https://www.aij.or.jp/jpn/touron/2gou/touron3.html
第0回
都市と建築からみるアジア —グローバル化と現代
主催:日本建築学会
建築討論委員会
日時:2014年6月13日(金)18:30〜20:30
会場:日本建築学会 建築書店
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宇野:時間がきましたので、第3回けんちくとーろんを始めたいと思います。この企画は、建築書店ArchiBooksを会場としてゼミ方式といいますか気軽な形でトークと討論の間くらいのことをねらっています。今回は、建築学会で和田先生、布野先生にお願いして、吉野先生、事務局の皆さんに尽力していただき、試みとしてこうした使い方をさせていただけることになりました。これからもこういう形式で続けていけたらと思います。今回は試しということでご了承下さい。建築討論委員会について、布野先生から簡単にご説明いただいてから、今日の会を始めたいと思います。
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布野:ここにお集りいただいた皆さんは、建築討論委員会が一体何なのかについて多少は理解頂いていると思いますが、八束さんは全然知らないということですので、簡単に説明します。Web版『建築討論』ということで、紙媒体の雑誌と同じと思ってもらえばとりあえずいいと思います。私自身はっきりとした方針とフレームをもっているわけではありませんが、応募作品について議論するというのがベースにあります。また、レポーター制度というのを設けていまして、50人ぐらいに随時情報を頂けるようにしようとしております。中央にいては見えない情報があがってくることを期待しております。今日は、対談ということですが、第一回目にはミニ・シンポジウムを行いましたし、2回目は、公開座談会ということで、松山巌さん、青井哲人さんをお呼びしまして、中谷礼仁さんがヴェネチアビエンナーレのキュレーターをされたことをネタに討論しました。中谷さんから先ほど2時間前に連絡が入りまして、帰国しましたということで、別の情報ですと金獅子賞はとれなかったようですけど、Web上に公開された批評によると日本の展示は面白いというようなことが載っていました。そういう反応もすぐにWebに載せられればと思います。
創刊号はアップされており、ご覧いただければと思います。いまは2号目に取りかかっていまして記事が出来次第アップされている状況で、第2回の公開座談会は既にアップされています。
インタビューとか依頼論文とかいろいろできると思っております。今回のものは創刊2号に間に合えばと思っています。また、内容によっては、3号目、4号目と続けてもいいかなと思っています。
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宇野:それでは、今日の討論と言いますか、ほとんどダイアローグ(対話)になると思いますが、八束先生と布野先生にお話をして頂きます。近年、プロジェクターの性能がだいぶ良くなってきたので、Powerpointを使うことも多くなりましたが、今日はトークだけでいこうと考えています。
お二人を簡単にご紹介します。八束さんは建築家です。長年、建築評論を手がけてこられ、この春まで芝浦工大教授でした。私は1950年代生まれの世代ですが、お二人は私より数年先輩でして、そういう年代の先生方です。会場には、学生さんをはじめ、いろいろな年齢の方がおられるようですので、一応、ガイダンスとしてお話ししますと、卒業研究をしていた1970年代半ばに、助手、ドクターコースで建築論都市論を戦わせていた先輩というと分かり易いかと思います。
当時、布野さんは東大の建築学科に、八束さんは都市工学科におられました。僕は建築学科の学生でしたが、都市工学に、設計の講師として槇さんと磯崎さんが来られていました。そういう時代もあったのです。建築学科の学生は、そうした都市工学科が羨ましくて仕方がなかった。それで、都市工学科の授業に出て、建築と都市工学都市デザインに同時に触れる機会がありました。そうしたことが両学科にいいかたちの交流をつくり出してラッキーだったなと思います。当時は建築雑誌がたいへん盛んでして、そのなかに「建築文化」という大判の雑誌メディアがありました。「近代の呪縛に放て」というシリーズの企画物がありまして、その中で若手の論客として、八束さん、布野さん、伊東豊雄さんが名前を連ねていました。富永譲さんが一番上でしたか、北原理雄さん(後に千葉大)、長尾重雄さん(後に武蔵美学長、建築史)などもメンバーでした。皆さん、20代だったでしょう。そういう方々が中心メンバーでした。近代建築に限界を感じて、世界の建築の動きや新しい方向性を模索していた時期のことです。僕は学部の学生でしたが、布野さんに紹介してもらって、伊東さんにもそのとき初めてお会いしました。30代前半だと思いますが、菊竹事務所から独立して設計事務所を設立した頃です。以来、なにかとお世話になり親しくさせていただいています。
さて、お二方は著作もたいへん多く、活動も多岐にわたります。八束さんについて代表的な著作をあえてあげれば、初期にはロシア・アヴァンギャルドについての著作、また近年ではメタボリズム・ネクサスという著作があります。ミースについても書かれています。八束さんは建築家としても活躍されて、20世紀を眺め渡しながら、磯崎新さんのもとで欧米を俯瞰しながら仕事をしてきました。布野さんは、もともとは建築計画が専門ですが、一方で、長年、インドネシアから始まるアジア建築、アジア都市の調査研究をされてきました。インドネシアはオランダの植民地だった時代があるわけですが、布野さんはインドネシアからヨーロッパ、オランダまで遡る旅をされて、時代を遡りつつアジアとヨーロッパの建築と都市を眺め渡す仕事をしてきました。
お二方とも顕学で学識がものすごく、同時代に同じようなところから出発しながら、それぞれ違う道といいますか、違う旅と言いますか、してきたように見えます。21世紀も10数年たちましたし、お二人の旅も今や一巡したかなと思いまして、今回は、お二人からそうした旅の話をお聞きしようと会を企画しました。
「都市と建築から見るアジア-グローバル化と現代」とタイトルを決めさせていただきました。都市と建築の視点から今日のアジアを自由に語って頂こうと思います。グローバル化をどう捉えるか、情報化が進み、人が流動する時代ですから、そうしたことを念頭にお二方の仕事を振り返りながらお話いただこうと思います。八束さんと布野さんが出会った頃、日本の文脈で言いますと伝統とか日常生活とモダニズムの間の裂け目が大きくなった時代で、そのギャップを足場に新しい建築の議論が盛んに行われていました。今から振り返ると、非西洋の伝統や生活をおくってきたアジアがモダニズムに出会った際の、捉え方と解釈は二人のあいだで違っていたために、たどる道が違ったのではないか。これは勝手な仮説ですが、そうした仮説をもとに、まず八束さんと布野さんが出会った頃のお話からはじめていただきたいと思います。
出会い―『建築文化』「近代の呪縛に放て」シリーズ
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布野:最初に出会ったのは『建築文化』の「近代の呪縛に放て」というシリーズですね。学部の学生のときは会ってないですよね。
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八束:学科が違うから。あの時は僕らが一番下っ端でした。まだ修士か博士の一年でしたよ。今日は若い人たちが多いので、キャリアメーキングの昔話も多少は参考になるかと思いますが、当時は、僕らみたいなのでもいきなりコアスタッフで使ってもらえたんですね。今はメディアがないから若い人々は気の毒ですけれど。
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布野:不思議な会でしたね。一番年上が伊東豊雄さん、次が長尾重武、富永譲、それに北原理雄さんがいて、八束さんに僕。誰が集めたんだろう。僕は多分長尾さんに声をかけられたんだろうと思う。僕はあの頃、四谷の月尾嘉男さんの事務所にアルバイトに行っていて、伊東さんが時々来るんで会ったことはあったんだけど。八束さんは北原さんから声をかけられたんでしょう。長尾、北原の二人かなあ、仕掛け人は。
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八束:多分そうでしょうね。あのお二人は当時建築メディアに結構出ていた。それで『建築文化』から彼らに声がかかったのだと思います。長尾さんが建築、北原さんが都市工という分担だったんでしょう。
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布野:とにかく、議論ばかりしていた記憶がある。なかなか連載は始まらなかったような、2年ぐらいしゃべっているばっかりかな。彰国社に月に1度は行っていたような気がする。車代が出て、ビールが出た。編集部の野崎さんには随分おごってもらいました。
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八束:当時の議論で今と決定的に違うのは、編集長が付けたタイトルにもあるけど「近代」というのがまだ自明ではないキーワードとしてあったということね。伊東さんが、名前は伏せますが、ある人に対して彼には近代分かっていないんだよなぁ、とかいっていました。そういう議論って今はないでしょう。あと覚えているのは、『建築文化』の磯崎さんの「反建築ノート」の刷り上がったばっかりのゲラがだーっと出てきて、ああでもないこうでもないと議論になったこと。「反建築ノート」は結構目から鱗で、凄く刺激になりました。北九州図書館の模型なんか、モスラの幼虫みたいで、建築ってこういうのもあり得るのかという感じでしたね。あれがなかったら僕は磯崎アトリエに行かなかったかもしれない。
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布野:磯崎さんの特集を組むというのでアトリエに見に行ったことを覚えています。雑誌の舞台裏を覗いた気分がした。とにかく、オイルショックで掲載する建築作品がない、という時代でしたね。印刷代が高いというので台湾の印刷屋を使おうかと編集長の田尻裕彦さんがこぼしていたのを覚えている。伊東さんなんかまだほとんど作品がなかった。「中野本町の家」の前ですよ。
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八束:「中野本町の家」は連載の最中じゃなかった? 僕らがヨーロッパから帰ってきたら発表されていて伊東さんは一躍スターになっていた。それまでは、失礼だけどそういう建築家もいるのね、って感じだった。作品も2つくらいでしょう。
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布野:富永さんは菊竹清訓事務所をやめて芦原(義信)先生の助手になったばかりのころでしょう。作品はなかったんじゃない。とにかく、会議が終わると新宿にくりだして、何故か、石山修武さんとか、毛綱もん太さんとかも現れて、仕事がない仕事がないっていっていた。そういえば、これどう思う、発表しようかどうしようか、なんて話してた。面白かったなあ。ところでシリーズはどうやってまとめたんだっけ。
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八束:タイミング的に何処かでけりをつけたんでしょう、いつまでだらだらと続けるわけにはいかないから。次はあなた、みたいにローテーションして、各号ごとに割り振って責任編集しました。
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布野:それは覚えています。僕はたしか75年の11月です。「運動としての建築-昭和の建築のための覚書」というのを書いた。「宮内康さんと「昭和建築研究会」(1976年12月設立、後に「同時代建築研究会」に改称)を始めるきっかけになったのは、特集の原稿を頼みに行ったからで、それ以前は康さんに会ったことはなかった。『建築文化』に最初に原稿1を書いたのはドクターの時で、田尻さんと一緒に白井晟一のサンタ・キアラ館を見に行った。ペンネームで書いたんだけど、白井さんに何故か気に入られて、中央公論社から出た一冊5万円もする『白井晟一作品集』をもらったことを覚えてる。まてよ、その直後に「見ることへのアヴァンチュール」2というのを書いている。これもシリーズの一環だったような気がする。それで僕は、最後に「六〇年代への葬歌」3というのを書いた。全員が何か書いて締め括ったんじゃない。八束さんは、特集は何をテーマにしたんだっけ?
