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2025年9月22日月曜日

アユタヤ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

K04 東南アジア18世紀の首都

アユタヤ Ayutthaya, 中部タイ、タイThailand


アユタヤは,スコータイに続く、タイ族第二の王朝として1351年から1767年まで416年間首都を経験した。タイ王国の中心、現在の首都バンコクを通る南北軸上に展開された国史においてアユタヤはチャオプラヤ川、パサックPasak川、ロッブリLopburi川に囲われた島状の土地に無数の建造物を構え形成されたが、1767年ビルマの侵攻により歴史に終止符が打たれる。この時の破壊は徹底したものであり、まさしく廃墟と化したことが知られている。また、続く王らの保護政策や、水上居住を主としたタイ人の文化的特性などから王朝が築かれた「島」は、その後100年以上ほぼ未開のまま残される。

アユタヤ王朝はスコータイ王朝の反クメール的性格(=温情主義的)から、反発してクメール文化に大きな影響を受けていたことが一般に言える。すなわち、ヴィシュヌ神を王に重ねる「神なる国王」(テーワ・ラーチャThewaracha)の思想が確認できる。また、そうした宗教理念に基づいて王宮の意義が重要視された。王朝の歴史は、ビルマの占領期(1569-1584年)を境に、「前期アユタヤ」と「後期アユタヤ」に分かれ、それぞれの期間に通用した首都名も異なっていたとされる(アヨータヤー (Ayudhya/Ayothaya)からアユタヤ(Ayudya/Ayudhya/Ayutthaya))前期アユタヤにおいてはサクディナーSakdina 制など中央集権化への足がかりが築かれ、後期において「港市国家」としての性格が開花した。港市国家では多様な民族構成がみられたこと、さらに外国人を支配層に組み入れつつも、ある一国が突出しないよう力の均衡を制御していたことなどが注目される。また交易を重視し、国家の多民族性を許容してきたことはアユタヤ社会の世俗化をもたらし、都市形態もこれに対応していた。王朝時代の都市空間構成に関しては、街路、水路は計画的に配されていた。島の北に王宮等の重要施設が配される一方、南部に外国人居留地が多く存在する。ただし、都市構造の決定は、政治、軍事、貿易、宗教など様々な要因によってなされる。

アユタヤが王朝の首都と見定められると、ウートン王 King U-Thong は神の住まいとして、聖域を定めることを考えた。聖域と世俗の地は、環濠によって区画されることになるが、すでにパサック川、ロッブリ川、チャオプラヤ川によって周囲の10分の9とり囲われた地に、北東の一角約0.5kmを掘削することによりこれを容易になした。また同時に土塁も構築された。この土塁は1549年にビルマのタベンシュウェティー王 King Tabinshwehtiによる侵攻の後、ポルトガルの技術支援を受けレンガ造に改築され、さらに40年後には現在のパーマプラオ通り Thanon Pa Maprow にあった北東のラインを川沿いにまで押し上げ前宮を城壁内に取り込んだ。島の内部には王宮、王宮寺院がヒンドゥーのコスモロジーに従い建設されていたといわれている。王宮は当初現在のワット・プラシーサンペットWat Phra Sri Sanphet の位置に建築されたが、ボロマトライロカナート王 KinBoromma Trailokanat により、北に移動されロッブリ川に接する敷地がとられた。これはさらに、ボロマコート王 King Borommakot により拡張されるが、王朝陥落の際に破壊され、のこった建造物もラーマⅠ世によりバンコクに運ばれた。この際、ポムフェットのみをのこして城壁の大部分も失われた。

アユタヤ島内に現存する主要な遺跡はほとんどが王朝建国来、最初の150年に建設された。すなわち、都市景観の形成は、前期アユタヤのうちに完成されたといってよい。都市の所感は、感嘆と蔑みが混在している。おそらく双方ともに忠実であり、二重の社会性の存在が指摘できる。すなわち、神格化される王権や貿易の利潤で富む高官とトレードオフする形で、集権制度で搾取される社会的身分の低い者達が同時に都市の構成要素であったとういうことである。特に交易都市として世俗化が指摘されるアユタヤにあっては、少なくとも17世紀には、随所で構築される世俗的な秩序の複合性が都市形成の大きな影響力を持っていたと考える。王朝時代の都市構造に関しては、5本の幹線水路が島を南北に縦断し、さらに細かな水路がこれに接続する形で無数に走っている。水上での生活の主体であった当時の状況を考えれば、この5本の水路に面して市街地その他の都市施設が築かれたことはほぼ間違いない。

