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2022年6月27日月曜日

アジアからの視点,対談 古山正雄,『空間表現論』,京都造形芸術大学通信教育部, 20020401

アジアからの視点,対談 古山正雄,『空間表現論』,京都造形芸術大学通信教育部, 20020401 

『Hiroba』、1996年6月号







2022年6月26日日曜日

2022年6月25日土曜日

2022年6月24日金曜日

2022年6月23日木曜日

『群居』からビルドデザインを考える、布野修司・秋吉浩気、聞き手 門脇耕三、建築雑誌、2018年06月号

 『群居』からビルドデザインを考える、布野修司・秋吉浩気、聞き手 門脇耕三、建築雑誌、201806月号

 

『群居』からビルドデザインを考える

 

 

対談

布野修司

秋吉浩気

 

司会

門脇耕三

 

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設計と施工の分業体制は自明なものではなく、特に住宅分野では繰り返し異議が申し立てられてきた。現代ではデジタル技術の発達を背景に両者の柔らかな結合が模索されており、1980年代には工業化された建築生産システムの成熟を背景に、設計と施工の区分を超えた職能のあり方が議論されていた。後者の主舞台ひとつが同人雑誌『群居』であるが、当時と現在の問題意識の交点を探るため、『群居』編集長を務めた布野修司氏を招いて討議を行った。

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『群居』の時代の建築生産

 

門脇:『群居』とはどんな雑誌だったのでしょうか。

 

布野:戦後まもなく建築家の眼前には圧倒的な住宅不足がありました。建築家は、最小限住宅やプレハブ住宅の構法など様々な提案を行います。一方、住宅公団による団地の大量供給が始まります。また、プレハブメーカーが登場します。60年代には建築家は都市に向かいます。住宅に対する戦後の取り組みが途絶えてしまったという認識があって、改めて日本の住宅をどうするのかという問題意識で集まったのが『群居』のメンバーたちでした。創刊号が「商品としての住居」。2号が「セルフビルドの世界」。3号が「職人考——住宅生産社会の変貌」。4号が「住宅と建築家」。4号で1サイクルになるような編集を考えていました。【写真:『群居』の書影】

一方に篠原一男さんの「住宅は芸術である」や池辺陽さんの「No.住宅」のように一戸一戸設計していけばいいという建築家もいたわけですが、『群居』(ハウジング計画ユニオンHPU)で常に議論していたことは、日本の住宅生産システムをどう考えるかでした。そこには、大きく分けると、大野勝彦(内田祥哉スクール)のように全体をオープン・システムとして捉える考え方と、石山修武のように工業化された部品をゲリラ的に利用しようという考え方の対立がありました。大野さんもまもなく「地域住宅工房」のネットワークを考えるようになるんですけどね。

 

門脇:最初の4号には、設計と施工が明確に分離された近代的な枠組みに対する疑義が通底していますね。

 

布野:「アーキテクトビルダー」という新しい職能像についてかなり議論したんですが、その発端にあったのは、住宅規模の建築では、設計施工分離の設計料のみでは仕事にならない、要するに儲からないという現実です。歴史を振り返れば、マスタービルダーは設計だけではなく施工も統括していたわけです。

 

門脇:住まいの設計は机上だけではできないという思いもあったのではないでしょうか。

 

布野:ぼくらが木匠塾をはじめたのは、住宅スケールであれば身体で実感した方が早いという思いがありました。造って揺すってみれば構造が分かる。学生を連れて山の中に入って、木造でバス停や茶室、農機具小屋や神社の拝殿や橋など様々なものを設計し、実際につくってみるということを毎年やりました。

 

デジタルファブリケーションの時代の建築生産

 

門脇:秋吉さんはデジタルファブリケーションを使いながら設計と施工をつなげて、さらにユーザー自身が建築家たりうるような世界をつくろうとしています。

 

秋吉:今ではショップボットという木材加工機が400万円程度で購入できます。素材生産者にこうしたハイテク機材を導入し、彼らをビルダーに変えていく事をやっています。目的としては、工場生産の家を運ぶプレファブリケーションを超えて、家のデータだけを送って現地生産するオンサイトファブリケーションを実現することです。ここでいう現地とは、資材調達から加工・アセンブルが完結する半径5km圏内のネットワークのことです。

【写真:ネットワーク図】

現在までに22地域に機械を導入してきましたが、これらを更にネットワーキングすることを考えています。これは、インターネットのような自律分散協調型のオープンな建築生産の体系を構築する試みでもあります。とはいえ、受信できる基盤がないと回線は通らないので、全国にルーターを拡散するために20182月に1億円の資金調達を実施しました。実際の導入地域では、本当につくりたい住環境や公共空間の質について、規格品ベースではなくゼロベースで、共に考え実施することを行っています。

 

布野:僕の場合、構法システムを考えて、セルフビルドを組み込むか、あるいは形態のバリエーションを組み込んだ構法システムを考えるか、あるいは部品を生産しその組み合わせに向かうのかといった事を考えていましたが、デジタル技術で標準化をしない場合どういう展開があるか、全体の設計システムはどうなるのか聞きたい。

 

秋吉:ひとつずつオリジナルな設計施工データをつくるのは時間もコストもかかるので、規矩術のようなシステムを構築できないかと考えています。この木材とこの納まりならこの寸法といったような大工の経験を数値化し、簡単な入力から加工コードまでをリアルタイムに出力できるツールを開発しています。こういった仕組みを地方に分配し、ローカルな建築家がそれを翻訳していくという「ツール+翻訳者」というモデルを考えています。

 

布野:それはすごく大事なことで、地方のアトリエこそがそういう武器を使うべきだと思う。UAoの伊藤麻理さんは大きなコンペを獲っていますが、CADでディテールまで自分で設計するといいます。それがBIMになればいいんでしょう。若い建築家は、新しい道具を駆使した方が良い。その伝道師が必要なんだと思います。

 

ヴァナキュラーかシステムか

 

門脇:生産がローカルに閉じているとそれが制約になり、その地域独特のヴァナキュラーな建築が生まれやすい。一方で近世に普及した規矩術はシステマティックな体系で、むしろ大工技術の均質化・画一化をもたらしました。両者はかなり違った方向性をもっていますが、秋吉さんはヴァナキュラーとシステムのどちらを目指しているのでしょうか。

 

秋吉:ヴァナキュラーなシステムが無数に生成されるプラットフォームを目指しています。CLTのような中央集約的な規格材から非規格な部材を生成する手法や、根曲がり材のような非規格材から建築を生成する手法を構築しています。

 

布野: 僕は、スケルトンとインフィル、さらにクラディング(外装)を分けるオーソドックスなフレームで考えてきました。インフィルは使い手側の勝手に任せる。ただし、躯体システムは建築家が提案する必要がある。問題はそのシステムです。躯体システムをサステナブルに考えること。更新する場合も、それがサステナブルである必要がある。

 

秋吉:今大阪で進めているプロジェクトがまさにスケルトンインフィル的です。大阪には裸貸という文化があり、建具や畳ごと引っ越していた。クライアントからは、5年単位で裸貸しできる躯体を考えて欲しいと頼まれました。すべて90mmCLTパネルで構成されており、1mピッチの板柱の間に910mmの規格品を埋め込めるだろうと考えています。たとえば、家族四人で住み始めたときには2階をリビングに1階を居室として利用し、子ども成長して家を出たら下を店舗として貸し、上に寝室を移動するようなことを提案しています。さらに二戸一のスケルトンが群を成しマイクログリッド化することで、電気効率を向上させています。【図:アクソメ】

 

布野:まさにそういうことです。住まい方の型が重要です。その型にたいして用意された材料が循環系になっているかどうか。この規模のモデルからしか流通していかないはずなので、それはぜひ実現させてください。システムを、物語をつくって使いながら見せていくことは大事です。

 

現代の「群居」はいかに可能か

 

門脇:市井の人びとの思いから出発して、それが街並(すなわち「群居」)になるような住環境はこれから本当に構想可能でしょうか。

 

布野:おそらく構法やデジタルファブリケーションのような技術と同時に、住み方自体を考え直すことが必要でしょう。少子高齢化の時代に老人が一人で4人家族の家に住んでいたら熱効率的にも問題だから、シェアハウスやコレクティブハウスがモデルなるべきなのですが、日本の住宅産業はこれまでずっと戸建モデルとマンションモデルで来てしまいました。だからぜひ新しいモデルを開発してほしいですね。

 

門脇:街並の根拠となるようなベースビルディングをしっかりデザインしていかないといけないということですね。

 

秋吉:住まい方に関する感性を取り戻していく事を目的として、生活家具をゼロベースで発想し作るワークショップを実施しています。自分の事を突き詰めていくと、自分の家族や地域といった全体の事を考えていかざるを得なくなります。裏を返すと、街並みに対する能動性を生むためには、生活に関する主体性を取り戻さねばならない。この草の根的な活動の先に、ベースビルディングそのものを町場が定義していく未来がある。私人による小さなビルドの積み重ねから、群居はデザインされていく。そう信じています。






2022年6月20日月曜日

ダプール<木箱のキッチン>,at,デルファイ研究所,199312

ダプール<木箱のキッチン>,at,デルファイ研究所,199312


ダプール・・・木箱のキッチン

ウジュン スラバヤ インドネシア

      

                布野修司

 

 カンポンを歩いていると、路地に高さ六〇センチから八〇センチ、奥行き七〇センチ、幅一メートル二〇センチ程度の木の箱が並んでいるのに気がついた。「アパ・イニ?(これなあに)」と聞くと「ダプール」という。ダプールというとキッチン、台所のことだ。訝しがっていると、蓋を開けて見せてくれた。なるほど、中には、こんろや釜、水瓶、食器類など台所用具一式が収まっている。

 ジャカルタでもスラバヤでもそうだ。かなり高密度のカンポンに行くとこの木箱のキッチンを見ることが出来る。平屋でも千人を超え、一五〇〇人にもなるカンポンがある。そうしたカンポンの住居は極めて狭い。一室かせいぜい二室である。台所のスペースがとれない。いきおい外の路地にはみ出してくることになる。そこで考案されたのがこのカンポンのシステム・キッチンなのである。

 そうしたカンポンの世帯数を数えるのは簡単である。外にはみ出したダプールの数を数えればいいのである。ダプールにも色々個性がある。全て一式台所用品が収められている。また、そこで煮炊きも行われる。蓋をして鍵をかけるのであるが、ベンチにもなる。なかなかの工夫である。

