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2022年11月10日木曜日

2022年11月8日火曜日

建築の磁場 国際化の時代,建築文化,彰国社,198801

国際化の時代,建築文化,彰国社,198801

 一九八七年の建築界を振り返って最も大きな出来事は何かと聞かれれば、やはり「新日本建築家協会」(JIA)の結成を挙げるべきであろうか。あるいは狂乱地価の土地問題を挙げるべきであろうか。決して少なくない力のこもった作品が生み出される一方で、建築と建築家を支える基盤をめぐって、何やらあわただしく揺れ動いた一年であった。

 しかし、「新日本建築家協会」にしろ、土地問題にしろ、まともな議論が建築家の間でなされてきたかというといささか心もとない。土地問題については「蘇る黄金の六〇年代」*[i]で若干触れる機会があったが、建築雑誌にはなじまないのか、ほとんど論考がない。『建築雑誌』の特集「土地と建物」*[ii]がほとんど唯一のまとまったものではないか。西山夘三の「建築家は再び吹きすさぶ国土破壊の『列島改造』に加担してよいのか」*[iii]、あるいは鈴木博之の「義をもって利を制すべきもの」*[iv]などが目立つ程度である。

 新聞・テレビ・週刊誌などが連日のように土地問題を取り上げてきたから、それでいいというわけにはいかない。建築、都市計画の分野であれば独自に、しかもいち早く取り上げてしかるべき問題である。建築にかかわるメディアがほとんど対応しえなかったことは、その体質を示している。大いに反省すべきであろう。都市計画有志の緊急アピール(代表大谷幸夫)が出されているけれど、今のところそうした動きも取り上げようとしないのは、どうしたことであろうか。

 もっとも、問題はすでに政治的、経済的、社会的にグローバルな問題となりつつあり、広い視野において論考すべき大問題となっているといるかもしれない。しかし、少なくとも、建築や都市計画の現場で何が起きつつあるかについては、しっかりと論ずべきだ。問われているのは、もとより土地と建物の関係のあり方をめぐる、いってみれば哲学である。建築や都市計画、社会工学の分野をも大きな母胎として不動産学会が設立され、不動産学(科学)科や不動産学部の構想が叫ばれているのも、それゆえにである。また、土地と建物をしっかりした理念に基づいてトータルに扱う分野や職能が、必要とされつつあるともいえる。

 ところで、「新日本建築家協会」については、その設立をめぐっていくつかの記事や論文、座談などがある。しかし、そのほとんどは設立にかかわる当事者によるものであり、それに対する反応は今のところ少ない。日本建築家協会と日本建築設計監理協会連合会が母胎となって、「新日本建築家協会」が設立されたのは一九八七年五月のことであるが、それに先立って、その結成が公になったのは年の初め頃にすぎない。丹下健三による「職能建築家の団結を目差す なぜ、いま、建築家の職能理念に基づく新団体が必要なのか」*[v]が公表されたのがそうである。新団体結成の動きは二年ほど前からあったというが、一般に公表されてから結成までほんの短期間である。丹下論文の結びには、「新しい年を迎え、これまで新団体の定款(案)、会員・会費制度などを検討して参りました両協会の合同組織を発展的に解消して、新たに両会の境のない「新団体設立準備会」を設置し、新団体とその社団法人化を四月までに設立することを目標に、広くそれへの参加を呼びかけるキャンペーンを始め、これまでの準備・検討の結果を早急に具体化させる作業に取り組んで参ります」とある。少なくとも外部の人間にとって、実にあわただしい設立だったように見える。

 新団体の設立についてのリアクションが少ないのは、その設立があまりにもあわただしく、議論をつくす余裕がなかったからである。しかしそれにもまして、なぜ、日本建築家協会と日本建築設計監理協会連合会を核とする大同団結が今必要なのか、一般にはピンとこないことが大きいのではないか。