現代への都市形成は1900年頃に遡ることが限界であり、かつ適当である。立脚点となる王朝時代から継承される都市構造は、川岸に限られた居住区と、島内の空白地帯、そこに北に偏って残された重要遺産であった。これを近代化以前の都市構造として現在のそれと比較すれば、島内の水路が消滅し、代わって陸路が敷設されている。陸路の敷設はバンコクにおいてはラーマⅤ世時代に「道路は弟で運河が兄」という関係が逆転してとらえられたと言われ、アユタヤにおいてもこの頃から陸上インフラが整備されていったと考えられる。ラーマⅤ世によってタイで初めての鉄道が敷設されバンコクと結ばれるころになると、アユタヤは近代化を迎える。島内で最初の道路としてウートン通りが建設され、1902年には遺跡の発掘に着手し博物館が建設される。1904年にラーマⅤ世はこの博物館を訪れ、「アユタヤ博物館」とこれを命名する。また、1908年にはアユタヤを重要文化地区に指定する。これによって島内すべての私有が禁じられた。当時は依然として水上居住が主流であり、住居は河川沿いに建てられることが多く、さらに島内の保護指定により、陸地の開発は島周囲に限られていた。

1932年立憲革命を迎えたタイは、アユタヤを中部で最初の州と制定し、島内のインフラ拡充を開始する。ロッチャナ通り Thanon Rojana、プリディタムロンPridi Thamrong橋がパサック川に建設されると、島内の開発が徐々に進行してくるようになる。1938年に財務省のプリディファノミヨン(Pridi Phanomyong)が島内の土地私有制限を一部解放するが、ピブン(Phibun Songkhram)政権の工業化政策、観光化政策によって、より大きな変化がアユタヤにもたらされる。陸軍元帥ピブン・ソンクラムはアユタヤの観光開発を推進し、州本部の新築、新プリディタムロン橋(1940)の建設などを次々に実行する。1966年に議会が歴史公園の保存を目的として、島内の一部と島の周囲の開発を許可したことは重大な転機であった。1976年には芸術局によって島の20%、1810ライ(1ライ=1.6ha)が歴史保全公園として保存が決定された。そして1991年に世界遺産としてユネスコに登録される。







 

参考文献

ナウィット オンサワンチャイ・桑原正慶・布野修司 「アユタヤ旧市街の居住環境特性とショップハウスの類型に関する研究」『日本建築学会計画系論文集』第601号、pp. 25-3120063.

Derick GarneirAYUTTHAYA: Venice of the EastRiver Books, Thailand2004

Tri AmatayakulThe Official Guide to Ayutthava & Bang Pa-InFine Arts DepartmentBangkok1972

 

1776  年のアユタヤ by  John Andrews


チャオプロム地区施設分布

1967年 アユタヤの航空写真 (口=チャオプロムChao Phrom 地区 )


2025年9月21日日曜日

チャクラヌガラ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


K22 円輪都市-最果てのヒンドゥー都市

チャクラヌガラCakranegara、ロンボクLombok、インドネシアIndonesia

チャクラヌガラは、18世紀初頭にバリのカランガスム王国の植民都市として建設された。すなわち、ヒンドゥー理念に基づく都市である。極めて体系的な街路体系と街区構成は、イスラームが支配的であるインドネシアにおいて極めてユニークである。

バリ島とロンボク島の間にはウォーレス線が走る。西は,稲と水牛の世界であり,東は芋と豚の世界である。ロンボク島の地形はバリ島によく似ている(図1)。中央にインドネシア第二の活火山,リンジャニ山Gunung Rinjani 3726,1901年に噴火した記録がある)が聳え,大きく3つの地域に分けられる。すなわち,荒れたサバンナのような風景の見られる,リンジャニ山を中心とする北部山間部,豊かな水田地帯の広がる中央部,それに乾いた丘陵地帯の南部である。チャクラヌガラ位置するのは中央平野部西部である。

西ロンボクにはバリ人が住み,東ロンボクにはササック族が住んできた。ロンボク島の主要な民族であるササック族,北西インドあるいはビルマから移動してきたとされる。マジャパイヒト王国がイスラームの侵攻によってバリに拠点を移した15世紀以降、その影響を受けてきた。

チャクラヌガラの中心にはプラ・メル1720年建立)が位置する(図2)。メル(メール山,須弥山)の名が示すように,世界の中心であり,ロンボクプラ(ヒンドゥー寺院)のうち最大のものである。チャクラヌガラの西端にはプラ・ダレムpura dalem(死の寺)が,東端にはプラ・スウェタが位置する。プラ・プセpura puseh(起源の寺),プラデサ,プラ・ダレム 3つの寺のセットはカヤンガン・ティガKayangan tigaと呼ばれ,バリの集落には原則として設けられている。ただ、バリでは南北軸上に配置されるのに対して、チャクラヌガラでは東西軸上に配置されるのが異なっている。


