される。都市デザイン賞の試みは、市民を巻き込んだ、街づくりの方向をめぐる議論を続けていく場として大きな意味をもっている。全国同じような街並みは御免である。しかし、街並みは一朝一夕にできるものではない。歴史をかけた取り組みとして、表彰制度も粘り強く続けて欲しいと思う。



2023年7月20日木曜日

サイト・スペシャリスト,周縁から58,産経新聞文化欄,産経新聞,19901105

サイト・スペシャリスト,周縁から58,産経新聞文化欄,産経新聞,19901105

58 サイト・スペシャリスト        布野修司

 

 サイト・スペシャリストという言葉がつくられようとしている。日本語にすれば現場専門技能家ということになろうか。耳慣れないのは当然である。まだ建築界のほんの一部で使われ始めたばかりだからである。

 サイト・スペシャリストという言葉をあえて用いようとしているのは、ゼネコン(総合建築業)に対してサブコン(下請建築業)と呼ばれる専門工事業者の集まりである。建築業界は重層的な下請構造からなっているのであるが、実際に現場を担っているのはサブコンである。3K(きたない、きけん、きつい)とか、6K(加えて、休日が少ない、給料が安い、暗い)とかいわれ、建設現場の人気は極めて悪い。若者の現場離れ、職人不足はマスコミでも大きく取り上げられるところだ。

 しかし、現場がなければどんな美しい建築作品もできるわけがない。現場が馬鹿にされるのは我慢がならない。現場で働く技能者の待遇を改善し、その重要性を訴えたいという思いがサイト・スペシャリストという言葉に込められているのである。

 図面を描くだけでふんぞりかえっている建築家は先生と呼ばれても現場では馬鹿にされる。現場を知らない建築家は建築家ではない。また、有能な現場専門技能家がいない建築に傑作はない。現場をまとめあげる能力や技能は大変なものである。しかし、その重要な職能を総称する言葉がない。個別でバラバラで、場合によると差別的な言葉が多い。

 もちろん、横文字にすればいいというわけではない。ファッショナブルなユニフォームをデザインすれば現場のイメージがあがるということではない。しかし、現場の仕事が尊敬に値し、社会的にも高い評価をうけ、それなりに高い報酬が得られるようになるとすれば、その職能にふさわしい名称が生み出される筈だ。サイト・スペシャリストという名称が一般化して行くかどうかはそうした意味で興味深いことである。



 

2023年7月19日水曜日

パトロンの意味,周縁から57,産経新聞文化欄,産経新聞,19901022

 パトロンの意味,周縁から57,産経新聞文化欄,産経新聞,19901022

57 建築家とパトロン          布野修司

 

 建築家は、建築の仕事があってはじめて建築家でありうる。建築を全く建てない建築家、図面だけ、絵だけ残すだけの建築家や建築論を著すだけの建築家もありうるけれど、それはあくまで特殊な建築家である。建築家が建築家と呼ばれるためには、時代の技術の水準や社会経済の仕組みの制約のなかで、建物を具体的に建てる過程が必要である。

 従って、建築家は仕事を受注する事業者としての側面をもつ。しかし、大きな建築物の場合、仕事をとるのはそんなに容易ではない。時にうさんくさい様々な努力が必要とされる。

 かっては、建築好きで、建築をよく知った、普請道楽のパトロンがいて、一個の才能を見抜き、建築家として育てるというパターンがあった。しかし、今日、そうしたパトロンは少なくなった。

 確かに建築にお金をかける企業は増えてきた。建築家には好ましい状況なのであるが、金をかけるからいい建築ができるとは限らない。建築を見る眼をもった建築主は、むしろ、少なくなっているのではないか。建設の主体は多くの場合、委員会である。大企業の場合、即決できないということもある。建築家の才能を見抜き、育てるという態度はなく、話題性をねらって、ジャーナリズムなどで既に著名な建築家を使うというセンスが支配的である。

 公共建築の場合、建築好きの首長が建築家を育てたという例は少なくない。しかし、特定の関係がしばしば政治的に問題となるし、実際、首長が変わればがらっと方針が変わるといった事例が多い。持続性、一貫性に乏しいのだ。

 建築家というのは建築主が育てるものである。建築主の建築についての素養に見合った建築家しか育たないといってもいい。金をふんだんに使って自由にやれ、という成金的なパトロンが必要なのではない。建築の楽しさ、面白さを理解するクライアントがいななければ、建築文化の華が開くはずはないのだ。



2023年7月18日火曜日

植えつけられた都市–植民都市計画とその影響,都市計画特集「平和と都市計画」,都市計画学会,200508 25

植えつけられた都市–植民都市計画とその影響,都市計画特集「平和と都市計画」,都市計画学会,200508 25

植えつけられた都市 The Cities Planted

植民都市計画とその影響

 Colonial City Planning and its Influence

布野修司

 This article discusses the problematique on colonial cities based on our research work ‘Field Research on Origin, Transformation, Alteration and Conservation of Urban Space of Colonial cities’, the outcome of which were published as a book titled “Modern World System and Colonial Cities”. Modern colonial cities planted by western countries are classified into several types but basically spatial installations to dominate natives and local resources. Considerations are lastly leaded to the thesis ‘All cities are in a way colonial’.

