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2022年10月23日日曜日

京町屋再生研究会,雑木林の世界38,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199210

 京町屋再生研究会,雑木林の世界38,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199210

 雑木林の世界38  京町屋再生研究会

                       布野修司

 SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)の会合になかなか出れなくなった。一度日程が狂うとことごとく調整ができなくなるのである。京都を本拠地としているから仕方がないとはいえ、いまさらのように、もどかしさを感じるところである。ただ、時代は情報化社会である。日々、情報は入ってくるし、動きが手に取るように把握できるのは救いである。

 SSFでは、サイト・スペシャルズ・アカデミー(職人大学)の構想がようやくパンフレットにまとまり、いま、本格的な賛同者募集が開始されようとしているところだ。楽観的かも知れないのだが、かなり感触はいい。大きな山が動きだそうとしているそんな予感がある(職人大学設立をめざすSSFについての情報、パンフレットは事務局043-296-2701へ)。

 

 京都の夏は暑い。といっても東南アジア馴れしていると、こんなものかとも思う。涼しい飛騨高山へ行っていたせいかもしれない。今年は台風が多いせいかもしれない。しかし、やっぱり暑いことは暑い。暑いと言えば、京都は景観問題をめぐって、依然としてホットである。「京都ホテル」をめぐる仏教会による工事差し止め仮処分申請が裁判所に却下され、仏教会は再び拝観拒否の戦術を取ることを決定したようなのである。

 日本建築学会の『建築雑誌』6月号は「京都の景観問題」の特集であった。おかげで、問題の構図は、少なくとも建築界ではかなり知られるようになったといっていい。しかし、京都ホテルや京都駅とは別により深刻で一般的な問題があることはなかなか伝わらない。

 例えば、次々に町屋が消えていく問題がある。京都の市民にとって身近なこの問題をめぐってはなかなか議論になりにくい。実際、様々な立場があって共通認識は得られていないようにも見える。あるいは、京町屋が消えていくことが京都にとって大きな問題であることは意識されているのかも知れない。しかし、具体的な動きというと見えてこない。実際にどういう動きを創っていくかというと容易なことではないのである。議論はわかった。じゃあどうするのかが今問われ始めつつあるのである。

 そうした中で、去る七月一六日、祇園祭のクライマックスである宵山の夜、ひとつの小さな会が旗揚げされた。「京町屋再生研究会」という。発足趣意書には次のようにいう。

 「千二百年の輝かしい歴史を持つ京都は、今も、わが国をはじめ世界の多くの人々を魅了する、甚だ個性的な都市であります。しかしながら、近年の環境悪化、地価高騰等を背景にして、京都の町は急激に崩れ去ろうとする重大な危機に直面するに至りました。

 昨年一月、京都市は緊急の課題として、「伝統と創造の調和した町づくり推進のための土地利用についての試案」を発表し、続いて六月、「京都市土地利用及び景観対策についてのまちづくり審議会」が開かれ、本年四月、その答申が出されました。このなかで、都心の伝統的な京町屋の保全、再生の必要性が強く提案されています。これに対応して、民間各種団体からも多くの「まちづくり提言」が出されました。

 今、私達は京町屋を再生する、各レベルの研究を統合してゆくと共に、それを実践に移すべき時機が到来したと認識し、共鳴する友を集めてその担い手になることを決意しました。」

 研究会というものの具体的な実践を目指した研究体である。多くの提案は出されている。今はそれを実行すべき時だ、というのがひしひしと伝わってくるではないか。

 横尾義貫、堀江悟郎の両先生を顧問に、望月秀祐(京都建築士会会長、モチケン・コーポレーション)会長以下、研究スタッフ、ワーキング・スタッフ、協力スタッフ合わせて二〇名が発足時のメンバーである。ワーキング・スタッフは、木下龍一幹事長(アトリエRYO)以下、建築家のグループで、協力スタッフの中には、安井洋太郎(安井杢工務店社長)、熊倉亨(熊倉工務店社長)が加わる。実践体として極めて強力な陣容である。

 僕もまた、高橋康夫、東樋口護、吉田治典、古山正雄の各先生と共に、研究スタッフとして発足メンバーに加えて頂いたのだが、正直に言って、勉強させて頂きますの心境だ。京都についての勉強は否応なく始めたのであるが、何せ、一二〇〇年の都市である。出雲で生まれて、東京の周辺で過ごしてきたものにとっては京都の人とは素養の厚みが全く違うというのが実感である。しかし、とにかく具体的に何かをやるというのは賛成である。景観問題で揺れるといっても、より深刻なのは京町屋である。京町屋の再生をストレートにうたうのは、その重要性を理解し、訴える上で極めて有効でもあろう。

 ところで、京町屋再生研究会は具体的に何をするのか。上の「設立主旨」は、続けて次のようにいう。

 「まず一軒一軒の町屋を楽しく住みよくすることから、隣や向かいに連続する家並を修景すること、路地裏長屋の修復、再生をすること、町内に商いや工芸の制作展示あるいは喫茶、飲食等の場所そして仕事や観光で訪れる人々が、行き交い集える場所を顕在化すること、日本各地や世界の情報、新しい都市エネルギーを町内のすみずみまでゆきわたらせること、地域共同体空間としての会所、公園、学校、広場、地下共同駐車場の復元開発等。」

 要するに、身近な環境で出来る事からというのが基本方針である。そして、具体的なモデル住区を設定し、そこでまず実践することが検討されている。

 とりあえず、研究会を重ねながら具体策をつめていくことになるであろうが、問題は事業化手段である。かなりの基金が集まるのであれば、思い切った手が打てるのであるが、そう簡単ではないだろう。粘り強い取り組みが必要となるのは覚悟の上である。

 京都の都心の荒廃には想像以上のものがある。その危機感が京町屋再生研究会結成の大きなモメントとなったのであるが、例えば、祇園祭の山鉾町でもかなりのブライト化が進行していることが、歩いてみるとすぐわかる。駐車場や空き家で歯抜け状態なのである。山鉾を曳航する住民がほとんど居なくなった町も少なくない。都心部の小学校の統廃合も次々に決定しつつある。正直言って、もう遅い、という感慨が湧いてきたりする。

 もちろん、都心問題は京都に限らない問題ではある。ただ、それこそ歴史と伝統の厚みを誇る京都で他に先駆けて何らかの方向性が出されるべきだというのも一理ある。ストックの薄い他の都市ではより困難なことが多いといえるからである。京町屋再生研究会の行方は、そうした意味でも興味深い。いささか他人事のようではあるが、今後の動きに注目である。






2022年10月22日土曜日

「飛騨高山木匠塾」構想,雑木林の世界23,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199107

 「飛騨高山木匠塾」構想,雑木林の世界23,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199107

雑木林の世界23

 飛騨高山木匠塾(仮)構想

                        布野修司

 

 今年の一月末、ある秘かで微かな夢を抱いて、飛騨の高山へ向かった。藤澤好一、安藤正雄の両先生と僕の三人だ。新幹線で名古屋へ、高山線に乗り換えて、高山のひとつ手前の久々野で降りた。道中、例によって賑やかである。ささやかな夢をめぐって期待と懐疑が相半ばする議論が続いた。

 久々野駅で出迎えてくれたのは、上河(久々野営林署)、桜野(高山市)の両氏。飛騨は厳しい寒さの真只中にあった。暖冬の東京からでいささか虚をつかれたのであるが、高山は今年は例年にない大雪だった。久々野の営林署でその概要を聞く。久々野営林署は八〇周年を迎えたばかりであった。上河さんに頂いた、久々野営林署八〇周年記念誌『くぐの 地域と共にあゆんで』(編集 久々野営林署 高山市西之一色町三ー七四七ー三)を読むとその八〇年の歴史をうかがうことができる。また、未来へむけての課題をうかがうことができる。「飛騨の匠はよみがえるか」、「森林の正しい取り扱い方の確立を」、「木を上手に使って緑の再生を」、「久々野営林署の未来を語る」といった記事がそうだ。

 木の文化、森の文化を如何に維持再生するのか。一月の高山行は、大きくはそうした課題に結びつく筈の、ひとつのプログラムを検討するためであった。もったいぶる必要はない。ストレートにはこうだ。上河さんから、使わなくなった製品事業所を払い下げるから、セミナーハウスとして買わないか、どうせなら「木」のことを学ぶ場所になるといいんだけど、という話が藤澤先生にあった。昨年来、しばらく、その情報は、生産組織研究会(今年から10大学に膨れあがった)の酒の肴となった。金額は、七〇〇万円、一五〇坪。いくつかの大学か集まれば、無理な数字ではない。とにかく行ってみてこよう、というのが一月末の高山行だったのである。

 雪の道は遠かった。寒かった。長靴にはきかえて、登山のような雪中行軍であった。中途で道路が工事中だったのである。野麦峠に近い、抜群のロケーションにその山小屋はあった。印象はそう悪くない。当りを真っ白な雪が覆い隠している中でひときわ輝いているように見えた。

 それから、三ケ月、どう具体化するか、折りにふれて議論してきた。しかし、素人の悲しさ、議論してもなかなか具体的な方策が浮かばない。そのうちに、とにかく、わが「日本住宅木材技術センター」の下川理事長に話しをしてみろ、ということになった。頼みの藤澤、安藤の両先生は、ユーゴでの国際会議で出張中。塾長をお願いすることになっている東洋大学の太田邦夫先生と以下の趣旨文を携えて下川理事長にお会いすることになった。

 「主旨はわかります。しかし、どうして大学で「木」のことを教えることができないんですか」

 いきなりのメガトン級の質問に、太田先生と二人でしどろもどろに答える。

 「五億円集めて下さい。維持費が問題なんです。」

 絶句である。七〇〇万円のつもりが五億円である。言われてみれば当然のことである。どうも、いいかげんなのが玉に傷である。あとのことは、払い下げてもらってから考えればいい、なんて気楽に考えていたのだ。プログラムは、立派なつもりなのだけど、どうにもお金のことには弱いし縁もない。

 その後、建設省と農水省にも太田先生と行くことになった。生まれて初めての陳情である。しかし、陳情だろうと思いながら何を頼んでいいのかわからないのだから随分頼りない。

 しかし、乗りかかった船というか、言い出してしまったプログラムである。とにかく、賛同者を募ろう、というので、五月の連休あけに山小屋をまた見に行こうということになった。新緑の状況もみてみたかったのである。