街路は,マルガ・サンガ(中心四辻 東西約36m 南北約45m,マルガ・ダサ(大路 約18m,マルガ(小路 約8m)の3つのレヴェルからなり,マルガ・ダサで囲まれたブロックを街区単位としている。ブロックは南北に走る3本のマルガ4つのサブ・ブロックに分けられ,それぞれのサブ・ブロックは,背割りの形で南北10づつ計20の屋敷地プカランガン (屋敷地)に区画される。マルガを挟んで計20プカランガンのまとまりを同じくマルガといい,2マルガ1クリアン  ,さらに2クリアン カランという(図3)。マルガ,サンスクリット語で「通り」を意味する。街区の構成は,むしろ,中国都城の理念が持ち込まれた日本の都城に近い。実にユニークなヒンドゥー都市がチャクラヌガラである。

 チャクラヌガラの各カランは基本的にそれぞれ対応するプラを持っている。プラを持たないカランも見られ,カランプラの対応関係は崩れているが,基本的にはカランプラを中心としたまとまりであることは現在も変わらない。バリの地名、集落名をカラン名とするものが少なくない。

興味深いのは,南のアンガン・トゥル Pura Anggan Telu である。この地域は中心部と同様の町割りがなされている。当初から計画されたとみていい。北には,プラ・ジェロがあり,東にはプラ・スラヤがあり,プラ・スウェタがある。チャクラヌガラはオランダとの戦争で一度大きく破壊されており,必ずしも現状からは当初の計画理念を決定することはできないが,プラ・メルに属するプラの分布域がおよそ当初の計画域を示していると考えていいと思われる。

ヒンドゥー教徒は,基本的にカースト毎に棲み分けを行ってきた。僧侶階層としてのブラーフマン,北および東に居住する。この分布から見て,南北の突出部は当初から計画されていたと考えられる。いくつかの称号のうちサトリア(クシャトリア)は西部に,グスティ東部に厚く分布する。アグン,ラトゥといった王家に関わる称号は,王宮の周辺に分布する。

また、ムスリム、チャイニーズとの間にも棲み分けが見られる。ヒンドゥー教徒は,中心街区を占め,イスラーム教徒は周辺部に居住する。また,屋敷地,街路の形態には明確な違いがある。カラン毎にプラ,モスクが設けられるが,市の中心部にもモスクが設置されている。チャイニーズ,全域に居住するが,基本的には商業活動に従事し,幹線道路沿いに居住する。

 ヒンドゥー地区とイスラーム地区の空間構成の差は一目瞭然である。ヒンドゥー地区の屋敷地の構成は、基本的にバリの集落と同じである。分棟式で、ヒンドゥーのコスモロジーに基づくオリエンテーションに基づいて配置される。ヒンドゥー地区は極めて整然としているのに対して,イスラーム地区に入ると雑然としてくる。街路は曲がり,細くなる。果ては袋小路になったりする。住宅もてんでバラバラの向きに建てられる。居住密度は高く,コミュニティーの質も明らかに異なっている。

2025年9月20日土曜日

スラバヤ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,20191130

K21 東ジャワの港市-マジャパヒト王国のパサール都市

スラバヤSurabaya、東ジャワJawa Timur、インドネシアIndonesia



スラバヤは、古来、パシシール地域(ジャワ北沿海地区)を代表する港市として発展し、現在も東南アジア有数のハブ港をもつ大都市である。その創設は1293年とされる。クビライの軍が攻略しようとして撃退されたことが中国史書に記されているからである。その時点で都市的集住が成立していたかどうかは不明であるが、ヒンドゥー・ジャワ王国の東ジャワ期の王都クデリKederi、シンゴサリSingosariとはブランタス川で繋がれており、その外港として発展してきたと考えられている(図1)。14世紀初頭には、モジョケルト近郊に強力なマジャパヒトMajapahit王国が成立しており、マドゥラ海峡を介する国際交易の拠点となっていた(年代記初出は1365年)。


15世紀末にマジャパヒト王国がイスラームに追われてバリに遷都すると、デマDemak王国の支配下に入るが、独立した都市国家として繁栄し、17世紀前半には56万人の人口を誇ったという(Reid(1993))。チャイニーズの影響力が強く、その多くはイスラームに改宗している。17世紀初頭には、中部ジャワに勃興したマタラム王国の支配下に置かれる。住民は、ジャワ人も含めて、スラウェシ島にマッカサルに逃亡、人口は1000人ほどに激減している。