 職能の確立をうたう設立趣旨は、ことさら目新しいわけではない。中心的な理念とされているのも、歴史的に争われてきた兼業の禁止を骨子とするものである。なぜ、いま、大同団結なのかについて、専業建築家の協会の会員数がこれまで少なかったからという説明がなされる。しかし、なぜ、これまで日本建築家協会の会員数がわずかに一、二〇〇人であったのかという説明はない。建築士の数が二〇万人(一級建築士)あるいは七〇万人(一、二級建築士)というのは多すぎるのだというが、多すぎる建築士はどうなるのか。設計施工との関係はどうなるのか。日本建築士連合会(士会)、日本建築士事務所協会連合会(日事連)と「新日本建築家協会」は三極構造を形成していくのだというが、その三極構造というのは一体どのようなものか。解せないことが多い。

 丹下論文においては国際化という要因(「国際化しつつある環境のなかで、国際的な慣例やスタンダードに適合した、内外からの信頼を受けるに足る建築家の職能団体が必要性が痛感される」)と、都市の大規模な整備や改造に対応するだけの体制の必要性という要因の二つが挙げられるが、心ずしも具体的ではない。関西新空港や東京改造の大プロジェクトがイメージされているとすれば、一部特権的な建築家のみのための団体設立であるような印象がしないでもない。いずれにせよ、なぜ、いま、大同団結についての具体的な背景が一般に明らかでないことが、今のところ大きな議論を生まない理由なのである。

 いまここで、「新日本建築家協会」をめぐってあれこれと評論するのは差し控えたい。乱れ飛ぶよく臆測をもとに論じることはできないし、しばらくその経過も見る必要があろう。建築、都市計画の分野にかかわる人々との編成の問題として、いずれじっくり論じてみたいと思う。

 いうまでもなく、「新日本建築家協会」をめぐる問題は、歴史的な大問題である。すでに膨大な議論の蓄積もある。「新日本建築家協会」が発足当初においてすでに多くの問題を抱えていることは、例えば西和夫が会費規定の複雑さを挙げながら鋭く指摘しているところである*[vi]。建前やきれいごとでなく、それぞれの立場から本音の議論が展開されることを期待したい。

 さらに一九八七年を振り返って、もう一つ大きな出来事を挙げるとすれば、国際居住年(International Year of Shelter for the Homeless)に関する一連の催しを挙げるべきではなかろうか。一九八七年は、国際居住年(IYSH)ということで実に多彩なイベントが行われた。各自治体が主催する一五〇を超えるシンポジウムが行われたし、マスメディアも一年を通じてさまざまなキャンペーンを展開した。

 しかし、多くの催しが果たして国際居住年にふさわしいものであったかというと、相当あやしい。それ以前に、一九八七年の出来事を確認するためにいくつかの建築雑誌のバックナンバーを見直してみて、いささか驚いた。ニュース欄を含めて、国際居住年はほとんど扱われていないのである。そしてまた、その本来の趣旨に沿った企画は少ないのである。折からの、土地問題・住宅問題の狂騒に紛れてしまった気がしないでもない。ひどいことに、単なる住宅フェアにすぎないものも少なくない。国際居住年も、日本においては住宅問題一般に解消されてしまったというのが、実のところではないか。その日本語訳が、当初からそれを暗示していたのといわねばならない。

 繰り返すまでもなく、国際居住年の大きな焦点は、ホームレスのための住まいにある。日本においては、住宅取得難のわが身や、ローン地獄の自身をすんなりホームレスになぞらえてしまったということもあるが、グローバルに主題とされるべきは発展途上地域のホームレスである。また、日本においても真の(?)ホームレスや住宅困窮者が、しっかりと問題の中心に据えられるべきであった。しかし、そうした本来の主旨が実に希薄であったのが、日本の多くの催しである。

 そうしたなかで、もちろん、その本来の主旨に沿った企画や催しもなくはない。年の終わりに近く、おそらく国際居住年に最もふさわしいと思われる国際シンポジウムが開かれた。「女性・居住・アジア 新しい住まいと暮らしを求めて」と題された〈かながわ国際フォーラム〉*[vii]が、そうである。

