南アフリカの都市と建築 上,プレトリア:ハーバート・ベイカー日刊建設工業新聞,19971107
南アフリカの都市と建築 中,ケープ・タウン:アルバート・トンプソンと田園都市パインランズ日刊建設工業新聞,19971121
南アフリカの都市と建築 下, ジョハネスバーグ:ソウェト,日刊建設工業新聞,19971212
南アフリカの都市と建築
南アフリカ共和国というと、喜望峰(ケープ・オブ・グッドホープ)とアパルトヘイト、それにマンデラ、金にダイアモンド、といった連想であろうか。「植民都市の比較研究」が目的であるが、そんな程度の知識で南アフリカを巡ってきた。行ってみると、都市と建築をめぐるテーマが次々に発見されて大いに刺激を受けた。その一端を紹介したい。南アフリカ共和国の現況については峯陽一のすぐれた『南アフリカ 「虹の国」への歩み』(岩波新書)を参照されたい。
①プレトリア:サー・ハーバート・ベイカー
ハーバート・ベイカーという英国の建築家をご存じだろうか。一八八二年生まれだからグロピウス(一八八三生)、ミース(一八八六年生)、コルビュジェ(一八八七年生)ら近代建築の巨匠達とほぼ同世代だ。しかし、その作風はいわゆる近代建築とは無縁だから、近代建築の歴史において無視されているとしても無理ないかもしれない。
ベイカーは、ケントで生まれ、ロイヤル・アカデミーのスクール・オブ・デザインで学んだ。そして南アフリカに渡り、数多くの作品を残した。『セシル・ローズ』という著書があることが示すように、南アフリカの鉱山王、イギリス南アフリカ会社の創設者でケープ植民地の首相を務めたセシル・ローズとの関係が深かったせいであろう。ベイカーはその功績によって「サー」の称号を得た。大英帝国においては相当著名な建築家であったとみていい。少なくとも南アフリカで最も有名な近代建築家である。戦前期の『南アフリカ・アーキテクチュラル・レコード』の頁を繰ってみると、ベイカー奨学金などが設けられており、その重鎮振りは明らかである。
ケープ・タウン、ジョハネスバーグ(ヨハネスブルグ)、プレトリアといった都市を歩いたのであるが、そこら中にベイカーの作品がある。ケープタウンの中心街セント・ジョージストリートには、セント・ジョージ・カテドラルをはじめ数棟のビルが残されている。その骨格はベイカーによってつくられたといっていい。また、ジョハネスバーグにはベイイカー・ヴィレッジと呼ばれる高級住宅街がある。その一角にあるノースワーズと呼ばれる邸宅はナショナル・モニュメントに指定され、その前庭には生誕一〇〇年を記念してその銅像が建てられていた。
ベイカーの代表作というと、行政首都プレトリアのユニオン・ビルディングであろう。南ア連邦統一のシンボルである。小高い丘の上に建てられ、眼下の市街を両手で抱くように半円形の両翼が配される。堂々たる古典主義建築である。大変な力量を感じさせる。現在は大統領府と外務省が置かれている。
最初に写真を見た時、この建築はどこかで見たことがある、と思った。ニューデリーのインド総督府である。そう、ベイカーはインドに招かれ、ラッチェンス、ランチェスターとともにその設計に携わるのである。
大英帝国の中心を担ったのはベイカーやラッチェンスのような建築家である。その正当な評価をめぐって作品集が近年刊行されつつある。
南アフリカの都市と建築
②ケープ・タウン:アルバート・トンプソンと田園都市パインランズ
ロンドンでは南アフリカの資料を集める図書館通いの合間にレッチワースに行って来た。世界最初の田園都市。駅前には、「ザ・ファースト・ガーデン・シティ」を売り物にブティックやショッピングモールなど現代的な装いの活気があった。しかし、周囲にはまるで建設当初の二〇世紀初頭のようなのんびりとした風景が拡がっていた。
