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2022年5月13日金曜日

設計入札,現代のことば,京都新聞,19960910

  設計入札,現代のことば,京都新聞,19960910


設計入札            009

布野修司

 

  「東京都の水道局が、指名競争入札にした職員住宅の基本設計委託を、ある設計事務所が1円で落札しました。設計料のダンピングと設計報酬の自由についてご意見をお願いします」と、建築専門誌から求められた。

 絶句である。

 1円入札が、アイロニーとして行われたとしたら、あるいは建築界の談合体質へのプロテストとして試みられたとしたら、かろうじて意味があるのかも知れない。しかし、昔からこの手の話は耐えないのだからしゃれにもならない。恥ずかしい限りである。

 しかし、それにしても設計入札はどうしてなくならないのであろうか。公共施設の内容は、設計料の多寡によって決められるべきではない。入札が設計という業務に馴染まないことは明かではないか。にもかかわらず、それが無くならない建築設計業界の体質は絶望的と言わざるを得ないのかもしれない。京都の実態は果たしてどうなのであろう。

 どのように設計者を決めればいいのか。ある特定の公共施設に最も相応しい建築家が特命で随意契約によって選ばれる場合もあろうが、一般的にはコンペ(設計競技)によるのがいい。京都でもこれまでいくつか行われてきている。

 コンペといっても色々あるけれど、最近試みて面白いと思っているのが、公開ヒヤリング方式の指名コンペである。何も難しいことはない。従来審査委員会のみで行われているヒヤリングを公開で行おう、というだけである。一種のシンポジウムと考えればいい。半日の時間で、しかるべき場所さえあればいいのである。

 指名を受けた設計者たちは自らの提案を審査員のみならず市民に対してもわかりやすく説明しなければならない。仲間内でのみ通用する難解な建築的コンセプトを振り回してもはじまらない。競争者も同席しており、専門的な裏づけについてもしっかり答えなければならない。テーマの定まらないまちづくりシンポジウムなどより、はるかに真剣でスリリングである。

 血税を使って公共施設をつくるのであるから、その内容は市民に公開されるべきである。また、どのような施設が相応しいか議論されるべきである。公開ヒヤリングの場は既にまちづくりの第一段階ともなりうる。

 今のところ、島根県のいくつかの自治体で試みられ、島根方式と呼ばれ始めているのであるが、少しの努力でどんな自治体でもすぐにできることである。公共施設であるからには、それなりの時間と智恵を使って、少しでもいいものができるように努力がなされるべきである。建設費をもとに施工者を決めるのとは違う。まずは、どのような施設をつくるかが問題である。設計料が安いからというだけで設計者を決めるのはあまりにも乱暴である。設計入札など論外である。そして、設計入札に応じる建築家など論外である。

 



2022年5月12日木曜日

社区総体営造,現代のことば,京都新聞,19960420

  社区総体営造,現代のことば,京都新聞,19960420


社区総体営造           006

布野修司

 

 この春休みに台湾へ行ってきた。中央研究院台湾史研究所と台湾大学建築輿城郷研究所での特別講義が主目的である。折しも、台湾は総統選の渦中にあった。わずか十日ほどの滞在であったけれど、つぶさに総統選の様子を見聞きすることになった。

 中国の軍事演習でミサイルが飛び交うなど政治的緊張が予想されたが、市民はいたって平静であった。選挙戦はお祭り騒ぎで、人々はむしろ楽しんでいる雰囲気すらある。各党の集会にも顔を出してみたが、家族連れも多く、旗や帽子、警笛など様々な選挙グッズが売られ、各種屋台も並んで縁日の趣もあった。

 各党の主張の背後には、複雑な台湾社会の歴史があるが、それぞれの主張はわかりやすい。投票日は、午後四時の締切りと同時にその場で開票が行われた。「二号 李登輝一票」などと読み上げる声とともに「正」の字が書かれていく。それを住民たちが取り囲んで見る。臨場感満点である。日本の選挙文化との違いを否応なく感じさせられたのであった。

 ところで、こうして民主化の速度をはやめてきた台湾で、「社区総体営造」あるいは「社区主義」、「社区意識」、「社区文化」、「社区運動」という言葉が聞かれるようになってきた。「社区」とは地区、コミュニティのことだ。そして、「社区総体営造」とはまちづくりのことだ。「経営大台湾 要従小区作起」(偉大な台湾を経営しようとしたら、小さな社区から始めねばならぬ)というのがスローガンとなりつつあるのである。

 実は、この台湾のこの新しいまちづくりについて知りたいというのも今回の目的のうちのひとつであった。「社区総体営造」を仕掛けているのは、行政院の文化建設委員会である。幸い、その中心人物である陳其南氏、台北市でモデル的な運動を展開中の陳亮全氏(台湾大学)、黄蘭翔氏(中央研究院)などと議論することができた。

 「社区総体営造」を進めるときは社区から始めなければならない。しかも、自発的、自主的でなければならない。基本的に移民社会をベースとする台湾では、漢民族の家族主義が強いこともあって、コミュニティ意識が希薄である。まちづくりを考える上では、どうしてもその主体となるコミュニティの育成が不可欠であるという認識が出発点にある。

 社区毎に中、長期の推進計画が立てられる。社区の役割は住民のコンセンサスを得て、詳細の完備した地区の設計計画を立て、同時に資金の調達計画、経営管理計画を立てることが期待される。行政機関の役割は考え方の普及が中心で部分的な経費の支援のみである。

  十日の間、・・(ばんか)という台北発祥の下町地区に泊まって時間があれば地区を歩き回った。かってコミュニティの核であった廟がここそこにあるけれど、まとまりは失われつつある。こうした地区で「社区総体営造」はどのように展開できるのか。台湾の友人たちとともに考え始めたところだ。



2022年5月11日水曜日

職人大学,現代のことば,京都新聞,19960302

 職人大学,現代のことば,京都新聞,19960302


職人大学             005

布野修司

 

 「職人大学」の設立を目指して、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)が設立されたのは一九九〇年の一一月であった。縁あってその集まりに当初から参加してスクーリングをお手伝いしてきたのだが、ようやく具体化の一歩を踏み出すところまで来た。