 メンバーは、当初、太田邦夫、古川修(工学院大学)、大野勝彦(大野建築アトリエ)の各先生と藤澤、布野の五人の予定であったのだが、望外に、下川理事長が忙しいスケジュールを開けて下さった。全建連の吉沢建さんがエスコート役である。総勢七人+上河、桜野の九人。大いに構想は盛り上がることとなった。冬には行けなかったのであるが、新緑の野麦峠はさわやかであった。 さて、(仮称)飛騨高山木匠塾のプログラムはどう進んで行くのか。その都度報告することになろう。以下に、その構想の藤澤メモを記す。ご意見をお寄せ頂ければと思う。

 

飛騨高山木匠塾構想

設立の趣旨:わが国の山林と樹木の維持保全と利用のあり方を学ぶ塾を設立する。生産と消費のシステムがバランス良くつりあい、更新のサイクルが持続されることによって山林の環境をはじめ、地域の生活・経済・文化に豊かさをもたらすシステムの再構築を目指す。

設立の場所:岐阜県久々野営林署内・旧野麦製品事業所ならびに同従業員寄宿舎(この建物は、昭和四六年に新築された木造二棟で床面積約四八三㎡。林野合理化事業のため平成元年末に閉鎖され、再利用計画が検討されている。利用目的が適切であれば、借地権つき建物価格七〇〇万円程度で払い下げられる可能性がある)

設立よびかけ人: メンバーが建物購入基金を集めるとともに運営に参加する。また、塾は、しかるべき公的団体(日本住宅・木材技術センターなど)へ移管し、管理を委譲する。

学習の方法: 設立に参加した研究者・ゼミ学生と飛騨地域の工業高校生が棟梁をはじめ実務家から木に関するざまざまな知識と技能を学ぶ。基本的には参加希望者に対してオープンであり、海外との交流も深める。

 ここでの学習成果は、象徴的な建造物の設計・政策活動に反映させ、長期間にわたり継続させる。例えば、営林署管内の樹木の提供を受け、それの極限の用美として「高山祭り」の屋台を参考に、新しい時代の屋台の設計・製作活動を行うことも考えられる。製作に参加した塾生たちが集い、製作中の屋台曳行を行うなど毎年の定例的な行事とすることも考えられる。また、地元・高根村との協力関係による「施設管理業務委託」やさまざまな「地域おこし」も可能である。

開校予定:

 平成3年7月23日から芝浦工業大学藤澤研究室/東洋大学布野・浦江・太田研究室/千葉大学安藤研究室のゼミ合宿をもって開始する。

 





2022年10月21日金曜日

住居根源論,雑木林の世界22,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199106

 住居根源論,雑木林の世界22,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199106

雑木林の世界22

 住居根源論

                        布野修司

 

 昨年の三月から今年の三月にかけて、計五回、「住居根源論」と題した連続シンポジウムに出席する機会を得た。といっても、企画を立てて、毎回、司会をしていただけだから、たいしたことはない。しかし、僕自身は随分勉強になった。毎回、小松和彦氏と同席できたことは大きい。文化人類学者、民族学者としての小松氏の仕事は言うまでもないであろう*1。大変な売れっ子である。また、物知りである。フィールド派でもある。僕はかねがね文化人類学者には敬意を抱いているのであるが、小松氏もそのひとりだ。彼は、ミクロネシアや高知でフィールド調査を続けている。住居の問題をそうしたフィールド派の碩学と論じるのは実に刺激的であったのである。

 こう書くと主役に怒られる。各回には主役がいて、主役を挟んで二人がそれをサポート、コメントするのがプログラムであった。そのラインアップは、以下のようである。

 

 建築フォーラム'90'91 ”深化する建築ーー住居根源論”

 FORUM PART-1 建築を遡行せよ

         総論         渡辺豊和   199003

  FORUM PART-2 命の泉は何処にありや 

         住居に現れる水        平倉直子   199006

 FORUM PART-3 空間の響き 場のざわめき

         住居に現れる音        高橋晶子   199009

  FORUM PART-4 

         住居に現れる風        妹島和世   199012

  FORUM PART-5 都市の火・住宅の火

                住居に現れる火        後藤真理子 199103

 

 水、音、風、火というテーマ設定からピンとくるものがあろうか。下敷になっているのは、ギリシャ哲学の万物の四元素である。ミレトスのタレスは、「水は万物の根源なり」といった。紀元前五世紀頃、エンペドクレスは、水、空気、土、火、を万物の元素とした。あるいは、仏教の五大である。地水火風空智というのが六大であるが「地底建築論」(明現社)をものしたことのある渡辺豊和氏の総論を「地」に割り振り、「空」を空気の振動は音ということで「音」に位置づければ五大を住居に即して考えてみようという格好になる筈だ。いささかこじつけかもしれない。G.バシュラールの一連の著作、『火の精神分析』、『空間の詩学』、『大地と休息の夢』などが一方で頭にあった。

 

 各回の議論の内容のエッセンスは、主催者である松下電気産業の「季報」に掲載された。また、近い内に本にもなる筈だ。各回で考えようとしたのは例えば次のような問いである。ますます、人口環境化しつつある世界で、自然をどう考えるかが共通のテーマとして浮かびあがってくる。しかし、各回は同じテーマを繰り返していたわけではない。それぞれのテーマ毎に固有の問題があった。住居を根源的に考えてみるいい企画ではなかったか。自画自賛である。

 

 「乾いた世界のオアシス、天水利用の山岳地帯、潅がい耕作の高原、河川利用の平原、逆に、デルタの溢れる水、そして、世界に開かれた海の世界。水利、治水は、居住の基本である。水利の形態によって多様な住居集落がつくられてきた。水を制するものが世界を制するという言葉もある。水の世界は世界への交通路でもある。

 淀んだ水、暗い沈みこんだ水の魅力もあろうが、流れる水、循環する水、動きのある水に豊かさがある。世界を写す水、どこまでも澄んだみず、水浴び、木浴、清めの水、水に流す、水の豊かな世界が忘れられてしまっている。」

 

  「西イリアン(インドネシア)での話である。農村開発の一環として、生活環境改善が各地で行なわれるのであるが、ある村にトイレが設置された。しかし、半年経っても、一年経っても、いっこうに使われない。どうしてか、と問えば、用を足す時には、やっぱり、青空が見え、川のせせらぎが聞こえないと出るものも出ない、という。住まいと音というと、まず、思い出すのがこの嘘のようなほんとの話である。

 トイレと音といえば、集合住宅に住んでいてまず問題になるのがトイレの縦管を伝わる音だ。ものすごい。うるさいと思えば耐えられないのだけれど、縦につながって暮らしているんだなあ、という奇妙な連帯感も湧いてくるのが不思議である。」

 

  「風というのは建築学的には60√hと表現される。60√hというのは、高さhメートル(15メートル以下)のところの風圧である。すなわち、建造物の構造計算をするために、風は、風圧という数字に還元されて処理されるのである。しかし、風はもちろんそれだけの存在なのではない。実に多くの表情をもっている。強風、涼風、微風、すきま風、北風、・・・風にも色々あるのだ。

 風と住まいというと、すぐ思い出すのは、パキスタンのシンド地方の住居だ。暑さをしのぐために、風を巧みに取り入れる、風の塔が実に印象的である。風の塔と言えば、アテネに八角形の「風の塔」がある。パルテノンの岡からもよく見える。各方角から吹いてくる風の特性が図像で示してある。強風は時に住まいを吹き飛ばす。だから、南西諸島の民家は、台風に対する構えをもっている。建物を強化する方法もとられるがそれだけではない。石垣や防風林で屋敷地を囲い、環境全体をしつらえる必要があったのだ。今日、自然の風を感じるのはそれこそ台風の時ぐらいだろうか。そういえば、超高層ビルの林立する都市には、ビル風が吹き荒れている。」

  三月は「火」をテーマとしたのであるが、ざっとテーマを拾い出せば以下のようであった。

 A.火の民俗 火の経験

 B.火祭りと共同体、家族と炉

 C.火の験能、浄めの火、悪霊払い

 D.火の視角化、火の表現

 E.防火と再開発、消防法

 F.火とエネルギー

 G.火と照明

 

 このシリーズは、今年度も六月から続けられることになった。題して、「住居未来論」。乞う、御期待。司会は安藤正雄氏が務める。

*1 1947年生まれ。大阪大学文学部助教授。国際日本文化研究センター客員教授。人類学、民族学、国文学等、幅広く探求。特に妖怪研究で知られる。『神々の精神史』、『鬼がつくった国・日本』、『異人論』など著書多数。






2022年10月17日月曜日

阪神大震災研究の復旧・復興過程に関する研究(主査 室崎益輝 分担執筆),日本住宅総合研究所,1996年

 阪神大震災研究の復旧・復興過程に関する研究(主査 室崎益輝 分担執筆),日本住宅総合研究所,1996年 


 復旧・復興計画手法の評価


Ⅰ章 2-2 復旧・復興計画手法の評価(布野修司)

 

 阪神・淡路大震災は、多くの人々の命を奪った。かけがえのない命にとって全ては無である。残された家族の人生も取り返しのつかないものとなった。復旧・復興計画といっても、旧に復すべくない命にとっては空しい。残されたものに課せられているのは、阪神・淡路大震災の教訓を反芻し、続けることであろう。震災2ヶ月後に起こった「地下鉄サリン事件」(1995年3月20日)とそれに続く「オーム真理教」をめぐる衝撃的事件のせいもあって、阪神・淡路大震災に関する一般の関心は急速に薄れていったように見える。被災地は見捨て去られたかのようであった。直接に震災を体験したもの以外にとって、震災の経験は急速に風化していく。震災の経験は必ずしも蓄積されない。もしかすると、最大の教訓は震災の経験が容易に忘れ去られてしまうことである。

 震災後3年を経て、被災地は落ち着きを取り戻したように見える。ライフライン(電力、都市ガス、上水道、下水道、情報・通信)に関わる都市インフラストラクチャーの復旧が最優先で行われるとともに、応急仮設住宅の建設から復興住宅の建設へ、住宅復興も順調に進んできたとされる。また、市街地復興に関しても、重点復興地域を中心に、各種復興事業が着々と進められている。

 しかし、全て順調かというと、必ずしもそうは言えない。重点復興地域のなかにも、合意形成がならず、一向に復興計画事業が進展しない地区もある。また、「白地」地区と呼ばれる、重点復興地域から外され基本的に自力復興が強いられた8割もの広大な地区のなかに空地のみが目立つ閑散とした地区も少なくない。それどころか、復旧・復興計画の問題点も指摘される。例えば、復興住宅が供給過剰になり、民間の住宅賃貸市場をスポイルする一方、被災者の生活にとって相応しい立地に少ない、といったちぐはぐさが目立つのである。

 復旧・復興計画の具体的な展開と問題点は、自治体毎に、また、地区毎に、さらに計画(事業)手法毎に以下の章でまとめられている。本稿ではいくつかの評価軸を提出することによって、共通の問題点を指摘し、復旧・復興計画手法の評価を試みたい。

