2006/04/22 京都大学工学部/西川、布野、伊勢、土屋、高橋、田島
西川幸治名誉教授インタビュー
教室を知的探検と交流のベース・キャンプに
traverse 新建築学研究 07, 2006
■彦根中学から三高へ
布野—先生は、建築系教室への帰属意識はあんまりないとおっしゃいますが、そもそも何故、建築学科だったのか、あたりからお話していただけますか。
西川—消去法です。新制大学への進学は工学部に入りました。しかし、旧制高校3年のところを1年で追いだされ三高など旧制高校がつちかってきた教養への執着と休学がきっかけになり、専門にこだわらない姿勢がうまれたと思います。
布野—なぜ工学部だったのですか。
西川—それは消去法でした。たしかに、戦中・戦後の混沌のなかで、空を眺める宇宙物理学、天文学への憧れはありました。三高は文科と理科しかありません。私は理科で、宇宙物理とか地球物理などに関心がありました。しかし「じっさい、モノを作る方がいいですよ」と言う三高校の先生がおられました。
布野—数学は得意でしたか。
西川—数学はわりと好きでした。それは戦中末期で、45年の8月15日というのは大転換です。すべてが変わりました。
布野—その時はおいくつでしたか。
西川—彦根中学の3年生です。色々考えたり、将来を思う時期でした。
布野—彦根中学というのはどこら辺にあるのでしょうか。今の彦根東高校ですか。
西川—そうです。終戦を期に、価値観が大きく逆転換するのを痛切に感じました。のなかで変わらなかったのが数学とか理科なのだと。
布野—天文学ですか。
西川—中学1年の時、宇宙物理学の山本一清の『天体と宇宙』(1941年)という本を読みました。京大の宇宙物理の先生で、花山天文台長などもしています。のちに出身地である、大津の田上に天文台を作って、そこが当時アマチュア天文学のメッカになっていました。今ものこるこの田上の天文台は地域の文化財として顕彰すべきだと思っています。
布野—三高しか志望しなかったのですか。横尾先生は横須賀ですが、三高行こうか、一高行こうか、迷ったと聞きました。
西川—戦時中の中学は大変でした。当時、華やかだったのが海兵・陸士でした。彦根中学というのは、あまり軍人が出ない所でした。なぜか終戦間際には海兵にたくさん合格しましたが。
布野—彦根は、ずっと井伊家、譜代大名で、幕府の中枢にいたわけですが、明治維新以降、少しパッとしなくなった。
西川—彦根は幕府の譜代大名の城下町で、薩長を中心としたいわゆる明治政府からは疎外された城下町でした。それだけに、近世の景観をよくのこしています。
布野—裏返しですね。幕藩体制を支えてきたわけですから。
西川—そうです。もし、井伊直弼が桜田門外で暗殺されていなかったら、彦根は会津のような運命になっていたでしょうね。城下町も残らないし、城はもちろん破壊されたでしょう。戦後になってどこかに進学という時に、三高か八高か四高のどこかを考えました。
布野—八高が名古屋、四高が金沢ですね。一高はないですね。
西川—一高は考えなかったけれど、存在は知っていました。子どもの頃、佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』という本を読んでいたので、小学生の頃に一高だけは知っていました。その頃は三高の存在は知らなかったくらいです。戦後、親しい人が三高に入りました。
布野—三高に来られて下宿はどこでしたか。
西川—最初は五条坂にいました。父が昔下宿していた所です。夏休みあけの昭和23年9月に北白川に移りました。それから大学院出るまでずっと下宿は北白川です。
布野—学生時代からずっとですか。
西川—そうです。学生時代からずっとです。
布野—三高というのは要するにここ京大ですね。
西川—そうです。文・理科あわせて1000人位の生徒がいました。
布野—入られて、それで建築に決められたのはどういう経緯ですか。
西川—当時、学制改革で、非常に不安定でした。私達が入った時は旧制高校のままで卒業できるかどうかわからない状況でした。
布野—新制と旧制との切り替えの時ですね。
西川—文科甲類には小松左京がいましたね。
布野—多分、建築界なら磯崎新がそうですね。
西川—川上秀光さんとは同級です。
布野—川上先生は三高ですか。
西川—そうです。三高で同じクラスで二人建築に進み、私は京都に、彼は東京に行った。
布野—磯崎新も同じ歳だと思います。
西川—私もどこかで会っています。伊藤ていじさんに紹介されて磯崎さんと川上さんたちに会いました。
布野—八田利也というペンネームで、活躍しましたね。
西川—GMP、原稿、マスプロダクション(笑)そこに伊藤ていじさんに連れられて行って、三人とはなしました。
