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2022年8月2日火曜日

居住と住居のあいだ, 対談 石山修武×布野修司,建築雑誌,日本建築学会,200704

 居住と住居のあいだ, 対談 石山修武×布野修司,建築雑誌,日本建築学会,200704

『建築雑誌』4月号特集「住むための機械の未来」

 対談

 

居住と住居のあいだ

 

 

石山修武[早稲田大学教授]

 

いしやま・おさむ

1944年生まれ/早稲田大学卒業/同大学院修了/著書に『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』ほか、共著に『都市・建築の現在』ほか/作品に「観音寺」ほか/「伊豆の長八美術館」で1985年吉田五十八賞、「リアスアーク美術館」で1995年学会賞(作品)受賞ほか

 

 

布野修司[滋賀県立大学教授]

 

ふの・しゅうじ

1949年生まれ/東京大学卒業/同大学院修了/建築計画/工学博士/著書に『曼荼羅都市――ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』『世界住居誌』『近代世界システムと植民都市』ほか/作品に「スラバヤ・エコ・ハウス」ほか/1991年学会賞(論文)受賞 2006年都市計画学会論文賞受賞

 

 

[司会]

新堀 学[編集委員会幹事/新堀アトリエ主宰]

 

松村秀一[編集委員会委員長/東京大学教授]

 

「未来」への視線

新堀――今回の特集は「住むための機械の未来」と題しましたが、まず住宅というところをスタートラインにさせていただきます。

 今回の特集の動機自体を先にお話しさせていただきますと、住宅といった瞬間に思考停止状態に陥ってしまうようなところに少し危機感を持っています。

 例えば、ステレオタイプではない住み方の話、あるいは逆に住宅本来が持っていた考え方の可能性のようなものが見失われているところがあれば、それを発見したいし、あるいは「もう住宅じゃないんだ。生きるという現場でありさえすればいいんだ」という根本的な話でもかまいません。今日は住宅をめぐる現状の輪郭のようなものを押さえていければと思っております。

石山――最近住宅に関して書かれた本のなかで感銘を受けたのは、面と向かって言いますが、松村さんの本[1]でして、非常に面白かった。未来ということに関してこの本が傑作だったのは、最後の未来というところでガンツ構法というのがあるのかなと思ったら、これはないわけで、歴史的に書いているけれども非常にバーチャルな、でも非常にリアルなことを書いておられることですね。

 私はあの本のなかで、未来に関しての考えが非常にリアルだということに逆にびっくりしましたが、本誌でやるべきことは、意識的に楽観性を帯びてどれだけ語り合えるかということに尽きるのではないかと思っています。

松村――人の借り物で恐縮ですけど、ガンツ構法というのはSFに出てくるある種のバイオで、菌の粉のようなものを混ぜると勝手にかたちができていくアリ塚のようなものです。それを自由に操れるおじさんが出てきて、それがガンツと言います。その技術が広がって、森林のなかに入っていき、ブルドーザーで土をかき分けて、その粉を混ぜるとある種のシェルターができていくという構法の話です。

石山――これまでの評論やアカデミックな論述の枠に入っていないのです。今のバーチャルとリアルという大テーマの境界線を、かなり的確にスタイルをつかんでいたと思います。

布野――基本的に私は建築を学んだ最初から住宅にこだわって考えてきたつもりです。いま松村さんと石山さんがお話しされたことで多少関係がありそうだと思うのは、500年ぐらいのスケールで見たときに住宅とその集合、あるいは都市でもいいですが、どう見えるのかということですね。リモートセンシングでインテルサットから俯瞰すると、500年間の人類の居住の実験を見ることができるきた。人類は、住居の形、都市の形をさまざまにうみだしてきたわけです。そこにさまざまな可能性を見る必要がある。

 そのかたちに可能性がないとすると未来はないのではないか。人類が生まれてから住居や集落、都市をつくってきて、そのかたちに答えがないとしたら、未来も読めないのではないか。私はこの間、街区組織とか都市組織、都市型住宅のかたちがどうなるか、ヨーロッパよりアジアについて、ずっと関心をシフトさせていったわけです。

 最大の問題はやはり工業化で、人類の壮大な実験をゴチャゴチャにしてしまったのがこの150年ですね。

石山――先ほどの話とつなぐと、布野さんの考え方は、リアリズムのようなことからおっしゃっていますが、私はそれはもう限界だと思っています。飛躍といったことではなくて、意識したノン(?)フィクションのようなことをどうやって書いていけるかということに尽きると思うのです。それでガンツ構法ということを申し上げたわけです。

 例えば、住むための機械というと、普通われわれ古いインテリゲンチャたちはル・コルビュジエや、せいぜいダイマキシオンハウスなどを考えますが、その系列のなかでいま布野さんがおっしゃったようなことのなかだけで考えていくと、おそらくもう未来がない。

 一番とんがった機械というのは、例えば宇宙船で、地球から離れてフッと浮いて孤立してやっているわけですから、あれに住宅のスタイルを重ね合わせることに意味があるかといったら、これは全然ない。

 宇宙船というものに大変な意味があるとしたら、少し不思議な言い方になってしまいますが、初めて宇宙船で宇宙に出ていったときに宇宙飛行士たちやシステムエンジニアが感じたであろう地球との一体感だと思います。離れてみて、初めて「やっぱり、ちょっとヤバいぜ」という感じになる。それは地球環境や、そういう空疎な概念ではなくて、体や思想そのものでわかってしまったようなことを、おそらく宇宙船があの人たちにもたらしたのだろうと思います。私はああいうものの意味を認めるとしたら、機械というものの未来の可能性はあるのではないかと思います。

 だから松村さんがガンツ構法のリアルとアン・リアルの境目のことを書こうとした意欲と、宇宙船の意味のようなものは、意外と近寄っているのではないかと思いますね。例えば、われわれの共通の友人である大野勝彦さんの仕事(セキスイハイムM1[以下、M1])も非常に大事な仕事でしたが、「工業化の果てに」という捕まえ方ではなくて、もう少し視点をずらしてみると、社会的に共有化されるハコをつくれるのかどうかです。これははっきり言って、資本主義ではつくれないですね。

 でも、あのビジョンは一瞬のビジョンだったと思いますが、今でもそれは追いかける可能性は十分にありすぎる。それは彼が言っているガンツ構法と同じなのでしょうね。要するに希望の先としては、ああいうものが共有できるかどうかで、おそらく見果てぬ夢に終わるけれども、そういうものを共有できるかということに、今は焦点が絞られているのではないかと思います。

 

技術とビジョンの射程

松村――石山さんの開放系技術の世田谷村というのは、今のお考えのなかではどのような位置づけになるのでしょうか。

石山――ベースは剣持伶の規格構成材理論です。でも、それのリアリティは今はものすごくありすぎるので、私はもう少しビジョンの方に行こうと思って、それで開放系技術だと考えています。

 それをクローズドシステムなのかオープンシステムなのかという議論に行ってしまうと、もう何も生まないから、私はひとつの理想として「すでにあるものであるのだ」ということを言おうとしました。

布野――『群居』の出発点は、大野さんのハコ(セキスイハイムM1)ですね。都市組織、街区組織と言いましたが、おそらくそちらに行かないといけないという感じはあったわけです。だから「群居」なんです。

