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2024年9月30日月曜日

防災と景観:「タウンアーキテクト」という職能、藤原禎三先生退官記念論集、200603

 防災と景観「タウンアーキテクト」という職能

滋賀県立大学環境科学部

布野修司

 

 『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』[1]を上梓して、「タウンアーキテクト」という職能の必要、その可能性を世に問うて6年になる。『序説』の最後において、「京都デザイン・リーグ」構想について書き、その構想は、「京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)」設立(2001年4月27日)に結びついた。しかし、「タウンアーキテクト」制そのものについては、確たる展望が拓けたとは必ずしも言えない。「タウンアーキテクト」制の構想は、「アーバンアーキテクト」制の構想[2]1995年)以前に遡るから、「序説」ばかりで10年以上経過したことになる。

 何故、「タウンアーキテクト」あるいは「コミュニティ・アーキテクト」と仮に名づける「職能」を考えるに到ったかについては、『序説』で詳述した通りであるが、大きなきっかけは、「景観」問題である。日本の建築行政は、「取り締まり(コントロール)行政」ばかりで、街並みはちっともよくならない、美しい街並みをつくっていくための建築行政、積極的な「誘導行政」はできないか、というのが出発点における問題意識である。まず議論したのは、法や基準、マニュアルが果たして有効かどうか、である。そして、痛感させられたのは、「景観条例」なり「景観審議会」なるものがほとんど無力であることである。条例違反が官報に氏名公表というだけではあまりに弱い。また、「景観条例」なり「景観(形成)基準」なるものがあまりにも画一的で固定的なことももどかしい。原色は駄目、曲線は駄目、高さが低ければいい、勾配屋根ならよろしい、というのは余りにも単純で短絡的である。そこで考えたのが、地区の景観形成の責任と権限をある人物なり機関に委ねる仕組みであり、それを仮に「タウンアーキテクト」制あるいは「コミュニティ・アーキテクト」制と呼んだのである。

当時の建設省で現実に検討されたのが「アーバンアーキテクト」制である。しかし、この「アーバンアーキテクト」制は、阪神淡路大震災とともに立ち消えとなってしまう。「景観」以前に、「防災」(安心、安全)が重要であり、「検査」こそが問題であるというのが建築行政の流れとなるのである。その後、第三者機関による「確認審査」の仕組みが導入された(1998)ことは承知の通りである。「検査」あるいは「許可」ではなく、「確認」である。行政手間を軽減し、きめ細かい審査のために民間の力を導入するというのが建前であったが、ある意味では、「取り締まり行政」から「確認手続き行政」への後退であった。

 その後「タウンアーキテクト」制がさしたる進展をみない中で、「景観法」の制定・施行(20056月)という画期的な動きがあった。予断はできないが、「タウンアーキテクト」と呼びうるような職能がその法的枠組みの中で位置づいていく可能性があるように思える。「景観法」が規定する「景観整備機構」、「景観協議会」、「景観協定」などには、「タウンアーキテクト」制を実現する大きな手掛かりが用意されているのである。一方、現在「構造書偽装」問題が日本中を揺るがしつつある。また、悪質な「建築基準法」違反、「条例」無視が明るみに出た。建築界は、呆然絶句して声がない。「タウンアーキテクト」が日本に根づいていく日は未だ遠いと言わざるを得ない。しかし、そうした職能がますます必要であるという確信は揺るぎない。

「景観」と「防災」、一見二つは何のつながりもなさそうに思えるが、以上のように密接に関わる。「防災」があっての「景観」である。また、「防災」も「景観」もである。「タウンアーキテクト」あるいは「コミュニティ・アーキテクト」に要求される能力、資質は少なくはないのである。以下、「タウンアーキテクト」という職能をめぐって、振り返ってみたい。

 

「タウンアーキテクト」とは

「タウンアーキテクト」とは何か、何故、「タウンアーキテクト」か、日本の「タウンアーキテクト」の原型とは何か、について最小限要約すれば以下のようになる。

①「まちづくり」は本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体が「まちづくり」の主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。地域住民の意向を的確に捉えた「まちづくり」を展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民の「まちづくり」を媒介する役割を果たすことを期待されるのが「タウンアーキテクト」である。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちの「まちづくり」に継続的に関わるのが原則である。そういう意味では、「コミュニティ・アーキテクト」である。

「建築家」は基本的に施主の代弁者であるが、同時に施主と施工者(建設業者)の間にあって、第三者として相互の利害調整を行う役割をもつ。医者、弁護士などとともにその職能の根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。また、市民社会の論理である。同様に「タウンアーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」の代弁者であるが、地域べったり(その利益のみを代弁する)ではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体の間の調整を行う役割をももつ。

 ②「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」を推進する仕組みや場の提案者であり、実践者である。「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の仕掛け人(オルガナイザー(組織者))であり、アジテーター(主唱者)であり、コーディネーター(調整者)であり、アドヴォケイター(代弁者))である。

 ③「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の全般に関わる。従って、「建築家」(建築士)である必要は必ずしもない。本来、自治体の首長こそ「タウンアーキテクト」と呼ばれるべきである。具体的に考えるのは「空間計画」(都市計画)の分野だ。とりあえず、フィジカルな「まちのかたち」に関わるのが「タウンアーキテクト」である。こうした限定にまず問題がある。「まちづくり」のハードとソフトは切り離せない。空間の運営、維持管理の仕組みこそが問題である。しかし、「まちづくり」の質は最終的には「まちのかたち」に表現される。その表現、まちの景観に責任をもつのが「タウンアーキテクト」である。もちろん、誰もが「建築家」であり、「タウンアーキテクト」でありうる。身近な環境の全てに「建築家」は関わっている。どういう住宅を建てるか(選択するか)が「建築家」の仕事であれば、誰でも「建築家」でありうる。様々な条件をまとめあげ、それを空間的に表現するトレーニングを受け、その能力に優れているのが「建築家」である。

 ④「まちづくり」の仕組みとして、「タウンアーキテクト」のような存在が必要とされる一方、「建築家」の方にも「タウンアーキテクト」たるべき理由がある。「建築家」こそ「まちづくり」に積極的に関わるべきである。第一に、建てては壊す(スクラップ・アンド・ビルド)時代は終わった。新たに建てるよりも、再活用し、維持管理することの重要度が増すのは明らかである。日本の「建築家」はその仕事の内容、役割を代えていかざるを得ないが、ふたつの方向が考えられる。ひとつは、建物の増改築、改修、維持管理を主体としていく方向である。そして、もうひとつが「まちづくり」である。どのような建築をつくればいいのか、当初から地域と関わりを持つことを求められ、建てた後もその維持管理に責任を持たねばならない。いずれにせよ、「建築家」はその存在根拠を地域との関係に求められる。