布野—伊藤ていじ先生はちょっと上ではないですか。
西川—あの人は旧制の四高出身で、岐阜の人で歳はかなり上です。
布野—入られた時から川上先生は知り合いだったんですか。
西川—同じクラスでした。とにかく彼は元気でしたよ。活発にヨットで琵琶湖に遊んだりしていました。
布野—川上先生も建築、西川先生も建築。その辺の雰囲気を僕は聞いたことがないんですよ、巽和夫先生とか横尾先生とかにも。三高から来た先生はあんまりいないんじゃないでしょうか。名誉教授クラスには。
西川—あんまりいませんね。森田慶一先生、西山先生は三高、村田先生、坂先生は一高だときいています。
布野—東大です。藤井先生と武田五一は福山出身でしょう。
西川—武田五一先生は三高で、新徳館という木造の講堂は武田先生の設計でした。藤井厚二先生は六高だときいています。ところで新制第一期には作家の高橋和巳がいます。彼は松江高校ですが。
布野—僕も松江です。
西川—彼は松江高校で、中国文学専攻です。奥さんは仏文出身の高橋たか子。作風は大分違いますが。
布野—黒川紀章と同級。黒川さんはちょっと先生より下でしょう。
西川—森田さんと同じクラスだった。2,3年下ですね。同じ世代では高橋和巳を一番愛読していました。『悲の器』などはいい本です。若くして亡くなってしまいましたが。彼が進々堂なんかで昼飯を食べて帰ってくる時に、顔を合わせることはありました。目礼するくらいの間柄だったけど、しゃべったことはないです。
布野—彼は文学部ですね。大学闘争時代に、高橋和巳は、造反教師というか、学生からはスターでした。僕も、全集買って読みました。
西川—紛争の頃、立命館にいました。吉川幸次郎さんが引き戻したのです。吉川さんは自分にはないものをもつ弟子を選んだんでしょう。中国文学にはたくさん秀才がいましたから。当時いろんな人がいましたよ。みんながレギュラーなコースで行くのではなくて、私と同じクラスに高瀬昭一さんというのがいて、三高から、東大の理科へ進学しましたが、次に会った時には東大の美学美術史に行ってました。映画に関係し、やがて朝日新聞に入って、朝日ジャーナルの編集長をしていました。神戸から来た江戸さんは物理の湯川研へ進学しましたが、やがて、美術評論家の中原佑介として活躍しています。
■結核
西川—私は休学しているのです。京大に入って、二年目の時に。ですから二回生を二回しています。
布野—それは意識的にですか。
西川—結核です。伊藤ていじさんほど悪くはなかった。伊藤さんは肺が空洞になって肺切除の手術を受けたと言っておられました。私はそこまではいかず、浸潤で終わっているわけです。
布野—建築に入るというのはいつ決めたのでしょうか。どうやって選んだのでしょうか。
西川—いろいろ教室を見て歩いた記憶はあります。建築教室では廊下に福井地震で被災した建物の大きい写真がかけてあったのが印象にのこっています。結局、どこも気乗りがしなくて、消去法で選んだのです。
布野—当時、どこに製図室がありましたか。
西川—製図室は今の新館と本館の間に小さな平屋があってそこが製図室だった。その製図室が1回生と2回生で、3回生になったら隣の環境の実験室も製図室でした。やがて、2階がつけたされ、本館東の建物は新制の大学院の室になりました。
布野—先生は設計製図はどうでしたか。30人中一番描けたのは誰ですか。
西山—目良純さんとか柴田勝之(坂倉)、金本貫治(大建)らが、デザイン志望でした。私自身、医者に製図は胸に悪いと言われて、敬遠していました。
布野—結局、建築史を選ばれるわけですね。
西川—その頃に西山さんの『これからのすまい』を読んで、ああいうアプローチの仕方があるのかと面白いと思っていました。
布野—藤原悌三先生は、この四月で滋賀県大を退官されましたけど、やはり西山先生はインパクトがあったと退官記念講演会でお話になっていました。
西川—私も面白いなと思いました。終戦直後の『新建築』に西山さんの長大な論文が載っており、すごいなと思いました。あの戦後の混乱の時代に夢のある計画だという気がしました。
布野—もともと『新建築』は関西ですしね。
西川—あれは村田治郎先生が『新建築』に西山さんを紹介したとおっしゃっていました。
布野—例の「新建築問題」が出てくる時に京都の偉い先生たちがいちゃもんつけたということを聞いてるんですが。1950年代に新建築問題で川添登さんとかが辞めた事件があるわけです。それは村野先生の「そごう百貨店」の批評が問題のきっかけになった。「そごう」は、新橋駅前の今はビックカメラになっていますが、その横は「東京フォーラム」で、丹下さんの「東京市庁舎」を建て替えた。「そごう」を批判して書いたら吉田社長が「編集部全員クビ」と言った。その時に村田先生が京都から「村野に文句付けるとはどういうことだ」と言ったことは事実みたいなんです。それで『新建築』ががらっと変わった。『新建築』には絶対作品を発表しないという建築家も出たんですね。
