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2026年1月1日木曜日

「アジアにおける都市的集住形式の起源とその変容―都市組織と建築類型」歴博共同研究会「建築と都市のアジア比較文化史」,歴史民俗博物館,千葉県佐倉,2011年10月1~2日

 「アジアにおける都市的集住形式の起源とその変容―都市組織と建築類型」歴博共同研究会「建築と都市のアジア比較文化史」,歴史民俗博物館,千葉県佐倉,20111012

アジアにおける都市的集住形式の起源とその変容―都市組織と建築類型

布野修司

 

はじめに

「都市組織(urban tissue, urban fabric)」とは、都市を建築物の集合体と考え、集合の単位となる建築の一定の型を明らかにする建築類型学(ティポロジア)で用いられている概念である。また、建築物をさらにいくつかの要素(建築部品、部屋・・・)あるいはいくつかのシステム(躯体、内装、設備・・・)からなるものと考え、建築から都市を構成する建築都市構成理論[i]において用いられる概念である。

都市をひとつの(あるいは複数の)組織体と見なすのが「都市組織」論であり、一般的に言えば、国家有機体説、社会有機体説のように、都市を有機体に喩え、遺伝子、細胞、臓器、血管、骨など様々な生体組織からなっているとみる。ただ、都市計画・建築学の場合、第一にそのフィジカルな基盤(インフラストラクチャー)としての空間の配列(編成)を問題とし、その配列(編成)を規定する諸要因を明らかにする構えをとる。「都市組織」という場合、コミュニティ組織のような社会集団の編成がその規定要因として意識されているといっていい。集団内の諸関係、さらに集団と集団の関係によって規定される空間の配列(編成)を問題とするのである。

具体的に考察の対象とするのは、都市を構成する街区、あるいは居住地である。あるいは、それらが集合して成り立つ都市の全体である。わかりやすく言えば、都市を構成する単位としての住居あるいは居住関連施設とその集合形態としての街区のあり方である。住居の空間構成を規定する諸要因としては様々なものをあげることができるが、ここで主として焦点を当てるのは、土地(宅地)のかたち(地形(じがた))とその所有関係である。また、地形(じがた)を前提として成り立つ建築類型(住居の型)である。

本稿は、これまでアジア諸都市で行ってきた都市組織調査によって得られた具体的なデータをもとに、都市的集住形式に焦点を当てて、各都市の都市組織の差異と類似、起源と変容をめぐって比較考察したい。 

 

1 「町」と「町屋」

  まずは、身近な日本の都市をめぐって、比較の軸、視点を確認しておきたい。日本の都市組織としてテーマとなるのは「町」と「町屋」の起源、その空間構成である。

「町」は、マチともチョウとも読む。「マチは都市の街区、売買・交換の行われる空間、複数のチョウのまとまりを意味し、チョウは道をはさむ両側の空間、そこに形成された地縁的集団を意味した」(高橋康夫・吉田伸之編(1990b))。

「町屋(マチヤ)」(あるいは「町家」[ii])は、「店家(マチヤ)」ともいう。一〇世紀前半の成立とされる『倭名類聚抄』に「俗に云く東西ノ町是也、座して物を売る舎也」とあり、この一節が度々引かれるが、「東西ノ町」という「町」とは、東市と西市のことであり、「町(マチ)」は「市」を意味する俗語であったとされる[iii]。日本語の「町(マチ)」を売買・交換の行われる空間と規定するのは、その語源に関わって理解されるが、「町」は、もともと「田の字」型に区画された街区(条坊制)のことであり、その下位単位が「丁(ちょう)」である。従って、「町屋」の成立を、「店」あるいは「市」と関係なく、集住形式の成立として捕らえる見方も当然ある(野口徹(1988)野口徹(1992))。

問題は極めて単純で、戸建住宅と集合住宅という住居の二形式が日本ではどのように成立したのか、そこに「市」あるいは「店」、すなわち売買・交換の活動、機能が介在するかどうか、がテーマとなる。中国(語)の「店屋」(そしてその英訳であるショップハウスshop house)について本稿でとりあげるが、「店」→「店屋」→「町屋town house」(日本の場合「町屋」→「仕舞屋」)なのか、「町屋」+「店」→「店屋」なのか、という問題である。換言すれば、都市的集住形式が成立する主要な要因は何か、ということである。

日本の場合、「町屋」の成立過程は、平安京の条坊制、その「行門」(四行八門)制、築垣制の崩壊過程に関わっている。

 

条坊制

平安京の条坊制は『延喜式』「左京職」「京程」における大路小路の幅員その他の記述、『口遊』における条・坊・保・町・行・門の区画と数え方、『掌中歴』の京中指図、『拾芥抄』所収の諸地図などによって明らかにされる。実に体系的である。

テキスト ボックス: 図1-1 条坊→四面町本稿では街路体系には必ずしも踏み込まないけれど、大路小路は路面、側溝、犬行、築地で構成され、個々の幅員も知られる。単位は丈(10尺)[iv]で表され、朱雀大路は28丈、二条大路は17丈、東西大宮大路と九条大路は12丈、宮に面する大路は10丈、その他の大路は8丈である。また、小路は幅4丈で統一されている。

「町」は方40丈の正方形である。四行八門制と言われるが、4×832の宅地(戸主(へぬし))によって「町」が形成される。すなわち、1戸主は5条×10丈の大きさである。さらに四つの「町」によって「保」が、さらに四つの「保」によって「坊」が形成される、これほど単純明快な段階構成は管見の範囲では他に例がない。中国都城の理念型にしてもインド都城の理念型にしても、ここまで街区の規模とその分割について規定する例はないのである[v]

平城京から長岡京へ、長岡京から平安京へ、街区を収める街路体系は、「心々(芯々、真々)制」から「内法制」[vi]へ、すなわち、街路間の距離・街区面積を一定とする方式から斑給する宅地を一定とする方式へ進化している。この宅地配分の厳密性への拘りにも、都市空間の体系的構成への拘りをみることができる。

条坊制の「町」の内側には、宅地斑給のために「小径」が開かれる[vii]。『延喜式』「京程」は、「凡町内小徑者、大路辺町二、市人町三、自余町一」(「大路辺町」の場合は二本、「市人町」の場合は三本、「自余町」の場合は一本)という。「自余町」すなわち通常の「町」の場合、中央に南北の「小径」が設けられ、「市人町」では南北三本の「小径」が開かれるのは明快であるが、「大路辺町」の場合、すなわち、大路に面する「町」に二本の「小径」は、南北二本と考える通常の理解と異なって、足利健亮(1984)が言うように、東西南北二本の十字の小径と考えたほうが自然である。中国の「十字街」もひとつのシステムである。

辻子

平安京の条坊制の「町」が近世京都の「町」へ変容していく過程については、秋山國三・仲村研(1975)が四面町→四丁町→両側町という明快なパターンとして示すところである。条坊制の「町」は、12世紀前後以降、変化していく。まず、四辺を大路小路によって囲われ、二つの大路(小路)に面していた町が四面に開かれるようになる(四面町)。そして、この四面町の各一面がそれぞれと一丁として意識され始め、「町」が四つに分割される(四丁町、片側町)。さらに、町が四分の一に分割された「丁(片側町)」が、路を挟んで向かいの「丁」と一体化して両側町が形成される。

 一方、計画的に、あるいは土地の利用、所有の変化に関わる様々な理由で、街区が新たに分割されることが起こりうる。多くの場合、街区の内部の宅地へのアクセスをめぐって、「小径」が発生するのである。「四行八門」制の場合も、内部(32分割されたそれぞれの宅地)へのアクセスのために少なくとも一本、さらに二本、三本の小径が必要となることは上述の通りである。

秀吉は、京都の城下町化に伴って「町」を南北の小径によって二分割するいわゆる「天正地割」を施行するが、その小径を「突抜」という。また、江戸の場合などは「新道」というが、いわゆる街区の「あんこ」の部分へのアプローチが必要になることは自明であり、普遍的である。この街区分割に関しては、「辻子(図子)」をめぐる議論がある。

 高橋康夫と足利健亮との間の議論[viii]にここでは立ち入らないが、『京町鑑』及び『京大絵図』にみえる京都の「辻子」を全て列挙して検討した足利健亮(1984)によれば、「辻子」は南北通りのみならず東西通りにもみられることから、まさに街区を分割するための小径が「辻子」である。しかし、「辻子」という言葉には、もう少し限定的な語義と起源を認めることができるというのが足利健亮である。

 「辻子」は、辻(つじ)から来ており「つじし」が「づし」となったとも、語源は「十字」であり「じふじ」が転訛したものとも言われるが、その用法を見る限り、「町(家並み)・寺(寺並み)・大邸宅などが、その主要な頬(正面)を、しかも独占的に向けているという道以外のもの」をいう。すなわち、「辻子」は単なる小路であって町通りではない、町通りになる前の路を「辻子」という、のがポイントである。

 四面町→四丁町→両側町という「町」の構造が変化する過程で、四面に頬ができると、並行して、表通りから直接アプローチできないがいわゆる「あんこ」が成立することになるが、そのため頬を形成する町並みの間を抜ける小径が必要とされる。それが「辻子」であり、文献上の初出は12世紀に遡り[ix]、その発生の時期と対応していると考えられる。高橋康夫(1983)は、11世紀初頭には「辻子」が発生し、築地が崩され始めたとする。

