『都市美』第3号 国家と住宅 空間への権利
カンポンとルスン―都市村落の成立根拠ー
布野修司
カンポンkampungとは,マレー(マレーシア・インドネシア)語で,「ムラ(村)」を意味する。カンポンガンkampunganと言えば,イナカモン(田舎者)というニュアンスである。行政村はデサdesaといい-マレーシアでは行政村もカンポン-,カンポンは専ら都市の住宅地のことをいう。英語のアーバン・ヴィレッジurban village(都市村落)がぴったりくる。ルスンrusunとは,ルーマー・ススンrumah susunの略語で,ルーマーは「住まい」、ススンは「積み重なる」,直訳すれば「積層住宅」,要するに集合住宅のことである。
アーバン・ヴィレッジという居住地の存在はインドネシアに限らない。フィリピンではバロン・バロンbarong barong[i],南米ではバリオbarrios[ii]あるいはファヴェーラfavela[iii],北アフリカではビドンヴィルbidonvilles[iv],トルコではゲジェコンドゥgedzekondu[v],インドではバスティーbustee[vi]など各国それぞれに呼ばれる[vii]。中国では「城中村」である。
20世紀後半以降,爆発的な人口増加によって,世界中の発展途上国の大都市に大量に出現したのがアーバン・ヴィレッジである。19世紀初頭に約10億人であった世界人口は,1900年には16億人,1950年には25億人,1975年には40億人に達した。そして2000年には60億人を超え,今や80億人に達しようとしている。農村部から大量に流入してきた人々は,ありとあらゆる場所-公有地や宗教施設,所有のはっきりしない河川敷,鉄道沿線,運河や小川沿いなど-を占拠して棲みついた。スクォッターsquatter・スラムslum(あるいはセトゥルメントsettlement)と呼ばれる。スクォットとはしゃがみ込むことであるが,日本語には不法占拠者と訳される。イリガール(不法)であれなんであれ,都市への大量な移住を強いる,過大都市化,工業化なき都市化による大きな社会変動がグローバルに引き起こされてきたのである。高密度で、不衛生で、生存のためにぎりぎりの条件にあるアーバン・ヴィレッジの出現に対応するために、第1回国際連合人間居住会議(UrbanⅠ)がバンクーバーで開かれ,UNハビタットUN-Habitat(国際連合人間居住計画)の設立が決定されたのは1976年である(正式発足は1978年)。住居は基本的人権であり,それを実現するのは政府の責任であるというのがバンクーバー宣言[viii]であった。
本稿では, インドネシアのカンポンに焦点を当てて,この半世紀に及ぶ「人間居住」のグローバル歴史を振りかえってみたい。カンポンは決してスコッター・スラムではない。急激な都市化の流れの中でも,ジャワの村落共同体デサの伝統を引き継ぐかのように,相互扶助活動を支える共同体(コミュニティ)組織を維持してきたのがカンポンである。そして,カンポンという言葉が英語のコンパウンドcompoundの語源であるという有力な説がある[ix]。住居の集合体を意味する英語には,ホームステッドhomestead,そしてセトゥルメント, さらにコンパウンドなどがある[x]。コンパウンドには2つの意味があるが,第1義は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合のcomposite,複雑な,複式の」,第2義は,「囲われた場所」で,強制収容所もコンパウンドである。すなわち,カンポンについて考えることは,世界中のコンパウンドについて考えることでもある[xi]。
バラックの海
アジアの街を初めて歩いたのは1979年1月である。ジャカルタのホテルに着いて荷も解かずにいきなりコタ(旧バタヴィア中心)のグロドック地区を歩き回って,活気に満ちた生活感溢れる光景になんとも言えない感動を覚えた[xii]。当時,マニラにしても,バンコクにしても,俯瞰すればバラックの海のようであった。ジャカルタの赤瓦の家並みは緑に映えて,工業製品でホワイトノイズ(白色騒音)化した東京に比べると実に美しかった。このどこまでも広がる赤い海の家並みの下にあるのがカンポンの世界であった[xiii]。
カンポンの活気ある生活風景に触れて想起したのは,日本の戦後まもなくの大都市の光景である。戦後生まれなので実際は知る由もないが,木村伊兵衛や原弘らの『東京・1954年秋 Tokyo Fall of 1945』(文化社,1946),その写真記録集に文章を添えた中島健蔵の回想録などが頭に浮かんだのである。『戦後建築論ノート』(1981)のために,戦後まもなくの資料を集めていたのである。
