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2021年10月16日土曜日

ロンボク島の都市・集落・住居の構成原理とコスモロジー Ⅰ.ロンボク島の概要

 ロンボク島の都市・集落・住居の構成原理とコスモロジー(主査 布野修司 応地利明,脇田祥尚,牧紀男,佐藤浩司他, 全体総括,分担執筆),住総研研究年報191992

 


Ⅰ.ロンボク島の概要

 

 1.自然と生態*[8]

 ロンボク島は、南緯8度に位置し、東にはバリ島が西にはスンバワ島が隣接している。インドネシア、西ヌサトゥンガラ Nusa Tenggara 州に属し、州都マタラム Mataram がある。東西、南北ともに約80キロメートルの幅をもつ (5435km)。インドネシア語でロンボクというと「とうがらし」という意味であるが、もともとは、島の東部のある地域の名であった。原住民であるササック Sasak 族は、スラパラン Selaparang と呼んでいたという。


 地形はバリ島によく似ている。中央にインドネシア第二の活火山、リンジャニ山 Gunung Rinjani 3726m 1901年に噴火した記録がある)が聳え、大きく三つの地域に分けられる。すなわち、荒れたサバンナのような風景の見られる、リンジャニ山を中心とする北部山間部、豊かな水田地帯の広がる中央部、それに乾いた丘陵地帯の南部である。

 北部山間部は火山帯であり、リンジャニ山とバル山 Gunung Baru2376m)に囲われたスガラ・アナック湖 Segara Anak2008m)を中心として、東はナンギ山 Gunung Nangi2330m)、西はプニカン山 Gunung Punikan1490m)をそれぞれピークとした山並みに続き、ロンボク島を南北に切断している。スガラ・アナック湖は硫黄分が多く、湖より北海岸へ流れるロコック・プテック Lokoq Puteq 川は乳濁色となっている。ロコック・プテックとは文字どおり白い川という意味である。

 南部丘陵部は、西部半島から300400mの高さに立ち上がり、北東へ向かって伸び、東部半島へ連なる。マレジェ山 Gunung Mareje716m)をピークとする。

 人口のほとんどが居住する中央平野部は、およそ東西56km、南北25kmの広さを持つ。大きく二つの地域に分かれ、北東部の水に恵まれ肥沃な地域、西ロンボクとさほど水に恵まれず、そう豊かではない南東部の地域、東ロンボクとからなる。中央部は鼠や昆虫の害あるいは水害や干ばつの害で飢饉が度々襲っている。1966年には50000人が飢餓のために死亡している。インドネシア政府が、今日も、他島への移住を推奨しているのはそうした自然条件のためである。

 二つの地域は19世紀までは深い森 Juring によって隔てられており、それぞれダウ・ジュリン Dawuh Juring 、ダンギン・ジュリン Dangin Jurin と呼ばれる。西ロンボクにはバリ人が住み、東ロンボクにはササック族が住んできた。

 気候は、1年は乾季と雨季に分かれ、4月から9月が乾季に、10月から3月が雨季に当たる。乾季と雨季の差は著しく、乾期には北部山間部はサバンナのような景観となる。バリ島より若干乾燥している。雨期は風が強い。山間部盆地の朝夕の気温の変化は激しい。

 知られるように、バリ島とロンボク島の間にはウォーレス線が走る。A.R.ウォーレス*[9]は、鳥類、哺乳類の分布をもとに地球上を六つの地区に分割したが、その東洋区とオーストラリア区の境界が二つの島の間にある。

 その線の西と東では、植物も含めて生物相に大きな断絶がある。のみならず、人間活動の形態においても大きな境界がある。大雑把にいって、ウォーレス線の西は、稲と水牛の世界であり、東は芋と豚の世界である。

 現在、稲作が盛んだが、もともとは根菜類をベースとした島といっていい。バナナ、ココナツが島全体で採れる他、コーヒー、タバコ、野菜、米などの穀物を産する。リンジャニ山の麓の盆地は、にんにくが名物である。

 樹木はチーク、マホガニーを産する。ビンタングル Bintangur 、クサンビ Kesanbi 、ブングル Bungur 、フィグ Fig といった地域産材は建材や家具に用いられる。

 自然環境に関する以上の特性から、ロンボク島について以下の生態区分を考えることができる*[10]

 

 A 北部山間部

  A-1 山岳部 原生林で覆われ、人々は居住しない

  Aー2  山間部 乾季雨季の差が著しい。人口密度は粗である。ほとんどが火山灰地。焼き畑と水稲耕作の両方を行う。

 B 中央平野部  人口の大半が居住。集約的な潅漑農業を行う。西部の方が水に恵まれ、土地も肥沃である。

  B-1  西部

  B-2  東部

 C 南部丘陵部  河川がなく、水が乏しい。潅漑農業を行う。

 

2.歴史 

 考古学的発掘に依れば、紀元前6世紀にはロンボク南部に人類が居住していたとされる*[11]。ベトナム南部及びバリ、スンバなどと同種の人種であるという。また、ロンボク島の主要な民族であるササック族は、北西インドあるいはビルマ(ミャンマー)から移動してきたとされる。

 ロンボク島の歴史においては3つの大きな外からの影響があったとされる。それは、15世紀から16世紀にかけてのジャワ文化の強い影響、17世紀のバリとマッカサルからの政治的影響、18世紀初頭からのバリの政治的支配の強化である。しかし、いずれにせよ、17世紀以前の歴史はよくわかっていない。ここでは、バリのロンボク支配を中心に歴史を見てみたい。

 

 ジャワ化

 ジャワの影響はまず文化や宗教の面に見られる。ジャワがロンボクを直接政治的な支配下に置いたという決定的な証拠はないのであるが、ロンボク島のチャクラヌガラの王宮で発見された、14世紀のジャワのマジャパイト王国の年代記『ナガラクルタガマ Nagarakertagama*[12]の中に、マジャパイト王国にロンボク島は属しているという記述が見られる。また、ゴリス Dr.Goris は、スンバルン Sembalun 盆地に居住している人々は自分達はジャワ・ヒンドゥーの子孫であり、マジャパイトの王の親戚あるいは兄弟がスンバルンの村の近くに埋葬されていると信じていることを指摘している*[13]。その真偽は別として、スンバルン盆地には、音楽や舞踊、言語、神話上の人物や聖なる物の名にジャワ・ヒンドゥーの強い影響を見ることができ、なんらかのつながりを想定することが可能である。

 9世紀から11世紀にかけて、ササック族の王国が存在した。ロンボク年代誌によれば、ロンボク最古の王国は、クチャマタン・サンベリアのラエ村にあったという。その後、クチャマタン・アイクメルのパマタンに王国が生まれる。スンバルン盆地であろうと考えられている。そうした前史があって、ジャワの影響が及んでくる。マジャパイト王国の王子ラデン・マスパイトがバトゥ・パランという国を建てたという。この国が、今日、スラパランと考えられている。また、13世紀には、プリギ国という名が知られる。ジャワからの移住であり、ロンボク島はプリギ島と呼ばれた。また、ブロンガスのクダロ国が知られる。『ナガラクルタガマ』は、いくつかの小国の名を記している。マジャパイト王国は1343年にバリに侵攻、その勢力がロンボクに及ぶのはその翌年である。スラパランおよびクダロはマジャパイトに隷属することになる。マジャパイト王国崩壊の後、小さな国が林立する。その中で著名なのはラブハン・ロンボクのロンボク王国である。

 

 イスラーム化

 もう一つの大きなジャワからの影響はイスラーム化の波である。15世紀前半、1506年から1545年の間にもたらされたという。

 ロンボク年代記 Babad Lombok は、ギリのススフナン・ラトゥ Susuhunan Ratu が布教を命じ、ロンボクには息子のパンゲラン・プラペン Pangeran Prapen を遣わしたと言う。プラペンは、武力でイスラームへの改宗を行った後スンバワそしてビマへ向かう。その間に大半の住民は土着の宗教に再び帰依したという。プラペンが戻り、イスラーム化に成功するのであるが、その際、一部の人々は山に逃げ込んだ。また、一部は服従したけれど改宗はしなかったという。この伝説は次のような事実に符合している。

 20世紀の社会学者による多くの研究は、例えば、バン・エルデ Van Eerde やG.H.ブスケ G.H. Bousquet は、ササック族の中には宗教的に三つのグループがあるとする*[14]。いわゆる、ブダ Bodhas とワクトゥ・テル Waktu-telu とワクトゥ・リマ Waktu-lima の三つである。ブダはリンジャニ山のある北部山岳地帯、また、南部山岳地帯の23の村に20世紀初頭までは見られたという。ブダは言語・文化・民族的にはササック族であるが土着の宗教を信奉し続けた、イスラーム化を逃れて山岳地帯に逃げ込んだ人々だとされる。同様に、ロンボク島の年代記によると、服従したが改宗させられなかった人々がワクトゥ・テルであり、服従し改宗させられた人々がワクトゥ・リマである。テルは3、リマは5を意味する。ワクトゥ・リマは、1日に5回礼拝する敬虔なムスリムだからであるという。ワクトゥ・テルは、アニミズムとヒンドゥー教とイスラーム教の3つが混淆するからという説がある。

 

 バリ・カランガセム

 そして、17世紀には、バリ人が侵攻してくることになる。

 17世紀初頭、カランガセムのバリ人がいくつかの植民地をつくり西ロンボクに政治的影響を及ぼしていた。同時期、スンバワからのマッカサル人がアラス Alas 海峡を渡って東ロンボクを支配していた。西ロンボクにササック人の社会はあったが、ササックの貴族や王宮は存在しなかった。一方、東ロンボクには、ササック人のスラパランの王宮と貴族が存在したとされる。

