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2022年2月11日金曜日

歴博国際シンポジウム 2007 日中比較建築文化史の構築 ─宮殿・寺廟・住宅─2007年12月8日~9日

               歴博国際シンポジウム 2007

日中比較建築文化史の構築 ─宮殿・寺廟・住宅─

                         International Symposium 2007

Creating the framework for a comparative history of Japanese and Chinese architecture

palaces, religious structures, dwellings

 

  第1日 2007128日(土)

10:0010:45 

開会挨拶   平川 南(国立歴史民俗博物館館長)

趣旨説明   玉井哲雄「日中比較建築文化史の意義と展望」(国立歴史民俗博物館)

10:4512:00

基調講演    田中 淡「日本における中国建築史研究()(京大人文科学研究所)

12:0015:00 昼食休憩と博物館見学(解説 玉井哲雄)

15:0017:30

セッション1 東アジアにおける寺廟建築の系譜

エリカ A.フォルテ(ウイーン大学)

光井 渉 (東京芸術大学)

コメント    何 培斌 (香港中文大学・建築学系)

 

18:0020:00 懇親会

 

  第2日 2007129日(日)

09:3012:00

セッション2 日本と中国の宮殿建築

蕭 紅顔(南京大学建築研究所)

              溝口正人(名古屋市立大学)

コメント   川本重雄(京都女子大)

12:0013:00 昼食休憩

13:0015:00

セッション3 日本と中国の住宅建築の比較

              程 建軍(華南理工大学)

       藤川昌樹(筑波大学)

コメント   黄 蘭翔(台湾大学) 

15:0015:30 休憩

15:3017:30

総合討論

コメント   佐藤浩司(国立民族学博物館)

       布野修司(滋賀県立大学)

     大田省一(東京大学生産技術研究所)

総括     金 東旭(京畿大学校)



2022年2月10日木曜日

J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

  14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

J.シラスのこと

布野修司

 

 インドネシアに最初に行ったのは一九七九年一月のことだ。そして、その後毎年のように通うきっかけとなったひとりの男に運命的に出会った。

 ある建築家を訪ねてバンドンの研究所へ出かけた時、たまたま居合わせたのが彼だった。ひょろっとして目が鋭いのが印象的だった。彼はカリマンタン(ボルネオ)出身の陸ダヤク族である。ガリガリなところは僕と似ている。まるで兄弟のようだと松山巌さんは評した。とにかく妙に気があって親しくつき合ってきた。というより師事してきたと言った方がいい。一回りも年は違うのだ。スラバヤの彼の下で実に多くのことを学んだ二〇年間である。

 彼はこの二〇年の間に随分有名になった。スラバヤのカンポン改善事業でイスラーム圏のすぐれた建築を顕彰するアガ・カーン賞を受賞するなど数々の賞を手にしている。インドネシアだけでなくアジアの住宅問題、都市問題に関するエキスパートとしてひっぱりだこだ。

 昨年、そうした彼を京都大学の東南アジア研究センターが、半年間、客員教授として招いた。僕が恩返しをする番である。毎週のように研究室に招いた。びっくりしたのは、中国の留学生と和気合々と中国語をしゃべることだ。オランダ語、フランス語もペラペラで語学の天才なのだ。来日するや日本語の学習を始めた。研究室の学生たちが家庭教師だ。六〇歳を超えて猶真摯に学ぶ姿勢に撃たれた。

 半年の滞在期間にインドネシアの都市の未来について英語の本を一冊書いた。朝から夕刻まで規則正しく仕事をしていた。呼ばれたシンポジウムにもきちんとペーパーを書いた。超真面目である。怠惰な我が身を恥じるばかりだった。

 インドネシアはこの一年大変であった。経済危機に政変が続き、後ろ髪を引かれる思いの来日である。研究室の山本直彦がスラバヤに留学していることもあって日々刻々と情報は入ってきていた。随分議論した。離れてかえって冷静に情勢が分析できたのかも知れない。インドネシアで建築・都市計画分野のプロフェッサーは四人しかいない。彼の同僚はハビビ政権の閣僚を勤める。彼は帰国に際して何かを決断したようであった。



