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2025年11月16日日曜日

広州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 広州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

J17 中国世界の海の窓口 西洋と東洋を繋いだ交易都市

広州Guangzhou広東省Guangdong中華人民共和国Peoples Republic of China


珠江の三角州地帯に位置する広州は、古来、海外交易の港市として知られる。

秦代以前の広東は南越(粤)と称したが、秦の始皇帝は、南越を征服(紀元前224年)すると、この地を桂林、南海(広州市近郊)、象(南寧)の三郡に分け、行政地を番禺(広州市近郊)に置いた。

南越と中原との間には武夷山脈が立ちはだかり、物資の運搬・調達や軍の往来に不便なため、広州から灕水、湘水を経て長江に通じ、長江の武漢から伸びる漢水、丹水を北上して長安に達する運河(霊渠)を築く。この霊渠は南方と北方間の貴重な内陸交通路となり、広州の都市発展の基盤となる。始皇帝の死後、趙佗が独立国を宣言し南越城(趙佗城)を築く。後漢になると西域との交易も盛んになり、物資はインド洋を通り越南(ヴェトナム)に上陸したのち番禺に運ばれていた。

 唐朝が崩壊すると、その混乱に乗じて「南漢」が成立する(917年)。その官庁区は現在の財政庁の位置にあり、隋代には刺史署、唐代には都府が置かれていた。大食街(現在の恵福路)以南に主要な商業区があった。現在の紙行路、米市路、白米巷、木排頭、絨線街、梳箆街である。これらの商業区では、米、天秤、丸太、竹細工、紙、絹糸、伝統手工芸品などが取り扱われていた。

唐代にアラブやペルシャの商人が城の西側に寓居の建設を許されると「蕃坊」と呼ばれる居住地が形成される。現在の中山路の南、人民路の東、大徳路の北、開放路の西である。「蕃坊」の居住者の大半はイスラム教徒であった。「蕃坊」にはモスク懐聖寺と光塔(627年)が築かれた (図①)。

宋朝になると外国貿易を管理する市舶司が置かれる(971年)。沿江および西部地区に商業居住区ができ、広州は物産が集積流通する一大拠点となった。広州城は子城(中城)、東城、西城と拡張が繰り返されていった。1044年に拡大建設が始まり、完成するのは1208年である。

元代の広州は、交易港としての地位を継承するが、その繁栄の一部は福建の泉州港に奪われるようになる。

 明朝は海禁政策を採る(1370年)が、寧波、泉州、広州の3港に限って朝貢貿易を許可する。広州には市舶司が置かれ(1403年)「蕃商」が建設される。この「蕃商」は清代の「広東十三夷館」の前身である。 明代の広州城は、北の山麓(現在の越秀山の一部)に城壁を拡大し、宋代の東、中(南城)、西の三城は連接された。これを「旧城」または「老城」という。1564年に、現在の越秀南路から万福路を通り、泰康路、一徳路を経て、西の人民路の太平門にいたる新城が増築される。そして、東の「清水豪」から南の「城南豪畔街」にかけて、外国商船が常時停泊する時代となる。1517年のポルトガルの来航以降、スペイン、オランダ、フランス、イギリスが相次いで中国貿易を求めてくる。解禁が解かれるのは清代の1684年で、広州、漳州、寧波、雲台山(江蘇・浙江・福建・広東にそれぞれ江海関・浙海関・閩海関・粤海関の4港)を開き、広州には現在の文化公園あたりに粤海関(税関)が置かれた。

対外貿易を仕切ったのが「官商」と呼ばれる特許商人で、その商店を「牙行」「官行」などと称した。解禁直後の1686年に、外国商人と十三の行商からなる「十三行」と称される中国特許商人は、広州城の南西に位置する十三行通りの南側、文化公園から珠江までの一帯に外国人商館「広東十三夷館」と十三行舎を建設する(図③)。 広東十三夷館は2階建てで連続長屋の形態をなし、1階が事務所室と倉庫、2階がベランダである住居となっている。当時の東南アジアで流行したバンガロー形式の建物である。