 17世紀の大部分にわたって、ロンボク島はバリのカランガセム王国とスンバワを支配していたマッカサルの争いの場となる。バリとマッカサルとの間の最初の大きな戦いが勃発したのは1677年のことであった。バリ人は東西を隔てている森を越えて東ロンボクに侵入し、マッカサルと戦っているササックへ援軍を送る。1678年バリ軍がスラパランの王宮を破壊すると、マッカサルは総崩れになったという。しかし、この勝利が東ロンボクに対する完全な支配を意味するわけではない。この地域に対する完全な支配を行うのに、バリ人は150年かかる。1678年から1849年の間に、バリ人はだんだんと政治的支配を強めていくのである。

 その主な敵対者は地方の村落群への権力支配を強めつつあったササックの貴族国家となる。一般にササック王国の自律性はバリ人の統一の度合いによって揺れ動くことになる。バリとササックとの長期にわたる争いは、4つの時代に分けられる。

 第1期は、1678年から1740年で、バリ人が東進を続けた時期である。スンバワにまで勢力を伸ばしたが失敗する。しかし、ロンボクを支配することには成功した。ロンボク年代記はササックの貴族の間の不和を描いている。プジャンギ Pejanggi のダトゥ Datu は、既にアンペナン Ampenan にその基盤を確立していたカランガセムの王の援助を頼んだりする。バリ人は、何人かのササック人の助けを得て、全地域を征服したが、同盟していたササック人の支配する地域にも結局は政治的支配を及ぼした。そしてプラヤ Praya やバトゥクリヤン Batukliyang の独立も終わってしまった。1740年のことである。

 第2期は、グスティ・ワヤン・テガ Gusti Wayan Tegah がロンボク支配した1740年から1775年である。バリ人は支配を強化したので、ササックが独立する機会は殆どなかった。この時代、バリに対する表だった反乱はない。第1期から第2期(1678年~1775年)の時期は、ロンボク島に対するバリ人支配の基盤が整備された時期である。この期間には、多くのヒンドゥー教寺院が建設され、チャクラヌガラのプラ・メル Pura Meru が建設されたのは1720年、またプラ・マユラ Pura Mayura が建設されたのは1744年である。チャクラヌガラの都市基盤は18世紀初頭から中頃にかけて整備されたと考えられる。

 第3期は、1775年から1838年にかけての分裂の時代である。グスティ・ワヤン・テガが1775年に没した後、2つの対立するバリ人の間に争いが勃発した。1800年頃、さらに王宮内での争論が王国の分裂を再び引き起こした。19世紀初めには4つの対立する公国が西ロンボクに存在することになった。主要な王国はチャクラヌガラ(いわゆるカランガセムーロンボク)、マタラム Mataram 、パガサンガン Pagasangan 、パグダン Pagutan である。この期間、バリの東ロンボクに対する支配力は弱まり、ササック貴族は彼らの地域での独立を果たした。

 第4期は1838年から1849年の間であり、バリ人は再統一を果たした。1838年、敵対する公国の間の対立が最高点に達した。その年の1月、マタラム王国の王、グスティ・クトゥ・カランガセム Gusti k'tut Karangasem が、カランガセム軍・イギリス商人の王・ブギス人のイスラム教徒の助けを得て、チャクラヌガラの王、ラトゥ・ヌガラ・パンジ Ratu Ngurah Panji に対して戦争を始めたのである。

 チャクラヌガラ王は、パガサンガン、パグダン、オランダの商人ランゲ Lange、そして多くのササックの貴族の援助を得た。戦争は海陸両方で約6カ月続く。オランダ商人ランゲの、バリからロンボク海峡を渡ってくる軍隊を止めようとする試みが失敗したために、マタラムは徐々に優位となる。18386月戦いは決した。マタラム軍は、チャクラヌガラの王宮を征服し、ラトゥ・ヌグラ・パンジと300人の家来が最後の自殺行為的(ププタン puputan)で没した。マタラム王は、彼の長男であるラトゥ・アグンⅡ・クトゥッ・カランガセム Ratu Agung 2 K'tut Karangasem に位を譲った。バリの大君主 Susuhunan であるクルンクンのデワ・アグン Dewa Agung が指名したイデ・ラトゥ Ide Ratu を空位であるチャクラヌガラ王に据えた。1839年、ラトゥ・アグンは、戦争終結以来、西ロンボクに対する事実上の権力を持っていた。そして、イデ・ラトゥの王位を奪い、その結果、クルンクンのデワ・アグンと敵対した。カランガセム王国のマタラム分王国の下、ロンボクのバリ人が統合されて間もなく、ラトゥ・アグンは、東ロンボクへの進行を行う。そして1849年ついに、王はカランガセムとロンボクの統合を果たした。一方で、オランダ東インド会社との間の紛争を、他方ではクルンクンとブレレン Buleleng ・カランガセムとの間の紛争をうまく利用して、軍隊をバリへ送り、カランガセムのライバルにあたる分家を転覆させ、彼の指名する人物をカランガセムの王位につけたのである。

 18世紀に存在したカランガセム・ロンボク王国は完全に再構築された。グスティ・ワヤン・テガがカランガセム王の領臣で、その上からラトゥ・アグンが支配するという形である。

 

 オランダ支配

 17世紀から18世紀を通じて、ヨーロッパ人はロンボクを時に訪れるのであるが、モルッカ諸島のように香料や白檀を産しないためにオランダ東インド会社もそう興味を示さない。オランダ東インド政府が最初に公式の接触を行ったのは1843年のことである。英国の勢力拡大を恐れてラトゥ・アグンⅡ・クトゥッに条約の締結を求めるのである。

 19世紀を通じて、特に1850年以降、産業化の進行に伴ってオランダは植民地政策を変化させる。強制栽培制度からプランテーション経営へ、鉱物資源の開発などが主要な関心となる。また、ジャワから外島がターゲットとなる。ロンボク島も鉱物資源に恵まれているのではないかということで関心を集めだすのである。

 1880年代後半、オランダ植民地政府はロンボク支配を明確に意図し出す。そしてササックの反乱に乗じて武力支配を開始することになる。

 ササック人の反乱はバリ人の統治に対する不満も原因の一つであったが、ロンボク・カランガセムの王とクルンクン王の間の争いが最大の原因である。ロンボク王はササック人に対して軍隊をバリに送ることを命令したが、1891年、それに反抗してロンボク島東部のプラヤのササック人の間に反乱がおこった。それに対してバリ人は軍隊を送るが、失敗に終わり、1891922日、東ロンボクに対するバリの支配は終結する。その結果、バリは東部ロンボクのササック人に対する防衛ラインを設定せざるをえなくなった。第1の防衛ラインはババッド川、第二の防衛ラインはババッド川とチャクラヌガラ・マタラム、ババッド川とリンサール・グヌンサリを結ぶライン。第3の防衛ラインは、マタラムとチャクラヌガラであった。これらの都市は、二重に竹で囲まれており、その間に2mの間隔があり、そこに茨が植えてあり、また敵が突破しそうな所には、大砲が備えてあった。東部ササック人は、何度も第1防衛ラインに対して攻撃を試みたが、ことごとく失敗する。

 しかし、1894年にはオランダの軍隊が西ロンボク上陸し、バリ人はその対応に重点を移さざるを得なかった。そして、バリ人の支配は名目上だけになり、オランダ植民地政府が実質上の政治権力を握るようになる。その後、東部・西部のササック人に対してもバリ人が政治力を失う。バリ人はオランダに対して反乱を試みた。1894年の825日の早朝のことである。はじめ、バリ軍は優勢に戦いを進めるが、その後、劣勢に転じた。11月にマタラム・チャクラヌガラの王宮が占領され、バリ人のロンボクに対する支配は完全に終結する。またオランダ人の命令により、チャクラヌガラの王宮も破壊され、各宅地の周りを囲んでいた土塀の高さも低くされた。この後、オランダの支配が1942年の日本のインドネシア占領まで続くことになる*[15]


 

 3.民族と社会

 ロンボク島の原住民はササック族である。全人口のうち約9割を占める。前述したように、ササック人は、イスラーム化の受容に際して三つに分かれる。ブダとワクトゥ・テルとワクトゥ・リマの三つである。ブダは見られなくなくなるのであるが、ワクトゥ・テル(あるいはワクトゥ・ティガ*[16])、ワクトゥ・リマの区別は今日も一般的に用いられる。イスラームに服従したが改宗させられなかった人々がワクトゥ・テルであり、服従し改宗させられた人々がワクトゥ・リマである。

 残りの1割で主要なのはバリ人である。そのロンボク支配の歴史は上に見たとおりである。バリ人は、バリ・ヒンドゥーの生活様式を維持しており、強い文化的影響をササック人に与えてきた。ほとんどがチャクラヌガラを中心とした西ロンボクに住んでいる。カランガセムなどバリにおける出自の村との関係を強く意識している場合が多い。ササックとバリは歴史的経緯もあって敵対的な関係が現在でも問題となる。ササック人は、オランダをバリ支配からの解放者として位置づけて、必ずしも批判的ではないという。

 他に、少数だが中国人、ジャワ人、アラブ人、マッカサル(ブギス)人、スンバワ人などがいる。港町、アンペナンには、カンポン・アラブ、カンポン・ブギス、カンポン・ムラユ(マレー)などの名前が現在も残っている。

 マッカサル人は漁業を営み、その特徴的な高床式住居は小さな島々や海岸部に分布する。その大半は近年になって居住しはじめたものである。

 中国人のほとんどは広東出身で極めて重要な役割をしている。最初はオランダとともに安価な労働力の担い手として入島したと言われるが、経済活動において力を持っていった。現在は、西ロンボクのアンペナンとチャクラヌガラという二つの貿易センターに集中して居住する。1966年までは、東ロンボクにもラブハン・ハジ Labuhan Haji という重要な港町に中国人の居住区があったのであるが、1965年の9.30事件以降、正統派イスラーム教徒の間に反中国人感情が高まり、中国人住宅が全て焼き払われるという事件が起きた。その結果、中国人はアンペナン周辺に移住することになり、結果として、ラブハン・ハジは港としての機能を停止することになる。中国人の経済活動にしめる大きさをこの事件は示している。