 

 2-2-1 復旧・復興計画の非体系性

 復旧・復興計画の全体は、いくつかの軸によって立体的に捉える必要がある。まず、応急計画、復旧計画、復興計画という時間軸に沿った各段階における計画の局面がある。また、計画対象区域のスケールによって、国土計画、地域計画、都市計画、地区計画というそれぞれのレヴェルの問題がある。さらに、国、県、市町村といった公的計画主体としての自治体、民間、住民、プランナーあるいはヴォランティアといった様々な計画主体の絡まりがある。すなわち、少なくとも、どの段階の、どのレヴェルの計画手法を、どのような立場から評価するかが問題である。

 また、それ以前に、復旧・復興計画の評価は、フィジカルプランニングとしての復旧・復興計画の手法に限定されるわけではない。震災のダメージは生活の全局面に及んだのであって、単に物的環境を復旧すれば全てが回復されるというわけではないのである。住宅を失うことにおいて、あるいは大きな被害を受けることにおいて、経済的な打撃は計り知れない。住宅・宅地の所有形態や経済基盤によってそのインパクトは様々であるが、多くの人々が同じ場所に住み続けることが困難になる。その結果、地域住民の構成が変わる。地域の経済構造も変わる。ダメージを受けた全ての住宅がすぐさま復旧され(ると公的、社会的に保証され)たとしたら、事態はいささか異なったかもしれない。しかし、それにしても、数多くの犠牲者を出すことにおいて家族関係や地域の社会関係に与えた打撃はとてつもなく大きい。避難生活、応急生活において問われたのはコミュニティの質でもあった。また、大きなストレスを受けた「こころ」の問題が、物理的な復旧・復興によって癒されるものではないことは予め言うまでもないことである。

 復旧・復興計画の評価は、以上のように、まず、その体系性、全体性が問題にされるべきである。すなわち、地域住民の生活の全体性との関わりにおいて復旧・復興計画は評価されるべきである。そうした視点から、予め、阪神・淡路大震災後の復旧・復興計画の問題点を指摘できる。その全体は必ずしも体系的なものとは言えないのである。まず指摘すべきは、復旧・復興計画の全体よりも、個別の事業、個別の地区計画の問題のみが優先されたことである。例えば、仮設住宅の建設場所、復興住宅の供給等、地域全体を視野に入れた計画的対応がなされたとは言い難いのである。また、合意形成を含んだ時間的なパースペクティブのもとに将来計画が立てられなかった。既存の制度手法がいち早く(予め)前提されることによって、全体ヴィジョンを組み立てる土俵も余裕もなかったことが決定的であった。

 

 2-2-2 復旧・復興計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

 震災復興は時間との戦いであり、時間的な区切りが大きな枠を与えてきた。

 被災直後は、人々の生命維持が第一であり、衣食住の確保が最優先の課題である。ガス、水道、電気、電話、交通機関といったライフラインの一刻も早い復旧がまず目指された(ガスの復旧が完了したのが4月11日、水道復旧が完了したのが4月17日である)。そして、避難所の設置、避難生活の維持が全面的な目標となる。多くの救援物資が送られ、多くのヴォランティアが救援に参加した。未曾有の都市型地震ということで、また、高速道路が倒壊し、新幹線の橋脚が落下するといった信じられない事態の発生によって多くの混乱が起こった。リスクマネージメントの問題等、その未曾有の経験は今後の課題として生かされるべきものといえるであろう。むしろ、この段階の評価は、震災以前の防災対策、防災計画、さらに震災以前の都市計画の問題として、議論される必要がある。また、この大震災の教訓をどう復旧。復興計画に活かすかが問われていたといっていい。

 最初に大きな閾になったのが3月17日(震災後2ヶ月)である。建築基準法第84条の地区指定により当面の建築活動を抑制する措置が相次いで取られたのである。この地区指定の問題は復旧・復興計画において大きな決定的枠組みを与えることになった。阪神間の自治体(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市)では、「震災復興緊急整備条例」が3月末までに相次いで制定されている。

 続いて、仮設住宅の建設と避難所の解消が次の区切りとなる。仮設住宅入居申し込みは1月27日に開始されている。また、「がれきの処理」無償の期限が復旧の目標とされた。がれき処理の方針は震災10日後に出される。倒壊家屋の処理受け付けは早くも1月29日に開始されている。このがれき処理は結果的に多くの問題を含んでいた。補修、修繕によって再生可能な建造物も処理されることになったからである。ストックの活用という視点からは拙速に過ぎた。資源の有効再生という観点から、貴重な経験を蓄積する機会を逃したと言えるのである。さらに、まちの歴史的記憶としての景観の連続性について考慮する機会を失したのである。災害救助法に基づく避難所が廃止されたのは8月20日である。兵庫県が「救護対策現地本部」を完全撤収したのが8月10日、震災後ほぼ半年で復旧・復興計画は次の段階を迎えることになる。

 その半年間に様々なレヴェルで復旧・復興計画が建てられる。国のレヴェルでは、「阪神・淡路大震災復興の基本方針および組織に関する法律」(2月24日公布 施行日から5年)に基づいて「阪神・淡路復興対策本部」が設置され、「阪神・淡路地域の復旧・復興に向けての考え方と当面講ずべき施策」(4月28日)「阪神・淡路地域の復興に向けての取り組指針」(7月28日)などが決定される。また、「阪神・淡路復興委員会」(下河辺委員会)が設けられ、2月16日の第1回委員会から10月30日まで14回の委員会が開催され、11の提言および意見がまとめられている。タイムスパンとしては「復興10ヶ年計画の基本的考え方」が提言に取りまとめられている。県レヴェルでは「阪神・淡路震災復興計画策定調査委員会」(三木信一委員長 5月11日発足)によって、都市、産業・雇用、保健・医療・福祉、生活・教育・文化の4部会の審議をもとにした3回の全体会議を経て6月29日に提言がなされている(「阪神・淡路震災復興計画(ひょうごフェニックス計画)」。

 こうした基本理念や指針の提案の一方、具体的な指針となったのが県の「緊急3ヶ年計画」である。「産業復興3ヶ年計画」「緊急インフラ整備3ヶ年計画」「ひょうご住宅復興3ヶ年計画」が3本の柱になっている。住宅復興に関する助成の施策は、ほとんど3年の時限で立案され、ひとつの目標とされることになった。また、応急仮設住宅の在住期限が2年というのも3年がひとつの区切りとなった理由である。

  緊急対応期、短期、中期、長期の時間的パースペクティブがそれぞれ必要とされるのは当然である。個々の復興計画理念、計画指針の評価は上に論じられるところである。

 ひとつの大きな問題は、それぞれの間に整合性があるかどうかである。しかし、それ以前に、住民の日々の生活が優先されなければならない。そのためには、柔軟でダイナミックな現実対応が必要であった。しかし、復旧・復興計画を大きく規定したのは既存の法的枠組みである。従って、復旧・復興計画の体系性を問うことは基本的には日本の都市計画のあり方を問うことにもなる。

 

 2-2-3 復旧・復興計画の事業手法と地域分断

 復旧・復興計画を主導したのは土地区画整理事業である。あるいは市街地再開発事業である。震災4日後、建設省の区画整理課の主導でその方針が決定されたとされる。モデルとされたのは酒田火災(1976年)の復興計画である。あるいは戦災復興であり、関東大震災後の震災復興である。復興計画の策定が遅れれば遅れるほど、復興への障害要因が増えてくる、復興計画には迅速性が要求される、という「思い込み」が、日本の都市計画思想の流れにひとつの大きな軸として存在している。関東大震災の復興も、戦災復興も結局はうまくいかなかった、酒田の場合は、迅速な対応によって成功した、という評価が建設省当局にあったことは明らかである。区画整理事業は、権利関係の調整に長い時間を要する。逆に、震災は土地区画整理事業を一気に進めるチャンスと考えられたといっていいだろう。

 2月1日、神戸市、西宮市で建築基準法第84条による建築制限区域が告示され、2月9日、芦屋市、宝塚市、北淡町が続いた。第84条の第2項は1ヶ月をこえない範囲で建築制限の延長を認める。すなわち2ヶ月がタイムリミットとされ、都市計画法第53条による建築制限に移行するために、3月17日までに都市計画決定を行うスケジュールが組まれた。この土地区画整理事業の突出は復旧・復興計画の性格を決定づける重みをもったといっていい。少なくとも以下の点が指摘される。

 ①復旧・復興計画は、基本的に既存の都市計画関連制度に基づいて行われた。また、その方針は極めて早い段階で決定された。復旧・復興計画の全体ヴィジョンを構想する構えはみられない。関東大震災後、あるいは戦災復興時のように「特別都市計画法」の立法が試みられなかったことは、復旧復興計画を予め限定づけた。

 ②2月26日に「被災市街地復興特別措置法」が施行されるが、既存の制度的枠組みを変えるものではなく、震災特例を認める構えをとったものであった。土地区画整理事業および市街地再開発事業を都市計画決定するために後追い的に構想制定されたものである。

 ③復旧復興計画は、法的根拠をもつ土地区画整理事業および市街地再開発事業を中心として展開された。また、その都市計画決定の手続きが復旧・復興計画のスケジュールを決定づけた。「被災市街地復興特別措置法」によって復興促進地域に指定すれば2年間の建築制限が可能となったが、全ての地区で既往のプロセスが優先された。

 ④土地区画整理事業、市街地再開発事業の決定は、基本的にトップ・ダウンの形で行われ、住民参加のプロセスを前提としなかった。あるいは形式的な手続きを優先する形で決定された。決定の迅速性(拙速性)の反映として、都市計画審議会は「今後、住民と十分意見交換すること」という付帯条件がつけられる。また、骨格の決定のみで、細部の具体的な計画案は追加決定するという異例の「2段階方式」が取られた。

 こうして被災地区は、土地区画整理事業、市街地再開発事業の実施地域とそれ以外の大きく二分化されることになった。いわゆる「重点復興地域」とそれ以外の「震災復興促進区域」の区別(差別)である。注目すべきは、震災以前からの継続事業、予定事業が総じて優先され、重点的に実施されることになったことである。震災復興計画と震災以前の都市計画は一貫して連続的に捉えられているひとつの証左である。決定的なのは、再開発事業の具体的イメージが画一的かつ貧困で、都市拡張主義の延長に描かれていることである。

 事業手法としては、もちろん、土地区画整理事業、市街地再開発事業に限られるわけではない。住宅復興あるいは住環境整備については、「住宅市街地総合整備事業」と「密集住宅市街地整備促進事業」を中心とする法的根拠をもたない任意事業としての住環境整備事業および住宅供給事業、あるいは住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業(法的根拠をもつ)が復旧復興計画として想定されている。