 産業構造の空洞化が指摘される中で、日本の経済成長を支えてきた中小企業からの次世代人材育成の要望が次第に輪を広げ、「職人大学の設立については、興味を持って勉強させていただきます」という首相の国会答弁を引き出すまでにはなったのである。

 SSFは、サイト・スペシャリストの集まりである。サイト・スペシャリストとは、耳慣れない言葉だが、日本語にすれば現場専門技能家となろうか。「優れた人格を備え、伝統技能の継承にふさわしい、また、新しい技術を確立、駆使することができる」新しい現場職人のイメージを表現したくてつくられた言葉である。

 SSFが設立された頃、建設現場における職人不足の問題が社会的に大きな話題となっていた。きたない、きつい、給料が安い=3Kということで、若者の現場離れが指摘され、建設職人の高齢化が大きくクローズアップされた。そうした中で、如何に現場を魅力あるものにし、現場で働く技能者の社会的な地位をどうしたら向上できるか、そんな思いで設立されたのがSSFである。同じ頃、作業着のデザインを考えたり、ビデオ作品を制作したり、いち早くイメージアップ作戦に取り組んだのが京都府建設業組合であった。

 バブルが弾け、失業率が増加し続ける現在状況は変わった。しかし、次代の建設産業を担う後継者の育成という本質的な問題は残されたままである。豊かになった日本の社会といっても社会資本としての都市環境、住環境は驚くほど貧しい。それを豊かに創りあげ、維持していくには、なによりもすぐれた職人が必要である。そして、例えば、ドイツのマイスター制度のようなサイト・スペシャリストを育てる社会的仕組みが必要ではないか。

 建築教育といっても、大学や工専、工業高校で行われるのは座学中心である。ほとんど机上の学習のみで現場のトレーニングがない。現場でのトレーニングをむしろ主とするそんな大学ができないか。偏差値で輪切りにするのでなく、現場の能力を多面的に評価できないか。サイト・スペシャリストが尊敬され、その技能にふさわしい収入も保証される、そんな社会のあり方は望むべくもないのか。

 職人大学の設立をめぐっては社会の編成に関わる実に多くの問題がある。従って、その実現へ向かってはさらに紆余曲折が予想される。しかし、少なくとも実験的モデルが必要である。具体的に現場でものをつくっていくすぐれた職人さんたちがいなくなるとすれば身近な環境はどうなるか。構造転換はここでも不可避のように思える。職人大学に期待するところ大である。



2022年5月10日火曜日

京町家再生,現代のことば,京都新聞,199601

 京町家再生,現代のことば,京都新聞,199601


京町家再生                004

布野修司

 

 阪神・淡路大震災から一年たった。自然の力の脅威、地区の自律性の必要、重層的な都市構造の大切さ、公園や小学校や病院など公共施設空間の重要性、ヴォランティアの役割、・・・大震災の教訓について数多くのことがこの一年語られてきた。

 しかし、具体的取り組みとなるといささか心細い。復興計画にしても、関東大震災後の復興、第二次大戦後の戦災復興と同じことの繰り返しではないか。もしかすると、大震災の最大の教訓は、震災の体験は必ずしも蓄積されないということなのだ。

 大震災は、日本のまちづくりや建築のあり方に根源的な疑問を投げかけることにおいて衝撃的であった。日本の都市のどこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのである。そうした意味では、大震災のつきつける基本的な問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ない。震災の教訓をどう生かしていくのかは、日本のまちづくりにとって大きなテーマである。

  町家の家並みを、景観資源として、文化遺産としてどう残していくか、ということは京都にとって大きな課題である。震災直後、被災度調査ということで被災建物を随分見て歩いたのであるが、その眼でみると、はっきり言って不安も沸いてくる。問題はメンテナンス(維持管理)である。白蟻や腐食による老朽化が大きな被害につながった。最低限の教訓を生かす意味で、構造躯体の耐震診断を含めて、自宅の点検はしておく必要がある。

 繰り返し強調しなければならないけれど、木造住宅だから危ない、ということは決してない。しっかりした設計がなされていれば問題ないことは今回の大震災でも明らかである。木造住宅は駄目だという風潮は京町家にとって致命的となりかねない。少なくとも、現存する町家のストックを維持していく方策が一刻も早くとられるべきであろう。

 ところで、京町家再生ということになると実に大きな問題がある。防火規定があるところでは、京町家らしい木造住宅は既に建設できないのである。震災以前に、京町家再生のための手法を色々検討したことがあるのであるが、端的に言って、文化財として凍結的に保存する以外に制度的な手法がない。いかに日本の古都とはいえ、例外を認めない全国一律の建築基準法の規定がある。

 昔ながらの木造の京町家の街並みを建設することを可能にするための唯一の方法は、ずばり、都市計画で防火規定を外すことである。もちろん、様々な防火の措置が担保されなければならないけれど、そんなことが果たして可能か。

 しかし、もし、震災が京都を襲って京町家群が壊滅的な被害を受けていたとすれば、京町家の街並みをそのまま再生する方法はなかったのである。再生の手法がないとすれば京町家の街並みは既に死んでいると言ってもいいのではないのか。 



2022年5月9日月曜日

文化住宅と住宅文化,現代のことば,京都新聞,19950814

 文化住宅と住宅文化,現代のことば,京都新聞,19950814


文化住宅と住宅文化                001

布野修司

 

 関西で「ブンカ」というと「文化住宅」という一つの住居形式を意味する。ところが「文化住宅」といっても関東ではまず通じない。「文化住宅」という言葉がないわけではない。もともとは大正期から昭和初期にかけて展開された生活改善運動、文化生活運動を背景に現れた都市に住む中流階級のための洋風住宅(和洋折衷住宅)を意味した。

 関西で今日いう「文化住宅」は、従来の設備共用型のアパートあるいは長屋に対して、各戸に玄関、台所、便所がつく形式を不動産業者が「文化住宅」と称して宣伝し出したことに由来するらしい。もちろん、第二次大戦後、戦後復興期を経て高度成長期にかけてのことだ。住戸面積は同じようなものだけれど、専用か共用かの差異を「文化」的といって区別するのである。アイロニカルなニュアンスも込められた独特の言い回しだと思う。

