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2024年3月5日火曜日

象徴交換とシミュレーションの時代,ボードリヤールの転換, KB Freeway,『建築文化』,198112

象徴交換とシミュレーションの時代

 

J.ボードリヤールが「ボードリヤール・フォーラム東京’81実行委員会」(代表安永寿延)の招きによって日本を訪れた。世界インダストリアルデザイン会議(一九七三年京都)に続いて二度目の来日である。

  最初の来日の時のJ.ボードリヤールの特別講演「デザイン/経済学と象徴交換のあいだ」*[i]は、ことにデザインの領域に対して極めてラディカルな問いかけを行うものであったが、当時、彼自身の作業は、必ずしも一般的に知られてはいなかったと言っていい。しかし、今、なぜ、ボードリヤールかについては多言を要しないであろう。現代社会のパラダイムを根底に転換する試みとして、『物の体系ーー記号の消費』*[ii]、『消費社会の神話と構造』*[iii]以下の一連の作業は、今ではさまざまな分野において広く関心をもたれている。実行委員会も「ボードリヤールが、すでに失われ、もはやシミュレーションとしてしか存在しない「象徴交換」を問題にするのは、価値の構造の変革に主たる狙いがあるからであり、現代社会のパラダイムを根底的に転換するために、人類学、言語学、構造主義などの理論的諸体系に回収することのできないあたらしい領域をを引き出すことにその作業の意味がある」という位置づけのもとに、J.ボードリヤールを招いたのである。

  三日間にわたる講演、パネル討論*[iv]のうち、 「キムラカメラ/象徴的暴力とシミュレーション」のみを聞くことができた。その日の討論を中心に、J.ボードリヤールの作業について思うところを記してみよう。その日の討論を聞く限りにおいて、J.ボードリヤールは、そのかつての視点や立場を大きく転換させたように思えた。それは、邦訳文献のみに眼を通している範囲でもある程度予想しえたことである。今村仁司が解説するように、『生産の鏡』*[v]においてすでに、その作業の方向転換が示されていると言っていいからである。しかし、その転換が極めて具体的に、木村恒久のフォトモンタージュ「キムラ・カメラ」の評価に即して示されることにおいて、実に興味深いものであったと言わねばならない。

  J.ボードリヤールは、前回講演において、現代の都市が象徴的な意味をもった空間を失い、それ自体死に至ったことをニューヨークを例にしながら述べる中で、ワールド・トレード・センターについて次のように言っている。

  「この現象の最も見事な例を、高さ四〇〇メートル、完全平行六面体で窓がなく、エアコンディショニングの完備した二つの相似の塔からなるニューヨークのワールド・トレード・センターに見ることができます。これこそ、目もくらむばかりの経済システムの記号です。しかし、なぜ塔はふたつあるのでしょうか。そのわけは、象徴的な引力を欠く現代の記号(西欧的記号)は、ちょうど鏡をのぞきこむように、ただくり返したり、二重像を写しだすことしかできないからです。ワールド・トレード・センターには、古代の大建築、ピラミッドの中心にあった小さな玄室(死者の室)がありません。この事実こそ、伝統的な都市構造と、現代の幾何学的で、田園を侵すような都市との根本的な相違をもたらすものです。」

  木村恒久の報告は、彼のワールド・トレード・センターをモチーフとするフォト・モンタージュが、まさにJ.ボードリヤールの現代都市、現代社会についての指摘を示唆としていることを告白することによって始められた。その作業が、一方で、バウハウス*[vi]以来のモダン・デザインの流れを総括することにあったこと、特に、ダダイズム*[vii]や構成主義*[viii]、そしてとりわけ、L.リシツキー*[ix]やJ.ハートフィールド*[x]0の方法に学びながら、モダン・デザインとしてソフィストケートされない初期の原型を確認すること、したがって「キムラ・カメラ」は自身の学習用のテキストであること、そしてさらに、それが現代日本の大衆社会(「アジア的大衆社会」)において、どのようなコミュニケーションを生むか、一九二〇年代との差異を確認することに狙いがあったことを簡単に振り返った後、木村恒久はフォト・モンタージュの方法について、およそ以下のような位置づけを行う。

