ジャカルタ・コタ地区ーーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,199403
建築の大航海
コロニアル建築
インドネシア 1870~1945
V ジャカルタ・コタ地区・・・総括編
京都大学アジア都市建築研究会
本特集を「インドネシア1870~1945」としたのは、H.アキハリの本『インドネシアの建築と都市』(参考文献参照)が下敷きになっているからであるが、その本は「1870~1970」と実はなっている。小著だけれど、戦後に第一世代のインドネシア建築家が登場するまでが一応押さえてある(1870年というのは、農地法と土地二法が制定され、強制栽培制度が漸次廃止されるとともに法人プランテーションによる植民地化が本格的に進行していく年である。もちろん、それ以前、19世紀の動向にも触れられてはいる)。われわれの関心も、一方で、インドネシア建築家たちがオランダによって移植された建築の伝統を如何に継承して行こうとするかにある。
インドネシアの建築家たちにとって、その伝統とコロニアル建築の関係をどう考えるかは極めて重大な問題である。インドネシア建築史学会が設立されたのは1988年のことだが、インドネシア建築の伝統をどう考えるかをめぐって大議論となったと何人からも聞いた。基本的にオランダの影響も自らの伝統として認めるというのが穏当な結論のようだけれど、一方で、J.シラスもいうように(連載第1回 年 月号)インドネシアの独自の試みを評価したいというのが本音としてはある。
ところで、都市遺産の保存の問題は極めて具体的である。早急に手を打つ必要性を訴えたのは見るところ、R.ギル(デルフト工科大学)のようなオランダの建築家、学者たちである。欧米の大学には、保存やリノベーションを専門とする講座が数多く出来つつあるのであるが、彼のところもそうだ。彼の学生たちはジャカルタのコタ地区についてサーヴェイして一冊の報告書をものしている。
R.ギルとは会って話したことがあるのであるが、どうしてもノスタルジックな臭いがつきまとう。オランダ人たちが暮らしてきた記憶を保存したいというニュアンスがどうしてもしてしまう。バタヴィア城を復元しようというのもオランダ的である。インドネシアの建築家、都市計画家たちはバタヴィア城の復元にはいささか批判的である。
ジャカルタ市には全国に先駆けて都市保存課がつくられた。歴史的な地区の再生が目的である。そのターゲットはコタ地区だけではない。前回触れたように、ジャカルタで今保存が問題になっているのは、この当初建設されたコタ地区と現在の中心であるムルデカ広場周辺に加えてもう一地区ある。チョンデットというチリウオン川の上流である。ジャカルタ原住民ベタウィの住む地区である。このチョンデットを地区に指定するところにインドネシアの人たちの意識を窺うことができるだろう。
今、ひとつのプロジェクトが動き出しつつある。立命館大学の佐々波秀彦氏を中心とするプロジェクトである。インドネシア全土の伝統的建築遺産、都市遺産の総目録をつくり、その再活性化をこれからの地域の町づくりの一貫として展開しようというのである。インドネシアの公共事業省とのジョイント・プログラムである。日本のこれまでの経験がどう生かされるかは、今後、こうしたジョイント・プログラムの中で問われていくことになろう。(布野修司)
ジャカルタ・コタ地区の都市遺産 ~再開発への提案~
京都大学アジア都市建築研究会