 すなわち、被災地は復旧復興計画の事業(制度)手法によって以下のように3分割されることになった。俗に「黒地地域」「灰色地域」「白地地域」と呼ばれる。

 A地域(黒地地域)

  土地区画整理事業10地区

  市街地再開発事業6地区

 B地域(灰色地域)

  住宅市街地総合整備事業11地区

  密集住宅市街地整備促進事業6地区

  住宅地区改良事業5地区

 C地域(白地地区)

 具体的には建築基準法84条(「建築制限」)による指定地区、被災市街地復興都市計画(「被災市街地復興推進地域」)による指定地区、震災復興緊急整備条例(「震災復興促進区域」「重点復興区域」)による指定地区、あるいは被災地における街並み・まちづくり総合支援事業による指定地区が区別されるが、ABの各地区にはダブりがある。各事業手法が組み合わせて適応される場合が少なくない。

 復旧復興計画の問題は、この線引きによって、A(B)地域の問題のみに焦点が当てられることになる。大半の地域はいわば見捨てられ、その復旧復興は公的支援のない自力復興あるいはなんのインセンティヴも設定されない通常の都市計画の問題とされた。また、それ以前に、復興計画の全体がそれぞれの地域の、しかも住環境整備の問題にされたことが大きい。都市計画全体のパラダイムを考える契機は予め封じられたと言っていい。具体的には、個別事業のみが問題とされ、全体的連関は予め問題にされなかったのである。

 

 2-2-4 コミュニティ計画の可能性

 以上のように、阪神淡路大震災によって、日本の都市計画を支えてきた制度的枠組みが大きく変わったわけではない。大震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけはない。関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか、と思えてくる。

 各地区の復旧復興計画は必ずしもうまくいっているわけではない。合意形成がならず袋小路に入り込んでいるケースも少なくない。震災が来ようと来まいと、基本的な都市計画の問題点が露呈しただけであるという評価もある。確かに、どこにも遍在する日本の都市計画の問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたという指摘はできるだろう。

 一方、阪神淡路大震災のインパクトが現れてくるまでには時間がかかるであろうことも確かである。その経験に最大限学ぶことが極めて重要である。特に地区計画レヴェルにおいてはプラスマイナスを含めた大きな経験の蓄積がなされたとみるべきであろう。

 建築家、都市計画プランナーたちは、それぞれ復旧、震災復興の課題に取り組んできた。コンテナ住宅の提案、紙の教会の建設、ユニークで想像力豊かな試みもなされてきた。この新しいまちづくりへの模索は実に貴重な蓄積となるはずである。

 今回の震災によって、一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされた。まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。もちろん、ヴォランティアの問題点も既に意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれたのである。多くは、システムとしてヴォランティア活動が位置づけられていないことに起因する。

 被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、建築家、都市計画プランナーが、ヴォランティアとして果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とは言えない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組のなかで、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えていくことになるであろう。

 復旧復興計画は行政と住民の間に様々な葛藤を生んだが、とにかくその過程で新しい街づくりの仕組みの必要性が認識されたことは大きい。また、実際に、コンサルタント派遣や街づくり協議会の仕組みがつくられ試されてきた。この住民参加型のまちづくりの仕組みは大きく育てていく必要があるだろう。個別のプロジェクト・レヴェルでも、マンション再建のユニークな事例やコレクティブ・ハウスの試行など注目すべき取り組がある。

 復旧復興の多様な経験から、あらたなまちづくりの仕組みをつくりだすことができるかどうかがコミュニティ計画レヴェルの評価に関わる。無数の種が芽生えつつあると考えたい。

 

 2-2-5 阪神淡路大震災の教訓

 

 a 人工環境化・・・自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てるという形で都市開発を行ってきたのであるが、そうしてできた居住地は本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 まず第一に自然の力に対する認識の問題がある。関西には地震がない、というのは全くの無根拠であった。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったかは大いに反省されなければならない。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きい。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した都市計画の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したといえるのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきことが大きく示唆される。 

 

 b フロンティア拡大の論理・・・開発の社会経済バランス

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちが存在した。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心地区が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったといえる。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。拡大成長政策、新規開発政策が常に優先されてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたといっていい。

 

 c 一極集中システム・・・重層的な都市構造・・・地区の自律性

 日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であったことが反省される。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったことによって、すぐさま明らかになった。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。

 

 d 公的空間の貧困 

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像をこえた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。地域施設としての公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかったケースがある。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の、他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

 e 地域コミュニティのネットワーク・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。

 阪神淡路大震災において最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO(非営利組織)の役割である。

 

 f 技術の社会的基盤の認識・・・ストック再生の技術の必要

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。問題なのは、社会システムの欠陥のせいにして、自らのよって立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想をこえる地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったといっていい。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも問題である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきであった。

 

 j 都市の記憶と再生 

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせたともいえる。復旧復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、基本的な解答を求められる。それはもちろん、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。また、それ以前に建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならないだろう。

 日本の都市がストックー再生型の都市に転換していくことができるかどうかが大きな問題である。都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性をみい出しえたどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるであろう。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているとも言える。

 

*1 拙稿、「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』、「阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年」、『建築思潮』4号、1996年、「日本の都市の死と再生」、『THIS IS 読売』、1996年2月号など 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995年、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、1995年

2022年10月16日日曜日

研究会報告: 植民都市の文化変容ー土着と外来ー都市住居の形成 殖民都市的文化轉化;本土與外來—以城市居住形式為中心論述—,「第二回被殖民都市與建築—本土文化與殖民文化—」國際學術研討會,台湾中央研究院台湾史研究所,11月24日,民国93(2004)年

 植民都市の文化変容―土着と外来―居住形式を中心として

殖民都市的文化轉化;本土與外來—以居住形式為中心論述—

布野修司

 

 

植民都市研究は、第1に〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の2つを拮抗基軸とする都市の文化変容の研究である。植民都市は、非土着の少数者であるヨーロッパ人による土着社会の支配をその本質としている。西欧化、そして近代化を推し進めるメディアとして機能してきたのが植民都市である。植民都市の計画は、基本的にヨーロッパの理念、手法に基づいて行われた。西欧的な理念が、アジアにおいてどのような役割を果たしたのか、どのような摩擦軋轢を起こし、どのように受け入れられていったのか、計画理念の土着化の過程は、どのようなものであったのか、さらに計画者と支配者と現地住民の関係はどのようなものであったのか、等々を明らかにすることは、それぞれの都市構造を理解する上で大きな意味をもっている。

第2に、近代植民都市の形成とその後の変容、転成に関する研究は、世界システムの形成とその展開に関する研究である。世界システムの形成をめぐっては、経済史を中心に多くの業績が積み上げられている。しかし、世界システムの拡大形成の拠点であった都市については、ほとんど植民都市として一括して論じられるだけである。植民都市の系譜を単にどの宗主国によって建設されたものかという起源論的な言及にとどまることなく、都市形態・居住特性などをも含んで大きく系列として体系的に整理していく作業が残されている。海外進出の先鞭をつけたポルトガルの場合、現地社会との関係はそれぞれ個別の交易関係に過ぎなかった。スペインの場合、「新大陸」は帝国の拡張空間であった。オランダは、既に成立していた各地域の域内交易ネットワークを繋いだ。そして、世界を帝国主義的に分割する段階が来る。世界システムの形成と植民都市のネットワーク形成の関係をダイナミックに捉えることは大きなテーマとなる。

第3に、植民都市の問題は、現代都市を考えるためにも避けて通れない問題となっている。発展途上地域の大都市は様々な都市問題、住宅問題を抱えつつあるが、その大きな要因は、以上のような植民都市としての歴史的形成にあるからである。極めて直接的には、植民都市の形成、変容、転成の過程を比較研究することにおいて、今日の発展途上地域の、大都市の都市構造を理解するための知見を得るとともに、都市空間あるいは地域生活空間の計画に関わる指針を得ることが大きな関心となる。

  


Ⅰ 植民都市の特性

植民都市は、宗主国と植民都市、植民都市と土着社会の二重の支配-被支配関係を基礎に成立している。また、植民地と植民都市の関係、植民帝国における諸植民都市との関係、さらには最終的には世界経済システムに包摂される諸関係の網目の核に位置する。そうした様々な関係は、植民都市内部の空間編成として表現される。西欧世界と非西欧世界(文明と野蛮)、宗主国と植民地(中心と周縁)の支配-非支配関係を媒介(結合-分離)するのが植民都市である。その基本的特性は以下のようである。

 

A 複合社会

植民によって形成される植民都市は、様々な住民によって構成される。植民地社会は多民族からなる複合社会plural societyである。オランダの社会学者J. S.ファーニバル [1]は,同一の政治単位内に二つ以上の、人種的要素、宗教的要素など様々な要素、あるいは社会体制が隣接して存在しながら,互いに混合・融合することがないような社会を複合社会と呼んだ。また、イギリスの社会人類学者ラドクリフ・ブラウン[2]は,未開民族とヨーロッパ人の接触以来,両者によって構成されるようなった社会を複合社会と呼んだ。

植民都市においては、西欧人と現地民、エリート層と一般住民とが大きく二分化される。そして、白人と黒人、インディオなど土着民、ムーラート、メスチーソ、ユーレイシアン等混血、クレオール(クリオーリョ)など多人種、多民族によって様々な社会階層が形成される。植民社会を主として構成するのは、 ①植民地社会のエリート層を形成する植民地権力ないし植民地帝国権力の居住集団、 ②民族混合の、他の植民地あるいは半植民地からの移住集団、 ③土着の知識階層、伝統的エリート、④土着のあるいは域内移住を含む土着の民族集団・部族・クランなどである[3]

そして、植民地の経済構造も複合的なものとなる。ファーム・セクターとバザール・セクター、あるいはフォーマル・セクターとインフォーマル・セクターといった対概念でとらえられるが、西欧社会と現地世界、支配層と被支配層の二分化に対応して、世界経済システムと現地経済システムが併存する、二重経済構造が特徴となる。二重経済論を最初に提唱したのはブーケ [4] である。その後、シンガー H. Singer やヒギンズ B. Higgins などの技術的二重構造論と,ルイス W. A. Lewis などの経済的二重構造論が展開される。技術的二重構造論は、近代部門は西欧技術を、在来部門は農業や中小企業の伝統技術を用い、両者の間には労働資本比率,労働生産性,賃金などで大きな格差が存在するとする。経済的二重構造論は、資本主義的な近代部門に対して,労働力供給のプールとなる伝統部門が存在するものとされる。