「アジアの諸都市を覆っているスクォッターたちの小屋の海は,戦後まもなくの日本の諸都市の状況を映しているといえるのではないか。…戦後まもなくのバラックや壕舎は生存のためのぎりぎりの条件のもとで選び取られた表現であったといいうるだろう。それは,建てることと生きることがまったく同一であり得た位相を想起させるが故に,スクォッターたちの小屋とともに,われわれを魅きつける。」(第二章 呪縛の構図-戦後建築の零地点一廃墟の光芒『戦後建築論ノート』)
しかし、日本の戦後まもなくの創意工夫の多様な住宅[xiv]は,あくまで仮の住まいであった。日本の戦後住宅のモデルとなったのは,51Cという公営住宅の1951年のC型(12坪≒40㎡)という住宅形式である。51Cは2DKといわれ,ダイニング・キッチンDKを一般化することになるが,日本では,北海道から沖縄まで,2DK とその拡大型nLDKという画一的な住戸形式で覆われることになる。ルーマー・カンポンは,果たして日本と同じような道を辿るのか,,51Cを提案した研究室を出自とする筆者には必然の問いであった。そして,別の解答がある!というのが直観である。以降,インドネシアに毎年のように通うことになった。
共生の原理-アーバン・インヴォリューション
カンポンはスラムではない,最初のインドネシア調査(1979)で出会ったJ.シラス[xv]は,口を酸っぱくして言った。インドネシア第2の東ジャワの州都スラバヤに毎年のように通うことになったのはJ.シラスに出会ったことが決定的であった。彼は,その後,「人間居住」問題に取り組むインドネシアを代表する建築家として国際的に知られる存在になる。
スラムはスランバーslumber(まどろむ)に由来するが,先進諸国の大都市が産業革命に伴う都市化によってその内部に抱え込んだスラムと産業基盤を持たないままに過大都市化し都市を覆いつくすアーバン・ヴィレッジとは異なる。スラムがしばしば家族解体や犯罪などの社会病理現象を生むのに対して,アーバン・ヴィレッジの共同体組織はむしろ強固で,それぞれの地域の伝統に根ざして多様である。それ故,カンポン,バロン・バロン,ファヴェーラなど固有の名前で呼ぶのである。スラバヤのカリ(運河)沿いのスクォッターたちを詳細に調べたが(図①a),同じ農村から移住してきた人々が一定の地区に集住し,緊密なコミュニティを形成するのがむしろ一般的である。
カンポンという居住形態の特性についてまとめると[xvi],①多様性,②複合性,③全体性―生産と消費の結合,④高度サービス社会 屋台文化,⑤自立性 相互扶助システム,⑥固有性 伝統文化の保持,⑦権利関係の重層性をあげることができる。そして,カンポンの①~⑦の特性を支える基本原理を一言でいえば,インヴォリューションの原理である。C.ギアツのインヴォリューション・テーゼについては他に譲るが[xvii],外に向かって拡大進化(エヴォリューション)するのではなくて,限られた枠の中で内に向かって進化するのがインヴォリューション(内向進化)である。C.ギアツは,貧困の共有Shared Povertyというが,資源,エネルギー,地球環境の共有と言えばいい。カンポンにおいて,物売り,屋台によるサービスのシステムが成立したのは,雇用機会が極めて少ないからである。屋台文化は,仕事を細分化して分かち合う,まさにワークシェアリングの原理によって支えられているのである。
KIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)
インドネシアでは,日本占領(1942)以降,独立戦争(1945~1949),そして9.30事件(1965)を経てスカルノが失脚,スハルトが第2代大統領に就任して(1968)「新秩序」を確立するまで,都市基盤整備,都市計画,住宅供給など,住民の居住環境に関わる政策はほとんど行われなかった。スラバヤの人口は,20世紀の初頭約15万人,1920年19万2000人,1930年34万2000人,独立後,1961年140万8000人,1971年130万9000人,1980年173万7000人とされる。戦前のスラバヤは,目抜き通りを市電が走るトロピカル・オランダと呼ばれるモダンな街並みを誇ったが,1960年代末には,人口30万人のインフラストラクチャーのままに150万人にも膨張したのである。