冒頭に述べられたように、ジャカルタ市には都市保存課がつくられ、歴史的地区の再生がもくろまれている。その対象地区のひとつが、オランダの植民地都市バタヴィアの中心、今日のコタ地区である。ここには様々な年代のコロニアル建築が残っている。当時の植民都市の面影を現在も見ることができる数少ない場所である。デルフト工科大学のR.ギルらのチームが、当時の姿を取り戻そうと考えるのも不思議ではない。しかしながら、それが必ずしもコタあるいはジャカルタの発展に貢献するとは限らないと思う。もはや、コタはインドネシアのコタなのである。現在、京都大学アジア都市建築研究会でも、コタ地区の調査を行い、再生に向けて提案を行おうとしている。幸い研究会はコタ地区に関しては、第三者である。そこで、その利点を最大限に生かし、できるだけ冷静な立場でひとつの提案を行ってみたい。
対象地区は歴史都市中心コタである。よって、ここで言う再開発とは歴史性の継承を大前提としながら、よりよい環境の提供を目指すものである。そこで、歴史性=歴史的景観とし、ハード面(都市構造、建築物、等)を中心に考察する。<都市景観>以外の補足的な視点として、<場所・建築の持つ歴史性>、<機能>を加える。次に各区域の歴史的地理的概要を述べ、つづいて地区ごとの提案を行ってみよう。
■コタの歴史的概観
コタ地区は、東はカリ・チリウン、西はカリ・アンケ、南はアセムカ/プタック・バル通り、北は海岸線で囲まれた地域である。しかし、場所によってその歴史的性格や変化の度合いが異なるため、さらに細かい区域分けを行う(図1)。その判断は、歴史性以上に、空間性(緊密な全体を形成しているかどうか)によるところが大きい。
<ブントゥン・ブロック>
この地区はオランダ時代のバタヴィアのもっとも古い地域を含み、北には城塞( 年完成)があった。その中にはオフィス、倉庫、兵器庫等があった。城塞の前には絞首台広場があり、その西にはディスペンスと呼ばれる東インド会社の倉庫( 完成)と兵器庫が、東には鉄鉱石の倉庫を備えた裁判所、厩舎、従業員地区、東インド会社の倉庫があった。その最も東に位置する4個の倉庫は、 年から 年の間に建設され、城壁の一部を形成していた。城塞の南にのびる道は、南の市庁舎広場、市庁舎へと続き、 世紀初めの都市構造において最も重要な要素となっていた。その当時は街はチリウン川(後のカリ・ブサール)の東までであった。今世紀初頭( 年から 年の間)には、鉄道高架橋が広場の南側に沿って建設された。 年には城塞運河が埋められ、その結果、城塞島の島としての特殊な形態は失われた。 世紀と 世紀の歴史的建築のうち、ディスペンスと東側の倉庫と鉄鉱石の貯蔵庫のいくつかが残っている。ディスペンスはインドネシア軍に使われ、倉庫と貯蔵庫は多用途の倉庫として、民間会社に使われている。この地区は現在はほとんど空であるにせよ主に倉庫によって再び埋め尽くされ、その間に小さなオフィスやワークショップが点在している。トンコル通りに沿って新しい建築が建ちはじめているものの、全体は散漫な印象である。しかし元の絞首台広場の場所には、印象的な高い木がまだいくつか存在する。
<ファタヒラ・ブロック>
東側地区の規則的なブロックパターンは、都市軸として城塞と市庁舎をつなぐチュンク通りによって大きく縦に分割される。現在でこそコタ地区の東部に位置するものの、 年に遡れば、この軸は旧市街地の中心を走っていたことになる。ポス・コタ通り、ラダ通りは、かつては住宅地域であり、そこに面した住宅は東となりのクムカス通りまで奥行きがあった(約 m)が、現在その面影はない。市庁舎は3代目( 年完成)で監獄を備え、市庁舎正面のファタヒラ広場では処刑も行われた。広場の西側には十字型のオランダ教会( - )あるいはドームを冠した八角形平面の新教会( - )があった。東側には裁判( 年完成)が建ち、スニ・ルパ博物館として現存する。ファタヒラ・ブロック内の運河は 世紀末までには多くが埋められる。 年にはオランダの建築家ベルラーヘが「バタヴィアのための新都市計画
」の一部として、現在のファタヒラ地域の開発計画を描いている。
