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2025年10月21日火曜日

ストーンタウン:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

ストーンタウン:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日 


G21 ストーンタウン-

ザンジバル・シティ Zanzibar,首都 Capital,ザンジバルZanzibar(タンザニア連合共和国Tanzania

  アフリカ中央東海岸、タンザニアのインド洋沖に浮かぶザンジバル島の中心都市ザンジバル・シティは、石造建築が密集する都市景観からストーンタウンと呼ばれる。古来、アフリカ東海岸スワヒリ地域の港市として知られ、アラブ、インドそしてヨーロッパとの交易によって発展してきた。土着のスワヒリ文化と1000年を超える異文化交流の歴史を重層的に都市の形態に残すユニークな都市として、2000年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。

 スワヒリは、アラビア語で海岸を意味し、東アフリカ海岸沿いのソマリア南部のキスマユ辺りからザンベジ河口のソファラ辺りまで、南北約2,000km、幅約20Km程の細長いベルト地帯をいう。キルワ・キシワニ、ザンジバル、ペンバ、モンバサ、ラム、マンダなどスワヒリ都市の多くは、アフリカ大陸に近接した小島やラグーンに位置し、島嶼社会を連ねるネットワークのなかで発展してきた。大陸内部のバントゥー文化圏とインド洋海域世界とを媒介してきたスワヒリ地域には、他にも世界文化遺産に登録されたキルワ・キシワニとソンゴ・ムナラ遺跡群(1981年)ラム旧市街(2001年)、モンバサのジーザス要塞(2011年)がある。

 東アフリカ沿岸の最初の歴史記録である紀元1紀にアレクサンドリアのギリシア人航海士が書いた『エリュトゥラー海案内記』には、紅海、アラビア、インド、セイロン、中国間の交易ルートが記され、アフリカ東部海岸の港市ラプタ(キルワ付近)とアラビア半島のムーザ(現モカ)との間で交易や通婚が行われていたことがわかっている。しかし、考古学的な遺構として最古の農漁村の存在が認められるのは紀元6世紀である。そして、インド洋交易が盛んになるのは、8世紀半ばから10世紀にかけてであり、この時期にザンジバルはスワヒリの中心的港市となる。ザンジバルという名称はアラブ語で「黒人の海岸」という意味である。ただ、都市ザンジバルについての記録は15世紀の終わりまで存在しない。

 ヴァスコ・ダ・ガマがインド洋航路を拓いて以降、ポルトガルは東アフリカ沿岸を支配下に置いたが、ザンジバルには要塞を建設せず、駐屯地も置いていない。ポルトガルがザンジバルを含む東アフリカ沿岸北部から撤退すると、オマーン勢力によって東アフリカは支配される(16981890年)。

 マスカットの領主サイイド・サイードが1828年にザンジバルを初めて訪れ、1832年にマスカットからザンジバルへ宮殿を移し、ザンジバルの最初のスルタンとなる。ザンジバルが大きく繁栄するのは、これ以降である。スルタンは大陸部における欧米人の商取引を禁止しグジャラートの商人の誘致をはかった。そのためアラブ商人に加えてインド人ムスリムが数多く居住することになる。1873年の奴隷市場の閉鎖、1897年の奴隷制廃止によって、ザンジバルは一気に衰退する。19世紀末のヨーロッパ列強によるアフリカ分割によってタンザニアは、イギリスの保護国となる(18901963)。20世紀に入ってアラブ系住民による民族解放闘争が展開され、1963年にザンジバル王国が独立するが、翌年ザンジバル革命によって王政は廃止され、大陸部のタンガニーカと合併して同19644月にタンザニア連合共和国が成立した。以後、ザンジバルは大陸部のタンガニーカから強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。

