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2025年10月1日水曜日

デリー:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

  布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I14 二つの帝都を孕むメガ・シティ

デリーDelhi,首都,連邦直轄地 National Capital Territory of Delhi,インドIndia

 

 

 

 


デリーは,ヤムナー川とアラヴァリ山地北端の丘陵に囲まれた,いわゆるデリー三角地に位置し,古来多くの王都が置かれてきた。①インドラプラスタ,②ディッリー,③ラール・コートとキラー・ラーイー・ピタウラー,④シーリー,⑤トゥグルカーバード,⑥ジャハーンパーナー,⑦フィーローザーバードという歴代王都の遺跡群は,「ローマの七つの丘」になぞらえて「デリー七都」とも呼ばれる(図1)。

そして,ムガル帝国(デリー)と大英インド帝国(ニューデリー)の2つの帝都となるが,その2つの帝都の都市の骨格は,アジア有数のメガ・シティとなった今日のデリーにもうかがうことが出来る。

ムガル帝国の初代バーブルはデリーで建国を宣言するが,初期の帝都の中心は移動するオルド(宮廷)であり,アーグラ,ファテプール・シークリー,ラホールなどが拠点とされてきた。デリーを帝都としたのは第Ⅴ代シャージャハーンである。

シャージャハーンの都市(シャージャーハーナーバード)と呼ばれた帝都の宮城は,赤砂岩の城壁からラール・キラと呼ばれる。全体の計画は,長方形を面取りした八角形をベースとし,正南北の方位に合わせた1辺82mすなわち100ガズgazの正方形グリッドによって構成されている(図2)。

宮城はアクバラーバード門とサリームガル門とを結ぶ南北の通りによって二つの区画に分けられている。ヤムナー川に面した東側の区画は,皇帝の政務および私的生活の場である宮域で,外部との通路は限られている。宮城の西側の区画には,一般の居住区が設けられ,かなりの人口を擁し,ラホール門からジラウ・カーナの西端までは,屋根付きのバーザールが設けられていた。地上の楽園に見立てられた王宮にはナフル・イ・ベヘシュト(楽園の水路)が張り巡らされ,城内を流れた水は,最後には宮城を囲む堀へと流れていく設計である。

シャージャハーンが新都に入城した1648年以降,さらにチャンドニー・チョウクとファイズ・バーザールの2つの大通り,ジャーマ・マスジッド(金曜モスク)をはじめとする主要なモスク,ジャーマ・マスジッド周辺のバーザール,市壁,庭園,水路システムなどの建設が続けられ都市の骨格が形成されていった。市壁が完成するのは1658年である。

 18世紀には,チャンドニー・チョウク北側の上流階級の邸宅や庭園,宮殿が並ぶ地区,大多数の都市住民が居住していた南側の地区,キリスト教宣教師やヨーロッパ人商人たちが居住していたヤムナー川とファイズ・バーザールの間のダリアガンジュ地区の大きく3つの区域が形成されていた。

 ムガル朝の皇帝は19代続いたが,第Ⅵ代皇帝アウラングゼーブの死(1707年)以降,混乱が続き,西欧列強が侵攻してくる。 第2次マラータ戦争(180205)中にデリーは英国軍に占領され,ムガル宮廷の高官たちの宮殿が占めていた城内北東端の地区が英国勢力のレジデンシー(「総督代理公邸」)や兵舎,弾薬庫へと改変され,ダリアガンジュ地区にはインド人傭兵たちの軍営が置かれた。英国軍は丘陵地にカントンメント(兵営地)を設営し,北部に英国人の居住区であるシヴィル・ラインズが建設された。デリーの初のセンサス(1833年)によると人口は119800人,1843年には131000人,1853年には151000人の都市であった(図3)。

 インド大反乱後,1858年にインドは英国の直接統治下におかれる。1866年には,市街地を貫いて鉄道や駅,接続道路が建設されるなど,シャージャーハーナーバードは大きく改変される。デリーにとって決定的な転換になったのは,1911年のジョージⅤ世によるデリーへの遷都決定である。建築家エドウィン・ラッチェンス(18691944)を中心に新都ニューデリーの計画案がまとめられ,建設が開始され,1931年に落成する。このニューデリー計画は,プレトリア,キャンベラとともに大英帝国の植民地首都の完成形態といってよく,第二次世界大戦後独立していくアジア・アフリカ・ラテン・アメリカ諸国の首都計画のモデルとなる(図4)。

