このブログを検索

2025年11月28日金曜日

パリ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

パリ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


C01 花の都-ヨーロッパ世界の文化首都

パリ Paris,イル・ド・フランス地域圏 Ile-de-France Region,首都Capital、フランス共和国 French Republic


パリの起源は、その名の由来でもあるケルト系先住民パリシイParisii族の集落に遡る。パリシウス(単数形)は田舎者、乱暴者という意味である。ユリウス・カエサルが『ガリア戦記』(BCE51年)で記すように、ローマ側の呼称であり、ルーテティア・パリースィオールLutetia Parisiorum(パリシイ族の水の中の居住地)(シテ島)が起源である。

 紀元前1世紀、ガリア戦争によってパリを支配下においたローマ人は、シテ島に城塞、そしてセーヌ左岸に円形劇場(闘技場)や公衆浴場などを築いた。現在でも5区にその遺構が残っている。

 ローマ帝国が分裂するとフランク族がガリアを支配する。トゥルネーを出自とするサリ族の首領クロヴィス(位481511)がメロヴィング朝(フランク王国481987)を建ててパリを都とする(506年)。この時代のパリは、左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを囲う城塞都市であった。

 カロリング朝(714817)のカール(シャルルマーニュ)大帝時代(742814,位768814)に、その最大版図はエルベ川からピレネー山脈まで、イベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパのほぼ全域に及ぶ。大帝は,ローマ教皇司教レオⅢ世による戴冠の儀礼を受け「神聖ローマ皇帝」となる(800年)。カール大帝は「ヨーロッパの父」とされる。カトリック教会が以降大きな力を持ち,キリスト教が統合の原理となることによって,ヨーロッパ=キリスト教世界という地域区分が一般化する。

 カール大帝の時代には、アーヘンに王宮が置かれ,パリはやや寂れ、地方行政官としてのパリ伯によって統治された。フランク王国が三分された後、現代のパリの基礎がつくられるのはカペー朝(9871328)のフィリップⅡ世(11801223)の治世である。当時の聖マリア信仰の隆盛を背景としてフランス各地にノートル・ダム寺院が建設されるが、その代表がパリの核になるシテ島の大聖堂(11631345建設)である。セーヌ川右岸にレ・アール(中央市場、現フォーラム・デ・アール)を設置し、ユダヤ商人を移住させて商業の中心とする一方、左岸はパリ大学(1215)カルチェ・ラタン(ラテン語地区)とし、後のルーブル宮殿の起源となる城塞(1202)を建設するとともに市壁で囲んだのがフィリップⅡ世である(図1)。

ヴァロア朝(13281498)となり、百年戦争(13371453)を経て、ルーブル宮殿の造営を開始したのは、ハプスブルグ家のカールⅤ世と対峙したフランソワⅠ世(在位151547)である。ルイⅩⅣ世時代にクロード・ペロー設計の東ファサード部分はヨーロッパ屈指の古典主義様式としてその後の大規模建築の雛型となる。今日のルーヴル美術館が完成したのはナポレオンⅠ世の時代である。フランス最大のフォンテーヌブロー宮殿の骨格もフランソワⅠ世の時代に造営されている。セーヌ川にかかる最古の橋ポン・ヌフ、リュクサンブール宮殿と庭園を建設したのはブルボン朝(15891830)初代のアンリⅣ世(15941610)である。16世紀前半の地図をみると、シテ島を中心に、右岸に大きく半円形の街区、左岸に小さな半円形の街区が城壁で囲われているが南東にフォブール(城外区)が形成されている(図2)。

フランス絶対王政下に君臨したルイⅩⅣ世(位:1643-1715)は、首都をパリから移し、10km離れたセーヌ川から水を引いて建設したヴェルサイユ宮殿を建設する。中世都市が限界を迎え、宮殿の建設が相次いでバロック都市へ変貌したのがルイⅩⅣ世のパリである。