 

「タウンアーキテクト」の原型=建築主事

 誰が景観を創るのかと言えば、個々の建築行為である。無数の建築行為が積み重なって都市景観は成立している。都市景観は、個々の建築行為を支える法的、経済的、社会的仕組みの表現であり、都市住民の集団的歴史的作品である。問題は、個々の建築行為が一定のルールに基づいた街並み景観の創出に繋がっていないことである。個々の建築行為は、建築基準法や都市計画法などによって、建物の高さや、容積率、建蔽率、・・・などがゾーニング(用途地域性)に従って規制されており、建築主事の「確認」(「許可」制ではない)が要る。単純化すれば、この「確認」制度に鍵がある[3]

そもそもの発想において「タウンアーキテクト」の原型となるのは「建築主事」(建築基準法第4条に規定される、都道府県、特定の市町村および特別区の長の任命を受けた者)なのである。全国の自治体、土木事務所、特定行政庁に、約1700名の建築主事がいて、建築確認業務に従事している。全国で各市町村に2000人程度のすぐれた「タウンアーキテクト」がいて、デザイン指導すれば、相当町並みは違ってくるのではないか。

どのような景観を創り出すのかについて、何らかの基準を一律に予め設定することは不可能に近い。原色の赤は駄目だと言うけれど、お稲荷さんの鳥居の色は緑に映える。曲線は駄目と言っても、自然界は曲線に充ちている。同じ都市でも、旧市街と新たに開発された地区とでは景観は異なるし、地区毎に固有の貌があっていい。勾配屋根を義務づければ、勾配屋根でありさえあれば周辺の環境にいかに不釣り合いでも許可せざるを得ないだろう。基準、規定とはそういうものである。センスある「タウンアーキテクト」に任せてはどうか。建築主事にその能力がないのだとするなら、地域に詳しい「建築家」が手伝う形を考えればいいのではないか。

建築主事を積極的に「タウンアーキテクト」として考える場合、いくつかの形態が考えられる。欧米の「タウンアーキテクト」制がまず思い浮かぶ。最も権限をもつケースだと「建築市(町村)長」置く例がある。一般的には、何人かの建築家からなる委員会が任に当たる。建築コミッショナー・システムである。日本にもいくつか事例がある。「熊本アートポリス」「クリエイティブ・タウン・岡山(CTO)」「富山町の顔づくりプロジェクト」などにおけるコミッショナー・システムである。ただ、いずれも限られた公共建築の設計者選定の仕組みにすぎない。むしろ近いのは「都市計画審議会」「建築審議会」「景観審議会」といった審議会である。それらには、本来、「タウンアーキテクト」としての役割がある。地方分権一括法案以降、市町村の権限を認める「都市計画審議会」には大いに期待すべきかもしれない。しかし、審議会システムが単に形式的な手続き機関に堕しているのであれば、別の仕組みを考える必要がある。

 しかしいずれにしろ、一人のコミショナー、ひとつのコミッティーが自治体全体に責任を負うには限界がある。「タウンアーキテクト」はコミュニティ単位、地区単位で考える必要がある。あるいは、プロジェクト単位で「タウンアーキテクト」の派遣を考える必要がある。この場合、自治体とコミュニティの双方から依頼を受ける形が考えられる。具体的には、各種アドヴァイザー制度、「まちづくり協議会」方式、「コンサルタント派遣」制度として展開されているところである。

 

「タウンアーキテクト」の仕事

 「タウンアーキテクト」の第一の役割は、個々の建築行為に対して的確な誘導を行うことである。またそのために、担当する町や地区の景観特性を把握し、持続的に記録することである。また、景観行政に関わる情報公開を行うことである。さらに、公共建築の設計者選定などの場合には、ワークショップなど様々な公開の場を組織することである。場合によっては、個別プロジェクトについてマスター・アーキテクトとして、デザイン・コーディネートを行うことである。『序説』では、「タウンウォッチング」「百年計画」「公開ヒヤリング」・・・等々各地域で試みられたら面白いであろう手法を思いつくまま列挙している。さらに、「タウンアーキテクト」のイメージや仕事について想像たくましく書いたのであるが、もちろん、絵空事である。問題は、権限であり、任期であり、報酬である。ベースとすべきは、身近な仕事において、また具体的な地区で何ができるかであろう。

 ただ、「タウンアーキテクト」制をひとつの制度として構想してみることはできる。建築コミッショナー制を導入するのであれば、権限と報酬の設定、任期と任期中の自治体内での業務禁止は前提とされなければならない。地区アーキテクト制を実施するためには自治体の支援が不可欠である。地区アーキテクトは、個々の建築設計のアドヴァイザーを行う。住宅相談から設計者を紹介する、そうした試みは様々になされている。また、景観アドヴァイザー、あるいは景観モニターといった制度も考えられる。具体的な計画の実施となると、様々な権利関係の調整が必要となる。そうした意味では、「タウンアーキテクト」は、単にデザインする能力だけでなく、法律や収支計画にも通じていなければならない。また、住民、権利者の調整役を務めなければならない。一番近いイメージは再開発コーディネーターである。

 しかし、制度のみを議論しても始まらない。地域毎に固有の「まちづくり」を期待するのであれば一律の制度はむしろ有害かもしれない。どんな小さなプロジェクトであれ、具体的な事例に学ぶことが先行さるべきである。まずは、①身近なディテールから、というのが指針である。また、②持続、が必要である。単発のイヴェントでは弱い。そして持続のためには、③地域社会のコンセンサス、が必要である。合意形成のためには、④参加、が必要であり、⑤情報公開が不可欠である。

 

シミュレーションとしての京都CDL

「タウンアーキテクト」制のシミュレーション、社会実験として、とにかく何かやってみようということで始めたのが京都CDLである。京都CDLは、当初14大学24チームが参加して出発する[4]京都市全域(上、中、下京区など全11区)を42地区に分け[5]、各チームは大学周辺ともう一地区、あるいは中心部一地区と周辺部一地区の二地区を担当する[6]

