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2021年9月30日木曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 Ⅱ 裸の建築界・・・建築家という職能  第3章 幻の「建築家」像

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能


 第3章 幻の「建築家」像*1


 3-1 公取問題

  一九七九年九月十九日、公正取引委員会*(橋口収委員長)は、日本建築家協会*(海老原一郎*:会長 略称「家協会」)に対して「違法宣言審決」を下した。建築家すなわち建築士事務所の開設者は、独占禁止法*にいう事業者か否か、また建築事務所の開設者を構成員とする「家協会」は事業者団体か否か、をめぐって一九七六年三月一八日の第一会審判以来二三回にわたって争われてきた問題について、一つの結論が出たわけである。

 審決主文は、以下のようであった。

  「本件審判開始決定に係る被審人の行為は、独占禁止法第8条第1項第4号の規定に違反し、かつ、事業者団体の届出をしていなかった点は、同条第2項の規定に違反するものであるが、現在では、すでに被審人の右同条第1項第4号違反の行為はなくなっており、また、被審人は、同法第2条第2項に規定する事業者団体に該当しなくなっているものと認められるので、被審人に対し、格別の措置を命じない。」

  独占禁止法第8条*は、事業者団体の業務の独占を禁じている。

 要するに、審判開始時に違反とされた行為、協会独自の報酬規定*、建築設計競技規準*中の会員の参加制約および賞金、報酬規定、憲章中の報酬競争禁止等を自主的に廃止、排除することにおいて、現在は事業者団体に該当しなくなっており、「家協会」に対して格別の措置を命じない、というものである。

 この公取審決に対する「家協会」の対応を中心とした位置づけは、「公取審決ーー家協会は職能団体の筋を守れたのか」*2や「公取委の審決を受けて」*3などに窺える。

  「家協会としては、憲章や諸規定の改廃という大きな損失と犠牲を出したわけだが、とにかく職能の基本理念が認められた点に意義を認めようとしている。ところが、これを報道した一般紙は、主文の前段に視点をすえ、「建築家協会に独禁法違反の事実」「自由業といえどもカルテル行為があれば事業者と認定」といった記事を一斉に流したため、当の家協会会員をはじめ、建築界全体に大きなショックを与える結果となった。従って、ここ当分の間、日本建築家協会はその総力を挙げて、審決の全貌を正確に周知徹底させ、一般紙によって生じた同協会のイメージダウンの回復を図らなければならないようである。」*4というのが、比較的冷めた反応であった。

 この審決は、以下に見るように、歴史的には日本建築士会*(一九一四年設立)から日本建築家協会*に引き継がれた「建築家(職能)法」制定運動にとって三度目の敗北であった。そしてもしかすると、最終的な敗北となりうるものである。


 一九七〇年代における建築界の「公取問題」とは何か。まずその経緯をみよう。発端は、「八女市町村会館」の「疑似コンペ」*問題であった。また、東京都の「都営高層住宅滝野川団地」の「設計入札」*問題であった。

 コンペとはコンペティションcompetitionの略だ。建築物の設計者の選定に当たって複数の設計者で競技を行うことをいう。「公開コンペ」*、「指名コンペ」*、「条件付コンペ」*「プロポーザル・コンペ」*、「二段階コンペ」*、「ヒヤリング」、「アイディア・*コンペ」など各種方式があり、設計者を選定する方法として広く行われている。しかし、そのコンペ方式に様々な問題がある。特に問題視されてきたのが「疑似コンペ」*と「設計入札」*である。

 「疑似コンペ」とは、公共建築の設計者選定に当たって、実際は指名設計者が決まっているのに、公平性を装うために行われる指名コンペをいう。また、「設計入札」とは、設計料の入札(多寡)によって公共建築の設計者を選定する制度をいう。「疑似コンペ」は一種の「談合」*である。公平で公正な競争が損なわれるが故に一般的に問題であることは明らかだ。しかし、「設計入札」の問題は一般にはわかりにくい。

 「公のお金を使うのだから安い方がいい」というのがひとつの理屈である。いまなお「設計入札」を採用し続ける多くの自治体も、競争原理をその根拠にしている。具体的には、国の場合会計法二九条、市町村の場合自治法二三四条が元になっている。役所が物品を購入する場合には「競争入札」が原則ということである。しかし、サーヴィス行為についてはどうか。建築も建築物だけれど単に物品ということでいいのか。施工については「競争入札」でいいけれど、設計については入札はなじまないのではないか(●設計入札に反対する会)。「安かろう悪かろうでは困る」「公共建築は単なる経済の論理を超えた質を持つ必要がある」「設計の質と内容は設計料の入札によっては担保されない」のであって「あくまで設計図書によって設計案が選定されるべきである」というのが「建築家」の主張である。この裂け目は大きい。そして、「公取問題」はこの裂け目に関わって引き起こされたのであった。

  日本建築家協会は、上記二つの問題に関連して会員を処分することになる。「家協会」に属する「建築家」は、「疑似コンペ」「設計入札」に指名されたら通告することが六九年一二月から義務づけられていた。きっかけになったのが「銚子市青少年文化センター」のコンペだ(一九六九年)。当時の日本家協会会長(松田軍平*)は「疑似コンペ」の疑いからコンペの条件について改善の要望書を銚子市長に提出する。そして、指名を受けた会員九名は、コンペの条件が改善されない限り、設計図書を提出しない、という申し合わせを行う。にも関わらず、九名中二名が応募する事態が起こった。その二名を除名するとともに、つくられたのが上の「通告制」である。興味深いことに、この「通告制」が後に独占禁止法に抵触することになる。

  「疑似コンペ」にしろ、「設計入札」にしろ、簡単にはなくならない。今日にいたる建築界の大問題だ。それを支える根深い構造が日本の建築界にある。「銚子市青少年文化センター」に続いて、「八女市町村会館」の「疑似コンペ」問題が起こった(一九七〇~七五年)。経緯はほぼ同じである。「八女市町村会館」の設計に当たって一三社が指名を受けるが、設計競技の条件を不満として、条件が改善されない場合には全員応募しない旨申し合わせがなされる。しかし、その申し合わせに反して四社(会員一社、非会員三社)が応募したため、家協会は会員一社を戒告処分とする。そして、この処分を受けた会員がそれを不服として損害賠償請求訴訟を起こすに至って事は起こる。結局はこの裁判が「公取問題」に火をつけることになるのだ。「八女市町村会館」問題に関わる会員の処分に対して、また平行して起こった「都営高層住宅滝野川団地」の「設計入札」問題に絡む処分について、公正取引委員会から突然報告を求められる(一九七二年三月七日)。

 この二つの問題は一九七五年三月一五日参議院予算委員会において取り上げられることになった。藤田進参議院議員と高橋俊英公正取引委員会委員長のやりとりは日本建築家協会の「理念」と一般の「建築士」に対する見方の落差を示してわかりやすい。


 「建築士協会(建築家協会の誤り)は、その定款を見ましても、きわめてきつい会員統制をしております。・・・今日の建築士協会はそれぞれ営業を主体とする株式会社、従業員は千名に上るもの等々含めて、明らかに事業者団体の連合体になっている。・・・都営高層住宅滝野川団地設計入札ですが、談合して、七社に指名があったわけですが、○○事務所が談合の結果受け取ることになった。従って、第一回入札以来これを最低として逐次自余の六社は入札しておりましたが、第三回目、最後になって最低の談合の価格を忘れましてこれは●●事務所ですね、忘れたために適当にこの辺だろうと思って入札したところ、・・・本番と同じ価格になってしまった。そこで東京都は抽選をするということになった。談合の経緯もあるので抽選は困ると言ったところ、それでは東京都は拒否されれば今後一年間契約発注いたしませんということになって、抽選した結果、談合でない●●事務所に落札決定。で、建築士協会はその結果それはけしからぬと、談合を守らなかったということで、懲戒処分にしておるのですね。

 それから九州の八女、この事件も数社でコンペを組んで設計に応じたところうまくいかないで、結論的には■■事務所ここに随意契約で、・・・ところが談合としては、みんな約束してそれに絶対応じまいという申し合わせができたに関わらず■■事務所だけが応じたのはけしからぬ、これまた懲戒処分になった。そうして建築士協会では先般大幅な設計報酬手数料の値上げをしました。これは、絶対に会員は守らなければならない。そうしてご承知のように、・・・工事費が増えている。・・・」


 事実関係は藪の中の様相がある。しかし、藤田進参議院議員の主張は極めて明快である。日本建築家協会(一般に建築士協会なるもの)は、設計料率を決めている事業者団体である、また、設計報酬手数料を談合で決めている、だから工事費が高くなる、というのだ。

 これに対して日本建築家協会は「建築家は<事業者>ではない」(一九七五年六月一五日)を発表する。「建築は国民生活の文化的側面に深くかかわるものである」「「安いものほどよい」という理論がどのような結果をもたらすか」「報酬規定は建築の質を維持するためのものである」といった論点が骨子である。

  直後、日本建築家協会は公取委員会から「警告書」を受ける。「報酬規定」「競技基準」「日本建築家協会憲章」の制定が、独禁法第八条第一項第四号の規定に違反する疑いがあり、遅滞なく独禁法第八条第二項の規定に基づく届出をするとともに自主的に必要な措置をすみやかにとるようにというものである。日本建築家協会は「警告書」に対して拒否回答(一二月二日)、公取委はさらに「勧告」(一二月二五日)、以降「公取問題」は公取委の審判という公式の場に持ち越されていく。二二回の審判を経て出されたのが最終審決であった。

  いわゆる「公取問題」は、こうして「家協会」という団体の事業者性だけに限って争われたものである。審決は個々の会員の事業者認定については意識的に言及するのを避け、かつて存在したその「カルテル」行為についてのみ焦点を当てたものである。「家協会」の理念化する建築家像なり職能の問題は、はじめから公取委の関心の埒外に置かれている。もともと、かみ合わない論争であり、家協会が法的裏付けのない建築職能論を振りかざすことに、社会的に意味はあるにしても、独禁法に抗するには自ずと限界もあった。ある意味では「家協会」の全面敗北であった。

 「家協会」は、自ら「定款」を変更し、「憲章及び倫理規定」「建築設計競技基準」を改訂し、「建築家の業務及び報酬規程」を廃止するとともに「建築設計監理業務報酬(仮称)」を制定することで、「事業者団体」性を自ら払拭することになったのである。


 3-2 日本建築家協会と「建築家」

  七〇年代を通じて問われ続けてきた公取問題は、内部告発に端を発したことが示すように、「家協会」自体の問題であった。問われたのは、必ずしも「建築家」とは何かではなく、「家協会」とは何か、その団体の事業者性だったからである。理念ではなく、具体的な「家協会」の存在形態が現実の問題として問われたのである。建築界全体の共有化された問題として必ずしも問われなかったように思えるのは、それ故にである。しかし、問題自体は極めて象徴的に、建築家をとりまく状況を示していた。


  西欧の一九世紀的な建築家の理念と日本の現実との乖離は、明治以降一貫して問われてきたのであり、その乖離は広がりこそすれ狭まることはなかった。いわゆる建築家の理念はついに定着することはなかったと言ってもいい。何よりも、「家協会」の特異な、特権的な存在自体がその乖離を示していた。そして、公取問題を契機として、その理念と現実との乖離は、最終的に家協会の内部矛盾として露呈してきたと考えられるのである。

  いわゆる「建築家」という理念と、その職能の理想を掲げ、それを体現していることを自負する「家協会」が、その矛盾を引き受けるのは当然である。しかし、そうした意味での建築家の理念はすでに解体していると考え、その理念の有効性をすでに根底的に疑ってかかるものにとっては、事業者団体としての届け出を出さなくても済んだから「まずまずの成果」であるとか、「公取委の首脳部にも見識の持ち主」がいて、かろうじて職能の灯が残されたという意識がほとんど問題にならないことはいうまでもない。「自由業にも独禁法のメス」というのが世の趨勢であり、グローバルなプロフェッションの危機において、職能法の成立の見通しも暗い中で、そうした理念が具体的な指針たりえないことはすでに明らかだからである。

 「職能法請願の国会デモをやるというのはいかがなものか。負けっぷりの良いことも武士のたしなみ、デモなどという女々しいことはやらず、敗戦処理として建設省通告による二五条の報酬規定ーことにそのポイントの技術料の適用など、研究すべきではあるまいか(どうなれば廃棄した料率と同じ結果になるのかといった現実性を含めて)」といった見解*5や、「入札をしない会」(●鬼頭梓*6ほか)の発足がまだしも具体的な対応を示していた。

  事業者団体としての届け出を出さなくても済んだ「家協会」、体質改善した「家協会」とは何か。現実にいかなる力をもち得るのか。そこには、多くの議論がある。

 理念や精神や倫理の問題を純化させていくのが一つの道である。しかし、そうした理念や精神や倫理がいかにもろいものであるかは、歴史の教えるところでもある。

 職能防衛から文化活動へ、ウェイトを移行する(せざるをえない)のがひとつの選択である。確かに「文化としての建築」という視点は大きな拠り所である。しかし、ある意味ではそれも言われ続けてきたことである。「文化としての建築」とは何か。「家協会」の問題に即していえばそれが、エリート建築家の文化サロンの枠の内にとどまるのか、より広範な問題領域を組織していけるかどうかの問題である。これから何ができるか、いかに闘っていくのか、何を創り出していくのか、という問いが投げ出されたままである。

  「建築家」たちは、すでに、日常的な行為の中で、具体的にそうした問いを問いつつある。全く新たな「建築家」像が生み出されるとしたら、その中にしかない、というのはむしろ前提である。過去の「建築家」像を理念化すること、安易な建築家幻想は有害ですらある。建築界の分断化された状況の中で、むしろ、「公取問題」など関係ない、というのが、とりわけ若い世代の偽らざる実感であった。そうした意味では、状況は絶望的であるといってもよい。「公取問題」は、それをこそ確認させるのである。

 日本建築家協会は、その後、新日本建築家協会*へと改組される。一一〇〇人程度の特権的な建築家サロンを脱し、より一般的な建築家の団体を目指して組織拡大が目指されるのである。


 3-3 日本建築士会

 一九一四年六月六日、日本で最初の職能団体「全国建築士会」*が結成された。集まった建築家は、辰野金吾*、曽禰達三*、中條精一郎*、長野宇平治*、三橋四郎*ら一二名。翌年「日本建築士会」*と改称、会は戦前期における「建築士法」制定の中心となる。『創立主旨』は以下のように始められている。

 「顧れば明治十二年我国に初めて建築士を出だせしより●並に年閲する事弐拾有余、斯道に学ぶ者続々相継ぎ学術の進歩駸々として社会に貢献する所亦少なからず。人生まれて二十、独立自主の民となる。建築士あに●又此理なからんや。」

 明治十二年というのは工部大学校*の第一回卒業生が出た年である。建築士とはまず工部大学校そして帝国大学の造家学科*、建築学科*の卒業生を意味した。そして二〇年。「建築士(我輩特に建築士という意味の翫味を要す)の社会的立脚地、建築士の登録法、若くは建築条例の発布、或は建築士徳義規約の制定等現在及将来に於て我輩の為すべき事業指を屈するに暇あらず」の状況認識の下に団体が結成されるのである。わざわざ括弧して「我輩特に建築士という意味の翫味を要す」というのが興味深い。建築士をめぐって様々な議論があった。建築士の登録法、建築士徳義規約の制定等、一九七〇年代の「公取問題」にいたる諸問題は既に意識されていたのである。

 日本で最初の建築家の団体は、「全国建築士会」に先立って一八八六年に結成された「造家学会」*である。現在の日本建築学会の前身だ。河合浩蔵*、辰野金吾、妻木頼黄*、松崎萬長*の四人の創立委員を含め、創立発起人二六名による出発であった。

 この「造家学会」は、「工学会」*(一八七九年設立)から独立する形でつくられる。が、実は「学会」というより「建築家協会」と呼ぶべき性格をもっていた。その規約は英国王立建築協会*(RIBA)米国建築学会*(AIA)の規約に倣ってつくられているのである。

 「第五条 正会員ハ和洋に論ナク一方或ハ双方ノ建築ニ満二年半従事セシモノトス」

 「第六条 準員ハ造家学科中ノ一科目以上ニ関スル職業又ハ売買ニ従事スルモノトス・・」

 要するに実務が前提であった。

 伊東忠太*が「アルシテクチュールの本義を論じて造家学会の改名を求む*」を書いて「造家学会」が「建築学会」に改称されるのは一八九七年のことだ。学会は今日に至る「建築家」を理念として出発したのである。学会が「建築師報酬規程」(一九〇八年)を決めているのも、その当初の建築家団体としての性格を物語っている。

 しかし、建築学会の方向はやがて大きく転ずる。「日本の建築家は主として須く科学を基本とせる技術家であるべき」というイデオロギーが支配的になるのである。その学術観を代表するのが佐野利器*である*7。その「建築家の覚悟」*8は、当時の「建築家(アーキテクト)」観を真っ向から批判するものであった。「物の定義は永久不変ではない」、「西欧のアーキテクトと日本の建築家とは全く同一業でなければならぬ理由もない」、「アーキテクトの現在の意義は建物処理中の一専門家で其の全きものでない」、「懐中字書に依て直にアーキテクト(即ち芸術家)と早合点すべきでない」、・・・・「要するに建築家たるものの寸時も忌るべからざる研究事項は国家当然の要求たる建築科学の発達であって、建築家が社会的地位を得べき唯一の進路も亦是である事を思う事切である」と畳みかけるのである。佐野利器は、「形の良し悪しとか、色彩のことなどは婦女子のすることで、男子の口にすべきことではない」と思っていたのである。

 この佐野利器の思想については、長谷川堯*の『雌の視角』*が鋭く批判するところだ*9。技術と芸術、工学と造形、構造と形態をめぐる対立と議論は、「学術、技術、芸術」の三位一体をうたう今日の日本建築学会の内部に引き継がれ内在している。

 ともあれ、建築学会が科学や工学への傾斜を深める中で結成されたのが、全国建築士会である。一方で、民間の設計事務所が次第に育ってきたという背景がある。

  日本の建築家の祖は、J.コンドル*である。彼が如何なる建築家像をもちどのような教育をしたのかがまず問題である。彼は若干二五歳で来日するが(一八七七年)、R.スミス*、W.バージェス*に学んだ建築家であり、王立建築家協会(RIBA)の会員であった。RIBAについては後にみよう。J.コンドルが極めて実践的な建築家教育をしたのはよく知られている。J.コンドルは自ら日本で最初の建築事務所を設立するのである(一八八八年)。正確に言うと、日本で最初の建築事務所をつくったのはJ.コンドルの教え子、辰野金吾である。英国での実務経験を持つ彼が日本でも同様な活動を展開しようと、京橋山下町の京師屋の二階を借りて仕事を始めるのである(一八八六年)。しかし、彼はすぐに帝国大学に呼ばれることになった。実質的仕事をしないうちに事務所を閉鎖するのである。

 辰野金吾は、しかし、一九〇二年には職を辞し、葛西万司*とともに東京京橋に辰野・葛西建築事務所(一九〇三年)を、大阪中之島に片岡安*とともに辰野・片岡建築事務所(一九〇四年)をつくる。民間の建築事務所において設計活動行うことが建築家の道であることが明確な理念としてあったとみていい。

 J.コンドルに続いたのが滝大吉*であり、横河民輔*である(一八九〇年)。滝大吉は、大阪にあって「大阪アーキテクトノ四傑(小原、鳥居*、滝、田中)」。一八八七年には「建築局ヲ辞職の上民間建築師(プライベート・アーキテクト)ノ業務ニ従事」しているから、日本で最初の「民間建築師」の栄誉は滝大吉のものかもしれない。彼は事務所開設とともに「夜学校」という建築教育機関を開設している。その講義録をまとめた大著『建築学講義録』がある。横河民助は横河工務所(一九〇五年創設、今日の横河電気)の創設者として知られるが、事務所開設の後、しばらくは三井総営業店につとめている。工部大学校の第一回卒業生で辰野に続いたのが曾根達三で建築事務所を自営(一九〇六年)した後、中條精一郎*とともに曾根・中條建築設計事務所を開設している(一九〇八年)。 他に三橋四郎、河合浩蔵、山口半六、伊藤為吉、遠藤於菟などが一八九〇年代から二〇世紀初頭にかけて民間事務所を開設している。そしてこうした民間建築事務所の相次ぐ設立を背景として設立されたのが日本建築士会なのである。

 時代は下って、会の機関誌『日本建築士』が創刊されるのは一九二七年のことだ。その創刊号に理事長長野宇平治がその沿革を記している*10。建築士の規程をめぐってなんとも歯切れが悪い。「建築士とは建築を創作する人で而して創作したるものを実施せしむることを職業とする人であると、斯う答へる」「世間では何故に建築士とは建築を構造し自ら実施するものなりと、斯う言はないのかと反問するものが往々ある。予輩はそれに対して誤謬を説破しようと苦心してみるが、数学的解釈のように明快な説明は出来かねる。要は建築士は芸術家であるが工業家では無いと云うことの了解をもとめようとするのだから、仰も至難の業である。・・・」