 この国際フォーラムが興味深いのは、焦点をはっきりとホームレスの問題に据えている点であることはいうまでもないこととして、男ー女、都市ー農村、日本(先進諸国、北)ーアジア(発展途上国、南)という三つの対立図式を取り出して基本フレームとしている点、特に女性のイニシアチブを打ち出している点、海外からの参加者のほとんどが非政府機関(NGO)を活動の拠点としている点、すなわち、草の根レヴェルの交流が中心に据えられている点、建築、都市計画のみならず、援助、南北問題にかかわる分野から広くパネリストを招いた点などである。その詳細は、主催者による報告書や「国際居住年・江の島アピール」(八七年一一月一五日)など*[viii]にゆずらねばならないが、パネラーとして参加する機会を得て実に大きな刺激を受けた。以下に、国際居住年の総括の意味を含めて、いくつか書きとめておきたい。

 ここで問題としたいのは国際化という課題、あるいは国際交流とは何かという問題である。考えてみれば、土地問題も国際的経済的関係のなかで求められる内需拡大の必要性によって引き起こされたという見方がある。また、東京が国際的な金融センターとなる過程でのオフィス需要が、地価狂乱を招いたともいわれる。全面的な要因とはしがたいが、国際化する都市と土地問題の連関は指摘できる。また、「新日本建築家協会」の結成が本当に国際化という外圧をモメントとするのであれば、ここでも国際化というテーマが浮かび上がってくる。上記のフォーラムにおいて、僕は、日本の都市の国際化というテーマを与えられて、寄せ場労働者というホームレスの問題と外国人労働者の問題を報告したけれど、建設業の労働現場においてはすでに国際化が現実の問題となりつつある。にわかには断じがたいが、時を経れば、建築界における新団体結成も、日本社会の国際化というインパクトにおけるその再編成の動きとして位置づけられるかもしれない。そうだとすれば、一九八七年は国際化というテーマが鋭く浮かび上がった年ということになろう。

 それはともかく、先の〈かながわ国際フォーラム〉において、最終的に激しい議論になったのは、一つ一つ問題を解いていくために具体的にどう行動するのかという点である。フォーラムにおいてまず確認されたのは男ー女、都市ー農村、日本ーアジアという対立構造が極めて複雑に絡み合っているということである。日本の問題とアジアの問題を切り離して考えることができないことは、フォーラムでも激しい告発があった。日本の住宅資材として木材が例えば東マレーシア(サラワク、サバ)から輸入され、その環境を決定的に破壊しつつあることを想起すれば、容易に(少なくとも頭では)理解することはできよう。また、日本の寄せ場労働者とアジアからの移民労働者との競合関係を考えてみれば、その二重、三重の構造を理解することができるはずである。

 そうした構造を具体的な事例において認識することは、極めて貴重である。そして、それぞれの経験を交流することは極めて大切なことである。しかし、具体的にはどのような行動が可能か、どのような日常的活動を行うのかということは、そう容易なことではない。フォーラムにおいて、最終的に問われたのはそこである。

 国際化一般の問題ではなく、居住問題についての具体的なアクションに関する議論ではあるが、その結果としてまとめられた指針は、次のように言い表された。すなわち、地域を考え、広く国際的に行動すること(Think locally and act globally) そして広く国際的に理解し、地域で行動すること(Think globally and act locally) である。日本社会が国際化していく過程で、おそらく上で言い表されるような行動形式がさまざまなレヴェルで、それぞれに要求されるのである。