 ジャワ人は、ロンボクでは主として政府行政機関あるいは軍人の仕事に従事する。

 アラブ人は宗教生活において特別な位置を占める。ムハンマドの子孫ということで様々な特典があり、宗教指導者の多くはアラブ人である。カンポン・アラブと呼ばれるアラブ居住地に他の民族とは独立して住む。結婚もアラブ人どうしで行う。経済活動においては中国人とライバル関係となる。

 1990年現在、インドネシア政府のセンサスによると全人口は2,403,025人(1990年)で、その内訳は、西ロンボク 858996人、中央ロンボク 678,746人、東ロンボク 865,283人である。

 19世紀末の正確な人口は不明であるが、その時代のオランダ人が概算した数値がある。ウィレムスティン Willemstijn の推計*[17]では、計656000人(ササック人60万人・バリ人5万人・その他ブギス人、マドゥラ人、アラブ人、中国人6千人)であった。テン・ハベ Ten Have の推計*[18]では、計405千人(ササック人38万人、バリ人2万人、ブギス人・中国人5千人)であった。A.v.d.クラーン Alfons van der Kraan *[19]によると実際のところは、この2つの調査の中間で、総計53万人(ササック人49万人・バリ人35千人・その他5千人)であったとされている。

 1920年の最初のセンサスでは、総人口は617,781人と記録される。それから半世紀を経た1971年のセンサスでは、1,581,193人(348,099世帯 平均4.5人/世帯)となる。行政区域(Kabupaten)別には、西ロンボクが509,812人、中央ロンボクが476,986人、東ロンボクが594,595人である。94%がササックで、残り6%がバリ人、スンバワ人、マッカサル人、中国人、ジャワ人、アラブ人である。その地域分布は表Ⅰー①ようである*[20]。バリ人は西に、スンバワ人、マッカサル人が東に分布することが一目でわかる。

 19世紀後半のロンボク社会においては、バリ人の王とバリの支配階級であるトリワンサ triwangsa *[21]が強大な勢力を所有していた。行政 baudanda 、司法 pedanda 、潅漑、徴税の監督 sedahan など全ての官僚プンガワ punggawa はトリワンサ層に属する。敗北したササックの貴族高官プルワンサ perwannsa のみが、バリ人の地区長プンガワ punggawa のための村長あるいは徴税人の役割を果たすだけであった。

 バリ人のロンボク支配の社会的基盤は、しかし、東西ロンボクにおいて異なっていた。西ロンボクにおいては、バリ人の支配権は17世紀初頭より確立されており、ササック王国は存在していなかったために、バリ人の支配者と被支配者としてのササック人との関係は比較的調和的であった。ササックの農民は、ワクトゥ・テルに属し、同じ社寺におけるバリ人の宗教儀式や礼拝に参加している。また、相互の婚姻もしばしば見られている。さらに、水田耕作のためにも、バリ人とササック人は同じ潅漑組織スバック subak に属した。すなわち、社会的統合のプロセスが進行しつつあった。

 東ロンボクにおいては、バリ人の支配権は1840年代に再確立したにすぎず、不満をもつササック貴族が存在していたために、トリワンサ層とササック人との関係は友好的ではなかった。ササック人、とりわけプルワンサは、ワクトゥ・リマに属し、バリ人を異教徒として非難し抵抗し続ける。ササックの農民はプルワンサを強い文化的紐帯をもつリーダーとして戴いていたのである。しかし、にも関わらず、東ロンボクもバリ人の堅固な支配のもとに置かれ、約50のプンガワがプリを拠点にバリ人の権力を維持しつつあったのである。

 バリ人による征服以前の土地所有制度については直接の手掛かりはないのであるが、19世紀後半の状況からある程度推測される。ファン・フォレンホーエンのインドネシアの慣習法圏のモデルによって、およそ復原できるのである。バリ以前のロンボクには村落を超える政治組織は存在していないが、村落内には階級構造が確立しており、貴族プルワンサ、自由農民カウラ kaula 、奴隷パンジャ panjak の三階層が区別されていた。土地の私的権利についても貴族と農民とでは異なり、農民の私的権利は制限を受ける。共同体は、ある共同の目的がある場合、また、農民が村落賦役の義務を果たさない場合には農民の土地を収奪できる。さらに、農民は村落外に土地をもつことを許されない。それに対して貴族の場合は、ほとんど共同体規制は、非耕作地を手放すことのみが禁じられる。バリ人の征服以前の土地所有制度は次のような特徴を持っていたとされる。

 ①共同利用権は村落内の非耕作地に関して極めて強固である。共同体もその個々の成員も自由に非耕作地を利用する権利を有していたことを意味する。

 ②共同利用権は農民の土地所有権を制限し続ける。

 ③共同利用権は貴族の土地使用権を犯すことはできない。

  それに対して、バリ征服以降はバリの王 Raja とトリワンサ層が絶大の権力を持つ。共同利用権はバリの王に移行することになる。共同体のすべて財産権は王のものとなり、非耕作地の権利も王のものであった。新しく開墾しようとする農民は王の許可を得なければならなかった。

 農地には、大きく分けて2つの種類があった。一つは、ドルウェ・ダレム druwe dalem と呼ばれる王が直接所有している土地、もう一つはドルウェ・ジャブ druwe jabe と呼ばれる王宮外に住む人が所有する土地である。

 ドルウェ・ダレムには3種類ある。①プンガヤ pengayah と呼ばれる土地は、毎年一定の税と賦役の労働という条件で農民が耕作できる。土地の譲渡は禁止されていた。②プチャトゥ pecatu と呼ばれる土地は、税を納めなくてもよいが賦役のある小さな扶地である。王は、バリの農民スードラ sudra と信頼できるササック人に与えた。またこの土地の所有権は、王の警護人や職人等にあった。この土地の1年以上の譲渡は禁止されている。③ワカップ wakap と呼ばれる土地は、税も賦役も無い扶地である。王はこれらの土地を寺院やモスクや潅漑組織に与えた。そこの生産物は、それらの施設の維持に充てられた。譲渡は禁止されていた。

 ドルウェ・ジャブにも2つのタイプがあった。①ドルウェ・ジャブ・バリは、王がバリの貴族に与えた大きな扶地であった。王は、その土地から税と賦役は集めなかった。さらに、バリの貴族達は税を集め、自分の目的の為に賦役を利用した。② ドルウェ・ジャブ・ササックは、ササック人の貴族が所有する土地であり、条件はバリのものと同様であった。

 こうした土地所有制度はロンボク社会に3つの重要な結果を及ぼした。第1に、ササック人の村落の自律性を徹底的に奪ったことである。西ロンボクでは、バリの権力は2世紀の間に渡って存続していたので、社会政治機構としての村は既に無く、バリの王や貴族が土地を直接統治していた。東ロンボクでは、村はまだ社会政治機構として存在していたが、ササックの貴族である村の長は単なる徴税人にすぎなくなってしまう。第2に、ササック農民の社会的地位を下落させたということがある。自由農民は土地所有権を持っていたのであるが、単なる耕作権のみ持つだけとなるのである。限定された労働権および収穫権を持つだけなのである。農民は農奴的になったということを意味する。第3に、バリのスードラには無税の土地があてがわれるというように、ササック人よりバリ人の方が土地の所有に関して優遇されたということがある。

 こうして、19世紀後半のロンボク社会は、王を頂点にバリのトリワンサ、バリの農民とつながるピラミッドと、敵対関係にはあるがバリの王を頂点にササックの貴族・ササックの農民とつながるピラミッドのふたつのピラミッドから構成されていた。もちろん、相対的にはバリのピラミッドの方が高い地位を占めていたのである。

 

 4.生活習慣

 インドネシアの他の地域と同様、アダットと呼ばれる慣習法が現在も人々の生活の基礎となっている。西ロンボクの場合、バリのアダットとササックのアダットの両方が存在し混淆するために生活様式は複雑な様相を呈する。

 宗教儀礼は、イスラーム教の年次儀礼、通過儀礼、死者儀礼、稲作儀礼、聖泉儀礼、聖墓儀礼などに大別されるが、儀礼の執行に当たっては、イスラームの僧侶キアイの他、土着の神官マンクー mangku の存在がある。また、病気治癒の宗教専門家としてブリアン belian がいる。

 ワクトゥ・テルが採用するバリの儀礼のひとつとして、胎盤に捧げ物を行い埋葬する、アディ・カカ adi kaka と呼ばれる誕生儀礼がある。誕生の際には、血と受精卵、妊娠中に胎児を保護する羊水と胎盤によって象徴される子宮から4人の兄弟姉妹が逃れてくるという信仰に基づく。生後丁寧に扱えば4人の兄弟姉妹は赤ちゃんとその母親に危害を加えないと言うのである。胎盤は家の入り口近くに、女の子であれば左に、男の子であれば右に埋める。生後105日になると、最初に髪を切るングリサン ngurisang と呼ばれる儀礼を行う。

 イスラーム法は全ての少年に割礼ニュナタン nyunatang を求める。通常、6歳から11歳の間に行われる。少年は色の塗られた木の馬や椰子の繊維の尻尾をつけたライオンに乗って村々を運ばれる。割礼は麻酔無しで行われる。割礼が終わると一種の服従の儀礼であるマッカ makka として知られる儀礼を行う。儀礼が終わるとパーティーが開かれる。