 石山さんの話をすると、社会的に共有されるハコへ行きたかったけれど、自分のうちを村にしてしまわざるを得なかったんじゃないですか。古い言い方だけど、個から全体へか、システムか、という議論はずっとあったけれど、結局、自分の家を村にせざるを得なかった、行くところに行ってしまったなという感じがある。そうすると、あえて開放と言わないといけなくなる。世界が閉じてしまっては困る。そういうふうに見えていたのですね。

 しかし、ハコのシステムで世界を覆うというのは原理的には無理ですが、ハコが「群居」する、そのさまざまなかたちにまだ可能性があるという言い方をもう少し議論する必要があると思います。

 日本の住宅はどうか、世界の住宅はどうなっていくかという話だと、個々の建築家のイリュージョンやビジョンといったことで完結しない話がおそらくあるわけでしょう、今回の特集でもね。だから社会主義リアリズムでもなんでもいいけれど(笑)、システム的に考えたときに、例えば、宇宙船の話でいうと、それが本当に完結、自立するのかという問題があるわけです。

石山――そうではなくて、宇宙船という即物をイメージしたら、もうそれでお終いなのですよ。宇宙船というメディアをきちんと思わないと。メディアというよりも、それを使っている人間、宇宙船という機械を使っている人間の方に主体を持っていって、彼にとって宇宙船とか地球はなんなんだろうかという視点がないと、布野さんが抽象的だと感じているようなビジョンは絶対に生まれない。

松村――石山さんがそういう考えになったのはいつごろですか。何か変わったんですか。

石山――最近ではないですが、21世紀になってからではないでしょうか。

松村――『群居』が終わってからですか。

石山――そうですね。自分でキーワードとして開放系と言ってみて、逆に、それに考え方がついていったというか。それとバーチャルなビジョンと両方を等価に見ていかないと、一番最初に申し上げたように可能性は見えてこないだろうということです。

 住宅とは何かとか、都市型住居の可能性といっても、日本で戸建て住宅の未来なんてありっこないのですから。でも、そうではないビジョンを得ようと思ったら、違う方法で見ていかないといけない。だから、先ほど私が「どうしても意図的に楽天的にならざるを得ない」と申し上げたのは、そういうことではないかと思っています。

 

機械と世界と

新堀――少しM1の話をさせてもらいます。今回の特集で中村政人さんという芸術家の方にインタビューしましたが、彼はM1をもう一度使いたいと言っているアーチストで、先ほど言われた話に戻りますと、「M1は無目的なハコというコンセプトの部分に立ち返れる。その自由さがすごく大事だ。なおかつ、それで世界を覆っていくというビジョンが明確に見えるじゃないか」とおっしゃるのです。M1ができ上がってからこれだけ経って、そこにもう一度立ち返ってくる人がいるということは、私にとってはすごくエキサイティングなことです。

私たちは住宅といったときに、敷地が当たり前にあって、そこに対してお金を出して、買い物をしますというサイクルを前提にすること自体に、いま石山先生が言われたように限界感を感じている。そうではない、それこそ、もともとコルビュジエが「住むための機械」と言われたときにパッと広がった世界というのは、その機械を通じて私たちは世界に出ていけるのだという期待感があったような気がするのです。

石山――今おっしゃっている機械というのはもう少し具体的に言うと、コルビュジエのドミノみたいなことを言っているのですか。それともコルビュジエが言っているように、飛行機とか自動車というスタイルを言っているのですか。

新堀――それはコルビュジエ自体が両義的なので、私も厳密に「どちら」と言い切れないのですが、人間は裸でいるとただの裸のサルでも、例えば、裸のサルと世界の間に機械を置くことでこちら側が人間になるというような、先ほど言った一種のイマジナリーなひとつのレイヤーがある。バーチャルと言ってもいいかもしれませんが、それがいま言っている機械というものに一番近いのかもしれないと思います。少し苦しいのですが。

松村――住むための機械という、先ほどから石山さんがおっしゃっているようなビジョンと、その後、現実に進んでいったパッケージした住宅が商品化されていくということと込みで表現されているのではないですか。

新堀――そういうイメージはかなりありますね。「機械」のなかにすでに分裂があるというところはたしかにあります。

石山――私は「じゃあ機械って何だろうか」と言ったら、正確に繰り返しができる、生産できる、その機械をいうのであって、そのラインでいったら可能性はそれほどありません。

 機械はバーチャルなものを生むかもしれないし、要するに未来というのはある種のプロトタイプですね。それがビジョンじゃないとわれわれは生きていけないから、そのときにコルビュジエが言ったような飛行機やドミノなど、そういうものが相変わらず頭のなかにあったり、失礼な言い方にならなければいいですが、ハコとかそういうものがまずプロトタイプとしてあるということは、私はそれほど大事なことではないと思います。

布野――それは私も一緒ですね。大野さん自身も、はっきりおっしゃるかはわかりませんが、早い段階である種転向したわけですよね。地域工房のネットワークと言われ出したときには、おそらく限界をわかっていたからそういう攻め方をしようとされたと思っています。

石山――例えば、コンテナはコンテナリゼーションというシステム、流通というシステムで世界中覆い尽くしてしまっているわけですよ。

 

ハコを超えていく住居

布野――私はこの2,3年間は山本理顕や鈴木成文先生の51Cの議論に付き合わされてきましたが、そのレベルでは家族や社会的な編成が問題になります。国内的には今の高齢化の問題や少子化の問題のなかで、今のハコでよいのかという議論が大きいのですが、基本的に、一人の建築家が回答できる問題ではありません。

新堀――私もあまりないです(笑)。

布野――建築家が用意できるのは、空間の骨格、住区組織や街区組織の方です。空間は、住み手によって、簡単に乗り越えられるものです。建築家という職能の議論になるかもしれませんが、やはり何かを用意する役割がある。もしかすると、それが、新堀さんがおっしゃっている機械かなという気がします。

 もう少しわかりやすく言うと、例えば、スケルトンーインフィルのスケルトンでしょうか。インフラといってもいいですが、、要するに住宅的なある種のストラクチャーを提示する必要性があるでのはないか。スケールはいろいろあって、それは集合住宅だったり、街区レベルだったり、都市全体だったりしますけれど。

 だから「ひとつの住居のプロトタイプをつくって」という議論にはあまり乗りたくないというか、「そんなもの、好きに住めばいいんじゃない?」と思う。それこそ500年間を見ていたら、みんなそこで生きて死ぬわけです。一番大事なのは境界をめぐる所有の争いですよ。地形(ジガタ)が大事で、土地、建物の所有関係をどうセットするかによって上のスケルトンや空間形式が違ってくる。その型で新しい手があるかどうかは興味があります。

松村――布野さんはインドネシアの都市カンポン(密集市街地)を調べられたり、コアハウスやビルディング・トゥギャザーなどをやっていらした頃から、もう……。

布野――問題意識はほとんど変わりませんね。カンポンのように所有関係が「近代法」化されていない世界で、使用と所有がかなりグチャグチャで、家族関係にしてもかなりフレキシブルな場合には、要するにハコではない、M1ではないプロトタイプのようなものをいくらでも思いつくわけです。それは一体どういうものがあるんだろうという興味がずっとある。

