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2021年7月21日水曜日

甦るショップハウス・ラフレシア URA(都市再開発機構)の挑戦 シンガポール  チャイナタウンの変貌 21世紀のユートピア 都市再生という課題(9)「URA(都市再開発機構)の挑戦 甦るショップハウス・ラフレシア シンガポール チャイナタウンの変貌」

21世紀のユートピア 都市再生という課題(9)URA(都市再開発機構)の挑戦 甦るショップハウス・ラフレシア シンガポール チャイナタウンの変貌」日刊建設工業新聞200208 30


連載 二一世紀のユートピア・・・都市再生という課題⑨ 都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る


甦るショップハウス・ラフレシア
URA(都市再開発機構)の挑戦
シンガポール  チャイナタウンの変貌

布野修司 





  シンガポールは1979年に初めて訪れて以来何度も歩いた。海外に出掛ける度に立ち寄ることが多く、チャンギ空港での滞在時間は相当の日数!になる。この四半世紀のシンガポールの変貌は実に著しい。

二〇年前、チャイナタウンには、種々の屋台が建ち並び、多くの人々が溢れていた。崩れ落ちそうなショップハウスの窓から数多くの顔が通りを見下ろす、活気ある地区であった。一方、街には既に高層の集合住宅が林立しつつあった。再開発の波が押し寄せ、チャイナタウンは風前の灯火のように思えた。

実際、八〇年代には数々の公共住宅建設事業、再開発事業が実施されることになる。高層住宅の下に店舗を配置する下駄履き型のピープルズ・タウン・センター、そして、チャイナタウン・ポイントがそのモデルである。シンガポール建設当初の一八二二年に遡るチャイナタウンの歴史もさすがにその命脈を断たれたかに見えた。現在、チャイナタウンのすぐ北に隣接するシンガポールの中心、ボート・キーの周辺には超高層のオフィスビルが建ち並んでいる。シンガポールは、美しく現代的な都市へと変貌を遂げたのである。

昨年九月、そしてこの七月にシンガポールを歩いて、街が変わりつつあることに気がついた。街のあちこちでショップハウスが改装されているのである。パステルカラーで塗り替えられたショップハウスのファサードが、日本人には多少違和感があるかもしれないが、トロピカルな雰囲気を醸し出して、通りを明るくしているのである。

急速に再開発を進めてきたシンガポールが、都市建築遺産の保存をテーマにするのは一九八〇年代の終わりである。シティ・ホールやラッフルズ・ホテルのようなモニュメンタルな建造物に限らない。チャイナタウンやリトル・インディア、そしてカンポン・グラム(アラブ・ストリート)のような地区全体もまた保存地区に指定(一九八九年)されるのである。もちろん、指定されたからといってすぐさま街が変わるわけではない。投資の対象にならなければ、あるいは保存がなんらかのメリットにつながらなければストックに手は入らない。しかし、ようやく動き出したというのが実感である。チャイナタウンの一画に建つURA(都市再開発機構)ギャラリーには様々な改修保全の資料やマニュアルが用意されており、多くの人々が訪れていた。

スタンフォード・ラッフルズは、民族毎に居住区を分けるセグリゲーション(棲み分け)を計画方針とする。一八二二年にタウン・コミッティを組織し、チャイナタウン、ブギス・カンポン、アラブ・カンポンなどを計画した。基本にしたのがショップハウスである。ヨーロッパのアーケード、中国の亭子脚(ていしきゃく)をルーツとすると言われる、ファイブ・フット・ウエイ(カキ・リマ)を前面にもち、ぎっしり建ち並ぶ店舗併用住宅は各地区共通でバック・レーン(サーヴィス用裏道)を持つのが特徴である。ある意味ではラッフルズの考案であり、マラッカやペナン(ジョージタウン)、バンコクなどにも持ち込まれている。

六〇年代から八〇年代にかけての再開発圧力にも関わらずシンガポールには多くのショップハウスが残されている。その中心がリトル・インディアであり、カンポン・グラムであり、チャイナタウンである。その理由のひとつは敷地割りと合ったショップハウスというしっかりした建築の型があったからである。

『植えつけられた都市・・英国植民都市の形成』(京都大学学術出版会)を書いたR.ホームは、これをショップハウス・ラフレシアと呼ぶ。ラフレシアとはラッフルズが発見した世界最大の花の名前だ。ショップハウスを建築のラフレシアというセンスに僕は共感を禁じ得ない。


2021年7月20日火曜日

北京 消え行く胡同  21世紀のユートピア 都市再生という課題(8)「大雑院から高層マンションへ 歴史的大改造 北京 消えゆく胡同 消えゆく四合院」

 21世紀のユートピア 都市再生という課題(8)「大雑院から高層マンションへ 歴史的大改造 北京 消えゆく胡同 消えゆく四合院」日刊建設工業新聞200207 12


連載

二一世紀のユートピア・・・都市再生という課題⑧

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る


大雑院から超高層マンションへ
歴史的大改造
北京 消え行く胡同 消え行く四合院

 

布野修司 




  北京の変貌ぶりにもびっくりする。グリッド・パターンの街区が上海とは異なった格を感じさせるが、至る所建設ラッシュであるのは変わらない。東京で言えば銀座、故宮に接した王府井(わんふーちん)に巨大なショッピング・センターが出来た。また、天安門の前の長安街にそって次々に新しいビルが建ち並ぶ。二〇〇八年の北京オリンピックに向けて北京は頗る元気である。

 景気のいいところに、世界中から有能な建築家が集う。これはもう真理である。日本人で今北京にオフィスを構えるのが六角鬼丈(精華大学美術学院)、山本理顕(SOHO現代城)である。山本理顕設計工場は四人のスタッフが常駐だ。