カンポン住民が自主的に道路の舗装や下水道を整備するカンポン改善活動への支援として,寄付金をもとにコンクリート・ブロックやコンクリート板を供給するプロジェクトをスラバヤ市が開始したのは1968年である。国歌インドネシア・ラヤを作曲したスラバヤ出身の音楽家に因んでW.R.スプラットマンSupratmanKIPと呼ばれる。KIPは,①歩車道の舗装と緑化,②下水道(排水溝)の設置,③水道の設置,④MCK(公共浴場Mandi・洗い場Cuci・トイレKakus),⑤ゴミ箱と廃棄物収集場の設置を主な内容とし,住宅の供給は含まれない。歩道と側溝の間に細長い土の部分を残し,そこに樹木を植えるのはPKK(婦人会,図②a)に委ねられた。水道は各戸に引かれるのではなく,水道栓が一定の間隔で設けられるだけである。立ち退きやハウスカットが必要な場合も補償はゼロ,代替地の手当てはカンポンの調整に委ねられた。住宅建設,増改築,改修は自力である。
スラバヤ,ジャカルタという自治体ベースで開始されたKIPは,国家的政策に引き上げられる。そして,国連など国際機関の関心を集め,世界銀行の融資が開始されるのは1974年である。まずジャカルタ(74~76年),76年からはスラバヤにおいても行われた(77~79年)。また,1980年からは(80~83年),メダン,バンドン,スマランを加えて5都市において行われた。筆者が、インドネシアを最初に訪れたのは,まさにこうした時代であった。KIPは1980年代を通じて行われ,各都市の市街地全域をほぼカヴァーすることになる(図③)
KIPが重要政策となったのは,他の施策に比してはるかに有効だったからである。最小限の手当であるKIPを住民たちが主体的に担い,ハウスカット(壁面後退)や移転に応じてきたのは,自らの環境の改善のために当然として, 住み続ける権利が法的に認められることに繋がったからである。加えて,改善活動への参加が一定の収入にもなった。KIPは,都市貧困層の生活要求に対する最も成功したアプローチの例として国際的に評価される。KIPを主導したJ.シラスは,スラバヤ市とともにイスラーム圏の建築活動を検証するアガ・カーン賞[xviii],UNハビタット(人間居住計画UN-Habitat)賞,日本の国際居住年IYSH賞など数々の賞を受賞することになった。直接的な住宅供給には莫大な資金が必要となるが,世銀にしてみれば,「安上がり」の援助であった。
建設の自由(Freedom
to Build)ーコア・ハウジング
公共機関による直接的な住宅供給が行われなかったわけではない。東南アジア諸国では,当初同様に,西欧諸国に倣った公共住宅建設が試みられた。インドネシアでも1952年に人民住宅局Jawatan Perumahan Rakyatと開発金融財団(YKP)が設立されている。しかし,低価格(ローコスト)で,低所得者(ローインカム)向けの住宅供給は困難であった。圧倒的な量が必要であり、財源を割けないのである。公務員など一部の層のための住宅供給にとどまらざるを得なかった。そして,提案された住居形式が伝統的な生活様式と合わなかったことが問題であった。積み重なって住む経験は、それ以前にはほとんどなかった。スラバヤでも日本の集合住宅をモデルとしたという公営住宅が建設されたのであるが,上の階から水を外にぶちまけるなどうまく維持されず,20年経たないうちに建替えられてしまった(図④)。
一方、インフォーマル・グループによって広範に展開されたのが自力建設(セルフ・ビルドあるいはセルフ・ヘルプ・ハウジング)のプロジェクトである。東南アジアでは,マニラの「フリーダム・トゥー・ビルド」とバンコクの「ビルディング・トゥゲザー」が知られる。前者は,建設資材を市場価格以下で販売し,建設はそれこそ自由に居住者が自力あるいは相互扶助によって行う,後者は,コンクリート・ブロックを主要な構造材とする連棟のテラスハウスで,居住者は建設作業に参加することで分譲価格が安くなるというシステムである(図⑤ab)。こうしたセルヘルプ(あるいはミューチュアル・エイド)・ハウジングの理論的主導者となったのは,『建設の自由Freedom to Build』(1973)『人民によるハウジングHousing by People』(1977)を書いたJ.F.C.ターナーである。
J.F.C.ターナーのセルフヘルプ論については,住まいへの権利を住民自身の自助努力に押しつける二重の搾取であるといった議論が展開されたのであるが,公的な施策としてグローバルな採用されたのが,上下水道,電気など最小限のインフラ整備をした土地と一室程度のコアハウスを供給するサイツ・アンド・サーヴィス(宅地分譲)あるいはコア・ハウジングと呼ばれるプロジェクトである。一室あるいは骨組みだけを公的に供給し,内装,増改築などは住人に委ねる手法である。世界中で様々な形態のコアハウスが提案されたが,C.アレグザンダーの『パターン・ランゲージ』の共著者であるS.エンジェルがアジア工科大学にいた時に実施したプロジェクトは,短冊状に区分した敷地にコアハウスを建設するもので,スラバヤでJ.シラスたちが提案したのも同様のパターンである(図⑥)。
