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2025年12月1日月曜日

ボローニャ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

ボローニャ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


ボローニャ ヨーロッパ最古の大学都市

 ボローニャは,イタリア共和国北部に位置し,イタリアを代表する4つの都市である,ローマ,フィレンツェ,ヴェネチア,ミラノに囲まれたエミリア=ロマーニャ州を中心とするポー川流域地方の中小都市である。地中海側にある都市,ピアチェンツァからアドリア海側の都市,リミニまでイタリア半島の東西約250kmを結ぶエミリア街道の中央付近に位置する。アペニン山脈やポー川南部の平野や丘に囲まれており,東西南北を結ぶ交通の要を担うことから,農業や工業,文化交流がさかんな都市である。

 現在,ボローニャは主に3つの都市基盤によって成立している。1つはヨーロッパ最古の大学,ボローニャ大学である。人口の4分の1を学生が占めており,それに伴って早くから経済や産業成長の後押し,インフラ整備のきっかけをつくってきた。続いて製造業である。ボローニャは,1970年代の経済低迷期に親会社から独立したスピン・オフ企業が集まり競争しながらも互いを補完し,助け合う「3C(cluster=集積、competition=競争,collaboration=協力)(星野 2006:27 )と呼ばれる産業モデルを構築し経済復興を果たし,成功を収めた。最後に農業である。ボローニャが属するエミリア=ロマーニャ州は,穀物と畜産の主産地であり出荷先は全ヨーロッパをカバーしている。

 ボローニャの起源は,紀元前6世紀にエトルリア人が築いたポー川流域地方の町「フェルシナ」とされている。その後,ローマ帝国時代「ボノーニア」で現在のボローニャ地区最古の市壁(1次市壁)が建設される。(1)

 1088(推定),ローマ法を学ぶ為,学生が組合をつくり教授を招いたことがヨーロッパ最古の大学,ボローニャ大学のはじまりとされている。12世紀以降,様々な学問が芽生え,発展し,国内外を問わず学生や,職人,召使いなど様々な人種や階層の人々が集まると,やがて自治都市「コムーネ」を造り繁栄時代へと突入する。人口が増えてくると新たに城壁が建設され,13世紀までに2度の地区拡大が行われている。(1)

 ボローニャの市壁は,マッジョーレ広場とそれを囲む市庁舎など多くの建物と対の役割を担っているといえる。市壁は軍事的役割を担い,広場や建物は取引・政治・裁判といった経済や政治などのための場所として機能した。この頃に,エミリア街道の東西へ接続する街路も形成され,12~13世紀は歴史地区の骨格が造られた時代といえる。また,現在,街のシンボルとなっている2つの塔(ボローニャの斜塔と呼ばれる),この頃の貴族の名家が自分たちの権力を示すために競って建てたものの一部であり,高い方が「アシネッリの塔」,低い方が「ガリゼンタの塔」と呼ばれている。

 14世紀後半,マッジョーレ広場に市の守護神ペトローニオを祀ったサン・ペトローニオ聖堂が着工されたが現在も未完成である。聖堂内部は広大で,当初の設計通り完成していたらおそらく世界最大規模の教会になっていたとされている。

 19世紀,イタリア統一国に参入し,経済危機からの脱却を図るべく改革計画が行われた。10年の間に,市内の主要道路は馬車4台分までに拡幅され,住居も2層分の増築(例:2階ならば4,3階ならば5)が行われた。その後も,富裕層によるボローニャの歴史的中心街の再建計画により,ボローニャの境界線を広げるべく市壁などを対象として,様々な取り壊しが行われた。また,第二次世界大戦の空爆によって,街は荒廃してしまったが,戦後,市民は再び街を再建するべく協働し,破壊された街並みの修復を行った。