理顕さんから現場を見てくれと言われていたので寄ってみた。紅石(レッド・ストーン)社の大規模開発団地でコンペで勝ったプロジェクトである。第二環状線と建国門外大街が交わる抜群の立地である。建設は始まったばかりであった。モデル・ルームは、日本で言えば、億ションである。中国のプロジェクトとはとても思えない。わずかにメイド部屋があるのでそれと知れる。そのメイド部屋にもシャワールームがあり、自動乾燥機がついている。白を基調とし、面(つら)で収めた室内は、日本から取り寄せたという家具が置かれている。一戸当たり日本円で五〇〇〇万円程度で、完売というから驚きである。

 しかし、現場は大変そうであった。設計施工の体制がまるで違うのである。基本的には設計者は現場には口を出せない。施工精度にも不安がある。通訳を介しての打ち合わせだけで膨大な時間をとられているという。

景気のいいところに建築家が育つ。これまた真理である。『世界建築World Architecture』の編集長の、精華大学の王教授から、『青年建築師・中国』という昨年の暮れに出たばかりの作品集を頂いた。四五歳を最年長として三三人の「青年建築家」が選出されている。デザインの力は格段に進歩がある。中国の建築界は確実に世代代わりである。理顕さんに先駆けてSOHO現代城を手掛けたのは、三三人の一人、朱小地・北京市建築設計研究員副院長で、一九六四年生まれである。

 ところで、他人事ながら大いに気になるのが四合院であり、胡同(ふーとん 路地)である。かつて歩いたことのある朝陽門地区に行って愕然とする。一画が全て潰れていたのである。千年近くにもなる古都が決定的に変貌しつつある。果たしていいのか。北京の街区と四合院については、『乾隆京城全図』(1750年)をもとに分析してきたのであるが、これまでの街の成り立ちと再開発の方向はあまりにも異質である。決定的な問題は、街区の規模を遙かに超えた超高層集合住宅に街区が置き換えられつつあることである。

 四合院住宅は、しばらく前から、大雑院と呼ばれる。流入人口の増加で、多くの家族が住み込み、そのかたちは崩れ、居住環境も悪化しつつあったのである。この間、徐々に再開発が行われてきたが、住民たちもそれを受け入れつつあるようにみえる。

 郭沫若故居など典型的四号院が残る地安門大街周辺などに歴史的街並みを復元する地区がわずかに指定されるものの、四合院住宅が消えるのは時間の問題のようだ。菊児胡同において四合院型集合住宅が新たに提案されたことがあるが、精華大学の先生方の話を聞く限りでは、その方向にリアリティはないという。圧倒的に人気があるのは超高層の「SOHO現代城」の方なのである。

 北京オリンピックの北京は、おそらく全く見違えるような北京となっているであろう。


2021年7月19日月曜日

上海 新天地 21世紀のユートピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スターバックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」

 21世紀のユートピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スターバックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」日刊建設工業新聞2002615

連載

二一世紀のユートピア・・・都市再生という課題⑦

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

 

上海 新天地
「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スターバックス」に
 超高層の谷間に「里弄住宅」
 多彩な都市の貌 

 

布野修司 







日本建築学会のアジア建築交流委員会を代表して、この九月重慶で行われる第四回「アジア建築交流国際シンポジウム」について中国建築学会との事前打ち合わせのために中国へ行ってきた。まず、降り立ったのは上海である。中国側を代表して基調講演を行う同済大学の鄭先生に合うのが目的であった。

上海は、おそろしく元気なまちだ。浦東新区に「東方明珠電視塔」など超高層が林立する様は壮観である。超高層の数では東京も脱帽であろう。

上海につくと念願の外灘(バンド)の和平飯店に宿泊。和平飯店は南楼と北楼からなるが、宿泊したのは緑の三角屋根の北楼である。外灘の夜景は上海のもうひとつの貌である。

観光客でひどく混んでいて、予約で満杯だという。情けないことに和平飯店は一日限りで宿替えとなった。福州路に面した全館本屋の上海書城のすぐ近くの上海大都市酒店がとれた。ほぼ上海の中心と言っていいだが、部屋から眺めると眼下に一九二〇年代から三〇年代に開発された里弄(りろう)住宅(石窟門ともいう)がびっしり並んでいる。超高層が林立する谷間に低層の居住区がまだまだ点々と存在していることを知って、なんとなくほっとする。里弄住宅もまた上海の貌である。どんな都市であれ、超高層だけではなりたたない。超高層を支え、その空間をサーブする層がどこにどのように住むのかが共通の問題である。

まずは、人民広場にある上海城市規画展示館に出掛けて上海の都市計画の現況について情報収集を行う。圧巻はワンフロア全体に置かれた上海の模型であった。超高層がヴァナキュラー化しているというのは嘘ではない。二〇一〇年の上海博覧会(二〇〇二年末決定予定)には六ケ国からの提案があり、日本からRIAが参加していた。上海の歴史もよくわかるし、上海城市規画展示館はよくできている。その後、同済大学へ赴き、鄭先生と懇談する。鄭先生は中国建築学会副理事長で、上海建築学会理事長、中国科学院院士、上海市規画委員会城市空間与環境事業委員会主任、同済大学建築与城市空間研究所長である。肩書きを並べるだけでそのポジションがわかるだろう。別れ際に何処を見たらいいかと尋ねると、上海のニュースポットとして「新天地」をみろとおっしゃる。早速出掛けたのは言うまでもない。

「新天地」は、人民公園の西側を南に下がった廬湾区の一画にあった。ガイドブックには「一大会址」とある。「一大会址」とは、中国共産党第一次全国代表大会会址の略である。一九二一年七月、当時フランス租界であったこの場所、李漢俊(後に脱党)の住宅に毛沢東ら一三名が集まったのである。一九世紀半ばに住宅地として開発された地区で、煉瓦造の建物が建ち並んでいた。

心底仰天したのは、「一大会址」に「スターバックス」が入っていたことだ。

煉瓦造の住宅に次々と手が加えられ、洒落たブティックやレストランに変貌しつつあった。香港のディベロッパーの手になるが、新旧の取り合わせのデザインがいかにも受けそうな雰囲気を既に醸し出していた。未だ工事中なのだが、既に観光名所になりつつあるらしく、バスガイドが観光客を引き連れて巡っている。まさに「新天地」として、若い世代を惹きつけるのは間違いない。