石山――私も布野さんに連れていってもらってアジアのそういう地域を見たけれども、外れたところに行くと本当にインフラも何もなくて、例えば、チベットのようなところでは、皆モバイルとコンピュータを持って、変な、われわれより全然新しい生活をしています。インフラがないから、すごくフリーですよ。

 それがいいかどうかはまだわからない。でも、遅れて近代化を十分に達しなかった国の具体的な道というのは結構あるのではないかと思います。

 これは松村先生の理論というか、教えてもらっているデータで、要するにもうスペースは十分にあるわけですね。それを住宅と呼ぶか呼ばないかということだけであって、住宅とわざわざ呼んでみても可能性が全然ないと。

 違う呼び方はどうなのかわかりませんが、そういうバーチャルな概念のようなものを出さないと、私は住宅という言葉はそれほど未来を示していないのではないかと思います。「日本の場合は戸建て住宅がちょっとおかしいな」ぐらいのことは、誰でも常識で知っています。だからもし未来があるとしたら、住むための機械というより、古い言い方ですが、住宅という言葉を解体していかないと、本当にわれわれは未来が見えてこない。住宅と言った途端に何かイメージしてしまうのですね。

 

居住世界の変化と職能

松村――いわゆる建築の設計で生きていこうとする人たちは、今までのパターンですと、ほぼ必ず最初は住宅ですよね。例えば、『新建築』住宅特集であったり、最近では『カーサ ブルータス』など、住宅作家というのか何と言うのかわからないけれど、住宅というものを極めてはっきり対象としてとらえているでしょう。

 むしろ住んでいる人よりもはるかにパッケージしたものとしてとらえて、自分が育っていこうという、建築家の世界の方に非常に保守的に残ってくる概念のような気がしますね。それをやって次に行くぞという意味でも、その職能のあり方があるとしたら、そういうことではないかもしれないのに、職業として成立していくときの仕方がそうなるでしょう。

布野――東京の学生はわからないですが、京都あたりで見ていると、まず住宅の設計のちゃんすがあるかどうかという問題があって、例えば、滋賀県立大学の学生は内装や改造を頼まれて、セルフビルドで楽しそうにやっています。

松村――住宅を建てる前に、まず改造から入る。

布野――そういうところでトレーニングをしながら、地域と付き合うという方向には可能性があるかな。私が言っているタウンアーキテクトが地域の世話をするなかで、「建て替えをしますよ」といった住宅の仕事が転がり込むかもしれないという予感はある。

石山――教育のなかからでも絶対に生まれないですね。社会学を教えればそういう人が出てくるかというと、そうでもないと思いますし、私は基本的には教育の問題がものすごくあると思いますよ。住宅の教え方、生活の仕方。要するに教え方というか、伝達の仕方がどうもうまく行っていないというか、もう現実に抜かれてしまっているのに。教える側の問題でしょうね。当然学生も含めて、その循環がありますからね。だからアナザウェイではないですが、違うものを提示しないとだめなんだろうと思います。例えば、これは教えられて非常にびっくりしましたが、機械と思っていた、要するにバッキー・フラーの設計した家がもうすでに古色蒼然として見えるのはなんなんだろうか。ドミノを見ても「なに、このポンチ絵は?」と。そういう感じがすごく大事ではないかと思います。

松村――そういう感じはなんとなくわかりますね。

布野――『群居』で考えてきたことと、そんなにずれていなくて、例えば、東洋大学にいたときは学生が地域ビルダーとして生きていこうとする層が多くて、大野さんの地域工房ネットワークという発想が強かったのです。京都大学では、地域生活空間計画という講座に行ったのでコミュニティデザインリーグというものを始めました。そこではコンバージョンや需要の話もでてくる。建たなくなって建築家が生き延びるために三つぐらいの道がある。ひとつはコンバージョンや改造、メンテナンス、設備、そちらの方向に行くという手ですね。もうひとつは海外に行くことです。中国、インドはこれから市場が開く。これは学生に本気で言っていますが、「設計をやりたければ中国へ行け」と。事実、松原弘典君や迫慶一郎君はバンバン食えるようになっている。インドへ行ったほうがいいと思いますが、最後は「まちの面倒を見ることですよ」と。これがタウン・アーキテクト、あるいはコミュニティアーキテクトの道です。

 要するに地域社会が壊れてしまっている。地域社会と自治体をつなぐ役割が建築家にある。正直、そこで仕事を取らないと飯の食い上げですね。日本の産業構造が変わる大きな転換の過渡期に、一級建築士が何人いるか、建築学科の学生が何人出るか、それを考えると、まちづくりを担う職能としてなんとか食えないかという発想になっているのです。

石山――私はある意味で「住むための機械の未来」という設問の仕方が非常によいと思いました。例えば、環境の未来というと、「明るい未来」「環境が大事だ」って、誰でも言えますよね。でも全部浅いのです。次に構造の未来というと、いま構造は花盛りですよ。とんでもない変な構造が出てきて、なんでもありだという。能力のある構造家はワクワクしていると思いますよ。自分の計算能力をフルに使えるから。

 それから材料の未来というと自然だとか何とか言って、これも結構明るいです。われわれは明るく演技をしないとなかなかできないという、先ほど言いかけましたが、そのあたり分野の問題があるでのはないでしょうか。これは考えすぎているのか……。考えすぎたほうがいいと思いますが、環境の未来という言い方からは絶対未来は出てこない。地球環境って、誰でも気楽に言うのですが。

 

プロトタイプの使命

松村――最後にひとこと「やっぱりこれだ」という結びの言葉をおっしゃっていただきたいと思います。

布野――機械をシステムや空間的な装置と広げてもらえば、やることはいろいろあると思います。セルフビルドで自前で建てられる仕組みさえあれば、それはそれぞれでやればいいし、勝手にやってそれが非常に美しい秩序を持っていれば、例えば、きれいな集落ができるわけですよ。人類はそういうものをつくってきた。それがいびつだから変てこなものができてくる。そのいびつさは何かというと今の仕組みのすべてで、法律にしても、税制にしても、そのいびつな表現がそのままになっているわけだから、街や住まいがいびつになるのは当然といえば当然であるということですね。

 だから未来というのは「そこを変えましょう」ということになるけれど、それだと凡庸な結論だからおもしろくない。(笑)ちょっと考えさせて。これで負けるんだよ、いつも石山さんに。ようするに、どうやったら変えられるかが問題なんです、最初から。

石山――私は自分で実験住宅というか、住宅をつくったわけです。しかも自宅で。それを世田谷村と呼んでいます。これは理屈の固まりみたいにしてつくりましたが、生活し始めたらどうしても修正せざるを得ないのです。

 でもやってみると、私にとっては土をほじくり返してホウレンソウをつくって食べたりするリアリティというのは、理屈のリアリティを超えているのです。つまらない生活学や、そういうことの重要性を言っているのはないですが、私がいま痛感しているのは、未来があるとすれば、やはり私自身のそういうコモンセンスを変えていかなければいけないと。

 だから機械から有機体へとといったようなことではだめなのです。こちらががついていかないわけですから。日常生活が大事だということを言っているわけではなくて、私たちのほうに巣くっている、そういう性向です。住宅を論じていくと、日本に独特の、日本だけにしか通用しない論理でおそらくいろいろな議論がなされてしまっている。日常的にいろいろな国の人と会ったり、いろいろな国の若い人と会ったりすると、今までピュアなものとして感じてきた論理や歴史観が、日本の特殊例だったということを逆に教えられるというか、私はそちらのほうが重要だという気がしますね。