カンポン・ススン&スラバヤ・エコハウス
YKPを引き継ぐかたちでプルムナスPerumunas(国立住宅開発公団)が設立されたのは1974年である。1970年代から1980年代にかけて,KIPを実施するのに精一杯の状況の中で,公的住宅の供給は限定的であった。しかし,1980年代後半になると,KIPを実施したカンポンの居住環境が再悪化しつつあることが問題となる。スラバヤで最初の臨地調査を行ったのはこのカンポンの再劣化が危惧され,次の段階の指針が求められる時期であった。カンポン・ハウジング・システムとして,基本的にはKIPを支えた,①総合的アプローチ,②主体としてのコミュニティ,③参加,④段階的アプローチ,⑤スモール・スケール・プロジェクト,⑥自力建設・相互扶助によるハウジング,⑦地域の生態系に基づくハウジング・システム,⑨プロセスとしてのハウジング,⑩多様性の許容といった基本理念を確認した上で,都市住居の新たな形式としてルスン・モデルを提案することになる。その理念を一言で言えば,カンポンの立体化(積層化)、カスンKasun(カンポン・ススン)である。
J.シラス率いるスラバヤ工科大学が設計計画し,建設されたのがルスン・ドゥパDupak(1989),ルスン・ソンボSombo(1990)(図⑦),ルスン・プンジャリンガンPenjaringan(1991)の3つのルスンである。従前のカンポン居住者が入居するのが前提で、中廊下を広くコモンリビングとし,ダプールdapur(台所)とカマル・マンディkamar mandi(バス・トイレ)を集中させるプランは共通である。各階に礼拝室が設けられ,コモンリビングは作業場にもなり,集会スペースにもなる。外部から自由に出入りができ,上層階にも店(toko, warun)が開かれる。このコモンリビング形式のカスン・モデルは,西ジャワのタンゲランでも1カ所建設され,ジャカルタでも市営住宅のモデルとして採用されることになった。
そして,このカスン・モデルを前提とする次の段階のモデルとしてスラバヤ・エコハウス(図⑧)と呼ぶ環境共生住宅を建設する機会を得た。①クロス・ヴェンチレーションを考えた平面,煙突効果を利用した断面などポーラスな空間構成,②大屋根,ダブルルーフ,ココナッツの繊維を利用した断熱材などによる断熱・遮熱。廃熱,③ソーラーセル直結のポンプによる井水循環をもとにした輻射床冷房,④スケルトン・インフィル分離の躯体システムといった技術をもとにした実験住宅である。このコモンリビングによるカスン・モデル,そしてスラバヤ・エコハウスは,日本の51Cモデルに対するもうひとつの解答である。
カンポンの自治―RT & RW
カンポンのコミュニティ組織は,ルクン・タタンガrukun tetangga(エル・テーRT:隣組)そしてその集合ルクン・ワルガrukun warga(エル・ウェーRW:町内会)からなる。ルクンとは,調和,和合を意味し,ウルマットurmat(敬意)とともに,ジャワにおける家族のあり方,その生活様式を規定する,ジャワの社会組織を統合し,維持する重要な価値概念である[xix]。タタンガは隣人,ワルガは住民である。
RT/RWが日本軍によって持ち込まれたこと,そして,日本では,太平洋戦争敗戦後,GHQによって解体された隣組・町内会システムが,インドネシアでは戦後も機能し続け,開発独裁を支える巨大な「集票マシーン」と化したことについては,「ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会―」『都市美』(第2号)で触れたが,RT/RWが当初のまま住民組織として存続してきたわけではない。「隣保制度組織要綱」(1944年1月)が導入したのは,隣組tonarigumi(RT)と字aza(カンポン)である。すなわち,隣組からなるカンポン(字)を,字長と隣組長をもって構成される字常会aza joukaiによって統治するというのが構想であった。そして,独立後,字はルクン・カンポンRK(エル・カー)と呼ばれるようになる。
しかし,RT/RKは,統治機関として位置づけられたわけではない。政府の援助と保護を受け,政府を補助して,税の徴収,住民登録,転出入確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サービスなどの役割を担うのみで,身近な居住環境に関わることはカンポンの自治に委ねられてきた。カンポン共同体の伝統が日本統治期末期の1年に満たない経験のみに由来するわけではない。オランダ統治期にもカンポンの自治は基本的に認められてきたのである。オランダの村落(ドルプdorp)についての自治体法をもとにした原住民自治体条例Inlandsche Gemeente
