このブログを検索

2022年1月21日金曜日

京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

 18 京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906


京都デザインリ-グ構想


 京都に移り住んで七年半になる。身近な町だから色々考えることがある。しかし、どうアクションを起こせばいいか未だにわからない。様々な議論はあり、様々な集団のそれなりの活動はあるけれど全体の仕組みが見えて来ないのである。極端に言うと、議論ばかりで何も変わらないのではないかという気さえしてくる。

 第一にステレオタイプ化された発想の問題がある。景観問題というと、建物の高さのみが争われる。しかし、事後、議論は停止する。開発か保存か、観光かヴェンチャービジネスか、議論は二者択一の紋切り型である。提案のみがあって、具体化への過程が詰められることがない。

 第二に、極く限定された地区や建物しか問題とされない。ジャーナリスティックには、京都ホテルや京都駅のようなモニュメンタルな建築物、山鉾町や祇園のようなハイライト地区に議論は集中して、他は常に視野外に置かれる。

 第三に、取組みに持続性がない。学者やプランナーは、ある時期特定のテーマについて作業を行い、報告書を書き、論文を書くけれど、一貫して地区に関わることは希だ。

 ・等々それなりに真剣に考えて、これしかないかな、と思うのが、以下にイメージを示す京都デザインリーグ(仮称)構想である。関係者の皆様、乞うご検討。

  京都に拠点を置く大学・専門学校などのデザイン系の研究室チームが母胎となる。もちろん、各地からの参加も歓迎である。各チームは、それぞれ地区を担当する。地区割会議によって可能な限り京都全域がカヴァーできることが望ましい。

 各チームは、年に最低一日、担当地区を歩き一定のフォーマットで記録する。そして、年に一回集い、様々な問題を報告する。以上、一年最低二日、京都について共通の作業をしようというのが骨子だ。もちろん、各地区についてプロジェクト提案を行ってもいい。様々な関係ができれば実際の設計の仕事も来るかもしれない。それぞれに競えばいい。ただ、持続的に地区を記録することがノルマだ。

 研究室を主体とするのは、持続性が期待できるからである。実は、この秘かな構想は、タウン・アーキテクト制のシミュレーションでもある。 




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年1月20日木曜日

ジャングル, おしまいの頁で,室内,199907

 19 ジャングル,  おしまいの頁で,室内,19990

ジャングル

布野修司

 


 その昔手伝いをした縁で「黒テント」の公演用パンフの原稿を頼まれた。出し物はブレヒトの『都会のジャングル』(下北沢ザ・スズナリ五月二七日~六月六日)で、その舞台、一九一〇年代のシカゴについて書いて欲しいという。

 戯曲は、マレー人材木商シュリンクとガルガという若者の奇妙な闘いを描く。演出の佐藤信によると、現代のイジメの問題にも通ずる。テーマは「ジャングルとしての都会」だ。大都会をジャングルと形容し出したのはこの頃かららしい。

 ところで何故シカゴなのかが僕のテーマである。台本を追うと、全一一場とも、必ずしも具体的な場所ではない。猥雑なスラムやいかがわしい盛り場は出て来ない。ブレヒト自身は背景としてアメリカを選んだだけだという。人間というものは、奇妙で、ぎょっとするような、おどろくべき行動をするものだ、という主題のためにベルリンから距離を置きたのだ。

 芝居が初演された一九二二年、シカゴで近代建築の行方を左右するコンペが開催されている。当時世界最大の日刊紙発行を誇るシカゴ・トリビューン社新社屋のコンペだ。また、一九一九年には人種暴動が起きている。アル・カポネらギャングの跋扈する腐敗と無法の暗黒街は一九二〇年代のシカゴだけれど、一九世紀末のシカゴは、労働運動の中心地であり、既に血なまぐさい事件の絶えない町であった。シカゴは既に大都市の象徴になりつつあったとみていい。当時のシカゴについて俄(にわか)勉強して書いた。

  面白かったのが「チャイナホテル」という場面設定である。また、シュリンクが横浜生まれであることである。さらに、子供の頃「揚子江で手漕ぎ船に乗っていた」などとある。おそらく、チャイニーズ・マレーだと踏んだ。もちろん、当時のシカゴにチャイナタウンは既にあった。ほとんどがサンフランシスコ経由でシカゴに入り、鉄道関係で職を得た。ドイツからの移民も多い。建築家ミースなど亡命者を受け入れたのはこうしたドイツ移民のコミュニティである。ブレヒトがシカゴについて様々な情報を持っていたのは間違いない。当時、シカゴと横浜とベルリンは一人天才的戯曲家の頭の中でとにかくつながっていたのである。