 伝統的ササック社会においては、10代の少年少女は、結婚式や割礼の儀式など、いくつかの儀礼時を除いて厳格に分離されていた。逆に言えば、祭礼時には男女は自由に交わることが許されていた。その場合、もし、少女が少年から公的に贈り物、例えば、食べ物を受け取ると彼女は彼と結婚しなければならないという。また、収穫時は別の求愛の機会となる。伝統的には稲の刈り取りは鋭い竹のナイフで行い、穂だけ摘み取るが女性の仕事である。男性は藁の方を処理する。その収穫時に、大人の監視下で、男性女性が二手に分かれてお互い求愛の歌を歌い合うのだという。

 結婚式はいくつかのパターンがあるが、複雑なのは駆け落ちのパターンである。擬制的略奪婚と言われる。女性は、理論的には身分の低いカーストに属す男性と結婚することを禁じられているのであるが、駆け落ち、あるいは略奪の場合はそのルールが破られるのである。実際に、駆け落ち婚はロンボクでは広く見られる。もともとは競争者を排除すること、あるいは家族間の摩擦を避けること、さらに結婚式の費用を最少化するといった社会的機能がある。儀式は段階を踏んで行われる。女性をさらうと、男性は村長 kepala desa に報告しなければならない。そして、かくまわれるが、非礼の行為に鞭打ちの刑を受ける。

 本研究で焦点を当てたバヤンでの婚姻について、セデロスは次のように記述する。

 

 スーレン(バヤン)の婚姻は、大規模で、高額な費用のかかる宴会を伴う。正統派イスラムが重要となるにつれて、1973年には、結婚と離婚はイスラム方式で行うとともに登録することが義務づけられた。この結果、伝統的なササックの人々は、完全に結婚するまでに少なくとも3回の儀式を行わなければならなくなった。まず最初に、駆け落ちの3日後に行われる、トバット・カカス tobat kakas と呼ばれる儀式が行われる。これは、二人の性的な交際を認めるもので、これは、より大規模な儀式(トバット・サー tobat sah)までの準備に有効である。アダットによる正式な結婚がトバット・サーである。そして、現在では、ムスリムの法(フィク fiqh)にしたがって、二カー nikah という結婚式が行われている。スーレンではこの儀式はトバット・カカスの後、2番目に行われている。

 アダットによる伝統的結婚式は非常に金がかかる。

 少年が、少女を見ていいなと思ったら、夕方になると、彼女の家を訪ねる。コーヒーや紅茶を出してもらい彼女と話す機会を得る。彼は週に1回の割で彼女を訪れ、時々、彼女の両親にブトゥルナッツや煙草をプレゼントする。普通少女は複数の少年から同時期に口説かれる。彼女は誰が好きかは言わない。この期間は数年に及ぶこともあるが、普通は1年数カ月くらいである。これは2人だけで行われることもあるが、その間にジュルマン jeruman と呼ばれる、媒介者が入ることもある。これには大抵の場合、彼の親友が当てられることが多い。ジュルマンを選ぶのは難しい。何故なら、ジュルマンが自分の都合のよいように地位を使うからだ。例えば、彼女が物が欲しいと言って、自分のために物を買っわせたりする。また彼女を気に入り奪ってしまうことすらある。そのため他の少女が選ばれることがある。これは、同性同士なので、両親に疑われることなく意志の疎通がしやすい。

 もしジュルマンに贈り物を盗られず、彼女が贈り物を受け取ることがあったら、彼は、彼女が気持ちを寄せていると考え、駆け落ちの用意をする。もし何らかの理由で、結婚がキャンセルされた場合、彼女は、贈り物を返さなければならない。駆け落ちは結婚へのプロセスになくてはならないもので、彼女が駆け落ちに賛同する意志を示すと日程が決められる。日程は、ドゥワサ dewasa という計算方法によって決められる。8年の周期で全ての年・月・日は価値(ナクツnaktu)を与えられていて、それらを合計することで、どの日が良いかは予め判るようになっているのである。

 駆け落ちは、極秘に行われ、それ故、結婚の手続きのうち最も危険で、何か予期せぬことが起こる。それはドラマチックであり、人々はこの話題を好む。例えば、彼女の父親がこの事を知り、女装して、少年との待ち合わせ場所にいく。少年がきて「少女」を捕まえ逃げる。彼らが、隠れ場所につくまで、彼は暗さと興奮で、この事に気付かない。少年は、少女ではなく、父親を連れてきたことに驚き、怒った父親により殴られるのであった。もう一つの話しは、駆け落ちを見つかり、追跡されて、少年を短剣で突くと脅されるということであった。このようなことは、今日でもしばしばあるということであるが、今日、人々は、それほど関心を寄せてはいない。しかし、今日でも、アダットを侵し、高い階級の少女をたぶらかすことは、極めて危険である。 

 セデロスは、バヤンにおける婚姻制度に関して一章を割いて分析を行っている。

 葬送儀礼に関しては、ロンボク島のバリ人は、バリ流の葬儀を行うが、ワクトゥ・トゥルは独自の葬儀を行う。死者の身体は洗われ、白いシーツでくるまれる。死体は、コーランの一節が読まれる間、竹でつくった露台の上におかれる。親戚たちはアラーに祈るとともに先祖の霊に呼びかける。死体は墓地に運ばれ、頭をメッカの方向へ向けて寝かされる。埋葬の間、まずコーランがサンスクリットで読まれ、その後、アラビア語で繰り返される。その後、親戚や友人たちは墓に捧げものを供える。櫛や衣服など様々な捧げ物は村でつくられたものである。

 埋葬後、いくつか決められた日毎にいくつかの儀礼が行われる。3日後、7日後、40日後、100日後、そして1000日後といった周期で一般的には葬送儀礼が行われている。


 5.既往の研究 

  ロンボク島の都市、集落、住居とそれに関する調査研究はそう多いわけではない。日本の研究者によるものとしては、まず、バリ研究の一環としての石川栄吉による以下のものがある。

 [1] 石川栄吉、「バリ島およびロンボク島の農民家族と居住様式」、『バリ島の研究』(宮本延人編)、東海大学出版会、1968年)所収

 全体は、7章からなるが、そのうち3章がロンボク島ササック族に割かれている(Ⅴロンボクの村落組織 Ⅵササック族の家族と居住様式 Ⅶササック農民の日常生活)。東部ロンボクのスロンの西パンジュール村 desa Pantjur とその子村バギ・ルンギ村 desa Bagi Lunggi についての調査をもとに報告を行っている。住居としては、バレ・バラ bale bala と呼ばれる高い土壇の上に立つタイプとバレ・ジャマ bale djama と呼ばれる二段の土間からなるタイプの二つが区別され、ブルガ、倉など付属施設についての一般的な記述がある。

 

 インドネシアにおいては、公的機関による次のような三冊の報告書が西トゥンガラに関して出ている。

  [2] Dinas Pekerjaan Umum Propinsi Daerah Tingkat I Nusa Tenggara Barat,'Bentuk Bangunan Tradisional Daerah Tingkat I Nusa Tenggara Barat',1981

  [3] Departemen Pendidikan dan Kebudayaan,Direktorat Jenderal Kebudayaan,'Selintas Rumah Taradisional Sasak di Lombok',Museum Negeri Nusa Tenggara Barat,1987/1988

  [4] Departemen Pendidikan dan Kebudayaan,'Arsitektur Tradisional Daerah Nusa Tenggara Barat',1991

 また簡単な記事として以下のものがある。

  [5] Gunawan Alif,M.,'Bangunan Tradisional Sasak  Bagian dari Nasib Malang',asri 321985:43-5,61-4

 [2]は、バリとロンボクを比較し、さらにスンバワを比較している。住居住居についてラフなスケッチを行っているが、調査した集落は、デサ・バトゥ・クンブン Batu Kumbung 、デサ・スンコル Sengkol、デサ・レネック Lenekである。[3]は典型的なササックの住居について詳細な実測を行っている。また、人体寸法の体系を明らかにしている(図Ⅰー⑤)。[4]は、最も公式的な出版物であり、西ヌサ・トゥンガラ全体に関して、一般的な情報をまとめている。

 

 ロンボク島の集落を概観したものとしてインドネシア大学のグナワン・チャジョノを中心とするグループの調査報告がある。

  [6] Ikatan Mahasiswa Arsitektur Fakultas Universitas Indonesia,'Ekskursi Lombok・・・POLA PEMUKIMAN MASYARAKAT LOMBOK',1990

  一週間(199087日~13日)の調査にすぎないけれど、ロンボク島全体を踏査し、概要をまとめている。調査集落は、カンダンカオク Kandangkaok、スナル Senaru、ボンジュルク Bonjeruk、ランビタン Rambitan(サデ sade)、スンバルン Sembalun 5集落である(図Ⅰー⑥)。宗教・儀礼、言葉とシンボル、社会制度、生業、民具、住居集落といった項目について各集落を簡単に比較している。本研究の大きな前提となっている。

 

 特定の集落についての調査研究は少ないが、ワクトゥ・テルの発祥地とされるバヤンについての研究が行われてきた。バヤンに関する文献としては以下のものがある。

 [7] Cederroth,Seven,'The Spell of the Ancestors and the Power of Mekkah:A Sasak Community on Lombok',Gothenburg Studies in Social Anthoropology 31981

  [8] Baal,J.Van,'Pesta Alip di Bayan'1976

  [9] Polak,Albert,'Traditie en tweespalt in een Sasakse boerengemeenschap(Lombok,Indonesie)',Proefschrift,Rijksuniversiteit te Utrecht,1978

 バヤンに関する文化人類学研究として際立つのが「先祖の呪力とメッカの力」と題されたスウェーデンの文化人類学者セブン・セデロスによる[7]である。[8]は、インドネシア人文化人類学者によるモノグラフである。クンチャラニングラットによる序文がある。[9]はオランダ人学者によるものである。[7]は、[8][9]を踏まえたものである。目次を示せば以下の通りである。