 

 

インド洋大津波の日(20041226日)をスリランカのゴールGalleで迎えた。ゴール周辺で亡くなった人は約2,000人、たまたまゴール・フォートの中に居て命拾いした。振り返って、さらにTVなどで現場の映像を見て、改めてゾーッとする経験は未だに夢のようである。その顛末はもとめられるままに書いた別稿[1]に譲るが、つくづく思うのは、ゴールという要塞都市を築いた、低地、湿地、港市を得意としたオランダの築城術のすごさである。1988年に世界文化遺産に登録されたゴール要塞の城壁は津波にびくともしなかったし、城門から浸入した、あるいは城壁を飛び越えて城内を襲った海水はあっという間に引いて、要塞内に居た人々は全員無事であった。要塞内では400年前の排水システムがものの見事に機能したのである。大きな被害を受けたのは陸地側に広がる新市街地である。

この間、「植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究」と題した、オランダ植民都市をターゲットとする植民都市研究を展開してきた。ゴールに居たのは、その調査研究の一環であった。

今日発展途上地域におけるほとんど全ての大都市は植民都市としての経験をもっている。植民都市の歴史とプライメイト・シティ(単一支配型都市)、「過大都市化」の関係は様々に論じられてきたところである。一方、植民都市にはもう一つの重要な類型が存在する。植民地化の早い時期に商館都市として建設され、以後の植民都市拡大また独立以後の都市化の過程において重要な都市核として機能を果たし続けてきた植民都市の存在である。いわば、現代都市に埋もれた植民都市である。そこで浮かび上がってくるのがオランダ植民都市であり、ゴールもそのひとつである。

近代植民都市の全体について、そして具体的な事例については、『近代世界システムと植民都市』[2]に委ねることとして、ここでは、「平和」、「暴力」、「戦争」といった言葉に導かれながら、植民都市あるいは植民都市計画の本質をめぐっていくつかの考察を行いたい。

 

コロニア

植民地colonyあるいは植民都市colonial cityという言葉は、もともと古代ギリシャ・ローマにおいて、植民あるいは移住によって建設された居住地あるいは都市を意味する。すなわち、ラテン語のコロニアcoloniaに起源をもち、colony(英語)colonie(仏語)kolonie(独語)として広く用いられるようになった[3]人口過剰、内乱、新天地での市民権の確保、軍事拠点の設営などが植民都市建設の理由である。そもそも戦争、すなわち土地の占有に関わる争いごとと密接に関わる。すなわち、植民都市は、単なる移住地というより、ある集団が土着の集団を政治的、経済的、社会的、文化的に支配するために建設する都市を一般的にはいう。処女地に新たな都市として建設される場合も、土着の社会、後背地との間に支配-被支配の関係があり、一定の領域を支配するために既存の都市、集落を奪取、占拠することによって建設されることが多い。

いわゆる「地理上の発見」以降、西欧諸国が海外に建設した近代植民地の場合、支配-被支配の関係は明快である。もちろん、直接的に領土支配を行う場合に限らない。植民地化の「帝国主義的段階」において、「植民地帝国」として問題とされるのは、直接支配する「公式の帝国」のみならず、間接統治、二重統治などが行われる「非公式の帝国」も含めた支配―被支配関係である。西欧列強の進出を受けた地域は、保護国、保護地、租借地、特殊会社領、委任統治領などの法的形態を問わず植民地と呼ばれる。

 

近代植民都市

古来、人類は大規模な移動を繰り返してきたが、15世紀末以降、世界全域にわたった西欧列強による海外進出ほど大規模なものはない。世界中に植民都市を建設し、支配したのは、少数のヨーロッパ人であり、白人(コーカソイド)であり、キリスト教徒である。そして、植民地建設の中核を担ったのは奴隷貿易である。19世紀中葉以降に世界は「大量移民の時代」を迎えた。

植民地化の段階、産業化の段階、そして、脱植民地化の段階あるいは交易期、植民地期、新植民地期、脱植民地期といった「近代世界システム」の形成を追いながら、西欧列強の植民地と植民都市のネットワークの形成を順に位置づければ、およそ以下のようになる。

1.領域支配を含まない交易拠点のネットワークを形成したのが、ポルトガルのインディアス領である。ポルトガルは、明らかにアブー=ルゴド[4]のいう「13世紀世界システム」(の崩壊)をベースとしていた。

2.土地支配を含み、土着文化の徹底的破壊の上に一定の西欧理念に基づく都市を建設したのがスペインである。スペインの場合、ヨーロッパ世界の拡張と見なせるだろう。スペインは「世界帝国」になることに失敗するのである。そして、

3.沿岸部の港市都市をベースとし、土着社会を取り込む形で、多様な移住者を含み込む形で植民都市の原型を形づくったのがオランダである。オランダは、こうして最初のヨーロッパによるヘゲモニー国家となった。この段階では、しかし、地域内交易がベースであった。そして、1.~3.のシステムの重層の上に、