  すなわち、フォト・モンタージュは、水と油の不協和音的両立、その異化作用と弁証法的統一によって、「もう一つの現実」を認識させる一つの方法である。そこでは、理性と感性、形式と内容を統一する象徴的能力が問われる。また、シンボルは、形態の直接的コピーと抽象化され一般化された形態としてのサインの統合であり、そのコピーとサインの関係は、文字の変遷に見られるように、社会的なシステムを形成し、また、社会的システムによって規定される。現代社会は、形態の直接的コピーのもつ呪術的、身替り的、犠牲的要素を合理化し、コード化、数値化可能なサインに還元する方向へ進んできた。それとともに、さまざまな物や空間のもつ象徴的意味が失われてきたのである。

  ヘンとツクリから成る漢字は、アジアの伝統において、コピーとサインのヴィヴィッドな関係をシンボルとして示す、格好の例であり、そこにはモンタージュの極めて重要な原則があるといってよい。フォト・モンタージュは、映像において漢字のもつ象徴を再認識する試みでもある。

  講演の内容は、以上に要約する範囲で、僕にとってわかりやすいものであり、「象徴交換」がデザインの領域で主題となる一般的な背景を的確にまとめたものであったと思う。

  問題は、むしろ、具体的な木村恒久の作品の評価をめぐって顕著になった。「ワールド・トレード・センター」をはじめとして、「都市はさわやかな朝を迎える」など一連の「キムラ・カメラ」作品に対して、J.ボードリヤールはむしろ否定的であり、木村の方法と自らの「象徴交換」の理論、シミュレーションの理論との差異を強調するのである。一つの批判は、木村恒久の作品のイメージそのものが表現となっていること、イマジネールなものを含み過ぎていることにあった。シミュレーション理論にとっては、イマジネールなものが排除されることが一つの条件であり、オブジェやイデーが象徴的アウラをもっている場合、シミュレーションは成立しないというのが、J.ボードリヤールの指摘である。

  J.ボードリヤールによれば、ハイパー・リアリズムは、意味領域を捨象することによって成立するのであり、ニュートラルなものの総合がシミュレーションであるというのである。彼がシミュレーション理論の例として挙げたのは、革命と資本主義の対立を中性化し、並置したままであるエロの作品であり、現代社会の象徴であるモーター・サーキットの地下に、古文書を収納する図書館をもうけたソルト・レーク・シティの例であり、また、ギリシャの建造物を模したサンディエゴの遺伝子工学研究所であった。木村恒久の作品は、例えば、ブルジョワ的なものと中国共産党的なものが中性化されず、一つの意味(現代社会批判)を構成している。二つのもの(意味)が、一つの意味を構成するのではなく、二重化されたまま並置されるのがシミュレーションであるとJ.ボードリヤールは言うのである。

  そうした指摘自体、少なくともデザイン論にとっては、極めて興味深いものと言ってよい。J.ボードリヤールは、引用について、意味を引用するのではなく、媒体(メディウム)を引用すれば二つのものは並置され、両義性を保持することができるという。その指摘は、むしろ当日司会であった磯崎新の手法論、引用論の位相とより近しく、それを裏打ちするものと言えるかもしれない。あるいは、そうではないのかもしれない。いずれにせよ、木村恒久のフォト・モンタージュにおける方法と磯崎新の引用論の差異を含めて、J.ボードリヤールのシミュレーション理論は、デザインと現代社会批判、社会変革上のラディカリズムとデザイン、またデザインと消費社会をめぐって、再び一石を投じているように思えるのである。

  かつて、J.ボードリヤールは、象徴的な関係を取り戻すために、デザインそのもの、デザイナーそのものの消滅をも主張していた。その一つの根拠は、「デザインされた物は、どんなことがあろうとも、シミュレーションのモデルとして僕らの目の前にあらわれ、そこには可能と不可能がまるで機能のようにあらかじめ組み込まれ、組合せの中に想像性さえも指示されている」ことにあった。「シミュレーションのモデルと化した結果、あたかも子供をさらうように想像性がうばい去られ、記号製造行為により象徴がうばわれ、記号の氾濫は人口的に創り変えられたひとつの世界の幻影を生む」ことであった。すなわち、そこではシミュレーションそのものは、きわめてネガティブにとらえられていたと言って良い。しかし、J.ボードリヤールは、シミュレーションの時代をよりポジティブにとらえようとしているかに見える。