 一般的に言えば「木賃(もくちん)アパート」だ。正確には、木造賃貸アパートの設備専用のタイプが「文化」である。「アパート」というと、設備共用のタイプをいう。もっとも、一戸建ての賃貸住宅が棟を連ねるタイプも「文化」といったりする。ややこしい。

 ところで、今回の阪神・淡路大震災において、とりわけダメージの大きかったのが「文化住宅」である。木造住宅だからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方も多いけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方も数多い。今回の震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかったといっていい。しかし、メンテナンス(維持管理)の問題は大きかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。

 激震地からはかなり離れているのに、半数以上が半壊全壊した「文化住宅」街がある。聞けば、高度成長期に古材を使って不動産会社がリース用「文化住宅」として売り出したという。不在地家主が一〇〇人近い、この三十年で持家取得した世帯が二〇〇近く、応急仮設住宅に住む借家人の世帯が二五〇、権利関係が複雑だ。復興計画のお手伝いを始めたのであるが、なかなか目途が立たない。

 それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。「文化住宅」に日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになっているからである。今回の阪神・淡路大震災は、日本の建築や都市がいかに脆弱な思想や仕組みの上に成り立っているかを明らかにしたのだが、とりわけ強烈に思い知らされたのは日本社会の階層性である。より大きな被害を受けたのは、高齢者であり、障害者であり、要するに社会的弱者であり、住宅困窮者であった。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けた。実に悲しいことである。




2022年5月7日土曜日

私の京都新聞評「「景観と観光」掘り下げて」,京都新聞,20061008

 私の京都新聞評「「景観と観光」掘り下げて」,京都新聞,20061008 


布野修司

 「美しい国へ」というのが九月二六日に発足した安部新内閣のスローガンだという。「美しい国」と言われれば、「美しく」なくなりつつある国土を反射的に思う。具体的で身近な都市景観のことである。

景観の問題は、京都が深刻で、景観法の施行とともに新たなテーマとなりつつある眺望景観について危機的な現状が報告されている(「鴨川から見た東山、京都御苑 27眺望緊急対策必要」、九月一七日、地域総合面)。「景観は京の宝」(上田正昭、天眼、六月一七日)である。湖国近江にとっても景観が命であることは言うまでもない。東海道山陽新幹線から見える景観の中で、米原―京都間が最も美しいと思う。水利の秩序を基にした集落景観がよく残っている。しかし、滋賀でも、この間たびたび県南部のマンション建設ラッシュについて景観問題が報じられてきた。大津市中心街の区画整理頓挫(「地権者の合意確保が壁、景観配慮、今後の鍵」、九月一八日)は、問題の根を物語っている。

九月一九日、国土交通省は基準地価の調査結果を発表した。東京、大阪、名古屋の3大都市圏の地価は16年ぶりに上昇したという。京都市内も中古マンションの価格が分譲価格を上回り(「京の中心部ちょっとバブル!?」、二七面)、「大津・湖南の沿線上昇」である。地権者にとっては、地価上昇は歓迎すべきことである。しかし、不動産価格の上昇のみを追求することによって引き起こされてきたのがこの間の景観問題である。

「景観で飯が食えるか」というのが、マンション供給業者・地権者のセリフであるが、「景観」で飯が食えるようにならないものか。新幹線新駅問題で不明朗な土地取引が取りざたされるが、土地を投棄の対象にする国が美しい国土を生み出さないことははっきりしている。

キーワードのひとつは観光である。「京の観光力、めざせ集客5000万人」シリーズなど本誌は京都については観光をよく取り上げる。観光は単に数(指標)の問題ではない。観光客の数をめぐる読者の応答(「年鑑観光客数」どの程度正確?、九月一七日)が問題を投げかけている。要するに誰にとっての観光かという問題が根にある。滋賀について、大森猛日本観光学会会長が「民」中心の振興事業を訴える(一〇月二日)。大いに共感するが、貴重な観光資源である景観をなし崩しにしているのはそれ以前の問題である。新駅をいうのであれば、米原駅はなんとかならないものか。「景観」も「観光」も重要である。紙面で掘り下げて欲しい。

 

 

2022年5月6日金曜日

私の京都新聞評「防災への意識 紙面で検証を」,京都新聞,20060910

  私の京都新聞評「防災への意識 紙面で検証を」,京都新聞,20060910

 

2006年9月10日

布野修司

 九月一日は、「防災の日」である。今年も、全国各地で、京都市では南区一帯で(九月二日、一面)、滋賀県では、一日早い三一日に高島市で(九月一日、二五面)、三日の日曜日に県内二一会場で(九月四日、地域面)、それぞれに大地震を想定して防災訓練が行われた。高い確率で近い将来地震が起こるとされる琵琶湖西岸断層を抱える京滋の住民にとっては、日常的に、極端にいえば毎日震災に備えている必要がある(「襲う災害、安全どう守る」「防災の日」特集)。「首都圏で大規模停電」(八月一四日)などいつ来るかわからないのが災害である。しかし、「ハザードマップ、市町村6割「未作成」」(八月二三日、三面)、「木造住宅の耐震改修、6町、補助制度なし」(九月二日、二四面)という実態がある。継続的なキャンペーンが必要だと思う。『京都新聞』には日頃から防災関係の記事は多いが、「防災の日」を控えて、とりわけ、八月は防災関係の記事が目立った。「防災・減災フォーラム」の開催(京都、八月一九日。滋賀、八月二八日)など高く評価したい。

 今年の夏は、七月の九州、出雲に始まり、神奈川(八月一七日)、京都府南部(八月二二日)など、全国で水害が多発した。異常気象ということもあり、舗装が進んで雨水が一気に都市河川に流れ込むためにこのところ都市洪水が頻発する。一時間に50ミリ以上降ると下水管が対応できないという事情もある。