 ①各チームが、毎年、それぞれ担当地区を歩いて記録する、そして、②年に二度、春夏に集まって、それを報告する、基本的にそれだけである。具体的には以下のようだ。A 地区カルテの作製:担当地区について年に一回調査を行い記録する。共通のフォーマットを用いる。例えば、1/2500の白地図に建物の種類、構造、階数、その他を記入し、写真撮影を行う。また、地区の問題点などを一枚にまとめる。このデータは地理情報システムGISなどの利用によって、各チームが共有する。また、市民にインターネットを通じて公開する。B 地区診断および提案:Aをもとに各チームは地区についての診断あるいは提案をまとめる。C 報告会・シンポジウムの開催:年に二度(四月・十月)集まり、議論する(四月は提案の発表、十月は調査及び分析の報告を行う予定)。D 一日大行進京都断面調査の実施[7]:年に一日全チームが集って京都の横断面を歩いて議論する。E まちづくりの実践:それぞれの関係性のなかで具体的な提案、実践活動を展開する。始めてすぐに、F 地区ビデオコンテスト:というのが加わった。若い世代には映像表現の方がわかりやすいということである。そして、活動を記録するメディアとして機関誌G 『京都げのむ』[8]が創刊された。

まあ、児戯に近いけれど、具体的な活動の手応えはある。京都であれば、十一区それぞれに「タウンアーキテクト」が張りつけば相当きめ細かい景観創出の試みが可能だというのが実感である。

 

景観法と「タウンアーキテクト」

「景観地区」「景観計画区域」の指定は、誰がどのようにして行うのか。「景観重要建造物」は誰がどのような基準で設定するのか。「景観協議会」「景観整備機構」は誰がオルガナイズするのか。「住民」や「NPO法人」による提案を、誰がどういう基準で認めるのか。「景観法」(仮)には、曖昧な点が多い。もちろん、この曖昧さは前向きに捉えた方がいい。現行制度でも、「特別用途地域性」など、やる気になれば使える制度は少なくない。それぞれの自治体で、独自の仕組みを創り上げることが競争的に問われているのが現在である。

権限と報酬と任期を明確化した上で、個人もしくは一定の集団が都市(地区)の景観形成に責任を負う「タウンアーキテクト」制は、ひとつの答えになる筈である。欧米には、様々な形態はあるが真似をする必要ない。日本独自の、各自治体独自の仕組みを創り上げればいいのである。

①都市(自治体、景観行政団体)は、まず、都市形成過程、景観資源の評価などをもとに、市域をいくつかの地区に分ける必要がある。同じ都市でも、地区によって景観特性は異なる。また、「タウンアーキテクト」がきめ細かく担当しうる地区の規模には一定の限界がある。

②全ての地区が「美しく」あるべきである。景観の問題は、「景観地区」「景観計画区域」「景観形成地区」といった地区に限定されるものではない。「景観法」などが規定する地区指定に当たって、住民やNPO法人の発意を尊重するのは当然であるが、それ以前に、自治体(景観行政団体)が、「景観計画」を明らかにし、全市域について地区区分を明確にすべきである。もちろん、住民参加による「景観計画」の策定、地区区分の設定の試みられていい。「景観整備機構」の役割がこの段階に求められることも考えられるが、権限が完全に委譲されることはないのではないか。本来は自治体(景観行政団体)の責任である。

③全ての地区について、望ましい、ありうべき景観が想定されるべきで、全ての建築行為がそうした視点から議論される必要がある。全ての地区が望ましい景観創出のために何らかの規制を受けるという前提でないと、「景観地区」とそれ以外の地区、指定以前と指定後の権利関係をめぐっての調整が困難を極めることは容易に想定できる。

④「景観創出」「景観整備」は都市(自治体)の全体計画(総合計画、都市計画マスタープラン)の中に位置づけられる必要がある。景観行政と建築行政、都市計画行政との緊密な連携が不可欠である。

⑤まず、それぞれの地区について、その将来イメージとともに景観イメージが設定される必要がある。この設定にあたっては、徹底した住民参加によるワークショップの積み重ねが不可欠である[9]。地区の景観についての一定のイメージが共有されることが全ての出発点である。

⑥それぞれの地区の景観イメージの設定以降、地区の景観創出のためのオルガナイザーであり、コーディネーターであり、プロモーターともなりうるのが「タウンアーキテクト」あるいは「コミュニティ・アーキテクト」である。地区毎に「景観協議会」を自治体(景観行政団体)が直接組織するのは機動性に欠ける。また、行政手間を考えてもきめ細かい対応は難しいだろう。「景観整備機構」が、各「タウンアーキテクト」の共同体として、機能することが考えられるが、固定的な機関となるのはおそらく問題である。

⑦問題は、こうして、「タウンアーキテクト」の権限を建築行政の中でどう位置づけ、保証するかであろう。「タウンアーキテクト」には、首長や建築行政担当者の任期に関わらない担当年限が保証されるべきであり、一方でその仕事を評価する仕組みが用意される必要がある。

 

地域防災システムと「タウンアーキテクト」

 景観形成は、一朝一夕にできるわけではない。大規模な開発や再開発を別とすれば、町は個々の建造物が徐々に建替えられることによって、緩やかに変化していく。「タウンアーキテクト」の景観形成への関わりは、息の長い、時間のかかる仕事とならざるを得ない。

 「タウンアーキテクト」の日常的な仕事となるのは、むしろ、地域環境の維持管理、修景などに関わる仕事である。また、耐震診断を含めた地域診断とそれに基づく防災計画などに関わる仕事である。「タウンアーキテクト」の原型として「建築主事」を想定するのであれば、建造物の安全について一定の役割を果たすのは当然なのである。

 そして、災害時においても、「タウンアーキテクト」はそれなりの役割を求められる。応急時の仮設住宅供給などもその大きな仕事になるであろう。災害を軸として、その仕事の拡がりを整理すれば下図のようになろう。いささか過大な職能のイメージとなるが、「タウンアーキテクト」が地域社会の信頼を得るためには、それなりの責任を負うのは当然である。