 中條精一郎は同じく創刊号に「所感」を寄せているが、最後に次のように絶叫している。

 「最後に絶叫せんとするは建築芸術を売物にする或者は、依頼者の一顰一笑に迎合して設計報酬の競争入札に参加し、外兄弟廠●閲くの侮を受け、内建築士道を汚さんとする者ありと聞く、彼らも亦同朋なり、希くは悔い改めよ。」


 3-4 幻の「建築士法」

 日本建築士会が直接的かつ具体的に目指したのが「建築士法」の制定である。しかし、以下に見るように結果的に実現することはなかった。戦後一九五〇年に建築士法が制定されるのであるが、それは「資格法」であって「職能法」ではない。我国に「建築士」(アーキテクト)という概念がもたらされ、その社会的存在基盤を法的に担保しようとする運動はついに今日に至るまで目的を果たすことはないのである。

 芸術家としての建築家か、工業家としての建築家か、アーキテクトかエンジニアか、という素朴な建築家の定義をめぐる素朴な対立は大正時代を通じて維持される。そして佐野利器の「科学としての建築」観が次第に力をもち、野田俊彦*によって「建築非芸術論」(一九一五年)*11が展開される中で日本で最初の近代建築運動団体「日本分離派建築会」*も結成される(一九二〇年)。

 しかし、大正末から昭和の初めにかけて、日本の建築および建築家をとりまく諸条件は大きく変化する。芸術派と非芸術(構造技術)派の間に社会派と呼ぶべき建築家像が登場してくるのである。

 昭和初期の建築家の社会意識、歴史意識は、芸術としての表現、創造、自我の確立を主張した「分離派建築会」への批判が顕在化してきたことに、また「創字社」*の方向転換(「左旋回」)に象徴的に示されるように、昭和に入って大きく転換をとげる。建築の社会性、歴史性に関する新たな認識は、明治末期から大正にかけて、新たな課題として意識されはじめた都市問題や住宅間題に対する取組みに見られる。そして「社会改良家としての建築家」(岡田信一郎、「建築雑誌」一九一五年九月号)といった建築家像が唱えられる。また上述したように、通常、建築非芸術派と芸術派、構造派と自己主義派・内省派の対立という形でとらえられる大正期の建築界において、いち早く、内省派の「自我的小天地」を批判し、「建築家は自個を離れて社会と接触し国民と同化して以て大正の建築を建設するの急務を認めずや」(「関西建築協会雑誌」*創刊号所載会報の序文、一九一七年七月号)として結成され、一つの潮流をつくりつつあった関西建築協会(一九一七年設立、一九一九年一月「日本建築協会」と改称)の存在がある。その機関誌『建築と社会』は一九二○年一月に創刊されている。

 昭和初頭の社会主義、唯物史観の影響が大きかったといっていい。「国家当然の要求」を前提として、建築の間題をすべてそこへ集約してゆくことによって、国家意識をストレートに示す、明治以降、ある意味では一九七○年の日本万国博に至るまで一貫する建築家の流れ、自我という縮少した一点から、その拡張によって国家を一挙に越え、宇宙、世界、あるいは人類を自らへ引きよせようとした大正デモクラシー期のいく人かの建築家たちに対して、社会を対象化し、大衆との距げを意識する建築家の流れは戦後も一貫して維持された。プロレタリアートのために、庶民のために、国民のために、民衆のために、とうようにスローガンは時代によって微妙に変化しながらも、大衆へというヴェクトルは強面に建築家の意識を支配し続けるのである。そうした、建築家の意識の転換をもたらした一つの背景は、建築家の大衆化によるその階層分化、構造化の進行である。明治期において、国家と直結する知的エリートとしての役割をになっていた建築家は、その数が増えるにつれて、また建設請負業者の法人化、経営規模の拡大、独立設計事務所の定着といった建築家をとり巻く諸条件の変化につれて次第に階層分化されつつあった。「創宇社」*の運動をになったのが逓信省営繕課*の下層技術者であったように、昭和初頭の金融恐慌*(一九二七年)、昭和恐慌*(一九三○年)による不況を背景とする建築運動は、建築家における階層分化の構造をはじめて顕在化させたものでもあった。

 そして、そうした中で、建築家像も転換していく。長野宇平治の「建築士の職分に門する将来の傾向如何」*12をめぐる昭和初頭の議論に「昭和的建築家像の形成」をみるのが「近代日本建築学発達史第九篇・建築論」の著者*13である。大正初めの「建築家の定義如何」*14における「建築士=美術士+工学士」といった譲論のレヴェルに比べればはるかに具体的に、今日に至る、意匠、構造、設備、施工といった専門分化を前提として、それを統括するものとしての建築家のイメージが、昭和の初めに定着しつつあつたことをそれは示すである。

 一九一四年に設立され、一九一七年には設計・監理の業務報酬規程を制定し、精力的な活動を続けつつあった日本建築士会が、自らの職能の制度的裏付けを求める「建築士法」案の建議に至ったのは、一九二五年の第五○帝国譲会であった。しかし、その法案は多くの反対に遭う。衆議院を通過するものの成立しない。一九二六年(第五一議会)、二七年(第五二議会)、二九年(第五六議会)、三一年(第五九議会)、三三年(六四議会)、三四年(第六五議会)、三五年(第六七議会)、三七年(第七〇議会)、三八年(第七三議会)、三九年(第七四議会)、四〇年(第七五議会)と続けて建議されるもののついに陽の目をみない。

 その経緯はこうだ。

 「建築ガ人並ニ一般社会生活ノ安寧ト健康ト秩序ト品位トニ関シ物心両面ニ亘ッテ誠ニ重大ナル機能ヲ有スルモノナルハ更二多言ヲ要セズ、泰西先進国ノ社会ニ於テ夙二建築士法ヲ制定シテ、建築設計並監督ノ職務ニ従事スルモノノ資格ヲ定メ彼等ノ自重ヲ促シ、以テ個人ノ利益ノ保護ト社会ノ福祉ノ増進ヲ期シツツアルハ●眞に故ナキニ非ズ。」

 この、日本建築士会のいう「建築士法制定提唱ノ理由」の冒頭の一文は実に素朴に今日に至る職能法(アーキテクト・ロー)制定の根拠を述べている。しかるに、何故、この法案が執拗な建議にも関わらず通らなかったのか。

 最大の争点になったのが、第六条である。第六条は以下のように、設計と施工の兼業を禁止する。

 第六条 建築士ハ左ノ業務ヲ営ムコトヲ得ス

  一 土木建築ニ関スル請負業

  二 建築材料ニ関スル商工業又ハ製造業但シ建築士会ノ商人ヲ得タル者ハ此限リニ非ラス」

 立ちはだかった最大の勢力は建設請負業であった。日本建築士会は第五二議会においては、第二十一条末尾に「但シ本条ハ建築士ニアラザル者ガ建築ノ設計並ニ監督二従事スルコトヲ禁ズルモノニアラズ」に但し書きを入れることを余儀なくされる。業務独占の臭いを消し抵抗を弱めようとしたしたのである。しかし、「建築士」の概念が極めて曖昧になったことは否めない。

 そしている内に建築学会から「建築設計監督士」なる概念が出される。「建築設計監督士法」であれば賛成するという。学会が何故「建築設計監督士」なる名称に拘ったかは明快だ。学会には、工学、科学を旨とする多くの「建築技師」「建築技術家」(エンジニア)が含まれていたからである。上に見たように「建築士」の職能は既に専門分化がすすんでいたのである。日本建築士会はその提案を飲んで、第五九議会には「建築設計監督士法」と名を変えて法案を提出することになる。

 「建築設計監督士法」は第六四議会では「建築士法」という名に戻される。しかし、その内容に大きな変化はない。大きな改訂が行われるのは「建築士」の責務に関する事項がついかされた第七〇議会提出の法案である。しかし以後、日本は敗戦への坂を転がり落ちるのであった。

 民間の建築士手務所と同じように建設請負業者の関係を含めた建築生産を支える諸組織が今日に繋がる構造をとるのも、昭和の初めの頃である。明治末から大正にかけて民間の建築士事務所がそれなりに社会的基盤を獲得し、次第に定着しつつあったことを示しのが「建築士法」制定運動である。しかし、その「建築士法」案が、第六条を最大の争点としながら、最終的に不成立に終ったことには、一方で、独自な形で発展を続けてきた日本の建設請負業の力がすでに大きく作用していたのである。

 建設請負業の一部には設計部門の独立を考えるものもあった*15。「建築士法」の成立は、確かに、西欧の建築家を支えた社会的基盤-市民社会が日本において未成熟な段階では、時期尚早であったといえるだろう。しかし、何かの拍子にこの兼業禁止規定が通っていたら、そして建設請負業の設計部が独立するルールが成立していれば日本の建築の歴史は変わったであろう。一九六〇年代に設計施工一貫か分離かをめぐって大議論が行われたこと*が示すように、今日でもゼネコン設計部の独立が取り沙汰されるようにこの問題は今日に持ち越されている。


 3-5 一九五〇年「建築士法」

 戦前にはついに制定されることのなかった建築士法*が制定される。しかし、必ずしも日本建築士会が悲願とした法ではなかった。

 敗戦後の建築界の立ち直りは意外に早い。一九五○年頃には戦後建築の方向を決定する体制が出来上っていた。敗戦後数年の段階で建築の生産・設計の体制は再整備されたとみていい。それを示すのが、建設業法の公布(一九四九年五月一四日。施行八月二○日)であり、一九一九年以来の市街地建築物法を抜本的に改定する建築基準法の制定(公布一九五〇年五月一四日、施行二月一三日)と敗戦後まもなく制定された(一九四六年五月二四日)臨時建築制限規則の廃止である。そして、建築士法の公布(一九五○年五月二四日。施行七月一日)である。

 建築士法の制定は、戦後における建築家のあり方を方向づける決定的な意味をもつ。藤井正一郎*17によれば、建築士法制定へ至るアプローチには三つの流れがあった。一つは、戦前からの「建築士法」制定運動の推進母体であった日本建築士会によるもの、一つは戦災復興院*の「建築法規調査委買会」によるもの、そして、もう一つは日本建築学会を中心とする四会(日本建築学会、日本建築士会、日本建築協会、全国建設業協会)の「建築技術者の資格制度調査に関する四会連合委貝会」によるものである。

 制定の過程で大きな争点となったのも、いうまでもなく、「第六条間題」、「兼業の禁止」をめぐる間題であった。西欧の建築家像を理念とし、プロフェッションを支える法・制定を目指してきた日本建築士会が兼業の禁止を間題とするのは既定の方針である。経緯は単純ではない。戦後の混乱を反映するように建築士法制定の方針は右へ左へゆれるが、制定の過程をリードしたのは日本建築士会であった。

 戦災復粟院の「建築士及び建築工事管理に組する命令案」(一九四六年一○月)に、はっきり兼業の禁止が示されていることは、往目すべきことである。

 「第四 左に掲げる営業を自らなし、又はその営業をなす者の使用人は、建築士の免許を受けることが出来ない。

  一 建築土木に関する請負業

  二 建築材料に関する請負業

  三 土地家屋に関する代理業

  前項各号に掲げる営業を自らなし、又はその営業をなす者の使用人になったときは、建築士の免許は、その効力を停止する。」

 しかし、事は簡単には運ばなかった。究極的には、審譲の過程で兼業の禁止は削除され、建築士(一級建築士、二扱建築士)の資格を規定するだけの現行の資格法としての建築士法が成立することになる。

 四会連合のアプローチは、様々な議論をまとめ、建築士法を方向づけ、それに承認をあたえるものであった。この建築士法の制定によって、戦前からの職能法としての建築士法の制定をめざす運動に一つのピリオドが打たれる。日本建築士会を中心とする職能確立への試みはいわば挫祈し、その道は重く閉ざされたのである。万が一、職能法として建築士法が成立していたとすれば、戦後日本の建築のあり方が大きく変わったことは間違いない。しかし、その決定的なチャンスをまたしても逃してしまったのである。

 建築士法の成立の過程で注目すべきは、日本建築士会の内部においても、建築界の内部においても、決して、他(占領軍等)からの圧力や指示によったのではなく、ある意味では建築士法が主体的に選びとられていることである。経緯には、建築界の様々な関係の絡まりがあった。兼業禁止の規定の削除は、戦後まもなく進駐軍工事等を挺子に驚異的な復元力を示した建設業との関係がある。

 また、大工や小規模な建設請負業(工務店)の間題もあった。二級建築士の資格が制定されたのは、そうした背景からである。村松貞次郎*は「現代の進歩した建築技術の恩恵は、大規模な建築だけに与えられていて、群小の小住宅などにはほとんど及んでいない。このためには、より強力な、しかも創造性に富んだ公共的指導の充実と、行政の改革によって、その恩恵が及ぶようにしなければならない。それは既成の建築家に期待するのは無理だ」(西山夘三*)といった意見が日本の官僚による〈建築士法〉制定のひそかな念願」の背景にあるという。

 確かに、建築界に広範に一部特権的建築家の問題ではないという主張が背景にあったことは留意すべきであろう。建築家の職能の確立を支える基盤は、社会的にも、建築界にもかならずしも成熟していなかったのであり、建築士法の内容は、それなりに、日本の建築生産を支える構造を反映したものであった。建築家の理念を高く掲げる主張は、かならずしも広範に受け入れられてはいなかったといってもよい。NAU(新日本建築家集団)*が建築家の職能の間題について、建築士法の制定について、ほとんど目立った動きをしていないようにみえるのはそうした背景を示していよう。その時点で、建築家の間に階層分化が定着しつつあったことは、すでに、戦時中、日本建築士会の一部有名会員を中心として、日本建築設計監理統制組合*(一九四四年結成)がつくられ、それが戦後まもなく日本建築設計監理協会に改組されて(一九四七年)存続していたことが示している。極端にいえば、西欧の建築家の理念を具体化する運動は日本建築設計監理協会を中心とする建築界の一部において担われたにすぎないのである。それ以後、日本建築士会は、現行制度を前提とする団体へその性格を転じていく。一九五九年には、二級建築士を主体とする全日本建築士会*がつくられている。一方、日本建築設計監理協会*は、その会員資格の偏狭さを指描され、一九五五年に、一方で日本建築家協会*を発足させ、一部のエリート建築家の団体として、職能確立へのかすかな灯を掲げながら存続してきたのである。そして、七〇年代に至って公取問題その本質を浮かび上がらせることになるのである。

 建築士法の制定以降、建築家の戟能の間題は日本建築家協会を中心として展閏されることになった。建築家の存在基盤にかかわる根本的な間題であるにもかかわらず、それ以外の動きはとんどみることができない。建築界の諸関係を支える構造ははますます固定的なっていく。唯一の例外は、五期会*(一九五六年桔成)の運動である。NAU解体以降五○年代の小会派の運動*のなかで、それは敢然と建築家の職能の問題を主題に掲げたことにおいてきわ立っている。五期会に結集した若い建築家を躯りたてたのは、おそらく、建築士法が制定されて数年を経て、その職能確立の間題が拡散しつつあることへの焦りである。そして一方で、日本建築家協会を中心とするエリート建築家の集団が限定された枠のなかで成立することへの危機意や(あるいは例の会*〔丹下健三*、大江宏*、芦原義信*等のサロン〕といった先輩建築家たちのサロンの存在への対抗意識)である。しかし、指描されるように五期会*という集団を桔び合せていたものは、一つには近代日本の建築界を支えてきた建築家たちの仕事を踏まえながら、自分たちを第五世代と規定する会の命名に端的に示される自負、エリート意識であり、それは結成当初からその内部に矛盾を孕むものであった。五期会も「六〇年安保」*を前にして解散してしまう。

 戦後まもなく、池辺陽*は、前川國男*の「紀伊国屋書店」評*18において、建築家のえらぶ道として、一、建築芸術を守る道(現実否定を結果することは明らかである)、二、建築家否定の道、三、建築家を肯定して、現在の条件を解決しようとする道、と書いていた。また高山英華は、地道な建築の実践を通じながら、しかも革命的技術者としての新しい生き方を創り出していく必要があると書いていた。建築の新しい生き方は果たして生み出されたのか。ひとつの帰結は日本建築家協会の公取問題が示していよう。


 3-6 芸術かウサギ小屋か

  公取問題の決着がついた頃、ポスト・モダニズム建築の帰趨をめぐって建築ジャーナリズムが沸いていた。そこにも、依然として変わらない構図が生き続けている。

 「「芸術」かうさぎ小屋か」*19という軸によって、近代日本の建築界を切ってみせたのが堀川勉である。彼は、「歴史の真の争点はいつの時代にあっても隠されている」(花田清輝*)「建築も政治と全く同様に巨額の金銭の移動をともない、権力の物質的装置として機能するために容易にその素顔を窺うことができない」といいながら、次のようにいう。

  「ここで端的に「近代日本が建築界に与えた状況とはいかなるものか」と問うとすれば、それは建築界における様々な分断的状況であると答えることができる。そのうち最大の分断的状況が、建築生産の商品化としての側面と、建築の芸術としての側面への分断である。前者がウサぎ小屋をそれとして意識せずに、資本主義生産にはげむための理論や技術の生産に従事する多数派(ウサギ小屋派=非芸術派)であり、後者がウサギ小屋を漠然と感知しながら、自己の大衆性を認めず自己と大衆を切り離し、ウサギ小屋の存在から眼を逸らせて「芸術」としての建築を疑わない少数派(「芸術」派)である」。

  こうした構図は、建築非芸術論争以来ある。しかし、堀川が、その「両派が分離することも、あるいは中立の立場でどちらの派にも属さないことも不可能な事情」を、建築をめぐる概念の全体性と部分性において問題にするとき、少し異なった脈絡を提示していたように思える。彼は、分断的二重構造が一挙に露呈し固定化してきたのは、「芸術の完全なる自立もまた、政治の優位性理論が誤っているように、ありえないことを浮かび上がらせた」一九三〇年代であったという。その時代に「ほとんどの建築家が芸術についての物神崇拝に陥り、芸術と芸術品の区別がつかなくなり、今日のように芸術の抜け殻を愛するようになった」、「ウサギ小屋の生産を理論的に否定できるのは本来彼らだけであり、彼らの責務であったのに、それが不可能であった」というのである。

  堀川勉は、「建築の問題が大衆の存在をかかえ込みながら、実は完全にスレ違ったレヴェルで展開されてゆく」今日の状況において、「建築生産が社会的に〈生産ー分配ー消費〉されるべきものであるなら、社会(主義)政策=国家政策=芸術行為であるような建築論(それは建築論ではなくなっている)がまず生み出されなければならない」という。こうした指摘は、建築家は事業者ではないといった議論の平面を抜け出ることにおいて、はるかにポレミカルで(論争的)あった。

 宮内嘉久*20は、当時、「持たざる建築家の肌理、反・特権的マイスター論のために」*21においてもうひとつの建築家像を提示しようとしていた。彼は、芸術派対ウサギ小屋派の対立図式に、もう一つの隠れた軸、専門職業(プロフェッション)にまつわる「特権」(「この隠微にして魔性の力。それは支配的階級の中からの距離によって測られ、かつ支えられる」)-非特権の軸を付け加える。その「特権をもたない建築家」は、中世の棟梁、ロマネスクのマイスターを理念化しようとする。また、中国の「はだしの医者」にインスピレーションを受けた「はだしの建築家」という理念を重ね合わせようとする。具体的なイメージはしかしよくわからない。問題は日本でどういう具体像を生み出すかである。

  建築家の概念あるいはアイデンティティが厳しく問われる中で、建築ジャーナリズムの表層で飛び交う、とりわけ若い建築家たちの言説は、「公取問題」や「建築家」像をめぐる議論とは一見無縁であるように見えた。先行する世代から見ると、ポストモダン派の彼らは、「状況からの自立」、「建築の自立」を標傍しながら、「とんでもない目を疑うような形態」の作品をひっさげて、「わけのわからない建築論」をふり回しているようであった。「平和な時代の野武士たち」*22と槙文彦*は、若い建築家の作品を丹念に見て回った後、若い世代をそう呼んだ。槙は「都市が今日どうしようもないから、また都市と建築を分離して〈芸術的建築〉に向かう姿勢が、そして都市問題は他の人たちのすることとする風潮が、若いジェネレーションにもかなり浸透しつつある状況に私は深く考えさせられてしまう」と書いた。

  「より広い社会的コンテクストを持った戦場」にのぞんで欲しいと槙はいう。けれども六〇年代初頭に一斉に「都市づいて」いった建築家が、後退に後退を重ねてきたのは紛れもない事実である。彼は、磯崎新*23と篠原一男*24の「猥雑な都市はどうしようもないから自分の建築は防御型か攻撃型にならざるを得ない」という意見と感慨を、危険な悪影響を及ぼすものであると指摘する。「社会的コンテクストを持った戦場」へという言い方には、〈芸術派建築〉との対立図式が前提とされている。