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八束:僕が書いたのは「零度のモニュメンタリティ」4とかいうタイトルで、当時あまりに手垢がついた建築から一旦「意味を消す」ということで、磯崎さんとか、僕を芝浦に引っ張ってくれた藤井博己さんの、表面にグリッドがついた建築作品が出てきたことを取り上げて、それは裏返しのモニュメンタリティだと書いたことは覚えています。あれが出た頃に『建築文化』の懸賞論文に応募して、審査員は長谷川堯さんで、これに一等なしの佳作になったので、「文化」にはほぼつづけて掲載されました5。編集部情報だと僕が一等だったのだけれど、最後の最後で、長谷川さんがやっぱりあれは何処か気に入らないと言って降格になったらしい。長谷川さんが連載の方の文章を見て、応募したのはこの人でしょうといわれたらしい。それで落とされたのだから、本性を正確に見抜かれたのだと思うね、結構。「零度のモニュメンタリティ」の書き方も長谷川流にいうと「獄舎」じゃなくて「神殿」のパラダイムだったし。ただ、正直に言うと、あの頃の文章は我ながら衒いが多くて、今は自分では読むに耐えないです、気恥ずかしくて駄目。ただあの頃記号論とか言語学とか構造主義関連の本は、当時の流行とはいえ随分読んだので、それは今でも役には立っていますね。この間のコルビュジエの本のエピローグに使ったフーコーとかね。
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布野:とにかく、僕にとっては建築を考えるきっかけになった場で、随分勉強になった。大袈裟じゃなく、この場がなければ今の布野はないとも思うくらい。いい意味でも、もしかしたら悪い意味でも影響を受けた。伊東さんをはじめとする海千山千の先輩に会ったのが大きいかなあ。「近代の呪縛に放て」というスローガンは最後まで気恥ずかしかったけれど。
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八束:ここで相手を持ち上げてもどうかと思うんだけれど、僕は布野さんの「運動としての建築-昭和の建築のための覚書」が「反建築ノート」以上のショックで、本当にあれがなかったら僕はこの場にいないよ。僕はあれに追いつくために猛然と勉強し出したの。追いつけたどうかはともかく、何処かでも言ったけれど、布野修司にはそういう意味での「学恩」を感じています。
o 1 悠木一也「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた量塊-サンタ・キアラ館を見て」『建築文化』1975年1月号
o 2 悠木一也「見ることへのアヴァンチュール」『建築文化』1975年3月号
o 3 布野修司「六〇年代への葬歌」『建築文化』1977年10月号
o 4 八束はじめ「『零度』のモニュメンタリズムあるいは空間の脱意味化」『建築文化』1976年2月号
o 5 八束はじめ「<俗>と<反俗>の記号学」『建築文化』1975年12月号
最初のヨーロッパ建築ツアー
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布野:八束さんとの思い出というと、最初にヨーロッパを一緒に旅行したことがあります。僕と八束さんは誕生日が一緒なんです。8月10日、八束さんが丁度一歳年上です。なんで知ったかというと、その時にパスポートを見せ合ったからなんです。1976年の夏、僕が東大の助手になった年だから記憶に間違いはありません。「近代の呪縛に放て」の連載シリーズの最中です。ツアーはずっと一緒じゃなくて、所々で会おうということでした。ユーレイル・パスのバックパックという時代です。僕は車中泊を4、5回したかな、1か月で。最初のランデブーポイントは、バーゼル、ドルナッハのゲーテアヌムの前。
大韓航空でチューリッヒに着いて、翌日か翌々日バーゼルに行ったんです。その後、ウィーンに行って、プラハへ行ってニュルンベルグへ抜けたから間違いない。ニュルンベルクは二度目のランデブーポイントです。二回目も成功です。ちょっと信じられないと思いますが、若い男が二人でビュルツブルクからアウグスブルグまで、「ロマンティシェ・シュトラーセ」を観光バスに乗ったんです。中年のご夫妻と一緒にローテンブルクとかディンケルスビュールとかを見た。その後、ミュンヘンをみて夜行でオランダへ入った。ロッテルダムに着いて、ハーグをみてアムステルダムで会おう、ということで別れた。3度目は失敗で、それっきりになったんです。
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八束:今日はアジアの話のはずだけれど、二人ともいきなりアジアに傾斜したわけじゃないから、年寄りの昔話で恐縮ですが、少しヨーロッパの話をつづけますか。あの時はハーグではぐれたんです、駄洒落みたいだけれど。あなたがロッテルダムに興味がないから、アムステルダムに行きたいと言って、先に行きましたよね。僕はロッテルダム、つまりファン・ネレ工場とかデスティルに興味があったから、長居した。二人の関心の違いを端的に示したエピソードね。最初の空中街路を計画したブリンクマンとファン・デア・フルークトのスパンヘンのジードルンクはスミッソンとかメタボリズム(大高さんの坂出人口土地に似ている)の先駆ですけど、素晴らしくてその後も2度見に行きました。でも今は白く塗っちゃってちょっと興ざめですが。
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布野:そう、後で聞いたらそうでした。僕は、ロッテルダム・スクールよりアムステルダム・スクールに興味があった。モダニズム建築より表現派、ルドルフ・シュタイナーのゲーテアヌムもだから真っ先に見に行った。チューリッヒのコルビュジエも見ましたけどね。ロッテルダムはいい街ですけど、第二次世界大戦で爆撃にあってるし、あんまり残っていない。J.J.P.アウトとかほとんど知らなかったし、ブリンクマンのオフィスビルとか、M.ブロイアーのデパートがあったかな、見たけれど、ふんふんという感じで、あっという間にハーグに行っちゃった。ハーグのベルラーエの方が見たかった。F.L.ライトと交流があったというし、ロッテルダム・スクールとアムステルダム・スクールの両方の親だというんでしょう。
アムステルダムは、土日で宿がとれなくてね。ハウスのようなところを駅前のVVV(フィーフィーフィー)でとったけど、2段ベッドの上にでっかい黒人が寝ていて体臭がきついし、荷物をアムステルダム駅のロッカーに入れなおして、賑やかな店に入って遅くまでビール飲んで寝るだけにしたんだ。次の日、アンネ・フランクの家の近くの宿をとったことを覚えてる。
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八束:僕はアムステルダムにもちゃんと行きましたよ(笑)。アムス派にも関心はある。ただ文章にする、つまり考察の対象になることはない。ライトなんかもそうですけど、僕は目でいいと思うのと、脳が関心をもつのは別なんです。それが両立したのはずっと後だけれど、A.アールト。
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布野:僕は一ヶ月でドイツ語圏を回ったんです。それも近代建築ばっかり見て回った。A.アールトも見ましたよ。ブレーメンとヴォルフスブルグかな。吉武研究室に助手の下山真司さんがいて、アールトは必見という雰囲気だったからね。今、学生がそんなことするといったらヤメナサイと言いますけど、とにかく見た。ブレーメン、ハンブルグ、ハノーバー、ヴォルフスブルグ、ベルリン、アーヘン、ボン、ハーゲン、シュツットガルト、デュッセルドルフ、フランクフルト、ウルム、ダルムシュタット、カールスルーエ・・・滞在時間2時間という都市もある。近代建築というのが少しわかった気がしました。建っているのはみんな郊外です。それと総じてひ弱に、貧相に見えた。もちろん、ホンモノはホンモノですぐわかった。物質観というか存在感がある。ウィーンに行ってA.ロースの住宅を写真にとってF.V.エルラッハを見ないのは異常だから今はヤメナサイなんです。
· 八束:エルラッハはいいよね。カールスプラッツの教会のスケール感もいいけど図書館のインテリアとか。でも、僕はロースを見て何でこんなに冴えないんだろうと思って、それで関心をもった(笑)。まぁ、ロースは外だけ見ても仕方ないんで(ミハエラープラッツの建物は当時外からしか見なかった。この間中見てぶったまげたんだけど)無理もないのですけどね。それは外だけ見たらワグナーとかホフマンとかの方が圧倒的に奇麗ですから。
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布野:僕は、その年の4月に、建築計画という研究室の助手になったわけです。全く何もしないで、学会にも一回も出たことがなく、何の業績もなく助手にしてもらったんで、何かしないといけないとは思っていたんです。建築計画学のオリジンに興味があったわけですが、それは当然近代建築の成り立ちに関わります。とにかく見ようということだったと思います。
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宇野:70年代の半ばは大阪万博が終わって久しいし、2度にわたるオイルショックで景気はとても悪いし、何をやったらいいのだろうかという時代でした。そういう時に先輩方は熱心に議論をしていました。今の話は初めて聞いたのですが、まずヨーロッパに行ったということですね。それはモダニズムが生まれたところだから、ヨーロッパに行ったということなのでしょうか。
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八束:別に高尚な理由があるわけではなくて、みんなが観光に行くのとあまり変わらない理由でした。本物のコルビュジエを見ないで語れないよな、という程度でした。
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宇野:最初はコルビュジエやいくつかの有名な建築を見ることが動機の一つではあったけれど、ということですね。
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八束:そうね。皆さんと同じよ、基本的には。そんじょそこいらにいる学生さんでしたから。ただ普通の人が最初の旅行なんかでは絶対行かなさそうなのがあって、ルネサンスのいわゆる「理想都市」つまり完全な計画都市であるパルマ・ノーヴァとかフロイデンシュタットとかカールスルーエとかショー(アルケスナン)とかリシュリューとかシャルロットヴィルとかは、最初から絶対に見ようと思って行きました。最近は学生のツアーでもショー行ったりするけど、当時は僕の前に行った日本人はいたのかしらという感じ。三宅理一さんは行ったかもしれないけどね。さっきのコメントとつづくけれども、こういうのは見ても目は楽しまないんですよ、予想通り詰まらない。でもそれを期待していたわけじゃなくて、見ておかなくちゃと思った。今の学生さんとか卒業旅行に行ったりしていますが、期間にもよるけど自分しか見ていないだろうというのをつくろうと心がけるのはお勧めしたい。あと、先ほど布野さんが、郊外の近代建築は貧弱と吉田五十八みたいなことをいわれたんだけれども、フランクフルトでエルンスト・マイがやった郊外の田園ジードルンクを見に行ったら、年寄りの住人の人があれはアルキテクト、マイがやったんだと誇らしげに説明してくれたのを今でもよく覚えています。社会の中に根づいたヨーロッパ・モダニズムの奥の深さみたいなものを感じました。
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布野:僕らの世代は、近代建築の歴史を『都市住宅』で連載していた原さんと磯崎さんの対談で勉強したんです。いろいろな建築家を順番に取り上げて、二人で対談するんです。近代建築の教科書なんかなかった。僕の場合は、稲垣栄三先生に近代建築史を習ったんだけど、稲垣先生も、長尾さんや鈴木博之さんがヨーロッパへ留学し始めて、一緒に勉強している感じでしたね。76年には、パリに三宅理一がいて、ベルリンに杉本俊多がいました。ベルリンの杉本は大歓迎してくれて今でも感謝しています。ハンス・シャロウンのベルリンフィルでのカール・ベーム指揮のオーケストラ・コンサートやミースのナショナルギャラリーでのベケットの芝居のチケットをとってくれて待っていてくれました。
アジア・モダニズム・ヴァナキュラリズム
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八束:さてそろそろ本題であるアジアに入らないと、年寄りの繰り言で終わってしまう。ヨーロッパに行った人がアジアに行ったのは何故ですか。因に僕は未だにヨーロッパ派だと思われているのですが、今はヨーロッパとかアメリカとか全然興味がないんですけれども、こうなったのはごく最近で、アジアに行ったのは布野さんの方がずっと先だね。
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布野:雛芥子というグループを結成していた同級生だった杉本俊多がドイツに留学し、三宅理一がパリに留学したんです。少し上の先輩で陣内(秀信)さんは長尾さんに続いてイタリアへ、岡崎真弓さんもイタリアですね。鈴木博之さんはイギリスへ行く。みんなヨーロッパへ行く。悔しいから意地でもアジアをやるぞ、ということだったんです。ずっとこういう説明をしてきたんだけど、半分は本音です。まあ、素直に言えば面白そうだと思ったということですけどね。実は、ある部屋を自主管理していて誰かが居ないといけないといった事情があったことはあったんです。
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八束:すぐにアジアの研究をやったのですか。
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布野:最初にアジアに行ったのは79年1月です。78年5月に東洋大に移ったんですが、そこに磯村英一先生という学長、都市社会学の大家なんですが、おられまして、辞令をもらう時に、うちの大学は東洋という名前だから東洋の研究をやりなさいと言われたんです(笑)。嘘みたいな本当の話でして、「東洋の居住問題に関する理論的実証的研究」という学内研究プロジェクトがあって200~300万円の予算が用意されていたんです。前田尚美先生、太田邦夫先生、内田雄造先生、上杉啓先生が待ち構えていて一緒に東洋のプロジェクトをやろうということだったんです。もちろん、ヨーロッパ近代を批判的にとらえ返すためにはアジアのことをやる必要があるということは東大で助手をしている時から考えていました。
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宇野:今の話で思い出したのですが、僕の同級生に村松伸君がいて、布野さんが助手でした。朴勇煥さん(韓国漢陽大学名誉教授)がドクターコースに居られて、黄世孟さん(元台湾建築学会会長、台湾大学名誉教授)が台湾から来られていて、他にも台湾や韓国からきた留学生が研究室の周辺にいました。中国語講座をやろうとか、韓国語ゼミをやろうとか、週に1度くらいでゼミをやっていました。ローカルではありますがアジアブームがありました。
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布野:村松さんには建築史をやるならアジアをやるべきだとは言っていました。ただ、先輩連中がヨーロッパへ行ってるから、かち合うよといった程度だったような気がします。しかし、絶対アジアをやるんだ、まず中国語やらなくちゃ、と決意しちゃったようです。ひと月経たないうちに、NHKの中国語講座に生徒として出てるんでびっくりしました。