『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年1月19日水曜日

大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

20 大工願望,  おしまいの頁で,室内,199908

大工願望

布野修司

 

 美山(京都府)の木匠塾に行って来た(六月一八~二〇日)。美山は茅葺き民家が群として残る町だ。今回は塾といっても半ば押しかけで、学生たちが勝手にこんなことやりたいと提案するフォーラムである。新たに福井大学、京都建築専門学校などが参加した。「茅の里サミット」と称して加子母村(岐阜県)の粥川村長も応援に駆けつけて下さった。

 僕が司会をしたシンポジウムは実にレヴェルが高かった。村長、助役、森林組合長、茅葺き職人、林業経営者、各界を代表するパネリストはそれぞれ百戦錬磨であった。内外から多くの人が常に訪れる観光地だ。にも関わらず、一万人の人口が半減して回復しない現実がある。日常的に真剣な議論が積み重ねられているのだ。学生の青臭い提案はまさに児戯に思えたに違いない。

 美山へ行く何日か前、本欄担当の鈴木さんから「大工さんになりたいが一番ということ、職人さんたちはどう思ってるんですか」というファックスを頂いた。ピントこないまま、「天うらら(NHK番組)の影響じゃないか」などと返事した。意識調査にテレビの影響は大きいと直感したのである。主人公は結局二級建築士になってしまったと後で気がついた。

 建築界の就職戦線は厳しい。身近に見ている京都大学の学生も例外ではない。特に女子学生、高学歴(大学院卒)が嫌われている。一時期のデスクワークじゃなきゃいけない、という雰囲気はない。現場でもどこでも、と切羽詰まっている。大工願望が本当であるとすれば、とにかく手に職を!ということであろう。

 僕の研究室はいささか変わっていて、大文(田中文男)さんのところで大工(親方)修行に入った竹村君がいるし、京都の朝原さんのところで左官修業に入った森田君がいる。彼らには先見の明があるのかもしれない。

 しかし、現実は厳しい。大工さん、職人さんの世界が深刻な後継者不足に悩みながら、必ずしも、新たなライバルの新規参入を歓迎しているわけではないのである。木造建築の需要が増えない限り、大工職人が豊かに生きていく条件は生まれない。美山での議論の底にそうしたクールな見方があった。




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16 西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年1月18日火曜日

日光,おしまいの頁で,室内,199909

 21 日光,おしまいの頁で,室内,199909

日光

布野修司

 

 松山巌さんと初めて対談した。『GA(グラス・アーキテクチャー)』誌(旭硝子)の企画で「百年前の一年」という特集を組むことになり、それなら松山さん(巖ちゃん)だ、対談がしたいと申し入れたのである。松山さんには『世紀末の一年』(朝日新聞社、一九八七年、朝日選書として復刻予定)がある。一緒にこの百年を振り返って見たかった。

 というのは半ば口実だ。松山さんとは学生のころからのつき合い。『TAU』という雑誌で知り合った。七〇年代初頭、「コンペイトー」(松山・井出建)と「雛芥子」(三宅理一、杉本俊多、千葉政継ら)で勉強会を重ね、「同時代建築研究会」(一九七六年~)でも一緒だった。京都に移ってなかなか会う機会がなく、久々会って話したかったのだ。

 この間松山さんは批評家として大きく飛躍した。江戸川乱歩賞、サントリー学芸賞、伊藤聖賞、読売文学賞という受賞歴がその輝かしい軌跡を示している。小説も今度の『日光』で二作目だ。いささか眩しい。ばたばたと走り回るだけで深く蓄積することのない身を恥じるばかりだ。しかし、それだからそのじっくりした思索の積み重ねはいつも心強い。頼もしい兄貴分だ。

 『日光』は実に傑作だ。様々な物語、事件、イメージが縦横に入れ子状に重ねられるその方法は松山さんに一貫する。『日光』では「人生不可解」と華厳の滝に身を投げた藤村操がハムレットとともにもつれあって登場するが、『世紀末の一年』にも藤村以降自殺者が相継いだ話が書かれている。藤村の生まれ変わりと思しき青年(フランケンシュタイン)に「百年たっても何も変わらない」といった科白を吐かせている。

 対談の枕はその科白であった。「外国人」「女」「公害」「鉄道」「東京」「教育」「マスメディア」「アール・ヌーボー」「アジア」「都市と農村」「戦争」「天皇」と話は一九〇〇年の一年の事件を一月から一二月までを追った。対談というよりインタビューだ。確かに金太郎飴の百年だ。しかし決定的な違いも明らかとなる。主として科学技術の進歩(?)に関わる。対談を終えて痛飲。翌日は心地よい宿酔いであった。(ムンバイにて)。