ほとんどの建物は今世紀前半に商業や公共目的の建物に立て替えられ、 世紀以前の歴史的建造物は、ジャカルタ歴史博物館、スニ・ルパ博物館、トゥー通りの角にある一連のオランダ住居、クニール通りあるいはピントゥ・ブサール通りに散在するいくつかの建物だけである。ファタヒラ広場の北東にはオランダ中国様式の住居群があったが、 年頃に壊され、現在は新しいコタ郵便局がある。
ピサン市場があった北東部は、今世紀の変わり目に一掃され、倉庫地区となっている。ここには適当な排水設備がなく、スラム地区が鉄道とチリウン川沿いに発達している。チュンク通りの西側は、比較的質の高い建築やインフラがあるにもかかわらず、倉庫機能にしか使われていない。クニール通りは、以前はレーウィン運河で、現在もその形態を留める。ここで特徴的なのが異なる時代にわたる建築の存在である。それは近代主義建築や 世紀初期における古典的なオランダ様式の建築の例から、 世紀の中国オランダ様式住宅にまで及ぶ。またクニール通りは、コタ地区を東西に貫通する唯一の道路である。
<コタ駅ブロック>
このブロックには、コタ地区に必要な施設(病院、アンバスクワルター(商業地区))があった。 年に完成した教会は、人々に生きて帰れないと恐れられており、「人殺しの住みか」として知られていた。 年に病院は閉まり、 年にジャワ銀行が建った。ブロックの東端がアンバスクワルターで、木工職人から鏡職人まであらゆる種類の商売があった。ここには労働者や技術職人として使われた奴隷が住んでいた。アンバスクワルターの機能は、オランダ東インド会社総督のダーンデルスによって 年に停止させられている。 世紀末には鉄道が引かれ、北バタヴィア駅と南バタヴィア駅の二つのターミナル駅が建てられた。北駅は市庁舎の南に接し、南駅は現在のコタ駅( 年)の場所にあった。
一時はヨーロッパ風であったこの地区も、当時の街区と運河は完全に失われ、建築もほとんど残っていない。全体的に 世紀の建築で覆われている。 年代にはシラバンによってヌガラ・インドネシア銀行がブロック中央に建てられた。L型平面の5階建てで、幅 m、奥行 mの非常に大きな建築である。他にも、インドネシア銀行(旧ジャワ銀行、 年)、コタ駅( 年)、エキスポール・インポール銀行( 年)が挙げられるが、共通して、正面の幅が mから mの大きな街区に建てられた。アンバクスワルターのあった東端は、そのバックヤードのイメージを失っている。
<カリ・ブサール・ブロック>
バタヴィアを西部に拡張する計画の一貫として、コタ地区で最も広い運河(ファサード間約 m)であるカリ・ブサールは 年に真っすぐに改修される。西カリ・ブサール通りの幅は、東の2倍の約 mで、非対称の空間を持っている。岸壁は荷積等に使われた。ここは、住宅地というより港の延長の色が濃く、船積みと貿易の中心になった。運河の北端部には造船所(VOCと中国人所有)とパサール(野菜・米市場、鶏市場)があった。現在その名残が「鶏市場橋(跳ね橋)」の名前に見られる。 年頃には多くのオランダ住居があった西カリ・ブサール通りの南ブロックは別として、ホスピタール橋と跳ね橋間の運河の両側は、ほとんど中国人が住んでいた。 年の中国人反乱の時に起こった中国人住居の炎上や、ポルトガル教会、オランダ新教会、ルーテル教会の撤去を経て、 世紀末までには、特徴的な密接に建ち並ぶ建築群が出来上がった。 世紀も後半になると、住居機能は失われ、商業地区へと変化してゆく。 年以降、以前の建築の再利用や内部改造といったものに替わって、銀行や保険会社、商社による建て替えが行われるようになる。 世紀の住宅の内、西カリ・ブサール通りに残るのはトコ・メラを含めて2、3軒であるが、変化後も新しい調和(スケールなどで)を生み出している。現在、西カリ・ブサール通りの北部にバタヴィアホテルが建てられている。主な躯体は6階建てで、八角形平面を持ち、ここでいちばん高くなる。八角形は通りのファサードラインから引いて建ち、2層の建築がギャップを埋める。このホテルがここの空間的イメージを壊すことは想像に難くない。