18世紀半ば、乾隆帝は、西洋人の頻繁な来訪を制限するため鎖国令を発布し(1759年)、アヘン戦争が終焉する1847年まで、海外貿易の権利を広州の貿易商のみに与えた。広州はますます特権的な都市となる。

海外交易のための港や商館は、広州城の正門外側すなわち西関に置かれるようになり、西関では徐々に下町が形成されていった。西関は宋代より商業の町として徐々に発展し、海禁政策とともに急激な発達をみせた。19世紀後半になると、もともと湿地であった西関の西部が開拓され、そこで富裕層が豪邸を築き始めた。伝統的な四合院住宅は西関大屋と呼ばれる。

しかし、西欧列強の進出によって広州は激動の時代を迎えることになった。アロー戦争(1856~1860)の際に焼失した夷館に代わって、広州の西側の珠江に面する楕円形の砂州を租借し、租界を建設する。この砂州を沙面という。1852年までは中国最大の輸出港として君臨してきたものの、それ以降は上海や香港にトップの座を譲り渡すことになる。

1911年に中華民国が成立すると、広州都督は城壁を解体して近代道路の建設と既存道路の拡幅を実施するため工務司を置く。城壁解体の土砂や磚石は、道路の路盤として利用し、残った瓦礫は東の東岡一帯、西の広三鉄道の黄沙駅から西村駅にかけての新開拓地の埋め立てに利用した。1938年に日本軍が広州を占領、西堤商業区、海珠工場一帯の民居を破壊し、広州の経済は一時期停滞する。

中華人民共和国が成立すると、第一次五カ年計画(19531957年)でその方針が示され、広州は工業都市に転じて急速に発展を遂げた。1980年になると、造船、機械、電子、化学工業といった重化学工業へ転換がなされる。1985年に「長江三角州」と「閩南三角州」とともに「珠江三角州」が経済特区に指定され、広州は上海に並ぶ一大メトロポリスとなる。

広州には、西関大屋区中心に、西関大屋竹筒屋(図④)、騎楼の3種類の伝統住居が存在してきたが、いずれも大きく変容しつつある

図④

 

 

主要参考文献

河合洋尚『景観人類学の課題 中国広州における都市環境の表象と再生』風響社、2013

田中重光『近代・中国の都市と建築 広州・黄埔・上海・南京・武漢・重慶・台北』相模書房、2005

周霞『広州城市形態演進』中国建築工業出版社、2005

三橋伸夫、小西敏正、黎庶施、本庄宏行『中国広州市騎楼街区における保全的再生策の動向と住民意識』日本建築学会技術報告集 18(39)639-6442012.6

 


2025年11月15日土曜日

天津:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 天津:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

J10 天子の津―中国北方海運拠点

天津Tianjin,直轄市,中華人民共和国People’s Republic of China

 

 

 


 天津は、北京の東南約120km、華北平野を流れる海河が子牙河、大清河、永定河など5つの支流を集めて渤海湾に流れ込む河口に位置する。北に丘陵部があるが、最も高いのは標高約1000mも九山で、全体的に平坦であり、沿岸部は湿地となる。今日では、首都北京から高速道路、新幹線で1時間程の距離にあり,中国の一大首都圏を形成する。 中華人民共和国の成立とともに直轄市となるが、市人口は約1550万人(2015年)、北京と合わせた首都圏人口は15400万人にも及ぶ(2018年)。

 しかし、20世紀末の天津は、未だ第二次世界大戦以前に遡る建物がそこここに残っており、欧米諸国の租界そして日本租界のそれぞれの趣ははっきり維持されていた。また、天津古城内にも胡同の雰囲気が色濃く残っていた(図1)。この間の天津の発展には著しいものがある。

 天津の起源は必ずしもはっきりしないが、その名は天の津(浅瀬、渡し場)である。天津の名が現れるのは明代であり、朱棣(永楽帝)が皇位簒奪(靖難の変)の際に渡河した場所に因むという。星座の名、川の名という説もあるが、いずれにせよ、海河の河口に成立した漁村、港市が起源と考えられる。天津の発祥の地は、北運河と南運河が交差する現在の金鋼橋近辺(三岔河口)とされている。