こうして、植民都市は異質な要素の重層する複合的空間となる。多人種、多民族による文化的背景を異にする多様な住民構成、非土着民による土着民の支配、土着エリート層と一般土着民の二分化、域外、域内からの移住者と土着民との競合、都市民と農民との寄生的関係など諸対立を内に含む階層(カースト)的社会構成、二重の政治経済構造が植民都市を特徴づけるのである(図Ⅰ-1)。

 

B 結節点

植民都市は、西欧世界と現地社会、宗主国と植民地とを結合する。植民都市の起源は、そもそも交易拠点の建設にある。西欧世界では産しない香辛料や貴金属、農業生産物など一次産品を得るのが交易拠点建設の目的である。植民都市は、こうしてもともと港市都市であり、西欧世界と土着の社会の結節点に位置した。西欧世界に必要なものを生産し、輸出する、また西欧世界の製造物を輸入する市場が置かれるのが植民都市である。初期の貿易商人にとって、都市建設は必ずしも必要ない。しかし、継続的な交易のために都市は必要不可欠なものとなる。交易のためには港が必要であり、港を支えるためには諸々のサーヴィスが必要となる。金融や保険も含めて貿易のための組織が定住すれば、その定住者を支える様々な職業が必要となるのである。

植民都市では、諸々の物資が集められ、交換される。それに伴って人々も移動し、混住する。そうした意味で様々な交通の結節空間である。すなわち、植民都市は、ネットワーク関係に基礎をおいて成立するのである。ポルトガル領インドがそうであるように、初期の植民地支配は領土支配ではなく、交易拠点としての植民都市のネットワークに他ならないのである(図Ⅰ―2)。

 

C 複写と転送

しかし、植民都市が媒介するのは、単に経済的な関係だけではない。R.J.ホルヴァートは「植民都市は、統治者と被統治者の間の政治的、軍事的、経済的、宗教的、社会的、そして知的中継地である。」[5]という。

軍事技術、経済システム、キリスト教、・・・すなわち、植民都市空間が媒介するのは、生活様式の全体に関わる西欧的な諸価値であり、西欧文明の全体である。植民地化を正当化する最大の根拠は文明化であった。西欧世界の規範やモデルは植民都市を通じて植民地にもたらされる。植民都市の景観は、西欧都市の複写(コピー)として、西欧の都市計画理念と技術に基づいて形作られる。植民都市に決まって建てられる時計塔(クロック・タワー)は、西欧的な時間(産業的時間)の観念の象徴である。劇場など様々な公共施設の建設は、西欧的市民社会の規範を移入する。A.D. キングは、「植民都市計画の第1の特徴は、母国から植民地社会へ、諸価値と諸イデオロギー(産業資本主義)を輸出することである」[6]という。つまるところ、西欧化(西欧世界の諸制度)、続いて産業化(産業社会の諸システム)を媒介するのが植民都市である。また、それが文明化であった。

しかし、植民都市は、西欧の文明を一方的に輸出するだけではない。非西欧世界の様々な文物もまた、植民都市を通じて西欧世界にもたらさられるのである。非西欧世界の「野蛮」はエキゾチシズムの対象となり、もの珍しい物品は収集され、剥製にされ、博覧会の展示対象となった。未知の世界は知的探求の対象となり、人類学、民俗学、地理学など近代人文諸科学の成立につながっていく。T.G. マッギーは、「植民都市は二つの文明の相互交渉の結合環」という[7]。「支配ー従属関係に基因する第3の植民地文化」という概念をA.D. キングは提出する。植民都市は、西欧都市のコピーそのままではない。建築様式は現地の気候に合わせて変化するし、土着の様式もまた大きく取り入れられるのである。それぞれの植民都市における媒介(分離―結合)機能の強度によって様々な植民地文化が生み出されてきたのである(図Ⅰ―3)。

 

 

D 都市村落

植民都市は、植民地社会の支配機構である。土着社会に対して、また、都市の後背地である農村に対して、都市本来の機能をもっている。ただ、全く白人のみによってほとんど現地民との関係をもたずに未開地に建設される場合を除けば、植民都市と母都市(本国における都市)は異なる。要するに、遥かに複合的、重層的な諸要素からなるということであるが、ポイントは土着世界との直接的関係をもち、その内にその要素を取り込んでいることである。そうした意味で、植民都市は植民地社会の縮図(ミクロコスモス)である。

植民都市は、少数の統治者によって支配される。通常、ヨーロッパ人の居住区域と大多数の土着住民の居住区域は空間的に分離される。商館から要塞化された商館へ、さらに要塞へ、という形で植民地拠点は強化拡大されていくが、そこに居住したのは基本的にヨーロッパ人のみである。その段階では、要塞そのものが現地社会との境界線である。次の段階で、城塞都市が建設される。すなわち、その内部に土着住民を含んだ都市が建設される。しかし、その場合もヨーロッパ人と土着住民との居住区域は基本的には分離される。インドネシアの都市史を明らかにするP. D. ミローンは、都市という概念がヨーロッパ人とその活動の集中した拠点のみについて用いられたことを強調している[8]

こうした植民都市の建設過程は、西欧の都市とは異なる都市形態を出現させることになる。結果として、都市内に農村的要素を取り込む形態が一般化するのである。オランダ領東インドにおける都市内村落カンポンがそのいい例である。土着の村落の共同体組織や慣習、生活様式は都市内においても保持され続けるのである(図Ⅰ―4)。

 

   E セグリゲーション

植民都市内における重層的複合的諸関係は、支配-被支配関係を第1原理とする空間的分離によって示される。マドラス(チェンナイ)に関して、S.J. レワンドウスキーは、植民都市の配置形態が西欧の都市設計のモデルによることが土着住民の居住分離につながることを指摘する。自治体の行財政は、いわゆる「ホワイトタウン」の住む植民地のエリートのために行われ、土着民はその視野外に置かれるのである。S.J. レワンドウスキーは、「ホワイト・タウン」を含む内部のファクトリーと「ブラックタウン」を統括するフォート、フォートに労働力を供給する村落の三つの地区を区別する[9]。三つの地区は全く密度を異にする。J. E.ブラッシュも、インドの植民都市の二重性が、土着の都市の中心とイギリス人の中心業務地区 (CBD) という二つの中心の明確な密度の差異として表現されると指摘している[10]A.D.キングもまた植民都市の居住区の低密度性を指摘し、植民都市の最大の特徴を、土着の都市、カントンメント(軍営地)、市民居住地(シビル・ステーション)の三重の分割にあるとする[11]。ブリーズも新旧デリーに即して、伝統的土着の居住区、シビルライン(行政官僚、外国外交官)、政府住宅地(鉄道、警察関係)、カントンメント、バスティーbastis bustees(不法占拠地区)、村落地区、郊外スプロール地区という構成要素を列挙している[12]

植民都市の形態は極めて多様であるが、基本的には重層的な二項対立をその内に含んでいる。土着の集落とヨーロッパ人居住区(カントンメント、シビル・ラインズ)、土着の民家とコロニアル住宅(バンガロー)、ヒンドゥー寺院やモスクと教会、バザールとショップ、・・・など、異質の要素が空間の分離を象徴するのである。

そして、究極のセグリゲーション・システムを完成させたのが南アフリカである。すなわち、南アフリカにおいては、アパルトヘイト体制が確立され、人種毎の隔離居住が制度化されるのである。黒人住民を一定地域に居住させるホームランド政策は、原住民土地法Natives Land act1913年)を端緒とする[13]。黒人は指定用地以外の土地を購入することを禁止された。そして、原住民(都市地域)法が全国的に制定され(1923年)、集団地域法Group Areas Act1950年)につながる。南アフリカでは、近代都市計画のゾーニング(用途地域性)の手法がセグリゲーションを固定化する大きな役割を果たすのである[14]R.J.デイビスらは、「人種と民族集団の分離は、歴史的に南アフリカ都市における社会的、経済的、空間的構成の中心的特質である。」[15]と述べる。そして、A.D. キングは、「植民都市の景観的特徴は、人種差別である」という[16](図)。


Ⅱ オランダ植民都市の類型 Typology of Dutch Colonial Cities

オランダ植民都市は、都市の原型として特性を表現している。すなわち、城郭の二重構造、要塞と市街との二元的構成を基本としている。また、都市空間における混住的様式の卓越、複合社会的都市居住特性など共通の特徴をもつ。これらの点は個々にはイギリス植民都市にも引き継がれるが、これらが統合的に成立しているのは、オランダ植民都市系列の特徴である。さらに、都市モデルという観点からもオランダの植民都市に注目しうる。オランダは極めて高密度の都市居住の形態を発達させてきた。そのオランダがどのような都市住居の形式をそれぞれの植民地において導入したのかが大きな視点となる。また、「低地」であるが故に、水利、治水技術のみならず、宅地の創出、計画管理の技術を発達させてきたオランダの都市技術の移植も大きな関心である[17]

 

2-1 オランダ植民都市

オランダの海外における数多くの交易拠点、商館、要塞、植民都市の建設は、海外のオランダ人の活動を監督し、調整する2つの大きな交易会社の制度的な枠組みにおいて行われた。つまり、オランダ東インド会社VOCVerenigde Oost Indische Compagnie1602年設立、1799解散)とオランダ西インド会社WICGeoctroyeerde West Indische Compagnie1621年設立、1791年解散)の海外での活動は、当時のオランダ人の思考形式や行動様式に基づく自国の活動と同様に考えることが出来る。それほどVOCWICという2つの会社は本国以上に強力であった。ケープタウン以東がVOCの管轄、西アフリカ以西がWICの管轄である。

VOCそしてWICによって建設された植民拠点(商館、要塞、都市)は膨大な数にのぼる。一時的に建設されたロッジ(宿所)、や前哨基地も合わせるととても把握しきれないほどである。A. F. ランカー Lancker[18]は、ほぼ全ての要塞を地図上にプロットしているが、バタヴィア周辺だけでも38の要塞が建設されている(図Ⅱ-1)。ただ、大半は小規模な前哨基地である。

一定の規模以上の植民拠点で、その都市形態、街区形態に焦点を置く際に手掛かりになるのは残された地図や絵画資料である。幸いデン・ハーグの国立公文書館ARAには膨大な地図資料が系統的に残されている。その膨大な地図資料を整理することによって、ファン・オールスRon van Oersは、157のオランダ植民都市(VOC管轄:南アフリカ6、東インド87WIC管轄:西アフリカ26、アメリカ38)をリストアップしている[19]。筆者等もARAにおいて以上を確認し、主要なものを入手した。地図が残されているということは、オランダ植民都市の中でも一定の重要性をもった都市であると考えていい。

 