4.内陸部へ侵攻し、巨大な領土支配に及んだのがイギリス、フランスの二大植民地帝国である。そして、

5.7年戦争を制し、産業革命を契機として、オランダのヘゲモニーを奪ったのがイギリスである。

植民地権力の特質、移住集団の構成とその支配イデオロギーは個々の植民都市の特性に関わる。また、植民地化される社会の特質、民族学的、社会学的構成も植民都市の特性を左右する。宗主国と土着の地域社会の相互関係によって植民都市の類型を考えることができる。

 植民地化の手法や組織は、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスなど西欧列強によって異なる。土着の社会についてのアプローチは、まず布教をめぐって、ローマ法王の超越的権威への服属を求め各地の文化的、精神的権威を認めないカトリシズムと個人の自発性を重視し、各地の文化や言語に距離を置いたプロテスタンティズムの違いがある。植民地の統治政策についても、間接統治、二重統治方式をとったオランダ、イギリスと副王による直接支配によったポルトガル、スペイン、そして「同化」政策を採ったフランスとでは大きく異なる。土着の社会についても、各地域の都市的伝統の度合いによって、すなわち例えば、都市的伝統の薄いサハラ以南のアフリカや南北アメリカの大半と長い都市的伝統をもつインドや中国とその周辺地域、またイスラーム圏とでは、植民都市のあり方は異なる。スペインは、高度な都市文明を誇ったアステカ帝国、インカ帝国を徹底的に破壊した。また、インディオの社会を絶滅させるに至った。インディアス法にまとめられるかたちで、極めて画一的に西欧都市計画の理論を適用しようとしたのがスペインである。

南アフリカ、中央アフリカでは、都市的生活とは白人的生活を意味するほどであった。要するに、ほとんどの都市はヨーロッパ人によって初めてつくられるのである。また、ポルトガルが西アフリカや中央アフリカで土着の都市を破壊したように、東アフリカの、アラブ起源の都市の多くもヨーロッパ人によって無視された。そして、アフリカ大陸からの黒人の大量移住によって南北アメリカとアフリカの社会は世界史的大変動を被った。

世界資本主義システムの展開が各地域を平準化していく過程においても、様々な点で地域差が存在するのは植民地化以降の過程における以上のような差異が複雑に絡み合っているからである。

 

火器と攻城法

何故、西欧列強が世界中に植民都市を築き、世界を支配することになったのか。その大きな要因のひとつは「火器」である。航海術、造船技術、測量術、築城術、・・・など、要するに「火器」に象徴される科学技術である。

西洋の城郭は古代ローマ帝国の築城術等を基礎として発達してきた。12世紀から13世紀にかけて、十字軍経由で東方イスラーム世界の築城術が導入され、またビザンツ帝国の築城方式の影響も受けて、西洋の築城術は15世紀には成熟の域に達していたのであった。しかし、中世の終わり頃にヨーロッパにもたらされた火薬と「火器」、「火器」装備船の出現による戦争技術の変化は、要塞や城塞の形態を変える。すなわち、馬に乗った騎士による戦争の時代ではなくなり、中世の城が役に立たなくなるのである。

新しい火器、大砲の出現によって都市が弱体化する15世紀までは、攻撃よりもむしろ防御の方が、ヨーロッパにおける城塞、都市、港湾、住居の形態を決定づけていた。川や谷、戦略にとって大事な地点を見渡せるように、土手や丘や山脈の上に要塞都市は造られた。丘の上につくられた街は、円形や矩形の塔、櫓が建ち上がっている厚い壁によって守られ、跳ね橋や、吊し門や、石落とし装置付きの入口門が設けられた。ヴェニスやブルージェやジュノヴァのような水の都の市壁は海面や湖面から直接立ち上げられていた。

ヨーロッパで火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである[5]。火薬そのものの発明は、もちろんそれ以前に遡り、中国で発明され、イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたと考えられている[6]。火薬の知識を最初に書物にしたのはロジャー・ベーコンである[7]。戦争で最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦で、エドワードⅢ世のクレシー(カレー)出兵(1346)、ポルトガルのジョアンⅠ世によるアルジュバロタの戦い(1385)などで「火器」が用いられたことが知られるが、戦争遂行に「火器」が中心的な役割を果たすのは15世紀から16世紀にかけてことなのである。決定的となったのは、15世紀中頃からの攻城砲の出現[8]である。

ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は、ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱、戦車、装甲車が考案され機動戦が展開されたフス戦争(14191434)である。続いて、百年戦争(1328371453)の最終段階で、大砲と砲兵隊が鍵を握った。そして、レコンキスタを完了させたグラナダ王国攻略戦(1492)において大砲が威力を発揮した。こうして火器による戦争、攻城戦の新局面と西欧列強の海外進出も並行するのである。植民地建設の直接的な道具となったのは「火器」であった。

 