 一方、若い世代の最良の部分においては、〈芸術派〉でも〈社会派〉でもない、そうした図式を越えたところでさまざまな模索がなされていると見るべきだというのが鈴木博之であった。若いジェネレーションを「平和な時代の野武士たち」と位置づける槙に対して、より積極的に評価し、位置づけ、その存在の意義を徹底的にとらえ返そうとするのである*25。彼はむしろ「現実の社会に対するアクチュアリティ」において、若いジェネレーションを評価しようとする。「アクチュアリティをもち、しかも方法論を芸術至上主義的な概念や手法としてアクセサリー化せず、ある意味では強引にアクチュアリティに直結させてしまおうと目論んでいる建築家たちが、今やさまざまに出現しつつあるのである。それぞれの方法論は異なっていようとも、方法論と現実に対するアクチュアルな行動との接続の仕方において、彼らは共通している」という位置づけは、明らかに槙文彦の位置づけとはずれている、あるいは逆のヴェクトルをもっていた。

  また、鈴木は日本において必要だったのは「国家意志の造形に身を捧げる主流としての建築観か、あるいは私的世界の全体性を確保するアーキテクト像のいずれかだったのである」といいながら、「全体性という概念を世界の立場からではなく、私の立場から据え直したときに、まだまだ豊かな建築的可能性が現れてくるように思われる」という。全体性という概念をめぐって、世界-私という軸がもうひとつ付け加えられる。ただ、私的全体性というのは必ずしもよくわからない。「郊外の住宅地が巨視的にみれば疎外された近代人の巣箱にすぎないとしても、そこには私的な全体が込められている」と鈴木がいうのは「狭いながらも楽しい我が家」ということのようにも思える。私を支える基盤が問題となるとき、国家や社会に私性を対置してもすれ違いであろう

 問題は、「社会的コンテクストを持った戦場」と「私的全体性なるもの」との間である。いずれにせよ、建築ジャーナリズムの世界では、絶望的な分断化された状況を背景として、同じような議論が続けられてきたのである。

 タウンアーキテクトなる理念は、果たして、「芸術かウサギ小屋か」という二分法を超えた地平において構想しうるであろうか。

 

*1  「ロスト・アイデンティテイの建築界」『建築文化』一九七九年一二月号をもとに改稿。 


*2  『日経アーキテクチュア』、七九年一〇月一五日号

*3  『新建築』、七九年一一月号

*4  K/B NEWS、『建築文化』、七九年一一月号

*5  浦辺鎮太郎、「公取委問題私見」

*6  鬼頭梓

*7  布野修司、「建築学の系譜」、『新建築学大系1』、彰国社

*8 『建築雑誌』、一九一一年七月

*9 長谷川堯、『雌の視角』、相模書房

*10 「日本建築士会の沿革」、『日本建築士』、昭和二年七月

*11  建築非芸術論: 野田俊彦(一八九一横浜生~一九二九)の東京帝国大学工学部建築学科卒業論文。「建築非芸術論」(『建築雑誌』 一九一五・一〇)「建築非芸術論の続」(『建築雑誌』 一九一六・一二)。素朴な「用美の二元論」が前提される明治から大正にかけての建築界にあって、徹底した合理主義建築論を展開するものとして大きな議論を呼んだ。平行して「虚偽構造」(シャム・コンストラクション)をめぐる議論(建築構造はそのままファサードに表現されるべきだという主張)もあった。

*12  「日本建築士」一九三○年四月号

*13  第五章「近代化の展開」山口廣

*14  中村達太郎「建築雑誌」一九一五年九月号

*15 「設計事務所の出現と建築士会」、『清水建設百五十年』、清水建設、一九五四年五月

*16 拙著、『戦後建築論ノート』、相模書房、一九八一年。『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年

*17  「建築士法の制定まで(戦後)」(『近代日本建築学発達史』第一二編「建築家の職能」第五章

*18  「現代建築家のえらぶ道」「NAUM」No.1

*19  『日本読書新聞』、七九年六月四日号

*20 宮内嘉久 一九二六年東京生~。東京大学第二工学部建築学科卒業(四九)。建築ジャーナリスト、編集者。『新建築』『国際建築』の編集を経て、建築ジャーナリズム研究所設立。一貫して建築ジャーナリズムの確立に尽力する。『建築ジャーナル』誌顧問。『廃墟から』『少数派建築論』など。また、『一建築家の信条』『前川國男・コスモスと方法』など前川國男の仕事をまとめることに尽力する。

*21  『日本読書新聞』、七九年七月九日号

*22  『新建築』、七九年一〇月

*23 磯崎新 いそざき・あらた。一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

*24 篠原一男 一九二五静岡~。東京工業大学建築学科卒業(五三)。同助教授(六二)、教授(七〇)。「久我山の家」で住宅作家としてデビュー。「住宅は芸術である」という金言とともに作品としての住宅の水準を打ち立てる。「から傘の家」「白の家」「地の家」「未完の家」など数多くの傑作を世に問うた。一連の住宅作品で日本建築学会賞(七一)。理論家としても知られ、建築のポストモダンについても発言を続ける。「東京工業大学百周年記念館」「熊本県警察署」など。

*25  「貧乏くじは君が引く」、『新建築』七九年九月号、「私的全体性の模索」、『新建築』、七九年一〇月号


2021年9月29日水曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅰ 砂上の楼閣 第2章 何より曖昧な建築界

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 第2章 何より曖昧な建築界


 2-1 頼りない建築家

 戦後五〇年を経て、日本の社会は大きな転機を迎えた。これまでの様々な仕組みがうまく機能しなくなるのである。半世紀の時間の流れによる制度疲労ももちろんあるが、右肩上がりの「成長主義」「拡大主義」が破綻したことが大きい。日本の社会システムは否応なく構造改革を迫られるのである。

 農業国家から土建国家へ、戦後日本の産業構造は大きく変貌してきた。そして、その体質が問われ始めた。即ち、構造改革の中心が土木建設業界なのである。建設投資がGNP(国民総生産)の2割を占める*(○データ)、そうした時代は終わったといっていい。地球規模の環境問題、資源問題、エネルギー問題が意識される中で、スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)をくり返す従来の建設システムが既存ストック重視型のシステムに転換していくのは必然である。建設投資が減少するのは当り前なのである。先進諸国並みになるとすれば、建設業界の雇用者数は半減してもおかしくない○データ。予想されるのは、あらゆる局面での熾烈なサバイヴァル戦争である。建築界全体の生き残り方が厳しく問われるのである。

  生き残りを図るに当たって、大きな問題がある。建築家がそもそも信用されていないことである。日本の建築家あるいは建築界に対する見方が極めて厳しいことは、「あまりにも曖昧な建築界Ⅰ、Ⅱ」と題された座談会を読むとよく分かる*1。その座談会で、飯田亮(セコム取締役最高顧問)は次のようにいう。

 「・・・建築家というのは何なのかデフィニションがわからない。建築家というのはデザイナーなのか。構造設計もある。設備もある。どうも不明確である。学者の先生は評論家だと思っているわけです。・・・」

 まず、建築家の定義が分からない。建築の分野が専門分化して、建築家の仕事の範囲が分からなくなっている。そして、責任の体制が不明確だ。

 「建築というのはひどいですね。まるでだめですね。ちょっと申し上げたいけれども、たとえば私が自分のうちをつくったとしますね。クレームがあるとして調停に持ち込みますよね。絶対に負けます。・・・こちらもそれなりの優秀な弁護士を雇いますが、一つはきっちりと検査する人間がいないからでしょう。ですから曖昧なうちに負けるわけです。だから実に曖昧な世界なんです。」

 「建築界は全く曖昧だ」「建築界は全く信用できない」という告発は、建築をした具体的な経験に基づいている。要するに、建築家には建築物や都市の安全に関して責任をとる能力がない、というのである。建築界の弱点を抉っていると言わざるを得ない。建築家だけではない。学者もコテンパンだ。学者は評論家に過ぎない、何も責任をとらない、と実に手厳しい。

 責任をとれないのであればどうするか。保険の仕組みを導入するのが不可避である。保険の仕組みを導入するためには、保険料を決める格付け機関が必要となる。

 「あなたのところの安全はグレードA、あなたのところはグレードC。おれは建築費にそれだけのお金しか出してないんだ、だからグレードCでいいんだよ、保険料も高くていいんだよ。いざというときには死ぬかもしれない。ビルはつぶれるかもしれない。そこはそれぞれに任せるべきだと思います。」。

 安全は個人の問題である。自己責任が原則であって、国とか官僚とか法に委ねるのは間違っている。安全は自分で守る。建築家は頼りにならないから、建築の性能をグレード化して、保険をかける。

 しかし、そうなると建築家の責任能力は同じように格付けされる必要がある。建築の性能と保険料の設定には建築家(建築組織)の能力が大いに関わるからである。問われているのは、単に、材料や構造強度のグレードの問題だけではない。建築家の能力によって様々な瑕疵の問題も起こっている。

 建築家が全く信用できない、と思われている状況において、自己責任が原則とはいえ、保険料を施主が果たして負担する気になるであろうか。設計料と保険料が関連づけられのはむしろ当然のように思える。

 一九九八年、建築基準法が改正された*。性能規定*の導入、建築確認・検査の民間開放、中間検査制度の導入が施行される。一方、住宅の性能保証、性能表示の制度も進められている。建築界が性能の担保性をめぐって変革の時代を迎えているのは間違いない。

 しかし、どんな制度が整備されるにしても、想定外の欠陥の発生は避けられない。絶対安全な建築物はありえないのである*2。そうであれば、建築物や都市の安全は何によって担保されるのか。保険の仕組みの導入はひとつの方向である。しかし、究極的に問われるのは「建築家」のあり方であり、その役割ではないか。


 2-2 違反建築

 建築界は様々な問題を抱えているが、最も初歩的で根深い問題が違反建築の問題である。

 われわれが建築しようとする場合に遵守すべき法律として建築基準法がある。一九一九(大正八年)にできた市街地建築物法*を引き継いで一九五〇年に制定された。その後幾度か改訂されてきているが、建築物の立地や用途、構造形式や材料等々、その安全性確保の観点から必要最小限の基準を定めたものである。もちろん、都市計画法*や国土利用法*、開発規制など自治体の条例など、建築物を規制する法律は他にもあるが、最も身近な法律が建築基準法である。

 ところが、この建築基準法はザル法と言われ、あまり権威がない。建築界がよってたつ基礎ともいうべき建築基準法が頼りないのである。もっとも、この問題は建築界の問題というより日本の社会全体の問題である。

 胸に手を当てて考えてみて欲しい。

 違反建築で最も多いのが建蔽率違反、容積率違反である。建築基準法は、「用途地域」*を定め、それぞれの地域で建設可能な建築面積(建蔽率)、延べ床面積(容積率)の最大限度を決めている*3。また、用途地域に従って、前面道路の幅員などによって建築物の高さが決められている。しかし、限られた敷地を最大限に利用したいと誰しも思う。

 建築行為を行うにあたっては、書類を提出して建築主事*の確認を得る必要がある。その確認申請上の書類(図面)と実際が異なることがよくある。悪質な場合は、書類は書類として、全く別のものを建てる場合があるのである。また、後から増築する場合もある。

 ひとつには、書類と実態を検査する体制がないからである。また、それ以前に建築確認が「確認」であって「許可」ではないということがある。すなわち、強制力が弱いのである。

 吹き抜けやピロティ*4の面積は容積に算入されない。図面上は、吹き抜けにしておいて後で床を張る、ピロティを壁で囲って室内化する、屋根裏に床を設けて部屋にする、といったことはよくある。むしろ、建築家の腕の見せ所と考えられている。容積率違反は違反だけれど全体の容積は同じだから問題ないではないか、という意識がある。何のために建蔽率や容積率を規制するのか、また、建蔽率や容積率という概念についても、曖昧なところがあるのである。 

  他に多いのが接道義務違反*である。建築物は一定幅員以上の道路に接していなければならないという規定がある。しかし、既に細街路に接して建っている建物を建て替えようとする場合、違反せざるを得ないケースが少なくないのである。特に昔からの街区割りが残る地域は接道義務*を遵守できないことが多い。一九九八年の建築基準法改正によってこの規定は徹底化されることになったが、全国一律に規定する建築基準法に問題があることは明らかである。

 建築基準法は工事完了検査を義務づけている。工事が完了すると検査済証が交付される。ここに驚くべきデータがある。各都市における建築確認通知件数のうち検査済証交付件数の占める割合、いわば遵法度というべきデータである*5。


 Ⅰ 大阪(13.7%)、京都(16.7%)、福岡(16.8%)、東京(22.1%)

 Ⅱ 千葉(33.5%)、川崎(36.3%)、北九州(37.7%)

 Ⅲ 神戸(50.4%)、横浜(50.6%)、名古屋(54.3%)

 Ⅳ 札幌(66.9%)、仙台(75.0%)、広島(75.8%)


 大阪、京都という関西の二大都市の遵法度が低いのは歴史的都市の特性が反映していると見ることができる。が、それにしても大都市の遵法度は低い。そもそも守れない規定がなされている。ザル法と言われる由縁である。

 改正建築基準法において、建築確認・検査機関の民間開放が計られた。また、中間検査*が導入される。しかし、まずは法の権威の確立が前提である。「法は守るべきもの」という精神、前提がないところに建築文化の花は咲きようがないのである。

 阪神淡路大震災を契機として、ひとつの研究会が開始されることになった。横尾義貫*先生を座長とする、日本建築学会の「建築物および都市の安全性・環境保全を目指したパラダイムの視座」をテーマに掲げる研究会*である。その研究会でまず問題になったのがこの違反建築の問題である。改訂された建築基準法において、第三者検査機関が位置付けられ、中間検査が導入されることによって、建築主事の機能は強化された。しかし、違反建築に対する罰則は軽く、是正措置の執行力は依然として弱い。そこでどうするか。具体的に何から始めるのか。

 建築物の工事に着手する際に以下のイヴェントをやる、というのが横尾提言だ。ただそれだけ、のことではあるが、実効性はあるのではないか。地鎮祭のようなものである。具体的に敷地に行って確認する、実に素朴で簡単で、当然すべきことである。また、普通の「建築家」であればいつも行っていることである。


 場所:建築現場

 参加者:建築主事または代理者、工事管理建築士、施工者

 確認事項:(1)確認設計図書の敷地等の現地照合

      (2)建築士の工事監理、施工者の工事監理体制

      (3)その他


 2-3 都市景観の混沌

 建築界の抱えるもうひとつの大きな問題が都市景観の問題である。個々の建築活動が積み重なって都市景観はつくられる。従って、建築家は都市景観のあり方に対して責任がある。少なくとも、都市景観と建築家は密接な関わりをもっている。にも関わらず、建築家は今日の日本の都市景観に対してその役割を果たしていない。あるいは、むしろ、景観を破壊しているのが建築家であると非難される。

 景観の問題としては、もちろん、自然(農村)景観の問題もある。そこでも問題となるのは人工的な建造物である。橋梁や高速道路、鉄道高架、ダムや護岸工事など土木スケールの構築物の問題が大きい。崖崩れ防止のための「のり面」*のコンクリートなど自然景観を大きく阻害するのが土木景観である。河川の「三面貼り」*も問題になってきた。大規模なものほど影響が大きい。建築物でもまず大規模なものが問題となる。

 人の力を加え、自然を変化させてきたとはいえ、自然の大きな営みの中でできあがった農業景観や、基本的には地域産材を用い、一定の構法でつくられた集落景観にはある調和がある。しかし、近代の建築土木技術はその調和を破ってきた。

 超高層の林立する大都市のスカイラインや都市を立体的に走る高架道路など近代技術が新しく生み出した景観である。かっての伝統的な都市のスケールを超えた建築物だからといって一概に景観破壊ということにはならないだろう。エッフェル塔*にしろポンピドゥーセンター*にしろ、建設当初は非難の声が大きかったけれど、いまではパリのランドマークとして親しまれている。京都タワー*にしても、大きな景観論争を引き起こしたけれど、今では京都に相応しいと思う人も少なくないのである。建築には新しい都市景観を創り出す、そう役割もある。

 都市のランドマークとなるような、またその都市のアイデンティティに関わるようなモニュメンタルな建築物の場合、建築家と施主、そして自治体、あるいは市民、さらにマスコミを含めた諸関係の中でオープンな議論がなされ、決定についてのルールが保証される限りにおいて責任はある程度明確である。そして、歴史的にその評価は下されるであろう。

 問題はより一般的な建築行為である。ヨーロッパからやってきた外国人の多くは、日本の雑然とした都市景観に面食らう。そこで、日本は世界一デザインの自由な国だ、などと言う。要するに混沌として秩序が見えないのである。

 それに対して、「混沌(カオス)の美学」*などという主張が対置される。アジアの都市とヨーロッパの都市は違うのであって、日本には日本の都市のあり方、美学がある、という主張である。

 都市景観の問題は確かにある意味では美学の問題である。しかし、「美」とは相対的なものであって、古今東西普遍的なものではない。だから、この雑然とした日本の都市景観に「混沌の美」を感じる人がいてもおかしくはないであろう。問題は、その「美」がどう共有されているかである。

 「美」の共有といっても、「美」という「もの」があって、それを所有するかどうか、ということではない。問題は、個々の建造物が美しいかどうかという価値判断ではなく、景観を生み出す仕組みである。そこにあるルールがあるかどうかである。ある見方からすると、一方は整然と「秩序」だっているように見え、他方が「混沌」に見えたとしても、その「混沌」を生み出すルールが共有化されているとすれば、そこには「混沌の美学」があるといっていい。共有化されたルール、秩序が要するに美学である。二つの建物が、隣り合って、かってな「美」を競う場合は「混沌の美学」とはいわないのではないか。もちろん、それが日本で共有されているのであれば、それも「ルールなきルール」と呼んでもいい。

 そこで、ルールとは何か、すなわち秩序とは何か、が問題である。近代(産業革命)以前において、景観を生み出すルールはある程度わかりやすい。土、石、紙、木などの自然(生物)材料を主体とする一定の素材を用い、地域毎に、地域の事情にあった仕組みでつくられてきた町や村の景観は、色にしても形態にしても自ずと調和がとれていた。しかし、鉄とガラスとコンクリートを素材とする近代建築のそもそもの理念は、世界中で同じ建物を建設しうるということである。超高層ビルが同じように林立する世界中の大都市の景観がその象徴である。工業材料は世界中にばらまかれ、世界中の都市を同じような色に変えてきたのである。近代以前のルールと近代のルールは相容れないままに分裂してしまっているのである。

 従って、ここでも問題は一人の「建築家」の問題を超えていると言わざるを得ない。しかし、それでも「建築家」は個々の仕事において景観に対する責任を問われていることに変わりはない。景観を形成しているルールに対して自らの態度を明らかにすることが常に求められるからである。

 横尾委員会は、二年間の討議を経て、七つの提言を行うに至ったが*6、その前提とされたのが「都市空間の公共性ー景観は市民のもの」という概念である。

 「西欧の秩序ある美しい都市景観に対して、日本のそれはいかにも秩序に乏しい。建物外部の広告物、主張の強い表現の建築ファサード、林立する電柱、バックヤードのような乱雑な屋上など枚挙に暇がない。都市景観に対する市民の関心の高い歴史的都市においてさえも、以上のような乱雑な現象は見られるのである。」

 西欧の都市一般が秩序ある美しい都市景観をしていると言い切れるかどうかは別として、日本の都市景観が秩序に乏しいことは明らかである。

 「この乱雑さは、日本の固有の事情、土地のゆとりが少ないこと、また、都市が木造建築群から、一部の住宅、社寺、邸宅などを除き、西洋風建築群・近代的構造建築群へ変貌してきた経過などから、ある程度やむ得ない帰結であった、という暗黙の了解があるからかもしれない。ともあれ、この無秩序な都市景観は、市民たちにとって決して快いものではない。彼らは一見無頓着に振る舞っていても、心底に自らの住む街を快く美しくすることを望んでいるに違いない。いま彼らは、景観は市民のもの、という自覚を持つ時がきている。」

 「市民」が都市景観を無秩序と思っているかについては留保しなければならないかもしれない。何故なら、都市景観を無秩序にしているのも「市民」だからである。建築家もひとりの「市民」である。しかし一方、建築家には専門家として「秩序ー無秩序」の問題に答える必要がある。

 「進んで彼らは、都市景観の美しさについて普遍的な原理を学び、都市の個性、機能、歴史、地勢に応ずる景観デザインの思想について聴き、みずから都市の景観形成に参加していく、このような情勢が到来しつつあるように思えるのである。識者はこれに答える必要がある。」

 都市景観と美とルールをめぐって興味深いのが真鶴町(神奈川県)の「美の条例」である。リゾートマンション開発のラッシュに手を焼いた町が開発抑制策として「まちづくりまちづくり条例」を制定する、その条例が通称「美の条例」と呼ばれるのである*。

 条例は6章31条からなっている。条例全体は、住民参加を義務づける画期的な内容になっているが、中でもユニークなのが第10条「美の原則」である。「場所」(建築は場所を尊重し、風景を支配しないようにしなければならない)など、「格づけ」「尺度」「調和」「材料」「装飾と芸術」「コミュニティ」「眺め」に関わる八つの原則からなっている。また、69のキーワードが用意されている。下敷きになっているのは、C.アレグザンダーの「パターン・ランゲージ」*である。また、チャールズ皇太子の「英国の未来像ー建築に関する考察」*における10原則である。