 






『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912


2022年1月17日月曜日

ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

 22 ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

ヴァーラナシ

布野修司

 

 今夏は、インド、イランをめぐった。ムンバイ、カルカッタの喧噪がまだ耳に残る。強烈だったのは炎のバンダール・アッバースだ。世界史の帰趨を度々握ったホルムズ海峡に昔日のポルトガル要塞を実測しにいったのだが、熱いのなんの摂氏四〇度である。そして、最後がヴァーラナシ(ベナレス)の迷路であった。

 近郊には、釈迦が最初に説教をしたという「初転法輪」の地、サールナート(鹿野苑)がある。仏教伽藍の初期の様子がわかる。しかし、遺跡は遺跡である。法輪寺他、タイ寺院、中国寺院、チベット寺院などが立地して、修行僧の姿は見られたが、一三世紀にはインドから消えた仏教の影は薄い。収穫はアショカ柱の獅子の柱頭を眼の当たりにしたことか。

 もちろん、主目的は街だ。いくつかヒンドゥー都市を歩いてきたが、いよいよその聖地にねらいをつけたのである。

 ヴァーラナシは五重の巡礼路で取り囲まれている。しかし、その秩序は地図を見る限り明快ではない。イスラーム支配が長かったせいだろう、実に入り組んでいる。中心寺院ヴィシュヴァナートの背中合わせにアウラングゼーブ(ムガール帝国第六代皇帝)のモスクがある。イスラーム教徒とヒンドゥー教徒の鬩(せめ)ぎ合いはここでもすさまじい。

 街は魅力的だ。しかし、汚い。そこら中に牛糞が落ちている。牛がいなければヴェニスだ、と思う。でも、ヴァーラナシはヴァーラナシだ。

 この汚い、という感覚が曲者である。死生観、不浄観が全く異なっている。ガート(火葬場、沐浴場)には死体が置かれている。蠅がたかっているものもある。毎日いくつかの死体が生木で焼かれ、煙がたつ。灰はガンガに流され墓はつくられない。人々はガンガの水で口を濯ぎ身を清める。牛の糞は乾かして燃料にする。

 そうした聖なる秩序を破っているのが迷路を引き裂く車道である。そして、何万とある寺院、聖祠を埋め尽くしてしまった高層住居である。

 半日手漕ぎボートでガンガに遊んだ。滔々たるガンガの流れに悠久の時間を感じたけれど、ガンガからの街の眺めは聖地の名に値しない、と秘かに思った。




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

2022年1月16日日曜日

北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

 23 北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

北京の変貌

布野修司

 

 国際交流基金と日本建築家協会共催の「現代日本建築一九八五-一九九六展」が中国を巡回中で、それに合わせた講演(「日本建築の発展と日本文化」)を外務省から依頼された。『日本当代百名建築師作品選』を中国で出版した(一九九六年)縁である。

 北京、西安、広州を駆け足で回ってきたのだが、建国五〇周年を迎えた中国都市の変貌ぶりには心底驚いた。その象徴が北京随一の繁華街、王府井(ワンフーチン)だ。四年前にはまだ以前の面影が残り、赤いマクドナルドの店が目立つ程度であったが、そこに巨大なショッピング・センターが建っている。今では一体何処の国の街だかわからないほどだ。

 天安門の前を東西に走る長安街の変貌も著しい。中国風の屋根を載せたかってのビル(帝冠様式!)に変わって、石貼りとミラーグラスを組み合わせたポストモダン風のオフィスビルが建ち並ぶ。ほとんどがアメリカ人建築家の手になる。

 伝統的な住居、四合院の残る地区はほぼ消えつつある。旧城内では二カ所が保存地区に指定されているだけだ。「大雑院」と呼ばれる建て詰まった低層の四合院地区が再開発を待っている。

 交通渋滞は相当深刻だ。住宅建設の最前線は郊外へと展開中で車を持つ層が増えている。いくつかモデルルームを訪れて、びっくりしたのは広さだ。一五〇平米が標準で、三〇〇平米を超えるものもある。三人家族でこれだけ必要なのか、と思わず尋ねた程だ。なんと、投機!?のために買う層が多いのだという。中国には、安置工程(四三平米)、安居工程(七〇~八〇平米)、小康住宅(一二〇平米)という区分があるが、政府は昨年末、賃貸住宅を廃止し、住宅建設分野に市場原理を導入することを決定したのだ。その結果が空前の住宅建設ブームである。日本では「億ション」といっていいオートロックの高級住宅が次々に建っている。