布野――結局、これも紋切り型ですが、やはりやれるところからやるということですね。

 『群居』でずっと考えていたようなことですが、「世田谷村」でもなんでも、その1戸が2戸になって、2戸が4戸になるところのルールで何か実践的なテーマを見つけてということですね。抽象的に環境問題といっても、なかなかかたちにならない。やはり何かモデルをつくって、失敗して、また失敗して、それでもまだやるべきなんでしょうね。

 プロトタイプというのは評判が悪いのですが、何か実験的につくって、それをまねする人が出ればプロトタイプになるわけでしょう。やはり若い人はそういう提案に挑戦してほしい。

新堀――本日はどうもありがとうございました。

200729日 建築会館にて

 

参考文献

1――松村秀一/『住に纏わる建築の夢――ダイマキシオン居住機械からガンツ構法まで』/東洋書店/2006.12









カンポンとコンパウンド Kampung and Compound、traverese22、202203 


https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/270130

 traverese22 

カンポンとコンパウンド

Kampung and Compound

 

Shuji Funo

布野修司

 

 「ある都市の肖像:スラバヤの起源 Shark and Crockodile」(traverse19,2018)で予告した著作をようやく上梓することができた。タイトルは、『スラバヤ物語―ある都市の肖像 時間・空間・居住』(仮)としていたが、最終的に『スラバヤ 東南アジア都市の起源,形成,変容,転生―コスモスとしてのカンポン 』(京都大学学術出版会,2021年)(図①)となった。

タイトルは一般に編集者すなわち出版社の意向を尊重することになるが、本書のサブタイトル「コスモスとしてのカンポン」は、京都大学学術出版会の鈴木哲也編集長(専務理事)の強い薦めがあった。本書は鈴木さんと組んだ11冊目の本になる。鈴木さんには『学術書を書く』(鈴木哲也・高瀬桃子共著,2015)『学術書を読む』(2020)という2冊のベストセラーがある。『学術書を読む』には、「良質の科学史・社会文化史を読む」「「大きな問い」と対立の架橋」「古典と格闘するー「メタ知識」を育む」「現代的課題を歴史的視野から見る」という「専門外」に向けての4つの指針が挙げられている。是非手に取ってみて欲しい。


『スラバヤ』は、建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。19791月、はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い、戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら、ここで求められているのは日本と同じ解答ではない、と直感した。以降、毎年のように通い、調査を継続してきたのがスラバヤであり、この40年間に学んだことの全てを盛り込んだのが本書である。スラバヤで活躍したオランダ人建築家の近代建築作品など、スラバヤ、インドネシアそして東南アジアの住居・集落・都市についての基本的情報は収めてある。

「ある都市の肖像」のグローバルな射程については「結」に記した。「時間―空間―居住」「起源・形成・変容・転生」の重層的構成、長めの注カスケードCascadeによる時空の拡張、QRコードによる動画の組み込み(図②)など、起承転結型の学術書を超える挑戦的試みを評価して頂ければと思う。

 

コンパウンド

 ところで、『スラバヤ』がキーワードとする「カンポンkampung」とは、インドネシア(マレー)語で「ムラ」という意味である。「カンポンガンkampungan」というと「イナカモン」というニュアンスで用いられる。そして、カンポン(ムラ)は都市の住宅地について用いられる。「都市村落urban village」というのがぴったりである。

 このカンポン、実は、英語のコンパウンドcompoundの語源だという。 コンパウンドには通常2つの意味がある。第1は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合のcomposite,複雑な,複式の」である。そして,第2は,名詞で「囲われた場所」である。

英英辞書を引けば、compoundnoun)は,an area surrounded by fences or walls that contains a group of buildingsと簡潔に説明される。フェンスや壁によって囲われたsurrounding領域がコンパウンドである。英語で「包む」は、wrap, pack, encase・・・、「取り巻く」はsurround, enclose, circle…などがあり、それぞれニュアンスが異なるが、コンパウンドについて考えることは、<我々(建築)を包み、取り巻くもの>を考えることになる。人間社会を構成する最小の居住単位としての1軒あるいは何軒かの住居の集合体がコンパウンドである。英語には、コンパウンドの他、ホームステッドhomested、セツルメントsettlementが用いられる。他にも,移動性の高い場合はキャンプcamp、さらに,エンクロージャーenclosure,クラスターcluster,ハムレットhamlet,そしてヴィレッジvillageなどがある。

 

カンポン 

学位論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987年)のエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界 ジャワの庶民生活誌』(1991)を書いた著者として、その不明を恥じたが、カンポンがコンパウンドの語源であることは、東京外語大学の椎野若菜さんから「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』262000年)という論文を送って頂いて初めて知った。

椎野論文は、サブタイトルが示唆するように,人類学者として「居住」に関する英語の語源を確認することを目的としている。そして、その骨子は,コンパウンドは,マレー農村を指す「カンポン」を語源とする説が有力で,その英語[1]への借入過程には,西欧諸国の植民地活動の軌跡が関わっている,ということである。


 オックスフォード英語辞典OEDは,コンパウンドは植民地時代以降の慣例にみられるとし,異説を紹介した上で,マレー農村を意味するカンポンがインド英語Anglo-Indian Englishを経て伝わったとするユールとバーネルYule, H. and Burnel, A.C.(1903, William Crooke(ed.)[2]の説を紹介している。コンパウンドは,(1)囲い込み(enclosure,囲い込まれた空間,あるいは,(2)村(village),バタヴィアにおける「中国人のカンポン」のような,ある特定の民族(nationality)によって占められた町(town)の地区を意味する。(2)の例として,1613年のポルトガル人の著書にcamponという綴りが見られるという[3]

 ポルトガル語のcampoの転訛という異説[4]を含めた議論の詳細は『スラバヤ』(Space FormationⅠデサ/村落4カンポンとコンパウンド)に譲ろう。カンポンについて考えることは、世界中のコンパウンドについて考えることに繋がるのである。

 

デサ

現在のインドネシアの行政単位は、農村部(カブパテンkabupaten)はデサdesa(行政村)である。農村部も都市部(コタマジャkotamadya)も下位単位クチャマタンkecamatanからなり,農村部ではデサがクチャマタンの構成単位となる。デサはさらに下位単位ドゥクーdukuhによって構成される。都市部では,クルラハンkelurahanがクチャマタンを構成し,その下位単位となるのがRW(エル・ウェー)(ルクン・ワルガRukun Warga)とRT(エル・テー)(ルクン・タタンガ)である。

デサは,もともと,ジャワ,マドゥラの村落を指す言葉であった。14世紀に書かれたマジャパヒト王国の年代記『デーシャワルナナ』(『ナーガラクルターガマ』)は「地方の描写」という意味である。サンスクリット語で都市コタkotaに対する地方、村落がデサだから、その歴史は古い。それに対して,スンダ(西ジャワ)では,クルラハンが村落という意味で用いられていた。そして,カンポンというのはカルラハンを構成する単位であった。