 しかし、それにしても狭い。どうやって暮らすのだろうと誰でも思う。日本であったら考えられないのであるが、気候条件はまるで異なる。生活の中心は戸外なのである。それこそ食事も戸外でとる。料理や調理も戸外で行なう。散髪も戸外である。散髪屋さんのほうが移動してきて戸外に店を開くのである。子供たちが水浴びするのも戸外だし、洗濯も戸外である。場合によると戸外に寝ることもある。公共の、あるいは共用の戸外空間があって個々の住居空間が最少でも生活が成り立つのである。

 経済生活においても、お互いに協力し合う相互扶助の仕組みがある。頼母子(無尽)講である。インドネシアの場合、アリサンと呼ばれる。伝統的な民間金融の仕組みが生きている。一日にいくらかづつ、あるいは、周単位、月単位でお金を出し合い、くじで順に使う。場合によると、二千人規模のアリサンがある。住居の建設や修繕が可能な額である。利子の観念の薄いイスラーム圏だからということもあるけれど、そうした相互扶助のシステムがあってはじめて、経済的貧困を克服できるのである。

 こうした高密度のカンポンにおいて、極めて深刻なのは水の問題である。この間、カンポン・インプルーブメントが進められてきたのであるが、それでも上水道の設備は依然として十分とは言えず、毎日購入する形がまだ珍しくないのである。井戸は海水がまじり飲用水には使えない。水売りやカンポンの中の有力者から分けてもらうのである。また、ゴミの問題も大きい。カンポン内の清掃のシステムは整備されているのであるが、都市全体については未整備である。

 東南アジアの居住問題はまだまだ根深い。

 



 

2022年6月19日日曜日

亀甲墓,at,デルファイ研究所,199401

 亀甲墓,at,デルファイ研究所,199401

亀甲墓                 アンペナン ロンボク島 インドネシア

                布野修司

 

 ロンボク島アンペナン、今は少し南に位置するルンブールにその役割を譲ったのであるが、西ロンボクの昔からの港町である。バリからの入植者たちやオランダが上陸したのもこのアンペナンである。その近郊にかなりの規模の中国人墓地があった。ロンボク島はヒンドゥー、イスラームが重層する珍しい島なのであるが、さらに古くから中国人が居住してきた事実をその墓地は物語っていた。

 東南アジアに限らず世界中どこでもそうなのであるが、どんな辺鄙な場所でもチャイニーズの店がある。僕の場合、何でも食べるから食事は苦にならないのであるが、普通の日本人だとタイ料理にしても、インドネシア料理にしてもーーパダン料理など各地の料理はあるけれどインドネシア料理と呼べるのは別にないのであるがーー合わない人が多い。激辛のエスニック料理が流行るなど通も増えつつあるけれど、やはり辛いのである。チリーが効きすぎていてすぐに下痢をしたりする。そうした時助かるのがチャイニーズ料理の店である。どんなところにもあるからほんとにびっくりする。チャイニーズ世界の広がりはすごいといつも思う。

 チャイニーズのそうした広がりと居住の歴史を示すのが各都市の中華街、チャイナタウンである。かって華僑と呼ばれたチャイニーズたちは、インドネシアの場合、中国人カンポンを形成してきたのである。例えば、バタヴィアの建設当初からチャイニーズは居住している。植民された多くの民族のなかで最大多数を占めている。一七四〇年には、商業活動に従事し、次第に増加してきたチャイニーズに脅威を感じたオランダ人はチャイニーズを市外に追放するという事態も起こっている。しかし、そうした都市だけではない。カンポンを形成しなくても各地に散らばって住む。それを示すのが各地に残されている亀甲墓である。こんな辺鄙な島にもと実に至るところで眼にするのである。

 中国人の場合、墓の建設は大きな意味を持っている。墓地の位置などを決定する基本となるのが風水思想である。東南アジア一体に風水思想が広がっているのはチャイニーズの移住と密接なつながりがあることはいうまでもない。

 中国の風水思想というと必ず引かれるデ・ホロートの『中国の風水思想』(註1)によれば、古来、中国人は、どんなところでも死者を収める自由をもってきたのだが、一方で準公共的な共同墓地の伝統をもってきた。その場所の選定に関わるのが風水である。そこの風水が最適であると見なされたためにびっしりと墓が並んでいるような土地は、概して人口の密集したところに近接している。そして、次第にその土地は一般の人も使用する自由な埋葬場所になっていく。最初は一族、一門の所有権ははっきりしているのであるが、次第にその所有権は曖昧になり、最後には「万人堆」と呼ばれるような自由共同墓地になるのである。アンペナン近郊の墓地はまさにそのような墓地であった。

 

 

註1 牧尾良海訳 第一書房 一九八六年、(大正大学出版部、一九七七年)。デ・ホロートはオランダの中国学者で大著『中国宗教制度』を著した。その一部「死者の処置」などを翻訳したものである。

 




2022年6月18日土曜日

ジョグロ,at,デルファイ研究所,199403

 ジョグロ,at,デルファイ研究所,199403


ジョグロ     

ジャワ インドネシア

      

                布野修司

 

 ジャワ(中部ジャワ、東ジャワ)の住居は、その屋根形態および架構形式によっていくつかに類型化される。その代表的なものが、ジョグロ、リマサン、スロトン、そしてカンポンである。規模が大きくなると、いくつかの住棟で構成されるが、住居の形式は基本的には屋根の形態で認識されるのである。

  リマサンは、基本的には、寄せ棟の形式をいう。カンポン(       )は、カンポンで一般的にみられることから、そう呼ばれてきたのであろう。切妻の形態をいう。それに対して、ジョグロ       は最も格式の高い住居である。写真を見て欲しい。中央部の急勾配の寄せ棟屋根が高く突き出した形態が特徴的である。中央の四本柱(サカ・グル:          )の上部に梁桁が何重にも組まれ、その上に小屋組がなされる。内部のピラミッド状の木組みは、ヒンドゥー教の宗教施設であるチャンディー建築に由来し、トゥンパン・サリ(            )と呼ばれる。スラマタン(儀礼)の時に用意される米飯を円錐状ににしたものもトゥンパンと呼ばれている。

 基本型は、中央の四本柱を中心に、一六本の柱で屋根が支えられるものである。屋根は、中央の急勾配の寄せ棟とそれを囲む下屋(げや)の二面からなる。大規模になると、更に四周にもう一列の柱列がつくられ、三六本の柱で屋根を支えるものもある。

  屋根形態を問わず、ジャワの基本的な住居ユニットはオマと呼ばれる。オマの内部は、ダレムと呼ばれる。半戸外のベランダが、エンペランである。そして、ダレムは、前と後ろの二つ、もしくは、前と中央と後ろの三つの部分に分かれる。後部はスントンと呼ばれ、壁で囲まれた三つの部分からなる。向かって左(西)の部屋、スントン・クロンが米など食糧の倉庫、右(東)、スントン・ウエタンが武器や道具類の倉庫として使われる。中央のスントン・テンガは、床が高くつくられ、装飾を施されたベッドが置かれる。その外側の入口の両脇には戸棚が置かれるのが一般的である。スントン・テンガのベッドは、稲の神であるスリ、またそれが変身すると考えられている南海の女神ララ・キドゥルの場所と考えられ、結婚式などの儀礼の時を除いて、普段はカーテンで仕切られ公開されない。スントン・テンガは、オマの聖域である。スントン・テンガは、クロボンガンとも呼ばれる。

 この構成がヒンドゥーの世界観を表しているという説がある。特にジョグロの中央部の突出は、メール山(マハメール)を象徴するというのである。。サカ・グルは垂直軸における中心であり、様々な彫刻によって飾られている。確かに求心性の高い架構であり、間取りである。

 面白いことに、この四本柱の架構方式は、モスクにも用いられた。ジャワで最初にイスラム化されたデマックのモスクがそうだ。また、オランダ人たちもこの形式を自分たちの邸宅の架構方式として採用している。ひとつの架構形式がこうして普遍化している地域はかなり珍しいのではないか。

 



2022年6月17日金曜日

ジャカルタ・コタ地区ーーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,199403

 ジャカルタ・コタ地区ーーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at199403


建築の大航海

コロニアル建築

インドネシア 1870~1945                                        

 

V ジャカルタ・コタ地区・・・総括編

                                              京都大学アジア都市建築研究会

 

 本特集を「インドネシア1870~1945」としたのは、H.アキハリの本『インドネシアの建築と都市』(参考文献参照)が下敷きになっているからであるが、その本は「1870~1970」と実はなっている。小著だけれど、戦後に第一世代のインドネシア建築家が登場するまでが一応押さえてある(1870年というのは、農地法と土地二法が制定され、強制栽培制度が漸次廃止されるとともに法人プランテーションによる植民地化が本格的に進行していく年である。もちろん、それ以前、19世紀の動向にも触れられてはいる)。われわれの関心も、一方で、インドネシア建築家たちがオランダによって移植された建築の伝統を如何に継承して行こうとするかにある。

 インドネシアの建築家たちにとって、その伝統とコロニアル建築の関係をどう考えるかは極めて重大な問題である。インドネシア建築史学会が設立されたのは1988年のことだが、インドネシア建築の伝統をどう考えるかをめぐって大議論となったと何人からも聞いた。基本的にオランダの影響も自らの伝統として認めるというのが穏当な結論のようだけれど、一方で、J.シラスもいうように(連載第1回       月号)インドネシアの独自の試みを評価したいというのが本音としてはある。

 ところで、都市遺産の保存の問題は極めて具体的である。早急に手を打つ必要性を訴えたのは見るところ、R.ギル(デルフト工科大学)のようなオランダの建築家、学者たちである。欧米の大学には、保存やリノベーションを専門とする講座が数多く出来つつあるのであるが、彼のところもそうだ。彼の学生たちはジャカルタのコタ地区についてサーヴェイして一冊の報告書をものしている。

 R.ギルとは会って話したことがあるのであるが、どうしてもノスタルジックな臭いがつきまとう。オランダ人たちが暮らしてきた記憶を保存したいというニュアンスがどうしてもしてしまう。バタヴィア城を復元しようというのもオランダ的である。インドネシアの建築家、都市計画家たちはバタヴィア城の復元にはいささか批判的である。

