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2022年6月28日火曜日

世紀の変わり目の「建築会議」, 篠原一男12の対話,篠原一男 渡辺豊和 布野修司,建築技術別冊4, 19990901

 世紀の変わり目の「建築会議」, 篠原一男12の対話,篠原一男 渡辺豊和 布野修司,建築技術別冊4 19990901

非西欧型モダニズムの探検


産業主義モダニズムからソシオ・カルチャル・エコ・ロジック(社会文化生態論理)へ

布野修司

 

 「非西欧型モダニズム」という言い方には違和感がある。「西欧」「非西欧」というディコトミー(二分法)は最早有効ではない。「西欧」の全否定は不毛である。また、常に「西欧」世界の欠落を補完するものとして持ち出されるのが「非西欧」である。「アジア」とはすなわち「非西欧」のことであるが、そもそも「アジア/ヨーロッパ」が同時に成立した概念であることは常に想起したい。

 「モダニズム」というのも、建築の世界では専ら「モダン・スタイル」の意味で用いられるからいささか狭い。モダニズムの建築を狭義にイメージすると、モダニズム建築に「非西欧型」という別の型があるようでちぐはぐな印象を受ける。要するに、ここでいうラディカル・ラショナリズムというのをもう少しはっきりさせておく必要があると思う。

 まず、モダニズムを産業主義モダニズムに限定して理解したい。「丹下流モダニズム」とは要するに産業主義モダニズムのことだ。「西欧」世界で生み出された産業社会の論理を如何に超えるかという設定であれば問題ははっきりしよう。

 そこでラショナリズムとは何か。敢えてラディカル・ラショナリズムというのは、産業社会の論理を支えるものとしての「西欧近代合理主義」と区別したいからである。要するに、「経済合理主義」「産業合理主義」ではなく、社会を支える正当性の根拠としての合理主義が問題なのである。「日常的合理性」、「意味論的合理性」という概念も提出されてきたけれど、単に経済の論理に回収されない生活の論理が問題であることを僕らは直感しているのである。

 近代日本の「建築家」とアジアをめぐっては、『廃墟とバラック・・・建築のアジア』(布野修司建築論集Ⅰ、彰国社、1998年)にまとめる機会があった。伊東忠太における「法隆寺のルーツ探し」という壮大なプログラムが示すように、アジアへの関心は日本建築のルーツあるいは存在証明を求める旅が大きな軸になってきた。日本建築を中国や朝鮮半島、インドや東南アジアとの関係において捉えるのはある意味で当然のことである。その視座が未だに閉ざされているのは、日本建築をナショナルな枠組みにおいて捉える近代日本の建築界の大きなバイアスの構図が生きているからである。近代日本においては「西欧」対「日本」という構図が固定化されすぎてきた。僕らには、アジアの無数の「辺境」に豊かな建築表現の文脈をいくつも見いだす膨大な作業が残されていると言わねばならない。

 そこで何が手掛かりになるのか。やはり、地域地域で建築を支える論理ではないか。産業主義がグローバルに地球を覆う論理であるとすれば、それとは異なった論理が求められているのではないか。地域という概念を支えるものとして重要なのは生態論理(エコ・ロジック)である。建築の根源的あり方は地域の自然のあり方に関わる。しかし、建築の表現は自然の生態のみに関わるわけではない。社会文化の生態力学としてのラショナルな論理に基づく建築のあり方が問題なのである。


 












 














2022年6月27日月曜日

アジアからの視点,対談 古山正雄,『空間表現論』,京都造形芸術大学通信教育部, 20020401

アジアからの視点,対談 古山正雄,『空間表現論』,京都造形芸術大学通信教育部, 20020401 

『Hiroba』、1996年6月号







2022年6月26日日曜日

2022年6月25日土曜日

2022年6月24日金曜日

2022年6月23日木曜日

『群居』からビルドデザインを考える、布野修司・秋吉浩気、聞き手 門脇耕三、建築雑誌、2018年06月号

 『群居』からビルドデザインを考える、布野修司・秋吉浩気、聞き手 門脇耕三、建築雑誌、201806月号

 

『群居』からビルドデザインを考える

 

 

対談

布野修司

秋吉浩気

 

司会

門脇耕三

 

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設計と施工の分業体制は自明なものではなく、特に住宅分野では繰り返し異議が申し立てられてきた。現代ではデジタル技術の発達を背景に両者の柔らかな結合が模索されており、1980年代には工業化された建築生産システムの成熟を背景に、設計と施工の区分を超えた職能のあり方が議論されていた。後者の主舞台ひとつが同人雑誌『群居』であるが、当時と現在の問題意識の交点を探るため、『群居』編集長を務めた布野修司氏を招いて討議を行った。

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『群居』の時代の建築生産

 

門脇:『群居』とはどんな雑誌だったのでしょうか。

 

布野:戦後まもなく建築家の眼前には圧倒的な住宅不足がありました。建築家は、最小限住宅やプレハブ住宅の構法など様々な提案を行います。一方、住宅公団による団地の大量供給が始まります。また、プレハブメーカーが登場します。60年代には建築家は都市に向かいます。住宅に対する戦後の取り組みが途絶えてしまったという認識があって、改めて日本の住宅をどうするのかという問題意識で集まったのが『群居』のメンバーたちでした。創刊号が「商品としての住居」。2号が「セルフビルドの世界」。3号が「職人考——住宅生産社会の変貌」。4号が「住宅と建築家」。4号で1サイクルになるような編集を考えていました。【写真:『群居』の書影】

一方に篠原一男さんの「住宅は芸術である」や池辺陽さんの「No.住宅」のように一戸一戸設計していけばいいという建築家もいたわけですが、『群居』(ハウジング計画ユニオンHPU)で常に議論していたことは、日本の住宅生産システムをどう考えるかでした。そこには、大きく分けると、大野勝彦(内田祥哉スクール)のように全体をオープン・システムとして捉える考え方と、石山修武のように工業化された部品をゲリラ的に利用しようという考え方の対立がありました。大野さんもまもなく「地域住宅工房」のネットワークを考えるようになるんですけどね。

 

門脇:最初の4号には、設計と施工が明確に分離された近代的な枠組みに対する疑義が通底していますね。

 

布野:「アーキテクトビルダー」という新しい職能像についてかなり議論したんですが、その発端にあったのは、住宅規模の建築では、設計施工分離の設計料のみでは仕事にならない、要するに儲からないという現実です。歴史を振り返れば、マスタービルダーは設計だけではなく施工も統括していたわけです。

 

門脇:住まいの設計は机上だけではできないという思いもあったのではないでしょうか。

 

布野:ぼくらが木匠塾をはじめたのは、住宅スケールであれば身体で実感した方が早いという思いがありました。造って揺すってみれば構造が分かる。学生を連れて山の中に入って、木造でバス停や茶室、農機具小屋や神社の拝殿や橋など様々なものを設計し、実際につくってみるということを毎年やりました。

 

デジタルファブリケーションの時代の建築生産

 