 この「辻子」か、町通りかという足利健亮の議論は、中世城下町から近世城下町への変化を、「筋」と「町」の関係を軸として「タテ町ヨコ筋型」から「ヨコ町タテ筋型」への変化として捕らえる議論へ展開されるが、近世城下町の成立をめぐる議論が必要であり、ここでは触れない。確認したいのは、本稿が専ら焦点を当てるのが、街区の空間構成、すなわち宅地分割、街路と町の形成といったミクロな空間編成であるということである。

「町屋(町家)」が「店家」であり、「東西の市」にあって「座して物品を売る建物」のことである(『倭名類聚抄』)、ということについては冒頭に触れた。東西市の売買施設は「廛」と呼ばれたが「廛舎」も同じである。「町」「店」は早くから結びつく形で用いられてきたのであり、平安時代の末期になると、物(商品)の交換の場は官設市場であった「東西市」に変わって、「町(まち)」と呼ばれる通りに移る。

「町」は、条坊制の「町」がまさにそうであるように、都市における「田の字」の区画、すなわち街区を意味する。実際、「町屋(町家)」が必ずしも「市」や物品を売買する場所を意味しない用例もある。そして、「町」を構成する基本的要素として、すなわちひとつの建築類型として「町屋(町家)」が誕生する過程について、野口徹(1988)は、「町屋」を商業機能とは関わりなく成立した集住的建築様式とする。すなわち、既に存在してきた集住的な長屋形式の住居・付属屋が路面する形をとって「町屋」が成立するのが先であって、商業機能は後からついてきたとする。野口によると、「町屋」はあくまで「供給型住居一般の集住形式」であり「店舗」「商家」(店家)と起源を異にすることになる。

テキスト ボックス: 図1-2 店 町屋 絵図一方、その起源、語源に遡ると、「店家」→「町家」という過程が想定される。「東西の市」や「町」の成立に伴う商業施設の原像としては、仮設的な簡素な「小屋」掛けのような建築物が想定されるであろう。「座して物を売る舎」に限らず、「小屋」様の簡素な建物は町に存在してきた。そうした簡素な「小屋」から「町屋」が成立する過程でひとつの焦点となるのが「表長屋の町並み」(玉井哲雄(1986))である。『江戸図屏風』に見られる、店先に数種類の暖簾を吊る長屋形式の店舗を、玉井哲雄は「同業者集住の長屋店舗」とし、初期江戸の町は表長屋から零細独立町家が成立する過渡期にあるとする。この「表長屋の同業者店舗」について、『洛中洛外図屏風』をもとに京都について検討した高橋康夫(1989)は、同様の形式の存在を確認した上で、居住が行われたかどうか、すなわち、住居として用いられたかどうかについては、必ずしもそう思えないものもあるとし、「店舗」の諸形態として、立売の「台」、「床子・床」、「見世棚・棚」、「店」、「幄」、「仮屋・屋形」、「桟敷」について明らかにしている。「店」は、いわゆる「町屋」「店屋」(店舗併用住宅)であるが、専用店舗の長屋形式のものもあり、これは多くの場合仮設の小屋だという(「中世都市空間の様相と特質」)。「幄」は骨組みに幕を張った仮建築であり、台、床、棚、桟敷にしても仮設的である。立売りから棚売りへ、さらに「棚」から「店(たな)」(「見世棚」)「店(みせ)」へ、続いて取り上げるインドネシア・マレーシアのカンポンの場合でも、仮設の屋台(カキ・リマkaki lima)あるいは店舗(ワルンwarun)が常設の店(トコtoki)に変化するように、仮設の店舗が常設の「町屋」へ変化していく過程は一般的に想定される過程である。

町屋と宅地割

「町屋」の成立をめぐっては、以上のように2つの説があることになる。一般的には、売買に関わる仮説的な施設が常設化していったと考えられるが、野口徹(1988)のいう町屋出現のプロセスも考えうる。都市民衆が自立する過程が町屋形成の運動であったかどうかは別として、問題は、「町屋」そして商業活動を規定する制度的な枠組みである。18世紀前半にジャイ・シンⅡ世によって建設されたジャイプル(インド・ラージャスタン)のように、予め連続長屋形式の店舗併用住宅を都市の骨格に組み込んだ計画もありうる。野口徹(1992)も、立売りから棚売りへの変化、すなわち店舗による商いの発生が町家の出現と密接に関係していることは認めるところである。「町屋」の発生の原初形態において、街路に面して棚を出す権益が保障されること、そのために営業上の特権を獲得すること、その代償として保証者には一種の税を納入すること、といったメカニズムがあり、最低限の生活基盤を維持するのに精一杯であった零細商人層は営業と生活を分離する余裕はなかったとする(第二章三「軒役」について)。

野口徹(1992)は、京都衣棚町について、売券状、沽券状、譲状など土地家屋所有に関する証文(西村家所蔵史料)をもとに、宅地の形状、宅地割について詳細に明らかにしている。例えば、宅地間口が再編成される時期が元禄期、化政期、明治初頭であること、間口を併合拡大する方向で宅地割が変化していることが明らかにされている。最も鮮やかとされるのが、町の賦課の基準であった「軒役」に関する分析である。衣棚町に限定した考察であるが、近世京都における宅地割パターンを一般的に理解する手掛かりをわれわれは得ることができる。

アジア諸都市について、野口徹が用いたような史料が得られるとは限らない。というより、日本と同じような史料が得られることはむしろ稀である。しかし、基本的には、野口徹が着目した宅地の間口、奥行、形状、その集合形状を手掛かりに街区の宅地割のシステムを明らかにするのがティポロジアである。宅地の規模、形状とその上に建つ建築物を類型化することで、街区の変遷、宅地割の変化を明らかにすることができるとするのがティポロジアである。


 

 カンポン・ハウジング・システム

最も単純な事例をまずとりあげよう。筆者がアジアで最初の臨地調査を行ったスラバヤSurabayaのカンポンkampungの都市組織である。

カンポンという言葉の広がりについては、興味深いその語源を確認しておく必要がある。英語のコンパウンドcompoundは、カンポンに由来するのである(OEDOxford English Dictionary)。人類学で一般的に用いられるコンパウンド、ホームステッド、セトルメント、さらにホーム、ハウスといった言葉を検討する中で、椎野若菜は、カンポンという言葉がコンパウンドに転訛していく過程に西欧諸国の植民地活動があるとする[x]。すなわち、バントゥン、バタヴィアあるいはマラッカにおいて民族集団毎に囲われた居住地の一画を指してそう呼ばれていたのが、インドの同様な都市の区画も同様にそう呼ぶようになり(インド英語Anglo-Indian English)、カンポン=コンパウンドはアフリカ大陸の囲われた集落にも用いられるようになったというのである。コンパウンドというのは、①囲われた空間、あるいは②ムラ、バタヴィアにおける「中国人カンポン」のような、ある特定の民族によって占められた町の区画を意味する。まさに、カンポンはそういう空間である[xi]

今日、マレーシアでカンポンというのは行政組織の最小単位を指す言葉でとして用いられる。インドネシアではデサdesaが行政村であり、カンポンは一般的にムラ、自然村を指して用いられている。カンポンガンkampunganといえば「田舎者(イナカモン)」というニュアンスである。

ジャワ都市の肖像

 インドネシアにおける都市的伝統は極めて希薄である。インド化によって各地に王国が建設されたことはチャンディ建築と呼ばれる遺構群が示しているが、そのハイライトであるボロブドゥールやプランバナンと関わる(古)マタラム王国やシャイレンドラ王国の王都についてわかっていることは少ない。東部ジャワ期のクディリ[xii]、シンガサリ[xiii]についても同様である。古ジャワ語の碑文は数多く残されているが、年代記が著されるのはようやくマジャパヒト[xiv]時代(1293年~1520年)に入ってからで、『デーシャワルナナ(地方の描写)』(別名『ナーガラクルターガマ(聖教に秩序づけられた王国)』)(1365年)と16世紀初頭の『パララトン(諸王の書)』があるにすぎない[xv]

スラバヤの名の文献初出は14世紀であるが、11世紀の碑文には、その前身としての港町が記されており[xvi]、古くからの交易都市として東西貿易に組込まれていたとみていい。ヒンドゥー・ジャワ王国の東部ジャワ期の中心都市クディリ、シンガサリ、マジャパヒトの各王朝の首都とスラバヤはブランタス川[xvii]を通じて結ばれていた。C.ギアツのいう「ヌガラ都市(ジャワの内陸国家の首都)」の重要な港町として、都市の基礎がつくられ、イスラーム化、植民地化を経ながら、パシシール(ジャワ北部沿岸地域)地域の他の交易都市と同じようなパターンで発展してきたと考えられる。ジャワあるいはスラバヤにおける都市形成については、布野修司(1987)布野修司(1991)に委ねたいが、スラバヤの原像として、ジャワのパシシール(北岸)地域に共通の、都市核に宮殿、モスク、市場を配するジャワ・イスラーム都市(バントゥン、スンダ・カラパ(ジャカトラ)、デマなど)の基本的構成が想定される[xviii]。当時、アユタヤと並ぶ大都市であったバントゥンのカンポンと呼ばれる住区は、西欧人の眼には極めて特異に写った。その樹木に囲われた景観は都市というより村落のようである。A.リードは、西欧の都市とは異なる都市集落の様子について書き記した旅行者や宣教師の言葉[xix]を引いている[xx]。都市は小さな屋敷地の集積からなっており、多くの家があるけれど、木々で覆われていて見えないこと、農村的生活が都市においても続けられていることなどである。樹木で覆われた屋敷地が集まって、周囲を柵や土塁で囲われた住区がカンポンである。