田園都市運動が日本を含めて世界中に大きな影響を与えたことは言うまでもない。しかし、それが大英帝国の植民地にも及んでいることは案外知られていないのではないか。アルバート・トンプソンが設計したケープ・タウン郊外のパインランズは田園都市計画思想の直系の落とし子である。
というのも、トンプソンはアンウイン・パーカー事務所の番頭さんだったのである。彼がバクストンの事務所に入ったのは一八九七年。一九〇五年、レッチワース計画に参加、一九一四年の事務所閉鎖まで勤めている。そして、その後のリンカーン郊外のスワンポール・ガーデン・サバーブは彼の仕事である。そして、彼は南アフリカへ赴くことになる。田園都市建設理想に共感したスタッタフォードの依頼にアンウインはトンプソンを派遣するのである。一九二〇年のことだ。
歩いてみると、茅葺きの民家がところどころに残っている。レッチワースのアンウィン・パーカーの事務所は現在博物館になっているが同じように茅葺きだ。アムステルダム・スクールのパーク・メールウク(ベルヘン)の民家群を想い起こした。一期の工事が完成したのが一九二四年。七〇年以上の時が経過しているのに、まるで当時のままで、タイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。
ガーデン・シティ・トラストはやがてカンパニーに名を変え、実は驚くべきことに現在も存続している。一貫してニュータウン開発を続けているのである。
パインランズの場合、結果的に白人に限定された都市であった。戦後一九五〇年の集団地域法の制定以降も白人地域に指定され続ける。ハワードの基本原理、自給自足、公的所有、周辺グリーンベルトなどが導入されたわけではない。しかし、南アフリカの特殊な背景、ゾーニング思想と文化相対主義の中で島のように存続し続けたのであった。
トンプソンはその後ダーバンなどで宅地開発に携わった後、一九二七年南アフリカを去り、ナイジェリアへ赴く。三二年に帰国し、ブライトンで事務所を開く。一九四〇年死去。六二才であった。
③ジョハネスバーグ:ソウェト
ソウェト(Soweto)とはサウス・ウエスト・タウンシップの略である。ジョハネスバーグの南西方向に位置する。一九六七年に住民の全てが強制的に立ち退きさせられたケープ・タウンのディストリクト・シックスとともに南アフリカで最も有名な「スラム」地区として知られる。ソウェトの名を世界的に有名にしたのはアパルトヘイトに対する一九七六年の蜂起だ。その名は微かに記憶にあった。
アパルトヘイトの時代、集団地域法(一九五〇年制定)のもとで、南アフリカの都市は白人居住区、カラード居住区、インド人居住区、アフリカ人居住区に明確に分割されていた。ジョハネスバーグのアフリカ人居住区の象徴がソウェトである。居住区といっても広大なひとつの都市であり人口は三〇〇万人を超える。
たまたま、仲良くなった運転手フィリップの案内でソウェトにある彼のお兄さんの家を訪ねた。度肝を抜かれた。インドネシアのカンポン(都市集落)を歩いて「貧困の居住地」には驚かないつもりであったが、全く異なった風景が延々と続いていた。一戸の大きさは二間四方、四角いブリキの箱がびっしりと立ち並んでいるのである。トイレはプレファブ製だ。異様である。ジョハネスバーグの白人住宅街とは余りにも対比的で、別世界だ。
しかし、活気に満ちたコミュニティがそこにあった。車からの恐る恐るの覗き見では到底理解するところではないのであるが、カンポンの世界とある種通ずるものがあるというのが直感であった。フィリップのお兄さんの家は戸建てで三DKほど。結構広い。他にホステルと呼ばれる単身者向けの長屋建てがある。そして、ここそこに高級住宅街も出来つつある。マンデラ大統領の生家もソウェトにあった。