植民都市の類型

植民都市が支配-被支配(中心-周縁)関係の媒介(結合-分離)空間であり、異質な要素の重層的複合空間であるとすれば、空間の分離のあり方にまず着目する必要がある。極めてわかりやすく本質的なのは、城壁、市壁など居住地を限定づける境界のあり方である。都市のフィジカルな構成という観点からすると、ロッジ、商館、要塞、城塞、市街というように、様々な呼び方によって区別されるように、そのうちに含む要素によって、植民都市の規模やレヴェル、段階を区別することができる。

O ロッジ lodge

 商館 factory

B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factory

C 要塞 (+商館)fort(+factory)+集落settlement

 要塞市街 fort+city

 城塞 castle

 城塞市街 castle+city

Aは、交易のみのための最小限の施設である。ポルトガルの最初期の交易拠点は商館のみが置かれるだけのものが多い。専用の商館をもたないロッジの段階Oをこれ以前に区別できる。ロッジは、沿岸部の交易拠点ではなく、内陸の地方市場に設けられたものをいう。F.S.ハーストラは、ロッジ、商館の発展段階を、①土着物産の購入と積み出しの段階、②商品を予約注文し、積み出しまで保管する段階、③商品の供給者に前渡金を供与し、生産管理行う段階、④物産を全て掌中に握る段階に分けている[9]

商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。A、Bの区別は必ずしも明確ではないが、要塞の内部に商館機能を含むかどうかで基本的にCとは区別される。要塞とは別に商館が設けられることも少なくない。要塞は戦闘を前提にした防御施設である。基本的には軍隊あるいは兵士が常駐する。平時は使用せず、有事に立て籠もるかたちもある。

商館あるいは要塞の周辺にヨーロッパからの移住者のみならず各地からの移民や現地民などが周辺に居住し始めると、宣教、教化のための教会や修道院など諸施設が建てられる。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われたものがDである。港湾に立地する植民都市の場合、市街によって要塞が囲まれる形より、要塞と市街が連結した形態をとることが多い。そして、要塞と市街が一体化したのがEである。CとEの違いは単に規模の違いではなく、内部に居住区を含むかどうかの違いである。さらにその外郭に一般人(あるいは現地人を含めた)居住地が形成されるのがFである。単純な分類であるが、さらに、既存の集落、現地住民の居住区との関係でさらに分類できる。さらに、全くの処女地に計画されたものと既存の都市ないし集落を基にして建設されたものを区別することができる。オランダの植民都市はマラッカやセイロンの各都市などポルトガルの城塞を解体再利用したものが少なくない。

植民都市という場合、一般的にはD~Fがそれに当たる。しかし、既存の都市あるいは集落にA~Cが付加される場合、それも植民都市と呼べるだろう。都市の起源、その本質をどう規定するかが問われるが、市(マーケット)の機能をその本質的要素とするなら、たとえ商館ひとつの建設でも都市成立の条件とはなる。また、攻撃に対する防御機能を都市の本質と考えれば、要塞の建設は都市建設の第一歩である。

数多くの植民都市の事例を見ると、A→Fは歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。また、理念的にもA→Fの過程は、必然的なものとして想定できる。

 

植えつけられた都市

植民都市の本質は、それが自らの社会とは異なった社会に移植されることにある。植民都市は、まさに、「植えつけられた都市」である。植民都市の本質はまさに「植民」にある。キーワードは、「プラントplant」あるいは「プランティングplanting」である。

コーヒーやサトウキビなど植物を植えつけること、そして、その栽培のための労働力として人々を植えつけること、すなわち、都市を植えつけることが植民地建設である。

単なる移住、移動、移植ではない。人や物が世界規模で移動し始めたことが決定的である。一定の地域で、物の生産、流通、消費が完結していた自給自足的世界、「60日経済」といわれる経済規模であった「ヨーロッパ世界経済」をはるかに超える「遠隔地」が世界経済に繰り込まれるのである。資本蓄積の原動力となるのは「格差」である。あるいは、圧倒的な「量」である。「遠隔地」貿易による時間差、賃金格差、物価、世界資本主義システムは、あらゆる格差を価値増殖に繰り込むシステムである。植民都市はそのシステムを稼働し続けるための装置として建設されたのである。

産業革命によるコミュニケーション手段の「進歩」はそれまでの植民都市の形態を根本から変える。蒸気機関車、蒸気船の登場は植民都市の歴史の上でも決定的であった。鉄道は、港市における植民都市から内陸への展開を可能にした。また、これまでの港市植民都市も港湾の大改造とともに大規模な再開発が必要となった。そして、急速な都市化と都市膨張のために、共通に過密居住による衛生問題、住環境整備の問題、都市基幹設備の問題が課題となった。世界中の現代都市は、そして都市計画は、今日に至るまでその課題を引き継いできている。

脱植民地期において、かつての植民地に巨大都市が次々に出現していった。とりわけ、注目されたのがプライメイト・シティ(首座都市、単一支配型都市)の存在である。「過大都市化」、「工業化なき都市化」といった概念で、その異常、その西欧モデルからの逸脱が論じられてきたが、巨大都市化の動向はさらに拡大しつつある。世界システムのさらなる展開は、世界中の都市を連動させつつあるのである。「拡大大都市圏EMRExtended Metropolitan Region)」の出現は、世界資本主義システムの加速的展開、グローバリゼーションの進展と情報ネットワーク社会の浸透と関係している。