 中国では各職場単位毎に住宅が用意され、職住近接が理念とされてきた。大きな職場になると近隣に全てがそろっている。しかし、今後は自ら住宅を取得しなければならない。北京の街の変貌と交通渋滞には、職場と住宅立地をめぐる大きな転換が関わっている。



『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年1月15日土曜日

群居,おしまいの頁で,室内,199912

 群居,おしまいの頁で,室内,199912


群居

布野修司


 群居

布野修司


 一九八二年、ハウジング計画ユニオン(HPU)という小さな集まりが呱々の声をあげた。当初のメンバーは、石山修武、大野勝彦、渡辺豊和、そして布野修司の四人。その前々年あたりから会合を重ね活動を開始していたのだが、一九八二年の暮れも押し詰まった一二月に至って、『群居』という同人誌の創刊準備号を出すに至った。編集には当初から野辺公一があたり、準備号は当時はまだ珍しいワープロによる手作りの雑誌であった。活字は一六ドットで、ガリ版刷りの趣であった。これからに小さなメディアを予見すると、流行の雑誌の取材を受けたりした。隔世の感がある。

 その『群居』の創刊のことばは次のように言う。「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア「群居」を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出来る限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジアの各地域との経験交流を積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」「住宅=町づくり」というのがキーワードであろうか。

 書店に置いてもらったこともあるけれど、諸般の事情で会員制の形におちついた。季刊をうたうけれど年に四号を出すのはきつい。それでも、不定期に号を重ね、四八号をこの九月に出した。来年、二〇〇〇年には五〇号に達する。いささか感慨深い。

 しかし、いつまで出し続けるんだろう、とふと思う。「老いさらばえるまで」と石山は言う。しかし、会員もあり、経費もかかることだからそう簡単ではない。切りがいいから、止めようという意見もある。今後どうするか徹底議論しようと、四九号の企画を兼ねて箱根の山に一晩集まった。湯につかって、久々議論が弾んだ。存続をめぐって激論にもなった。結論は出た、ように思う。後は例によって宿酔いの世界であった。



『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

 

2022年1月14日金曜日

南アフリカの都市と建築 上中下 日刊建設工業新聞 1997

 南アフリカの都市と建築 上,プレトリア:ハーバート・ベイカー日刊建設工業新聞,19971107

 南アフリカの都市と建築 中,ケープ・タウン:アルバート・トンプソンと田園都市パインランズ日刊建設工業新聞,19971121

南アフリカの都市と建築 下, ジョハネスバーグ:ソウェト,日刊建設工業新聞,19971212


南アフリカの都市と建築

  南アフリカ共和国というと、喜望峰(ケープ・オブ・グッドホープ)とアパルトヘイト、それにマンデラ、金にダイアモンド、といった連想であろうか。「植民都市の比較研究」が目的であるが、そんな程度の知識で南アフリカを巡ってきた。行ってみると、都市と建築をめぐるテーマが次々に発見されて大いに刺激を受けた。その一端を紹介したい。南アフリカ共和国の現況については峯陽一のすぐれた『南アフリカ 「虹の国」への歩み』(岩波新書)を参照されたい。

 

①プレトリア:サー・ハーバート・ベイカー

 ハーバート・ベイカーという英国の建築家をご存じだろうか。一八八二年生まれだからグロピウス(一八八三生)、ミース(一八八六年生)、コルビュジェ(一八八七年生)ら近代建築の巨匠達とほぼ同世代だ。しかし、その作風はいわゆる近代建築とは無縁だから、近代建築の歴史において無視されているとしても無理ないかもしれない。

 ベイカーは、ケントで生まれ、ロイヤル・アカデミーのスクール・オブ・デザインで学んだ。そして南アフリカに渡り、数多くの作品を残した。『セシル・ローズ』という著書があることが示すように、南アフリカの鉱山王、イギリス南アフリカ会社の創設者でケープ植民地の首相を務めたセシル・ローズとの関係が深かったせいであろう。ベイカーはその功績によって「サー」の称号を得た。大英帝国においては相当著名な建築家であったとみていい。少なくとも南アフリカで最も有名な近代建築家である。戦前期の『南アフリカ・アーキテクチュラル・レコード』の頁を繰ってみると、ベイカー奨学金などが設けられており、その重鎮振りは明らかである。

