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2021年10月23日土曜日

韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社

 韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社、20214 


韓国近代都市景観の形成

Formation of Modern Korean Urban Landscape

Spatial Formation and Transformation of Japanese Colonial Settlements in Korea

 

 

布野修司

 

 本稿は、布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民著『韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-』(京都大学学術出版会,20105月)のエッセンスをまとめたものである。本共著の目次は、大きくは、序章 韓国の中の日本と景観の日本化、第Ⅰ章 韓国近代都市の形成、第Ⅱ章 慶州邑城、第Ⅲ章 韓国日本人移住漁村、第Ⅳ章 韓国鉄道町、終章 植民地遺産の現在、である。第Ⅱ章は、韓三建『韓国における邑城空間の変容に関する研究-歴史都市慶州の都市変容過程を中心に-』(京都大学,199312月)、第Ⅲ章は、朴重信『日本植民民地期における韓国の「日本人移住漁村」の形成とその変容に関する研究』(京都大学,20053月)、第Ⅳ章は、趙聖民『韓国における鉄道町の形成とその変容に関する研究』(滋賀県立大学,20089月)の学位論文がもとになっている。

 

 韓国の中の日本と景観の日本化

『韓国近代都市景観の形成』が対象とするのは, 朝鮮(韓)半島の古都慶州,そして日本植民地期に形成された「日本人町」「日本人村」である。朝鮮王朝時代に各地方におかれていた,慶州に代表される「邑城」が植民地化の過程でどのように解体されていったのか,その伝統的な景観をどのように失ってきたのかを明らかにすること,そして「日本人町」「日本人村」がどのように形成され,解放後どのように変容していったのかを明らかにすることをテーマにしている。具体的に取り上げているのは,かつての王都であり,朝鮮時代に「邑城」が置かれていた慶州の他,日本植民地期に形成された「鉄道官舎を核として形成された「鉄道町」(三浪津,安東,慶州,そして「日本人移住漁村」として発展してきた巨文島,九龍浦,外羅老島である。

『韓国近代都市景観の形成』がテーマとするのは韓国における近代都市景観の形成である。焦点を当てるのは,街並み景観,都市施設のあり方,街区構成,居住空間の構成であり,その変容について臨地調査を基に明らかにしている。

19世紀後半,急速に進んだ「開国」によって,朝鮮半島の社会は大きく変動していくことになる。近代都市の形成もその社会変動の一環である。

朝鮮時代の地方に置かれた「邑城」,開国以降の過程で解体される。もともと,「邑城」は,儒教を国教とした中央集権国家を打ち立て,維持する上で,地方統治の装置として設置された。中心に置かれたのは「客舎」であり,東軒」といった官衙施設であり,その他の宗教施設も商業施設も城壁内には置かれなかった。「邑城」は「地方の中の中央」であった。その「邑城」に植民地化に相前後して日本人が居住し始めると,日本の統治機構のために朝鮮時代の官衙施設などを改築し,あるいは解体新築することになる。そして,土地を取得して,日式住宅」を建て,商店街を形成するようになる。「邑城」,こうして「韓国の中の日本」となった。

「江華島条約丙子修好条約・日朝(韓日)修好条規)」1876227日)によって,釜山を開港させられ,「日本専管居留地」が設置されて以降,元山1879年),漢城,龍山1982年),仁川1883年),慶興1888年),木浦,鎮南浦1897年),群山,城津,馬山,平壌1899年),義州,龍巌浦1904年),清津1908年)と次々に「開港場」「開市場が設けられた。そして,「開港場」「開市場」に設けられた「日本専管居留地」「共同租界」,朝鮮半島にそれまでになかった景観(都市形態,街並み,建築様式)を持ち込むことになった。

 しかし、朝鮮時代の伝統的都市や集落の景観と異なる景観がより広範囲に導入されたのは,半島全域を鉄道線路で結んだ鉄道駅とその周辺に形成された「鉄道町」を通じてである。「開港場」「開市場」が置かれ,その後韓国の主要都市となった都市も含めて,半島の各地域の中心都市となった都市のほとんどは,鉄道駅を中心とする「鉄道町」を核として形成された都市である。「鉄道町」は,朝鮮時代以来の集落や街区とは異なるグリッド・パターン(格子状)の街区をもとにした新たな町として整備された。そして,「鉄道町」の中心には,「鉄道官舎」地区など日本人居住地が形成され,日本人が建てた建物が街並みを形成することになった。

そしてもうひとつ,「日本人移住漁村」もまた,「開港場」とは別に,はるかに一般的なレヴェルで,新たな景観を朝鮮半島にもたらすことになった。海岸部に接して密集する形態をとる日本の漁村と丘陵部に立地し,半農半漁を基本とする朝鮮半島の漁村とはそもそも伝統を異にしていた。「日本人移住漁村」の出現は,伝統的な集落景観に大きなインパクトを与えるのである。

開港期に造られた居留地(租界)の都市構造やそれを構成した建築様式を眼にすることは,朝鮮人にとって「近代」との最初の接触経験である。そして,全国的に広く形成された「鉄道町」や「日本人移住漁村」の「日式住宅」やそれが建ち並ぶ街並みは朝鮮人の都市,建築に関わる理念の変化に最も大きな影響を与えることになる。そして,朝鮮半島の居住空間のあり方そのものを大きく変えることになった。

 

 1 韓国近代都市の形成

 朝鮮半島における都市の起源は,日本同様,中国に求められる。すなわち,朝鮮半島最初の都市は, 三国,すなわち高句麗・百済新羅の王都に始まると考えられる。そして、朝鮮半島の都市の伝統は,朝鮮王朝時代の都城および「邑城」に遡る(図1①朝鮮時代の府・邑・面)。開国とともに出現することになる「開港場」「開市場」は、全く新たな都市である(図1②)。さらに,日本植民地期における近代都市計画導入が朝鮮半島の都市を大きく変えていくことになった(図1③市街地計画令適用都市)。


 