 蛇足ながら私見を付け加えれば、具体的な行動において国家という枠組みは必ずしも必要ではないであろう。もちろん、国というフレームを前提とした国際交流もさまざまに追求されなければならないであろう。しかし、上の簡潔なスローガンにおいて前提されているのは、あくまでも地域における日常の活動であり、相互学習、経験交流によるダイナミックな運動が重要であるということである。〈かながわ国際フォーラム〉においても、数多くの提言がなされた。例えば、パネリストの一人であるアニー・アビヨン女史は、居住環境改善のためのいくつかのの指針を提示した。少なくとも僕にとってそのすべては共有しうるものである。それをまず、自らの日常においてどう生かしていくかが、問われる。そして、それを具体的に展開していくことが、真に他の地域の経験に学ぶということであろう。国家という枠にとらわれず、地域と地域がそうした経験交流を積み重ねていくことが、国際化という課題に応えることになるはずである。

 



*[i]  『建築文化』(八七年九月号)

*[ii]  八七年一一月号

*[iii]  『建築雑誌』、八七年九月号

*[iv]  『新建築』、八七年一一月号

*[v]  『新建築』、八七年二月号

*[vi] 「建築家はいま何を求められているか」『新建築』、八七年九月号

*[vii]  八七年一一月一三日~一五日神奈川県立婦人総合センター 主催 日本居住学会、神奈川県、藤沢市ほか)

*[viii]  『建築雑誌』、八八年一参照)













2022年11月7日月曜日

秋田・建設業フォ-ラム,雑木林の世界17,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199101

 秋田・建設業フォ-ラム,雑木林の世界17,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199101


雑木林の世界17

 秋田・建設業フォーラム

                        布野修司

 

 秋田商工会議所と秋田県商工会議所連合会が主催する「地域活性化セミナー 建設業フォーラム 建設業の労働力確保のために」(秋田市文化会館 九〇年一一月一五日)に行ってきた。一一月号で予告した通りである。

 「職人不足は誰のせい」と題して基調講演をしたあと、パネルディスカッションにも加わった。パネラーは、中川実(秋田県土木部次長)、佐々木悦男(秋田魁新報者政治経済部長)、長谷川駒造(秋田県商工会議所建設部会長)の三氏、司会・コーディネーターが藤沢宏氏(秋田県商工会議所専務理事)である。パネルディスカッションに先だっては、三人の意見発表があった。すなわち、①人手不足に関して、水原精治(水原工務店)、②労働条件の改善について、高橋千代治(日本海建設)、③公共工事について、太田光重(北勢工業)の三氏である。

 意見を要約すると以下のようになる。

 ①人手不足に関して 若年層を中心とする建設業離れが深刻化しつつある理由は、労働条件など旧態依然のままで体質改善を図ろうとしなかった業界自身に最大の責任がある。さらには、造形美に対する価値観や評価の衰退により、創造の喜びがなくなったこと、また、学校教育における建設業界の理解不足、3K、6Kというマスコミの安易な発言もその一端である。最近の好景気で発注は好調だが、人手不足で受注の拡大ができず、経営が伸びない。人手不足により工期がハードスケジュールにならざるをえず、労働環境の改善が思うようにならないという悪循環を繰り返している。建設業は県民の生活や産業活動の基盤整備に対しいかに大きな役割を担っているのか、広く社会的にアピールし、業界のイメージアップを図る必要がある。産・学・官一体となって従業者確保の施策を講じなければならない。

 ②労働条件の改善について 以下の改善が急務である。元請会社または協力会社、関連業種と連携した日・祭日の休みの徹底、時短の早期導入。協力会社の賃金台帳の整備と賃金水準の引き上げ。徒弟制に替わる技能工の訓練養成のための場の整備充実。現場を中心とした労働環境の改善。

 ③公共工事について 繁期には仕事が集中し、人手不足、コストアップなどの問題が生じる。逆に端境期には、仕事の減少で従業員を失業させねばならない。建設業の安定的経営、従業員の安定的確保のためには、公共工事については以下のことが必要である。発注時期の適正化による安定した施工量の確保。積雪地帯であることを考慮した冬機関工事の実現(通年施工の実現)。来年の労働基準法改正による労働時間短縮を踏まえた、適切な工期設定と積算の配慮。単年度工事について、官公庁予算の繰り越しによる、余裕ある工期の実現。資材の市場実勢に順応した適時な発注単価の改訂。