 天津が歴史の舞台に登場するのは、随の煬帝による大運河の建設以降である。随を建国した文帝(煬堅)の淮水と長江を結ぶ邗溝に続く大運河建設構想を引き継いだ煬帝は、まず、黄河と淮水を結ぶ通済渠を建設、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠を建設する。そして長江から杭州へ至る江南河が作られ大運河が完成するのは610年である。永済渠建設のひとつの目的は高句麗遠征であったが、中国南部からの物資輸送に大きな役割を果たすことになる。

 後に北京と杭州総延長2500Kmを結ぶことになる京杭大運河は、中国の南北をつなぐ大動脈である。中国歴代王朝が大いに活用してきた中国の歴史的インフラストラクチャーであり、現在も中国の大動脈として利用されている。この大運河は、2014年に、シルクロードなどと共に世界文化遺産に登録されている。

 京杭大運河は、こうして天津発展の大きな基盤である。唐代には、長江下流域からの食糧を中原へ輸送する基地となった。また、食糧輸送以外にも軍事拠点としての要衝とされ、金代には直沽寨、元代には海津鎮が設置されている。

 天津が大きく発展する上で決定的であったのは、クビライ・カーンによる大都の建設である。モンゴル・ウルスがユーラシアの東西をつなぎ、さらに大元ウルスが海の交易ネットワークを押さえるその玄関口になったのが天津なのである。

 明代には、軍事基地としての衛が設置され、天津左衛と天津右衛が設置された。清代には天津衛(1652年)、天津州(1725年)、天津府(1731年)が置かれた。天津府は、下部の行政単位である天津県、静海県、青県、南皮県、塩山県、慶雲県、滄州を管轄した。清末には天津は直隷総督の駐在地となる(図2)。

 そして、天津がさらに大きく転換することになるのは清末である。アロー号戦争(第2次アヘン戦争)(1858年)で清朝は英仏連合軍に敗北し、北京条約(1860年)によって天津は開港されることになるのである。そして、19世紀末から20世紀前半にかけて、英、仏、米、独、墺・洪(ハンガリー)、白(ベルギー)、伊、露、日本が相次いで租界を設置することになった。結果として、天津は旧城区、租界、新開区がモザイク状に隣接する極めてユニークな都市となる。

 天津城のすぐ南を占めたのが日本租界であり、さらに南へ向かって海河の西岸に仏、英、独、日本(第二)の租界が形成された。そして、天津城の東、海河東岸に墺・洪、伊、南に向かって露、白の租界形成された(図3)。旧仏租界は金融街であり、アパート、オフィス、銀行が通りに面して建ち並んだ。パリとまではいかなかいけれど、立派なヨーロッパ風の街並みである。中国人民銀行、中国銀行などがかつての植民地建築を使い、横浜正金銀行も仏租界にあった。租界ごとにそれぞれ多彩な街並み景観が形成され、今日にその姿を今日に伝える。中でも、伊租界は現代風にリノヴェーションされて「意太利風情旅游区」となり、多くの観光客を集める人気スポットとなっている(図4)。

 中華民国が成立すると天津市となるが、日中戦争の間は1937年から1945年まで日本軍に占拠された。また、戦後1945年から1947(までアメリカ軍基地が設置され。

 中華人民共和国の設立以降、直轄市として中国の工業及び貿易の拠点として発展し現在に至る。天津は、中国北方最大の対外開放港であり、コンテナターミナルの他工業地帯も建設された渤海新区は、環渤海湾地域の経済的中心地である。経済規模は、上海、北京、広州、深圳に次ぐ中国第5位である。 

                              孫躍新+布野修司


図1:天津旧城 1995 写真:布野修司

図2:天津城図構成

Antique Map Of Tianjin, China, 1899 is a drawing by Studio Grafiikka

図3:天津市街地図 

天津の租界

Madrolle's Guide Books: Northern China, The Valley of the Blue River, Korea. Hachette & Company, 1912. 