 ケープ・タウン、ジョハネスバーグ(ヨハネスブルグ)、プレトリアといった都市を歩いたのであるが、そこら中にベイカーの作品がある。ケープタウンの中心街セント・ジョージストリートには、セント・ジョージ・カテドラルをはじめ数棟のビルが残されている。その骨格はベイカーによってつくられたといっていい。また、ジョハネスバーグにはベイイカー・ヴィレッジと呼ばれる高級住宅街がある。その一角にあるノースワーズと呼ばれる邸宅はナショナル・モニュメントに指定され、その前庭には生誕一〇〇年を記念してその銅像が建てられていた。

 ベイカーの代表作というと、行政首都プレトリアのユニオン・ビルディングであろう。南ア連邦統一のシンボルである。小高い丘の上に建てられ、眼下の市街を両手で抱くように半円形の両翼が配される。堂々たる古典主義建築である。大変な力量を感じさせる。現在は大統領府と外務省が置かれている。

 最初に写真を見た時、この建築はどこかで見たことがある、と思った。ニューデリーのインド総督府である。そう、ベイカーはインドに招かれ、ラッチェンス、ランチェスターとともにその設計に携わるのである。

 大英帝国の中心を担ったのはベイカーやラッチェンスのような建築家である。その正当な評価をめぐって作品集が近年刊行されつつある。

 南アフリカの都市と建築

 

②ケープ・タウン:アルバート・トンプソンと田園都市パインランズ

 

 ロンドンでは南アフリカの資料を集める図書館通いの合間にレッチワースに行って来た。世界最初の田園都市。駅前には、「ザ・ファースト・ガーデン・シティ」を売り物にブティックやショッピングモールなど現代的な装いの活気があった。しかし、周囲にはまるで建設当初の二〇世紀初頭のようなのんびりとした風景が拡がっていた。

 田園都市運動が日本を含めて世界中に大きな影響を与えたことは言うまでもない。しかし、それが大英帝国の植民地にも及んでいることは案外知られていないのではないか。アルバート・トンプソンが設計したケープ・タウン郊外のパインランズは田園都市計画思想の直系の落とし子である。

 というのも、トンプソンはアンウイン・パーカー事務所の番頭さんだったのである。彼がバクストンの事務所に入ったのは一八九七年。一九〇五年、レッチワース計画に参加、一九一四年の事務所閉鎖まで勤めている。そして、その後のリンカーン郊外のスワンポール・ガーデン・サバーブは彼の仕事である。そして、彼は南アフリカへ赴くことになる。田園都市建設理想に共感したスタッタフォードの依頼にアンウインはトンプソンを派遣するのである。一九二〇年のことだ。

 歩いてみると、茅葺きの民家がところどころに残っている。レッチワースのアンウィン・パーカーの事務所は現在博物館になっているが同じように茅葺きだ。アムステルダム・スクールのパーク・メールウク(ベルヘン)の民家群を想い起こした。一期の工事が完成したのが一九二四年。七〇年以上の時が経過しているのに、まるで当時のままで、タイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。

 ガーデン・シティ・トラストはやがてカンパニーに名を変え、実は驚くべきことに現在も存続している。一貫してニュータウン開発を続けているのである。

 パインランズの場合、結果的に白人に限定された都市であった。戦後一九五〇年の集団地域法の制定以降も白人地域に指定され続ける。ハワードの基本原理、自給自足、公的所有、周辺グリーンベルトなどが導入されたわけではない。しかし、南アフリカの特殊な背景、ゾーニング思想と文化相対主義の中で島のように存続し続けたのであった。

 トンプソンはその後ダーバンなどで宅地開発に携わった後、一九二七年南アフリカを去り、ナイジェリアへ赴く。三二年に帰国し、ブライトンで事務所を開く。一九四〇年死去。六二才であった。



③ジョハネスバーグ:ソウェト

 ソウェト(Soweto)とはサウス・ウエスト・タウンシップの略である。ジョハネスバーグの南西方向に位置する。一九六七年に住民の全てが強制的に立ち退きさせられたケープ・タウンのディストリクト・シックスとともに南アフリカで最も有名な「スラム」地区として知られる。ソウェトの名を世界的に有名にしたのはアパルトヘイトに対する一九七六年の蜂起だ。その名は微かに記憶にあった。

 アパルトヘイトの時代、集団地域法(一九五〇年制定)のもとで、南アフリカの都市は白人居住区、カラード居住区、インド人居住区、アフリカ人居住区に明確に分割されていた。ジョハネスバーグのアフリカ人居住区の象徴がソウェトである。居住区といっても広大なひとつの都市であり人口は三〇〇万人を超える。