 なんのことはない。基調講演など必要ないのである。問題はしっかりと把握されているのだ。技能労働者不足をめぐるテーマはおよそ以下のようだ。

 

 A.サイト・スペシャリストの雇用条件、労働条件の改善

  1.賃金体系 職業生涯モデルプラン 

    社員化 常雇化 身分認定 

        月給制 年俸制  生涯賃金保証  職長の身分、待遇改善

  2.労働環境改善 福祉対策

    週休二日制    四週六休制

    工事の安全

    施設環境のアメニティー

     現場ハウス レストラン ユニフォーム ロッカー

    呼称(職制)

  B.建設業界の構造改善

  1.重層下請構造

  2.工事単価

    三省協定の改革

    算定方式の抜本改定

  3.情報公開

 C.教育・養成・訓練・研修

  1.技能・職能・資格

    訓練内容 技能伝承のあり方 既存技能評価

    マイスター制度

  2.専門技能家養成

     多能工の技術教育

     若年層の育成と確保

  3.職人大学の創設

 D.新建築システム

  1.省力化技術 生産性向上 

  2.建設産業情報ネットワーク

  3.建設ロボット CAD CAM

 

 もちろん、短い時間で全てが話されたわけではない。昨年一一月に発足したサイト・スペシャルズ・フォーラム(詳細次号)での議論も含めると以上のようなテーマが浮かび上がってくる。全国同じように労働者不足問題が問われ始めているのである。

 しかし、新たに気づかされたことも多い。例えば、当り前の事だけれど、地方には地方の事情があることだ。特に、積雪地帯では冬季に仕事ができない。だから、これまで、冬季には出稼ぎをする、というパターンであったのであるが、大都市圏との賃金格差が広がりすぎて、地方にはUターンしない、といった現象がみられるのである。ただでさえ、若者の新規参入がないのに加えて、都会に労働者を採られる。二重の苦しみである。結果として、地方の環境を支える建築技能者の問題が一番深刻なのである。

 もうひとつ、建築と土木で積算のシステムが全く異なっていることもそうだ。建築の工事単価の見積が、図面だけでなされ、建設技能労働者の賃金と直接結びつかないシステムが決定的である。ここでも、建築士の問題がキーを握っていることが確認されるのである。

 公共工事についても、従来から様々な問題が指摘されてきたところだけれど、この際、システム自体を抜本的に見直す必要がある。一方で入札不調が続いているのである。予算の単年度処理の問題にしろ、官僚制の大きなシステムがそう簡単に変わるとは思えないけれど、職人不足の問題に行政機関が深く関与していることも間違いないのである。

 いささか深刻な意見発表を受けて、パネル・ディスカッションの全体トーンは、暗くならざるを得なかったのであるが、結論は意外に楽天的であった。ものをつくる喜びを知る若者は決して無くなりはしないだろうと。

 






2022年11月6日日曜日

2022年11月5日土曜日

「樹医」制度/木造り校舎/「樹木ノ-ト」,雑木林の世界16,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199012

 「樹医」制度/木造り校舎/「樹木ノ-ト」雑木林の世界16住宅と木材(財)日本住宅・木材技術センター199012

雑木林の世界16

 「樹医」制度・木造り校舎・「樹木ノート」

                                          布野修司

 

 第一回「出雲市まちづくり景観賞」の審査のために再び出雲に行ってきた。僕の場合、行ってきたというより、帰ってきたという感覚である。方々の自治体でこうした顕彰制度が設けられているのであるが、島根県では初めてのことだという。いまをときめく岩國哲人市長の精力的施策のひとつとして、昨年景観条例がつくられ、それに基づいて設置されたのが「出雲市まちづくり景観賞」である。

 出雲に縁があるというので柄にもなく委員長をおおせつかった。委員長といっても、審査会の議事進行役といった役どころにすぎないのであるが、総評をまとめる羽目になった。以下がその総評である。

 