 この「美の条例」をめぐっては、もちろん様々な議論が巻き起こった。美は絶対的なものか、美は強制できるのか、「美の条例はファシズムではないか」等々。評価は分かれるが、ユニークな試みである。具体的に、コミュニティ・センターが「パターン・ランゲージ」の方法に従って設計されている。条例という制度的枠組みが先行するかたちではあるがひとつのルール設定の試みである。少なくとも、全国画一的な法律ではなく、自治体独自の「条例」によって、望ましい街並みを誘導しようという方向は間違ってはいないのである。


 2-4 計画主体の分裂

  横尾委員会のスローガンは「縦社会の横働き」*であった。すなわち、日本の「縦社会」の弊害を打破するためには「横働き」(横のネットワーク)が必要、ということだ。具体的に、建築界にも「縦社会」の問題がある。建設業界には重層的下請構造と言われるピラミッド構造があり、学会には専門分化の体制、建築都市計画行政には「縦割り行政」がある。

 縦割りの構造の成立にもそれなりに理由がある。近代化という一定の目標が設定される中での役割分担のシステムとしては効率的であった。また、日本のムラ的組織原理を維持していくのには好都合であった。日本には歴史的に形成された「縦社会の論理」*7がある。

 しかし、国際化の流れの中で、また、価値観が多様化する中で、「縦社会の論理」は必ずしもうまく機能しなくなる。そこで必要なのが「横働き」である。

 まず問題は、狭い枠に問われた「木を見て森を見ず」の議論のみ横行し、大きな議論がなされなくなっていることである。あるいは、決められた規則や前例のみに囚われ、状況の変化に対応できないことである。第一に、建築界の議論が一般に伝わっていかない、という問題がある。また、それ以前に建築界の内部が「縦割り社会」となっている問題がある。建築学会にしても、様々な業種団体の寄り合いの趣がある。

 具体的に、公共建築の計画を考えてみる。いわゆる「箱物行政」*と今日揶揄される分野である。

 地方自治体を司る首長は、地域住民の様々なニーズを汲み取り、それに答えようとするのであるが、眼に見える形で極めてわかりやすいのが「箱物」=公共施設の建設である。選挙で選ばれる首長にとっては、任期中にその実績を示す必要があるのである。地域住民のための施設空間であり、地域の建設業界は仕事を得るというメリットもある。問題は、公共施設の建設のみが目的化されて、地域住民の真のニーズに合わないことが多々あることである。具体的に、ほとんどの場合、管理運営の体制が決まらないままで建設が進められる。いわゆるソフトがないままハードな施設建設が先行する。「箱物行政」と言われる由縁である。

 施設建設の企画から建設へ至る過程にも多くの問題がある。まず、補助金制度の問題がある。施設建設の企画そのものは中央官庁で発想され、各自治体に補助金とともに同じような施設が建設されるのである。また、単年度予算の問題がある。予算の決定から、設計者の選定、基本設計、実施設計、そして建設は極めて短期間に行わなければならないのも画一的なプログラムになる理由である。時間がないから、前例主義が罷り通る。すなわち、似たような施設を踏襲した無難な仕事になる。じっくり時間をかけて、それぞれの地域の事情を考慮した創意工夫の入る余地がない。

 発注者である自治体の担当者が必ずしも建築の専門家ではないということもある。あるいは、建築の専門スタッフを抱える余裕のない自治体も少なくない。また、担当者が短期間に部署を変わるという問題がある。自治体に営繕部門がある場合も、必ずしも、公共建築全般を一貫して担うかたちがとられることはむしろ希である。

 農林水産省、文部省、建設省、運輸省、厚生省、労働省等々の事業は別個に行われる。縦割り行政の弊害は、地方自治体において顕著である。省庁毎の施策が連携なしに押しつけられるのがむしろ普通である。例えば、用地取得の問題から、複合的で一体的な施設を建設した方が合理的なのに、なかなかうまくいかない。地域よりも各部署の実績、省益が優先されるのである。

 設計者選定の仕組みも一貫して曖昧である。あくまで官主導の行政であって、「建築家」は「出入りの業者」でしかない。公共建築の設計の仕事を単なる図面を書く仕事として認識する「設計業者」も少なくない。事実、自治体側からは指名業者登録を求め出入り業者を組織化し、他方設計を受注する組織としての設計事務所の組合が組織されるなど、地域的な構造が出来上がっているのが一般的である。

 「設計料入札」*が未だになくならないのは、会計法上の問題とは別に以上のような公共事業を担う既存の利権構造が前提にされているからである。なぜ、設計競技が一般化しないかも同じ理由である。また、設計競技が行われる場合も、「疑似コンペ」*が横行するのは、公共建築の設計が単に仕事の受注としてしか考えられていないからである。

 こうして公共建築の設計において、地域住民の参加の余地はほとんどない。選挙において首長を選び、その見識に委ねるしかない。しかし、その首長や議員の選挙を支えてきたのは、主として公共事業を支える建設業界と政官界の密接な構造なのである。  

 さらに、まちづくりを考えてみる。そこにはほぼ同じ様な構造がある。

都市計画といってもバラバラなのである。第一には縦割り行政の問題がある。行政内部でもまちづくりの方針はしばしば分裂している。また、行政のコントロール(規制)とディベロッパー(開発業者)とのいたちごっこの問題がある。すなわち行政がかくあるべしというマスタープラン*を描いても、実際に物理的にまちをつくっていくのはディベロッパーである。自治体による都市計画は公共事業の実施を中心としている。インフラストラクチャーの整備、また、施設建設(箱物行政)が主体である。

 日本の都市計画・建築行政はコントロール行政である。民間の開発行為について、開発規模、用途などを規制する手法が基本である。行政の側に規制の手段は少なく、ディベロッパーは、場合によると、法規制の穴を捜して自らの利潤を最大化しようとする。行政の実施するプロジェクト事態もディベロッパーと同じ現実的な条件で実現する他なくしばしばマスタープランは絵に描いた餅となる。さらに問題はマスコミや学識経験者なるものである。彼等は理想としての提案提言を行うけれど決して責任はとらない。そして、極めて問題なのは、その主張なり提言が現実の都市計画まちづくりの分裂を隠蔽してしまうことである。

 ひとつの問題は審議会システムである。様々な施策について各界代表や学識経験者に諮問する審議会が設けられるが、多くの場合、政策立案ではなく政策追認の機能しかもたない。学識経験者の多くは単なるイエスマンである。あるいは、言いたいことは言ったけれどという言い訳によって、責任を他に転嫁する。ここでも住民の参加は疎外されてしまっている。

 マスコミがとりあげるのは、建設や建物の高さをめぐって反対運動のある場合など、センセーショナルなケースである。多くの場合、その場限りの対応でしかない。時として大きな力をもつけれど、日常的なまちづくりの施策に結びついてはいない。

 それではどのような仕組みがいいのか。本書で主張する「タウンアーキテクト」制がそのひとつであるが、その前に指針がある。情報公開(ディスコロージャー)である。まちづくりに関して、全ての情報はオープンでなければならない。まちづくりのプロセスが透明でなければ、参加はあり得ないのである。公開制とともに問われるのは、 公平性であり、公正性である。公平、公正といっても必ずしも容易に実現できるわけではない。しかし、はっきり言えるのは、その前提にあるのが情報公開だということである。誰がどういう決定を下すのか、それを常に公開することから、新しい仕組みは組み立てられるのである。

 もうひとつ指針にしたいのは現場主義である。いくら補助金が貰えるといっても不要の施設を建設するのは大問題である。維持管理のつけを払わねばならなくなって窮地に陥る自治体も少なくない。当然のことながら、現場の実態と合わない施策は要らないのである。具体的な施策を考える上で地域のニーズを把握するのが出発点であるが、その際、現場からの発想、現場での創意工夫が大事にされるべきなのである。


 2-5 「市民」の沈黙

 こうして、建築界の抱える様々な問題は、地方自治体のまちづくりの施策とも密接に結びついている。結局ベースになるのは地域社会(コミュニティ)のあり方である。

  まちづくりの主体は結局はまちに住む人々なのである。その事実がはっきりと明らかになるのは、大きな災害時など安心・安全が脅かされる事態が発生した時である。

 阪神淡路大震災の時、倒壊した家屋の下敷きになった人たちの救出や消火など緊急事態に対処する上でまず拠り所になったのは近隣である。大規模な都市災害の場合、消防、警察など災害救助の役割を担う職員を含めて自治体職員も被災者となる。自治体の危機管理システム、防災体制が完備していたとしても、必ず機能するとは限らないのである。災害発生まもなくの緊急事態に対処しえるのは個々の地区における相互扶助活動である。

 上述前述したように、災害時に備えて必要とされるのは、地区の自立性である。火災発生時に、消火活動のために必要な水は一定の地区内に確保されている必要がある。災害時に緊急に必要とされる薬品、食料などは一定の地区内に備蓄されるか、速やかに供給されるシステムが用意されている必要がある。ガス、水道、電気、交通などライフライン、インフラストラクチャーなどにはフェイル・セーフのシステムが必要である。一極集中型のシステムではなく、多核分散型のシステムが用意されていなければならない。 

 災害後の避難生活を支えるのも基本的には地域社会である。小中学校、病院などの地域施設、近隣公園などが避難所生活の拠点となる。応急仮設住宅地の生活において重要なのも地域社会である。地域社会と切り離された形の応急仮設住宅への入居は、単身老人の孤独死など大きな問題を残した。地域社会を基礎としない公共住宅の供給が空家を大量に生み出している。

 まちづくりにおいて究極的に問われるのは地域(地区)における合意形成である。集合住宅の復旧、建替え、区画整理事業、再開発事業など復興のための全ての計画において必要なのは住民(市民)のまとまりである。地域社会の安全・安心のために個々人が果たすべき役割が共有されなければ合意形成は困難である。

 以上のようにまちづくりの基礎は地域社会にある。しかし、地域社会を都市地域計画の主体とする仕組みが日本にはない。日本の都市計画制度には、繰り返し指摘するように、地域住民の積極的参加を位置づける仕組みがない。

 それ以前に住民の受動性がある。一方で、地域住民の都市計画への参加意識は必ずしも高くないのである。あるいは、地域の利益のみの追求(地域エゴ)、企業利益のみの追求が都市地域計画のテーマとなっている。私的所有権が前提される中で、公共の福祉等、都市景観の公共性、地域社会の共用基盤としての公共空間についての認識は日本においては必ずしも定着していないのである。

 そうした状況において、地域社会を主体とする都市地域計画の仕組みの確立のために「建築家」「都市計画家」の果たすべき役割は大きい。都市地域計画について、「公共」自治体と地域社会(「民間」)の関係を媒介する組織として「NPO」*(非営利組織)が位置づけられる必要がある。NPOは、都市計画のプロセスを一貫してサポートし、調整する役割を果たす組織として位置づけられる。

  もちろん、都市地域計画の実施主体としての自治体の役割は大きい。しかし、自治体が全ての地区についてその計画を一貫して担うのには限界がある。地域社会(地区)の自発的な取り組みを前提として、それをサポートする形が基本である。

 一方、地域社会(地区)が自らの要求を自ら都市地域(地区)計画へまとめあげるのにも限界がある。地域社会内部で利害はしばしば対立するし、要求をまとめ上げる時間、エネルギーは大きな負担となるのが一般的である。また、都市地域計画に関する専門的知識も必要とされる。

 自治体と地域社会を媒介する機関としてNPO、あるいは様々なヴォランティア・アソシエーションの活動が位置づけられる必要がある。その職能は、タウン(コミュニティ)・アーキテクト(プランナー)、ハウス・ドクター*等として理念化される。様々な形の新しい都市地域計画の仕組みがそれぞれの地域で試行され、確立されるべきである。

 横尾委員会は、次のような提言を掲げた。


 「安心・安全のための建築・都市計画立法における地方分権化とコミュニティ・ルールの確立へ

 建築あるいは都市のあり方は地域によって異なる。年間降雨量や日射量、あるいは風速など自然の条件が地域によって異なるのは当然であり、建築を取り巻く条件も地域の歴史や風土によって異なるのはごく自然である。しかし、わが国の都市や建築のあり方は次第に画一化しつつあり、地域の固有性を失いつつある。

 産業社会の論理そのものが地域の固有性を奪いつつあるといっていいが、議論すべき大きな問題として法制度のあり方がある。わが国の都市や建築を規定する法律は全国一律である。法制度は公的な(公共の福祉の)立場から最低限の基準を定めるだけとはいえ、一律の基準に適合する形で都市建築行政の展開が地域の特性を喪失させてきたことは否定できない。

 様々なレヴェルでの地方分権化とともに地域に固有な建築や都市のあり方を目指すルールの確立が急務である。安心・安全のための都市計画の基礎は地域社会(コミュニティ)にある。地域ごとに地域の固有の条件に合わせて都市計画が立案されるべきである。そのためには都市計画への市民参加が不可欠であり、市民立法の形態も様々に試行される必要がある。その前提として、建築、都市計画分野における地方分権化が大きな目標となる。」


2021年9月28日火曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅰ 砂上の楼閣  第1章 戦後建築の五〇年

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 Ⅰ 砂上の楼閣


 第1章 戦後建築の五〇年


 瓦礫と化して原形をとどめぬ民家の群。延々と拡がる焼け跡。一キロにわたって横転した高速道路。あるいは落下した橋桁。駅がへしゃげ、線路が飴のようにひん曲がる。ビルが傾き、捻れ、潰れ、投げ出される。信じられないような光景である。新幹線の橋桁が落っこちる、そんなことがあっていいのか。

 阪神・淡路大震災の六日後、西宮から新神戸まで、西宮市、芦屋市、東灘区、灘区、中央区と、国道二号線を軸に、阪急神戸線、JR東海道線、国道四三号線で挟まれた帯状の地区を縫うように歩いた。一二日後、新神戸から三ノ宮、元町、神戸、兵庫、長田と歩いた。最も被害が集中した地域である。それぞれ二〇キロになろうか。

 相次ぐ奇怪な街の光景に息をのみ続ける体験であった。横転した家の屋根が垂直になって、真上から見るように眼の前にある。家や塀、電柱がつんのめるように倒れて路をふさいでいる。異様な形の物体がそこら中に転がっている。何もかもが、折れ、転がり、滑り、捻れ、潰れている。平衡感覚が麻痺してきた。どうしたらこんな壊れ方をするのか。瓦屋根、多くの土を載せた木造の古い住宅がやられている。在来の木造住宅が弱かったという印象は拭えない。瓦が飛び散り、モルタルも振り落とされている。火が出ればどうしようもない。

 しかし、木造住宅だけではない。RC造だって横転している。倒れたものとそうでないものとを分けたのは一体何か。異様なのは、中間の階で潰れている。柱の経(太さ)が切り替わる階、あるいは壁の量が変わる階で潰れている印象である。日本ではあり得ないと言われていた「パンケーキ型」*崩壊である。高層の市営住宅が傾いている。眼も当てられない。また、ピロティー*が駄目だ。鉄道の高架もひどい。鉄骨造の中にバラバラに崩れたものがある。しかし、しっかりした設計の建築物は総じて残っている印象である。

 北野町の異人館街*は比較的ダメージは少ない。地盤のしっかりしている高台だからであろう。しかし、無事だと言われた風見鶏の館(旧トーマス邸)*も煙突が折れ、クラック(ひび割れ)が入っている。三ノ宮は、ひどい。銀行、証券会社のビルが数多くやられている。地下街は無事だが、ガス、水道は二週間経っても駄目だ。地下鉄がやられている。大開では駅が潰れて道路が大きく陥没している。居留地の歴史的建造物は比較的無事だったがダメージを受けたものも少なくない。南京町は報道されたほどひどくはない。長田の菅原市場周辺の火災跡はむごい。


 まるで戦後まもなくの廃墟のようではないか。廃墟から出発し、五〇年を経て、再びわれわれが眼にしたのはまた廃墟であった。


 1-1 建築家の責任

 戦後五〇年の節目に当たる一九九五年は、日本の戦後五〇年のなかでも敗戦の一九四五年とともにとりわけ記憶される年になった。阪神・淡路大震災○写真●と「オウム」事件*。この二つの大事件によって、日本の戦後五〇年の様々な問題が根底的に問い直されることになったのである。加えて、年末からは「住専問題」*(不良債権問題)が明るみに出た。それ以降バブルのつけに日本中が悩まされている。一体、われわれの生活の基盤はどうなっているのか。日本の戦後社会を支えてきたものが大きく揺さぶられたのが一九九五年であった。そして、建築と都市の建設に関わる「建築家」がいかに非力かを思い知らされたのが阪神・淡路大震災である。

 震災直後、政府の危機管理(リスク・マネージメント)能力のなさが大きくクローズ・アップされた。首相の権限、中央政府と地方自治体の権限、地方自治体間の関係、自衛隊の出動、外国からの救援隊の受け入れ、などをめぐって日本の制度の欠陥が次々と明るみに出た。しかし、不思議と責任を問う声が少なかった。人智を超えた「自然現象」を前にしては仕方がない、ということであろうか。原因究明、責任追及以前に、緊急非難、復旧、復興がすぐとりくむべき眼前の課題となった。

 果たして「建築家」に責任はなかったのか。高速道路が横転し、新幹線や鉄道線の高架が落下し、ビルが傾いたのである。決してあってはならない事態である。「建築家」には安全な建築物をつくる使命があるのではないか。少なくとも建築物が倒壊して人命を奪うなどということは許されることではない。

 何が問題であったのか。すぐさま問われたのは、建造物の安全性を規定する建築基準法*のような法律や基準である。基準は果たして充分だったのか。阪神・淡路大震災に限らず、大きな地震や災害の度に問題になる。そして、基準は改定を重ねてきている。今回も基準法を遵守した建物は安全であった、あるいは新しい基準法は大丈夫であったがそれ以前の法に従うものは被害率が高かった、という主張がすぐさまなされた。しかし、高速道路や高架橋には法的基準があるわけではない。法を守っていれば「建築家」の責任は問われない、ということではない。

 もちろん、法を守らないのは論外である。いわゆる「違反建築」の問題*はわが国の「建築家」のみならず一般市民の建築および建築法規に対するある態度を示している。例えば、限られた土地に少しでも多くの空間を確保したいとばかりに、建蔽率*、容積率*違反は日常茶飯事である。日本の建築風土、建築文化の問題といってもいいかもしれない。

 一方、法の側にも問題がないとは言えない。全国一律の規定で地域の事情が考慮されない。例えば、伝統的に木造住宅が建てられてきた地区に木造住宅が防火上の理由で建設できないと言うことがある。実態として法を守れない状況があるのである。建築基準法がザル法といわれる由縁である。

 奇妙なのは「既存不適格」とされる建築物である。既存不適格建物とは、基準となる法が変わり、現行法では法律に適合しない、現在では建設できない建築物である。こんどの震災で「既存不適格」建物は駄目であった、ということになると一体誰の責任になるのか。法律が悪い、それを定める国が悪い、といってすむ問題なのか。法とは一体何か。

 まず、設計(書類)上は法や基準を遵守していても、手抜き工事などその通りに施工(建設)されない問題がある。誰が、そのチェックをするのか。震災以後、検査機関の必要性が叫ばれたのは当然である。「建築家」が管理する責任があるが法的には曖昧である。管理する能力の問題もある。保険の制度などがないから瑕疵について責任をとる経済的能力がない。

 さらに、法や基準を守って建設された建物も劣化するということがある。実際今回被害の大きかった木造住宅は老朽化したものが多かった。白蟻や結露、漏水によって部材が腐っていたのである。木造住宅に限らない。どんな建物でも、新築の時には基準を満たしていても、次第に老朽化するのは当然である。

 要するに、安全は必ずしも法によって担保されるわけではないのである。法や基準は時代とともに変わりうるし、絶対的ではない。しかし、それ以前に絶対安全な建築物などないのである。

 絶対安全な建築物がありえないとすると、「建築家」はどうすればいいのか。「建築家」に最初から問われているのは、もしもの場合にどう備えておくか、ということだ。

 だから、「建築家」は自分の施主の建築物を法律だけを守って設計すればいいということにはならない。施主の強い要求に応えて違反をするのは論外である。また、経済性のみ考えてぎりぎりの設計をするのも問題である。「建築家」に要求されるのは次元の違う価値である。極端な場合、建てない方がいい、という場合だってある。

 阪神淡路大震災と同じような大地震を経験した中国の唐山市*(唐山地震)の市長が、空き地は震度七にも八にも耐えるといったという。建物は倒壊しても、近接する空き地に逃れる時間があれば人命が失われることはないのである。

 問題は、だから、一方でまちのあり方である。一個の建築物を設計する場合でも、決して無視してはならないのは近隣関係である。当然のことだけれど、建築物は近隣との関係で成り立っている。すなわち、「建築家」は一個の建築物の相隣関係をどう考えるかを問われることにおいて、必然的に都市(計画)全体と関わりをもつのである。

 もちろん、一人の「建築家」が関われる範囲は限られている。工事管理の問題にしても、都市計画の問題にしても、社会的なシステムが問題である。しかし、「建築家」であるとすれば、問題を全て社会システムの問題としてすましかえっているわけにはいかないのではないか。もう少し責任があり、やれることがあるのではないか。しかし、それ以前の問題がある。「建築家」というのは、どうも、責任をとりたくないようなのである。責任のないところに社会的信用はなく、その仕事を職能として成立させる条件は生まれるべくもないのである。