 そして、オールド・デリーも1947年の分離独立によって大きく変わる。多くのムスリムの流出とパンジャーブからの大量の移民の流入,さらにデリーの急激な人口増加により,多くの地区で,ほとんど全面的な住民の入れ替えが起こった。現在も、ムガル帝国に遡るハヴェリの形態もわずかに残るが、狭小住居が密集する(図5)。 194151年の10年間にオールド・デリーの人口は2倍以上になっている。

 分離独立後のデリーは急激な都市化によってアジア有数のプライメイト・シティとなり、深刻な都市問題、居住問題を数多く抱えてしまう。新旧二つのデリーを包括的に整備する近代的都市計画の体系と手法が導入されたが,多くの問題は未解決のまま今日に至っている。

 

【参考文献】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008530

布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバ-ト・ホ-ム著:アジア都市建築研究会訳,Robert Home Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,20017








 


2025年9月30日火曜日

ラホール:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

  布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I01 ムガル帝国の古都

ラーホールLahore,パンジャーブ州Punjab,パキスタンPakistan

 

 

 

 


 パンジャーブ州の州都ラーホールは、デリーの北西約400キロの地,インダス川の支流ラーヴィー川の南岸に位置する。

ラーホールのの起源は12世紀に遡るとされ、その名は,『ラーマーヤナ』に登場する伝説の英雄,ラム・チャンドラの息子,ラウLav(ローLoh)に由来するとされる。ラーホールという都市は,アフガニスタン,ペシャーワル地方,北インド,ラージャスターン地方にもあり,ラージプートの年代記には「ローの城」を意味するロー・コットとして言及される。ムスリムの著作の中では、ガズナ朝ムハンマドと同時代のアブ・リハーン・アル・バルーニによる,ローハワルLohawarという記述が最も古く、ローハワルあるいはラウハワルが転じてラーホールになったという。

 ガズニ朝によって1021年に占領されるまで,ヒンドゥー・ラージプートの支配下にあったが,イスラーム勢力の度重なる侵略によって破壊され、この時期の記録や建築的遺跡は残されていない。

 ガズナ朝のスルタン・マフムード(位1014-30)の家臣,マリク・アッヤーズによって城砦が築かれ,当初はマフムードプルと呼ばれた。ガズニ朝が滅んだ後,ラーホールはゴール朝のスルタン・ムハンマド・ゴーリーによって占領され、その後継者のクトゥブ・アッディーン・アイバクは首都をデリーへ移したために,ラーホールは一地方都市となり,大きな繁栄をみなかった。13世紀末のハルジー朝の時代には,多数のモンゴル人が市外に住みつき,その地区はモガルプラと呼ばれていたという。

現在のラーホール旧市街が築かれたのはアクバル(位15561605)の時代であり,1566年までには城砦が建設された。市壁の周囲は約4.8,12の市門を備える(図3)。その後,ジャハーンギール(位1605-27,シャー・ジャハーン(位162858)によって城砦が整備され,の西に,アウラングゼーブ(位16581707)によって,インド亜大陸随一の規模を誇るバードシャー ヒー・モスク(1674)が建設され,城砦地区が完成する(図1)。北西に城砦地区が位置し,東のデリー門から城砦の南を通り西のタクサリー門へと通じる街路,および北,南の各市門からその通りへと通じる街路を主 要な幹線道とする(図2)。この市壁で囲まれた城塞地区(旧市街地)の形態そのものは,現在に至るまで大きな変化はない。歴史的なハヴェリ(中庭式邸宅)もいくつか残っている(図3)。

1848年にイギリス統治時代が始まるが、当時のラーホール市域は,基本的に市壁の内部に限定され,周囲にはモザング,ナワン・コット,キーラ・グジャール・シン,ガリ・シャーフ,バグバンプラなどの村々が点在するのみであった。