 ストーンタウンはザンジバル島の西端、海と東のクリーク・ロードに囲まれた三角形の半島に位置する(図①)。オマーンは1710年頃にポルトガルが建てたチャペルを中心に初期の小さなフォートを建設し、1780年頃にメインエントランスと5つの稜堡を持つ形に拡大している(図②)。この要塞に接してかつての王宮(現在ハウス・オブ・ワンダーと呼ばれる美術館)(図③)そして市場がある。税関は、奴隷市場は海岸部にあったが、1860年代後半にムクナジニに移された。1837年にアメリカは領事館を設置し、1841年にイギリスが、1844年にフランスがアメリカに続き、領事館を設置した。

 18世紀以降、スワヒリの木造土壁の伝統的住居は石造に建て替えられていくが、18世紀末にはまだその数は少なく、1840年代には、多くの34階建ての家が建設されたけれども、大多数は平屋または2階建て家であった(図④)。建て詰まるのは19世紀中葉以降である

 街区はミターと呼ばれ、各ミターには、血縁や氏族、先祖を共にする集団が居住した(図⑤)。興味深いのは、各住戸の扉のデザインがそれぞれの出自集団毎(ザンジバル、オマーン、グジャラート)に異なっていることである(図⑥)。また、ストーンハウスのバルコニーはグジャラートの影響である。

                                   (上田哲彰+布野修司)

【参考文献】

Sheriff, A. , The History & Conservation of Zanzibar Stone Town, The Department of Archives, Zanzibar, 1995

Sheriff, A. , Slaves, spices & ivory in zanzibar, Mkuki na Nyota Publishers, Dar Es Salaam, 1987

Mwalim, M. A., Door of Zanzibar, HSP Publications, Zanzibar, 1998

Korner, A. R., Stone Town Style of East Coast Africa, Bell-Robarts Publishing, South Africa, 2003

・富永智津子『スワヒリ都市の盛衰』山川出版社,2008

・富永智津子『ザンジバルの笛−東アフリカ・スワヒリ世界の歴史と文化』未来社,2001

【図写真数点】


図① ザンジバルの公共建築 作成:上田哲彰

図② ザンジバル要塞 撮影 布野修司

図③ ハウス・オブ・ワンダー博物館 撮影 布野修司

図④ ザンジバルの石の家 作成:上田哲彰

図⑤ ザンジバルの街区と街路 作成:上田哲彰

図⑥ ストーンハウスのドア 撮影 布野修司


2025年10月20日月曜日

カディス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 カディス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


B47 アトランティスへの港町―高層高密の都市組織

カディス Cadiz,アンダルシア州Andalcia,スペインSpain

 

 


カディスは、古来、ジブラルタル海峡の西、グアダルキビル川河口の南、大西洋に面する港町として知られ、コロンブスがここから「新大陸」発見の航海に出航した(第2回、第4回)ように、また、インディアス艦隊の拠点港となったように、スペインのイベロ・アメリカへの窓口となった港市である。

考古学的調査によれば、その起源は紀元前7世紀に遡り、フェニキア人にカディルGadir(古代ギリシャ語ではGadeiraと呼ばれた拠点港であったことが知られる。その後、ローマも拠点としたが、西ゴート時代に都市が建設されて、以前の遺構の全体は明らかでない。そして、イスラーム時代を迎え、レコンキスタ後にスペイン領となった。

大航海時代には、イベロ・アメリカとの交易によって大いに繁栄するが、一方、大西洋に直接面することから英国の攻撃目標とされ、16世紀には度々襲われている。1587年にはフランシス・ドレークによって占拠され、建造物とともに多くの船が破壊され、翌年英仏海峡で行われたアルマダの海戦で、無敵艦隊と呼ばれたスペイン艦隊は歴史的敗北を喫する。さらに1625年に、バッキンガム公ジョージ・ウィリアムが侵略するなど、17世紀に入っても英国の襲撃は続いた。1654年に始まった英西戦争では、ロバート・ブレイクによってカディスは封鎖されている。しかし、1680年以降、アメリカ大陸との交易がセヴィーリャとカディスの両港で行われるようになると、カディスはさらに栄えた。