 現在、宇治川と大橋川(宍道湖-中海)について河川改修と景観をめぐる検討委員会に関わっているが、「治水」の考え方は大きく変化しつつある。100年とか150年に一度の確率で起こる大洪水に厖大なお金をかけるより、「減災」の方策をとろうという流れがある。国土交通省も「溢れさせて守る」という方針を検討中である。河村琵琶湖河川事務所長も、ハード対策だけでなく、「自分で、みんなで、地域で守る」ソフト対策が重要という(「水害自分で、地域で守れ」八月二九日、二四面)。地域の水防団の重要性も指摘される(「火災や水害で活躍、5団体、7個人が受賞」、八月一八日)。兵庫県には、いざというときに畳を土嚢代わりに設置する「畳堤」という伝統もある。

 嘉田新滋賀県知事にとって、新幹線新駅問題とともに「治水」対策は最重要課題である。防災・減災を様々な角度から掘り下げる継続的記事、特集を期待したい。


 

2022年5月5日木曜日

私の京都新聞評「地域版は教材の宝庫」,京都新聞,20060813

 私の京都新聞評「地域版は教材の宝庫」,京都新聞,20060813

布野修司

 受験者数の減少、独立法人化の流れの中で、大学は大きく変わりつつある。「特色ある大学支援48件」(八月五日、二五面)は、文部科学省の、いわゆる「特色GP」(特色ある大学教育支援プログラム)の2006年度分の発表である。京滋からは、同志社大、京都外国語大、京都精華大、滋賀大学が選ばれた。大学も、競って教育方法やカリキュラムの特色を競う時代である。

 滋賀県立大学は、この「特色GP」に先行する「現代GP」(現代的大学教育支援プログラム)に選定され(2004年度~2006年度)、最終年度の取り組みを行っている。「近江楽座―スチューデント・ファーム―」という愛称で呼ばれる、学生たちが地域の皆さんと共にまちづくりを学ぶプログラムである。そして続いて、今年度から文部科学省の科学技術振興助成「地域再生人材創出」プログラムの全国一〇大学のひとつに選出された(六月一日、二二面)。大学院に「近江環人地域再生学座」というコース(社会人向けコースも含む)を創設し(一〇月開講)、地域診断からまちづくりまでを組織化できる人材(コミュニティ・アーキテクト)の育成を目指す。

 大わらわでその準備に追われているが、そうした眼で見ると、地域版は情報、教材の宝庫である。

 「国宝・三井寺金堂の大屋根に上って、親子が檜皮ぶき作業を体験」(七月一六日、二二面)、など、夏休みに入ると、「論語を教科書に朗読、大野了佐の思い学ぶ」(七月二六日、二二面)、「サワガニ捕り子ら夢中」(七月二八日、二二面)、「“チョウ距離旅行”どこまで?比良山系でアサギマダラ調査へ」(同、二三面)、「間伐材を活用、いす作れたよ」(八月三日、二二面)など、ほぼ連日、体験学習、地域学習、環境学習の記事が地域の思いを子供たちに託すかたちで伝えてくれる。欲を言えば、ただ楽しかった、よかったではなく、問題点も含めた掘り下げが欲しい。

 地域を超え、全国へつながる動きも、近江八幡市を中心とする「「文化的景観」はぐくもう、全国連絡協が設立総会開く」(七月一九日)、例年の「びわ湖環境ビジネスメッセ」(七月二〇日)など重要である。単に一過性のイヴェント報告に留まらない指摘が欲しい。来年秋の「全国豊かな海づくり大会」へむけて「琵琶湖の現状学び語る場に」(七月一七日)地域面もなって欲しい。琵琶湖は京滋住民のキャンパスである。「琵琶湖からのメッセージ」シリーズ(「共生の視点大切に、増える水草」、七月三一など)は貴重である。

 さらに、NPOの動きについての情報が必須である。地域再生にNPOの力は欠かせない。「かいつぶり」欄の「NPOの力」(七月二〇日 秋元太一)に大いに共感する。

 

2022年5月4日水曜日

私の京都新聞評「滋賀県知事選,波乱の背景は?」,京都新聞,20060709

 私の京都新聞評「滋賀県知事選,波乱の背景は?」,京都新聞,20060709

布野修司

 三選を目指す現職知事、しかも自公民の三党が推す候補を新人女性候補嘉田由紀子氏が破った。七月二日の滋賀県知事選の結果は全国的にも波紋を拡げつつある。

「全く予想外」「まさか」「なぜ」絶句、「相乗り敗北」衝撃、「市民の力政党破る」「女性の思い反映を」「県民、刷新・変化望む」の文字が三日付けの朝刊に踊っている。投票率は前回より627ポイント増だが、45%弱―「目指せ投票率50%超」(六月二五日)という学生たちのキャンペーンも行われたが、若者たちの投票はやはり少なかったのではないか。しかし、新知事の支持率は若者の方が高いという(七月五日 転換・中)。分析はこれからである―、前々回は65%だから「山が動いた」とは言えないにせよ、「風は吹いた」。

ワールド・カップ・サッカー(六月九日開幕)で寝不足のこの一月であったが、身近な紙面は六月一五日告示の滋賀県知事選一色であった。正直なところ、この波乱の予感は紙面から伝わっては来なかった。結果として、投票行動に結びつく争点となったとされる新幹線「新駅」、ダム建設、県行財政改革なども、当初は手探りの報道である(「新駅」争点?決着済?六月一六日)。「もしかすると・・」と思ったのは、六月二六日付の世論調査結果の報道「嘉田氏追い上げる」である。

16のテーマをめぐる「ここが聞きたい」県知事選候補者アンケート(六月一七日~二四日)は、結局ポイントをついていたと思う。が、アンケートはアンケートで公式的である。好感をもったのは「わたしたちの一歩」①~⑤(一七日~二二日)である。大きな争点にはならないにせよ、環境、起業、観光、弱者などの視点が掘り下げられていた。もっと続けて欲しいと思いながら読んだ。選挙報道に携わる記者の署名原稿「添付ファイル」も選挙戦の現場の雰囲気をよく伝えていた。ただ、写真コラム「がまん模様」はありきたりに過ぎた。