1.はじめに ウェトゥ・テルとワクトゥ・リマ、変化の中の統合あるいは統合の中の変化/社会変化研究への道/闘争集団の研究/分裂と闘争集団/スーレン村/フィールド・ワーク/理論の概要

第一部 背景

2.ロンボクの土地と人々、一般的な背景 地理的特徴/民族/歴史の概要/島の経済

3.スーレン村-簡単な紹介 村落の形態的構造/古いモスク/先祖の墓地(マカム)/祭祀集団の属する聖なる場所(カンプ)

第二部 外部闘争の発展

4.シンクレティズム対正統、移住の歴史と主要な外部闘争の発達 正統派ムスリムの到来/トゥアン・グルの役割/正統派イスラムの成長

5.国家による村落の伝統の監督 村落の官吏/プムカ・アガマ/プムカ・アダット/プムカ・マシャラカット/政党の役割/政治的分裂の形成

第三部 内部闘争の発展

6.先祖との婚姻-スーレンの貴族の婚姻戦略 スーレンの貴族/スーレンでの婚姻/身分制度/同族結婚/女性の位置/身分保護メカニズムとしての駆け落ち罰金/イデオロギーとしての駆け落ち罰金/身分制度の役割

7.大祭礼の政治学 儀式のサイクルと補足的対立/祭礼の政治学/ゴモンでの大祭礼-平民からの挑戦/闘争の拡大/ゴモンは貴族による強制労役を否定する/大祭礼は貴族によって祝われる/貴族は自らの伝統的地位を守る

8.農業:経済的分裂の形成と市場経済の影響 異なった農業形態とその性質/潅漑される稲作棚田(バンケット)/乾燥地帯での耕作の変移(オマ)/果樹園(クブン)/労働交換の伝統的形態/スーレンにおける社会経済の分裂/土着民内での社会経済の分裂/移住民内での社会経済の分裂/二つの経済システム:分裂の発生/緑の革命の失敗/技術的問題/復興する伝統/自耕自給農業から市場経済へ

9.結論 分裂パターンの分析/貴族からトゥアン・グルへ/長期発展

 第1章では、垂直的水平的な格差が概説され、かつ特別な格差が記述される様なモデルを紹介している。このパターンは内的および外的な格差をもつ集団の潜在力の形態を決定するものとして考えられている。

  第2章では、ロンボク島の地理とその人口に関する基礎的な情報が記述されている。第3章では、対象となる集落が概観される。スーレンというのがバヤンである。一般的な情報を背景として、焦点は格差の形態のプロセスの背後にあるメカニズムに当てられる。その解析は二つの段階を経て行われる。

 まず第一に、第4章において、外部からの闘争集団の成長とバヤンへの最近の移民に関して記述される。これらの移民は一般的なイスラームに固執している。一方土着の人々は重層信仰的なムスリムで、闘争集団の確立に先導される形で格差が、この二つの集団の間に浮かび上がってくる。これらの格差の存在の到来にもかかわらず、一般的なイスラームの導入は従来の重層信仰的な価値の否定を貫徹するには到らなかった。第五章では、原住民に焦点が当てられる。彼らの伝統的な行政機構が探求され、国家統治との不調和な点が議論される。

 第二に、内的な闘争が分析される。第6章において、結婚や階級が議論され、貴族と平民との間の格差の問題が明確に識別される。第7章では従来の統治貴族の権威の弱体化の過程と、結果的に平民がどの様にして伝統的に彼らを貴族に結び付けてきた絆を断ち切ろうとしたのかを扱っている。しかし独立した政治的立場を主張しようとしながらも、イデオロギーとしてはこれらの平民は伝統的な特徴の中にいる。第8章では、移民族だけでなく土着の人々の経済に関する議論が行なわれ、市場経済の洞察から現れでる格差が研究されている。

 結論である第9章においては、格差の類型とそのエリアにおける多様なカテゴリーに対するその結果の関係が分析される。より一般的なレヴェルで、ササック族社会にみられる変化の、長期にわたる方向性を描くこともまた目的とされている。

 バヤンの象徴としてのモスクについては、1992年の修復のために行われた調査報告書がある。

 [10]  DR.Eddi Sarwono et al,"Laporan Studi Kelayakan Masjid Kuno Bayan Beleq",Departemen Pendidikan dan Kebudayaan-Kantor Wilayah Departemen Pendidikan dan Kebudayaan Nusa Tenggara Barat,1991/1992

 

 ロンボク島の歴史については以下のような文献がある。

 [11]  DEPARTMEN PENDIDIKAN DAN KEBUDAYAAN PUSAT PENELITIAN SEJARAH DAN BUDAYA PROYEK PENELITIAN DAN PENCATATAN KEBUDAYAAN DAERAH,"SEJARAH DAERAH NUSA TENGGARA BARAT",1977/78

  [12]  ANAK AGUNG KTUT AGUNG,"KUPU KUPU KUNING YANG TERBANG DI SELAT LOMBOK--Lintasan Sejarah KerajaanKarangasem(1961-1950)

 [13]  Graaf,H.J.de,'Lombok in de 17e eeuw',Mededeelingen van de Kirtya-Liefrinck van der Tuuk. Alf 16.(Djawa 21:6 1941):Pp.43-61

  [14]  Cool,W.,'De Lombok Expeditie',The Hague-Batavia,1895

 Alfons van der Kraan ,Lombok:Conquest,Colonization and Underdevelopment,1870-1940 .Singapor,H.E.B.,1980.

  [15]  Cool,W.trans. E.J.Tayor,"the Dutch in the East  An outline of the Military Operations in Lombok,1894 ",The Java Head Bookshop,London,1934

  [16]  Alfons van der Kraan,"Lombok:Conquest,colonization and Underdevelopment,1870-1940",Heinemann Asia,1980

  [13][16]は、オランダのロンボク支配に関する文献である。[15][14]の英訳版である。

 

 チャクラヌガラについては、上記の歴史文献のなかにいくつかの情報が含まれている。ロンボク島ののプラについては以下のものがある。

 [17]  Arumugam,S.,'Lombok and Its Temples',1990

  [18]  Departmen Pendidikan dan Kebudayaan,'STUDI TEKNIS PURA MERU CAKRANEGARA',Proyok Pelestarian/Pemanfaatan Peninggalan Sejarah Purbakala Nusa Tenggara Barat,1990-1991

 ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の両方の聖地となっているプラ・リンサールをめぐっては以下の興味深いレポートがある。

  [19]  喜多村正「ロンボク島のちまき合戦」(季刊民族学37 1986

  チャクラヌガラの構造をめぐって、大きな手がかりとなるナガラクルタガマについては、以下の文献が参照される。

  [20]  Pigeaud,Th.H.,'Java in the Fourteenth Century Vol.I-V',Martinus Nijhoff,The Houge1960-63

  人口等一般的データについては、次のものを参照している。

 [21] TIM DEPARTEMEN DALAM NEGERI.HASIL OBSERVASI LAPANGAN DALAM RANGKA PEMBENTUKKAN KOTAMADYA DAREAH TINGKAT MATARAM.1991.

  [22]  Solichin Salam,"LOMBOK Pulau Perawan",Kuning Mas Jakarta,1992

 

 ロンボク島一般については他に以下のようなものがある。 

  [23]  F.Schulze,'Pekerdjahan Prang di Lombok',Albrechtand Rusche Batavia-solo,1894

  [24] Team Penyusun Monografi Daerah Nusa Tenggara Barat,'Monografi Daerah Nusa Tenggara Barat jilid.1,2',Departemen Pendidikan dan Kebudayaan(1977)

  [25]  Polak,Albert,'Traditie en tweespalt in een Sasakse boerengemeenschap(Lombok,Indonesie)',Proefschrift,Rijksuniversiteitte Utrecht,1978

  [26]  M.M.Billah,'SOCIAL SURVEY South Lombok',(1984)

  [27]  Howe,L.E.A.,'Hierarcy and Equality:Variations in Balinese Social Organization,'Bijdragen toto de Taal-,Land-en Volkenkunde,145:47-71,1989

  [28] Judith L.Ecklund, 'Sasak Cultural Change,Ritual Change,and The Use of Ritualized Language',Universitas Gadjah Mada,1992

 [29] アリス・ボニマン、高谷好一、「ロンボク島の高地の伝統的稲作」、『東南アジア研究』、261号、19886

 [30] アリス・ボニマン、高谷好一、「伝統農業フィールドノート」、第一巻、1988

 

 さらに本研究グループがこれまでに発表した論文には以下のようなものがある。

 ①アジア都市建築研究その1 住居集落とコスモロジー①「チャクラヌガラ Cakranegara の都市計画」:牧紀男、脇田祥尚、松井宣明、都築知人、山根周、布野修司、日本建築学会近畿支部研究報告集 第32号・計画系 平成46月 P461464

 ②アジア都市建築研究その2 住居集落とコスモロジー②「西ロンボクにおける聖地とそのオリエンテーション」:脇田祥尚、牧紀男、松井宣明、都築知人、山根周、布野修司:日本建築学会近畿支部研究報告集 第32号・計画系 平成46月 P465468

 ③アジア都市建築研究その3 住居集落とコスモロジー③「ロンボク島における住居集落の概要とその特性」:青井哲人、脇田祥尚、布野修司:日本建築学会近畿支部研究報告集 第33号・計画系 平成56月 P333336

 ④アジア都市建築研究その4 住居集落とコスモロジー④「ロンボク島ササック族のワクトゥ・テル集落デサ・バヤンの空間構造」:脇田祥尚、青井哲人、布野修司:日本建築学会近畿支部研究報告集 第33号・計画系 平成56月 P337340

 ⑤アジア都市建築研究その7「ヒンドゥー・マジャパイトの都市理念 ナーガラ・クルターガマにみる都市構成」:牧紀男、布野修司:日本建築学会近畿支部研究報告集 第33号・計画系 平成56月 P349352