 ジャカルタ市には全国に先駆けて都市保存課がつくられた。歴史的な地区の再生が目的である。そのターゲットはコタ地区だけではない。前回触れたように、ジャカルタで今保存が問題になっているのは、この当初建設されたコタ地区と現在の中心であるムルデカ広場周辺に加えてもう一地区ある。チョンデットというチリウオン川の上流である。ジャカルタ原住民ベタウィの住む地区である。このチョンデットを地区に指定するところにインドネシアの人たちの意識を窺うことができるだろう。

 今、ひとつのプロジェクトが動き出しつつある。立命館大学の佐々波秀彦氏を中心とするプロジェクトである。インドネシア全土の伝統的建築遺産、都市遺産の総目録をつくり、その再活性化をこれからの地域の町づくりの一貫として展開しようというのである。インドネシアの公共事業省とのジョイント・プログラムである。日本のこれまでの経験がどう生かされるかは、今後、こうしたジョイント・プログラムの中で問われていくことになろう。(布野修司)
ジャカルタ・コタ地区の都市遺産 ~再開発への提案~

                                  

京都大学アジア都市建築研究会

 

 冒頭に述べられたように、ジャカルタ市には都市保存課がつくられ、歴史的地区の再生がもくろまれている。その対象地区のひとつが、オランダの植民地都市バタヴィアの中心、今日のコタ地区である。ここには様々な年代のコロニアル建築が残っている。当時の植民都市の面影を現在も見ることができる数少ない場所である。デルフト工科大学のR.ギルらのチームが、当時の姿を取り戻そうと考えるのも不思議ではない。しかしながら、それが必ずしもコタあるいはジャカルタの発展に貢献するとは限らないと思う。もはや、コタはインドネシアのコタなのである。現在、京都大学アジア都市建築研究会でも、コタ地区の調査を行い、再生に向けて提案を行おうとしている。幸い研究会はコタ地区に関しては、第三者である。そこで、その利点を最大限に生かし、できるだけ冷静な立場でひとつの提案を行ってみたい。

 対象地区は歴史都市中心コタである。よって、ここで言う再開発とは歴史性の継承を大前提としながら、よりよい環境の提供を目指すものである。そこで、歴史性=歴史的景観とし、ハード面(都市構造、建築物、等)を中心に考察する。<都市景観>以外の補足的な視点として、<場所・建築の持つ歴史性>、<機能>を加える。次に各区域の歴史的地理的概要を述べ、つづいて地区ごとの提案を行ってみよう。

 

■コタの歴史的概観

 コタ地区は、東はカリ・チリウン、西はカリ・アンケ、南はアセムカ/プタック・バル通り、北は海岸線で囲まれた地域である。しかし、場所によってその歴史的性格や変化の度合いが異なるため、さらに細かい区域分けを行う(図1)。その判断は、歴史性以上に、空間性(緊密な全体を形成しているかどうか)によるところが大きい。

 

<ブントゥン・ブロック>

 この地区はオランダ時代のバタヴィアのもっとも古い地域を含み、北には城塞(    年完成)があった。その中にはオフィス、倉庫、兵器庫等があった。城塞の前には絞首台広場があり、その西にはディスペンスと呼ばれる東インド会社の倉庫(    完成)と兵器庫が、東には鉄鉱石の倉庫を備えた裁判所、厩舎、従業員地区、東インド会社の倉庫があった。その最も東に位置する4個の倉庫は、    年から    年の間に建設され、城壁の一部を形成していた。城塞の南にのびる道は、南の市庁舎広場、市庁舎へと続き、  世紀初めの都市構造において最も重要な要素となっていた。その当時は街はチリウン川(後のカリ・ブサール)の東までであった。今世紀初頭(    年から    年の間)には、鉄道高架橋が広場の南側に沿って建設された。    年には城塞運河が埋められ、その結果、城塞島の島としての特殊な形態は失われた。  世紀と  世紀の歴史的建築のうち、ディスペンスと東側の倉庫と鉄鉱石の貯蔵庫のいくつかが残っている。ディスペンスはインドネシア軍に使われ、倉庫と貯蔵庫は多用途の倉庫として、民間会社に使われている。この地区は現在はほとんど空であるにせよ主に倉庫によって再び埋め尽くされ、その間に小さなオフィスやワークショップが点在している。トンコル通りに沿って新しい建築が建ちはじめているものの、全体は散漫な印象である。しかし元の絞首台広場の場所には、印象的な高い木がまだいくつか存在する。

 

<ファタヒラ・ブロック>

 東側地区の規則的なブロックパターンは、都市軸として城塞と市庁舎をつなぐチュンク通りによって大きく縦に分割される。現在でこそコタ地区の東部に位置するものの、    年に遡れば、この軸は旧市街地の中心を走っていたことになる。ポス・コタ通り、ラダ通りは、かつては住宅地域であり、そこに面した住宅は東となりのクムカス通りまで奥行きがあった(約   m)が、現在その面影はない。市庁舎は3代目(    年完成)で監獄を備え、市庁舎正面のファタヒラ広場では処刑も行われた。広場の西側には十字型のオランダ教会(        )あるいはドームを冠した八角形平面の新教会(        )があった。東側には裁判(    年完成)が建ち、スニ・ルパ博物館として現存する。ファタヒラ・ブロック内の運河は  世紀末までには多くが埋められる。    年にはオランダの建築家ベルラーヘが「バタヴィアのための新都市計画                               」の一部として、現在のファタヒラ地域の開発計画を描いている。

 ほとんどの建物は今世紀前半に商業や公共目的の建物に立て替えられ、  世紀以前の歴史的建造物は、ジャカルタ歴史博物館、スニ・ルパ博物館、トゥー通りの角にある一連のオランダ住居、クニール通りあるいはピントゥ・ブサール通りに散在するいくつかの建物だけである。ファタヒラ広場の北東にはオランダ中国様式の住居群があったが、    年頃に壊され、現在は新しいコタ郵便局がある。

 ピサン市場があった北東部は、今世紀の変わり目に一掃され、倉庫地区となっている。ここには適当な排水設備がなく、スラム地区が鉄道とチリウン川沿いに発達している。チュンク通りの西側は、比較的質の高い建築やインフラがあるにもかかわらず、倉庫機能にしか使われていない。クニール通りは、以前はレーウィン運河で、現在もその形態を留める。ここで特徴的なのが異なる時代にわたる建築の存在である。それは近代主義建築や  世紀初期における古典的なオランダ様式の建築の例から、  世紀の中国オランダ様式住宅にまで及ぶ。またクニール通りは、コタ地区を東西に貫通する唯一の道路である。

 

<コタ駅ブロック>

 このブロックには、コタ地区に必要な施設(病院、アンバスクワルター(商業地区))があった。    年に完成した教会は、人々に生きて帰れないと恐れられており、「人殺しの住みか」として知られていた。    年に病院は閉まり、    年にジャワ銀行が建った。ブロックの東端がアンバスクワルターで、木工職人から鏡職人まであらゆる種類の商売があった。ここには労働者や技術職人として使われた奴隷が住んでいた。アンバスクワルターの機能は、オランダ東インド会社総督のダーンデルスによって    年に停止させられている。  世紀末には鉄道が引かれ、北バタヴィア駅と南バタヴィア駅の二つのターミナル駅が建てられた。北駅は市庁舎の南に接し、南駅は現在のコタ駅(    年)の場所にあった。

 一時はヨーロッパ風であったこの地区も、当時の街区と運河は完全に失われ、建築もほとんど残っていない。全体的に  世紀の建築で覆われている。    年代にはシラバンによってヌガラ・インドネシア銀行がブロック中央に建てられた。L型平面の5階建てで、幅   m、奥行   mの非常に大きな建築である。他にも、インドネシア銀行(旧ジャワ銀行、    年)、コタ駅(    年)、エキスポール・インポール銀行(    年)が挙げられるが、共通して、正面の幅が   mから   mの大きな街区に建てられた。アンバクスワルターのあった東端は、そのバックヤードのイメージを失っている。

 

<カリ・ブサール・ブロック>

 バタヴィアを西部に拡張する計画の一貫として、コタ地区で最も広い運河(ファサード間約  m)であるカリ・ブサールは    年に真っすぐに改修される。西カリ・ブサール通りの幅は、東の2倍の約  mで、非対称の空間を持っている。岸壁は荷積等に使われた。ここは、住宅地というより港の延長の色が濃く、船積みと貿易の中心になった。運河の北端部には造船所(VOCと中国人所有)とパサール(野菜・米市場、鶏市場)があった。現在その名残が「鶏市場橋(跳ね橋)」の名前に見られる。    年頃には多くのオランダ住居があった西カリ・ブサール通りの南ブロックは別として、ホスピタール橋と跳ね橋間の運河の両側は、ほとんど中国人が住んでいた。    年の中国人反乱の時に起こった中国人住居の炎上や、ポルトガル教会、オランダ新教会、ルーテル教会の撤去を経て、  世紀末までには、特徴的な密接に建ち並ぶ建築群が出来上がった。  世紀も後半になると、住居機能は失われ、商業地区へと変化してゆく。    年以降、以前の建築の再利用や内部改造といったものに替わって、銀行や保険会社、商社による建て替えが行われるようになる。  世紀の住宅の内、西カリ・ブサール通りに残るのはトコ・メラを含めて2、3軒であるが、変化後も新しい調和(スケールなどで)を生み出している。現在、西カリ・ブサール通りの北部にバタヴィアホテルが建てられている。主な躯体は6階建てで、八角形平面を持ち、ここでいちばん高くなる。八角形は通りのファサードラインから引いて建ち、2層の建築がギャップを埋める。このホテルがここの空間的イメージを壊すことは想像に難くない。

         

<マラッカ・ブロック>

 このブロックは歴史的には6つの街区を持ち、コピ通りで大きく南北に分かれる。そのうちで5個のブロックが中国人、ポルトガル人、オランダ人の住む住区であった。トコ・メラがある南東ブロックは、敷地の奥行が街区の幅(約   m)と等しく、裕福なヨーロッパ人の住居が建てられた。

 カリ・ブサール沿いの街区にはポルトガル教会と野菜・鶏市場があった。市場は    年の設立。その後、現在の形に向う(カリ・ブサール・ブロック参照)。西側の運河沿いの街区には、スピンハイス(紡績工の家、    年立て替え)や中国人病院(    破壊)、孤児院といった周辺機能が集中していた。その結果、ここはカンポン・ミスキン(貧困地区)となっていった。運河は  世紀末から  世紀の初頭にかけて埋められた。