西川—初めて聞いた。そんな事に村田先生は関心があったんだろうか。
布野—代わって編集長になったのが清家さんとか東工大グループなんです。少し横道にそれましたが、先生が昭和29年に建築を選ばれた。その時の教授陣は。
西川—私が入った時には年輩の先生では計画・意匠は森田慶一先生、建築史は村田治郎先生、構造は鉄筋コンクリートの研究をされていた坂静雄先生、鉄骨構造・施工の棚橋諒先生、環境の前田敏男先生の5人だったと思います。
布野—その時は西山夘三先生は助教授ですね。
西川—西山先生はおかっぱ頭で、花森安治とならんで有名でした。ほかに講師で増田友也先生がおられた。
布野—4回生おわって、大学院に行かれた。
西川—休学したので転学部しようかと本気で考えました。
布野—なぜ転学部を。
西川—僕は社会学か経済か心理に行こうかと。休学中に読んでいたのがそういう系の本だったから。それを断念して、踏み留まったのはやはり、T.V.A.(Tennesee Valley Authority)に関するD.E.リリエンソールの『T.V.A-民主主義は進展する-』でした。これを読んで感銘しました。
布野—僕達でもピンとこないし、若い学生はもっとわからないと思いますが。
西川—アメリカの地域総合開発です。それを新しい民主主義の考え方と手法で、草の根の民主主義に根ざした手法で、テネシー渓谷を総合的に地域を開発するということで注目されました。アメリカにおけるニューディール政策のもとですすめられたのです。
布野—それを読んだのはいくつの時ですか。
西川—昭和24年の刊行ですから大学に入ってからですね。和田小六という人が訳した本で、10年位前に復刊されました。T.V.Aの開発方式というのは批判されるようになってからです。当時、影響を受けた人はわりと土木とか建築には多いで.すよ。私達の世代はT.V.A.を読んで影響を受けた人は多いと思います。
布野—土木とか建設に行くぞという人が多かった。戦後復興が大課題でもあったからですね。
西川—あの本というか、T.V.A.の功罪について、きちんと検討すべきだと思います。戦後の20世紀後半の総合開発はほとんどがT.V.A.がモデルとしているようです。アフガンでもヘルマンド・バレー・オーソリティが、それはアメリカのを直輸入して結果的には失敗したと言われていました。東南アジアのメコン川など大河川でもT.V.A方式の地域開発がすすめられました。日本でも奥只見や愛知用水はそうでしょう。それらをT.V.A.のモデルとしてどの部分が成功してどこで失敗したかをきちんと検討しておく必要があると思っています。
布野—その話と社会学やりたいという話はどうつながるんですか。それと最終的に歴史にどうして行かれたんですか。
西川—結核という病気は、死にいたる病なんですよ。命がゆるやかに消えていくのにずっと向き合う、今のガンのような急なものと違って。立原道造もそうでしょう、掘辰雄のような美しい文学も結核との関わりの中で生まれた文学でしょう。休学していた頃、抗生物質のストレプトマイシンとかパスなどの薬があらわれ、劇的に救われたのだと思います。
布野—僕らは結核というのは頭ではわかっているけれど、その死に至る病ということは実感できない
西川—いろんなところで救われたわけです。私はマイシンをのんだりして。人工気胸というのをやっていました。胸膜腔内に空気を入れて肺を縮めるわけです。週に1回、学部からドクターコースまで続けていました。気胸をやめるころに、ちょうど医学総会が京都であって、気胸は結核療養に役に立たないという結論がでたということでした(笑)。しかし、担当医は「あなたの場合は割ときいていましたよ」と言ってくれましたけど。たまたま休学している時に映画『カラコルム』を観ました。木原均先生を隊長とした調査の記録です。梅棹忠夫さんらがアフガンで調査しモンゴル族を発見する。
■学部から大学院へ:映画『カラコルム』を観る
布野—それは大学院の時ですか。
西川—まだ学部ですね。復学するかどうするかという時でした。同じ生があり、死なねばならないのなら、こういうことをやりたいなと思いました。
布野—先生のモンゴルへのこだわりというのはそこからですか。
西川—アフガンでの調査で、ちょうどイタリアの調査団と交流する場面がありました。それと梅棹さんたちがモンゴル族の末裔を発見する場面に感動しました。