 1969,新市街地の開発による農地縮小や農業衰退への懸念,また,職住近接型住宅の要求が強まり,「歴史的市街地整備計画」に基づく歴史的市街地の再開発が行われた。この計画は,住民参加のもとで,「低成長の中,自分たちはどのような環境で,どのように暮らすべきか」(星野 2006:147)を議論し,日常のコミュニティの営みを守ることがもっとも大切であるとする庶民のための低価格住宅構想である。これ以降,郊外の公営住宅に向けて使われていた資金は,歴史的市街地の老朽化した住宅群の買収や修復,再生に振り分けられた。買収した建物は,既存の外観を維持したまま,内部を鉄筋コンクリート構造に,設備は近代の物に更新された。また,間仕切りの変更や,屋根裏部屋などのスペースを活用し,住宅個数を増やした。

 現在のボローニャは,城壁跡につくられた環状道路に囲まれた旧市街地と,その周りに広がる新市街で構成されている。旧市街の中心にはマッジョーレ広場があり,それに面してポデスタ館(かつて神聖ローマ帝王が任命した行政長官の官邸)やサン・ペトローニオ聖堂が向かい合うよう建っている。以前12箇所あった城門は,地域の規模拡大に際して9箇所まで減少したものの,現在も街の目印として親しまれている。また,長い歴史の中で築かれた建物や道が,「ポルティコ」と呼ばれる街路に面して並ぶ回廊によって結ばれており,ボローニャの特徴的な街並みをつくっている。

住居の構成について,ボローニャのサン・レオナルド地区を事例に紹介する。サン・レオナルド地区ではスキエラ型もしくはそのスキエラ型住居が統合されて造られたリネア型住宅が並んでおり(2) ,ポルティコにより統一的なファサードをつくりだしている。住宅は1階部分を店舗や仕事場として利用し,2階以上には主人一家や従兄弟などが住む。2階への階段はそれぞれ独立して設けられており,1つの住宅の中に複数の住戸が入る。裏側の庭の向かいには別の住宅の庭が面している。もともと街道に沿って線的に発達したスキエラ型住宅は,その構造を残しながらも,都市の規模拡大に伴い,街道沿いのみならず街区全体で面的に発展していくのである。


参考文献

布野修司編『世界住居史』昭和堂,2005年。

星野まりこ『都市を創る市民力――ボローニャの大実験』三推社,講談社,2006年。

三上禮次『都市計画と住民参加――ボローニャの試み』自治体研究社,1991年。



2025年11月30日日曜日

ポルト:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

ポルト:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


 ポルト 港の中の港

ポルトガル、ポルト大都市圏


テキスト ボックス: 南ヨーロッパポルトガル北西部に位置する首都リスボンに次ぐポルトガル第2の都市ポルトの起源は,ローマ以前に遡り、ケルト文化の名残であるシタデルが市外に残存している。ローマ帝国時代、4世紀末にはオリシポ(現在のリスボンとブラカラアウグスタ(現在の ブラーガ)とを結ぶ港町として栄えてお  り,ポ ルトゥス・カーレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)の名で知られた。それが単にポルトと呼ばれるようになるのは、海上交通と河川交通の接点に位置して、ポルトガルを代表する港となったからであるが、ポルトガルの名もポルトに由来する。ローマ時代のポルト周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国をポルトガル王国と呼ぶようになるのである。

ポルトの名称が一般化するのは12世紀頃で,一方でポルトゥス・カーレはドーロ川と北方のリマ川にはさまれた広範囲な地域をさす地名となった。ゲルマン人による支配を経て,716 年に南から侵攻したモーロ人に占領され,3世紀半にわたってイスラーム勢力よって統治されたが、ポルトガルはいち早くレコンキスタを完了し(1092年)、ヨーロッパで最初の国民国家となる。

ポルトゥス・カーレは,カスティーリャ国王アルフォンソ6 世により1096 年にフランスブルゴーニュ地方出身の騎士エンリケ(アンリ)に譲渡され,その息子のアフォンソエンリケスによって1143年に建国されたのがポルトガル王国である。  

中心市街地は,ドーロ川河口の右岸の丘凌上に発達する。14世紀中頃には城壁が築かれ,中世から近代にかけて港湾都市として発展していく基盤が整備される。そして15世紀には大航