テキスト ボックス: 図2-1 19世紀初頭の地図(1825年、図2-1)を見ると、スラバヤの周辺はほとんど湿地帯であり森である。スラバヤの町は島のように浮いているように見える。ジャワ人のカンポンもまばらである。ダーンデルスDaendels[xxi]の時代(180811年)に、本格的な都市建設が始まる。道路が建設され、中心部の再開発が行われる。ジャワ戦争(182530年)を経て、防衛のために要塞や堀が築かれる。カリ・マスKali Mas要塞である。要塞で囲まれた市域は、東西1850m、南北2700mほどである。周辺部を加えると900㌶、約78,000人のジャワ人が居住していたとされるから、2世紀経てそう人口が増えたわけではない。急成長していくのは1830年からの強制栽培期以降である。

テキスト ボックス: 図2-2 19世紀中葉の地図(1866年、図2-2)を見ると、中心部の様子がわかる。その西半分、カリ・マス川の西がヨーロッパ人の居住区である。オランダ人は、ニアガNiaga通りの北を占めていた。そして東半分が、4つに分けられている。北からジャワ人のカンポン、アラブ・カンポン、マレー・カンポン、チャイニーズ・カンポンが並ぶのである。チャイニーズが居住していたのは、現在のクンバン・ジュプンkembang Jepun[xxii]の周辺である。アラブ人は、ンガムプランガンNgamplungun通りの周辺に集中していた。現在でも、アンペル周辺にはアラブ人が多く住んでいる。

 スラバヤは北から南へ発展していく。20世紀初頭には、市域は4275㌶に拡大し、人口約15万人となる。そして、1920年には約20万人、1930年には約33万人にも膨らんでいく。スラバヤの発展は、戦後、特に60年代から70年代にかけてすさまじいものがある。1950年に71.5万人、60年に99万人、70年に155万人、80年に203万人、まさに倍々で増えてきた。以下で扱うカンポンは1983年から1984年にかけて行った臨地調査を基にしている。

 

ルーマー・カンポン

 カンポン住居の基本型

 カンポンの住居(ルーマー・カンポンrumah kampung)は実に多様である。同じカンポンでもかなり違う。規模をみても10㎡にみたないものから、200㎡を超えるものまで千差万別である。しかし、一見多様に見えるカンポンの住居にも一定のパターンがある。その原型があり、標準型があり、空間の構成に秩序がある。

 カンポン住居の原型は、四畳半ほどのワンルーム住居である。次に二室住居がある。居間=客間(ルアン・タムRuang Tamu)と寝室(ルアン・ティドゥールRuang Tidur)が分化するのである。いずれも、洗濯や水浴びは戸外で行われる。敷地の中に井戸が掘られる。もう少し規模が大きくなると、井戸の部分が室内化されて、厨房(ダポールDapur)や浴室(カマール・マンディーKamar Mandi)がつくられる。こうして、できあがるのがカンポンの標準住居である。

 敷地に余裕がある場合、次に、水平方向への増築が行なわれ始める。子供が増えたり、親戚を呼んだり、家族数が増えるのに対応するための増築である。こうした、住宅建設のプロセスが無数に重なりあってびっしりと建て詰まったのが、カンポンである。 

テキスト ボックス: 図2-3 カンポンを歩いていて、まず気がつくのは道路に対して棟を直交させる妻入りの住居が圧倒的に多いということである。そして、開口が狭く、奥行きが長い、細長い平面形をもつものがほとんどである。そうした住居に入ってみると、まず、道路に接して、表の側にルアン・タムと呼ばれる部屋が置かれている。ルアン・タムは極めて多様な用途に用いられているが、日本語でいえば、居間(=客間)である。エントランスに続いて、ルアン・タムが置かれるのは、ほとんど全ての住居に共通である。ルアン・タムは、明確な空間単位として区切られることは稀であり、ドアなどで仕切られることなく、後方のスペースに繋がっていく。後方には一般に、ルアン・ティドゥールと呼ばれる寝室がいくつか並べて置かれ、最も奥にはダポールと呼ばれる調理スペースおよびカマール・マンディーと呼ばれる浴室・トイレ兼用のスペースが置かれる。住居のエントランスからもっとも遠い後方に水回りが置かれるのも、ほとんどの住居に共通である。

 基本型は、しかし最初から建てられるわけではない。以上のように、必要に応じて徐々に建て替えられ、増改築が重ねられてくるのが一般的で、それとともに構造もテンポラリーなものからパーマネントなものへと変化していく。

 多様にみえるカンポンの住居も様々な条件、特に敷地分割の条件から、一定の型をもっているのである。

カンポン住居の類型

 カンポン住居のフィジカルな構成を大きく規定するのは、その架構形式である。架構形式を規定するのは、カンポンの敷地条件であり、アクセスの条件である。高密度居住を実現するために、開口が狭く、奥行きが長い敷地分割が進行してきた。それに合った架構形式が一般化してきている。カンポンの住居は一般に妻入りで、棟(むね)とアクセス道路は直交する。そうした意味で、妻入り住居と平入り住居がまず区別される。

 妻入り住居の架構形式は、基本的に共通である。寄せ棟もみられるが、切妻が一般的で、間口は異なるものの、屋根架構にはトラスが組まれる。トラスは部品化されて建材店で売られている。そうした事実は、カンポンの住居の架構形式が一定している一つの証左となろう。カンポン住居は、規模が大きくなると、妻入りの架構ユニットを横に並べる形で構成される。増築も一般的には棟を増やすことによって行われる。最大四つの棟をもつ住居をみることができた。そこで、棟の数によって架構形式を分類することができる。その分類は、以下のようになる。

 A.妻入り一棟型

 B.妻入り二棟型

 C.妻入り三棟型

 D.妻入り四棟型

 E.平入り型

 さらに、平屋か二階建てかが区別される。また、敷地に余裕がある場合、増築が分棟として行われる場合がある。そこで、分棟型もしくは中庭型の住居タイプが区別される。

 F.二階建て

 G.分棟型・中庭型

具体的な個々の類型についてはここでは省略したい。 

カンポンの構成原理

 カンポンの住居は必ずしも最初から完成した形で建てられるわけではない。必要に応じて徐々に建て替えられ、増改築が重ねられてつくられる。構造も、竹造や木造のテンポラリーなものから、煉瓦造や石造、鉄筋コンクリート造のパーマネントなものへと変化していく。まず木造のバラックを建て、余裕ができると、まず、前部をテンボッtembok壁(煉瓦造)などパーマネントな構造に建て替える。後部は、グデックgudeg(バンブーマット)のままである。そんな住宅をカンポンでは数多くみることができる。

 部屋の増築は、様々な形で行なわれる。住居の全面に、トコ(店)やワルン(屋台)を増築する例が目立つ。屋外にあった、カマール・マンディーを室内化するケースもある。二室住居がカンポン住居の標準型へと変化するパターンである。前面と後方の両方に増築する例もある。いずれも、大きなモメントとなるのは、家族人数の増加である。

 敷地に余裕がない場合、いよいよ建て詰まった場合、垂直方向への増築が行なわれる。一部居室を二階に増築するのが初期の形であるが、既に総二階の形も現れている。標準型をそのまま重ねたものもみられるのは興味深いが、間口(スパン)が狭いため、階段がとりにくく、二階建てのカンポン住居の一般的型はまだ成立していない。

 多くの住居の変容(更新)過程をみていると、多様なカンポン住居がいくつかの系統に分かれてみえてくる。住居というのは、確かに、ひとつのプロセスなのである。 

 カンポンは、自然発生的に、無計画に形成されたと考えていい。オランダ人居住区やその周辺など、一部において、都市計画的な構成がなされた例はあるが、一般には、決まったパターンはない。しかし、以上に簡単に見たように、個々の住居の更新プロセスついては、一定のパターンを認めることができる。無秩序に見えるカンポンも、そうした個々のプロセスが無数に重層することによって出来上がっているのである。

 散在的な集落が都市内化される場合、空地が次第に占拠される場合、また、歴史的に形成された既成の枠組み(法・制度)が存在する場合など、そのプロセスが一様でないことは言うまでもない。しかし、モデル的には以下のようにイメージすることができるのである。

 最初の段階では、点々と居住が開始される。アクセス道路に対して、向い合う形をとるのが自然であろう。土地の所有および使用は慣習法に基づく。既存の村落が存在する場合、その村落組織によって占有形態は制御される。また、不法占拠の場合にも居住者の間にルールがつくられるのが一般的である。最初は簡単な小屋掛けの住居である。廃材を利用した掘立て小屋も多い。木あるいは竹のスケルトンで、壁はグデック(バンブーマット)、屋根はニッパヤシの葉(現在では、竹の垂木に瓦)で葺かれる。切妻の、いわゆるカンポン・スタイルの住居である。早い段階で井戸が掘られる。スラバヤのカリ沿いの居住地にも井戸が掘られていた。飲料水には不適であることが多いのであるが、生活用水を得るためには井戸は不可欠である。

 住居タイプは、一室住居(A-1)、二室住居(A-2)、あるいはA-3といった平面構成であろう。マンディー、洗濯、料理などの生活行為は戸外である。必要に応じて部屋が増築されていく。また、住居の構造は、グデック壁のようなテンポラリーなものから、セミ・パーマネント、そしてテンボッ壁のようなパーマネントなものへと改築されていく。 人口圧がそう高くない場合、カンポンの構成が異なった展開をとった可能性はある。敷地に余裕がある場合、農村の住居の平面構成がそのまま持ち込まれる傾向があるのである。居住密度が高まるにつれて、敷地の細分化が進行していく。アクセス道路を中心に、向かい合って、間口の狭い住居が密集する形式は、カンポンに限らない。