選挙戦を制したのは、「もったいない」という日本で忘れ去られようとしてきた言葉である。環境経済学2006世界大会が始まったが、「エコノミー/エコロジー 対立から連携へ」という連載(二七日~七月一日)も暗示的であった。環境問題について造詣の深い新知事には、議会との関係など多くの困難が予想されるが、その初心、マニフェストの実現を期待したい。

 


2022年5月3日火曜日

私の京都新聞評「環境再生は世界共通テーマ」,京都新聞,20060611

私の京都新聞評「環境再生は世界共通テーマ」,京都新聞,20060611

 

2006年6月10日

布野修司

 滋賀県立大学には、環境フィールドワークというユニークな授業がある。専門の領域を超えて、環境問題に教師も学生も一緒になって取り組む。今年から新しく開始された「琵琶湖集水域の生態環境」というテーマに加えて頂いて、実に新鮮である。大学近辺の江面川をまずターゲットにして、生息する水生生物を捕まえて記録する、要するに魚採りである。子どもの頃の記憶が蘇って、実に楽しいのであるが、愕然とする事実も知らされるる。滋賀県をのぞくと全国の河川からメダカがいなくなったのだという。

こんなことを書くと笑われそうなのが、「児童らいきいき活動、環境調査へ結成式」(五月二四日、22面)である。長浜市ではもう二〇年も水生生物少年小女調査隊が活動を続けているのだという。今年は九七人が隊員になった。滋賀県は環境県だとつくづく思う。同じ日の記事には、湖南市吉永の野洲川で三雲東小の生徒がアユの稚魚八〇〇〇匹を放流したとある。調査とともに環境再生の試みも盛んである。五月二七日に京滋のトップを切って愛知川でアユ釣りが解禁されたが、アユ釣りの背後にはアユ放流の努力がある。また、堰や土砂が移動を阻むことから魚道設置の試み(五月二三日)もある。大津市の喜撰川など多くの魚道が設けられているという。ただ、効果の疑わしいものが少なくないという。

授業の一環で、荒神山に上って琵琶湖を眺めた。湖岸の水が黄土色に濁っているのがよくわかる。濁水の流入である。環境への配慮も未だに多くの問題を抱えていると言わざるを得ない。「濁水や農薬、生態系に影響?」(五月二九日22)は、「見えない不安」を報告している。田植え期にはいつも黄土色になるのだというが、その影響はよくわかっていないのだという。






 

 

2022年5月2日月曜日

新居照和・ヴァサンティ 建築展 共に生きる 人・自然・時をつなぐ、ギャラリー むかしむかしと昔と今を、20220506~0510

 新居照和・ヴァサンティ 建築展 共に生きる 人・自然・時をつなぐ、ギャラリー むかしむかしと昔と今を、20220506~0510





私の京都新聞評「再び胸を突く「1年前の衝撃」」,京都新聞,20060514


 私の京都新聞評「再び胸を突く「1年前の衝撃」」,京都新聞,20060514

2006年5月14日

布野修司

 四月二五日、尼崎JR脱線事故一周年。一年前の衝撃が否応なく蘇った。突然身近な人を失った遺族の癒されることのない無念の思いが紙面から伝わってくる。直接関わりないものにとって、事故の記憶は日々薄れていくのが常であるが、遺族にとって、時間はとまったままである。

 事故後、JR西日本は過密ダイヤを改正し、利潤追求一辺倒の管理体制を見直した、という。よく利用する琵琶湖線は、その(慎重になった)せいか、よく遅れるが、いまだ問題があるのではないか。災害時の救急手法についても多くの課題がなお指摘されている(四月二六日紙面)。

 何よりも強烈だったのは、捻り飴のように折れ曲がり潰れた車体である。驚くべき脆さである。スピードを出すために可能な限り軽くするのが設計思想だという。経済性と安全性をめぐるより深い問題がここにはある。

 尼崎脱線事故一周年の翌日、「姉歯容疑者ら8人逮捕」。この「耐震偽装」の問題は、建築を専門とする筆者にとって、実に頭が痛い。建築というのは身近な環境を豊かにつくりあげる夢のある仕事である。この問題によって、建築界が豊かな才能をもった未来の建築家を失ったのだとすれば実に残念である。

 不況不況といいながら、この間は未曾有のマンション・ブームであった。京都の都心部、いわゆる「田の字」地区に、何本もの高層マンションが建並び、景観をめぐって大きな議論が起こったのは記憶に新しい。このブームの下で起こったのが、今回の、コストダウンのためには手段を選ばない「耐震偽装」である。「偽装」そのものは論外である。しかし、安全性と利潤(コストダウン)をめぐる設計思想の問題がここにもある。

 「耐震偽装」問題が深刻なのは、建築基準法、建築確認制度、構造計算法など建築界の依ってたつ仕組みそのものに問題があるからである。単にモラルの問題としてすまされないのである。今回はいずれも別件逮捕だとされるが、深刻なのは購買者、居住者である。再建について、開発業者や建築家の能力に限界があるとすれば、保険制度の導入が不可欠だと思える。そうした議論が起こらないのは何故なのか、実に不思議である。

同じ二六日は、チェルノブイリ原発事故二〇周年であった。世界を震撼させたこの大事故の傷は未だ癒えない。はっきりしているのは絶対安全な建造物はないということである。建築物は建った瞬間から劣化が始まる。耐震基準の問題は、いうまでもなく、われわれ全ての問題である。

2022年5月1日日曜日

吉村理 蘇る民家が造る奈良盆地の未来、住宅建築、202206






























 

百年計画,現代のことば,京都新聞,19960606

 百年計画,現代のことば,京都新聞,19960606

百年計画            

布野修司

 

 「奈良町百年計画」というプロジェクトに研究室みんなで参加したことがある。大学の研究室の他、建築家や企業の研究所など数グループが、決められた地区の百年後の姿を提案するのである。一種のコンペティション(設計競技)であるが、一等二等が決められるのではなく、それをもとにまちづくりについて議論しようというのである。