  ⑥アジア都市建築研究その8「チャクラヌガラの住区構成」:田中康治、牧紀男、布野修司:日本建築学会近畿支部研究報告集 第33号・計画系 平成56月 P353356

  ⑦アジア都市建築研究その9「チャクラヌガラにいおける棲み分けの構造」:堀喜幸、牧紀男、布野修司:日本建築学会近畿支部研究報告集 第33号・計画系 平成56月 P357360

 ⑧アジア都市建築研究その10「チャクラヌガラの住区組織」:竹田智征、脇田祥尚、吉井康純、牧紀男、布野修司:日本建築学会近畿支部研究報告集 第34号・計画系 平成66月 P269272

 ⑨アジア都市建築研究その11「チャクラヌガラの王宮」:田中禎彦、脇田祥尚、吉井康純、牧紀男、布野修司:日本建築学会近畿支部研究報告集 第34号・計画系 平成66月 P273276

 ⑩アジア都市建築研究その12 住居集落とコスモロジー⑤「ロンボク島ササック族の住居集落の地域類型」:山本直彦、脇田祥尚、吉井康純、牧紀男、布野修司:日本建築学会近畿支部研究報告集 第34号・計画系 平成66月 P277280

 ⑪アジア都市建築研究その13 住居集落とコスモロジー⑥「デサ・バヤンにおける住居パターンの変容」:脇田祥尚、山本直彦、吉井康純、牧紀男、布野修司、:日本建築学会近畿支部研究報告集 第34号・計画系 平成66月 P28128


*[1] 住居の象徴論あるいは住居とコスモロジーをめぐる既往の研究については、佐藤浩司 「民族建築学/人類学的建築学(上)(下)」(『建築史学』 第一二号 一九八九年三月、第一三号 一九八九年九月)参照。

*[2] インドネシアの住居とコスモロジーに関する代表的論文としては、以下のようなものがある。

 Cunningham,C.E.,'Order in the Atoni House',Bijdragen tot de Taal-Landen Volkenkunde 120,1964:34-68

  Feldmann,J.A.,'The House as world in Bawomatalua,south Nias',E.M.BRUNER(eds.)Art,Ritual and Society in Indonesia,1979:127-189

 Fox,James J.(ed.),'The Flow of Life:Esseys on Eastern Indonesia',Harvard Studies in Cultural Anthropology 2,Cambridge,Massachusetts,London,1980

  Forth,Gregory L.,'Rindi:An Ethnographic Study of a Tradition Domain in Eastern Sumba',Verhandelingen van het Koninklijk Instituut voor Taal-,Landen Volkenkunde 93,1981

  Suzuki,Peter T.,'The limitations of structuralism,and autochthonous principles for urban planning and design in Indonesia:the case of Nias',Authropos 79,1984:47-53

  Ellen,Roy,'Microcosm, macrocosm and the Nuaulu house:concerning the reductionist fallacy as applied to metaphorical levels',Bijdragen tot de Taal-,Landen Volkenkunde 142-1(1986):1-30

 山口昌男「家屋を読む:リオ族(インドネシア・フローレス島)の社会構造と宇宙観」社会人類学年報9,19831-28

*[3] イスラーム原理といっても必ずしも一般的ではない。ここでは、直接的にはチュニスを対象として、アラブのまちづくりの原理を明らかにするベシーム・S・ハキームの以下の著書を念頭においている。

 Hakim,B.S.,"Arabic-Islamic Cities",London,1988

 『イスラーム都市ーーアラブのまちづくりの原理』(佐藤次高監訳 第三書館 1990年)

*[4] 本研究の成果は様々な形で公表されつつある。そのひとつの成果が、『事典 イスラームの都市性』(板垣雄三 後藤明 編 亜紀書房 1992年)である。

*[5] カウティリア 『実利論ーーー古代インドの帝王学』(上村勝彦訳 岩波文庫 1984年)。カウティリアの記述をもとにした「都城」の復元は、P.V.Begde W.Kirkによって試みられているが、応地利明は曼陀羅を下敷きにした説を提出している。

 Ohji,T.,'The "Ideal" Hindu City of Ancient India as Descrived in the Arthasastra and the Urban Planning of Jaipur ',East Asian Cultural Studies 29-14(1990)

*[6] マナサラについてはいくつかの研究書が公刊されてきたが、今のところP.K.アチャルヤのものがその集大成になっている。

  P.K.Acharaya,Architecture of Manasara Vol.Ⅰ~Ⅴ”Munshiram Manoharlal Publishers Pvt. Ltd. 1934 (reprint 1980) 

*[7] 日本陸軍参謀本部陸地測量部作製地図(1942年1月発行)。オランダの作製したものをもとにしたと思われる。アンペナンからチャクラヌガラまで6枚がつながっている。 

*[8]  ロンボク島の概要については主として以下のものを参照してまとめた。

  Alfons van der Kraan,'The Nature of Balinese Rule on Lombok',1975,in A. Reid and L. Castle(ed.) "Pre-Colonial State Systems in Southeast Asia",MBRAS,1975

  Alfons van der Kraan,"Lombok:Conques,colonization and Underdevelopment,1870-1940",Heinemann Asia,1980

  Wheeler,T.,"Bali et Lombok",Lonely Planet Publications,1989

 

*[9] A.R.ウオーレス(1823年~1913年)は、以下の名著において二つの章をロンボク島にさいている。

 A.R.Wallace,"THE MALAY ARCHIPELAGO,The Land of the Orang-Utan and The Bird of Paradise  A Narrative of Travel with Studies of Man and Nature",1890,Macmillan and Co.,London

 宮田彬訳 『マレー諸島』 思索社 1991年

*[10] Cederroth,Seven,'The Spell of the Ancestors and the Power of Mekkah:A Sasak Community on Lombok',Gothenburg Studies in Social Anthoropology 3,1981

*[11] DEPARTMEN PENDIDIKAN DAN KEBUDAYAAN PUSAT PENELITIAN SEJARAH DAN BUDAYA PROYEK PENELITIAN DAN PENCATATAN KEBUDAYAAN DAERAH,"SEJARAH DAERAH NUSA TENGGARA BARAT",1977/78

 ANAK AGUNG KTUT AGUNG,"KUPU KUPU KUNING YANG TERBANG DI SELAT LOMBOK--Lintasan Sejarah KerajaanKarangasem(1961-1950)" 

*[12] ナガラクルタガマは、ロンタル椰子に書かれたジャワの古文書(ライデン大学図書館所蔵)である。ナガラクルタガマは、言語学者、J.ブランデス Brandes 博士によって、興味深いことに、チャクラヌガラの王宮から発見された。18941118日のことである。

 ナガラクルタガマについては、以下の文献が参照される。 Th.G.Pigeaud,"Java in the Fourteenth Century" 5vol. The Hague:Martinus Nijhoff

*[13] R.Goris,'Aantekeningen over Oost-Lombok',TBG,1936

*[14]  J.C.Van Eerde,'Aantekeningen over de Bodha's van Lombok',TBG43,1901

     G.H.Bousquet,'Recherches sur les deux sectes Muselmanes(W3 et W5) de Lombok',Revue des Etudes Islamiques,1939-40  

*[15] 1870年から1940年に至るオランダのロンボク支配につては Alfons van der Kraan,"Lombok:Conques,colonization and Underdevelopment,1870-1940",Heinemann Asia,1980 が詳しい。

*[16] ティガは、インドネシア(マレー)語で3、テルはササック語で3、同じことを意味する。

*[17] H.P. Willemstijn,'Militair-aardrijkskundige beschrijving van het eiland Lombok',IMT,1891 にあるという(Alfons van der Kraan,"Lombok:Conques,colonization and Underdevelopment,1870-1940",Heinemann Asia,1980による)。

*[18] J.J. ten Have,"Het eiland Lombok en zijne bewoners",Den Haag,1894にあるという(Alfons van der Kraan,"Lombok:Conques,colonization and Underdevelopment,1870-1940",Heinemann Asia,1980による)。

*[19] Alfons van der Kraan,"Lombok:Conquest,colonization and Underdevelopment,1870-1940",Heinemann Asia,1980

*[20] A.M.Hartong,"Het adatrecht bij de Sasaksse bevolking van Lombok",Mimeo,University of Nijmegen,1974

*[21] カーストのうち、ブラーマン Brahman、クサトリア Ksatriya、ウェシア Wesiyaをいう。

2021年10月15日金曜日

ロンボク島の都市・集落・住居の構成原理とコスモロジー 目次 はじめに

 ロンボク島の都市・集落・住居の構成原理とコスモロジー(主査 布野修司 応地利明,脇田祥尚,牧紀男,佐藤浩司他, 全体総括,分担執筆),住総研研究年報191992

 

ロンボク島の都市・集落・住居の構成原理とコスモロジー

COSMOLOGY AND SPACE ORGANIZATION IN LOMBOK ISLAND(INDONESIA)

HOUSE FORM , VILLAGE PATTERN AND CITY PLAN

 

  本研究は、空間の形態とそれを規定するコスモロジーとの関係を視点に、都市・住居・集落の構成原理を考察することを目的とする。具体的には、インドネシアのロンボク島を対象とし、都市や住居集落の構成原理に関わる宇宙観、思想、理念を明らかにすることをテーマとする。

 ロンボク島は様々な意味で興味深い島である。知られるように、ロンボク島と西に隣接するバリ島との間にはウオーレス線が通る。動植物の生態は東西でがらりとかわるのである。また、宗教の面でも特異である。イスラームが支配的なインドネシアでバリ島だけはヒンドゥー教が信仰されている。ロンボク島はイスラーム化されているのであるが、バリ島に近接するその西部にはヒンドゥー教の強い影響が残されている。同じ小さな島にイスラームの影響とヒンドゥーの影響の両方をみることができるのである。