海時代をポルトガルが先導することになる。

その幕開けとなったエンリケ航海王子の1415年のセウタ(モロッコ)攻略の船団が出航したのはポルトからである。

17世紀以降、ドーロ川流域で生産されるワインの輸出港としての重要性が高まり,特にイギリスがポル トガル産ワインをフランス産ワインより1/3 安い関税で輸入するようになって(メシュエン条約締結)以降,イギリス向けの輸出が急増した。こうしたワインにおけるブドウ園の開発が急速に進められた。流域で醸造されたワインは,ラベーロス船と呼ばれる小型帆船を利用して河口のビラノバデガイア地区に運搬され貯蔵庫で熟成した後、ポートワイン(ポルト・ワイン)として出荷された。この市名を冠したワインはブランデーを加えて発酵を途中で停止させ,糖分を残したまま熟成させる独特の製法により醸造される。デザートワインとして好まれ,現在でもポルトガルを代表する輸出品1 つとなっている。

19世紀には郊外に延びる主要道路に沿って都市化が進んだ。とくに,1892年に都心の北西約8km の海岸に近代的な湾港設備を持つレーションイス港が完成してからは港に近いドーロ川以北の地域において市街地の拡大化が進んできた。

市内には、12世紀に建造され17世紀から18世紀にかけて改造されてきた銀細工の祭壇が見事なカテドラ14紀に建造された金泥細工とよばれるバロック装飾を施されたサンフランシスコ教会276mの高塔を持つバロック様式のクレリゴス教会31834 年に証券取引所として建設されたボルサ宮など,観光客に人気の高いスポットが集中している。また、市の発展とともにドーロ川の両岸を結ぶ橋梁の必要性が高まりドナマリアビア1877 ,図4ドン・ルイス1 世橋が(1885 年)が建造されたこれらを含む旧市街地は、1996年「ポルト歴史地区」(ポルト歴史地区、ルイス1世橋およセラ・ド・ピラール修道院)として世界文化遺産に登録された。

ポルト周辺は国内有数の人口稠密地域で,繊維,機械, 化学,食品,靴,陶器,家具など多様な製品を生産する工場が集積する。第二次世界大戦後の著しい都市化の結果, 実質的な都市圏は市域をはるかに超え,周辺15 自治体(ムニシビオ)とともにポルト大都市地域を構成する。この大都市地域はポルト県の北西からアベイロ県北部にかけて広がる。 

                (林はるか・布野修司)

参考文献

·        John Lomas, ed.(1889), "Porto", O'Shea's Guide to Spain and Portugal (8th ed.), Edinburgh: Adam & Charles Black, retrieved 2016-02-10

·        "Porto"A Handbook for Travellers in Portugal (2nd ed.), London: John Murray, 1856, OCLC 34745440, retrieved 2016-02-10






 



2025年11月29日土曜日

ストラスブール:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

ストラスブール:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


C10 境界都市-ラインラントの攻防

ストラスブールStrasbourg,バラン県Bas-Rhin、グランテスト地域 Grand Est,フランスFrance

 ストラスブールは、ゲルマン語起源で、ストラスブルグ、すなわち、道Straßの都市burgという意味である。古来、交通の要衝に位置したことをその名が表すが、現在も鉄道・道路ともに主要な幹線が交差し、ライン川にフランス最大の河川港をもっている。パリから真東約500kmに位置すし、ドイツに接しており、カールスルーエ、シュツットガルト、バーデン・バーデンに近い。ストラスブールは、フランスの東の玄関口としての役割を担う。