西川—イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊に参加することになった時、京大病院で相談したところ、アフガンに行かれた梅棹さんも気胸をしておられたよということで、参加の意志を固めました。
布野—僕は梅棹先生と一度、目が悪くなられてから対談をしたことがあります。当時は梅棹先生はどういうポジションだったんですか。
西川—梅棹さんは京都大学を出られて、大阪市立大学の理学部におられたと思います。それでカラコラム・ヒンドゥークシュ学術調査隊が組織され、カラコラムとヒンドゥーュクシュ班とに分かれて、ヒンドュクシュ班に梅棹さんは入った。カラコラムの方は今西錦司さんが中心だったと思います。
布野—先生の卒業は59年ですね。僕は先生の名誉教授の推薦の文章も書いたし、京都新聞文化賞の時も書いたんですが。大学院行く時はどういう選考基準だったんですか、試験があったりしましたか。誰でも行けたんですか。
西川—私は無試験でした。しかし、年度末にあと何人かは試験で採っていたように思います。
布野—推薦の時代。村田先生が来いと言ったわけでないでしょう。
西川—計画系が何人という感じでだと思います。私はどこに行っていいかわからないし、あまり図面をひかない方がいいと言うし、だからなんとなく村田さんの所に行った。
布野—その時は巽先生はいたんですか。
西川—いましたよ。私は1年休学したので、巽さんは1年前に新制大学院の第1期として進学していました。一緒によく集まってだべっていました。今と違って大学院は研究室に分属しないでグループになって一学年全部が入っていました。構造も歴史も全部。
布野—何人位ですか。
西川—10人位でしたかね。京大だけでなくて熊本とか神戸大学から来た人もいた。私は大学院に行くのに何で行くのかと聞かれて「体が悪くて」と言うと、村田さんが「君、大学院はサナトリウムじゃないよ」と言われた(笑)。
布野—それで大学院の修士論文は。
西川—私は、修士論文は近世都市で書きました。ちょうどその頃、彦根市史の編纂に関わっていました。彦根の城下町、もうひとつは城下町から町人の町へ転換した長浜、この二つ町をとりあげて修士論文を書いたのです。
布野—それは故郷だからですか。先生の選択、もしくはプロジェクトがあっての選択ですか。
西川—彦根は故郷だし、史料も手にとり易かったからでしょう。修士を終えてしばらくは、近世でも彦根藩だけでなくて他の藩、例えば津軽藩などの史料を使って江戸の上屋敷とかを調べたりしました。当時、修士課程には演習がたくさんありました。設計演習の単位を取らないと卒業できないわけです。だけど単位を他学部で取っていいということになっていたので、設計演習に替えて、他学部で単位を取りました。美学美術史とか日本史、考古学で単位をかせぎました。
布野—その時の先生はどなたですか。
西川—美学・美術史の教授は井島勉という方でした。文学部には集中講議があり、東大から吉川逸治先生がヨーロッパ中世美術で、東京芸大から新規矩夫先生がエジプト美術を講義されました。それらを大変楽しく受けました。
布野—栄養、ルーツにはなっている。
西川—今でも忘れられないのが、その他、上野照夫先生の絵巻物研究、インド美術史。林屋辰三郎先生の中世史研究。
布野—林屋辰三郎先生は、どこにおられたんですか。
西川—立命館大の文学部教授で、京大の国史に非常勤講師で週一度来られていました。その頃、羽仁五郎という歴史家は有名でした。
布野—『都市の論理』68年。僕ら学生の必読書でした。
西川—岩波新書で『都市』という本が出ていた。戦時中刊行された『ミケランジェロ』にも感銘しました。
布野—今、『都市の論理』を読み返すと、随分乱暴な議論もしている。
西川—彼は秀才ですね。一高—東大の法学部を卒業して文学部へ再入学した。三木清の友人です。
布野—東大ですか。京大かと思っていました。
西川—反アカデミズムの旗頭です。スマートで、不思議なことに福山先生も若い頃、講演を聴いてたいへん憧れたと言っておられた。
布野—福山先生は先生が助手になった時にお見えになってお世話したんですね。
西川—教授として赴任される1ヶ月前、昭和34年4月に助手になったのです。
■ガンダーラへ