「新天地」だけではない。蒋介石夫人の宋美齢が使った書斎(宋慶齢故居)は、「カフェ・アールデコ・ガーデン」となっている。かつて英国人の屋敷であった瑞金賓館はアジア・レストランに変貌している。租界建築が次々にリニューアルされているのも上海のひとつの貌である。

2021年7月18日日曜日

21世紀のユートピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オールドタウン」

 21世紀のユートピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オールドタウン」日刊建設工業新聞200205 31

  

  連載

  二一世紀のユートピア・・・都市再生という課題⑥

   都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

 布野修司


アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オールドタウン

  

   マラッカにはこれまで三度行ったことがある。最初は一九八一年、二〇年の月日を経て一昨年、昨年と続けて通った。一昨年は何日かじっくり歩き回ったからオールドタウンについては隅々までイメージできる。こじんまりしたいい町だ。

二〇年前、マラッカはなんとなくうらびれた田舎町でしかなかった。しかし、今では歴史都市としての面影を再生しつつある。二〇年間でマラッカはすっかり変わった。最初の訪問時、フランシスコ・ザビエルが一時葬られたセント・ポール教会など荒れ放題であったし、スタダイズ(市庁舎)やその周辺の歴史的建造物も傷んだままであった。王宮が復元されたのは最近である。変わるのは当たり前であるが、調査してみると、オールドタウンについてはほとんどの町屋はそのままであるから、変わったという印象は町のかたちがむしろくっきりしたというのに近い。

 マラッカはマレー半島における最初の都市といっていい。マラッカ王国の交易拠点として発展してきた。そのマラッカをポルトガルが奪うのが一五一一年、そして、その要塞をオランダが占領し(一六四一~一七九五年)、英国が引き継ぐ(一七九五~一八一八、一八二四~一九五七年)。その都市形成には植民地化の歴史が重層している。英国統治時代になってマラッカの相対的地位は低下する。ペナン、そしてシンガポールにその交易拠点としての役割を譲るのである。その後、錫、ゴムの集散地としての機能はもつが、内陸開発の拠点とはならない。戦後も工業開発からはむしろ取り残されてきた。東西交渉史の上で名高いマラッカにわざわざクアラルンプールから足を運んでいささか期待はずれの感を抱いたのが二〇年前である。

マラッカが脚光を浴び出すのはツーリズムの勃興の流れにおいてである。調べてみると、マラッカ州で文化遺産保全修復法が施行されたのは一九八八年のことである。それ以前に全州で古物法が成立し(一九七六年)、保護すべきモニュメントや遺物の指定が開始されていたが、都市計画と直接結びつくわけではない。マラッカがその歴史的都市としてのアイデンティティに目覚め、世界文化遺産登録を目指すまでにいたったのは最近のことなのである。

都市再生が課題であるとして、一体どの時代の都市を再生するのかは興味深い問題である。マラッカの場合、英国統治時代に大きな改変はなく、オランダ時代の骨格が残されてきたから自らそれがベースとされている。しかし、ポルトガル時代も無視し得ないし、事実、マラッカの南にはポルトガル村が存在している。また、一九世紀以降、町を担ったのはババニョニャと呼ばれる土着化した中国人たちである。

 オールドタウンを歩くと様々な民族が居住していることが自ずとわかる。トゥカン・ベシ-トゥカン・エマス通りにはヒンドゥ寺院、モスク、そして中国廟が並んでいる。教会もいくつかある。住宅の多くは店舗住宅(ショップハウス)であるがマレーハウスもある。ババニョニャが支配的であるが、インド人が多く携わる金融街もある。こうした多民族社会において何を再生するかは大きな問題である。

 日本の歴史都市の場合も同じ問題がある。民族や宗教の差異ほどはっきりしないが、様々な階層が様々な価値観を持ちながら共住するのが都市である。従って、都市再生といってもコンセンサスを得るのはそう容易ではない。しかし、住み手がどうあれ、町のアイデンティティに関わる、その骨格となる空間の形式がある。マラッカの場合、町屋の形式がかなり広範に維持されており、その骨格や景観をくっきりと浮かび上がらせる行為として、町屋の形式の維持が選択されたのである。

マラッカももちろん多くの問題を抱えている。バイパスがないために大量の車が通り抜けるのもそうだ。また、海岸部を壁のように塞ぐ住宅開発はオールドタウンの再生の意義を半減させてしまっている。


2021年7月17日土曜日

ニュータウン・イン・タウン(都市の中の新都市) バードウオッチングのできる都心、国内空港の跡地利用 セルフ・コンテインド(自己充足)か否か? 21世紀のユートピア 都市再生という課題(5)「バードウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュータウン・イン・タウン」

 21世紀のユートピア 都市再生という課題(5)「バードウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュータウン・イン・タウン」日刊建設工業新聞2002315

連載 二一世紀のユートピア・・・都市再生という課題⑤

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

 

ニュータウン・イン・タウン(都市の中の新都市)
バードウオッチングのできる都心、国内空港の跡地利用
セルフ・コンテインド(自己充足)か否か?