そして、フランス革命が起こり、ナポレオンⅢ世(180873)治下のG.E.オースマン(18091891)によるグラン・トラヴォー(パリ大改造)の時代が来る。「オスマニザシオン」(整序化,規則化,秩序化)と呼ばれる計画の中心は,「パリを梳る(くしけずる)」と言われた幹線街路の建設である。ガス灯による街路整備は「花のパリ」を象徴する事業である。民間業者は街路沿いにアパート群(図3)を建設していく。また、セーヌ下流へ集中排水する下水道の整備は,衛生環境の改善に決定的な役割を果たす(図4)。ルーヴル宮の増築,新オペラ座や中央市場などの公共建築,ブローニュ,ヴァンセンヌなど広大な公園の造営も行われる。エッフェル塔(1889)が象徴するパリは、ロンドン,ベルリンとともに「19世紀の首都」と称される。

20世紀に入ってもパリは「花の都」であり続ける。ナチスの破壊を免れ、第二次世界大戦後も、ド・ゴールのラ・デファンス計画、ポンピドゥーのポンピドゥー・センター、ミッテランのグランダルシュなど世界の耳目を集める都市計画が展開されてきた。数多くの世界文化遺産登録の歴史的建造物とともに常に新しさを生み出すパリは現在も世界で最も多くの観光客を集める都市である。


【参考文献】

ジャン=ロベール・ピット 編(2001)『パリ歴史地図, 木村尚三郎監訳. 東京書籍

 ピエール・ラヴダン(2002)パリ都市計画の歴史, 土居義岳 訳. 中央公論美術出版,

松政貞治 (2005)パリ都市建築の意味-歴史性 : 建築の記号論・テクスト論から現象学的都市建築論へ. 中央公論美術出版

鈴木隆(2005)『パリの中庭型家屋と都市空間 : 19世紀の市街地形成』、 中央公論美術出版

三宅理一(2010)『パリのグランド・デザイン : ルイ十四世が創った世界都市 中央公論新社, 2010

 Sutcliffe, Anthony (1996)” Paris: An Architectural History”, Yale University Press

ハワード・サルマン(1983)『パリ大改造―オースマンの業績―』小沢明訳,井上書院(Saalman, Howard(1971), “ Haussmann: Paris Transformed ”, George BrazillerInc.)。

Horne, Alistair (2002), “ Seven Ages of Paris” , Vintage



 

1 パリ 1223年( Gallica Digital Library and is available under the digital ID btv1b8593325k

2 パリ 1538年( Brauen and Hogenberg(1574)

Besschreibung und Contrafactur der vornembste Stat der Welt

3 パリのアパート ハワード・サルマン(1983)『パリ大改造―オースマンの業績―』小沢明訳,井上書院(Saalman, Howard(1971), “ Haussmann: Paris Transformed ”, George BrazillerInc.


4 パリ大改造計画 1852年頃 ハワード・サルマン(1983)『パリ大改造―オースマンの業績―』小沢明訳,井上書院(Saalman, Howard(1971), “ Haussmann: Paris Transformed ”, George BrazillerInc.


2025年11月27日木曜日

東京:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

東京:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


01 一極集中の世界都市 

東京 Tokyo,東京都 Capital,日本 Japan

                                                           

 

 

 


首都東京を核とする都市集積地域の人口は約3700万人に及ぶ。日本の総人口の約3分の1が居住し、世界最大の大都市圏を形成する(国連統計局)。

 東京の起源は、徳川家康が幕府を置いた(1603年)江戸城に遡るが、もともとは扇谷上杉氏の家臣太田道灌が1457年に築いた平山城である。その名は、『吾妻鏡』(鎌倉時代末期)が初見で、入江(江)の入口(戸)という説が有力である。平安時代後期に秩父地域から荒川沿いに下ってきた一族の中から江戸氏が生まれるが、室町時代に入ると衰え、江戸氏の居館跡に道灌が江戸城を建てるのである。

 家康が駿府から江戸城に居を移し、神田山を削って日比谷入江を埋め立てる城下町建設を開始したのは1590年である。そして、関ヶ原の戦いの勝利し(1600)、征夷大将軍となり(1603)、幕府の所在地として本格的な都市建設を行う。そして、江戸は拡大を続け、18世紀初めには100万人を超える大都市に成長する。

 江戸とほぼ同時期に建設され、「東洋の女王」と呼ばれたのがバタヴィアである。関ヶ原の戦いの年、オランダ船リーフデ号が豊後の臼杵湾に漂着する。家康が八重洲の名に残るヤン・ヨーステンなどを庇護し、顧問、通詞、貿易商人として使ったことが知られる。オランダの平戸商館設立を助けたのも乗組員のひとりM.J.サントフォールトである。そして、初代平戸商館長(160913)となったヤックス・スペックスは、後に第7代オランダ東インド総督(162932)となる。江戸幕府は厳しい海禁政策を採るが、バタヴィア出島を通じて世界と繋がり続ける。