Ordonantie[xx](1906年)によって,デサが原住民自治体を意味する公用語となるが[xxi],自治体すなわちヘメーンテgemeente(ヘメーンシェプgemeenschep)は,ドイツ語ではゲマインデGemeinde(ゲマインシャフトGemeinshaft),すなわち,共同体である。デサの共同体的性格は,植民地支配によってむしろ強化されたと考えられる。大塚久雄の『共同体の基礎理論』は,全世界的な規模における単一の構成として現れる資本主義社会に対して,一つ一つの「共同体」がそれぞれ多かれ少なかれ独立した「局所的小宇宙」をなし,そうしたあまたの小宇宙の連結体として構成される世界を想定したのであるが,「局所的小宇宙le
microcosme localisé」の例として,「ジャワの「デッサ」や旧ロシアの「ミール」が「共同体」と同時に「世界」を意味したことを思え」と,1ヵ所「デサ」に触れている[xxii]。
1960年にRT/RWに関する地方行政法が施行されたが,この段階でも,RT/RKは,基本的に政府や政党からは独立した住民組織として認められてきた。RT/RKを国家の行政機構に組み込む動きが具体化し始めるのは,9.30事件(ゲシュタプGestapu)以降であり,RT/RKは次第に独立性を失っていくことになる。画期となるのは1979年の村落自治体法の制定で,そこで導入されたのがRWという新たな近隣単位であった。そして,1983年になって,インドネシア全域に対して,RT/RWに対する新たな規定が内務大臣決定(「規定」7号)が行われる。RT/RWは,国家の末端組織として組み込まれるのである。そして,この1983年以降,カンポンの居住環境についての施策展開はない。90年代におけるスラバヤの実験は,必ずしも,全国的な居住政策として取り上げられることはないのである。
グリーン・アンド・グリーン(Hijau
dan Bersih=Green and Clean)KIP
そうした中で、スラバヤ市が,自治体としてカンポンの改善に再び本格的に取り組むのは,1998年のスハルト退陣後である。J.シラスのリーダーシップが大きいが,総合的Comprehensive KIPをうたい,物理的環境の改善のみならず,職業訓練や協業組合による経済環境の整備,図書館やパソコン教室の設置など教育環境の改善も含めた施策を,自主財源を投じて展開するのである。そして,その施策はグリーン・アンド・クリーン(Hijau dan Bersih)KIPと呼ぶエコ・カンポン運動に結びついていく。リスマ市長の下で全カンポンで追及されているグリーン・アンド・クリーン KIPは,a:都市農園(アーバン・ファーミング), b:コンポスト,c: 水浄化システム,d:リサイクル,などを主要な内容としている(図⑨)。
2002年以降,スラバヤでは,バンバン・デウィ・ハルトノBambang Dwi Hartono(2002~10),トゥリ・リスマハリーニTri Rismaharini(2010~2015,2016~2021)と闘争民主党DPIの市長が市政を担ってきた。とりわけ,リスマ市長は,2010年9月に就任すると,1.スマートシティライフの構築,2.人道的都市の表現,3.地域密着型経済の実現,4.環境に優しい活気のある都市をヴィジョンとして,積極的な施策を展開する。リスマ市長は,スラバヤ工科大学ITSの建築学科出身で,言わばJ.シラスの弟子である。
興味深いのは,31すべてのクチャマタン[xxiii]でさまざまなセミナーを実施し,取り組みに意欲的な市民を環境ファシリテーターとして各カンポンに配置し,プログラムの一環として,環境改善コンテストを開催するなど,カンポンの自主的な取り組みを推進してきたことである(図⑩)。市政改革や公園整備に力を入れ,東南アジア最大級とされるプロスティチュート・エリアとされるカンポン・ドリイDollyの閉鎖を宣言するなど,その辣腕ぶりに,市議会の反発を受けるなど必ずしも順風満帆ではなかったが,『フォーチュン』誌(2015年3月)が,「世界の最も偉大な指導者50人」を挙げる中で,「直面している問題について正直に語り,市民を鼓舞する市長」としてリスマ市長を24位に選んだ。
自立するカンポン
アーバン・ファーミング(都市農園)は,まさにアーバン・ヴィレッジ(都市村落)の起源を想い起させるが,スラバヤのカンポンは実に多彩な活動を展開しつつある。環境改善,資源の再利用,緑化とともに,カンポンの主要な課題は経済環境の改善である。リスマ市長の基本政策の第3は地域密着型経済の実現である。