 




ジャカルタ

コタ・バル・バンダル・クマヨランKota Baru Bandar Kemayoran

布野修司 

  ジャカルタも東京(江戸)も一七世紀初頭にその起源をもつ。江戸幕府が開かれたのが一六〇三年、オランダがもともとスンダ・カラパと呼ばれていた寒村を襲ってバタヴィアの建設を開始したのが一六一九年である。バタヴィアは一七世紀半ばにはその骨格を完成させ、一八世紀にかけて繁栄を誇る。一八世紀末に人口約一二万人というから江戸の方が大きいが、バタヴィアは「東洋の女王」と呼ばれ、東インド会社の植民都市の中で最も美しい都市とされた。その後、ウェルトフレーデン(現在のムルデカ広場)に中心を移し、南に向かって都市は発展する。そして、一九世紀末から二〇世紀にかけて産業革命の大きなインパクトを受け、巨大都市への道を歩む。独立以後の人口増加にはすさまじいものがあり、ジャボタペックJaBoTaBek(ジャカルタ、ボゴール、タンゲラン、ブカシ)と呼ばれるジャカルタ大都市圏の人口は一〇〇〇万人を優に超える。

 ジャカルタが今日猶多くの都市問題を抱えていることは指摘するまでもない。交通、ゴミ処理、上下水などインフラストラクチャーの整備は依然として大きな課題だし、住宅問題も解決されたわけではない。ジャカルタにおいて都市再生という課題がないわけではない。具体的なテーマとしてかつてのバタヴィア、コタ地区の再生がある。かつての市庁舎(現ジャカルタ美術館)のあるファタヒラ広場に歴史的建造物を改造した洒落たカフェができるなどその萌芽はあるが、運河は依然として悪臭を放っている状況だ。一般的には発展途上国の大都市は再開発が問題になるはるか以前の状況にある。

 そうしたジャカルタにおいて、注目すべきプロジェクトが実施されようとしている。経済危機以降頓挫しているからその成否は歴史的評価を待たねばならないが、その理念は大いに興味深い。いわく、ニュータウン・イン・タウン(都市の中の新都市)・プロジェクトである。

 発想の種は都心に位置する広大なクマヨラン空港の跡地であった。二〇年前にはまだ国内線用空港として使われていた。何度か乗り降りしたことがあるが、まるで赤い屋根の海に突っ込むような空港であった。周辺はぎっしりとカンポン(都市集落)に取り囲まれ、市街ははるか遠くまで広がっている。飛行場の移転は当然であった。この跡地をひとつの都市を建設しよう、というのである。

 プルムナス(公団)や民間によって多くの郊外住宅地開発が行われる中で抜群の立地である。そしてかなりの規模がある。滑走路を幹線道路に使うのは当然として、いくつか注目すべき今日的アイディアがある。

 まず、ジャワ海に面する一画に開発を凍結された自然公園が確保されている。野生を呼び戻すのが理念である。また、数十万人に及ぶとされるバタウィと呼ばれるジャカルタ原住民の文化を維持していくことが謳われる。もともと原住民が暮らしていた土地であることから、その民族文化を学び継承する施設やワークショップを設けようというのである。さらに、周辺のカンポン居住者にカンポン型の集合住宅(ルーマー・ススン)を供給するのが前提とされる。カンポン型集合住宅とは、居間や厨房、バス・トイレを共用にする、インドネシア型のコレクティブ・ハウスである。ニュータウンのサーヴィス部門を支える層としても様々な階層が居住する(ミックス・ハウジング)のが原則である。そして、全体として自己充足すること、全ての生活が新都市内で完結することが中心理念とされる。

 経済危機とそれに続く政変が仮になくても、このプロジェクトが成功したかどうかはわからない。しかし、このプロジェクトには強力な理念がある。都市再生に必要なのもいくつかのシャープな理念ではないか。

 

2021年7月16日金曜日

再開発の壮絶なる失敗 アパルトヘイト体制の犠牲? 近代都市計画の失敗? スラム・クリアランスの悲劇 21世紀のユートピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケープタウンのディストリクト・シックス」

 21世紀のユートピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケープタウンのディストリクト・シックス」日刊建設工業新聞20020222

連載

二一世紀のユートピア・・・都市再生という課題④

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る


再開発の壮絶なる失敗
アパルトヘイト体制の犠牲? 近代都市計画の失敗?
スラム・クリアランスの悲劇

 



 ケープタウン ディストリクト・シックス

布野修司 

 

ケープタウンはシドニーと二〇〇〇年のオリンピック開催を競って破れた。マンデラ政権の登場(一九九四年)で、アパルトヘイト体制が崩壊し、国際社会に新体制が認められつつあり、アフリカでの開催が初めてということもあって大いに期待されたが残念な結果となった。ケープタウンは、オランダが基礎を築きイギリスが後を引き継いで建設した美しい町だ。しかし、ケープタウンには、その都心に近接してディストリクト・シックスという負の遺産となる地区がある。

 ディストリクト・シックスは、現在、茫漠たる野原である。所々に教会など宗教施設が建っており、住宅もぽつんぽつんとあるが寒々しい風景だ。ディストリクト・シックスはかつて黒人、インド人の他、東欧、北欧など多人種の混住する地区であり、活気ある下町であった。ところが、一九五〇年に制定された集団地域法に基づいて突然「白人地区」に指定される(一九六六年)。全ての地主は政府以外に土地を売ることを禁止され、多くの反対運動にも関わらず、一九六八年、地区の解体が強行されたのであった。ディストリクト・シックスは南アフリカで最も悲惨なスラム・クリアランスの事例となった。発展途上国の大都市でも数多くのスラム・クリアランスが行われてきたが、アパルトヘイト体制下で強制力をもって行われた事例として他に類例を見ない。

一八六七年にケープタウンの行政区は六つの地区に分割された。ディストリクト・シックスの名称はその時の区分に由来する。ケープタウンの都市建設は、一六五二年にヤン・ファン・リーベックによって開始される。この人物、最初はバタヴィアに赴任し、出島を訪れたことのある興味深い人物だ。当初は要塞のみであるが、やがて居住地建設が本格化し、一六六六年に現在の位置に新たにファイブ・スター形の要塞が建設された。ディストリクト・シックスはこの要塞から南東に形成されることになるが、一八世紀末までは未利用地のままである。市域の東への拡張が始まるのは、一九世紀初頭で一八三四年の奴隷解放が大きな転換点となる。人口は急増し始める。二〇世紀初頭、地区はほぼ建て詰まった。衛生問題は年々深刻化し、一九〇一年にはペストが発生する。そうした中で原住民(都市地域)法が制定された(一九二三年)。各自治体にアフリカ人を分離したロケーションに住まわせ、都市への流入を制御することを求めるものだ。これが集団地域法(一九五〇年)の前身である。