 カリ・ブサールに面するところを除いては、この地区には  世紀以前の建築はほとんど残っていない。オルパ通りには上階が改築された形で多くの住宅が残っている。これは街の端という場所性のために関心と地位が集まらない結果である。この地区の建物は、平均的に3層であり、外観から    年から    年に建てられたことがわかる。多くは小中規模のオフィスであり、住宅機能とオフィス機能は密接な関係にある。この特徴的な関係はこの地区の小規模なワークショップ(修理工場)にも当てはまる。

 コピ通りは、例外的に5層の建物や銀行建築が見られるが、その形態は場所の性格と調和していない。また、アンケ運河に沿う西端(  世紀初頭に生まれた城壁跡地)には倉庫建築が並ぶ。ロア・マラッカ通りとチアン・ブンドラ通りにあった運河は  世紀初期に埋め立てられたが、その痕跡は現在も残っている。このブロックの都市構造は、比較的継承されたと言える。

 

<プンジャリンガン・ブロック>

 コタの北西部は、住居、ワークショップ、VOCの倉庫が混在している。この辺りはかつて作業島で、ブロックの北端には当時の「ナツメグの建物」(    、倉庫)が残る。  世紀には8軒の高床の木造倉庫が建てられた。  世紀中ごろには監視塔ができる。

 監視塔の南、カリ・ブサールの西堤防にそったところには様々なヤードが並んだ。VOCのヤードには、ワークショップ、社の作業員の宿舎等があった。中国人大工のヤードの隣には魚と米の市場があった。魚市場は    年に城壁の外のパサール・イカンに移動し、現在に至る。

 プンジャリンガン・ブロックの北部には、    年まで中国人などの非ヨーロッパ人が住んだ。鉄道高架が引かれたとき、マレイス運河(ヌラヤン通り)、スピンハイス運河(プンジャリンガン通り)が埋められた。当時の住居地区はほとんど消えてしまったが、現在は広くカンポンが広がる。アンケ運河沿いには、マラッカ・ブロック同様、倉庫が並ぶ。 このブロックでは、  世紀から  世紀にかけての倉庫建築がいくつか残る。  世紀の倉庫が、現在バハリ博物館として使われている。オランダ東インド会社の造船所が石油会社の倉庫に使われている。ディスペンスの反対側にある  世紀の倉庫は、状態が悪く一部カンポンになっている。

 この地区の都市構造は、鉄道高架の建設により損害を受けている。つまりそれは街路の分断である。

 

■再開発への提案

<スンダ・カラパ地区>

 すでにバハリ博物館やルックアウト・タワーが観光目的で保存されている。    世紀の倉庫やヤードは他にもいくつか存在する。こうした建築はバタヴィアだけでなくスンダ・カラパにまで遡る海洋都市のイメージを生むものであり、出来る限り再利用すべきである。機能的にはホテルや商店などの観光機能を支えるものが望ましい。

 

<ブントゥン地区>

 オランダ東インド会社がバタヴィアを建設する以前にも、土着の町であるスンダ・カラパ(註1)あるいはジャヤカルタが存在した。それらの資料は少なく、考古学的発掘とその研究が必要である。そこで、倉庫撤去後、研究教育施設を設立し、スンダ・カラパ地区とファタヒラ広場の中継地としての環境をめざす。この地区の南端にもプンジャリンガン同様湾岸道路が建設されるため、ディスペンスやオランダ東インド会社の穀物倉庫等は撤去、あるいは移転を選択することになる。

 

<プンジャリンガン地区>

 ここでは伝統的な街区システムが失われ、カンポンと倉庫で埋め尽くされている。南端で港湾道路が建設されつつあるが、カンポン改善とからめ、低中層の住宅地にすることが考えられる。敷地割に関しては自由度を持たせる。

 

<パサール・ピサン地区>

 歴史性の高い建築はなく、倉庫や不良な住宅等は撤去し中層の住宅地とするのも一案である。

 

<ファタヒラ広場>

 現時点でも歴史的空間としての認識は深く、市庁舎等が保存されている。ここは歴史都市コタの象徴として保存修景を行う。広場からの景観を考慮し、次の事を提案する。

1.広場に接する建築の保存修景

2.広場へつながる道路に面した建築の保存修景(特にカリブサールとの連絡道)

3.広場の「囲込み」性の回復

 

<カリ・ブサール地区>

 この地区はファタヒラ広場同様に、保存修景地区とする。この都市景観の特徴は、対岸へのパースペクティブである。カリ・ブサールの幅が  m(シャンゼリゼは  m)と大きいので、町並みを遠目に眺められるのである。この特徴は

1.ファサードの幅と高さの規制

2.ファサード面の統一。セットバック等の禁止

3.建築デザインの規制(屋根形状、開口比率、素材、色彩、等)、等

によって維持される。

 

<マラッカ地区>

 ここはビジネス地区としての性格を強めつつある一方で、住宅や職住一致型のワークショップも多く見られる。建築もほとんどが  世紀に建てられていることから、商業と居住の機能の混在と自由な発展を認める。

 

<コピ通り/クニール通り>

 この二つの通り沿いは、周囲と性格が異なるため特別に扱う。ここは、異なる時代性をもった建築の存在と、商業地区という二つの性格を持つ。しかし、都市景観の視点からの価値は低いので、部分的保存が望ましい。すなわち、建築単体での保存を行う一方で、それ以外は商業地区として自由な開発を認める。 

 

<コタ駅地区>

 このブロックは、ビジネス地区であるカリ・ブサール地区と南に接するグロドック地区の中間に位置することから、現在のビジネス地区としての性格は継続されて良い。ハード面では、比較的大きなスケールの建築とオープンスペースによって特徴付けられ、近代的な都市景観を見せている。さらに南に接するグロドック地区には、すでに大規模なショッピングセンターがあり、グロドック地区と共にビジネスあるいは商業機能を持つ大規模建築による開発が許される。また、ここには駅や幹線道路が集中し、コタ地区の表玄関としての性格と交通問題を提供している。コタ駅の移転問題もあり、駅舎の再利用(観光センター、等)と交通整備を含め、近代コタの象徴となる総合的な計画が求められる。

 

 以上、各地区ごとの再開発の方向性を、ハード面を中心に提案したが、当然それだけでは不完全である。例えば、現在のコタ地区の生活環境は決して良いものではなく、その改善(上下水道・ごみ収集システムの整備、運河の水質の改善、交通問題、等)が早急に求められている。そこで、ソフト面での必要事項を挙げて、まとめとしたい。

1.研究者の育成ならびに研究施設の充実

2.歴史的地区ごとの再開発実行委員会の設立

3.住民の受け皿としての住民組織の結成

4.デザイン・コード、建築規制の作成

5.財政上の支援体制の充実












2022年6月16日木曜日

ジャカルターーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,1994年2月

ジャカルターーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at19942


インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

                                           

Ⅳ ジャカルタ       

                                    京都大学アジア都市建築研究会

 

 バタヴィアのモデルになったのはアムステルダムだと言われる。しかし、その運河のパターンを見るとアムステルダムより、デルフトに近い。オランダの都市計画思想がバタヴィア建設の背後にあるのは疑いの無いところだ。

 ひとりのオランダの都市計画家の名前が浮かんでくる。サイモン・スティーブン              である。彼は一五四八年生まれで一六二〇年に死んだ。コルネリス・ド・ハウトマンが艦隊を率いて西ジャワ、バンテンに到達したのが一五九六年六月であり、オランダ東インド会社総督J・P・クーンがポルトガル支配下にあったジャヤカルタを占拠したのが一六一九年五月三〇日のことである。まさにバタヴィア建設が開始されたその時期に生きた理論家であった。

 サイモン・スティーブンは、理想の港湾都市の計画を発表した。一五九〇年のことだ。バタヴィアの建設に当たってJ・P・クーンらが参照した可能性は大いにある。サイモン・スティーブン自身がバタヴィアの設計を行ったという説もあるくらいだ。彼の専門は港湾都市の計画であり、そのモデルは、アムステルダムやアントワープのような実在の都市であったとされる。

 サイモン・スティーブンのモデルは、長方形をしており市壁で囲まれている。その外側には市壁に沿って堀が巡らされる。街路パターンは、グリッド・パターンである。そして、市内にも運河が引き込まれ、これまたグリッド状に張り巡らされる。港湾都市の繁栄の鍵はウオーターフロントにあるというのが彼の主張であり、運河に沿って商業施設を配するのが基本なのである。運河も市壁も延長可能なように計画されており、運河に沿ってすぐ隣接して市域を拡大できるし、郊外の住宅地へとつなげることもできる。チリウオン川に沿ったバタヴィアの建設もまさにその理念にもとづいている。もちろん、サイモン・スティーブンのプランとバタヴィアのプランが全く同じというわけではない。しかし、運河を縦横に走らすその基本コンセプトは明らかに同じなのである。

 サイモン・スティーブンのモデルは、オランダのみならず、デンマークやスエーデンでも採用される。コペンハーゲンの新たな開発がサイモン・スティーブンに従って開始されたのは一六四〇年のことであり、スエーデン国王、グスタフ二世アドルフスによって新港湾都市建設のキャンペーンが開始され出したのが一六二〇年代のことである。イエーテボリが最初であり、一六四〇年代初頭にストックホルムが再計画されている。バタヴィアは世界最先端の港湾都市として計画されたことになる。

 ストックホルムの場合、グリッド・パターンはオランダの商業覇権を思わせるというので放棄される。それ以後、流行するのは放射状のパターンである。バロックの都市計画が支配的になっていったのであった。

 ジャカルタで今保存が問題になっているのは、この当初建設されたコタ地区である。そして、現在の中心であるムルデカ広場周辺、メンテン地区である。さらにあまり知られないが、もう一地区ある。チョンデットというチリウオン川の上流である。ジャカルタ原住民ベタウィの住む地区である。(布野修司)

 


ジャカルタとその都市遺産 

                              

ウイスヌ・アルジョ(ジャカルタ市都市保存課)

                                                                                

 

 インドネシア共和国の首都ジャカルタは、ジャワ島西部の北海岸に位置し、東南アジアでも最大級の都市である。人口は1千万人以上ともいわれ、インドネシアの政治と経済の中心地であるとともに、対外的にはインドネシアの表玄関であり、その果たす役割は大きい。市街地は南北におよそ20kmにわたって細長く発達し、北のジャワ海に面する。ジャカルタの地図を広げてみると、そのほぼ中心にムルデカ広場を探すことができる。ジャカルタはこの広場を中心に、その周辺の官庁街、その北部の商業・金融地区  コタ      、南部の住宅・文教地区の三つの地域から構成される。各地域とも、大通りに面してはホテルやオフィスといった大型の近代建築が並び、その裏側にカンポン(都市内集落、住宅地)が広がっている。

