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2024年9月18日水曜日

「建築家」の居る場所,世紀末建築論ノートⅤ,学芸出版社,建築思潮05,1997(『裸の建築家』収録)

 「建築家」の居る場所

 

 日本の「建築家」

 日本の「建築家」とは何か。いささか気の重い問いである。すぐさま、日本に「建築家」は果たしているのか、という問いが返ってきそうなのである。

 一応日本では「建築士」の資格をもつのが「建築家」ということになるのかもしれない。「一級建築士」「二級建築士」「木造建築士」を合わせると八〇万人ぐらいになる*[i]。しかし、すべてが「建築家」というわけにはいかないし、そうした資格と関係なく「建築家」を自称し、あるいは周囲から認められている場合もある。「建築士」の資格をもった人材は、様々な場所に所属している。総合建設業や住宅メーカー、さらには様々な建材・部品メーカーなど建設産業に関わる諸分野、建築行政の分野などに、むしろ数多く分布する。「建築士事務所」ということになると、一級二級合わせて、一五万社ぐらいになるであろうか。「建築士事務所」といっても、「大手組織事務所」から「アトリエ事務所」まで様々であり、組織の主宰者と組織内の「建築士」との違いもある。

 「建築士」に関わる団体というと「日本建築士会」(連合会)*[ii]「全日本建築士会」*[iii]があるけれど、他に「日本建築家協会」(JIA)*[iv]、「日本建築協会」*[v]がある。また、「日本建築事務所協会」*[vi]がある。職能としての「建築家」の理念を掲げる団体が「日本建築家協会」であり、そこに所属するのが日本の「建築家」ということになるかもしれないのであるが、そこに所属しない「建築家」も少なくない。また、団体に加盟するかどうかが「建築士事務所」の質を実態として区別しているわけではない。

 「建築家」とは何か、明確な基準などないのである。建築に関わる全員が「建築家」を自称しうるし、また、定義によってはひとりも「建築家」などいないともいるのである。そうしたなかで、「建築家」と非「建築家」(建築屋)を区別する機能を担っているように思えるのが、建築に関するメディア(建築専門誌)である。建築ジャーナリズムに取り上げられ、そこに作品を発表することにおいて「建築家」として認知されるのである。また、いくつかの顕彰制度が「建築家」のランク分けに関わっている。

 メディアも顕彰制度も様々に階層化されており、「建築家」は序列化される。しかし、全体としてその評価システムは閉じており、建築業界内の「建築家」という評価は一般に知られることがない。マスコミで、「建築」が取り上げられる場合、「建築家」の名前が示されることがないことが日本の「建築家」の危うさを示している。一般には「建築」ではなく「建物」(建造物)であり、それを建てるのは「建築家」でなく「建設業者」なのである。

 

 「建築家」捜し

 原広司の「建築とは何か」を問うより、「建築に何が可能か」*[vii]を問うべきだというテーゼにならえば、「建築家」という概念を括弧にくくって、あるいは棚上げして、「建築家」に何ができるか、あるいは「建築家」は何をすべきかこそを問うべきかもしれない。

 磯崎新の『建築家捜し』という本のタイトルは意味深長である。その内容は、「建築家とは何か」を真正面から問うというより、自らの仕事を回顧し、一区切りをつけようとしたものである。一九九六年に入って、『造物主議論』(鹿島出版会)『始源のもどき』(鹿島出版会)『磯崎新の仕事術』(王国社)、そして『建築家捜し』(岩波書店)と立て続けに四冊の著書を磯崎は上梓したのであるが、確実に磯崎にとってのある時代が終わりつつあることを暗示していて興味深い。そして、さらに興味深いのは、日本の建築界をリードし続けたその磯崎が、自らの軌跡を振り返って、「建築家」とは一体何者なのかわからない、と言い切っていることである。

 「正直なところ、私には二つのコトが本当にわかっているように感じられなかった。ひとつは、普段に私が自称している建築家であり、もうひとつは日常的にそれについて仕事をしているはずの《建築》である。この二つのコトを排除したら私はなにも残っていないだろう。建築家を自称し、職業として登録している。そして、建築物のデザインをし、建築物についての文章を書き、これに関わる言説をひねり、文化や思想の領域にそれを接続しようとしてもいる。だが、と私は自問していた。本当のところ何もわかっちゃいないんじゃないか。」*[viii]

 磯崎ですらこうである。というより、ここには「建築家とは何か」という問いの平面が仮構されていることをまずみるべきだろう。「建築家」をめぐる観念的な、あるいは一般的な問いの領域が必要とされてきたのである。磯崎の「建築家」論には、その現実的な存在形態についての問いが抜けている。社会や生産システムのなかの「建築家」のあり方についての問いである。逆にいうと、「建築家」捜しを続けないと「建築家」がなりたたない現実があるということである。「建築家」の営為をなりたたせる平面、場所を仮構し続けながら、結局わからないといわざるを得ない、のである。

 

 「世界建築家」・・・デミウルゴスの末裔たち

 「建築家とは・・・である」と、古来様々なことがいわれてきた。いくつか集めてみたことがある*[ix]。アンブローズ・ビアス*[x]0の『悪魔の辞典』は「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」*[xi]1などと皮肉たっぷりであるけれど、決まって引かれるのは、最古の建築書、ヴィトルヴィウス*[xii]2の『建築十書』の第一書第一章である。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」

 「建築家」にはあらゆる能力が要求される、とヴィトルヴィウスはいうのだ。

 「建築家」という職能は相当古くからあった。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、「建築家」の天才が必要であったはずだ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられているのである。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ジェセル王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムヘテプ*[xiii]3によるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師でもあった。

 伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルス*[xiv]4がいる。彼もただの建築家ではない。形態や仕掛けの発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味する。

 磯崎新が「建築家」の原像として召喚するのがデミウルゴスである。

 「デミウルゴスは、プラトンが宇宙の創生を語るに当たって『ティマイオス』に登場させられた。宇宙は三つの究極原理によって生成する。造形する神としてのデミウルゴス、眼にみえぬ永遠のモデルとしてのイデア、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアをモデルとしての場(コーラ)のふるいにかけた上で生成する役割を担わされている。」*[xv]5

 磯崎新の「造物主義」という論文は、デミウルゴス(という概念)*[xvi]6の帰趨を論ずる形の西洋建築史の試みである。

 「デミウルゴスは、『ティマイオス』においては造物主、グノーシス主義においては神の使者、フィチーノにおいては芸術家、フリーメーソンでは大宇宙の建築家、ニーチェにおいてはツァラストラと姿を変えて語られてきた。そして、今日ではテクノクラートのなかにエイリアンのように寄生しているようにみうけられる。」*[xvii]7

 デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指している。必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない。グノーシス主義においては「欠陥ある被造物」にすぎない。僕らはここでオイコス(家)に関わる職人としてのオイコドモス、オイコドミケ・テクネ(造家術)と「アーキテクトニケ・テクネ」(建築術、都市術)の系譜を歴史に即して跡づけるべきなのであろう*[xviii]8

 しかし、宇宙の創生神話と結びついたデミウルゴスのイメージは強烈である。根源的技術(アーキ・テクトン)を司る「建築家=アーキテクト」の概念にも確実にデミウルゴスの概念が侵入しているのである。

 「建築家」は、すべてを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。ルネサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての建築家である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ*[xix]9、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに使命感を抱くのである。

 そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。「建築家」になるためには、強度なコンプレックスの裏返しの自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。A.ヒトラー*[xx]0がいい例だ。かって、「建築家」はファシストか、と喝破した文芸評論家がいたのだけれど、「建築家」にはもともとそういうところがある。

 

 分裂する「建築家」像

 「建築家」の社会的な存在形態は、時代とともに推移していく。S.コストフの編んだ『建築家』*[xxi]1という本が、エジプト・ギリシャ、ローマ、中世、ルネサンス、・・・と、各時代の建築家について明らかにしているところだ。その中では、ジョン・ウイルトンエリーがイギリスにおける職業建築家の勃興について書いている*[xxii]2

  イギリスで最初に自らを建築家と呼んだのは、イニゴー・ジョーンズ*[xxiii]3(一573ー一652年)ではなくてジョン・シャテである。一五六三年のことだ。その出自は定かではないが、イタリアで学んだらしい。彼は、ヴィトルヴィウス*[xxiv]4、アルベルティ*[xxv]5、セルリオ*[xxvi]6を引きながら、ルネサンスの普遍人としての「建築家」を理想化する。描画、測量、幾何学、算術、光学に長けているだけでなく、医学、天文学、文学、歴史、哲学にも造詣が深いのが「建築家」である。ウイルトンエリーは、もちろん、シャテの理想が受け入れられる社会的背景を明らかにした上で、まずはサーヴェイヤー(監督 測量士)が生まれてくる過程を跡づける。フリー・メイソンのロバート・スミッソンなどの名前が最初期のサーヴェイヤーとして知られる。そして、イニゴー・ジョーンズの時代が来る。

 時代は下って、一八世紀後半に至ると、デザイナーであり、サーヴェイヤーであり、学識者である「建築家」のプロフェッションが社会的に認知されてくる。それを示すのが、「建築家」のオフィスや教育機関の設立である。また、「建築家」の諸団体の成立である。

 ジョージ・ダンス*[xxvii]7、ヘンリー・ホランド等によって「建築家クラブ」が設立されたのは一七九一年のことである。チェンバース*[xxviii]8、アダムズは後に加わるのであるが、そのクラブは極めて排他的であり、メンバーは王立アカデミー会員に限定されたものであった。一種のサロン、ダイニング・クラブであるが、最初の「建築家」の団体が極めて特権的なものとして設立されたことは記憶されていい。まずは、新しい職能としての「建築家」と伝統的な「建築家」の区別が行われるのである。さらに、サーヴェイヤーとアーキテクトの区別がはっきりしてくる。「サーヴェイヤーズ・クラブ」が設立されるのは一七九二年のことであった。一七七四年に建築基準法(ビルディング・アクト)が施行されており、それに基づいた職能が社会的に認知されたことに対応してつくられたのである。

  同じ分離は、エンジニアとアーキテクトの間にも起こる。一七七一年に「シビル・エンジニア協会」が設立され、一八一八年には「シビル・エンジニア協会」が設立されるのである。エンジニアとアーキテクトの関係が決定的になるのは「英国建築協会」(RIBA)の設立(一八三四年)からであり、ビクトリア女王が王立の名を与えて(一八六六年)からのことである。

 

 落ちぶれたミケランジェロ

 アーキテクトの職能確立の過程で以上のような分離、分裂が始まっていた。否、むしろ、今日の「建築家」の理念は、以上のような分離、分裂において成立したとみるべきであろう。

 以後、広く流布する「建築家」像が「フリー・アーキテクト」である。フリーランスの「建築家」という意味である。今でも建前として最も拠り所にされている「建築家」像である。すなわち、「建築家」は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての、創造者としての存在である、というのである。もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが「建築家」という規定である。施主に雇われ、その代理人としてその利益を養護する弁護士をイメージすればわかりやすいだろう。医者と弁護士と並んで、「建築家」の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられている。

 もちろん、こうした「建築家」像は幻想である。いかなる根拠においてこうした「建築家」がなりたつのか。すなわち、「第三者」でありうるのか。その根拠として、西欧的市民社会の成熟、あるいはキリスト教社会におけるプロフェッションの重みが強調されるけれど、「建築家」たちが社会的に存在するにはそれを支える制度がある。建てる論理の前に食う論理がある。ジョージ・ダンスの建築家クラブも、専ら報酬のことを問題としていた。

 彼らは、「建築家」という理念の解体を目前にしながら、その理念を幻想として維持するために特権的な制度=インスティチュートをつくったのである。「建築家」は、予め、先の諸分裂に加えて、建てる論理と食う論理の分裂を自らの内に抱え込みながらながら成立したのだといっていい。そして、イギリスにおいて、そうした幻想としての「建築家」像を担保したのは「王立」組織(「王権」)であり、「神」(あるいはデミウルゴス)であった。

 しかし、いずれにせよ、万能人としての「建築家」像の分裂は、近代社会において誰の眼にも明らかになった。その分裂は、多くのすぐれた「建築家」の嘆くところとなる。

 「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、建築家ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン

 「ローマの時代の有名な建築家のほとんどがエンジニアであったことは注目に値する」 W R レサビー

 「建築家の仕事は、デザインをつくり、見積をつくることである。また、仕事を監督することである。さらに、異なった部分を測定し、評価することである。建築家は、その名誉と利益を検討すべき雇い主とその権利を保護すべき職人との媒介者である。その立場は、絶大なる信頼を要する。彼は彼が雇うものたちのミスや不注意、無知に責任を負う。加えて、労働者への支払いが予算を超えないように心を配る必要がある。もし以上が建築家の義務であるとすれば、建築家、建設者(ビルダー)、請負人の仕事は正しくはどのように統一されるのであろうか。」ジョーン・ソーン卿