以降、高密度居住による衛生問題、住宅問題が一貫する都市計画の課題となる。公衆衛生法(一九一九年)、住居法(一九二〇年)がつくられ、パインランズという田園都市建設がこころみられるが、基本方針は黒人の分離、強制移住であり、原住民(都市地域)法の制定が居住地編成を大きく規定する。

一九六二年、市議会はディストリクト・シックスの地所を買収し、再開発することを提案する。そして、一九六四年地域開発大臣は再計画のための調査委員会を立ち上げる。その結果、貧困地区回復委員会CORDAが設立される。しかし、一九六五年、政府は全ての計画を凍結する。一九六六年、ディストリクト・シックスは突然「白人地区」に指定されるのである。一九六八年にCORDAが簡単な再開発計画(五一.ha、一五,〇〇〇人)を立て、一九七一年に政府が承認した計画案(五一.ha、一三,五〇〇人)は、オープン・スペースを広大にとった巨大なフラッツの集合体であった。計画対象地域はかつてのディストリクト・シックスの半分程度に縮小している。四半世紀たって再開発計画は遅々として進まない。

かつてバブル華やかなりし頃、東京で下町が次々に消滅していったことを思い出す。学ぶべきは地区の歴史を無視する再開発は巨大なロスであることだ。ディストリクト・シックスには様々な民族の文化が歴史的に根付いていたにもかかわらず、その再開発計画は一瞬のうちにそれを抹殺してしまったのである。

2021年7月15日木曜日

新旧絶妙のバランス 復元・再生・挑戦 ザ・ドラマティック・マイル   21世紀のユートピア 都市再生という課題(3)「元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス」

 21世紀のユートピア 都市再生という課題(3)「元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス」日刊建設工業新聞20020201

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二一世紀のユートピア・・・都市再生という課題③

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る


新旧絶妙のバランス
復元・再生・挑戦
ザ・ドラマティック・マイル
ロンドン・テムズ川・サウス・バンクス

布野修司

 






 ロンドン・テムズ川・サウス・バンクスが元気である。「ザ・ドラマティック・マイル」「ロンドンズ・ドラマチック・リバーサイド」というキャッチフレーズの下、いくつかのプロジェクトが進行中である。ウエストミンスター・ブリッジからロンドン・ブリッジまで、その一マイルを歩いた。

 ビッグベンを振り返りながらウエストミンスター・ブリッジを渡ると、まず、大観覧車が人気を集めている。プリンス・チャールズであれば眉を顰めそうであるがロンドン子の間に議論はなかったのであろうか。人を集めるには大観覧車ということか。しかし、建築のディテールはしっかりしており迫力がある。橋の元にはサッチャーの行革で売り飛ばされたカウンティ・ホールがある。前にオープン・カフェのテーブルが並び週末のせいかものすごい人の流れであった。

少し行くと右手に円形の立体映画館IMAX、そして、国立劇場など公共建築が続く。戦後、打ち放しコンクリートの近代建築が並んだ一画である。プリンス・チャールズがかつて槍玉に挙げた地区だ。こうして新たな建築が建ち並びだすとあらためて一時代が過ぎたという気がしてくる。

新たな建築といっても、新たに建築されるだけではない。続く目玉のテート・モダンがそうだ。この現在人気を集める美術館は巨大な発電所を改造したものものなのである。こんなところに発電所があったのかとまず思う。堂々たる建築はベーレンスなど近代建築の迫力を感じさせる。ところがこの発電所、第二次世界大戦後の建設であった。建築家はギルバート・スコット卿で、一九五三年に西半分がオープンし、完成したのは一九五九年である。丁度打ち放しコンクリートの国立劇場が建ち並びだした時期だ。煉瓦造の工業建築を当時の建築ジャーナリズムが無視したとしても不思議はない。第一スケールアウトである。発電所としても石油時代を読みそこなったのか、また、都心に近すぎたせいか、一九八一年に閉鎖されたのであった。その建築がいま甦っている。コンペに勝ったのは、ジャック・ヘルツォークとピエール・デ・ムーロンである。プリツカー賞を受賞した。巨大な空間を思う存分再生している。ストック時代の建築再生の、ひとつの方向を示している。

テート・モダンの前には、真直ぐセント・ポール寺院へ向けて、ノーマン・フォスターのミレニアム・ブリッジが建設中だ。無骨な橋が並ぶ中でひときわスマートである。テムズに浮かぶオブジェになる。土木スケールの構築物のデザインは建築家の大きなテーマになるであろう。少し離れてロンドン・ブリッジのたもとには同じくノーマン・フォスターによる楕円球形をしたロンドン市のオフィスがある。ミレニアム・ドーム(閉鎖中である)のリチャード・ロジャースも合わせて健在で、挑戦的である。

テート・モダンの東には、シェイクスピアの「グローブ座」がミレニアム・プロジェクトに先駆けて復元されている。F.イエーツの『世界劇場』以降、考古学的資料も得た考証を重ねた上での復元である。こうした復元も大いに試みられるべきだ。ただ重要なのは復元のための復元ではないことだ。実際、シェイクスピア劇団によってシェイクスピア劇が毎日上演され、大いに人を集めているのである。

川向こうを望みながら歩けば、ロンドンの歴史的街並みをパノラマとして楽しむことができる。ところどころに簡単な説明もある。中にハーバート・ベイカーの建築を発見して思わずにんまりした。彼は南アフリカで活躍した建築家である。ロンドンの歴史の厚みに思いを馳せることもできるのである。

わずか一マイルの間に新旧取り混ぜた再生手法が見られる。絶妙のバランスと言えるのではないか。

2021年7月14日水曜日

ソカロからラテン・アメリカ・タワーへ  メキシコ・シティの苦悩!?  21世紀のユートピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」

 21世紀のユートピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」日刊建設工業新聞20020111

 ソカロからラテン・アメリカ・タワーへ
 メキシコ・シティの苦悩!?