門脇:秋吉さんはデジタルファブリケーションを使いながら設計と施工をつなげて、さらにユーザー自身が建築家たりうるような世界をつくろうとしています。

 

秋吉:今ではショップボットという木材加工機が400万円程度で購入できます。素材生産者にこうしたハイテク機材を導入し、彼らをビルダーに変えていく事をやっています。目的としては、工場生産の家を運ぶプレファブリケーションを超えて、家のデータだけを送って現地生産するオンサイトファブリケーションを実現することです。ここでいう現地とは、資材調達から加工・アセンブルが完結する半径5km圏内のネットワークのことです。

【写真:ネットワーク図】

現在までに22地域に機械を導入してきましたが、これらを更にネットワーキングすることを考えています。これは、インターネットのような自律分散協調型のオープンな建築生産の体系を構築する試みでもあります。とはいえ、受信できる基盤がないと回線は通らないので、全国にルーターを拡散するために20182月に1億円の資金調達を実施しました。実際の導入地域では、本当につくりたい住環境や公共空間の質について、規格品ベースではなくゼロベースで、共に考え実施することを行っています。

 

布野:僕の場合、構法システムを考えて、セルフビルドを組み込むか、あるいは形態のバリエーションを組み込んだ構法システムを考えるか、あるいは部品を生産しその組み合わせに向かうのかといった事を考えていましたが、デジタル技術で標準化をしない場合どういう展開があるか、全体の設計システムはどうなるのか聞きたい。

 

秋吉:ひとつずつオリジナルな設計施工データをつくるのは時間もコストもかかるので、規矩術のようなシステムを構築できないかと考えています。この木材とこの納まりならこの寸法といったような大工の経験を数値化し、簡単な入力から加工コードまでをリアルタイムに出力できるツールを開発しています。こういった仕組みを地方に分配し、ローカルな建築家がそれを翻訳していくという「ツール+翻訳者」というモデルを考えています。

 

布野:それはすごく大事なことで、地方のアトリエこそがそういう武器を使うべきだと思う。UAoの伊藤麻理さんは大きなコンペを獲っていますが、CADでディテールまで自分で設計するといいます。それがBIMになればいいんでしょう。若い建築家は、新しい道具を駆使した方が良い。その伝道師が必要なんだと思います。

 

ヴァナキュラーかシステムか

 

門脇:生産がローカルに閉じているとそれが制約になり、その地域独特のヴァナキュラーな建築が生まれやすい。一方で近世に普及した規矩術はシステマティックな体系で、むしろ大工技術の均質化・画一化をもたらしました。両者はかなり違った方向性をもっていますが、秋吉さんはヴァナキュラーとシステムのどちらを目指しているのでしょうか。

 

秋吉:ヴァナキュラーなシステムが無数に生成されるプラットフォームを目指しています。CLTのような中央集約的な規格材から非規格な部材を生成する手法や、根曲がり材のような非規格材から建築を生成する手法を構築しています。

 

布野: 僕は、スケルトンとインフィル、さらにクラディング(外装)を分けるオーソドックスなフレームで考えてきました。インフィルは使い手側の勝手に任せる。ただし、躯体システムは建築家が提案する必要がある。問題はそのシステムです。躯体システムをサステナブルに考えること。更新する場合も、それがサステナブルである必要がある。

 

秋吉:今大阪で進めているプロジェクトがまさにスケルトンインフィル的です。大阪には裸貸という文化があり、建具や畳ごと引っ越していた。クライアントからは、5年単位で裸貸しできる躯体を考えて欲しいと頼まれました。すべて90mmCLTパネルで構成されており、1mピッチの板柱の間に910mmの規格品を埋め込めるだろうと考えています。たとえば、家族四人で住み始めたときには2階をリビングに1階を居室として利用し、子ども成長して家を出たら下を店舗として貸し、上に寝室を移動するようなことを提案しています。さらに二戸一のスケルトンが群を成しマイクログリッド化することで、電気効率を向上させています。【図:アクソメ】

 

布野:まさにそういうことです。住まい方の型が重要です。その型にたいして用意された材料が循環系になっているかどうか。この規模のモデルからしか流通していかないはずなので、それはぜひ実現させてください。システムを、物語をつくって使いながら見せていくことは大事です。

 

現代の「群居」はいかに可能か

 

門脇:市井の人びとの思いから出発して、それが街並(すなわち「群居」)になるような住環境はこれから本当に構想可能でしょうか。

 

布野:おそらく構法やデジタルファブリケーションのような技術と同時に、住み方自体を考え直すことが必要でしょう。少子高齢化の時代に老人が一人で4人家族の家に住んでいたら熱効率的にも問題だから、シェアハウスやコレクティブハウスがモデルなるべきなのですが、日本の住宅産業はこれまでずっと戸建モデルとマンションモデルで来てしまいました。だからぜひ新しいモデルを開発してほしいですね。

 

門脇:街並の根拠となるようなベースビルディングをしっかりデザインしていかないといけないということですね。

 

秋吉:住まい方に関する感性を取り戻していく事を目的として、生活家具をゼロベースで発想し作るワークショップを実施しています。自分の事を突き詰めていくと、自分の家族や地域といった全体の事を考えていかざるを得なくなります。裏を返すと、街並みに対する能動性を生むためには、生活に関する主体性を取り戻さねばならない。この草の根的な活動の先に、ベースビルディングそのものを町場が定義していく未来がある。私人による小さなビルドの積み重ねから、群居はデザインされていく。そう信じています。






2022年6月20日月曜日

ダプール<木箱のキッチン>,at,デルファイ研究所,199312

ダプール<木箱のキッチン>,at,デルファイ研究所,199312


ダプール・・・木箱のキッチン

ウジュン スラバヤ インドネシア

      

                布野修司

 

 カンポンを歩いていると、路地に高さ六〇センチから八〇センチ、奥行き七〇センチ、幅一メートル二〇センチ程度の木の箱が並んでいるのに気がついた。「アパ・イニ?(これなあに)」と聞くと「ダプール」という。ダプールというとキッチン、台所のことだ。訝しがっていると、蓋を開けて見せてくれた。なるほど、中には、こんろや釜、水瓶、食器類など台所用具一式が収まっている。

 ジャカルタでもスラバヤでもそうだ。かなり高密度のカンポンに行くとこの木箱のキッチンを見ることが出来る。平屋でも千人を超え、一五〇〇人にもなるカンポンがある。そうしたカンポンの住居は極めて狭い。一室かせいぜい二室である。台所のスペースがとれない。いきおい外の路地にはみ出してくることになる。そこで考案されたのがこのカンポンのシステム・キッチンなのである。

 そうしたカンポンの世帯数を数えるのは簡単である。外にはみ出したダプールの数を数えればいいのである。ダプールにも色々個性がある。全て一式台所用品が収められている。また、そこで煮炊きも行われる。蓋をして鍵をかけるのであるが、ベンチにもなる。なかなかの工夫である。