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宇野:村松君が北京の清華大学にいった時は北京に外国人留学生は400人しかいなかったと言っていました。まだ、人民服を着ていた時代の話です。だけどそれほど昔ではなくて、一世代前のことです。この間にずいぶん変わったなという感じですね。八束さんはヨーロッパやアメリカに関心がないとおっしゃったけど最初はヨーロッパから始まったわけですよね。一方で、丹下先生のもとに居たわけだから、フランスやイタリア、中東にも関心があったと思うのですがどうでしょうか。
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八束:丹下先生のもとにいたって言われたけど、丹下先生は1年間に2回くらいしか大学に来なかった。M1が終わったら退官されてしまったので、そういう意味では丹下先生の直接の薫陶はほとんど得てないに等しいです。だから当時の海外の仕事にも全く接点がなかった。いわんや中東には関係ない。ただ磯崎アトリエ時代にコンペの提出でジッダには行きました。その時に丹下さんの王宮の現場を見せてもらおうとか思っていたんだけれど(出来ちゃったら見られないしね)、あまりに暑いので辞めて、提出終わったらその足でパリに行ってしまった。そんな程度なんです、当時は。
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布野:僕も2回しか丹下先生の授業を受けていない。駒場でアーバンデザインという講義を聴きました。最初の2回だけ来て、後は渡辺定夫先生の代講です。今の大学では考えられないかな。ひどいこというなあ、というのが印象に残っています。ロストウの経済理論を紹介するんだけど、離陸理論ですね、高度成長にむけて、建築は離陸したけど、後は落ちるだけだ。どうソフトランディングするかが問題ですよ。君たちは不幸ですね、建築を学ぼうと意気込んでる学生に向かっていうんです。でも見事に当たってた。偉い先生だなって後で思いましたけどね。もっとも、僕らも高度成長の終焉は予感していたんですけどね。
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八束:僕の時は違いました。最初の講義は1時間かけてアクロポリスの配置を黒板に描いて描き終えたら鐘が鳴って授業が終わりでした。プリント配れば済むのにという感じ。だから丹下先生と海外への関心というのは直接にはつながってはいません。むしろ、何度か書いたけれども、海外に雄飛してからの丹下さん(やメタボリスト)の仕事をどう考えるべきかの判断は、未だにふんぎりがついていないのです。ただ、僕はさっきアメリカ、ヨーロッパに興味ないと言ったけど、あの時代にそれからスタートしたことはすごく良かったと思っています。いわゆる教養としての近代建築ではなくて、モダニズムとは何なのか、あるいはそれを越えたモダニゼーションとは何なのか、という認識の基本をつくることができました。それなしでアジアに行ったらつまずくんじゃないかという感じはありました。この辺は布野さんや村松さんとは違うでしょうけど、単なる回り道ではなかったと思っています。
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布野:僕は、中国そして韓国とはそう向き合って来なかったんです。1979年にアジアを歩き出すんですが、韓国や中国はとても調査研究をする環境になかった。ソウルの地下鉄で写真をとって、ものすごい勢いで警察官に叱られた経験があります。磯村先生に東洋のことやれって言われても、どこをやればいいの? そんなに研究費の額もないし、まあ、東南アジアぐらいならなんとかできるかなあ、という感じだった。その頃、京都大学に東南アジア研究センターというのができてて、いまは研究所になっていますが、ひと夏通って、東南アジア学の手ほどきを受けたんです。世界単位論の高谷好一先生にはそのころ教わったんですが、いまでも滋賀でつきあいがあります。随分色んな先生に刺激を受けました。中国、韓国、台湾については留学生も増えてきたし、彼らがやればいいと思っていたということもあります。実際、中国、韓国のことを考え出したのは留学生の研究をサポートするようになってからです。それと、アジア建築史をしゃべるようになってから、また、アジアの都城論を始めてからです。
ということで、中国については不勉強ですね。平壌にも一度行きましたが、韓国はかなり歩きました。その成果が『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』(布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、京都大学学術出版会、2010年)です。
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八束:歩いている量に関しては比較にならないな、及びもつかないどころか。僕は文献派だからね、基本的に(笑)。村松さんといえば、彼と話していて面白いなと思った違いがあって、僕が竹内好のことを出したら、彼は自分の(中国学の)関心は溝口雄三だというわけ。竹内は布野さんも関心あったと思うけど、要するに戦前的な意識、ある意味日本浪漫派みたいな部分を抱えながら、戦後の共産中国を日本の戦後近代化のアンチテーゼとして考えた人ですね。中国を介して日本をどう考えるかということだったと思うのですけれど、溝口さんは中国そのものを理解しようとした人ですね。
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布野:溝口雄三は全く読んでいない。竹内好については、近代文学(国民文学)論争に絡んで読んだ記憶はある。昨年、北京を歩いていて、たまたま、魯迅記念館があって入ったんだけど、読まなくちゃと思った。竹内好は随分魯迅について書いていますね。中国については専らアカデミックな論文を読んでるだけですが、一応『三国志』『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』は読んだかな。『紅楼夢』はまだだけど。
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八束:竹内は随分前の人ですけど、現在でも中国の孫歌(ソング)さんという東京外国語大学でも教えたりした女性研究者が彼の事を書いていて本も出ていますが6、アジアを語るには彼女は欠かせない人だと思う。僕らよりは若い人だけど、とても地に足が付いた議論をする人で、僕は結構ファンだったりする。
それはそれとして、アジアとモダニズムをめぐっては、3回くらい歴史的節目があると思います。一つは、アジア全体で言うと植民地化の影響。布野さんはイギリスの植民地の話を翻訳されていますが、僕はフランスの植民地に興味があって調べています。こっちはアフリカまで含まれていますが。要するに植民化、あるいは疑似植民化という形で進められた最初の近代化の評価という問題があります(欧化=近代化というのは日本と同じ)。それに対して、アジアの伝統文化とかヴァナキュラーが対置されます。多分、布野さんがアジアについて研究を始めたのも近代化に対するアンチテーゼ、言い換えると抵抗ないし超克の拠点として、アジアを意識するということがあったと思います。こっちが二つ目の節目ですね。さっきいった竹内の視点はこれと重なりますし、建築の伝統論争もそうですが、日本だけでなくて、世界中でそういう動きがあります。例えば、槇さんはハーヴァードの時、グラハム財団からお金をもらって2回ツァーをやるんです。あの時代のチームXとかメタボリストは、伝統的な日本も含むアジアやアフリカをやらないとCIAMを乗り越えられないと考えていた。
三番目は1990年前後くらいから始まったアジアの極端な近代化。トランスモダンというか。これは伝統もヴァナキュラーもふっとばすようなものでした。近代化へのアンチという前の方を見ていたら後ろから圧倒的なスケールで違う話が起こってきたという感じです。僕はその構図にすごく関心があります。それは基本的にはモダニズムどころかモダナイゼーションの話です。
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布野:植民地化という局面、モダニズムが移植される局面、モダナイゼーションが現実に進行する局面という3つということですね。植民地化というといわゆる世界システムが成立するモダニズムに先行する局面もあるように思いますが、植民地において近代建築運動なり、近代都市計画運動がどう展開されたかという局面がありますね。これが第1の局面で、モダニズムに対してヴァナキュラリズムが対置される局面が第2の局面ということでしょうか。そうだとすると、僕は第1の局面も、もう少しじっくり議論する必要があるような気がしています。
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八束:ええ、より古い植民地化のことまでカバーするのではなくて、モダニズムないし近代化とクロスするものとしての、いわば近代的な植民地化のことをいったつもりです。植民地化が同時に近代化であったケース。フランスの場合でいえばアルジェリアではなくモロッコとかヴェトナム。とくにモロッコだね。そこでやられたのは、建築様式からすると古いボーザールでも、都市計画の原理ではインフラと衛生と現地的なものとの対峙の仕方で、あとの二つはゾーニングとして現れるわけですが、これは紛れもないモダニズムの方法です。でもまず布野さんのアジアとの出会いを聞きたい。
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布野:まずアセアン諸国を回ったんですが、最初の段階では、マニラと北ルソン、ジャカルタとスマトラ、バンコクとチェンマイというように大都市の「スラム」と田舎の「村」をセットで見て回りました。それと都市計画や住宅政策に関わるお役人やインフォーマル・グループとして活動する建築家たちに会って回りました。まあ、情報収集ですね。インテンシブな調査のできるフィールドとカウンターパートを捜すのが目的でした。単に見て回るんじゃ観光ですから、相互理解に基づいて共同研究あるいは共同プロジェクトを展開しない限り信用されないという思いがありました。アジアへの文化侵略だとか随分シンポジウムなどで叩かれましたよ。実際、アジア研究にはお金がつきましたし、日本企業が東南アジアに出かけていく、その何がしかの役割を担わされているという自覚はありました。
戦前期まではアジアと言っても、朝鮮半島、台湾、中国までかも知れないですけれども、伊東忠太みたいな存在がいたわけです。あのころは洋行しないとプロフェッサーになれなかったんですが、忠太はユーラシア経由でヨーロッパに行くわけです。戦前期までは東洋建築史と日本建築史というのは同じといっていい。仏教建築と言ったら当然インドを知らないといけないし、日本の建築技術は中国から来ている。それが1945年でぷつっと切れていた。賠償問題も抱えていたし、今でも引きずっている慰安婦問題とかいろいろ問題抱えてた。アジアはネガティブ・タブーでした。僕が最初に歩き出した70年代末は、さっきいったように、韓国なんか、全然調査なんかする状況ではありませんでしたし、中国ももちろんです。研究費の規模で東南アジアをやることになったんです。インドは京大へ行ってからです。最初はとにかく認識のギャップを埋める必要があるという思いが大きかったんです。
状況が変わったのは、アジアからの留学生がうんと増えてからですね。彼らは自ら自らの国の歴史を調べだした。その辺で第2フェーズが始まって、今や日本人が中国に行って仕事するという時代になった。第3フェーズです。僕は今学生には、新築建築をやりたければインドへ行きなさいといってるんです。
アジアを歩き出したら面白いんです、それが第1ですね。「地域の生態系に基づく住居システムに関する研究」というのを1982年にまとめていますから、ヴァナキュラーな世界に大いなる関心を抱いていたことは間違いありません。もちろん、日本で展開してきたデザイン・サーヴェイの延長なんですけどね。それと、コア・ハウス・プロジェクトといいますが、水回りとスケルトンだけ供給して後は居住者の自力建設に委ねる住宅計画手法が面白かった。建築計画学というのは近代そのものですから、それを批判的に乗り越える手法に興味があったわけです。
一方、たまたま出会った建築家がジョハン・シラスという建築家で、ハウジングの世界では世界的に有名になるんですが、インドネシアのスラバヤを拠点としていたんです。そこで、宗主国であったオランダがやってきたことが当然テーマになる。植民都市研究をはじめたきっかけはそういう経緯です。アジアへ向かったら、アジア経由でヨーロッパに向き合わざるをえなかったということです。
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宇野:近代都市計画は、そもそもコロニアルな街つまり植民都市と同様に300年〜400年かけてつくりあげられてきた、普遍的なひとつの考え方なのではないかと思います。布野先生の翻訳された著書で言うと「植えつけられた都市」、カット・アンド・ペーストの世界なんですね。そういう関係がヨーロッパとアジアの間にあった。その上に、20世紀のモダニズムが移植されていく。一方、ヨーロッパでは、近代的なものを乗り越える為にヴァナキュラーなものへの関心が高まっていった。それがポストモダンの様々な動きを生んできたのでしょう。そうしているうちに、アジアがこの21世紀前後になると一気に台頭してきて、それが近代化現代化という現象でありコルビュジエが描いたものというのがわかりやすいかもしれませんけれど、極端な形で莫大な規模の建設が始まった。今は、これらがぐしゃぐしゃに混じり合いながら、世界が激しく動いているという状態です。
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八束:翻訳は出ていないけれども、“Anxious
Modernisms”7というアンソロジーがあるんですね。Anxiousというのは、この場合、落ち着かないというか、足下が揺れているみたいな意味なんだけど、戦後になってモダニズムがスミッソンやバケマらチームXとか、メタボリズムとか、北アフリカの動向とか、ルドフスキーとか、要するにコルビュジエらの次の世代になると、モダニズムが一挙に多様化して、単一の、機能主義みたいなコードではとらえられないくらい拡散するという話なんですけど、その媒介となっているのは殆どどのケースでもアジア、アフリカなんです。日本の伝統とかもそのうちに入るんだけれど、このアンソロジーに入っていて昔東大にいたチェリー・ウェンデルケンのメタボリズム論8は、皆さんびっくりするだろうけど、伝統建築の保存運動から入っている。カプセルとかメガストラクチャーなんかじゃなくて。このフェーズは、宇野さんが手際よくまとめられたように、ポストモダンと現在のグローバリズムの前に位置づけられる。更にその前に植民都市の問題があると思うのですけど。
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布野:僕らが翻訳したのは、ロバート・ホームの英国植民都市についての本9です。後でオランダ植民都市の本をまとめるんですが、植民都市研究を始めてすぐにホームの本をロンドンの本屋でみつけて、既にやられてる!って思って、これは翻訳して議論の土俵を作っておく必要があると思ったんです。ホームは後に京都に呼んで議論しました。布野研究室が結構色んなところをやってるのでびっくりしてました。イギリスの近代都市計画はそれこそ世界中に影響力をもつわけですが、その基礎に植民地経験があるということを実に多面的に解き明かしてるわけです。E.ハワードのガーデン・シティもウェイクフィールドの体系的な植民地技術の本10をその重要なソースにしています。アジアから見ると、ヨーロッパで書かれた近代建築史や近代都市計画史に書かれるのと全然違う名前がでてくる。インドのラッチェンスくらいは知っているかもしれないけれど、ハーバート・ベーカーなんていうのがいる。南アフリカ、プレトリアの大統領府を設計して、ニューデリーのインド総督府を設計している。都市計画というと、グリーンベルトで有名なアデレードは、コーネル・ライトだけど、その親父はフランシス・ライトでペナン島のジョージタウンの計画者です。東インド会社の商館員だったんだけどマレー人と結婚して生まれたのがウィリアム・ライト、混血ですね。