 問われる歴史的都市核の再開発

 超高層の海に沈むかコルテスの街

                                           布野修司







  ソカロの再開発 メキシコ・シティ

京都のような格子状の町に住んでいるせいだろうか。世界中の格子状(グリッド・パターン)の都市が気になる。といってもきりがない。古今東西、グリッド・パターンの都市はそこら中にあるからである。

植民都市ということでは、中南米はスペインがつくった格子状都市の宝庫である。フェリペ二世が一五七三年に発したインディアス法が大きな影響力を持ったとされるが、もちろんそれ以前から格子状都市はつくられている。フェリペ二世の勅令はそれを集大成したものだ。今年、オランダ西インド会社(WIC)の建設した植民都市をブラジルそしてカリブ海まで追いかけて、その帰途、初めてスペイン植民地(ヌエバ・エスパーニャ)の総括拠点であったメキシコの地を訪れる機会を得た。メキシコ・シティは見事なグリッド・パターンの街である。

メキシコ・シティの地をコルテスが征服した時(一五二一年)、テスカカ湖の上にはアステカ帝国の都テノチティトランの壮麗な姿があった。コルテスはその都を破壊し、その石材を使って自分たちの都シウダード・デ・メヒコを建設する。アステカ帝国の都市遺産を完全に破壊し、全く新たな都市を同じ場所に建てたのである。

現在、ソカロと呼ばれる中央広場の周辺には、スペインの当時の都市に決して負けないカテドラル、宮殿が建つ。コルテスは、現地人にヨーロッパ都市文明の威光を示すこと、スペイン本国に負けない都市を建設することを目指したのである宮殿の隣地からアステカの中央神殿跡が発見されたのは一九一三年のことだ。ひどいことをしたものだ、とつくづく思う。コルテスの頭脳の中には、先住民の都市文化遺産への尊敬の念など微塵もなかった。

とは言え、ソカロは既に五〇〇年にも及ぶ歴史を誇る。周辺は世界文化遺産にも指定されている。ところで、ソカロの外れ、アラメダ公園の角に、エンパイア・ステート・ビルを小型にしたようなラテン・アメリカ・タワーというビルが建っている。地上四四階、さらテレビ塔が載って一八二メートルにもなる。そのビルの展望台から見事なグリッドと主要な建物を俯瞰することが出来る。

このラテン・アメリカ・タワー、驚いたことに一九四八年に着工して五六年に竣工している。日本に霞ヶ関ビルが出来る(六八年)遙かに前である。設計者はオルティス・モナステリオ。日本において、六〇年頃国立自治大学図書館の民族的表現などが話題になったことがあるが、この建物は知られていない。アメリカ建築の華々しさの前に無視されたのだろう。耐震性にすぐれ、度重なる地震にも問題ないという。

このタワーをめぐって今一騒動が起こりつつある。なんと、大統領とメキシコ市長は、都心活性化のために、ゾカロからラテン・アメリカ・タワーの町へ化粧直しをはかることで一致、そのためのプロジェクトを発表したのである。八月半ば、僕のメキシコ滞在中のことである。

世界文化遺産にも指定された歴史的中心ソカロも古くさい、と言うことであろうか。また、未だ近代建築の理念と美学は根強いということであろうか。ソカロが経済的に地盤沈下しつつあることはよくわかる。ちょっとしたレストランなど夕方7時を過ぎれば店じまいである。何らかの再開発は必至のようだ。

テノチティトランを完全に破壊して出来た栄光のコルテスの町が、超高の林立する街の底に沈んでしまうとしたら皮肉なことである。都市も500年存続すればもって瞑すべしということであろうか。もっとも、顔見知りになったラテンアメリカ・タワーの足下の古本屋の主人は、メキシコには金無いし、何も変わらない、と平然としているのである。


2021年7月13日火曜日

バブリーなオランダ建築  ポストモダン建築の最後の競演、饗宴、共演!? 連載 21世紀のユートピア・・・都市再生という課題

 21世紀のユートピア 都市再生という課題(1)「バブリーなオランダ建築」日刊建設工業新聞20011130

 都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

の五年の間、「植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する調査研究」(文部省科学研究費助成研究)と題する研究プロジェクトに携わってきた。〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の二つを拮抗基軸とする都市の文化変容が主題である。自ずから、世界史的なスケールにおいて、都市の未来を考える機会となった。

二一世紀の鍵を握る今日の発展途上地域の都市は、ほとんどが植民都市としての歴史をもつ。各都市は、人口問題、環境問題に悩む一方で、共通の課題を抱え始めている。植民地期に形成された都市核の再開発問題である。植民都市遺産を否定するのか、継承するのかはかなり大きなテーマである。

顧みるに、我が国は、「都市再生」の大合唱である。一体「都市再生」とは何か。再生する都市遺産とは一体何か。世界中のいくつかの事例に即して、様々な角度から考えて見たい。

 

バブリーなオランダ建築
 ポストモダン建築の最後の競演、饗宴、共演!?