 しかし、それにしても狭い。どうやって暮らすのだろうと誰でも思う。日本であったら考えられないのであるが、気候条件はまるで異なる。生活の中心は戸外なのである。それこそ食事も戸外でとる。料理や調理も戸外で行なう。散髪も戸外である。散髪屋さんのほうが移動してきて戸外に店を開くのである。子供たちが水浴びするのも戸外だし、洗濯も戸外である。場合によると戸外に寝ることもある。公共の、あるいは共用の戸外空間があって個々の住居空間が最少でも生活が成り立つのである。

 経済生活においても、お互いに協力し合う相互扶助の仕組みがある。頼母子(無尽)講である。インドネシアの場合、アリサンと呼ばれる。伝統的な民間金融の仕組みが生きている。一日にいくらかづつ、あるいは、周単位、月単位でお金を出し合い、くじで順に使う。場合によると、二千人規模のアリサンがある。住居の建設や修繕が可能な額である。利子の観念の薄いイスラーム圏だからということもあるけれど、そうした相互扶助のシステムがあってはじめて、経済的貧困を克服できるのである。

 こうした高密度のカンポンにおいて、極めて深刻なのは水の問題である。この間、カンポン・インプルーブメントが進められてきたのであるが、それでも上水道の設備は依然として十分とは言えず、毎日購入する形がまだ珍しくないのである。井戸は海水がまじり飲用水には使えない。水売りやカンポンの中の有力者から分けてもらうのである。また、ゴミの問題も大きい。カンポン内の清掃のシステムは整備されているのであるが、都市全体については未整備である。

 東南アジアの居住問題はまだまだ根深い。

 



 

2022年6月19日日曜日

亀甲墓,at,デルファイ研究所,199401

 亀甲墓,at,デルファイ研究所,199401

亀甲墓                 アンペナン ロンボク島 インドネシア

                布野修司

 

 ロンボク島アンペナン、今は少し南に位置するルンブールにその役割を譲ったのであるが、西ロンボクの昔からの港町である。バリからの入植者たちやオランダが上陸したのもこのアンペナンである。その近郊にかなりの規模の中国人墓地があった。ロンボク島はヒンドゥー、イスラームが重層する珍しい島なのであるが、さらに古くから中国人が居住してきた事実をその墓地は物語っていた。

 東南アジアに限らず世界中どこでもそうなのであるが、どんな辺鄙な場所でもチャイニーズの店がある。僕の場合、何でも食べるから食事は苦にならないのであるが、普通の日本人だとタイ料理にしても、インドネシア料理にしてもーーパダン料理など各地の料理はあるけれどインドネシア料理と呼べるのは別にないのであるがーー合わない人が多い。激辛のエスニック料理が流行るなど通も増えつつあるけれど、やはり辛いのである。チリーが効きすぎていてすぐに下痢をしたりする。そうした時助かるのがチャイニーズ料理の店である。どんなところにもあるからほんとにびっくりする。チャイニーズ世界の広がりはすごいといつも思う。

 チャイニーズのそうした広がりと居住の歴史を示すのが各都市の中華街、チャイナタウンである。かって華僑と呼ばれたチャイニーズたちは、インドネシアの場合、中国人カンポンを形成してきたのである。例えば、バタヴィアの建設当初からチャイニーズは居住している。植民された多くの民族のなかで最大多数を占めている。一七四〇年には、商業活動に従事し、次第に増加してきたチャイニーズに脅威を感じたオランダ人はチャイニーズを市外に追放するという事態も起こっている。しかし、そうした都市だけではない。カンポンを形成しなくても各地に散らばって住む。それを示すのが各地に残されている亀甲墓である。こんな辺鄙な島にもと実に至るところで眼にするのである。

 中国人の場合、墓の建設は大きな意味を持っている。墓地の位置などを決定する基本となるのが風水思想である。東南アジア一体に風水思想が広がっているのはチャイニーズの移住と密接なつながりがあることはいうまでもない。

 中国の風水思想というと必ず引かれるデ・ホロートの『中国の風水思想』(註1)によれば、古来、中国人は、どんなところでも死者を収める自由をもってきたのだが、一方で準公共的な共同墓地の伝統をもってきた。その場所の選定に関わるのが風水である。そこの風水が最適であると見なされたためにびっしりと墓が並んでいるような土地は、概して人口の密集したところに近接している。そして、次第にその土地は一般の人も使用する自由な埋葬場所になっていく。最初は一族、一門の所有権ははっきりしているのであるが、次第にその所有権は曖昧になり、最後には「万人堆」と呼ばれるような自由共同墓地になるのである。アンペナン近郊の墓地はまさにそのような墓地であった。

 

 

註1 牧尾良海訳 第一書房 一九八六年、(大正大学出版部、一九七七年)。デ・ホロートはオランダの中国学者で大著『中国宗教制度』を著した。その一部「死者の処置」などを翻訳したものである。

 




2022年6月18日土曜日

ジョグロ,at,デルファイ研究所,199403

 ジョグロ,at,デルファイ研究所,199403


ジョグロ     

ジャワ インドネシア

      

                布野修司

 

 ジャワ(中部ジャワ、東ジャワ)の住居は、その屋根形態および架構形式によっていくつかに類型化される。その代表的なものが、ジョグロ、リマサン、スロトン、そしてカンポンである。規模が大きくなると、いくつかの住棟で構成されるが、住居の形式は基本的には屋根の形態で認識されるのである。

  リマサンは、基本的には、寄せ棟の形式をいう。カンポン(       )は、カンポンで一般的にみられることから、そう呼ばれてきたのであろう。切妻の形態をいう。それに対して、ジョグロ       は最も格式の高い住居である。写真を見て欲しい。中央部の急勾配の寄せ棟屋根が高く突き出した形態が特徴的である。中央の四本柱(サカ・グル:          )の上部に梁桁が何重にも組まれ、その上に小屋組がなされる。内部のピラミッド状の木組みは、ヒンドゥー教の宗教施設であるチャンディー建築に由来し、トゥンパン・サリ(            )と呼ばれる。スラマタン(儀礼)の時に用意される米飯を円錐状ににしたものもトゥンパンと呼ばれている。

 基本型は、中央の四本柱を中心に、一六本の柱で屋根が支えられるものである。屋根は、中央の急勾配の寄せ棟とそれを囲む下屋(げや)の二面からなる。大規模になると、更に四周にもう一列の柱列がつくられ、三六本の柱で屋根を支えるものもある。

  屋根形態を問わず、ジャワの基本的な住居ユニットはオマと呼ばれる。オマの内部は、ダレムと呼ばれる。半戸外のベランダが、エンペランである。そして、ダレムは、前と後ろの二つ、もしくは、前と中央と後ろの三つの部分に分かれる。後部はスントンと呼ばれ、壁で囲まれた三つの部分からなる。向かって左(西)の部屋、スントン・クロンが米など食糧の倉庫、右(東)、スントン・ウエタンが武器や道具類の倉庫として使われる。中央のスントン・テンガは、床が高くつくられ、装飾を施されたベッドが置かれる。その外側の入口の両脇には戸棚が置かれるのが一般的である。スントン・テンガのベッドは、稲の神であるスリ、またそれが変身すると考えられている南海の女神ララ・キドゥルの場所と考えられ、結婚式などの儀礼の時を除いて、普段はカーテンで仕切られ公開されない。スントン・テンガは、オマの聖域である。スントン・テンガは、クロボンガンとも呼ばれる。