 しかし、ストラスブールの名はその起源から用いられていたわけではない。イリ川とライン川に挟まれたその地は肥沃であり、旧石器時代から人類が居住してきたが、都市としての起源はローマ時代に遡り、最初の街はアウグストゥスの義理の息子で皇帝クラウディウスの父となる大ドルーススことネロ・ドルースス(紀元前389年)によって建設される。その名はアルゲントラトゥムという。「銀の要塞」という意味である。 ライン川はガリアとゲルマニアの境界となっていたが、大ドルーススは、ライン川を初めて越え、ゲルマニア遠征を行い、エルベ川に達した軍人として知られる。 紀元12年までにアウグストゥスは、木柵と土塁による市壁を築き、ブリタニア遠征に出発する紀元43年まで、19.5haに及ぶ市域を維持した。要塞は、6970年のガリアーゲルマン叛乱によって破壊されるが、マインツの第14軍団が再占領、第8軍団が石灰石による市壁を建設、アルゲントラトゥムは、80年代終わりまでに市域240haまで成長している。そして、357年にコンスタンチヌスⅡ世(位337334)がアレマン人の叛乱を収めるためにユリアヌス(位361363)を派遣、市壁を強化し、362年以降、司教座が置かれた。現在のアルバルド通りがデクマヌスに比定されるローマ・クアドラータの内部(グラン・ディル)には、プラエトリウム(官衙)、公衆浴場が建てられ、城壁外にフォルムと円形劇場が建てられていた(図1)。

 406年にヴァンダル族がライン川を越えて侵入、455年にはフン族によって破壊されるが、フランク族によって再建されることになる。この時、フランクク族がつけた名前がストラスブールである。

 こうして、古代においてはローマとゲルマンの境界に位置したストラスブールは、フランク王国そして神聖ローマ帝国に属することになる。司教座都市として発展する。

 13世紀半ば、ストラスブール市民は、司教ヴァルター・フォン・ゲロルズエックの強権的支配(12311263年)に反乱、ハウスベルゲンの戦いで勝利して帝国自由都市となる(1262年)。そして、ルター、カルヴァンの宗教改革にいち早く呼応、1523年にはプロテスタントを受け入れ、市内にはプロテスタントの教会がカトリック教会と並んで建てられるようになる。

 ストラスブールにおけるカテドラルの建設は、8世紀のカール大帝の時代に遡るが、現在のカテドラルの起源となるのは1176年に司教H.v.ハイゼンブルグが建設開始し、1439年に完成したものである(図2)。主な建設者としてエルヴィン・フォン・スタインベックが知られ、1277年から1318年まで建設に携わった。一般にゴシック建築の代表作とされるが、その多くはロマネスク様式である。

 その尖塔は、高さ142メートル、シュトラーズブントのマリエン教会の尖塔が焼け落ちた1647年からハンブルクの聖ニコライ教会の尖塔が完成した1874年まで世界一の高層建築だった。現在でも、教会建築としては世界第6位の高さである。

 17世紀末、ルイⅩⅣ世が三〇年戦争によってドイツ圏のアルザスーロレーヌ地方を獲得すると、フランス王国に編入されて、フランス語風にストラスブールと呼ばれるようになる(1681年)。

 1871年、普仏戦争の結果、ストラスブールは再びドイツ帝国のものとなり、第一次世界大戦の結果フランスに返還される(1918年)。世界第二次世界大戦時の1940年ドイツの占領下に置かれ、1944年にナチス・ドイツの降伏と共に再々度フランス都市となる。

 1988年、イル川とライン川に挟まれた中洲にある旧市街「グラン・ディル」(図34)は世界文化遺産に登録された。「グラン・ディル」は、古代に遡るライン川の河床と人工水路を今日に伝え、カテドラルをその中心にもつラインラント・ヨーロッパ都市に特徴的な都市構造を維持していること、ストラスブール大聖堂はゴシック建築を代表する傑作であること、カテドラル周辺の景観は都市空間と水辺空間の調和を示していること、そして、フランスとドイツの影響を混在させていること、すなわち、ヨーロッパの歴史の重要な舞台となり、古代ローマ、中世、ルネサンス、フランス古典主義、近代都市の様々な様相を重層させていることが、その登録理由である。         (布野修司

【参考文献】

McEvedy, Colin2011, “Cities of the Classical World”, Allen Lane, 2011

内田日出海(2009)『物語 ストラスブールの歴史 - 国家の辺境、ヨーロッパの中核 』中公新書

UNESCO,World Heritage Center2014, “Plan de Gestion Strasbourg Grande-Île

1 ローマ時代のストラスブール推定図 McEvedy, Colin 2011

2 ストラスブール大聖堂 布野修司撮影




 



布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...