 2 慶州邑城

 慶州邑城の空間構成,その骨格をなす街路体系については,朝鮮末期に描かれたと推測される『慶州邑内全図』(図Ⅱ①)と『集慶殿旧基帖』が手掛かりとしてある。城壁内部の幹線道路は,他の「邑城」と同じく東西南北の城門を結ぶ十字街である。『舊基帖』の表記によると,十字路の中心から東門に至る街路は「東門路」,反対側は「西門路」である。中心から南北方向の道路の名称は確認できない。ただ,邑城の南門から南に延びる道路は「鐘路」と呼ばれたことがわかっている。この道沿いに「奉徳寺の大鐘」をぶら下げた鐘楼があったためである。

  『邑内全図』では小路は「客舎」の周辺に集中している。具体的には「客舎」の西側にある慶州邑城で最も広い街路と,「客舎」の東側にある郷射庁,府司,戸籍所,武学堂などの諸機関とを結ぶ接近路がそうである。

 『邑内全図』と地形図を比較してみると,100年を越える時間差があるのにもかかわらず,大きな変化は見あたらない。

 旧邑城とその周辺部を対象にし,土地台帳と地籍図をもとに変化をみると、邑城内部の東部里には国有地が最も広く分布し、終戦までほとんど所有者が変わらない。国有地には,郡庁舎,警察署,法院支庁,官舎などが立地し朝鮮時代の施設を再利用した。東部里における日本人の所有土地は,植民地時代の全期間において大きく増加した。それに対して朝鮮人の土地は大幅に減少した。終戦時点では,査定時に朝鮮人が所有していた旧邑城内土地の5割が減少し,邑城内に居住していた朝鮮人の半数が押し出されたことになる(図2②)。また,時期が下がるにつれ,日本人地主の出現が見られる。城内でも,朝鮮人が密集して居住していた北部里には,日本人所有地の増加はそれほど見られない。しかし,城外の路東里と路西里は宅地化が進み,終戦の段階でほぼ全てが宅地化される。ここでは,全体的な朝鮮人所有土地面積は減少していたが,宅地は面積が増加している。


 朝鮮時代の「邑城」には地方統治のための施設のみが集中しており,住民もこれらの施設に務める身分の低い階層が大多数を占めていた。「邑城」に居住しながら「守令」と地元住民の中間関係に立ち,地方官庁の実務を担当していた「郷吏」階層でさえ,本来は「邑城」の中では居住することが許されなかった。「邑城」の城門は,毎日決まった時刻に開閉され,用のない人々の出入りを禁止していた。また,僧侶などの「賎民」は「邑城」への出入りが許されていなかった。朝鮮末期の慶州邑城の光景を撮影した写真に,城門の前に,聖なる場所の入り口に建てる「紅箭門」が建てられているのを見ても,「邑城」は精神的な意味でもヒエラルキー的に区別された場所であった。

  朝鮮時代の地方都市,つまり「邑城」や統治施設が集中する地区は,空間的に中央の直接的な支配下に置かれていた。日本による植民地支配が始まると,空洞化した「邑城」の内部に,それまでの朝鮮人官吏に代わって,日本人官吏が入ってくることになった。官庁に務めていた「邑城」内の住民も失業者となり,他の職をもとめて「邑城」を去って行った。 邑城の内部は,朝鮮時代には「地方における中央」であり,植民地時代には「韓国における日本」であった。

 

 3 韓国日本人移住漁村

「日本人移住漁村」は,補助移住漁村」と「自由移住漁村」に分けられる。各府県,水産組合,「東洋拓殖会社」などによって計画的に移住が行われ,建設されたのが「補助移住漁村」であり,日本政府と「朝鮮総督府」は多大な補助と支援を行った。しかし,そうした多大な措置にもにもかかわらず,「補助移住漁村」の大半は,成果をあげることなく失敗している。これに対して,日本人が任意に移住,定着したのが「自由移住漁村」である。民間の漁民,商人,運搬業者などが主体となり,漁業のための生産・流通・商業の拠点として,また居住地として開発したものである。「自由移住漁村」の中には,失敗し衰退した「補助移住漁村」を引き継いだものもある。「自由移住漁村」の多くは,解放後には韓国の主要漁港として発展している。

韓国の伝統的漁村は主農従漁村あるいは「半農半漁」村が多かった。その大半は,丘陵性山地下端部の傾斜地に位置し,居住地は自然地形に従った曲線的形態を取る。これに対して,「日本人移住漁村」は海を生活の場とする純漁村あるいは「主漁従農」村が大半で,漁業,流通業,商業,加工業が複合する形で発展した。居住地は,海岸道路に沿って形成され,道路幅や敷地の規模は基本的に狭く,高密度に住居が建ち並ぶ都市のような形態をとる。すなわち,「日本人移住漁村」は,朝鮮半島沿岸部に,それまでになかった居住地空間と街並み景観を持ち込むことになった。


韓国の伝統的漁村の大半は,丘陵性山地の下端部に位置し,海岸を前にして背後には丘陵を持つ傾斜地形に集落が形成されてきた。伝統的漁村は,農業を基盤として漁業を兼ねている主農従漁村と半農半漁村がほとんどである。近所に農地があり,食物と飲料水を得やすい土地,そして海風が弱い地形を選んで集落が立地するのが一般的であった。居住地は比較的に平坦なところに石垣を部分的に積み上げ,整地してつくられた。居住地内部を貫く路地は自然地形にしたがった曲線形態であるのが普通である。

韓国の「日本人移住漁村」の分布(図3②)をみると,東海岸と南海岸に形成されたものが大半である。その中で,「補助移住漁村」はほとんど南海岸に集中しているが,「自由移住漁村」は南海岸を主としながら東海岸にも分布している。その形成時期をみると,南海岸が最も早く,続いて西海岸,最後に東海岸に立地したことがわかる。2 


「日本人移住漁村」の立地は,前述のように,,海岸,内陸水路の3つに大別される。特に海を生業と生活の場とする島や海岸に位置する漁村の場合,居住地は山のせまった狭隘地につくられる場合が多い。そのため街路や路地が狭く,家屋が肩を寄せるように密集して建てられ,共同井戸を利用して水を得ていた所が少なくない。こうした高密度な空間利用の集落形態が「日本人移住漁村」の特徴であり,それはそれ以前の朝鮮半島にはなかった形態である。「日本人移住漁村」の住宅は,日本の漁村とほぼ同様である。その特徴をまとめると次のようである(3)。