オランダ連合東インド会社VOCの拠点が置かれたのは1617年で、VOCはマタラム王国から交易権を得て、1677年にはスペールマン将軍によって要塞が築かれている。18世紀半ばには人口は1万人ほどに回復したとされる。1743年にVOCはスマランSemalan、グレシクGresikとともにスラバヤを支配下に治める。

オランダ本国が1795年にフランスに併合され、1799年にVOCは解散するが、ダーンデルス総督の時代(180811年)に本格的な都市建設が開始され、カリ・マス城塞も建設される。1811年には英国にジャワを明け渡すが、平和裏に返還されると、1830年以降、強制栽培制度を導入、植民地支配を強めていく。

20世紀初頭にスラバヤは東インド最大の都市となり、人口150,000人に達した(ヨーロッパ人8000人、中国人15000人、アラブ人3000人:1905年)。

20世紀に入って、スラバヤは北から南へ発展していく。灌漑施設の拡張、甘藷糖業の発展、スラバヤ港の解説が大きい。人口は、1920年に約20万人、1930年に33万人、独立後の1950年に71.5万人、1960年には99万人に達する。以降、人口は爆発的に増え、1970年に155万人、80年に203万人と20年ごとに倍に増えてきた(図2)。現在は、約300万人、ジャカルタに次ぐインドネシア第2の大都市である。

スラバヤの起源については、地名を手掛かりにしたJ.シラスの復元がある(図3)。クラトンkeraton(王宮)という通り名は現在もあり、ジャワ都市の中心アルン・アルン(広場)の位置が推定されるのである。

ただ、19世紀初頭まで市街地の発展があったわけではない。1825年の地図をみると、湿地帯、水田、カンポン(ムラ)の中にカリ・マス城が浮いている感じである(図4)。1866年の地図(図5)には、北から南に、ジャワ、アラブ、マレー、チャイニーズのカンポン名が記されている。

20世紀に入って、とりわけ、1960年代から1970年代にかけての爆発的人口増加によって、この都市核はカンポン(都市村落urban village)の海に取り囲まれることになった。

都市形態をみると、中心部に高層のホテル、オフィズビルが林立する以外は、全て2階建て以下の赤瓦のカンポン住居である。

1960年代から70年代にかけて、急速な人口増加による居住環境の悪化が深刻となり、上下水道、道路などインフラストラクチャーの整備、ゴミ処理などが大きな課題となった。これはジャカルタも含めて、発展途上国の大都市が同様に抱えた問題である。

カンポンの住居は、物理的には貧相であるが、決してアモルフではない。一定の原型、標準型、家族人数に応じた変化型がある。また、カンポンのコミュニティはしっかりしている。一説に、日本軍が持ち込んだという説もあるが、伝統的な共同体システムが生きており、町内会(RW,RT)組織による相互扶助システムがうまく機能しているのである。

そうしたコミュニティを主体として行なわれたカンポン・インプルーブメント・プログラムKIPは大きな成果を上げ、高い評価を受けてきている。


参考文献

布野修司(1991)『カンポンの世界』パルコ出版

Dick, Howard W.(2003)Surabaya City of Work A Socioeconomic History, 1900-2000”、Singapore University Press

Silas, Johan(1982)"KIP Program Perbaikan Kampung di Surabaya 1969-1982 suatu inventarisasi dan evaluasi", Pemerintah Kota Surabaya

Silas, Johan(1996)"Kampung Surabaya Menuju Metropolitan", Surabaya Post

Pemerintah Kota Surabaya(2012)"Kampung Surabaya Menuju Abad 21", Pemerintah Kota Surabaya

2025年9月19日金曜日

ジャカルタ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,20191130

K20 ジャワの首座都市-バタビアからメガ・シティへ

ジャカルタJakarta、西ジャワWest Jawa、インドネシアIndonesia

 


 ジャカルタの地は、かつてスンダ・カラパと呼ばれた。スンダはジャワ西部の地方名、カラパは椰子を意味する。ヒンドゥー王国のスンダの中心都市であったが、マジャパヒト王国がバリに追われると、イスラーム化され、ジャヤカルタJayakartaに改称される。その1527622日をもって都市誕生の日とされる。ジャヤカルタは「聖なる勝利」を意味するが、訛ってジャカトラJakatraと呼ばれるようになる。チリウン川西岸に位置し、四周はその支流と竹垣で囲われていた。中央にアルン・アルンと呼ばれる広場があり、クラトン(王宮)、モスク、北にはパサール(市場)が取り囲み、貴族達の住居はその周囲に建ち並んでいた(図1)。