植民地時代に,英国統治の行政地区として,シヴィル・ラインと呼ばれる道路網および鉄道が整備され,役所,住宅,商店等イギリス人のための総合的な生活環境が整えられていった。モール・ロードと呼ばれる道が道路網の中枢となり,モール・ロード沿いに重要な機関がインド・サラセン様式によって建設された。総督官邸(1849),高等裁判所(1889),電信局(1880),大学(1876),郵便局(1912)などである(図4)。 現在もイギリスにより建設されたこれらの地区が,ラーホールの中心地区となっている。また軍隊のためのカントンメントがさらに南東郊外に建設され,ラーホールは旧市街,シヴィル・ライン,カントンメントという3つの地域から構成されるようになった(図5)。

1947年のインド,パキスタンの分離独立により,パンジャーブ州は分割され,ラーホールはパキスタンのパンジャーブ州都となる。独立後,ラーホールは近代都市 への道を歩み始める。道路網が再整備され,水道施設などが整えられた。ラーホール改善トラストLITが設置され,都市計画にあたった。LITはラーホールの郊外地域の開発を進め,市域の拡大を促した。市南部および南東部にサマナバードとグルバーグの開発をおこない,都市の発展の方向を決定づけた。市の北部にもシャードバーグの建設を行ったが南部のような発展を見なかった。

 独立後,ラーホールに居住していた多くのヒンドゥー教徒,シク教徒がインドへ移住し,代わりにインドから大量のムスリムがラーホールへと流入した。またその後の都市発展にともなってラーホールの人口は大きく増加した。20世紀末には500万人を超え、現在、周辺を含めると人口は1036万人(2016)に及ぶ。近代化の進展と急激な人口増加により,ラーホールでも都市問題が顕在化している。特に周辺農村から貧民層が流入し,大量のスクォッター集落を生み出している。これらはカッチー・アーバーディーと呼ばれ,放置された土地や川沿い,鉄道沿いに広がっている。ラーホール開発局L.D.Aによってその対策が進められているが,現在では彼らの存在を不可避なものと認め,これらのカッチー・アーバーディーに飲料水や排水設備を供与し,彼らの環境への適応を援助するという解決がはかられている。






【参考文献】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008530

布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバ-ト・ホ-ム著:アジア都市建築研究会訳,Robert Home Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,20017


 



2025年9月29日月曜日

ジャイプル:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I12 ピンク・シティ-ジャイ・シンⅡ世の王都

ジャイプルJaipur,ラージャスターンRajasthan,インドRepublic of India

 

 ジャイプル,マハラジャ(藩王)であり,政治家であり武人,天文学者・数学者でもあったジャイ・シンⅡ世16881743)によって建設された。ジャイプルとは,「ジャイ・シンの都市(プル)」という意味である。ヒンドゥーのコスモロジーに基づいて、中心に王宮と最も重要な寺院ゴヴィンダデーヴァ、ジャンタル・マンタル(天文台)(図①)を置く、整然としたグリッド街区によって構成される、実にユニークな都市である。時を経て、ラム・シン(18351880年)が大英帝国ヴィクトリア女王の夫君アルバート公の訪問(1853年)に際に「歓迎」を意味するピンク色で建物のファサードを統一して以降、ピンク・シティと呼ばれる。ラージャスターンの州都であり,行政,交易の中心都市として、その建設当初から金融と宝飾、とりわけエメラルドの都市として知られる。

 建築家としてヴィディヤダールの名が知られるが、全体は格子状の街路によって計画され、中央東西には、西のチャンドポール(月)門からスーラジポール(日)門まで幹線街路が一直線に走り、間口2間程の店舗が連なるバザールが両側に並ぶ(図②)。また、東西南北の幹線街路の交差点にはチョウパルと呼ばれる350フィート四方の広場が置かれる。バザールとチョウパルによって予め都市の骨格を定めた上で、個々のハヴェリ(中庭式住居)が建設される。ハヴェリの建設にあたっては、高さなどヴィディヤダールの指示に従うことが求められた。ジャイプルには,多くの行政官や軍人が居住したが、その行政官の俸給として与えられた土地をジャギルといい,ジャイプルに土地を所有する層はジャギルダールと呼ばれる。18世紀後半には,そのジャギルダール のために住居を建設し,年収の一割を徴収する施策が採られた。起工式は、17271129日とされるが、ジャンタル・マンタルは、前もって建設が開始されている。1729年には、現在に残る市壁、市門すなわち外形は完成し、主要な街区は、1734年までには完成している。統一的な都市景観は最初期に形成されるが、現在の形態ができあがるのは19世紀末のことである(図③)。