①漁村は生産と生活の場を異にする。漁民にとっては,海上の生活が主で陸上の生活が従である。陸上にある住居は休息を目的に作られているため,屋敷内には庭や菜園などは見られず,家の中に広い土間を持たない。

②漁民は住居を転々と変える傾向がある。それは家に対する観念が船に対する観念と共通しているためとされる。漁民は経済状態により大きな船を買ったり小さな船に変えたりするが,家もまた同様の感覚で住み替える場合が多い。

③漁民にとって,住居は伝統的な格式を示すものではない。家の大小はその時々の盛衰を示すが,漁民は家を通じて先祖を尊び,先祖の徳を誇るようなことはほとんどない。

④漁民の居住様式に,海上生活の様式が取り入れられる場合がある。船は一般に「表の間」,「胴の間」,「艫の間」に分かれているが,このような船に乗っていた漁民の住居には船住まいの様式がそのまま持ち込まれる場合がある。

 

4 韓国鉄道町

韓国のほとんどの地方都市は鉄道の敷設によって形成された「鉄道町」をその都市核としている。「開港場」「開市場」とともに鉄道沿線に形成された「鉄道町」は,韓国近代都市の起源である。日本植民地期に形成された「鉄道町」の街区構造は,伝統的な朝鮮半島の集落や「邑城」とは大きく異なり,それを転換していく先駆けとなる。また,鉄道の敷設とともに建設された「鉄道官舎」地区は,「日式住宅」が建ち並ぶ,朝鮮半島にそれまでなかった街並み景観を持ち込むことになった。


  朝鮮半島における鉄道の敷設は,1899918日のソウル-仁川間の京仁線の開通によって始まる。朝鮮の鉄道網において大きな軸線となるのは,京仁線,京釜線,京義線の3線である(図4①)。「鉄道町」の立地についてみると,まず港湾型・内陸型の2つがある。また,既存集落との関係によって,既存集落混合型・既存集落隣接型・開拓型(新町)の3つのタイプを区別できる。そして,鉄道線路と既存集落,新町との位置関係について,線路挟んで両側に既存集落と新町が形成されているもの,線路と既存集落の間に新町が形成されるもの,鉄道駅と新町が既存集落と離れているものの,3つのタイプを区別できる。

 「鉄道官舎」は,多種多様であったが,基礎となり基準となったのは,京仁鉄道株式会社,京釜鉄道株式会社,臨時軍用鉄道監部による3つの系統である。それらは「朝鮮総督府鉄道局」の標準設計図に集約されていく。大きく,一戸建て型,二戸一型,マンション(集合住宅)型,独身者宿舎型の4つのタイプに分けられる。一戸建て型は,3等級官舎や4等級官舎,そして5等級官舎の一部に用いられた。高級職員向けで,組石造である。最も多く建設されたのは二戸一式型で6等級,7等級甲,7等級乙,8等級官舎として採用された。木造軸組構法で,外装は土壁漆喰塗り,または,板張りで,屋根にはセメント瓦が使われた。このスタイルが「日式住宅」の原型である。


朝鮮半島には,「オンドル」と呼ばれる伝統的な床暖房方式がある。しかし,日本が持ち込んだのは畳の部屋であった。「オンドル」については,朝鮮半島の厳しい冬の気候に対応するために,逆に「鉄道官舎」に用いられる。

「鉄道官舎」は,解放後も鉄道関係の韓国人によって居住し続けられるのであるが,1970年代から1980年代にかけて一般に払い下げられることになる。共通に見られるのが「出入口(玄関)」の変化である。植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りであった。しかし,北からの出入りは,韓国の生活慣習には受け入れられず,南入りに変更されるのである。そしてこの出入口の変化は,「鉄道官舎」の空間構成を大きく変えることにつながる。まず,南側に設けられていた庭が「マダン」に変わる。「マダン」も庭と訳されるが,鑑賞主体の日本家屋の庭とは違って,作業も行われる様々な機能をもった多目的な空間が「マダン」である。「マダン」によって,居住空間の構成は,大きく「道路-玄関-「廊下」-部屋-庭」から「道路-「デムン」-「マダン」-玄関-「ゴシル」-各室」へというかたちに変化する。ここで内部に出現した「ゴシル」は,現代的「マル」といってもいいが,吹きさらしの「マル」ではないから,伝統的住宅には無かったものである。

一方,「日式住宅」の要素で,韓国の現代住宅に受け入れられていったものもある。「襖」「続き間」「押入」などがそうである。韓国の一般的な住宅は,部屋の面積が狭く,「押入」のような「収納」空間は設ける余裕がなかった。「オンドル」を用いてきたためでもある。「襖」によって2つの部屋を1つに繋げる続き間は,一部屋当たりの面積が少ない韓国の部屋の問題点を解決した重要な工夫となる。

 韓国の伝統的住宅では,「アンバン」と「コンノンバン」の間の「デーチョンマル」は「マダン」と同様,多様に使われ,特に,法事などの祭事は「デーチョンマル」と「マダン」を利用して行われるなど,極めて重要な空間であった。しかし,「デーチョンマル」のような一定の広さをもつ空間を確保できなくなると,都市住宅では,「鉄道官舎」で導入された「日式住宅」の空間要素である「続き間」が用いられるようになる。「ゴシル」と「アンバン」の間に取り外せる襖を設置し,2つの空間を繋ぐことで,法事などの家庭の行事を行うようになるのである。現在,「続き間」は,都市住宅を始め,農漁村の田舎の住宅まで広く使われている,「日式住宅」の空間要素がして受容された代表的な空間が「続き間」である(図4③)。


 