西川—博士課程では日本近世の都市を勉強しました。西山先生がそのころ大学院研究室へ来られて、言いやすかったのでしょうか(笑)「そんなことをして何になるのかね」と毎回言われました。「結局、役に立たないことをやるのか」とか、「近世をやる」と言えば、「なぜ近世をやるのかね」と言われる。説明しても「人がやらないからやるのか」とか言われる。若かったから一生懸命抗弁してました。あの頃は世の中全体が実用的なものの考え方をする時代でした。当時の時代風潮は建築史みたいなことをする居場所がだんだん小さくなっていた。最後に西山さんは「西川君やるのはいいからその代わり、歴史のことは何を聞かれても答えられるようにならないといけないよ」。西山さんにはかなり厳しく助言して頂いたと、今は思います。また、「書庫に入ったらどこにどの本があるかは覚えるように」と言われました。本を探すのにどこにいけばいいか、今でも目に浮かんできます。小さな書庫だったが、天井が高くて、二段に仕切ってありました。新館ができて移って地下にも拡がり大きくなりましたが。
布野—助手になられて福山先生がお見えになって、その時にお世話されていた。
西川—私が教授室にはいる最後の助手でした。
西川—当時、大学院生らの研究室に入って研究するのではなくて、教授室に助手として入っていたわけです。秘書の仕事もしていました。切符の手配とかね。次の助手は永井規男さんで大学院の研究室にはいり、福山先生には女性の秘書がつきました。
布野—永井先生は関西大学へ行かれるのですね。その時の教授陣は。
西川—村田先生が辞められて、福山先生が来られ、坂先生が辞められて、横尾先生が土木教室からもどってこられた。
布野—増田友也先生は。
西山—増田先生はやがて講師から助教授になっておられた。
布野—西山先生は。
西川—西山さんもまだ助教授でした。
布野—助手で福山先生のお世話をされながら、ガンダーラがあるわけですね。きっかけはどういうことですか。第一次隊は何年でしたか。
西川—1955年に木原均先生を隊長とするカラコルム・ヒンドュクシュ学術調査隊が組織され、1959年には、京大イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊が組織され、考古美術、地理、歴史言語、人類の各班が調査をはじめました。ただ福山先生が来られた時に人文研に案内し、水野清一、長広敏雄、平岡武雄、藤枝晃を訪ねました。これが水野清一先生にお会いした最初です。
布野—ガンダーラに行かれていたんですか。
西川—そうです。文学部で講議を受けて、小林行雄先生の考古学の演習を受けました。考古学の演習では、私は図学を習っていたから、土器の実測に役立つこともありました。小林行雄さんは建築の出身でした。そんな繋がりがあって、山科の大宅廃寺の発掘調査にはじめて参加しました。奈文研の坪井清足さんを中心に、金関恕、小野山節、佐原真、田中琢、田辺昭三、岡田茂弘、白石太一郎さんらも参加していました。
布野—当時は皆、助手クラスですね。大学院クラスでしょう。
西川—それが後、考古学の中堅として活躍しています。
布野—佐原先生は京大ではないでしょう。大阪外国語大学からですね。
西川—大阪外大のドイツ語専攻から京大の大学院の考古学に進学しています。彼のドイツ語のリードはきれいで、機会があればうたってました。佐原さんとは1960年、ガンダーラの調査では宿舎は同室ですごしました。
布野—その時の教室の雰囲気も聞きたいですが、先生は結核やって文学部系とつきあっていた。(笑)
西川—教室の外の人とつきあう癖がついてしまったんでしょう。文学部系とは近い関係なのです。60年から人文研の水野清一先生の調査隊に参加し、研究会とか調査隊の打ち合わせで、しょっちゅう人文研へでかけましたが、福山先生が寛容にみとめてくださいました。それともう一つ、伊藤ていじさんとつきあって、D.C.の時に今井町の調査をやった。村田さんは民家をやるのにもあんまり賛成していなかった。
布野—でも村田先生の学位論文は民家じゃないですか。「俺は民家やるんだ」と冒頭に書いてある。
西川—村田先生の民家は、ユーラシア大陸を見据えた民家の流れが対象でしたから、少しくい違いがあったのでしょう。ただ、東大が研究室をあげて民家調査をやるようなことを京大ではしていなかったし、できなかったのです。私は伊藤ていじさんに心服していましたから。才人で凄い人です。
布野—今井町の調査は、先生と京大からはどなたか。
西川—私だけです。太田博太郎先生がずっとおられて、伊藤ていじさん、稲垣さん、川上秀光さん、渡辺定夫さん、大河直躬さん、それからイスラームの石井昭さん。この間亡くなられた名古屋大学の小寺さん。私にはとても楽しい調査でした。東大の人たちも一緒に調査ができて楽しかった。
布野—ああいう調査を今できないんですかね。僕はアジアでやりたいと思っているのですが。
西川—ぜひ、やってください。
■ガンダーラから寺内町へ