 たまたま、仲良くなった運転手フィリップの案内でソウェトにある彼のお兄さんの家を訪ねた。度肝を抜かれた。インドネシアのカンポン(都市集落)を歩いて「貧困の居住地」には驚かないつもりであったが、全く異なった風景が延々と続いていた。一戸の大きさは二間四方、四角いブリキの箱がびっしりと立ち並んでいるのである。トイレはプレファブ製だ。異様である。ジョハネスバーグの白人住宅街とは余りにも対比的で、別世界だ。

 しかし、活気に満ちたコミュニティがそこにあった。車からの恐る恐るの覗き見では到底理解するところではないのであるが、カンポンの世界とある種通ずるものがあるというのが直感であった。フィリップのお兄さんの家は戸建てで三DKほど。結構広い。他にホステルと呼ばれる単身者向けの長屋建てがある。そして、ここそこに高級住宅街も出来つつある。マンデラ大統領の生家もソウェトにあった。

 一九九四年の総選挙以降、南アフリカは急速に変わりつつある。しかし、長年にわたるアパルトヘイトの後遺症は至る所に残っている。ジョハネスバーグの中心街には超高層のマンションやオフィスが林立する。一見モダンな大都会だ。しかし、その中心街から白人が消えつつある。例えば、ヒルブロウという地区など同じ町のまま完全に黒人街に変わってしまった。治安が悪いというので白人たちは北のサントンと呼ばれる地区にどんどん移住しつつあるのだ。

 多民族共住といっても容易ではないのである。


 



アパルトヘイトの現在

 

 「植民都市の形成と土着化に関する研究」という、いささか壮大なテーマを掲げた国際学術調査を開始することになった。まず対象とするのは大英帝国の植民都市で、南アフリカ(プレトリア)、インド(ニューデリー)、オーストラリア(キャンベラ)が主要ターゲット国である。まずは現地へと、一月余りで、ロンドン、アムステルダム(ライデン、デルフト)を経て、南アフリカ、インド(ムンバイ)に行って来た。最も長く滞在したのは南アフリカで、ロンドン、オランダは宗主国の資料を収集するための行程だ。

 例えば、ケープ・タウン。喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)は、僕らには親しい。一四八八年にバルトロメウ・ディアシュが発見し、一四九二年には、ヴァスコ・ダ・ガマに率いられた船隊がここを抜けてインドへ向かう。大航海時代の始まりと世界史で習う。そのケープ・タウンを最初に建設したのはオランダである。ヤン・ファン・リーベックが一六五二年建設の礎を築いた。しかし、その後ケープタウンの地は一九世紀初頭英国の支配下に入る。ロンドン、オランダが資料収集の場所となる由縁である。

 アジアを歩き始めて二〇年近くになる。日本対西欧という見方ではなく、日本からアジアへ(あるいはヨーロッパへ)、どのように多様な脈絡を発見できるかを視点としてきた。しかし、植民都市ということをテーマにすることにおいて、植民地化の論理、ヨーロッパ側から世界覆う世界史的視座に触れざるを得ない。それは、かなり刺激的なことであった。例えば、ケープタウンの建設。同じ時期にバタビア(ジャカルタ)が建設されている。スリランカのコロンボもそうだ。三つの植民都市を比較する視点も当然のように思える。同じ時期、台湾のゼーランジャー城、プロビンシャー城も造られている(ヨーロッパではあんまり知られていないことがわかった)。例えば、ヤン・ファン・リーベック。彼は長崎の出島にも来ている。二〇歳で外科医の免許を取り東インド会社に雇われてバタヴィアを訪れる。その後トンキン(ハノイ)で貿易に従事。数奇の物語があってケープ・タウンに指揮官として赴任するのである。世界史の文脈に興味は尽きない(オランダには司馬遼太郎の『オランダ紀行』を携えていったのだけれど、池田武邦先生の名前が出ていた。縁は実に面白い)

 ところで、今回の調査旅行で最もインパクトを受けたのは南アフリカの都市政策である。アルバート・トンプソンという建築家、都市計画家をご存じないのではないか。彼はアンウィン、パーカー事務所で田園都市の計画に携わった。その彼は1920年代初期、南アフリカに渡り、田園都市を実現することになった。ケープタウンのパインランズである。まず、田園都市計画運動の世界史的展開を広い視野で見直す必要があると思った。しかし、それ以上にショックだったのは、田園都市思想が一九五〇年の「集団地域法」以降のアパルトヘイト政策の下で、セグリゲーション(人種隔離)の強力な役割を担ったように思えたことである。ホワイト、カラード、インディアン、ブラック。南アフリカの都市は明確にセグリゲートされている。ゾーニングの手法というのを徹底するとこうなる、というすさまじい現実である。田園都市に接してブリキのバラックが延々と立ち並ぶ地区がある。ジョハネスバーグのソエト地区が有名だ。田園都市の理想を徹底するとくっきりとしたアパルトヘイトロシティが成立する。日本の都市計画も本質的に同じ質を持っているのではないかと思うと一瞬背筋が寒くなった。