ジャワの伝統的集落デサについては、『ジャワ・マドゥラにおける現地人土地権調査最終提要』(以下『最終提要』)全3巻(18761889年)[5]という大きな資料がある。土地権についての調査を主目的とするものであったが,調査項目総数は370に及ぶ[6]。これを基にした19世紀以降のデサの特質についての議論も『スラバヤ』に譲るが、結論だけ記すと、共同体的な要素を濃厚に残してきたジャワのデサは,植民地化の過程において、むしろ、その共同体としての特性を強化してきた可能性が高いということである。20世紀初頭の植民地政府の原住民自治体条例によって再編成されたデサは,共同体(ヘメーンシェプgemeenschep(ゲマインシャフト))ではなく、ヘメーンテgemeente(自治体)として規定されている。しかし,資本制生産様式との接触が伝統的な社会構造を弱体化させるのではなく,むしろ共同体的性格は変形強化されたのである[7]

 

隣組と町内会

  このデサが、デサ的要素を色濃く残しながら,都市において再統合されたものがカンポンである。C.ギアツは、ジャワ社会を,デサ,ヌガラ(国家 政府官僚制),パサール(市場)をそれぞれ中核とする3つの社会層からなるとして、インドネシアにおける都市化の歴史を構造的に解き明かすのであるが、都市化の過程で都市に再統合された居住地をデサと区別することにおいて,カンポンと呼ぶ。カンポンは,基本的に「都市村落」であるというのがC.ギアツである。

 C.ギアツは,「カンポン・タイプの居住区はジャワのどこでも都市的生活の特性をもつが,同時に何らかの農村的パターンの再解釈を含んでいる。より密度高く,より異質性が高く,よりゆるやかに組織化された都市環境へ変化したものである。」という。 C.ギアツは,カンポン・セクターの地図を示している(図③)。ブロックを囲むように並ぶ白い四角がレンガ造・石造の家であり,黒い点がバンブー・ハウスである。

 そして、実に興味深いのは、このカンポンの住民組織と日本の隣組・町内会制度が共鳴を起こしたことである。

日本は大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために,戦時下の大衆動員の施策として,内務省は19409月に「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し,隣保組織として510戸を1組の単位とする隣保班を組織することを決定する。この隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれていくことになるのである。


日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944111日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」(Azas-azas oentoek Menjempoernakan Soesoenan Roekoen Tetangga)(『KANPOONo.35-2604)が出されるのである[8]

軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された。組織は瞬く間にジャワ各地に広まっていった。19444月末の調査に拠れば,ジャワ全域の住戸数は8967320戸,隣組数は508745組,字常会数は6477764,832),区の総数は19498であった(表Ⅳ2③)。隣組は平均17.6戸,区(デサ)は平均33字常会ということになる。隣組はジャワの隅々にまでつくられたことになる(倉沢愛子(1992)『日本占領下のジャワ農村の変容』草思社。)。

 

RT/RW


「隣保制度組織要綱」は,隣組を「施策の迅速で適正な浸透ならびに深刻な住民相互間の対立摩擦の削除をおこない,民心を把握し住民の総力をあげて戦力の維持,存続をはかるための,行政単位に基づき行政機関と表裏一体である強力で簡素な単一組織」と規定する(吉原直樹(2000)『アジアの地域住民組織―町内会・街坊会・RTRW』お茶の水書房)。隣組tonarigumi,字aza,常会joukaiは,日本語がそのまま用いられるが,隣組すなわちルクン・タタンガRTは,「ジャワ民族において以前から受け継がれている相互扶助精神に基づく住民間の互助救済など共同任務の遂行に勤めなければならない」(第13項)という。 ルクンとは,ジャワの伝的概念である「調和,和合」を意味する。タタンガは,隣人である。相互扶助精神とは,ジャワではゴトン・ロヨンと呼ばれ,インドネシアの国是とされている。

太平洋戦争末期,わずか1年余りの期間にジャワ全島に及んだ隣組組織が現在のRTの起源である。日本では,戦後1947年になって,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって隣組制度は禁止される。隣組制度が総力戦体制,体制翼賛体制を支えた「支配と強制」の装置となったが故に禁止する,というのである[9]

一方,インドネシアの隣組制度はどうなったのか?これも詳細は『スラバヤ』に委ねざるを得ないが、RTそして,字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として存続する。税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たすのである。ただ,公式な政府機関とはみなされてこなかった。1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されたが,基本的には引き続き,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるというものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の新体制になってからであるSullivan, John (1992) Local Government and Community in Jawa: An Urban Case Study, New York: Oxford University Press.)。

RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものであった。大きな変化として導入されたのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。この時点で、RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれたのである。

インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは再び開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになるのである。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。

 

<包むもの/取り囲む>ものという言葉は、ある領域の境界、そしてその外部と内部をめぐる普遍的問いを突きつける。日本の隣組-町内会制度は,戦後改革の過程で解体されてきたように思える。しかし、災害がある度に、そしてCOVID-19のコロナ禍において、共同体における相互扶助と内部規制という二重の機能が孕む基本的問題は問われ続けているのではないか。



[1] そもそも英語の成立自体が興味深い。英語は,古英語,中英語,近代英語に時代区分されるが,中世中期英語以降,ラテン語・フランス語をはじめとして,世界中の諸言語から借入を行っており,英語本来の言葉は20パーセントに満たないという。それ故,コンパウンドの語源もさまざまに詮索されるが,OEDOxford English Dictionary)に依れば,第1義は,中英語(古英語,中英語,近代英語に区分される)の時代から存在するのに対して,居住に関わる第2義は,17世紀後半に英語に借入された,という。

[2] Hobson-Jobson: A Glossary of Colloquial Anglo-Indian Words and Phrases and of Kindred Terms, Etymological, Historical, Geographical and Discursive, Delhi, Munshiram Manoharalal.

[3] Manuel Godinho de Erédiaor Emanuel Godinho de Erédia (16 July 1563 – 1623)‘Description of Malaca, Meridional India, and Cathay (Declaracam de Malaca e da India Meridional com Cathay)’1613).

[4] ポルトガル語campanhacampoの転訛,フランス語のcampagne(country田舎)の転訛という異説もある。フランス語起源説は根拠が明確ではなく,似たような言葉はない。ポルトガルの使用例campanaは,近代ポルトガル語ではcampaignか,campagna(ローマ周辺の平原)であり,使用例champ(1573年の旅行記)campo(イタリア人の文献)は,「広場」「マイダーンmaidan」の意味で用いられており,居住地の意味はないという。ただ、ユールとバーネルは,カンポンというマレー語がポルトガルとの接触以前から存在していたかどうか確かではなく,ポルトガル語の転訛である可能性を全く否定はできないとする。すなわち,ポルトガル語campoははじめcampの意味をもち,それから,囲われた地域,の意味をもつにいたったか,ポルトガルcampoカンポンという2つの言葉は,相互作用した可能性があるとする。カンポンという言葉の語源やポルトガル接触以前の存在は確認できず,ユールとバーネルもこの点は実証できていない(椎名論文註(8))。

[5] Eindresume van het bij Guevernments Besluit dd.10 Juni 1867 No.2 bevolen Onderzoek naar de rechten van den Inlander op den Grond op Java en Madoera, zamengesteld door den chef der Agdeeling Statiseiek ter Algemeene Secretarie.  1830年以降,ジャワ(マドゥラ)は,中部の王侯領を除いて,全てオランダの直轄領となっていたのであるが,植民地政庁は,この直轄領内の808村を選んで186869年にはじめて本格的な土地調査を実施した。その結果まとめられたのが『最終提要』(18761889年)である。土地調査の大きな目的は,私企業プランターの進出を可能にする方向を含めて,土地所有権および利用権を確保することである。その調査は,結果を1870年における農地法の制定に結びつけようとするものであった。