  「私に対する批判は、そのままかつての師(J.ボードリヤール)自身に対する批判ではないか」という木村恒久の素直な問いに対して、J.ボードリヤールは、あっさりとそれを認める、かつての現代社会についての分析は、あまりに、否定的な観点のみからのものであった。シミュレーションの時代には、新しい世界の誕生を感じさせるすばらしい側面もあり、それを肯定的に評価すべきなのだと。彼は、それ故、シミュレーションという概念を、かつての立場とは異なって、微妙なニュアンスを含ませた言葉として用いているという。また、消費という概念は古くなったのであり、それでは分析できない領域をアスペクトを変えて扱うのだと言う。さらに、ユートピア的な視点、もう一つの(オールタナティブ)という視点ではなく、シミュレーションの実態の内部からの分析に向かうのだと言う。

  こうした視点や立場の転換の主張が、どのようにしてもたらされたのかについては、J.ボードリヤールは必ずしも明らかにしない。というより、トランスポリティークにしろ、シュミレーションにしろ、また、エクスターゼにしろ、J.ボードリヤールの用いる新たな諸概念が必ずしも一般化されておらず、したがって、その転換を理解することができないと言えるであろう。当日の会場の雰囲気から察する範囲では、むしろ、J.ボードリヤールの新たな概念の理解そのものが問題であったように思う。皮相に理解すれば、現代社会に対するラディカルな批判がペッシミズムの袋小路に入り込むのを回避することを急ぐあまり、以前の概念諸道具をあっさり精算したような印象であった。トランスポリティークにしても、第三世界や社会主義に根拠なき希望をもつことを批判するために、また、政治の中にのみ目的を設定してきたことを批判するためにのみもち出され、逆に、現実をなしくずし的に肯定するかのような印象であった。閉ざされた世界におけるシュミレーションの連続の評価やエクスターゼという概念は、一種の刹那主義ではないか、という質問がなされたのは、ある意味では当然であり、同時に、僕らの戸惑いを示すものであったと言えよう。

  古い図式、古い価値体系に固執し、発想する限り変化はない。というJ.ボードリヤールに異議はない。J.ボードリヤールは、僕らの戸惑いにもかかわらず、その展望について自信に満ちているかに見えた。彼は、出口を求めることができないとすれば、破壊しかないという。悲観論者でも、終末論者でもなくルネ・トム*[xi]1あるいはカネッティが言う意味での破壊主義者(カタストロフィスト)であると言う。その転換を見届けるために、今、少し、彼の作業を注目する必要があると言えるのであろうか。

  J.ボードリヤールのシュミレーション理論またカタストロフィーの理論について、三日目のパネル討論においては、より突っ込んだ討論が行われたことと思う。僕自身、それに参加できなかったこと、また、実行委員会の準備会にお誘いを受けながら、J.ボードリヤールをめぐって議論する機会を自ら逃したことは非常に残念であった。J.ボードリヤールの転換がどうあれ、少なくともJ.ボードリヤールの初期の仕事は、そして、象徴交換の理論は、現代社会をとらえるうえで極めて刺激的であり、重要なヒントを与えていると僕は思う。産業社会、消費社会のパラダイムそのものを問うことは、僕らにとって共通の課題であるはずである。

  象徴的なものの回復の試みをかつてのJ.ボードリヤールのように、シュミレーションのシステムを補完するものとして、消費社会における記号の消費システムの自己運動としてのみ位置づけることにおいて、いかなる展望が拓けるかは、僕らにとっても大きな問題であることは言うまでもないのである。そうした意味では、J.ボードリヤールは一歩、その歩を進めつつあるのかもしれない。

  J.ボードリヤールの反生産の概念とエコロジーの概念とは、どのように結びつくのか。あるいはすれ違うのか。彼が主として分析の対象とした西欧の現代社会に対して、日本の大衆社会はどのようにとらえることができるのか。そこに、日本的な、あるいはアジア的な特質を見ることができるのか、それとも、すでに全く同じ位相においてとらえるとができるのか。J.ボードリヤールの言う意味での「シュミレーションの時代」において、デザインあるいは芸術は新たな役割を担うのか、そうではなく全く別のものとなるのか。その場合、大衆、消費者のキッチュなもの、懐古趣味的なもの、擬似的自然、手づくりといった雑多のものへの要求は、どういう形態を取って自己を実現するのか。そして、究極的には、象徴交換の世界はいかにして回復することができるのか。J.ボードリヤールを媒介としながら、考察すべきことは多いのである。