 ジャイプルの全体は、ナイン・スクエア(3x3=9分割)システムあるいは9x9のプルシャ・マンダラに基づいて街区(チョウクリ)に分割されているが、完全な形をしているわけではない。北西部は、ナハルガル 城砦が築かれた山によって街区が欠け、南東部は東に1街区突出する形になっている。また、全体は正南北ではなく約15°時計回りに傾いている。東南部の突出については、北西の区画が山腹にかかって実現できないため、東南部にその代替を計画したという説がある。また、 グリッドが傾いているのは、ジャイ・シンの星座である獅子座の方向に合わせたという説、また、軸線の傾きは日影をつくり、風の道を考慮したためだという説がある。

 東西南北の幹線街路によって区切られるチョウクリ の大きさは必ずしも一定ではないが、街路寸法にははっきりとしたランクがあり(100フィート(30.48m,50フィート(15.24m,25フィート(7.62m,12.5フィート(3.81m)),ヒエラルキーに従って住区を構成する計画理念があったと考えられる。

 住居は基本的にはハヴェリと呼ばれる中庭式住居であり、中庭式住居を並べることによって街区が構成される。(図④)。当初は平屋もしくは2階建てであったが、現在は、46階建てが一般的である。現在まで残っている歴史的なハヴェリ,ジャイ・シンが招いた有力商人の建設したものである。

 19世紀に入ると,マラータ族の侵入によってジャイプルは衰退するが、ラム・シンの治世になると,再び活況を呈する。水道,ガス灯が設置され,病院,学校,大学,博物館が建設された。マド・シン Ⅲ世(18801922)の治世は再び衰退の時代となる。マン・シンⅡ世(19221940)の治世となると,市の行政は州議会によって執行されるようになる(1926年)。そして、1930年代以降,人口増加が始まる。1931-41年の10年は市壁外,特に南部郊外の人口増加が大きい。大学,病院が建設されるなど市街の開発が行われ、多くの人々が市の南部に住居を建設し始めるのである。

 戦後の変化は著しい。独立(1947)直後には約40万人に膨れ上がっている。第二次世界大戦後に多くの工場が立地し始めたことが人口増加の要因である。そして、その後も人口増加は続き、現在は300万人を超える都市となり、城壁内への地下鉄の敷設など、大きく変容しつつある。



図① ジャンタル・マンタル 撮影:布野修司

図② バザールの景観 撮影:布野修司

図③ ジャイプル 1881年 Roy, Ascim Kumar(1978), “History of the Jaipur City”, Manohar, New Delhi, 1978

図④ ジャイプルの街区 Survey of India 192528

 

 

 


参考文献

 

布野修司(2006)『曼荼羅都市-ヒンドゥー-都市の空間理念とその変容』京都大学学術出版会(「第Ⅲ章 ジャイプル」)。

 Ashim Kumar Roy:History of the Jaipur City Manohar New Delhi 1978

 J. Sarkar:A History of Jaipur Dehli 1984

S.B.Upadhyay: Urban Planning Printwell JaipurIndia1992

JDA: Vidyadhar NagarJaipur 1994

A. Nilsson: Jaipur in the Sign of Leo Magasin Tessin 1987

Aman Nath: JaipurIndia Book House PVT LTD1993 

 


2025年9月28日日曜日

アフマダーバード:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I04 ムガル帝国のグジャラート拠点

アフマダーバードAhmadabad,グジャラード州Gujarat,インドIndia


 アフマダーバードは、キャンベイ湾に注ぐサバルマティー河の河口から100㎞程内陸に位置する。建設した(1411)のはスルタン・アフマド・シャーI世であり、都市名はその名に由来する(図1)。都市形成の過程を概観すると以下のようになる。

 ①グジャラート王朝期(14081573):建設されたのはバドラ・フォート周辺である。1412年にジャーミー・マスジッドが,マフムード・ベガダ時代に市壁が建設された(1487)(図2)。市壁内に居住区としてプラがつくられ、当初から,ムスリム,ヒンドゥー教徒,ジャイナ教徒が混住した。