 四半世紀を経て、同じカンポンを調査する機会があった。驚くほど変化が少ない。以上のような更新システムが機能してきたと考えられる。

 


3 チャクラヌガラ

ヌガラ

カンポンのようなアモルフに見える都市組織とは異なり、コスモロジーを基礎にした、都市形態から住居形態まで一貫する都市組織のありかたを示すのがバリ島の王都である。いささか図式的であるが、ヒンドゥー教の世界観とされる、天人地、マクロコスモス、メソコスモス、ミクロコスモスの3層構造が投影されたものとして、バリ島全体、都市・集落、住居を理解することが出来る[xxiii]

C.ギアツは,いくつかの留保をしながらも[xxiv],バリのヌガラという国家,政治体系の解明,そのモデル化が,①伝統的インドネシアにその名を知られた強大な国家―マタラム,マジャパヒト,シュリーヴィジャヤ,さらには②「東南アジアのインド的国家」全般―ビルマ,タイ,カンボジア,南ベトナム,マレー―の理解につながるという。

テキスト ボックス:  
 
図3-1 ロンボク島とチャクラヌガラ
ヌガラnegara(ナガラ,ナガリnagari,ヌグリnegeri)はインドネシア語で,「町town」の他「宮殿palace」「都capital」「国家state」「王国realm」を意味する[xxv]。最も広くは,ヌガラは「文明」,都市文化と都市に中心を置く上部政治権威体系を意味する。ヌガラの反対がデサdesaである。同じようにサンスクリット語源であるが,「村落部countryside」「領域region」「村village」「場所place」,そして「従属dependency」,「統治地域governed area」を意味する。最も広い意味で,農村世界,「民衆」の世界を意味するのがデサである。インド的宇宙観の大陸からの移植という大きな脈絡において,このヌガラとデサという対比的世界の間に発達してきたのがバリの政治体系であり,それを「劇場国家」とC.ギアツは呼ぶ。すなわち,支配,公権力,暴力の独占といった統治を目的とするのではなく,地位そして威厳,その秩序を表現する集団(国家)儀礼そのものを目的とするのが「劇場国家」(王と君主が興行主,僧侶が監督,農民が脇役と舞台装置係と観客)である。そこで「王宮=都」は,「超自然的秩序の小宇宙」であると同時に「政治秩序の有形的具現」である。「王宮=都」は,「国家の模範的中心」であり,宮廷の儀礼生活,そしてその生活全般が,単に社会秩序を反映するばかりでなく,その範例となる。宮廷生活が反映するのは超自然的秩序であり,人がそこに定められる地位に厳密に則ってその生を形づくるべき「神々の超時間的インド世界」である。

このバリのヌガラ、そしてさらに他のヒンドゥー都市については『曼荼羅都市』(布野修司(2006))に委ね、ここでは18世紀前半にバリのカランガセム王国の植民都市としてロンボク島に建設されたチャクラヌガラをとりあげたい[xxvi]。サンスクリット語のチャクラcakraとは、一般には、インドの神秘的身体論において、脊椎に沿っていくつかある生命エネルギーともいうべきものの集積所[xxvii]をいうが、文字通りには「円」、「輪」、「円輪」(輪宝)を意味する。ヌガラ(ナガラ)negara/nagaraとは、「町」、「都市」あるいは「国」である。チャクラヌガラとは、直訳すれば「円輪都市」ということになる。

街路体系

 チャクラヌガラの街路は3つのレヴェルからなっている(図3-2 街路体系図)。街路幅が広いものから順に、マルガ・サンガ marga sanga、マルガ・ダサ marga dasa、マルガ margaと呼ばれる。マルガは、サンスクリット語で「通り」、サンガは9[xxviii]、ダサは10を意味する。マルガ・サンガはチャクラヌガラの中心で交わる大通りである。このマルガ・サンガは正確に東から西、北から南に走り、四辻を形成する。マルガ・ダサが各住区を区画する通りであり、マルガが各住区の中を走る通りである。

 実測によるとマルガ・サンガは東西の通りで3650m、南北の通りで4500mである。古い壁はほとんど残されておらず、現状の中心部付近の値である。マルガ・ダサの幅は、平均1720m(測定数12)であるが、12.8621.60mとばらつきがあって平均には意味がない。マルガ・ダサの内、街区の骨格がしっかりしている壁の残存状態がいい地点の値を取り出すと、18.70m18.56m18.54m18.36m18.07m17.80m16,90m(以上平均18.13m)と計画的であることははっきりしている。マルガの幅もばらつきがあるが、壁の保存状態がいいところを取り出すと、8.52m8.38m、7.89m7.87m7.71m7.52m(以上平均7.98m)とほぼ一定しており、計画的である。チャクラヌガラの街路幅員は、およそ8m18m36m45m)というヒエラルキーをもっていることは明確である。

チャクラヌガラの街路について興味深いのがタクタガンtagtagan[xxix]である。タクタガンとは街路の両側に設けられた植栽スペースである。古老たちに依れば、「テンボッ壁と道の間のタクタガンの所有権は王に属した」という。ただ、アダットadat(慣習法)では、タクタガンはプカランガンpecarangan(屋敷地)に属しており、ココナツや果樹を植え、果実を獲ることができた。また、ウパチャラupacara(祭)の際に用いられた。逆に、プカランガンの中で儀式を行うことは禁じられていたという。すなわち、タクタガンは、今日の言葉で言うと、半公半私の空間であった。植栽が行われ都市景観を演出し、祭祀の際には祝祭空間となる場所であった。しかし、近年は私有化が進行している。18678年に中国人がマルガ・サンガのタクタガンを商業地として買い上げている。今日では、マルガ・サンガ沿いのタクタガンはほとんどが中国人所有の商店として利用されている。また、マルガ・ダサやマルガ沿いのタクタガンも屋敷地に取り込まれている例が多く見られる。計測した街路幅員のばらつきはこのためである。すなわち、境界が曖昧になっているからである。実測したタクタガンの幅員は、マルガ・サンガの場合、11.60m、マルガ・ダサの場合、46mであった。

 チャクラヌガラの計画性は、プカランガンの区画の測定からよりはっきり裏づけることができる。古い壁の残るプカランガン112について計測した結果、東西方向の平均は2643m、最大は3044m、最小は2508m、また南北方向は平均2496m、最大は27.73m、最小は2155mであった。四捨五入してメートル単位にまるめ、最頻値をとると、東西が26m、南北が24mである。

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図3-3 プラとカラン
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図3-2 チャクラヌガラの街路体系
 プカランガンが計画的に区分されたことはいくつかの聞き取り調査でも明らかになった。チャクラヌガラの中心地区に住む古老(Lala Lukman)によれば、「プカランガン(屋敷地)の計画寸法は25m×25mであり、宅地を測る単位としてトンバ tomba があり、トンバは槍の長さであり約25m、25mというのはその10倍であるという。そして、タクタガンの幅は2トンバ、約5mであるという。また、別のインフォーマント(Ide Bagus Alit)によれば、1プカランガンは8アレ are800㎡)であり、正方形である、という。これには、「1プカランガンは6 are 600㎡)である。」という異説がある(P.Jelantic)。

実測によると厳密に正方形のプカランガン(屋敷地)は存在しない。ただ、トンバに幅があるとすれば、ほぼ正方形と言っていい。いずれにせよ、宅地規模について基準が設けられていたことは明らかである。上の実測値による屋敷値の平均面積は26.43m×24.96m659.69㎡(25m×26m650㎡)でおよそ古老の話に符合していることになる。

マルガ・ダサで囲まれたブロックは、マルガで縦(南北)に4つの部分に分けられ、短冊状の各小ブロックは、背割りする形で南北方向に10宅地ずつ合わせて20宅地からなる。トンバを約2.5mとすると、その10倍がプカランガンの南北の長さ(25m)となり、さらにその10倍がマルガ・ダサで囲まれたブロックの長さ(250m)になる。マルガ・ダサのダサがササック語で10を意味するのは、10を以上のように基準としたからであろう。

東西方向のブロックの長さを計算すると、およそ、屋敷値寸法(東西)26m×2×4+マルガ幅8m×3232mとなる。マルガ・ダサの幅を18mとし、中心までの寸法9mを両端で加えると232m9m×2250mになる。マルガ・ダサで囲われる1ブロックの寸法は、ほぼ250m×250mの正方形として計画されたというのが推論となる。南北方向は内法、東西方向は芯々というかたちである。いずれにせよ、寸法体系としてトンバを単位に10×10100×100という単位でプカランガン、ブロックが考えられていることは明らかである。

街区の構成は、むしろ、中国都城の理念が持ち込まれた日本の都城に近い。実にユニークなヒンドゥー都市がチャクラヌガラである。

プラとカラン

 寸法計画の面からは、以上のように、マルガ・ダサで周囲を囲まれたブロックが1つの住区を構成していたと考えられる。また現在のカランの構成パターンもマルガ・ダサを境界とするものがあり、マルガ・ダサで囲まれたブロックが一つの住区を構成していたと考えるひとつの根拠になる。

 古老(Lala Lukman)によると、南北に走る1本のマルガに10ずつの宅地が向き合う形が住区の基本単位である。そして、この両側町をマルガと呼び、2つのマルガで1クリアンkriangを構成する。クリアンとは、バリでは、コミュニティの単位であるバンジャールの長を意味する。また、2クリアンすなわち80プカランガンで1つのカランkarang(住区)を形成する。