*[i] 竹原あき子訳『工芸ニュース』一九七四年Vo l.41

*[ii] 宇波彰訳、法政大学出版局

*[iii] 今村仁司、塚原史訳、紀伊国屋書店

*[iv] 象徴交換とシミュレーションの時代・トランスポリティク|政治の光景(一〇月一〇日、J.ボードリヤール特別講演)、キムラカメラ/象徴的暴力とシミュレーション(一〇月一一日磯崎新(司会)、J.ボードリヤール+木村恒久)、象徴交換∥現代社会を読みとくために(一〇月一三日、前田耕作(司会)、J.ボードリヤール、今村仁司、多木浩二、平井正、宮島高、山田宗睦)

*[v] 宇波彰、今村仁司訳、法政大学出版局

*[vi]

*[vii]

*[viii]

*[ix]

*[x]

*[xi]




 

2024年3月3日日曜日

植林麻衣 加子母木匠塾ーその活動の足跡ー シリーズ 研究室からフィールドへ、『住宅建築』、202404

 植林麻衣 加子母木匠塾ーその活動の足跡ー シリーズ 研究室からフィールドへ、『住宅建築』、202404








布野修司:「古代インドの都市理念」The Idea of the City in Ancient India,Bob Hudson (University of Sydney) Bagan, Myanmar 11"' to 14th Century. History and Architecture, Jacques Gaucher ( EFEO) Urban Historical Problematics About a City Wall, Angkor Thom (Cambodia) 東京文化財研究所主催 東南アジア古代都市・建築研究会「東南アジアの古代都市を考える」東京文化財研究所・セミナー室,20180119(「東京文化財研究所」報告書2019年)。

  本日の発表では、まず簡単にアジア都市研究を紹介したいと思います。それから、いささか大風呂敷になりますが、ユーラシア全体に視野を広げて、古代都城、王権の所在地としての首都の在り方について見取り図の話をいたします。次に、少し横道にそれますが、古代インドの都城と比較ができる中国の都城について簡単に紹介します。最後に、「曼荼羅都市」とタイトルをつけましたが、古代インド都市の話をさせていただければと思っています。

 私は都市計画を専門としておりまして、初めはインドネシアの都市の専門家でしたが、色々ないきさつの中でアジア全体に足を伸ばすことになりました。例えば現在、エジプトで日本式教育を行う学校を100校建てるという仕事に携わっています。

 私は自分の研究を「都市組織研究」と位置付けています。つまり、都市を捉えるときに、人体に例えると遺伝子からひとつの骨がでる、というように、例えばひとつの家具が集まってひとつの住居ができて、それが集まって街区ができる、というプロセスに興味をおいて比較研究をしています。

 具体的には、中国の北京がどういう形で成り立ったのかについて分析を行いました(1.1)

 これから私の仕事を紹介しますが、ひとつは『グリッド都市』という本を書いています。寸法の単位を基にヨーロッパ、インド、アジアも含めて比較を行っています。図1.2はバリの事例です。このように尺度の単位というのは、世界中どこでも人体寸法に基づいて決められているわけです。

 寸法については中国の井田制と日本の条里制が関係していることがはっきりわかります(図1.3)。

 古代ギリシャ、古代ローマにもグリッド都市の事例があります(図1.4)。

 ヨーロッパの世界では、スペインがイベロアメリカでつくった都市について、1573年にフェリペ二世の勅令により「レイエス・デ・インディアス」が定められ、同じモデルで25ほどの都市が作られます(1.5)

 また、キューバには「アト・コラル」という円形に都市を分割するシステムがあります(1.6)。これは1リーグ、一時間に歩ける距離でその範囲はあなたのものですよ、という区別をしたものらしいです。もし他にこのようなシステムがあるのなら教えていただきたいです。驚くことに、今キューバにいくと市町村の境界は円形をしているのです。古今東西グリッドは見られますが、グリッドだけではない土地分割もある。

 それでは本題に入ります。最初に私の仮説をご紹介いたします。

 ユーラシア全体を見渡した時に、コスモロジーと具体的な都城の形態との関係に着目すると、まずそういった都城思想を持つ地域(A)と持たない地域(B)の大きく2つに分かれます。

 A地域がインドと中国です。この都城思想を持つ地域は核心地域と周辺地域に分けられます(1.7)