 「歴史と文学を知らない弁護士は、機械的な単に働く石工にすぎない。歴史と文学についての知識をいくらかでももてば、自分を建築家だといってもいいかもしれない。」 ウォルター・スコット卿

 「建築家とは、今日思うに、悲劇のヒーローであり、ある種の落ちぶれたミケランジェロである」とニコラス・バグナルはいう。

 

 建築士=工学士+美術士

 「建築」あるいは「建築家」という概念が日本にもたらされて以来、日本も西欧の「建築」あるいは「建築家」をめぐる議論を引きずることとなった。あるいは「建築家」という幻想に翻弄されることになった。

 お雇い外国人技術者として日本に招かれたJ.コンドルは、シビル・エンジニアとアーキテクトの分離を前提として、イギリスからやってきた。しかし、サーヴェイヤーとアーキテクトの分離はJ.コンドルにおいて未分化だったといえるかもしれない。彼に求められたのは、何よりも実践的な技術であり、「建築家」としての実践であった。彼の工部大学校における講義は、「造る術」の全般に及ぶのである*[xxix]9

 J.コンドルを通じて、日本には、なにがしかの全体性をもった概念として「建築家」がもたらされたといってもいいかもしれない。しかし、富国強兵、殖産興業の旗印のもと、予め工学の枠を前提として「建築」が「技術」として導入されたことは日本の「建築家」を独特に方向づけることになった。美術ですら「技術」の一範疇として西欧から導入されたのが日本の近代なのである。

 そうした日本の「建築」の出自において、「建築」の本義を論じて、その理念の受容をこそ主張したのが伊東忠太であった*[xxx]0。その卒業論文『建築哲学』にしろ、建築学における最初の学位論文である『法隆寺建築論』にしろ、建築を美術の一科として成立させようという意図で貫かれているのである。

 しかし、日本の場合、地震という特殊な条件がさらにあった。建築における構造学を中心とする工学の優位はすぐさま明らかとなる。当初から、「建築」は分裂をはらんで導入されたのであった。建築における美術的要素の強調は、建築家の定義をめぐって、せいぜい「建築士=工学士+美術士」といったプラス・アルファーの位置づけに帰着するものでしかなかったのである。素朴な用美の二元論と同相の建築家像の二元論は、大正期の建築芸術非芸術論争に引き継がれ、いわゆる「芸術派」(自己派、内省派)と「構造派」の分裂につながっていく。明治末から大正期にかけて、住宅問題、都市問題への対応を迫られるなかで、「社会改良家としての建築家」(岡田信一郎)という概念も現れる。そして、大正末から昭和はじめにかけて、「芸術派」批判として「社会派」が定着していくことになる。しかし、それも、もうひとつ分裂の軸を付け加えるだけであった。「建築家」における「芸術派」「構造派」「社会派」の、相互につかず離れずの三竦(すくみ)みの構造は今日に至るまで生き延びることになる。日本における「建築」論がそうしたいくつかの分裂を背景として仮構されたのは明らかである。

 

 重層する差別の体系

  こうして、日本の建築界にはいくつもの分裂が組み込まれていく。日本の「建築家」像を問うのがうんざりするのは、様々な差別が重層するその閉じた構造の故にである。

 まず、建築(アーキテクチャー)と建物(ビルディング)の区別がある。それに対応して、「建築家」と「建築屋」の区別がある。

 あるいは、「建築」と「非建築」の区別がある。数寄屋は「建築」ではない。大工棟梁、職人の世界は「建築家」の世界と区別される。

 「建築」と「住宅」も区別される。さらに「住宅作品」と「住宅」が区別される。そうした区分に応じて「建築家」と「住宅作家」が区別される。

 「構造」と「意匠」が区別される。かって、「意匠」図案は婦女子のやること(佐野利器)とされたのであるが、なぜか「意匠」を担当するのが「建築家」だという雰囲気がある。さらに、建築界の専門分化に応じて、様々な区別がなされる。全体として、「建築家」と「技術屋」(エンジニア)が区別される。

 「設計」と「施工」が区別される。それに対応して、「建築士」と「請負業者」が区別される。この「設計」「施工」の分離をめぐっては、近代日本の建築史を貫く議論の歴史がある。建築士法の制定をめぐる熾烈な闘争の歴史がそうだ*[xxxi]1。戦前における、いわゆる「六条問題」、兼業の禁止規定問題は、「日本建築士会」と建設業界の最大の問題として、戦後の「建築士法」制定(一九五〇年)にもちこされるのである*[xxxii]2

 さらに、六〇年代における設計施工一貫か、分離かという建築界あげての論争が続く。そして、七〇年代は、日本建築家協会の設計料率の規定が公正取引委員会の独禁法違反に当たるという問題(「公取問題」)で建築界は揺れ続けた。

 冒頭に触れたように、法制度的には「建築士」という資格があるだけである。この「建築士」も「一級建築士」「二級建築士」「木造建築士」と差別化されている。資格だから、その業務の形態は、様々でありうる。総合建設業の組織内部の「建築士」、住宅メーカーのなかの「建築士」、自治体のなかの「建築士」など、企業組織のなかの「建築士」がむしろ一般的である。この点、古典的な「建築家」の理念を掲げる日本建築家協会を拠り所とする「建築家」たちも同じである。建築士事務所を主宰する場合、その組織は株式会社であり、有限会社であり、一般に利益追求する企業形態と変わりはないのである。その料率規定が独禁法に問われても仕方がないことであった。その高邁な「建築家」の理想を担保するものはないのである。だからこそ「職能法」の制定が求められ続けてきた、といえるのだけれど、「建築家」という職能を特権的に認知する社会的背景、基盤はないのである。

 「建築士事務所」も「組織事務所」と「アトリエ(個人)事務所」に分裂する。実態は同じであるけれど、建築ジャーナリズムが主としてその区別を前提とし、助長しているようにみえる。小規模な「建築士事務所」も、いわゆる「スター・アーキテクト」の事務所から、専ら確認申請のための設計図書の作成を業務とするいわゆる「代願事務所」まで序列化されている。

 建築教育に携わる「プロフェッサー・アーキテクト」は唯一特権的といえるかもしれない。「建築家」教育という理念が唯一の統合理念でありうるからである。しかし、実態として大学の空間で、要するに建築の現場から離れて、「建築家」教育ができるわけではない。という以前に、大学の建築教育のなかに以上のような様々なが分裂が侵入してしまっている。また、工業高校、工業専門学校等々を含めて、偏差値社会の編成によって大学も序列化され、産業界に接続されている。

 さらに、「施工」の世界、すなわち建設業界には、いわゆる重層下請構造がある。スーパー・ゼネコンに代表される総合建築業者がいくつかの専門工事業者(サブコン)を下請系列化し、専門工事業者は、また、二~三次の下請業者をもつ。数次の下請構造の末端が寄せ場である。ゼネコンのトップの意識のなかでは、寄せ場へ至るリクルートの最末端は、まるで別世界のことのようである。しかし、ゼネコン・トップは公共事業の受注をめぐって政治の世界と結びつき、地域へと仕事を環流させる役割を担って最末端に結びついている。そして、そこに建築行政の世界が絡まり合う。

 

 「建築家」の諸類型 

 こうした重層する差別体系のなかで個々の「建築家」は何をターゲットにしているのか。すべての建築家論の基底において問われるのは、その「建築家」がどこに居て何を拠り所としているかということだ。

 『アーキテクト』*[xxxiii]3という面白い本がある。アメリカの建築界が実によくわかる。日本の「建築家」は、欧米の建築家の社会的地位の高さを口にするけれど、そうでもないのである。その最後に、建築家のタイプが列挙してある。日本でも同じように「建築家」を分類してみることができるのではないか。

 名門建築家 エリート建築家  毛並がいい

 芸能人的建築家 態度や外見で判断される 派手派手しい

 プリマ・ドンナ型建築家   傲慢で横柄   尊大

 知性派建築家  ことば好き 思想 概念 歴史 理論 

 評論家型建築家  自称知識人 流行追随

 現実派建築家  実務家 技術家

 真面目一徹型建築家  融通がきかない 

 コツコツ努力型建築家  ルーティンワーク向き

 ソーシャル・ワーカー型建築家  福祉 ボトムアップ ユーザー参加

 空想家型建築家  絵に描いた餅派

 マネージャー型建築家 運営管理組織

 起業家型建築家  金儲け

 やり手型建築家  セールスマン

 加入好き建築家  政治 サロン

 詩人・建築家型建築家  哲学者 導師

 ルネサンス人的建築家

 ここまで多彩かどうかは疑問であるけれど、日本の建築家を当てはめてみるのも一興であろう。しかし、もう少し、具体的な像を議論しておいた方がいい。「建築家」の居る場所は、結局は、何を根拠として何を手がかりに表現するかに関わるのである。

 今日、「建築家」といっても、郵便配達夫シュバルやワッツ・タワーのサイモン・ロディアのような「セルフビルダー」を除けば、ひとりで建築のすべてのプロセスに関わるわけではない。建築というのは、基本的には集団作業である。その集団の組織のしかたで建築家のタイプが分かれるのである。

 

  制度の裂け目

 建築界の重層的かつ閉鎖的な差別、分裂の構造をどうリストラ(改革)していくかはそれ自体大きなテーマである。「建築士」の編成に限っても大問題である。建設業のリストラになると日本の社会全体の編成の問題に行き着く。「建築士法」の改定、「建築基準法」の改正など、具体的に例えばインスペクター(検査士)制度の導入、あるいは街づくりにおける専門家派遣制度などをめぐる議論が構造変化に関わっているけれど、全体的な制度改革は容易ではないだろう。既成の諸団体が重層的な差別体系のなかで棲み分け合っている構造を自ら変革するのは限界がある。また、一朝一夕にできることではないだろう。

  そこで期待されるのが外圧である。日米構造協議、ISO9000、輸入住宅、建設産業に限らないけれど、この国は外圧に弱い。しかし、国際的に閉じた構造を外部から指摘されて初めて問題を認識するというのはあまりにも他律的である。もう少し、自律的な戦略が練られるべきであろう。指針は、開くことである。

 あまりに日本の「建築家」をめぐる環境にはブラックボックスが多すぎる。その閉じた仕組みをひとつひとつ開いていくことが、日常的に問われている。そして、その問いの姿勢が「建築家」の表現の質を規定することになる。諸制度に対する姿勢、距離の取り方によって「建築家」は評価されるべきなのである。

 既存の制度、ルーティン化したプログラムを前提として表現するのであれば、「建築家」はいらないだろう。「建築家」を簡単に定義するとしたら、以上のように規定すればいいのではないか。すなわち、その依って立つ場所を常に開いていこうとする過程で表現を成立させようとするのが「建築家」なのである。なにも、高邁な「建築家」の理念を掲げる必要はない。高邁な理念を掲げながら、悲惨な現実に眼をつむるのだとしたらむしろ有害である。閉じた重層する差別の構造を開いていくこと、制度の裂け目から出発することが最低限の綱領ではないか。

 例えば、設計入札、例えば、疑似コンペ、少しの努力で構造変革が可能なことも多いのである。

 

 以上のささやかな指針を前提として、いくつか、これからの日本の「建築家」像を夢想してみよう。

 

 アーキテクト・ビルダー

 C.アレグザンダーの主張するアーキテクト・ビルダーという概念がある。「建築家」は、ユーザーとの緊密な関係を失い、現場のリアリティーを喪失してきた。それを取り戻すためには、施工を含めた建築の全プロセスに関わるべきというのである。アーキテクト・ビルダーとは、アーキテクトとビルダーの分裂を回復しようというわかりやすいことばである。

 中世のマスタービルダーの理念が想起されるけれど、あくまでアーキテクトの分離が一旦前提とされるべきであろう。日本では設計施工の一貫体制が支配的であり、アーキテクトという概念が根付いていないからその主張は混乱を生んだように思う。また、C.アレグザンダーは、盈進学園で実践してみせたように、建物の規模を問わず、一般的にありうべき「建築家」の理念として提示するのであるが、一定の規模の建築を超えると非現実的と思える。

 しかし、少なくとも、身近な住宅規模の建築については、個人としての「建築家」が設計施工の全プロセスに関わることが可能である。また、基本的に設計施工一貫の体制が必要であり自然である。大工棟梁、小規模な工務店がこれまでそうした役割を果たしてきたのである。ところが、住宅生産の工業化が進行し、様々な生産システムが混在するなかで、在来の仕組みは大きく解体変容を遂げてきた。その再構築がひとつのイメージになるだろう。大工工務店の世界、二級建築士、木造建築士の世界がアーキテクト・ビルダーという理念のもとに統合されるのである。