『スラバヤーコスモスとしてのカンポン-』(布野修司(2021))では最後に「カンポン曼荼羅」(Space Formation Ⅳ)として18の取り組みを紹介しているが,その中に,超高層ビルも建つスラバヤの中心部に「カンポン・ラワスLawas(古村)運動」を開始したカンポンがある。伝統的な子供の遊び,伝統的な料理,かつてのカンポンの生活を体験する様々なプログラムはツーリストをターゲットにすることによってカンポンの収入を得るのも狙いにある。リスマ市長がプロスティチュート・エリアの閉鎖を宣言したカンポン・ドリイは,その後,意外な展開をみせている。地区の再開発とともに職業訓練が行われ,靴,バティック(ロウケツ染め),食料品,工芸品などの製造を開始,地区名を変えることを提案する市長に対して,住民たちは製造元にドリイの名を明記することを選択,軌道に乗りつつあるのである。
各カンポンが競うのは,小規模企業の協業による独自の特産品の製造である。BUM(Bina Usaha
Mandiri独立開発事業)として融資が行われるが,中には,ロントンlontong(バナナの葉で包んだ米菓子),テンペtempe(大豆菓子)で大成功し,国内外から多くの視察団が訪れるカンポンがある。海に接する東部と北部には漁村や養魚地があり,東南部にはマングローブ林がある。植樹によってマングローブ林を保護しながら,食物,飲物,バティック製造などに利用する一方,エコ・ツーリズムの展開も計られている。また,西部には農業を営むそれこそカンポンがあるが,ディベロッパーが農地を提供,繁忙期の農作業には都心住民の労働力を利用する仕組みが作られたりしている。
後退するUNハビタット(UrbanⅢ)
スラバヤのカンポンは,依然として,都市共同体のひとつの生き生きしたあり方を示しているように思える。カンポンの多彩な相互扶助活動は,独裁的,専制的,一元的な管理システムには回収されないヴェクトルを示している。山本理顕の地域コミュニティ権確立の主張そしてLocal Republic Awardの創設も,リスマ市長のカンポン・コンクールに通底する試みである。それぞれのカンポンの自主的な取り組みを促し,地区や地域さらに国家を超えたネットワークに接合するその方向性を示そうとしたのが,2016年の第3回国際連合人間居住会議UrbanⅢ(キト(エクアドル),10月17~20日)の準備会合のスラバヤ開催であった。
しかし,世界資本主義の欲望には底知れぬものがある。
20016年夏、久々のスラバヤ調査を計画したところ,UrbanⅢの準備会合にインドネシア代表の顧問として参加するJ.シラスから,来るなら合わせて来い,と声をかけられた。リスマ市長の下でカンポンの多彩な活動が行われていることを知ったのはこの準備会合で企画されたエクスカーションに参加したからである。リスマ市長のリーダーシップは絶大で,スラバヤ市庁舎前でのオープニング・パーティは3000人規模の盛大なものであった。いくつかのセッションにオブザーバー参加して,否応なくUNハビタットの40年を振り返った。
バンクーバーでの第1回会議の後,UNハビタットは,20年毎に人間居住のあり方への指針を決議してきた。第2回UrbanⅡの「イスタンブール宣言」(1996)は,「都市は,人々が,尊厳をともなった生活,健康,安全,幸福と希望を満たすための場所であるべきである」と「都市への権利」を確認したうえで,10億人を超える絶対的貧困生活者,社会的弱者層,不遇者と位置づけられた人々に公約する、とはっきり書いた。ジェンダーの平等も既にうたっており,人々の多様性を維持すべきとし、「先進工業国における非持続可能な消費と生産のパターン,構造と分配を含めた非持続可能な人口の変化,爆発的な人口集中への傾向に対して優先的な配慮,人々のホームレス化,貧困の増大,失業者問題,社会的差別,家庭崩壊,不適切な資源の利用,基本的なインフラや社会サービスの欠如,適切な計画の欠如,危険や暴力の増加,環境の悪化,そして災害への抵抗力の低下といった一連の問題にわれわれは包括的に取り組まなければならない」と格調高い。そして,居住環境を改善するために,国家間,国家,そしてローカルレベルでのパートナーシップを再確認するともしていた。しかし,第3回UrbanⅢは,恐ろしく後退的であった。