西川—そういう人と接することによって、東大で新しい動きがあることを知ったのは個人的に面白かった。今井町の調査で、その当時に今井町も城下町も同じような古い町と見ていました。ところがガンダーラに調査に行って、あの頃の車はよくパンクするのです。パンクするとそこで修理し、立ちどまって周りの町なんか見ていると、城壁で囲まれた都市の廃虚が残っていたりしている。そしてバーミヤンの石仏の上で、
布野—これは有名な話だからちゃんと聞かないと。
西川—(笑)1960年秋、アフガンの調査を終え、パキスタンへ移動する時、はじめてバーミヤンにたち寄りました。当時、大仏の頭の上にトンネルの階段で登れました。大仏の頭上、天井には西方の影響のつよい壁画がよくのこっていました。その大仏の頭上から見たら、シャレ・ゴルゴラという丘があって、阿鼻叫喚の巷だという意味なのです。この丘は、ジンギスカンの軍隊がここで戦死したジンギスカンの孫をいたみ、町の老若男女を虐殺したのです。そこで、この遺跡にはその泣き叫ぶ声が今もきこえるというのです。こういう町の住民が、町と運命をともにするということが日本にもあったかなと思った。その時にぱっと今井町が浮かんだ。寺内町がそうした例ではないかと。それが寺内町をあらためて考えるきっかけになりました。
布野—それは何年ですか。
西川—1960年。途端に寺内町が私にとって身近に面白くなってきた。
布野—寺内町ユートピア論ですね(笑)
西川—寺内町を美化しているかもわかりませんね。その頃、日本ではいろんなことがありました。調査にいっている間に大阪万博もありましたからね。
布野—その頃寺内町ユートピア、ガンダーラに行ってしまった(笑)
西川—教室でも、大阪万博で忙しかったし、上田君はそのなかではりきっていて、忙しそうでした。
布野—上田篤先生は俺がやったと言ってますね。磯崎と俺と二人で万博やったと。
西川—梅棹さんはこの万博をきっかけに民博(民族学博物館)をつくられたのです。
布野—70年というのは、僕は大学2年生ですから、その頃からだいたいわかってくるんですけど、例えば先生の研究室でローズナウ『理想都市』(鹿島出版会)を訳されますね。そういう雰囲気はよく覚えています。団長として調査を開始されたのは何年ですか。
西川—80年になってからです。60年代は水野清一先生がIAP、イラン、アフガン、パキスタン調査をやられて、70年代は樋口隆康先生がアフガンでスカンダル・テペやバーミヤンの石窟の調査をすすめられ、私もバーミヤン調査に参加しました。それを引き継いで80年代から私たちはガンダーラで、ラニガト仏教寺院跡の調査をすすめました。1979年12月、 ソ連の侵入でアフガンに入れなくなりました。
■保存修景
布野—ガンダーラが西川先生のひとつの軸ですけど、もう一方で先生のいろいろな功績を書いていると、保存修景論がある。それは何がきっかけでしたか。
西川—何がきっかけだったかな。教室で将来構想を検討しようとしたことがありました。その時に歴史的環境保存計画というのを提案しました。これをみて西山研の助教授の絹谷さんが、「建築教室で環境というのはまずい。教室では環境と言えば、前田先生の設備環境工学に限られているからね」ということでした。
布野—前田先生はその時は総長でしたか。
西川—工学部長になられる前かな。
布野—なぜ禁句だったんですか。
西川—当時、環境という言葉を設備環境工学に限定していたのでしょう。地域計画関係でも。環境という言葉をさけていたようです。その時、西山先生が同情してくれて何かいい言葉をかんがえようと言われて、考えたのが、「保存修景計画」です。これは結局陽の目をみなかったですね。その後、保存修景研究施設というのを工学部の付置研究施設として何度も要求したけれど駄目だった。そのために関野克先生に相談したり、文部省もまわりました。
布野—助教授の時に上は福山先生がおられて。
西川—保存修景計画について思い出せば、1959年福山先生が京大に着任され、大極殿の研究を続けておられたので、長岡宮の調査をされることになり、その発掘調査の現場を担当することになりました。地元の熱心な研究者中山修一さんが長年すすめられた調査を延長することからはじめたのです。当時、平安神宮からの資金援助で調査をすすめていました。やがて、大極殿や小安殿・朝堂院の建物を発見され、文化庁を中心に調査を本格的に組織化することに努めました。その中で、京都府の文化財保護課の堤圭三郎さんから、都市計画的視点をいれた長岡宮の保存構想をまとめてくれませんかというはなしがありました。そこで考えたのが『国際建築』32-6(1965.9)に載せた、福山先生と大学院の野口英雄さんらと連名発表した『長岡宮跡の調査と保存計画』で、遺跡の保存を地域の開発の中にくみいれ、名神高速道路両側に設ける洛南緑地帯と結びつけようとしたもので、これは今井町調査で関野先生が今井町保存について緑地帯をめぐらすことを提言されていたのを思い出したものです。