 一般的にはCM(コンストラクション・マネージメント)方式を考えればいいだろう。ゼネコンという組織に頼るのではなく、「建築家」自らと専門工事業(サブコン)が直接結びつくネットワーク形態が考えられていいのである。

 

  サイト・スペシャリスト

 アーキテクト・ビルダーが連携すべきは職人の世界である。職人の世界も急速に解体変容してきた。建設産業への新規参入が減少し、現場専門技能家(サイト・スペシャリスト)の高齢化が進行するなかで、建設産業の空洞化が危惧される。

 現場でものを造る人間がいなくなれば「建築家」もなにもありえないのであって、職人の世界の再構築が大きな課題となる。その場合、ひとつのモデルと考えられるのが、ドイツなどのマイスター制度である。

 マイスター制度は、ひとつの職人教育のシステムであるけれど、より広く社会そのものの編成システムである。ポイントは、社会的基金によって職人とそのすぐれた技能が継承されていく仕組みである。具体的には、建設投資の一定の割合が職人養成に向けられる仕組みがつくられる必要がある。

 その仕組みの構築は、社会全体の編成に関わるが故に容易ではない。しかし、職人の世界が社会の基底にしっかり位置づけられない社会に建築文化の華が咲く道理はない。机上の知識を偏重する教育や資格のあり方は、現場の智恵や技能を重視する形へと転換する必要がある。また、現場の技能者、職人のモデルとしてのマイスターが尊重される社会でなければならない。

 重視さるべきは、「職長」あるいは「現場監督」と呼ばれる職能である。おそらく、すぐれた「現場監督」こそアーキテクト・ビルダーと呼ばれるのに相応しいのである。

 

 シビック・アーキテクト・・・エンジニアリング・アーキテクト

 建築と土木、あるいは、エンジニアとアーキテクトの再統合も課題となるであろう。建築と土木の分裂は、都市景観を分裂させてきたのであり、その回復が課題となるとともに、土木も建築も統一的に計画設計する、そうした職能が求められるのである。

 その出自において「建築家」に土木と建築の区別はない。「建築家」は、橋梁や高速道路、あるいは造園の設計についての能力も本来有していると考えていい。土木構築物の場合、構造技術そのものの表現に終始するきらいがあった。いわゆるデザインが軽視されてきた歴史がある。今後、景観デザインという概念が定着するにつれて、シビック・アーキテクトと呼ばれる「建築家」像が市民権を得ていく可能性があるのである。

 その場合、構造デザイナーとしての資質が不可欠となる。デザイン・オリエンティッドの構造家、アーキテクト・マインドをもった構造家がその最短距離にいるといえるだろう。もっとも、構造技術を含めた建築の諸技術をひとつの表現へと結晶させるのが「建築家」であるとすれば、すべての「建築家」がシビック・アーキテクトになりうるはずである。

 

 マスター・アーキテクト

 計画住宅地や大学キャンパスなど複合的なプロジェクトを統合する職能として、マスターアーキテクトが考えられ始めている。ここでも、ある種の統合、調整の役割が「建築家」に求められる。

 素材や色、形態についての一定のガイドラインを設け、設計者間の調整を行うのが一般的であるが、マスター・アーキテクトの役割は様々に考えられる。個々のプロジェクトの設計者の選定のみを行う、コミッショナー・システムあるいはプロデューサー・システムも試みられている。

 プロジェクト毎にマスター・アーキテクトを設定する試みはおそらく定着していくことになるであろう。法的な規制を超えて、あるまとまりを担保するには、ひとりのすぐれた「建築家」の調整に委ねるのも有力な方法だからである。ただ、マスター・アーキテクトに要求される資質や権限とは何かを、一般的に規定するのは難しそうである。マスター・アーキテクトと個々の「建築家」を区別するものは一体何かを問題にすると、その関係は種々の問題をはらんでくる。設計者の選定に関わるマスター・アーキテクトとなると、仕事の発注の権限を握ることになるのである。

 もう少し一般的にはPM(プロジェクト・マネージャー)の形が考えられるだろう。その場合には、デザインのみならず、資金計画や施工を含めたプロジェクトの全体を運営管理する能力が求められる。現代社会においては、とても個人にその能力を求めることはできないように思えるけれど、社会的に責任を明確化したシステムとして、マスター・アーキテクト、あるいはプロジェクト・マネージャーが位置づけられていく可能性もあるかもしれない。

 

 タウン・アーキテクト

 自治体毎に日常的な業務を行うマスター・アーキテクトを考えるとすると、タウン・アーキテクト制度の構想が生まれる。ヨーロッパでは、歴史的に成立してきた制度でもある。

 ある街の都市計画を考える場合、この国の諸制度には致命的な欠陥がある。個々の事業、建設活動が全体的に調整される仕組みが全くないのである。都市計画行政と建築行政の分裂がある。さらに縦割り行政の分裂がある。例えば、鉄道駅周辺の再開発の事例などを考えてみればいい。諸主体が入り乱れ、補助金に絡む施策の区分が持ち込まれる。それを統一する部局、場がない。個々のデザインはばらばらになされ、調整する機関がない。日本の都市景観は、そうした分裂の自己表現である。こうした分裂も回避されねばならないだろう。

 本来、一貫してまちづくりに取り組み責任を負うのは自治体であり、首長である。日常的な都市計画行政、建築行政において、調整が行われてしかるべきである。しかし、首長には任期があり、担当者も配置替えがあって一貫性がない。タウン・アーキテクト制は、一貫して個々の事業、建設活動を調整する機関として必要とされるはずなのである。

 本来、それは建築行政に関わる建築主事の役割かもしれない。全国で二〇〇〇名弱、あるいは全国三三〇〇の自治体毎に能力をもったタウン・アーキテクトが居ればいいのである。

 しかし、建築主事が建築確認行政(コントロール行政)に終始する現状、建築主事の資格と能力、行政手間等を考えると、別の工夫が必要になる。ヨーロッパでも、行政内部に建築市長を置く場合、ひとりのタウン・アーキテクトを行政内部に位置づける場合、「建築家」を招いて、「アーバン・デザイン・コミッティー」を設置する場合など様々ある。

 日本でも、コミッショナー・システム以外にも、建築審議会、都市計画審議会、景観審議会など審議会システムの実質化、景観アドヴァイザー制度や専門家派遣制度の活用など、既に萌芽もあり、自治体毎に様々な形態が試みられていくことになるだろう。

 

 ヴォランティア・アーキテクト

 タウン・アーキテクト制を構想する上で、すぐさまネックになるのが「利権」である。ひとりのボス「建築家」が仕事を配るそうした構造がイメージされるらしい。また、中央のスター「建築家」が地域に参入するイメージがあるらしい。タウン・アーキテクト制の実施に当たっては一定のルール、その任期、権限、制限などが明確に規定されねばならないであろう。

 ひとりの「建築家」がタウン・アーキテクトの役割を担うのは、おそらく、日本ではなじまない。デザイン会議などの委員会システムなどが現実的であるように思える。しかし、いずれにしろ問題となるのは、権限あるいは報酬である。地域における公共事業の配分構造である。

 期待すべきは、地域を拠点とする「建築家」である。地域で生活し、日常的に建築活動に携わる「建築家」が、その街の景観に責任をもつ仕組みとしてタウン・アーキテクト制が考えられていいのである。

 あるいは、ヴォランティア組織(NPO)の活用が考えられる。建築・都市計画の分野でも、ヴォランティアの派遣のための基金の設立等、既にその萌芽はある。大企業の社員が一年休暇をとって海外協力隊に参加する、そんな形のヴォランティア活動は建築、都市計画の分野でも今後増えるであろう。現場を知らない「建築士」が現場を学ぶ機会として位置づけることもできる。

 しかし、ここでも問題は、「まちづくりの論理」と業として「食う論理」の分裂である。住民参加を主張し、住民のアドボケイト(代弁者)として自ら位置づける「建築家」は少なくない。しかし、その業を支える報酬は何によって保証されるのか。多くは、行政と「住民」の間で股裂きにあう。あらゆるコンサルタントが、実態として、行政の下請に甘んじなければならない構造があるのである。

  

 こうして可能な限り日本のリアティに引き寄せてありうべき「建築家」をイメージしてみても、袋小路ばかりである。既存の制度をわずかでもずらすことが指針となるのはそれ故にである。今、日本で注目すべき「建築家」、すなわち「建築家」論が可能となる「建築家」は、様々なレヴェルで制度との衝突葛藤を繰り広げている「建築家」なのである。

 しかし、その一方で、「世界建築家」の理念、「デミウルゴス」のイメージは生き続けるであろう。宇宙を創造し、世界に秩序を与える「神」としての「建築家」の理念は、錯綜する貧しい現実を否定し、その実態に眼をつむるために、再生産され続けるのである。



*[i]

*[ii]

*[iii]

*[iv]

*[v]

*[vi]

*[vii] 原広司、『建築家に何が可能か』、学芸書林、一九六八年

*[viii] 磯崎新、『建築家捜し』、岩波書店、一九九六年七月、p12

*[ix] 拙稿、「現代建築家」、宮内康・布野修司編『現代建築』、新曜社、一九九二年所収

*[x] アンブローズ・ビアス Ambrose Gwinnett Bierce 一八四二~一九一四?。アメリカのジャーナリスト、作家。『兵士と市民の物語』(一八九一)など一二巻の全集(一九〇九~一二)がある。『冷笑家用語集』(〇六)を増補して『悪魔の辞典』(一一)。芥川龍之介が日本へ紹介した。

*[xi] Charles Knevitt(Ed.):Perspectives An Anthology of 1001 Architectural Quotations, Bovis, London, 1986より

*[xii]

*[xiii]  イムヘテプ Imhetep エジプト第三王朝のジェセル王に仕えた宰相。ヘリオポリスの神官でもある。サッカラにあるジェセル王の階段ピラミッド及び陵墓群を建設したことで知られる。名前の知られる最古の建築家である。また、医者であったとも言われ、プトレマイオス王朝時代には医術の神と見なされ、ギリシャでは医神アスクレピオスと同一視された。

*[xiv]

*[xv] 磯崎新、『造物主議論 デミウルゴモルフィズム』、鹿島出版会、一九九六年三月、p10

*[xvi] デミウルゴス demiourgos 公共demiosdemos 国家、市民)のために働くものergatesergon 仕事)を意味する古代ギリシャ語。農業以外の活動で生計をたてる者をさし、金属工、陶工、石工などから、占者、医者、楽人などを含んでいた。その後、都市国家の役員の名称となった。

*[xvii] 磯崎新、『造物主議論』、p103

*[xviii] 田中喬は、「オイコドモス」を建築家、「アーキテクトン」を棟梁と訳す例があるといいながら、「オイコドミケ・テクネ」を「造る術」、「アーキテクトニケ・テクネ」を「使う術」と位置づける。「破壊の現象学」、渡辺豊和との対談、『建築思潮』04、一九九六年二月。田中喬著『建築家の世界 住居・自然・都市』、ナカニシヤ出版、一九九二年。

*[xix] ミケランジェロ  Michelangelo Bounarroti 一四七五~一五六四。イタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人。

*[xx] Adolf Hitler 一八八九オーストリア・ブラウナウ生~一九四五年。ヒトラーは、一九〇七年、ウイーン美術アカデミーの美術科を受験して失敗している。その後、絵画より建築に興味がむかったとされる。『わが闘争』上下(平野一郎他訳、角川文庫、一九七三年)は、いくつかの箇所で建築への夢を語っている。所詮三流の建築家と筆が滑ったが、建築家として才能があったという評価もA.シュペアー他ある。

*[xxi] S. Kostof(Ed.):"The Architect---Chapters in the History of the Profession", Oxford University Press, 1977

*[xxii]  John Wilton-Ely:'The Rise of the Professional Architect in England' in "The Architect"

*[xxiii]

*[xxiv] ウィトルウィルス,マルクス Marcus Vitruvius Pollio[生没年不詳]前一世紀の古代ローマの建築家,技術家.アウグストウス帝に献じた『De architectura libri decem,森田慶一訳:ウィトルウィウス建築書』によって知られる.この書は,古代建築の形式や材料,神殿,公共建造物,住宅,都市計画,軍事,天文学,機械などにつ

いて論じたもので,ルネサンスの建築家に強い影響を与えた。

*[xxv] アルベルティ Leon Battista Alberti  一四〇四フィレンツェ~七二。イタリアの建築家.あらゆる学問と技術に通じた.いわゆる万能の天才で,それゆえディレッタント建築家と規定される.建築の実際の上では,壁のマッスを強調したモニュメンタルな造形を特徴としている.リミニのサンフランチェスコ聖堂を改造したテンピオマラテスティアーノ(一四五〇~五五)は,ファサードに古代ローマの記念門形式を採用したものとして,また,フィレンツェのサンタマリアノヴェラ聖堂のファサード(一四五六~七〇),同地のパラッツオルチェライ(一四四六ごろ~五一ごろ)は秩序ある壁面構成の例として知られている.その他,マントヴァのサンセバスティアーノ聖堂(一四六〇)および同地のサンタンドレア聖堂(一四七二実施)などがある.理論家としては,一四三五年に『Dellapittura(三輪福松訳:絵画論)』を完成し,一四五二年には『De re aedificatoria(相川浩訳:建築論,一四八五刊)』を完成した。

*[xxvi]  セルリオ,セバスティアーノ Sebastiano Serlioh[一四七五~一五五四]イタリアルネサンスの建築家,理論家.ボローニャ生れ.B.ペルッツィの弟子.ローマ,ヴェネツィアで活動の後,フランス国王フランソワ一世に招かれてフォンテーヌブローに移り(一五四一),同地で没した.代表作はアンシルフラン館(一五四六着工).著書『Regole generali di architetturaetcdegli edifici(七巻,一五三七~五一)』は建築史上極重要.