キト宣言(ニュー・アーバン・アジェンダNUA)は,「NUAには「都市への権利」の文言が含まれているが,都市プロセスに対する人々による制御をめぐって議論されてきた概念で,様々な当事者の利益が対立する場合に,誰が勝つかについて明確な意味はありません」とわざわざ記すのである。そして,「NUAは,公的資金と民間資金の両方を求め」,「 公的資金は,都市化による経済的利益から得られる可能性があり」,「特に不動産と住宅のための民間資金」をNUAは奨励します,というのである。「人間居住」の問題を市場原理,投資機関に委ねるといわんばかりなのである。国連の持続可能な開発目標SDGsは,第1に貧困の撲滅をうたうけれど,人間居住については随分と心もとない。グローバルな資本主義の展開こそが格差社会を拡大し続ける根源である。限られた資源,エネルギー,自然をいかに共有するか,その原理が今地球規模で求められているにも拘らず,「貧困」を生み出す根源のメカニズムにその解消を委ねるというのであれば,UNハビタットの初心は死んだといわざるをえない。無数のアーバン・ヴィレッジの重層的ネットワークの成立根拠は、「都市への権利」そのものである。
参考文献
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[i] バロンという植物の繊維で織った布で作る民族衣装をいう。フィリピンで,一般的にコミュニティの基本単位は,南米同様,バリオbarrioである。また,タガログ語のバランガイbarangayが用いられる。
[ii] スペイン語のバリオbarrio(近隣)は、イベロアメリカ(ウルグアイ,アルゼンチン,キューバ,プエルトリコなど)で最小の行政単位として用いられる。その後,ブエノスアイレスのバリオ地区のような特別な低所得者居住地を意味するようになった。ただ,バリオ・セラドというと閉じたコミュニティ(ゲイティド・コミュニティ)を意味する。バリオ・デ・インヴァージョン(あるいはコムーナ) barrio de invasión or comuna は貧困地区をいう。 むしろ,アメリカ合衆国でバリオはスペイン人居住区をいい,スラム(barrio bajo)といったニュアンスをもつ。
[iii] ファヴェーラという名称は,ブラジル北東部サヴァンナ地域に生育する植物の名に由来する。19世紀末に反乱(カヌードス戦争)を鎮圧するために政府軍に参加し勝利した兵士が任務を解かれてリオデジャネイロに流入,郊外の土地を占拠し街を形成,モーロ・ダ・ファヴェーラMorro da Favelaと名付けたが,その後,自由黒人らが流入し,ファヴェーラは黒人を主としインディオ,メスティーソらも住む貧民街へと変わっていった。以降,ファヴェーラはスクオッター・セトゥルメントを意味するようになる。1940年代には住宅危機が起こり,都市部の貧民たちは郊外に無数のバラック街を築いた。また,1970年代に,ファヴェーラはリオデジャネイロ市の範囲を超えて都市圏の外縁部まで達した。
[iv] フランス語で,スラムの訳語貧民街。チュニジアで最初に使われたとされるが,アフリカでもさまざまな呼び方がある。ガボンではマパネMapaneまたはマティティmatiti,アンゴラでムセクMusseques,ケニアでキジジKijijiなど。
[v] トルコ語のgece(夜)とkonmak(尋ねる)を合わせた言葉で「一夜建て」の意味。バラック街をいう。
[v] フランス語で,スラムの訳語。貧民街。チュニジアで最初に使われたとされるが,アフリカでもさまざまな呼び方がある。ガボンではマパネMapaneまたはマティティmatiti,アンゴラでムセクMusseques,ケニアでキジジKijijiなど。
[vi] ヒンディ語で住居を意味する。
[vii] 過剰都市化による大量の「スラム」の発生は,
発展途上国共通の深刻な居住問題を生むが,その「スラム」は必ずしも西欧における「スラム」という概念で捉えられるわけではない。まず,現象的にその発生の規模において,すなわち,西欧の諸都市がその内部にそうした居住地区を囲い込んだのに対して,発展途上国の大都市では都市全体を覆うほどの規模であることにおいて異なっている。 そして「スラム」という概念においてしばしば指摘される家族解体や個人の疎外,近隣社会の崩壊などさまざまな病理現象が必ずしもみられないことも大きな特徴である。都市化の過程と構造が大きく異なるのである。
[viii] 一般原理として,1.人間の生活の質の向上は,すべての人間居住政策の最初で最も重要な目的である。この政策は,すべての人々の生活の質の迅速かつ継続的な改善を促進する必要がある。それは,食糧,避難所,きれいな水,雇用,健康,教育,訓練,人種,肌の色,性別,言語,宗教,イデオロギー,国家的または社会的起源に関する差別のない社会保障の基本的ニーズの充足から始まる。2.この目的を達成するために努力する際には,最も恵まれない人々のニーズを優先しなければなならない,など計19項目が列挙される。