一九九四年の総選挙以降、南アフリカは急速に変わりつつある。しかし、長年にわたるアパルトヘイトの後遺症は至る所に残っている。ジョハネスバーグの中心街には超高層のマンションやオフィスが林立する。一見モダンな大都会だ。しかし、その中心街から白人が消えつつある。例えば、ヒルブロウという地区など同じ町のまま完全に黒人街に変わってしまった。治安が悪いというので白人たちは北のサントンと呼ばれる地区にどんどん移住しつつあるのだ。
多民族共住といっても容易ではないのである。
アパルトヘイトの現在
「植民都市の形成と土着化に関する研究」という、いささか壮大なテーマを掲げた国際学術調査を開始することになった。まず対象とするのは大英帝国の植民都市で、南アフリカ(プレトリア)、インド(ニューデリー)、オーストラリア(キャンベラ)が主要ターゲット国である。まずは現地へと、一月余りで、ロンドン、アムステルダム(ライデン、デルフト)を経て、南アフリカ、インド(ムンバイ)に行って来た。最も長く滞在したのは南アフリカで、ロンドン、オランダは宗主国の資料を収集するための行程だ。
例えば、ケープ・タウン。喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)は、僕らには親しい。一四八八年にバルトロメウ・ディアシュが発見し、一四九二年には、ヴァスコ・ダ・ガマに率いられた船隊がここを抜けてインドへ向かう。大航海時代の始まりと世界史で習う。そのケープ・タウンを最初に建設したのはオランダである。ヤン・ファン・リーベックが一六五二年建設の礎を築いた。しかし、その後ケープタウンの地は一九世紀初頭英国の支配下に入る。ロンドン、オランダが資料収集の場所となる由縁である。
アジアを歩き始めて二〇年近くになる。日本対西欧という見方ではなく、日本からアジアへ(あるいはヨーロッパへ)、どのように多様な脈絡を発見できるかを視点としてきた。しかし、植民都市ということをテーマにすることにおいて、植民地化の論理、ヨーロッパ側から世界覆う世界史的視座に触れざるを得ない。それは、かなり刺激的なことであった。例えば、ケープタウンの建設。同じ時期にバタビア(ジャカルタ)が建設されている。スリランカのコロンボもそうだ。三つの植民都市を比較する視点も当然のように思える。同じ時期、台湾のゼーランジャー城、プロビンシャー城も造られている(ヨーロッパではあんまり知られていないことがわかった)。例えば、ヤン・ファン・リーベック。彼は長崎の出島にも来ている。二〇歳で外科医の免許を取り東インド会社に雇われてバタヴィアを訪れる。その後トンキン(ハノイ)で貿易に従事。数奇の物語があってケープ・タウンに指揮官として赴任するのである。世界史の文脈に興味は尽きない(オランダには司馬遼太郎の『オランダ紀行』を携えていったのだけれど、池田武邦先生の名前が出ていた。縁は実に面白い)。
ところで、今回の調査旅行で最もインパクトを受けたのは南アフリカの都市政策である。アルバート・トンプソンという建築家、都市計画家をご存じないのではないか。彼はアンウィン、パーカー事務所で田園都市の計画に携わった。その彼は1920年代初期、南アフリカに渡り、田園都市を実現することになった。ケープタウンのパインランズである。まず、田園都市計画運動の世界史的展開を広い視野で見直す必要があると思った。しかし、それ以上にショックだったのは、田園都市思想が一九五〇年の「集団地域法」以降のアパルトヘイト政策の下で、セグリゲーション(人種隔離)の強力な役割を担ったように思えたことである。ホワイト、カラード、インディアン、ブラック。南アフリカの都市は明確にセグリゲートされている。ゾーニングの手法というのを徹底するとこうなる、というすさまじい現実である。田園都市に接してブリキのバラックが延々と立ち並ぶ地区がある。ジョハネスバーグのソエト地区が有名だ。田園都市の理想を徹底するとくっきりとしたアパルトヘイトロシティが成立する。日本の都市計画も本質的に同じ質を持っているのではないかと思うと一瞬背筋が寒くなった。