5 日式住居の変容

「日式住宅」の導入によって韓国の住居は大きく変化した。玄関の出現,便所と浴室の屋内化,台所の変化,押入と続き間などの設置などは,「日式住宅」が大きな影響を与えている。一方,韓国の伝統的住宅本来の機能を保ち続けている空間要素もある。代表的なのは,出入口の位置,「マダン」「ゴシル」の出現と部屋の配置である。また,道路の「ゴサッ」化など外部空間の利用方法である。

① 出入口の位置

植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りである。北側からの出入は,「鉄道官舎」だけではなく「朝鮮住宅営団」の公営住宅や解放以後建設された大韓住宅公社,ICA住宅,国民住宅の初期モデルにも採用されている。しかし,この北側からの出入は受け入れられず,1960年代前後からはほとんどの住宅で正面入口として南側に出入口が設けられるようになる。北入りの配置は,韓国の生活慣習には受け入れられなかったのである。

三浪津,慶州,安東の旧「鉄道官舎」では,北側にあった出入口のほとんど全てがその位置を変更している。南側への出入口変更が最も多く,地形的な理由で南側に設けられない場合には,東あるいは西側に設ける。当然,出入口の位置変更によって玄関の位置も「デムン」のある位置に移動される。

韓国の伝統的住居空間では,基本的に南入口を重視してきた。すなわち,寒い冬場に北側からの厳しい風を遮断するため,また,敷地と面している畑などに繋げる勝手口の利用のため,さらには,法事の時,先祖の霊が通る死者の通路と認識されているため,北側以外に出入口を設けるのが一般的だったのである。

②「マダン」

居住空間の変容としては,出入口の位置の変更,庭の「マダン」への転用,主屋の増改築,別棟の増築などが重要である。

出入口は,北側から南側へと位置変更が行われると共に「デムン」という名称に変わる。南側にあった庭は多用途空間である「マダン」に変わる。そもそも「マダン」は,韓国の住居の中心空間であり,各棟を連絡させる空間である。全ての「マダン」は,主屋の前面(南側)に位置し,付属棟によって囲まれL字型,コ字型,ロ字型の構成を採り,各棟を連絡している。

一方,「鉄道官舎」では,「マダン」ではなく庭としての機能が与えられた空間が主屋の南側に設けられていた。そして払下げ以後,出入口の位置変更と共に全ての住宅で庭が「マダン」へと変えられる。

こうした庭の「マダン」への転用は,単なる空間の位置や形態の変化ではなく,その空間の機能と意味の違いによる変化である。すなわち,「鉄道官舎」の主屋の南側に設けられた庭は本来室内から眺め楽しむ空間であり,様々な植物を植えるなどの庭園的空間であったが,多様な作業ができる,オープンな多目的空間としての「マダン」へ,陰陽思想の位置づけとしては陽の空間へ変化するのである。住宅に関わる陰陽思想によると,主屋が陰の空間で,「マダン」が陽の空間である。陰と陽の間の円満な循環を図っているためには,「マダン」に植物を植えることや,大きい物を置くなどはよくないとされてきたのである。「鉄道官舎」に導入された庭のような空間は,韓国人の生活習慣にはあまり適合しなかったと考えられる。

③「ゴシル」の出現

「鉄道官舎」は,中廊下によって部屋を繋ぐ中廊下式住宅である。こうした中廊下の形式は,解放後も1960年代まで使用される。しかし,通路の機能を持った中廊下は,「デーチョンマル」を中心としてきた韓国人の生活習慣にはあまり浸透せず,中廊下を拡張することで「デーチョンマル」の代わりとなる「ゴシル」が創出されることになる。

「デーチョンマル」によって2つの部屋が分離されていた伝統的な韓国住宅は,「ゴシル」の出現と共に,「ゴシル」を中心とし,各部屋が「ゴシル」に面する構成へと変化した。外部空間としての「マダン」は主屋を始め各棟と接している。そして内部空間に「デーチョンマル」の代わりの空間として表れた「ゴシル」は,主屋の中で部屋は勿論台所,ユニットバス,「チャンゴ창고」に直接面し,内部空間の動線をコントロールしている。「ゴシル」は,動線のコントロールだけではなく家族の食事空間,法事,団欒の空間などに使われる複合的な機能を持っている。

以上のように,現代版の「マル」であるゴシルは,韓国住宅において複合的な機能を内在化する独特な空間となるのである。

④道路の「ゴサッ」化

「鉄道官舎」地区は,各宅地が副道路によって囲まれ,「ゴサッ」を創る配慮は全くなされていない。それは,「鉄道官舎」地区だけではなく全国の住宅地でも同様である。街路の「ゴサッ」化は,「鉄道官舎」地区に限らず,韓国の各都市の居住地で見られる。「ゴサッ」は,失われつつあるコミュニティ空間の代償であると考えられる。

2021年10月21日木曜日

磯崎新「建築の解体」「空間へ」,Anthologie critique de la théorie architecturale japonaise Yann Nussaume (Auteur) Paru en juillet 2004 Etude (relié)

 磯崎新「建築の解体」「空間へ」,Anthologie critique de la théorie architecturale japonaise Yann Nussaume (Auteur) Paru en juillet 2004 Etude (relié)

磯崎新 『建築の解体』、美術出版社、東京、1975

Sin Arata Isozaki: “Destruction of Architecture”1975

 磯崎新「建築の解体」「空間へ」,Anthologie critique de la théorie architecturale japonaise Yann Nussaume (Auteur) Paru en juillet 2004 Etude (relié)


 布野修司

Dr. Shuji Funo

  Department of Architecture and Environmental Design
  Faculty of engineering
  Kyoto University

 

 「建築の解体」というラディカルな響きをもつこの書物が出版されたのは1975年であるが、『美術手帖Bijutu Techou: Adversaria(or Notebook) on Art』という月刊誌monthly magazineに連載が開始されたのは60年代末のことである。前著『空間へ』が1968年までの論考を収めており、従って、本書は、それ以降1975年までの論考を収めた第二の著作となる。

 内容は大きく二つに分けられる。

 前半は、ハンス・ホライン、アーキグラム、チャールス・ムーア、セドリック・プライス、クリストファー・アレグザンダー、ロバート・ヴェンチューリ、スーパースタジオ/アーキズームについて、その仕事を紹介するものだ。磯崎のライバルと言っていい、あるいは、彼が関心を抱く、いずれも1930年代生まれの、ほぼ同世代の作家、グループ、が選ばれている。