[ix] 椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』26,2000年)は,サブタイトルが示唆するように,人類学者として「居住」に関する英語の語源を確認することを骨子としている。詳細は,「Space Formation Ⅰ デサ 4 カンポンとコンパウンド」(布野修司,2021)。
[x] 移動性の高い場合はキャンプcampが用いられる。他には,エンクロージャーenclosure,クラスターcluster,ハムレットhamlet,ヴィレッジvillageがある。
[xi] 本稿の基になっているのは,『カンポンの世界』(パルコ出版,1991)と『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生―コスモスとしてのカンポン―』(
京都大学学術出版会,2021)である。両書の間には30年の時間の流れがある。本稿は, 本号特集テーマに合わせて住宅に焦点を当てて,カンポン共同体をさらに大きな歴史的過程に位置づける試みである。
[xii] そもそものきっかけは,「東洋における居住問題の理論的実証的研究」(1978~1982年)という東洋大学の磯村英一学長主導の国際研究プロジェクトであった。
[xiii] ジャカルタの赤い風景-第三世界の都市と建築」『日本読書新聞』, 19790409.
[xiv] 廃車に切妻の屋根をかけたバス住宅,木材が足りないので柱を省いた三角ハウス,川崎の工場の鉄管や釜をありあわせの新聞紙や木片,布などで塞いだ鉄管住宅,天幕住宅。空罐で屋根を吹いたブリキ職人の住宅,広告板や町名表示板を貼った住宅,賃貸の移動トロッコ住宅などである。このトロッコ住宅のような床屋さんの移動住宅(図①b)をスラバヤで実際に見た(「床屋さんのモビールハウス」布野修司編(1991)『見知らぬ町の見知らぬ住まい』)。
[xv] Johan
Silas:1936年サマリンダ(カリマンタン)生まれ。バンドン工科大学卒業。1965年スラバヤ工科大学講師,1992年教授,現在,スラバヤ工科大学榮譽教授。著書論文Silas, J. (1982)など多数。
[xvi] この要約は,布野修司(1987)『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)の結論部のエッセンスである。
[xvii] Cascade I インヴォリューション(布野修司(2021))。
[xviii] アガ・カーン賞の受賞について,審査員であった日本の建築家・丹下健三が反対したことについては「ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会―」(『都市美』第2号)で触れた。
[xix] ウルマット(敬意)を表す行動を要求している場面にふさわしいとみなされる感情として,ウェディwedi(恐れ),イシンisin(恥じらい),スンカンsungkan(礼儀)という3つがある。ルクンは,集団の内部でその集団の目的と手段について,少なくとも外面的行動の上で調和の状態,一致の状態になっていることを示している。相互の援助や協力そのものを指すのではなく,意見や感情の違いがあからさまにあらわれていなければルクンの状態である(ヒルドレッド・ギアツ(1980))。
[xx] 原住民自治体条例は,ものである。
[xxi] カンポンとジャワにおける伝統的村落デサとの関係をめぐっては,「Space Formation Ⅰ デサ」(布野修司(2021)『スラバヤ』)を参照。
[xxii] 大塚久雄(1955)「第二章 共同体と土地占取の諸形態 二 共同体」『共同体の基礎理論』。
[xxiii] スラバヤのカンポンは,1362のRW,9096のRTからなるが,RW/RTを最小単位として構成される次の単位がクルラハンKelurahan(連合町内会)であり,このクルラハンが4~12集まってクチャマタンKecamatanとなる。スラバヤは31のクチャマタンからなるが,その人口は,最低が約4万5000人,最大は約23万4000人,平均8万8270人である(2018年)。大きく東西南北中の5つの区に分けられるが,区の人口は約37万8000~81万6000人である。スラバヤ市部の人口は320万人ほどであるが,周辺市を含めてグルバンクルタスシロGerbangkertasusila(Geresik, Bangkalan, Kertasana, Surabaya, Sidoarjo, Lamongan)と呼ばれるスラバヤ大都市圏は1500万人になる。誤解を恐れずに言えば,人口規模と構成は,およそ,東京都と同様とイメージしていい。








