 ●「出雲市まちづくり景観賞」の創設、公募に対して、第一回であるにも関わらず、まちづくり部門32件、住宅部門17件、一般建築部門14件、計63件もの応募があったことは、まちづくりおよび町並み景観に対する市民の関心の高さを示している。また、いずれの応募作品も景観賞の意義をよく理解したものであることがうかがえ、出雲市のこれからのまちづくりを考えていく上で、「出雲市まちづくり景観賞」が大きな役割を果していくことが確信される。

 審査は、(1)出雲の歴史や文化が感じられるもの (2)新しい出雲のイメージにつながるもの (3)やすらぎや潤いが感じられるもの (4)公開性のあるもの という四点をゆるやかな基準として行ったが、いずれも予めこうでなければならない、という基準では必ずしもない。あくまで具体的な作品そのものを通じての評価を基本とした。ただ、景観賞の場合、作品をそれだけが自立したものとして評価するのではない。まちづくりとの関わり、地区の特性との関係が大きなポイントとなる。「出雲市まちづくり景観賞」が回を重ねていくにつれて、「出雲」らしさについて、次第に共通の理解が生まれてくることを期待したい。

 審査にあたって特に考慮したのは、そうした意味でバランスである。例えば、各部門一点を原則としたにも関わらず、住宅部門で二作品の表彰となったのは、都心部と郊外住宅地という立地の違いによって、住宅のあり方や表情は異なっていいという判断からである。特に一回目ということで、景観賞のイメージが固定化される恐れを考慮し、全体のバランスを考慮した。そのために、すぐれた応募作品でも選にもれたものがあるのは残念である。

 審査にあたってひとつの焦点となったのは、景観形成の、あるいは景観維持の活動をどう評価するかということであった。景観賞の目的は、いきいきとした景観をつくっていくことであって、まちづくりの活動と密接に結びついて行く必要がある。しかし、活動そのものは眼にみえない。それをどのように評価するかが議論となったのである。結果的に、活動の持続性をしばらくみたいということで今回は見送ったものがある。また、文化財指定をうけているものなど、他の賞を受けているという理由で避けたものがある。特に、まちづくり部門については、しばらく試行錯誤が必要かもしれない。

 受賞作品は、いずれも水準が高く、第一回受賞にふさわしいものである。こうした作品が地区の核となって、地区そのものの景観を誘導していくこと、また、他を刺激してよりすぐれた作品を生み出していくことを願う。

 

 こうした顕彰制度は、持続することに大きな意義がある。また、単なるイヴェントに終るのではなく、日常的なまちづくり行政と結びついていく必要がある。表彰とまちづくり協議会やシンポジウムの開催などを結びつける方法もあるかもしれない。景観賞が、回を重ねていくことによって、日本のどこにもない「出雲」独特の景観をつくりあげることにつながって行くことを期待したいと思う。可能な限りお手伝いできればと考えている。

 

 岩國市政は、実に派手である。話題にはことかかない。出雲で行なわれることになった十月十日の大学対抗の駅伝(「神伝」)を全国ネットで毎年放映するなどといった、そんな力量には実に感心させられるところだ。ところで、その岩國市政が随分と木造文化、木造建築に理解が深い*1ことはご存じだろうか。次々に木造文化関連の施策が打ち出されているのである。その施策が実を結び、形となって表われるまでにはしばらく時間を要しようが、興味深いことである。

 ひとつには「樹医」制度(一九八九年五月着手一二月実行)がある。樹木の病虫害、植栽に関して、助言・指導を行う「樹医」を六名認定し、活動の拠点として「樹医センター」を開所(九〇年四月)、各家庭からの依頼を樹医センターで受け付け、各樹医が家庭に往診、処方箋によって対策を伝える、そんなシステムが「樹医」制度である。

 そして、「樹木ノート」「木の塗り絵ブック」の配布がある。木の名前に詳しい子を育てよう、出雲出身の子供は木に強いといわれるようにしたい、という。木の名前を覚えるということは、木に対する関心を深め木をかわいがる気持ちにつながる。自然環境問題を頭ではなく、心でわかる人間を育てるのがねらいである。