 ジャカトラ 想定復元図 J.W.Ijzerman

 1617年、オランダ東インド会社VOC総督J.P.クーンは、ジャヤカルタの王から商館を建て交易を行う許可を得る。そして、イギリス商館を焼き払い、ジャヤカルタを占領、破壊した後、バタヴィアBataviaの建設に着手する(1619年)。バタヴィアとは、オランダのラテン名に因んだ名前である。

 バタヴィアの建設は、チリウォン川の東に沿って行われ、オランダの都市の中庭を住居が取り囲む街区構成が初期の地図から窺えるが(図2)、運河を縦横に走らせるその伝統に従った町づくりが行われる。バタヴィア城には本部が置かれ、事務所、倉庫上級職員の居住区、兵舎、教会などがある。南北約2250m、東西約800mの市域は、東に城壁が建設され、他はチリウォン川によって区切られている。東西に幅30フィートの運河が5本掘られ、ほぼ中央に市庁舎、パサール・バルー(新市場)、南に病院、また教会が建設された。

2 ジャカトラ Boccaro(1935)

 1635年には、チリウォン川が真直ぐに改修され、その両側に市域が拡大されている。S.ステヴィンの都市モデル(Column12)が参照されたとされる。1650年には、ほぼ完成し(図3)、1667年までに順々に再開発され、18世紀を通じて存続する町の形態ができ上がっている(図4)。1648年には、後背森林地区までの運河の建設が開始され、1650年には郊外居住地が建設され始めている。

3 バタヴィア1850VELH430

 17世紀後半から18世紀にかけて、バタヴィアは繁栄を誇り、「東洋の女王」と呼ばれるほど、VOCの植民都市のうちで最も美しい町とされた。市外に各民族のカンポンが形成されるとともに、防衛のための要塞が建設された。チャイニーズが1740年に市内から追放され、後背地の開発に従事する。1680年には、第2の防衛線がバイテンゾルフ(現在のボゴール)に置かれており、後背地は、既に、現在ジャカルタ大都市圏にまで広がっているのである。

 ヨーロッパ人たちも次第に郊外に居住するようになる。当初は別荘が建てられ、やがてオランダ風の邸宅が建設される。そして、ヨーロッパ人、中国人は主として第一の防衛線と第二防衛線の間で、砂糖きび栽培を本格的に開始する。しかし、17世紀前半になると、バタヴィアは衰退し始める。環境悪化、特にサラク火山の大噴火(1699年)によって砂州が河口に形成され、運河の汚染が高まり様々な疫病が流行したためであり、後背地における砂糖栽培のための性急な乱開発も原因として指摘される。1780年頃になると、バタヴィアの中心は空洞化し廃墟然として「東洋の墓場」と呼ばれるほどとなる。

 そこで、もともと森林地帯であったウェルトフレーデンWeltevreden地区(現在のムルデカ広場周辺)への中心の移動が決定される。この大移転は、18世紀末に開始され、1809年にH.W.ダーンデルスDaendelsにより完成される。イギリス統治期(181116年)も変更は加られていない。バタヴィアの城塞、城壁は取り壊され、運河は埋め立てられた。再興されるのは19世紀末から20世紀はじめにかけてのことである。市域は19世紀を通じて拡大していく。しかし、カンポン(ムラ)には、基本的に手をつけられず、新たな中心の周辺に再編成される。

 バタヴィアがさらに大きく変わるきっかけとなるのは、鉄道の敷設(1873年)と外港の建設(187783年)である。すなわち、産業革命の波が、バタヴィアにも及ぶのである。バタヴィアの拡張に伴う計画は1918年に立てられ、中心部については1920年代から30年代にかけて戦後につながる基盤が形づくられる。しかし、その他の地区は、ほとんど何の都市基盤をもたないカンポンの海であった。注目すべきは、1925年に市の補助によってカンポンの改善事業(Kampung Verbetterung)が開始され、第二次大戦まで序々に続けられることである。

 戦後のジャカルタの膨張はすさまじい。人口増加に対応するために建設されたニュータウン(コタ・バルー)も、すぐさま、カンポンに取り囲まれた。ジャカルタは、アジア有数の巨大都市、プライメイト・シティとなるのである。そして、さらにジャカルタ大都市圏が形成される。周辺の諸都市ボゴール,タンゲラン,ブカシを含んでジャボタベックJabotabekJakartaBogor, TangerangBekasi)と呼ばれる。2,000年のセンサスに依れば,ボゴールが460万人,タンゲランが410万人,ブカシが330万人,全体は2110万人にも及び,20世紀末の10年で400万人も増えた。そして、21世紀に入っても、このメガ・アーバニゼーションの流れが続いている。