[6] 内藤能房「『ジャワ・マドゥラにおける原住民土地権調査最終提要』全三巻について」,『一橋論叢』,第76巻 第4号,1976年。

[7] まず指摘されるのは,デサにおいて土地の「共同占有」の形態が数多くみられることである。『最終提要』は耕地の占有形態を「世襲的個別占有」と「共同占有」とに大きく二分しているが,「共同占有」形態とは,耕地の使用の主体は個人であるが所有権はあくまでデサに属し,個人による相続や処分が不可能な占有形態である。『最終提要』に依れば,「共同占有」の形態が集中するのが中東部ジャワである。「共同占有」の形態においては,その「持ち分」保有者となる資格が厳しく規定されているのが普通であり,その資格を満たすことにおいてデサの正式のメンバーとして認められる。持ち分については定期割替えが行われることが多い。こうした耕地の「共同占有」形態に象徴される共同体規制は林野についてもみられる。ただ,林野の場合は対外的な規制のウエイトが大きく,デサの構成員については幾分ルースである。

[8] 「郷土防衛,経済統制等の組織および実践単位とし,地方行政下部組織として軍政の浸透を計るものもので,ジャワ古来の隣保相互扶助の精神(ゴトン・ロヨン)に基き住民の互助共済その他の共同任務の遂行を期する」ことを目的とし,「デッサ内の全戸を分ち概ね十戸乃至二十戸の戸数を以って一隣組とする,隣組に組長を置くがその選任は実践的人物を第一とする,隣組は毎月一回以上の常会を開く。さらに字(カンポン)に字常会を設け毎月一回以上の常会を開く,字常会は字長および隣組長その他字内の有識者をもって構成する」という組織化を行うものであった(倉沢愛子(1992))。

[9] GHQがまとめた『日本における隣保制度―隣組の予備的研究』(1948)(GHQ/SCAP, CIE, A Preliminary Study of the Neighborhood Associations of Japan, AR-301-05-A-5, 1948(吉原直樹(2000))。)は,「隣保組織の歴史的背景」(第1章)を幕藩体制下の「五人組」,さらには大宝律令(701年),養老律令(718年)が規定する「五人組制度」まで遡って振り返った上で,「1930年代以降における隣保組織の国家統制」(第2章)そして「東京都の隣保組織」(第3章)を具体的に検証したうえで,「隣保組織の解体」(第4章)を結論付けている。

2022年8月1日月曜日

パネリスト:2007年度日本建築学会大会(九州)特別研究委員会研究協議会「近代の空間システムと日本の空間システムの形成と評価」,「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えて」,福岡大学8月29日

 パネリスト:2007年度日本建築学会大会(九州)特別研究委員会研究協議会「近代の空間システムと日本の空間システムの形成と評価」,「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えて」,福岡大学8月29日





2022年7月30日土曜日

真のフィールドワークとは,建築雑誌,日本建築学会,200903

真のフィールドワークとは,建築雑誌,日本建築学会,200903


 『建築雑誌』200903「建築家資格の近未来――大学院JABEEは何を目指すのか」

 

 真のフィールド・ワークとは

 布野修司(滋賀県立大学教授、建築計画委員会委員長)

 

「実務」経験というけれど、「実務」の中身が問題である。インターンシップというけれど、インターン先の「実務」の中身が問題である。「現場」を知らずして建築の仕事が成り立たないことははっきりしている。また、建築家を育てるとしたら「現場」である。しかし、「現場」とは何か、が問題である。

インターンシップと称して、CADや模型製作、打ち合わせや様々な仕事の流れに接することが「実務経験」なのであろうか。また、「現場体験」とは、工事現場で働くことなのであろうか。

 建築系の大学院の大半が「実務」経験とか「現場」教育といった観点を欠いてきたことは認めざるを得ない。事実今回の実務経験年数の取得のために大半の大学院がカリキュラムの変更を余儀なくされているのである。

大学院は研究と称する論文生産の技術しか教えていないではないか、というのが実業界の声という。確かにそうだ。しかし、そうした声を聞くにつれ、また、議論が「資格」に集中するなかで、「実務」と「現場」の中身こそが問題だと、つくづく思う。そもそも建築という創造行為の全体を見失った実務のシステムが問題を起こしたのではなかったか。

 枠組みを固定された「現場」でいくら「実務」を積んでも、建築家としての能力は身につかない。「現場」とは、建築現場に限らない。新たに発生する問題に瞬時に対応するするトレーニングをするのが「現場」である。新たな問題を発見する能力、創造的な種を発見する眼がそこで養われるし、全体として解答する力が必要とされるのが「現場」である。法制度でがんじがらめになった実社会より、大学院の方がまだしも可能性をもっているのではないのか。大学院の方は大学院の方でがんじがらめになりつつあるのだけれど。 




2022年7月26日火曜日

期待のヤングパワー ミシェル・ヴァン・アカー, 日経アーキテクチャー,19970310

 期待のヤングパワー ミシェル・ヴァン・アカー, 日経アーキテクチャー,19970310




スリランカ「ツナミ」遭遇記,スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告 オランダ要塞に救われた命,みすず,200503

 スリランカ「ツナミ」遭遇記,スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告 オランダ要塞に救われた命,みすず,200503

インド洋大津波 2004年12月26日 スリランカ・ゴール1 (youtube.com)

投稿: 編集 (blogger.com)

スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告

オランダ要塞に救われた命

 

 

布野修司

 

 この数年間、われわれの分野では決して少なくない助成金を頂いて、「植民都市研究」と呼ぶ研究プロジェクトを展開してきた。最初の二カ年は英国植民都市をターゲットとし(「植民都市の形成と土着化に関する比較研究Comparative Study on Formation and Domestication of Colonial Cities」(国際学術調査(19971998年度)・研究代表者(布野修司))、続いての三年は、オランダ植民都市(「(植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究Field Research on Origin, Transformation, Alteration and Conservation of Urban Space of Colonial cities)(基盤研究(A)2)(19992001年度)・研究代表者(布野修司))に焦点を絞った。

 この研究成果は、幸いなことに、『近代世界システムと植民都市』(布野修司編著、京都大学学術出版会)という著書としてまとめられることになり、この二月に出版された。そこで扱っているのが、一七世紀から一八世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市である。まず、アフリカ、アジア、南北アメリカの各地につくられたオランダの商館、要塞など植民地拠点の全てをリストアップした。そして、その都市形態について類型化を試みた。そして、臨地調査を行った都市を中心にいくつかの都市を採り上げて比較した。主な調査都市は、ケープタウン(南アフリカ)、コーチン(インド)、ゴールGalle(スリランカ)、マラッカ(マレーシア)、バタヴィア(ジャカルタ)・スラバヤ(インドネシア)、台湾(ゼーランディア城、プロビンシア城)、エルミナ(ガーナ)、レシフェ(ブラジル)、 パラマリボ(スリナム)、ウイレムシュタッド(キュラソー)である。