*[xxvii]

*[xxviii]  チェンバース  Sir William Chambers 一七二六ストックホルム~九六。イギリスの建築家・造園家。東インド会社の社員として、極東各地を旅行(四〇~四九)。『中国の建築・家具・衣服・機械器具のデザイン』(五七)『東洋庭園論』(七二)を著す。「キューガーデンズ」「サマセットハウス」など。

*[xxix] 当初の講義は、建築の歴史と構築(ビルディング・コンストラクション)であった。

*[xxx] 拙稿、「近代日本における「建築学」の史的展開」、『新建築学体系1 建築概論』、彰国社、

*[xxxi]  日本建築学会編、『近代日本建築学発達史』、第一二編「職能」

*[xxxii] 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年、「第三章 近代化という記号」「Ⅱ 近代化という記号 戦後建築運動の展開」

*[xxxiii]  R.K.ルイス、『アーキテクト』、六鹿正治訳、鹿島出版会

2024年9月17日火曜日

都市計画批判のプロブレマティ-ク 啓蒙・機能・普遍から参加・文脈・場所へ,都市計画,No.205,日本都市計画学会,1997

 都市計画批判のプロブレマティ-ク 啓蒙・機能・普遍から参加・文脈・場所へ,都市計画,No.205,日本都市計画学会,1997

 

啓蒙・機能・普遍から参加・文脈・場所へ

 

布野修司

 

 はじめに

 「近代の啓蒙主義、合理主義、機能主義、普遍主義などに対して提起された、住民の主体性、場所の文脈の重視などの方向性の意味と現代への影響を、ジェイコブス、ヴェンチューリ、リンチ、アレグザンダーらの議論に沿って考える」というのが与えられた課題である。この4人の建築家、理論家が一体どういう脈絡でつながるのか、以上の課題設定は少し乱暴ではないか、という気がしないでもない。あるいは、課題設定の中に解答(書くべきこと)が既に含まれているけれど、その筋を読み損なったらどうしようと不安でもある。

 例えば、大都市批判を展開し、都市計画の画一性と不毛性を経済学的・社会学的に分析し、都市における公園や街路の重要性を主張し、その多様性を維持するための小街区方式を提案したJ.ジェイコブスの都市理論は、基本的には近代都市計画理論の延長であろう。R.ヴェンチューリの近代建築批判(『建築の多様性と複合性』『ラスベガス』)は、ポストモダン建築理論の方向づけを行ってわかりやすいけれど、都市計画理論に何か寄与をしたかというと疑問であろう。K.リンチの『都市のイメージ』における都市の基本的なエレメントの抽出、都市の意味論的、象徴論的次元の提起も、シンボル配置論など具体的な都市計画に結びついていったかというと、必ずしもそうは言えないのではないか。設計計画のプロセスの徹底した論理化(『形の合成に関するノート』)を目指して出発したC.アレグザンダーが、その後のパターン・ランゲージ論や『まちづくりの新しい理論』などの理論展開において、その一貫するある種の普遍主義を離脱放棄したというふうには見えない。

 4人の理論と仕事はいずれもそれぞれ独自に論じられるべき思考の密度を持っており、とても合わせて論じきる自信も能力もない。テーマはいずれにせよ「近代都市計画」批判ということであろう。とても手に負えないけれど、徹底した都市計画批判を展開したひとつのテキストから出発してみよう。

 

 都市計画の幻想

  「石とセメントと金属の線で、テリトリーのうえに、人間の住居の配置・秩序を描く活動」 芸術科学であり、技術であり認識であるという一元的性格が幻想をおしかくす

 ①都市計画自体の分裂:ヒューマニストの都市計画、プロモーターの都市計画 国家テクノクラートの都市計画(制度とイデオロギーに分離)

 →哲学の幻想:国家の幻想とパラレル:体系的 完全性への幻想 ユートピア

 ②都市的実践が盲域となる:盲化 実践を空間・社会生活・諸集団とその関係の表象に置換する  実践の還元者としての都市計画のイデオロギー

 ③生産活動の見落とし:空間の生産 生産物としての空間 社会的総空間の商品化

 ④資本主義の戦略ーー空間支配・・社会全体の剰余生産物の分配等を、実証的でヒューマニズム的でテクノロジックな外観で、覆い隠す

 ⑤拡大適用:医学的イデオロギー、病理空間の治癒 

  →空間の区画、編成をするにすぎない 抑圧的空間を編成する

 ⑥一貫性を欠く断片化に荷担:都市現実とプロブレマティークは、理論的一貫性欠いたものへと断片化される。コンフリクトの裂け目を埋める役割は→工業的空間の論理  商品の世界の論理

 ⑦二重の物神崇拝

  満足の物神崇拝 当事者の満足 社会的欲求をなおざり

  空間の物心崇拝  よい場所はよい事物を生み出す 使用と空間の矛盾

 ⑧都市計画の不動産業としての役割 土地への投機 を隠す

 ⑨階級の都市計画→辞職か、恥知らずかのどちらかに追い込まれる

  批判的反省、革新的イデオロギー、左翼主義的異議申し立て

 ⑩都市計画のすべてがネガティブではない

  学際性 ジンテーゼ 空間と人間関係の創造者をうたう限り、盲化するものである。おのれの名を隠しているユートピアこそ最悪

●都市社会

 

●結論

 都市のプロブレマティック→使用者の沈黙 受動性

 1.二重の置換

 2.歴史的な動機

 3.都市現象の断片化

 4.社会学的根拠

都市・地域論

 

Ⅰ.「地域生活空間計画」

 

 1.地域計画

   「一定の地域に対する物的計画を地域計画という」(日笠端)?

   「地域計画は経済計画と物的計画の結合という意味において、全ての空間    レヴェルの中心をなす最も基礎的な計画」(大久保昌一)?

   国土計画 地方計画 都市計画 地区計画 建築計画

   住宅地計画 住環境計画 居住地計画 コミュニティー計画

 

 

 「建築家」捜し

 原広司の「建築とは何か」を問うより、「建築に何が可能か」*1を問うべきだというテーゼにならえば、「建築家」という概念を括弧にくくって、あるいは棚上げして、「建築家」に何ができるか、あるいは「建築家」は何をすべきかこそ問うべきかもしれない。

 磯崎新の『建築家捜し』という本のタイトルは意味深長である。その内容は、「建築家とは何か」を真正面から問うというより、自らの仕事を回顧し、一区切りをつけようとしたものである。一九九六年に入って、『造物主議論』(鹿島出版会)『始源のもどき』(鹿島出版会)『磯崎新の仕事術』(王国社)、そして『建築家捜し』(岩波書店)と立て続けに四冊の著書を磯崎は上梓したのであるが、確実に磯崎にとってのある時代が終わりつつあることを暗示していて興味深い。そして、さらに興味深いのは、日本の建築界をリードし続けたその磯崎が、自らの軌跡を振り返って、「建築家」とは一体何者なのかわからない、と言い切っていることである。

 「正直なところ、私には二つのコトが本当に分かっているように感じられなかった。ひとつは、普段に私が自称している建築家であり、もうひとつは日常的にそれについて仕事をしているはずの《建築》である。この二つのコトを排除したら私は何も残っていないだろう。建築家を自称し、職業として登録している。そして、建築物のデザインをし、建築物についての文章を書き、これにかかわる言説をひねり、文化や思想の領域にそれを接続しようとしてもいる。だが、と私は自問していた。本当のところ何も分かっちゃいないんじゃないか。」*2

 磯崎ですらこうである。というより、ここには「建築家とは何か」という問いの平面が仮構されていることをまず見るべきだろう。「建築家」をめぐる観念的な、あるいは一般的な問いの領域が必要とされてきたのである。磯崎の「建築家」論には、その現実的な存在形態についての問いが抜けている。社会や生産システムの中の「建築家」のあり方についての問いである。逆に言うと、「建築家」捜しを続けないと「建築家」がなりたたない現実があるということである。「建築家」の営為を成り立たせる平面、場所を仮構し続けながら、結局わからないと言わざるを得ない、のである。

 

 「世界建築家」・・・デミウルゴスの末裔たち

 「建築家とは・・・である」と、古来様々なことがいわれてきた。いくつか集めて見たことがある*3。アンブローズ・ビアズの『悪魔の辞典』は「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」*4などと皮肉たっぷりであるけれど、決まって引かれるのは、最古の建築書、ヴィトルヴィウスの『建築十書』の第一書第一章である。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」

 「建築家」にはあらゆる能力が要求される、とヴィトルヴィウスはいうのだ。

 「建築家」という職能は相当古くからあった。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、「建築家」の天才が必要であった筈だ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられているのである。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ゾセル王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムホテプによるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師である。

 伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルスがいる。彼もただの建築家ではない。形態や仕掛の発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味する。

 磯崎新が「建築家」の原像として召喚するのがデミウルゴスである。

 「デミウルゴスは、プラトンが宇宙の創生を語るにあたって『ティマイオス』に登場させられた。宇宙は三つの究極原理によって生成する。造形する神としてのデミウルゴス、眼に見えぬ永遠のモデルとしてのイデア、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアをモデルとしての場(コーラ)のふるいにかけたうえで生成する役割を担わされている。」*5

 磯崎新の「造物主義」という論文は、デミウルゴス(という概念)の帰趨を論ずる形の西洋建築史の試みである。

 「デミウルゴスは、『ティマイオス』においては造物主、グノーシス主義においては神の他者、フィチーノにおいては芸術家、フリーメーソンでは大宇宙の建築家、ニーチェにおいてはツァラストラと姿を変えて語られてきた。そして、今日ではテクノクラートのなかにエイリアンのように寄生しているようにみうけられる。」*6

 デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指している。必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない。グノーシス主義においては「欠陥ある被造物」にすぎない。僕らはここでオイコス(家)に関わる職人としてのオイコドモス、オイコドミケ・テクネ(造家術)と「アーキテクトニケ・テクネ」(建築術、都市術)の系譜を歴史に即して跡づけるべきなのであろう*7

 しかし、宇宙の創生神話と結びついたデミウルゴスのイメージは強烈である。根源的技術(アーキ・テクトン)を司る「建築家=アーキテクト」の概念にも確実にデミウルゴスの概念が侵入しているのである。

 「建築家」は、全てを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。ルネッサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての建築家である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに使命感を抱くのである。

 そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。「建築家」になるためには、強度なコンプレックスの裏返しの自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。A.ヒトラーがいい例だ。かって、「建築家」はファシストか、と喝破した文芸評論家がいたのだけれど、「建築家」にはもともとそういうところがある。

 

 分裂する「建築家」像

 「建築家」の社会的な存在形態は、時代とともに推移していく。S.コストフの編んだ『建築家』*8という本が、エジプト・ギリシャ、ローマ、中世、ルネッサンス、・・・と、各時代の建築家について明らかにしているところだ。その中では、ジョン・ウイルトンエリーがイギリスにおける職業建築家の勃興について書いている*9

  イギリスで最初に自らを建築家と呼んだのは、イニゴー・ジョーンズ(15731652年)ではなくてジョン・シャテである。一五六三年のことだ。その出自は定かではないが、イタリアで学んだらしい。彼は、ヴィトルヴィウス、アルベルティ、セルリオを引きながら、ルネッサンスの普遍人としての「建築家」を理想化する。描画、測量、幾何学、算術、光学に長けているだけでなく、医学、天文学、文学、歴史、哲学にも造詣が深いのが「建築家」である。ウイルトンエリーは、もちろん、シャテの理想が受け入れられる社会的背景を明らかにした上で、まずはサーヴェイヤー(監督 測量士)が生まれてくる過程を跡づける。フリー・メイソンのロバート・スミッソンなどの名前が最初期のサーヴェイヤーとして知られる。そして、イニゴー・ジョーンズの時代が来る。