2022年1月13日木曜日

自立した個のネットワークへ サブコン、職人、タウン・アーキテクト あるべき建築生産システムへの私見 2001年2月1日、日刊建設工業新聞

 自立した個のネットワークへ

 サブコン、職人、タウン・アーキテクト

あるべき建築生産システムへの私見 200121日、日刊建設工業新聞

 

布野修司

 

 今年の一月号から二年間、二四号、日本建築学会の『建築雑誌』の編集長を務めることになった。半年ほど編集委員会で議論を重ねた末に一月号の特集タイトルは「建築産業に未来はあるか」となった。当然だと思う。日本の建築生産の仕組みが今こそ問われているときはないからである。

日本の産業界そして社会全体が大きな構造改革を求められる中でひとつの焦点は建設産業である。戦後まもなくの日本は農業国家であった。就業者人口の6割は農業に従事していたのである。その後の高度成長を支えたのは重厚長大の製造業そして建設産業である。スクラップ・アンド・ビルドが日本経済を勢いづかせ、日本の建築生産は一時国民生産の四分の一を占めた。「土建国家」と言われたほどだ。しかし、大きな流れは第二次産業から第三次産業へである。そして、バブル期の金融業が日本を舞い上がらせ、掻き回した上に糸の切れた凧のようにしてしまった。日本の製造業の空洞化は誰の目にも明らかである。

こうした趨勢の中で建築産業はどうなっていくのかは今建築界全体の切実なる問いである。明確な指針は手探りであるにせよ、とにかく考える材料を提供しようというのが先の特集である。一瞥頂きたい。

まず前提とされるのは建設投資が国民総生産の二割を占めるそんな時代は最早あり得ないことである。先進諸国をみても明らかなようにそれは半減してもおかしくない。そして、スクラップ・アンド・ビルドではなく、建築ストックの再利用、維持管理が主体となっていくことも明らかである。都市再生の大合唱はその方向を指し示すけれど、需要拡大のみを期待するのは大間違いである。技術のあり方、仕事のあり方そのものが変化せざるを得ないのである。さらに、建築産業の体質が厳しく問われるのも明らかである。すでに、公共事業に対する説明責任が各自治体に厳しく問われる中で、設計そして施工に関わる業務発注の適正化が求められつつあるところである。それ以前に、不良債権の処理がままならず、大手建設業の倒産がさらに続くと噂されつつあるのが現状である。

こうした中で現在起こっているのは就業人口の大きなシフトである。建設業界はこれまで就業者人口調節の役割を担ってきたけれどその余裕は最早ない。IT産業、介護部門への転換は不可避である。そして、建設業界で起こっているのは、熾烈なサヴァイヴァル戦争である。「生き残る者」と「そうでない者」との二極分解が急速に進行しつつあるのである。

取り敢えず現在の問題は「そうでない者」の方である。先の特集の座談会で下河辺淳先生の一言が耳について離れない。

「生き残れない者は死ぬんです」。

確かに、建設業界の高齢化率は高く、需要減によって新規参入がなければ早晩業界全体は縮小して一定の規模に落ち着くであろう。問題はその先である。熾烈な淘汰が進行した後に残存するのがどういうシステムかということである。おそらく、スーパーゼネコンを頂点とする重層下請構造と言われてきた日本の建設産業体勢は変わらざるを得ないのではないか。

 ひとつの根拠は国際化である。建築は地のものとは言え、国際的なルールは尊重せざるを得ないだろう。CM、PMといったシステムは様々に取り入られていくであろう。もうひとつの根拠としてソフト技術の進展がある。企業の規模に関わらないネットワーク型の組織体制がいよいよ実現していくのではないか。そしてもうひとつ鍵を握るのは技術であり技能である。結局は、ビジネスモデルを含めてものをつくるノウハウを握っていることが決め手となるのではないか。そうした意味では能力あるサブコンが建築生産システムのひとつの行方を握るであろう。