 この構成がヒンドゥーの世界観を表しているという説がある。特にジョグロの中央部の突出は、メール山(マハメール)を象徴するというのである。。サカ・グルは垂直軸における中心であり、様々な彫刻によって飾られている。確かに求心性の高い架構であり、間取りである。

 面白いことに、この四本柱の架構方式は、モスクにも用いられた。ジャワで最初にイスラム化されたデマックのモスクがそうだ。また、オランダ人たちもこの形式を自分たちの邸宅の架構方式として採用している。ひとつの架構形式がこうして普遍化している地域はかなり珍しいのではないか。

 



2022年6月17日金曜日

ジャカルタ・コタ地区ーーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,199403

 ジャカルタ・コタ地区ーーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at199403


建築の大航海

コロニアル建築

インドネシア 1870~1945                                        

 

V ジャカルタ・コタ地区・・・総括編

                                              京都大学アジア都市建築研究会

 

 本特集を「インドネシア1870~1945」としたのは、H.アキハリの本『インドネシアの建築と都市』(参考文献参照)が下敷きになっているからであるが、その本は「1870~1970」と実はなっている。小著だけれど、戦後に第一世代のインドネシア建築家が登場するまでが一応押さえてある(1870年というのは、農地法と土地二法が制定され、強制栽培制度が漸次廃止されるとともに法人プランテーションによる植民地化が本格的に進行していく年である。もちろん、それ以前、19世紀の動向にも触れられてはいる)。われわれの関心も、一方で、インドネシア建築家たちがオランダによって移植された建築の伝統を如何に継承して行こうとするかにある。

 インドネシアの建築家たちにとって、その伝統とコロニアル建築の関係をどう考えるかは極めて重大な問題である。インドネシア建築史学会が設立されたのは1988年のことだが、インドネシア建築の伝統をどう考えるかをめぐって大議論となったと何人からも聞いた。基本的にオランダの影響も自らの伝統として認めるというのが穏当な結論のようだけれど、一方で、J.シラスもいうように(連載第1回       月号)インドネシアの独自の試みを評価したいというのが本音としてはある。

 ところで、都市遺産の保存の問題は極めて具体的である。早急に手を打つ必要性を訴えたのは見るところ、R.ギル(デルフト工科大学)のようなオランダの建築家、学者たちである。欧米の大学には、保存やリノベーションを専門とする講座が数多く出来つつあるのであるが、彼のところもそうだ。彼の学生たちはジャカルタのコタ地区についてサーヴェイして一冊の報告書をものしている。

 R.ギルとは会って話したことがあるのであるが、どうしてもノスタルジックな臭いがつきまとう。オランダ人たちが暮らしてきた記憶を保存したいというニュアンスがどうしてもしてしまう。バタヴィア城を復元しようというのもオランダ的である。インドネシアの建築家、都市計画家たちはバタヴィア城の復元にはいささか批判的である。

 ジャカルタ市には全国に先駆けて都市保存課がつくられた。歴史的な地区の再生が目的である。そのターゲットはコタ地区だけではない。前回触れたように、ジャカルタで今保存が問題になっているのは、この当初建設されたコタ地区と現在の中心であるムルデカ広場周辺に加えてもう一地区ある。チョンデットというチリウオン川の上流である。ジャカルタ原住民ベタウィの住む地区である。このチョンデットを地区に指定するところにインドネシアの人たちの意識を窺うことができるだろう。

 今、ひとつのプロジェクトが動き出しつつある。立命館大学の佐々波秀彦氏を中心とするプロジェクトである。インドネシア全土の伝統的建築遺産、都市遺産の総目録をつくり、その再活性化をこれからの地域の町づくりの一貫として展開しようというのである。インドネシアの公共事業省とのジョイント・プログラムである。日本のこれまでの経験がどう生かされるかは、今後、こうしたジョイント・プログラムの中で問われていくことになろう。(布野修司)
ジャカルタ・コタ地区の都市遺産 ~再開発への提案~

                                  

京都大学アジア都市建築研究会

 

 冒頭に述べられたように、ジャカルタ市には都市保存課がつくられ、歴史的地区の再生がもくろまれている。その対象地区のひとつが、オランダの植民地都市バタヴィアの中心、今日のコタ地区である。ここには様々な年代のコロニアル建築が残っている。当時の植民都市の面影を現在も見ることができる数少ない場所である。デルフト工科大学のR.ギルらのチームが、当時の姿を取り戻そうと考えるのも不思議ではない。しかしながら、それが必ずしもコタあるいはジャカルタの発展に貢献するとは限らないと思う。もはや、コタはインドネシアのコタなのである。現在、京都大学アジア都市建築研究会でも、コタ地区の調査を行い、再生に向けて提案を行おうとしている。幸い研究会はコタ地区に関しては、第三者である。そこで、その利点を最大限に生かし、できるだけ冷静な立場でひとつの提案を行ってみたい。

 対象地区は歴史都市中心コタである。よって、ここで言う再開発とは歴史性の継承を大前提としながら、よりよい環境の提供を目指すものである。そこで、歴史性=歴史的景観とし、ハード面(都市構造、建築物、等)を中心に考察する。<都市景観>以外の補足的な視点として、<場所・建築の持つ歴史性>、<機能>を加える。次に各区域の歴史的地理的概要を述べ、つづいて地区ごとの提案を行ってみよう。

 

■コタの歴史的概観

 コタ地区は、東はカリ・チリウン、西はカリ・アンケ、南はアセムカ/プタック・バル通り、北は海岸線で囲まれた地域である。しかし、場所によってその歴史的性格や変化の度合いが異なるため、さらに細かい区域分けを行う(図1)。その判断は、歴史性以上に、空間性(緊密な全体を形成しているかどうか)によるところが大きい。

 

<ブントゥン・ブロック>

 この地区はオランダ時代のバタヴィアのもっとも古い地域を含み、北には城塞(    年完成)があった。その中にはオフィス、倉庫、兵器庫等があった。城塞の前には絞首台広場があり、その西にはディスペンスと呼ばれる東インド会社の倉庫(    完成)と兵器庫が、東には鉄鉱石の倉庫を備えた裁判所、厩舎、従業員地区、東インド会社の倉庫があった。その最も東に位置する4個の倉庫は、    年から    年の間に建設され、城壁の一部を形成していた。城塞の南にのびる道は、南の市庁舎広場、市庁舎へと続き、  世紀初めの都市構造において最も重要な要素となっていた。その当時は街はチリウン川(後のカリ・ブサール)の東までであった。今世紀初頭(    年から    年の間)には、鉄道高架橋が広場の南側に沿って建設された。    年には城塞運河が埋められ、その結果、城塞島の島としての特殊な形態は失われた。  世紀と  世紀の歴史的建築のうち、ディスペンスと東側の倉庫と鉄鉱石の貯蔵庫のいくつかが残っている。ディスペンスはインドネシア軍に使われ、倉庫と貯蔵庫は多用途の倉庫として、民間会社に使われている。この地区は現在はほとんど空であるにせよ主に倉庫によって再び埋め尽くされ、その間に小さなオフィスやワークショップが点在している。トンコル通りに沿って新しい建築が建ちはじめているものの、全体は散漫な印象である。しかし元の絞首台広場の場所には、印象的な高い木がまだいくつか存在する。