また、文学部史学科の雑誌『史林』が現代史を特集するという企画がありました。考古学の分野で遺跡保存について書くように樋口さんから頼まれました。そこでまとめたのが『保存修景計画—歴史的文化遺産保存の構想—』です。結局、現代史特集は実現せず、展望という欄をつくってもらって『史林』49-6(1966.11)に載せました。その後、『中央公論』85-9(1970.9)に『保存修景計画のすすめー文化遺産の蘇生と活用のためにー』を載せ、保存修景計画の現代的意義を強調しました。その頃、京大には人類学の研究室がなかったので、梅棹さんがプライベートに楽友会館で毎週1度、近衛ロンドという研究会をやっておられた。
布野—近衛ロンド。近衛通りのロンドですか。
西川—そうです。その近衛ロンドで、遺跡の保存について話したのです。それまでの考古学の発掘は何か発見して、それで終わりにしている。それでは駄目だ。写真でも、現像、定着、焼付というDPEというプロセスがある。遺跡の保存もそうしたプロセスをとりいれないと駄目で、遺跡をどう、保存し活用するかを考えるべきだと話しました。これをきっかけに梅棹さんの人文研でので『重層社会の研究会』に参加しました。私の学位論文はだいたい梅棹さんの研究会で発表しました。そこではいろんな人の意見を聞けたし、寺内町もそうです。
布野—それとガンダーラは平行していますか。ガンダーラは外務省関係のお金ですね。
西川—ガンダーラの調査は文部省、科学研究費、海外学術調査で、保存の計画と作業は外務省関係のユネスコ信託無償資金によりました。ところでパキスタンの首都、イスラマバードは誕生の日から知っている。だから愛着がある。まったくの荒野の中に一本道が、今のゼロポイントの辺りです。その道だけがあって、あとは泥の海みたいになっていた。こんな所が都市になるのかなと思った。1960年代のはじめです。外務省にいろいろお世話になったり、ガンダーラ博物館地域構想を提案しましたが、まだ実現していません。日本の外務省でも好感をもたれ、一時、かなりいいところまでこぎつけましたが、これも結局だめでした。本当にむつかしい。
布野—それは何年頃ですか。僕が京大に来る前。
西川—もちろんそうですよ。80年代の中頃でした。
布野—僕が先生に会ったのは、80年代末のイスラームの都市の研究会の時で、あれ自体は色々発展していますが、今もイスラームの問題とか今後、我々が何をすればいいのかとか、若い人達へのメッセージも含めて話すとどうなりますか。
西川—私がお願いしたいのは、総合性を大事にして欲しいということですね。私はやっぱりいろんな、特に文学部の人とつきあってきたから、文学部や人文研の講議を受けたり、専門外の人と話す機会があったし、総合大学というのを結果的に利用させてもらったなと思います。京大が老舗の総合大学として、その利点を活用してほしいです。異分野の人と交流し、協力し、刺戟しあえば、面白い成果がでると思うけれど、なかなか認知してもらえない。京都大学でも人文研で桑原武夫先生が共同研究のスタイルをうみだされました。もっと多様な共同研究の手法を開拓してほしいです。
布野—民博の地域研究は撤退ですね。京大が引き受ける。
西川—京大にとってプラスかもしれないけど、あれは松原正毅さんが民博でやっていました。京大の地域研究は大きく成長するでしょう。人文研が中国研究ではひとつのメッカみたいになっているし。
布野—AA研作って、だけどあんまりうまくいっていないみたいですけど。
西川—ヨーロッパをはじめアメリカなどいろんな地域研究があるでしょう。やはりアメリカ研究は同志社か(笑)同志社にはアメリカ研究の蓄積があるし。だからいろんな大学がそれぞれ特色を持つべきです。
それから保存修景という言葉も、なかなかわかってもらえず大変でした。集計ではなく修理の修、景色の景ですと説明していました。やがて、この言葉も市民権が得られるようになってきました。京都で1970年9月、ユネスコ後援の『京都・奈良伝統文化保存シンポジウム』が開かれ、これをきっかけに翌年6月、美観風致議会では『京都市における市街地景観の保全・整備対策に関する答申』をまとめ、ちょうど審議会に委員として参加していましたので、市の大西國太郎さんらに協力し、積極的に作業に加わりました。72年4月、『京都市市街地景観条例』が定められ、その『特別保全修景地区』に、研究室で調査した東山八坂地区(産寧坂—二年坂)、祇園新橋地区が指定されました。両地区とも、のち重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。