さらに、地域の風土、歴史、文化を継承し、自然と共生した美しい居住環境、まち並み景観、循環型地域社会を形成するために、地域診断(環境、防災、土地利用、景観、資源、エネルギー等)からまちづくり(コミュニティ活性化、環境改善、市街地再生、地域文化育成等)への展開をオーガナイズできる職能が「タウンアーキテクト」である。物理的環境に関わる設計計画のみならず、社会システムや人的ネットワークの構築なども含めた地域社会の総体を再生するリーダー、マネージャーが「タウンアーキテクト」である。「コンピューター・アーキテクト」という言葉が用いられように、アーキテクトの語源に遡って、理想は高く、アルケー(根源)のテクトン(技術)に関わる職能、地域の歴史、文化、社会、経済等に通じ、地域に関わり続ける意欲をもつ人材、フィールドでの発見を大事にし、現場での発想を基本とする人材、問題解決のために様々なネットワークを構築する柔軟かつ広い視野を有する職能が「タウンアーキテクト」である。

 

裸の建築家

しかし、社会的な信頼という意味においては、日本の建築家たちは大いに頼りない。「構造書偽装」問題によって、建築家への不信感は極限にまで増幅されつつあるのである。

「構造建築士」という存在の社会的地位の低さ、そのモラルの欠如が大々的にクローズアップされたが、「構造建築士」という資格はそもそもない。日本にあるのは、「一級」、「二級」、「木造」の「建築士」資格である。設計および設計管理については、「建築家」(建築士、建築士事務所)に全面的に責任がある。建築主、施工者の利潤追求の論理に対して、第三者として、社会的合理性の基盤の上にすぐれた質の空間をよりゆたかな町並みの形成を目指して設計するのが「建築家」であり、下請けの「構造建築士」のせいにして、口をつぐんでいることは許されることではない。

 「構造書偽装」問題を契機として、「構造建築士」という職能の確立、顕名による透明性の確保が主張されるのは当然のことである。しかし、それ以前に、「建築家」の能力、職能こそ厳しく問われる必要がある。「構造」を理解できなくて「建築家」たり得るのか。阪神淡路大震災に対して露わになった建築界の無責任体制については、『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』ではっきり書いたが、事態はまさに「建築家」が「裸の建築家」であることを示しつつあると思えてしかたがない。

 利潤追求を専らとする施主、施工者、それと一体化した建築士(設計事務所)の問題は論外である。確信犯であろう。まず問題は、「建築確認」という制度そのもの(許可制ではない)、そして今回クローズアップされた第三者検査機関による「確認」業務の代行システムにある。自治体の多大な事務量を減らすことを口実に、官から民へ、というけれど、実態は、官僚、「建築主事」の天下りの受け皿システムが用意されただけであり、自治体にも検査機関にも検査能力がない。空前のマンションブームの中で、その限界は予め見えており、それがはっきりしたのである。

 そもそも、耐震強度1.0というのは最低限守る基準である。それを遵守した上で豊かな空間を作り出すのが「建築家」の役割である。また、基準をクリアすればいい、というものでもない。今回、多くの国民を不安に陥れるのは、強度0.5以下のものの建物に退去命令が出されたことである。その根拠は何か。一九八一年の建築基準法改正で、それ以降は大丈夫というが、その神話が崩れたのが今回の問題であり、それ以前に建物は劣化していく、という厳然たる事実がある。自分の住んでいるマンションは大丈夫なのか、全ての国民が不安に思うのは無理はない。

「建築家」は、この不安に答えるべきである。現行のシステムにおいて「裸の建築家」に全責任を取ることはおそらくできない。だとすると、どうしても保険によって、万が一の場合に備えるしかない。これは、ユーザー(マンション購入者、建主)も同様である。絶対安全な建造物がありえないとしたら、自己責任において保険をかけるしかない。また、地震があっても決して死者を出さない仕組み、耐震診断、耐震補強も含めて、「建築家」の役割と責任はとてつもなく大きい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] 拙著、『裸の建築家ータウンアーキテクト論序説』、建築資料研究社、2000年。

[2]「ちぐはぐな町並み開発を防ぐには建築家の継続参加が有効」、『日経アーキテクチャー』巻頭インタビュー、1995410

[3] 第一にha、建築行為に関わる法・制度が遵守されないという情けない実態がある。遵法度が20%に充たない大都市がある(建築確認通知件数のうち検査済証交付件数を遵法度とすると、大阪(13.7%)、京都(16.7%)、福岡(16.8%)、東京(22.1%)・・である(1996年)。)。充たない建築基準法がザル法と呼ばれ、自治体の建築指導課は、違反建築を取り締まるのに精一杯という状況である。全国一律の法規定の問題など様々な問題はあるが、「法は守るべきもの」という一点を確認した上で、この実態は論外としよう。

[4] 京都CDLは各チームの代表(監督)および幹事(ヘッドコーチ)からなる運営委員会・事務局によって運営されている。コミッショナー広原盛明、運営委員長渡辺菊真、事務局長布野修司というのが初代の陣容である。

[5] ベースとしたのは元学区、国勢調査の統計区である。約200区を平均4統計区ずつに分けたことになる。

[6] その謳い文句を並べれば以下のようだ。○京都CDLは、京都で学ぶ学生たちを中心とするチームによって編成されるグループです。○京都CDLは、京都のまちづくりのお手伝いをするグループです。○京都CDLは、京都のまちについて様々な角度から調査し、記録します。○京都CDLは、身近な環境について診断を行い、具体的な提案を行います。○京都CDLは、その内容・結果(試合結果)を文書(ホームページ・会誌)で一般公開します。○京都CDLは、継続的に、鍛錬(調査・分析)実戦(提案・提案の競技)を行うグループです。○京都CDLは、まちの中に入り、まちと共にあり、豊かなまちのくらしをめざすグループです。

[7] 初年度は、八坂神社から松尾大社まで四条通りを歩いた。2002年は下鴨神社から鴨川を桂川の合流点まで歩いた。2003年は、平安京の北東端から南西端まで襷掛けに歩いた。

[8] 京都のまちづくりの遺伝子を発見し、維持し続けたいという思いがその名称の由来である。年に一冊4号まで発行されている。

[9] 宇治市(人口18万人)では、都市計画マスタープランの策定に際して、全市を7区に分け、ワークショップを繰り返したが、市民の潜在能力には素晴らしいものがある。













2024年9月29日日曜日

Colonial Urban Heritage and Asian Urban Traditions, UrbanーCultural Research Center,Graduate School of Literature and Human Sciences, The 21st Century COE Program, International Symposium, Osaka City University, 1st Oct., 2006:大阪市立大学大学院文学研究科,COE国際シンポジウム