 そして、後半は、《建築の解体》症候群(シンドローム)と題され、前半を総括する部分である。アパシー、アイリアン、アドホック、アンビギュイティ、アブセンス(あとがき)といういずれもアルファベットのaで始まる言葉が節の名前headingに掲げられている。

 この『建築の解体』は、当時の建築学生にとって教科書のような本であった。世界の若い建築家についての情報が新鮮で、僕も貪るように読んだ。

 磯崎がいう「建築の解体」には、二重の解体が含まれていた。ひとつは「建築」そのものの解体であり、もうひとつは「近代建築」の理念や方法の解体である。「建築」そのものの解体とは、一言で言えば、建築が一個の商品となり耐久消費財になっていくことをいう。建築は永遠のものでは最早あり得ず、どんどん新陳代謝していくものとなりつつある。メタボリズムの主張がまさにそうであった。建築は土地や場所との関係を失い、工場で生産され、ただ組み立てられるものとなる。日本では1960年代の10年で、住宅総生産の約一割は住宅メーカーによって供給されるプレファブ住宅になった。住宅は、買うものであって、建てるものではなくなるのである。

 しかし、磯崎の関心は「建築」そのものの解体へは向かわない。すなわち、建築の生産システムの全体については結局予め放棄されていたように思える。前著である『空間へ』で悟ったように、社会変革のラディカリズムと建築表現の絶対的裂け目を見て、アートとしての「建築へ」向かうのである。

磯崎がこの本で専ら考えたのは、従って、「近代建築」の解体である。「近代建築」、すなわち「近代建築」批判は、60年代から70年代にかけての若い建築家たちの共通のテーマであった。

そして、その答えは、「革命はとっくに終わっている」(C.アレグザンダー)であった。そして、「主題の不在」ということであった。

例えば、磯崎は次のように言う。

「近代建築が疑うべくもない究極的な主題に設定したテクノロジーが、かならずしもその絶対性を維持できなくなったというべきか。主題が消えてしまったのだ。目的的な空間をテクノロジーを駆使して実現するという、明快でリアリスティックな思考のプロセスが疑問視され始めた。」

「主題の不在」という主題を確認した磯崎は、ポスト・モダンの旗手として、日本のみならず世界の建築家たちをリードしていくことになるが、彼が専ら手掛かりとしたのは形態操作の手法である。一種のフォルマリズムといっていい。自ら感性に適う建築言語が古今東西から寄せ集められ組み立てられていった。分裂症的折衷主義とその手法を名づけたこともある。要するにテクノロジーの論理を廃し、全く、自立した平面に建築の世界を仮に設定し、様々な建築的断片を自在に操って見せたのである。

かくして「建築の解体」が実行され、ポスト・モダン建築の跋扈(ばっこ、蔓延ること)があり、磯崎はひとりそれを抜け出す(他の建築家を差異化する)ために「大文字の建築Architecture with capitol A」という概念に辿り着くのである。

 


磯崎新 『空間へ』、美術出版社、東京、1971

Sin Arata Isozaki: “Towards Space”1971 

布野修司

Dr. Shuji Funo

  Department of Architecture and Environmental Design
  Faculty of engineering
  Kyoto University

 

コルビュジェの『建築を目指して』を想起させるかのような、「空間へ」と題された本書は、磯崎新の処女論文集である。1960年に書かれた「現代都市における建築の概念」から、1968年の「きみの母を犯し、父を刺せ」まで、1960年代に磯崎が書いたほとんど全ての原稿が年代順に並べられている。

1931年生まれの磯崎新の30歳代は、そのまま1960年代に重なる。1960年代は日本建築の「黄金時代」である。丹下健三の「東京計画1960」、菊竹清訓の「海上都市」「搭状都市」など、日本の建築家たちが盛んに都市プロジェクトを提案したのが1960年前後である。磯崎新も「空中都市」というプロジェクトを提案している。1960年にはまた「世界デザイン会議」が東京で開かれた。その時に結成されたメタボリズム・グループである。建築評論家の川添登に率いられた、菊竹清訓、槇文彦、黒川紀章、大高正人たちは、丹下健三に続いて、1960年代を通じて、国際的な建築家となっていく。東京オリンピックが開かれたのが1964年、同じ年、新幹線が開業している。1970年には「未来都市」を唄う大阪万国博Expo70が開かれた。日本の1960年代は、高度成長の10年であり、未曾有の建設の時代であった。

この時代、磯崎新は、東京大学の丹下健三のもとにあって、その活躍の中心にいた。既に、大分図書館によって日本建築学会賞を受賞し、建築家としてのデビューを飾っていたものの、その仕事の中心は丹下研究室の活動に置かれていた。スコピエの計画(1967年)に続いて、1960年代の後半は、大阪万国博の会場設計に没頭していたのである。

『空間へ』が出版されたのは大阪万国博が終了した直後のことである。彼は、大阪万国博の仕事に心身ともに疲労困憊し寝込んだことを告白している。また、1968年の世界的な大学叛乱が彼に大きなインパクトを与えたことを繰り返し述べている。今日に至るまで、磯崎は折に触れて1968年について語るのであるが、社会的なラディカリズムとアートとしての建築表現の間の裂け目を見たのであった。この『空間へ』は、その直前までの思考の過程を示している。そして、そこには磯崎新の原点をみることができる。

巻頭の「都市破壊業KK(株式会社)」は、痛烈な現代都市批判である。その背後で、都市計画や都市デザインの必要をナイーブに訴えている。あまり知られていないかもしれないけれど、日本で最初に都市デザイナーを名乗ったのは磯崎なのである。そして、意外かもしれないが、『空間へ』に納められたかなりの論考は都市論、都市デザイン論なのである。都市と建築の関係を根源的に考えることが磯崎の出発点に置かれているのである。