 ②ムガル帝国期(15731753):ムガル朝第Ⅲ代皇帝アクバルのグジャラート遠征によって,1573年にムガル朝に組み込まれ,城外にも多数のプラが形成された。しかし、18世紀に入ると,ムスリム支配は弱まり,ジャイナ教やヒンドゥー教の寺院が建設されている。

 ③マラータ期(17531817):ムガル朝第Ⅵ代皇帝アウラングゼーブ統治の後半,マラータによる統治が始まる。マラータは,ヒンドゥー教徒とともにムスリムも保護したが、政治的混乱と経済活動の停滞のうちに,その統治時代は終了する。

 ④イギリス統治期(18171947):1817年にアフマダーバードは東インド会社の支配下に置かれる。まず城壁の改修が進められ(1842),1817年に8万人だった人口は,1851年に97000人に膨らんでいる。主としてヒンドゥー教徒,ジャイナ教徒の人口が増加し,ムスリムの貧困層は,ジャイナ教徒などが住む裕福な地区を出て,周辺に移動している。イギリス人は北と西の地区に住んだ。

 ⑤1861年に綿紡績工場が設立され工業化が始まる。1864年に鉄道が開通し,アフマダーバード駅が旧市街の東部外縁部に建設された。1883年に自治体が設置され,インフラストラクチャーの整備が行われた。

 ⑥アフマダーバードの北方,サバルマティー川東岸に設置されていたカントンメントが発展し,20世紀初頭までに東部と北部の外縁部が合併される。サバルマティー川にエリス橋が建設され、以降,西岸部が発展していく。

 ⑦20世紀前半には,電話,電気(1915,バス(1920年代)が導入され,道路整備など近代化が進められていく。密集市街地解消のため様々な計画が立てられる。交通渋滞の解消策として,ガンディー・ロードと平行するティラック・ロードが敷設される。

 ⑧独立後(1947~):独立とともにボンベイ州に組みこまれ,1950年に市政府が設立される。1960年にボンベイ州が分割され,グジャラート州の州都となる。綿業は衰退するが,多様な産業の勃興によって周辺地域が発展する。1970年に,北方25kmに建設された新行政都市ガンディーナガルが州都となる。

 アフマダーバードの都市形態は、インド古来のヴァストゥー・シャストラ(建築書)にいう「カールムカ(弓)」の形態であるいう説がある。市壁が建設された当時,12の市門があり,12の幹線街路が市街に延びていた。現在旧市壁に沿って周回道路が巡り,デリー門から旧市街内へ伸びるタンカリア・ロード,パンチクワ門から伸びるガンディー・ロードとその北側を平行に走るタリク・ロード,アストディア門から伸びるサルダール・パテル・ロード,ジャマルプル門から伸びるジャマルプル・ロードの5本が市街地の主要幹線街路となっている。それらは旧城塞地区から放射状に伸びており、「カールムカ」がモデルになったという説のひとつの根拠とされる(図3

アフマダーバードはイスラーム勢力によって建設されるが,以上の歴史が示すように,当初からヒンドゥー教徒,ジャイナ教徒との関係も深い。

 旧市街は12のワード(地区)からなる(図4)。 宗教別の住み分けは比較的はっきりしている。基本的に,宝石商などのヒンドゥー教徒やジャイナ教徒が旧市街の中心に居住し,ムスリムが周辺部に居住するパターンがある。そのパターンはいくつかの変形を受けて今日に至っている。

 現在の旧市街における宗教別人口構成比は,ムスリムが約50,ヒンドゥー教徒が約30,ジャイナ教徒が約20%である。旧城塞周辺から旧市街南部にかけてはムスリム居住地区,南東部ガンディー・ロード以南のカディア地区およびヒンドゥー教の大寺院スワミナラヤン・マンディルの周辺がヒンドゥーの居住地区となり,ガンディー・ロード以北はほとんどがヒンドゥーとムスリムあるいはヒンドゥー,ムスリム,ジャイナ教徒の混在する地区となっている。また旧市街の商業の中心地であるマネク・チョウク地区(図5がジャイナ教徒の居住地区になっているのは,歴史的な住み分けの構造が根強いことを示している。


 