天津 1919

図4:意太利風情旅游区 写真:布野修司

 

【参考文献】

孫躍新1993中国都市における近代空間の形成過程及びその特性に関する研究―天津の旧城空間、租界空間、新開空間の形成及び相互関連を中心に―』学位論文(京都大学)

 


2025年11月14日金曜日

成都:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 成都:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J11  四川の古都

成都 Chengdu,四川省Sichuan,中国China

 

四川省の省都成都は、三国時代の蜀の都として知られ、唐代から蜀錦を産してきたことから錦城、芙蓉の花で知られることから蓉城とも呼ばれる。市内には、劉邦、諸葛孔明、杜甫など、中国史を彩る人物や事績に所以のある寺廟などが維持されている。

その起源は古く、成都の北30kmの広漢市にある新石器時代末から殷初にかけての都城址とみられる三星堆遺跡(1986年)に続いて金沙遺祉(2001年)が発掘され,中原とは異なる古蜀文明の存在が着目されてきている。現在までの考古学の成果によると,その拠点は都江堰付近から南東へ移動し,成都市内の十二橋遺祉は殷代,金沙遺祉古城は殷末から周初に比定され,開明都城が建設されたのは春秋戦国時代だとされる。この開明都城の拠点としていた古蜀を滅ぼして建設されたのが秦成都である。

興味深いのは、秦の恵王(BC.337311)が蜀を滅ぼした後,張儀(?~BC.310)らに命じて,国都咸陽にならって成都を築城したとされていることである。

現在の成都の都市形態を俯瞰すると整然とした街区割りを確認できるが(図①),実にユニークなのは,正南北軸をもとにしたグリッドと35度ほど東に傾いた軸をもとにしたグリッドが交差していることである。正南北軸が採られるのは三国蜀(屬漢)以降で,それ以前は東に傾いた軸線を基にしていたと考えられている。張蓉(2010)がこの開明都城を『周礼』「考工記」をもとにして復元しているが,具体的な手掛かりは少ない。四川省文史館(1987)の復元によれば,西に小城,東に大城を連結する形態である (図②)

唐代の成都は養蚕、絹(蜀錦)そして紙を特産品として大いに栄えた。人口は50万人にも達し、揚州と並ぶ商業都市であった。宋代の成都の商業も引き続き発展し、以降、四川さらには西南中国の中心地となる。明代には四川布政使が駐在し、清代に四川省に改称された。清初期の抵抗運動や軍の反乱などで清前半までは荒廃が続いたが、湖北省、湖南省、広東省などから移民を受け入れ、徐々に復興を遂げた。

1928年に中華民国国民政府は成都市を設立するが、1949年に成都が解放されると、四川省が復活する(1952年)。

現在の成都市内には、清末から民国期にかけての古街で「寛窄巷子」と呼ばれる歴史的街区が保存再開発されている(図③)。寛窄とは、広い、狭いという意味であるが、住居の基本型となるのは、中国の伝統的都市住居の「四合院」と狭小間口の店舗併用住宅「店屋」である。

「店屋」と呼ばれる都市住居の形式は、成都の店屋には江南地方から中国南部にかけての地域で成立したと考えられている。そして内陸に位置する四川地域に、廊坊(アーケード、亭仔脚)を伴う住居形式をもつ集落が多数存在している(図④)。このアーケード付の「店屋」の形式は東南アジアに拡がっていったと考えられているが、「寛窄巷子」の「店屋」にはアーケードはない。

成都は歴史的遺産が豊富で、1982年に国家歴史文化名城に指定され、周辺には峨眉山と楽山大仏(1997年)青城山と都江堰(2000年)などの世界遺産もある。一方2000年以降、西部大開発の拠点都市として経済発展を遂げている。








 

2025年11月13日木曜日

平遥:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 平遥:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



J03亀城-清の金融中心

平遥 Pingyao,山西省 Shanshi,中国 China

平遥古城は、山西省の省都である太原から南へ95km,中部にある晋中市平遥県に位置する。平遥古城は、明清時代の城壁とその街並みが極めて良い保存状態で残されていることが評価され、1997年にユネスコ世界文化遺産として登録された。平遥古城の周辺には、古い歴史をもつ名刹の他、喬家大院をはじめとする山西商人の大邸宅も点在している。世界文化遺産には城の外にある仏教寺院の鎮国寺と双林寺および孔子廟である平遥文廟が含まれている。