 この七〇〇頁にも及ぶ大部の著書の校正(三校)を慌ただしく終えて、スリランカへ旅立ったのが一二月一八日である。この著書で取りあげるべくして、果たせなかったのが、スリランカの諸都市であり、とりわけ、コロンボであり、ジャフナであった。一九八三年以降の内戦、シンハラとタミルの間の対立は度々自爆テロを引き起こし、とても臨地調査を行う事が出来なかったのである。幸い南部のゴールについては、後述するモラトゥア大学のサミタ・マヌワドゥ先生の協力で調査することができ、著書でもかなりの頁を割いた。オランダからイギリスの手にスリランカが渡ると、ゴールからコロンボに拠点は移る。スリランカのオランダ植民都市をゴールで代表させるのは問題ない。ただ、他の中心拠点であったジャフナは見てみたかった。また、コロンボについてはハルツドルフ地区についての調査を開始し始めたところであった。

共同研究者である山本直彦立命館大学講師とともに一二月一八日に日本を発ち、二三日に應地利明先生(滋賀県立大学教授、京都大学名誉教授)とコロンボで合流、二四日にゴールへ向かった。

スリランカに着くと、ジャフナに飛行機が飛ぶという。当初はゴールからジャフナに飛ぶつもりであったが飛行機はコロンボ-ジャフナ間しか飛んでいない。当初の予定通りであったとすればジャフナで津波に遭遇したことになる。應地先生の今回のターゲットのひとつは、古くから東西交易の要であった、インドとスリランカが繋がるアダムズ・ブリッジの付け根にあるマンタイMantai(マントゥータMantota)と聞いていた。ここで「元」の染め付けが見つかれば画期的な発見になる。また、そこにはオランダがつくったマンナールMannar要塞がある。先攻隊として予備調査をしよう、と思い切ってジャフナにまず飛んだ。

そして、LTTI(タミル・イマーム解放の虎)の管轄地を抜けてマンナールへ行くことができた。チェックポイントがきつく、パスポートを発行されるなど、まるで、国の中に国があるようであった。軍事キャンプというのでわれわれはマンタイの調査は断念したのであるが、幸い、ジャフナ要塞もマンナール要塞も見ることが出来た。ただ、ジャフナ要塞など地雷危険の立て札がそこら中に立っており、市街地にも無数の銃弾の跡がある廃屋が数多く残されているだけで、とても調査どころではなかった。今回の大津波で、このジャフナにも多くの死体が流れ着いたというし、スリランカ東北海岸が-その被害の様子はあまり伝わっていないが-、津波の直撃を受け、相当のダメージを受けたのは伝えられるところである。

いささ駆け足であったが、以上の日程をこなし、コロンボに二三日に辿り着くことが出来た。そして、應地先生と予定通り合流、ゴールに向かったのである。二四日、二五日にゴールに宿泊。二六日はマータラMataraへ向かう予定であった。いずれにもオランダ要塞があり、ジャフナ、マンナールとともに今回の調査のターゲットであった。中でも、ゴールの保存状態はよく、世界文化遺産に登録されている。ゴール・フォートは三度目で、丁度五年前のクリスマス・イブにも調査で訪れ一週間滞在したことがあった。初めて訪れる應地先生、山本講師の案内役をかって出たのが今回の旅であった。

 以下、その瞬間からの一日をレポートしよう。

 

一瞬に召された命数知れずああ大津波神のみが知る

 

 当日(運命の一二月二六日)、モラトゥア大学のサミタ・マヌワドゥ教授は九時(日本とスリランカの時差は三時間)にゴールのゲストハウスに迎えに来てくれた。僕が京都大学に赴任した一四年前に研究室に在籍中で、スリランカの古都についての学位論文を仕上げられたところであった。その後、ゴールの調査ではお世話になった。また、一昨年一〇月から昨年六月まで僕の研究室に在外研究員として所属し、歴史都市京都についての研究をされた、そういう仲である。帰国して教授に昇進、スリランカで設計活動を展開する一方、文化財保護、保存修景の分野での第一人者として活躍している。今回の「オランダ植民都市研究」でも有力な共同研究者の一人である。

サミタさんは、コロンボを七時に出発。一〇時までには来る、ということであったけれど、道が空いていて、早く着いたという。この予想外に早く着いたことがひとつの運命の分かれ目であった。二四日に、我々は、四時間以上かかって、コロンボからゴールへ約百キロを移動したのである。このゴール・ロードは今回大きな被害を受けた。一瞬のうちにズタズタに分断されたのである。スリランカ西海岸には、スリランカの生んだ有名建築家ジェフリー・バウアが設計したホテルなど高級リゾート・ホテルが数多く並んでいる。海辺のこれらのホテルは今回大きな被害を被った。

ゴールの手前三〇キロのところにアンバランゴダAmbalangodaというイギリス時代に遡る歴史的町並みが残されているということで、帰りに見よう、と思っていたのだが、全て失われたという。ゴール直前のヒッカドゥアHikkaduaでは列車が脱線、一瞬のうちに千人が死亡したという。幼児がひとり生還、名前とお父さんの名前のみで住所がわからずTVで紹介、おばさんが名乗り出たことを後で知った。

 

転がった列車の中から幼児が生還名前名乗るも住所を知らず

 

 應地先生は、七時に宿を出て、ゴール・フォートの海岸を散歩。調査の時はいつものことだけれど、早起きして朝の光線の中で写真を撮るのと陶磁器片を拾うのが目的である。この根っからのフィールド・サイエンティストにはいつも多くを教えられ、ご一緒するゴールでの数日が楽しみであった。應地先生によると、津波の直前には、ダイバーはじめ、多くの人が海岸にいたという。僕は、これもいつものように、特に仕事ということではなかったけれど、宿でパソコンにむかっていた。陶磁器片を袋に入れて、浜辺で買ったという、シングル・アウトリガーの模型を片手に、應地先生が宿に戻ったのは八時三五分であった。帆船など船の模型の収集は、カウベルの収集とともに應地先生の職業(学問的)的趣味である。サミタさんが宿に着いたときには、「まあ一〇時ぐらいになるんじゃないの」と言いながら、食堂で共に食事中であった。折角早く着いたのだから、九時半出発ということで、準備をし、荷物を車に積もうとしていた九時一五分、異様な声があがり、表へ出ると、路地をすごい勢いで水が押し寄せてくる。

 

高波が襲ったという人の声あるわけないよこの晴天に

突然に水が溢れる晴天にこれが津波と知る由も無し

 

快晴で青空。一瞬思ったのは、水道管の破裂である。

「満月の日」で近隣の人たちは正装してお祭りの準備中だった。高潮で波がフォートの要壁を飛び超えて入ってきたというけれど、信じられない。こんなことは生まれて初めてだ、とフォート生まれの宿の主人は言う。結果的には当然であった。

 よく考えれば、不思議だったが、水はほどなく引いていった。オランダ要塞の排水システムは極めてよく機能したことになる。潮の干満を利用するすぐれたシステムだ。

要塞の中にいたからよかったけれど、海岸部のバンガローだったらひとたまりもなかった。実は、クリスマスのホリデーということで、ゴール・フォート内のホテルは予約で一杯であった。かつて泊まって、蚊に悩まされた、フォート内随一のコロニアル・スタイルのホテル、コロンボのGOH(グランド・オリエンタル・ホテル)と並び称せられたニュー・オリエンタル・ホテルは超高級ホテルに改修中であった。フォートの外に取ろうか迷ったのであるが、折角だからフォート内に泊まりたいと、サミタさんのコネクションで、ようやく小さなゲストハウスを見つけた、というのが経緯であった。これも後から考えるとぞーっとする運命的選択であった。