 ジャカルタを実際に巡ってみると、こうした近代的な建築の間に、ヨーロッパ風のコロニアル建築を見つけることができる。ジャカルタ全体を見ると、コロニアル建築の集中する地域は、北部のコタ地区とムルデカ広場周辺の二ヶ所である。かつてのバタヴィアの中心地と新中心地ウェルトフレーデンの場所である。

 

ジャカルタの形成

 

 現在のジャカルタの都市的発展は、    年にオランダ東インド会社総督J・P・クーンがジャヤカルタの地に商館を建てたことに始まる。 年後、ジャヤカルタを占領、破壊するとすぐさまバタヴィアの建設に着手し、    年にはほぼ完成する。運河と城壁に囲まれた長方形の市街地は、チリウン川によって東西に二分され、北東部には四つの突起を持った星型のバタヴィア城が位置する。ここには事務所、倉庫、上級職員の居住区、兵舎、小さな教会などがあった。市街地内では中世オランダ風の町づくりがなされ、縦横に運河が走り、隣接した建物がそうした運河に面して建ち並んでいた。そしてバタヴィア城を南に下ったところには市街地の中心地として広場が設けられ、それを囲むように市庁舎、教会、病院などが建てられた。

 建設当初は、オランダ人、奴隷、チャイニーズ、日本人、イギリス人などの多くの民族による複合社会が形成されていたが、しだいにオランダ人以外のほとんどの民族は城外に移住させられるようになり、民族ごとに独自のカンポンを形成していった。同時に町から 時間ほどのところにバタヴィアを囲むように要塞が設置され、そこに通じる運河や道路が建設された。東のアンチョール       、南東のジャカトラ         とノードウェイク           、南のレイスウェイク          、西のアンケー       である。    年にはさらに外側に要塞が置かれ、これによりバタヴィアを中心として二つの同心円が形成されたことになる。この頃から現地諸民族やチャイニーズの手によって、後背地の開発が盛んに進められ、バタヴィアの食糧生産地である第一の円と、その外側の輸出用砂糖生産地という構図ができあがる。また、ヨーロッパ人もカントリーハウスを建設し、郊外に居住するようになる。その良い例を、現在の国立公文書館に見ることができる。

 このようにオランダの町すなわちアムステルダムを模倣したとされるバタヴィアは、一時は「東洋の女王」と呼ばれるほど反映を極めるが、    年の突然の死亡率の上昇以降衰退の一途をたどる。もとよりオランダ式の町は、運河が埋まりやすく、住居は換気が悪いといったように、熱帯に適応しにくいものであったが、    年の火山噴火や、砂糖栽培のための後背地の乱開発がチリウン川の排水系を破壊し、バタヴィアの不衛生化をさらに促進する大きな要因となったとされる。

 こうして「東洋の墓場」とまで呼ばれるようになったバタヴィアに代わり、  世紀末には後背地への中心の移動が始まった。ウェルトフレーデンと呼ばれるこの新しい中心地の建設は、総督ダーンデルスによって計画される。中心にウォーターループレイン[現バンテン広場]が設けられ、その前に総督府(    竣工)が建設された。またカトリック教会(    年完成、現存するものは    年再建)や、現在の最高裁判所など、ムルデカ広場を囲む今日のジャカルタ中心部の原型が作られてゆく。途中(    年~    年)、イギリスの統治下に入るが、計画に大きな変更はされていない。残された旧市街地には中国人が残り、チャイナタウンとなって商業地区の性格を強めていくことになる。

   世紀を通じて、町はさらに拡大していく。チリウン川の洪水を制御するために町の東西に新しい運河が建設された。また南部が積極的に開発されると共に、    年には従来の港の キロ東にあるタンジュン・プリオクで新港の建設が始まった。その結果、ジャカルタは南北に長い典型的な直線都市として発達してゆく。    年にはバタヴィア、バイデルゾルフ[現ボゴール]間に鉄道が開通し、郵便局、電信局、電話局といった近代的通信施設も設置された。こうして次々と新しいインフラストラクチャーを備えながら、ジャカルタは近代都市へと発展してゆく。しかし、政府はヨーロッパ人のためにできており、こうした設備の恩恵は彼らのみが享受できるものであった。インドネシア人にとってはカンポンが生活の場であり、運河が日常の便宜を与えてくれるものであった。

  植民地経営を通じて、その宗主国は植民地に多くの問題を残していったが、その反面、良質な建築遺産も形成したのである。開発の波が押し寄せ、そうした遺産が今後の方向性を求められている現在、保存という一つの解答が検討されている。

 現在ジャカルタには、保存が決定され、改修・再利用されている建築がいくつか存在する。カントリー・ハウスであった国立公文書館や、財務局、海運総局などは、国の施設として利用されている。観光と結びついたものとしては、   庁舎であったジャカルタ歴史博物館、倉庫であったバハリ博物館、コタ地区を流れるカリ・ブサール運河に架かる跳ね橋などが挙げられる。ジャカルタ・マスタープランでは、ジャカルタ歴史博物館があるコタ地区東部を保存地区として捉え、地域計画で緩やかな建築の高さ規制などを制定しているが、どれも概念的な提示であり、将来像についての明確な示唆は見られない。現在行われている保存も、断片的に行われており、いきあたりばったりといった感が強い。

 今後の方向性として、体系的な保存が求められるであろうが、そこにはジャカルタ全体の将来像が必要となる。コロニアル建築が、インドネシアの都市を色づける要素として確実に定着したとき、ジャカルタは真にインドネシアの首都となっているのではないだろうか。

 

歴史的地域

 

1.コタ地区

 海に北面したこの地区の範囲は、東西にはチリウン川からアンケ運河まで、南はグロドック地区までであり、建設当初のバタヴィア市域にあたる。現在は、商業地区の性格を持っている。開発があまりなされなかったため、ここにはかなりのコロニアル建築が現存する。特に中央を真っ直ぐに北進するカリ・ブサール(大運河)の両側には各時代のコロニアル建築が隣接して並び、さながらオランダの町並みを思わせるほどである。なかでも最も古い建築は    年代に建てられたトコ・メラ            である。もとはファン・イムホフによって建設された平入り二階建ての邸宅であり、保存状態も良い。このように良好な状態で保存されているものがある反面、取り壊しの危機に直面しているものも多く、町並みとしての価値が薄れつつある。

 カリ・ブサール運河の東部はバタヴィア時代の中心地であり、ファタヒラ広場周辺には、ジャカルタ歴史博物館、芸術絵画博物館                 、郵便電話局、ワヤン博物館といった建築が現存し、歴史的な景観をよく残している。そのすぐ南部にはコタ駅を中心として、インドネシア銀行やブミ・ダヤ銀行といった比較的新しい建築が並ぶ。運河の西部はバタヴィア時代の町割りは残すものの、良質のコロニアル建築はほとんど見られない。北部には倉庫が博物館として活用されたバハリ博物館があるが、全体的には、状態の悪い倉庫群とカンポンで占められている。北部の発展が遅れている理由に、東西に走るジャワ鉄道によって南部と分断されたことが挙げられる。  世紀初頭のVOCの倉庫が現存しているが、保存状態は悪く、対策も施されていない。

 コタ地区南部はチャイナタウンとして完全にその姿を変えている。ピントゥ通りにはショップハウスが軒を並べ、活気のある商業地区を形成している。パンチョラン通りとの交差点には、大型のグロドック・ショッピングセンターがあり、コタ地区の南端を象徴している。

 

2.ムルデカ広場周辺

 今日のジャカルタの政治的中心地であるこの地区には、その政治的機能と結びつく形で歴史的建築が残っている。バンテン広場の東には、広場に面して旧総督府[現財務局]がある。この建築はダーンデルスによって、アンピール様式で計画され、母屋の両側に大きな門でつながれた別棟を持っている。バンテン広場に残るもう一つの建物は    年に建てられた最高裁判所で、ネオクラシック様式である。旧総督府の北側にあたり、前面の神殿風のポーチコが特徴的である。つづいて旧総督府の前の道を北上すると、グダン・ケセニアン通りとポス通りの角に旧バタヴィア劇場が見つかる。これは    年にアンピール様式で建設されたものである。

 コタ地区からガジャ・マダ通りを南に下るとムルデカ広場に出る。この一辺 キロにも及ぼうかというムルデカ広場の北側にあるのが大統領官邸である。正面にはコリント式の柱を備えた幅の広いポーチコが広がっている。この官邸の裏側にはベテラン通りに面して、美しい  世紀のカントリー・ハウスが残っている。ムルデカ広場の東側、ガンビール駅の正面にはイマニュエル教会が位置する。J.H.ホースト設計によるこの教会は、高い基壇の上に円形の平面を持ち、ドリス式の柱がポーチコに並ぶ。さらに広場の西側には、ドリス式のポーチコを備えた典型的なネオクラシック様式の国立博物館がある。

 中心に独立記念塔を備えたムルデカ広場は、もともとは後の開発のために保留された場所であるが、コロニアル建築が現在の国家的な機能を備えてその周辺に比較的数多く残っていることもあり、現在はむしろジャカルタの中心として象徴的な空間を生み出している。

 

3.その他の地域のコロニアル建築

 コタ地区とムルデカ広場周辺以外で特筆すべき建築は、国立公文書館とチキニ病院女子寮である。国立公文書館はコタ地区とムルデカ広場のほぼ中間、ガジャ・マダ通りの西側に位置している。    年建設のカントリー・ハウスで、ヨーロッパ人がバタヴィアから移住し始めた頃の住居の様子を示す良い例である。ド・クレルクによって建設された二階建ての建物であるが、正面に庭園を配し、街道からやや離れるように建設された。オランダのオリジナルと比べると、軒の出が深い上、窓が小さく天井も高くなっているが、これは熱帯の気候に適するように工夫されたものである。

 ムルデカ東通りをしばらく南に下ると、ラデン・サレ通りと交差する。その通りにチキニ病院女子寮はある。スマラン出身の画家、ラデン・サレが    年建てた自邸で、フランス・ネオ・ゴシック様式の建物である。ファサードは非常に装飾的であり、ロマンティクな様相を持っている。

(訳 堀 喜幸)













2022年6月15日水曜日

スマランーーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,1994年1月

 スマランーーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at19941


インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

                                           