 住居のあり方もロンボク島は興味深い。高床式住居が支配的な東南アジアの島嶼部で、ジャワ、バリ、ロンボクは地床式である。一方、ロンボク島には、スンバワ人、ブギス人の高床式住居も見られ、二つの文化の境界域でもある。本研究は、ロンボク島の住居集落の地域的パターンを明らかにするとともに、デサ・バヤンについて詳細な考察を展開した。

 本研究が初めて本格的に焦点を当てたのがチャクラヌガラである。18世紀にバリのカランガセム王国の植民都市として建設されたチャクラヌガラは、インド文明の東端にあって、すなわち、ヒンドゥー文化の最周縁にあって、その理念を最も忠実に実現しようとした都市である。本研究は、街路パターンと宅地割、住区構成、祭祀施設等施設分布、住区組織、住み分けの構図、居住空間の構成等様々な視点から、チャクラヌガラの空間構造とコスモロジーとの関係を立体的に明らかにした。

 本報告書は、ロンボク島に関する様々な文献資料を可能な限りまとめ、今後の学際的研究の展開に資するよう配慮するとともに、アジア地域、イスラーム圏における都市、集落、住居研究へのひとつの展望を開くものである。

 


ロンボク島の都市・集落・住居の構成原理とコスモロジー

 

目次 

 

はじめに

 1.研究の目的

  2.研究の経緯

 3.調査概要

 

Ⅰ ロンボク島の概要

 1.自然と生態

 2.歴史

 3.民族と社会

 4.生活習慣

 5.既往の研究

 

Ⅱ ロンボク島の住居集落

 1.ロンボク島の住居集落

  11 ササック族の住居

  12 ササック族の集落

 2.住居集落の地域類型

  2-1 住棟形式

  2-2 集落形式

 3.デサ・バヤンの空間構造とその構成原理

  31 デサ・バヤンの集落構成

   311 モスク

   312 マカム

   313 カンプ

  32 バヤン・ティモール・グブック・テンガの構成

   321 住居の空間構成

   322 建物の所有関係

   323 日常時のブルガの空間利用

   324 儀礼時の空間利用

 

Ⅲ チャクラヌガラの構成原理

 1.ロンボク島の都市とチャクラヌガラ

  11 マタラム

  12 チャクラヌガラ

 2.チャクラヌガラの空間構成

  2-1 街路パターンと宅地割

   22 住区構成ーーーカラン

  23 祭祀施設と住区構成

  2-4 王宮の構成

 3.チャクラヌガラの住み分けの構造

  3-1  人口構成と住区組織

  3-2  住民構成と施設分布

  3-3  住み分けの構図

  3-4  居住空間の構成

 4.チャクラヌガラの空間構造とコスモロジー

 

Ⅳ ロンボクの都市・集落・住居の構成原理

     ヒンドゥー原理とイスラーム原理

 1.ロンボク島のコスモロジー

  1-1 プラの構成とオリエンテーション

  1-2 プラ

 2.住居集落とコスモロジー

 3.インドージャワ都市比較

 

COSMOLOGY AND SPACE ORGANIZATION IN LOMBOK ISLAND(INDONESIA)

HOUSE FORM , VILLAGE PATTERN AND CITY PLAN

 

Contents

 

Introduction

 1.Purpose of the Studies

  2.Process of the Studies

 3.Outline of the Field Survey

 

Ⅰ Lombok Island

 1.Nature and Ecological Background

 2.History

 3.Tribes and Societies

 4.Customs

 5.Review of the Studies

 

Ⅱ Houses and Villages in Lombok Island

 1.Houses and Villages in Lombok Island

  11 Sasak Houses

  12 Sasak Villages

 2.Typology of House Form and Village Pattern

  2-1 House Form

  2-2 Village Pattern

 3.Principles of Space Organization of Desa BAYAN

  31 Space Organization of Desa BAYAN

   311 Masjid

   312 Makam

   313 Kampu

  32 Bayan Timur Gubuk Tengah

   321 House Plan

   322 Ownership of the Buildings

   323 The Way of Use of Berugak

   324 The Way of Use of Space during Ceremony

 

Ⅲ Principles of Space Organization of Cakranegara City

 1.Cities in Lombok and Cakranegara

  11 Mataram

  12 Cakranegara

 2.Space Organization of Cakranegara     

  2-1  Street Pattern and Lot Pattern        

   22  Organization of CommunitiesーーーKarang

  23  Religious Facilities and Communities  

  2-4  Space Organization of Palace(Puri)    

 3.Distribution of the Population                   

  3-1  Community and Population                     

  3-2  Distribution of the Facilities and Communities

  3-3  Structure of Segregation                     

  3-4  Space Organization of Living Quarter          

 4.Space Structure of Cakranegara and Cosmology

 

Ⅳ House Form , Village Pattern and City Plan in Lombok

  :Hindu Principles and Islam Principles

 1.Cosmology in Lombok

  1-1 Layout of Pura and its Orientation

  1-2 Puras

 2.Village Pattern , House Form and Cosmology

 3.Hindu City and Jawa City

 


はじめに

 

 . 研究の目的

  本研究は、空間の形態とコスモロジーの関係を視点に、都市・住居・集落の構成原理について考察することを大きな目的としている。すなわち、都市や住居集落の構成原理に関わる宇宙観、思想、理念を問題とし、そのフィジカルな形態や様々な形象への具体的な表れ方をテーマとする。焦点を当てるのは、インドネシアのロンボク島であり、比較のための圏域として、インドネシアを含めて広くイスラーム圏を考慮する。何故、ロンボクなのかは以下の理由による。

 住居はひとつのコスモスである、あるいは、各地域の住居にはそれぞれの民族のもつコスモロジーが様々なかたちで投影される、と一般にいわれる*[1]。しかし、必ずしもそうは思えない地域も多い。つまり、コスモロジーは、必ずしも、具体的な形態や物の配置に示されるとは限らない。コスモロジーが形象として強く表れる場合と極めて稀薄な場合があるのである。

 インドネシア、とりわけ、ジャワ、バリ、東インドネシアにおいては、住居集落の構成とコスモロジーの強い結び付きを見ることができる*[2]。一方、一般に、イスラーム圏においては、住居集落の構成とコスモロジーとの結び付きは稀薄である。その差異は何に起因するのか。

 インドネシアは、今日、イスラーム圏の中で、少なくともムスリム人口の比重において大きな位置を占める。しかし、住居集落の構成を規定するのはイスラームの原理*[3]というより、土着的な基層文化のコスモロジーであるように見える。

 中でも、ロンボク島は極めて注目すべき特性を持っている。知られるように、イスラームが支配的なインドネシアでバリ島だけはヒンドゥー教が現在でも支配的である。バリ島の東に近接するロンボク島は、イスラーム化されているのであるが、一方その西部にはヒンドゥー教の強い影響が残されている。同じ小さな島にイスラームの影響とヒンドゥーの影響の両方をみることができるのである。そうした意味で、本研究の目的にとってロンボク島は極めて興味深い地域である。

  また、ロンボク島は様々な意味で興味深い島である。知られるように、ロンボク島と西に隣接するバリ島との間にはウォーレス線が通る。動植物の生態は東西でがらりとかわるのである。

 住居のあり方についてもロンボク島は興味深い。高床式住居が支配的な東南アジアの島嶼部で、ジャワ、バリ、ロンボクは地床式である(他にブル島がある)。一方、ロンボク島には、スンバワ人、ブギス人の高床式住居も見られ、二つの文化の境界域でもある。

 さらに、おそらく本研究が初めて本格的に焦点を当てるチャクラヌガラ Cakranegara の存在がある。18世紀にバリのカランガセム Karangasem 王国の植民都市として建設されたチャクラヌガラは、インド文明の東端にあって、すなわち、ヒンドゥー文化の最周縁にあって、その理念を最も忠実に実現しようとした都市なのである。 

 

 2.研究の経緯

 研究メンバーのほとんどは、1988年から1990年までの三年間、文部省科学研究費の助成を受けた重点領域研究「イスラームの都市性」に関する研究(比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究*[4]に参加してきた(C班 都市の形態と景観)。その研究会は、形態と景観についてイスラーム都市の特性を明らかにしようというものであったが、その結果を大胆に要約すると、必ずしもイスラーム都市に固有な特性はないというものであった。そこでテーマとして浮かび上がったのが都市とコスモロジーの関係である。

 具体的には「都城」(王権の所在地としての「都」そして城郭をもった都市、その二つの性格を合わせ持つ都市)について、それを支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係を、アジアからヨーロッパ、アフリカまでグローバルに見てみたのであるが、幾つかはっきりしたことがある。

 第一、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。東アジア、南アジア、そして東南アジアには、王権の所在地としての都城のプランを規定する思想、書が存在する。しかし、西アジア・イスラム世界には、そうした思想や書はない。

 第二、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。理念型と生きられた都市の重層が興味深い。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していく。

 第三、都城の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に表現される傾向がつよい。例えば、インドの都城の理念を著す『アルタシャストラ』*[5]や『マナサラ』*[6]を具体的に実現したと思われる都市は、アンコールワットやアンコールトムのような東南アジアの都市である。

 都市や住居集落の象徴的意味の次元と実用的機能的側面は必ずしも切然と区別できない。両方はダイナミックに関わり会う。ある条件のもとで、どちらかの側面が強く表現され優位となる。時代によって地域によって異なる様々な都市や住居集落の形態を統一的に考える大きな手掛かりになるのが、その形態とコスモロジーの関係である。本研究には、コスモロジー、より広く、人間の様々な象徴的実践が住居や集落の具体的形態にどう表れるのかというテーマをさらに深化させ、住居集落の構成原理に関する研究に寄与しようとするものである。