全体像を提示することより、プロセスの計画こそが本質であるとする「プロセス・プランニング論」、都市計画の手法を見事に分析し、シンボル配置論の次元を提示した「都市デザインの方法」、さらに、虚像と記号が支配する現代都市の本質を読み解いた「見えない都市」は、今日読んでも鋭い。また、日本の都市空間の特性を明らかにした「日本の都市空間」は現在では古典といってもいい。

しかし、磯崎は『空間へ』を書いてまもなく「都市からの撤退」を宣言することになる。メタボリズム・グループとは意識的に距離を置いていることを書いている。社会変革のラディカリズムと建築表現の絶対的裂け目を見て、アートとしての「建築へ」向かうのである。「建築の解体」が当面の彼の目標となるのである。

1990年代に至って、磯崎は突如中国で「海市」という都市プロジェクトを提案する。再び「都市へ」と向かうかどうかはわからない。しかし、「プロセス・プランニング論」「都市デザインの方法」が決して揺らいではいないようにも思える。いずれにせよ、磯崎が建築と都市との根源的関係を考え続けてきたことは確かであり、そうした意味でも『空間へ』は彼の原点なのである。










2021年10月19日火曜日

ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー  Ⅳ ロンボクの都市・集落・住居の構成原理

 ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー住総研研究年報19住宅総合研究財団1992

 


Ⅳ ロンボクの都市・集落・住居の構成原理

 

 1.ロンボク島のコスモロジー

 

 1-1 プラ・メルとカラン

 チャクラヌガラの中央部に位置するプラ・メル(寺院)は北の王宮とともにその中心的施設である。ロンボク島のプラ(図Ⅳー①図① ロンボク島の寺院)の中で最も大きく、最も印象的なのがプラ・メルである。このプラは東西にのびるチャクラヌガラの主要道(スラパラン通り Jl.Selaparang)に面し、周囲を頑丈な壁に囲まれて建っている。 バリのカランガセム王国によって、ロンボク島の当時の全ての小王国を統合する中心として、1720年に建立された。プラ・メルの名が示すように世界の象徴であり、ヒンドゥ教のブラフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神に捧げられている。敷地構成(図Ⅳー②図②)は、東西方向に三つの部分に分けられ、それぞれ天、人、地に対応するといわれる。すなわち、スワ(Swah,ジャワ、バリ、ロンボクでマカラ makara 以下同様)、ブア(Buah,ウカラ Ukara)、ブール(Bur,アカラ Akara)と呼ばれて区別される。一番西側に入口が設けられているが、そこがブールである。

 この3つの部分のうち最も重要なものは東端のスワの部分で、ここには3つの塔と33の祠などの建物が配置されている。11の屋根をもつ中心の塔はシヴァ神を、9層の屋根をもつ北側の塔はヴィシュヌ神を、7層の屋根をもつ南側の塔はブラフマ神を象徴している。

 またこれらの三つの塔を囲むようにして、北側と東側に33の小さな祠がならべられている。それぞれの祠に固有の名称、さらに対応するプラの名称が併記され、チャクラヌガラと周辺の村を合わせた33のカラン(住区)によって維持管理されている。

 祭礼時には各カラン(住区)から数人が訪れ、それぞれの祠に対してお供えをし、祈りを捧げる。

 チャクラヌガラは格子状パターンによる住区構成をとっており、現在ではその格子状パターンに従って住区割がなされ、ブロック毎に名称が付けられている。しかし、プラ・メルの33の小祠と対応するプラは必ずしもブロック単位とはなっていない。図333のプラをプロットしたものである。

 33という数字に注目すれば、宇宙論的数として、それはメール山(須弥山)の頂上に住むとされる33の神々を想起させるものである。

  東南アジアでは家臣や高官の定員数として、あるいは王国を構成する地方省の数としてしばしば登場する数であり、例えば、ビルマのカミング王朝時代のジャヴァ、ペグー王国などにそれがみられる。

  また東西に走る主要道をはさんで北側に存在するプラ・マユラには33の噴水が設けられ、それぞれがコミュニティーの核となっている。

  仏教の体系において須弥山とは宇宙の中心をなす世界山である。この山はそれぞれ7つの環状の海によって互いに隔てられた7つの山脈によって取り囲まれている。これらの山脈のうち最後の山脈を越えると、大洋が広がり、その中には、4方に一つずつの計4つの大陸がある。須弥山の南にある大陸が贍部州で、人間の住むところである。ここでも宇宙は一つの巨大な岩の壁、つまりチャクラヴァーダ(鉄囲山)山脈によって取り囲まれている。須弥山の斜面には、極楽のうち、一番下の極楽、つまり4大王あるいは世界の守護者の極楽がある。その頂上には第二の極楽、つまり33神の極楽があり、そこにはスダルサーナ(善見天)、つまり神々の都市もあるが、そこではインドラが王として君臨している。須弥山の上方にはその他の天空の居住地が積み重なって聳えている。

  以上のことから、上述したインドの宇宙像がチャクラヌガラにも反映しているのではないかと考えられる。プラ・メルはチャクラヌガラの住民にとっての信仰の中心でもあり、かつコミュニティ統合のための象徴的な核としても存在しているのである。

 

 1-2 プラの構成とオリエンテーション

 

 (1)プラ・リンサール

 プラ・リンサール(図Ⅳー③図③)はチャクラヌガラの北東約15キロメートルに位置するプラで、ロンボク島における最も神聖なプラであるといわれている。このプラは1714年に建立され、ヒンドゥーとイスラームの聖地が明確に隣接するという点において特徴的である。ロンボク島ではイスラーム教徒がワクトゥ・テルとワクトゥ・リマの二つに分けられることは既に繰り返し述べてきたが、プラ・リンサールを信仰対象にしているのは主にワクテゥ・テルである。

 敷地の構成は、2つに分割されている。2つの敷地の間には高低差があり、北側の方が高い。北側はヒンドゥーの寺ガドゥであり、南側はワクトゥ・テルの聖地クマリとなっている。毎年、年1回建立の日を記念して祭礼が行われる。信仰対象別に、分かれて礼拝を終わらせたあと、祭礼の終わりに人々はふたてにわかれ、ちまきを投げ合う。よってこの祭礼は別名「ちまき合戦」とも呼ばれている。