 「建築家」が阪神淡路大震災に対してまずなすべきは素直な反省である。また、徹底した原因追及である。原因究明ということでは、おかしなことがいっぱい起こった。倒壊したビルはさっさと片づけられ、個々の建物のどこに問題があったのか隠されたケースも多いのである。また、実際よくわからない事態、解明されないこともある。地中や壁の中で何が起こっているのか不明なのである。また、意図的に情報が隠されている場合がある。真相究明、情報公開が叫ばれ続けている由縁である*1。


 1-2 変わらぬ構造

 阪神・淡路大震災は、多くの人々の命を奪った。かけがえのない命にとって全ては無である。残された家族の人生も取り返しのつかないものとなった。復旧・復興計画といっても、旧に復すべくない命にとっては空しい。残されたものに課せられているのは、阪神・淡路大震災の教訓を反芻し、続けることであろう。被災地は見捨て去られたかのようであった。直接に震災を体験したもの以外にとって、震災の経験は急速に風化していく。震災の経験は必ずしも蓄積されない。もしかすると、最大の教訓は震災の経験が容易に忘れ去られてしまうことである。

 震災後年月を経るにつれて、被災地は落ち着きを取り戻したように見える。ライフライン(電力、都市ガス、上水道、下水道、情報・通信)に関わる都市インフラストラクチャーの復旧が最優先で行われるとともに、応急仮設住宅の建設から復興住宅の建設へ、住宅復興も順調に進んできたとされる。また、市街地復興に関しても、重点復興地域*を中心に、各種復興事業が着々と進められている。

 しかし、全て順調かというと、必ずしもそうは言えない。「重点復興地域」のなかにも、合意形成がならず、一向に復興計画事業が進展しない地区もある。また、「白地」地区と呼ばれる、「重点復興地域」から外され基本的に自力復興が強いられた八割もの広大な地区のなかに空地のみが目立つ閑散とした地区も少なくない。それどころか、復旧・復興計画の問題点も指摘される。例えば、復興住宅が供給過剰になり、民間の住宅賃貸市場をスポイルする一方、被災者の生活にとって相応しい立地に少ない、といったちぐはぐさが目立つのである。

 復旧・復興計画の問題点をみてみよう。その諸問題は、実は日本の都市計画が本質的に抱えている問題といっていいのである。


 a 都市計画の非体系性

 復旧・復興計画の全体は、いくつかの軸によって立体的に捉える必要がある。まず、応急計画、復旧計画、復興計画という時間軸に沿った各段階における計画の局面がある。また、計画対象区域のスケールによって、国土計画、地域計画、都市計画、地区計画というそれぞれのレヴェルの問題がある。さらに、国、県、市町村といった公的計画主体としての自治体、民間、住民、プランナーあるいはヴォランティアといった様々な計画主体の絡まりがある。すなわち、少なくとも、どの段階の、どのレヴェルの計画手法を、どのような立場から評価するかが問題である。

 また、それ以前に、復旧・復興計画の評価は、フィジカルプランニングとしての復旧・復興計画の手法に限定されるわけではない。震災のダメージは生活の全局面に及んだのであって、単に物的環境を復旧すれば全てが回復されるというわけではないのである。住宅を失うことにおいて、あるいは大きな被害を受けることにおいて、経済的な打撃は計り知れない。住宅・宅地の所有形態や経済基盤によってそのインパクトは様々であるが、多くの人々が同じ場所に住み続けることが困難になる。その結果、地域住民の構成が変わる。地域の経済構造も変わる。ダメージを受けた全ての住宅がすぐさま復旧され(ると公的、社会的に保証され)たとしたら、事態はいささか異なったかもしれない。しかし、それにしても、数多くの犠牲者を出すことにおいて家族関係や地域の社会関係に与えた打撃はとてつもなく大きい。避難生活、応急生活において問われたのはコミュニティの質でもあった。また、大きなストレスを受けた「こころ」の問題が、物理的な復旧・復興によって癒されるものではないことは予め言うまでもないことであった。

 復旧・復興計画の評価は、以上のように、まず、その体系性、全体性が問題にされるべきである。すなわち、地域住民の生活の全体性との関わりにおいて復旧・復興計画は評価されるべきである。そうした視点から、予め、阪神・淡路大震災後の復旧・復興計画の問題点を指摘できる。その全体は必ずしも体系的なものとは言えないのである。まず指摘すべきは、復旧・復興計画の全体よりも、個別の事業、個別の地区計画の問題のみが優先されたことである。例えば、仮設住宅*(建設条件)の建設場所、復興住宅の供給等、地域全体を視野に入れた計画的対応がなされたとは言い難いのである。また、合意形成を含んだ時間的なパースペクティブのもとに将来計画が立てられなかった。既存の制度手法がいち早く(予め)前提されることによって、全体ヴィジョンを組み立てる土俵も余裕もなかったことが決定的であった。


 b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

 震災復興は時間との戦いであり、時間的な区切りが大きな枠を与えてきた。

 被災直後は、人々の生命維持が第一であり、衣食住の確保が最優先の課題である。ガス、水道、電気、電話、交通機関といったライフラインの一刻も早い復旧がまず目指された(ガスの復旧が完了したのが四月一一日、水道復旧が完了したのが四月一七日である)。そして、避難所の設置、避難生活の維持が全面的な目標となる。多くの救援物資が送られ、多くのヴォランティアが救援に参加した。未曾有の都市型地震ということで、また、高速道路が倒壊し、新幹線の橋脚が落下するといった信じられない事態の発生によって多くの混乱が起こった。リスクマネージメントの問題等、その未曾有の経験は今後の課題として生かされるべきものである。むしろ、この段階の評価は、震災以前の防災対策、防災計画、さらに震災以前の都市計画の問題として、議論される必要がある。また、この大震災の教訓をどう復旧・復興計画に活かすかが問われていた。

 最初に大きな閾になったのが三月一七日(震災後二ヶ月)である。建築基準法第八四条*の地区指定により当面の建築活動を抑制する措置が相次いで取られたのである。この地区指定の問題は復旧・復興計画において大きな決定的枠組みを与えることになった。阪神間の自治体(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市)では、「震災復興緊急整備条例」が三月末までに相次いで制定されている。

 続いて、仮設住宅の建設と避難所の解消が次の区切りとなる。仮設住宅入居申し込みは一月二七日に開始されている。また、「がれきの処理」無償の期限が復旧の目標とされた。がれき処理の方針は震災一〇日後に出される。倒壊家屋の処理受け付けは早くも一月二九日に開始されている。このがれき処理は結果的に多くの問題を含んでいた。補修、修繕によって再生可能な建造物も処理されることになったからである。ストックの活用という視点からは拙速に過ぎた。資源の有効再生という観点から、貴重な経験を蓄積する機会を逃したと言えるのである。さらに、まちの歴史的記憶としての景観の連続性について考慮する機会を失したのである。災害救助法に基づく避難所が廃止されたのは八月二〇日である。兵庫県が「救護対策現地本部」を完全撤収したのが八月一〇日、震災後ほぼ半年で復旧・復興計画は次の段階を迎えることになる。

 その半年間に様々なレヴェルで復旧・復興計画が建てられた。国のレヴェルでは、「阪神・淡路大震災復興の基本方針および組織に関する法律」(二月二四日公布 施行日から五年)に基づいて「阪神・淡路復興対策本部」が設置され、「阪神・淡路地域の復旧・復興に向けての考え方と当面講ずべき施策」(四月二八日)「阪神・淡路地域の復興に向けての取り組指針」(七月二八日)などが決定された。また、「阪神・淡路復興委員会」*(下河辺委員会)が設けられ、二月一六日の第一回委員会から一〇月三〇日まで一四回の委員会が開催され、一一の提言および意見がまとめられた*。タイムスパンとしては「復興一〇ヶ年計画の基本的考え方」が提言に取りまとめられた。県レヴェルでは「阪神・淡路震災復興計画策定調査委員会」(三木信一委員長 五月一一日発足)によって、都市、産業・雇用、保健・医療・福祉、生活・教育・文化の四部会の審議をもとにした三回の全体会議を経て六月二九日に提言がなされた(「阪神・淡路震災復興計画(ひょうごフェニックス計画)」。

 こうした基本理念や指針の提案の一方、具体的な指針となったのが県の「緊急三ヶ年計画」である。「産業復興三ヶ年計画」「緊急インフラ整備三ヶ年計画」「ひょうご住宅復興三ヶ年計画」が三本の柱になっている。住宅復興に関する助成の施策は、ほとんど三年の時限で立案され、ひとつの目標とされることになった。また、応急仮設住宅の在住期限が二年というのも三年がひとつの区切りとなった理由である。

  緊急対応期、短期、中期、長期の時間的パースペクティブがそれぞれ必要とされるのは当然である。ひとつの大きな問題は、それぞれの間に整合性があるかどうかである。しかし、それ以前に、住民の日々の生活が優先されなければならない。そのためには、柔軟でダイナミックな現実対応が必要であった。しかし、復旧・復興計画を大きく規定したのは既存の法的枠組みである。従って、復旧・復興計画の体系性を問うことは基本的には日本の都市計画のあり方を問うことにもなる。


 c 都市計画の手法と地域分断

 復旧・復興計画を主導したのは土地区画整理事業*である。あるいは市街地再開発事業である。震災四日後、建設省の区画整理課の主導でその方針が決定される。驚くべき早さである。モデルとされたのは酒田火災*(一九七六年)の復興計画である。あるいは戦災復興であり、関東大震災後の震災復興である。復興計画の策定が遅れれば遅れるほど、復興への障害要因が増えてくる、復興計画には迅速性が要求される、という「思い込み」が、日本の都市計画思想の流れにひとつの大きな軸として存在している。関東大震災の復興も、戦災復興も結局はうまくいかなかった、酒田の場合は、迅速な対応によって成功した、という評価が建設省当局にあったことは明らかである。区画整理事業は、権利関係の調整に長い時間を要する。逆に、震災は土地区画整理事業を一気に進めるチャンスと考えられたといっていいだろう。

 二月一日、神戸市、西宮市で建築基準法第八四条による建築制限区域が告示され、二月九日、芦屋市、宝塚市、北淡町が続いた。第八四条の第二項は一ヶ月をこえない範囲で建築制限の延長を認める。すなわち二ヶ月がタイムリミットとされ、都市計画法第五三条*による建築制限に移行するために、三月一七日までに都市計画決定を行うスケジュールが組まれた。この土地区画整理事業の突出は復旧・復興計画の性格を決定づける重みをもったといっていい。少なくとも以下の点が指摘される。

 ①復旧・復興計画は、基本的に既存の都市計画関連制度に基づいて行われた。また、その方針は極めて早い段階で決定された。復旧・復興計画の全体ヴィジョンを構想する構えはみられない。関東大震災後、あるいは戦災復興時のように「特別都市計画法」の立法が試みられなかったことは、復旧復興計画を予め限定づけた。

 ②二月二六日に「被災市街地復興特別措置法」が施行されるが、既存の制度的枠組みを変えるものではなく、震災特例を認める構えをとったものであった。土地区画整理事業および市街地再開発事業*を都市計画決定するために後追い的に構想制定されたものである。

 ③復旧復興計画は、法的根拠をもつ土地区画整理事業および市街地再開発事業を中心として展開された。また、その都市計画決定の手続きが復旧・復興計画のスケジュールを決定づけた。「被災市街地復興特別措置法」によって復興促進地域に指定すれば二年間の建築制限が可能となったが、全ての地区で既往のプロセスが優先された。

 ④土地区画整理事業、市街地再開発事業の決定は、基本的にトップ・ダウンの形で行われ、住民参加のプロセスを前提としなかった。あるいは形式的な手続きを優先する形で決定された。決定の迅速性(拙速性)の反映として、都市計画審議会*の決定には「今後、住民と十分意見交換すること」という付帯条件がつけられる。また、骨格の決定のみで、細部の具体的な計画案は追加決定するという異例の「二段階方式」が取られた。

 こうして被災地区は、土地区画整理事業、市街地再開発事業の実施地域とそれ以外の大きく二分化されることになった。いわゆる「重点復興地域」とそれ以外の「震災復興促進区域」の区別(差別)である。注目すべきは、震災以前からの継続事業、予定事業が総じて優先され、重点的に実施されることになったことである。震災復興計画と震災以前の都市計画が一貫して連続的に捉えられているひとつの証左である。決定的なのは、再開発事業の具体的イメージが画一的かつ貧困で、都市拡張主義の延長として描かれていることである。

 事業手法としては、もちろん、土地区画整理事業、市街地再開発事業に限られるわけではない。住宅復興あるいは住環境整備については、「住宅市街地総合整備事業」*と「密集住宅市街地整備促進事業」*を中心とする法的根拠をもたない任意事業としての住環境整備事業および住宅供給事業、あるいは住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業*(法的根拠をもつ)が復旧復興計画として想定されている。

 すなわち、被災地は復旧復興計画の事業(制度)手法によって以下のように三分割されることになった。俗に「黒地地域」「灰色地域」「白地地域」と呼ばれる。

 A地域(黒地地域)

  土地区画整理事業一〇地区

  市街地再開発事業六地区

 B地域(灰色地域)

  住宅市街地総合整備事業一一地区

  密集住宅市街地整備促進事業六地区

  住宅地区改良事業五地区

 C地域(白地地区)

 具体的には建築基準法八四条(「建築制限」)による指定地区、被災市街地復興都市計画(「被災市街地復興推進地域」)による指定地区、震災復興緊急整備条例(「震災復興促進区域」「重点復興区域」)による指定地区、あるいは被災地における街並み・まちづくり総合支援事業による指定地区が区別されるが、A、Bの各地区にはダブりがある。各事業手法が組み合わせて適応される場合が少なくない。

 復旧復興計画の問題は、この線引きによって、A、B地域の問題のみに焦点が当てられることになる。大半の地域はいわば見捨てられ、その復旧復興は公的支援のない自力復興あるいはなんのインセンティヴ(動機付け)も設定されない通常の都市計画の問題とされた。また、それ以前に、復興計画の全体がそれぞれの地域の、しかも住環境整備の問題にされたことが大きい。都市計画全体のパラダイムを考える契機は予め封じられたと言っていい。具体的には、個別事業のみが問題とされ、全体的連関は予め問題にされなかったのである。


 1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓


 a 自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。空調機械で室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てるという形で都市開発を行ってきたのであるが、そうしてできた居住地は本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 まず第一に自然の力に対する認識の問題がある。関西には地震がない、というのは全くの無根拠であった。軟弱地盤や活断層*、液状化*の問題についていかに無知であったかは大いに反省されなければならない。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きい。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した都市計画の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したといえるのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきことが大きく示唆される。 


 b フロンティア拡大の論理

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちが存在した。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心地区が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」*というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったといえる。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。拡大成長政策、新規開発政策が常に優先されてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたといっていい。


 c 多極分散構造

 日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であった。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったことによって、すぐさま明らかになった。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。


 d 公的空間の貧困 

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像をこえた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。地域施設としての公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかったケースがある。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の、他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。


 e 地区の自立性・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。

 阪神淡路大震災において最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO*(非営利組織)の役割である。


 f ストック再生の技術

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。問題なのは、社会システムの欠陥のせいにして、自らのよって立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想をこえる地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったといっていい。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも問題である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきであった。


 j 都市の記憶

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせたともいえる。復旧復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、基本的な解答を求められる。それはもちろん、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。また、それ以前に建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならないだろう。

 日本の都市がストックー再生型の都市に転換していくことができるかどうかが大きな問題である。都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性をみい出しえたどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるであろう。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。


2021年9月27日月曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 はじめに・・・裸の建築家

裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000310

 

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説

 


はじめに・・・裸の建築家

 

 「タウン・アーキテクト」とは耳慣れない言葉かもしれない。直訳すれば「まちの建築家」である。幾分ニュアンスを込めると、まちづくりを担う専門家が「タウン・アーキテクト」である。要するに、それぞれのまちのまちづくりに関わる「建築家」たちを「タウン・アーキテクト」と呼ぼうということである。

 まちづくりは本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体がまちづくりの主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。本書では日本の都市計画についていくつかの視点から考えてみた。いくつか問題があるが、地域住民の意向を的確に捉えたまちづくりを展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民のまちづくりを媒介する役割をもつ「タウン・アーキテクト」という職能を考えてみる。何も全く新たな職能というわけではない。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、「タウン・アーキテクト」は、そのまちに密着した存在として考えたい。必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちのまちづくりに継続的に関わるのが原則である。

 それでは何故「アーキテクト」なのか。大きくはふたつの理由がある。ひとつはまちづくりの具体的表現としてまちの景観が大事だということである。「建築家」は複雑な諸条件をひとつの空間やイメージにまとめあげる能力にすぐれている。あるいはそういうトレーニングを積んでいる。もちろん、ここでいう「アーキテクト」は、「建築士」ということではない。以下に見るように、その語源に遡って広義に用いたい。誰もが「タウン・アーキテクト」になりうるのである。

 もうひとつの理由が主として本書のテーマに関わる。「建築家」こそまちづくりに積極的に関わるべきなのである。何も全ての「建築家」が「タウン・アーキテクト」であれというわけではない。国家的なプロジェクトや国境を超えて仕事をする建築家は必要であるし、民間の建築の仕事はまた別である。しかし、「建築家」の仕事の原点は「タウン・アーキテクト」にあるのではないか、ということである。単なる「まちの建築家」として、あるまちで建築の仕事をしているというだけではなく、プラスアルファが欲しい。かって、大工さんや各種の職人さんは身近にいて、家を直したり、植木の手入れをしたり、という本来の仕事だけではなく、近所の様々な相談を受けるそういう存在であった。その延長というわけにはいかないけれど、その現代的蘇生が「タウン・アーキテクト」である。

 「タウン。アーキテクト」をめぐる議論は、一方、「建築家」にとっては極めて切実である。もしかするとそれ以外に「建築家の居る場所」などないかもしれないのである。 

 

 「裸の建築家」とは、もちろん「裸の王様」のもじりである。「建築家」は「王様」のように威張っているけれど、まるで「裸の王様」のように何も身につけていないじゃないか、ということだ。

 一体、「建築家」とは何者か。因みに広辞苑』を引いてみる。

 なんと「建築家」などという項目はない。「建築家」というのは幻である。かろうじて見つかるのは「建築士」という語だ。

 ●けん‐ちく【建築】 (architecture)(江戸末期に造った訳語) 家屋・ビルなどの建造物を造ること。普請(フシン)

 「建築家」とは「建築」する人のことだ。しかし、なぜ「家」などというのか。「芸術家」「作家」「美術(彫刻・画)家」「小説家」などと肩を並べるというニュアンスがある。もっとも「政治家」などというのもある。

 ●けんちく‐し【建築士】 建築士法所定の国家試験により免許を受け、設計・工事監理などの業務を行う技術者。建設大臣の免許を受ける一級建築士と、都道府県知事の免許を受ける二級建築士・木造建築士がある。

 日本には一九九七年現在、一級建築士が二七八、一八四人、二級建築士が五九五,八三六人、木造建築士が一二、四四九人、計八八六、四六九人の「建築士」が登録されている。

 しかし、「建築家」が「建築士」と同じかというと違う。「建築士」でない「建築家」は山ほどいる。「俺は「建築家」であって、言ってみれば「特級建築士」だから「建築士」の資格などいらない、「建築士」とは次元が違う存在だ」、と豪語した(する)有名「建築家」がいる。「建築士」でない「建築家」は少なくとも日本では「建築」できない。どうするか。誰かに資格を借りることになる。要するに「建築士」とパートナーを組むことになる。「建築」できない「建築家」などおかしいではないか。だから「裸の建築家」である。

 しかし、どうも「建築家」というのは「アーキテクト」という西欧語の訳語らしい。しかし、『広辞苑』には「アーキテクト」という語もない。「アーキテクチャー」は次のようだ。

 ●アーキテクチャー【architecture

 〓建築物。建築様式。建築学。構造。構成。

 〓コンピューター‐システムの論理的構造全般のこと。また、ある立場の利用者から見たコンピューターの属性。「ソフトウェア‐―」「ネットワーク‐―」

 「建築物」というが「ビルディング」とどう違うのだろう。「建築様式」というのは「アーキテクチュラル・スタイル」ではないか。「構造」は「ストラクチャー」。要するに「アーキテクチャー」というのはわからない。それに「アーキテクチャー」というのはいわゆる「建築」に限らない。「電脳建築家」(コンピューター・アーキテクト)などという。辞書を論っても埒が開かない。

 「アーキテクチャー」はもともとギリシャ語の「アルキテクトン」から来ている。「アルキテクトン」とは根源(アルケー)の技術(テクトン)のことだ。どうも「建築家」が偉そうなのはヨーロッパの伝統に根ざしているかららしい。根源的技術(アーキ・テクトン)を司るのが「建築家=アーキテクト」なのである。