 Colonial Urban Heritage and Asian Urban Traditions UrbanCultural Research CenterGraduate School of Literature and Human Sciences The 21st Century COE Program International Symposium Osaka City University 1st Oct. 2006:大阪市立大学大学院文学研究科,COE国際シンポジウム

Colonial Urban Heritage and Asian Urban Traditions

 

Prof. Dr. Shuji Funo

Chairman of Architectural Planning Committee

Chairman of Journal of Asian Architecture and Building Engineering (JAABE)

Architectural Institute of Japan (AIJ)

Graduate School of Environmental Planning The University of Shiga Prefecture

2500 Hassaka-cho , Hikone City, Shiga Prefecture 522-8533

tel= +81-(0)749-28-8200Rep0749-28-8272 Lab. fax: 8342) e-mail funo@ses.usp.ac.jp

 

Introduction

  I have been deeply involved in urban and architectural fields in Asia for more than a quarter of a century since 1978, when we started the research project on human settlements in Southeast Asia jointly with ITS (ITS Institute Teknologi Surabaya) research Group leaded by Prof. Johan Silas.

I firstly carried out the field survey on kampungs (urban villages)[1], that had decided major direction of my urban studies. The world of kampung I had encountered opened my eyes to the vast field of Asia. I am sure now that kampung is so interesting as a model of urban community to be developed to the neighborhood unit of a new town even in another regions[2]. I wrote my doctorate thesis titled "Studies on Transitional Process of Kampung and Kampung Housing System --Considerations on Alternative Strategies for Housing"(Tokyo University) in 1987[3], which is my first accomplishment and the base ever since.

  After finishing doctorate thesis, I was invited to participate in studies for Islamic city and happened to discover a unique Hindu city named Cakranegara in Lombok Island next to Bali Island, which leads me to next stage of my urban studies. To compare the Hindu city and Muslim city became one of the objectives of my research from that time. The fact that the formation of Muslim quarters are very different from that of Hindu quarters in Cakranegara leads us to enlarge the field. I wrote a paper[4] on Cakranegara in 2002.

Looking for the target city to be compared with Cakranegara, we thought of Jaipur[5], the capital of Rajasthan, India, famous as a gridiron city, which was constructed in the same early 18th century by Jai Singh II. Two cities. one of which located at the western end, and the other at the eastern end of the Hindu civilization, were thought as two typical models, so we develop our research framework to Indian Subcontinent. We surveyed cities as Ahmedabad[6], Madurai[7], Varanasi,[8] Lahore, Delhi, Katmandu[9](Nepal), Patan[10](Nepal), Thimi[11](Nepal)…..

  I recently wrote a book titled “The City as Mandala; The Spatial Idea of Hindu City and its Transformation”(Japanese) in 2006 by picking up three cities, Madurai, Jaipur and Cakranegara and am preparing with Dr. M.M Pant to publish a book titled “Stupa & Swastika; A study on planning principles of Patan, Katmandu Valley”(English) in 2007.

  Next step had come with research project on colonial city funded by Ministry of Education and Science, Japan since 1997. We recognized the great western impact on city planning in Asia through studies on urban tissues for these years. For the first two years (1997-98), we concentrated on the British colonial cities like Munbai (Bombay), Chennai (Madras), Kolkata (Calcutta)[12] in India. British have been leading modern planning method for all over the world since mid 19th century, which is familiar with us because many text books referred the modern urban planning history. I turn our eyes to Dutch colonial cities in Asia, the reason for which Asia has many cities originated from the bases(lodges, factories, forts, castles) of Portuguese and Dutch colonial cities—especially, The Netherlands had been only country for Japanese to contact through Dezima during 1641-1986.

  The Netherlands colonized Indonesian Archipelago and established Batavia (Jakarta) as a headquarter of Dutch East India Company (VOC), which closely connected Dezima, Nagasaki, Japan to the Modern World system. We conducted field surveys on Jakarta, Malacca, Galle, Colombo, Cochin[13], Nagapattinam[14]…Cape Town and stretched our legs lastly to Dutch colonial cities in West Indies as Recife (Brazil), Paramaribo (Surinam), Willemstad (Curacao). In terms of colonial cities, we had chances twice to hold international symposia at SINICA, Taiwan[15]. In terms of cities in East Asia, I am making a study on Beijing[16], Taipei[17], and Korean cities till the moment with foreign students from Asia.

 Based on my experiences in Asian field for a quarter century, I would like to raise some topics related to the subject.

 

Kampung as a World

  Kampung is so interesting as a model of urban community as I mentioned above. Kampung in Indonesian(Malaysian) language literally means ‘village’. People use the word even in urban context. Kampungan means ‘country boy’ in the city. OED (Oxford English Dictionary) says the word ‘kumpung’ is the origin of the word ‘compound’ although another theory says that derives from the Portuguese ‘campo’. Hearing that the enclosed living quarter in Batavia and Malacca is called ‘kampung’ by the natives, Englishman began to use the word ‘compound=kampung’ in India in early 19th century, thereafter also began to use the word in Africa.

Housing and urban issues are still big problems in Asian countries, especially in developing countries. I think we call the major issues to mind before discussing urban heritage. The existence of urban settlements like kampungs itself presents urban heritage, which is not the impedance to be swept away. Most of them are in poor condition physically, and economically but are not necessarily poor socially. It should be emphasized that urban settlement in the developing countries is not a slum, which shows different appearances from slums in Western cities. Destruction of social structure, bad and criminal acts etc. are not rarely seen in developing countries.

The characteristics of kampungs to be noticed are as follows. We can learn a lot from kampungs, which has own system. When we plan and design the city or urban settlement, we should respect the vernacular values urban settlement has maintained.

  (1) Variety of Kampungs

  Each kampung has its own characteristics which varies according to location (distance from the city center), constitution of income groups, migratory backgrounds of inhabitants or mobility of population, its history, its spatial pattern and so on. It's very important that distribution of various urban settlements give alternatives when people choose the place to live. Even the poorest income group can find some living quarters. Some scholar insists that variety of kampung is only a solution to the housing problems at the moment in developing regions.