2-2 植民都市の類型

植民都市の類型化にあたっては、その立地、土着の都市との関係、存続期間、規模、形態、機能など様々な観点が考えられるが、極めてわかりやすく本質的なのは、城壁、市壁など居住地を限定づける境界のあり方である。植民都市が支配-被支配(中心-周縁)関係の媒介(結合-分離)空間であり、異質な要素の重層的複合空間であるとすれば、空間の分離のあり方にまず着目する必要がある。

都市のフィジカルな構成という観点から、囲われた空間に着目すると、ロッジ(ロジェ)logies、商館factorij、要塞fort, vesting、城塞kasteel、市街stadのように、そのうちに含む要素によって、植民都市の規模やレヴェル、段階を区別することができる。

O ロッジ lodge

 商館 factory

B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factory

C 要塞 (+商館)fort(+factory)+集落

D 要塞+市街 fort+city

 城塞 castle

 城塞市街 castle+city

Aは、交易のみのための最小限の施設である。ポルトガルの最初期の交易拠点は商館のみが置かれるだけのものが多い。専用の商館をもたないロッジの段階Oをこれ以前に区別できる。ロッジは、沿岸部の交易拠点ではなく、内陸の地方市場に設けられたものをいう。F.S.ハーストラGaastraは、ロッジ、商館の発展段階を、①土着物産の購入と積み出しの段階、②商品を予約注文し、積み出しまで保管する段階、③商品の供給者に前渡金を供与し、生産管理行う段階、④物産を全て掌中に握る段階にわけている[20]

商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。A、Bの区別は必ずしも明確ではないが、要塞の内部に商館機能を含むかどうかで基本的にCとは区別される。要塞とは別に商館が設けられることも少なくない。要塞は基本的には戦闘を前提にした防御施設である。基本的には軍隊あるいは兵士が常駐する。平時は使用せず、有事に立て籠もるかたちもある。

商館あるいは要塞の周辺にヨーロッパからの移住者のみならず各地からの移民や現地民などが周辺に居住し始めると、宣教、教化のための教会や修道院など諸施設が建てられる。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われたものがDである。港湾に立地する植民都市の場合、市街によって要塞が囲まれる形より、要塞と市街が連結した形態をとることが多い。そして、要塞と市街が一体化したのがEである。CとEの違いは単に規模の違いではなく、民居を含むかどうかの違いである。さらにその外郭に一般人(あるいは現地人を含めた)居住地が形成されるのがFである。単純な分類であるが、既存の集落、現地住民の居住区との関係でさらに分類できる。さらに、全くの処女地に計画されたものと既存の都市ないし集落を基にして建設されたものを区別することができる。オランダの植民都市はマラッカやセイロンの各都市などポルトガルの城塞を解体再利用したものが少なくない。

植民都市という場合、一般的にはD~Fがそれに当たる。しかし、既存の都市あるいは集落にA~Cが付加される場合、それも植民都市と呼べるだろう。都市の起源、その本質をどう規定するかが問われるが、市(マーケット)の機能をその本質的要素とするなら、たとえ商館ひとつの建設でも都市成立の条件とはなる。また、防御機能を都市の本質と考えれば、要塞の建設は都市建設の第一歩である。

数多くの植民都市の事例を見ると、A→Fは歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。また、理念的にもA→Fの過程は、必然的なものとして想定できる[21]。従って、どの段階をもって類型化するかが問題となる。当然のことながら、歴史的な時間の経過とともにひとつの都市も形態や機能を変えて行くのである。そうした意味では、予め全体計画がなされているかどうかは分類の大きな視点となる。ここではまずオランダが関与した過程の最終段階を問題にしよう。A~Fの分類によって、その起源の形態はおよそ把握できる。

 

2-3 オランダ植民都市の類型

157の植民都市のうち、都市図が残るものは少ない。ARAに地図が残されている157の植民拠点、植民都市のうち一定期間存続したものを獲得順にリストアップし、都市名、占領年、放棄年、現在の国名の順に示すとすると次のようになる。

アンボイナAmboina16051949Indonesia)、テルナテTernate16051949Indonesia)、バンダ・ネイラBanda & Neira16091949Indonesia)、グリッセGrisee16131949Indonesia)、ジェパラJepara16051949Indonesia)、バタヴィアBatavia16191949Indonesia)、 ゼーランディアZeelandia16241661 Taiwan)、ニーウ・アムステルダムNieuw Amsterdam16251664 U.S.A)、カイエンヌ諸島Cayenne Is.16271664 Guyana)、ニーウ・アムステルダムNieuw Amsterdam16271796Guyana)、レンセラースワイク  Rensselaerswyck16281664U.S.A)、レシフェ/マウリッツスタットRecife / Mauritsstad16301654Brazil)、チェリボンCheribon(Ceribon)17461949Indonesia)、ショップスタットSchopstad16331645Brazil)、フレデリクスタット  Frederikstad16341654Brazil)、ウイレムスタットWillemstad1634~、Dutch Antilles)、フーグリ Hoogly16341686India)、エルミナElmina16371872 Ghana)、トリンコマレーTrincomalee16391796 Sri  Lanka)、ゴールGalle16401796Sri Lanca)、フィリップスブルグPhilipsburg1640~、Dutch Antilles)マラッカMalacca16411824Malaysia)、サン・ルイス・マラナオSao Luiz do Maranhao16411644Brazil)、出島Deshima16411856Japan)、ケープタウンCape Town16521795South Africa)、ジャフナJaffna16581795Sri Lanka)、ネゴンボNegombo16581795Sri Lanka)、ナガパットナムNagapatnam16601781India)、コーチンCochin16631795India)、マカッサルMacassar16661949Indonesia)、パラマリボParamaribo16671975Suriname)、スマランSemarang16771949Indonesia)、ステレンボッシュStellenbosch16791806South Africa)、ポンディシェリーPondicherry16931699India)、スラバヤSurabaya17431949Indonesia)、スウェレンダムSwellendam17461806South Africa)、スタブロークStabroek17501796Guyana

 

以上の38都市のうち、レイアウトが表現された都市図が残されている都市は、R.ファン・オールスが不明とし、その後スタブローク(ガイアナ)と判明したものも含めて整理し直すと17となる。17の都市とその立地、規模、街路形態、全体配置・構成は、表Ⅱ-1の通りである。

 

表Ⅱ-1

都市

建設年

規模

k㎡

立地 

○:処女地

V:土着の都市集落

:ポルトガル

F:フランス

全体配置

C:閉鎖

O:開放

街路形態

R:規則的

IR:不規則

G:グリッド

要塞の形

Q:四角

P:五角

C:城塞

O:その他

全体構成

T:要塞+市街+周辺居住地

D:要塞+市街

E:城塞市街一体

Amboina

1605

0.40

Batavia

1619

1.40

V○

Recife/Mauritsstad

1630

1.32

IR

QP

Willemstad

1634

0,12

Galle

1640

0.56

Malakka

1641

0.60

VP

Negombo

1644

0.37

Kaapstad

1652

1.30

QP

Colombo

1656

0.98

Cochin

1663

1.20

VP

Paramaribo

1667

4.00

Pondicherry

1693

2.34

Semarang

1708

0.24

IR

Philipsburg

1734

0.37

Surabaya

1743

0.30

Stabroek

1748

3.00

Nieuw Amsterdam

1788

0.98

まず、立地をみると、全く新たな処女地に計画都市として建設されたのは以下の都市である。ウイレムスタット:キュラソー(オランダ領アンティール)/ケープタウン:南アフリカ/パラマリボ:スリナム/フィリップスブルグ:サン・マルタン(オランダ領アンティール)/スタブローク(ジョージタウン):ガイアナ/ニーウ・アムステルダム:ガイアナ

最も代表的なのは、東インドへの中継基地として、新たに建設されたケープタウンであろう。他は、いずれもカリブ海に位置する交易拠点である。土着の都市が存在していた場所にオランダが新たに建設したかたちをとるのが、バタヴィア/スマラン/スラバヤといった今日のインドネシアの諸都市である。この3つの都市はいずれもジャワ北岸に位置しており、よく似た立地をしている。もちろん、代表となるのは東インドの拠点であり続けたバタヴィアである。

ポルトガルの拠点を奪って建設したのが、アンボイナ/マラッカ/コロンボ/ゴール/コーチン/ネゴンボ/レシフェなどである。ポンディシェリはフランスの拠点を占拠した例であり珍しい。レシフェは、ポルトガルのオリンダの資材を使って建設されたが全く新たに建設されたと考えていい。ポルトガルの拠点をベースとした都市としては、まず、マラッカ、そしてコロンボ、ゴールなどセイロンの諸都市、マラバール海岸のコーチン、コロマンデル海岸のネゴンボといった、要するに、VOCの交易拠点として大きな役割を担った都市がピックアップされる。

 植民都市としての存続期間をみると、現在もオランダ領であるウイレムスタット、フィリップスブルグ、そして1975年までオランダ領であったパラマリボがひとつのグループとなる。また、バタヴィアとどオランダ領東インドの諸都市が代表的なオランダ植民都市となる。そして、ポルトガルから奪取し、18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリスに割譲された、しかし、オランダ時代の都市の骨格を今日に伝えるケープタウン、マラッカ、コロンボ、ゴール、コーチンなどが第3のグループとなる。ニーウ・アムステルダム(ニューヨーク)、レシフェ、ゼーランディアなどは存続期間は短く、第4の類型となる。

 

都市の形態、空間構成について、主要なオランダ植民都市を前述のAFの型に当てはめると図Ⅱ―4のようになる。

 商館 factoryのみの例は枚挙に暇がないが、出島がひとつのモデルである。

B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factoryも例は多いが、フーグリ、スマラン(初期)などの図が残されている。

C 要塞 (+商館)は、要塞および商館が既存の集落が立地する場所に建設される場合と要塞の周辺に商館とともに集落が建設される場合(ゼーランディア/エルミナ/パラマリボなど)があるが、ケープタウンやスタブローク、ニーウ・アムステルダム(ニューヨーク)などは市街が明確に計画される例である。

そして、市街が市壁で囲われる 要塞市街の類型には、アンボイナ、バタヴィア、スラバヤ、ポンディシェリ、ネゴンボ、ウイレムスタット、レシフェなどがある。オランダ植民都市の典型である。図アンボイナとレシフェ