 マイケル・グレイブス、シーザ・ペリ、レム・コールハウス、リチャード・マイヤー、アルド・ロッシ他





 ①ハーグ駅前再開発 オランダ

長年つき合ってきたインドネシアのことを調べるには宗主国であったオランダに赴くことになる。ケープタウン、コロンボ、マラッカ、インドネシア以外でも、ポルトガルの拠点を襲ってオランダが基礎を築いたアジアの都市は少なくない。資料漁りのために最も通ったのはハーグ中央駅に接している王立図書館、国立公文書館である。

そのハーグ中央駅の駅前がなんとも賑やかである。

趣のある歴史的建物の背後に異形の高層建築が二つ見える。オランダはハーグの王宮手前から中央駅を望んだ光景である。左の砲弾形のビルがシーザ・ペリ、右の急勾配の切り妻屋根が二つ連なるビルがマイケル・グレイブスの設計だ。

国際司法裁判所があり、歴史ある落ち着いた町として知られるハーグの駅前に、よくもまあ次々に話題作がそろうものである。コールハウスの出世作といっていいドラマ・シアター(OMA 一九八〇~八七)、リチャード・マイヤーのハーグ新市庁舎(一九八六~九五)も隣接して建っている。国際的建築家の時ならぬ饗宴の感がある。マスタープラン(一九八八~)は、ロブ・クリエである。

オランダ建築には昔から興味があった。アムステルダム派の建築が好きで随分見て歩いた。アムステルダム派の住宅作品が建ち並ぶベルヘンのパーク・メールウクなど三度も行った。J. J. P.アウトやブリンクマンの力量にも惹かれるけれど、ロッテルダム派よりアムステルダム派の方が僕の肌には合う。ハーグは両都市の中間で、両派の師匠と言っていいH. P. ベルラーエの市立美術館(一九二七~三五)やキリスト第一教会(一九二五/二六)、ネーデルランド事務所ビル(一九二一~二七)が残っている。そして、P. L.クラマーの百貨店(一九二四~二六)もあればG.THリートフェルトの住宅作品もある。

それにしても、ハーグに限らず、アムステルダムにしろ、ロッテルダムにしろ、近年のオランダ建築の元気の良さにはびっくりするやら、うらやましいやらである。

しかし一方で、ポストモダンの建築などもう流行らないのではないのか、という気がしないでもない。負け惜しみのようだが、歴史ある都市をここまで改造して大丈夫かな、という気がしてくる。まるでバブル期の日本建築を見るようなのだ。マスタープランが立てられたのは1980年代の終わりである。ポストモダン理論が色濃く投影されているとしても当然かも知れない。

しかし、ポストモダンの都市計画理論とは何か。ポストモダン歴史主義のデザインというのは歴史的文脈を取り戻そうという動きであった。しかし、個々の建築が建つ具体的な場所の歴史についてはどのような方法を採ろうとしたかは不明である。地となる街並みが近代建築のデザインで支配されるそういう場所での自己主張の表現は得意でも、地となる街並みが歴史的な文脈を色濃く持つ場合はどういう解答になるのか、それが問題である。

個々の建築家は、それぞれがそれなりにハーグの町を読んで、それぞれに解答を出しているように見える。しかし、その解答の方向はばらばらである。むしろ、建築家の我が儘の表現が無秩序に並んでいるように見える。ハーグの町の未来がここに示されているとはとても思えない。

無味乾燥な近代建築の立ち並ぶ景観にポストモダンの歴史主義は確かに一撃を加えたかも知れないけれど、しっかりした歴史的街並みの前ではどうしても薄っぺらに見えてしまう。競演が饗宴に終始し、共演になり得ていないのが致命的ではないか。







2021年7月12日月曜日

イスラーマバード/ラワルピンディとチャンディガール 計画都市の競演 国境を挟んで計画都市が向かい合う イスラマバード

 国境を挟んで計画都市が向かい合う イスラマバード「パキスタン」「世界100都市」『週刊朝日百科』200211


イスラーマバード/ラワルピンディとチャンディガール
計画都市の競演

布野修司 


 

ニューデリーが独立の最大の贈り物になったインドと異なり、分離独立後のパキスタンにとってまず必要とされたのは新国家に相応しい首都であった。一九四七年に当時最大であった港湾都市カラチに首都が置かれたが、あまりに南にあり、気候も適さない。軍事、経済、政治、多様な民族構成等様々な条件を勘案した上で、一九五八年、アユブ・カーン大統領の時に新たな計画都市として建設が決定されたのがイスラーマバード(イスラームの都市)である。ラワルピンディの北東一四キロがその場所だ。

ラワルピンディは、ラホールからペシャワールへ抜ける幹線道路上に位置する。古来様々な勢力の攻防が繰り返されたが、土地に因んで命名されたのは一五世紀末のジャンダ・カーンの治世だという。その後シク教徒がこの地を襲い(一七六五年)、英国に明け渡す(一八四九年)まで支配する。ラワルピンディが発展するのは英領化以降である。市の南にはロシアの南下政策に備えるために広大なカントンメント(兵営地)がつくられ、一八七九年にはパンジャブ北部鉄道が敷かれている。町には、ザ・モールと呼ばれるカントンメントをおよそ東西に横切る道路と北からモール、鉄道を横切り旧市街の東に接する道路の二つの幹線道路がある。そして旧市街にラジャ・バザール、旧市街とカントンメントの間にサダル・バザールがあって人々で賑わう。ラワルピンディはイスラーマバード完成まで暫定首都(一九五九~七〇)であった。

イスラーマバードの計画を担当したのはギリシャの建築家ドクシアデスである。彼はエキスティックス(人間居住学)という新たな学問分野を提唱したことで知られるユニークな建築家だ。彼が導入したのは極めて整然としたグリッド(格子状)・パターンの街区であり街路体系であった。ドクシアデスの念頭にあったのは、明らかにル・コルビュジェのチャンディガールである。

分離独立によって旧パンジャブ州の州都ラホールはパキスタン領となった。新たな州都が必要となったのはインドである。フランスから招かれた近代建築の巨匠、ル・コルビュジェによって一九五二年に計画案がつくられ、既に建設中であった。そして、ル・コルビュジェが採用したのも整然としたグリッド・パターンの都市であった。こうして二つに引き裂かれたパンジャブの国境を挟んで二つの近代計画都市がその威厳とシステムを競うことになったのである。