Ⅲ スマラン        

                                    京都大学アジア都市建築研究会

 

 中部ジャワのスマランは、パシシール(北海岸地域)の中核として古くから重要な位置を占めてきた。二〇世紀にはいると、オランダ植民地政府は各地に自治政府(ゲメーンテ)を設立させるのであるが、バタヴィア(一九〇五年)に続いてスマランも、スラバヤ、バンドンとともに一九〇六年自治政府が設立される。中でもスマランは、都市問題に対する取り組みが活発であり、極めて注目すべき都市となった。戦後のカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)につながるカンポン改善事業をいち早く実施するのである。カールステンとポントがスマランを拠点としたのは決して偶然ではない。

 一九〇九年、市議会は市の北西部の生活状況、住宅状況に関する広範囲の実態調査を行なう。議長は      ウェスターフェルドであり、一九一四年五月にその結果を議会に報告している。ジャワ人の住宅不足は厳しく約七%が他人の家を間借りしており、全てのカンポンにおいて空家は全くなかったという。

       ウェスターフェルドを助けて大活躍したのが薬剤師であった    ティレマである。彼は、スマランからはじめ、バタヴィア、スラバヤ、さらにインドネシア全体の衛生問題に関心をもち数多くの著作を残したことでも知られる。最初の本が『住居と居住:建物、住宅、庭』(一九一三年)であり、それに続いて上梓したのが大著『クロモブランダ:クロモの広大な国の生活実態問題』五巻(一九一六~一九二二年)である。この『クロモブランダ』は、イラスト、写真が満載されている貴重な資料だ。驚くべきことに、全てティレマの自費出版である。

 「沢山の綺麗なガイドブックを抱え、インド諸島の文化のすばらしい数々を見て眼がくらんでいる旅行者には知られない状況を活写するのが目的である。医者として長年を過ごした者の眼には、眩しい光の背後に、特に海岸部の低地帯の町々に暗い影が落ちているのが見えるのである。広いメイン・ストリートを歩いていたのではわからない。狭いカンポンの道を歩けばわかる。カルティニが正しく指摘したように、ヨーロッパ人がインド諸島を知らないのは、オラン・クチールの住む場所に入ってみたいと思わないからである」。

 『クロモブランダ』の一節である。オラン・クチールとは小さな人、庶民のことだ。カルティニとは、中部ジェパラの出身の民族主義運動、女性開放運動の先駆者(土屋健治 『カルティニの風景』 めこん社 一九九二年参照)。ティレマは、理想主義者として住宅改善の必要性を訴え続けたのである。さらに、一九二六年には、『熱帯無しのヨーロッパはない』を出している。

 カンポン・フェアヴェタルング(居住環境改善事業)さらにインドネシアの都市計画のパイオニアとなったのがトーマス・カールステンである。彼は、建築家として数多くの作品を手掛けるのであるが、むしろ、その貢献は都市計画の分野に大きかったと言えるかも知れない。才能は一九二〇年にバンドンで開かれた第一〇回地方分権会議において「インド諸島における都市計画」という報告を行っている。この報告は都市計画技術的にも美学的にも重要なものとされ、一九三八年の都市計画法の制定にも大きな影響を与えたものである。 
スマラン旧市街の形成

ウカ・チャンドラサスミタ

Old City Semarang

                 

 

 ヒンドゥー王国ーイスラーム王国ーゲメーンテ

 地形図からスマランの古代の海岸線を定めた丘陵地帯の端を容易に確認することが出来る。自然の湾がガラン川の河口に形成されており、プンギリン山とベルゴタ山が側にある。ベルゴタ山はもとのティラン島である。ガラン川は現在のスマラン川の源流もしくは上流であった。この地域は土着の集落をともなった古代ヒンドゥー マタラムの港であると考えられている。港は徐々に浅くなり、それがこのヒンドゥー王国と集落が衰退する理由となったのであった。

 チェン・ホーという海軍大将が中国の明王朝より来て、スマランの東方の古い港であるマンカンに上陸した時(         )、シモン地区は既に中国人の居留地であった。チェン・ホーにはマ・ホアとフェ・チンが同行した。彼らはグドン・バトゥにあるシモンに中国人のモスクを建設したハナフィ派のイスラム教徒であった。後年、彼らの記念として、サム・ポ・トンまたはクレントゥン・グドン・バトゥという寺院が建てられている。

 地方史によると、スマラン原住民の長は、キアイ・パンダン・アランといい、デマクのスルタンつまりパンゲラン・サブラン・ローの息子の一人であった。イスラーム教徒の植民地は、その指導のもと、海岸沿いの街として発展した。キアイ・パンダン・アラン一世が没したとき、その息子であるキアイ・バンダン・アラン二世が、パンゲラン・ハンディヴィジョヨによって、スマランのブパティ(統治者)として任命された。一五四七年五月二日のことである。この日付はスマランの誕生の日とされている。

 キアイ・パンダン・アラン二世またの名をブパティ・スマラン一世は、一五五三年まで統治したが、地方史によると都市を発展させるという目的を達成したのであった。彼の後はキャイ・パンダン・アラン三世=ブパティ・スマラン二世が継承した。そして、彼は西暦一五七五年に行政の中心をブバカンの東方へ移し、その海岸地域のジュルナタンに宮殿を建てた。彼は一五五三年から一五八六年まで統治した。彼の後は息子つまりスマラン三世としてのキャイ・カリファ/パンゲラン・マンクブミ二世が継承した。残念ながら彼はマタラムのスルタンであるスナン・アマンクラに嫌われ、そのため任を解かれ、三人の賢人、つまりアストラユダ、ディパティ・メンゴロそしてナヤメルトの一人に位を譲った。以後、マス・トゥメングン・タンビ(         )、マス・トゥメングン・ウォンソレジョ(         )、マス・トゥメングン・プラウィロプロヨ(            )等々が続く。

 そして自治政府(ゲメーンテ)が一九〇六年四月一日に設立されるまで他の者が続いた。市長として任命されるような特別な長は一九一六年までいなかった。スマランの最初の市長として任命されたのはジョングであり、在任期間は一九一六年の八月から一九二七年の五月であった。一九〇九年の自治議会の構成員は、ド・フォーゲル博士、エンガーバード、ウェスターフェルド、サイモン・トーマス、ティレマ、ソエナージョそしてマイオ・タン・シアウの様な偉人達であった。彼らはスマランの街の住居と衛生状態を進んで改善していくのである。

 オランダーチャイニーズーカンポン

 スマランの旧市街の発展過程についてみよう。時代によって都市行政の中心の変遷が起こっている。キアイ・パンダン・アラン一世によって率いられた最初の行政中心は、ベルゴタとティラン・アンペールであった。ブパティ・スマラン一世もしくはキャイ・パンダン・アラン二世の間、行政の中心は海岸地域、おそらくブバカンへ移され、一五七五年に宮殿がジュルナタンに建てられた。スルタン・アグン・ハンヨクロ・クスモ(            )のもとでスマランの港はマタラム・イスラーム王国への主要入口港としての重要な役割担うよう改修されている。

 一六二八年にスマランの中国人たちがマタラムに対する反乱を起こす。マタラムのスルタンはオランダ東インド会社(      )に救助を求め、謀反人を打ち破るように要請した。中国人を率いたソウ・パン・ジアンは殺され、全ての中国人居住者はシモンガンから立ち退きを命じられ、交易場所である東インド会社の近くの新しい地域に移住させられた。この地区は、その北と西と南の境界をスマラン川に囲まれていた。

 形態学上の観点より、十七世紀の後半には、スマランには三つの異なる要素、つまり交易所としての城壁を巡らしたオランダの街、商業の中心としての中国のカンポンそして農業の後背地としての閉鎖的で組織的でない土着の集落よりなる小さな都市にすでになっていた。スマラン川は主要な輸送通路として重要な役割を担っており、二つの経済中心、いわゆる中国とオランダの居留地をバタビア、他の地域もしくはヨーロッパや中国などの外国と結び付けていた。

 クラトンーアルン=アルンーパサール

 オランダ東インド会社は一六七八年にスマランとその周辺地域に統制を敷いた。スマランはマタラムのスルタンであるアマンクラット二世によって東インド会社に譲渡されたのである。スマランの要塞が完成すると、中央ジャワの行政の中心は一六九七年にジャパラからスマランへ移された。一六九五年の地図を見れば、明かに当時のスマランの市街は既に開発されていたことがわかる。スマランの摂政の行政機関はジョホー(パサー・ジョホー)市場の近くに位置していた。そこには今なお巨大なモスク、カンジェンガン(地方行政官の宮殿)の地名、アルン アルン(広場)、プンクラン(摂政の宮殿の後ろの場所)そしてブンテン(要塞)などを見ることが出来る。

 形態学上の観点からすると、ヨーロッパの影響以前の街の配置を我々は復元することが出来る。ジャワにおける古い街の配置は普通次のようなもので構成されている。

   アルン―アルン(公的集会場としての広場)

   クラトン(政治と行政の中心としての宮殿)

   マスジッド(宗教的中心としてのモスク)

   パサール(経済の中心としての市場)

   カンポン・パシナン(中国人の居留地)、パコジャン(グジャラート、ペルシア、アラブ等からのイスラム商人の居留地)

   バンダール(日用品の輸出入のための貿易の中心としての)

 チャイナタウン

 一七〇二年六月九日、スマランは北海岸の領土であるマタラムの首都として公に明言された。それまでは中国人が保持していた税に対する多くの独占権はオランダ東インド会社に譲渡され、中国人は唯一塩と木材に対して独占権を持つことが出来た。十八世紀の初めには「パシナン ロー」と「パシナン ウェタン」に沿って建てられた瓦屋根の沢山の中国人商店が存在した。「パシナン ロー」に沿っている家の多くは店舗として一列に建てられ、この通りは最も活気のある商店街となりつつあった。

 バタヴィアで一七四〇年に起こったオランダ中央政府に対する中国人の反乱の影響は、スマランにも及ぶが、一七四二年には東インド会社が事態を正常化することに成功している。戦後、多くの中国人はスマランに戻り、中国からの新しい移民の流入のため町の人口は急激に増えた。バタヴィアから新しい中国人の首領としてクィー・ガンが任命された。