 中国の場合は韓国・ベトナム・日本が周辺地域です。インドの場合は東南アジアが周辺地域です。2つの地域とも都城思想を表す書物があり、都城の理念が空間的なモデル、図式に表現されます。

 アイデアは幾何学的なモデルで表現されますが、それがそのまま実現するとは限りません。立地の条件など様々なことによってそのモデルはいろいろな形に変形されます。

 理念形がそのまま表現されるのはむしろコア地域よりも周辺地域です。何故かというと、自分の支配の正当性を表現することがより必要とされるからです。

 ですからインドの場合は、理念形はむしろ周辺地域のほうが表現されやすい。もちろんその理念形が実現した場合でも、時間の経過によってそれは変形していきます。

 以上が私の仮説となります。

 もう一つのB地域は、主に現在イスラム圏域です。ではイスラム圏域にコスモロジーがないかというと、そういうことではなく、ひとつの都市でひとつのコスモスを表現するという考え方がないということです。

 イスラムの場合は、メッカ、メディナ、エルサレムも入れて都市のネットワーク全体がひとつのコスモスであるという思想です。

 また、イスラムには、イスラム研究の先生方といろいろ議論したり調べたりしたのですが、都城理念を示す書物はありません。

 古代中国の都城の課題に入ります。A地域のひとつのコアである中国都城について、昨年11月に日本学士院の学会誌に論文を発表しました(Shuji Funo, 2017, "Ancient Chinese capital modelsMeasurement system in urban planning", Proceedings of the Japan Academy Series B, Vol. 93 N.9, 724-745)。世界で7番目くらいの引用率の学会誌で、建築分野の論文が載るのが恐らく初めてです。

 図1.8は中国の古い書物、『周礼考工記』に書かれたモデルを図にしたものです。マンダレーのプランがそれに従って図面を描いたのではないかというのは、私の論文のひとつの主張です(図1.9)。これは提起ですので、是非議論していただきたいことです。恐らく今日一日では決着がつかないと思いますが。

 今まで中国の都城は『周礼』に基づいてつくられたということでしたが、そのモデルに従った都城は実は一個もなく、考古学的には発見されていません。強いて言えば、明の時代、清の時代の北京が一番近いと言われています。

 中国の都市には3つのモデルがあるのではないかというのが、私の論文の主張です(図1.10)。すなわち、『周礼』のモデル、宮殿が北側にある長安のモデル、そしてモンゴルが作った大都のモデルです。それを寸法体系で説いたというのが、論文の主な内容です。

 論文より以前に『大元都市』という本を書きましたが、そこに具体的な都市組織、街区の図面まで復元しました(図1.11)。アンコールについても私はこのレベルで復元したいと思っていますので、今日のシンポジウムを大変期待しております。

 本題に入りますが、『曼荼羅都市』という本を書いていますが、そこにインド世界の都市のモデルと、3つの都市を取り上げています。

 まずはモデルですが、一般には、ヒンドゥー教や仏教の経典などに書かれているものから世界をどのように考えていたかについて復元がされています(1.12)

 また、マウリア朝のチャンドラグプタの宰相だったカウティリヤが、王国を治めるための書物、『アルタシャーストラ』を書いています。それのあるチャプターに都市建設について書かれていて、古代インドの都市を考える際にはそれが参照されます(上村勝彦翻訳、『実利論 ―古代インドの帝王学』岩波文庫、1984)。図1.13に、『アルタシャーストラ』の内容を図化したいくつかの例を表しています。

 古来研究者は『アルタシャーストラ』に基づいた古代インド都市モデルの復元図を作っています(図1.14)。不思議なことに坊三門といった各辺3つの門によるつくりで、中国都城のモデルと同じなのです。さらに天上のエルサレムとうユダヤ教のアイデアルシティも坊三門です。私は、これは天文学に関係があると考えていますが、なぜ共通かということについて後ほどご意見をいただきたいと思います。

 図1.15は『アルタシャーストラ』に基づいた復元図のうち一番いいのではないかと思っているモデルです。中心の黒く塗られている1番が神殿領域、2番が宮殿、15番がブラフマン領域、東側がクシャトリア、南側がバイシャ、西がスートラになります。

 もうひとつ我々が建築や都市計画を研究する際に参照するのが「ヴァーストゥ・シャーストラ」です。「シャーストラ」というのは恐らく「論」という意味で、「ヴァーストゥ」は建造物を意味します。30種類ほどの、日本の木割のようなものです。