『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年2月9日水曜日

ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

ダム成金の家

布野修 

 出身だからという縁で、島根県の出雲でいくつかの仕事をさせて頂いている。なかでも「出雲市まちづくり景観賞」「しまね景観賞」の審査は毎年楽しみだ。前者は今年で九回目、後者は六回目になる。毎年出かけていって、故郷各地を見て回る。役得というべきか。

 年々新しい建物ができる。また、年々土木工事が進む。地域の景観を変えるのが公共事業であることがよくわかる。多くの自治体が、この間景観条例をつくり、景観賞という名の顕彰制度を設けたのはバブル経済による「景観破壊」に対する危機感であった。しかし、その主犯は多くの場合公共事業なのである。

 評判が悪いのが、崖面や法面をコンクリートで固める工法である。三面貼りと言われるコンクリートで河岸と河床を固める河川の改修、高速道路や高架鉄道の足桁もそうだ。でも、確実に変化は起こりつつあることもわかる。親自然型、多自然型と呼ばれる河川改修が大流行である。お金をかけて自然を壊して、お金をかけて見かけだけもとに戻す。何をやっているかわからない。

 農村の景観にとっては、耕作放棄が決定的である。人の営みがなければ景観が荒れるのは当然だ。気になるのが山間に突如現れる御殿群である。ダム建設のための移転補償による住宅群だ。あからさまな欲望を表現していて見る方が恥ずかしい。自分の中にもそうした欲望が蠢いているせいか。固定資産税が払えなくて手放したという悲喜劇もある。

 景観賞の応募作にダム成金の家が多いのはうんざりだけれど、今年の一件はひと味違った。自分の住んでいた家をそのまま移したのである。二倍の費用がかかったという。

 正直言って、写真のみの一次審査では何の興味も沸かなかった。たまたま、視察に行く担当になって、百年以上は経ったずいぶん立派な民家だと知った。使われている柱や梁の太さはすごい。今建てようと思っても無理だ。家主の拘りも「一瞬にして了解」である。

 審査会では「古い民家をただ移築した、それだけです」と報告しただけだ。しかし、なんと大賞をとってしまった。僕ももちろん一票投じたけど一寸驚いた。



『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

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23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

  

2022年2月7日月曜日

カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

 12 カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

カピス貝の町

布野修司

 

 フィリピンでは散々であった。フィリピン航空のストライキで足がない。ヴィガンへの四〇〇キロは車をチャーターすることになった。高速道路などないから半日以上かかる。おまけに台風だ。マニラは水浸しである。洪水の中を走って、マニラを抜けるのに二時間もかかる。早朝出発したのに着いたのは深夜である。帰りには橋が流されていて、遠回りする始末だった。

 しかし、それにも関わらずかってのスペインの植民都市ヴィガンへ行ったのは最高であった。ハノイ、マラッカ、ジョージタウン(ペナン)・・・ヨーロッパ人が造った東南アジアの都市は随分見てきたけれど、こんな街が残されているとは全く知らなかった。ガイドブックに載っていないのが不思議である。世界遺産に登録されてもおかしくない。植民都市として世界文化遺産に登録された都市にスリランカのゴールがある。行ってみたけど、ヴィガンはまさるともおとらない。

 ヨーロッパ風の街並みの中で何よりも興味深いのが障子窓だ。格子の枠は日本より細かい正方形だ。フィリピンに流されたキリシタン大名が伝えたという説があるのも面白い。しかし、白く見えるのは紙ではなくて貝である。カピス貝と呼ばれる貝を薄く剥がして木の格子に挟んである。貝を通して室内に入ってくる光がなんとも優雅である。そのカピス貝の窓が連続した街並みをつくっている。

 ヴィガンではD.キングというすばらしい人にあった。ヴィガンのことは何でも知っている郷土史家である。歳は五〇代前半で若く、普段は食堂を経営しているただのおじさんに見えるけど、心底すごい。英語の本も書いているけれどスペイン語も自由自在である。なにより記憶力がすごい。一緒にヴィガンの町を歩くと喋りっぱなしである。この家は一七四〇年に建てられ、元々誰彼の所有でその後どうなって・・・とまるで生き字引だ。