 

あらゆる都市は植民都市である

『植えることと計画すること---英国植民都市の形成』[10]において、R.ホームは「全ての都市はある意味で植民都市であるAll cities are in a way colonial」という。I.ウォーラーステインの世界システム論が焦点を当てる世界経済の展開と植民都市の関係こそが主題であるが、それ以前にこのテーゼが前提とするのは、都市を本質的に権力との関係においてとらえる理論である。R.ホームが「都市は、農業の余剰生産物を集積し、サーヴィスを提供し、政治的管理をおこなうために、ある集団が他の集団を支配することによって生み出されるのである」という時、余剰生産物は藤田弘夫のいう「社会的余剰」[11]である。都市は、そもそもその成立、起源において権力の発生と結びついており、「都市は、巨大な権力が目的を達成するために、特定の場所に拠点を設け、そこに目的達成のための施設を建設するなかで形成された」のである。そうした意味で、植民都市は、都市の本質を露わにする都市である。

重要なのは、植民都市という概念が二重の権力関係、支配-被支配関係を含んでいることである。すなわち、都市と農村との支配-被支配関係のみならず、宗主国と植民地、あるいは、ある社会と別の社会との支配-被支配関係の二重の関係において植民都市は成立するのである。この二重の関係性が植民都市の本質に関わる。都市は、歴史的には、地理的に限定された社会において、農業生産物の余剰を奪取し、サーヴィスを提供するために、ある集団が他の集団を支配する権力の働きによって生み出される。そして続いて、その社会の内部に、さらに余剰を作り出し、搾取し、政治的支配を強化する手段として、別の都市が植えつけられる。これが植民都市である。さらに、この論理は、交通手段の発達によって、ある社会の境界を越えて他の領土を組み入れる過程にも拡大される。こうして、植民都市は、現地人に対する支配を確立し維持していくための道具となるのである。



[1] 拙稿、「ツナミ遭遇記」、『みすず』、みすず書房、2005年3月

[2] 布野修司編著、『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005年。

[3] ギリシャ語では、植民都市はアポイキア apoikiaといった。

[4] Abu-Lughod, Janet L., ”Before European Hegemony: The World System A.D.1250-1350”, Oxford University Press, 1989. ジャネット・L.アブー=ルゴド、『ヨーロッパ覇権以前:もうひとつの世界システム』、佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹一訳、岩波書店、2001

[5] バート・S・ホール、『火器の誕生とヨーロッパの戦争』、市場泰男、平凡社、1999. 火器がいつ出現したかについては議論があるが、1320年代にはありふれたものになっており、guncannonといった言葉は1930年代末から使われるようになったとされる。 

[6] 文献上の記録として、火薬の処方が書かれるのは宋の時代11世紀であるが、科学史家J.ニーダムらは漢代以前から用いられていたと考えている。ロジャー・ベーコン、『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。

[7] ロジャー・ベーコン、『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。

[8] 攻城砲を用いた典型的な戦例となるのがイタリア戦争(14941559)である。16世紀前半、イタリアはヴァロワ家とハプスブルク帝国との間の戦場となったが、フランスのシャルルⅧ世の軍隊は機動的な青銅砲と鉄の砲弾を搬送して、イタリアに乗り込み、中世の城郭を次々と撃破した。それまでの攻城戦では、籠城側は人馬だけを拒否すればよく、籠城側が有利であったが、大砲の出現はこれまでの立場を逆転させる。

[9] Gaastra, F.S., “De Geschiedenis de VOC, Walburg Pers, 1982, 1991.内容はほぼ同じであるがカラー図番を加えた新装版が2002年に出版された。

[10] Robert Home: “Of Planting and Planning The making of British colonial cities”, E & FN Spon, London, 1997:『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』、ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳、アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会,20017

[11] 藤田弘夫:『都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか』、中公新書、1993









 

2023年7月17日月曜日

自立した個のネットワークへ,職人サブコン,タウンアーキテクト,果てることのない役割,私論時論,建設通信新聞,20020204

 自立した個のネットワークへ,職人サブコン,タウンアーキテクト,果てることのない役割,私論時論,建設通信新聞,20020204

自立した個のネットワークへ

サブコン、職人、タウン・アーキテクト


布野修司

 

 今年の一月号から二年間、二四号、日本建築学会の『建築雑誌』の編集長を務めることになった。半年ほど編集委員会で議論を重ねた末に一月号の特集タイトルは「建築産業に未来はあるか」となった。当然だと思う。日本の建築生産の仕組みが今こそ問われているときはないからである。