そのころから、九州の大分でも調査しました。忘れられないのは近江八幡です。ヘドロ化し、蚊や蝿の温床になっていた八幡掘を暗梁にし駐車場にしようという案が出るなかで、歴史をうつし流れてきた八幡掘を再生させようという動きが青年会議所を中心に市民の間から起り、この作業にも積極的に参加し、『よみがえる八幡掘』というパンフレットを作成しました。この八幡掘はみごとに再生し、その後、町なみ保存修景につながり、今、八幡掘を延ばして「八幡の水郷」として重要文化的景観第1号としても顕彰されています。京都府・京都市で、文化財条例をつくることになり、はじめて登録制を導入し、文化財環境保存地区を定め、その頃、滋賀県でも琵琶湖景観条例(ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例)が定められ、景観への関心は高まってきました。こうした動きに継続的に参加しました。
布野—林屋先生との出会いは。
西川—林屋先生は、梅棹さんが民博へ行かれるのと入かわりの頃に来られた。林屋さんは化政文化の研究会を作って、それにも参加させてもらいました。林屋先生は立命館におられた頃から京都市史編集にもあたっておられました。60年代の終りに『京都の歴史』第1巻・別添地図「平安京—京都の成立—」、第2巻・別添地図「京都—京童と軍記の世界—」、で復原地図の作成を林屋先生から頼まれ、日記史料などから、地名をひろいだし、地図におとしていく作業を続けました。とくに、六波羅の平氏政庁を地図におとすことができた時には、予想をこえた成果に興奮しました。市史の皆さんとの交流は、その後も続き、新修
大津市史、長浜市史、近江八幡市史、新修彦根市史へとつながっています。また、保存修景計画や地域文化財の研究会、勉強会や見学旅行にも、参加させてもらい楽しい刺戟をうけました。
■ 交流:近寄ること
伊勢—うまく質問出来ませんが、西川先生のお話を聞いて、一番基本の所に大学に入ってすぐ結核になり、そこで自分の身体の限界を完全に感じて、そこからスタートしたという強さがある。足が地に着いている。個人として非常に誰とも対等にやっていける人格を持っているというか。
西川—そんな大袈裟なことでなくて、みんなでやればできることです。組織として専門外の事をやると異端視する傾向があります。それでは困る。少なくともそういう専門外の動きをする人を許容する大らかさがないと、新しい展開へと機能しないと思います。共同研究だけが研究だとは言わないけれど、許容しないといけない。
伊勢—多くの大学が、がそれと反対の方向に進んでいて、大学自体がそういう構造を持っている。
西川—そうでしょう。どうしても個別専門化する傾向はつよいです。もうひとつ違った共同研究のスタイルも必要だということです。
伊勢—どうやってコントロールすればいいのかというところでしょうか。
西川—いろんなスタイルの研究が出てくるでしょう。人文科学研究所とか、経済研究所とか、いろんな付置研究所がそういう役割を担ったらいいと思います。あとは自由に話す機会をもつことでしょう。いろんな人が出入りして話しあう場所を用意してほしいです。構造の人と電車の中で一緒になって、隣の研究室の人は何をやっているのかと聞くと「そんなの知りません」と言ってました。それでは困ると思った。自分のやっている範囲だったらわかるけど隣の人は知らないというのでは。紛争のころ、いろんな研究室に入れ込めない人がたくさんいて、そこで都市のことを考える、インターゼミアーバンというのをつくろうと思った。これは結局あまりうまく機能しなかった。そこでこの研究会に集まった人たちと滋賀県文化財懇話会というのをつくって考古学・地理・歴史・民族の専門の人とかが集まり、琵琶湖を一周したり、保存計画を勉強しました。しがらみからはなれ、いろんな人達とつきあうことです。孤立するのはよくない。
伊勢—僕にとっては、このトラバースが唯一の機会になってしまっています。
西川—意識的にやらないといけない。特に交流でしょう。やはり。みんなが敬遠しあっていたら駄目です。近寄らないといけない。どっちみち私たちの命は限られているのだから。
布野—最後に強烈なメッセージがあったら。
西川—活性化することです。大学とか教室は、私は登山のためのベース・キャンプのようなものだと思います。それ自体が自己完結なものでなく、新しい目標に向って、若い人たちの活動を支える後方支援の役割をはたすべきだと思います。過去にこだわらず、過去を活かして前進してほしいです。関連する分野と連繋がして、異質なものも寛容にとりいれて、ゆたかに成長してほしいとねがっています。