 (2) Kampung as a Whole World

  Kampung is not a mere residential settlements. New town in Japan, for example, is often called Bed (Dormitory) Town because it has no other functions except sleeping (staying) especially for business man. But urban settlement in general has both functions of production and consumption. The cycle from production to consumption can be closed within the same kampung. Living place is very near to workplace. Almost all the daily activities can be carried out in the neighborhood unit. It must be pointed out that kampung itself are parasitic to the city center, which has various facilities for job opportunity. They cannot survive without earning money from outside the kampung. But urban settlement largely forms autonomous and self-contained community.

(3) Heterogeneity of Kampung

  Kampung forms plural society and is not a homogeneous community. Mix habitation, which means the situation various groups live together in a same area, is a characteristic of kampung. Rich people often live in next door to poor people. It should be noticed that rich people support the life of the poor even in the poorest kampungs.

 (4) Kampung as a Highly Serviced Society---Hawkers (peddlers)' culture

  Everybody can get almost all the kinds of foods and goods for daily life because street vendor and peddlers are always rambling to serve the inhabitants. It is because job opportunity is very scarce in the kampung. But for the inhabitants, kampung is a highly serviced society.

 (5) Mutual Aid System

  Kampung communities is usually well organized. The inhabitants help themselves through the mutual aid activities, which is indispensable in the kampung life. The spirit of mutual aid characterizes kampung community.

(6) Preservation of Traditional Culture

  People tend to preserve the traditional way of life in the rural village from where he comes. Kampung should be considered to be a settlement that has own vernacular values.

 (7) Housing as a Process

   Housing is a process. Kampungs are generated by accumulating infinite housing process of various inhabitants. In urban (Regional) planning or housing project, we should accept the gradual process of addition of the individual house.

 (8) Complicated Ownership Relations

  It is one of the major characteristics that ownership relations are complicated. It seems behind from the modern world, but complicated land ownership relations sometimes resist the speculation.

T.G. McGee use the term ‘Urban Involution’ following C. Geertz’s ‘Agricultural Involution’, which is very suggestive in discussing the future of urban community. Every city has spatial limits in size and cannot expand infinitely because of various reasons, among which ecological one is crucial. How to utilize the limited urban resources is common subject of every city. Involution, that is, evolution inward instead of extension and expansion outward seems important. Enriching and beautifying the city inside is needed besides developing the outer city. The lives in kampungs are maintained by principle of shared poverty by C. Geertz. Kampung people can survive by sharing the limited resources, proceeded our work-sharing system.

  Kampung Improvement program(KIP), which I have to neglect here, is famous as an urban strategy.

 

Historical Urban Resources as Mutual Heritage

Most of the big cities in Asia are becoming similar and similar because buildings are built by using the same materials and same construction techniques based on Industrialization. Modernization or Westernization influenced all the aspects of our daily lives and modified the structure of our cities. Looking at old urban cores in Asian cities, we recognize how we accept the European civilization and culture. However, buildings that formed the core of old town in Asian countries are being replaced by high-rise buildings. Even modern architecture built 50 years ago is hanging by a thread. How to preserve, conserve and revitalize the old core of the cities is becoming common subject in Asian cities.

We are very familiar with world history after Cristobal Colon ‘discovered’ ‘New World’ in 1492. European countries headed by Portuguese and Spain had started up activities overseas competitively. The ‘New World’ was divided into two by Tordesillas treatment in 1494, which decided the western part belonged to Spain and the eastern part belonged to Portuguese. Portuguese utilized eth existing native networks of cities in Asia though Spain planted many colonial cities newly based on laws of Indies in Latin America. After Portuguese established cities like, The Dutch attacked and deprived almost all the Portuguese outposts except Goa, Macao and so on. According to I. Wallerstein’s ‘Theory of World System’, it was the Dutch who had firstly grasped hegemony of Modern World System in 16th –17th century which is called ‘Century of Netherlands’, in advance of England. The Dutch constructed Batavia(Jakarta) in the same period when Edo(Tokyo) had been constructed and being developed. However the Dutch handed her Asian colonial ouutposts and cities over England in the end of 18th century, except the cities in Indonesia.

The age of Imperialism had come with England and France, which modified the port cities built by Portugues and the Netherlands and planted cities inland, especially in India.

The Metropolises like Kolkata, Chennnai, Munbai, New Delhi and cities in straits colony were built by the British Empire.

As a results of the long history of European expansion in Asia as mentioned briefly above, the great amount of colonial urban heritages are left in Asia.

In case of many cities whose origins are traced back to the colonial period, the problem is a little bit complicated because reconstruction or preservation of colonial monuments built by European recalls the memory of domination and exploitation. It is natural for Indonesian people to oppose the proposal of reconstruction of Batavia castle by the Netherlands.

  But we have a case in Sri Lanka who launches the concept of mutual heritage and dual parentage. European culture has already penetrated into most of the regions in South and Southeast Asia sometimes deeply or partially. Sri Lanka is willingly to propose, for example, Galle Fort built by Dutch is registered as a world heritage site.

  However we have another serious case in East Asia. Old Korean National Museum (the former Japanese Colonial Office (Chosen Sotokuhu) building) was destructed in 1995, for the 50th anniversary of liberation, which I believe is political correctness. On the other hand, the former Japanese Colonial Office in Taipei (Taiwan Sotokuhu) is still being used as home of presidents. It depends the case, which way people chose.

  Anyway, the periods of scrap and build have gone. How to reuse and convert the architectural stocks are important issues for the revitalization of the old urban core in Asian cities. We have many good examples in Korea.

 

Asian Urban Traditions

Western ideas, methods and techniques related architecture, building construction, and urban planning have been influential to Japan since Meiji Restoration until now.

The dichotomy of the west and the east, or Europe vs. Asia continues to dominate our brain and frame of references.

It is our task to discover indigenous principles of architectural techniques and planning methods and to clarify the relationship between regions. I wrote two text books, one is “A History of Asian Cities and Architecture”, which is now on the process of translation both in China and Korea and the other is “The Houses across the World”. I think a plenty of works to stimulate our curiosity in Asian fields are left.

How to define geographical range of Asia and how to differentiate the periods in history is the first issue to discuss. We indeed need a global view of architectural history.