<マラッカ・ブロック>
このブロックは歴史的には6つの街区を持ち、コピ通りで大きく南北に分かれる。そのうちで5個のブロックが中国人、ポルトガル人、オランダ人の住む住区であった。トコ・メラがある南東ブロックは、敷地の奥行が街区の幅(約 m)と等しく、裕福なヨーロッパ人の住居が建てられた。
カリ・ブサール沿いの街区にはポルトガル教会と野菜・鶏市場があった。市場は 年の設立。その後、現在の形に向う(カリ・ブサール・ブロック参照)。西側の運河沿いの街区には、スピンハイス(紡績工の家、 年立て替え)や中国人病院( 破壊)、孤児院といった周辺機能が集中していた。その結果、ここはカンポン・ミスキン(貧困地区)となっていった。運河は 世紀末から 世紀の初頭にかけて埋められた。
カリ・ブサールに面するところを除いては、この地区には 世紀以前の建築はほとんど残っていない。オルパ通りには上階が改築された形で多くの住宅が残っている。これは街の端という場所性のために関心と地位が集まらない結果である。この地区の建物は、平均的に3層であり、外観から 年から 年に建てられたことがわかる。多くは小中規模のオフィスであり、住宅機能とオフィス機能は密接な関係にある。この特徴的な関係はこの地区の小規模なワークショップ(修理工場)にも当てはまる。
コピ通りは、例外的に5層の建物や銀行建築が見られるが、その形態は場所の性格と調和していない。また、アンケ運河に沿う西端( 世紀初頭に生まれた城壁跡地)には倉庫建築が並ぶ。ロア・マラッカ通りとチアン・ブンドラ通りにあった運河は 世紀初期に埋め立てられたが、その痕跡は現在も残っている。このブロックの都市構造は、比較的継承されたと言える。
<プンジャリンガン・ブロック>
コタの北西部は、住居、ワークショップ、VOCの倉庫が混在している。この辺りはかつて作業島で、ブロックの北端には当時の「ナツメグの建物」( 、倉庫)が残る。 世紀には8軒の高床の木造倉庫が建てられた。 世紀中ごろには監視塔ができる。
監視塔の南、カリ・ブサールの西堤防にそったところには様々なヤードが並んだ。VOCのヤードには、ワークショップ、社の作業員の宿舎等があった。中国人大工のヤードの隣には魚と米の市場があった。魚市場は 年に城壁の外のパサール・イカンに移動し、現在に至る。
プンジャリンガン・ブロックの北部には、 年まで中国人などの非ヨーロッパ人が住んだ。鉄道高架が引かれたとき、マレイス運河(ヌラヤン通り)、スピンハイス運河(プンジャリンガン通り)が埋められた。当時の住居地区はほとんど消えてしまったが、現在は広くカンポンが広がる。アンケ運河沿いには、マラッカ・ブロック同様、倉庫が並ぶ。 このブロックでは、 世紀から 世紀にかけての倉庫建築がいくつか残る。 世紀の倉庫が、現在バハリ博物館として使われている。オランダ東インド会社の造船所が石油会社の倉庫に使われている。ディスペンスの反対側にある 世紀の倉庫は、状態が悪く一部カンポンになっている。
この地区の都市構造は、鉄道高架の建設により損害を受けている。つまりそれは街路の分断である。
■再開発への提案
<スンダ・カラパ地区>
すでにバハリ博物館やルックアウト・タワーが観光目的で保存されている。 、 世紀の倉庫やヤードは他にもいくつか存在する。こうした建築はバタヴィアだけでなくスンダ・カラパにまで遡る海洋都市のイメージを生むものであり、出来る限り再利用すべきである。機能的にはホテルや商店などの観光機能を支えるものが望ましい。