4 バタヴィアの変遷

 

参考文献

布野修司(1991)『カンポンの世界 ジャワの庶民住居誌』パルコ出版

A.Surjomihardjo1977"The Growth of Jakarta",Jakarta

J.W.Ijzerman1917"Over de belegering van het Fort Jacarta"

F.de Haan1922"Oud Batavia",Batavia,G.kolff &Co. 他、布野修司編(2005)『近代世界システムと植民都市』の主要参考文献Batavia-Jakarta-Indonesia参照。

 

2025年9月18日木曜日

市浦健、尾島俊雄、郭茂林、岸田日出刀、高山英華、坪井善勝、西山夘三、浜口隆一、早川和男、林昌二、前川國男、武藤清、山下寿郎:朝日新聞社編:現代日本 朝日人物事典,朝日新聞社, 1990年

 朝日新聞社編:現代日本 朝日人物事典,朝日新聞社, 1990

市浦 健 いちうらけん

 1904.01.241981.XX.XX 日本の公共住宅の設計を主導した建築家。東京都生まれ。1928年東京帝国大学(工学部)を卒業。戦前期には住宅営団にあって、戦後は日本住宅公団を指導する建築家として、日本の住宅問題に取り組んだ。建築の合理化、合理主義の建築を主唱した日本の近代建築のパイオニアのひとりである。昭和初期に、W.グロピウスの提案するトロッケン・モンタージュ・バウ(乾式構造)による組立住宅を逸早く設計、住宅生産の工業化、プレファブ住宅の先駆者でもある。団地やニュウタウンの計画や集合住宅の作品が中心で、公団のY字形の平面をしたスターハウスはその代表作のひとつである。(布野修司)

 

尾島俊雄 おじまとしお

 1937.XX.XX~ 建築学者。都市環境工学。富山県生まれ。1960年早稲田大学(理工学部)を卒業。65年講師、69年助教授を経て、74年早稲田大学教授。建築環境工学の分野から、都市環境そのものを対象とする都市環境工学の分野を切り開いた先駆者として知られる。また、東京の改造計画や地下空間の利用など、都市環境についての積極的提言も行なっている。大都市問題について比較文明論的な視点での研究を展開するなど、都市環境に対するアプローチはグローバルである。大阪万国博、つくば科学博の会場設計、多摩センター地区等の基幹施設の基本設計も手がけている。著書に『熱くなる大都市』、『絵になる都市づくり』、『東京大改造』などがある。(布野修司)

 

郭 茂林 かくもりん

 1921.08.07~  建築家。台北市生まれ。1940年台北工業を卒業。戦後まもなく、東京大学工学部建築学科吉武泰水研究室にあって、「木造総合病院試案」(1950年)、「成 小学校」(51年)、また2DKのモデルとなった「51C型公営住宅標準プラン」(51年)などを設計、公共建築のあり方に大きな影響を与えた。その後、独立し、KMG建築事務所を開設、多くの作品を手掛けている。1962年から1969年まで三井不動産の建築顧問をつとめ、日本最初の超高層建築「霞が関ビル」(1968年)の設計にあたった。また、この作品とともに「新宿三井ビル」(1975)でも日本建築学会賞を授賞している。(布野修司)

 

岸田 日出刀 きしだひでと 

  1899.02.061965.05.03 建築家、芸術院会員。福岡県生まれ。1920年東京帝国大学(工学部)を卒業。1929年に東大教授となり、59年に退官するまで建築界を指導する立場にあって活躍した。前川国男、丹下健三、吉武泰水など多くのすぐれた人材を世に送りだしたことで知られる。代表作は、東大安田講堂(26年)である。また、『オットー・ワグナー』(27年)、『過去の構成』(29年)、『ナチス独逸の建築』(40年)など多数の著作がある。オットー・ワグナーを逸早く日本に紹介し、日本の近代建築を方向づける役割を果たしたことが特筆される。47年から48年にかけて、日本建築学会長を務めた。(布野修司)

 