 確かにヨーロッパの伝統において「建築家」は偉大な存在である。「建築家」は単に建築物を建てるだけでなく、道路、橋梁、水道、港湾などのような土木工事も行う。また、築城のみならず投石機など武器製造にも携わる。日時計、水時計、揚水機、起重機、風車、運搬機など機械製作なども行う。さらに、すべてを統括する神のような存在としてしばしば理念化されるのが「建築家」なのである。ルネサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての「建築家」である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも「建築家」の理想なのである。

 しかし、理想は理想であって、実態はどうか。そんな「建築家」などますます複雑化する現代社会に望むべくもない。だから、「裸の王様」ではないか、そんな「建築家」など最早幻ではないか、というのがここでの出発点である。

 「建築家」が「裸の王様」であることを認めることから出発するとき、何が問題となるのか。

 ややこしいのは、以上のように、そもそも「建築家」という概念や言葉が一般に流通していないことである。予め仲間うちの理念でしかない。一般人にとって、「王様」などいないのである。いるのは「建築士」であり、「図面屋」(絵描き屋、漫画屋)であり、「土建屋」であり、「建築業者」であり、「大工・工務店」であり、せいぜい「建築屋」さんなのである。

 そこで自称「建築家」は、逆に「一般大衆」を馬鹿にしにかかる。そして、啓蒙にかかる。「建築」というのは「芸術」である。「建築家」というのは「芸術家」なのだ。日本の町がちっとも美しくならないのはわれわれ「建築家」が尊敬されないからだ。

 そこで「一般大衆」は反撥する。何を偉そうな。美しい日本を破壊してきた張本人こそ「建築家」ではないか。信頼できるのは誠実な大工さんや職人さんであって、口先だけの「建築家」ではないのだ。

 こうして分裂の溝は深い。

 「裸の王様」の世界は、「建築家」の概念が移入されて以来、もう一世紀も、この溝を埋められないでいる。「建築」という理念のみが語られ続けている。「建築家」の幻想のみが浮遊している。

 

 本書では、「建築家」の「ある」あり方を考えて見ようと思う。仮にそれを「タウン・アーキテクト」と呼んでみる。「コミュニティ・アーキテクト」という言葉でもいいかもしれない。「地域社会の建築家」である。欧米では定着しつつある概念である。ただ、ここでいう「タウン・アーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」べったり(その利益を代弁する存在)なのではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体としての「タウンシップ」の間に位置づけられる。

 「建築家」という職能は、施主と施工者(建設業者)の間にあって、基本的には施主の利益を代弁する職能である。医者、弁護士などとともにプロフェッションとされるのは、命、財産に関わる職能だからである。その根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。あるいは市民社会の論理である。「建築家」が第三者として施主と施工者の利害調整を行うためには、その前提として市民社会が「建築家」の存在を支えていなければならない。

 ところがわが国の場合、以上のように「建築家」は社会に認められていない。その存在は極めて曖昧である。「建築家」が「建築家」として社会に位置づけられるためには、社会との関係がもう少し掘り下げられる必要がある。日本の「建築家」はその根をもっていないのである。  「タウン・アーキテクト」という概念も「コミュニティ・アーキテクト」という概念も今のところ西欧のものだ。日本では相当異なった存在形態をとることになるだろう。自治の仕組みとコミュニティの質が異なっているからである。しかし、いずれにせよ、「建築家」はその根拠を「地域」との関係に求めざるを得ない、と思う。そうでなければ、日本の「建築家」はいつまでも「裸の王様」のままである。

 

2021年9月26日日曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 目次

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000310


 

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説

 

目次                                                       

 

はじめに・・・裸の建築家

 

 Ⅰ 砂上の楼閣

 

第1章 戦後建築の五〇年                        

  1-1 建築家の責任

  1-2 変わらぬ構造

    a 都市計画の非体系性

    b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

    c 都市計画の事業手法と地域分断

  1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓

    a 自然の力・・・地域の生態バランス

    b フロンティア拡大の論理

    c 多極分散構造

    d 公的空間の貧困 

    e 地区の自律性・・・ヴォランティアの役割

    f ストック再生の技術

    j 都市の記憶

 

第2章 何より曖昧な建築界

  2-1 頼りない建築家

  2-2 違反建築

  2-3 都市景観の混沌

  2-4 計画主体の分裂

  2-5 「市民」の沈黙

 

 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能

          

第3章 幻の「建築家」像                    

  3-1 公取問題                      

  3-2 日本建築家協会と「建築家」

  3-3 日本建築士会            

  3-4 幻の「建築士法」   

   3-5 一九五〇年「建築士法」

   3-6 芸術かウサギ小屋か

 

第4章 建築家の社会的基盤

  4-1 日本の「建築家」

  4-2 デミウルゴス 

  4-3 アーキテクトの誕生

  4-4 分裂する「建築家」像

   4-5 RIBA

  4-6 建築家の資格

  4-7 建築家の団体

    4-8 建築学科と職人大学

 

 Ⅲ 建築家と都市計画   

 

第5章 近代日本の建築家と都市計画     

  5-1 社会改良家としての建築家

   5-2 近代日本の都市計画

  5-3 虚構のアーバンデザイン

  5-4 ポストモダンの都市論

  5-5 都市計画という妖怪 

  5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

  5-7 計画概念の崩壊

  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 

第6章 建築家とまちづくり

  6-1 ハウジング計画ユニオン(HPU)

  6-2 地域住宅(HOPE)計画

  6-3 保存修景計画

  6-4 京町家再生論

  6-5 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

  6-5 X地区のまちづくり

 

 

 Ⅳ タウンアーキテクトの可能性

 

第7章 建築家捜し                                           

  7-1 「建築家」とは何か

  7-2 落ちぶれたミケランジェロ

  7-3 建築士=工学士+美術士

  7-4 重層する差別の体系

  7-5 「建築家」の諸類型

  7-6 ありうべき建築家像

  

第8章 タウンアーキテクトの仕事

  8-1 アーバン・アーキテクト

    a  マスター・アーキテクト

    b  インスペクター

    c  環境デザイナー登録制度 

  8-2 景観デザイン 

    a ランドシャフト・・・景観あるいは風景

    b 景観のダイナミズム    

    c 景観マニュアル

    d 景観条例・・・法的根拠

  8-3 タウンアーキテクトの原型 

    a 建築主事

    b デザイン・コーディネーター

    c コミッショナー・システム

    d シュタット・アルシテクト

    e コンサルタント・・・NPO

  8-4 「タウンアーキテクト」の仕事

    a 情報公開

    b コンペ・・・公開ヒヤリング方式

    c タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築建設委員会

    d 百年計画委員会

    e タウン・ウオッチング---地区アーキテクト

    f タウンアーキテクトの仕事

  8-5 京都デザインリーグ

 

 おわりに まちづくりの仕掛け人

2021年9月25日土曜日

Never Ending Tokyo Projects: Catastrophe? or Rebirth?: Towards the Age of Community Design

Shuji Funo Never Ending Tokyo Projects Catastrophe? or Rebirth? Towards the Age of Community Design International IIAS workshop MegaUrbanization in Asia Directors of Urban Change in a Comparative Perspective International Institute for Asian Studies (IIAS) Leiden University Leiden 1214 December 2002


 Never Ending Tokyo Projects:

Catastrophe? or Rebirth?

Towards the Age of Community Design

 

 Dr. Shuji Funo


Introduction

Tokyo was only a small castle town at the beginning of 17th century but now is the capital, the largest metropolis in Japan, which has the population of over 12 million.  It is considered that the urbanization of Tokyo followed the orthogenetic process until the end of Edo era because Japan had closed the country from 1641 to 1853. only opening a port of Desima, Nagasaki to the Dutch. Japan had continued to be positioned at the periphery of European World Economy though silver exported through Desima had contributed to the development of European World Economy.  It might be interesting subject to be investigated historically that the population of Tokyo in the mid 17th century had already reached 1 million, which was competitive to those of European large cities like London, Paris etc.  Tokyo was a huge village-like mega city (huge urban village) in the mid 19th century.

The urbanization process of Tokyo from the Meiji restoration (1868) up to today is divided into several stages. Restructuring of Edo to modern capital Tokyo is the first program for the new Meiji government.  Industrialization began in 1880s and Tokyo started to be suffered from urban problems from 1890s. The first urban planning law and building code were legislated in 1919. Tokyo received critical damages by the Great Kanto Earthquake (1923). During wartime (1931-45), the urbanization of Tokyo was interrupted, but became the metropolis of East Asia. Japan expanded its territory to Asian regions constructing several colonial cities in Manchuria, Korean Peninsula and Taiwan(Formosa) where many experimental projects were realized based on the imported modern urban planning technologies.

Despite the greatest damage during the war, the postwar reconstruction of Japanese economy was completed roughly ten years after the end of the war. There were enormous concentrations of population and industries in and around Tokyo, the population of which exceeded over 10 million in early 1960s.

However, Japan's period of intensive economic growth gave way to a period of low, stable growth with the energy crisis in the 70s. The focus had been considered to be going to shift from outward urban expansion to the fuller development of already urbanized areas. But the bubble economy attacked the whole islands of Japan from the end of 1980s. Nobody could controll the activities of speculation. And the bubble economy had gone. The paradigm in terms of urban planning is shifting again. Tokyo is now suffering from the huge debt in the age of bubble economy.

 Many architects, planners and government officials in various levels for these 150 years launched many plans and projects to develop, improve and control Tokyo.  But almost all projects could not be accomplished or could only be implemented partly. It is usual in everywhere that the original ideas, visions and concepts are changed or distorted.  I will firstly pick up several projects, so called ‘Unaccomplished Tokyo Projects’ to discuss the questions: (1) what do the directors of new urban developments in Asia envision for the future, and (2) how do the directors manage to realize their ideas?   We might recognize the same problems of Japanese urban planning system from the beginning. 

   Tokyo had become a global city, which give influences to international financial markets in 1980s during which Japan had been grasping hegemony of World Economy as I. Wallerstein says[1].  Tokyo was completely connected to global networks, so the urban issues Tokyo faced were shifted to be in different dimension from other Japanese Cities.

Nobody control this phase of the global city. But the built environment of the city itself is of course important as living space and sites for services.

I would like to concentrate on the problematic of Tokyo after bubble economy and touch upon the new movement of community based planning in Japan after the Great Hanshin Earthquake, which revealed the weak points of the tradition of urban planning system in Japan.

I would like to leave the general matter on Tokyo to several books written in English we have until now. Roman Cybriwsky revised his book “Tokyo: The Changing Profile of an Urban Giant”(1991) to “Tokyo: The Shogun’s City at the Twenty-First Century”(1998)[2] from which you can get good information on contemporary Tokyo and basic bibliography on Tokyo. P.P. Karan and Kristin Stapleton (ed. 1997) [3], “The Japanese City” includes 3 articles on Tokyo.

Jinnai Hidenobu wrote an excellent book “Tokyo”[4] from the viewpoint of a special anthropology.  We have “The Global City New York, London, Tokyo”[5] by Saskia Sassen from the view of World Economy.



 Fig. 0-1 Source: Paul Knox & John Agnew: ‘2 Patterns in the Economic Landscape’, “The Geography of the World Economy”, Edward Arnold, 1994


. An Overview of Tokyo:

 

1.     Tokyo Metropolitan Area

Tokyo Metropolis is located at approximately the center of the Japanese archipelago in the southern Kanto Area, bordered to the east by the Edogawa River and Chiba Prefecture, to the west by mountains and Yamanashi Prefecture, to the south by the Tamagawa River and Kanagawa Prefecture, and to the north by Saitama Prefecture.

The Greater Tokyo Metropolitan Area is made up of Tokyo and the three neighboring prefectures of Saitama, Kanagawa and Chiba. It is a surprise that around 26.3% of Japan's total population live in Metropolitan Area.

 Fig. Ⅰ-1 Japan and Tokyo    Fig. Ⅰ-2 Prefectures in Tokyo Metropolitan Areas 

Tokyo is a vast self-governing unit consisting of 23-ku (ward), 26 cities, 5 towns and 8 villages and is divided into two major areas, 23 ku area and Tama area. The Tama Area is adjacent to the 23-ku areas. It has become urbanized but is also blessed with an abundance of ponds, rivers, forests, and other natural environmental advantages. However the Tama area is merely a bedroom town area for people commuting to the 23-ku areas

at present. Each ku is an administrative area of the city. The total area of all 23 ku covers about 621 square kilometers.

  Although it is not known well, Tokyo has several islands that have a total area of about 406 square kilometres. The population remains steady with about 30,000 persons. This area possesses a pristine natural environment abundant with marine resources. Being geographically isolated and financially weak, with a small administrative scale, the islands are faced with serious problems related to improving basic living standards through further development of marine and air transportation network services and medical care facilities. Agriculture and fisheries, which support the island economy, are faced with a shortage in labour.

 

2. The Population of Tokyo

The population of Tokyo Metropolitan Government is up to 12.17 million (as of October 1, 2001), which is 9.5% of Japan's total population, the largest population of any of the 47 prefectures. Tokyo's area, 2,187.0 square kilometers or 0.6% of the total area of Japan, is the 3rd smallest of the prefectures. The population density is 5,565 persons per square kilometer; Tokyo is by far the most densely populated prefecture in Japan. The 23-ku areas are home to 8.21 million persons, the Tama area 3.94 million and the Islands 27,000. Tokyo has 5.518 million households, and the average household comprises 2.2 persons.

The population movement between Tokyo and other prefectures in 2000 showed 444,000 persons moving into Tokyo while 391,000 persons moved out, a total movement of 835,000 persons for a net population increase of 37,000 persons. Regarding total movement, the trend of depopulation has been prevailing since 1967, with the exception of 1985. In 1997, there was a net population increase for the first time in 12 years, and 2000 again showed a net increase. Looking at the total movement between Tokyo and the three adjacent prefectures (Saitama, Chiba and Kanagawa prefectures), 208,000 came into Tokyo with 205,000 moving out, a total movement of 413,000 persons or 47.6% of the total, for a net population decline of 3,000 persons. As far as natural population movement is concerned, births numbered 101,000 with deaths numbering 84,000 for a net increase of 17,000 during 2000. The degree of net increases has been declining yearly since 1972, with the exception of 1994 and 1996.

According to the January 1, 2001 Basic Registry of Residents, Tokyo's population of 11.823 million fell into three age categories as follows: juveniles (ages 0-14) numbered 1.427 million; the working age population (ages 15-64) numbered 8.471 million; and the aged population (65 years old and over) numbered 1.905 million. These represent 12.1%, 72.8% and 16.1%, respectively, of the overall population.

According to the National Census in 1995, the Working Age Group, when broken down into 3 industrial groups, showed 31,000 persons (0.5%) in primary industries of agriculture, forestry and fisheries, 1.615 million (25.6%) in secondary (mining, construction and manufacturing) industries and 4.547 million (72.1%) in tertiary industries of commerce, transportation, communication and services.

According to the National Census in 1995, the working population, broken down into 4 employment groups, indicates that 29,000 persons (0.5%) were employed in agriculture, forestry and fisheries; 1.544 million (24.8%) in manufacturing and transportation related employment; 1.784 million (28.7%) in sales and services; and 2.867 million (46.1%) in clerical, technical and management occupations.
 The National Census in 1995 lists the daytime population of Tokyo as 14.572 million people, which was 2.837 million more than the nighttime population figure at 11.735 million. The difference is caused by the population of commuting workers and students, constituting a daytime influx from the 3 neighboring prefectures (Saitama, Chiba and Kanagawa prefectures)
. Taking the nighttime population as a base of 100, the daytime population factor is 124, indicating that the daytime figure is over 1.2 times the nighttime level. 
The daytime population, broken down by area, shows 11.191 million in the 23-ku area, 3.348 million in the Tama Area and 32,000 persons in the islands. Their respective factors are 141, 89, and 101, with the 23-ku figures noticeably higher. Remarkably, the three Tokyo core ku - Chiyoda-ku, Chuo-ku and Minato-ku - have a factor of 1,030 (nighttime population 243,000 persons with a daytime 2.5 million) indicating that their daytime population is more than 10 times the nighttime population.


Fig. I-4 Trends of Population of Tokyo and Gross Metropolitan Product

Table -1 The Population of Tokyo



 

3.  A Brief History of Tokyo

    The origin of the city[6] goes back to the foundation of a small castle called Edo in 1457, which was built by a feudal lord named Dokan Ohta in the region. But had been only a small castle town before the end of 16th century. Tokugawa Ieyasu (1542-1616) occupied the town in 1590 and made it the central governmental city since he established a military government, the Tokugawa Bakufu (Shogunate) at Edo, in 1603, although Kyoto, where the Emperor resided, was still the formal capital of Japan. The Edo era lasted for nearly 260 years until imperial rule was restored (the Meiji Restoration) in 1868.

                                                     Fig. -5 Edo in early 19th century

  Tokugawa Shogunate closed country to foreign countries except Dutch[7] from 1641 to 1853. Japan had no migrants from outside during so-called Sakoku (closed country) era. Political authority in Japan was divided among a centralized, bureaucratised military regime (the shogunate) and some 250 bureaucratised feudal domains.  It is thought that Tokyo might be a unique example in terms of urbanization in the process of formation of Modern World System.


                   Fig. -6  Diagram of Edo Spatial Structure

   Although I have no space here to describe the detail process of urbanization of Tokyo, as the centre of politics and culture in Japan, Edo grew into a huge city in the eighteenth century. According to the reliable record, Edo was consisted of about 300 neighbourhood units in Kanei Period (1624-44), which increased up to 933 n.u.  in 1713, and 1678 n.u. in 1745. The estimated population is 350,000 in 1695 and 500,000 in 1721.  This is the point for later discussion that Edo was the special city for administration and a half of the inhabitants belonged to the class of Busi (knight) who formally resided in the country. So the total number of inhabitants in Edo was over 1 million in the end of 18 century, which is beyond those of London and Paris.  It is said Edo was the largest city ---it might be better to say the huge urban village---in the world in early 19th century in terms of population.

When the Tokugawa Shogunate came to an end in 1868, Edo was renamed Tokyo, which means Eastern Capital. Following the Meiji Restoration, the Emperor moved from Kyoto to Tokyo, which at last became the capital of Japan both in name and reality.

  Japanese society was opened to the world and suffered from drastic changes. During the Meiji era (1868-1912), Japan began its voracious absorption of Western civilization. Social structure was rapidly transformed according to destruction of old regime of Edo period. In 1869, Japan's first railway, between Tokyo and Yokohama, was opened, and the first steam locomotive started running in 1872 on the line from Shimbashi to Yokohama. In 1885, the cabinet system of government was adopted and Japan established the political system of a modern nation-state with the drafting of the Constitution of the Empire of Japan in 1889.

Industrial Revolution in Japan started in 1880’s and Tokyo absorbed a huge number of populations from rural area, the population of which reached to about 2million at the beginning of 20th century.  Three famous slum areas were formed within Tokyo from 1890s.

During the Taisho era (1912-1926), the number of wage earners increased in Japan's cities and an increasing proportion of citizens came to lead consumer lifestyles. It is thought that Japanese Economy was involved in World Economy in 1920s.

 In September 1923, the Great Kanto Earthquake struck Tokyo and the fires caused by the earthquake burned the city centre to the ground. 140,000 people were reported dead or missing and 300,000 houses were destroyed. After the earthquake, a city reconstruction plan was formulated but because the projected costs exceeded the national budget only a small part of it was realized.

The Showa era (1926-1989) started in a mood of gloom because of Great Kanto Earthquake and economic crisis.  Japan was just in front of Wartime (1931-45). In 1927, however, Japan's first subway line was opened and in 1931, Tokyo Airport was completed in Haneda and in 1941 the Port of Tokyo was opened. By 1935, the number of people living in Tokyo had reached 6.36 million, comparable to the populations of New York and London at that time.

In 1941 the Pacific War broke out. In 1943, to prosecute the war, the dual administrative system of Tokyo-fu and Tokyo-shi was abolished and they were consolidated to form Tokyo Metropolis. (The Metropolitan administrative system was thus established and a governor was appointed). In the final phase of World War II, Tokyo was bombed 102 times, including the heaviest air raid of the war on March 10, 1945, in which many citizens lost their lives and property. The war came to an end on August 15, 1945 when Japan accepted the terms of the Potsdam Declaration. Much of Tokyo had been laid waste by the bombings and by October 1945 the population had fallen to 3.49 million, half its level in 1940.

In May 1947, the Constitution of Japan based on the doctrine of democratic sovereignty and the Local Government Act was promulgated. The first Governor of Tokyo was elected under the new system. In 1949, Tokyo Metropolis started the 23-ku systems. Japanese economy steadily recovered during the 1950s, in part due to the special procurement demand arising from the outbreak of the Korean War in 1950, and in the 1960s Japan entered a period of high-level economic growth. In 1962, the population of Tokyo broke the 10 million mark. In 1964, the Olympic games were held in Tokyo and the Shinkansen was opened, forming the basis for Tokyo's current prosperity.

By the beginning of the 1970s, the excesses of high-level economic growth became apparent in environmental problems such as air pollution, river pollution and noise pollution. At the same time, the Oil Crisis of 1973 brought the period of high-level economic growth to a halt.