他の類型として、 城塞 には、コーチン、ゴール、ジャフナなどがある。 城塞市街にはマラッカ、コロンボがある。

D、Fの例に見られるように、城郭の二重構造、要塞と市街との二元的構成を基本としているのがオランダ植民都市である。

 もちろん、ポルトガル植民都市もまた城郭の二重構造を基本としている。アントニオ・ボカロの『東インド領のあらゆる城塞、町、村についての書』[22]1635年)に載せられた20都市を見ると、モサンビーク(要塞、村、島)、モンパサ(要塞、島)、マスカット(要塞+城塞)、リベディア(要塞+村)、ディウ(要塞+城塞)、ダマン(要塞+城塞)、アガサイム(要塞+村)、パサイン(城塞⊃要塞)、タナ(要塞、村)、チャウル(要塞+城塞)、チョラン(城塞)、サルセテ(要塞)、マンガロール(要塞+城塞)、カナノール(要塞+城塞+城塞)、クランガノール(要塞+城塞)、コーチン(城塞)、コウラン(要塞+城塞)、サントメ(城塞)、マカオ(要塞+城塞)となる。オランダは基本的にポルトガルを踏襲しているとみていい。実際、コーチン、マラッカなど直接ポルトガル要塞を引き継いでいる。ただ、立地の選定にまず違いがある。専ら「低地」を選定するオランダに対して、ポルトガルは小高い丘を抱えた入江を選定する傾向がある。リスボンがモデルになっていたのではないかと思われる。起伏のある丘に建設されたマラッカやオリンダ(ブラジル)がその典型である。オランダはそのオリンダを破壊して、低地にレシフェを建設する。本国における築城術の伝統の違いである。

 オランダ植民都市の多くががグリッド・パターンを採用していることも丘陵地へ立地することの多いポルトガル植民都市との違いである。整然としたグリッド・パターンを全面的に採用し、市壁をもたないスペイン植民都市ほど徹底しないが、ケープタウン、スタブローク、パラマリボなどでは明確なグリッド・パターンが採用されている。都市の内部構成、すなわち、基幹構造、施設分布、街区構成、住居類型などをめぐってそれぞれの植民都市に差異はあるが、形態的には、一定のモデル、あるいは一定の建設手法があったと考えられる。

 

Ⅲ 都市型住居の世界史へ

 

3-1 オランダ都市型住居

 オランダの都市を特徴づけるのはタウンハウスである。運河住宅(フラフト・ハウス)とも呼ばれる、運河に面してタウンハウスの建ち並ぶ景観はオランダ特有である。オランダで発達したタウンハウスの形式がヨーロッパ各地に伝わっていく。また、海外植民地にも移植されていくことになる。ここではアムステルダムを中心に見よう。アムステルダムについては、R.メイシュケR.Meischkeらによって詳細な調査がなされている[23]

C.アントニスの鳥瞰図(1544)には既にびっしりと建て詰まったタウンハウスの様子が描かれているが、考古学的な遺構から初期の形態も推測される。ヘルマン・ヤンセHerman Janse[24]によれば、1200年頃に建てられた最初期の家々は、間口3.5m5m、奥行き10m以内で、壁は板壁あるいはハンノキや柳の枝を細かく編んだもので、床は粘土を踏み固めた上に筵を引いていた。周辺の農家は、柱・梁・方杖で組まれたヘビントと呼ばれるフレームを並べてつくられ、両側に側廊をもつ三列式が一般的であったが、都市住居となるとワン・スパンのみとなり、家と家の50cm程の間に雨水を落とす溝(オーセンドロップ)が造られた。当初は平屋で、1350年頃から2階建てが行われた。草葺き屋根の木造で、屋根裏が倉庫として用いられた。初期の住居はワンルームであったと考えられるが、まもなく奥側が暖房が可能となるように壁が建てられ前後に2室に分けられた。15世紀に入って、前室の天井高を高くして奥の空間に中二階が設けられるようになり、下が地下室として使われるようになる。奥の部屋の床は地面から1.5mの高さにあり、地下室の床は地面より1m低い。螺旋階段で上下は繋がれた。地下水位が高いことから本格的地下室は造られず、しばしば水の上に浮くかたちの煉瓦造の貯蔵室が設けられた。そこに行くには、歩道から外部の独立した階段を使う。貯蓄用の地下室は、重要で、キッチン、食料貯蓄室、ワインセラー、使用人の宿所、事務室や倉庫などに使われた。現在に残る最古の木造住宅は、上述したように、ベヘインホフ34番地の住宅(1420年頃)である。煉瓦造は15世紀初めから現れ、2度の大火の後、一般的となる。

背割りした街区に住居が建ち並ぶか、ベヘインホフのように中庭を囲むのが一般的な街区形式となるが、住居の形式は主として間口の幅によって決まる。大きく分ければ、間口幅が狭い(5.6m8.5mぐらい)一列型住居と、広い(14m17mぐらい)二列型住居の2種類がある。建造物の多くは泥や砂や泥炭の層に打ち込まれた木材の杭によって支えられている。300年以上も前の例が示すように、長い支持杭を地中に打ち込む基本的な方法は変わっていない。道のレベルから短い手すり付きの階段があって玄関前のストゥプstoepenと呼ばれるテラスに至る。しばしば小さな煉瓦のベンチが手すりに据え付けられている。このストゥプはオランダの住居のひとつの特徴である。1階は、外部シャッターによって守られた開き窓によって明かりをとり、大きなファンライトにかざられた入口のドアから中にはいる。ファンライトは通路や‘居間’を明るくする。中庭には、倉庫と使用人の宿舎などの他、便所やキッチンがある。オランダ人の庭好きは、家屋の裏の完全に閉鎖された空間に見ることができる。庭には、リンデンやブナの木が植えられ、灌木やフェンスによって風から守られている。居間は、2階と3階を占め、屋根の下の最上階には独立した窓がある。一般的なケースだが、最上階が倉庫として使われるときには、窓の代わりに木製のドアの大きな開口部がとられる。上部には棟梁の延長である相当な長さの角材があり、滑車装置が取り付けられ、屋根裏に重い荷物をつり上げるのに用いられる。17世紀末期から18世紀にかけて、家屋の最上階は主として居住のために使われるようになる。17世紀初期のアムステルダム市域の拡大の時期に、土地利用、区画の大きさ、建築物の高さ、窓の大きさとその配置などに関する規則がつくられている。その規則は、統一をめざすため、外壁に使用する4種類の異なった煉瓦や、構造用、装飾用の石の種類にまで言及している。火災の危険のために、木製の破風は1666年に禁止されている。タウンハウスの成立と諸規則の成立は並行しているといっていい。

オランダのタウンハウスを特徴づけるのはなんといってもファサードである。初期のタウンハウスは、直線もしくは階段状の破風(ステップ・ゲイブル)をしている。17世紀前半に流行ったものである。ただ、17世紀のタウンハウスは限られた数しか残っていない。ほとんどの家が18世紀からのものであり、19世紀にも頻繁に建て替えられているのである。煉瓦と砂石による最初のバロック風建造物が1570年から1622年の間に建てられ、そのうち5つだけが現存している。ヘンドリック・ デ・ケイゼルはそのうち4つの設計者である。ひとつは兵器庫で時には倉庫として使用され、1606年にシンゲル(423)に建てられた。1605年の双子の住宅もシンゲル(140/2)にある。そして1622年には、ルトロッティの家がヘーレンフラフト(170/2)に建てられている。

以降、ファサードの流行り廃りはアムステルダムの歴史を刻んでいる。1655年以降、コーニス(水平帯)にルネッサンス様式が用いられ出す。兄弟建築家のフィリップ・フィンボーン、ユストゥス・フィンボーンによる装飾の革新として知られる。

初期のものは、中央が一段と高くなった首型破風であり、次第に鐘状破風(16601790)に変わっていく。フィンボーン兄弟によって導入されたスタイルは建てられなくなる。18世紀に地下が拡大して3階建て住宅が一般的となる時期に現れたのが鐘状破風のタウンハウスである。1790年頃以降、段状、噴水、首、鐘型の破風やアーチ型のコーニスは建てられなくなる。1796年のフランスによるオランダの併合の後、ギルド制は廃止されたが、それとともにファサードに装飾はされなくなるのである。19世紀には地味なファサードとなり、コーニスの簡素な上部はオランダの経済状況の悪化と国家的な自信の喪失を反映することになるのである。

 


3-2 オランダ植民都市と都市住居

オランダ人たちは、海外植民地においてどのような住居形式を採用したのか、については、未だその全容を把握するに至ってはいないが、幸いD. フレイクGreigの『不承不承の植民者たちThe Reluctant Colonists[25]がオランダ海外植民地の建築についてまとめてくれている。ここでは、臨地調査を行ったバタヴィア、マラッカ、コロンボ・ゴール、ケープタウン、ウイレムスタット、パラマリボなどについて具体的にみてみたい。

基本的に、宗主国は自国の建築様式を植民地にそのまま持ち込もうとする。例えば、バタヴィアの市役所は明らかにアムステルダムの市庁舎(現王宮)がモデルになっているように思われる。シモン・ステヴィンの理想都市の計画を実現しようとしたことが示すように、バタヴィアは西洋風の都市であった。街区の構成も、残された地図や都市図に依れば、オランダ都市と同様である。建設材料も、当初は船荷のバラストとして運んだ。ニュー・アムステルダム(ニューヨーク)を描いた地図を見ると、切り妻の住居が並んでおり、風車が描かれている。また、『オランダ植民地住宅』という本によると、現在も、ニューヨーク周辺にかつてオランダ人が建てた建物が残っているが、基本的にオランダの農家のスタイルである。

生活様式についても同様である。熱帯の気候であるにもかかわらず、本国における衣食住に拘り続けるのがむしろ普通である。オランダ人たちはジャワに入植して一世紀の間、その生活習慣を変えようとしなかったという。

しかし、植民地においては、本国そのままの建築様式を持ち込むことができない状況が少なくない。建設材料が調達できない場合がある。また、建築技術者がいるとは限らない。そこで、現地で調達可能な材料で、現地の職人を使って、建設を行うこととなる。

また、本国の建築様式が合わないという状況が一般的である。第一に、気候が大きな問題である。また、地震などがあると構造形式が問題となる。フィリピンでは、宣教師たちが建築家の役割をも果たしたのであるが、地震バロックと呼ばれる独特の教会形式を生み出したのが彼らである。

現地の気候への適応を考える時にモデルとなるのが各地のヴァナキュラー建築である。オランダ人たちは、次第に、熱帯の気候に対処するために、気積の大きい大屋根を現地の民家に倣って用いるようになる。現地の職人を用い、民家の架構形式をそのまま用いるのが容易でもある。

インドやジャワのようにヒンドゥー建築の伝統がある地域では、その伝統をどう活かすかが次の段階でのテーマになる。ジャワにおけるM.ポントやインドにおけるインド・サラセン様式を取り入れようとした英国人建築家がその例である。