アフマダーバード市の人口は,2001年度のセンサス・データによると3,520,085Ahmedabad M Corp.)であり,2007年時点での人口は約3,819,500と推計されている(World Gazetteerによる)。

 

【参考文献(分量外)】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008530

布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバ-ト・ホ-ム著:アジア都市建築研究会訳,Robert Home Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,20017

 


2025年9月27日土曜日

マドゥライ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I18 ゴープラと祭礼の曼荼羅都市

マドゥライMadurai、タミル・ナードゥTamil Nadu、インドRepublic of India

 

タミル・ナードゥ州の南部中央、ヴァイハイ川の南岸に位置するマドゥライは、ヒンドゥー教の南インド最大の巡礼寺院であるミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院を中心とする、古来のヴァーストゥ・シャーストラに則って計画されたと考えられるユニークな寺院都市である。

マドゥライの起源は、プラーナなど古文献に依るとはるか古代に遡ると考えられるが、必ずしもはっきりしない。その都市形成過程は、大きく3期に分けることができる。第1期は、古代から紀元14世紀までのパーンディヤ王国時代である。第2期は、15世紀から18世紀のナーヤカ朝時代で、この時代にナーヤカ王たちよって現在の都市形態の基本的骨格が形成される。第3期は、19世紀以降現在にいたる時代であるが、イギリスの支配下で、都市は急速に膨張していくこととになった。現在のマドゥライ市は人口約110万人(2015年)であり、タミル・ナードゥでは約500キロメートル離れたチェンナイに次ぐ第2の都市である。

古地図(図1)が図式的に示すように、ミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院を中心に方形の街路が取り囲む形態をしている。ミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院は、中心のガルバ・グリハ(聖室)をプラーカーラ(外周壁)が取り囲み、東西南北に台形状の高いゴープラ(楼門)を開く、南インド独特の寺院である(図2)。マドゥライは、この寺院を中心に、さらに同心方格囲帯状の街路でそれを4重に取り囲む方位軸にほぼ沿った入れ子構造をしている。この都市構造は、インド古来のヴァーストゥ・シャーストラの代表である『マーナサーラ』が理念化する村落類型のナンディヤーヴァルタ(中心のブラーフマン(梵)区画を、順に、ダイヴァカ(神々)区画、マーヌシャ(人間)区画、パイーサチャ(鬼神)区画が取囲む同心方格囲帯状の構成)あるいは、都市類型の一つラージャダーニーヤに最も類似しているとされる。ただ、実際の形態は、ミーナクシー寺院のプラーカーラの周囲を囲むチッタレイ通り以外、つまりアヴァムニーラ通りとマシ通りには、矩形とは言い難い大きな歪みがある(図3)。特に大きい南東部の歪みは、ティルマライ・ナーヤカ時代に王宮が建設されたためである。そして、アヴァニムーラ通りとマシ通り全体にみられる角の丸さと角付近の街路のふくらみは、大規模な山車の巡行を可能にするためではないかと考えられている。

 マドゥライの空間構造を象徴的に示すのが、都市祭礼における巡行路である。南インドにおける山車の巡行を伴う都市祭礼の歴史は古く、チェンマイなど他の都市でも現在も行われている。マドゥライはそうした中で最もその祭礼の形式を残している都市のひとつである。現在まで続いている同心方格囲状街路での巡行を伴う祭礼は、ナーヤカ朝時代に街路が形成された時期に始まり、17世紀にティルマライ・ナーヤカによって体系化され確立した。マドゥライでは、タミル暦に従い、月に一度祭礼が行われ、巡行を伴う祭礼は、ミーナクシー・スンダレーシュワラ寺院によって各月に行われる。祭礼は極めて複雑な体系を持つが、1年を1サイクルとして、1年を通して神々の神話を都市の中で再現するという意味付けを持ち、神話を再現する様々な儀礼が再現される。中でも最も重要な祭礼は、ミーナクシーの戴冠式とミーナクシーとスンダレーシュワラの結婚を祝うチッタレイ祭り(4~5月)で、最も大規模な山車の巡行が行われる。続いて重要な祭礼がスンダレーシュワラの戴冠式を祝うアヴァニムーラ祭り(8~9月)、ティルマライ・ナーヤカの誕生を祝うテッパ祭り(1~2月)である。 巡行路は祭礼によって異なるが、基本的に4つの同心方格囲状街路(アディ、チッタレイ、アヴァニムーラ、マシ)のいずれかで行われる。