八束さんは近著のコルビュジエの本11でパトリック・ゲデスについて触れていますけど、インドに行って30都市くらい調査して処方箋書いています。僕らが都市組織と称してやる調査はゲデスの調査とよく似ています。「外科的療法」といって、その計画手法は、現代でも実に参考になると思っています。
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八束:ゲデスはスミッソンにも影響与えたんですね。日本だともっと前の今和次郎。この組み合わせは面白い。
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布野:インドネシアですとデルフト工科大学卒業(1911年)の同級生トマス・カールステンとマクレーン・ポントという二人の建築家がやってきます。いい建築残しています。カールステンは都市計画にシフトしていくんですけど、カンポン改善事業の先駆けのようなことをやっている。他にも沢山建築家がいるんですけど、どうもアムステルダム・スクールとか、ロッテルダム・スクールの連中がインドネシアで先に実験している。日本の近代建築もそうだけど、大連での実施作品の方が早い。ベルラーエもスラバヤに作品があります。
ところで、R.コールハースもバタヴィア生まれですよね。
o 6 孫歌『竹内好という問い』岩波書店2005
o 7 Sarah
Williams Goldhagen ed. “Anxious Modernisms:
Experimentation in Postwar Architectural Culture” : The
MIT Press 2001
o 8 Cherry
Wendelken “Putting Metabolism Back in Place”
o 9 布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成、ロバート・ホーム著:アジア都市建築研究会訳、Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial
cities、京都大学学術出版会、2001年7月
o 10 布野修司編:『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005年2月
o 11 『ル・コルビュジエ 生政治としてのユルバニスム』青土社、2014年
シンガポールとソウル―超高層のアジア
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八束:彼はまだ少年の時にヨーロッパに戻っていく体験のことを何処かで書いていますけど、いわば異邦人として帰ったんだね、意識の上では。あの人はもの凄く西欧的でもあるけど、何処にいっても収まりきらないようなところがある。オランダ的と言われるのを嫌がるし、実際結構地元ではバッシングを受けて来た。ヒーローでもあるけど、嫌われ者でもある。アンチ一杯居ますよ。
1990年前後からアジアが急激に成長していく時に焦点になったのがシンガポールですよね。宗主国は違うけれどもインドネシアからも近い。ということがあったせいかは分からないけど、そのシンガポールについて、僕のいうアジアと近代の関係の第3の節目、というかその発端を彼は書いて、僕が10+1の50号で翻訳したけど、このシンガポール論はめちゃくちゃ面白いんです12。ある意味では『錯乱のニューヨーク』13よりも面白い。彼のことだから、かつての国連調査団のレポートとか、かなり綿密に歴史なんかを調査して書いているんだけれど、やはりシンガポールが今の体制で行く踏ん切りを付けてからアジアの「超近代」を先駆していくところが彼の面目躍如で、ニューヨークじゃ錯乱といっても20世紀前半の資本主義的なそれでしかないけれども、シンガポール以降の、ある意味では開発独裁的なアジアでは、もっと極端な、レム風のいい方をすると「倒錯」的なものが出てくる。あれに出てくるシンガポールのウィリアム・リムという建築家は、レムはシンガポールのことなんて何もわかっていないと怒っていました。リムはものすごくオーソドックスなモダニストで、リ・クアンユー(李光耀)の独裁とは戦ってきたという意識があるけれど、レムはひねくれ(ポスト?)モダニストで、そういう意味での「政治」は括弧に入れてしまうし、人が嫌がるものを面白がるので―僕は必ずしもシニズムだけとは思わないのですが―、意見が合わないのはよく分かります。でもリムの建てた建築も、アジアで最初のメガストラクチャーとかいうことで、かなり重要視されているんですけどね。
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布野:ウィリアム・リムに会ったのはいつですか。僕も2回ぐらいあったかな。
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八束:2000年くらいに開催された、ワイマールのバウハウスでグローバリゼーションのシンポジウムの時に会いました。そのシンポジウムのメインスピーカーはフレディック・ジェイムソン14でした。シンポジウムが終わってフランクフルトに帰る電車の中でジェイムソンとリムとシンガポールの若い編集者の4人でずっと話していました。ジェイムソンはコミュニストだけどレムとも仲が良いのでその話をする。メインスピーチでもその話をしました。それで、リムは分かっていないと怒るわけです。開発独裁型モダニズムがグローバリズムと結びついているところが面白いみたいな話なんだからそれはイヤだろうね、リムからすると。しかし、レムは正しいことを書いたと僕は思っています。
シンガポールは今でもダウンタウンに行くとリデベロップメントオーソリティー再開発局という組織がでかい展示場を持っています。そこにシンガポール中の建物を全部模型にさせています。させているというのは確認申請の時に義務づけるらしいからですが。都市全体とかダウンタウンとかが各々のスケールで、トータルで立体模型化されている(上海にもありますが、多分あれは真似でしょう)。そこがコンサルもやっているんです。シンガポールからの資本投下も含めて中国の都市化のコンサルをやっています。エコシティとかね。そういうことのモデルの先頭を切っている。国をあげて都市開発業をやっているわけですね。あそこはご存知のように水がなくてマレーシアから引っ張って来ているんですけれど、最近ではいくつかの湾を堰で止めて淡水化しようとしたりもしている。有名なマーライオンが水を吐いている湾は今では湾じゃなくて淡水なんですよ。そういうのを他の湾でもやっている。山を削って埋め立ても当然やっているけど、ある意味島を完全に整形手術しているみたいな感じ。すべてがつくりものでね。嫌いな人は嫌いでしょうけど、僕は否定しきれないものを感じています。この湾の向こうのサフディ設計のマリーナ・ベイ・サンズは酷い建物だけどね(その後ろのガーデン・バイ・ザ・ベイはとてもいい)。でも、そういう建築レヴェルではともかく、都市レヴェルになると、コマーシャリズムといって否定しても寄せ付けないところがある。僕の研究室のゼミ旅行で行った時―僕は二度目でしたが―、またこの展示場に行ったら、同行した西沢大良さんが面白がってなかなか動かないということがありました。レムが書いたのは95年なので、まだそこまでいっていないのですが、確実に流れはありました。
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宇野:僕は布野さんに初めてアジアに連れてってもらったときに、クアラルンプールに行きました。もう30年数年前です。マレーシアはスルタンの治める礼儀の正しい国民性というか穏やかなところで、若い国だなという印象を受けました。いくつか巨大な建物や旗を立てるときの巨大なポールとか、巨大なものを好むお国柄も一方にあるのですが。当時はまだまだ新興国という感じでした。小さいディヴェロッパーがあって、郊外で住宅地をつくっていました。その住宅の方が当時の日本の家よりよっぽど大きくて、よっぽどモダンでした。30年以上前の話です。当時の日本では、アジアの事が話題になることはほとんどなくて、そういう現場に連れて行ってもらったおかげで、こういう若く元気な国の人たちが、きっと、建築も都市も僕らがつくってきたものよりいいものをつくるようになるかもしれない、そう思いました。その頃のクアラルンプールの人口は90万くらい。今は100数十万になりました。今では日本は落ち着いてしまいましたけれど、近代化によって都市が爆発的に発展する過程を経る、アジアにはそういった成長パターンみたいなものがあると思います。布野さんはアジアと日本と他の国々を行き来しながら、建築と都市を踏査してきたわけですが、この頃と今のアジアを比べて、アジアの都市の近代化についてどのように見ていますか。
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布野:僕がアジアを歩き出した1980年代から90年代にかけて状況はガラッと変わります。最初にシンガポールに行ったのは1979年ですけど、チャイナタウンはチャイナタウンの臭いが濃厚でした。活気があって猥雑で、屋台で鶏や豚をさばいて売っていた。ラッフルズのシンガポールの雰囲気が残っていると思いました。しかし、スラバヤのデパートにアイスリンクができたんでびっくりした。シンガポールがモデルですね。スラバヤにディヴェロッパーが成立するのが1980年代初頭です。シンガポール資本だったと思います。ショッピングセンターやディスコ、カラオケ・・・なんだか、どんどん日本というか東南アジアが全て同じように動き出したという感じでしょうか。
それまでは、大都市の居住問題、都市問題をどうするか、手の施しようがないから、自力でやる。ジャカルタの市長だったアリ・サドキンがオン・サイトの居住環境改善、KIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)といいますが、それを軌道に乗せて注目されたのが70年代です。スラバヤのジョハン・シラスもKIPでアガ・カーン賞を受賞するんです。僕はその頃からみてる。安上がりの援助ということでワールドバンクが注目してお金をつけだした。ハビタHABITAができるのが1976年で、同じ年にトンド地区でセルフ・ヘルプ・ハウジングの国際コンペをやった。これはもう同時代ですね。マニラには、ウイリアム・キースが率いる「フリーダム・トゥー・ビルド」FtoBというグループがありました。FtoBはJ.F.C.ターナーの本からとった名前です。
ところが、要するにGDPの問題ですが、先行したタイなどはコア・ハウス・プロジェクトなんか流行らなくなる。バンコクのアジア工科大学AITにC.アレグザンダーの共同者だったシュロモ・エンジェルというのがいた。ビルディング・トゥゲザーというNGOをつくって住宅供給を始めるんですが、ビルディング・トゥゲザーは建売業者のようになっていきます。
そうした中で、シンガポールだけは都市国家ということでかなり事情が違ってた。スラム対策も国家主導で高層アパートで行くという解答が当然の前提なんです。リトル・インディアとかリトル・アラブとか、チャイナタウンの保存修景に眼を向けるのは少し後のことです。マレーシアも少し事情が違ってた。第一密度が低い。サラワク、サバを入れて日本と同じ面積に1000万人住むだけです。クアラルンプールが当時100万人。マレーシアはシンガポールと別れたわけですから、対抗して低層でいくという感じでした。イギリスで勉強した若い建築家がテラスハウスのこぎれいなものをつくっていく。GDPレヴェルでマレーシアは上の方にあったんだと思います。宇野さんとはその前にフィリピンに行ったんだけど、全く違って、セルフビルド、セルフヘルプの世界だった。むしろ僕はそっちに新鮮みを感じたんですよね。シンガポールは、高層アパートの躯体は国有なので、別世界ですね。
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八束:高層というけれど、シンガポールのやや郊外の方にニュータウンとしてつくられた公団住宅みたいなのはそんなに高くはない。超高層はむしろもっと最近の民間の開発ですね、これにザハとかリベスキンドとかOMAとかが起用される。槇さんもやられていますね。そこそこ前だから、この手のものの走りみたいなのは、ポール・ルドルフがやって自分でも住んでいたのがあって、これはカプセルじゃないんだけど、デザインとしては大きなストラクチャーの中にユニットを多様な形ではめこんだメタボリズム風のデザインで、結構いいんです。ルドルフはヴェンチューリに追われた形で東南アジアに来るんだけれど、これが一番いいと思う。これに、さきほどのリムのゴールデンマイルの段状住宅が比べられる(このリムの隣にルドルフの別のオフィスとショッピングの複合建物があるけど、こっちは少し過剰なデザインで、やや気持ち悪い)。ゴールデンマイルは、さっきいったように、レムにいわせるとアジアで最初のメガストラクチャーなんだけれど、僕は、同じリムの建物でも、チャイナタウンにある奴の方が、槇さんのシティルームとかシティコリドールとかに近いと思います。それを単体の建築に取り込んでいる。ハーヴァードでの先輩後輩だし。槇さんにそうお話ししたら、いやいやそんなことはないでしょうとかいって逃げられましたが、あれは間違いないと思う。そういうコンテクストを含みながら、レムは、丹下さんとメタボリをこうしたアジアの超近代みたいなアーバニズムの先駆に位置づけるんですね。ただ彼の議論にはハウジングの話は、それ自体としてはあんまり出てこない。都市開発の一環としてということですね。建築的なレヴェルでの居住というより都市という感じかな。そのためかどうかは知らないけど、最近出来たインターレースという、OMA設計の磯崎さんの空中都市みたいな集合住宅は、かなりいいと思ったけれど、レムはやっていないらしい。でもルドルフからインターレースまで、シンガポールはメタボリズムを実践しているという感じはあります。
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布野:P.ルドルフは、ジャカルタでも、わが第二の故郷スラバヤにもオフィスビルを建てています。変わらないなあ、という印象でしたが、メンテが大変で暑くて借り手がいないというのもいっしょかなあ。コールハースのシンガポール論を知らないので、ピントがずれるかもしれませんが、アーバナイゼーションのレヴェルが違ってきたというのは実感です。以前は、大都市というとプライメイト・シティと呼ばれる地域やある国で断トツに人口規模の大きい都市の出現が問題だった。シンガポールは、規模も小さいし、強力な都市国家をビルドアップすることでコントロールしようとしてきた。インドネシア、タイ、フィリピンでは、とてもコントロールできない状況が出現した。すなわち、大ロンドン計画をモデルにして、衛星都市をつくって人口を抑制するといった計画手法じゃ間に合わない。ジャカルタの副都心クバヨラン・バルーやマニラのケソン・シティなんか一気に飲み込まれて一体化してしまった、さあどうしようという感じでした。
ところが1990年代末にかけて、都市圏がだらだら繋がっていく事態が出現してくる。EMR、エクステンディッド・メトロポリタン・リージョンといいますが、イメージとしてはシンガポール、ジョホールバル、クアラルンプール、バンコクが繋がっていく、あるいはハノイとホーチミンが繋がっていく、というような状況の出現です。経済のグローバリゼーションの引き起こすアーバナイゼーションの表現、現実形態だと思います。
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宇野:多様なアジアがあって、それぞれのモダニゼーションがあって、それぞれがダイバーシティをうみつつある。