 求められたのは八〇〇分の一の縮尺の立体図である。畳二畳程の大きさになった。八〇〇分の一というと、住宅一軒一軒がどうなるのか描く必要がある。とにかく大変な作業であった。

 何故、百年計画なのか。都市計画というと、現実の柵(しがらみ)があって、なかなか思い切った提案ができない。しかし、単なる計画案(絵)を描くというのでは、それこそ画瓶だ。現実の条件を長い目で評価した上で、百年後の姿をできるだけリアル(と思えるように)に描いてみようというのである。

 百年後は誰も生きていないのだから、誰も正解を知らない。何も予測を競おうというのではないけれど、多少思い切った提案が可能ではないか、というねらいである。

 それに、自分の住宅が一軒一軒具体的に描かれるのだから、住民も無関心ではいられない。展覧会やシンポジウムを開いて議論する大きな材料になるのではないかという期待もあった。

 やってみるととても面白い。まず、現存するコンクリートの建物はすべて百年後には無くなっていると仮定できるのである。逆に、木造の町家は、建て替えによって更新していけばそのまま残っている可能性が高い。これは実に、奇妙な感覚であった。

 何が残り、何が残らないかという判断にまず計画理念が問われることになる。わが研究室は、奈良町=仏都、仏教の世界センターという基本コンセプトを軸にまとめたのであるが、各テーマはグループごとにさまざまである。まちづくりをそれこそ立体的に考える貴重な体験であった。

 理想的な計画案でも地獄絵でもない。百年後を想定するということは、逆算して五〇年後、二〇年後も問われることになる。逆に計画するやり方は、思考実験としてかなり有効ではないか、と思う。

 建都一二〇〇年を経過したばかりであるが、これを機会に、「建都一三〇〇年」の京都についても、百年計画を立ててみたらどうか。開発か保存か、といった二者択一の思考で判断停止するのではなく、地区ごとにその百年後の姿を詳細に描いてみるのである。もしかすると、後に続く世代へのそれは義務でもあるかもしれない。

 などというと気が重くなるのであるが、まちづくりのための議論のために、全国の自治体も気軽に百年計画を立ててみたらいいと思う。もっとも、作業は大変であり、とても気楽にとはいかないのであるが。

 


 

2022年4月30日土曜日

出雲建築フォ-ラム,雑木林の世界09,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199005

 出雲建築フォ-ラム雑木林の世界09住宅と木材(財)日本住宅・木材技術センター199005

雑木林の世界9

 出雲建築フォーラム

                                   布野修司

 

 島根県の出雲市の建築士会に呼ばれて行ってきた。いまをときめく岩国哲人市長の出雲市である。出雲市といえば、全国的には出雲大社の玄関口として知られている。その大社線も赤字ローカル線としてつい先日廃止されたぐらいだから、その知名度も当てにならないのであるが、それだけに余計、いまや岩国市長の出雲市である。米国最大の証券会社の副社長から日本の片田舎の市長へというドラスティックな転身が好奇心をそそるのであろう。この間のマスコミへの露出度は抜群である。国際派市長、田舎で奮闘、の構図である。

 ところで、出雲は僕の故郷でもある。出雲市の知井宮というところで生まれて、松江で育った。だから、出雲には随分と拘りがある。出雲主義者である。出雲大社のみならず、出雲神話に出雲風土記、荒神谷遺跡の銅剣三五八本、四隅突出型古墳なんて話になるととまらない。大和史観に対してはひとこと言わないと気がすまないのは、出雲出身だからである。

 故郷ということもあって、出雲で話すのは特別である。二、三年前、松江でしゃべる機会があったのであるが、どうにもやりにくい。親類縁者も沢山いるのだから、偉そうに構えたって駄目である。どれどれあそこの鼻垂れ小僧が帰ってきて何をしゃべるかいの、といった視線が嫌というほどわかる。だからもう、居直って、焼けくそでしゃべるしかない。次のようなことをわめいてきた。

 題して、「住まいと町づくりー-地域の「建築家」は、いま、住宅=町づくりにどう取組むのか」。以下はその時しゃべった(正確にはしゃべりたかったことの)メモである。

 

 0.はじめに◇布野姓と出雲のことなど◇日本の建築界の最近   の○○について◇研究のことなど◇『群居』のことなど◇   最近の仕事のことなど 

 Ⅰ.住まいと町づくりをめぐる基本的問題

  ●住宅=町づくり◇建築と都市の分離◇大都市圏と地方◇地   域と普遍(国際化)

  ●論理の欠落ーーー戦後住まいの失ったもの 豊かさのなか   の貧困◇集住の論理◇歴史の論理◇多様性と画一性◇地域   性◇直接性

  ●住まいと町づくりをめぐるトピックス◇「家」の産業化◇   体系性の欠如(住宅都市政策)◇グローバルな視野の欠如   ◇社会資本としての住宅◇住宅と土地の分離◇住宅問題の   階層化◇住機能の外化・家事労働のサービス産業代替◇社   会的弱者の住宅問題◇高齢者の住宅問題◇二世帯住宅

 Ⅱ.建築家と住宅

   ●住宅生産の構造と「建築家」

   ●建築家と住宅の戦後史

   ●工業化住宅と住宅設計

   ●もうひとつの指針◇アーキテクト・ビルダー◇小さな回        路◇地域に固有なハウジング・システム◇住宅=町づく        り◇オールタナティブ・テクノロジー◇プロセスとして        のハウジング◇ハウジング・ネットワーク

 Ⅲ.地域と住宅=町づくり

      ●地域と住宅あるいは住宅の地域性・地域性とは・工業化        住宅と町場・小規模住宅生産の可能性

   ●地域住宅計画の可能性と限界 ・施策の概要・施策の意義        ・施策の展開

   ●地域住宅計画と住宅設計・地域住宅工房のネットワーク        ・ハウスドクター・タウン・アーキテクト

 

 焦点は、地域住宅計画である。島根県では江津市に続いて出雲市でもHOPE計画の策定が行われつつある。コンサルにあたっているのは、木島安史、延藤安弘の熊本大コンビに、米子高専の和田嘉宥先生ほか地元の有識者である。当面の計画内容は次のようである。