 小さな船はスマラン川に沿ってパシナンの西南の端まで航行でき、下流の北側に港が形成された。コウ・ピン所有の陸揚げの機能を持った倉庫の複合体は、パシナンの東角で発達した。中国人街の中央の空地は、パシナン・テンガ(中央通り)とブレカン・パシナン・テンガ(ベセン通り)という名前の二つの新しい南北の通りに沿って住区に分けられ、中国人の人口の急激な増加に対応した。この期間、一七四六年のベラカン通りにおけるカン・イム・ティンのように、多くの寺が建てられた。このカム・イン・ティンは、後に川の対岸に新しい寺が建立されてその場所をとって代わられ、後世にはロンボク通りと呼ばれるようになった。

 中国人は「タイ・コク・シー」という寺を建てた。この寺はスマランの中国の寺の中でも最大のものの一つであり、設備の整った開放的なものであった。一七八二年にリエウテナン・ホウ・ピンは川の近くのタン・キー(パシナン・ウェタン)の北の角に寺を建てた。一七九二年年にマン・ファイ・クー(後のパサー・バル通り)に六つの寺が建てられた。一七九六年にゲドン・バトゥの寺が中国人の共同体によって修復された。

 ダエンデルスーイギリス支配

 パシナンの外側のスマランの町は、イスラームの商人(コジャ)の住むパコジャンのように広がった。その中にはペトゥガンというたくさんの茶椀やトゥダンが売られているところ、プサントレンというイスラームの学者やサントリ(イスラーム教徒)の住むところ、そしてアンベンガンというパシナンへ続く主要道路に沿っているため活気のあるところなどがあった。

 オランダ東インド会社の廃止(一七九九年)の後、ヘルマン・ウィレム・ダエンデルスはバタヴィアの総合的な統治者になった。人々は、アニヤーからパナルカンへのジャワの北海岸沿いに、最初の内陸の巨大な郵便道を建設し、オランダ人による地方行政のための主要な情報伝達システムとして活用した。一八一一年の九月一日にジャンセン大将がスマランへ来たときに、オランダ人はボジョンの居住用の宮殿の前に、軍の本部を設立した。いくつかの砲台もまたスロンドルの丘陵地帯に建設された。アンガランにもまたもう一つの司令部を築いた。しかし偉大なるサミゥエル・オウマトリー卿に率いられた英国軍が一八一一年の九月九日にスマランに上陸した後、アンガランの砦をおとした。ジャンセン大将とその軍隊はサラティガの砦に撤退したが、一八一一年の九月十八日にジャワは英国の統治下となった。

 英国支配下のスマランには、ジョン・クロフォードという英国駐在総督代表である権力者がいた。この当時の中国人社会は、一八二九年に第一等階級を受けるタン・ティオン・ツィン大尉(ホク・ゴアン)に率いられ、もともとの統治者(ブパティ)が地元住民を支配した。この時期のスマランのブパティはアディパティ・トゥメンガン・スロハディニングラット(    年前後)である。

 この短い英国支配の間、中国人の経済の極と英国 オランダの軍事支配の極の周辺に、いくつかの土着のカンポンが成長した。これらのカンポンには、次のようなものが含まれてた。デリシオン(しゅろ糖製造)、ブブタン(木靴製造)、プスパラガム(R M T プスポロゴ王子の住居)、ロゲンデラン(ロゲンダー王子の住居)、クランガン(地元のロンゴ卿の住居)、ウォトガンダル(吊橋)、ジャガラン (屠殺小屋)、クリタン(皮鞣し)。

 主要道に沿ってさらに南方に、カラン・ウェタン、カラン・トゥリ、カラン・サリ、ベンコン、ペテロンガン、ジャムラン等のようないくつかの土着の村落があった。また、スマランには英国、オランダそして中国に領有されているいくつかの大きな地区があった。パシナン・キダルを横切る英国の区画はタン・ティアンへ売却され、それから砂糖倉庫がこの土地に建設され、そしてそれはゲドン・グラと呼ばれた。セバンダラン橋の南詰めの二つの店の入口の門衛詰め所と、また川沿いに洪水を防ぐために強固な壁が建設された一八一四年にパシナン・ロア橋と共にタイ・コク・シー寺院が修理された。

  ジャワ戦争

 一八二五年から一八六〇年の間、オランダに対してパンゲラン・ディポネゴロに率いられたジャワ戦争は、中央ジャワで起こり、スマランは広範囲に広がった反乱の抗争の中心となった。スマランにおいて、多くの軍隊がオランダの中央の要塞としての要塞と共に、東西の歩道の軸に沿って町のなかに広がった。一八三五年にオランダはポンコルに「フォート・プリン・ヴァン・オランジェ」という名前の要塞を建設した。土着の居住地は、オランダ人と中国人が密集する東西の方向へ広がっていった。土着の統治者の住居は、アルン・アルンと市場の後ろにあった。一八二九年に瓦葺きで組石造の恒久住居の数は約一四九二戸であった。

 中国の共同体に対するジャワ戦争の影響で、スマランは社会的不安に陥った。そのためタン・ティアン・ツィン将軍は、中国人街の四つの入口に大きな門を建設する許可をオランダに求めた。これらの門はジャガランとの角であるセバンダランと、パシナン・ローとパシナン・キダルの端、そしてパコジャン橋を横切る中国人街への北入口に建てられた。数カ月の間、これらの門は常に毎晩中国人の大人達によって閉ざされ、警護されていた。これら全ての門は大体一八九〇年に修復された。

 一八三九年に、バゲレンの将軍であるベ・イン・ツィオエはスマランに居を替え、ピンギル通りにいくつかの土地を購入した。そこで彼は大きな庭付きの豪邸を一八四一年に建てている。

 一八五〇年に、オランダ人街の中心にある古い市役所が焼け、川の対岸に建てられた新しい市役所に取って代わられた。    ルーダ・ヴォン・エイシンガの時代に、スマランの町はジャワの内地に対する重要な貿易拠点となった。植民地行政の移動はより健全な方向へ向かったのである。

 一八五九年にオランダのインド領における公式の支払い方法として、最初の銀行手形が導入されたが、一八八八年になってジャワ銀行は最初の支店をスマランに開いている。

 二〇世紀都市へ

 一八六二年、スマランにおいて公的な郵便事業が開設された。一八六四年、スマランからスラカルタとジョクジャカルタへの最初の鉄道が、      (オランダ、インド領鉄道会社)、つまり公営鉄道会社によって建設された。海岸近くで古いオランダ人街の北方のタンバク・サリに、最初の駅舎を建設している。一八八二年から一八八三年に、もう一つの鉄道会社である      が、もう一つの鉄道網を建設した。ジュルナタン(中央駅)を起点として、ブルという町の西角と、ジョンブランという町の南角、そしてまたジュワナまでであった。一八九四年に鉄道網は東方のデマクまで延長され、ブロラ       は一九〇八年にスマラン チレボン鉄道を開いた。一九一四年にタワンに新しい駅舎が完成し、旧タバク・サリ駅はこれ以上使われることはなかった。

 一八五四年から一八七五年の間、運河が掘られ、カンポン・ムラユから外海へ、直接スマラン川が繋がった。湾岸公司が、河口から東岸を    mとスマラン川の水門から   mに沿って、建設された。

 一八八四年に最初の電信網がスマランに引かれ、この町と、バタヴィアとスラバヤが結ばれた。一八九七年にガス会社がスマランにおいて営業を始め、裕福な中国人とヨーロッパ人がそれ以来古めかしいオイルランプに替わり、照明にガスを用いた。一八八五年に運河(ブヤラン運河)がスマランからカラン・アンヤー(デマク)に、潅漑と舟運のために築かれた。馬や水牛、そして牛に引かれた多くの船がこの運河を航行した。洪水を防ぐための二つの運河が、スマランの西と東の境界線上に一九〇〇年前後に築かれ、バンジャール・カナル・バラットとバンジャール・カナル・ティムアーとして知られた。西運河は東運河が掘られる数年前に掘られた。これらの通信と輸送の革命はスマランを衝撃的に変貌させ、急速に地域的中心となり、スマランは非常に重要な貿易拠点となった。

 一九〇四年に高地へ続く馬車街道と平行する南北の道が再整備され、北部のカルテンから南部のペテロガンまで延び、カラン・テンプル村を横切っていた。それはカレン通りと名付けられ、そしてこの道に沿って見かけのよい邸宅が発展していったのであった。(抄訳 吉井康純)

 

保存対象の認定

  スマランの旧市街の歴史的概観から、文化的教育や文化的観光事業の発展に利用するために、保存されるべき対象が認定されてきた。スマランの旧市街地での古い建物とその周囲に関する研究をスマラン市が    年 月にしている。この中で都市における歴史的な建物と遺跡の保護と保存の状況が見て取れる。認定された重要な歴史的な建物と遺跡は以下の通りである。

 1.土地や敷地は植民地化の形態学上の過程の形跡を表している。例えば古い沿岸都市や町の一部(アルン・アルン、港、宮殿、市場、そして、パチナン、パクリンガン、パコジャン、カンポン・アラブ、カンポン・ムラユ、土着の集団といった様々な集団)や、ブルゴタ丘、シモンガン、プンギリン丘などである。こうした対象は形態学上そして、沿岸の都市あるいは町の構築物としてとても重要である。

 2.歴史的な建物がその周囲と共に、興味深い強い魅力を表現しているのだが、オランダのコロニアル建築の性質と様式は、以下のようにリストアップされゾーン形式で3つのグループに分けられている。

       第一優先地区(地区1)    ブルンドゥック教会                   タワン駅                         大教会                    ヤヤサン・キャニシウス大学                            マルバ          ジワスラヤ保険会社                       プンジャディラン・ヌグリ                         スアラ・ムルデカ社                         ボールスマイ社                  ダガン・ヌガラ銀行                   など

       第二優先地区(地区2):  国立技術学校                          ブル刑務所                知事事務所                                              ムダ塔              マコダム・Ⅶ・ディポネゴロ                               コダム・Ⅶ・ディポネゴロ局の表門                                     など

      第三優先地区(地区3):  知事代理事務所                               南ガジャ・ムンクール通りの住居                                        S.パルマン通り  番地の住居                                   S.パルマン通り  番地の住居                               など

  3.歴史的建物の他にも、都市の内部や、他の場所とをつなぐ歴史的な道も強い魅力がある。たとえば、   により         に造られた線路、市街地からチャンディの丘までの市電、運河などの港の構築物である。これらの活動は、  世紀の半ばから  世紀の初頭までの間、都市の発展を活気づけた。