イスラーマバードとチャンディガール。同じようなグリッド・パターンの都市ではあるが当然異なる。まず、街区の規模が異なる。街区の単位は、イスラーマバードはマイル(一.六キロ)四方、チャンディガールは八〇〇メートル×一二〇〇メートルである。イスラーマバードでは、都市全体の機能が大きく八つに分けられ、行政街区、商業街区、教育街区、工業街区など用途別の街区がつくられている。そして、各街区はさらに大きく四分割され、中央にマーケットが置かれる。チャンディガールの場合、街区はひとつの近隣住区単位で五〇〇〇人から二五〇〇〇人が居住する。住居は街路に面して建ち、街路で囲われた街区の中は川が流れゆったりとした緑の公園になっている。いずれも、太陽と緑、ゾーニングなど近代都市計画の理念を実現しようとしたのがこの二つの都市である。

いずれも何もないいわば白紙の上に描かれ、建設が開始された都市であり、計画通りに事が進んだわけではない。思い通りに人口が定着しないなど、その理想と現実のギャップに二つの都市とも苦しんできた。しかし、歴史を経るに従って都市は人間くさくなった。イスラーマバードは現在人口約九〇万人(一九九八年)、チャンディガールは人口約六四万人(一九九一年)の都市である。




 


2021年7月10日土曜日

高床と土間・・・・・・・床のレヴェル 三つの高さの使い分け 高床式住居の謎

 住まいのベーシック 屋根『週刊東洋経済』20020406


高床と土間・・・・・・・床のレヴェル
三つの高さの使い分け
高床式住居の謎

 





床をどう設定するかによって住まいのしつらえは大きく異なる。日本では、玄関で靴を脱いで履き替える。全く土足という住まいは今でも珍しいだろう。畳の部屋が大抵一部屋はまだある。しかし、一方、机やベッドのないのも最早珍しい。明治になって机やテーブルが導入されて以来、僕らは椅子座か床座かどちらかに決定し得ないでいる。

日本の住宅の起源と伝統は、土間式の竪穴式住居・農家住宅の系列と高床式の高倉・貴族住宅(寝殿造り、書院造り)の系列に分けて、前者が北方系、後者が南方系と説明される。北方にも高倉の系列はあり単純ではないが、高床の形式が南方に多いのはいうまでもない。日本の現代住居はせいぜい「揚げ床」であって高床とは言わない。しかし、地表面と生活面となる床を区別するかどうかは大きな問題である。

世界を広く見渡すと、とりわけ、イースター島からマダガスカル島までオーストロネシア世界の全体に高床式の住居が分布している。ところがいくつか例外がある。ヴェトナムの南シナ海沿岸、そしてジャワ島、バリ島、ロンボク島である。また、西イリアンとチモール島の高地、そしてモルッカ諸島の小さな島ブル島が高床式住居の伝統を欠いている。ヴェトナムは中国の影響であるとして、同じジャワでもジャカルタのある西ジャワ(スンダ地方)には高床形式があるから単純に気候風土の問題とも言えない。高床式住居の起源とルーツをめぐっては未だ謎がある。

謎は謎として、あることに気がついた。土間式というけれど、ベッドが用いられる場合がある。土間式のロンボク島では屋根のついたベンチ様のブルガという露台が用いられる。また、高床の倉の下に床が張られて使われている。さらに、住居の内外で段差が設けられる場合がある。

農家住宅といっても、時代が下れば土間のみではなく床が張られるようになる。実は竪穴式住居にも床が張られていた可能性が高い。言いたいのは、どんな住まいでもいくつかのレヴェル(高さ)を使い分けているのではないか、ということだ。すなわち、床面、床上3045cm(椅子面、座机面)、そして床上60cm80cm(テーブル面)の三つである。西欧人だって床上に寝そべることはある。下足を脱ぐ伝統は実は日本に限らない。人間の活動、姿勢に大きな違いがあるわけではないだろう。三つのレヴェルをうまく使い分けている住まいが居心地いいのである。

 


2021年7月9日金曜日

四本柱の家・・・・・・・架構の原理 移築可能な骨組み 穀倉が基本

 住まいのベーシック 屋根『週刊東洋経済』20020406


四本柱の家・・・・・・・架構の原理
移築可能な骨組み 穀倉が基本





 住まいにとって重要なのは骨組みである。骨組みがしっかりしていないと地震や風に対して弱いし、長持ちしない。建築の構造や構法は難しいと思われるかもしれないが意外に簡単である。世界各地の民家が基本原理を教えてくれる。

自分の手で家を建てるとしたらどうするか。一番簡単なのは四本の柱を建てて梁で繋ぎ屋根を架ける方法である。日本の竪穴式住居の場合、交差した二本の木を二組、向かい合わせて地面に並べておいて引っ張り起こす。ひとりでは無理だが案外簡単に立ち上がる。要所を縛って四本柱を建てれば一応の空間が出来る。日本の住居の原型は家屋文鏡に四種描かれているが、この基本型の応用である。

稲作文化圏あるいは木造文化圏にこの四本柱の骨組みは広範に見ることが出来る。典型的なのは穀倉で、住居の架構は倉の骨組みから発達してきたように思われる。南西諸島の高倉にそっくりな建築形式が北ルソン(フィリピン)の山岳地方にあるが住居である。同じ高倉をそのまま内部にもつ住居の形式もある。また、穀倉を基にした住居はインドネシアの島々にも見られる。

ジャワにはジョグロと呼ばれる屋根の中央を高く尖らせた住居がある。その屋根を支えるのがサカ・グルと呼ばれる四本柱である。穀倉よりはるかに大規模であるが原理は同じである。このサカ・グルの構法は、入植してきたオランダ人たちの邸宅にも用いられている。また、モスクや王宮などの公共建築にも用いられる。地域の建築の伝統は根強いということだが、構造方式が単純で基本的だからでもある。

まずはしっかり四本の柱を固めるのが肝要である。日本で大黒柱と呼ばれる柱はこの柱の一本であるが、四本一組で考えた方がいい。北陸地方に「枠の内(わくのうち)づくり」と呼ばれる構法がある。四本柱を太い差鴨居(さしがもい)で固めたものを「枠の内」という。この「枠の内」は、家は解体されても再び用いられるし、移築されることもある。ジャワの場合のサカ・グルも同様である。