 ガドゥは、6つの社と2つのパドマサナ Padmasana とよばれる塔によって構成され、礼拝は基本的に北側中央の社に対して行われる。つまり「北向き」に礼拝が行われる。一方南側のワクトゥ・テルの聖地クマリは、神に捧げられた池によって特徴づけられる。その池には神聖なうなぎが住んでいる。神聖なうなぎの池の隣には、白や黄色の布や鏡によって飾られた捧げ物などが置かれている場所がある。ここでの礼拝は「北向き」に行われる。

 プラ・リンサールの4500m東にプラ・リンサール・ウロンがある。このプラはプラ・リンサールよりも建立年代は古いと言われ、プラ・リンサールの原型であると考えられている。

 敷地構成はプラ・リンサールと同様に上下2面に分かれ、東側の上段にはガドゥが、西側の下段にはクマリが配置されている。上段での礼拝方向は「北向き」となっており、下段における礼拝は「北向きと東向きの2通り」に行われていた。

 

 (2)プラ・スラナディ、プラ・スガラ、プラ・ナルマダ

 ロンボク島で最も神聖なプラの一つであるスラナディ(図Ⅳー④図④)は神聖な湧き水で有名である。このプラにおいては、中央一番奥の一段高くなったところにガドゥが配置され、クマリはガドゥの約10メートル手前の北側に位置している。ガドゥに対する礼拝方向は東北15度、およそ「リンジャニ山」の方向、クマリに対しては「北向き」となっている。

 プラ・スガラ(図Ⅳー⑤図⑤)はアンペナンの北2キロメートルの海辺に建てられており、海をはさんで対岸にはバリ島のアグン山を望む。このプラにおいては、イスラームとの混合はみられず、純粋なヒンドゥーのプラで、人々は西側の二つの塔に向かって、つまり、島の向こうにある

「バリ島のアグン山の方」を向いて礼拝する。

 ナルマダ(図Ⅳー⑥図⑥)はロンボク島を東西に横断する主要道をチャクラヌガラから東へ約10キロメートル行ったところにある。ナルマダの特徴として人口湖があげられるが、これはリンジャニ山の麓のスガラ・アナク湖に巡礼に行けなくなった当時の王が、それをまねて一八〇五年に造ったものである。また、人造湖の向こうにはリンジャニ山を模して造られた小高い丘があり、その向こうにはリンジャニ山を望む。ここでは人造湖の手前にある宮殿から丘の方をむいて礼拝する。すなわち、「リンジャニ山の方」を向いて礼拝するのである。 

 西ロンボク地域の主要なプラでは聖地におけるオリエンテーションが、プラの平面構成に関して重要な要素となっている。

  基本的に以上のプラは、バリ・ヒンドゥーの影響が強く、オリエンテーションに関してもバリ・ヒンドゥーの概念にしたがう。つまり山は神の住まう場所と考えられ、海は悪魔の住まう場所と考えられた。日の出る方向は聖なる方向と考えられ、日の沈む方向は悪の方向と考えられた。ガドゥの礼拝方向はプラ・スガラのみが西向きで、プラ・スラナディ、ナルマダはリンジャニ山の方向、リンサール、リンサール・ウロンは北の方向である。すなわち、すべて山がオリエンテーション決定の中心的な役割をはたしている。その山がバリ島のアグン山か、ロンボク島のリンジャニ山かによって礼拝方向に違いが生じているものと考察される。また、クマリについては北を向いて礼拝するのが基本である。

 

 2.住居集落とコスモロジー

 ロンボク島のササック族(ワクトゥ・テル)の住居集落は、三つの地域類型に分けらるのであるが、何れにおいても、建築物が極めて単純に配される。伝統的住居も基本的に素朴な1室空間の建築物である。

 配列は南部の集落のみ他と異なる。つまり他の地域では建築物が平行に配置されるのに対し、南部では丘陵上に等高線に沿って配置される。それぞれ立地と関係している。南部には乾燥した丘陵地帯が多い。耕作地を少しでも多く獲得するために、丘陵上に集落を築かざるを得ない。他の地域の平野部やなだらかな傾斜地では、聖山であるリンジャニ山がオリエンテーションの中心となっているのである。

 集落を構成する建築物の種類に焦点を当てると、北部諸集落が特異である。他の地域では住居と穀倉が集落の主な構成要素であるが、北部では住居とブルガによって構成され、穀倉は集落周縁部に配置されている。

 バヤンではブルガはサカ・ウナムとも呼ばれる。バリにも同じ名で呼ばれる建築物がある。またブルガはバリに見られるバレ・バンジャールと同様の高床で壁のない建築物である。北部諸集落では、元来他の地域と同様、住居と穀倉とが素朴に平行に並べられていたのだが、バリの影響を受け入れると同時に、ブルガが移入され、現在見られるような配列が作り出されたのではないかと考えられる。

 バリ人の住居集落を除くとロンボク島の住居集落とコスモロジーとの間には必ずしも強い関係を見ることはできない。しかし以下の2点を指摘しうる。

 ①リンジャニ山を中心とした方位観が建築物の配列を大きく規定している。

 ②ベランダ空間であるサンコには、右・左、大・小、男・女といった双分観が反映している。ブルガと住居にも、男の空間・女の空間といった対応関係が観られる。

 バリの住居集落との比較を通して、その特徴をまとめてみると以下のようになる。

 知られるように、バリにおいては、住居集落とコスモロジーとの結びつきは密接である。ヒンドゥー教の影響を大きく受けたバリ・マジャパイトの住居集落はヒンドゥーの宇宙観の影響が特に顕著に見られる。バリ・マジャパイトの住居集落では、