 中心市街の商業施設として小規模な店舗と大規模な市場があるが、その多くが住居の全面または1階すべてが店舗として使用されている店舗併用住宅である。店舗の分布にはかなりの偏りがあり、カースト(ジャーティ)による棲み分けが行われていることがはっきりしている。街路の両側に同種の店舗が立ち並んでいる場合が多い。

 現在のマドゥライにみられる住居の形式は、プラーナ文献の断片にみられる中庭式住居である。古今東西、都市的集住形式として用いられてきたこの形式は、マドゥライでもその形式を基本に密度を高めてきたと考えてよい。住居の基本構造は、タミル語でティナイと呼ばれるベランダ、クーダムと呼ばれるホール、ナダイと呼ばれる廊下、プージャー(神像礼拝儀式)や寝室・倉庫として使用される部屋、台所、バックヤード(裏庭)から構成される。タミル語で部屋はアライと呼ばれ、台所はサマヤル・アライ、寝室はパドゥッカイ・アライ、プージャーのための部屋はプージャー・アライと、それぞれの用途に「部屋」をつけた名称で呼ばれる。




2025年9月26日金曜日

Y. Kodama, Shuji Funo, S. Hokoi, N. Yamamoto, T. Uno, T. Takemasa: Surabaya EcoーHouse An Experiment in Passive Design in a Tropical Climate.Part2 Evaluation and Simulation of the Effects on Thermal Performance, Sustaining the Future EnergyーEcologyーArchitecture, Proceedings of the PLEA'99 Conference Brisbane (ed. Steven S Szokolay), September 22ー24 , 1999

Surabaya Eco-house

Experiment on Passive Design in Tropical Climate Part2

Evaluation and Simulation of the Effects of Heat Performance

 

 

1.  The Mode of Monitoring

After the completion of a building, a preparatory monitoring was conducted from July 27 to August 7,1998. On the basis of the results, positions and time of observation were changed, and observation modes were determined.*1

In order to verify the effects of the installed passive cooling system and influence of living styles, operation of a water circulation system was combined with that of openings to determine five modes.  The observation modes and their periods were shown in Table 1 and Fig. 1.

 

 

Table 1 Observation mode

Fig. 1 Observation Period Depending on Modes during Experiment

 

Under the observation mode I, openings remained open all day long with the water circulation system operation.  Under the mode II, openings remained closed with the water circulation system operation.  Under the mode IIIA, openings were open in the daytime with the water circulation system operation.  Under mode the IIIB, openings was open with the water circulation system suspended (similar condition to a general lifestyle in Indonesia).  Under the mode IV, ventilation was on at night with ventilation and a water circulation system operation in the daytime.  This is the mode under which the passive cooling system was expected to operate most efficiently when the experimental building was designed.  Pomp for water circulation was powered by solar cell in the daytime as long as solar radiation was available.

 

2. Effects of passive cooling

The latest experiment was conducted from December 7, 1998 to February 13, 1999, later than the initial schedule due partly to a lag in preparation of materials.  Following are the results of the observation.

1) Thermal insulation of roof a Shown below is the temperature of roof surface subject to solar radiation and temperatures of respective parts of a roof.  The temperature of the roof tile surface rose to 53 degrees Celsius in the daytime, whereas the temperature inside did not go up greatly, displaying significant effects of the ventilation layer and heat insulation materials. The thermal resistance value of coconut fibers is estimated at 0.06 Kcal/mh, testifying to high heat insulation performance (Fig. 2).

 

 

Fig.2 Effects of Heat Insulation(Observation on December 7 and 8 under more II)

 

Fig. 3 shows the temperature of insulation simulated depending on conductance as a variable in comparison with the actual data measured from 0.00am 4th Aug0.00am 6th Aug 1998.  We can also estimate the heat conductance of coconut fiber as 0.06kcal/hC and the heat capacity is estimated at 20kcal/m3 . These are competitive to those of Glass wool that is usually used

 

 

Fig. 3 Temperature of Insulation Simulated Depending on Conductance as a Variable

 

b. The Velocity of the Air

     We can also estimate the velocity of the air within the double roofing. It is estimated at 0.3m/s (4th Aug) and 0.25m/s (5th Aug). Fig.4 shows the data calculate in case of 0.35m/s for 4th Aug and 0.22m/s for 5th Aug.