現在、カランはインドネシアの行政組織においてはルクン・ワルガRW[xxx]に対応する組織となっているが、かつては祭祀組織の単位であったと考えられる[xxxi]。「建設当初、各カランはバリの同一集落出身の人々で構成されていた。また、当初、チャクラヌガラは33のカランからなり、各カランに1つのプラがあり、チャクラヌガラの中心寺院であるプラ・メルにそれに対応する祠があった。そして、各カランに長がいた」と伝えられる[xxxii]。実際、プラ・メルには、今日も33の祠がある。

 現在のチャクラヌガラのカランの分布を見ると、マルガ・ダサで囲われたブロックがそのままカランとなるものは必ずしも多くない。むしろ、南北に、あるいは東西にマルガ・ダサを越えてカランガ形成されている場合が多い。しかし、基本的には、上のマルガないしクリアンを単位としてカランガ形成されていることははっきりしている。逆に、マルガ、クリアンの単位が崩れているところは、当初の計画域外か、大きな変化を被った地区とみなすことが可能である。

 チャクラヌガラの中心にはプラ・メル[xxxiii]が位置する[xxxiv]。メル(メール山、須彌山)の名が示すように、世界の中心であり、ロンボクのプラのうち最大のものである。東西にのびるチャクラヌガラの主要道に面し、周囲は赤煉瓦の高い壁に囲まれて建っている。上述したように、バリのカランガセム王国の王、アグン・マデ・ヌガラ Agung Made Ngurah によって、ロンボク島の当時の全ての小王国を統合する試みとして、1720年に建立された。

 チャクラヌガラの西端にはプラ・ダレム pura dalem(死の寺)が、東端にはプラ・スウェタが位置する。プラ・プセpura puseh(起源の寺)、プラ・デサ、プラ・ダレムの3つの寺のセットはカヤンガン・ティガと呼ばれ、バリの集落には原則として設けられている。ただ、バリの場合は南北にカヤンガン・ティガが配置されるのが原則である。チャクラヌガラの場合、東西に並んでいるのが異なっている。

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図3-6 プラ・メルの敷地図 
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図 プカランガンの構成
 プラ・メルの東端部の領域スワには様々な神々を奉る塔や小祠が配置されている。中央の塔は11層の屋根をもち(11重塔)、シヴァ神を祀る。北側の塔は9層の屋根をもち(9重塔)、ヴィシュヌ神を奉る。この塔の屋根は瓦で葺かれている。南側の塔は7層の屋根をもち(7重塔)、ブラーフマ神を奉る。 北東の角には、男神サンブSambhuを奉る石造の小塔がある。塔の前には、同じく小さな石塔が3つ置かれ、北からリンジャニ山、男神ウングルラUngerurah、サンガ・アグン(大聖祠)に捧げられる。そして、高くそびえ立つ3つの塔を囲むようにして、北側に13棟、東側に16棟、計29棟の小祠が建てられている。それぞれの祠にカラン名が書かれている。プラの管理者によれば、チャクラヌガラと周辺の村を合わせた33のカランによって維持管理がなされている。

何故、33というカランの数については偶然ではない。古く、ヴェーダの神々が33と考えられていた。古代アーリヤ人にとって神々は自然現象を神格下したものであり、天界・空界・地界の三界(トリ・ローカ)のいずれにも神々は存在すると考えられていた。天神ディヤウスや太陽神スーリヤ、その具体的な力としてのサヴィトリなどは天上界に、雷神インドラ、風神ヴァーユ、雨神パルジャニなどは空界に、地神プリティヴィー、火神アグニ、酒神ソーマなどは地界に、各界に11神、合わせて33神が配される[xxxv]

プカランガン

 チャクラヌガラの住居、個々のプカランガン(屋敷地)は、バリ島のそれと同じとみていい。すなわち、ヒンドゥーのコスモロジーに基づいて一定のルールに従って構成される。

 バリ島ではオリエンテーションの感覚はきわめてはっきりしている。まず、日の出の方向は

 

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図3-
4 「四合院」と「店屋」

 中国における都市的集住形式と言えば「四合院」である。この前後左右の分棟で中庭を囲む「四合院」という形式が、住居のみならず、宮殿、壇廟、寺観、官衙なども含めてあらゆる建築類型に用いられることは中国建築の大きな特質である。そして、明・清に遡る現存の「四合院」が遙かに時代を遡るものであることが明らかになっている(田中淡(1995))[xxxvi]

この分棟形式で中庭を囲む「中庭式住居courtyard house」の形式は古今東西にみることができ、四大都市文明にも共通するものである。バリ島のコンパウンド(プカランガン)の構成も大きく分けるとすれば「中庭式住居」の系列になる。

 それに対して、連棟形式の日本の「町屋」の形式は別の系譜に属する。中国では「店屋」がその系譜にあたる。「店屋」の成立、「四合院」と「店屋」の関係について以下にみたい。

「市」

 中国古代の商業と貨幣経済の発展については、様々な研究(影山剛(1984)佐藤武敏(1962)など)が積み重ねられてきているが、「市」[xxxvii]の具体的形態が伺えるのは漢代以降である。成都付近出土の後漢代の画像磚によると、常設市は牆壁(闤)で囲われ、中には、「市廛」「隧」「肆」がある[xxxviii]。「市廛」は「市物の邸舎」(倉庫)、「肆」は店舗の列、「隧」は「列肆の道」を意味する。「肆」は唐代の「行」であるが、画像磚に描かれる列肆の長屋形式の建物は「店」の原型である。平安京の東西市の「座して物を売る舎」もおそらく同様の形態であったであろう。

 漢代の「市」については、佐原康夫(2002)(第三部「市場と商工業」「第一章 漢代の市」)が「長安」の「九市」の他、地方の「市」の種類(常設市と定期市)と立地を明かにしているが、「市」は上述の画像磚から推測されるように、牆壁で囲われて場所が限定され、時間的にも開門閉門などの時刻が決められており、度量衡、価格、営業登録、税など国家管理のもとに置かれていたと考えられている。

 中国の「市制」の起源は、農業生産の伸展、人口増加、交通網の発達、商業の発展に関わる。春秋時代には各国の「城市」の郭内に「市」が存在し、ある程度組織的に運営されていたことが推測されるが、国家的管理機構があったわけではない。「市」が発達し始めるのは戦国時代で[xxxix]、「市」の管理を行う「市吏」が現れ、各国で「市制」の整備が行われ始めたことが確認されている。地方における「市」は、街道筋に設けられた「亭」と関わっていたことが指摘されるが、戦国時代後期の「城市」になると、郭内に「府」「庫」「倉」といった財政機構が設けられるようになり、「市制」もその中に組み込まれていくことになる。そして、その「市制」は秦漢の「市制」に受け継がれることになる。

 おそらくは秦による中国統一前後に確立したと考えられる漢代の「市制」と唐代の「市制」は多くの類似点があるが、「市」の設置が、唐代には原則として城内に限られる点が異なる。佐原康夫(2002)は、「亭制」に基づく漢代の「市制」と「坊制」に基づく唐代の「市制」の違いである。

「里」と「坊」

秦の始皇帝が国土をすべて皇帝直轄地とし(前221年)「郡県制」を敷いて以降、中国における地方行政区画制度は、漢代の「郡国制」を経て、唐代には「州県制」に変化していく。秦漢において郡県を構成していたのは、「郷」であり、「亭」であり、「里」である。その具体像、また相互関係については、いくつの説があり、議論があるが[xl]、集村型の聚落から都市国家が発展してきたと考える宮崎市定は、基本的に「郷」も「亭」も周囲に城郭が廻らされており、本質的に差異がないと考え、「里」はその城郭内の居住区画であるとする[xli]。この宮崎説によると、農民たちは郭内に住んでいたことになるが、これに対して、「里」を自然村とする説がある。宮崎説以前の論考は基本的に「里」を自然村としており、里の戸数も一定ではなかったと考えている[xlii]。それに対して、「里」を行政村と考える説もある[xliii]。その場合、一〇〇家=一里(『続漢書』百官志)を標準と考えるのが一般的である。問題は、「里」を自然村と考えるか行政村と考えるか、城郭外と考えるか城郭内と考えるか、さらに自然聚落か計画聚落か、ということになるが、いずれにせよ、秦漢における地方行政区画の最小単位は家族によって構成される隣保組織としての「里」である。「里」は壁で囲われ、門を「閭」といい、「里」中の道を「巷」と呼んだ。それ故、「里」のことを「閭里」ともいった。

 この「里」に変わって、都市区画の名称として、唐代以降「坊」が公式に使われ始める。「坊」は「防」が訛ったもので、防壁である防牆で囲まれた街区をいう。後漢末から魏晋南北朝にかけての動乱期に出現したとされる。「坊」が外郭城全域に造られたのは北魏平城が最初である。北魏洛陽については『洛陽伽藍記』によって、「坊」は東西巷と南北巷によって十字街に分割されていたことが知られるが、北魏平城の「坊」も同様であったと考えられている。

「里」も上述のように同様の形態をしており、「坊」との大きな差はないことから「里坊制」という言葉も用いられるが、一般には、都市組織、都市街区について「坊」が用いられるようになったということで「里制」と「坊制」は区別される。「坊」という行政区画名は、防牆壁が無くなって以降も明、清まで用いられるから、唐代までの「坊制」は「防牆制」と呼んで区別される。

 この「坊制」あるいは「防牆制」[xliv]を基にしていたのが唐代の「市制」である。「店屋」の成立が問題となるのは、この「防牆制」に立脚した「市制」の崩壊以降ということになる。