事件が発生したのは、九時一五分である。振り返って、スマトラ沖地震の発生時間は六時五八分という。二時間ちょっとでゴールを津波が襲ったことになる。直撃されたスマトラのバンダ・アチェなど、瞬時に、街全体が、海水で襲われたことになる。どうしようもなかった、ことはよくわかる。ゴール・フォートは、結果的に、防波堤となってくれたのである。

 

 城壁に人が連なり海を見る氷のように一言も無し

 

状況を何も把握せず、出発すると、要壁の上に人が沢山いて海を見ている。

車を止めて、要壁に登ってみると、ゴミが浮いているのが少し異常なだけで、海は至って静かである―一波と二波の間であった。あるいは最初に引き波が来たとすれば、二波と三波の間だったかもしれない―。ただ、要壁内に誰のだかわからない濡れた男性の靴が転がっており、波をかぶって転げ落ちた母子が放心状態であった。要塞の高さは海面から五メートルある。襲った波は一〇メートル近かったという。

 

道端に座り込んでいる母子の眼宙を彷徨い震えるのみ

 

これは、津波ではないか、地震だ、という應地先生に対して、サミタさんはスリ・ランカには地震がありません、という―スリランカには、『マハーヴァムサMahavamsa』と呼ばれる6世紀に書かれた古事記、日本書紀のような年代記がある。その中に、紀元前3世紀に、津波らしい記録があるという。女王が波にさらわれたという伝説である。だとすると、二二〇〇年ぶりの津波ということになる―翌日には、そうした解説がTVでなされていた―。ゴール・フォート内を回ってみると、東側の低地には水が貯まっている。後で見回って分かったのだが、北の波止場、オールド・ゲートから海水が直接侵入してきたのである。

これは容易な事態ではない、とようやく認識。車を高台に止めて様子を見ることにしたのであった。

 要塞に登って街を見ると、唖然とする光景が広がっていた。

 

気がつくと昨日撮った橋がない津波に飲まれ跡形も無し

気がつけばクリケット場に舟浮かぶフェンス破ってバスもろともに

口々に逃げろと叫ぶ声空し迫り来る二波後ろに気づかず

シュルシュルと獲物を狙う蛇のよう運河を登る津波の早さよ

 

 昨日撮った木造の橋がない。車が横転している。国際クリケット場にボートが浮いている。川からゴミが流れて来て、それを二波が押し返す。街に向かって、みんなが口々に、逃げろ、逃げろ、と叫ぶけれど、声が届くわけはない。

 フォート内には、軍の施設があるが、為す術がない。警察官が、サミタさんの携帯を借りて連絡するけれど通じない。誰かが、「ひとり流されている」、と叫ぶけれど、僕の眼では確認できなかった-。この段階では、多くの人が津波に浚われたとは夢にも思わない―結果的に、二八日段階の新聞報道で、ゴールでの死亡五〇〇人、行方不明一〇〇〇人。帰国後の情報では、二〇〇〇人以上の死体が上がったという。ゴールで日本人は見かけることはなかったのであるが、一人の日本人の遺体が回収されたのは年明けの三日である―。二波あるいは三波が来て、海水はフォート前のエスプラナードを完全に覆うまでに至らなかった。もう少し待てば、なんとかなる、というのが判断である。マータラへ行こうか、コロンボに戻ろうか、と考えていたくらいで、呑気なものである。

一時間ほどして、スマトラ沖の地震だ、というラジオのニュースが口コミで伝わってきた。

 二時間半経って、とにかく、山道でコロンボに戻ろう、と決断。フォートを出て、再び唖然、である。

 

大車横転後転繰り返す押し流されて皆スクラップ

大津波バスを転がし押し流すビルに突っ込みようやく止まる

 

バスが横転してビルに突っ込んでいる。逆さになった車もある。生来の野次馬根性で、写真を撮りたいと、車を降りて夢中になってシャッターを押していると、サミタさんが「先生、危ない!また、波が来る!」と叫ぶ、街の人もいっせいに逃げ出す、あわてて車に飛び乗ったけれど、冷静なサミタさんが、僕が乗るかどうかの瞬間、扉を開けたまま急発進、危うく振り落とされそうであった。逃げまどう人々の間を、警笛をならしながら、一目散に高台に向かったのであった。

 

海岸線全てズタズタ引き裂かれ大型バスが山道塞ぐ

救急車サイレン鳴らし向かい来る命を思って皆道を空ける

 

 山道も海岸から五キロほど離れている程度で、大混乱。明らかに興奮した面持ちの人で溢れていた。また、大型バスが迂回したため、大渋滞。救急車も何台も向かってくる。結局、八時間かけてコロンボに辿り着いたのであった。

 予約のホテルも被災していた。一階は波を浴びて使い物にならない。津波が襲ったのは一二時半だったという。ゴールと三時間の時差があるが、真実だとすると、インド大陸に当たった波が反射したことになる。帰国後の報道では、レンズ効果ということで波が回り込んだというが、コロンボ近辺については違うのではないか。それにしても、津波の速度が時速四〇〇マイル(あるいは時速八〇〇kmともいう)というのには驚く。まるで、飛行機なみの速度である。水が動いているわけではなく、震動が伝わっている、ということをつくづく実感するのである。

 コロンボに帰って、情報が集まり出した。被害の状況も次第にわかってきた。わかるに従って、ぞーっとする、感じがしてくる。サミタさんの到着が一五分遅れれば、また、我々が予定通り九時にマータラへ向けて出発していたら、津波にあっていた。應地先生が、もう少し朝の散策を延ばしていたら、確実に遭難していた。

 スリランカの西海岸は、被害は比較的少ない、と思われたのだが、帰国前に、コロンボからモラトゥアにかけての海岸線をめぐってびっくりした。海岸部には、多くのスクオッター・セツルメント―シャンティ・セツルメント―、貧しい人々の掘っ立て小屋群-があったが、その多くが潰れていた。おそらく、スリランカ(総人口一九〇〇万人)だけで一五〇万人―一月五日段階で八〇万人という―は被災したと思われる。これは大問題である。

 緊急ハウジングなど復興には相当の時間がかかる、というのが直感である。帰国直前二八日に、モラトゥア大学を訪問、工学部長、建築学部長、学科長に会った。プランテーション労働者のためのハウジング・プロジェクトについて議論することになっていたのであるが、すっとんでしまった。スタッフのほとんども、親戚などが被災しているという。

コロンボの街は、弔意の白旗が通りのそこここに掲げられていた。

 

怪我人でごった返しの飛行場痛々しげにその時を語る

パスポート荷物もろとも流されて出国できない空港ロビー

傷ついて緊急帰国安堵の顔全員揃ってチケット獲れて

 

サミタ先生との縁もある。何か、プロジェクトを支援しないといけないかな、という気になっている。一月に入って緊急ハウジング(三〇〇戸)の依頼が来るかも知れないとメールをもらった。帰国直後のサミタ先生のメールは次のように言う。

 

Still I am wondering, who helped to save our life from disaster.

  More than 2000 bodies have been recovered from the vicinity of Galle.