<ブントゥン地区>
オランダ東インド会社がバタヴィアを建設する以前にも、土着の町であるスンダ・カラパ(註1)あるいはジャヤカルタが存在した。それらの資料は少なく、考古学的発掘とその研究が必要である。そこで、倉庫撤去後、研究教育施設を設立し、スンダ・カラパ地区とファタヒラ広場の中継地としての環境をめざす。この地区の南端にもプンジャリンガン同様湾岸道路が建設されるため、ディスペンスやオランダ東インド会社の穀物倉庫等は撤去、あるいは移転を選択することになる。
<プンジャリンガン地区>
ここでは伝統的な街区システムが失われ、カンポンと倉庫で埋め尽くされている。南端で港湾道路が建設されつつあるが、カンポン改善とからめ、低中層の住宅地にすることが考えられる。敷地割に関しては自由度を持たせる。
<パサール・ピサン地区>
歴史性の高い建築はなく、倉庫や不良な住宅等は撤去し中層の住宅地とするのも一案である。
<ファタヒラ広場>
現時点でも歴史的空間としての認識は深く、市庁舎等が保存されている。ここは歴史都市コタの象徴として保存修景を行う。広場からの景観を考慮し、次の事を提案する。
1.広場に接する建築の保存修景
2.広場へつながる道路に面した建築の保存修景(特にカリブサールとの連絡道)
3.広場の「囲込み」性の回復
<カリ・ブサール地区>
この地区はファタヒラ広場同様に、保存修景地区とする。この都市景観の特徴は、対岸へのパースペクティブである。カリ・ブサールの幅が m(シャンゼリゼは m)と大きいので、町並みを遠目に眺められるのである。この特徴は
1.ファサードの幅と高さの規制
2.ファサード面の統一。セットバック等の禁止
3.建築デザインの規制(屋根形状、開口比率、素材、色彩、等)、等
によって維持される。
<マラッカ地区>
ここはビジネス地区としての性格を強めつつある一方で、住宅や職住一致型のワークショップも多く見られる。建築もほとんどが 世紀に建てられていることから、商業と居住の機能の混在と自由な発展を認める。
<コピ通り/クニール通り>
この二つの通り沿いは、周囲と性格が異なるため特別に扱う。ここは、異なる時代性をもった建築の存在と、商業地区という二つの性格を持つ。しかし、都市景観の視点からの価値は低いので、部分的保存が望ましい。すなわち、建築単体での保存を行う一方で、それ以外は商業地区として自由な開発を認める。
<コタ駅地区>
このブロックは、ビジネス地区であるカリ・ブサール地区と南に接するグロドック地区の中間に位置することから、現在のビジネス地区としての性格は継続されて良い。ハード面では、比較的大きなスケールの建築とオープンスペースによって特徴付けられ、近代的な都市景観を見せている。さらに南に接するグロドック地区には、すでに大規模なショッピングセンターがあり、グロドック地区と共にビジネスあるいは商業機能を持つ大規模建築による開発が許される。また、ここには駅や幹線道路が集中し、コタ地区の表玄関としての性格と交通問題を提供している。コタ駅の移転問題もあり、駅舎の再利用(観光センター、等)と交通整備を含め、近代コタの象徴となる総合的な計画が求められる。
以上、各地区ごとの再開発の方向性を、ハード面を中心に提案したが、当然それだけでは不完全である。例えば、現在のコタ地区の生活環境は決して良いものではなく、その改善(上下水道・ごみ収集システムの整備、運河の水質の改善、交通問題、等)が早急に求められている。そこで、ソフト面での必要事項を挙げて、まとめとしたい。
1.研究者の育成ならびに研究施設の充実
2.歴史的地区ごとの再開発実行委員会の設立
3.住民の受け皿としての住民組織の結成
4.デザイン・コード、建築規制の作成
5.財政上の支援体制の充実