 4.歴史的な場所や建築物でさえ、短い占領期間(         )中は日本軍に使われていた。その時スマランは完全に軍政府の管轄下にあった。この期間の例として、トゥグ・ムダが建てられた場所とその周辺が挙げられる。なぜなら、そこには、人々が日本軍と連合軍(イギリス軍とオランダ軍)に対抗した五日間戦闘(        から  日)の記憶に関係する重要な価値があるからである。

 5.そのほかにも、文化、歴史、科学、観光などの視点から見て重要と思われる建築や場所は、選び出し、認定すべきである。また、文化的な観光を発展させるためには、町の中の博物館といった強い魅力が、それが新しい建築であっても、古い展示物が観光客にとってはとても重要であるので、考慮されるべきである。(抄訳 坂田昌平)

 

保護、保存、文化的な観光開発の為の提案

 以上のように実地研究で選ばれた歴史的な建築とその場所を認定した上で、保護、保存、文化的な開発のための提案をいくつか行ってみたい。

 1.ブルゴタ丘の一部、ジョハール市場のアルン・アルンの一部、オランダ植民都市が建設された時代に属する建築が建つポンコルの一部、ブルンドゥック教会やジワスラヤ保険会社、マルバ・ビルのある場所の一部といった旧市街地は、その歴史的発展を表現するために、形態学的視点から非常に大きな意義を持つ。

 2.個々の歴史的建築あるいは建築群を認定、リスト・アップ、分類する。分類は地区単位で、保存・保全のための三つの優先順位をつける。 地区1、2、3は、地方あるいは国家レヴェルの適切な規制、立法、法律によって保存・保護することを強く提案する。

 3.重要な建築の所有者あるいは使用者における、法人/個人所有、公共/私有の問題、あるいは開発に対する反対、無知の為に、こうした歴史的建築とその場所の価値がなくなる恐れある。そこで、保護・保存の予防策として、こうした場合に国の法律を参照しないで命令を下すことを地方政府に提案する。地方政府がプルダ       (地方条例)を立法できるなら、最も効果的な方法である。しかし、歴史的建築とその場所の認定にもっとも責任ある主体は、モニュメント法                                       に基づいた教育文化大臣である。

 4.予めリストアップされ法律で定められた歴史的建築とその場所は、所有形態や歴史的背景を含めた正確な記録や目録づくりの活動によってフォローされる。

 5.現存する文献、財産、歴史的背景の研究の結果は、文化的な観光のための特別なガイドブックを発行するための資料として使う。

 6.パチナン、パコジャン、カンポン・ムラユ、カンポン・アラブといった外国人居留地、さらには旧市街の形態学的な構造の重要な要素となっている歴史的な場所の地名学的研究が、保護、保存、観光アトラクションのために、考慮されるべきである。関係するカンポンや郊外に現存する歴史的文化的意義を持つ建築は保護、保存されるべきである。古い市場を含んだ各郊外を、短い情報を載せた掲示板を置くことで、特定するのは簡単なことである。

 7.活動の中心として過去に作られた歴史的な場所の一つ、例えば今日のジョハール市場にある小さな広場(アルン・アルン)などに、観光情報センターが建てられるなら、観光開発の目的では興味深いことである。観光客の興味を引くような視聴覚設備を備えることを提案する。この建物の中で、観光客は、町を観光する前に、町の歴史的発展についての正しい知識を得ることができるのである。また、少なくとも歴史上の町の模型を置くことができる。

 8.旅行者のアトラクションとして、古い都市や、その歴史的建造物や歴史的景観を活気づけることは、容易なことではない。それ故、ガイドの役割はたいへん重要である。その役割とは、都市の文化的かつ歴史的背景に基づいた知識を、改良し、促進することである。

 9.これまで述べてきた項目に付け加えて、ジョハール市場の近くのプ ムダ通にあるディブヤ・プリ・ホテル(昔の名前はパリロン・ホテル)のようないくつかの古いホテルが、旅行者を楽しませて、そこに滞在させることができるようなものに修復されなければならない。もう一つ、チャンディ・バル・ホテルも、また、観光事業のために保存し、促進されなければならないだろう。そのほかのおもしろい建物としては、プムダ通りにあるオエン商店があるが、それは、特にヨーロッパの旅行者のために、古い店やレストランでヨーロッパスタイルのランチやディナーを楽しめるように保存されなければならないだろう。

 10.さらに我々は次のような提案を行なう。すなわち、伝統的な演劇や他のアート・パフォーマンスのようなソフト面でのアトラクションを含め、他のハード面でのアトラクションを促進すべきである。スマランを文化的な観光旅行の中核として位置づけるならば、イスーラムの文化的価値を継承するデマックやクドゥス、ジュパラにも、歴史的な場所の観光のために行けるようにするのが望ましい。

 11.文化教育や、文化的観光事業の発展のために、スマランの旧市街おける、文化遺産としての歴史的建造物の保護、保存、修復、促進が完遂されるように、協力団体や文化遺産委員会が発足されるべきである。そして、そのメンバーには、地方の政治権力者や、社会の代表者が含まれていなければならない。(抄訳 筈井孝一)








ハーマン・トーマス・カールステン

                               

堀 喜幸

 

 ハーマン・トーマス・カールステンは、    年オランダに生まれる。デルフト工科大学で建築工学を学び、    年に卒業する。初めてインドネシアに渡ったのは    年である。インドネシアでのカールステンは建築家であり、都市計画家であった。建築家としての出発は    年のニルマイ保険会社ビル(現スラヤ生命保険会社)である。ポントのテガルの事務所ビルと同様に、その設計はインドネシアの気候に対応するものであり、その当時としては珍しいものであった。    年になると、ソロにあるマンクヌガランのプンドポ拡張工事の建築家に選出される(~    )。この時の仕事を見ると、彼のインドネシアの土着の建築に対する理解が生まれていることが伺える。事実、彼は、伝統的な建築様式が出来るだけ踏襲されるべきであるとに主張して、拡張工事の一環として建てられた食堂(小プンドポ)の設計において、それを実践している。この食堂は、周囲に庇を持ち、八角形の平面を持つ。層状の屋根は三段に重なり、機能的に換気を促進させるとともに、全体の印象を伝統的なものにしている。軸組構造が採用されたことと、三段の屋根によって高い屋根裏空間が獲得されたことは、伝統的な内部空間の形成に大きく貢献した。そして同じ敷地内の優れたジャワ建築であるプンドポ・アグンの内部空間と調和している。

 これ以降も、伝統的な形態が目立っている。    年から    年にかけて建設されたソボカルティ劇場は、舞踏劇のための理想的な建築であった。その屋根形態は食堂と同じく層状三段の伝統的なものである。    年には、ジャワ島の歴史都市であるジョグジャカルタのアルン・アルン(広場)にある古い家の改築を行っている。現在この建物はソノブドヨ博物館として知られるが、この建築も非常に伝統的な形態をしている。カールステンは、その竣工式のスピーチの中で、博物館においては、博物館の構成が展示品の文化を反映していることが重要であるという。そのためにカールステンは、エントランスとパフォーマンスの空間を作り出すために母屋の前面にプンドポを建てたのである。この建築においては、伝統的形態の使用が単なる形態の模写というだけではなく、空間的にも象徴的意味においても成功している。

 カールステンは新しい建築の展開として、伝統的な建築技術を、新しい物質と新しい建築型に適用させようとした。    年に建てられたソロ駅では、駅といった現代的な建築型と伝統的な形態を結びつけるために材料に鉄を使用している。同様の試みが、    年のソロの中央市場や、    年から    年にかけて建てられたスマランの闘牛場に見られる。こうした建築、特にソロ駅には、確かに伝統的な屋根形態が認められるが、すでにそこには伝統への回帰は感じられない。むしろ、現代の要求に対して、積極的にデザイン追求した結果に獲得された形態である。その意味において、これからのインドネシア独自の建築を模索する過程の中で非常に意味ある作品となっている。

 こうしてインドネシア建築の理念として、カールステンは、土地の文化に根ざした建築のみが、発展するその社会の要求に答えられるとした。また、その建築の設計者も、土着の建築家であってこそ初めて、発展は健全になると考えていた。さらに、自身を含めた西洋建築家の立場についても、西洋人による発展は臨時的なものにすぎないとしていたのである。

 カールステンの都市計画家としての活動は、建築設計と平行して行われた。むしろ都市計画やハウジングのほうが、理論を具体的に表現する機会が多かったほどである。  年代、  年代には、スマランやマランをはじめとして、インドネシア各地で都市計画のアドバイザーとして活躍した。特にスマランは、カールステンにとって最も重要な実践的経験の場となった。カンポンにおける生活環境の改善を問題としていた議会が、丘地(海抜  メートル)である南部(現チャンディ地区)への拡張計画を、    年にカールステンへ依頼した。アドバイザーであるカールステンの影響は    年の都市拡張計画によく現れている。特に居住地の分割は、これまでの民族によるものから、経済階級に従うように変化した。その結果、高い場所は裕福なヨーロッパ人や中国人の住居で占められ、低地に政府によってカンポンが計画された。道路は比較的幅が広く平坦な主要道路と、狭い二次的な道路に明確に分けられ、さらにそうした道路、広場、建物の配置は自然の等高線に沿うように意図されている。

 スマランの経験から、インドネシアでの都市計画理念が確立された。都市計画は三つのプラン(詳細、都市景観、全体)で構成され、三つの有機的な調和が望まれる。カールステンは全体プランに関する限り、合理的な計画を主張している。そしてそれは主幹道路、鉄道、建築区域等に表れることになる。内容に関しては、スマランでみられた経済階級分割、広い低層建築、植栽、地域内交通の制限などに加え、建築規則も挙げられる。こうした要素は、都市景観に貢献するものであり、計画家の義務として都市に「性格」を持たせることを主張しているのである。

 こうした建築と都市計画の仕事を見ていくと、カールステンの中に、全体と部分の両方の視点が見えてくる。しかし、全体から部分、部分から全体への移動はそう関係はないように思われる。各段階にはそれに見合った計画理念が独自に存在するようである。言い換えれば、理想主義と現実主義をうまく使い分けているのである。それは建築家と都市計画家という町の計画における全体と部分の仕事を実際に経験してきたことにも深く関係するであろう。こうした結果として、建築、都市計画両面において成功をおさめていることは評価していい。今、オランダのデルフト大やジョグジャカルタのガジャ・マダ大学でカールステンのマスター・プランが研究されている。インドネシアの人々によってカールステンの遺産が継承されつつあるのは、カールステンの願いであり、歓迎すべきことである。