  さらに、木造り校舎、木造り公民館(八九年四月着手)の構想がある。子供達を木のぬくもり、温みのある校舎で育てようと、河南中学の内装には可能な限りの木材が使われている。設計に当たった市役所の伊藤幹郎さんの案内でみせて頂いたのであるが、なかなかに楽しげである。市議会は、八九年六月 木造り校舎推進決議を行なっている。今、木造り公民館の建設が進められているところだ。また、再来年に竣工予定の出雲ドーム競技場も、架構は、木造である。

 一人の首長の強力なリーダーシップのもとに、木造文化の保存が計られれつつある。というより新たな木造文化の育成が行なわれつつあるといった方がいい。総じて木造文化の衰退が叫ばれるなかで、興味深いことである。もちろん、ひとりの有能な首長がいれば全て可能であるというのではない。市民が支えなければ根づくことはないであろう。その成果が華開くには時間がかかる。しかし、楽しみなことである。

 

 出雲建築フォーラム*2の発足も少しずつ準備が進んできた。91年の神有月に、赤字ローカル線として廃止が決まった、和風の駅舎で有名な出雲大社駅を使って「出雲建築展’91」を開くことで煮詰まりつつある。近々、展覧会の要綱も発表される筈だ。その際には、多数の参加を要望したい。

 今、出雲を訪れても、期待が裏切られるかもしれない。しかし、来年、再来年と少しずつ成果が形をとって現れてくる予定だ。出雲が次第に熱くなる、そんな予感がしてきた。


*1 岩國哲人『男が決断する時』 PHP 一九九〇年

 *2 本誌 一九九〇年五月号


 

 


2022年11月4日金曜日

2022年11月2日水曜日

「木都」能代,雑木林の世界15,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199011

 「木都」能代雑木林の世界15住宅と木材(財)日本住宅・木材技術センター199011

雑木林の世界15

 「木都」能代

                        布野修司

 

 能代に再び行ってきた。行く羽目になったといった方がいい。原因は、『室内』(九月号 「室内室外」)の原稿である。能代でのインター・ユニヴァーシティ、サマー・スクールの様子を詳しく書いた。能代の抱えている問題点を僕なりに整理して指摘したのである。しかし、表現にいささか問題があった。編集部のつけた「秋田杉の町能代を見る」というタイトルのあとにリード・コピーがあって、その最後に「能代の人々の表情は暗かった」とあったのである。本文では「能代の人たちの真面目さと暗さ、そして、空前の売り手市場でにこやかな学生たちの明るさが妙に対比的であった。この暗さと明るさは一体どう共有されるのだろう」と書いただけである。随分とニュアンスが違う筈だ。ヤバイと思ったけれど、後の祭りである。「どこが暗い、もう一度来い」、というのである。もう、謝って飲み歩いた。能代の人たちは、本当は明るいのである。

 「第一五回木造建築研究フォラム能代」は「木の住宅部品と地域産業ーー木都・能代の過去・現在・未来」をテーマに九月二三日盛大に開かれた。盛りだくさんのプログラムは以下の通りである。

●基調講演

 梅村 魁 「木都の思い出と住宅部品」

●基調報告

 牛丸幸也 「木都としての形成過程と現状」

 小林 司 「産地能代の現状分析」

 米倉豊夫 「わが国の住宅部品産業と能代」

●パネルディスカッション(第一部)

 大野勝彦 「住宅部品の開発コンセプト」

 西方里見 「地域型木造住宅の部品開発コンセプト」

 黒川哲郎 「地域性と部品開発」

 小玉祐一郎「木の開口部品と居住性」

 山田 滋 「住宅部品とBL制度」

●パネルディスカッション(第二部)

 安藤正雄 「住宅部品の流通と地域産業」

 網 幸太 「販売・流通システムの構築を」

 岩下繁昭 「国際化時代における地域産業の活性化」

 上西久男 「住宅部品流通業の役割」

●総括

 上村 武

 