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八束:『錯乱のアジア』ね。それが最初にすごいなと思ったのは韓国です。日韓W杯があった時に日本でやる試合のチケットがとれなくて韓国でやる試合のチケットをとって見に行ったんです。釜山が拠点だったのですが、飛行機の上から見るとすごい超高層がバカバカ建っていて、あれは一体なんだろうと思いました。時間に余裕がなくてその時は見られなかったのですが、その後ソウルでミースに関するシンポジウムがあり、キーノートスピーカーで呼ばれる機会がありました。その時に漢南にビル群を見に行って感動というかすごいと思ったんです。
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宇野:どういう所に感動したのですか。
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八束:ひたすらでかいところ。飛行機から群として見えるからね、巨大なドミノの連なりみたいで。その後ソウル大に行って、研究している所があるのか聞いてみると全くない。興味がなくて、あれは建築家の仕事ではなくてディヴェロッパーの仕事であると言われて驚きました。その時通訳してくれた学生は大阪生まれで完全にバイリンガルでした。その子になんかないかと思って色々聞いていると、ジェルゾーというフランス人女性の文化人類学者が書いた本15を紹介されました。フランスって戦後巨大な団地GRAND ENSEMBLEができたけれど、それに対して移民の問題も含めて反動があって、小さい方が良いという国情でした。基本的に今でも変わらない。ジャン・ヌーヴェルが超高層住宅を中心にパリの拡張計画の提案をすると顰蹙を買うところです。一方でソウルの人たちはあれに住みたがっている。これはなんだということで、ジェルゾーがそこに住んでいる主婦とか女子大生たちに聞いたらみんなとてもそれに対するプライドがある。ステータスなのね、そういうところに住むのが(今ではあまりに資産化が行き過ぎて居住用の建物という域を出しちゃっているようですが)。
だいたいソウルでモダニズム批判のためのヴァナキュラー研究をしたい人たちは昔の韓国の中庭のある住居を研究するのですが、それは韓国人の女性にとってみれば、寒くて電気もないところで炊事をやらされた、封建的な女性蔑視時代の遺品なんだそうです。それが超高層に入るとなんでもあって便利でいい。という話が書いてありました。簡単にあれはコマーシャリズムだとかいって総括できる話ではないなと思い、あちこちそういうものを見始めました。アジアではないですが、ロシアでも同じことが起こっていました。僕らの学校はモスクワの学校とエクスチェンジをやっていたので、一年置きにモスクワに入っていたのですけれども、資料が見たいんだけどといっても全く資料がない。建っているのに資料がない。韓国と同じですね。アーキテクトを養成する学校とディヴェロッパーには接点がないわけです。でも都市を造っているのは当然ながらディヴェであってアーキテクトではない。それに目をつぶるというのは都市を見ないのと同じです。布野さんみたいにきちんとした調査をしているわけではないので、印象論でしかないんだけれど、この辺は『X—knowledge』に連載していたエッセイを『ハイパーデンシティ-東京メタボリズム2』(INAX出版、2011年)という本にまとめて載せました。
先にいったジェルゾーが書いた本は、『輝く都市』っていうサブタイトルがついているのだけど、ソウルとかはイズムのない輝く都市だって彼女はいっているわけです。それをつくっているディヴェロッパーやあるいは設計事務所なんかはコルビュジエのコの字も知らない。だけどある種コルビュジエが描いたようなヴィジョンがもっとスケールアップしてある。韓国の建築家たちは、あれは要するにモダニズムを堕落させている姿だと全否定しているんだと思います。かつてだと僕自身もそう考えたかもしれない。それ違うなぁ、とレムはシンガポール論を書いたわけです。あれは一本とられたという感じでした。そのあとレムはハーヴァードで珠江デルタのリサーチをやって『大躍進』16という厚い本を出しました。彼本人はあまり書いていないで学生達に調査と分析をさせ、方法だけまとめているんだけれど、皆ものすごくジャーナリスティックな書き方です。僕の妻(松下希和)は当時のレムの学生で、もうひとつの「ガイド・トゥ・ショッピング」に参加していますが、彼女の話だと学生の中からも自分の国をこういう書き方するのは耐えられないと脱落したりもしたらしい。「大躍進」は数千万のオーダーで人を死なせた毛沢東の大失策ですから、タイトルからして、シンガポールでのリムどころではない反発を買いそうな本ですが、これまたそういう留保を含むとしても、面白いというか面白すぎる。面白すぎるにもほどがある、みたいな本。ある種超誇張されたパロディといえばそう。あれが正しい姿かといえば異論は百出するだろうというような本です。バイアスの塊というか。だけど、本当に正しい姿なんていうものがあるのかどうかということなんだろうと思うのですね。レムは作家としてもやっているけれど、作家じゃないそういうアーバニズムの方にも関心があるところは偉い。僕はさっきも言ったけれど、浅田彰がいうようなシニズムではなくて、むしろ彼なりの誠実さだとは思う。
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布野:韓国は全国中に高層アパートが建っています。どうしても僕の頭の中心にあるのはハウジングなんですが、戦後日本と比べると不思議な選択をしたなと感じます。日本の場合は、建築計画学が先導したわけですが、当初、全て高層アパートにするという方針を出したわけではない。せいぜいウォークアップできる5階建ての集合住宅で、しかも、それは最終解答ではなかった。すなわち、終の棲家ではなく、やがて郊外の一戸建ての持家に移るというのがストーリーだった。そのビルディングタイプを想定して、ダイニングキッチンという独特のスペースを生み出して、2DKという型を大量に建てていった。東南アジアを歩き出したときには、違う回答があるだろう、という期待があったわけです。自分でも同じ回答を出すのか、違う回答がありうるのか、それを課題と考えてきた。そういう観点で韓国を見ると、誰がどう決断したのか韓国の友人たちに聞いてみたことはありませんが、とにかく、国民の過半数は、少なくとも大都市の居住者の半数は高層アパートに居住するという決断があったんだと思います。とにかく、そういう選択をしたんですよ。
その段階ではコマーシャリズムというよりも、国家的な政策であって、あらゆる団地に防空壕がついているし、ひとつの団地はスパンが違って住戸タイプが全部違う。日本では絶対に出来なかったように思います。それと同じ2DKでもかなり違う。オンドルをどうするかとか日本の植民地時期の畳の部屋をどうするか、押し入れをどうするか、というものを考慮しながら、回答を出したのだと思います。『韓国近代都市景観の形成』のテーマです。
その伝統が大きくて、韓国の住宅建設は財閥企業が独占的に握ってしまった実態があります。地方に中高層の住宅をつくる建設業者や建築家がいない。全て国策でハウジングが行われている。コマーシャリズムというかグローバリゼーションの流れの中で投機的な思惑が住宅市場を動かすようになった。現在の韓国のアパートには相当空家がある。空家そのものが供給されてるんです。
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八束:日韓の違いはそういう方向に行った歴史的段階の違いでもあるでしょうね。日本はまず戦災復興と成長期における住宅供給というのが60年代半ば頃まであって、布野さんの言う計画学の先導時代ですが、韓国はそれをスキップして、というかその時点では出来なくて、次のステップで政府と財閥がある意味癒着した開発独裁の大事業としてあれをやっている。歴史って均等には進まないので、後進国はある段階をスキップすることがあり得るというかそういうアドヴァンテージがあるので(布野さんがいわれた、投機が加熱したあまりの空き家の増加みたいな負の要素も当然あるでしょうけど)、様相が違ってくる所が面白いと思う。僕は負の要素を見つけただけで喜んでしまって、これは見なくて良いと片付ける事はしないというのを主義にしているので。
o 12 レム・コールハース「新加被歌敵路—ポチョムキン・メトロポリスのポートレート あるいは三十年のタブラ・ラサ」
太田佳代子+八束はじめ訳 『10+1』No.50 2008
o 13 Delirious
New York: A Retroactive Manifesto of Manhattan (1978)。『錯乱のニューヨーク』、レム・コールハース(鈴木圭介訳)、ちくま学芸文 庫、1999
o 14 アメリカのマルクス主義の思想家、批評家 1934年生まれ
o 15 Valérie
Gelézeau “Séoul、ville géante,cités radieuses” CNRS Editions 2003
o 16 OMA-Harvard,Project on the City “Great Leap Forward” Taschen 2002
植民都市―歴史遺産とメタボリズム
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八束:歴史過程のことを出したので少し方角を変えるための質問なんだけど、旧植民の人たちは、そういう植民都市、要するに、外人によってつくられたある種の政治権力が入った空間に対して、どう評価をしているわけですか。あるいはそれに対して、研究者という第三者の立場からの布野さんたちはどう評価するのでしょうか。
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布野:色んなケースがありますね。日本にとって身近なのは韓国の朝鮮総督府17(旧国立博物館)の問題。それと、台湾総督府。
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八束:そのふたつでも違うじゃないですか。
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布野:2つについては何回か書いているんだけど、結論は、ステークホルダーの決定に委ねるべきだ、ということですね。
僕は朝鮮総督府は大傑作だと思うけれど、壊されざるを得なかったと思う18。ポリティカル・コレクトネス(政治的正当性)の問題です。日本が朝鮮半島を植民地化して、景福宮の真前に朝鮮総督府を建てた。柳宗悦(1889~1961年)19が「露骨過ぎる」と書いたように露骨過ぎたわけです。「日帝断脈説」20は当時も今も根強いと思います。柳とか今和次郎(1888~1973)21が、光化門の解体とともに総督府の敷地選定を批判する一文を残していることが、日本人としては救いでしょう。戦後50年を期して解体することが決まった時、朝鮮総督府を保存しろと声を上げた日本の建築史家がいますが、僕は正当性はなかったと思っています。
台湾総督府は大統領府として使われ続けていますが、それも台湾の人たちの選択でしょう。植民地化の歴史を共有する場でなければ、一方的に評価を押し付けることはできないと思います。
至る所で同じ問題に遭遇します。ジャカルタにコタっていう地区がある。オランダがバタヴィア城を建ててつくった市の中心です。オランダの研究者達は、そこを調べて、復元しろ、残せという。インドネシアの研究者建築家たちはついていかない。僕はインドネシアの研究者を支持した。要するに、基本的にはそこで住んでいる連中の判断であって、ただ傑作だから、ただ歴史的な遺産だから残せ、とは言えないというのが基本的スタンスです。
実際調査をしていくといろいろなことを経験します。調査というのは基本的に「スパイ活動」ですから、相互に共通の理解がないとなりたたない。調査に行って怒鳴られたり、警察沙汰になったりというのはそう多くはないけれど珍しくはない。異文化理解の困難性の認識がないと、評価を勝手にしあっても生産的じゃないと思う。
僕が一番付き合ったのは、スラバヤですけど、かなり言い合ってきています。外国人の意見が欲しい、通りやすいからということで何度かローカル紙に取り上げられたこともありますよ。あまりにも遺産をないがしろにするので、これだって遺産でしょ、植民地遺産だけど既に君たちの400年の歴史じゃないですか、といった議論はしてきました。しかし、最終的に決定するのは当事者たちですという態度です。
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八束:最終的に決定するのは当事者だというのはもちろん妥当な意見であるとは思います。僕は壊す決定を出せない保存というのは何処か論理として間違っていると思うし。ただ当事者というのが統一した主体として確定出来るのかどうかというのは問題を残すとは思うけど。たとえば、朝鮮と台湾の総督府の扱われ方の違いは、基本的には当事者の日本統治へのスタンスの違いと要約されるということになるんだろうけど、台湾にだって李登輝の親日論に異論を唱える人たちはもちろんいて、彼らは総督府建物の存在というか、文字通り現前には、快く思わないだろうし。しかもそういう歴史感情というのは、こういうと物議を醸すかもしれないけれど、後から作られるというところもありますよね。親日派も嫌日派も、当時を知っている人はもうごく少ないから、大部分は追体験でそう思っているところがあるわけだよね。植民地の遺産だけじゃなくて、ホブスボームというイギリスのコミュニスト歴史家は、多くの伝統は近代の発明だといっているくらいだし。
ただ総督府問題は個々の建築の話ですね。都市のことはどうなんでしょう。僕の最初の質問も建築ではなくて都市のことだったので話を戻させて下さい。植民都市のつくり方で僕がすごく印象的だったものがあります。一つはメタボリズム展で不十分ながら取り上げた大同の都市計画というもので、マスタープランは基本的に高山英華だと思うけれど、古い四角い、昔の城塞都市の周りを新しい線状都市が囲んでいるものです。要するに古いやつに手をつけないで、周りに新市街地を作ろうという典型的な植民都市の作り方なのです。例えばフランスの連中がモロッコとかでやった時もそうで、アルジェリアはもっと前にやったからみんな壊してしまうのだけど、モロッコくらいになると、ちゃんとそういうものは尊重しましょうということになります。それは日本でも割とあって、とくに後藤新平時代の台湾なんかだと旧観調査みたいなものから始まって、基本的には尊重しましょうというものだったはずです。
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布野:植民都市が既存の都市に手をつけないのは、例えばイギリスがインドにやって来たときにカントンメント(兵営都市)をつくるわけですけど、それは既存の都市からは離してつくった。伝染病が怖かったということもあるし、直接支配しようとすると噛まれる、すなわち戦いになるわけです。混住ということになると警備にエネルギーがかかる。基本的にはインダイレクトルール、間接統治をやるのがむしろ一般的です。要するに在地のボス(実力者)に統治を委ねるのが、効率がいいわけです。大同は、北魏の平城が置かれた都市です。平城京のモデルとなったといわれる都市で、その後もいくつかの王朝の拠点になります。今でも市街に城壁が残っています。それに手をつけなかったのはある意味いい判断だったんじゃないですか。しかし、ソウルでは「露骨」だった。
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八束:フランスの植民地統治策だと連合と同化があるわけだけれど、アルジェは同化策でモロッコは連合策。総督府の立地のさせ方で象徴するとしたら、朝鮮は同化で、台湾は連合だったといえなくもないですね。僕はイギリスの方は詳しくないのでまた質問ですが、『生政治としてのユルバニスム』でも書いたけれども、イギリスがインドとヨーロッパを繋げてしまったので、それを逆流する形でヨーロッパではとっくになくなっていたはずのコレラが猖獗を極めるということがありました。ヨーロッパ都市のゾーニングはそこから発生したという話があるんだけれども、インドでの新旧の分離って最初からなんですか、それとも、こういう経験を経てのことなの?