I suppose the world of vernacular architecture as a base in each region. From the north to the south and from the east and west, Eurasia is consisted of various districts from the ecological view point. And Asia has 3 regional cores of urban civilizations, Egypt, Mesopotamia, Indus and Huang He, the influence of which extended all over Asia. Islam, Hinduism and Buddhism that rose and spread in Asia created the architectural tradition of building types needed. Chinese tradition of architecture and city planning is also very influential especially in East and Southeast Asia. If we see the architectural tradition in Southeast Asia, several layers of influences, which are Indianization, Sinicization, Islamication, Westernization, and Modernization, are differentiated in even one city.

What we should clarify is not one urban system but various streams of architectural traditions in Asia.

If we look at the tradition of cities in Asia, several stories are needed to be discussed. Asia is roughly divided into two areas in terms of interrelations with urban form and cosmologies. Asia has two cores, which established the idea of city, India and China. Both had strong influences to their peripheral regions. Hindu idea of City, which had been written in “Arthasastra” or “Vastusastra”s like “Manasara” and “Mayamata”, was transmitted to Southeast Asian regions like Angkor, Myanmar, Thailand, Jawa, and Cakranegara. Ancient Chinese Idea of capital city, which had been described in “周礼考工記 and implemented later in the form of Beijing, are transmitted to Korea, Japan, and Vietnam. However, in western part of Eurasia where is now mostly Islam regions, we cannot find interrelations between the form of the city and cosmology in the regions. We have to clarify the various urban traditions in Asia.

Urban tissues in Asian cities at present are also investigated carefully to propose the future of the city.

 

Urban System based on the Ecological Balance in the Region

 We have a chance to build so called Surabaya Eco house, which aims at developing the model of collective housing in South East Asia (Humid Tropical Regions). This experimental project firstly launch the basic plan based on our previous studies on kampungs. Our proposal was luckily accepted as a project by IDI (International Foundation Development of Infrastructure), and the model house was built at Surabaya (ITS campus, Indonesia) in June 1998. We have done to monitor the environmental conditions of Eco-cycle House. We are thinking to try the experiment based on the analysis and to push out our model to be socialized in the near future.

The basic techniques and methods are as follows

A. Skeleton-Infill Structural Method

  We have designed a building’s skeleton of long-durable concrete structure, and partitions and exterior walls (Infill) of flexible structure to accommodate dwellers needs, allowing them to participate (Do-it-Yourself).

B.     Planning Adequate to Local Life Style

  Local life style has been given priority by enlarging sections for common use in collective houses, with broader free and common space arrangements. Private sections have been made more independent space.

C.    Passive Cooling Technology

Double Roofing

To effectively break sunlight heat, the roof has been designed as double-layered-roof with heat-insulating and air layers. The heat-insulating material has been developed of local products, coconut fiber. The air layer is placed the outer-side of heat-insulator intending quick spontaneous discharge of sunlight heat.

Windows and Outer Walls for Insulating Sunlight Heat

A bigger roof and deeper eaves have been built to cut the sunlight, and a wooden-side walls system not to absorb sunlight heat.

Commonly Shared Open Space Arrangements, Ventilation and Natural Lighting

The commonly shared free and open air space has been utilized to secure horizontal and vertical ventilation channels. Windows have been installed on the top roof to facilitate ventilation and heat discharge, and to get natural lighting. And a 3-story high void space has been built at the center of the building.

Ventilation Channels in Private Sections

To facilitate cross ventilation in private sections, an arrangement of openings and operating system have been designed. Two openings have been installed on the outer wall, and a vent window onto commonly shared open space. The operating system has been designed to allow ventilation not only during daytime but also at night.

Cold Storage by Night Ventilation

Concrete floor slab with big thermal capacity is utilized as a cooling system. Cool air is led into rooms by the night ventilation to store the coolness in the concrete floor. This provides a coolant for the next daytime.

Radiant Cooling System by Circulating Water

  A polypropylene pipe is buried in the concrete slab floor to circulate well water for radiant cooling effect. The well water is kept in underground tank beneath the ground floor and is circulated by a solar-photovoltaic driven pump. The circulated water is reused for flushing toilets or sprinkling.

  After completion of the building, the thermal conditions have been monitored to verify the passive cooling effect. The effects of ventilating layers and heat-insulation materials are quite remarkable. The coconut fiber’s heat resistance can be estimated, and it has been proved to have good heat properties as insulation materials. The concrete floor slab was cooled down by massive ventilation at night when temperature goes down, to determine the effects of cold storage. The daytime temperatures are about 2 degrees lower than the case without any night ventilation. The floor slab surface has a promising cooling radiation. Circulating-water radiant cooling effects fluctuate according to the water temperatures. The lower the water temperature the better the effect, but even at 28 degrees is sufficient the radiant cooling effect.

 My experience above is so limited and has many problems to be discussed, and how to enlarge this kind of  Eco-cycled System to urban scale is important. Urban systems based on ecological balance in the regions are needed all over the world..

 



[1] Shuji Funo: Dominant Issues of Three Typical Kampungs and Evaluation of KIP, Peran Perbaikan Kampung dalam Pembangunan Kota, KOTAMADJA SURABAYA ITS, 1985

[2] Shuji Funo, Naohiko Yamamoto, Johan Silas: Typology of Kampung Houses and their Transformation Process A Study on Urban Tissues of Indonesian Cities, Journal of Asian Architecture and Building Engineering, Vol.1 No.2, pp193-200, Nov. 2002

[3] AIJ Best Paper Award in 1991

[4] Shuji Funo: The Spatial Formation in Cakranegara, Lombok, in Peter J.M. Nas (ed.):Indonesian town revisited, Muenster/Berlin, LitVerlag, 2002

[5] Shuji Funo, Lanshiang Huan, Shu Yamane, Naohiko Yamamoto, Mohan Pant: Street Pattern Block System of Jaipur City, Rajastan, India, 3rd International Symposium on Architectural Interchange in Asia 'Challenges and Roles of Asian Architecture for the New Millennium, Cheju National University, Cheju Island, Korea, 23-25 Feb. 2000,'

Shuji Funo, Lanshiang Huan, Shu Yamane, Naohiko Yamamoto, Mohan Pant: Building Types and Block Pattern of Jaipur City, Rajastan, India, 3rd International Symposium on Architectural Interchange in Asia 'Challenges and Roles of Asian Architecture for the New Millennium, Cheju National University, Cheju Island, Korea, 23-25 Feb. 2000,'