 

<ファタヒラ・ブロック>

 東側地区の規則的なブロックパターンは、都市軸として城塞と市庁舎をつなぐチュンク通りによって大きく縦に分割される。現在でこそコタ地区の東部に位置するものの、    年に遡れば、この軸は旧市街地の中心を走っていたことになる。ポス・コタ通り、ラダ通りは、かつては住宅地域であり、そこに面した住宅は東となりのクムカス通りまで奥行きがあった(約   m)が、現在その面影はない。市庁舎は3代目(    年完成)で監獄を備え、市庁舎正面のファタヒラ広場では処刑も行われた。広場の西側には十字型のオランダ教会(        )あるいはドームを冠した八角形平面の新教会(        )があった。東側には裁判(    年完成)が建ち、スニ・ルパ博物館として現存する。ファタヒラ・ブロック内の運河は  世紀末までには多くが埋められる。    年にはオランダの建築家ベルラーヘが「バタヴィアのための新都市計画                               」の一部として、現在のファタヒラ地域の開発計画を描いている。

 ほとんどの建物は今世紀前半に商業や公共目的の建物に立て替えられ、  世紀以前の歴史的建造物は、ジャカルタ歴史博物館、スニ・ルパ博物館、トゥー通りの角にある一連のオランダ住居、クニール通りあるいはピントゥ・ブサール通りに散在するいくつかの建物だけである。ファタヒラ広場の北東にはオランダ中国様式の住居群があったが、    年頃に壊され、現在は新しいコタ郵便局がある。

 ピサン市場があった北東部は、今世紀の変わり目に一掃され、倉庫地区となっている。ここには適当な排水設備がなく、スラム地区が鉄道とチリウン川沿いに発達している。チュンク通りの西側は、比較的質の高い建築やインフラがあるにもかかわらず、倉庫機能にしか使われていない。クニール通りは、以前はレーウィン運河で、現在もその形態を留める。ここで特徴的なのが異なる時代にわたる建築の存在である。それは近代主義建築や  世紀初期における古典的なオランダ様式の建築の例から、  世紀の中国オランダ様式住宅にまで及ぶ。またクニール通りは、コタ地区を東西に貫通する唯一の道路である。

 

<コタ駅ブロック>

 このブロックには、コタ地区に必要な施設(病院、アンバスクワルター(商業地区))があった。    年に完成した教会は、人々に生きて帰れないと恐れられており、「人殺しの住みか」として知られていた。    年に病院は閉まり、    年にジャワ銀行が建った。ブロックの東端がアンバスクワルターで、木工職人から鏡職人まであらゆる種類の商売があった。ここには労働者や技術職人として使われた奴隷が住んでいた。アンバスクワルターの機能は、オランダ東インド会社総督のダーンデルスによって    年に停止させられている。  世紀末には鉄道が引かれ、北バタヴィア駅と南バタヴィア駅の二つのターミナル駅が建てられた。北駅は市庁舎の南に接し、南駅は現在のコタ駅(    年)の場所にあった。

 一時はヨーロッパ風であったこの地区も、当時の街区と運河は完全に失われ、建築もほとんど残っていない。全体的に  世紀の建築で覆われている。    年代にはシラバンによってヌガラ・インドネシア銀行がブロック中央に建てられた。L型平面の5階建てで、幅   m、奥行   mの非常に大きな建築である。他にも、インドネシア銀行(旧ジャワ銀行、    年)、コタ駅(    年)、エキスポール・インポール銀行(    年)が挙げられるが、共通して、正面の幅が   mから   mの大きな街区に建てられた。アンバクスワルターのあった東端は、そのバックヤードのイメージを失っている。

 

<カリ・ブサール・ブロック>

 バタヴィアを西部に拡張する計画の一貫として、コタ地区で最も広い運河(ファサード間約  m)であるカリ・ブサールは    年に真っすぐに改修される。西カリ・ブサール通りの幅は、東の2倍の約  mで、非対称の空間を持っている。岸壁は荷積等に使われた。ここは、住宅地というより港の延長の色が濃く、船積みと貿易の中心になった。運河の北端部には造船所(VOCと中国人所有)とパサール(野菜・米市場、鶏市場)があった。現在その名残が「鶏市場橋(跳ね橋)」の名前に見られる。    年頃には多くのオランダ住居があった西カリ・ブサール通りの南ブロックは別として、ホスピタール橋と跳ね橋間の運河の両側は、ほとんど中国人が住んでいた。    年の中国人反乱の時に起こった中国人住居の炎上や、ポルトガル教会、オランダ新教会、ルーテル教会の撤去を経て、  世紀末までには、特徴的な密接に建ち並ぶ建築群が出来上がった。  世紀も後半になると、住居機能は失われ、商業地区へと変化してゆく。    年以降、以前の建築の再利用や内部改造といったものに替わって、銀行や保険会社、商社による建て替えが行われるようになる。  世紀の住宅の内、西カリ・ブサール通りに残るのはトコ・メラを含めて2、3軒であるが、変化後も新しい調和(スケールなどで)を生み出している。現在、西カリ・ブサール通りの北部にバタヴィアホテルが建てられている。主な躯体は6階建てで、八角形平面を持ち、ここでいちばん高くなる。八角形は通りのファサードラインから引いて建ち、2層の建築がギャップを埋める。このホテルがここの空間的イメージを壊すことは想像に難くない。

         

<マラッカ・ブロック>

 このブロックは歴史的には6つの街区を持ち、コピ通りで大きく南北に分かれる。そのうちで5個のブロックが中国人、ポルトガル人、オランダ人の住む住区であった。トコ・メラがある南東ブロックは、敷地の奥行が街区の幅(約   m)と等しく、裕福なヨーロッパ人の住居が建てられた。

 カリ・ブサール沿いの街区にはポルトガル教会と野菜・鶏市場があった。市場は    年の設立。その後、現在の形に向う(カリ・ブサール・ブロック参照)。西側の運河沿いの街区には、スピンハイス(紡績工の家、    年立て替え)や中国人病院(    破壊)、孤児院といった周辺機能が集中していた。その結果、ここはカンポン・ミスキン(貧困地区)となっていった。運河は  世紀末から  世紀の初頭にかけて埋められた。