 そのキング氏がいうには、この町が爆撃されなかったのは、ある日本軍人が八月一五日の撤退直前、広場に巨大な白旗を置いて、爆撃するなと米軍機に知らせたからだという。そして、その裏には、現地のメスチソ女性とその日本軍人との恋物語があったという。




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

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18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

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2022年2月6日日曜日

ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

ヴィガン

布野修司

 

 この夏スペインを訪れたのは、ヴィガンというフィリピンの町(北ルソンの南イロコスの州都)の存在を知ったからであった。実際ヴィガンを訪れて驚いた。煉瓦造の住宅が建ち並ぶ、一見ヨーロッパ風の、世界文化遺産に登録されようかという町なのである。

 フェルナンディナと呼ばれたこの町の名は、4歳にして死んだフェリペ二世の息子に因んでいる。そしてフィリピンという名がそもそもフェリペ二世に由来している。そんな興味に導かれてのスペイン行であった。

 マドリッドの北西、電車で一時間ほどの所にエル・エスコリアルという静かな町がある。フェリペ二世のつくった離宮がある。今年は没後丁度四〇〇年ということで大規模なフェリペ二世展が開かれていた。離宮は驚くべき建築である。スペイン・ルネッサンスを代表する建築であり、その威容を誇るが、異常なほど簡素である。要するに装飾的要素がほとんどない。窓など単に穿たれているだけだ。

 この几帳面な建築をデザインしたのはエレーラといい、トレドのアルカサル、セヴィリアのインディアス古文書館も彼の手になる。エレーラ様式と呼ばれるその美学を支持し、登用したのがフェリペ二世だ。エル・エスコリアルのプランはひとつのマンダラである。正方形の繰り返しの中に理想都市の理念が込められているようにも思える。そして、一九七三年、フェリペ二世は、植民都市の計画原理を示す勅令を出した。

 建築家には評判が悪い。全ての中南米の植民都市を画一的なグリッド・パターンにした原因と考えられているからだ。丁度フェリペ二世が王位を継いだ頃から征服(コンキスタ)は原則として禁止され、本格的な都市建設が開始される。スペイン的な生活様式がストレートに持ち込まれる契機となったのが勅令である。

 勅令が出されたその年(あるいは前年)、スペインはヴィガンに上陸、都市建設を開始する。ヴィガンにフェリペ二世の勅令は届いたに違いない。フェリペ二世の臭いを嗅ぎつけるのが今回の目的だ。しかし、別の臭いも充分嗅いだ。その中に、この町が爆撃を逃れたのは、日本の軍人のおかげであるという話がある。



 

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

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10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

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16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

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23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

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2022年2月5日土曜日

インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

インド・サラセン様式

布野修司

  再びチェンナイ(マドラス)に戻ってきた。五週間の旅となるといささか長い。毎日が日曜日だが、異国の事物に刺激されて欲張ってつい見に行ったり、食べに行ったりするから休息日がない。疲れが身体の芯に蓄積される感じだ。ぜいたくというべきか。見知らぬ土地を見てその土地のことを学ぶのは無上の歓びである。問題は刺激が多すぎて脳味噌の許容量を情報が溢れてしまうことだ。

 チェンナイではジョージタウンの調査に手をつけた。英国がインドで最初にその拠点を置いたところだ。ヨーロッパ人たちは城壁内に住み、インド人たちは要塞の北に住んだ。それぞれホワイトタウン、ブラックタウンと呼ばれる。そのブラックタウンが今日のジョージタウンだ。

 実に賑やかな町である。日中から人通りが絶えない。眼鏡、自転車、工具、電器、鉄管、チューブ、ハードウエア・・・それぞれの通りに固まってある。インドのジャーティ制(職業分離)のせいか。

 ジョージタウンを歩き回っていて日本語の堪能な老人に会った。船乗りで日本に何度も行ったのだという。チェンナイは国際都市だ。彼によると、テルグ語、タミール語、ヒンディ語、ウルドゥ語、中国語が飛び交っているのだという。