 江戸とバタヴィアの都市構造は極めて対照的である。バタヴィアがS.ステヴィンの理想港湾都市計画案を下敷きにしたように極めてシステマティックなグリッド・プランであるのに対して、江戸は螺線の形態をとる。そして、江戸は、城下町について一般的に指摘されるが、江戸城を中心として、譜代大名、外様大名などが位階的に配置される空間構造をしている(図1)。また、参勤交代を制度化した中央集権の官僚中心の行政都市であり、男性人口が多いユニークな都市であった。アジアでは、大英帝国のインド首都ニューデリーの藩王を配置した都市構造が江戸に似ている。

京都、江戸を東西両京(あるいは大阪を西京として三京)と位置づけ、東京に改称され、天皇が移住するのは1868年である。以降、ロンドン、パリ、ベルリンに匹敵する近代国家の首都をめざす都市計画が展開される。その象徴が「銀座煉瓦街計画」であり「日比谷官庁計画」である。日本の首都東京計画は、その後もG.E.オースマンのパリ計画(グラン・トラヴォー)、ナチの国土計画など、ヨーロッパの都市計画がモデルにされていく。

一方、東京の都市形態を大きく規定してきたのは、戦災、災害である。戊辰戦争で江戸は大きなダメージを受けた。そして、関東大震災(1923年)、第二次世界大戦の空爆によって、壊滅的な打撃を受けた(図2)。今日の東京は、戦後、闇市が鉄道駅周辺に雨後の竹の子のように建ち並ぶなかから、そして、江戸の都市構造をベースにしながら、近代都市計画(大ロンドン計画など)の理念に基づいて再生復興を遂げてきた。そして、今日の東京にとって、決定的な転機になったのは、東京オリンピックである。

東京オリンピックの会場施設、とりわけ丹下健三設計の国立代々木体育館は、復興日本、その首都東京を世界にアピールする象徴になった。もちろん、それだけではない。東京が江戸とは全く異なる都市構造に大転換するのである。もともと、入江であり、水のネットワークで成り立っていた東京に、車を基本とする高速道路網が建設されるのである。高速道路で覆われた現在の日本橋がこの大転換を示している。

時期を同じくして、丹下健三は東京計画を発表する(図3)。それは、螺線構造の江戸、大ロンドン計画のように周辺に衛星都市を設ける都市構想を大転換する、同心円的構造ではなく、軸線をはっきりさせて、東京湾に新たに居住空間を建設する提案であった。しかし、それが実現することはなかった。当然である。都市が提案によって一気に変わるということはそうそう変わるわけではない。

1970年代の東京は、2度のオイルショックを受けて、拡大成長の限界が意識されたが、1980年代後半のバブル経済は、東京のさらなる開発の方へ向かう。ウォーターフロントへ、超高層へ、大深度地下へ、開発が求められるのである。

バブルが弾け、世界第二位の経済大国を誇った日本が低迷に向かうと、東京もその世界都市としての相対的地位を低下させていき、2011年の東日本大震災は、その防災上の問題を露呈させた。2020年の東京オリンピックの開催によって、東京の再活性化が期待されるが、世界一の一極集中都市の未来は必ずしも明るくはない。(布野修司)


【参考文献】

Shuji FunoTokyoParadise of Speculators and Buildersin Peter J.M. Nas(ed.)“Directors of Urban Change in Asia ”Routledge Advances in AsiaPacific StudiesRoutledge2005

藤森照信『明治の東京計画』岩波書店、1982

Cybriwsky, Roman: “Tokyo: The Shogun’s City at the Twenty-First Century”, John Wiley & Sons, 1998.

石田頼房『未完の東京計画』筑摩書房、1992

石榑督和『戦後東京と闇市』鹿島出版会、2016

Jinnai, Hidenobu: “Tokyo a spatial anthropology”, translated by Kimiko Nishimura, University of California Press, 1995.

Karan, P.P.  and Stapleton, Kristin (ed. ), “The Japanese City”, The University Press of Kentucky, 1997.  

越沢明『東京の都市計画』岩波書店, 1991.