 フォラムの内容については『木の建築』他、木造建築研究フォラムの報告に任せよう。それに『群居』の次号(25号)も、部品特集である。能代の議論もなんらかの形で反映される筈だ。

 とかなんとか格好をつけようとしても駄目だろう。正直に言うと、フォラムは最初と最後しか聞いていないのである。最後の上村先生の的確なまとめで何が議論されたのかはおよそわかったのだけれど、それでもって知ったかぶりして感想など書いたら大顰蹙をかってしまうだろう。

 しかし、別にさぼっていたわけではない。梅村先生のお供に徹したのである。基調講演でも話されたのだけれど、一九四九年の能代大火の後、翌五〇年に建てられた市役所は先生の研究室の設計なのである。四十年前に建てられた鉄筋コンクリートの建物は日本海中部沖地震にもびくともしないで建っている。梅村先生は随分となつかしそうであった。お供しながら実に多くのことを話して頂いた。僕にとっては、フォラムにまさるともおとらない貴重なレクチャーであった。

 能代は昔から風が強く、板葺の民家が多く、それ故、火事が多かった。戦後不燃化が徐々にすすんできたのはそのせいであるが、不燃化が進んで来たのは他の都市も同じである。「木都」を標榜するのであれば、能代の街がまずそうあるべきだ、という議論を聞いた。確かに、そうだと思う。しかし、同時に、どこでも、「紺屋の白袴」的なこともあったのではないか、とも思う。他の街を立派に飾るために一生懸命で、自分のところはつい後回しになるのである。しかし、そろそろ、それぞれの地域がどうあるべきかを示すべき時なのであろう。

 計画されている能代市の体育館は木造ではないのだという。せっかくだったら木造でやればいいのにと思うけれどなかなかそうもいかないらしい。理由の一つが、木造だと高いからだという。もし、そうだとすれば、何をか言わんやである。能代はそんなにも余裕がないのであろうか。いまだにもって「紺屋の白袴」なのであろうか。そんなことはあるまい。

 フォラムのテーマであった木材、木製品の生産・流通の問題がそこに集約されているのではないか。日本建築学会賞を得た渡辺豊和の和歌山県の龍神村体育館のように混構造という手もある。木の使いようだって色々あるし、実際、多様な部品が能代で生産されているのである。木のこれぞという使い方を見せてほしい。特に公共建築である。地元で木を使わないというのでは、木材産業の振興も積極性が感じられなくなってくるではないか。まだ、本気で困ってはいないのではないか。秋田材のブランドにまだまだ自信があるということである。

 ついでにバラせば、龍神村体育館の場合も、木材は、一旦北海道へ運んで集成材に加工して、再び、龍神村へ運んでくるというプロセスを経ている。大断面の集成材の工場が地元になかったからである。地域産業の抱える問題は、ことほどさように簡単ではないのである。

 フォラムでは、米倉豊夫先生の迫力に度肝を抜かれた。「パネ協」(日本住宅パネル工業共同組合)の経験には学ぶべき多くのことがある。フォラムの後、藤沢好一先生にくっついていって、秋田市の御宅で厚かましくご馳走になりながら、さらに話をうかがえたのであるが、話のスケールの大きさには驚きっ放しであった。

 また、フォラムの発言では、網さんの「一パーセントは山に帰す」というフレーズが妙に心に残っている。一年に一度は、家族で山に下草刈にいって、汗を流して、そしてワインパーティーをやる、そしてそれを贅沢な遊びにすることぐらい、みんなでできるのではないか。熱帯降雨林の問題だってそうである。一パーセントを基金にすれば、なにがしかのことができるのではないか。フォラムの席ではないが、網さんは、熱っぽく語り続けていたように思う。

 秋田にはよくよく縁があるのだろう。こう書いているうちに秋田の商工会議所から電話があった。「職人問題」についてフォーラムやるから出てくれないか、という。行ってこなくちゃ。