  3.調査概要

 第一次ロンボク島調査(1991126日~1224日 調査メンバー   応地利明、坂本 勉、金坂清則、布野修司、佐藤浩司、Josef Prijotomo、脇田祥尚、牧 紀男)。

 調査準備において、可能な限りの資料収集を行ったのは当然であるが、その過程で入手した六葉の地図*[7]によって、極めて整然としたグリッドパターンの都市の存在がわかった(図Ⅰー①)。チャクラヌガラである。歴史書によれば、バリ・ヒンドゥーによる計画都市であることがわかる。バリのカランガセム王国の植民都市であり、ヒンドゥーの都市理念がバリの諸都市よりもよく表されているのである。調査のひとつの焦点としてチャクラヌガラが浮かび上がった。また、第一次調査としては、島全体の都市、集落の把握にウエイトを置いた。港町としてのアンペナン、北部山間部、南部丘陵部、東部とおよその地域区分をもとに住居集落パターンの把握を行った。さらに、ヒンドゥーとイスラームの差異を窺う上で実に興味深い対象として、双方の聖地となっている場所、寺院があることがわかった。プラ・リンサールがそうである。そこで、ロンボク島西部を中心にプラの、特にオリエンテーションに関する調査を行うこととした。

 その後、分析考察を深めながら、第二次から第四次まで調査を行った。その概要は以下の通りである。

 第二次ロンボク島調査(199296日~103日 調査メンバー:布野、牧、脇田、松井宣明、青井哲人、堀喜幸、神吉優美):

 ○チャクラヌガラ調査:現地研究者や古老への都市史に関するヒヤリング調査。宅地割り寸法及び住区構成、住み分けの構造に関するフィールド調査。

 ○集落調査:住居・集落形式の類型に関する全島調査。デサ・バヤンを中心とする住居・集落の空間構成に関する調査。

 第三次ロンボク島調査(19931124日~1994120日 調査メンバー:応地、牧、脇田、吉井康純、山本直彦):

 ○チャクラヌガラ調査:コミュニティー組織に関する調査。宅地割り調査。一部カースト調査。

 ○集落調査:住居集落の地域類型調査。デサ・バヤンに関する約1ヶ月間の住み込み調査。住居の空間構成、建物の所有形態、ブルガの利用状況等。

 第四次ロンボク等調査(199452日~518日 調査メンバー:布野、応地) ○チャクラヌガラ調査:各住戸の民族・宗教・カーストに関する悉皆調査。

 



2021年10月13日水曜日

北京激変 オリンピック前夜の狂騒 下 胡同壊滅

 北京激変 上 オリンピック前夜の狂騒,日刊建設工業新聞,20070629

北京激変 下 オリンピック前夜の狂騒,日刊建設工業新聞,20070706

北京激変 オリンピック前夜の狂騒 下 胡同壊滅

 北京大学の講演で、「最近の北京の建築シーン」と題した松原弘典(松原弘典建築設計事務所 主宰/慶応義塾大学 総合政策学部准教授)先生の話が面白かった。松原先生とは、彼が伊東豊雄事務所を辞めて、国際協力基金の奨学金を得て北京大学に留学中に会ったことがあり、「これからは中国だ、頑張れ」などと励ましたのであるが、その後の活躍は、北京で仕事をしながら日本に教えに行くという、現在が物語っている。将来期待の建築家である。

 松原先生曰く、北京の住宅供給はちょっとしたパニック状態である。昨年五月十七日に国務院常務会議が出した「民間住宅開発の延床面積七〇パーセント以上は九〇平米以下の住宅とすること」「四.九メートルを超える階高の場合は二層住宅として計算する」などを定めた政令(国六条「住宅供給構成の調整および住宅価格の安定に関する通知」)がそのきっかけである。なんとも設計が難しい、日本人建築家ならうまいだろうからと注文がある、という冗談のような事態が今日の北京である。シンポジウムに参加した、最近『五一白書』を出した鈴木成文先生も苦笑であった。

日本建築学会計画委員会春季学術研究会は、ツアーとして胡同の見学に一時間ほどの時間をとった。故宮の北、鐘楼・鼓楼のある周辺地区で保存地区に指定されている。北京大学 環境学院 都市·地域計画系の呂斌教授の研究室の周さんがその保存修景の取り組みを報告してくれたが、日本のまちづくりとよく似ている。呂先生は日本で学んだことがある。しかしそれにしても、胡同の雰囲気を残す地区は極めて少なくなりつつある。見学した地区は、外人観光客のために人力車が何台も並んでいるそんな地区である。隣接して「菊児胡同」という地区があり、四合院型集合住宅がある。日本で言えば、京都の町家型集合住宅である。中庭を活かしながら二階建て、三階建てに立体化する。スケールもそう威圧的でなく、なかなかいい。今度、再び訪れて、この方向の選択はなかったのか、とつくづく思った。


今回の企画の事務局を勤めた滋賀県立大学の博士後期課程の川井操君が中国都市の回族地区の街区組織を研究テーマとしているというので、清真寺(モスク)のある朝陽門地区と外城の牛街を歩いた。朝陽門地区は、それなりの雰囲気は維持していたが、表通りに面した地区は高層ビルやオフィスにすっかり建て替わっていた。びっくりしたのは牛街で、つい最近まで平屋の四合院が残っていたけれど、ほとんどが一八階建ての高層アパートになっている。

「国六条」によって小型住宅開発が盛んに行われるようになる一方、リノベーションも盛んだという。驚いたことに一九八〇年代、さらには一九九〇年代に建設された「物件」もリノベーションの対象になっているという。また、市の北東部の三里屯、金融街など商業地区の再編成も盛んである。さらに、都市周辺部の中心部への取り込み、すなわち、郊外地の開発がどんどん進んでいる。まさにバブリー北京である。


天安門広場に面した国立博物館のすぐ裏手に「北京城市企画展覧場」がつくられ、北京の中心地区の模型が展示されている。上海にもあるが、二層の吹き抜け空間ワンフロア全体を使ったその展示は圧巻である。模型から北京の変貌振りが伝わってくる。

中国の首都北京はどこへ行くのか。

 


 

2021年10月12日火曜日

北京激変  オリンピック前夜の狂騒 上

 北京激変  オリンピック前夜の狂騒 上,日刊建設工業新聞,20070629

北京激変  オリンピック前夜の狂騒 下,日刊建設工業新聞,20070706

 

北京激変 オリンピック前夜の狂騒    

 日本建築学会計画委員会の春期学術研究集会で北京へ行ってきた(五月三一日~六月三日)。昨年のソウルに続いての海外開催である。参加者は九四名、国士舘(ジョージ国広引率)、東北大(小野田泰明引率)をはじめとして、滋賀県立大学、東京理科大学、武蔵野大学、首都大学など学生の参加が五〇名にのぼった。大盛況である。アジアは実に身近になった。

北京は四年ぶりであったが、その変貌には、眼を見張った。オリンピック施設を中心に至る所にクレーンが建つ。車が増えて、渋滞につかまる。それに黄砂にスモッグである。

まず、中国建築学会を訪問、アジア建築交流国際シンポジウム(ISAIA)を通じて旧知の張百平事務局次長のセットで、周畅先生の説明(「北京的新建筑」)を受けた。北京中心ではあったけれど、無慮二百を超える中国の新建築の画像を見せられて、その百花繚乱のエネルギーに眩暈を覚えそうであった。中国建築界は、いまや遠い過去のように思えるバブル期の日本を遥かに凌駕している。

北京を車で走ると、街並み景観の層を容易に見て取れる。十八世紀の乾隆帝の時代にも遡る胡同(フートン、路地)は最早風前の灯であるが、表通りの骨格をつくっているのが五十年代末から六十年代にかけての「ソビエト風」の近代建築である。天安門広場の両翼を固める「人民大会堂」と「国立博物館」がその代表であり、随所に建てられた六階建ての共同住宅が北京の景観の「地」を造っている。そして、中国風「帝冠様式」の時代が訪れ、伝統的建築の屋根を模したビルが点々と建っている。北京駅がその代表である。続いて、八〇年代以降、超高層アパートの時代がくる。改革開放の掛声とともに、ポストモダンの建築が移植され、オリンピック(二〇〇八年)と上海環境博(二〇一〇年)を迎える今日の「建築自由」の時代が来る。「十大建築師」の時代は過ぎ去りつつあり、四〇歳代から五〇歳代にかけての建築家がリーディング・アーキテクトとして登場しつつある。

「鳥の巣」(国立競技場)と「泡」(国立水泳競技場)、二つのオリンピック施設の超目玉は、北京の歴史的都市軸線上、「四環(第四環状線)」に、左右に向き合って、ほぼその姿を見せていた。残念ながら、工事現場には入れなかった。レム・コールハウスの中央電子台(CCTV)は、ほぼ鉄骨が組みあがり、空中部分がこれから繋がり始めるところである。人民大会堂に接して巨大な卵形のオペラハウスがほぼ完成している。

単なるバブリーな建築ばかりではない。中国建築の百花繚乱には、可能性に満ちた様々な方向性がある。中でも面白いと思ったのは、「七九八」という「芸術家村」である。もとは地雷を造っていた工場だというが、その工場街区全体をギャラリー、美術館にコンヴァージョンしたプロジェクトである。天井の半ヴォールトに「毛沢東万歳」などという文字がそのまま残されていたりする。世界で最先端の建築デザインを様々なレヴェルで受容する中国の懐の深さを垣間見たような気がした。

一方、中国の環境問題は深刻である。北京大学での講演で、穐原雅人(トウ・イ)君が旱魃や洪水など異常気象を陰の中国の問題として指摘してくれたけれど、北京に数日滞在しただけでもそれは実感できた。とにかく建設ラッシュである。日本で五年かかる工事が五ヶ月でできる、というのはオーヴァーにしても、ものすごい建設量である。日本で鉄が盗まれる、その行き先は明らかに北京なのである。