内藤昌『江戸と江戸城』鹿島出版会, 1967.

Seidensticker,E., “ Tokyo Rising: The City Since the Great Earthquake”,  New York, Alfred A. Knopf, 1990.

玉井哲雄『江戸 失われた都市空間を読む』平凡社, 1986.

渡辺俊一『都市計画の誕生』柏書房, 1993.





 図1 江戸の都市構造 内藤昌

 図2 東京の第二次世界大戦の被災状況 

 図3 丹下健三の東京計画 1960


 

2025年11月26日水曜日

奈良:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

奈良:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


JX1 日本の古都

奈良Nara,奈良県 Nara Prefecture,日本Japan

 奈良は、日本最初の都城である藤原京に続いて建設された都城であり、平安京遷都後は、京都(北京、北都)に対して南都(南京)と呼ばれた、日本の古都である。那羅・平城・寧楽とも標記され。その語源をめぐっては、丘の草木を踏みならした(『日本書紀』)、平(なら)した地の意(柳田国男)、朝鮮語の「ナラ(国)」植物の「ナラ(楢)」など諸説がある。

 平城京は、その後の長岡京、平城京と同様、北辺に宮城を置く「北闕型」をしている。かつては「九六城」と言われ、東西6条、南北9条の縦長の「北闕型」都城と考えられていた藤原京については、宮城を中心とすることが明らかになり、『周礼』考工記に基づくという説があるが、平城京・長岡京・平安京については、隋唐長安城(大興城)をモデルにしたと一般に考えられている(図1)。

 「北闕型」都城の起源は北魏平城(大同)に遡る。この平城と平城京との関係はあまり指摘されないが、名前そのものがその繋がりを示している。平城京は、中央南北の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれる。東西は、南北大路によって右京左京それぞれ一坊から四坊に分けられ、南北は、東西大路によって一条から九条に区分される。坊は、堀と築地によって区画され、東西・南北に3つの道で区切って「町」とした(図2)。興味深いのは、平城京と同時代の渤海国(698926年)の五京の特に上京龍泉府と平城京が全く同じ,街路体系,街区分割方式を採用していることである。ただ、東西南北のプロポーションは、上京龍泉府は長安城のように東西の方が長い(図3)。

 平城京以降、条坊制は、心々制から内法制へ、宅地班給のために坊の面積を一定にするように精緻化していくのであるが、平城京の場合、左京の傾斜地に「外京(げきょう)」が、三坊分、東四坊大路より東に張り出し、右京の北辺に「「北辺坊」が二町分北に張り出しているのが変則である。また、朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。平城京十条説はこの羅城跡であり、羅城は羅城門に接続する極く一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。

 長岡京から平安京へ遷都が行われると、平城京は荒れ果て、条坊は田畑と化した。しかし、平城京には、藤原京から移転された大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺の四大寺、聖武天皇の東大寺(752年)、称徳天皇の西大寺(765年)など極めて多くの寺院が残されることになった。寺院勢力の増大が遷都の理由のひとつとされるように、平安京には寺院の建設は許されないのである。奈良は社寺の町として新たな歴史を歩むことになる。興福寺をはじめ東大寺や元興寺のまわりに次第に「まち=郷」が形成されるのである。今日の奈良の都市形成の核となったのは、興福寺、東大寺の立地する外京である。

 1180年、平清盛の五男平重衡が南都を襲った治承の乱において。南都奈良は炎上する。東大寺や興福寺など大半が焼失し、僧侶を含め民衆数千人が焼死する。大仏殿は焼け崩れ、大仏は融け落ちた東大寺の復興にあたったのが重源である。もともと東大寺と関わりなく、醍醐寺で出家し三度入宋した経験をもつ、60歳を越えた漂白の僧であったが、大勧進を指揮し、大仏の再造、大仏殿の再建、その他堂宇の建設、仏像の工作 を果たした。大仏殿の再建に当たって、「大仏様」いわゆる「重源様式」を日本にもたらすことになる。かつては「天竺(インド)様」と呼ばれたが、その範例になっているのは福建省の華林寺(福州)などである
 復興なった奈良は、15世紀末に日明貿易で栄えた新興の堺に追いこされるまでは、京都に次ぐ日本第2の都市として繁栄した。16世紀はじめには郷数200を超え、人口は約2万5千人であった。