 歩いていると植民地時代に建てられた独特の様式に気づく。インド・サラセン様式と呼ばれる英国人建築家によるコロニアル建築だ。西欧建築を基礎にしながら、イスラーム建築とヒンドゥー建築の要素が巧みに取り入れられている。ハイコート(最高裁判所)がその代表である。また、マドラス大学評議員会館もなかなかの迫力だ。列柱を並べたヴェランダを周囲に回すバンガロー形式が特徴であるが、細部に様々な要素が折衷されている。

 思えば、わが国の近代建築も英国の影響下に出発した。弱冠二五、六歳のJ.コンドルが先生である。彼はマドラス経由で日本に来たに違いない。彼の設計した鹿鳴館を思い出す。彼が当初日本建築に相応しいとイメージしたのはインド・サラセン様式なのである。伊東忠太の築地本願寺にもインドが濃厚に入り込んでいる。しかし何故か、コンドル・忠太以降、日本建築はインドもサラセンも無縁のものとしてきた。



 

『室内』おしまいの頁で199801199912

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02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

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11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

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2022年2月4日金曜日

桟留,おしまいの頁で,室内,199809

 09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

桟留(サントメ)

布野修司

 

 桟留とは江戸時代に流行った舶来の縞織物のことだ。唐桟(とうざん)縞ともいう。唐すなわち外国産ということだ。最も人気があったのが縦縞の桟留で、文化文政の「いき」な趣味を代表するとされる(九鬼周造『いきの構造』)。「奥島」ともいって当初は大奥で将軍家が愛好した。オランダの商館長が献上したのがきっかけである。やがて、武士層や富裕な町民層に広まっていったのであろう、浮世絵にも沢山描かれている。基本色は藍、白茶けた赤、白である。いかにも斬新なファッションに思えるではないか。

 何故、桟留かというと、今、南インドのマドラス(ボンベイがムンバイになったようにチェンナイと名を昨年変えた)に居ることと関係がある。桟留とはマドラスのことなのである。正確には現在のマドラスにあるサントメのことだ。驚くべきことに、その地名は聖トーマスから来ているという。説ではない事実である。早速、サントメ教会に行ってみた。何の変哲もない教会がそこにあった。しかし、南インドの一隅に聖者が祀られていて、奇蹟を起こすという話は一三世紀頃からくり返し西欧に伝わっていた。マルコ・ポーロも、現在のマドラス付近に聖トーマスの遺体が安置されていると書いているのである。キリストの十二使徒の一人、聖トーマスが何故南インドの地名に変身し、近世日本の「粋」文化を飾る木綿縞に転じたのかは、重松伸司著『マドラス物語』(中公新書)をお読み頂きたい。東西の交渉史は実にダイナミックで面白い。オランダは北へ三〇キロ程のプリカットを拠点にしていた。長崎(出島)ーバタヴィアープリカットというネットワークで桟留が日本に供給されていたのである。因みにキャラコというのもインドのカリカットから来ている。

 マドラスの属するタミル・ナドゥ州を中心に話されるタミル語が日本語の起源だという有力な説(大野晋)がある。マドラス大学には日本研究センターが設立されるほどだ。マドラスの各寺院には京都の祇園祭のような山車祭りがある。といった様々な興味でマドラスにやってきた。というと格好がいいのであるが、やってきて見聞きしてはじめてサントメのことを知ったというのが本当のところだ。



 

『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

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07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年2月3日木曜日

木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

 07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

木匠塾

布野修司

 

 藤沢好一(芝浦工大)、安藤正雄(千葉大)の両先生と「木匠塾」(太田邦夫塾頭)なるものを始めて八年になる。第一回は、岐阜県の高根村、当初は「飛騨高山木匠塾」と称した。きっかけは「製品事業所(野麦峠)を買いませんか」という話であった。全国の営林局は伐採のために各地に製品事業所(宿泊所)を持っているけれど使わないものがある。もったいないから、再利用したらということだ。紆余曲折の末、一五〇坪ほどの宿舎を払い下げてもらって村に寄付した。