 

 ①高瀬川沿線の街づくりーーー市の中央を流れる用水路沿線の環境整備。コミュニティ道路、ポケットパークの整備、町づくり協定など

 ②出雲市駅周辺地区整備誘導計画ーーー出雲風都市型中高層住宅の提案など

 ③市営団地建替計画ーーーモデル団地づくり、地域住文化の育成、地場産業の育成など

 ④ミニ開発誘導ーーーモデルミニ開発、道路位置指定による小規模宅地開発

 ⑤土地区画整理事業ーーー駐車スペースの共有化、町づくり協定、歴史的遺産の保全と活用など

 ⑥出雲屋敷記念館建設と周辺環境保全ーーー出雲風庭園、出雲屋敷移設、出雲屋敷記念館建設

 

  HOPE(Housing With Proper Environment)計画についてはもはやよく知られていよう。全国で百を超える自治体が既に取り組んでいる。建設省の施策としては画期的な施策だと思う。何が画期的かというと、第一、よくわからないところがいい。よくわからないということは、すなわち、なんでもいいということである。なんでもいいということは、当事者次第ということである。当事者次第ということは、当事者の能力が問われるということである。中央の押し付けではなく、市町村が具体的に住宅供給の計画を立てるなかで創意工夫によって町づくりを考えていく大きなきっかけとなるという意味で期待できるのである。

 しかし、というよりだからこそ、HOPE計画を始めたけれど何も動いていない自治体もなくはない。もう忘れてしまったといった自治体もある。華々しくイヴェントを打ち上げても、持続していくことは容易ではないのである。

 出雲市の場合、一九八八年から始められたばかりなのであるが、以上のように極めてオーソドックスな構えとなっている。今後が楽しみといったところである。とにかく、持続することが大きな意味をもつのである。

 一方、岩国市政としては、一刻も速く、具体的な成果を眼に見える形で示すプレッシャーがある。事務局はてんてこまいで、パニック状態といってもいい、そんな空気がひしひしと伝わってきた。なにものかが生み出される時は、こうなんだろう、と思う。ただ愚直に考えていればいいということではないのだ。持続するためには、それなりにパワーとエネルギーがいるのである。

 熱気に気押されたのであろう。出雲と松江で飲みながら、「出雲建築フォーラム」のようなものをつくろうなどという話になった。出雲出身の長谷川尭、高松伸と一緒にもう少し出雲のことに協力しろ、という。もちろん、異存があるわけはない。出雲には人一倍愛着があるのだ。とりあえず、神有月に全国から建築家たちが出雲へ参集する、そんなフォーラムのプログラムでも考えてみようかと、出雲の仲間達と考えはじめたところだ。

回想・・・編集委員会発足まで、2001年4月25日~5月22日 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日        布野修司

 『建築雑誌』編集長日誌 2001425日~2003531        布野修司

 

普段日記などつけない。試みないのだから三日坊主に終わるということもない。日常を省みようともせず、それを恥じない。生来の怠惰はどうしようもない。

そんな僕が、こともあろうに意を決して、『建築雑誌』の編集を続ける間、日誌のようなものを綴ることにした。

というのは嘘。日誌を書いて公開するように、というのは編集部の強~い要望である。編集委員会が何を考え、どのような議論を踏まえて編集作業を行っているのか、できるだけ生の声で伝えて欲しい、ということだ。

全くもって自信がないが、断る権利はなさそうだ。おそらく編集委員の助けを借りることになるに違いないけれど、気楽に編集「裏(嘘)話」など気の赴くままに記してみたい。

日記はつけない僕でも、海外を旅する時だけは、何故かいつも一冊のノートを持参して、見たこと、聞いたことをメモする習慣がある。殴り書きの間に領収書や名刺や電車の切符などべたべた張り付けるから、ノートは三倍ぐらいに膨れあがってしまうのだが、本棚を数えたらそんなノートが31冊になっている。ろくでもない記録なのに、何か貴重な財産のような気がしている。

『建築雑誌』の編集も、二年間のジャーニーjourneyと思えばいいのである。ジャーナルjournalとはそもそも日録, 日誌, 日記という意味である(2001111日)。

 

回想・・・編集委員会発足まで

2001425

 仙田満・新建築学会長、何の予告もなく、いきなり研究室(京都大学)を来訪。昨年、学会賞作品賞の審査委員会でご一緒し、京都に現場(西京極競技場屋外プール棟)があって度々京都へいらっしゃるとは聞いてはいたものの来室は初めて。入ってくるなり、「今度、学会長をやることになったので、『雑誌』をやってくれませんか」、である。唖然としながらも、口をついて出たのは「いいですよ。いつかはやってみたかった仕事ですから」であった。「いつかやってみたかった」というのは本音である。しかし、「学会長就任おめでとうございます」「ご苦労様です」ぐらい言うべきだった。仙田会長も「もし決まったら自由にやって下さい」という、それだけである。軽い打診に軽い応答。後は、連休中の現場見学の話と2日後に迫った京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の話が主であった。時間にしてわずか数分。次のアポイントメントがあって、風のように部屋を去られた。たまたま研究室に居なかったら・・・こんな話はなかったのじゃないか???