オランダ植民都市の場合、処女地に建設された場合と既存の都市あるいは集落をベースとした場合で大きく異なる。一般に処女地に建設する場合、本国の住居形式がそのまま持ち込まれる。オランダ西インド会社WIC管轄のレシフェ、ウイレムスタットがそうである。しかし、同じカリブ海域でありながら、スリナムのパラマリボは木造の住居が基本である。ジャワから多くの植民が行われたことが関係していると考えられる。農村部は高床式住居である。

ケープタウンもほぼ処女地に建設されたといっていいが、ダッチ・ゲイブルと呼ばれる住宅形式が持ち込まれている他、都市住居の形式は本国とは異なっている。マレー人が植民され、マレー・クオーターが形成されるが、その住居形式はマレーシア、インドネシアのものとは異なっている。

アジアのオランダ植民都市の場合、多くがポルトガルの要塞、植民都市を破壊、改変したという要素を考慮する必要がある。また、土着の居住形式が取り入れられる傾向を指摘できる。すなわち、オランダの都市住居の形式は、バタヴィアを除いて、必ずしも積極的に導入されていないように思われる。そして、都市型住居の形式として、華僑、華人の影響を注目することができる。例えば、マラッカの街屋(店屋)は、オランダ時代に遡ると考えられるが、その骨格を形成したのはババ・ニョニャ[26]と言われる層である。

 


3-3 アジアのショップハウス

いわゆるショップハウスという連棟の店舗併用住宅は、シンガポールの建設に当たって、ラッフルズが創り出したと言われる。


 

「第二回被殖民都市與建築—本土文化與殖民文化—」

國際學術研討會(暫訂議程;省略尊稱)

十一月二十四日(星期三)

9:00-9:10

開幕式:中研院台史研究所 莊英章

()本土文化與外來文化的交融

9:10-11:40

主持人:莊英章

(1)   題目:殖民都市的文化轉化;本土與外來—以居住形式為中心論述—

發表人:布野修司(日本)

對話人:徐明福

2)題目:臺灣都市的變遷——日本殖民統治前後的都市改造——

發表人:青井哲人(日本)

對話人:黃俊銘

11:40-1:30  中餐休息

(二)海峽兩邊的建築文化發展

1:30-4:00

主持人:許雪姬

(3)   題目:十六世紀後期閩西南城牆與土堡的興建

發表人:方  (中國)

對話人:李乾朗

4)題目:清代以來台灣佛教伽藍的變與不變

發表人:黃蘭翔(台灣)

對話人:米復國

4:00-4:15  中場休息

4:15-6:45

主持人:施添福

(5)   題目:阿里山鄒族男子會所KUBA的變遷

發表人:關華山(台灣)

對話人:汪明輝

6)題目:清末日據西化下臺灣住宅型態的變化

發表人:葉乃齊、張興國(臺灣)

對話人:賴志彰

7:00-9:00 晚宴

 

十一月二十五日(星期四)

(三)中國建築史的研究

9:00-11:30

主持人:夏鑄九

(7)   題目:傳統中國園林史研究盲點之突破

發表人:田中淡(日本)

      對話人:王鎮華

(8)   題目:中國建築史的確立與發展——村田治郎與關野貞

發表人:福田美穗(日本)

對話人:黃銘崇

 

11:30-1:00  中餐休息

 

(四)華人文化與南洋

1:00-3:30

主持人:傅朝卿

(9)   題目:南洋時期閩南世系宗祠的落地生根

發表人:陳國偉(台灣)

對話人:崛入憲二

(10)  題目:越南順化故宮和北京故宮的相同與差異

發表人:潘青海(越南)

      對話人:林會承

3:30-3:45  中場休息

 

()綜合討論

3:45-5:45

主持人:林會承

引言人:布野修司(日本)、關華山(台灣)、方擁(中國)

 

會議結束

 



[1] J.S. Furnival1878-1960)。イギリスの東南アジア研究者。190223年ビルマの駐在官として勤務。192431年、ラングーン大学講師。193335年ジャワを訪問、『蘭インド経済史』( J.S. Furnival,”Netherlands India: A Study of Plural Economy”, London, 1939(1967))を刊行。戦後もラングーン大学で経済学を講じた。

[2] Alfred Reginald Radcliffe-Brown (1881-1955).

[3] 例えば、Christoph Antweiler, ’Urbane Rationalitaet: Eine stadtethnologishe Studie zu Ujung Pandang(Makassar), Indonesien’, Koelner Ethnologissche Mitteilungen no.12. Berlin, Dietrich Reimer Verlag, 2000’によれば、マカッサルの植民地社会は、大きく白人、ブルガー、中国人、マカッサル人の4つのグループからなり、それぞれ奴隷を最下層として3~4層の階層を形成する。

[4] Julius Herman Boeke,1884-1956)。オランダのインドネシア経済研究者。ファン・フォーレンホーフェンの後継者。192428年、バタヴィア法律学校で経済学を教える。1929年、ライデン大学教授。J.H.Boee, “Economics and Economic Policy of Dual Societies: as Exemplified by Indonesia, do. Budhisantoso. (永易啓一訳、『二重経済論---インドネシア社会における経済構造分析』、秋蕫書房、1979)J.H ブーケ、奥田他訳、『ジャワ村落論』、中央公論社、1943年。

[5] Horvath, R. J.  In search of a theory of urbanization: notes on the colonial cities, East Lakes Geographer, 5,1969 60-82

[6] King, A. D., Language of colonial urbanization, Sociology, 8, 1974, 81-110

[7] McGee, T. G.: The urbanization process in the Third World, explorations in search of a theory, London, Bell, 1971

[8] Milone, P.D.: Urban areas in Indonesia, University California, 1966

[9]  Lewandowski, S.J.: Urban growth and municipal development in the colonial city of Madras 1860-1900, Journal of Asian studies 34,1975

[10]  Brush, J.E.: Spatial patterns of population in Indian cities, D.J.Dwyer, The city in the Third World, 1974

[11]  King, A.: ibid

[12]  Breese, G: Urbanization in newly developing countries, Engelwood Cliffs, New Jersey, Prentice-Hall, 1966

[13] 松野妙子、「南アフリカ人種差別土地法の起源 ─1913年の「土地法」についての一考察─」、『世紀転換期の世界 ─帝国主義支配の重層構造─』、未来社、1989

[14] 第Ⅳ章 4 究極のセグリゲーション ケープタウン参照。

[15] Davies, R. J. and Rondebosch, "The Spatial Formation of the South African City", Geo Journal Supplementary Issue 2, 59-72, Wiesbaden, 1981

[16] King, Anthony D., Colonial Urban Development: Culture, Social Power and Environment, Routledge & Kegan Paul, London, 1976

[17] 何故、オランダ植民都市なのか。まず、日本および台湾との歴史的関係がある。特に、日蘭の歴史的交渉は日本社会に大きなインパクトを与えた。蘭学の果たした役割は極めて大きい。また、明治期に、J.デ・レイケ、G.A.エッシャーなど、オランダ人土木技術者が来日し、日本の河川改修事業、治水事業に大きな貢献をなしたことはよく知られるところである。もちろん、オランダとの出島を通じた接触の維持、『和蘭風説書』による海外情報の摂取は、開国の衝撃ほどのインパクトを日本の歴史に対して与えたわけではない。しかし、日本を含めた視野において、世界システムの成立とその展開を議論する上でオランダ植民都市のネットワークは極めて重要であろう。近代世界システムをめぐるこれまでの議論は基本的に欧米に軸足を置いた欧米史観に基づいている。第一、日本が触れられることはない。それに対して、アジアあるいは日本に軸足を置いた世界システム論が提起されつつある[17]が、オランダ植民都市はその鍵となるであろう。

[18] A.J.Lancker, Atlas van Bistorische Forten Obersee onder nederlandse vlag, Netherlands, 1987

[19] R. van Oers(2000). Van Oers, R., “Dutch Town Planning Overseas during VOC and WIC Rule[1600-1800]”, Walburg Pers, 2000 オランダ植民都市については、共同研究者でもあるvan Oersが包括的に全都市をリストアップし、特に計画理念をめぐって、ケープタウン、コロンボ、レシフェ(ブラジル)の三都市について考察している。

[20] Gaastra, F.S., “De Geschiedenis de VOC, Walburg Pers, 1982, 1991..内容はほぼ同じであるがカラー図番を加えた新装版が2002年に出版された。

[21] 宮崎市定は、中国古代城郭の起源をめぐって、「紙上考古学」と称して、山城式→城主郭従式→内城外郭式→城従郭主式→城壁式という発展形式を想定する(宮崎市定、「中国城郭の起源異説」、『宮崎市定全集3 古代』、岩波書店、1991)。そして、この発展過程はギリシャ、ローマの都市の場合と共通であるという。植民都市はその発展過程を具体的に示している。そうした意味でも植民都市は都市の原型に関わっていると言えるだろう。

[22] Anto’nio Bocarro(text) & Pedro Barreto de Resende(plans), ”Livro das Plantas de todas as fortalezas, cidades e povoacoens do Estado da India oriental(Book of the Plans of fortresses,cities and boroughs in the State of Eastern India)”. 『「ポルトガルと南蛮文化」展 VIA ORIENTALIS』、図録、日本放送協会、1993年。

[23] R, Meischke, H.J.Zantkuijl, W.Raue and P.T.E.E.Rosenberg, “Huizen in Nederland Amsterdam”, Waanders Uitgevers, Zwolle, Vereniging Hendrick de Keyser, Amsterdam,

[24] ヘルマン・ヤンセ、『アムステルダム物語 杭の上の街』、堀川幹夫訳、鹿島出版会、2002年。

[25] Greig, Doreen :The Reluctant Colonists. NetheRlands. 1987

[26] 1641年オランダはポルトガルからマラッカを奪うと、パタビア(ジャワ島)における経験にならって、その地の華僑を統率させるために中国系の首領のカピタンをおいた。彼らはオランダ東インド会社の任命を受け,架橋社会の狩猟として相当の自治権限を与えられたものであった。またオランダは、商人としての中国人を多く招き、マラッカにはチャイニーズ・カピタンのもとに統制された華僑社会が形成されていった16。 それはイギリスの支配が始まる1824年に終わりを告げるが、華僑社会は現地政府の手から離れても、彼らだけで自治が行える体制ができていたほどで強固なものであった。そのような華僑社会で資産を蓄えた中国人は、現地妻(マレー系)と通婚し、現地文化に同化した混成社会を形成した。彼らの子孫を「ババニョニャ」と呼ぶ。「ババ」は男性で「ニョニャ」は女性を指す。総称して単に「ババ」と呼ぶこともある。彼らは中国系の中でもエリート層で教育も高く、西洋語を話せる者も少なくない。イギリスが、ペナン、シンガポールを海峡植民地とすると、彼らはそれらの島にも渡って行った。