 一方念頭に浮かぶのは地域社会を基盤においた建築職人のネットワークである。建築の維持管理が主となるとすれば建築業はどうしても地域との関係を深めざるをえないはずである。小回りが利いて、腕のいい職人さんの需要は減ることはないと考えるけれどどうだろう。

 限られた紙数で、法的枠組み、資格、報酬、保険など様々な問題を論じきれないけれど、期待するのは組織ではなく、技能、技術を持った個人のネットワークによる建築生産システムである。建築家、設計者のあり方もそのネットワークにおいて問われるだろう。まちづくり、維持管理、国際化が建築家にとってのキーワードである。グローバルにみて、 各地域においてサブコン、職人、タウン・アーキテクトのネットワークが果たすべき役割はなくなることはないと思う。



2022年1月12日水曜日

インタビュー「オランダ植民都市の変容と転成テーマに 『近代世界システムと植民都市』まとめる」,『日刊建設工業新聞』,2005年9月2日

 インタビュー「オランダ植民都市の変容と転成テーマに 『近代世界システムと植民都市』まとめる」,『日刊建設工業新聞』,200592

●日付=神子

◎建築へ/布野修司/近代世界

 

 布野修司氏(滋賀県立大学教授)が『近代世界システムと植民都市』を著した。3年前の『アジア都市建築史』では、ヨーロッパ史観によらない「アジア都市建築史」を初めてまとめた。その先にあるのが「世界都市建築史」だが、今度の研究もその流れにある。「世紀から世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市は、現代の都市に至るものです。その変容と転成の過程をまとめたものです」。前著の倍近く、こちらも650㌻を超える大部なものである。そして「世界都市建築史」に向け、まもなく『世界住居誌』が上梓される。また、来年2月には『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容―』が上梓(じょうし)される。世界にも類例のない日本からの視点による研究書である。

 すべての都市は植民都市

 本書のテーマを簡潔にいうと、次のようになる。

 「ー世紀、広大な世界を支配したオランダが建設した数多くの植民都市とそのネットワークは、領域的な広がりとしてもシステムとしても、後の近代世界の礎をつくった。オランダ植民都市の空間構成を復元し、そのシステムを再検討しながら、世界の都市・交易拠点のつながりと、それぞれの都市が近代に至る変容と転成の過程を生き生きと想起することで、近代世界システムの形成史を視覚的に描き出すこと」

 ここで取り上げられているオランダ植民都市を見ると、世界制覇の広さと、さまざまな都市のつくられ方に驚く。なぜ、それが可能だったのか。布野氏はそれを「はじめに」と「植民都市論ー全ての都市は植民都市である」で論じている。

 出島は唯一の例外

 「近代植民都市の起源は、交易拠点として設けられた商館です。そこでの取引や貿易が、植民都市の第一の機能です」

 オランダ商館といえば、すぐに想起されるのが出島である。ここでは「オランダ植民都市の残滓」として取り上げられている。

 出島の前につくられたのが平戸で、そこに商館が1609年につくられる。その後、徳川幕府によって破壊され、その商館が人工の島、出島に移されてくる。そして1858年まで、出島はオランダ商館の所在地となる。

 布野氏は冒頭で、オランダ東インド会社、西インド会社による多くの植民都市の中で、出島は唯一の例外だった。オランダ人の生活にとって、出島は小さな空間に封じ込められた監獄のようだった。しかし、オランダが支配しつつあったのは広大な世界である、とのべている。その「広大な世界」とはなんであり、それが近代都市にどのように変容・転成されていったを解いたのが、ここでのテーマである。

 産業革命による世界の変化

 「世紀末から世紀前半にかけて、産業革命の進展で世界は大きく変わります。オランダに代わって英仏が中心となる。その結果、都市と農村の分裂が決定的になり、都市への大量の人口流入となる。これが統合化されつつあった世界システム全体に波及していく。それは国内にとどまらず、外国への大量移民となってくる。そのように世界を狭くしたのが、蒸気船と鉄道による交通革命です。その結果、生み出されたのがプライメイト・シティ(単一支配型都市)で、その核になったのが近代植民都市であり、これが近代都市づくりの手法に近く、世界遺産級の都市になっていったのです。今回はその前の時代をおさえたのです」

 「こうした類書はオランダにありますが、出島を入れたのは初めてです。日本独自の視点が不可欠だったのです。まとめるのに、年かかりました」

 『近代世界システムと植民都市』は京都大学出版会。5900円+税。

(了)

【見出し】布野修司氏(滋賀県立大学教授)、『近代世界システムと植民都市』を著す/―世紀、オランダの植民都市をとらえる/現代都市につながる変容