房廊

「防牆制」は、唐代末期には崩壊しつつあったとされる。唐末の混乱のなかで、防牆を破壊し、入口を街路に開いたり、街路を占拠して舎屋を建てる「侵害」が行われてきた。平安京における「条坊制」の崩壊過程と並行する現象である。

北宋の首都・開封において、「防牆制」は最早実態をともなっていなかった。久保田和男(2007)によれば、「防牆」は存在したけれど、新たに坊門や「防牆」が建設されることはなく、街路に面して建造物を建てることは公認されており、「侵害」に悩まされ、夜禁とともに坊門の開閉が行われることなく、治安維持、都市住民管理とは無関係であった(「第五章 治安制度と都市空間の構造」)。そして、「坊制」の崩壊とともに「市制」も崩壊していく。城市内の「坊」に場所を限定されていた「市」は、その場所と形を変える。全国的市場が成立するとともに、「県」のなかに、「鎮」「草市」「虚市」「歩」「店」などと呼ばれ、「鎮市(市鎮)」と総称される小都市、集落が発達してくる。

唐末から北宋にかけての商業の拡大、都市化の進展についての研究はこれまで数多く積み重ねられてきている。例えば、斯波義信は、宋代における都市、市場の発展を明らかにする一連の研究において、都市的土地家屋、「邸店」「房廊」「停塌」(旅館倉庫業)といった建物の地代、賃借料を収入とする富裕層の出現や、「客商」(遍歴商人)とその組織である「商幇」(同郷商人集団)の成長などを明らかにしている((斯波義信(1968))斯波義信(2002))。唐以前においては、商業用倉庫は「邸」「店」ないし「邸閣」「邸店」と称され、城市の「市」の壁に沿って設けられていたとされるが、「市制」の崩壊に伴って「邸」「店」は、「市」壁外に設けられるようになり、また他に「塌坊」「垜場」と呼ばれる倉庫業が発生した[xlv]。一方、唐代から既に街道上に「店肆」(旅館)が存在してきたが、仲買を行う「客商」のために、倉庫業と旅館業を兼業する形で出現してきたのが「邸店」「房廊」「停塌」である。地方では「店肆」を核として「鎮市」となる事例が出現する[xlvi]

こうした新たな建築類型、そして新たな都市組織(街区)の具体的な形態については必ずしも明らかにされているわけではないが、首都・開封における「市」のあらたな形態、あらたな建築類型の出現などについて、大きな手掛かりとされるのが『清明上河図』(張擇端)であり、『東京夢華録』[xlvii]である。『東京夢華録』には各街で数多くの品物が売り買いされていることが細かく描かれている。「坊制」下の長安において夜市が盛んであったことが知られるが、北宋の開封でも夜市が盛んであったことも活き活きと描かれている。『清明上河図』にも数多くの店や物売りの姿が描かれている[xlviii]

『清明上河図』を読み解く作業の中で注目すべきは、店のテーブルと腰掛に着目した小泉和子の指摘[xlix]で、テーブル、腰掛のみ描かれて飲食店らしくない20軒は、回船問屋あるいは問屋、卸・仲買の店であるというものである。これが「邸店」の具体的な形態とみていいであろう。

一方、『清明上河図』に描かれた建物を一覧する限り、長屋形式の建物(「房廊」)は確認できない。高村雅彦は、「房廊」を「前面に吹き放しの、いわばアーケードを持った割長屋の店舗あるいは倉庫・邸店群」とし、『東京夢華録』巻2宣徳楼前省府官宇に「直至十三間楼」王 之『』に   とあることを引いて、これが「房廊」だとする[l]。そして、この宋代の「房廊」は、元の大都の「半 屋」、明清の「廊房」に引き継がれるとする。

 この「房廊」→「半 屋」→「廊房」がアーケードをともなった長屋であるかどうかについては疑問なしとしない。

 

5 亭子脚、騎楼、透天 ショップハウス 竹筒屋、手巾寮

 

 

 おわりに

   

 

 


主要参考文献

秋山國三・仲村研(1975)『京都「町」の研究』法政大学出版局

足利健亮(1984)『中近世都市の歴史地理―町・筋・辻子をめぐって―』地人書房

影山剛(1984)『中国古代の商工業と専売制』東京大学出版会

久保田和男(2007)『宋代開封の研究』汲古書院

小泉和子・玉井哲雄・黒田日出男編(1996)『絵巻物の建築を読む』東京大学出版会

佐藤武敏(1962)『中国古代手工業史の研究』吉川弘文館

佐原康夫(2002)『漢代都市機構の研究』汲古書院

斯波義信(1968)『宋代商業史研究』風間書房

斯波義信(2002)『中国都市史』東京大学出版会

高橋康夫(1983)『京都中世都市史研究』思文閣

高橋康夫(1998)『洛中洛外 環境文化の中世史』平凡社

高橋康夫(2001)『京町家・先年のあゆみ 都にいきづく住まいの原型』学芸出版社

高橋康夫・吉田伸之編(1990a)『日本都市史入門Ⅰ空間』東京大学出版会

高橋康夫・吉田伸之編(1990b)『日本都市史入門Ⅱ 町』東京大学出版会

田中淡(1995)『中国建築史の研究』弘文堂

玉井哲雄(1986)『江戸―失われた都市空間を読む』平凡社

中村治兵衛(2008)『中国聚落の研究』刀水書房

野口徹(1988)『中世京都の町屋』東京大学出版会

野口徹(1992)『日本近世の都市と建築』法政大学出版局

布野修司(1987)『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文、東京大学)私家版

布野修司(1991)『カンポンの世界』パルコ出版

布野修司(1997)『住まいの夢と夢の住まい アジア住居論』パルコ出版

布野修司(2006)『曼荼羅都市 ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』京都大学学術出版会

 

中国土地制度史研究 東京大学出版会, 1954

§ 宋代経済史研究 東京大学出版会, 1962

§ 唐宋社会経済史研究 東京大学出版会, 1965

§ 宋代史研究 東洋文庫, 1969

§ 清代東アジア史研究 日本学術振興会, 1972

§ 中国の歴史 5 五代・宋 中嶋敏共著 講談社, 1974 /「五代と宋の興亡」 講談社学術文庫2004

§ 高麗朝官僚制の研究 宋制との関連において 法政大学出版局, 1980

§ 宋・高麗制度史研究 汲古書院, 1992

 

台北―台湾

北京―

西安

泉州

彰州

 

(大連)

 

慶州・蔚山・

 

スラバヤ

チャクラヌガラ

バリ

 

シンガポール

マラッカ

ペナン

 

ハノイ

フエ

 

ヴィエンチャン

 

パタニ

バンコク

 

 

 

 

 


 



[i] N.J.ハブラーケンN. John Habraken,オランダの建築家、建築理論家。1928年インドネシア、バンドン生れ。デルフト工科大学(1948-1955)卒業。アイントホーフェン工科大学を経てMIT教授1975-89。オープン・ビルディング。著書に“Palladio’s Children, seven essays on everyday environment and the architect”, EdJonathan Teicher ,Oxford UK, Taylor & Francis, 2005,The Structure of the Ordinary, Form and Control in the Built Environment”,Ed. Jonathan Teicher, Cambridge, MIT Press, 1998, “The Appearance of the Form”, Cambridge, Awater Press,1985. “Supports: an Alternate to Mass Housing”, U.K., Urban International Press, 2000Variations, the Systematic Design of Supports, With J.T.Boekholt, A.P.Thyssen, P.J.M. Dinjens: MIT Laboratory for Architecture and Planning; distributed by MIT Press, Cambridge, USA and London 1976. English translation by W.Wiewel and Sue Gibbons from the original Dutch publication: Denken in Varianten,. Alphen a/d Rijn, Samson, 1974など。

[ii] 「京町家」という場合「町屋」ではなくて「町家」を用いる。「京町家」が特権的に「町家」の字を用いるのは、「京町家」型の「町屋」が日本で支配的になったという意味で、それなりに根拠があるといっていい。「店家」とともに「町家」「町屋」という表記も古くから用いられてきた。

[iii] 高橋康夫「中世都市空間の様相と特質」(高橋康夫・吉田伸之編(1990a)。

[iv] 298.445mとされる。

[v] インド都城の理念型について布野修司(2006)『曼荼羅都市 ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』で検討した、基本街区の宅地分割パターン(p81)はある程度明らかになるが、その段階的構成は不明である。

[vi] 街区の宅地割についてあまり用いられないが、「京間」(内法制)と「関東間」(心々制)を比喩にすれば一般的に理解しやすいであろう。すなわち、柱の内側の面積を単位とする内法制の場合、畳の大きさは同じであるように、平安京の場合、街区の面積は一定となる。

[vii] この場合の寸法関係は不明であるが、一町全体半休する場合もあったと考えると、小径の幅、面積の分だけ宅地面積は減ることになる。大路小路で囲われる面積を方40丈と一定としたと考えられる。

[viii] 足利健亮「京都の「辻子」とその意味」(『現代都市の諸問題』地人書房:足利健亮(1984)に対する高橋康夫(「辻子―その発生と展開―」『史学雑誌』、1977年:高橋康夫(1983)の批判、さらにそれに対する反批判(「再び「辻子」についてー高橋康夫氏の所論を駁すー」:足利健亮(1984)。