 奈良が武家によって支配されるのは、松永久秀が眉間寺山に多聞城を築いた1560年である。久秀と三好三人衆との合戦で大仏殿を焼失するが、町衆によって復興、奈良町の成立につながることになる。

 江戸時代には、幕府の直轄領として奈良奉行の支配下におかれる。17世紀末には、総町数205、人口3万5千人と記録される。

 江戸時代中頃から観光の町としての性格を強めてきたが、明治に入って、廃仏毀釈によって、諸大寺は大きな打撃を受ける。廃藩置県の後、一旦奈良県が廃止されたり、人口不足のため市になることができない事態もあったが、古都として、その歴史を今日に伝えてきている。1988年には「なら・シルクロード博」を開催し、1998年の市制100周年には「古都奈良の文化財」が世界文化遺産に登録されている。


【参考文献】

都市史図集編纂委員会編(曽根幸一,布野修司他),都市史図集,彰国社,19999高橋 康夫宮本 雅明 吉田 伸之  伊藤 編『図集 日本都市史』東京大学出版会 1993/9

田村晃一編(2005)『東アジアの都城と渤海』東洋文庫

『奈良市史』 奈良市 編、奈良市、1937年。

1 日本の都城の変遷 

2 平城京の条坊割図

3 渤海上京龍泉府と平城京の条坊比較(田村晃一編(2005)『東アジアの都城と渤海』東洋文庫


2025年11月25日火曜日

京都:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

京都:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日 


JX02 平安の都

京都Kyoto,京都府Kyoto-fu,日本 Japan

 

 

 


 京都は、もともと「京(きょう)」あるいは「京師(けいし)」に由来し、「京都(けいと)」すなわち王権の所在地「都(みやこ)」を意味する一般名詞であった。「京」、「京都」(きょうと)、「京の都」(きょうのみやこ)が平安京の固有名詞として定着したのは平安後期という。

 桓武天皇が、平城京から長岡京(784年)、さらに続いて遷都造営した平安京(794年)は、日本の古代都城の完成形であり、以来、天皇が所在し続けた千年の古都である。建設そのものは、805年に中止され、右京は未完のままに残されたけれど、平城京(心々制)から平安京(内法制)へ、その条坊割の寸法体系の完成度は世界に例をみない(図1)。

 大路によって区画された「坊」(1180(550)は,さらに縦横各3本の小路(幅約12)16「町」(140(120))に区分され,4町を「保」とした(1坊=4保=16町)。「町」は、さらに、東西4分割,南北8分割され,32の宅地に分けられた(四行八門(しぎょうはちもん)制)。宅地の最小単位(南北5丈・東西10丈)は戸主(へぬし)と呼ばれた。一般の「町」には南北小路が1本,大路に接する町には2本,市町(いちまち)には3本設けられた(図2)。

 京都は、古来、長安、洛陽と呼ばれることがあり、平安京の右京を長安、左京を洛陽と呼んだように、北辺に宮闕(宮城・皇城)を置く形式は隋唐長安城(大興城)をモデルにしたとされるが、北闕型の起源は鮮卑拓跋氏の北魏平城(大同)に遡る。北魏で、坊を壁で囲う坊牆制が成立するが、北闕型、坊牆制ともに北方遊牧民によってつくられたとする説が有力である。

 律令制の形骸化とともに、平安京はその理念型にとらわれない、大内裏・御所そして鴨川とする都市に変化していく。平安末期には、鴨川の左岸に六勝寺、東山山麓に法勝寺が建設され、六波羅には平氏一門の屋敷地、南郊に鳥羽に貴族の別荘地が形成された。承久の乱(1221年)以後、鎌倉幕府(1185頃~1333)は、公家の監視のために六波羅探題を設置する。

 整然と区画された坊・保・町も時代と共に崩れ、1街区は、小路に接する4面によって構成されるようになる(「四面町」。四面は、それぞれが自立して「丁」と呼ばれ、さらに道路を挟んで向かい合った「丁」が結びついて1つの「両側町」へと移行していく(図3)。

 南北朝時代(133696)には、京都争奪戦が行われ、4度にわたって京都は占拠されるが、足利尊氏が御池高倉辺に屋敷を構えて室町幕府が設置されると、武家が市中に進出、足利義満以降、北小路室町の御所が将軍家の在所となる。