 カリ・ブサールに面するところを除いては、この地区には  世紀以前の建築はほとんど残っていない。オルパ通りには上階が改築された形で多くの住宅が残っている。これは街の端という場所性のために関心と地位が集まらない結果である。この地区の建物は、平均的に3層であり、外観から    年から    年に建てられたことがわかる。多くは小中規模のオフィスであり、住宅機能とオフィス機能は密接な関係にある。この特徴的な関係はこの地区の小規模なワークショップ(修理工場)にも当てはまる。

 コピ通りは、例外的に5層の建物や銀行建築が見られるが、その形態は場所の性格と調和していない。また、アンケ運河に沿う西端(  世紀初頭に生まれた城壁跡地)には倉庫建築が並ぶ。ロア・マラッカ通りとチアン・ブンドラ通りにあった運河は  世紀初期に埋め立てられたが、その痕跡は現在も残っている。このブロックの都市構造は、比較的継承されたと言える。

 

<プンジャリンガン・ブロック>

 コタの北西部は、住居、ワークショップ、VOCの倉庫が混在している。この辺りはかつて作業島で、ブロックの北端には当時の「ナツメグの建物」(    、倉庫)が残る。  世紀には8軒の高床の木造倉庫が建てられた。  世紀中ごろには監視塔ができる。

 監視塔の南、カリ・ブサールの西堤防にそったところには様々なヤードが並んだ。VOCのヤードには、ワークショップ、社の作業員の宿舎等があった。中国人大工のヤードの隣には魚と米の市場があった。魚市場は    年に城壁の外のパサール・イカンに移動し、現在に至る。

 プンジャリンガン・ブロックの北部には、    年まで中国人などの非ヨーロッパ人が住んだ。鉄道高架が引かれたとき、マレイス運河(ヌラヤン通り)、スピンハイス運河(プンジャリンガン通り)が埋められた。当時の住居地区はほとんど消えてしまったが、現在は広くカンポンが広がる。アンケ運河沿いには、マラッカ・ブロック同様、倉庫が並ぶ。 このブロックでは、  世紀から  世紀にかけての倉庫建築がいくつか残る。  世紀の倉庫が、現在バハリ博物館として使われている。オランダ東インド会社の造船所が石油会社の倉庫に使われている。ディスペンスの反対側にある  世紀の倉庫は、状態が悪く一部カンポンになっている。

 この地区の都市構造は、鉄道高架の建設により損害を受けている。つまりそれは街路の分断である。

 

■再開発への提案

<スンダ・カラパ地区>

 すでにバハリ博物館やルックアウト・タワーが観光目的で保存されている。    世紀の倉庫やヤードは他にもいくつか存在する。こうした建築はバタヴィアだけでなくスンダ・カラパにまで遡る海洋都市のイメージを生むものであり、出来る限り再利用すべきである。機能的にはホテルや商店などの観光機能を支えるものが望ましい。

 

<ブントゥン地区>

 オランダ東インド会社がバタヴィアを建設する以前にも、土着の町であるスンダ・カラパ(註1)あるいはジャヤカルタが存在した。それらの資料は少なく、考古学的発掘とその研究が必要である。そこで、倉庫撤去後、研究教育施設を設立し、スンダ・カラパ地区とファタヒラ広場の中継地としての環境をめざす。この地区の南端にもプンジャリンガン同様湾岸道路が建設されるため、ディスペンスやオランダ東インド会社の穀物倉庫等は撤去、あるいは移転を選択することになる。

 

<プンジャリンガン地区>

 ここでは伝統的な街区システムが失われ、カンポンと倉庫で埋め尽くされている。南端で港湾道路が建設されつつあるが、カンポン改善とからめ、低中層の住宅地にすることが考えられる。敷地割に関しては自由度を持たせる。

 

<パサール・ピサン地区>

 歴史性の高い建築はなく、倉庫や不良な住宅等は撤去し中層の住宅地とするのも一案である。

 

<ファタヒラ広場>

 現時点でも歴史的空間としての認識は深く、市庁舎等が保存されている。ここは歴史都市コタの象徴として保存修景を行う。広場からの景観を考慮し、次の事を提案する。

1.広場に接する建築の保存修景

2.広場へつながる道路に面した建築の保存修景(特にカリブサールとの連絡道)

3.広場の「囲込み」性の回復

 

<カリ・ブサール地区>

 この地区はファタヒラ広場同様に、保存修景地区とする。この都市景観の特徴は、対岸へのパースペクティブである。カリ・ブサールの幅が  m(シャンゼリゼは  m)と大きいので、町並みを遠目に眺められるのである。この特徴は

1.ファサードの幅と高さの規制

2.ファサード面の統一。セットバック等の禁止

3.建築デザインの規制(屋根形状、開口比率、素材、色彩、等)、等

によって維持される。

 

<マラッカ地区>

 ここはビジネス地区としての性格を強めつつある一方で、住宅や職住一致型のワークショップも多く見られる。建築もほとんどが  世紀に建てられていることから、商業と居住の機能の混在と自由な発展を認める。

 

<コピ通り/クニール通り>

 この二つの通り沿いは、周囲と性格が異なるため特別に扱う。ここは、異なる時代性をもった建築の存在と、商業地区という二つの性格を持つ。しかし、都市景観の視点からの価値は低いので、部分的保存が望ましい。すなわち、建築単体での保存を行う一方で、それ以外は商業地区として自由な開発を認める。 

 

<コタ駅地区>

 このブロックは、ビジネス地区であるカリ・ブサール地区と南に接するグロドック地区の中間に位置することから、現在のビジネス地区としての性格は継続されて良い。ハード面では、比較的大きなスケールの建築とオープンスペースによって特徴付けられ、近代的な都市景観を見せている。さらに南に接するグロドック地区には、すでに大規模なショッピングセンターがあり、グロドック地区と共にビジネスあるいは商業機能を持つ大規模建築による開発が許される。また、ここには駅や幹線道路が集中し、コタ地区の表玄関としての性格と交通問題を提供している。コタ駅の移転問題もあり、駅舎の再利用(観光センター、等)と交通整備を含め、近代コタの象徴となる総合的な計画が求められる。

 

 以上、各地区ごとの再開発の方向性を、ハード面を中心に提案したが、当然それだけでは不完全である。例えば、現在のコタ地区の生活環境は決して良いものではなく、その改善(上下水道・ごみ収集システムの整備、運河の水質の改善、交通問題、等)が早急に求められている。そこで、ソフト面での必要事項を挙げて、まとめとしたい。

1.研究者の育成ならびに研究施設の充実

2.歴史的地区ごとの再開発実行委員会の設立

3.住民の受け皿としての住民組織の結成

4.デザイン・コード、建築規制の作成

5.財政上の支援体制の充実












2022年6月16日木曜日

ジャカルターーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,1994年2月

ジャカルターーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at19942


インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

                                           

Ⅳ ジャカルタ       

                                    京都大学アジア都市建築研究会

 

 バタヴィアのモデルになったのはアムステルダムだと言われる。しかし、その運河のパターンを見るとアムステルダムより、デルフトに近い。オランダの都市計画思想がバタヴィア建設の背後にあるのは疑いの無いところだ。