現存する歴史的建造物は17世紀から19世紀にかけて建設されたものである。カディスの都市形成過程については、シマンカス古文書館AGS 、カタルーニャ地図研究所ICCなどに数多くの地図や図面が残されていて明らかにすることができる(図①)。

カディスを描いた最古の スケッチは1513年であるが、1567年のものにはヴィンガルデAntoine Van Den Vingaerdeによる鳥瞰図がある。栄えた港の様子とともに、サン・フランシスコ修道院がランドマークとして描かれている。記録によれば当時の人口は約5000 人である。

1625年のバッキンガム公の襲撃の後には新しい要塞と城壁が建設され、17世紀半ばには、都市の骨格がほぼ出来上がっている。人口は22000 人にまで増加する。1680年以降は、果樹園や空地となっていた西部に街区が拡張され、貴族たちの邸宅が建設される。18世紀初頭には人口4万人に達している(図②)。

18世紀末になると城砦内は建て詰まる(図②1812) 。空地は軍用地である。1792年には、建築物のファサードや高さを規定する建築基準法が制定されている。容積を増やし人口増に対応するためで、これによって市壁内のリノヴェーションが行われるのである。人口は74500人となる。そして、19世紀には10万人を突破することになるのである。

もともと島であり、半島の面積が限られているせいであるが、イベリア半島では極めてユニークな極めて高密度な港市都市がこうして出来上がるのである。19世紀初頭にほぼ拡張の余地がなくなっていたカディスは、わずかに残っていた空地も埋められ、その後は古い建物をリノヴェーションすることが主となる。最古の地区は、中世に遡り、狭い曲がりくねった街路によって構成されている(図③)。建物は2階ないし3階で、当初の高さが維持されている。4階建ての建物は17世紀の建築ブームの際に建てられたものである。17世紀には、新たにサン・フランシスコ修道院などが建てられるが、街路も中世には4m以下であったが、より直線的に拡幅される。

17世紀半ばにはデスカルソス修道院が半島の南部に建設される。すなわち、宗教施設の建設が市街地の形成を主導する。近接して市場も建設される。建物は45階建てが一般的となる。デスカルソス修道院は1830年まで存続した。

  ラ・ヴィーニャLa Viña, メンティデーロMentidero, サン・カルロスSan Carlos、エル・バロンEl Balón といった住区の形成は18世紀末に遡る。

 19世紀初頭のナポレオン戦争の際にもカディスは攻略されることなく自立性を保ち、その都市形成の歴史をそのまま今日に伝える。市域を境界付けられ、古くから高層住居が密集する街区形態を発展させてきたカディスは、南スペインの他の都市としては極めてユニークな都市である。

2025年10月19日日曜日

トンブクトゥ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

トンブクトゥ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


G15 サヘルの黄金の都-地中海世界とブラック・アフリカを結ぶ交界都市

トンブクトゥTombouctou, トンブクトゥ州, マリMali

 

 


現在のトンブクトゥは、サヘルSahel(サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域)の一地方都市に過ぎないが、古くから金の産地として知られ、「黄金の都」「神秘の都市」としてヨーロッパ世界を惹きつけてきた。モスクや聖廟を含むトンブクトゥの歴史地区は、1988年に世界文化遺産に登録されている。

歴史的には、南からの金、北からの岩塩を主力商品とする地中海世界とブラック・アフリカを結ぶサハラ縦断交易の要衝に位置して,14世紀~16世紀にはマリ帝国そしてソンガイ帝国の中心都市として栄えたことが知られる。

ヨーロッパ人による最古の記録は1447年のジェノア商人マルフォンテによるものとされるが、その「黄金の都」そして「黒人帝国の首都」のイメージは、長い間ヨーロッパ人の間に「トンブクトゥ幻想」を育んでいく。トンブクトゥを目指すヨーロッパ人の記録はその後も残されている。