 応仁の乱(146777)で京都の大半が焼失し、荒廃、その後もたびたび戦乱に巻き込まれた。この戦国時代には、京都は上京と下京に分かれ、それぞれ「構」によって囲まれた。その間は畑と化し、室町通でかろうじてつながる状況であった。

 秀吉による御土居の築造は京都の領域(洛中、洛外)を確定するものであり、聚楽第、武家町と公家町、寺町の建設を行う大規模な都市改造は、京都の城下町化を図るものであった(図4)。

 秀吉は、中央に新たに南北小路を設け、「町」を2つに分割する(1590年)。「天正地割」と呼ばれるが、「あんこ」と呼ばれる街区内部の宅地利用が目的であったとされる。地割が行なわれたのは、東西は寺町通から大宮通、南北は五条通から丸太町の区域であるが。南北は、後に延長されたものが少なくない。「下京」、四条烏丸を中心とするいわゆる「田の字」地区は、既に市街地化されており、地割は実施されていない。

 江戸幕府を設置した徳川政権は、京都の拠点として二条城を建設、京都所司代・京都町奉行を設置して直轄した。江戸時代、京都は文芸、工芸の中心地として栄え、江戸、大坂に並ぶ「三都」として栄えた。

 大政奉還(1867年)により新政府が誕生すると、天皇が江戸で政治を行うために、江戸を東京に改名、奠都が行われる。

 明治以降の京都は、近代都市としての装いを整えていくことになる。京都策と呼ばれる、勧業場を中心とする勧業政策、全国に先駆けた小学校建設など教育政策などとともに、都市計画として実施された第一は疎水、そして水力発電所の建設(18851890年)である。また、平安遷都千百年を記念して開かれた内国勧業博覧会(第四回)のために岡崎公園が整備され、平安神宮が建設された1895年には、市電の軌道が敷設された。また、道路拡幅、水道の整備も合わせて行われた。

 第二次世界大戦において大きな被害を免れた京都は、近代化施策を進める一方、古都の景観を今日に伝えることになった。1994年には、宇治市、大津市も含めた17の歴史的建造物を構成資産が世界文化遺産に登録されている。

 京都は、平安京と同時代に、100万の人口を誇った平安の都(マディーナ・アッサラーム)と呼ばれたアッバース朝の都バグダードと姉妹都市である。


参考文献

秋山國三・仲村研『京都「町」の研究』法政大学出版局、1975

足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984

西川幸治・高橋徹『京都千二百年(上)(下)』草思社、1999

京都市編『平安建都1200年記念 蘇る平安京』京都市、1994

布野修司『大元都市』京都大学学術出版会、2015


1 平安京計画図(京都市編『平安建都1200年記念 蘇る平安京』京都市、1994

2 四行八門制(秋山國三・仲村研『京都「町」の研究』法政大学出版局、1975


3 四面町・四丁町・両側町(足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984

4 御土居 (京都市編『平安建都1200年記念 蘇る平安京』京都市、1994



2025年11月24日月曜日

平壌:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

平壌:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J26 熱山荘―五族協和の陪都

平壌Pyongyang,平壌直轄市Pyongyang,朝鮮民主主義人民共和国Democratic People's Republic of Korea

 

 

 

 

 


 平壌は、朝鮮半島全土を戦場と化した朝鮮戦争(1950625日~)において、アメリカ軍を中心とする国連軍による激しい空爆によって、また、国連軍の支配下に置かれた後の朝鮮人民軍や中国人民志願軍による反撃によって、壊滅的な被害をうけた。現在の平壌は、停戦(1953727日)後に、ソ連の援助によって復興を遂げた全く新たな平壌である(図1)。大同江の南岸の主体塔(図2)から南を望むと、ソ連流の社会主義都市計画による一面に団地が建ち並ぶ都市景観をみることができる(図3)。一方、北岸の中心部には社会主義リアリズム風(スターリン様式)の国家施設が建設された(図4)。「平壌市復旧建設総合計画」(1951年)を立案したのは、朝鮮建築家同盟創設メンバーのひとり、日本で建築を学びモスクワ建築アカデミーへの留学経験をもつ金正熙である。

 平壌の起源は、衛氏朝鮮(紀元前195108年)の王険城であり、前漢の武帝がこれを滅ぼし、楽浪郡治を置いた(紀元前108年)ことが知られる。以降、紀元4世紀後半に百済に占領されるまで、中国王朝の朝鮮支配の拠点となる。