In the 1980s, Tokyo again enjoyed rapid economic growth through internationalisation and the emergence of the information society. Tokyo became one of the world's most vital and attractive major cities, boasting advanced technology, information, culture and fashion, as well as a high level of public safety. On the other hand, this rapid growth exacerbated urban problems such as environmental pollution, traffic congestion and disaster protection measures. Furthermore, from 1986, land prices and stocks shot up through the "bubble economy."

At the beginning of the 1990s the bubble economy collapsed and, with the continuing economic recession since then, tax income has decreased and the Metropolitan Administration now faces a critical situation.

Now, standing at the dawn of a new historical starting point at the beginning of the 21st century, Tokyo are suffering from financial difficulties derived from due bill in the age of "bubble economy".

 

. The Unaccomplished Tokyo Projects[8]

  It might be convenient to divide the development of modern urban planning in Japan into several stages as follows for retracing the urban projects related to Tokyo. I would like to pick up several Tokyo projects from each stage and discuss their backgrounds and results. We shall reconfirm the same issues underlain in Japanese urban planning system repeatedly.

 

1 Development of Urban Planning in Japan

(1) The period introducing the European way of urban reform (1868-87):

One of the most urgent tasks of Meiji New Government is to remodel Edo to a modern capital competitive to European capitals like London and Paris. Central government invited and hired the foreign engineers[9] to make up the new face of Japanese capital before catching up with the level of industrialization in western countries. The modernization of Tokyo in the Western image was a prime objective.

Two projects are symbolic in this period. One is of Ginza commercial block project, which refashioned the entire Ginza district in red brick after the great fire in 1872. Brick structure was adopted not only for fire protection but also for a showpiece giving a European flavor.  Brick structures, however, were abandoned soon because of a frequent earthquake in Japan. Newspaper at that time condemned the Ginza project that is not suitable for Japanese climate and induces beriberi.

The other is Hibiya Governmental Offices Concentration projects (1886-87) at Kasumigaseki. Herman Ende and Willhelm Beckman from Germany were invited to plan and design the central district of Tokyo. The project was not implemented by objection James Hooprecht, a civil engineer, who had planned Berlin Plan in 1862, because of financial pressure.  H. Ende abridged the project and only two buildings were constructed on the site, half of which is now Hibiya Park, which is the first western type of public park.

  

(2) Tokyo Shikukaisei Jorei (Tokyo Urban Improvement Ordinance) period (1880-1918):

The first legislation in Japan to facilitate city planning, Tokyo Shikukaisei Jorei, was enforced in 1888. It was made of 16-point initiative that created a city planning board and set in motion various improvements to infrastructure, especially in the downtown area. The greatest attention was given to road construction. The model was Great Reform of Paris by Baron Georges-Eugene Haussman(1809-91). However, because of outbreaks of cholera, attention became to given to supplying water and removing sewerage. The great reform plan of road network was interrupted[10].

 

(3) The period establishing the urban planning system (1910-1935):

The Toshi Keikaku Hou “Town Planning Act” was adopted in 1919 with the first “Municipal Area Building Law” in Japan. Toshi Keikaku that means urban planning in Japanese was firstly used in the late 1920s. The emphasis continued to be on infrastructure to establish a modern industry. The act and building law adopted the zoning system to delineate fire-protection zones and to identify districts within the city for the special use. It also provided for land adjustment such as the straightening of roads and property lines in suburban areas that were soon expected to change from farms to houses. The concept and method of land readjustment were introduced from Germany.

“New Tokyo” Plan was launched by S. Fukuda, a city architect-engineer in 1918. He estimated that the population of Tokyo would be 6.76 million after 50 years (1961) and the area would be 3.6 times of the area at that time, on the assumption that the density should be 250 persons/ha.  “New Tokyo” Plan individually proposed were only on the paper.

The first true test came with the Great Kanto Earthquake[11] of 1923. Goto Shimpei, mayor of Tokyo, was put in charge of reconstruction and drew up the plan. He was a national figure who had experiences as an administrator in Taiwan and had proposed grand plans for the city just before the emergency. His plan included laying out new street lines and wider streets, reorganization of the rail network, improvements to water and sewer systems and creation of open spaces. However, only a few elements of the master plan were actually accomplished, because the cost was to have been considerable and because of opposition by powerful landowners. The issues of land acquisition are the point of urban planning from the beginning.

The Dojunkai (Foundation for Restoration after Great Kanto Earthquake) established based on the donation from foreign countries became the first body supplying public houses in Japan. Japan began to build collective houses called apartment with detached and semi-detached houses by Dojunkai. Dojunkai also started slum upgrading projects and carried out the land readjustment projects

 

(4) The period during wartime (1931-45):

Ironically speaking, we had the only chance to realize the idea of modern urban planning in the colony like Taiwan (Formosa), Manchuria (North Eastern China) and Korean peninsula. Datong City Plan and Dalian Plan in China are famous Japanese colonial projects. Japanese architects considered the colony as experimental field to realize the idea of modern architecture and modern urban planning. Colonial urban planning recalls us that urban planning with top down process needs the political power of states for realizing the idea. Architects and planners learned a lot from Nazi’s planning idea in this period.

“Tokyo Green Belt Plan” was proposed by a committee of central government in 1939.  The plan including the green belt that circled the whole Tokyo, protection of scenic spots and in part air defense, had no time and money to be implemented.

(5) The period of reconstructing (1945-54)

Fig. -6  Tokyo Green Belt Plan 1939

 

   The Japanese metropolises received the greatest damage during the war. Something of the same can be said about what happened after the end of World War II.  It is not a wonder that the authority had prepared the reconstruction plan after war.  Ishikawa Eiyo, Tokyo government’s chief planner prepared a “War Damage Rehabilitation Plan” that adopted a symmetrical radial and ring-road network for Tokyo with spaced green belts and separation of land uses through zoning. However it is too idealistic to be implemented.

   Land readjustment projects were planned in many districts of Tokyo but it took much time to be decided. Much competition related to reconstruction programs were held, but nations ruined economy did not allowed their implementation. 

Just one year after the war, the Special City Planning Law was enacted and large-scale reconstruction plans were laid for several cities. The Capital Construction Law was passed in 1950. This law established the Capital Construction Committee, a national organization devoted to the goal of Tokyo's reconstruction, determined the Emergency five-year Capital Construction Plan. However, under the severe economic conditions that prevailed, it was impossible to effectively realize these plans and they were left for the next generation to solve.

 

(6) The period of urban development (1955-68)

   The postwar reconstruction of economy was completed roughly ten years after the end of the war. There were enormous concentrations of population and industries in the metropolises, particularly Tokyo, and depopulation in the provinces. Problems such as the rapid expansion of urbanized areas, shortage of housing, increased land use prices and confusion in land became manifest in the metropolitan areas, and their solution became an extremely urgent policy issue.

     A Capital Region Development Plan came to be seriously considered in order to control such excessive concentration of population. To this end, a Capital Region Development Law was enacted in 1956 to replace the Capital Construction Law of 1950.     

     This Plan was modeled on the Great London Plan by Sir Patrick Abercrombie’s concept for London and was based on the idea of strong controls. In order to carry it out, a law promoting the construction of industrial satellite cities and another restricting factory location in existing urbanized areas was passed in 1958. These industrial satellite cities were intended to be similar in function to English New Towns, but most of them were built as new industrial developments in the suburbs of exiting cities.

    Earlier, the Japan Housing Corporation (now the Japan Housing and Urban Development Corporation) had been established in 1955 as semi-public organization to carry out large-scale housing construction and housing site development in metropolitan areas. This represented a task force for constructing large housing development and new towns, and its activities ushered in a new era in new town construction in Japan.

 The construction of new towns, gathering momentum, received great attention. New towns were built one after another in the suburbs, being intended for middle-income level families. The New Residential Built-up Area Development Law and the Law for the Infrastructure Development of New Cities are notable as measures that dealt realistically with metropolitan development. There were various advances in city planning and national land planning.

     However, it should be noted that the new towns that were created were very different from the self contained New Towns of England that provided both places of work and housing. This was in a sense the inevitable result of the conditions prevailing in Japan at the time and an expression of the nature of planning in Japan as well.

     It soon became clear that the Capital Region Development Plan was unrealistic in that it underestimated the pressures of industrial and population concentration in the metropolises. In particular, the idea of green belts was totally ineffective in the face of the sprawl into the suburbs in the 1960s. As a result, a reevaluation of the plan became necessary. The Capital Region Development Law was revised in 1965, and the second Capital Region Development Master Plan was established in 1968.

   Kenzo Tange proposed  “Tokyo Plan 1960” following K. Kikutake’s “City on the Sea”(1958) and “Tower City”(1959). “Tokyo Plan 1960” that insisted the linear structure in place of radial system was the project that changed the former policy of city planning. Many architects including K.Kurokawa (“Rurban City”, “Spiral City”), F. Maki (‘Group Form’),…who had belonged Metabolism Groups launched the ideal projects for the future city emulously as well as the Master Architect in the modern age.  A. Isozaki also proposed the project called ‘The City in the Air’.

   The prominent urban projects by star architects were only proposed for two or three years in the beginning 0f 1960s. Realization seems out of their concerns because of their proposal were lacking for procedure and money for implementation. We can say their image of future city was temporarily realized as the formation of the sites for Expo’ 70.  It is a rare case that K. Kikutake’s “City on the Sea”(1958) was realized as “Aqua polis” in 1975.

 

   The 1964 Tokyo Olympics transformed landscape of Tokyo radically by constructing Shuto Kosoku (Metropolitan highway) and many facilities like National Gymnasium. However, little was done to build a better living environment at that time and citizens had suffered severe water shortage and air pollution in the late 1960s. 

  

(7) The period establishing new urban planning system (1968-85):

   “Town Planning Law” was revised in 1968, when the urban planning system was barely established.

   Japan's period of intensive economic growth gave way to a period of low, stable growth with the energy crisis. The focus had been considered to be going to shift from outward urban expansion to the fuller development of already urbanized areas.

   Paradigm concerning urban planning and housing shifted from large scale projects to small scale projects, from new construction to urban renewal, from high rise flats to low-middle rise town house, from quantity of dwelling units to quality of life and so on. The idea of ‘B (Bebaungs)-Plan’ was introduced in this period.

   Planning in Tokyo began to move in new directions after mid-1960s, the reason why citizens had become fed up with the poor condition of the city and the slow pace of improvements to their neighborhoods. Minobe Ryokichi, a university professor who had been criticizing the urban policy as a Socialist-Communist coalition was erected as the governor in 1967.  He talked about clean rivers and blue skies and promised to work toward a more healthful Tokyo. He became a popular two-term governor until 1979 that reoriented much about planning in the city but almost brought the city to bankruptcy.

       

(8) The period of anti-planning in the age of  “bubble economy”(1982-1993):

    What came after the stable growth period was bubble economy. Nobody could expect the bubble economies attack the whole islands of Japan from the end of 1980s.

    Suzuki Shunichi occupied the seat of governor after Minobe in 1979 and served four terms till 1995. He called his vision for the city ‘My Town Tokyo’. His administration put together a series of three comprehensive plans: 1982, 1986 and 1990. The biggest difference from the previous administration was an emphasis on the CBD and other major commercial districts, where construction of large, showy projects was intended to advance Tokyo as an international business center and metropolis.

  Criticism of Suzuki-era planning focused on its affinity for large, flashy construction projects said to be] too expensive and maybe even unnecessary.  

    

(9) The period of community design after bubble economy(1995-):

 But the bubble economy has gone. The paradigm in terms of urban planning is shifting again. There will be fewer large-scale projects and greater interest in creating communities and enriching the people's immediate environment; instead of plans concerned with hardware, i.e. facilities. There will be greater interest in creating urban culture.

Then Great Hanshin Earthquake in 1995 revealed the weakness of the tradition of urban planning in Japan.

 The waterfront became a principal issue in the gubernatorial election of 1995.

Promising voters to cut back on waterfront construction erected Aoshima Yukio, known as a TV comedian. The stop of ‘World City Exposition Tokyo’96- Urban Frontier’ symbolize the end of the age of bubble economy and infinite expansion.

 

 

2      The Fundamental Issues of Japanese Urban Planning System

We can summarize and point out general issues of Japanese city and urban planning, looking back the history of urban planning of Tokyo.

 

    a The lack of originality:

We have always been importing the concepts and systems of urban planning from the western countries. We introduced the way of Baron Haussmann's grand project of Paris in 19th century at the beginning, Nazi's idea of national land planning during the world war II, the concept of Greater London plan after the world war II, German B-plan in the early 80s, and so on. It is not bad to learn the foreign systems, but it does not necessarily work well in different context.  We need the ideas and methods rooted in realities in Japan.       

 

    b The absence of subjectivity in urban planning: passiveness of people:

  Who plan and design the city is not clear in Japan. Local government that is controlled by central government cannot decide any matter related urban planning.  In addition, we have not established the systems of people's participation and advocate planning.

 

   c The weakness of financial background specialized in urban planning:

     We have not special funds for urban planning. That depends on the budget year by year.  The policy may easily be change by the mayor who also be replaced by election. The unstable planning board is also problematic. The officials in local government move from one board to another board frequently. We need the professionals in urban planning in and by urban planning board. 

 

   d The immaturity of public sense that limit the private right for urban planning:

     Japan is said to be the freest country as for designing the building. It is because that no close relation between the building code and the urban planning law (block regulations).  Cityscape is getting chaotic though architects who are responsible for the coordination enjoy the freedom.

 

   e  'Scrap and build' urban process:

   We have been repeating scrap and built process for this half century after the war. Urban planning had neglected the urban historical heritage. The poorness of urban stocks is a big problem for the future.

 

 

. Urban Policy and Strategies of Tokyo: The Problematic:

 

1      Post Modern City Tokyo: Tokyo at its Zenith

 

  (1) Supersaturate City: Disappearance of Frontier

   In the mid-1980s, Tokyo reached to a kind of climax or a saturation point in terms of horizontal expansion. So-called “Tokyo Problem” and ‘Tokyo Reform’ were a main topic of those days. Many scholars and critics discussed the issues derived from monopoly of Tokyo and the possibilities of moving capital. It is abnormal that about 1/4 of the total population of Japan live in Metropolitan area of Tokyo.

   However, new frontiers were sought for further development of Tokyo because of affluent money to be invested. The first target was unused public land within the central district and down town. Large real estate company launched many redevelopment projects and many winklers attacked and purchased the downtown area. There were the districts whole building had disappeared.

  The second frontier is the sky. Tokyo still has more space in the air than New York. The Manhattan Project, which renews the CBD, was launched.

  The third frontier is the underground, so called geo front.  The project to create a city with 500,000-population underground of Tokyo was proposed seriously.

   The fourth target was waterfront where the dockyards, factories and son had been located on.    ‘World City Exposition Tokyo’96” planned on waterfront was named ‘Urban Frontier’.  

 

    (2) A Global City: 24 hours city

    Tokyo became one of the global financial centers, which attracts international businessmen in 80s.  The demand of office space for them was one of the reasons that need bubble economy. Tokyo is now completely involved in international networks and active for 24hours.

    Tokyo invited a huge influx of foreign workers she had never experienced before. The registered number of foreign residents reached 327,000 (as of October 1, 2001) and represented 2.5% of the total population that seems less than those of the city in developed countries, but 1.3 times more than the total figure 10 years earlier. 

 

    (3) Cyber city: Artificial City

     We are losing the opportunity to contact directly with nature in our daily life.  Every space in Tokyo becomes to be artificially controlled by computer.  Aluminum sashes which can airproof the space tightly had been prevailed 100% all over Japan in the 60s, which means all dwelling units are now air-conditioned. So called intelligent office buildings became in fashion in 80s. Domed stadium where indoor climate is freely controlled completely and football game can be played even in storm might be the model of the future city.

     

    (4) Virtual City: Temporary City

   Paradigm seems to be shifted again from a huge city to compact city, from flow to stock, from newly build to maintenance………..     However, scrap and build process is still going on in Tokyo which is losing the historical memory of the city. We are living in the image of the city, denying the reality, or in virtual reality.  Tokyo is l a temporary metropolis like a huge site for international exposition.

     

    (5) The Death of City: The City Completed

    The city might be completed at the critical point it will be saturated. But does it mean a death of the city if it will lose the frontier? The real city is limited physically and cannot be expanded infinitely. The global environmental issues teach us we need the maintenance system of the urban space based on the natural ecology.

     The system of production and consumption of spaces are economically controlled by investment technology.  If we have one possibility to shift the mechanism of producing spaces, the system will be based on eco-system in the region.

2 The Tokyo Plan 2000

 New governor of Tokyo Metropolitan Municipality, S. Ishihara, a famous novelist, the former congressman and opinion leader, is now launching new policies some of which resist the orientation of central government, with powerful leadership.   

He set 16 policy goals, the first of which is “Create an Urban City that Facilitates a Balance of Job and Residence” which is consisted of two strategies:‘Promotion of inner city residence’ and ‘Fundamentally reform the Metropolitan housing system’.  The former strategy includes bringing workplaces and residential areas closer together in the Tama (suburban) area.  In short, it is insisted that residence and work place should be near.

  The second goal related to urban planning is “Improve Tokyo's Convenience as a City with the Smooth Interaction of People, Goods, and Informationwhich is consisted of several strategies: ‘Resolve chronic traffic congestion early’, Aim for the improvement of public transportation services and collective development,Create an efficient inter-city distribution system’ and so on.

   Two goals above are expectant treatments needed from the beginning. The third goal “Create a Hometown with Abundant Nature and Culture” is also old-fashioned slogan, but one of the strategies ‘Create the "face" of Tokyobacked by its history, culture, and geographical features seems a new flavour. The strategies include (1) Improvement of the "face"Shore protection improvement Restoration of the Tokyo JR Station and revitalization of gardens that are cultural assets Underground electric cables and road landscaping, (2) Utilization of the "face" the establishment of facilities such as open terrace cafes at the water's edge or on wide pedestrian paths ・Guides that are easy to understand for pedestrians, (3) Communicating the "face""Tokyo Location Box (tentative)".  All are the strategies of the community design level.

   Following goals are not directly related to urban design and physical planning.

  Goal 4:Nurture Unique and Talented Human Resources

  Goal 5: Remove Unreasonable Social Restrictions and Create a Society Where People Can Choose Various Kinds of Lifestyles Depending on Their Motivation and Ability

   Goal 6: Promote Management Innovation in Enterprises, New Businesses, and Startups to Revitalize Industry

 

Goal7 “Decrease the Level of Danger in the Area and Create a Safe City” i.e. ‘Create an earthquake-resistant city structure’ is common goal of local government after Great Hanshin Earthquake.  Local government are expanding designated areas for fire prevention by introducing a new fireproof districts system. Suggest and call for the national government to establish a new fireproof districts system that takes into consideration the characteristics of areas with closely packed wooden houses and designate new fireproof districts that are especially important in terms of fire prevention. In areas especially vulnerable to the spread of the fire, evacuation routes (mini fire containment zones) will be formed while preventing fire from spreading when an earthquake occurs.

  Goal 8 “Improve the Urban Environment and Protect the Health of Citizens” through ‘Take thorough measures with respect to diesel-powered vehicles’ and ‘ Promote detoxification of PCBs’ is one of the most sensational strategy citizens pay attention to.

   Goal 9 “Decrease Environmental Load and Create a Sustainable Society” is new goal in the age of Global Environmental Issues.  To introduce new energy sources for a decreased environmental load, to alleviate the heat island phenomenon and to establish an adequate disposal system for industrial waste are thought to be needed but the visual image of the city are not drawn yet.

 Gaols 10-14 below are related to social infrastructure and networks.

 Goal 10 ” Promote the Longevity of Social Infrastructure and Keep City Functions

Goal 11 “Promote Care Ability of Community and Create a Society That Supports Independent Living

 Goal 12 “Create a Society Where Children Can Grow up in a Healthy Environment

 Goal 13 “Create a Society Where Those Who Are Willing to Work Can Have Jobs

 Goal 14 “Provide Citizens with Appropriate Information so that They Can Take Proper Actions

 Lastly,  “The Tokyo Plan 2000” declared two goals.

 Goal 15 “Bring out the Potential of the Tokyo Metropolitan Megalopolis and Become a Driving Force for Japan in the 21st Century

Goal 16 “Create an Appealing Tokyo and Become a Peerless International City

 

3 Lessons from Great Hanshin Earthquake

   In the early morning on January 17, 1995, we had experienced the Great Hanshin Earthquake. The building collapsed killed over 6,000 people, flying objects (furnitures) and the fires. About 300,000 people have lost their houses and were compelled to live in the temporary shelters until the end of August 1995 when the emergency houses were barely completed. Just after the Great Hanshin Earthquake, I walked through the area damaged 30 km from east and west several times.   What I saw was the death of the city or the dying city. I had never known it could happen that the city dies.

     And at the same time I saw the scene that the city is going to be rebirth. I knew the importance of unity, autonomy and solidarity of urban community.  The Great Hanshin Earthquake taught us many things in terms of urban planning and urban communities.

 

  (a) The Power of Nature

      Those who live in the metropolis in the developed countries tend to believe we can completely control the nature. But we understand that is not correct when we have disasters, i.e., floods, typhoon and earthquake. We are likely to forget the fears of the nature. As the speed of urbanization grows faster, the waste land and swampy land that was formally unsuitable for human living  have been being developed. Cutting the hills and reclaiming the sea was thought to be killing two birds with one stone. Nevertheless, we never forget the power of the nature.