[ix] 辻子の初見は、治承四(1180)年の「大学頭菅原某園池相博券」(『平安遺文』三九〇四年)とされる。

[x] 椎野若菜、「「コンパウンド」と「カンポン」---居住に関する人類学用語の歴史的考察---」、『社会人類学年報』、Vol.262000年。

[xi] カンポンの語源については、ポルトガルのカンパンハcampanha,カンポ campo(キャンプの意)の転訛、フランス語のカンパーニュcampagne(田舎country)の転訛という説がある。例えば、斯波義信は、外国人商人がそれぞれ分かれて住む集住区をポルトガル語のカンポンとしている(『華僑』、岩波新書、1995年)説もあるが、マレー語のカンポンがその由来であるというのがOEDであり、その元になっているのが、ユールとバーネルのインド英語の語彙集(Yule, H. and Burnel, A.C., “Hobson-Jobson: A Glossary of Colloquial Anglo-Indian Works and Phrases, and of Kindred Terms, Etymological, Historical, Geographical and Discursive, Delhi: Munshiram Manoharalal, 1903(1968)”)である。

[xii] クディリ王朝(Kederi 九二八ーー一二二二年):中部ジャワにあったマタラム朝のシンドク王が東部ジャワのクディリに移転して建てた王朝。第四代のダルマバンシャ王の時代が(九九一ーー一〇〇七年)最盛期。スリウィジャヤの攻撃で一時衰えるが、アイルランガ王の時代(一〇一九年即位)に勢力を盛り返し、海上貿易を支配した。スラバヤ、トゥバンには多くの東西商人が集まったとされる。

[xiii] シンガサリ王朝(Singasari 一二二二ーー九二年):シンガサリ出身の農夫、ケン・アンロックによって建国。第五代(最後)のクルタナガラ王の時、元の世祖フビライが服属を要求、水軍をジャワに送っている。

[xiv] マジャパヒト(Majapahit 一二九三ーー一五二七年):ジャワのヒンドゥー王朝の中、最大にして最後の王朝。クルタナガラ王の娘婿ビジャヤ(クルタラージャサ・ジャヤワルダナ 一二九四ーー一三〇九年在位)によって建国。一五二七年頃、新興イスラム王国デマに征服された。

[xv] マジャパヒト王国の首都はスラバヤの南西、モジョケルトのトロウランに位置し、発掘作業が続けられているがその全容は明らかにされていない。『デーシャワルナナ』に記述された首都の構成については布野修司(2006)に示した(「第Ⅳ章 チャクラヌガラ 4マジャパイト王国の首都」)。

[xvi] 碑文は、クラゲン(Kelagen)で発見された1037年のもので、フジュン・ガルー(Hujung Galuh)という名の町が記されている。また、14世紀の年代記は、Nagara-Kertagamaという。Oki Akira:The Transformation of the Southeast Asian City:The Evolution of Surabaya as a Colonial City,East Asian Cultural Studies 27. nos. 1-4(march 1988)

 William H.Frederick:Hidden Change in Late Colonial Urban Society in Indonesia,Journal of Southeast Asian Studies 24 ,no.2

[xvii] ブランタス川  Kali Brantas:全長三二〇km、ブリタール、マラン、クディリ、ジョンバン、モジョクルトなど東部ジャワの主要都市を流域に抱え、インドネシア最大の貿易港スラバヤでマドゥラ海峡に注ぐ。

[xviii] スンダ・カラパ(ジャカトラ)については、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがスケッチを残している(De Haan, F., “Oud Batavia”, Gedenkboek uitgegeven ter gelegenheid van het 300-jarig bestaan der stad in 1919, Batavia, 2 vols.)。アルン・アルンalun-alunと呼ばれる王宮前広場を中心として、南に王宮、西にモスクが配置される。

[xix] Markham, A. (ed.), “Voyages and Works of John Davis, the Navigator (水先案内人ジョン・デイビスの航海と仕事), London”, 1880. De Querbeuf, Y.M.H. (ed.), “Lectres Edifantes et Crieuses ecreites des missions etrangeres(de la Compagnie de Jesus)(教訓的な奇妙な本:イエズス会の外国人宣教師の文章)”, Paris, 1780-83.など。

[xx] A. Read, ‘The Structure of Cities in South-East Asia, 15th to 17 centuries’, Journal of South-East Asian Studies11 (2).

[xxi] ダーンデルス 1762-1818 1809年にオランダ領東インド総督に任命され、翌年着任。ジャワ縦貫道路建設を実施。11年ナポレオン一世によって罷免。

[xxii] 「日本の花」という意味である。日本とスラバヤの関係を通りの名が示している。

[xxiii] 宇宙は天・人・地の三つに分けて考えられる。それに呼応して身体は頭部・胸部・脚部に概念的に分けられる。宇宙の三層構造に対応して、バリ島全体が山と平野と海の三つに分けて考えられる。すべての村には、必ずプラ・プセ(起源の寺)、プラ・デサ(村の寺)、プラ・ダレム(死の寺)という三つの寺が一組となって置かれるのが原則である。この三つをまとめてカヤンガン・ティガと呼ぶ。(布野修司編『地域の生態系に基ずく住居システムに関する研究(Ⅱ)』住宅総合研究財団、1991年など)。

[xxiv] バリは「博物館」であり,先植民地時代の内インドネシアの文化が無疵で保存されているというのは誤りであり,バリで見いだされるものが存在していたことはジャワや東南アジアの他の地域でそれぞれ証明されるべきであること,またさらに,バリとジャワ東部とでは生態学的に異なっており,地域差を考慮すべきこと,すなわち,バリのヌガラ・モデルは,当然,時間的,空間的修正が施されるべきであることを「序章」で述べている。

[xxv]  Gonda J.“Sanskrit in Indonesia”Nagar (India) 1952 2nd ed. New Delhi 1973. Juynboll H.H.“Oudjavaansch-Nederlandsche Woordenlijst” Leiden 1923.

[xxvi] Shuji Funo: The Spatial Formation in Cakranegara, Lombok, in Peter J.M. Nas (ed.):Indonesian town revisited, Muenster/Berlin, LitVerlag, 2002

[xxvii] タントラtantra文献によれば、普通チャクラは身体に六つある。下から、ムーラーダーラ・チャクラ mūlādhāracakra(会陰、四弁蓮華の形)、スバーディシュターナ・チャクラ svādhişţhānacakra(臍、六弁の蓮華の形)、マニプール・チャクラ maņipūrcakra(臍上、十弁蓮華の形)、アナーハタ・チャクラanāhatacakra(心臓、十二弁蓮華の形)、ビシュッダ・チャクラ viśuddhacakra(喉、十六弁蓮華の形)、アージュニャー・チャクラ ajńācakra (眉間、二弁蓮華の形)である。また、一般にさらに2つのチャクラが加えられる。ひとつは、サハスラーラ・チャクラsahasr´racakra(頭頂、千弁蓮華の形)で、シヴァŚiva神の居処であるとされる。もうひとつは、ムーラーダーラ・チャクラの直下にあり、三角形をしたアグニ・チャクラ agnicakraで、ここには,シヴァ神妃と同一視されるシャクティśakti(性力)が三重半のとぐろを巻いたクンダリニー kuņďalinīという名の蛇の形をして住まっているという。人がヨーガを行い、息を止めると、体内に生命エネルギーが充満し、これがクンダリニー(性力)を目覚めさせ、脊椎を貫通している管の中を、チャクラを中継点としながら上昇させることができる。クンダリニーがついにサハスラーラ・チャクラに至ると、これは宇宙の根本原理であるシヴァ神と合一したことになる。このとき人は、宇宙を主宰する力をそなえ、解脱を達成するという。

[xxviii] バリにオリエンテーションに関してナワ・サンガNawa Sangaという概念がある。中心と8方位を合わせて9を意味する。

[xxix] Tagtagとはバリ語で高さの水準、レヴェルのことである。

[xxx] インドネシアの行政組織は、30戸から100戸で構成されるRT(エル・テー  Rukun Tetanga ルクン・タタンガ 隣組)をコミュニティーの最小単位とし、→RW(エル・ウェー Rukun Warga ルクン・ワルガ 町内会)→クルラハン(連合町内会)→クチャマタン(区)という構成をとる。

[xxxi] バリ島にはカランと呼ばれる住区は見られない。バリではカランとはスードラの屋敷地の意味である(吉田偵吾、『バリ島民』、弘文堂、1992年。P54)。T.G.ピジョーPigeaudPigeaudTh.H.'Java in the Fourteenth Century Vol.I-V'Martinus NijhoffThe Houge1960-63)によるとカランという語は、チャクラヌガラの王宮で発見された『ナーガラクルターガマ』の12章「(王家と宗教コミュニティに属する)領土一覧」の766節に見られる「カラギャンkalagyans」に起源を持つという。「1.今、描写されていないのはカラギャンkalagyans(職人の場所)の事である。ジャワのすべてのデサ deshas(村 地域)に広がっている。」という描写がある。

 バリの居住単位はバンジャールと呼ばれている。バンジャールは形式的には集団の単位であり、公共施設の管理・地域の治安維持・民事紛争の解決をおこなう。そして、その長はクリアン・バンジャールである。現在、チャクラヌガラのバリ人の間ではバンジャールもカランも使われるが、バンジャールが社会組織の単位であるのに対してカランは土地の単位を意味する。同じ土地出身の地縁集団としての性格を合わせ持つのがカランである。

[xxxii] Departmen Pendidikan dan Kebudayaan'STUDI TEKNIS PURA MERU CAKRANEGARA'Proyok Pelestarian/Pemanfaatan Peninggalan Sejarah Purbakala Nusa Tenggara Barat1990-1991