日本の産業界そして社会全体が大きな構造改革を求められる中でひとつの焦点は建設産業である。戦後まもなくの日本は農業国家であった。就業者人口の6割は農業に従事していたのである。その後の高度成長を支えたのは重厚長大の製造業そして建設産業である。スクラップ・アンド・ビルドが日本経済を勢いづかせ、日本の建築生産は一時国民生産の四分の一を占めた。「土建国家」と言われたほどだ。しかし、大きな流れは第二次産業から第三次産業へである。そして、バブル期の金融業が日本を舞い上がらせ、掻き回した上に糸の切れた凧のようにしてしまった。日本の製造業の空洞化は誰の目にも明らかである。

こうした趨勢の中で建築産業はどうなっていくのかは今建築界全体の切実なる問いである。明確な指針は手探りであるにせよ、とにかく考える材料を提供しようというのが先の特集である。一瞥頂きたい。

まず前提とされるのは建設投資が国民総生産の二割を占めるそんな時代は最早あり得ないことである。先進諸国をみても明らかなようにそれは半減してもおかしくない。そして、スクラップ・アンド・ビルドではなく、建築ストックの再利用、維持管理が主体となっていくことも明らかである。都市再生の大合唱はその方向を指し示すけれど、需要拡大のみを期待するのは大間違いである。技術のあり方、仕事のあり方そのものが変化せざるを得ないのである。さらに、建築産業の体質が厳しく問われるのも明らかである。すでに、公共事業に対する説明責任が各自治体に厳しく問われる中で、設計そして施工に関わる業務発注の適正化が求められつつあるところである。それ以前に、不良債権の処理がままならず、大手建設業の倒産がさらに続くと噂されつつあるのが現状である。

こうした中で現在起こっているのは就業人口の大きなシフトである。建設業界はこれまで就業者人口調節の役割を担ってきたけれどその余裕は最早ない。IT産業、介護部門への転換は不可避である。そして、建設業界で起こっているのは、熾烈なサヴァイヴァル戦争である。「生き残る者」と「そうでない者」との二極分解が急速に進行しつつあるのである。

取り敢えず現在の問題は「そうでない者」の方である。先の特集の座談会で下河辺淳先生の一言が耳について離れない。

「生き残れない者は死ぬんです」。

確かに、建設業界の高齢化率は高く、需要減によって新規参入がなければ早晩業界全体は縮小して一定の規模に落ち着くであろう。問題はその先である。熾烈な淘汰が進行した後に残存するのがどういうシステムかということである。おそらく、スーパーゼネコンを頂点とする重層下請構造と言われてきた日本の建設産業体勢は変わらざるを得ないのではないか。

 ひとつの根拠は国際化である。建築は地のものとは言え、国際的なルールは尊重せざるを得ないだろう。CM、PMといったシステムは様々に取り入られていくであろう。もうひとつの根拠としてソフト技術の進展がある。企業の規模に関わらないネットワーク型の組織体制がいよいよ実現していくのではないか。そしてもうひとつ鍵を握るのは技術であり技能である。結局は、ビジネスモデルを含めてものをつくるノウハウを握っていることが決め手となるのではないか。そうした意味では能力あるサブコンが建築生産システムのひとつの行方を握るであろう。

 一方念頭に浮かぶのは地域社会を基盤においた建築職人のネットワークである。建築の維持管理が主となるとすれば建築業はどうしても地域との関係を深めざるをえないはずである。小回りが利いて、腕のいい職人さんの需要は減ることはないと考えるけれどどうだろう。

 限られた紙数で、法的枠組み、資格、報酬、保険など様々な問題を論じきれないけれど、期待するのは組織ではなく、技能、技術を持った個人のネットワークによる建築生産システムである。建築家、設計者のあり方もそのネットワークにおいて問われるだろう。まちづくり、維持管理、国際化が建築家にとってのキーワードである。グローバルにみて、 各地域においてサブコン、職人、タウン・アーキテクトのネットワークが果たすべき役割はなくなることはないと思う。


2023年7月14日金曜日

希望のコミューン 新・都市の論理 分散型自立組織としての都市ネットワーク はじめに

 

希望のコミューン

 

新・都市の論理

分散型自立組織としての都市ネットワーク


はじめに

 

 世界は,いま,大きく転換しつつある。

第一に,世界の歴史の大転換が進行中である。第二次世界大戦後の世界を規定してきた冷戦構造が崩壊(ベルリンの壁崩壊(198911月),ソ連邦の崩壊(199112月))して以降,本格的にグローバリゼーションの時代が到来する。ヘゲモニーを握ったのはアメリカ合衆国であり,世界随一の軍事力を背景にアメリカ合衆国によって世界が主導されていく時代が開始された。アメリカ合衆国のヘゲモニーは,しかし,21世紀に入って,9.112001)の同時多発テロ,イラク戦争(2003)によって揺らぎ始める。そして,リーマンショック(2008)が世界経済に深刻な打撃を与える。その一方で,大きく抬頭してきたのが中国である。北京オリンピック(2008),上海エクスポExpo2010)を成功させ,中国が国内総生産GDPで日本を抜いて世界第2位となったのは2010年である。そして,アメリカ合衆国にアメリカ・ファーストを唱えるD.トランプ政権が誕生すると(20172021),イギリスのブレグジットBrexitなど自国第一主義を唱える経済ナショナリズムが世界各地で顕著になる。また,民主主義(自由主義諸国)vs権威主義(中国,ロシア他)という新たな世界秩序の構図が鮮明に浮上してきた。「一帯一路」vs「自由で開かれたインド・太平洋」という経済圏の囲い込みをめぐる対立構図がそれに重層する。