 ひとりのオランダの都市計画家の名前が浮かんでくる。サイモン・スティーブン              である。彼は一五四八年生まれで一六二〇年に死んだ。コルネリス・ド・ハウトマンが艦隊を率いて西ジャワ、バンテンに到達したのが一五九六年六月であり、オランダ東インド会社総督J・P・クーンがポルトガル支配下にあったジャヤカルタを占拠したのが一六一九年五月三〇日のことである。まさにバタヴィア建設が開始されたその時期に生きた理論家であった。

 サイモン・スティーブンは、理想の港湾都市の計画を発表した。一五九〇年のことだ。バタヴィアの建設に当たってJ・P・クーンらが参照した可能性は大いにある。サイモン・スティーブン自身がバタヴィアの設計を行ったという説もあるくらいだ。彼の専門は港湾都市の計画であり、そのモデルは、アムステルダムやアントワープのような実在の都市であったとされる。

 サイモン・スティーブンのモデルは、長方形をしており市壁で囲まれている。その外側には市壁に沿って堀が巡らされる。街路パターンは、グリッド・パターンである。そして、市内にも運河が引き込まれ、これまたグリッド状に張り巡らされる。港湾都市の繁栄の鍵はウオーターフロントにあるというのが彼の主張であり、運河に沿って商業施設を配するのが基本なのである。運河も市壁も延長可能なように計画されており、運河に沿ってすぐ隣接して市域を拡大できるし、郊外の住宅地へとつなげることもできる。チリウオン川に沿ったバタヴィアの建設もまさにその理念にもとづいている。もちろん、サイモン・スティーブンのプランとバタヴィアのプランが全く同じというわけではない。しかし、運河を縦横に走らすその基本コンセプトは明らかに同じなのである。

 サイモン・スティーブンのモデルは、オランダのみならず、デンマークやスエーデンでも採用される。コペンハーゲンの新たな開発がサイモン・スティーブンに従って開始されたのは一六四〇年のことであり、スエーデン国王、グスタフ二世アドルフスによって新港湾都市建設のキャンペーンが開始され出したのが一六二〇年代のことである。イエーテボリが最初であり、一六四〇年代初頭にストックホルムが再計画されている。バタヴィアは世界最先端の港湾都市として計画されたことになる。

 ストックホルムの場合、グリッド・パターンはオランダの商業覇権を思わせるというので放棄される。それ以後、流行するのは放射状のパターンである。バロックの都市計画が支配的になっていったのであった。

 ジャカルタで今保存が問題になっているのは、この当初建設されたコタ地区である。そして、現在の中心であるムルデカ広場周辺、メンテン地区である。さらにあまり知られないが、もう一地区ある。チョンデットというチリウオン川の上流である。ジャカルタ原住民ベタウィの住む地区である。(布野修司)

 


ジャカルタとその都市遺産 

                              

ウイスヌ・アルジョ(ジャカルタ市都市保存課)

                                                                                

 

 インドネシア共和国の首都ジャカルタは、ジャワ島西部の北海岸に位置し、東南アジアでも最大級の都市である。人口は1千万人以上ともいわれ、インドネシアの政治と経済の中心地であるとともに、対外的にはインドネシアの表玄関であり、その果たす役割は大きい。市街地は南北におよそ20kmにわたって細長く発達し、北のジャワ海に面する。ジャカルタの地図を広げてみると、そのほぼ中心にムルデカ広場を探すことができる。ジャカルタはこの広場を中心に、その周辺の官庁街、その北部の商業・金融地区  コタ      、南部の住宅・文教地区の三つの地域から構成される。各地域とも、大通りに面してはホテルやオフィスといった大型の近代建築が並び、その裏側にカンポン(都市内集落、住宅地)が広がっている。

 ジャカルタを実際に巡ってみると、こうした近代的な建築の間に、ヨーロッパ風のコロニアル建築を見つけることができる。ジャカルタ全体を見ると、コロニアル建築の集中する地域は、北部のコタ地区とムルデカ広場周辺の二ヶ所である。かつてのバタヴィアの中心地と新中心地ウェルトフレーデンの場所である。

 

ジャカルタの形成

 

 現在のジャカルタの都市的発展は、    年にオランダ東インド会社総督J・P・クーンがジャヤカルタの地に商館を建てたことに始まる。 年後、ジャヤカルタを占領、破壊するとすぐさまバタヴィアの建設に着手し、    年にはほぼ完成する。運河と城壁に囲まれた長方形の市街地は、チリウン川によって東西に二分され、北東部には四つの突起を持った星型のバタヴィア城が位置する。ここには事務所、倉庫、上級職員の居住区、兵舎、小さな教会などがあった。市街地内では中世オランダ風の町づくりがなされ、縦横に運河が走り、隣接した建物がそうした運河に面して建ち並んでいた。そしてバタヴィア城を南に下ったところには市街地の中心地として広場が設けられ、それを囲むように市庁舎、教会、病院などが建てられた。

 建設当初は、オランダ人、奴隷、チャイニーズ、日本人、イギリス人などの多くの民族による複合社会が形成されていたが、しだいにオランダ人以外のほとんどの民族は城外に移住させられるようになり、民族ごとに独自のカンポンを形成していった。同時に町から 時間ほどのところにバタヴィアを囲むように要塞が設置され、そこに通じる運河や道路が建設された。東のアンチョール       、南東のジャカトラ         とノードウェイク           、南のレイスウェイク          、西のアンケー       である。    年にはさらに外側に要塞が置かれ、これによりバタヴィアを中心として二つの同心円が形成されたことになる。この頃から現地諸民族やチャイニーズの手によって、後背地の開発が盛んに進められ、バタヴィアの食糧生産地である第一の円と、その外側の輸出用砂糖生産地という構図ができあがる。また、ヨーロッパ人もカントリーハウスを建設し、郊外に居住するようになる。その良い例を、現在の国立公文書館に見ることができる。

 このようにオランダの町すなわちアムステルダムを模倣したとされるバタヴィアは、一時は「東洋の女王」と呼ばれるほど反映を極めるが、    年の突然の死亡率の上昇以降衰退の一途をたどる。もとよりオランダ式の町は、運河が埋まりやすく、住居は換気が悪いといったように、熱帯に適応しにくいものであったが、    年の火山噴火や、砂糖栽培のための後背地の乱開発がチリウン川の排水系を破壊し、バタヴィアの不衛生化をさらに促進する大きな要因となったとされる。

 こうして「東洋の墓場」とまで呼ばれるようになったバタヴィアに代わり、  世紀末には後背地への中心の移動が始まった。ウェルトフレーデンと呼ばれるこの新しい中心地の建設は、総督ダーンデルスによって計画される。中心にウォーターループレイン[現バンテン広場]が設けられ、その前に総督府(    竣工)が建設された。またカトリック教会(    年完成、現存するものは    年再建)や、現在の最高裁判所など、ムルデカ広場を囲む今日のジャカルタ中心部の原型が作られてゆく。途中(    年~    年)、イギリスの統治下に入るが、計画に大きな変更はされていない。残された旧市街地には中国人が残り、チャイナタウンとなって商業地区の性格を強めていくことになる。