高句麗の建国は,紀元前1世紀に遡る。その700年をこえる歴史は,前期「卒本」時代(前1世紀初~後3世紀初),中期「国内」時代(3世紀初~427年),後期「平壌」時代(427年~668年)に分けられる。高句麗が遷都した当初の王都は,平壌城と呼ばれたが,現在の平壌市街地ではなく,東北郊外の大城山城および清岩里土城の一帯に位置した。現在も城壁や安鶴宮の跡などが残る(図5)。王都の中心がこの大城山城一帯から,平壌市街地に移ったのは586年である。長安城とも呼ばれたことから,平壌時代は,前期平壌城時代と後期平壌城時代あるいは長安城時代に分けられる。平壌城の発掘に当たったのは関野貞であり,前期,後期に分けられることを指摘して,清岩里土城を王宮址と推定したのも関野貞である。関野が推定した王宮址は,その死後寺址であると確認された。

長安城は、内城・外城と北城の三つの部分からなっていたと考えられている。内城は丘陵地帯であり,現在も万寿台議事堂などがある.高麗時代には行宮の中心となり,李朝時代には平壌府の官衙が置かれていた。外城には,条坊制の痕跡も確認され,一般民の居住地である。北城は離宮である。条坊制は,不整形な外城を区画するため不規則であるが,大路は発掘で確認された箇所があり,中路には両側に道路界を示す石標がかつて立っていたことから確認される。6070㎝の側溝をもつ12.612.8mの大路が南北に3,東西に1本走り,その中を4.2mほどの中路が通っていたことがわかっている。大同江に面した外城南側の城壁は,後代にも改修されながら用いられるが,高麗時代には「羅城」と呼ばれ,朝鮮時代には「外城」と呼ばれている。

高句麗は、668年に唐に滅ぼされる。唐は平壌を含む南満州から半島北部を管轄する安東都護府を設置して当該地方の直接支配を図るが、新羅の反乱によって遼東より南を失う。

 統一新羅時代の平壌は辺境として荒廃するが、王建が打ち立てた高麗王朝は,高句麗の領土の回復を目標とし,風水地理の説を唱えて,旧都平壌を復興して「西京」とする。開城(開京)を王都として三京の制度を導入,南京を漢陽・漢城(ソウル),東京を慶州とするのである。

 漢城に王都が移った朝鮮時代にも,平壌は平安道の首邑であった。漢城と北京との間に位置する平安道は「西学」の受容の窓口となる。壬辰倭乱では,秀吉軍は漢城を攻略すると,平壌さらに妙香山も襲っている。小西行長軍は朝鮮王朝,そして明との和平交渉を模索して平壌で北進を停止し,援軍として来た祖承訓率いる遼東の明軍を撃退している。

「韓国併合(韓日合邦)」以前,20世紀初頭までは市街地には城壁がかなり残っていたが、戦災と復興の過程でほとんど消滅し,現在はわずか一部が残るのみである。

 平壌は朝鮮戦争で壊滅的な打撃を受けた。当時の人口は約40万人で,42万発の爆弾を落とされたという。平壌は,東京が戦災によってその歴史的景観を失ったように,一旦は白紙還元され,その後復興を遂げたのである。平壌の人口は約251万人(2015年)である。廣法寺も牡丹峰(モランボン)の乙密台・七星門も,大同門(図6)・練光亭・平壌鐘も普通門も全て復元である。                      (布野修司)

【参考文献】

布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民:韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-京都大学学術出版会,2010





2025年11月23日日曜日

ブエノスアイレス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 ブエノスアイレス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L29 延長するグリッド

ブエノスアイレスBuenos Aires,ブエノスアイレス自治市 Ciudad Autónoma de Buenos Aires,アルゼンチン共和国 Aregentine Republic

 ブエノス・アイレスの起源は、ペデロ・デ・メンドーサ・イ・ルハンが建設した(1536年)「ヌエストラ・セニョ-ラ・サンタ・マリ-ア・デル・ブエン・アイレ(良き空気の我々の聖母マリア」(南郊のサン・テルモ地区に比定)に遡る。メンドーサの一団は,インディオの反抗に会い,ラプラタ川の上流に追いやられ,指揮を委ねられたフアン・デ・アヨラが翌年建設したのが、南アメリカで最も古い都市のひとつとなるアスンシオンである。多くのコンキスタドールが出陣していく「母都市」となり、ブエノス・アイレスの再征服もアスンシオンからなされた。