[xxxiii] プラ・メルは、ヒンドゥー教のブラーフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神に捧げられる。敷地は、東西方向に三つの部分に分けられ、東からスワ(Swah 天上界 ロンボクではジェロ・プレJero Pure(Jeroan) 以下同様)、ブワ(Bwah 人間界 ジャベ・テンガJabe Tengah)、ブル(Bhur 地下界 ジャベ・プサンJabe pesan+ジャバヤンJabayan)、からなる。この構成は、バリの三界概念と同一の概念を基に宇宙の構造を象徴的に表現している。

[xxxiv] イスラームが支配的なロンボクにあって、西ロンボク地域にはプラと呼ばれる聖地が各地に存在する。プラとはバリではヒンドゥー寺院を意味するが、ロンボクにはヒンドゥーとムスリムの双方の聖地となっている興味深いプラ・リンサールPura Lingsarがある。ヒンドゥー教徒、ムスリム双方の礼拝対象はクマリクと呼ばれる。プラ・リンサールを含めた西ロンボクのプラは基本的に聖なる山リンジャニ山の方向を基本として配置されている。チャクラヌガラの立地を考える上でもプラの配置は極めて大きな意味を持っていると考えられる。

[xxxv] 森本達雄、『ヒンドゥー教――インドの聖と俗』、中公新書、2003年。P.84この33という数字は、地域において様々なヴァリエーションを生み、拡大していく。もともと、3という数字は、「三千世界」とか「神々の数三億三千万を数えたり」というように、インド世界においては「多」という概念と結びついていた。ヒンドゥー教にも仏教にも宇宙論的数としてこの33という数は持ち込まれている。南方上座部系仏教においても、メール山(須弥山)の頂上に住むとされる神々が33である。両者の宇宙観には共通点が多い(定方晟、『インド宇宙誌』、春秋社、1985年)。

東南アジアでは、33は、家臣や高官の定員数として、あるいは王国を構成する地方省の数としてしばしば登場する数である。古い伝承を示すビルマ(ミャンマー)の年代誌は、インドラ神をはじめとする神々によって、須弥山の上に32の門をもつ都市が建設されたという。32の門は32の属領に対応するもので、32人の封臣に囲まれて、その中心に王が住んでいたことを示唆する。具体的に、比定されるのはピュー族が築いたシュリ・クシェトラである。また、ビルマのカミング王朝時代のジャヴァ、ペグー王国などに例がある(定方晟、『須弥山と極楽』、講談社新書、1992年)。チャクラヌガラの東西に走る主要道を挟んで北側に位置するプラ・マユラには33の噴水が設けられている。

[xxxvi] 西周時代の遺構が見つかっている。

[xxxvii] 「市」の字の初見は西周時代の金文とされる。各地の「市」についての史料が得られるのは春秋時代で、『春秋左氏伝』には、各地の「市」についての記述がある。

[xxxviii] 劉志遠「漢代市井考―説東漢画像磚」『文物』、19733

[xxxix] 宮崎市定「戦国時代の都市」(『宮崎市定全集』三、岩波書店、1991所収)。

[xl] 「十里一亭」(『漢書』百官公郷表・『続漢書』百官志補注・『宗書』百官志)、「十里一郷」(『続漢書』百官志補注所引『風俗通』)、「十亭一郷」(『漢書』百官公郷表・『宗書』百官志)など、相矛盾する記述がみられる。

[xli]宮崎市定、「中国における聚落形体の変遷についてー邑・国と郷・亭と村とに対する考察―」(1957年)、『宮崎市定全集3 古代』、岩波書店、1991

[xli] 宮崎市定、「漢代の里制と唐代の坊制」(1962年)、『宮崎市定全集7 6朝』、岩波書店、1992

[xlii] 清水盛光、『中国郷村社会論』、岩波書店、1951年、松本善海、「秦漢時代における村落組織の編成方法について」(1951年)、「秦漢時代における亭の変遷」(1952年)『中国村落制度の史的研究』、岩波書店、1977年、など。

[xliii] 日比野丈夫、「郷亭里についての研究」(1955年)『中国歴史地理研究』、同朋舎、1977年、池田雄1、「漢代における里と自然村とについて」、『東方学』第38輯、1969年。

[xliv] 「坊」という言葉は明清まで用いられるから、防牆の存在を強調して「防牆制」という。

[xlv] 加藤繁「唐宋時代の倉庫に就いて」「居停と停塌」(『支那経済史考証』上下、東洋文庫所収)

[xlvi] 周藤吉之(1962)『宋代経済史研究』東京大学出版会

[xlvii] 孟元老『東京夢華録 宋代の都市と生活』(東洋文庫598、入江義高・梅原郁訳注、1996年)

[xlviii] 『清明上河図』は開封を描いたものではなく、近郊の小都市を描いたとする説もあるが、いずれにせよ、北宋末における都市の光景を描いたものである。

[xlix] 「テーブルと腰掛から見た『清明上河図』」(伊原弘(2003)『清明上河図を読む』勉誠出版)。

[l] 高村雅彦「中国における「町屋」の成立過程とその変容―アジアの比較建築史・都市史の視点―」(日本建築学会大会協議会資料『東アジアから日本の都市住宅(町屋)を捉える』、20078月)。


 

 

共同研究「建築と都市のアジア比較文化史」

 

1.共通テー

前近代の都市と建築にアジア的な根源を探  ※13世紀という時代設定はなくす

東アジアと日本の関係をインドから相対的にみる (1つの見方を示す) Memo:王権(中国的世界)と宗教(インド的世界)、表象的、唐・天竺

2.個別研究テーマ=紀要論文タイトル仁藤敦史

「外交拠点としての難波と筑紫ー館:小郡:大郡ー」

(王権・外交施設・都

memo:宮殿内に朝堂の登場(外交施設役人の居所

古代の流通ネットワーク(7~8世紀、難波=物流の拠点  筑紫の外交施設

 

高橋一樹

「首都(京都)における王権の変容と宗教施設の存廃」

(王権・宗教施設・都

 

玉井哲雄

「平泉から鎌倉へー古代都市から中世都市へ  または宮殿と宗教施設ー」

memo平泉をどのような都市と捉えるか?(人、文化の移動、建築遺構、文献資料

鎌倉をどのような都市と捉えるか?

について京都と比較しながら研究す

 

慕萍

「13世紀における中国大陸の都市構造の転換ー元の大都の都市計画ー」

(都市構造・元・大都・都市計画

memo市計画のブレーン  ②街路による敷地割の変化、交通システムの変化

大都と上都 商店街が都市計画に含まれた など

新しい資料をこれから入手して研究しなければならないため、時間が必要報告書執筆までに時間がない場合は文献資料を中心にして研究を進める

 

韓三建

「高麗時代からの朝鮮半島の都市変化ー高麗時代の地方都市  慶州・蔚山ー」

(高麗時代・朝鮮半島・都市・慶州・蔚山

memo:1314世紀、朱子学、祭祀空間のための都市が発生、後に住宅にも取り入れられる。13世紀という条件をはずしても可能。

 

上野祥史

「城郭都市と地域社会ー考古学研究の視点からー」

(城郭都市・考古学・河北

memo:城郭都市と地域社会の関係性を解く

黄河流域の最先端地域だった河北を中心にする/屋敷群の遺跡が発掘されている


 

 

岩淵令治

「日本近世城下町における武家地の研究ー首都における支配層の居住地域の比較を念頭にー」

(近世城下町・武家地

 

小泉和子

「禅宗家具の日中比較」仮題 memo:「五山十刹図」

 

大田省一

「都城の地域性ベトナムの都城

memo:都城論、カンボジアラオスとの関連性、南京とベトナム北部との共通点 11 世紀後半~近代直前(19 世紀後半)

 

佐藤浩司

「住宅の中に都市空間をよむ」 memo視点

都市を俯瞰的、計画的にみず、住み手の視点からみる都市生活者の住まいにみる、古来からの信仰、宗教施設

具体例

ネパールの調査でみた、家の中にある祭祀施設と都市空間との関係ジャワ、中国(四合院)、寝殿造なども同様の事例

 

布野修司

「アジアにおける都市的集住形態の形成」

memo:中国都城の影響が見られる周辺都市(科研の対象) ex.バリヒンズーの植民都市(14世紀)、ミャンマーなど

 

Mohan Pant

「ネパールの都市ーカトマンズ盆地ー」 memo:カトマンズ盆地を中心とする。

フィールドワークの資料や、現存建物がある。キャラバン、巡礼者の施設。

寺院の周りにある東屋的な建築は、モンゴルにも共通する。

 

 

 

蘭翔

「中国におけるイスラム教建築の受容について」留中

memo:中国にイスラム文化が入ってきたのは13世紀頃とされている

イスラム教は土着の建築様式を借りてモスクにしている宗教であるため、建築にイスラム教の影響を見ることは難しい。

 

藤井恵介

「唐様、天竺様のイメージ論研究史批判


 

memo:日本建築における、唐、天竺のイメージ論、唐様・天竺様論批判

 

3.国際シンポジウムのテーマと構成

平成 23 年度(最終年度)12 上旬開催予

テーマ案:東アジアと日本の関係をインドから相対的にみる? 唐・天竺構成案: 2 日間、3部構成

 

全体の基調講演=趣旨説明(玉井

 

インド、ネパール、東南アジアについて1名ずつ基調講演(当初案

これまでの研究の総括的なシンポジウムであるから、下記のようにアジア全体を扱った内容にすべき藤井・大田

 

南アジア=ネパール・インド(布野)東アジア(要検討)

東南アジア(大田

各々の研究報告に対して、他地域、他分野の研究者2名がコメントディスカッション

総括

 

Memo:コメンテーターに全体的なコメントのできる外国人研究者を招待。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...