世界経済のヘゲモニーをめぐる米中の対立構造は,これからの世界史を大きく規定していくことになるが,これに割って入るかのように,ロシア連邦のウクライナ侵攻が開始された(2022224日~)。第三次世界大戦を引き起こしかねないこの暴挙の背景には,プーチン大統領の強大であったソビエト連邦時代さらにはロシア帝国再興の夢があるとされるが,共通に問われているのは世界資本主義の行方である。世界はどこへ向かうのか,今のところ誰にも予測できない。

第二に,ICT(情報伝達技術)革命とインターネット社会の到来,そしてAIの出現がある。インターネットthe Internet(インターネット・プロトコル・スイートTCP/IPTransmission Control Protocol/Internet Protocol)の起源は1960年代に遡るが,インターネットを用いて複数のコンピュータ・ネットワークを相互接続した地球規模の情報通信網の形成が開始されるのは1980年代後半であり,インターネットを基にした世界初のWWWWorld Wide Web)が初めて実装されたのは1990年末である。そして,21世紀に入って,膨大なデータを保持,圧倒的な競走優位な立場に立った巨大なプラットフォーマーGAFAM(グーグル,アマゾン,フェイスブック,アップル,マイクロソフト)が出現する。インターネットが普及し始めた頃のWebWeb1.0,すなわち読むだけのWebの時代,FacebookTwitterが登場して双方向になってきたのがWeb2.0とされる。さらに,オープンAIによるChat GptGenerative Pre-Trained Transformer)が出現(2022),GAFAMが瞬時に追い上げ,あっという間に生成AIが社会に浸透しつつある。

第三は,世界史の転換どころではない。地球環境そのものの危機(転換)がフィードバック不可能な点にまで近づきつつある。「人新世Anthropocene」という言葉が一般的に流布することになったのは,オゾンホール関する研究でノーベル化学賞を受賞した(1995パウル・ヨーゼフ・クルッツェン(19332019)が2000年に用いて以降であるが,46億年の地球の歴史に比すれば瞬時と言っていいホモ・サピエンスの活動が,地球の環境システム全体に影響を及ぼすことは驚くべきことである。

地球環境の危機の起源となるのは産業革命である。世界人口の幾何級数的な増加は産業革命によって引き起こされる。19世紀初頭の世界人口は約10億人と推定されている。それ以後の人口増加率の劇的変化は明瞭である。それでも20億人に達するまで(1927100年以上を要したが,その後の人口増加はすさまじい。グレート・アクセラレーションと呼ばれるのは,化石燃料,とりわけ石油を大量に消費し出した20世紀後半以降である。そして,気候変動による異常気象は連動しており,わずかに思える平均気温の上昇が地球環境全体のバランスを崩し,転換点を超えてしまう恐れがあるということである。転換点とは,最終氷期(ヤンガードリアス期)の終結から現在にいたる1万年(完新世Holocene)とは異なる時代に移行する閾を意味する。仮にIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が目標とする1.5°上昇以下に抑えられたとしても,産業革命以前に戻るには数百年はかかるとされる。

この大転換に際して,国際社会は右往左往,一致した方向を見いだせないでいる。193ヶ国が加盟する国際連合The United Nationsは完全に機能不全に陥ってしまっている。気候変動に関する政府間パネルIPCCIntergovernmental Panel on Climate Change)が国際連合環境計画UNEPと世界気象機関WMOによって設けられたのは1988年,リオ・デ・ジャネイロで「環境と開発に関する国連会議」(地球サミットCOP(締約国会議)1)が開催されたのは1992年であるが,気候変動,地球温暖化問題への各国の対応が遅々として進まないことは,スウェーデンの若き環境活動家グレタ・トゥーンベリ(2003~)が厳しく告発するところである。

本書が問いたいのは,近代の国民(民族)国家Nation Stateシステムに代わる世界システムである。世界共和国への道を見失って,自国第一主義に陥り,国家間の複雑にもつれた関係を解くことができない中で,国民(民族)国家に代わる基礎単位として注目するのは都市である。国家,中央銀行によるコントロールの不安定な枠組を超えて連携する都市ネットワークによる世界システム構築の可能性である。ブロックチェーンの技術を基盤として,仮想通貨,NFT(非代替性トークン Non Fungible Token)によって運営される,中央集権ではない分散型自立組織DAODecentralized Autonomous Organizationのネットワークがそのイメージとなる。

1950年に253600万人であった世界人口は,1989年には523700万人で,50億人を突破したのは198687年とされるが,以降も人口増加はとどまることを知らず,ほぼ約12年毎に10億人増加して,2022年には80億人を超えた。今や人口1000万人を越えるメガシティは38都市(2019[1]に及ぶ。このメガシティを産むのは,「差異」=格差拡大を駆動力とし,安価な労働力,物資を求めて,国境,制度,規制を超えて浸透していく資本主義システムである。分散型自立組織としての都市のネットワークが必要なのは明らかなように思える。