高山 英華 たかやまえいか   

 1910.XX.XX~  都市計画家。東京生まれ。1934年東京帝国大学(工学部)卒業。助教授を経て、XX年教授、62年に都市工学科を創設し、同学科教授、71年退官まで東京大学にあって、都市計画の分野をリードした。東京大学名誉教授。建築学の分野として都市計画が位置づけられるのは、1930年代以降のことであるが、その先駆けとして活躍した。戦前期には、大同や新京の都市計画など、植民地において、近代的な都市計画のモデルとなる仕事をなしている。「大同都邑計画覚書」、「新京都市計画案覚書」などの論文が残されている。戦後は、各地の復興計画にまず取り組んでいる。その論文「空間計画における時間的問題」は、その指針を与えるものとして評価された。また、その後、首都圏総合計画や新宿副都心の計画や各地のニュータウン計画など、重要な都市計画のほとんどに関わって、都市計画行政を指導してきた。特に、「高蔵寺ニュータウン」の計画においては、日本のニュータウン計画の基本となる理念、手法を提示した。都市計画関連の法制度の制定にも、各種審議員として関わっている。その間、多くの研究者、プランナーを育てている。都市工学科の創設は、その大きな功績である。戦後まもなく結成された(47年)建築運動組織、新建築家集団(NAU)の会長を務めた。また、6567年には、日本建築学会会長を務めている。(布野修司)

 

坪井 善勝 つぼいよしかつ        18

 1907.XX.XX~  建築構造学者。構造デザイナー。東京生まれ。1932年東京帝国大学(工学部)卒業。和歌山県営繕技師、九州大学技師を経て、41年?、東京帝国大学第二工学部教授、XX年、東京大学生産技術研究所教授。

 「矩形板に関する研究」で40年日本建築学会賞授賞。日本のシェル構造研究の第一人者である。また、すぐれた構造デザイナーとして、数々の作品を残している。東京オリンピックの諸施設など、60年代以降、シェル構造の建造物が日本でも数多く実現されるのであるが、その大きな功績とされる。特に、丹下健三との共同設計はよく知られる。「国立屋内総合競技場」、「東京カテドラル」、「万博お祭り広場」など、その主要作品のほとんどに関わっており、作品でも多くの賞を授賞している。

 

西山 夘三 にしやまうぞう

 1911.03.01~  建築学者。住宅問題、住宅・地域・都市計画。大阪生まれ。1933年京都帝国大学(工学部)を卒業。石本建築事務所、住宅営団、京都大学営繕課を経て、46年京都大学助教授、以後京都大学にあって、その庶民住宅に関する研究を基礎に日本の建築界に大きな足跡を残した。京都大学名誉教授。87年日本建築学会大賞授賞。京都大学学生時代のデザム、戦前の青年建築家連盟、戦後の新日本建築家集団(NAU)などを組織し、リードした建築運動家として知られる。また、建築評論に健筆をふるい、その発言は一貫して建築界に大きな影響力をもってきた。著作は、『西山夘三著作集』全四巻、『日本のすまい』全三巻、『日本の住宅問題』、『住み方の記』など多数にのぼる。とりわけ、戦後まもなく書かれた『これからのすまい』は、戦後の日本のすまいのありかたについての大きな指針となった。戦後住居の象徴となったダイニング・キッチンは、その食寝分離論によって生み出されたものである。(布野修司)

 

浜口 隆一 はまぐちりゅういち       

 1916.XX.XX~  建築評論家。東京生まれ。1938年、東京帝国大学(工学部)卒業。3843年、大学院で建築理論、近代建築史を研究、その間、前川國男に師事する。論文「国民建築様式の諸問題」で、評論家としてデビュー。48年、東京大学第二工学部助教授。近代建築の規定をめぐる論争などで建築ジャーナリズムの中心的存在となる。58年に東京大学を退職し、建築評論家としての自立を目指した。戦後を代表とする建築評論家のひとりである。『浜口隆一評論集』など著書、編著は多数。特に、戦後まもなくの『ヒューマニズムの建築ー日本近代建築の反省と展望』は、戦後建築の指針を示す書として広く読まれた。(布野修司)

 

早川 和男 はやかわかずお             

 1931.XX.XX~  建築学者。住宅問題。奈良県生まれ。1955年京都大学(工学部)を卒業。住宅問題、住宅計画の第一人者である西山夘三に師事。日本住宅公団、建設省建築研究所を経て、1978年神戸大学教授。日本住宅会議事務局長。「住宅は人権である」をスローガンに、住宅運動を展開する行動する研究者として知られる。その舌鋒は、政府の住宅政策の無策を追求して激しい。日本住宅会議を設立組織し、インタージャンルな研究活動も展開している。著書は、『空間価値論』、『住宅貧乏物語』、『土地問題の政治経済学』、『日本の住宅革命』、『新・日本住宅物語』など多数。(布野修司)

 