      It is very important to survey the sites carefully and assess the environment in detail when we construct the new towns.

      On the other hand, we can reconfirm the splendid power of the nature. I'd seen the trees in front of houses that protected them from fire. It is also very important to use the potentialities of the land and the natural surroundings.

  

  (b) The Limitations of Urban Development Strategies

      Those who were damaged the most severely this time are the weak of the societies living in the inner city, the handicapped, the urban poor, the foreigners and so on. The fact reveals the results and evidences that the local governments had not improved inner areas that had needed environmental improvement programs. They had given priorities over the developments of the new town like promoters and developers, because it is more effective to develop the city from the economical viewpoints. As a result, they had ignored and putted off the urban renewal projects. The Great Hanshin Earthquake reveals the limits of urban growth development strategies.      

     

  (c) The Weakness of the Networks of Urban Infrastructures

      The faults of systems of infrastructures are also recognized. All the railroad lines and trunk roads run from east to west and those from north to south are very few because of the conditions of topography.

      The systems of water, electricity and gas supply services, had the same faults. There are no alternatives and double systems. We need multi-pole network systems in place of one-pole centered systems.

        

  (d) The Scarcity of Public spaces

      The most useful facilities to recover the urban communities are public (elementary and secondary) schools for shelter and convenience stores for food supply. Neighborhood facilities are very important in case of emergency as well as in daily life. It was very serious that hospitals, offices of local government, fire station and police station were destroyed. We knew that the

We should build public facilities based on the high standards.

      The scarcity of urban public spaces (parks, playgrounds, sport fields) was fatal because we had even no spaces to build emergency houses after disasters. 

 

  (e) The Importance of the Autonomy of Urban Settlements

      The situations that people only had been seeing their houses being burned and hearing the call for help without anything to do because of no means were miserable. We need water, foods and other daily necessaries in the neighborhood units. We had buried the well and covered the river for convenience, so there was no water around us to put out the fire.  The urban settlements should be self-supported. The autonomy of urban community is so important to help each other.

 

  (f) The Possibilities of Volunteers in Urban Planning

      The volunteers worked hard and well to recover the damage. Japan had no volunteer system, but volunteers gathered spontaneously. We recognize Non-Profit Organization has to be organized as a network system to help the daily life as well as emergent situation.

      The reconstruction programs after Great Hanshin Earthquake do not necessarily go well because of many reasons. Community architecture has not roots in Japanese society yet. People's participation and bottom up process are inevitable in urban development, especially in urban renewal.                  

 

Conclusion

 

    Nobody control a global city like Tokyo. Nobody knows who are pressing the urban changes of Tokyo. Something invisible which we might say World Capitalist System in a word, guides the directions of transformation of Japanese capital.

However we can try to list up several directors who have keys to influence the directions of the urban changes of Tokyo. Governors should be basically responsible for the future of the city.  Strong leadership of governor even in case of Mega city like Tokyo is needed for realizing the idea though a giant bureaucratic system regulate the decision making process.  The brains of governor including so-called people of experience also have the possibility to be the directors.  We have moreover various actors as directors such urban planners; architects; road-builders; city administrators; real estate developers; financiers; non-governmental organizations; scholars; and visual, performing and literary artists.

Construction industry including real estate agents had strong influence in making decision of urban projects because it produced over 20% of GDP in the period of bubble economy. But the situation is now drastically changing the basic structure is still preserved in countryside.  The tertiary industries leaded by information technology industry are going to have the power to policymaking and over 70% of population belongs to the tertiary sector.  Governor cannot neglect the citizen’s initiative in terms of urban planning.

I will list the directors or systems to influence the urban changes in Japan in the following. We find no profession is responsible for visualizing the future plan of the city. I myself think the talent of “architect” to draw the spatial system is still needed in any levels of urban planning and design.

 

(a)  Market

Economic power still seems to be a driving force to change the urban form. But nobody is responsible for the results. Many new office buildings flats are now under construction in the areas on waterfront despite a long recession. The number of high-rise flats newly constructed in 2002 is said to be unprecedented.

  The rumor of  “2003 problems” that many companies will move from the inner city to the waterfront and many old office buildings will be left unoccupied is now spreading. And several companies specialized in conversion of old office buildings to dwelling units were established and are watching for business chances. The production of urban spaces is basically influenced by the speculative activities of real estate agents and investors.

(b)  Housing Industry

      The production of dwelling units is closely related to business fluctuations. 1.9 million units were built in 1973 but the number of units newly built decreased drastically to 1.15 million in 1974 because of oil crisis. In the period of bubble economy, the number rose up to 1.7 million, now down to 1.1 million. This kind of mechanism dominates cityscapes. Central government, therefore, control the number of dwelling units newly constructed every year by reforming a taxation system, for example, reducing of inheritance tax, acquisition tax and transfer tax.

    (c) Subsidy

       The central government has great power to give a subsidy to the local government for implementing the urban projects.  The planning system in Japan is based on top down system where the bureaucrats have the right to make decisions. All local governments, which have only 30% rights of self-governance, should get the budget from central government in carrying any project.

        Decentralization and restructuring are urgent tasks we should realize in every field of policy making.

     (d) Zoning: Building regulations

        Legislation is almost only issue to be discussed in terms of urban planning, especially zoning with height and volume regulation is a cue to control building activities. Central government has established the special board called “Urban Rebirth” and decided to deregulate building code and urban planning law to stimulate the building activities. Local government can now rezone the areas and decide the special district for restructuring. However, local governments, which are suffering from financial pressure, have no margin to propose the new projects.

      (e) Governor or Mayor

     Some of governors of 47 prefectures including Tokyo seem to be getting the voice and the initiative to central government.

     Governors and mayors should get the more rights and freedom to manage and plan the city. The main roles of mayors for these years are to get subsidies for constructing public buildings to distribute the money to building and real estate industry, in place of getting votes at the time of election. Now time is changing to self governance mayors have more leaderships. 

(f) Municipal Ordinance

Building regulations are the same all over Japan although the requirements for buildings differ region by region.  Central government in Japan does not want to admit the double standard within one country. Local governments only legislate municipal ordinances under the national laws. We need here again the powerful leadership and will of mayor to implement the unique idea.

    (g) Citizens: Participation

    Citizen’s participation is basically needed in practice. A formal procedure is prepared for people participation, but does not function effectively. It seems that people does not like to participate in the process of urban planning if it does not relate himself.

 

      

Supplementary discussion:

The Roles and Tasks of Town Architects in Japan

In 2000, I published a book entitled "The Naked Architect: An Introduction to Town Architect System in Japan”, in which I discuss the roles and tasks of new profession in Japan called "Town Architect" or "Community Architect".

The institution of "Town Architect" as it exists in Europe varies widely from region to region, according to local governments. I am not suggesting that current Western systems should be introduced directly into Japan. The starting point here is how to deal with the issues faced by Japanese architects. I developed the idea of system of "Town Architect" based on my observations of the realities in which Japanese architects and planners are working. My conclusion is that we need a new profession to act as a coordinator, mediator and facilitator between local governments and local communities. I am tentatively proposing to call this new profession "Town Architect".

Part of the background from which I have developed the system of "Town Architect" is the impact of the Great Hanshin Earthquake, from which we may learn many lessons regarding urban planning and community development. The Great Hanshin Earthquake demonstrated the fatal consequences of the lack of public participation in urban planning processes in Japan.

There is another important reason for Japanese architects to approach and advocate the local community. We are currently witnessing a change from an age of "scrap and build" to an age of "maintenance of stock". Japanese architects cannot survive if they enlarge their sphere of work.

1.What is 'Town Architect'?

'Town Architect' here is defined simply as a professional architect who is constantly engaged in town planning. Although local government should take primary responsibility for town planning, it is highly doubtful whether it can play an important role, due to the absence of a framework for implementation of projects based on the real needs of the community*2. It remains true that local government lacks autonomy in terms of urban planning, though the situation has been changing since the unified decentralization laws were enacted in April 2000.

The concept of 'Town Architect' is not new, and such work is being done by many planners and architects in Japan. However, the 'Town Architect' must have a real relevance for the needs of local communities, although he or she should not necessary live in the area. It is a fundamental rule that the 'Town Architect' must be constantly involved in the major issues of the community development.

The architect is basically an advocate for the client, and at the same time acts as a third party to coordinate the relationship between building contractor and client. The reason an architect is considered to be a professional, similar to a doctor or lawyer, is that the job is intimately involved with life and property. The 'Town Architect' is an advocate for local community, but does not only defend the benefits of local community, also acting to coordinate the interests of both local governments and local communities.

The basic definition of 'Town Architect' is as follows:

 

A 'Town Architect' establishes the organization and proposes meetings that promote community development. 'Town Architect' is an organizer, agitator, coordinator and advocate for town planning.

B 'Town Architect' is involved with the entire field of town planning, and need not be a licensed architect in Japan. The chief of local government (mayor) could also be called a 'Town Architect'

C 'Town Architect' is here referred to mainly in terms of physical planning, i.e. the form of towns and their spatial arrangement. However, we cannot separate the "software" from the "hardware". Management and maintenance of spaces is much more important than new construction. Nevertheless, we cannot neglect the quality of community development and characteristics of a town expressed as "townscape". 'Town Architect' is responsible for the form of towns and townscapes.

D Anybody who designs their own house can be a 'Town Architect' and architect. An architect is any person related to the built environment. I believe a trained architect has the ability to turn concepts into physical forms, and therefore should act as a 'Town Architect'.

2.Why 'Town Architect'?

There is a further reason why architects should take the role of 'Town Architect' and become involved with urban planning. Western architects undertake urban planning as a matter of course, but cases where architects have taken part in urban planning are very rare in Japan. The architect is generally considered to be a kind of carpenter or developer. Times have changed; the age of 'scrap and build' has disappeared with the bursting of the bubble economy. The 21st Century is said to be an age of 'stock'. We are already recognizing the limits of the globe in terms of energy crises, resource and food shortages, and environmental problems. It is obvious that we cannot continue to demolish buildings so easily. We must utilize existing buildings and our architectural heritage as much as possible.

Here we draw upon statistical data to outline the situation architects are facing in contemporary Japan. The proportion of GDP invested in the construction industry in Japan reached 20% immediately after World War II; it was 14.8% in 1997, and continues to decrease. The central field of industry in Japan has shifted from agriculture to construction, but further alteration of the industrial structure is inevitable. Current Japanese government policy is intended to reduce the quantity of public works, in order to help the Japanese economy by cutting down expenses and creating new industries through the introduction of IT (Information Technology). The quantity of investment in the construction industry in the USA was 74.2 trillion (billion) in 1997, which is approximately the same as Japan (74.6 billion), although as a proportion of GDP it is only 7.6%. In the case of European countries, the proportion is even less: 4.3%(B in Britain and 4.5% in France.

It seems highly likely that Japan will follow the pattern of Western countries in terms of building preservation, even though the main construction material in Japan (timber) is different from that of Europe (stone). If investment in the building industry decreases to the same level as the USA, it is not unlikely that the number of architects in Japan will be reduced to half in the near future, or even to one third, similar to Britain or France. "To be, or not to be" is the real question for Japanese architects.

It is obvious Japanese architects must change their roles and the tasks from those in 20th Century. Two new fields are extending before us: one is the maintenance of the existing building stock, and the other is that of town planning, both of which are based on the same background factors. The age of "scrap and build" architects, designing only new buildings, is over. Architects will be required to establish direct relations with the local community from the very beginning of a project, and to be responsible for the maintenance of a facility after completion. In any case, the architects' reason for being will be based on their relationship with the local community, so architects should become "Town Architects".

 

3.Japanese 'Town Architect'

In "Introduction", I listed the archetypal images of "Town Architect". These are superintendent of building permission (verification), design coordinator, commissioner system, master architect, inspector etc. Here, I will again classify the images of Town Architect into several levels according to their required roles and tasks.

 

 A Qualified Architect

Japan currently has about 300,000 1st class architects, 600,000 2nd class architects and 13,000 architects specializing in wooden construction, who are legally qualified. There are 130,000 architecture firms in Japan, most of which are small local offices deputizing the procedure of building checks by local government in place of the client. In addition to architecture practices specialized in design, there are also design-build organizations such as general contractors with design departments. I intend to omit this latter group in order to establish a simple base for the formulation of the System of Town Architect. Estimating a total of 150,000 teams and 1 million licensed architects, the primary question becomes: how do they get commissions? The point is, what roles are to be allotted to local architects? Local architects who are commissioned by local clients should take part in community activity and community planning. The carpenters and various craftsmen in pre-modern society had very close relationships to the local community, not only through repairing houses and working in gardens, but also as consultants to the local community. Professions such as the former local carpenters should be reinvigorated, and considered to be Town Architects.

B Network with Local Craftsmen
Town Architect needs to cooperate with local craftsmen and builders to maintain the local built environment by repairing and reconstructing houses. Interesting concepts of professions such as House Doctor or Local Housing Studio have already been proposed. Kyo-Machiya Sakuzigumi  (Group for Maintenance of Kyoto Town Houses), for example, went into action in1999.

C Superintendent of Building Permission
There are approximately 2, 000 superintendents in local governments all over Japan, responsible for checking the drawings and documents of every building, based on the Building Standard Act. As Japan has nearly 3,6000 cities, towns and villages, not every local government has the necessary superintendent. I base the idea of Town Architect on the existence of superintendents in each local government. Superintendents of building permission may be seen as a prototype for the Town Architect. Although superintendents of building permission only control building activity, the Town Architect coordinates a desirable townscape. Every local government should have at least one Town Architect who is responsible for the local townscape and contributes to its upgrading. We need at least outstanding 3,600 Town Architects in Japan. The current 2,000 superintendents may have a detailed knowledge of building code, but they are not specialized in design and therefore need the help of local architects suitable to be considered a Town Architect.

D Commissioner System

We have several types of System of Town Architect. A Town Architect has the most rights if he or she is mayor or vice-mayor, and is responsible for all building activity. The system in which a committee consisting of several architects responsible for townscape is generally called a "Commissioner System". Japan has several examples of the commissioner system, including 'Kumamoto Art polis', Creative Town Okayama and Toyama Project Creating Faces of Towns, which are mainly organizations for selecting an architect to design a specific public facility. Town Architect is rather similar to a town planning council, building council and landscape council, of which the former two have a legal basis. Unified decentralization acts were enacted in April 2000. The existing council systems may be continued if they work effectively, otherwise a new system should be formulated that will be called "System of Commissioner System.

E. Area Architect (Community Architect)"

One commissioner or one committee is usually insufficient to cover the whole area supervised by a local government, so a substructure is necessary for local communities. System of Town Architect needs area architects who will serve the local community. It may be the case that local government or Town Architect Committee send area architects to each community. There are already such systems: various advisory systems, town planning conference system, sending consultant system. The community may request work from their area architects.

 

4.The Tasks of 'Town Architect'

What are the tasks of Town Architect? In "Introduction", I refer to various systems and methods that may be introduced, such as Town Watching, Making of Town Plan after One Century, Open Hearing Selecting Town Architect etc, most of which are related to the tasks of Town Architect. The most important tasks are those which area architects can carry out as extension of their daily work in the neighbourhood. The work of area architects is the basis of Town Architect. If the commissioner system is introduced as a "System of Town Architect", the commissioner's term of appointment should be strictly decided, and his or her practical work as an architect should be prohibited or limited during this term. Instead, the commissioner must be given wide powers and guarantees for his or her works and status. It is crucial that local governments initiate or support the Area

Architect System. Area architects give advice to citizens who are planning to design their own house, and make proposals to the local government based on surveys of the area. We already have various systems, known as Landscape Advisor System or "Landscape Monitor System". The adjustment of various ownership relations is an important task for the Town Architect in the process of implementation. A town architect who has basic design ability and has been trained in architectural practice should also study law and economics. In some cases, Town Architect plays the role of coordinator between inhabitants and developers.

It is of no use to discuss such systems only in the abstract. We require a variety of systems adjusted to local conditions and values rather than a single standard system. Learning from concrete instances is far more important than discussion, even if these are only small projects.

 

The principles are:
1. Start from the details of the familiar built environment.

2.     Continuous effort is most important. Specific events for campaigning are necessary, but will have little effect if done in isolation.

3.     Consensus amongst the local community is necessary to maintain the system.

4.     Participation.

5.     Disclosure is the principal with which to forge agreement in the neighbourhood community.

 Designing common space in the neighbourhood unit is the first step of the System of Town Architect. How to solve and manage the physical relationship of neighbouring houses is essential even in the case of designing an individual house. To establish a common rule for two adjacent houses and to create an intermediate domain between public and private space is the starting point of town planning[12].

 



[1] I. Wallerstein visited Kyoto to give us lecture titled ‘Geopolitical Cleavage of 21st Century: What Future for the World?’ in which he reviewed the constellation of world system for the last 3 decades in 20 century.

[2]  Roman Cybriwsky: “Tokyo: The Shogun’s City at the Twenty-First Century”, John Wiley & Sons, 1998.

[3]  P.P. Karan and Kristin Stapleton (ed. 1997) [3], “The Japanese City”, The University Press of Kentucky, 1997.  Roman Cybriwsky: “From Castle Town to Manhattan Town with Suburbs: A Geographical Account of Tokyo’s Changing Landmarks and Symbolic Landscapes”.  Kohei Okamoto:”Suburbanization of Tokyo and the Daily Lives of Suburban People”. William Burton:”The Image of Tokyo in Soseki's Fiction”

[4]  Jinnai Hidenobu: “Tokyo a spatial anthropology”, translated by Kimiko Nishimura, University of California Press, 1995.

[5] Sakia Sassen: “The Global City New York, London, Tokyo”, Prinston University Press, 1991.

[6] Archaeological evidence indicates that human settlement in the Kanto Plain dates far back into prehistory.

[7]  Grant K. Goodman: “Japan and the Dutch 1600-1853”, Curzon, 2000

[8]  Y. Ishida picked up 9 projects, which were not implemented in his book under the title  “The Unaccomplished Tokyo Projects”, Tikumashobou, Tokyo, 1992.  Here I address the other projects in this chapter.

[9] J. Condor from England is respected as a father of Japanese modern architects. He   taught the first generation of students at Kobudaigakko (Institute Technology) and designed a considerable number of buildings.

[10] As for the Japanese urban planning in Meizi era (1868-1911), T.Fujimori: “Meizi no Tokyo Keikaku”, Iwanamishoten, 1982

[11] It reduced some 60% of Tokyo to ashes. 104,619 people, most of which had lived in the densely built up area, died or were missing as a result of this disaster.

[12] Kyoto Community Design League (Kyoto CDL): We decided to initiate a social experiment called Kyoto Community Design League (Kyoto CDL) as a kind of simulation of the Japanese System of Town Architect. The inaugural meeting of the Kyoto CDL was held on 27th April 2001. A network of studios or laboratories of universities and colleges located in the Kyoto Municipal Area, form the matrix of the League. Currently, about 25 professors from 10 universities have expressed their will to participate and declared themselves in favor of the idea of the League. Several studios from the Kyoto University School of Architecture, including those leaded by Dr. S. Furusaka, Dr. M. Takada, Dr. T. Yamagishi and Kiyoshi Sey Takeyama, are participating in the League, and the editorial board is promoting the activities of the League.

Each studio takes charge of their allotted area(s), and carries out a kind of annual field survey, with a minimum observation period of one day, in order to make records of the area using common formats (photographs, maps, video films). The League holds general meetings twice a year, wherein each team reports the status of the area and proposes possible prescriptions. All areas are expected to be taken care of by every studio. Documents open to the public will be kept in the headquarters of the League. If some studios manage to establish a close relationship with the community in their area, they might be requested to implement a real project. The reason why I propose the university studio as the basic organizational unit is that they have staying power and a level of responsibility and obligation to the local community.

The organization of Kyoto CDL resembles that of Major League Baseball. A commissioner with a secretariat manages the headquarters of the League, holding general meetings and allocating the areas. 1. Participating Teams: The League is basically open to any group (architecture offices, consultant, etc)). Its matrix is a network of university studios and educational institutes, because we can expect lasting participation. The only membership requirement is successive participation. 2. Constitution of Team: Each team is headed by a manager (teacher) and consisted of coach (secretary representative of students) and players (students, community designers). 3. The work of Participating Teams: A. Field Surveys (Area Watching): Making records of the area using the GIS system.  B. Making Karte (prescriptions) of the area and proposals to the Local Community C. Participation in General Meetings D. Implementation 4. Steering Committee: The steering committee consists of coaches (students) leading the following tasks:  A General Meetings B Coordination of Teams C General Communication 5. Kyoto Community Design League (Kyoto CDL) committee: The Kyoto CDL committee consists of the managers of the teams and is headed by a commissioner with a secretariat.  A Registration of Teams B Allotment of Areas C Holding of General Meetings, Symposiums D Keeping of Records E Action Plan F Networking with Other Organizations

This idea of a community design league based on regional inter-university cooperation is easily implemented. The process and results of Kyoto CDL will be reported again in the near future.