 時代は下って、一八世紀後半に至ると、デザイナーであり、サーヴェイヤーであり、学識者である「建築家」のプロフェッションが社会的に認知されてくる。それを示すのが、「建築家」のオフィスや教育機関の設立である。また、「建築家」の諸団体の成立である。

 ジョージ・ダンス、ヘンリー・ホランド等によって「建築家クラブ」が設立されたのは一七九一年のことである。チェインバース、アダムズは後に加わるのであるが、そのクラブは極めて排他的であり、メンバーは王立アカデミー会員に限定されたものであった。一種のサロン、ダイニング・クラブであるが、最初の「建築家」の団体が極めて特権的なものとして設立されたことは記憶されていい。まずは、新しい職能としての「建築家」と伝統的な「建築家」の区別が行われるのである。さらに、サーヴェイヤーとアーキテクトの区別がはっきりしてくる。「サーヴェイヤーズ・クラブ」が設立されるのは一七九二年のことであった。一七七四年に建築基準法(ビルディング・アクト)が施行されており、それに基づいた職能が社会的に認知されたことに対応してつくられたのである。

  同じ分離は、エンジニアとアーキテクトの間にも起こる。一七七一年に「シビル・エンジニア協会」が設立され、一八一八年には「シビル・エンジニア協会」が設立されるのである。エンジニアとアーキテクトの関係が決定的になるのは「英国建築協会」(RIBA)の設立(一八三四年)からであり、ビクトリア女王が王立の名を与えて(一八六六年)からのことである。

 

 落ちぶれたミケランジェロ

 アーキテクトの職能確立の過程で以上のような分離、分裂が始まっていた。否、むしろ、今日の「建築家」の理念は、以上のような分離、分裂において成立したとみるべきであろう。

 以後、広く流布する「建築家」像が「フリー・アーキテクト」である。フリーランスの「建築家」という意味である。今でも建前として最も拠り所にされている「建築家」像である。すなわち、「建築家」は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての、創造者としての存在である、というのである。もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが「建築家」という規定である。施主に雇われ、その代理人としてその利益を養護する弁護士をイメージすればわかりやすいだろう。医者と弁護士と並んで、「建築家」の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられている。

 もちろん、こうした「建築家」像は幻想である。いかなる根拠においてこうした「建築家」がなりたつのか。すなわち、「第三者」でありうるのか。その根拠として、西欧的市民社会の成熟、あるいはキリスト教社会におけるプロフェッションの重みが強調されるけれど、「建築家」たちが社会的に存在するにはそれを支える制度がある。建てる論理の前に食う論理がある。ジョージ・ダンスの建築家クラブも、専ら報酬のことを問題としていた。

 彼らは、「建築家」という理念の解体を目前にしながら、その理念を幻想として維持するために特権的な制度=インスティチュートをつくったのである。「建築家」は、予め、先の処分裂に加えて、建てる論理と食う論理の分裂を自らの内に抱え込みながらながら成立したのだといっていい。そして、イギリスにおいて、そうした幻想としての「建築家」像を担保したのは「王立」組織(「王権」)であり、「神」(あるいはデミウルゴス)であった。

 しかし、いずれにせよ、万能人としての「建築家」像の分裂は、近代社会において誰の目にも明らかになった。その分裂は、多くのすぐれた「建築家」の嘆くところとなる。

 「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、建築家ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン

 「ローマの時代の有名な建築家のほとんどがエンジニアであったことは注目に値する」 W R レサビー

 「建築家の仕事は、デザインを作り、見積をつくることである。また、仕事を監督することである。さらに、異なった部分を測定し、評価することである。建築家は、その名誉と利益を検討すべき雇主とその権利を保護すべき職人との媒介者である。その立場は、絶大なる信頼を要する。彼は彼が雇うものたちのミスや不注意、無知に責任を負う。加えて、労働者への支払いが予算を超えないように心を配る必要がある。もし以上が建築家の義務であるとすれば、建築家、建設者(ビルダー)、請負人の仕事は正しくはどのように統一されるのであろうか。」ジョーン・ソーン卿

 「歴史と文学を知らない弁護士は、機械的な単に働く石工にすぎない。歴史と文学についての知識をいくらかでももてば、自分を建築家だといってもいいかもしれない。」 ウォルター・スコット卿

 「建築家とは、今日思うに、悲劇のヒーローであり、ある種の落ちぶれたミケランジェロである」とニコラス・バグナルはいう。

 

 建築士=工学士+美術士

 「建築」あるいは「建築家」という概念が日本にもたらされて以来、日本も西欧の「建築」あるいは「建築家」をめぐる議論を引きずることとなった。あるいは「建築家」という幻想に翻弄されることになった。

 お雇い外国人技術者として日本に招かれたJ.コンドルは、シビル・エンジニアとアーキテクトの分離を前提として、イギリスからやってきた。しかし、サーヴェイヤーとアーキテクトの分離はJ.コンドルにおいて未分化だったといえるかもしれない。彼に求められたのは、何よりも実践的な技術であり、「建築家」としての実践であった。彼の工部大学校における講義は、「造る術」の全般に及ぶのである*10

 J.コンドルを通じて、日本には、なにがしかの全体性をもった概念として「建築家」がもたらされたといってもいいかもしれない。しかし、富国強兵、殖産興業の旗印のもと、予め工学の枠を前提として「建築」が「技術」として導入されたことは日本の「建築家」を独特に方向づけることになった。美術ですら「技術」の一範疇として西欧から導入されたのが日本の近代なのである。

 そうした日本の「建築」の出自において、「建築」の本義を論じて、その理念の受容をこそ主張したのが伊東忠太であった*11。その卒業論文『建築哲学』にしろ、建築学における最初の学位論文である『法隆寺建築論』にしろ、建築を美術の一科として成立させようという意図で貫かれているのである。

 しかし、日本の場合、地震という特殊な条件がさらにあった。建築における構造学を中心とする工学の優位はすぐさま明かとなる。当初から、「建築」は分裂をはらんで導入されたのであった。建築における美術的要素の強調は、建築家の定義をめぐって、せいぜい「建築士=工学士+美術士」といったプラス・アルファーの位置づけに帰着するものでしかなかったのである。素朴な用美の二元論と同相の建築家像の二元論は、大正期の建築芸術非芸術論争に引き継がれ、いわゆる「芸術派」(自己派、内省派)と「構造派」の分裂につながっていく。明治末から大正期にかけて、住宅問題、都市問題への対応を迫られる中で、「社会改良家としての建築家」(岡田信一郎)という概念も現れる。そして、大正末から昭和はじめにかけて、「芸術派」批判として「社会派」が定着していくことになる。しかし、それも、もうひとつ分裂の軸を付け加えるだけであった。「建築家」における「芸術派」「構造派」「社会派」の、相互につかず離れずの三竦(すくみ)みの構造は今日に至るまで生き延びることになる。日本における「建築」論がそうしたいくつかの分裂を背景として仮構されたのは明らかである。

 

 重層する差別の体系

  こうして、日本の建築界にはいくつもの分裂が組み込まれていく。日本の「建築家」像を問うのがうんざりするのは、様々な差別が重層するその閉じた構造の故にである。

 まず、建築(アーキテクチャー)と建物(ビルディング)の区別がある。それに対応して、「建築家」と「建築屋」の区別がある。

 あるいは、「建築」と「非建築」の区別がある。数寄屋は「建築」ではない。大工棟梁、職人の世界は「建築家」の世界と区別される。

 「建築」と「住宅」も区別される。さらに「住宅作品」と「住宅」が区別される。そうした区分に応じて「建築家」と「住宅作家」が区別される。

 「構造」と「意匠」が区別される。かって、「意匠」図案は婦女子のやること(佐野利器)とされたのであるが、なぜか「意匠」を担当するのが「建築家」だという雰囲気がある。さらに、建築界の専門分化に応じて、様々な区別がなされる。全体として、「建築家」と「技術屋」(エンジニア)が区別される。

 「設計」と「施工」が区別される。それに対応して、「建築士」と「請負業者」が区別される。この「設計」「施工」の分離をめぐっては、近代日本の建築史を貫く議論の歴史がある。建築士法の制定をめぐる熾烈な闘争の歴史がそうだ*12。戦前における、いわゆる「六条問題」、兼業の禁止規定問題は、「日本建築士会」と建設業界の最大の問題として、戦後の「建築士法」制定(一九五〇年)にもちこされるのである*13

 さらに、六〇年代における設計施工一貫か、分離かという建築界あげての論争が続く。そして、七〇年代は、日本建築家協会の設計料率の規定が公正取引委員会の独禁法違反に当たるという問題(「公取問題」)で建築界は揺れ続けた。

 冒頭に触れたように、法制度的には「建築士」という資格があるだけである。この「建築士」も「一級建築士」「二級建築士」「木造建築士」と差別化されている。資格だから、その業務の形態は、様々でありうる。総合建設業の組織内部の「建築士」、住宅メーカーの中の「建築士」、自治体の中の「建築士」など、企業組織の中の「建築士」がむしろ一般的である。この点、古典的な「建築家」の理念を掲げる日本建築家協会を拠り所とする「建築家」たちも同じである。建築士事務所を主宰する場合、その組織は株式会社であり、有限会社であり、一般に利益追求する企業形態と変わりはないのである。その料率規定が独禁法に問われても仕方がないことであった。その高邁な「建築家」の理想を担保するものはないのである。だからこそ「職能法」の制定が求められ続けてきた、と言えるのだけれど、「建築家」という職能を特権的に認知する社会的背景、基盤はないのである。

 「建築士事務所」も「組織事務所」と「アトリエ(個人)事務所」に分裂する。実態は同じであるけれど、建築ジャーナリズムが主としてその区別を前提とし、助長しているように見える。小規模な「建築士事務所」も、いわゆる「スター・アーキテクト」の事務所から、専ら確認申請のための設計図書の作成を業務とするいわゆる「代願事務所」まで序列化されている。

 建築教育に携わる「プロフェッサー・アーキテクト」は唯一特権的といえるかもしれない。「建築家」教育という理念が唯一の統合理念でありうるからである。しかし、実態として大学の空間で、要するに建築の現場から離れて、「建築家」教育ができるわけではない。という以前に、大学の建築教育の中にも以上のような様々なが分裂が侵入してしまっている。また、工業高校、工業専門学校等々を含めて、偏差値社会の編成によって大学も序列化され、産業界に接続されている。

 さらに、「施工」の世界、すなわち建設業界には、いわゆる重層下請構造がある。スーパー・ゼネコンに代表される総合建築業者がいくつかの専門工事業者(サブコン)を下請系列化し、専門工事業者は、また、二~三次の下請業者を持つ。数次の下請構造の末端が寄せ場である。ゼネコンのトップの意識の中では、寄せ場へ至るリクルートの最末端は、まるで別世界のことのようである。しかし、ゼネコン・トップは公共事業の受注をめぐって政治の世界と結びつき、地域へと仕事を環流させる役割を担って最末端に結びついている。そして、そこに建築行政の世界が絡まり合う。

 

 「建築家」の諸類型 

 こうした重層する差別体系の中で個々の「建築家」は何をターゲットにしているのか。全ての建築家論の基底において問われるのは、その「建築家」がどこに居て何を拠り所としているかということだ。

 『アーキテクト』*14という面白い本がある。アメリカの建築界が実によくわかる。日本の「建築家」は、欧米の建築家の社会的地位の高さを口にするけれど、そうでもないのである。その最後に、建築家のタイプが列挙してある。日本でも同じように「建築家」を分類してみることができるのではないか。

 名門建築家 エリート建築家  毛並がいい

 芸能人的建築家 態度や外見で判断される 派手派手しい

 プリマ・ドンナ型建築家   傲慢で横柄   尊大

 知性派建築家  ことば好き 思想 概念 歴史 理論 

 評論家型建築家  自称知識人 流行追随

 現実派建築家  実務家 技術家

 真面目一徹型建築家  融通がきかない 

 コツコツ努力型建築家  ルーティンワーク向き

 ソーシャル・ワーカー型建築家  福祉 ボトムアップ ユーザー参加

 空想家型建築家  絵に描いた餅派

 マネジャー型建築家 運営管理組織

 起業家型建築家  金儲け

 やり手型建築家  セールスマン

 加入好き建築家  政治 サロン

 詩人・建築家型建築家  哲学者 導師

 ルネサンス人的建築家

 ここまで多彩かどうかは疑問であるけれど、日本の建築家を当てはめてみるのも一興であろう。しかし、もう少し、具体的な像を議論しておいた方がいい。「建築家」の居る場所は、結局は、何を根拠として何を手がかりに表現するかに関わるのである。

 今日、「建築家」といっても、郵便配達夫シュバルやワッツ・タワーのサイモン・ロディアのような「セルフビルダー」を除けば、ひとりで建築のすべてのプロセスに関わるわけではない。建築というのは、基本的には集団作業である。その集団の組織のしかたで建築家のタイプが分かれるのである。