平遥古城は、漢民族が中原に形成した城壁都市の典型であり、その築城構成には漢民族の都市文化の伝統をうかがうことができ、建築史はもちろん、当時の文化、社会、経済を研究する上でも非常に価値のある貴重な現存資料といえる。

平遥古城の城壁の基礎は、2700年前の西周時代に造られたといわれ、春秋時代には晋国、戦国時代に趙国の城塞であった。秦の郡県制の下では平陶県、漢の郡国制の下では中都県が置かれた。そして、北魏時代に平遥県と改称されている。

平遥は、「龜城」と呼ばれるが、明清時代に各地に築かれた県城の原型をよく保存している。城壁(城牆)は明王朝の洪武三年(1370年)に築かれたものである。城壁は内部を土で固めて外部をレンガで築く版築で造られ、外周6.4km、高さ約12mある。現在は6つの城門と瓮城、4つの角楼、72の敵楼が残る。南門の城壁は2004年に倒壊したため再建されたが、その他の部分は明王朝のままである。これは中国に残る都市の城壁の中でも規模が比較的大きく、歴史も古く、保存状態が完全に近いものであり、世界文化遺産の核心を構成している。

城壁内部は、政務を司った建物を中心に4本の大通り、8本の裏通り、72本の路地によって巨大な八卦の図案を形成している。すなわち、城内の街路は「土」字形をなし、建築は八卦の方位に準じて配置されており、明清時代の都市計画の理念と基本を示すとされる。

清王朝末期の平遥は、中国全土の票号の半分以上の大きな票号(近代以前の金融機関)が20数家集中する金融の中心地であった。これらの票号は各地に支店を置いて金融業を営んだが、なかでも19世紀初の清王朝道光年間に設立され「匯通天下」として19世紀後半に名をはせた中国最大の票号「日昇昌」は有名である。これらの票号は辛亥革命で清王朝が倒れると債権を回収できず没落していった。これらの票号の建物は現在でも残り観光地となっている。

平遥には、以上のように、城内外には数多くの旧跡や古建築が300か所以上あり、その他明清時代の民家邸宅が4000軒近く残り保存状態も良い。街路に建ち並ぶ商店などはかつての姿を残しており、中国近世の商都の街並みの生きた見本となっている。

通りから一歩外れると、静かな住宅街へと一転して、中国北部の伝統的な建築様式である「四合院」が建ち並ぶ。古城内に学校、工場、病院なども備わっており、現代においても旧市街だけで都市機能を有しているユニークな都市であり続けている。


【参考文献】

中国古建築叢書ー山西古建築 雍振華 2015 中国建築工業出版社

平遥―古城と民居 宋昆

2000 天津大学出版社









2025年11月12日水曜日

マカオ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

マカオ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J20 ポルトガル最後の植民都市―東アジア布教の拠点

マカオMacau澳門特別行政區Macao Special Administrative Region,中華人民共和国People's Republic of China

 

 

 

 


ヨーロッパの海外進出の先鞭をつけたのはポルトガルである。1488年にバロトロメウ・ディアス(?~1500)が喜望峰に到達し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマ(c.14691524)がインド、カリカットに至る。以降、ゴア占領(1510)、マラッカ占領(1511)、とポルトガルはアジアに次々と植民拠点を築いた。そして、南シナ海に回りこんでマカオに到達するのは1513年、広州到達が1517年である。明朝との交渉役に指名されたのが『東方諸国記』を書き記すトメ・ピレス(1466頃~1524頃)である。知られるように、種子島漂着が1543年、中国、日本を最初に訪れたのもポルトガルである。

ポルトガルは植民拠点をシダードcidades(都市)と呼んだ。コーチンとゴアには早くから市参事会が設けられ、本国と同様の権利が与えられている。インディア領最大の都市はゴアであり、いち早く周辺地域も含めた領土支配を確立している。そして続いてシダードとなったのが、1557年に永久居住権を明朝から与えられ、1579年に司教区が設けられていたマカオである(1582年)。17世紀初頭にはコロンボとマラッカにも市参事会が置かれるが、この5つの都市以外は、商館や要塞を核とする居住地あるいは集落規模の拠点にすぎない。