冷戦構造が崩壊して以降,ICT革命が進行,地球温暖化が加速してきた(グレート・アクセラレーション)時代は,ほぼ日本の平成時代(19892019)に重なる。オイルショックによって,高度成長期からの転換を余儀なくされた日本は,低成長かつ安定成長を前提とする社会編成に向かうかに思われた。しかし,19859月の先進5か国 G5 (米英仏独日)蔵相・中央銀行総裁会議における為替ルートの安定化(円高ドル安に誘導)の合意(プラザ合意)によって,高度経済成長期の再来かのような好景気が訪れる。しかし,199014日の大発会から株価の大幅下落が始まる。振り返れば,198612から19912月までの51か月間がバブル経済期(平成バブル,平成景気)であった。以降,日本経済が回復することはない。日本経済の長期低迷期は「失われた30年」と言われる(吉見俊哉(2019))。

この間の日本の国際的地位の低下は覆うべくもない。日本の一人当たり名目GDP(国内総生産)は,1990年代前半にはアメリカ合衆国を抜いて世界一となった。しかし,バブル経済が崩壊した1992年以降,GDPの成長率は,年平均1%前後で推移する。2010年には国内総生産GDPは中国に抜かれて世界第3位になる。それどころか,日本の一人当たり国内総生産は世界28位(国際通貨基金202227位:世界銀行・国際連合2019)にまで低下している。日本企業の弱体化も明らかである。平成元年には,世界の上位50社のうち33社が日本企業であったのに,30年後には35位のトヨタ自動車のみとなっている。

財政破綻 債務残高GDP2倍超の異常,格差拡大,富裕層と貧困層の二分化,行政(官僚)システムの劣化 縦割り行政の硬直化,食糧・エネルギー自給率の過少化など,日本という社会,国家が抱えているクリティカルな問題については,本論で確認するが,本書が焦点を当てる最大のプロブレマティークは,東京一極集中と地方の空洞化である。加えて,日本が世界に先駆けて少子高齢化社会に向かいつつあるということがある。

日本の総人口は,2013年以降,減少に転じた。2070年には8700万人に減少すると推計されている(厚生労働省人口問題研究所20234月)。世界の総人口も21世紀後半には減少に転じることが予測されている。地球が「持たない」ことははっきりしているから,どのようなシナリオになろうとも,一極集中,貧富拡大の資本主義モデルとは異なる社会システムが必要とされていることは明らかであり,日本が世界に先駆けてその社会モデルを実現する大きな意味がある。分散型自立組織としての都市のネットワーク・モデルは,その大きな指針となる。

 



[1] “Demographia World Urban Areas”, 15th Annual Edition, April 2019

小さな金物にも大きな力,周縁から56,産経新聞文化欄,産経新聞,19901015

 小さな金物にも大きな力,周縁から56,産経新聞文化欄,産経新聞,19901015

 56 型枠緊結金物            布野修司

  内田(祥哉)賞というのがある。建築界には様々な顕彰制度があるが、最もユニークな賞だ。授賞作品を挙げてみればそのユニークさがわかる。第一回が「目透し張り天井板構法」、第二回の今年が「プラスティックコーン式型枠緊結金物」である。すなわち、顕彰の対象は、個人や団体ではなく、建築作品そのものでもなく、ものや技術が対象なのだ。

 内田賞というのは、国内の建築における事績で、構法に関する技術開発に対する影響が顕著なものを評価し、その内容を記録することによって、建築の進歩と発展に寄与することを目的として設けられたものなのである。

 ところで今年の授賞作品であるプラスティックコーン式型枠緊結金物とは何か。打ち放しコンクリートの平面を見てみてほしい。直径三センチ、深さ一センチほどの穴が規則正しく空いている筈だ。その穴がプラスチックコーン、通称「ピーコン」の跡である。すなわち、コンクリートを打設するための型枠を緊結する金物一式を表彰しようというのである。

 いまや、鉄筋コンクリート造の現場には必ず使われている。なんだと思われるかもしれない。しかし、それが生み出されるのには創意工夫と試行錯誤の歴史があるのである。

 都心の小中学校は同じ様な状況にあるのであるが、子供がいない町というのはやはり不自然である。計画者も子供の数が一割にもみたないなんて思いもしなかったに違いない。

 子供のいない町も不自然だけれど、若い世帯だけの町もこれまた不自然である。かって、ニュータウンの計画において、全く逆の現象が起こったことがある。予想を遥かに超える子供たちが入学し、教室が足りなくなったのである。あちこちのニュータウンで、あわててプレファブ校舎が建てられたのであった。同じ様な世代が一斉に入居するのだから当然なのだけれど、それに合わせて学校を計画するなんて思いもかけなかった。計画というのはどうもうまくいかないものだ。各世代がともに生活できるまちづくりができないのは、果して豊かか。根本的に何かがおかしい。