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布野:デリーとニューデリーの関係がそうでしょう。それ以前にデリーにもカントンメントをオールドデリーの北東につくっています。ラホール(パキスタン)もそうだし、ラクナウもそうだし、みんなそうですよ。カントンメントの設営計画は工兵学校で教えている。本格的都市ということだと、ニューデリーでしょうね。カルカッタ、マドラス、ボンベイは港市都市で、もとは漁村といっていいからなあ。
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八束:漁村がメガロポリスになるのはまた別のタイプですね。中国だと深圳なんかもそうだし。もっとも港湾都市では、カサブランカとかは全然違う。ある意味アルジェもそうね。これらはムスリムの都市が出来てからフランスが入ってきているので、植民都市としての体裁はとても強いです。アルジェは港の近くの古い街区は随分壊してしまった。その反省でモロッコではずっと慎重に計画をしています。一方大同とそっくりだなと思ったのが、蘇州ってありますよね。長江デルタにある都市で、そして一般的には運河と庭園の街です。必ずガイドブックにでてきます。僕らは、大学で夏にゼミ旅行っていうのをやるのですが、だいたいアジアとかに行きます。その時は上海に行って一日くらい外に行こうかということで、蘇州に行きました。基本的にはそれしか見る時間はなかったのだけど、事前に調べたら蘇州って人口が600万人いるのですよ。だけど庭園っていうけどフランス式庭園みたいじゃなくて、プライベートな庭園っていうか小さいものです。庭園とか運河だって、ベルサイユみたいじゃ全然ない。600万人っていうことと、全然イメージがあわない。現地にいっても最初は全然イメージが沸きませんでした。これ2万人くらいしかいないのではないか、600万人はどこにいるのかと思ったら、古い建物なのですけれど、五重の塔じゃなくて、もう少し大きい九重の塔くらいだったかな、そういうのがあって、その上に登ったら、地平線のところにマンハッタンみたいなものが出てきたんですよ。蜃気楼みたいだったね。びっくりした。駅から10キロ位離れていて、もう出来たと思うけど、当時は地下鉄もなかった。中国の場合は都市域が日本の場合と全然違う広さがあって、中国で一番大きいのは重慶ですけど、都市域が北海道くらいあるのですね。だから3500万人いても関東と一緒みたいなところです。蘇州はそこまでは大きくないけれど、あちこちに拠点があって全部あわせて600万人であって、その地平線上にでてきたのは、600万人はさすがにいなくて、100万とか150万くらいでしょうけど。600万というと日本でいうと東京以外ないですから。
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布野:中国の統計は、みんな周辺をいれる。
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八束:そうだね。今の世界の主流は都市より都市圏で規模をいう(丹下さんなんか昔に既にそうすべきだと言っていたけどね)。比べるとしたら大阪市の人口ではなくて大阪大都市圏でしょうね、それなら600万より大きい。都市の概念が行政の括りとしても違うんでしょうね。ただ、今はそれが言いたいわけではなくて、古いやつの周りに囲んだという意味では大同の作り方と全く同じことをやっている、というのは面白くないかっていうことだけど、共産中国の都市と植民都市が同じだっていうのが。
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布野:それは江沢民の方針がそうだった。中国の場合、保存といっても、外形(書割)保存が基本とされていて、オーセンティシティの考え方が違っていますね。
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八束:成る程ね、ただ、江沢民の方針を中国の今の非常に急速な近代化が全部それを守っているかというとそれはそれで非常に疑わしい。一昨年、布野さんと会った北京の時なのだけれど、北京にもいわゆるスラムがありますよね? 社会主義国ではそういうものはない建前なのでスラムとは言わないのですけど。あれをいくつか見に行ったのです。
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布野:「城中村」ですか。
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八束:「城中村」は新しいやつをいうのじゃないの? もう少し前からあるやつです。胡同みたいに歴史的遺構っていうほどの代物でもないけれどもそんなに新しくもない。あれが都心部にも虫食い状態にあって、その隣にドカンと富裕層のための超高層が建っています。まあ上海とかと比べると北京はあんまり超高層の住宅はないのですけど。こういうスラムはどうなるのですかと聞いたら、ある日突然御布令がでて壊されると。明日壊すからお前達出て行けというらしい。つまりそこに住んでいる人たちは地主ではないわけです。地主っていうのは何人かいて(中国には私有地というのはないはずなんだけど、地主って言っていたな。国から正式に借りた人たちということですかね、不在地主でしょうが)、それが同意すればいい。住んでいる連中が抗議すると、あっという間に追い出されるわけです。当然上の方でその決定をしているのは党だとは思うのですけれども。ヴァナキュラーがそういう風な消え方をする、というのはすごいなと思いました。それは僕もさすがに肯定的には言えないです。でもそういう近代とスラムを含めたヴァナキュラーとの対峙の仕方というのは、実は色々なところで見ると色々なパターンがあります。一筋ではない。
僕が『ハイパーデンシティ』っていう本で書いて、一番面白いなと思ったのはベネズエラでヴィジャヌエヴァっていう、若い人はみんな知らないと思うけど、フランスで修行してかなり若いときに国に帰った建築家がいますが、南米だとブラジルのニーマイヤー、ベネズエラでヴィジャヌエヴァって感じの人です。彼は当時の軍事独裁をやっていた連中と仲良くなって、ドカンとメガストラクチャーみたいな、ユニテをもっと大きくしたような、近代的集合住宅を一杯建てるんです。ところがチャベス政権下ではその周りでコケがびっちりと張り付くようにスラムができていきます。そうすると、ヴィジャヌエヴァのアパートからは当然出て行く人たちがいるので、これは近代出現に対するヴァナキュラーの抵抗の構図と見えるわけです。実際チャベスはメガストラクチャーの不法占拠を容認するというかむしろ奨励したりするわけだから。ところが、その両方の住民というのは(当然残った人たちという事ですけど)、階層が違いながらも結構うまくやっているという話もある。ヴィジャヌエヴァのアパートに住んでいたのは大学の教員とかインテリが多くて、この人たちは周りがスラム化して不法占拠が起きてきても必ずしも出て行かないで結構共生しているらしいんですね。僕がつき合っていたディター・アンド・ウェバーっていうウィーンから来てヴァンクーバーに住んでいるアーティスト・ユニットがいます。彼らはメタボリズムも含めてモダニズムにも関心がある人ですけど、これをヴァナキュラーと二項対立にもちこまないの。もちこむのは『スラムの惑星』22を書いたラジカル・レフトの社会学者のマイク・デーヴィスですけど、ディター・アンド・ウェバーは違う(これは僕の勝手な解釈じゃなくて、本人達にメールで確かめた)。彼らの本というか作品集は、さっきいったカラカスの連中の両方のインタビューとかも載せています。他にも例えばミースのシカゴのイリノイ工科大学のキャンパスですが、あれは元々黒人街の真ん中にできるわけで、ローカルな黒人コミュニティにとって文化的にも非常に大事な場所だったらしいのです。キャンパスの建設はそいつを追い出してやっているのだけど、それも単純に近代化がヴァナキュラーを破壊したという言い方を彼らはしなくて、その相互作用というのはどうであったかをドキュメンタリーでフォローしている。それをアートにしているんだけれど、これは見方として新しいなと思いました。こういう構図っていうのはこれからも多分色々な形がでてくると思います、近代かヴァナキュラーかという二項対立ではなくて。だから単純にヴァナキュラーの肩を持つとか、メタボリズムも含めたモダニズムの断罪をするとかという話ではその事態に対応できないだろうという気がしています。
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布野:メタボリズムというのは、発展途上地域では大変人気がある。僕のメタボリズム批判は『戦後建築論ノート』(1981)に委ねますが、新陳代謝を繰り返す都市の現状をぴったり説明するし、その理論は有効に思える。すなわち、変わるものと変わらないもの、要するにメイジャー・ストラクチャーとマイナー・ストラクチャーに分けて全体をシステム化するのはひとつの方法論だと思います。そこで問題は、新陳代謝の動因が何かということですよね。
北京の場合、国家権力そのものですね。土地を所有しているのは基本的に国家だから、強制排除ということもやる。北京オリンピックのための開発整備で随分胡同が潰されたんですよね。住宅については2000年に持家政策が始まったけど、北京は居住制限をかけてるから、その制限をめぐっていろいろの動きがある。「大雑院」化とか「城中村」はちょっと外部には容易に理解できない。
ベネズエラのケースは、多分八束さんの言うようなことはあるんだと思う。カラカスに行ったことがあります。大学都市にも行きましたよ。千葉大学の安藤正雄先生のところへ留学していたノアインさんがプロフェッサーになって帰っていて、オランダ植民都市研究でキュラソーに行った帰りに寄ったんです。ヴィジャヌエヴァの作品群はコルビュジエもどきと思ったけど、今や世界文化遺産なんですよね。オランダ領のキュラソーはベネズエラの沖合い70キロぐらいの距離なんです。
しかし、グローバリゼーション、世界資本主義は差異化が原動力だから、現実に露呈するのは格差、差別の体系です。セグリゲーションの体系が形成されている。ノアインさんの家に泊めてもらったけど、高台の凄い邸宅で、眼下の斜面にファベーラが張りついている。ファベーラはすごい。すごい格差社会ですね。少し前だけど大雨で土砂崩れが起きて大変な被害が出た。
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八束:カラカスは結構高低差あるみたいだからね。“Informal
City:Caracas Case”という、基本的にドイツの連中がやった調査があります23。日本からも遠藤秀平さんとかが参加している。何故かヴィジャヌエヴァのとは別のところをやっていますけど。
僕が見たスラムで凄いと思ったのはペルーのリマのスラムで、僕は同行した友人達がアルキテクトニカの設計した保険会社の本社を見たいというので一緒に行った時に、都心部とその建物のある郊外住宅地の間に広大なスラムがあった。完全にフラットなのでまぁ端が見えないくらい大きい。水や電気も多分500メートルとか1キロ置きくらいにしかない。病院とか学校だってありそうじゃない。そこを過ぎると例の保険会社があったんだけど、水のないリマで、中庭にカスケードがそれこそ湯水のようにふんだんに水を流している。ところが屋上に上がると機関銃を持った警備員というか傭兵みたいな人がいるのね、スラムから襲われるかもしれないというわけ。あれほど格差の空間的表現を見せつけられた事はない。保険会社つまり金融資本の建物だというのも象徴的だったし。
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布野:メタボリズムという場合、あらゆる地域でグローバリゼーションが動因力になります。それは差異化のメカニズムに他ならない、というのが基本的な認識です。ヴァナキュラーな世界は、解体されていかざるを得ない。しかし、全てが無差異化されることはありえない。その場合、グローバリゼーションすなわち世界資本主義が破綻してしまう。単純ですが、基本的原理だと思っています。
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八束:グローバリズムが世界を均質化するというのは、宇野さんのお師匠さんの原さんのテーゼですよね。でも今の布野さんの認識だと、無差異化するとグローバリゼーション自体が破綻するという。要するにグローバリゼーションが南北の格差を位置エネルギーみたいにしているということでしょうけど、差異というのが、格差を意味する場合と―布野さんが言われたのはこの辺だろうし―元々地域や階層、共同体に備わっていたアイデンティティの違いみたいなもの―原さんのいうのはこっちでしょう―と両方意味し得ると思うのですが。普通だと前者は解消すべき差異で、後者は守るべき差異だということになる。この二つは、けれども実際には区別しにくいこともあるわけですね。たとえば、今話が出たファベーラ、要するにスラムですが、これは基本的には前者の差異ですね。けれども、先ほど話した北アフリカでのCIAMの分派なんかは、あの辺ではビドンヴィルBIDONVILLEというのですけれど、それを社会学のひとたちを含めたチームで調査をしたわけです。植民地都市の専門であるゼイネップ・セリクという、僕も一緒に仕事をした事のある研究者は、それを「ビドンヴィルに学べ」というテクストにした。ヴェンチューリの現代アメリカのコマーシャル・ヴァナキュラー研究に重ねたわけですね。スミッソン夫妻なんかもロンドンのイーストエンドの調査から「都市再定義グリッド」なんかをつくってCIAMに提出している。これらでは、明らかに格差、植民地支配の負の産物であるスラムはモダニズムへのオルタナティブとしても考えられている。でも過度にそれをロマンティックな対象に仕立て上げてしまうのも如何なものかという事は当然あるでしょう。昔の映画『スージー・ウォンの世界』みたいにエキゾティシズムというかサイードいうところのオリエンタリズムの変形になりかねないしね。
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布野:ファベーラはスラムとは言わない、ビドンヴィルもスラムではない、カンポンはカンポンだとジョハン・シラスは力説する。カンポンkampungというのは、カタカナのムラという感じかな。カンポンガンというとイナカモンということで、都市なのにムラという。英語ではアーバン・ヴィレッジかな。とにかくスラムと言うな、という。僕も「ラーニング・フロム・カンポン」といってきた。C.ギアツの「貧困の共有Shared Poverty」「インヴォリューション」というのもキーワードで、地域主義とかヴァナキュラリズムというレヴェルではなく、システムの次元でグローバリゼーションに対抗することを考え続けてるんだけどね。
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八束:その議論は面白そうですね。拝聴してみたいものです。ただその二つのレヴェルというか次元はクリアに分けられるのでしょうか? スラムと呼ぶなというのは、スラムはひたすらネガティブなものだけど、他のインフォーマル・セトルメントはそうではない、固有の構造を抱えているのだからということですかね?
グローバリズムとヴァナキュラーの関係で僕が鮮明に覚えている一枚の画像があります。それは4、5年前にケネス・フランプトンが東京でやったレクチャーで見せたものですが、ドバイの超高層が建ち並ぶ手前にラクダと昔ながらのいでたちのアラブ人がたたずんでいるというショットなんです。フランプトンは批判的地域主義の主唱者だから、当然ドバイの超高層なんかイヤなわけですから、それはグローバリズムが、固有の地域性を圧倒しようとしているシーンとして見せたのだと思うけれど、僕はドバイに行った事ないので断言は憚るけれども、今時アラビヤンナイトかアラビアのロレンスみたいな格好をした現地の人なんて観光用以外にいるのと思ったのですね。まぁ、さっき、僕にはいささか意外な事に、布野さんは解体されていかざるを得ないといわれたけれど、ドバイではもう解体されているのではないか。そもそもドバイの人口の85%は外国人ですしね。UAEの人たちの大部分は国際金融資本の上に乗った生活を謳歌しているのじゃない? ラクダじゃなくて高級車に乗って。それだったらアラビアのロレンスの時代には戻らないよね。もちろんグローバリズムが格差を減らしたはずはなくて、ドバイも色々な出稼ぎ労働者がそれを支えているわけだし(OMAのドバイのレポートには巻末に韓国人を中心とする建築労働者の仮設住居の事が取り上げられていて、あれはレムというより担当のトッド・リースという若い凄く優秀な人の発想だったらしいけど)、確か第一次湾岸戦争(イラクのクェート侵略)のフセイン側の口実のひとつは、西欧の都合、とくにオイル利権で人為的に設定された国境の向こうでクェート人はいい思いをしているけれども、出稼ぎのイラク人はこき使われている、みたいなのがあったしね。
ちょっと話が走りすぎたけれども、ヴァナキュラーないし地域主義に話を戻すと、僕は、フランプトンには昔よくしてもらったことがあって、まぁ親しいのだけれども、「批判的」というだけで何かポジティブなものが出来るのかどうかにはとても懐疑的なんです。スペインの出版社から世界建築の見取り図みたいな企画で出た本で僕が日本を取り上げながらこの辺を書いたら24、フランプトンから面白そうだから議論しないかというメールをもらって、いいですよ、でもどういう観点で?と返事を出したらそのままになってしまった。さっき『スラムの惑星』の著者として言及したマイク・デーヴィスは、スラムの対極にあるゲーティッド・コミュニティ都市みたいなものを取り上げたアンソロジー(デーヴィス本人は当のドバイについて書いている)を『邪悪なパラダイス』と題したんですね25。僕もドバイの超高層群は形態的にもモラル的にもグロテスクだとは思うけれども、それで背を向けて小さいのをやればいいとは思わないので、我慢して目を背けないようにしようと。