その都市形成の歴史を残された都市図をもとにみると以下のようである。最古の都市図(図①)は、フアン・デ・ガライによって再建され,ラ・トリニダードと命名された直後の1583年のものであるが,9×15の完結型のグリッド・パターンで,上下左右が延長される表現をとっている。単純な正方形グリッドで街区規模は140ヴァラ×140ヴァラ,街路幅11ヴァラでプラサ・マヨールは162ヴァラ×162ヴァラである。正方形街区は2×24分割される。

ブエノス・アイレスは,ラ・プラタ流域の産物,皮革などの輸出港として発展するまた,黒人奴隷の交易拠点ともなった。次に古い1708年の都市図(図②)には要塞が描かれ,その前に3街区分の大きな広場がとられている。全体は9.5×16の街区となっている。1720年の都市図には実際に建設された既成市街地が示されているが,建詰まっているのは4×9の範囲で,要塞も1街区規模である。周辺に建物が徐々に拡がりつつあり,境界ははっきりしていない(図③)。

「ブルボン改革」によって,ポルトガルの侵攻に対処するために,ラプラタ副王領がペルー副王領から分離するかたちで設置されて(1776),ブエノス・アイレスはその首都となり,開港される。1784年、そしてそれ以降の地図はその成長過程をそのまま示している。1700年に約2000人であった人口は、1778年には約24200人、1800年には約32000人に増加している。ブエノス・アイレスは、多くのスペイン植民都市が当初の計画とは異なった展開をして行ったのに対して、拡張可能な明快なグリッド・パターンの都市として計画され、その計画理念をもとに発展してきた、ある意味でユニークな都市である。

1810年の五月革命によって、ブエノスアイレスは自治を宣言し、1816年には正式に独立が宣言されるが、独立戦争は難航を極める。1825年のブラジル戦争時に国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名するが、その後も内戦が続き、国家統一がなされるのは1861年であり、ブエノスアイレスが首都になるのは1880年のことである。19世紀末の都市図(1885)の都市図(図④)をみるとほぼ一定の範囲が市街地されているのをみることができる。

19世紀を通じて人口は増加し続け、1855年のセンサスでは約93000人とされるが、国家統一以降、ヨーロッパからの移民が急増する。自由主義政権が積極的に招来したせいで、リアチュエロ川河口の港湾のラ・ボカ地区には、アルゼンチン・タンゴの発祥地となるイタリア人居住区が形成されたのがその象徴である。都市人口は、1875年には約213000人、1900年には約806000人に達する。

そして、さらに以降の人口増加は、まさにプライメイト・シティの典型である。1914年には163万人にわずか15年で倍増するのである。

アルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスを起点としたことが大きい。都市構造も、電車、自動車の導入によって変わっていく。ラテンアメリカで最初に地下鉄が建設されたのはブエノスアイレスであり、1911年のことである。そして、高層化も進行していくことになった。

19世紀中葉以降、貧困層の居住区がグリッド街区内に形成されてきたのであるが、20世紀に入って、郊外にも巨大な貧困者の居住区(ヴィジャ・ミセリアVillas miserias )が形成されていった。

ブエノスアイレスは、1920年代以降、ラテンアメリカ最大規模の都市として成長していくことになる。

ブエノスアイレス市の人口は現在300万人弱(289万人、2010)であるが、ブエノスアイレス州内の24のパルティードを加えたブエノスアイレス大都市圏の人口は、14122000人(UN Year Book)に達し、アルゼンチンの総人口約4000万の3割を超えている。世界有数のメガシティである。

 

参考文献

布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン:グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生,京都大学学術出版会,2013

松下マルタ「ブエノスアイレスー南米のパリからラテン・アメリカ型首都へ」(国本伊代・乗浩子編(1991)『ラテンアメリカ都市と社会』新評論)

Romero, Jose Luis y Luis Romero(eds.)(1983), “Buenos Aires, Historia de cuatlo siglos”, Editorial Abril

Ross, Stanly and Thomas McGann(eds.) (1982), “Buenos Aires, 400 years”, University of Texas Press, Austin






 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...