 

  制度の裂け目

 建築界の重層的かつ閉鎖的な差別、分裂の構造をどうリストラ(改革)して行くかはそれ自体大きなテーマである。「建築士」の編成に限っても大問題である。建設業のリストラになると日本の社会全体の編成の問題に行き着く。「建築士法」の改定、「建築基準法」の改正など、具体的に例えばインスペクター(検査士)制度の導入、あるいは街づくりにおける専門家派遣制度などをめぐる議論が構造変化に関わっているけれど、全体的な制度改革は容易ではないだろう。既成の諸団体が重層的な差別体系の中で棲み分け合っている構造を自ら変革するのは限界がある。また、一朝一夕にできることではないだろう。

  そこで期待されるのが外圧である。日米構造協議,ISO9000、輸入住宅、建設産業に限らないけれど、この国は外圧に弱い。しかし、国際的に閉じた構造を外部から指摘されて初めて問題を認識するというのはあまりにも他律的である。もう少し、自律的な戦略が練られるべきであろう。指針は、開くことである。

 あまりに日本の「建築家」をめぐる環境にはブラックボックスが多すぎる。その閉じた仕組みをひとつひとつ開いていくことが、日常的に問われている。そして、その問いの姿勢が「建築家」の表現の質を規定することになる。諸制度に対する姿勢、距離の取り方によって「建築家」は評価されるべきなのである。

 既存の制度、ルーティン化したプログラムを前提として表現するのであれば、「建築家」はいらないだろう。「建築家」を簡単に定義するとしたら、以上のように規定すればいいのではないか。すなわち、その依って立つ場所を常に開いていこうとする過程で表現を成立させようとするのが「建築家」なのである。何も、高邁な「建築家」の理念を掲げる必要はない。高邁な理念を掲げながら、悲惨な現実に眼を瞑るのだとしたらむしろ有害である。閉じた重層する差別の構造を開いていくこと、制度の裂け目から出発することが最低限の綱領ではないか。

 例えば、設計入札、例えば、疑似コンペ、少しの努力で構造変革が可能なことも多いのである。

 

 以上のささやかな指針を前提として、いくつか、これからの日本の「建築家」像を夢想してみよう。

 

 アーキテクト・ビルダー

 C.アレグザンダーの主張するアーキテクト・ビルダーという概念がある。「建築家」は、ユーザーとの緊密な関係を失い、現場のリアリティーを喪失してきた。それを取り戻すためには、施工を含めた建築の全プロセスにかかわるべきというのである。アーキテクト・ビルダーとは、アーキテクトとビルダーの分裂を回復しようというわかりやすい言葉である。

 中世のマスタービルダーの理念が想起されるけれど、あくまでアーキテクトの分離が一旦前提とされるべきであろう。日本では設計施工の一貫体制が支配的であり、アーキテクトという概念が根付いていないからその主張は混乱を生んだように思う。また、C.アレグザンダーは、盈進学園で実践してみせたように、建物の規模を問わず、一般的にありうべき「建築家」の理念として提示するのであるが、一定の規模の建築を超えると非現実的と思える。

 しかし、少なくとも、身近な住宅規模の建築については、個人としての「建築家」が設計施工の全プロセスに関わることが可能である。また、基本的に設計施工一貫の体制が必要であり自然である。大工棟梁、小規模な工務店がこれまでそうした役割を果たしてきたのである。ところが、住宅生産の工業化が進行し、様々な生産システムが混在する中で、在来の仕組みは大きく解体変容を遂げてきた。その再構築がひとつのイメージになるだろう。大工工務店の世界、二級建築士、木造建築士の世界がアーキテクト・ビルダーという理念のもとに統合されるのである。

 一般的にはCM(コンストラクション・マネージメント)方式を考えればいいだろう。ゼネコンという組織に頼るのではなく、「建築家」自らと専門工事業(サブコン)が直接結びつくネットワーク形態が考えられていいのである。

 

  サイト・スペシャリスト

 アーキテクト・ビルダーが連携すべきは職人の世界である。職人の世界も急速に解体変容してきた。建設産業への新規参入が減少し、現場専門技能家(サイト・スペシャリスト)の高齢化が進行する中で、建設産業の空洞化が危惧される。

 現場でものを造る人間がいなくなれば「建築家」もなにもありえないのであって、職人の世界の再構築が大きな課題となる。その場合、ひとつのモデルと考えられるのが、ドイツなどのマイスター制度である。

 マイスター制度は、ひとつの職人教育のシステムであるけれど、より広く社会そのものの編成システムである。ポイントは、社会的基金によって職人とそのすぐれた技能が継承されていく仕組みである。具体的には、建設投資の一定の割合が職人養成に向けられる仕組みがつくられる必要がある。

 その仕組みの構築は、社会全体の編成に関わるが故に容易ではない。しかし、職人の世界が社会の基底にしっかり位置づけられない社会に建築文化の華が咲く道理はない。机上の知識を偏重する教育や資格のあり方は、現場の智恵や技能を重視する形へと転換する必要がある。また、現場の技能者、職人のモデルとしてのマイスターが尊重される社会でなければならない。

 重視さるべきは、「職長」あるいは「現場監督」と呼ばれる職能である。おそらく、すぐれた「現場監督」こそアーキテクト・ビルダーと呼ばれるのに相応しいのである。

 

 シビック・アーキテクト・・・エンジニアリング・アーキテクト

 建築と土木、あるいは、エンジニアとアーキテクトの再統合も課題となるであろう。建築と土木の分裂は、都市景観を分裂させてきたのであり、その回復が課題となるとともに、土木も建築も統一的に計画設計する、そうした職能が求められるのである。

 その出自において「建築家」に土木と建築の区別はない。「建築家」は、橋梁や高速道路、あるいは造園の設計についての能力も本来有していると考えていい。土木構築物の場合、構造技術そのものの表現に終始するきらいがあった。いわゆるデザインが軽視されてきた歴史がある。今後、景観デザインという概念が定着するにつれて、シビック・アーキテクトと呼ばれる「建築家」像が市民権を得ていく可能性があるのである。

 その場合、構造デザイナーとしての資質が不可欠となる。デザイン・オリエンティッドの構造家、アーキテクト・マインドを持った構造家がその最短距離にいると言えるだろう。もっとも、構造技術を含めた建築の諸技術をひとつの表現へと結晶させるのが「建築家」であるとすれば、全ての「建築家」がシビック・アーキテクトになりうる筈である。

 

 マスター・アーキテクト

 計画住宅地や大学キャンパスなど複合的なプロジェクトを統合する職能として、マスターアーキテクトが考えられ始めている。ここでも、ある種の統合、調整の役割が「建築家」に求められる。

 素材や色、形態についての一定のガイドラインを設け、設計者間の調整を行うのが一般的であるが、マスター・アーキテクトの役割は様々に考えられる。個々のプロジェクトの設計者の選定のみを行う、コミッショナー・システムあるいはプロデューサー・システムも試みられている。

 プロジェクト毎にマスター・アーキテクトを設定する試みはおそらく定着していくことになるであろう。法的な規制を超えて、あるまとまりを担保するには、ひとりのすぐれた「建築家」の調整に委ねるのも有力な方法だからである。ただ、マスター・アーキテクトに要求される資質や権限とは何かを、一般的に規定するのは難しそうである。マスター・アーキテクトと個々の「建築家」を区別するものは一体何かを問題にすると、その関係は種々の問題をはらんでくる。設計者の選定に関わるマスター・アーキテクトとなると、仕事の発注の権限を握ることになるのである。

 もう少し一般的にはPM(プロジェクト・マネージャー)の形が考えられるだろう。その場合には、デザインのみならず、資金計画や施工を含めたプロジェクトの全体を運営管理する能力が求められる。現代社会においては、とても個人にその能力を求めることはできないように思えるけれど、社会的に責任を明確化したシステムとして、マスター・アーキテクト、あるいはプロジェクト・マネージャーが位置づけられていく可能性もあるかもしれない。

 

 タウン・アーキテクト

 自治体毎に日常的な業務を行うマスター・アーキテクトを考えるとすると、タウン・アーキテクト制度の構想が生まれる。ヨーロッパでは、歴史的に成立してきた制度でもある。

 ある街の都市計画を考える場合、この国の諸制度には致命的な欠陥がある。個々の事業、建設活動が全体的に調整される仕組みが全くないのである。都市計画行政と建築行政の分裂がある。さらに縦割り行政の分裂がある。例えば、鉄道駅周辺の再開発の事例などを考えてみればいい。諸主体が入り乱れ、補助金に絡む施策の区分が持ち込まれる。それを統一する部局、場がない。個々のデザインはばらばらになされ、調整する機関がない。日本の都市景観は、そうした分裂の自己表現である。こうした分裂も回避されねばならないだろう。

 本来、一貫してまちづくりに取り組み責任を負うのは自治体であり、首長である。日常的な都市計画行政、建築行政において、調整が行われてしかるべきである。しかし、首長には任期があり、担当者も配置替えがあって一貫性がない。タウン・アーキテクト制は、一貫して個々の事業、建設活動を調整する機関として必要とされる筈なのである。

 本来、それは建築行政に関わる建築主事の役割かもしれない。全国で二〇〇〇名弱、あるいは全国三三〇〇の自治体毎に能力を持ったタウン・アーキテクトが居ればいいのである。

 しかし、建築主事が建築確認行政(コントロール行政)に終始する現状、建築主事の資格と能力、行政手間等を考えると、別の工夫が必要になる。ヨーロッパでも、行政内部に建築市長を置く場合、ひとりのタウン・アーキテクトを行政内部に位置づける場合、「建築家」を招いて、「アーバン・デザイン・コミッティー」を設置する場合など様々ある。

 日本でも、コミッショナー・システム以外にも、建築審議会、都市計画審議会、景観審議会など審議会システムの実質化、景観アドヴァイザー制度や専門家派遣制度の活用など、既に萌芽もあり、自治体毎に様々な形態が試みられていくことになるだろう。

 

 ヴォランティア・アーキテクト

 タウン・アーキテクト制を構想する上で、すぐさまネックになるのが「利権」である。ひとりのボス「建築家」が仕事を配るそうした構造がイメージされるらしい。また、中央のスター「建築家」が地域に参入するイメージがあるらしい。タウン・アーキテクト制の実施に当たっては一定のルール、その任期、権限、制限などが明確に規定されねばならないであろう。

 ひとりの「建築家」がタウン・アーキテクトの役割を担うのは、おそらく、日本ではなじまない。デザイン会議などの委員会システムなどが現実的であるように思える。しかし、いずれにしろ問題となるのは、権限あるいは報酬である。地域における公共事業の配分構造である。

 期待すべきは、地域を拠点とする「建築家」である。地域で生活し、日常的に建築活動に携わる「建築家」が、その街の景観に責任をもつ仕組みとしてタウン・アーキテクト制が考えられていいのである。

 あるいは、ヴォランティア組織(NPO)の活用が考えられる。建築・都市計画の分野でも、ヴォランティアの派遣のための基金の設立等、既にその萌芽はある。大企業の社員が一年休暇をとって海外協力隊に参加する、そんな形のヴォランティア活動は建築、都市計画の分野でも今後増えるであろう。現場を知らない「建築士」が現場を学ぶ機会として位置づけることもできる。

 しかし、ここでも問題は、「まちづくりの論理」と業として「食う論理」の分裂である。住民参加を主張し、住民のアドボケイト(代弁者)として自ら位置づける「建築家」は少なくない。しかし、その業を支える報酬は何によって保証されるのか。多くは、行政と「住民」の間で股裂きにあう。あらゆるコンサルタントが、実態として、行政の下請に甘んじなければならない構造があるのである。

  

 こうして可能な限り日本のリアティに引き寄せてありうべき「建築家」をイメージしてみても、袋小路ばかりである。既存の制度をわずかでもずらすことが指針となるのはそれ故にである。今、日本で注目すべき「建築家」、すなわち「建築家」論が可能となる「建築家」は、様々なレヴェルで制度との衝突葛藤を繰り広げている「建築家」なのである。

 しかし、その一方で、「世界建築家」の理念、「デミウルゴス」のイメージは生き続けるであろう。宇宙を創造し、世界に秩序を与える「神」としての「建築家」の理念は、錯綜する貧しい現実を否定し、その実態に眼をつむるために、再生産され続けるのである。

 

*1 原広司、『建築家に何が可能か』、学芸書林、一九六八年

*2 磯崎新、『建築家捜し』、岩波書店、一九九六年七月、p12

*3 拙稿、「現代建築家」、宮内康・布野修司編『現代建築』、新曜社、一九九二年所収

*4 Charles Knevitt(Ed.):Perspectives An Anthology of 1001 Architectural Quotations, Bovis, London, 1986より