Shuji Funo, Naohiko Yamamoto, Mohan Pant: Space Formation of Jaipur City, Rajastan, India-An Analysis on City Maps (1925-28) Made by Survey of India, Journal of Asian Architecture and Building Engineering, Vol.1 No.1 March 2002

[6] Shuji Funo, Shu Yamane, Norihisa Numata, Eiji Negami: Space Formation of the Street Blocks within the Walled City of Ahmedabad (Gujarat, India), 3rd International Symposium on Architectural Interchange in Asia 'Challenges and Roles of Asian Architecture for the New Millennium, Cheju National University, Cheju Island, Korea, 23-25 Feb. 2000,'

Shuji Funo, Shu Yamane, Norihisa Numata, Eiji Negami: Group Form of Urban Houses of Manek Chowk District (Ahmedabad, Gujarat, India), 3rd International Symposium on Architectural Interchange in Asia 'Challenges and Roles of Asian Architecture for the New Millennium, Cheju National University, Cheju Island, Korea, 23-25 Feb. 2000,'

[7] Ayako Otsuji, Kiwamu Yanagisawa, Shuji Funo: Spatial Formation of Madurai, India:-Compared with Rajdhani Plan, Proceedings of the 5th International Symposium on Architectural Interchange in Asia, AIJ, 25 May, “Global Environment and Diversity of Asian Architecture”, June 1-4, 2004, Matsue, Japan.

[8] Kiwamu Yanagisawa, Shuji Funo: Spatial Formation of Varanasi, India- An Analysis of the Urban Structure---Pilgrimage Roads, Mohalla as Community, Composition of Block and Houses, Proceedings 4th International Symposium on Architectural Interchange in Asia, “Resource Architecture and Modern Technology”, September 17-19, 2002, Chongqing, China.

[9] Mohan Pant and Shuji Funo: The Grid and Modular Measures in the Town Planning of Mohenjo daro and Katmandu Valley A Study on Modular Measures in Block and Plot Divisions in the Planning of Mohenjo daro and Sirkap (Pakistan), and Thimi (Katmandu Valley), Journal of Asian Architecture and Building Engineering, Vol.4 No.1, pp5159, May. 2005

[10] Shuji Funo, Yasushi Takeuchi, Mohan Pant: Considerations on the Distribution of Small Ritual Facilities on the Public Space in Patan (Katmandu Valley, Nepal), 3rd International Symposium on Architectural Interchange in Asia 'Challenges and Roles of Asian Architecture for the New Millennium, Cheju National University, Cheju Island, Korea, 23-25 Feb. 2000,'

[11] Mohan Pant, Shuji Funo: Ancestral Shrine and the Structure of Katmandu Valley Towns-the Case of Thimi, 3rd International Symposium on Architectural Interchange in Asia 'Challenges and Roles of Asian Architecture for the New Millennium, Cheju National University, Cheju Island, Korea, 23-25 Feb. 2000,'

Mohan Pant, Shuji Funo: Dwelling Types of the Town of Thimi, Katmandu Valley—An Analysis of Community Dwelling Clusters, Proceedings 4th International Symposium on Architectural Interchange in Asia, “Resource Architecture and Modern Technology”, September 17-19, 2002, Chongqing, China.

Mohan Pant, Shuji Funo: A Morphological Analysis of Neighborhood Structure - Toles and the Ritual Artifacts of the Katmandu Valley Towns – the Case of Thimi, ‘Special Issue The Wisdom of Asian Art and Architecture’, “ MANUSIA” Journal of Humanities, No.3 2002

Mohan Pant, Shuji Funo: A Study on the Pattern of Plot Division of Courtyard Residential Blocks of Patan, Katmandu Valley, Journal of Asian Architecture and Building Engineering, Vol.3 No.1, pp197-1205, May. 2004

[12] ] Shu Yamane, Shuji Funo, Takashi Ikejiri: A Study on the Formation and the Transformation of British Colonial Cities in India-Town Planning and its Transformation after Independence in New Delhi, Proceedings 4th International Symposium on Architectural Interchange in Asia, “Resource Architecture and Modern Technology”, September 17-19, 2002, Chongqing, China.

Takashi Ikejiri, Masao Ando, Shuji Funo: An Overview of Spatial Formation and Transformation of the “Black Towns” in India, Proceedings of the 5th International Symposium on Architectural Interchange in Asia, AIJ, 25 May, “Global Environment and Diversity of Asian Architecture”, June 1-4, 2004, Matsue, Japan.

[13] Kyouta Yamada, Shuji Funo: Considerations on Block Formation and Residential
Typology in Fort Cochin (Kerala, India), Proceedings of the 5th International Symposium on Architectural Interchange in Asia, AIJ, 25 May, “Global Environment and Diversity of Asian Architecture”, June 1-4, 2004, Matsue, Japan.

[14] KyotaYamada, Shuji Funo: A Study on the Spatial Formation of Cochin, India-Case Study of Dutch Colonial City in India, Proceedings 4th International Symposium on Architectural Interchange in Asia, “Resource Architecture and Modern Technology”, September 17-19, 2002, Chongqing, China.

[15] 布野修司、近代世界システムと植民都市の形成---Modern World System and the Formation of Colonial City, 国際学術検討会「被殖民都市與建築」---International Symposium: Urban and Architectural Histories under Colonial Rule in Asia, Taiwan, SINICA 6-7, Sep. 2000, 台湾中央研究院,200096-7

布野修司: 植民都市の文化変容―土着と外来―都市住居の形成 殖民都市的文化轉化;本土與外來—以城市居住形式為中心論述—, 「第二回被殖民都市與建築—本土文化與殖民文化—」國際學術研討會、台湾中央研究院台湾史研究所,1124,民国932004)年

[16] Yi Deng, Shuji Funo, Tsutomu Shigemura: A Study on the Block Formation and its Subdivision into the Housing Lots in the Inner City of Beijing An Analysis of Qianlong Jingcheng Quantu, Map of the Capital City of Qianlong Period (1750), Journal of Asian Architecture and Building Engineering, Vol.1 No.2, pp209-217, Nov. 2002

[17] Ming-chung Chuch, Shuji Funo, Sadahiko Tanaka: Community Organization of the Village Settlement and Service Area of Religious Centres: Si-Miao, in Konghinglie (Singdyam City, Taiwan), Journal of Asian Architecture and Building Engineering, Vol.1 No.3, pp191-198, May. 2003