 ①大宇宙のスワ・ブワ・ブールといった三層構造が、集落、住居・屋敷地、ディテール等と関連づけられている。

 ②アグン山を中心とした方位観および日の昇降に規定される方位観に従って、集落内の施設の配置や住居内の空間構成が決定される。

 ③男の空間・女の空間というように、建築物内部の空間構成が双分観に支配される。

といった関係を指摘することができる。

 ロンボク島の住居集落は、ブルガの存在やアラン(穀倉)の釣り鐘型の形態など、バリの影響を受けたと考えられる点がいくつかある。しかし、バリのようなディテールに到る精緻な体系はなさそうに思われる。バリとの関係という点では、むしろ、バリ・アガの住居集落の構成を規定する原理との近接性を指摘したい。

 ヒンドゥー化以前のバリ人であるバリ・アガには、この様な特徴は見ることができない。ごく素朴な、双分観や山を中心とした方位観の影響を指摘できるのみである。

 山を中心とするコスモロジーや住居への双分観の反映といった、ロンボク島の住居集落の構成を規定する原理は、極めて素朴である。おそらく、土着的な集落配置の原型をとどめているとみていい。

 

 3.都市・チャクラヌガラとコスモロジー

 チャクラヌガラの都市構成原理については、Ⅲ章でまとめた。ここでは、インド、ジャワ、バリの都市と比較して、その特徴をまとめておこう。

 チャクラヌガラと都市形態の面から最も類似している『マナサラ』にみえる都市計画は「クブジャカ」と呼ばれるタイプの都市である。共通点としては、①全体構成が東西に長い長方形であること。②メインストリートが形成する四辻に面して王宮があること。③メインストリートの北側に1ブロックの居住地があること。④道路体系がグリッド・パターンであること。⑤東西8ブロックからなること、があげられる。また異なる点としては、①チャクラヌガラは、半八角形の部分を持たない。②王宮の位置がチャクラヌガラの場合、四辻の北東角である。③チャクラヌガラは、南北に5ブロックからなる。④チャクラヌガラには城壁がない、などがあげられる。

 全体構成としては、チャクラヌガラに似た構成を持っているが、いずれにせよ、『マナサラ』の都市理念がストレートに移入されたとは考えにくい。ヒンドゥーの都市理念がジャワ化され、さらにバリ化された上で、チャクラヌガラの構成理念は形成されたと考える方が自然であろう。

 『ナガラクルタガマ』にみえる都市の都市理念の特質として2つのポイントが挙げられる。1つは、 四辻と王宮を中心とした都市構成である。また、市と広場を持つ事も特質として挙げられる。2つめは都市の全体形を規定せず王宮との距離・方位との関係、すなわち都市形態全体を規定するのではなく王宮との相対関係で都市を規定することである。

 都市の四辻と王宮を中心とした都市構成をしているという点で、チャクラヌガラは『ナガラクルタガマ』に従っているといっていい。ただ、都市の具体的形態は明かでない。都市構成原理が『ナガラ・クルタガマ』に直接書かれているわけではない。

 具体的な形態としては、バリの都市との関係が深いとみていいだろう。バリの都市(王都)の場合、①王宮は大通りが形成し、都市の中心を形成する四辻に面している。王宮の位置はバリの各都市によって異なっているが、北東角に位置する都市が一番多い。②市場は全ての都市で中心に近接する第1円に位置し、方位は各都市毎に異なる。③墓地は各都市共、その次の第2円に位置する。方位は、タバナンでは西、クルンクンでは北東、バンリでは南、ヌガラでは南東、カランガセムでは南東というように規則性はない。④都市の全体構成に関しては、バリ都市においてもインド・ジャワと同様に入れ子状の都市構成であるということがいえる。すなわち、四辻を中心としてその周りを市場、プラが囲み、最外郭に墓地が位置するという構成である。⑤ギャニャールの一部、カランガセムの一部にはチャクラヌガラと同様の背割りされた宅地配置が見られる。⑥バリ都市には、城壁や壕等の都市の内と外を分ける施設はない。

 チャクラヌガラの場合、①王宮の位置:四辻が都市の中心を形成し、四辻に面して王宮がある。また、王宮の位置もバリで最も多い南東角である。②市場の位置:四辻の北に位置し、王宮に接した第一円に属する。③墓地の位置:第2円に位置する。④都市の全体構成:王宮が中心に位置し、それを市場・寺院・墓地が取り囲んでいる、点は共通である。

 以上のように、都市の全体構成を決定している理念としてまず考えられるのはインド→ジャワ→バリ→チャクラヌガラとつながるヒンドゥーの都市理念である。すなわち南北・東西に走る大通りが形成する四辻と王宮が都市の中心にある都市構成である。しかし、グリッド・パターンの都市は必ずしもバリには見られない。むしろ、街路パターンとしては、タクタガンをもつバリ・アガの集落(例えばブグブグ)のパターンが持ち込まれていると考える事ができる。ブグブグは、道路体系は南北に走る大通りとそれに直行する路地から構成される。宅地の構成は南北の大通りに対して直行する路地によって長方形の住区が形成され、各住区は背割りされ、最大16筆、最小12筆の宅地に分割される。バリ・アガの集落には、バリ都市に見られないグリッド・パターンの道路体系が見られ、チャクラヌガラがバリの土着の集落パターンの強い影響を受けていることは間違いないところである。

 もちろん、他の影響を考えてみることもできる。

もし、古代インドの建築書に見られるグリッド・パターンが伝わったとするのなら、その伝達過程のジャワ、バリでなぜグリッド・パターンの都市計画が為されなかったのかという問題がある。ジャワ化、バリ化が起こっている筈である。また、別の要素としてチャクラヌガラが植民都市であることがある。植民都市において格子状の都市計画が多く見られることは古今東西の事例の示すところである。さらに、中国の影響も考えられなくもない。そして、この当時、ジャワには既にオランダ人が来ており、バタビアを建設している。グリッド・パターンが西洋の計画理念の影響を受けた可能性も高い。

 イスラームとヒンドゥーとの棲み分けの問題としてはインドの諸都市との比較が興味深い。最も興味深い都市として、例えば、ジャイプールがある。ジャイプールもチャクラヌガラと同様、18世紀に建設された計画都市である。同じように周辺部にムスリムが居住する。インド文化圏の東西の極がジャイプールとチャクラヌガラである。チャクラヌガラについては、さらに視野を広げて比較検討が必要である。