*5 磯崎新、『造物主議論 デミウルゴモルフィズム』、鹿島出版会、一九九六年三月、p10

*6 磯崎新、『造物主議論』、p103

*7 田中喬は、「オイコドモス」を建築家、「アーキテクトン」を棟梁と訳す例があるといいながら、「オイコドミケ・テクネ」を「造る術」、「アーキテクトニケ・テクネ」を「使う術」と位置づける。「破壊の現象学」、渡辺豊和との対談、『建築思潮』04、一九九六年二月。田中喬著『建築家の世界 住居・自然・都市』、ナカニシヤ出版、一九九二年。

*8 S. Kostof(Ed.):"The Architect---Chapters in the History of the Profession", Oxford University Press, 1977

*9  John Wilton-Ely:'The Rise of the Professional Architect in England' in "The Architect"

*10 当初の講義は、建築の歴史と構築(ビルディング・コンストラクション)であった。

*11 拙稿、「近代日本における「建築学」の史的展開」、『新建築学体系1 建築概論』、彰国社、

*12  日本建築学会編、『近代日本建築学発達史』、第一二編「職能」

*13 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995年、「第三章 近代化という記号」「Ⅱ 近代化という記号 戦後建築運動の展開」

*14  R.K.ルイス、『アーキテクト』、六鹿正治訳、鹿島出版会

2024年9月16日月曜日

都市計画の幻想,『武装のための教育ー統一的都市計画』,インパクト出版,1997

 都市計画の幻想

布野修司

 

 一九五〇年代末から一九六〇年代にかけて、建築あるいは都市計画の分野ではひとつのパラダイム・シフトが起こりつつあった。

 CIAM(国際近代建築家会議)が崩壊した一九五六年以降、機能主義の乗り越えが様々に模索され始める。機能に変わる構造概念の導入、あるいは、成長、変化、代謝、過程、流動性といった時間に関わる諸概念の導入がそうである。また、機能に対して、素朴にその内容(地方性、有機性、人間性、生活、心理、想像力、自然、伝統・・・)を対置する諸傾向が次々に現れてきた。

 いま振り返って見ると、近代建築批判、近代都市計画批判に関わる重要な著作が一九六〇年代初頭に集中していることがわかる*1。都市計画の画一性と不毛性を経済学的・社会学的に分析し、都市における公園や街路の重要性を主張し、その多様性を維持するための小街区方式を提案した、J.ジャイコブスの『アメリカ大都市の死と生』*2(1961年)、都市の意味論的、象徴論的次元を提起した、K.リンチの『都市のイメージ』(1960年)、ポストモダン建築の最初の理論書、R.ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』*3(1962年)、設計計画のプロセスの徹底した論理化を目指した、C.アレグザンダーの『形の合成に関するノート』*4(1964年)などがそうである。

 日本には、都市や建築を新陳代謝するものとして捉えるメタボリズム理論と様々な都市プロジェクト(丹下健三「東京計画1960」、菊竹清訓「海上都市」「塔状都市」、磯崎新「空中都市」、黒川紀章「空間都市」「垂直壁都市」)がある*5

 「アルバのジプシー・キャンプ」(一九五六年)にはじまるコンスタントの「ニュー・バビロン」構想もそうした大きな流れの中で見ることができるだろう。コンスタントの名は日本では全く無名であるが、彼を建築へ導いたと思われる建築家アルド・ヴァン・アイクはよく知られている。「ニュー・バビロニアン」と呼ばれる住民は固定した住居をもたないノマドである。一方メタボリズムの場合、移動空間単位カプセルで構成されるメタポリスが未来都市の理想とされた。移動性を強調する点は似ている。「ニュー・バビロン」の周縁部分である「黄色地帯」のプロジェクトも、土台の構造物の上に、移動、交換、解体可能な様々な要素が整備されるという発想である。メジャーな基幹構造(インフラストラクチャー)とマイナーな構造を分離する考え方は当時共有化されていた。都市の要素を変わるものと変わらないものに分け、時間的、機能的変化に対応しようというのである。「機能主義的な都市を否定するのではなく、乗り越えるのだ」という構えもよく似ている。

 一九六〇年代初頭、都市の未来は悲観されてはいなかった。都市は理性的な諸対応によって統御できるものと信じられていた。コンスタントの一連の興味深いプロジェクトは、「もう一つの生活のためのもうひとつの都市」のための様々なアイディアに満ちている。そこでは「統一的都市計画」という概念はポジティブなものである。

 しかし、六〇年代初頭の建築家による未来都市のプロジェクトはすぐさま色あせたものとなる。SI脱退(六〇年)以後も「移動式はしごのある迷宮」(六七年)など七二年まで「ニュー・バビロン」の都市計画を構想し続けたコンスタントはある意味では執拗である。日本でも一九七〇年の大阪万国博の会場が擬似的な未来都市として実現するまでは余韻が残っていたと言えるかもしれない。しかし、一般に都市構想を白紙の上に描き、その技術的可能性を問うスタイルは、現実の過程で多くの批判にさらされることになったのである。理念の性急な実現(ニュー・タウン建設)が様々な葛藤衝突を生むのは当然であった。

 コンスタントやメタボリストの技術主義を批判するのは容易い。H.ルフェーブルのいう「社会的総空間の商品化」の進行、すなわち、空間の均質化、軽量化、交換価値への還元の動きは、工業的合理性の貫徹として、工業化、技術革新といったテクノロジーの発達と不可分なのである。移動可能な空間単位で構成される都市を構想することは、「社会的総空間の商品化」のメカニズムを技術的に裏打ちするにすぎなかったのである。

 さらに、C.アレグザンダーが暴いたのは、建築家の都市計画プロジェクトが全て「ツリー構造」をしていることだ*6。一見複雑に見える都市プロジェクトも分析してみると頂点(中心)があって段階的に部分へ至るヒエラルキカルな構造をしているのである。現実の都市はツリーなどではなく編目状(セミ・ラティス)だ、とC.アレグザンダーはいう。

 「都市計画は存在しない。それはイデオロギーにすぎない」

 「都市計画は都市計画批判としてしか存在しない」。

 ドゥボールらシチュアシオニストによる都市計画批判は、極めて根源的なものであった。「統一的都市計画」とは「日常生活批判」の実践なのである。

 H.ルフェーブルがシチュアシアニストとどういう関係にあったかは知らない。しかし、その『総和と余剰』(五九年)『日常生活批判』(五八年、六一年)などが『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌上で触れられるところを見ると、少なくとも六〇年前後には密接なつながりがあったのであろう。H.ルフェーブルの都市計画批判とシチュアシオニストの都市計画批判には明らかに呼応関係があるように見える。

 1960年代末から70年代にかけて、都市計画は徹底した批判にさらされることになる。そうした中で最もラディカルで体系的であったのがH.ルフェーブルの一連の著作である*7。かれはその『都市革命』*8において、むしろ、都市計画の依拠する全体性(「統一的都市計画」?)の概念こそ問題であり、幻想であるとするのである。

 都市計画とは「石とセメントと金属の線で、テリトリーのうえに、人間の住居の配置・秩序を描く活動」であるとH.ルフェーブルはいう。そしてさらに都市計画とは、都市的な実践を自らの秩序に従属させ支配させる活動である。確かにそうだ。しかし、都市計画にとってそれが出発点である。また、都市計画批判にとってもそうである。

 問題は都市計画の一元的性格である。それは芸術科学であり、同時に技術であり認識であると思っているがその一元的性格が幻想をおし隠すのである。

 第一に、都市現象の科学、すなわち都市認識のレヴェルと都市計画の実践レヴェルが分裂している。この分裂は極めて本質的である。いかに「統一的都市計画」は可能か。

 第二に、都市計画自体が分裂している。ヒューマニストの都市計画、プロモーターの都市計画、国家テクノクラートの都市計画、都市計画にもいろいろあるのだ。制度とイデオロギーに分離しているにも関わらず、体系性、完全性への幻想、ユートピアのみが語られる。この分離に眼をつむることは欺瞞である。

 第二に、都市計画は都市的実践(生活のリアリティ)を覆い隠す。全てを空間・社会生活・諸集団とその関係の表象に置換してしまう。具体的に、空間の生産、生産物としての空間、すなわち社会的総空間の商品化のプロセスを見落とす。すなわち、空間支配の資本の論理、社会空間の分配の経済論理を、実証的でヒューマニスティックでテクノロジックな外観で、覆い隠す。さらに例えば、病理的空間(スラム、不良住宅地)の治癒という医学的イデオロギーの背後で、抑圧的空間の再編成をするにすぎない。これまた本質的である。ヒューマニスティックな装いのもとに抑圧的空間が再編成されるのは犯罪的でもある。

 第四に、都市計画は一貫性を欠いている。むしろ、都市計画によって都市の現実は、理論的一貫性欠いたものへと断片化される。これは第一の分裂と関係し、問題を複雑化させる。

 H.ルフェーブルは都市計画に対する根源的批判をたたみかけるように展開する。その批判は、単に、いくつかの分裂を再統合すればいい、といったレヴェルのものでではない。都市計画そのものがその本質的に都市現実の真実を覆い隠すというのである。

 そして、都市計画にとって、最大の問題としてH.ルフェーブルが指摘したのが都市住民の沈黙、受動性であった。この沈黙、受動性こそ都市計画が真に克服すべき課題であり続けているように思う。

 こうした根源的批判に照らして、その後の展開はいささか心細い。冒頭に挙げた四人の理論家の仕事はそれぞれ貴重なものであったと言っていい。しかし、それぞれが限界をもつことは明かである。われわれができることは、この根源的な都市計画批判から出発し、繰り返し立ち戻ってきて常にそのあり方を問い直すことであろう。最悪なのは、都市計画の幻想を自ら覆い隠して気がつかないことなのである。

 

*1 拙稿、「都市計画批判のプロブレマティークーーー啓蒙・機能・普遍から参加・文脈・場所へ

」、『都市計画』、一九九七年

*2 J.ジェイコブス著、黒川紀章訳、鹿島出版会、一九六九年。残念なことに、第三部、第四部は翻訳されなかった。J.ジェイコブスは、それに先立つ「下町こそ人々のもの」(フォーチュン誌)で知られるようになった。また、『都市の経済』(一九六九、中江利忠他訳、邦訳名 都市の原理、鹿島出版会、1971年)において、都市が農村に先立つという説を唱えた。

*3 R.ヴェンチューリ著、伊藤公文訳、鹿島出版会、一九八一年。刊行は一九六六年であるが、一九六二年にニューヨーク近代美術館刊行のシリーズの第一巻として執筆された。

*4 C.アレグザンダー著、稲葉武司訳、鹿島出版会、一九七三年。本書に先立って「革命は二〇年前に終わってしまった」(一九六〇年、『A+U』、一九七一年四月)、シャマエフとの共著『コミュニティとプライバシー』(1963年、岡田新一訳、鹿島出版会、1967年)がある。

*5 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年

*6 C.アレグザンダー、「都市はツリーではない」

*7 『都市への権利』(筑摩書房)『都市革命』(晶文社)『空間の生産』(晶文社)など、H.ルフェーブルの著作は数多くが翻訳され日本に紹介されている。

*8 今井成美訳、晶文社、一九七四年

 

 

 

2024年9月14日土曜日

昭和設計の造形を語る,日刊建設工業新聞,19971009

 昭和設計の造形を語る,日刊建設工業新聞,19971009

 

昭和設計の造形を語る

布野修司

 

 「なみはやドーム」は不思議な空間であった。丁度、国体のリハーサルの最中でレーザービームが飛び交い、幻想的雰囲気が溢れていた。周囲には日本の大都市近郊のありふれた住宅地の風景が拡がる。そこへ楕円球が舞い降りる。いかにも異質である。雑然とした日常風景から心地よい胎内空間へ、何とも言えない体験であった。

 組織事務所が組織事務所であるために、その組織力を売り物にするのは当然である。しかし、どんな組織でも組織の形があり、その編成の仕方が建築表現にも自ずと現れる筈だ、というのが僕の信念である。だから、組織事務所にも個性ある顔が欲しい、といつも思う。そして、こういう機会にはいうことにしている。どこのどの事務所がやったのかわからないようじゃ困まりますよと。

 実際、組織が巨大になればなるほどその表現は無名性を帯びる。個性の主張は好悪の評価を分裂させる。よけいなコンフリクトを避けたければ無難なデザインに落ち着く。無駄なエネルギーは組織の利益に反する、というのが凡庸な組織の論理である。

 「なみはやドーム」「ワールド記念ホール」「神戸ファッションマート」「神戸ファッション美術館」を今回見せて頂いて、ある一貫するものを感じて組織表現のひとつのあり方を思った。この一貫性は、果たして、川口衛という構造設計家のものかというと、おそらくそうではあるまい。昭和設計内部にこの一貫性を支える論理がなければ、また人が居なければ、こうまで意欲的デザインは展開できないはずだ。