 シダードとなるとともに都市建設が開始される。また、日本布教はマカオを拠点に行われることになる。イエズス会士フランシスコ・ザビエル(15021552)がゴアを訪れるのは1541年であり、1548年に宣教監督となって、翌年、洗礼を受けたばかりのヤジロウとともに薩摩半島の坊津に上陸、以降2年間滞在したが「日本国王」との謁見を果たせず、帰途、広州沖の上川島で死去している。そして、続いて日本布教に向かったのが、マニラに赴任し(1578)アジア全域を統括したA.ヴァリニャーノである。

 中国布教に当たったのは、M.ルッジェーリ(15431608)であり、『坤輿万国絵図』を日本にも伝えるマテオ・リッチ(利瑪竇)(15521610)である。マテオ・リッチによる西欧の書物の漢訳出版は中国に大きな影響を与えることになるが、明王朝そして清王朝の「天主教」への対応は厳しく、ポルトガル人の居住はマカオに限定され続ける。清朝初期には、台湾の鄭氏政権との関係を断つためにポルトガル船は閉め出され、マカオは一時期衰退する。鄭氏が清朝に降伏すると、貿易は再開されるが、日本の海禁政策もあり、ポルトガルがスペイン王の支配下に置かれることによって、交易は太平洋経由のガレオン船によるルート、すなわち、アカプルコーセブ・マニラそしてマカオ・彰州へというルートに変わる。17世紀初頭の絵地図(図1)が残されているが、小高い丘にギア要塞と城壁を建設、沿岸に城壁をめぐらすポルトガル流のシダ-ドである。ギアの聖母礼拝堂は1622年の建設とされる。

 ポルトガルがマカオの行政権を中国人官吏から奪取し、ここを完全に植民地化するのは1849年のことである。清朝が統治権を認めるのは1862年、友好通商条約を締結してマカオを永久的に占有することを承認したのは1887年である。

 第二次世界大戦中は、ポルトガルは中立を宣言、マカオ港は中立港として繁栄するが、日中戦争の激化とともに中国人難民の大量流入を受け入れている。戦後、ポルトガルはマカオを海外県とするが、マカオ暴動(1966年)など中国の反ポルトガル闘争による返還の圧力が高まり、1979年に、中華人民共和国とポルトガルの国交が樹立され、マカオの本来の主権が中華人民共和国にあることが確認された。そして、中華人民共和国が英国との香港返還交渉と平行してマカオ返還交渉が行われ、1999年に行政権が中華人民共和国に譲渡されることが決定、マカオには一国二制度が適用され、中華人民共和国の特別行政区となった。これによってアジアから欧米の植民地は完全に姿を消すことになる。

 マカオ歴史地区は、2005年に世界文化真に登録される(図2)。数多くの建築物や広場が構成遺産とされるが、中心となるのは1784年に建設され1874年に改修された民政総署(旧マカオ政庁)(図3)のあるセナド広場である。周辺には、1569年にマカオ初代司教が創設した聖母慈善会の仁慈堂(現博物館)(図4)、メキシコのドメニコ会によって1587年に建設された聖ドメニコ教会などがある。そして、ハイライトとなっているのは1602年から1640年にかけて建設され、1835年の大火で焼失、ファサードのみが残っている聖天主堂跡(図5)である。ここには聖母教会、聖ポール大学も建てられていた。聖母教会には長崎で殉教した26聖人も埋葬されている。(布野修司)


【参考文献】

Bocarro, Antonio (text) & Pedro Barreto de Resende (plans)1635, ”Livro das Plantas de todas as fortalezas, cidades e povoacoens do Estado da India oriental (Book of the Plans of fortresses, cities and boroughs in the State of Eastern India)”.

布野修司編:近代世界システムと植民都市,京都大学学術出版会,20052


1 マカオ 1635  Bocarro, Antonio (text) & Pedro Barreto de Resende (plans)1635

2 マカオ歴史地区 2005

 

3 民政総署(旧マカオ政庁)


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...