 

200157日 

427日の京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)設立大会は大盛会。今後の成長が楽しみである。その後、連休は我が家の引っ越しの荷造りでてんやわんや。そんな中、わがチームの担当地区山科を一日調査した(51日)。上京する新幹線の中でようやく『建築雑誌』のことを考える。編集委員会の組閣、特集のテーマ、アートディレクションなどが頭をめぐる。ノートを一冊用意して、色々書きつけるもののまとまらない。ホントの話カイナな?と思う。かろうじて以下のメモを作成する。

編集にあたって

 1 第一に編集委員会を刺激的で楽しい議論の場にしたい。出席して議論することに大きな意義を見出したい。

 2 編集を通じて新たなネットワークを構築したい。

3 毎号、作業の上で議論したい。作業をストックしたい。24冊(+2冊)の編集をそれぞれの業績(仕事)としてほしい。また、常設欄など一冊の本にまとめたい。

 4 学会、建築界の本質に関わる問題を常に深く考えたい。繰り返しを恐れず、テーマを深めたい。

5 分担、専門毎の編集は行わない。常に学際的、国際的、横断的な主題設定を考えたい。

6 一般にアピールできる、インパクトある内容を心がけたい。建築界をオープンに。

 7 学会の方針をわかりやすく会員に伝えたい。

 

200158

 朝、仙田会長より電話、「正式にお願いしたい」。冗談ではなかったのである。早速、組閣を開始する。多様な眼が欲しい。外人、女性の検討をつけたい。各ジャンル、業界、官界、居住地、スクール、まるでジクソー・パズルだ。関係ないけど、小泉首相の組閣が気になる。女性閣僚は5人にもなる。外国人の眼が欲しいと考えて、オランダ建築家協会の雑誌ARCHISの海外編集委員をしているトム(Thomas Daniel)のことを思い出した。三室戸(みむろと 京都府宇治市)の梅林克(F.O.B)のところで設計をしている。彼なら世界中の建築雑誌の編集者と連絡がある。ネイティブ・スピーカーに入ってもらえば何かと便利でもある。

まずは、京都大学の身近な同僚、大崎、石田の両先生に声をかけた。それぞれ構造分野と環境分野の人選を依頼する。彼らは共に『Traverse・・・新建築学研究』の編集委員でもあり気心も知れている。万が一の時や長期出張などを考えると左右両腕というか二人に任せればなんとかなるという信頼感がある。

ここ二年でどんなテーマが考えられるかも組閣の大きな要素となる。キーワードを挙げてみると、アジア、タウンアーキテクト、エコ・アーキテクチャー、構造改革、建築教育、設計者選定・・・いくらでも挙がる。心配はない。問題はエンジニアリング系である。それ以前に歴史家の眼が欲しい。奈文研(奈良国立文化財研究所)から鳥取環境大学に移った浅川君の顔が浮かんでメールを打った。

 

2001517日 

組閣は遅々として進まず。51314日、我が家の引っ越しでそれどころではない。アートディレクションを誰に頼むかは大きい。何となく切り絵の「百鬼丸」の名前が浮かぶ。彼は建築学科の出身だ。美術評論家の高島に聞いてみようと思い立つ。彼とは『群居』で長年一緒だった。元々『日本読書新聞』の編集長である。いっそ編集委員会に入ってもらってもいい。

あれこれ考えているうちに松山巌さんの貌が思い浮かんだ。京都に来てからめっきり合う機会が少なくなったけれど、この機会に月一回会えると楽しい、などと思ったら、段々その思いが強くなって抑えがきかない。津村喬、大竹誠、柏木博、真壁智治、井出建などが蝟集した『TAU』という雑誌も思い出した。松山さんに表紙をやってもらうのはどうか、と思いついてなんとなくにんまりである。彼は自らの著書の装丁を手掛けるではないか。

 

2001522

 京都CDL事務局会議。立ち上げたばかりであり、62日の京都一日断面調査(八坂神社~松尾大社)の準備で忙しい。編集委員長(図書理事)任命は61日ということで、組閣に身が入らない。いささか焦る。若手の作業部隊として、脇田、山根、青井、田中麻里の布野チルドレン(布野研究室OB)に声をかける。これまでの特集テーマ、常設欄の分析を依頼する。また、太田邦夫委員会で一緒であった先生などこれぞ、と思う先生方に編集委員の推薦を依頼する。

マラッカの住宅地 カンポン・モートン(マレーシア),家とまちなみ,住宅生産振興財団,200303 31

マラッカの住宅地 カンポン・モートン(マレーシア),家とまちなみ,住宅生産振興財団,200303 31 


マラッカのカンポン・モートン

 

布野修司

 

マラッカは古くからの交易都市として知られる。そして、1511年にポルトガルに攻略されて以降は、とりわけ東西交易の拠点として栄えた。オランダ(1641年~1795年)、イギリス(1824年~1957年)と続いたその支配の歴史を町の景観に残している。

セントポールの丘にはザビエルを埋葬したという教会が建ち、その麓にはポルトガル期のサンチャゴ砦がある。市役所などはオランダ時代のものだ。丘を取り囲む要塞部分とはマラッカ川で隔てられる市街には、インド人、マレー人、そして中国人が居住する。トゥカン・エマス通りには中国廟、モスク、ヒンドゥー寺院が並んで建っている。主要な骨格はババニョニャと呼ばれる中国人によってつくられた。トゥン・タン・チェック・ロック(ヘーレン)通りには見事にショップハウス(街屋、店屋)が並んでいる。奥行き100m近くにもなるものもある。

近々世界文化遺産へ登録申請しようかというこのマラッカの旧市街のすぐ北に、カンポン・モートンと呼ばれる不思議な住宅地がある。マラッカ川が丸く蛇行し、丁度島のような一角である。切妻屋根を連ねた高床式のマレー住居が建ち並んでいる。回りには高層ビルが建ち並び始めているから、まるでここだけタイム・スリップして、過去のマラッカに戻ったようである。

マレーシアで最も美しい村のひとつとされる。このカンポン(都市内集落)を愛し、モートンという英国人が住んだのだという。それが名前の由来である。20世紀の初頭にこの地に住み着いた一族の家、セントサ邸は、生きている博物館として観光客にも開放されている。亜鉛塗鉄板はいただけないと思うけれど、保存修景の措置はとられている。

ヌグリ・スンビラン州に西スマトラから移り住んだミナンカバ族の住居がそうであるように、農村では住居は散在するのが一般的である。このように屋根を揃えて密集する形態はかなり珍しい。しかし、カンポンというのはもともとこうした都市的集落をいう。実は英語のコンパウンドはカンポンから来ているのだ(オクスフォード英語辞典)。マラッカ、あるいはバタヴィアで見たこうした集落のあり方から、英領インドで使われるようになり、やがてアフリカの現地人集落をさす言葉にもなったのだという。