 六〇年代から七〇年万博にかけての表現主義の時代とはいささか違う。街づくりあるいは再開発の複雑な関係を解く組織力とそれをひとつにまとめる際に果たす構造デザインの力の幸福な共同関係を垣間見た気がしないでもない。

 大阪湾の楕円形を写すとか、大阪城をすっぽり納める弾道形のアトリウムとか、UFOが舞い降りた形のオーディトリアムとか、いささかイージーなシンボリズムに頼り過ぎなのは愛嬌か。しかし、その一貫性を組織力とすぐれた構造家の天才で支えれば、才気走った若い建築家の出番はないだろう、と思わせる。

 昭和設計は果たして外部との共同を組織論として戦略化しているのであろうか。宝塚駅前(花の道周辺)再開発事業のコンペではたまたま審査員を努めた。永田祐三とのジョイント提案であり、群を抜いていた。能力あるタレントとの共同はひとつの可能性を示している。しかし、昭和設計のアイデンティティとは何か、ということは常に問われる。

 四〇年というのは既に歴史である。その創立から現在に至る堅実な仕事には心底敬意を覚える。しかし、どんな組織でも新陳代謝は避けられないだろう。昭和設計の組織論としての評価が画定するの次のサイクルにおいてである。大いに期待したいと思う。



2024年9月10日火曜日

アパルトヘイトの現在,日刊建設工業新聞,19970910

 アパルトヘイトの現在,日刊建設工業新聞,19970910

 

アパルトヘイトの現在

 

 「植民都市の形成と土着化に関する研究」という、いささか壮大なテーマを掲げた国際学術調査を開始することになった。まず対象とするのは大英帝国の植民都市で、南アフリカ(プレトリア)、インド(ニューデリー)、オーストラリア(キャンベラ)が主要ターゲット国である。まずは現地へと、一月余りで、ロンドン、アムステルダム(ライデン、デルフト)を経て、南アフリカ、インド(ムンバイ)に行って来た。最も長く滞在したのは南アフリカで、ロンドン、オランダは宗主国の資料を収集するための行程だ。

 例えば、ケープ・タウン。喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)は、僕らには親しい。一四八八年にバルトロメウ・ディアシュが発見し、一四九二年には、ヴァスコ・ダ・ガマに率いられた船隊がここを抜けてインドへ向かう。大航海時代の始まりと世界史で習う。そのケープ・タウンを最初に建設したのはオランダである。ヤン・ファン・リーベックが一六五二年建設の礎を築いた。しかし、その後ケープタウンの地は一九世紀初頭英国の支配下に入る。ロンドン、オランダが資料収集の場所となる由縁である。

 アジアを歩き始めて二〇年近くになる。日本対西欧という見方ではなく、日本からアジアへ(あるいはヨーロッパへ)、どのように多様な脈絡を発見できるかを視点としてきた。しかし、植民都市ということをテーマにすることにおいて、植民地化の論理、ヨーロッパ側から世界覆う世界史的視座に触れざるを得ない。それは、かなり刺激的なことであった。例えば、ケープタウンの建設。同じ時期にバタビア(ジャカルタ)が建設されている。スリランカのコロンボもそうだ。三つの植民都市を比較する視点も当然のように思える。同じ時期、台湾のゼーランジャー城、プロビンシャー城も造られている(ヨーロッパではあんまり知られていないことがわかった)。例えば、ヤン・ファン・リーベック。彼は長崎の出島にも来ている。二〇歳で外科医の免許を取り東インド会社に雇われてバタヴィアを訪れる。その後トンキン(ハノイ)で貿易に従事。数奇の物語があってケープ・タウンに指揮官として赴任するのである。世界史の文脈に興味は尽きない(オランダには司馬遼太郎の『オランダ紀行』を携えていったのだけれど、池田武邦先生の名前が出ていた。縁は実に面白い)

 ところで、今回の調査旅行で最もインパクトを受けたのは南アフリカの都市政策である。アルバート・トンプソンという建築家、都市計画家をご存じないのではないか。彼はアンウィン、パーカー事務所で田園都市の計画に携わった。その彼は1920年代初期、南アフリカに渡り、田園都市を実現することになった。ケープタウンのパインランズである。まず、田園都市計画運動の世界史的展開を広い視野で見直す必要があると思った。しかし、それ以上にショックだったのは、田園都市思想が一九五〇年の「集団地域法」以降のアパルトヘイト政策の下で、セグリゲーション(人種隔離)の強力な役割を担ったように思えたことである。ホワイト、カラード、インディアン、ブラック。南アフリカの都市は明確にセグリゲートされている。ゾーニングの手法というのを徹底するとこうなる、というすさまじい現実である。田園都市に接してブリキのバラックが延々と立ち並ぶ地区がある。ジョハネスバーグのソエト地区が有名だ。田園都市の理想を徹底するとくっきりとしたアパルトヘイトロシティが成立する。日本の都市計画も本質的に同じ質を持っているのではないかと思うと一瞬背筋が寒くなった。


 

2024年9月9日月曜日

「やる気」、ある種の「使命感」、山本理顕編『徹底討論 私たちが住みたい都市』、図書新聞、20060422

「やる気」、ある種の「使命感」、山本理顕編『徹底討論 私たちが住みたい都市』、図書新聞、20060422


「やる気」、ある種の「使命感」

布野修司

 

 

 「私たちが住みたい都市」というテーマを掲げた、錚々たるメンバーによる連続シンポジウム(四回)の記録である。「私たち」というけれど、本書に一貫する問題意識ははっきりしている。編者であり、シンポジウム全体のオルガナイザー・司会者であった山本理顕にとって、「全体を支配しているテーマは建築である。そしてその建築の住人である。あるいは建築とその建築の住人との関係である」(あとがき)。そして、具体的に焦点が当てられるのは、(集合)住宅(空間)のあり方であり、それを規定する制度である。そうした意味では、2DK誕生の契機となった「51C」という住宅形式(公営住宅1951C型)、nLDKという日本の戦後住居の標準化をめぐる討論(『51C 家族を容れるハコの戦後と現在』)をそのまま引き継ぎ、それを都市、さらに国家の問題へと拡張しようとしたのが本書である。

 身体、プライバシー、住宅、国家というのが四回に割り振られたテーマ領域である。プライバシーをめぐる議論(松山巌×上野千鶴子)は、ストレートに「51C」、nLDK、「近代住宅」、標準住宅といった住宅形式をめぐっている。日本のnLDK形式の成立を松山は「住宅の五五年体制」と呼ぶが、この体制をどう突き崩すかが建築家に問われ続けているのだといい、新たな形式を提示しようとしてきたのが山本理顕である。山本設計の「保田窪団地」(熊本)、「東雲キャナルコート」(東京)も、当然、議論の俎上に載せられる。上野は「保田窪団地」の居住者追跡調査をもとに、設計者の意図が裏切られている実態を具体的に明らかにする。

住宅をめぐる議論(八束はじめ×西川祐子)は、それを歴史的に、またグローバルに振り返り、拡がりを与える。議論の軸になるのは、家/家庭→家庭/個人の二重構造モデルである。具体的に、母子家庭が共同居住する「カンガルーハウス」や複合高齢者施設の可能性も論じられている。

 家族と住宅、公と私、内と外、男と女、計画者と居住者等々をめぐる議論は、建築家(上野のいうところの空間帝国主義者)にとっては基本的テーマであるが、身体と国家をめぐる議論がそれに知的な深度を加える。

 身体をめぐる議論(伊東豊雄×鷲田清一)は、衛生、健康、透明、清潔、純粋というキーワードを取り出し、それを管理する近代社会のあり方を大きく問うている。商業建築のガラス張り透明なファサードに対して「異議申し立て」を試みる伊東豊雄の最新作と鷲田の身体論がうまくシンクロナイズしているように思う。国家をめぐる議論(磯崎新×宮台真司)は、それこそ、集合住宅、nLDKから、郊外、近代化、権力、九・一一まで、縦横に広がる。宮台真司は、「脱中心化」「脱主体化」「脱標準化」、さらには「脱空間化」の時代において、建築家の役割が大きく変貌(下落)していることを指摘しながら、「島宇宙」の島民(トライブ)のためのアイコン(趣味、虚体)の設計にとどまっていていいのか、人々のコミュニケーションを支える深層の不可視のレイヤーのデザインをどう考えるのか、と問う。要するに、究極的に「脱主体化」時代における建築家の主体が問われるのである。磯崎新は、例によって実に首尾一貫として自らの軌跡を語る一方で、宮台の問いに、建築のポストモダン状況を特権的に異化するために召還した「大文字の建築」あるいはデミウルゴスという概念が揺すぶられているようにも思える。建築家はパワーゲームの中で生きざるを得ない、ものをつくらなくてもコンピューターのソフトウエアのひとつのプログラムをつくっていればいい、ただの職人になればいいのか、主体なき器官としての建築家というようなものがありうるのか。

 今日、建築、あるいは空間の相対的地位の低下は、誰の目にも明らかである。「社会的総空間の商品化」の趨勢が明らかになった1960年代にも、「建築の危機」(建築の滅亡、建築の解体)が語られたことを思い起こす。IT社会の進行がそれを今加速している。もっとも、空前のマンションブームの中での耐震偽装問題をみると、建築家の意識の位相にそう変化はないのかもしれない。全体の議論を通じて、高齢社会の問題が影を落しているのは、当然の時代の流れである。

 本書を通じて、際だつのは、山本理顕の「やる気」、ある種の「使命感」である。彼は、あくまでもヴィジョン、空間の型、社会システム、・・・に拘ろうとしているようにみえる。「集合住宅は二〇世紀の大失敗だった」といいながら、その失敗を引き受けようとする覚悟がある。「集合住宅はめんどうくさいからやらない」(磯崎新)といった特権的な建築家は別として、また、身過ぎ世過ぎのためにのみ住宅に関わる建築家は別として、都市組織と都市住宅に拘り続ける山本理顕の問題の立て方と切口は貴重である。時代錯誤でも、ドンキホーテでもない、その誠実で真摯な思考の持続に共感を覚える。とはいえ、「住みたい都市」について本書に解答があるわけではない。一般にもわかりやすく、註や写真のみならず随所にキーワードの解説も付されている本書は、読者それぞれに、都市と住まいについて考えることを要求しているように思える。身近な住宅をめぐって、高齢化、少子化、老い、介護、子育て、・・・をめぐって、様々な取り組みを日々積み重ねること、これはひとり建築家の問題ではないからである。



 

2024年9月7日土曜日

親自然工法とは,傷つけて癒す,楓,19980101

 親自然工法とは,傷つけて癒す,楓,19980101


傷つけて癒す・・・親自然工法とは

布野修司

 

 昨年のある県の景観賞審査委員会で、ちょっとした議論があった。ある河川の改修工事が賞の候補に残り、大半の委員の意見は「賞に値する」という意見のようであった。しかし、ぎりぎりのところである農業土木の専門委員から反対意見が出されたのである。

 当の河川改修は著名な観光地の中心を流れる川で、三面張りの味気ない護岸であったものを自然石やタイルでデザインし直したものである。以前のどぶ川が見違えるようになった、というのが多くの地元の委員の感慨である。

 反対理由のひとつは、この程度の河川改修は全国何処でもやっており、特に、顕彰するまでのことはない、というものである。確かにそうである。県内でも、似たような事例は増えつつある。

 問題はもうひとつの反対理由である。三面張りを改修修景したのはいいが、自然の回復という意味では三面張りと同じであるという。親自然工法とか近自然工法、あるいはビオトープが試みられつつある中で、ちっとも先進的ではない、と力説される。言われれば、そうである。蛍が棲息するように、といった試みは県内にも既にいくつかある。

 河川改修の本質とは何か、議論していくうちに、造園とは何か、ということも問題になってくる。自然のままにしておけばいいというのであれば、造園はいらないのではないか、といった意見も飛び出た。

 結局、その応募作品は見送りとなった。

 今年、再びその作品が問題になった。議論を続けるために、敢えて候補作品として何人かの委員が押し続けた。結果、近自然工法と思われる河川改修と同時に入賞ということになった。

 大きなきっかけとなったのは、公共事業の削減命令で、真っ先にこうした護岸改修や外構の予算が削られそうです、という行政代表委員の休憩時間の発言であった。せっかく、景観をテーマとすることができるようになったのに、後退されてはたまらないというわけである。

 しかし、議論が解決したということではない。いったい親自然工法とはなにか。土木、建築というのは基本的には自然を傷つけることによって成り立つ人工的営為である。造園はどうか。傷つけて癒す、その思想と方法が問われている。景観の問題は、単なるお化粧直しのデザインの話に止まるわけにはいかないのである。