林 昌二 はやししょうじ          18    

 1928.09.23~  建築家。東京生まれ。1953年、東京工業大学(工学部)を卒業。同年より、大手の設計事務所である日建設計に勤務。組織事務所を代表する建築家のひとりとして活躍してきた。建築ジャーナリズムでの発言も多く、現実派のオピニオン・リーダーとしても知られる。1970年代半ば、超高層建築など巨大建築は是か否かという「巨大建築論争」が戦わされるのであるが、「社会が建築をつくる」という立場から、巨大建築擁護の論陣を張った。著書には『建築に失敗する方法』などがある。「ポーラ五反田ビル」(71年)で日本建築学会賞授賞。作品として、「三愛ドリームセンター」(60年)、「パレスサイドビル」(64年)、「日本IBMビル」(71年)、「日本プレスセンタービル」(76年)などがある。(布野修司)

 

前川 国男 まえかわくにお

 1905.05.14198X.04.2X 日本の近代建築を主導した建築家。新潟県生まれ。1928年東京帝国大学(工学部)を卒業。卒業と同時に、パリのル・コルビュジェのアトリエに入所。30年に帰国、A・レイモンド設計事務所に入所、「東京帝室博物館」など数々のコンペ(設計競技)に応募する。日本趣味、東洋趣味を条件とする戦前のコンペに対して、敢然とモダニズムのデザインを提出し続けたその戦いの過程は、日本の近代建築史の有名なエピソードのひとつである。35年、前川國男建築設計事務所を創設、その後、丹下健三、浜口隆一・ミホなど戦後建築を担う人材が入所している。以後、数々の名作を残す。

 工場生産木造組立住宅「プレモス」(46年)そして「紀伊国屋書店」(47年)以降、弟子である丹下健三とともに日本の戦後建築をリードする。「日本相互銀行」(52年)、「神奈川県立図書館・音楽堂」(54年)、「国際文化会館」(55年)、「京都会館」(60年)、「東京文化会館」(61年)、「蛇の目ミシン工業本社ビル」(65年)で日本建築学会賞、「埼玉県立博物館」で日本芸術院賞など多数の授賞作品がある。

 5962年、日本建築家協会の会長を務めるなど、建築家の職能の確立に大きな努力を払い、建築界の不透明な体質に警鐘をならし続けたことで知られる。近代建築家としての矜持を失わなかった建築家である。「国立国会図書館」(6168年)の設計をめぐる著作権問題や皇居前の「東京海上火災ビル」の設計(6574年)をめぐる「美観論争」において、毅然とした態度を貫いたことが多くの作品とともに記憶される。また、大高正人、木村俊彦、鬼頭梓など多くのすぐれた建築家を育てた。(布野修司)

 

武藤 清 むとうきよし                24

 1903.XX.XX1989.XX.XX 日本に超高層建築を可能にした建築構造学者。茨城県生まれ。1925年東京帝国大学(工学部)を卒業。1935年、東京帝国大学教授。1963年、東京大学を退官ののち、鹿島建設副社長、69年、武藤構造力学研究所所長。東京大学名誉教授。国際地震工学会名誉会長、日本建築学会名誉会員、日本土質工学会名誉会員。日本建築学会会長をはじめ、数多くの役職を歴任した。64年、日本学士院恩賜賞、XX年、文化勲章授賞。日本の耐震構造学の重鎮である。

 戦前より、建築構造学の分野を先導し、耐震構造学の体系を作り上げた。戦前期には剛構造論者として、柔構造論を退けたが、戦後、コンピューター技術の導入とともに動的解析法による耐震設計の技術を確立、地震国日本でも、柔構造による超高層建築が可能となることを明らかにした。それをもとに、63年、建築基準法の建物の高さ制限が撤廃され、68年、霞ヶ関ビルの竣工をみることになった。(布野修司)

 

山下 寿郎 やましたとしろう

 1888.04.021983.02.02 建築家。山形県生まれ。1912年東京帝国大学(工学部)を卒業。三菱合資会社地所部、芝浦製作所建築部、三井合名会社建築事務部を経て、29年、山下設計を設立。2047年、東京帝国大学講師。4951年、日本建築士会会長。5556年、日本建築設計管理協会会長。75年、全国建築士事務所協会連合会会長。日本建築学会名誉会員。戦前期から一貫して設計事務所を経営、山下設計を日本でも有数の建築設計事務所に育て上げた。また、建築界の要職を歴任し、建築家の職能の確立に務めた。作品としては、「霞ヶ関ビル」、「NHK内幸町」、「三和銀行」など多数がある。(布野修司)

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...