 「木匠塾」というけれど、大学の夏期合同合宿のようなものだ。集まってわいわいがやがや。森を見たり、家具工場を見学したり、まあ、半分遊びである。最近の学生は、虫が駄目である。また、汲み取り便所が駄目である。いかに、人工的な都会の無菌状態で育っているかがよくわかる。年に一度自然の中で暮らすのも意味あるだろうというのは確信である。

 そのうち、何か創ろう、という話になった。宿舎を直そう、という声も出てきた。いつの間にか八大学を超え、参加者はゆうに一〇〇人を超えるようになった。各大学でアイディアを出してそれを自分たちで造ることが中心になった。僕など「木匠塾」なのに登り釜(正確には蛇釜という)など造った。

  そうしているうちに、東美濃の加子母村(粥川村長)から声がかかった。「うちでもやりませんか」。東濃檜で知られ、産直住宅を手掛ける。伊勢神宮の神宮備林も著名。学生の自主性に任せる、という条件で、拠点が二カ所になった。

 学生たちは、大学対抗のコンペをやってバンガローを造った。また、バス停を直した。かなり大きな物見台も、村の大工さんと協同で作り出した。出来映えは結構すごい。何よりも学生たちが活き活きしている。

 そして、今年、渡辺豊和(京都造形大)さんの仲介で秋田県の角館(高橋町長)を拠点に「東北木匠塾」を始めることになった。去る五月一五日、八戸工大、東北芸術工大、東北工大、東北大、日大工学部などが集まって学生主体に計画を練った。熱気むんむんであった。さらに、奈良県川上村でも「木匠塾」(滋賀県立大学、大阪芸術大学など)が始まる。







『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年2月2日水曜日

秦家,おしまいの頁で,室内,199806

 

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

「秦家」

布野修司

 

 

 山本夏彦先生が戦後初めて京都にお見えになったと聞いて心底驚いた。そして一力へ行かれたと知って、さすがだ、と思った。僕なんか、京都に移住して七年目になるけど、一力など行ったことがない。一生住んでも縁がないだろう、と思うとなんとなく情けない。

 「夏彦先生、また、是非京都に来て下さい。お願いします。「一力」連れてって下さい、というのは冗談ですが、一軒お店というか、京町家を紹介します。「秦家(はたけ)」といいます。」

 以下「秦家」の宣伝である。

 「秦家」は、祇園祭に「太子山」(たいしやま)を出す太子山町(油小路仏光寺下ル〇七五ー三五一ー二五六五)にある。表構えに「奇應丸」の看板が上がっていて、ひときわ目立つ。江戸時代から一二代にわたって続いた、「太子山奇應丸」という漢方薬で知られた老舗である。

 表の店の部分の建設が明治二年。元治元年(一八六四年)の京都大火(どんどん焼け)で京町家の大半は焼けているから、最古の町家のひとつと言っていい。表構えのみならず、随所に洒落た意匠が仕組まれており、京町家の精髄を味わうことができる。京都市登録有形文化財に指定されているのもその意匠の水準の故にである。

 一〇年ほど前に廃業ということになって「秦家」は大きな転機を迎えた。税金、修繕費など町家を維持していくのは大変である。現代生活に合わない面もある。

 「秦家」の隣に一〇階建てのマンションが建つ。実に奇妙な感覚に陥る。どちらに未来があるのか。京都には、今なお数多くの京町家が残るけれど、その運命や如何に。小さな会合で「秦家」に寄せて頂く度に思うのは、その行く末である。

 京町家(木造住宅)を残せ、などというのは不自然だ。消え去るべきものは消え去るのみと、夏彦先生なら言うんじゃないか。「秦家」の空間とお料理を心から味わって頂くのはもちろんであるが、その後で、ひとこと聞いてみたい。

 京都に来てずっと考えているのだけれど、僕にはなかなか答えが見つからない。

 夏彦先生、もう一度は京都へいらして、山鉾町あたりも歩いて下さい。祇園祭の頃は如何ですか。


『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912