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布野:単純な原理といったのは、グローバリゼーションすなわち世界資本主義というのは差異化のシステムだから、差異が無差異化すればシステムは停止する、死んでしまうということ。全て同時に均質化するということはありえないから、既に、どこかで、多分アフリカで、破綻現象が起きている。地球環境の問題、エネルギー問題、食糧問題、資源問題・・・すべてひとつのシステムに包摂していくのがグローバリゼーション、それとは違うシステムがいかに可能か、というのが今日問われている。一般的に地域循環系とか、エコサイクル・システムとか言って模索されている方向、世界単位論もそういう方向に関わると思っている。
ドバイにはイエメンへの行き帰りに寄ったよ。2008年、リーマンショックの直前。ビール1缶が10ドル、昼飯スープだけで1万円のホテルにも行ってみた。冷房の効いたビルとビルを車で移動する町、空き家だらけ、ロシアのバブル長者が買占め、労働者はパキスタンが多かったかな。完全に2重の都市。伝統的な漁村もあるんだけどね。リーマンショックで空港にはロールスロイスが何台も置き去りにされたらしい。海を埋め立てればいくらでも土地が作れるけど、アッという間に泡になる、蜃気楼のような都市だと思った。
o 17 1926年竣工。ドイツ人建築家デ・ラランデ(1872~1914)、そして野村一郎(1868~1942)、國枝博(1879~1943)らによって設計された。
o 18 前年、爆破解体する、という報道がなされ、日韓でその帰趨が注目されていたが、さすがに爆破されることはなかったが、「植民地時代の負の遺産」として、1995年、植民地解放50周年を期して解体された。
o 19 東京帝国大学在学中に白樺派に参加。日本民芸館設立(1936)。雑誌『改造』に『失はれんとする一朝鮮建築のために』を寄稿、これが多大な反響を呼び、光化門は移築保存された。『朝鮮とその藝術』『朝鮮の美術』『今も続く朝鮮の工藝』などがある。
o 20 李氏朝鮮の首都ソウルの中心に置かれた景福宮の前面を塞ぎ、風水説に基づく設計原理による軸線上に位置する。日本帝国主義が、大韓民国の命脈を断つために、風水上の要地(脈)に杭を打ち込むがごとくに建設したと考えられていた。これを「日帝(日本帝国主義)断脈説」という。
o 21 東京美術学校図案科卒業。早稲田大学建築学科で教鞭をとる。民家研究団体「白茅会」(1917)参加。朝鮮半島で民族調査に従事(1922)。関東大震災後「バラック装飾社」設立。朝鮮総督府については、「総督府庁舎は露骨すぎる」(『朝鮮と建築』1923年6月)と書いた。
o 22 マイク・デーヴィス『スラムの惑星』酒井隆史 ほか訳 明石書店2010
o 23 Alfred
Brillembourg ed.“Informal City:Caracas Case” Prestel Pub 2005
o 24 Hajime
Yatsuka “The Dilemma of the<WELTARCHITEKTUR Japan,Macrostructures and Micropolitics” ” in Luis
Fernandez-Galiano ed. <Atlas Global Architecture circa 2000>Fundacion
BBVA 2007
o 25 Mike
Davis ed. “Evil Paradises: Dreamworlds of Neoliberalism” New Pr 2008
縮退する日本と東京一極集中
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宇野:日本は人口が減っていきます、そして、世界人口は増えていく、特にアジアが増えていきます。日本もアジアなのだから人口が増えていくアジアとある種のシンクロナイズすることが大切なのではないか、というように八束さんは言っているように聞こえるのですが、そういうことなのでしょうか。ヴァナキュラー対モダニゼーションというプレッシャーがあちこちに色々なレヴェルで起きて、それである種の「まだら」模様になっていくのではないかというような印象を僕はもっているのですが。
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八束:そういうことですね、まさに。まだらというのはいい形容だと思います。
数年前に法政で未来派100年というシンポジウムがありました。フィレンツェの大学の未来派の研究者たちを呼んで、ただ昔の話だけをしていてもしょうがないから現代の話をしようということで僕も呼ばれました。未来派の研究者たちの話は全く面白くなかった。かつての破壊的なアバンギャルドがこんなにアカデミックな博物館的な研究の対象になってしまうのかというくらいつまらなかったのだけど、それもあって僕は先ほどの蘇州の話をプレゼンしました。蘇州というのは歴史的にいうと逆だと思うけど、中国のヴェニスとか言われているわけです。蘇州の塔の上から撮った写真の地平線上にあるマンハッタンを全部マスキングしてみて、こう見えた、つまり中国のヴェニスは2万の都市みたいなのですけど実際はこう(マンハッタン)でしたと示しました。その次にベネチアを見せて、でもベネチアの水平線上にはマンハッタンがくることは絶対にないでしょうと。未来派はそういうヴィジョンをやったけれど、あなた方にはヨーロッパにはそういったエネルギーはもはやないでしょうという、そこまでは露骨に言わなかったけれども、そういうようなことをいいました。反応はなかったけれどね。なぜ僕はヨーロッパに興味がなくなったかというと、そういうエネルギーをなくしているからです。日本はどうかというと、やっぱりなくしていると思うのだけど、それがすごく嫌で、僕は今や前期高齢者になっちゃったんだけど、このまま精神的な老人ホームに入る気はない、と思って歯を食いしばっているの。大野秀敏さんがファイバーシティをやるけど、あれは老人ホームシティ都市にしか僕はみえないのです。歩行距離の都市とか、そんなの退屈じゃない? 僕は犬を飼い始めたので毎朝夕散歩していますけどね、それだけじゃね。
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宇野:僕もそう思います。縮小するとか縮退するとか、そうした都市観はやめてほしいなと思います。成長拡大期をリバースするだけの想像力構想力では、この新たなフロンティアを切り開き開拓していくことはできないと思うからです。
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八束:日本のとくに若い建築家や学生さんの大部分には、あなた方は精神まで縮退していないかと問いたいんですね。妻も東京電機大で教えているので、そういう話を二人で良くするんですけど、皆路地とか木密とかばっかり、スミッソン達の半世紀前の仕事も知らないで、その気の抜けた三番煎じをしているだけ。その辺のおばあさんとコミュニケーションを図る建築とかいうんだけど、本当におばあさんと話したりしているの、君達は、おばあさんなんか見もしないでスマホにかじりついているんじゃないのかと問うてみたい。
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布野:僕も似たような経験をしたことがあります。八束さんとは向いているヴェクトルが違うんですけどね。2002年の12月だったと思います。オランダのライデン大学で開かれた「アジアのメガ・アーバニゼーション-都市変化の指揮者(ディレクター)」と題された国際シンポジウムに招かれて出掛けたんです。凍えそうに寒かったんでよく覚えてる。ライデンの運河は実際凍ってました。インドネシアの都市研究で知り合った人類学教室のP.ナスが、アジアの大都市をとりあげて、その変化を主導している指揮者は誰かをめぐって、比較のために東京について報告して欲しい、ということでした。ジャカルタにとってのスハルト・ファミリー、クアラルンプールのマハティールといった、強大な権力を握って都市の行方に影響力をもった特定の個人が想定されてるんですが、大都市をひとりの指揮者が変化させるというのはピンと来ない。しかし、あるヴィジョンとそれを支える制度が都市の方向を決めるということはある。少し考えて、「未完の東京プロジェクト-破局か再生か-」と題した報告をしたんです。本になったときには、「東京:投企屋と建設業者の楽園」26というタイトルになった。内容の通りです。コメンテーターほかの反応は面白い、という。アムステルダムなんか死んでしまった都市でつまらない、という雰囲気でした。
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八束:オランダはそうなんですね、OMA以来。僕も7、8年前にアムスに呼ばれて講演をしたのですけれど、その時のテーマが“Bigness”で、レムのテクストのタイトルそのままだなと思ったら現地に行ったら“Size
does matter”という、また何と言うべきかみたいなタイトルに変わっていました。オランダなんて国土や経済の規模も九州くらいでしょう? 全人口足しても上海の常住人口に敵わない。なのに“Size does matter”だから笑っちゃうんだけど、僕はそれで何を話したかというと「ゴジラversusメタボリスト」っていうの。ゴジラは向こうでも有名だから面白がってくれました。アムステルダムの都市計画課の人たちとかも来ていたんだけれども、彼らはどう思ったのかな? 実はOMAは結構向こうでは苛められているし、アムステルダムではあんまり仕事出来ないしね。当然皆が皆“Size does matter”でアムスは詰まらないと思っているわけではない。じゃないと、あっという間に乱開発でしょう(僕は乱開発礼賛をやっているわけではないので、念のため)。でもそのライデンのシンポでは森ビルの人達を呼んだら良かった。楽園の指導者、というか牽引者として。彼らのリサーチがあるんだけど、かなり面白いです。香港と東京の超高層居住へのイメージの違いの調査だとか。超高層ばかりやっているディヴェロッパーの結論ありきの調査だろうなんていうことで片付けちゃ行けないと思う。
それはそれとして、宇野さんの問題提起ですが、日本は人口が減っていくけど世界は増えている。当分は増えつづけるでしょう。環境問題にも関わらず、しばらくは止まらない。止めようとしたら南北格差を固定するしかないけど、途上国にお前の所はもう地球自体が養えないから増やすなとはいえない。減る方も減る方でそんなにピースフルなソフトランディングなんか出来ると思えない。路地と木密でしみじみとやろうとしても、オールウェズ夕陽(あれは感傷的なフィクションでしかないけど)のスタンダードにも戻れないでしょう。僕はこの辺の均衡問題は本当に議論しなくてはならない緊詰の課題と思う。感傷に浸っている場合ではない。
ということで、僕は、日本は移民を受け入れるしかないと思うんです、それが短絡であり突っ込みどころ満載であることは百も承知な上で。昔NHKで「沸騰するアジアの都市」かな、あれでやっていてこれすごいなと思ったのが、リーシェンロン(李顯龍)、リークワンユーの息子で今のシンガポールの首相ですが、彼のインタビューの中の季節労働者の話でした。当時シンガポールはちょっと景気が悪くなっていてそういう連中を外に出そうとしていたんだけれど、リーシェンロンが、あれはシンガポール社会にとってはバッファーゾーンだと言っていました。要するに景気が悪くなれば切り捨てていい、そういう連中だということを平然と言ったわけです。あれ日本の政治家が言ったらあっという間にクビだと思うし、僕もちょっとびっくりしたけれど、冷静に思ったら、善し悪しはともかく、グローバリゼーションの中であり得ない話でないなとは思いました。日本の移民率1.3%とかで、アメリカはその10倍くらい13%とかいます。だからアメリカとかヨーロッパのように多い所並に日本に移民をいれたら1000万人くらい簡単に増えてしまいます。もっと増やしてもいいと僕は思う。色々な社会的な軋轢はあるだろうけど、そういうふうにしても社会の活力を保存しなければならないのです。これからの高齢化社会は日本人だけでは支えきれない。少なくても僕や布野さんみたいな団塊の世代や、多分そのジュニア世代が死に絶えるまではね。それを移民の人たちに支えてもらおうというのは真に虫のいい話なんだけど、彼らは故国では提供されない経済的な条件に惹かれてくるのだろうから、そこはギブ・アンド・テークになる。増大する途上国の余剰人口に対して、うちにくると搾取されるから来ないほうがいい、国内にいろというのは左翼的な偽善でしかないと思う。尊王攘夷を引っくり返しただけ。つまり今日本は剣が峰にいて、ヨーロッパみたいに縮退する方にいくのか、色々問題があるにせよ中国やシンガポールのような方に舵をとるのか、っていう岐路に立っているという気が僕はします。そっちの方にイケイケどんどんやるのはだいたいコマーシャルだと思われるから、みんな知的な人は嫌なわけです。だけど僕はそっちの方にいった方が精神衛生上悪くないと一人で思っています。
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宇野:布野さんは八束さんの意見についてはどうお考えですか。
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布野:国際的労働力移動の問題ですね。日本の社会が国際化していかないといけないということははっきりしていると思います。しかし、日本の社会がそれに耐えうるかどうかかなり疑問ですね。日本の出入国管理はかなり自分勝手にコントロールをしている。バブル期の建設労働者問題、農村の花嫁問題、最近の介護士の問題、巧妙といえば巧妙。研修という建前で、出し入れしている。今も、建設労働者が足りないというんでヴェトナムでトレーニングして、復興需要に応えようとしている。内閣は動いていますよね。ヴェトナム建設業界がその気になっていますね。出入国管理の問題はどこの国でもそうだといえばそうかもしれないけれど、社会を開く基本的なルールと成熟が必要だと思う。移民問題を抱えてきたヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国はそのものが移民社会ですが、その経験を学ぶ必要がある。グローバル企業は外へ出て行って稼いで、国内のサーヴィス産業は外国人に委ねるというやりかたはアウトだと思いますね。排外主義、差別主義を助長することになる。TPPの問題など、農業など第一次産業もグローバリゼーションの渦中にあるわけで、建設産業もそうだと思いますが、地のものをどういうネットワークにおいて維持していくかが問われると思います。
それ以前に、日本の中で東京一極集中の構造があるわけです。地方は過疎化して限界集落どころか、消滅市町村と言っている。そういうところにどうやって人口をいれるのですか、ということがあります。
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八束:ちょっと反論しようかな、今日は布野さんからもっと反撥を食らうかと思っていて議論をしようと思ったら、ここまではそうでもなかったので。ひとつは社会を開く成熟が必要というのは原則としてはその通りですね、従来経験のある欧米でもなかなかうまくいかないわけだから。ただ、それを待っている時間的余裕があるのかということですね。幕末で今の開国は無茶だから後20年待ってとかいってたらどうなったのか、みたいなことだけど。次に、グローバル企業は外へ出て行って稼いで、国内のサーヴィス産業は外国人に委ねるというやりかたはアウトだということですが、前者は、要は生産現場(工場)だけではなく本社機能までもが、アメリカのいわゆる多国籍企業みたいにタックスへイヴンに行ってしまったら日本はどうなるかという問題で、明らかに健全じゃないから規制が要ると思うけれども、後者は国内で労働力を調達出来ないなら仕方がないのではないですか? そもそも工場がアウトソーシングされているのも国内で労働力が減ったから(もちろん報酬との見合いだけど)ですし、産業が出て行く代わりに労働力を導入するというのはありだと思うけどな、一般的に。僕は今母親を老人施設に入れようとしているし、娘も保育施設に預けているから、そういうサーヴィス業に従事している方達の状況は知っているつもりですが、そこに移民が入ってきたらその仕事まで奪うという事になるのかどうかは断言出来ないと思う。もちろん、今の非正規労働者の問題を含めながらトータルに改善すべき問題ではあるのだけれど、繰り返しますが解決してから入れるというのでは遅い。地のものの維持の意義というのはその通りだけど、それで足りるのとかいうことは同じことじゃないかな? 最初に言ったみたいに短絡的な議論ですが、慎重が短絡よりとるべき方策かどうかは議論の余地がある。