18世紀後半に至ると、西スーダンの植民地拡大の意図のもとに、フランスが大西洋岸からトンブクトゥへのアプローチを試み始める。そして、パリ地理学会の賞金を目当てに最初にトンブクトゥ往復を果たした(1828年)のは探検家ルネ・カイエ(17991838)であり、荒れ果てた泥の町に落胆と幻滅を記すことになった。すなわち、幻想の都市は既に失われてしまっていたのである。

トンブクトゥは、ニジェール川が大きく湾曲するその北側に位置する。すなわち、サハラ縦断の陸運ルートとニジェール川による水運ルートが連結する地域であるが、直接、ニジェール川に接するのではなく、その氾濫流域を考慮して3つの外港から離れた砂丘列の中に立地する。

ルネ・カイエ以降、トンブクトゥの形態、空間構成についてはいくつかのスケッチが残されているが(図1)、フェス、ラバト、マラケシュなどマグリブのイスラーム都市との違いとして、城壁がなかったことが指摘される。また、トンブクトゥの街路体系について袋小路がないことが指摘される。ジェンネなど西アフリカの都市も一般的には城壁で囲われるが、サヘル西部地方の都市の特徴である。

最盛期すなわち16世紀~17世紀のトンブクトゥについての応地利明(2016)の復元によれば、多核的な都市であり、宗教・文化・学術の拠点としてのジンガレイベル・モスク、サンコーレ・モスク、スィーディー・ヤフーヤー・モスクなどのモスク、交易拠点としての大市場yobu ber、小市場yobu kaina2つの市場、運輸・輸送の拠点としての運河、キャラバン交易路、政治拠点としての離宮が核を構成していた(図2)。

現在の都市構成をみると、旧市街(メディーナ)をグリッド・パターンの街区が取り囲んでいる(図3)。旧市街は、ソンライ語ではコイラ・ジェノkoira jenoと呼ばれ、グリッド街区は、コイラ・タウディkoira tawoudiと呼ばれる。

フランスによる西スーダンの植民地化は、1659年のセネガル川河口のサンルイ島での要塞建設に始まるが、トンブクトゥがフランス領に編入されたのは1894年であり、当時の市街図(図4)と比較すれば、グリッド街区がフランスによる植民地化とともに形成されていったことがわかるが、セネガルのダカール、マリのバマコ、カイKayes、セグーSégou、ガオGao、コートジボアールのアビジャンAbidjan、ニジェールのニアメイNiameyなど西アフリカの他のフランス植民都市においても同様にグリッド・パターンが導入される。

フランスは、まず、旧市街の南西部に、広場を囲んで総督官邸、市庁舎、警察、兵営、財政局などを建てて、官庁地区とした。また、治安維持のための保安施設として軍事・警察施設、教化施設としてカトリック教会が建設された。生活基盤施設としての市場、モスク、墓地などは植民地化以前のものが維持され、居住区については、大区ファランディfarandi(カルティエ)と小区ジェレjdéré(セクトゥール)によって編成された。

マリ共和国が独立するのは1960年であるが、トゥアレグ族居住地がアルジェリア、ニジェール、マリに分割されたことから、抵抗運動が展開されるなど政情は不安定であり、1968年のクーデターで軍事独裁体制が成立、1991年まで継続する。トゥアルグ抵抗運動は、2012年の独立を求める蜂起が示すように、今日にまで続いている。

 

【参考文献】

応地利明『トンブクトゥ 交易都市の歴史と現在』臨川書店、2016.

Caillié, René, Voyage à Tombouctou (tome 2), La Découverte, 1996(1830).






図1 トンブクトゥのスケッチ カイエ(1828)。

図2 最盛期トンブクトゥの施設配置  応地利明(2016)。

図3 トンブクトゥの市街地 1970年代末 応地利明(2016)。

図4 19世紀末のトンブクトゥの市街地 デュボア(1897)。

 



2025年10月18日土曜日

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...