 その中に一番完璧に残っているのが『マーナサーラ』と言われています。「マーナサーラ」は「尺度」という意味で、最初の章に寸法の話が書いてあります。小さな粒子の単位から人体寸法から歩測のような寸法の話があります。

 その次には空間の分割の話が書いてあります(図1.16)。2×2の分割、3×3の分割、8×8の分割や9×9の分割がありますが、それら全部に名前がつけられています。

 基本的に分割した中に、ヒンドゥーの神々を配置していきます。要するに、曼荼羅図の形に、位置を与えていきます。

 『マーナサーラ』には都市と村のパターンが8つあります(図1.17)。カールムカという弓型のもの、スワスティカという卍形のものなど、いくつかパターンが示されています。

 『マーナサーラ』から復元したものの中に、都市の規模が示された図があります(1.18)。都市の規模によって名前がついています。1.8 mくらいの単位で割れば、分割できるということがわかりました。

 では、インドではこのようなモデルを実現した実例があるのでしょうか。先程周辺部の方が理念形が実現しやすいという仮説をお話ししましたが、インドではすでに11世紀にイスラムが入り、考古学的な調査が遅れていることもあり、そういった事例が見つかってありません。

 南インドにある、スリランガムという寺院都市が理念形に近いものです(1.19)。真ん中に神殿があり、プラカーラという何重の境界があるというような形です。

 また、マドゥライという都市も調査しました(1.20)

 形を見ると、ぐちゃぐちゃに見えます。歴史を経てモデルは崩れています。ただし、月ごとに行われる都市祭礼があって、それの後を追っていくと、やはりある理念形によってつくられた都市だということが分かりました。

 都市に流れる川によって変形したり、途中で宮殿が建って道路が変形したりしています。歴史的な変形をしていますが、モデルを基に計画された都市だと思っています。中心にミーナークシー寺院という神殿があります。

 都市型の住宅としては、コートハウスという、古今東西共通の都市的な住形状があります(1.21)。カーストごとの居住地といった住みわけも今でも見られます。

 次に、ジャイプルという、18世紀にジャイ・シン2世がつくった都市です(1.22)

 これはまた別のタイプに見えますが、『マーナサーラ』に書いてあるひとつの型をモデルに設計したのではないかという説があります。

 基本的には三分割されて、中心に宮殿とジャンタルマンタルという天文観測装置があります。地形の制約がありますが、このような形の設計だったと思われます。グリッド自体が十数度か傾いていて、正南北ではないという、モデルからの逸脱があります。

 次は都市組織、街区についてお話しします(1.23)。その寸法も明らかに計画的に設計されていまして、中に埋まってくる住居はハヴェリというコートハウスが基本です。元々は2階建てくらいでしたが、今は4~5階建ての高層階になっており、100人くらいの合同家族が住んでいます。

 18世紀のヒンドゥー世界では、西の端にジャイプルがあり、東の端にインドネシア・ロンボク島にチャクラヌガラという計画的につくられた都市があります(図1.24)。サンスクリットで、「チャクラ」は「円輪」という意味もありますし、体の急所の意味もあります。「ヌガラ」は「国」とか「都市」という意味です。バリのカランガスム王国の植民都市としてつくられました。

 非常に変わった形をしていて、南北にはモデルにはない、飛び出たところが見られます。実はバリ島の集落は大きく3つの部分からできています。カヤンガン・ティガという起源の寺が北にあって、死の寺と墓地は南にあって、真ん中はみんなが住むところです。

 それからグリッドでできていますが、不思議なことにグリッドは平安京にそっくりなのです。インドネシアはインド側でもありますが、中国にも属します。1290年代にクビライが攻めていますし、当然中国の商人も出入りしていますので、中国的な理念が入っていてもおかしくないです。

 今日私が短い時間で大まかな風呂敷を説明させていただきました。最初にお話ししたのが、大きくユーラシア全体で都城の考え方が中国・インドに二分割されていて、2つの圏域でコアがあって、そこから考え方が周辺に広がっていきました。モデルがそのまま実現した例は両方ともどうもなさそうですが、それを実現しようとしたかに見える、いくつかの事例があります。

 ですから、バガンあるいはアンコール・トムは、どういった設計思想で都市を形成できたのかということについて、議論できればと思っています。