   世紀を通じて、町はさらに拡大していく。チリウン川の洪水を制御するために町の東西に新しい運河が建設された。また南部が積極的に開発されると共に、    年には従来の港の キロ東にあるタンジュン・プリオクで新港の建設が始まった。その結果、ジャカルタは南北に長い典型的な直線都市として発達してゆく。    年にはバタヴィア、バイデルゾルフ[現ボゴール]間に鉄道が開通し、郵便局、電信局、電話局といった近代的通信施設も設置された。こうして次々と新しいインフラストラクチャーを備えながら、ジャカルタは近代都市へと発展してゆく。しかし、政府はヨーロッパ人のためにできており、こうした設備の恩恵は彼らのみが享受できるものであった。インドネシア人にとってはカンポンが生活の場であり、運河が日常の便宜を与えてくれるものであった。

  植民地経営を通じて、その宗主国は植民地に多くの問題を残していったが、その反面、良質な建築遺産も形成したのである。開発の波が押し寄せ、そうした遺産が今後の方向性を求められている現在、保存という一つの解答が検討されている。

 現在ジャカルタには、保存が決定され、改修・再利用されている建築がいくつか存在する。カントリー・ハウスであった国立公文書館や、財務局、海運総局などは、国の施設として利用されている。観光と結びついたものとしては、   庁舎であったジャカルタ歴史博物館、倉庫であったバハリ博物館、コタ地区を流れるカリ・ブサール運河に架かる跳ね橋などが挙げられる。ジャカルタ・マスタープランでは、ジャカルタ歴史博物館があるコタ地区東部を保存地区として捉え、地域計画で緩やかな建築の高さ規制などを制定しているが、どれも概念的な提示であり、将来像についての明確な示唆は見られない。現在行われている保存も、断片的に行われており、いきあたりばったりといった感が強い。

 今後の方向性として、体系的な保存が求められるであろうが、そこにはジャカルタ全体の将来像が必要となる。コロニアル建築が、インドネシアの都市を色づける要素として確実に定着したとき、ジャカルタは真にインドネシアの首都となっているのではないだろうか。

 

歴史的地域

 

1.コタ地区

 海に北面したこの地区の範囲は、東西にはチリウン川からアンケ運河まで、南はグロドック地区までであり、建設当初のバタヴィア市域にあたる。現在は、商業地区の性格を持っている。開発があまりなされなかったため、ここにはかなりのコロニアル建築が現存する。特に中央を真っ直ぐに北進するカリ・ブサール(大運河)の両側には各時代のコロニアル建築が隣接して並び、さながらオランダの町並みを思わせるほどである。なかでも最も古い建築は    年代に建てられたトコ・メラ            である。もとはファン・イムホフによって建設された平入り二階建ての邸宅であり、保存状態も良い。このように良好な状態で保存されているものがある反面、取り壊しの危機に直面しているものも多く、町並みとしての価値が薄れつつある。

 カリ・ブサール運河の東部はバタヴィア時代の中心地であり、ファタヒラ広場周辺には、ジャカルタ歴史博物館、芸術絵画博物館                 、郵便電話局、ワヤン博物館といった建築が現存し、歴史的な景観をよく残している。そのすぐ南部にはコタ駅を中心として、インドネシア銀行やブミ・ダヤ銀行といった比較的新しい建築が並ぶ。運河の西部はバタヴィア時代の町割りは残すものの、良質のコロニアル建築はほとんど見られない。北部には倉庫が博物館として活用されたバハリ博物館があるが、全体的には、状態の悪い倉庫群とカンポンで占められている。北部の発展が遅れている理由に、東西に走るジャワ鉄道によって南部と分断されたことが挙げられる。  世紀初頭のVOCの倉庫が現存しているが、保存状態は悪く、対策も施されていない。

 コタ地区南部はチャイナタウンとして完全にその姿を変えている。ピントゥ通りにはショップハウスが軒を並べ、活気のある商業地区を形成している。パンチョラン通りとの交差点には、大型のグロドック・ショッピングセンターがあり、コタ地区の南端を象徴している。

 

2.ムルデカ広場周辺

 今日のジャカルタの政治的中心地であるこの地区には、その政治的機能と結びつく形で歴史的建築が残っている。バンテン広場の東には、広場に面して旧総督府[現財務局]がある。この建築はダーンデルスによって、アンピール様式で計画され、母屋の両側に大きな門でつながれた別棟を持っている。バンテン広場に残るもう一つの建物は    年に建てられた最高裁判所で、ネオクラシック様式である。旧総督府の北側にあたり、前面の神殿風のポーチコが特徴的である。つづいて旧総督府の前の道を北上すると、グダン・ケセニアン通りとポス通りの角に旧バタヴィア劇場が見つかる。これは    年にアンピール様式で建設されたものである。

 コタ地区からガジャ・マダ通りを南に下るとムルデカ広場に出る。この一辺 キロにも及ぼうかというムルデカ広場の北側にあるのが大統領官邸である。正面にはコリント式の柱を備えた幅の広いポーチコが広がっている。この官邸の裏側にはベテラン通りに面して、美しい  世紀のカントリー・ハウスが残っている。ムルデカ広場の東側、ガンビール駅の正面にはイマニュエル教会が位置する。J.H.ホースト設計によるこの教会は、高い基壇の上に円形の平面を持ち、ドリス式の柱がポーチコに並ぶ。さらに広場の西側には、ドリス式のポーチコを備えた典型的なネオクラシック様式の国立博物館がある。

 中心に独立記念塔を備えたムルデカ広場は、もともとは後の開発のために保留された場所であるが、コロニアル建築が現在の国家的な機能を備えてその周辺に比較的数多く残っていることもあり、現在はむしろジャカルタの中心として象徴的な空間を生み出している。

 

3.その他の地域のコロニアル建築

 コタ地区とムルデカ広場周辺以外で特筆すべき建築は、国立公文書館とチキニ病院女子寮である。国立公文書館はコタ地区とムルデカ広場のほぼ中間、ガジャ・マダ通りの西側に位置している。    年建設のカントリー・ハウスで、ヨーロッパ人がバタヴィアから移住し始めた頃の住居の様子を示す良い例である。ド・クレルクによって建設された二階建ての建物であるが、正面に庭園を配し、街道からやや離れるように建設された。オランダのオリジナルと比べると、軒の出が深い上、窓が小さく天井も高くなっているが、これは熱帯の気候に適するように工夫されたものである。

 ムルデカ東通りをしばらく南に下ると、ラデン・サレ通りと交差する。その通りにチキニ病院女子寮はある。スマラン出身の画家、ラデン・サレが    年建てた自邸で、フランス・ネオ・ゴシック様式の建物である。ファサードは非常に装飾的であり、ロマンティクな様相を持っている。

(訳 堀 喜幸)