で、最後の一極集中のことですが、僕は基本的に集中論者なんで―ここは丹下流です、完全に。磯崎さんは違うみたいだけどね―、移民も開拓村を作ろうというのじゃない限り過疎のところにもっていっても仕方がないから、大都市に集めればいいと思うのですね。2年前かな、藤村龍至さんがモデレーターで建築学会で地方の活性化とかのシンポウムがあって、僕はそうじゃない話をしろと言われました。藤村さんに地方の話はどう思うのですかと聞かれたので、僕はit’s none of my business と答えました。僕は今そういうことをやっていないから、敢えて挑発として、どうでもいいって言ったわけです。会場の後ろの方にツイッターが映写されていて、途端にうわっ、いったなぁ、みたいな反応が出ましたけど。藤村さんが、八束さんはくまもとアートポリスとか地方の事もやられてきていますからとフォローしてくれたんだけど、そう言わないとやっぱり限界集落をなんとかするのがいいという話になってしまうし、それはどうでもいいとはいわないけど、そのことばかり言っていてもしょうがないと思うのです。パネラーの一人であった東浩紀さんが、終わった後の飲み会で、彼も地方地方というのはどうなんだろうみたいな感じがあったらしいけど、八束さんが「大悪」を引受けてくれたので自分の「小悪」が目立たなくて済んだといっていました。まぁ、それはいいけど、東京どうするのって、ただ一極集中けしからんから分散させようと言っても絶対分散しないです。そのうち地震が来るぞといっても分散しない。分散させろと言っている人が東京に住んでいるじゃないですか、地震学者含めて。
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布野:僕は住んでいませんよ。
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八束:でも東京に職があったら東京に居たのではないのですか。
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布野:いや呼ばれたから動いたんですが、そういうレヴェルの話ではなくて、個々の居住選択行動が、人生選択行動が、マクロに見れば、東京一極集中になっているということでしょう。つまり興味があるとかないとかいう話でもない。その構造をどう考えるかが、日本の産業構造の問題、国土計画の問題なんじゃないですか。何故、分散しないのか。加えて、グローバリゼーションの流れを見据えながら、外国人労働者を何故受け入れるのかが問題になるということじゃないんですか。
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八束:布野さんってどこ生まれですか。関西ですか。
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布野:僕は出雲です。僕は出雲主義者ですよ。アンチ大和史観です。
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八束:僕の名前は出雲風土記で出てくる国引き神話をやった神の名前でもあるので、意外に近い血筋かもね(笑)。自分の出自、家の話はあんまり上品なことじゃないと思うけれど、さっき東京に住んでいてみたいな話をしましたよね。
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布野:八束郡。そういやそうだ。今はじめて意識した。
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八束:国の一部を切り取ったんだから韓半島からすると、大和帝国主義の象徴みたいな名前なのかもね(笑)。
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布野:八束さんは山形出身でしたよね。
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八束:偽洋風で有名な済世館病院に父が勤めていたのでその中で生まれたんです。そこには四歳くらいまでしかいなかったけれども、僕はずっと地方で育ったのですよ。一時期横浜に居たけど、本当に一時期で、基本的に大学に入るまでは東北とか北関東とか田舎に居たわけです。だから本当は地方の人間。僕の家からすぐ、2、3分歩くと水田の真ん中みたいな所で少年時代を送りました。
ちょっと唐突だけど、丹下さんの「東京計画1960」はみんな計画のデザインだけ見るけれども、あのイントロがすごく大事で、要するにあの当時日本の農村人口40%なのに、ヨーロッパでは10%切っているという。その農村人口は都市化の予備軍だっていうことを言うわけです。だから日本はこれから都市にどんどん集中していくけど、ヨーロッパには将来はないということを書いています。それで地方から中央に集中してくるモビリティの分析をするわけ。国内移民ですね。あの計画は国土レヴェルと都市レヴェルの二重のモビリティ分析から成り立っている。僕の親は農民ではなかったし、僕はいつも都会者扱いをされていたので田舎の人になりきれたわけではないけれども、地方から東京に出てくる人口のモビリティをパーソナルライフで経験したことはすごく良かったと思っています。今でも中学校の同窓会とか行けば皆地方にいるしね。だから自分の子供なんか東京生まれでかわいそうだなというふうに思っているのだけど、そういう流れというのは自分の中で体験していますが、それが簡単には環流できない、元に戻せないということ、も同時に実感します。今から地方行きますかと言うと僕は多分行けないです、正直に言って。行ける人はもちろんいいのですよ、布野さんみたいに。それにケチをつけるつもりはないけれど、でも限界集落大変だからなんとかしましょう、っていう話につき合うよりかは、この東京をどうしていくかということの方がずっと関心があるし、それのモデルとしてアジアの今の都市化の話を見た方が、僕的には面白いです。それで全てをカバーしているというつもりはありません。自分の関心として、というだけ。もう関心のある事に絞らせてもらってもいい年齢だと思うし。
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宇野:最近は、民間であれ役所であれ、都市計画をやっている方はものごとを鳥瞰的というかマクロデータからのみ見る人が多くなりました。建築学科の人たちは、人の生活とかヒューマンスケールや具体からたち起こしていって、都市の文化や歴史を語ろうとします。両者に理はあるのだけれども、それらは分離してしまっていて、とくに日本では、その間をつなぐロジックと媒体となる装置が無くなってしまっている。いろいろな機会にそう思うわけなのですが、僕らに最も求められているのは、その点を補完することでしょう。70年代に言われていた地域主義、地域デザイン、地区計画とかではなく、グローバル時代にふさわしい新しいコンセプトやロジックが議論のために用意されることが必要で、そうしたなかから新しい状況も生まれるのではないか。その模索と探求が、日本の都市の文脈では大切だと思います。そうした観点からすると、お二人の話は都市的なスケールで展開された建築論であり、近年ほとんどされてこなかった都市的建築論だということができます。
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布野:退官記念のパンフを送っていただいたりしたので、八束さんのこの間の仕事をざっとみさせて頂いて感じたのは、都市へのアプローチが丹下さん的だなあ、ということですね。マクロ経済的な抑えがあって、それを空間的図式にしていくわけですよね。八束さんは丹下さんの退官後、大谷研究室に移行していくんだけど、僕のほうが大谷(幸夫)研究室的かもしれない。丹下さんと大谷さんとでは都市へのアプローチがまったく違いますよね。僕は、麹町計画とか、Urbanics(アーバニクス)試論には随分影響を受けています。もちろん、出自は消せないんで、建築計画学の臍の緒を引き摺ってるわけで、2DKの設計、要するに1つの住宅が2戸になって3戸になって街区ができてということが基本的な発想の根にあります。都市組織研究、アーバン・ティッシュあるいはアーバン・ファブリークと言っています。稲垣(栄三)スクールのティポロジアもベースにあります。問題は、都市全体をどう計画するのか、その理論ですよね。ちょっと放棄しているかもしれません。ただ、マクロ経済的な話だったらそういうものを計算して見せることくらいはできると思っています。計算して見せて、政策決定して、資源配分と、市場原理の中で、全体を誘導していくという手法になるんじゃないかと思うんですが、それが身近なレヴェルに降りてきたときにどう対応するかを考えるとすると、身近な問題をひとつずつ解いていくしかないかな、と思ってるんです。
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八束:丹下さんを継いでいるなんておいそれとはいえませんが、さっき言ったようにほとんど学校には来られなかったので、直接影響を受けたということはないです。自分が自分の考え方を作り上げていく中で追体験的に見ると丹下さんってすごい人だったんだなということが分かったということで。直接のレッスンが自分の血肉になったわけではない。大谷先生には僕も影響は受けたのよ、そうは見えないだろうけど。期間的にも大谷研の方が長かったし。ひとつの面だけから見るなという教訓は今でも生きていて、学校のスタジオなんかではしょっ中言っています。彼らはどうにかするとこれやりたいんですしかないことが多いから。最近の話は敢えてミクロから見ることをしないで、マクロから見ようとは思っていますが、これは戦略的な話です。でも布野さんが大谷先生に影響受けたというのは知らなかったな。麹町計画はすごく重要な計画で、大谷研では「聖書」みたいだったけど、若い人は知らないよね。僕はコールハースの福岡の計画はあれと似ていると思うのだけど。あれは完全に都市のティポロジアですから。彼は、当時は高層とか関心なくて中低層主義者だったんだね、面白い事に。『錯乱のニューヨーク』をやった後なのにね。マンハッタン・グリッドは建築のティポロジアというより、都市的な形式ですね。モルフォロジーというか。この変貌は示唆的だと思うけど。
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布野:宇野さんが言うように建築を日常的に設計して行くことが都市をつくるところに繋げられなくなってしまっている。それは個々の建築を取り囲む構造があり、要するにそれがグローバリゼーションなわけで、世界を動かしているメカニズムのなかで、建築の役割が見えなくなりつつある。この間、僕は、タウンアーキテクトとかコミュニティ・アーキテクトということを言い出してきているんですが、八束さんのアートポリスの経験を是非聞いてみたいと思ってたんです。
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八束:アートポリスは面白かったけど、基本的には建築博覧会の発想なんですね、細川さんが磯崎さんに勧められてベルリンの国際建築博(IBA)を見に行ったことから始まったし。たださっきの布野さんの話にも建築と都市のつながりの話があったけど、ヨーロッパにはマンハッタン・グリッドの代わりに中庭を囲うブロック形式があるわけですね、市街地の基本形式として。ベルリンIBAの中でも一番都市再生的だったのはクロイツベルクとか東西の「壁」のそばで戦後の再建が遅れていた所だけど、IBAのプロジェクトは基本的に前のブロック形式を踏襲するから個々の建築が都市に繋がっていくわけ。モルフォロジカルに保証されている。その代わり今のアジアみたいな脱歴史的なスケールと速度には耐えられないと思うけど。しかし熊本はアジアとの関連は強いけれども、そういうのをやる規模じゃなかったし、モルフォロジーもタイポロジーもない。僕は面の開発をやりたかったんだけど、それは団地の配置計画くらいで、基本的に個別の建築のデザインで終わった。原さん用語で言えばディスクリート(離散的)な都市デザインとか言ってたけど、やっぱりあれは都市には繋がっていないんです、正直。それは布野さんがいわれた通りで、建築という部分から出発しても都市には繋がらない。そこにはとてもフラストレーションがあった。磯崎さんはどう思っていたかどうか知らないけれど、僕はそうでしたね。
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布野:タウンアーキテクトの具体像は日本の場合は首長だと思ってるんです。例えば、今住んでる彦根市は人口11万人ぐらいなんですが、国宝の彦根城があって歴史的城下町がそれなりに維持される一方、限界集落がある。市長だったら同時に対応せざるを得ないわけですよね。その時、方法論はどうなるのか、そういう方法をちゃんと掴んでないというか、鍛えてないとういうか、それが問題だと思っています。建築と都市、部分と全体、まあ、最初からそれが問題なんですけどね。
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八束:そういう意味でのトータルな問題を扱えるタウンアーキテクトの必要性については同意します。ただ、布野さんのおっしゃるのは市長さんがアーキテクトだというわけ? あるいは、そのアドヴァイサーとしてプロフェッショナルが要るということですか? 後者としても、いわゆる建築家はその辺のトレーニング出来ていないから駄目でしょう。その辺は、日本は欧米の建築教育と比べて凄く欠落している。震災対応が、みんなのいえとか、学校を作ろうみたいなんじゃ、あるいはそれだけじゃ仕方がない。どうして皆いわゆる建築物を通してしかものを考えないのかと思うんですけどね。それでは他分野の人とも話出来ないでしょう? 建築から地区、都市、地域、国土とスケールをアップすると要素は複雑化していくけど目に見えなくなる、要は図面なんかでは現わせなくなって抽象化していくわけですね。丹下さんの偉かったのはそこを全部把握しようとしていた事だと思います。皆建築家、造形家としての丹下健三しか見てないけれど。実はコルビュジエだってそうだったというのがこの間の本だけど、レムもそうですね。皆さん統計とか大好きだしね。路地や木密の世界とは対極ですが。そこんところ、皆スター建築家としての彼らしか見ていない。
僕は今関心が建築から経済とか国土の方に移行しています。そうなるともう目には全く見えない。これを「逆未来学」とか「汎計画学」とか称して―あるいは別のプログラムになるかもしれないんだけれど―考えようと言うのが今の目論見なんですね。あまり細かくは言えないんですけれど、今の段階では。
o 26 Shuji
Funo: Tokyo: Paradise of Speculators and Builders,in
Peter J.M. Nas(ed.),“Directors of Urban Change in Asia ”,
Routledge Advances in Asia-Pacific Studies,Routledge,2005
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布野:そろそろ時間のようですが、これ少なくとも3回くらいやったほうがいいですね。今日は予習で。紙上対談でもいいからテーマ毎に。八束さんが『思想としての近代建築』(2005年)を出されたときに連絡いただいて議論しませんかというオファーをもらったことがあるんです。丁度、京都大学から滋賀県立大学へ移ったばかりでしたし、『近代世界システムと植民都市』(2005)『世界住居誌』(2005)『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』(2006)『Stupa & Swastika』(2007)『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』(2008)と仕事を抱えていたもので、ちょっと無理ということで断ったんです。今回、それが果たせればと思ったりします。今度の『ル・コルビュジエ 生政治としてもユルバニスム』(2014)もすごく興味があります。まず、お互いの著書をクリティークしあうやりかたもあるかもしれません。
ひとつは今日も少し話題にしましたが、近代建築の歴史を西欧VS日本という構図ではないフレーム、すなわち、グローバルに、もう少し言えば、アジア・アフリカ・ラテンアメリカに軸足をおいて掘り起こしたい気持ちがあります。
もうひとつは、非西欧地域においてどういう都市計画が行われ、それがどういう結果を引き起こしつつあるのかを具体的にいくつかとりあげて掘り下げてみたいと思います。
さらにやるとすれば、八束さんはもういい、というかもしれませんが、現代における注目すべき試みに対してコメントしてみたいと思います。また、よりよいというかより楽しい都市建築を生み出す仕組みをめぐって議論できればと思います。以上全くの思いつきですが。
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宇野:そうですね。トピックスを絞りながらやっていくといいかなと思いました。今日は、この部屋(建築書店ArchiBooks)の使い方も含めて試験的実験的に行いました。来場者の皆さんとインタラクティブに討論が交わされると、さらにいいでしょう。建築について都市について現代について議論する場が無くなってきたので、それならば、そうした場をつくればいいと考えました。クリティカルで具体的な議論をプロットできる建築を議論する、楽しい交流がうまれる、そうしたプラットフォームになればいいなとも思います。こうした開かれた場で、気軽な形で、続けていけるようにがんばりますので、ご参加ご支援をよろしくお願いいたします。今日は、ありがとうございました。
(文責 宇野求)
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