 

 

2)         Effects of water circulation system (by measurement)

Effects of a water circulation system under the mode I are studied on the basis of the results of the observation on January 15 and 16, 1999.  As shown in Fig. 4, room temperature charts the course almost similar to that of ambient temperature because an opening remains open.  The temperature of floor surface displays milder changes, compared with room temperature, helping cool room temperature.  This attests to cooling effects resulting from heat capacity of concrete slab.  Such effects are expected to become greater if combined with the water circulation system and nighttime ventilation.

 

 

Fig. 4 Temperature Fluctuation of 3rd-Floor Room Facing Northeast

Observation on January 15 and 16 under mode I

 

3)         Cooling effects of nighttime ventilation (by simulation)

Shown in Fig. 5 are the results of a simulation study on effects of cooling concrete floor by massive ventilation at night when the temperature falls.  Used for simulation were typical climatic conditions in Surabaya (8°south latitude, 112°of east longitude) in December.  The Figure shows changes in room and floor surface temperatures when ventilation is carried out three times in the daytime (6:00 to 19:00) and 30 times at night.  For comparison, changes are also displayed when ventilation is conducted three times a day (with no nighttime ventilation).  Room temperature in the day under the former case is two degrees lower than the latter case.  Cooling effects from floor surface are also expected.

 

 

 

Fig. 5 Cooling Effects from Nighttime Ventilation (by simulation)

 

4)         Cooling effects from water circulation (study by simulation)

Fig. 6 shows the results of a simulation study on the cases where the temperatures of water to be circulated are 28 and 26 degrees.  Pumps are operated when solar radiation is available.  The lower water temperature, the greater cooling effects.  Nevertheless, it is confirmed that 28-degree water produces sufficient cooling effects. 

5)         Effects of combined use of water circulation system and nighttime ventilation (by simulation)

Fig. 7 shows the results of a simulation study on combined use of nighttime ventilation and a water circulation system.  Under the same climatic conditions as the case 3), water of 26 degrees is circulated.  Floor surface temperature is even lower than the cases

3) and 4), where nighttime ventilation and a water circulation system is used respectively.  Room temperature changes in the lowest range thanks to effects from lower floor surface temperature.

 

 

 

Fig. 6 Effects of Water Circulation System (by simulation)

 

 

 

 

 

Fig. 7 Effects of Combined Use of Water Circulation System and Nighttime Ventilation (by simulation)

 

 

3. Effect of Ventilation in Common Space

     We use 'Stream' as a simulation software. The hypothetical condition: East wind 1.5m/s

a.      In case of All the windows (openings) open

Fig. 8 shows the section in the center.  Fig. 9 shows the plan 0.4m above the level of 2nd floor. The velocity of the wind in the 2nd floor is estimated at 0.5m/s. The velocity of the wind in the 3rd floor is estimated at 1.8m/s

 

 

 

  b. In case of East windows closed

     Fig. 10 shows the section in the center

     Fig. 11 shows the plan 0.4m above the level of 2nd floor

   The wind flows toward the north and south balcony at the 2nd floor.  The wind flows toward the high-side roof and 2nd floor vertically through the void of the floor at the 3rd floor. The velocity is estimated at1.2m/s.

 

 

4. The Heat Transfer in case of heat generation from the human body

     We use also 'Stream' as a simulation soft The Heat Generation 50kcal/hpersonx4person on the 2nd floor

  a. In case of No Wind (Fig. 12)

The vertical flow of the air is generated at the velocity 0.7m/s The air flows outside through the void of the floor and high-side. The room temperature is estimated at 28C

  b. In case of East wind 0.3m/s (Fig. 13),

     Almost all the heat is let out through west window. A few of it flows to 3rd floor through the void of floor.  The heat is discharged vertically in case of no wind through the void. The heat is discharged in case of east wind through the windows.

 

 

Footnote

*1 Major change is that we decided to measure temperature of the circulating water that was not collected during preparatory monitoring.








布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...